黒い門が開いた瞬間、風が止まった。
奎星は神代榊を構えたまま、門の奥を睨みつけた。そこに景色はない。光もない。どれほど奥行きがあるのかさえ分からない闇だけが、巨大な口を開けたように広がっている。
「奎星……これ、ヤバいやつだよな?」
日向の声からは、ついさっきまで三門巡りを楽しんでいた調子が完全に消えていた。
「多分」
「多分って」
「いや。絶対ヤバい」
澪も既に杖を抜き、二人と同じ闇を見つめている。
「帰還門はこっちにある。だったら触らないで戻るべきじゃない?」
「そうだな」
奎星も即座に頷いた。
以前の自分なら、好奇心に負けて「ちょっとだけ見よう」と言っていたかもしれない。けれど夏休みを経た今は違う。三門巡りには存在しないはずの黒曜の門が突然現れた。その時点で競技の順位などどうでもいい。
「戻って先生に――」
そう言いながら奎星が一歩下がった、その瞬間だった。
黒い門の奥で、何かが脈打った。
どくん。
音ではなかった。
耳ではなく、胸の内側へ直接叩き込まれたような感覚に、三人の身体が同時に強張る。
「っ……!」
胸元の参加札が一斉に黒く染まった。
「何これ!?」
澪が札へ手を伸ばした瞬間、門の奥から凄まじい力が三人を掴んだ。
風でもない。縄でもない。身体そのものを向こう側から引かれているような、逃げ場のない力だった。
「おい、待て!」
日向が石床へ足を踏ん張る。
奎星も神代榊を振り抜いた。
「プロテゴ!」
青白い防壁が三人と門の間へ広がった。
だが、黒い力は防壁へぶつかることすらなかった。
すり抜けた。
「は!?」
奎星の身体が一気に前へ持っていかれる。澪が咄嗟に奎星の腕を掴み、その澪の肩へ日向が手を伸ばした。
「帰還門! そっち行け!」
「動けない!」
「参加札!」
奎星が胸元へ手を伸ばす。
棄権。
そう宣言すれば戻れる。
指先が参加札へ届く――その直前。
視界が黒く潰れた。
三人まとめて、門の中へ引きずり込まれた。
*
目を開けると、天井があった。
「…………」
奎星は何度か瞬きをした。
白い天井。端にある小さな染み。何年も見続けてきた、自室の天井だった。
「……え?」
身体を起こす。
布団。机。本棚。ゲーム機。脱ぎっぱなしの服。壁に貼ったポスター。
東京の家。
自分の部屋。
「…………は?」
しばらく何もできなかった。
ついさっきまで三門巡りをしていた。第三門を突破して、帰還門の隣へ黒曜の門が現れた。それが開いて、自分たちは引っ張られて――。
「……夢?」
口にした途端、急に自信がなくなった。
あまりにも長い夢だったような気がする。
マホウトコロへ行ったこと。スズメに出会ったこと。日向や楓、岳、伊織と友達になったこと。御影に朝から走らされたこと。
第零書庫。
死の呪文。
鬼火鳥。
黒曜の狩人。
星迎祭。
昨夜の観測塔。
そのすべてが、目を覚ました途端、何年も前に見た夢の断片のように遠ざかっていく。
けれど。
鮮明すぎた。
夢だったと言うには、あまりにも。
「奎星ー! 朝ご飯冷めるわよー!」
階下から母の声がした。
「…………」
聞き慣れた声だった。
奎星は寝台を降りる。
「今行く!」
自分でも不思議なくらい自然に返事をして、部屋を出た。
階段を下りていくと味噌汁の匂いがする。焼き魚、炊きたての米、出汁の香り。
懐かしい。
いや。
昨日まで毎日嗅いでいたような気さえした。
居間へ入る。
「おはよう」
母がいる。
新聞を読んでいる父もいる。
そして。
「遅いよ、奎星」
「…………」
奎星の足が止まった。
