マホウトコロ   作:西野圭吾

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第11話 目を覚ませ

 

黒い門が開いた瞬間、風が止まった。

 

奎星は神代榊を構えたまま、門の奥を睨みつけた。そこに景色はない。光もない。どれほど奥行きがあるのかさえ分からない闇だけが、巨大な口を開けたように広がっている。

 

「奎星……これ、ヤバいやつだよな?」

 

日向の声からは、ついさっきまで三門巡りを楽しんでいた調子が完全に消えていた。

 

「多分」

 

「多分って」

 

「いや。絶対ヤバい」

 

澪も既に杖を抜き、二人と同じ闇を見つめている。

 

「帰還門はこっちにある。だったら触らないで戻るべきじゃない?」

 

「そうだな」

 

奎星も即座に頷いた。

 

以前の自分なら、好奇心に負けて「ちょっとだけ見よう」と言っていたかもしれない。けれど夏休みを経た今は違う。三門巡りには存在しないはずの黒曜の門が突然現れた。その時点で競技の順位などどうでもいい。

 

「戻って先生に――」

 

そう言いながら奎星が一歩下がった、その瞬間だった。

 

黒い門の奥で、何かが脈打った。

 

どくん。

 

音ではなかった。

 

耳ではなく、胸の内側へ直接叩き込まれたような感覚に、三人の身体が同時に強張る。

 

「っ……!」

 

胸元の参加札が一斉に黒く染まった。

 

「何これ!?」

 

澪が札へ手を伸ばした瞬間、門の奥から凄まじい力が三人を掴んだ。

 

風でもない。縄でもない。身体そのものを向こう側から引かれているような、逃げ場のない力だった。

 

「おい、待て!」

 

日向が石床へ足を踏ん張る。

 

奎星も神代榊を振り抜いた。

 

「プロテゴ!」

 

青白い防壁が三人と門の間へ広がった。

 

だが、黒い力は防壁へぶつかることすらなかった。

 

すり抜けた。

 

「は!?」

 

奎星の身体が一気に前へ持っていかれる。澪が咄嗟に奎星の腕を掴み、その澪の肩へ日向が手を伸ばした。

 

「帰還門! そっち行け!」

 

「動けない!」

 

「参加札!」

 

奎星が胸元へ手を伸ばす。

 

棄権。

 

そう宣言すれば戻れる。

 

指先が参加札へ届く――その直前。

 

視界が黒く潰れた。

 

三人まとめて、門の中へ引きずり込まれた。

 

 

目を開けると、天井があった。

 

「…………」

 

奎星は何度か瞬きをした。

 

白い天井。端にある小さな染み。何年も見続けてきた、自室の天井だった。

 

「……え?」

 

身体を起こす。

 

布団。机。本棚。ゲーム機。脱ぎっぱなしの服。壁に貼ったポスター。

 

東京の家。

 

自分の部屋。

 

「…………は?」

 

しばらく何もできなかった。

 

ついさっきまで三門巡りをしていた。第三門を突破して、帰還門の隣へ黒曜の門が現れた。それが開いて、自分たちは引っ張られて――。

 

「……夢?」

 

口にした途端、急に自信がなくなった。

 

あまりにも長い夢だったような気がする。

 

マホウトコロへ行ったこと。スズメに出会ったこと。日向や楓、岳、伊織と友達になったこと。御影に朝から走らされたこと。

 

第零書庫。

 

死の呪文。

 

鬼火鳥。

 

黒曜の狩人。

 

星迎祭。

 

昨夜の観測塔。

 

そのすべてが、目を覚ました途端、何年も前に見た夢の断片のように遠ざかっていく。

 

けれど。

 

鮮明すぎた。

 

夢だったと言うには、あまりにも。

 

「奎星ー! 朝ご飯冷めるわよー!」

 

階下から母の声がした。

 

「…………」

 

聞き慣れた声だった。

 

奎星は寝台を降りる。

 

「今行く!」

 

自分でも不思議なくらい自然に返事をして、部屋を出た。

 

階段を下りていくと味噌汁の匂いがする。焼き魚、炊きたての米、出汁の香り。

 

懐かしい。

 

いや。

 

昨日まで毎日嗅いでいたような気さえした。

 

居間へ入る。

 

「おはよう」

 

母がいる。

 

新聞を読んでいる父もいる。

 

そして。

 

「遅いよ、奎星」

 

「…………」

 

奎星の足が止まった。

 

食卓の奥で、湯呑みを片手に蓮根八重子が座っていた。

 

