教員会議室へ入ったとき、奎星が最初に感じたのは、妙な静けさだった。
ほんの一時間ほど前まで、校内のどこにいても祭りの音が聞こえていた。屋台の呼び込み、走り回る生徒たちの声、遠くで鳴る楽器、競技場から響く歓声。それらが今はほとんどない。厚い扉と壁に遮られているせいだけではなく、星迎祭そのものが止められたのだと分かる静けさだった。
奎星は長机の端へ座り、落ち着かないまま膝を揺らしていた。向かいには御影。その少し奥では、九重院が鍵の掛かった書棚を開けている。
そして、奎星の少し斜め後ろにはスズメもいた。
ここへ来る途中、九重院から同席するよう指示されたのだ。第零書庫の事件を直接知り、神代榊について奎星と共に調べ、何より先ほど黒い門から帰還した奎星の状態を間近で見ていた。本人は普段どおり背筋を伸ばして椅子に座っていたが、時折奎星へ向けられる視線には、明らかに心配の色が残っている。
日向と澪は医務室。
呼吸も魔力反応も正常だと聞いた。それでも、まだ目を覚ましたとは聞いていない。
そのことが、ずっと頭から離れなかった。
「校長先生」
九重院が振り返る。
「はい」
「日向たち、大丈夫なんだよね?」
「薬師寺先生と柊木先生、それから魔法省の真壁さんが診ています。少なくとも現時点で、生命に危険がある兆候はありません」
「現時点で、って言い方怖いんだけど」
「確実でないことを、確実だとは申し上げられません」
奎星は口を閉じた。
分かっている。
普段なら「大丈夫ですよ」と言ってほしいところだった。けれど今日は、曖昧な安心よりも、分からないことを分からないと言ってもらったほうがいい。
それでも膝は止まらなかった。
御影の目が下へ向く。
「揺らすな」
「え?」
「机まで揺れている」
「あ、ごめん」
ようやく足を止める。
隣からスズメが小さく息を吐いた。
「蓮根君」
「何?」
「落ち着かないのは分かりますが、少しゆっくり呼吸をしてください」
「……してるよ」
「今のは呼吸ではなく、ため息です」
「細かいなあ」
そんな返事をしながらも、奎星は一度だけ深く息を吸った。
九重院は書棚から一冊の薄い綴じ本を取り出すと、奎星の前へ戻ってきた。それをすぐには開かず、静かに椅子へ腰を下ろす。
「蓮根君」
「はい」
「これからお話しすることには、我々にも分かっていない部分が多くあります」
奎星は九重院を見た。
「今日の黒い門が誰によって作られ、なぜ三門巡りの試練空間へ現れたのか。なぜあなた方三人を取り込み、あの幻覚を見せたのか。そして、門の向こうの声が何者だったのか。いずれも、今の段階では断定できません」
「うん」
「ですから、分かっていることと推測は分けて話します」
いつもの九重院なら、もう少し柔らかく言っただろう。
今日は違った。
校長として、一つ一つ、間違いのない言葉を選んでいる。
「まず、あなたに知っておいてもらわなければならない名前があります」
九重院が綴じ本を開く。
中から一枚の人物資料を抜き、奎星の前へ置いた。
そこに書かれていたのは、四文字。
神代冥司。
「……かみしろ、めいじ?」
「はい」
奎星はその名を目で追った。
聞き覚えはない。少なくとも、自分の知る人間ではなかった。
スズメも資料へ視線を落としている。普段と変わらない表情だったが、その眉が僅かに寄った。
「誰?」
九重院は答える前に、ほんの僅かに間を置いた。
「黒曜の環。その中心にいると考えられている人物です」
奎星の表情が変わる。
黒曜の環。
夏休み、御影が初めてその名前を口にした夜を思い出した。
森で鬼火鳥を捕らえていた男女。
黒曜石。
その後に戦った黒曜の狩人たち。
そして。
斎賀玄弥。
「中心って……ボス?」
「乱暴に言えば、そう考えて構いません」
「御影先生、黒曜の環って組織なのかどうかも分かんねえって言ってなかった?」
御影は腕を組んだまま答えた。
「あの時点で、お前たちへ話せる確定情報はそれだった」
「じゃあ知ってたの?」