食卓の奥で、湯呑みを片手に蓮根八重子が座っていた。
「……ばあちゃん?」
「何だい、その顔」
いつもの八重子だった。
奎星が十六歳になるまで、何度もこの家へ遊びに来ていた頃の姿。痩せてもいない。病室でもない。
元気だった頃の祖母。
「ばあちゃん……」
「何だい?」
死んだ。
そう思った。
確かに、そう思ったはずだった。
けれど次の瞬間、その考えへ薄い膜が被さるように、別の感覚が押し寄せてきた。
――何を言っている。
ばあちゃんは生きている。
今日だってこうして朝飯を食べている。
何がおかしい。
「奎星?」
母が心配そうに顔を覗き込んだ。
「寝ぼけてるの?」
「……かも」
奎星は笑い、自分の席へ座った。
目の前には焼き魚、味噌汁、白米、出汁巻き卵。八重子が当然のように奎星の皿へ漬物を追加した。
「野菜食いな」
「それ野菜に入る?」
「入るよ」
「塩分すごそう」
「若いんだから平気だよ」
「雑!」
母が笑い、父は新聞の向こうで肩を揺らしている。
奎星も笑った。
胸の奥に残っていたはずの違和感が、少しずつ薄れていく。
これでいい。
そう思った。
ここが本当だったのかもしれない。
長い、長い夢を見ていただけ。
魔法学校なんてものはなくて――。
いや。
魔法は。
ある。
「奎星」
八重子が言った。
「今日も学校だろ?」
「……学校?」
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
ぴんぽーん。
母が時計を見る。
「もう来たんじゃない?」
「誰が?」
「お友達でしょ」
奎星は箸を置き、玄関へ向かった。
扉を開ける。
そこには三人いた。
「遅えぞ!」
日向。
「朝から声が大きいよ」
伊織。
「腹減った」
岳。
「…………」
奎星は固まった。
三人とも箒を持っている。
日向が怪訝そうに顔を覗き込んだ。
「何だよ」
「お前ら……」
「何?」
「なんでここに」
「迎えに来たからだろ」
「どこへ?」
三人が顔を見合わせる。
岳が当然のように答えた。
「学校」
日向は道路の先を指差した。
「ほら、早くしないと遅刻すんぞ」
奎星もそちらを見る。
住宅街。
電柱。
コンビニ。
見慣れた東京の街。
そして、その向こう。家々の屋根を越えた場所に、白い校舎が見えていた。
羊脂玉。
マホウトコロ。
「…………近っ!」
思わず叫ぶ。
日向が眉を寄せた。
「何が?」
「学校!」
「毎日これくらいだろ」
「南硫黄島は!?」
「何言ってんだ?」
伊織まで不思議そうな顔をしている。
「寝ぼけてるんじゃない?」
「いや……」
何かがおかしい。
確かにそう思うのに、同時に、何もおかしくないようにも感じる。
学校が家の近くにあれば毎日帰れる。
父も母も。
ばあちゃんもいる。
日向たちとはいつでも遊べる。
夏休みを待つ必要もない。
「蓮根君」
その声がした。
奎星が振り向く。
道路の少し先から、一人の女性が歩いてきた。
黒髪。
小柄な身体。
白いシャツに濃紺のスカート。
「……スズメちゃん」
スズメがいる。
その姿を見た瞬間、奎星の顔は自然に緩んだ。
「おはようございます」
「おはよ」
そこで、ふと気づく。
「スズメちゃん、学校行くの?」
「はい」
「授業?」
「何を言っているのですか」
スズメは不思議そうに首を傾げた。
「私、先生ではありませんよ」
「…………え?」
「寝ぼけすぎじゃね?」
日向が笑う。
だが奎星には、その言葉しか聞こえていなかった。
――先生ではない。
教師ではない。
つまり。
自分は彼女の生徒ではない。