「……ばあちゃん?」

 

「何だい、その顔」

 

いつもの八重子だった。

 

奎星が十六歳になるまで、何度もこの家へ遊びに来ていた頃の姿。痩せてもいない。病室でもない。

 

元気だった頃の祖母。

 

「ばあちゃん……」

 

「何だい?」

 

死んだ。

 

そう思った。

 

確かに、そう思ったはずだった。

 

けれど次の瞬間、その考えへ薄い膜が被さるように、別の感覚が押し寄せてきた。

 

――何を言っている。

 

ばあちゃんは生きている。

 

今日だってこうして朝飯を食べている。

 

何がおかしい。

 

「奎星?」

 

母が心配そうに顔を覗き込んだ。

 

「寝ぼけてるの?」

 

「……かも」

 

奎星は笑い、自分の席へ座った。

 

目の前には焼き魚、味噌汁、白米、出汁巻き卵。八重子が当然のように奎星の皿へ漬物を追加した。

 

「野菜食いな」

 

「それ野菜に入る?」

 

「入るよ」

 

「塩分すごそう」

 

「若いんだから平気だよ」

 

「雑!」

 

母が笑い、父は新聞の向こうで肩を揺らしている。

 

奎星も笑った。

 

胸の奥に残っていたはずの違和感が、少しずつ薄れていく。

 

これでいい。

 

そう思った。

 

ここが本当だったのかもしれない。

 

長い、長い夢を見ていただけ。

 

魔法学校なんてものはなくて――。

 

いや。

 

魔法は。

 

ある。

 

「奎星」

 

八重子が言った。

 

「今日も学校だろ?」

 

「……学校?」

 

そのとき、玄関のチャイムが鳴った。

 

ぴんぽーん。

 

母が時計を見る。

 

「もう来たんじゃない?」

 

「誰が?」

 

「お友達でしょ」

 

奎星は箸を置き、玄関へ向かった。

 

扉を開ける。

 

そこには三人いた。

 

「遅えぞ!」

 

日向。

 

「朝から声が大きいよ」

 

伊織。

 

「腹減った」

 

岳。

 

「…………」

 

奎星は固まった。

 

三人とも箒を持っている。

 

日向が怪訝そうに顔を覗き込んだ。

 

「何だよ」

 

「お前ら……」

 

「何?」

 

「なんでここに」

 

「迎えに来たからだろ」

 

「どこへ?」

 

三人が顔を見合わせる。

 

岳が当然のように答えた。

 

「学校」

 

日向は道路の先を指差した。

 

「ほら、早くしないと遅刻すんぞ」

 

奎星もそちらを見る。

 

住宅街。

 

電柱。

 

コンビニ。

 

見慣れた東京の街。

 

そして、その向こう。家々の屋根を越えた場所に、白い校舎が見えていた。

 

羊脂玉。

 

マホウトコロ。

 

「…………近っ!」

 

思わず叫ぶ。

 

日向が眉を寄せた。

 

「何が?」

 

「学校!」

 

「毎日これくらいだろ」

 

「南硫黄島は!?」

 

「何言ってんだ?」

 

伊織まで不思議そうな顔をしている。

 

「寝ぼけてるんじゃない?」

 

「いや……」

 

何かがおかしい。

 

確かにそう思うのに、同時に、何もおかしくないようにも感じる。

 

学校が家の近くにあれば毎日帰れる。

 

父も母も。

 

ばあちゃんもいる。

 

日向たちとはいつでも遊べる。

 

夏休みを待つ必要もない。

 

「蓮根君」

 

その声がした。

 

奎星が振り向く。

 

道路の少し先から、一人の女性が歩いてきた。

 

黒髪。

 

小柄な身体。

 

白いシャツに濃紺のスカート。

 

「……スズメちゃん」

 

スズメがいる。

 

その姿を見た瞬間、奎星の顔は自然に緩んだ。

 

「おはようございます」

 

「おはよ」

 

そこで、ふと気づく。

 

「スズメちゃん、学校行くの?」

 

「はい」

 

「授業?」

 

「何を言っているのですか」

 

スズメは不思議そうに首を傾げた。

 

「私、先生ではありませんよ」

 

「…………え?」

 

「寝ぼけすぎじゃね?」

 

日向が笑う。

 

だが奎星には、その言葉しか聞こえていなかった。

 

――先生ではない。

 

教師ではない。

 

つまり。

 

自分は彼女の生徒ではない。

 

少なくとも。

 

スズメと自分を隔てていたものは、ここにはない。

 