「神代冥司という闇の魔法使いの名はな。黒曜の環と呼ばれる者たちの奥にいる可能性も、禍祓官の間では以前から疑われていた。ただし、名前が出たからといって、黒曜石を扱う全員が神代の直属だと証明できるわけではない」
「……なるほど」
奎星はもう一度、紙を見る。
ただの名前なのに、妙に目に残った。
スズメも神代の名から視線を外さない。
「烏丸先生は?」
奎星が訊く。
「え?」
「この人、知ってた?」
「名前を見たことはあります。ただ……」
スズメは少し考えてから首を横に振った。
「黒曜の環の中心人物として、確定した情報を聞くのは私も初めてです」
「そっか」
第零書庫へ入ることのできた教師だったスズメでさえ知らされていなかった。そのことが、かえってこの名前の重さを奎星へ実感させた。
「で、その神代って奴が……今回の門作ったの?」
「それは分かりません」
九重院が即座に否定する。
「では、何で今俺にこいつの話すんの?」
九重院の指が、資料の別の箇所へ移った。
「久我朔弥です」
「…………」
今度は、知っている名前だった。
一学期、マホウトコロで魔法理論を教えていた教師。
穏やかな声。
柔らかな笑顔。
自分の才能を褒めた男。
日向を傷つける原因になった黒曜石。
スズメを拘束し。
第零書庫へ侵入し。
最後には、自分とスズメへ死の呪文を撃った。
奎星の右手が、無意識に僅かに握られた。
同時に、スズメの横顔もほんの少し硬くなる。
九重院が続けた。
「第零書庫の事件後、魔法省と学校で久我に関する調査を続けました。その結果、久我朔弥が黒曜の環に属する人間であったこと。そして、その背後に神代冥司がいたことが確認されています」
「…………」
奎星は数秒、何も言わなかった。
スズメも黙っていた。
やがて奎星が、低く訊く。
「久我先生って……あいつの部下だったの?」
「少なくとも、神代から指示を受ける立場にいたと考えてよいでしょう」
奎星は椅子の背へ身体を預けた。
一学期の記憶が、違う形で並び直していく。
「じゃあ、第零書庫も?」
「久我は第零書庫に眠る古代魔術を狙っていました」
「それは知ってる」
奎星自身、その場所にいた。
無数の古書。
石板。
巻物。
古代文字。
久我の右手にあった黒曜石。
隣でスズメが静かに口を開いた。
「久我先生は、以前から第零書庫へ入る方法を探っていました。私にも何度か接触していましたが……」
奎星が見る。
「それも神代の命令だったってこと?」
スズメは答えず、九重院へ視線を向けた。
九重院が頷く。
「少なくとも、久我が第零書庫へ入るよう神代から指示を受けていたことは確認されています」
その一言だけで、一学期の事件が久我一人の暴走ではなくなった。
奎星の眉間に皺が寄る。
「待って。じゃあ久我先生がやってた古代魔術の研究も、全部神代って奴に言われて?」
「そこまでは分かりません」
九重院の返事は早かった。
「久我が第零書庫の古代魔術を狙っていたこと。彼が黒曜石を所持し、それが第零書庫の魔力と激しく反応したこと。そして久我の背後に神代がいたこと。私たちが確認できているのは、そこまでです」
「……そこまで?」
「はい。久我が第零書庫で何をどこまで理解したのか。神代へ何を伝えたのか。あるいは何も伝えられなかったのか。それも断定はできません」
御影も低く続ける。
「分からん部分を都合よく埋めるな。敵が相手ならなおさらだ」
「分かってるよ」
奎星は頬を掻きかけ、やめた。
今は、それくらい真面目に聞いている。
目の前には神代冥司という名前。
その横には、久我朔弥。
繋がった。
一つだけ、確実に。
「……じゃあさ」
奎星が顔を上げる。
「夏休みの奴らも?」
黒曜の狩人。
鬼火鳥を捕らえていた者たち。
斎賀。
御影の表情は変わらなかった。
「黒曜の環と繋がっている可能性は極めて高い」
「神代の命令?」
「それは分からん」
また。
そこは分からない。
奎星は息を吐いた。
「何か、分かんねえこと多いな」
「だから調べる」
御影はそれだけ言った。
奎星は少しだけ眉を上げる。