少なくとも。
スズメと自分を隔てていたものは、ここにはない。
「…………」
胸の奥が急に軽くなった。
昨日、観測塔で言えなかったこと。
自分でもまだ何なのか分からないと思っていた気持ち。
教師と生徒だから。
考えることさえ、どこかで止めていたもの。
ここなら。
止めなくていい。
「スズメちゃん」
「はい?」
言葉は驚くほど自然に出た。
「俺、スズメちゃんのこと好きだよ」
「…………」
日向が口を開けた。
伊織の眉が上がる。
岳だけは普通に聞いている。
スズメは驚いた顔をしていた。
けれど。
やがて。
とても嬉しそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間。
奎星は思った。
ああ。
これでいい。
ばあちゃんは生きている。
父さんも母さんも近くにいる。
友達は毎朝迎えに来る。
マホウトコロは家のすぐそば。
そしてスズメは教師ではない。
何も隠さなくていい。
何も迷わなくていい。
ずっと。
ここにいても――。
『おい、バカ』
「…………」
奎星の眉が動いた。
誰かが何かを言った。
『目ぇ覚ませよ』
「……は?」
日向を見る。
違う。
伊織でも、岳でも、スズメでもない。
八重子でも。
父でも。
母でも。
声は外から聞こえたのではなかった。
頭蓋骨の内側から、直接響いてくる。
しかも。
知っている。
毎日聞いている声。
『こんなんでいいのかよ、お前!』
「…………俺?」
自分自身の声だった。
奎星は周囲を見回す。
誰も反応していない。
日向たちは普通に笑い、スズメも変わらずこちらを見ている。
「何言ってんだよ」
奎星が呟く。
頭の中の自分が、苛立ったように吐き捨てた。
『こんなんでいいのかって聞いてんだよ!』
「いいだろ」
奎星の声が少し強くなる。
「俺は……これを望んでて」
ばあちゃんが生きている。
家族と毎日会える。
友達が近くにいる。
学校だってすぐそこ。
スズメとも、もう教師と生徒ではない。
何が悪い。
「こんな世界なら……」
ずっと。
ここにいたって。
『本当に?』
声が遮った。
奎星の口が止まる。
『お前、こんなの欲しかったのか?』
「欲しかったよ!」
思わず叫んだ。
『ばあちゃんに生きててほしかった?』
「当たり前だろ!」
『学校は近いほうが楽?』
「そりゃそうだろ!」
『スズメちゃんが先生じゃなかったら楽?』
「…………」
答えが。
一瞬だけ遅れた。
その一瞬を、自分の声は見逃さなかった。
『じゃあ今まで全部、いらなかったのかよ』
「……何?」
『南硫黄島まで行ったことも』
景色が僅かに歪んだ。
『最初の二週間、一人で部屋にいたことも』
白い家の壁へ、羊脂玉の色が滲む。
『日向を傷つけて、杖が怖くなったことも』
気づけば、奎星の腰には神代榊があった。
『観測塔へ連れてってもらったことも』
「…………」
『第零書庫も』
右手が熱を持つ。
あの緑色の閃光へ差し出した、何の変哲もない自分の右手。
『夏休みも』
胸。
肩。
腕。
脇腹。
背中。
一瞬だけ、存在しないはずの傷が焼けつくように疼いた。
『全部なくして、この都合のいい世界にいんのか?』
「…………」
何も言えなくなった。
目の前ではスズメが微笑んでいる。
「蓮根君?」
優しい声だった。
望んでいた。
そう思った。
教師でなければ、もっと簡単だった。
年齢も。
立場も。
何も考えずに済む。
けれど。
違う。
自分が大切だと思ったのは。
《先生ではないスズメ》だっただろうか。
違う。
朝になれば起こしに来た。