「…………」

 

胸の奥が急に軽くなった。

 

昨日、観測塔で言えなかったこと。

 

自分でもまだ何なのか分からないと思っていた気持ち。

 

教師と生徒だから。

 

考えることさえ、どこかで止めていたもの。

 

ここなら。

 

止めなくていい。

 

「スズメちゃん」

 

「はい?」

 

言葉は驚くほど自然に出た。

 

「俺、スズメちゃんのこと好きだよ」

 

「…………」

 

日向が口を開けた。

 

伊織の眉が上がる。

 

岳だけは普通に聞いている。

 

スズメは驚いた顔をしていた。

 

けれど。

 

やがて。

 

とても嬉しそうに笑った。

 

その笑顔を見た瞬間。

 

奎星は思った。

 

ああ。

 

これでいい。

 

ばあちゃんは生きている。

 

父さんも母さんも近くにいる。

 

友達は毎朝迎えに来る。

 

マホウトコロは家のすぐそば。

 

そしてスズメは教師ではない。

 

何も隠さなくていい。

 

何も迷わなくていい。

 

ずっと。

 

ここにいても――。

 

『おい、バカ』

 

「…………」

 

奎星の眉が動いた。

 

誰かが何かを言った。

 

『目ぇ覚ませよ』

 

「……は?」

 

日向を見る。

 

違う。

 

伊織でも、岳でも、スズメでもない。

 

八重子でも。

 

父でも。

 

母でも。

 

声は外から聞こえたのではなかった。

 

頭蓋骨の内側から、直接響いてくる。

 

しかも。

 

知っている。

 

毎日聞いている声。

 

『こんなんでいいのかよ、お前!』

 

「…………俺?」

 

自分自身の声だった。

 

奎星は周囲を見回す。

 

誰も反応していない。

 

日向たちは普通に笑い、スズメも変わらずこちらを見ている。

 

「何言ってんだよ」

 

奎星が呟く。

 

頭の中の自分が、苛立ったように吐き捨てた。

 

『こんなんでいいのかって聞いてんだよ!』

 

「いいだろ」

 

奎星の声が少し強くなる。

 

「俺は……これを望んでて」

 

ばあちゃんが生きている。

 

家族と毎日会える。

 

友達が近くにいる。

 

学校だってすぐそこ。

 

スズメとも、もう教師と生徒ではない。

 

何が悪い。

 

「こんな世界なら……」

 

ずっと。

 

ここにいたって。

 

『本当に?』

 

声が遮った。

 

奎星の口が止まる。

 

『お前、こんなの欲しかったのか?』

 

「欲しかったよ!」

 

思わず叫んだ。

 

『ばあちゃんに生きててほしかった?』

 

「当たり前だろ!」

 

『学校は近いほうが楽?』

 

「そりゃそうだろ!」

 

『スズメちゃんが先生じゃなかったら楽?』

 

「…………」

 

答えが。

 

一瞬だけ遅れた。

 

その一瞬を、自分の声は見逃さなかった。

 

『じゃあ今まで全部、いらなかったのかよ』

 

「……何?」

 

『南硫黄島まで行ったことも』

 

景色が僅かに歪んだ。

 

『最初の二週間、一人で部屋にいたことも』

 

白い家の壁へ、羊脂玉の色が滲む。

 

『日向を傷つけて、杖が怖くなったことも』

 

気づけば、奎星の腰には神代榊があった。

 

『観測塔へ連れてってもらったことも』

 

「…………」

 

『第零書庫も』

 

右手が熱を持つ。

 

あの緑色の閃光へ差し出した、何の変哲もない自分の右手。

 

『夏休みも』

 

胸。

 

肩。

 

腕。

 

脇腹。

 

背中。

 

一瞬だけ、存在しないはずの傷が焼けつくように疼いた。

 

『全部なくして、この都合のいい世界にいんのか?』

 

「…………」

 

何も言えなくなった。

 

目の前ではスズメが微笑んでいる。

 

「蓮根君?」

 

優しい声だった。

 

望んでいた。

 

そう思った。

 

教師でなければ、もっと簡単だった。

 

年齢も。

 

立場も。

 

何も考えずに済む。

 

けれど。

 

違う。

 

自分が大切だと思ったのは。

 

《先生ではないスズメ》だっただろうか。

 

違う。

 

朝になれば起こしに来た。

 

魔法を教えてくれた。

 

何度も叱られた。

 

日向を傷つけたとき、誰にも教えていなかった観測塔へ連れていってくれた。

 