「先生らしい」
「何がだ」
「いや、分かんねえなら調べるって」
「他に何をする」
「勘」
「お前は黙っていろ」
「はい」
ほんの一瞬だけ、いつもの空気が戻る。
スズメの肩からも、僅かに力が抜けた。
「蓮根君の勘で捜査を始めたら、魔法省が三日で崩壊しそうですね」
「スズメちゃんまで!?」
「三日は長く見積もりました」
「ひどくない!?」
御影が無言でスズメを見る。
スズメは小さく咳払いをした。
「……失礼しました」
「御影先生、スズメちゃんには甘くない?」
「話を戻せ」
「はい」
九重院の口元も僅かに緩みかけた。
しかし、すぐに表情を戻す。
「もう一つあります」
九重院が立ち上がった。
今度は、先ほどとは別の書棚へ向かう。
上の段。
鍵を一つ。
さらに杖先で別の封印を解く。
その奥から取り出されたものを見て、奎星は首を傾げた。
古い帳面だった。
本と呼ぶには飾り気がなく、紙束と呼ぶにはあまりにも丁寧に保存されている。表紙は色褪せ、角は丸く擦れていた。
その帳面を見た瞬間。
スズメの目が僅かに細くなった。
「……まさか」
「知ってるの?」
奎星が訊く。
「いえ。ですが、百年以上前の記録ということは……」
スズメの視線が奎星の腰へ向く。
そこで奎星も気づいた。
九重院が古い帳面を両手で机へ置く。
「学校の記録簿です」
「古っ」
「百年以上前のものです」
「百年?」
奎星の視線が、ゆっくりと自分の腰へ落ちた。
九重院はそれを見ていた。
「気づきましたか」
「いや……」
奎星は神代榊を抜いた。
「俺の杖も、杖屋のじいちゃんに少なく見ても百年って言われたから」
夏休み。
八咫小路。
空木宗玄の店で調べてもらった。
本物の神代榊。
鬼火鳥の尾羽。
製作者の刻印もない。
少なくとも百年は経っている。
「あのとき、空木さんも製作者までは分からないと言っていました」
スズメが神代榊を見る。
「うん。俺、そんな古い杖使ってんのってびっくりしたやつ」
「反応するところがそこでしたね」
「だって百年だよ?」
「覚えています」
九重院が古い帳面を開く。
一枚。
二枚。
紙を傷めないよう、慎重にめくっていく。
やがて、ある頁で止まった。
「こちらです」
奎星が身を乗り出す。
スズメも椅子を僅かに寄せた。
黄ばんだ紙には、古い墨でいくつもの文字が記されている。
その中。
一つの名前。
蓮根清弦。
「…………」
奎星が目を細めた。
「蓮根?」
「はい」
「俺と同じ?」
「同じ、ではありません」
九重院は奎星を見る。
「あなたの先祖です」
「…………は?」
一瞬、意味が遅れて入ってきた。
「先祖?」
「家系記録とも照合しました。百年以上前、この杖を使っていたのは、あなたの先祖です」
「…………」
スズメも奎星を見る。
今度ばかりは彼女も驚きを隠していなかった。
奎星は自分の杖と記録を交互に見た。
「家系記録……?」
「はい」
「マジで?」
「マジです」
「校長先生までマジって言った」
「今そこですか?」
スズメが思わず口を挟む。
「だって!」
九重院の指先が、蓮根清弦の名前の横へ移る。
そこには杖の簡単な図と、材料が記されていた。
神代榊。
芯材。
鬼火鳥の尾羽。
奎星はゆっくりと自分の杖を机へ置いた。
古い記録に描かれた杖と、今、自分が使っている杖。
握り手。
炎を思わせる彫刻。
木目。
細部まで。
同じだった。
「……マジで?」
「はい」
「これ……清弦って人の杖?」
「かつては」
「俺のひいひい……何?」
「何代前かを数える話は今はいい」
御影が言った。
「いや気になるじゃん!」
「後にしろ」
「はい」
奎星はもう一度、記録を見る。
蓮根清弦。
知らない名前だった。
八重子から聞いたことも、少なくとも覚えている限りではない。
けれど、自分と同じ姓を持つ男が百年以上前に、この杖を握っていた。
「……だから?」
奎星が九重院を見る。
「入学した日に、これ俺に渡したの?」
一学期の初日。
九重院は自分へ神代榊を差し出した。
新品ではないと言った。