魔法を教えてくれた。
何度も叱られた。
日向を傷つけたとき、誰にも教えていなかった観測塔へ連れていってくれた。
第零書庫で。
夏休みで。
昨日の観測塔で。
その全部が。
烏丸スズメだった。
「……違う」
奎星が呟く。
目の前のスズメの笑顔が止まった。
そのとき。
背後から声がした。
「奎星」
振り向く。
八重子が玄関先に立っていた。
いつの間にか、朝食のときとは少し違う顔をしていた。
笑っている。
けれど。
どこか寂しそうだった。
「ばあちゃん……」
八重子は奎星の前まで歩いてくると、腰に差さった神代榊へ目を落とした。
そして。
そっと杖を抜き。
奎星の手へ握らせた。
「奎星」
昔と同じ声だった。
夏休み。
生と死の境で再会したとき。
――そろそろ帰りな。
そう言ったときと同じ声。
「そろそろ、目ぇ覚ましな」
「…………」
世界が揺れた。
ちりん。
小さな音がした。
奎星の目が見開かれる。
ポケット。
反射的に手を入れる。
指先へ触れた。
銀色の星。
昨夜、スズメからもらった星灯石のキーホルダー。
掌へ取り出すと、淡い光が瞬いていた。
「……これ」
見た瞬間。
記憶が一気に繋がった。
星迎祭。
観測塔。
二人で見た花火。
下手くそなダンス。
転びそうになったスズメを支えたこと。
同じキーホルダーを買っていて、二人で笑ったこと。
そして今朝。
参加札。
三門巡り。
竹林。
雲海に浮かぶ石板。
石造りの庭。
三つの玉。
帰還門。
その隣に現れた。
黒い。
門。
「そうだ……」
奎星の呼吸が変わった。
「俺は……」
日向がいた。
澪もいた。
「三門巡り終わって……知らねえ門に……」
『そうだ!』
自分の声が、今度ははっきり叫んだ。
『幻覚だ!! 目ぇ覚ませ!!』
『蓮根奎星!!!』
世界がざらついた。
父と母の輪郭が揺れる。
日向たちの顔が滲む。
東京の住宅街とマホウトコロの白い校舎が、溶けた絵の具のように互いへ混ざり始める。
けれど。
スズメだけが。
奎星を見ていた。
「蓮根君」
その声が本物なのか。
偽物なのか。
もう分からない。
「行かないでください」
「…………っ」
奎星の顔が歪んだ。
卑怯だ。
こんなの。
あまりにも。
「俺だって……」
ここにいたい。
八重子と、もっと話したい。
父と母のそばにいたい。
日向たちと毎朝学校へ行きたい。
そしてスズメへ。
何の迷いもなく。
好きだと言いたい。
それを許してくれる世界なら。
「俺だって、ここにいたいよ……」
喉の奥が痛んだ。
けれど。
神代榊を握る。
「でも」
指に力を込める。
「これじゃねえ」
八重子が笑った。
嬉しそうに。
「そうだね」
「ばあちゃん」
「何だい?」
奎星は泣きそうな顔で笑った。
「……またな」
「うん」
八重子の目が細くなる。
「ずっと先にね」
奎星は、神代榊を自分へ向けた。
そこで初めて。
身体が。
本気で拒絶した。
「…………っ」
腕が震える。
喉が勝手に閉じ、息が浅くなる。
杖を向けているのは敵ではない。
久我でも。
黒曜の狩人でもない。
自分だった。
至近距離。
自分の胸元。
杖先が震えるたび、その向こうに自分の身体があるという事実が嫌でも目に入る。
もし。
ここが現実だったら。
もし、自分が間違っていたら。
この一撃を放った瞬間。
取り返しがつかない。
第零書庫で死の呪文へ右手を差し出したときとは違う。あのときは後ろにスズメがいて、考えるより先に身体が動いた。
夏休みもそうだった。
スズメへ飛んだ呪文を見て、自分の身体を割り込ませた。