第零書庫で。

 

夏休みで。

 

昨日の観測塔で。

 

その全部が。

 

烏丸スズメだった。

 

「……違う」

 

奎星が呟く。

 

目の前のスズメの笑顔が止まった。

 

そのとき。

 

背後から声がした。

 

「奎星」

 

振り向く。

 

八重子が玄関先に立っていた。

 

いつの間にか、朝食のときとは少し違う顔をしていた。

 

笑っている。

 

けれど。

 

どこか寂しそうだった。

 

「ばあちゃん……」

 

八重子は奎星の前まで歩いてくると、腰に差さった神代榊へ目を落とした。

 

そして。

 

そっと杖を抜き。

 

奎星の手へ握らせた。

 

「奎星」

 

昔と同じ声だった。

 

夏休み。

 

生と死の境で再会したとき。

 

――そろそろ帰りな。

 

そう言ったときと同じ声。

 

「そろそろ、目ぇ覚ましな」

 

「…………」

 

世界が揺れた。

 

ちりん。

 

小さな音がした。

 

奎星の目が見開かれる。

 

ポケット。

 

反射的に手を入れる。

 

指先へ触れた。

 

銀色の星。

 

昨夜、スズメからもらった星灯石のキーホルダー。

 

掌へ取り出すと、淡い光が瞬いていた。

 

「……これ」

 

見た瞬間。

 

記憶が一気に繋がった。

 

星迎祭。

 

観測塔。

 

二人で見た花火。

 

下手くそなダンス。

 

転びそうになったスズメを支えたこと。

 

同じキーホルダーを買っていて、二人で笑ったこと。

 

そして今朝。

 

参加札。

 

三門巡り。

 

竹林。

 

雲海に浮かぶ石板。

 

石造りの庭。

 

三つの玉。

 

帰還門。

 

その隣に現れた。

 

黒い。

 

門。

 

「そうだ……」

 

奎星の呼吸が変わった。

 

「俺は……」

 

日向がいた。

 

澪もいた。

 

「三門巡り終わって……知らねえ門に……」

 

『そうだ!』

 

自分の声が、今度ははっきり叫んだ。

 

『幻覚だ!! 目ぇ覚ませ!!』

 

『蓮根奎星!!!』

 

世界がざらついた。

 

父と母の輪郭が揺れる。

 

日向たちの顔が滲む。

 

東京の住宅街とマホウトコロの白い校舎が、溶けた絵の具のように互いへ混ざり始める。

 

けれど。

 

スズメだけが。

 

奎星を見ていた。

 

「蓮根君」

 

その声が本物なのか。

 

偽物なのか。

 

もう分からない。

 

「行かないでください」

 

「…………っ」

 

奎星の顔が歪んだ。

 

卑怯だ。

 

こんなの。

 

あまりにも。

 

「俺だって……」

 

ここにいたい。

 

八重子と、もっと話したい。

 

父と母のそばにいたい。

 

日向たちと毎朝学校へ行きたい。

 

そしてスズメへ。

 

何の迷いもなく。

 

好きだと言いたい。

 

それを許してくれる世界なら。

 

「俺だって、ここにいたいよ……」

 

喉の奥が痛んだ。

 

けれど。

 

神代榊を握る。

 

「でも」

 

指に力を込める。

 

「これじゃねえ」

 

八重子が笑った。

 

嬉しそうに。

 

「そうだね」

 

「ばあちゃん」

 

「何だい?」

 

奎星は泣きそうな顔で笑った。

 

「……またな」

 

「うん」

 

八重子の目が細くなる。

 

「ずっと先にね」

 

奎星は、神代榊を自分へ向けた。

 

そこで初めて。

 

身体が。

 

本気で拒絶した。

 

「…………っ」

 

腕が震える。

 

喉が勝手に閉じ、息が浅くなる。

 

杖を向けているのは敵ではない。

 

久我でも。

 

黒曜の狩人でもない。

 

自分だった。

 

至近距離。

 

自分の胸元。

 

杖先が震えるたび、その向こうに自分の身体があるという事実が嫌でも目に入る。

 

もし。

 

ここが現実だったら。

 

もし、自分が間違っていたら。

 

この一撃を放った瞬間。

 

取り返しがつかない。

 

第零書庫で死の呪文へ右手を差し出したときとは違う。あのときは後ろにスズメがいて、考えるより先に身体が動いた。

 

夏休みもそうだった。

 

スズメへ飛んだ呪文を見て、自分の身体を割り込ませた。

 