誰が使っていたのかと訊いても、答えなかった。
九重院は少しだけ目を伏せる。
「あなたの編入が決まった際、蓮根八重子さんの在籍記録を確認しました。その過程で、この古い記録にも行き着きました」
「最初から知ってたんじゃん!」
「あなたとこの杖が適合するかまでは分かりませんでした」
「でも渡した」
「はい」
「言ってよ!」
「確証がありませんでした」
「俺、ずっと中古だと思ってた!」
御影が眉間を押さえた。
「そこなのか」
「だって百年前のご先祖の杖って言われたら全然違うじゃん!」
「中古であることには変わらん」
「御影先生、夢ねえな!」
「先生」
スズメが小さく御影を見る。
「そこは少しくらい浪漫を認めてもいいのでは」
「お前まで乗るな」
「烏丸先生味方!」
「烏丸先生です」
「急に戻った!」
九重院の口元が、今度こそ少し緩んだ。
しかし。
重要なのは、そこではなかった。
「蓮根君。杖だけではありません」
記録簿の頁がもう一枚めくられる。
そこには清弦だけでなく、いくつもの蓮根の名があった。
短い記述。
何年の何月。
どこへ向かった。
何を確認した。
霊脈。
鬼火鳥。
南硫黄島。
そんな文字が、断片的に並んでいる。
奎星の目が止まった。
「……霊脈」
九重院が頷く。
「古い記録の中には、蓮根家が南硫黄島周辺の霊脈と深い関わりを持っていたことを示す記述が複数あります」
「…………」
「詳しい役目は時代によって違ったようですが、霊脈の状態を確認し、その流れを把握していた。鬼火鳥とも長く関わり、彼らの飛ぶ道について知識を持っていたらしい」
スズメも記録の文字を追っていた。
「鬼火鳥の飛ぶ道……」
その言葉で、奎星の記憶が夏休みへ戻る。
八重子。
大樹。
青白い炎。
奎星はしばらく黙っていた。
御影が見る。
「どうした」
「……それ」
記録から目を離さないまま言った。
「ばあちゃんから聞いた」
九重院の目が僅かに動く。
スズメも奎星を見た。
「八重子さんから?」
「うん」
奎星は神代榊へ手を置く。
夏休み。
生きているとも、死んでいるとも言い切れない場所で。
大樹の下にいた祖母。
青白い炎をまとって飛ぶ鬼火鳥。
――蓮根家は、唯一鬼火鳥に認められた一家だった。
――鬼火鳥の飛ぶ道を知っている。
――神代榊へ辿り着ける。
――霊脈の流れを知っている。
「蓮根家は霊脈の流れを知ってたって」
奎星はゆっくり言った。
「鬼火鳥のことも。神代榊の場所も。昔はそういうの知ってたって」
会議室が静かになった。
九重院は記録を見て、それから奎星を見る。
「ならば、この記述とも一致します」
スズメも静かに頷いた。
「空木さんが話していた、鬼火鳥を助け、神代榊までの道を守り、霊脈を管理していた一族……」
「それが蓮根家だった」
「ええ」
奎星は少しだけ笑った。
「……ばあちゃん、本当のこと言ってたんだな」
「疑っていたのですか?」
スズメが訊く。
「いや、疑ってはないけど……ばあちゃんって結構適当だったし」
「お前が言うな」
御影が即座に返す。
「俺はちゃんとしてるよ!」
御影は何も言わなかった。
スズメも何も言わなかった。
九重院まで黙った。
三人分の沈黙が痛い。
「ちょっと!?」
その無言が一番ひどかった。
奎星が不満そうな顔をしたところで、九重院の指が記録簿の上へ置かれる。
「蓮根君」
声音が変わった。
奎星もすぐに表情を戻す。
「今日、門の向こうから聞こえた最初の言葉を、もう一度教えてください」
笑みが消えた。
忘れるはずがない。
あの、幾重にも重なった声。
「……『蓮根家め』」
「あなたの名前ではなかった」
「うん」
「『蓮根奎星』でもない」
「……うん」
九重院は古い記録簿へ視線を落とした。
百年以上前。
蓮根清弦。
神代榊。
鬼火鳥。
霊脈。
そして現在、その杖を持つ蓮根奎星。
「偶然とは考えにくいでしょう」
奎星の喉が僅かに動いた。
「ってことは」
言いかけて、やめる。
けれど、聞かなければならない。
「俺……狙われてんの?」