どちらも。
守りたい誰かが目の前にいた。
今は違う。
自分で杖を持ち。
自分の意思で。
自分へ撃たなければならない。
逃げようと思えば逃げられる。
杖を下ろせば、この温かい世界に残れる。
死んだはずの祖母も。
家族も。
友達も。
何の障害もないスズメも。
全部ここにある。
「…………怖ぇ」
声が掠れた。
手が震えて止まらない。
杖先が胸から逸れる。
一度。
下がる。
奎星は歯を食いしばって、もう一度持ち上げた。
それでも身体は拒んだ。
心臓が速い。
耳の奥で脈が鳴る。
指先が冷たい。
息を吸おうとしても、肺の半分までしか入らない。
もし失敗したら。
ではない。
成功した結果が。
死だったら。
その恐怖が頭の中へ浮かんだ瞬間、膝から力が抜けそうになった。
目の前のスズメが一歩近づく。
「蓮根君」
「……来んな」
「ここにいてください」
「来んなって……」
「ずっと一緒にいられます」
その言葉に。
一瞬。
本当に杖を下ろしかけた。
けれど。
ポケットの中。
本物の星が。
指先へ触れていた。
昨日のスズメは。
そんなことを言わなかった。
――私から、離れないでください。
離れないでほしいと言った。
それでも。
自分を閉じ込めようとはしなかった。
あの人は。
怖くても。
自分の言葉で伝えた。
だったら。
「……違う」
奎星は震える手で神代榊を握り直した。
「スズメちゃんは……そんなこと言わねえ」
目の前のスズメの表情が消えた。
その顔を見た瞬間。
奎星は理解した。
偽物だ。
そう思うしかなかった。
そうでなければ。
撃てない。
「起きろ……」
声が震える。
「起きろ、俺……!」
杖先へ魔力が集まり始める。
青白い光。
自分の身体へ向けられた光が強くなるほど、本能が悲鳴を上げる。
嫌だ。
怖い。
撃ちたくない。
死にたくない。
腕を下ろしたい。
ここにいたい。
それでも。
奎星は目を逸らさなかった。
「目ぇ……覚ませ……!」
世界中の音が消えたように感じた。
八重子が見ている。
父も。
母も。
日向も。
伊織も。
岳も。
そして。
スズメも。
皆が。
奎星だけを見ている。
杖先の光が限界まで膨らむ。
「目ぇ覚ませ、俺!!」
奎星は。
魔法を放った。
青白い衝撃が自分へ向かって迸る。
避けることもできた。
ほんの僅かに身体を動かせばよかった。
けれど。
奎星は動かなかった。
光が胸元へ迫る。
一瞬。
恐怖で目を閉じた。
そして。
世界が砕けた。
*
「――っ!!」
奎星の身体が大きく跳ねた。
肺へ空気がなだれ込む。
「はっ……はっ……はっ……!」
目の前には冷たい石床があった。
薄暗い石造りの庭。
第三門。
「…………」
戻った。
三門巡りの試練空間。
奎星は両手を床についた。
汗が額から落ち、石板へぼたぼたと染みを作る。心臓が痛いほど速く、吐き気がするほど呼吸が浅かった。
「……戻った」
右手を見る。
神代榊。
胸元には、金色になった参加札。
震える手をポケットへ入れる。
ある。
星型のキーホルダー。
「……本物だ」
掠れた声が漏れた。
助かった。
その安堵が身体へ届きかけて。
奎星はすぐに顔を上げた。
「日向!」
少し離れた場所に、日向が倒れている。
「澪!」
反対側には澪。
二人とも目を閉じたまま動かない。
奎星はふらつきながら日向へ駆け寄った。呼吸はしている。外傷も見当たらない。
「おい! 日向!」
肩を揺らす。
「起きろ!」
反応がない。
「日向!」
駄目だ。
奎星は澪のところへ移る。
「澪!」
こちらも反応しない。