どちらも。

 

守りたい誰かが目の前にいた。

 

今は違う。

 

自分で杖を持ち。

 

自分の意思で。

 

自分へ撃たなければならない。

 

逃げようと思えば逃げられる。

 

杖を下ろせば、この温かい世界に残れる。

 

死んだはずの祖母も。

 

家族も。

 

友達も。

 

何の障害もないスズメも。

 

全部ここにある。

 

「…………怖ぇ」

 

声が掠れた。

 

手が震えて止まらない。

 

杖先が胸から逸れる。

 

一度。

 

下がる。

 

奎星は歯を食いしばって、もう一度持ち上げた。

 

それでも身体は拒んだ。

 

心臓が速い。

 

耳の奥で脈が鳴る。

 

指先が冷たい。

 

息を吸おうとしても、肺の半分までしか入らない。

 

もし失敗したら。

 

ではない。

 

成功した結果が。

 

死だったら。

 

その恐怖が頭の中へ浮かんだ瞬間、膝から力が抜けそうになった。

 

目の前のスズメが一歩近づく。

 

「蓮根君」

 

「……来んな」

 

「ここにいてください」

 

「来んなって……」

 

「ずっと一緒にいられます」

 

その言葉に。

 

一瞬。

 

本当に杖を下ろしかけた。

 

けれど。

 

ポケットの中。

 

本物の星が。

 

指先へ触れていた。

 

昨日のスズメは。

 

そんなことを言わなかった。

 

――私から、離れないでください。

 

離れないでほしいと言った。

 

それでも。

 

自分を閉じ込めようとはしなかった。

 

あの人は。

 

怖くても。

 

自分の言葉で伝えた。

 

だったら。

 

「……違う」

 

奎星は震える手で神代榊を握り直した。

 

「スズメちゃんは……そんなこと言わねえ」

 

目の前のスズメの表情が消えた。

 

その顔を見た瞬間。

 

奎星は理解した。

 

偽物だ。

 

そう思うしかなかった。

 

そうでなければ。

 

撃てない。

 

「起きろ……」

 

声が震える。

 

「起きろ、俺……!」

 

杖先へ魔力が集まり始める。

 

青白い光。

 

自分の身体へ向けられた光が強くなるほど、本能が悲鳴を上げる。

 

嫌だ。

 

怖い。

 

撃ちたくない。

 

死にたくない。

 

腕を下ろしたい。

 

ここにいたい。

 

それでも。

 

奎星は目を逸らさなかった。

 

「目ぇ……覚ませ……!」

 

世界中の音が消えたように感じた。

 

八重子が見ている。

 

父も。

 

母も。

 

日向も。

 

伊織も。

 

岳も。

 

そして。

 

スズメも。

 

皆が。

 

奎星だけを見ている。

 

杖先の光が限界まで膨らむ。

 

「目ぇ覚ませ、俺!!」

 

奎星は。

 

魔法を放った。

 

青白い衝撃が自分へ向かって迸る。

 

避けることもできた。

 

ほんの僅かに身体を動かせばよかった。

 

けれど。

 

奎星は動かなかった。

 

光が胸元へ迫る。

 

一瞬。

 

恐怖で目を閉じた。

 

そして。

 

世界が砕けた。

 

 

「――っ!!」

 

奎星の身体が大きく跳ねた。

 

肺へ空気がなだれ込む。

 

「はっ……はっ……はっ……!」

 

目の前には冷たい石床があった。

 

薄暗い石造りの庭。

 

第三門。

 

「…………」

 

戻った。

 

三門巡りの試練空間。

 

奎星は両手を床についた。

 

汗が額から落ち、石板へぼたぼたと染みを作る。心臓が痛いほど速く、吐き気がするほど呼吸が浅かった。

 

「……戻った」

 

右手を見る。

 

神代榊。

 

胸元には、金色になった参加札。

 

震える手をポケットへ入れる。

 

ある。

 

星型のキーホルダー。

 

「……本物だ」

 

掠れた声が漏れた。

 

助かった。

 

その安堵が身体へ届きかけて。

 

奎星はすぐに顔を上げた。

 

「日向!」

 

少し離れた場所に、日向が倒れている。

 

「澪!」

 

反対側には澪。

 

二人とも目を閉じたまま動かない。

 

奎星はふらつきながら日向へ駆け寄った。呼吸はしている。外傷も見当たらない。

 

「おい! 日向!」

 

肩を揺らす。

 

「起きろ!」

 

反応がない。

 