まずい。
自分が見たものと同じなら、二人も何かを見せられている。
しかも。
自分はあそこから抜け出すために。
何をした。
「…………」
思い出した瞬間。
自分の杖を持つ右手が、また震え始めた。
二人にも同じことができる保証などない。
そもそも。
同じ方法で戻れるのかすら分からない。
そのときだった。
「……蓮根家め」
声がした。
奎星の動きが止まった。
「…………」
ゆっくり顔を上げる。
帰還門の隣。
黒曜の門はまだそこにあった。
扉は開いている。
奥には何も見えない。
「今……」
奎星は立ち上がった。
汗で前髪が額へ張りつき、まだ足元も安定しない。
「何つった?」
返事はない。
神代榊を握り直す。
「お前、誰だ?」
闇の奥で。
何かが笑ったような気配がした。
そして。
声が響く。
男とも。
女とも。
老人とも。
若者ともつかない。
幾重もの声を無理やり重ねたような、歪んだ声音。
「マホウトコロに……伝えるのです……」
奎星の目が細くなる。
「何を」
門の表面へ赤黒い文字が浮かび、脈を打つように光った。
「今に……」
一拍。
「堕とす、と……」
「…………」
一瞬。
意味が入ってこなかった。
次の瞬間。
奎星の中で何かが切れた。
「お前、誰だよ!!」
怒声が石の庭へ響く。
返事はない。
「日向と澪に何した!!」
黒い門はただそこにある。
それが。
余計に腹立たしかった。
奎星の魔力が一気に膨れ上がる。空気が震え、胸元の参加札が激しく明滅し、足元の石床へ細かな亀裂が走った。
夏休みからずっと。
御影に言われている。
必要な分だけ使え。
力を出しすぎるな。
制御しろ。
けれど。
たった今。
自分は祖母を使われた。
家族を使われた。
友達を使われた。
スズメまで。
自分が一番欲しかった形へ勝手に作り替えられた。
そのうえ。
日向と澪はまだ目を覚まさない。
「ふざけんな……!」
奎星は神代榊を両手で構えた。
狙う。
黒曜の門。
「ふざけんなぁぁぁ!!」
青白い魔力が爆発した。
凄まじい光が石造りの庭を白く染め、衝撃が四方の壁まで震わせる。
魔法が門へ届く。
その寸前。
黒曜の門が揺らいだ。
水面へ石を落としたように輪郭が崩れ、表面を走っていた赤黒い文字が一斉に消える。
そして。
何もなかったかのように。
門そのものが消失した。
奎星の魔法だけがその先の石壁へ激突し、轟音とともに学校側の防護術式を弾けさせる。
「…………っ」
奎星は荒い息のまま、門のあった場所を睨み続けた。
何もない。
残っているのは帰還門だけ。
最初から黒い門など存在しなかったかのようだった。
「……くそ」
杖を持つ手が震えている。
怒りだけではない。
怖かった。
動悸が止まらない。
当然だった。
ついさっきまで。
自分は。
自分の杖を、自分へ向けていた。
あの瞬間。
もし幻覚ではなかったら。
もし判断を間違えていたら。
本当に。
死んでいたかもしれない。
その事実を理解した途端、足から力が抜けかけた。
「…………」
けれど。
倒れている暇はない。
後ろには日向と澪がいる。
二人とも、まだ目を覚まさない。
「やべえ……」
自分は戻れた。
でも二人が戻れる保証はない。
そもそも、この場所が今も学校の管理下にあるのかすら分からない。
競技を続ける理由など。
もう一つもなかった。
奎星は胸元の参加札を掴んだ。
競技開始前、担当教師に言われた言葉を思い出す。
――危険を感じた場合は胸元の参加札を握り、『棄権』と宣言してください。
――一人でも棄権した場合、その班は競技終了です。