「日向!」

 

駄目だ。

 

奎星は澪のところへ移る。

 

「澪!」

 

こちらも反応しない。

 

まずい。

 

自分が見たものと同じなら、二人も何かを見せられている。

 

しかも。

 

自分はあそこから抜け出すために。

 

何をした。

 

「…………」

 

思い出した瞬間。

 

自分の杖を持つ右手が、また震え始めた。

 

二人にも同じことができる保証などない。

 

そもそも。

 

同じ方法で戻れるのかすら分からない。

 

そのときだった。

 

「……蓮根家め」

 

声がした。

 

奎星の動きが止まった。

 

「…………」

 

ゆっくり顔を上げる。

 

帰還門の隣。

 

黒曜の門はまだそこにあった。

 

扉は開いている。

 

奥には何も見えない。

 

「今……」

 

奎星は立ち上がった。

 

汗で前髪が額へ張りつき、まだ足元も安定しない。

 

「何つった?」

 

返事はない。

 

神代榊を握り直す。

 

「お前、誰だ?」

 

闇の奥で。

 

何かが笑ったような気配がした。

 

そして。

 

声が響く。

 

男とも。

 

女とも。

 

老人とも。

 

若者ともつかない。

 

幾重もの声を無理やり重ねたような、歪んだ声音。

 

「マホウトコロに……伝えるのです……」

 

奎星の目が細くなる。

 

「何を」

 

門の表面へ赤黒い文字が浮かび、脈を打つように光った。

 

「今に……」

 

一拍。

 

「堕とす、と……」

 

「…………」

 

一瞬。

 

意味が入ってこなかった。

 

次の瞬間。

 

奎星の中で何かが切れた。

 

「お前、誰だよ!!」

 

怒声が石の庭へ響く。

 

返事はない。

 

「日向と澪に何した!!」

 

黒い門はただそこにある。

 

それが。

 

余計に腹立たしかった。

 

奎星の魔力が一気に膨れ上がる。空気が震え、胸元の参加札が激しく明滅し、足元の石床へ細かな亀裂が走った。

 

夏休みからずっと。

 

御影に言われている。

 

必要な分だけ使え。

 

力を出しすぎるな。

 

制御しろ。

 

けれど。

 

たった今。

 

自分は祖母を使われた。

 

家族を使われた。

 

友達を使われた。

 

スズメまで。

 

自分が一番欲しかった形へ勝手に作り替えられた。

 

そのうえ。

 

日向と澪はまだ目を覚まさない。

 

「ふざけんな……!」

 

奎星は神代榊を両手で構えた。

 

狙う。

 

黒曜の門。

 

「ふざけんなぁぁぁ!!」

 

青白い魔力が爆発した。

 

凄まじい光が石造りの庭を白く染め、衝撃が四方の壁まで震わせる。

 

魔法が門へ届く。

 

その寸前。

 

黒曜の門が揺らいだ。

 

水面へ石を落としたように輪郭が崩れ、表面を走っていた赤黒い文字が一斉に消える。

 

そして。

 

何もなかったかのように。

 

門そのものが消失した。

 

奎星の魔法だけがその先の石壁へ激突し、轟音とともに学校側の防護術式を弾けさせる。

 

「…………っ」

 

奎星は荒い息のまま、門のあった場所を睨み続けた。

 

何もない。

 

残っているのは帰還門だけ。

 

最初から黒い門など存在しなかったかのようだった。

 

「……くそ」

 

杖を持つ手が震えている。

 

怒りだけではない。

 

怖かった。

 

動悸が止まらない。

 

当然だった。

 

ついさっきまで。

 

自分は。

 

自分の杖を、自分へ向けていた。

 

あの瞬間。

 

もし幻覚ではなかったら。

 

もし判断を間違えていたら。

 

本当に。

 

死んでいたかもしれない。

 

その事実を理解した途端、足から力が抜けかけた。

 

「…………」

 

けれど。

 

倒れている暇はない。

 

後ろには日向と澪がいる。

 

二人とも、まだ目を覚まさない。

 

「やべえ……」

 

自分は戻れた。

 

でも二人が戻れる保証はない。

 

そもそも、この場所が今も学校の管理下にあるのかすら分からない。

 

競技を続ける理由など。

 

もう一つもなかった。

 

奎星は胸元の参加札を掴んだ。

 

競技開始前、担当教師に言われた言葉を思い出す。

 

――危険を感じた場合は胸元の参加札を握り、『棄権』と宣言してください。

 

――一人でも棄権した場合、その班は競技終了です。

 

銀札を強く握り込む。

 

「棄権!!」

 

声が庭へ響いた。

 

金色だった札が、一気に白く光る。

 

「第七班、棄権! 戻してくれ!!」

 

次の瞬間。

 

三人の身体を光が包んだ。

 

 

三門巡りの会場では、次々と班が帰還し、そのたび観客から歓声が上がっていた。

 

第七班の帰還予定時刻も近づき、教師たちは記録板へ目を落としている。御影玄一郎は腕を組んだまま帰還門を見守り、九重院紫苑も少し離れたところで白峰の教師たちと話していた。

 

スズメも監督役として記録板を持ちながら、時折帰還門へ視線を向けている。

 

そのとき。

 

門の光が不自然なほど大きく揺れた。

 

「……?」

 

教師の一人が顔を上げる。

 

次の瞬間。

 

三人が。

 

吐き出されるように現れた。

 

「っ!」

 

奎星が石床へ膝をつく。

 

その両脇では。

 

日向と澪が。

 

倒れたまま動かない。

 

胸元の参加札は白。

 

《棄権》。

 

会場の空気が一瞬で変わった。

 

「日向!」

 

観覧席から楓の声が飛ぶ。

 

「澪!」

 

白峰の生徒たちも立ち上がった。

 

教師たちが一斉に駆け寄る。

 

「下がれ!」

 

御影の声が響いた。

 

奎星は立ち上がろうとして、身体が大きくよろける。

 

「蓮根君!」

 

誰より早く近くまで来たスズメが、咄嗟にその腕を支えた。

 

奎星は汗だくだった。

 

顔色も悪い。

 

呼吸もまだ速い。

 

「何があったのですか」

 

「……スズメちゃん」

 

声が掠れていた。

 

昨夜、観測塔で笑っていた少年とはまるで違う。

 

スズメの顔から血の気が引いた。

 

「どこか怪我を?」

 

「俺は大丈夫」

 

「大丈夫には見えません」

 

「でも、日向と澪が……」

 

御影は既に二人の状態を確認していた。呼吸、瞳孔、魔力反応を手早く確かめる。

 

「外傷なし。呼吸も正常だ」

 

白峰の柊木も澪のそばへ膝をついた。

 

「昏睡?」

 

「分からん」

 

御影の顔が険しくなる。

 

「蓮根」

 

「はい」

 

普段の奎星なら、この状況でも何か一つ余計なことを言ったかもしれない。

 

今日は。

 

何もなかった。

 

「何があった」

 

奎星は御影を見る。

 

「三門目はクリアしました」

 

周囲の教師たちが黙る。

 

「帰還門も出た。そこまでは普通だった」

 

「そのあと?」

 

「帰還門の横に……もう一個、門が出た」

 

御影の目が細くなる。

 

九重院も、こちらへ視線を向けた。

 

「黒い門です。黒曜石みたいな。赤黒い文字が出てて……俺と日向は、前に見た黒曜石と似てるって分かった」

 

御影の表情から、僅かに色が消えた。

 

「それで」

 

「勝手に開いて……」

 

奎星の右手がまた震えた。

 

スズメは気づいた。

 

けれど、今は何も言わない。

 

「俺ら三人、引きずり込まれました」

 

「中は?」

 

一瞬。

 

奎星は答えに詰まった。

 

東京。

 

自宅。

 

父。

 

母。

 

八重子。

 

日向。

 

岳。

 

伊織。

 

そして。

 

教師ではないスズメ。

 

――俺、スズメちゃんのこと好きだよ。

 

そこまで思い出し、奎星は隣のスズメを見そうになった。

 

寸前で御影へ視線を戻す。

 

「……幻覚」

 

「幻覚?」

 

「多分、見たいもんを見せる」

 

周囲が静まり返る。

 

「俺、東京の家にいて。ばあちゃんも生きてて。学校も家のすぐ近くにあって……みんな普通にいました」

 

一度、唾を飲み込む。

 

「ずっとそこにいていいって、本気で思った」

 

スズメの表情が変わった。

 

奎星は続ける。

 

「でも、自分の声が聞こえたんです。目ぇ覚ませって。それから……ばあちゃんが杖を渡してきて」

 

御影が訊いた。

 

「どうやって戻った」

 

「…………」

 

奎星の視線が、自分の杖へ落ちる。

 

言いたくない。

 

けれど。

 

言うしかない。

 

「自分に撃ちました」

 

スズメの手が、奎星の腕を掴んだまま固まった。

 