銀札を強く握り込む。
「棄権!!」
声が庭へ響いた。
金色だった札が、一気に白く光る。
「第七班、棄権! 戻してくれ!!」
次の瞬間。
三人の身体を光が包んだ。
*
三門巡りの会場では、次々と班が帰還し、そのたび観客から歓声が上がっていた。
第七班の帰還予定時刻も近づき、教師たちは記録板へ目を落としている。御影玄一郎は腕を組んだまま帰還門を見守り、九重院紫苑も少し離れたところで白峰の教師たちと話していた。
スズメも監督役として記録板を持ちながら、時折帰還門へ視線を向けている。
そのとき。
門の光が不自然なほど大きく揺れた。
「……?」
教師の一人が顔を上げる。
次の瞬間。
三人が。
吐き出されるように現れた。
「っ!」
奎星が石床へ膝をつく。
その両脇では。
日向と澪が。
倒れたまま動かない。
胸元の参加札は白。
《棄権》。
会場の空気が一瞬で変わった。
「日向!」
観覧席から楓の声が飛ぶ。
「澪!」
白峰の生徒たちも立ち上がった。
教師たちが一斉に駆け寄る。
「下がれ!」
御影の声が響いた。
奎星は立ち上がろうとして、身体が大きくよろける。
「蓮根君!」
誰より早く近くまで来たスズメが、咄嗟にその腕を支えた。
奎星は汗だくだった。
顔色も悪い。
呼吸もまだ速い。
「何があったのですか」
「……スズメちゃん」
声が掠れていた。
昨夜、観測塔で笑っていた少年とはまるで違う。
スズメの顔から血の気が引いた。
「どこか怪我を?」
「俺は大丈夫」
「大丈夫には見えません」
「でも、日向と澪が……」
御影は既に二人の状態を確認していた。呼吸、瞳孔、魔力反応を手早く確かめる。
「外傷なし。呼吸も正常だ」
白峰の柊木も澪のそばへ膝をついた。
「昏睡?」
「分からん」
御影の顔が険しくなる。
「蓮根」
「はい」
普段の奎星なら、この状況でも何か一つ余計なことを言ったかもしれない。
今日は。
何もなかった。
「何があった」
奎星は御影を見る。
「三門目はクリアしました」
周囲の教師たちが黙る。
「帰還門も出た。そこまでは普通だった」
「そのあと?」
「帰還門の横に……もう一個、門が出た」
御影の目が細くなる。
九重院も、こちらへ視線を向けた。
「黒い門です。黒曜石みたいな。赤黒い文字が出てて……俺と日向は、前に見た黒曜石と似てるって分かった」
御影の表情から、僅かに色が消えた。
「それで」
「勝手に開いて……」
奎星の右手がまた震えた。
スズメは気づいた。
けれど、今は何も言わない。
「俺ら三人、引きずり込まれました」
「中は?」
一瞬。
奎星は答えに詰まった。
東京。
自宅。
父。
母。
八重子。
日向。
岳。
伊織。
そして。
教師ではないスズメ。
――俺、スズメちゃんのこと好きだよ。
そこまで思い出し、奎星は隣のスズメを見そうになった。
寸前で御影へ視線を戻す。
「……幻覚」
「幻覚?」
「多分、見たいもんを見せる」
周囲が静まり返る。
「俺、東京の家にいて。ばあちゃんも生きてて。学校も家のすぐ近くにあって……みんな普通にいました」
一度、唾を飲み込む。
「ずっとそこにいていいって、本気で思った」
スズメの表情が変わった。
奎星は続ける。
「でも、自分の声が聞こえたんです。目ぇ覚ませって。それから……ばあちゃんが杖を渡してきて」
御影が訊いた。
「どうやって戻った」
「…………」
奎星の視線が、自分の杖へ落ちる。
言いたくない。
けれど。
言うしかない。
「自分に撃ちました」
スズメの手が、奎星の腕を掴んだまま固まった。