「……何を?」

 

その声は。

 

低かった。

 

奎星は目を逸らす。

 

「いや、だって……他に方法分かんなくて」

 

「蓮根君」

 

「でも戻れたから!」

 

「そういう問題ではありません!」

 

久しぶりに聞く、本気で怒った声だった。

 

奎星が僅かに縮こまる。

 

「……ごめん」

 

スズメの指には、まだ力が入っていた。

 

御影は止めなかった。

 

今はそれより先に、聞かなければならないことがある。

 

「戻ったあと、門は?」

 

「まだありました」

 

奎星が顔を上げる。

 

「声がした」

 

「何と言った」

 

「最初に……」

 

記憶を辿る。

 

あの歪んだ声。

 

「『蓮根家め』って」

 

御影の目が僅かに動いた。

 

九重院も、完全に表情を消した。

 

「それから、『マホウトコロに伝えるのです』って」

 

「続きは?」

 

奎星ははっきり答えた。

 

「『今に堕とす』」

 

静寂。

 

祭りの会場とは思えないほど、誰も声を出さなかった。

 

御影がゆっくり九重院を見る。

 

九重院も御影を見返した。

 

二人の間に言葉はない。

 

それだけで何かが通じたのだと、奎星にも分かった。

 

「……先生」

 

御影は答えない。

 

「知ってんの?」

 

それでも返事はなかった。

 

代わりに。

 

九重院が杖を抜いた。

 

いつもの穏やかな校長の顔ではなかった。

 

「星迎祭を中止します」

 

周囲の教師たちが息を呑む。

 

九重院は迷いなく続けた。

 

「全生徒を寮へ。学年ごとの点呼を取り、許可があるまで外出禁止。他校生徒も指定宿舎へ戻してください」

 

白峰の教師たちが即座に動き始める。

 

「来賓は?」

 

「教職員の誘導で安全区域へ。魔法省職員へも連絡を」

 

「はい」

 

ついさっきまで歓声に包まれていた会場へ、次々と教師たちの指示が飛ぶ。

 

観客たちは何が起きたのか分からない。

 

生徒たちも騒ぎ始める。

 

楓が教師の間から日向の姿を見ようとしていた。岳と伊織も、いつの間にか近くまで来ている。

 

「奎星!」

 

伊織が呼ぶ。

 

奎星が振り返った。

 

「俺は大丈夫!」

 

反射的に答える。

 

「日向と澪も息はしてる! 先生いるから!」

 

楓の顔が強張っていた。

 

「日向は!?」

 

「大丈夫だって! 多分!」

 

「多分って何よ!」

 

「俺にもまだ分かんねえんだよ!」

 

奎星の声も思わず強くなる。

 

すぐに顔を歪めた。

 

「……ごめん」

 

楓も何も言えなくなった。

 

御影が立ち上がる。

 

「水無瀬。榊。岩戸。今は寮へ戻れ」

 

「でも――」

 

「戻れ」

 

低い声。

 

楓は唇を噛んだ。

 

それでも。

 

頷いた。

 

「……はい」

 

日向と澪は、そのまま教師たちによって医務室へ運ばれていく。

 

奎星もついていこうとした。

 

けれど。

 

「蓮根」

 

御影に止められた。

 

「お前は別だ」

 

「え?」

 

「会議室へ来い」

 

「でも日向たち――」

 

「そちらは任せろ」

 

御影の視線が、奎星のポケットへ向いた。

 

そこには銀色の星型キーホルダーが、ほんの僅かに覗いていた。

 

「お前が見たもの。聞いたもの。門が現れるまでの状況」

 

御影は低く言った。

 

「全部、最初から話してもらう」

 

奎星は黙った。

 

そして視線を上げる。

 

少し離れたところで。

 

九重院がこちらを見ていた。

 

あの人は。

 

何かを知っている。

 

そう思った。

 

そしてもう一つ。

 

耳の奥から、どうしても離れない言葉がある。

 

――蓮根家め。

 

鬼火鳥。

 

神代榊。

 

霊脈。

 

遥か昔から続いていた、蓮根家。

 

あの門の向こうにいた何かは。

 

自分の名前ではなく。

 

家の名前を。

 

知っていた。

 

「…………」

 

奎星は神代榊を握り直した。

 

星迎祭二日目。

 

昼。

 

祭りの歓声は。

 

わずか数分で消えていた。

 

そして蓮根奎星は、御影玄一郎と九重院紫苑に連れられ、教員会議室へ向かうことになった。

 

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