「……何を?」
その声は。
低かった。
奎星は目を逸らす。
「いや、だって……他に方法分かんなくて」
「蓮根君」
「でも戻れたから!」
「そういう問題ではありません!」
久しぶりに聞く、本気で怒った声だった。
奎星が僅かに縮こまる。
「……ごめん」
スズメの指には、まだ力が入っていた。
御影は止めなかった。
今はそれより先に、聞かなければならないことがある。
「戻ったあと、門は?」
「まだありました」
奎星が顔を上げる。
「声がした」
「何と言った」
「最初に……」
記憶を辿る。
あの歪んだ声。
「『蓮根家め』って」
御影の目が僅かに動いた。
九重院も、完全に表情を消した。
「それから、『マホウトコロに伝えるのです』って」
「続きは?」
奎星ははっきり答えた。
「『今に堕とす』」
静寂。
祭りの会場とは思えないほど、誰も声を出さなかった。
御影がゆっくり九重院を見る。
九重院も御影を見返した。
二人の間に言葉はない。
それだけで何かが通じたのだと、奎星にも分かった。
「……先生」
御影は答えない。
「知ってんの?」
それでも返事はなかった。
代わりに。
九重院が杖を抜いた。
いつもの穏やかな校長の顔ではなかった。
「星迎祭を中止します」
周囲の教師たちが息を呑む。
九重院は迷いなく続けた。
「全生徒を寮へ。学年ごとの点呼を取り、許可があるまで外出禁止。他校生徒も指定宿舎へ戻してください」
白峰の教師たちが即座に動き始める。
「来賓は?」
「教職員の誘導で安全区域へ。魔法省職員へも連絡を」
「はい」
ついさっきまで歓声に包まれていた会場へ、次々と教師たちの指示が飛ぶ。
観客たちは何が起きたのか分からない。
生徒たちも騒ぎ始める。
楓が教師の間から日向の姿を見ようとしていた。岳と伊織も、いつの間にか近くまで来ている。
「奎星!」
伊織が呼ぶ。
奎星が振り返った。
「俺は大丈夫!」
反射的に答える。
「日向と澪も息はしてる! 先生いるから!」
楓の顔が強張っていた。
「日向は!?」
「大丈夫だって! 多分!」
「多分って何よ!」
「俺にもまだ分かんねえんだよ!」
奎星の声も思わず強くなる。
すぐに顔を歪めた。
「……ごめん」
楓も何も言えなくなった。
御影が立ち上がる。
「水無瀬。榊。岩戸。今は寮へ戻れ」
「でも――」
「戻れ」
低い声。
楓は唇を噛んだ。
それでも。
頷いた。
「……はい」
日向と澪は、そのまま教師たちによって医務室へ運ばれていく。
奎星もついていこうとした。
けれど。
「蓮根」
御影に止められた。
「お前は別だ」
「え?」
「会議室へ来い」
「でも日向たち――」
「そちらは任せろ」
御影の視線が、奎星のポケットへ向いた。
そこには銀色の星型キーホルダーが、ほんの僅かに覗いていた。
「お前が見たもの。聞いたもの。門が現れるまでの状況」
御影は低く言った。
「全部、最初から話してもらう」
奎星は黙った。
そして視線を上げる。
少し離れたところで。
九重院がこちらを見ていた。
あの人は。
何かを知っている。
そう思った。
そしてもう一つ。
耳の奥から、どうしても離れない言葉がある。
――蓮根家め。
鬼火鳥。
神代榊。
霊脈。
遥か昔から続いていた、蓮根家。
あの門の向こうにいた何かは。
自分の名前ではなく。
家の名前を。
知っていた。
「…………」
奎星は神代榊を握り直した。
星迎祭二日目。
昼。
祭りの歓声は。
わずか数分で消えていた。
そして蓮根奎星は、御影玄一郎と九重院紫苑に連れられ、教員会議室へ向かうことになった。