スズメの表情が強張った。
九重院はすぐには答えない。
御影も口を挟まなかった。
その沈黙が、逆に答えを重くした。
「あなた個人を狙っているのか」
九重院が言う。
「あなたの持つ神代榊なのか。蓮根家がかつて持っていた知識なのか。あるいは、それらとは別の理由なのか。それは分かりません」
「…………」
「ですが」
九重院の目が真っ直ぐ奎星へ向く。
「あなたが無関係である、と考えることはもうできません」
奎星は何も言わなかった。
胸の奥へ、妙な冷たさが広がっていく。
夏休み。
八重子が言っていた。
珍しいものを持っていれば、欲しがる人間が出てくる。
味方になれと言う奴。
利用しようとする奴。
守れと言う奴。
独り占めしようとする奴。
あのときは、昔の話だと思っていた。
蓮根家がかつて背負っていたもの。
だから八重子は。
娘にも。
孫にも。
背負わせたくなかった。
それが。
今。
追いついてきた。
奎星の手が神代榊を握る。
「……だから、ばあちゃん」
小さく呟いた。
御影が眉を動かす。
「何だ」
「いや」
奎星は首を振る。
「何でもない」
八重子が魔法を教えなかった理由。
少し、分かった気がした。
スズメは何も訊かなかった。
ただ、奎星が杖を握り締めている右手を見ていた。
けれど同時に。
奎星の頭へ別の光景がよぎる。
倒れた日向。
倒れた澪。
「…………」
神代榊を握る力が強くなった。
「じゃあ」
声が低くなる。
「今日、日向と澪が巻き込まれたのも……俺がいたから?」
「決めつけるな」
御影の声が飛んだ。
奎星が顔を上げる。
「でも、門は蓮根家って――」
「だから何だ」
「俺が第七班にいたから出たんだったら」
「まだ分からんと言ったはずだ」
「でも!」
「責任と原因を混同するな」
御影は奎星を真正面から見た。
「仮に向こうがお前を狙っていたとしても、朝比奈と常盤を巻き込んだのは向こうだ。お前が二人を攻撃したわけではない」
「…………」
「勝手に敵の責任まで背負うな」
奎星は口を閉じた。
以前なら、それでも何か言い返したかもしれない。
今日は、ゆっくり息を吐いた。
「……分かった」
「本当に分かりましたか?」
スズメが横から確認する。
「分かったって」
「あなたは『分かった』と言った五分後に無茶をする前科があります」
「今回はしないよ!」
「先ほど、自分へ魔法を撃った人が言っても説得力がありません」
「それは緊急事態!」
「なお悪いです」
「ごめんって!」
御影が眉間を押さえた。
九重院が神代冥司の資料へ手を置く。
「そして、もう一つ。今日の門が黒曜石と同系統の技術で作られた可能性は極めて高い。久我、夏休みの狩人たち、そして今日の門。すべてに黒曜石が関わっています」
「神代」
奎星が言った。
「はい」
「そいつが全部の後ろにいるかもしれない」
「可能性はあります」
「でも、まだ確定じゃない」
「その通りです」
奎星は人物資料を睨んだ。
神代冥司。
顔を見たこともない。
声を聞いたこともない。
何がしたいのかも分からない。
それなのに、一学期から自分たちの周囲で起きていた事件のずっと奥に、初めて一人の人間の影が見えた。
久我の向こう。
黒曜の狩人の向こう。
黒い門の向こう。
そこへ続いているかもしれない名前。
「……神代冥司」
奎星は、忘れないように一度だけ口に出した。
そのときだった。
こんこん。
会議室の扉が叩かれた。
全員が振り向く。
「入れ」
御影が言う。
扉が開いた。
「失礼します」
真壁だった。
いつもの穏やかな顔。
その後ろに。
二人。
立っていた。
「…………」
奎星が固まる。
日向。
そして。
澪。
二人とも顔色はまだ少し悪い。
けれど、自分の足で立っている。
目も。
開いている。
「……奎星」
日向が言った。
「蓮根君」
澪も小さく手を上げる。
椅子が、がたん、と大きな音を立てた。
奎星が勢いよく立ち上がったせいだった。
「お前ら!!」
走る。
「ちょ――」
日向が何か言うより先に、奎星は二人まとめて抱きしめた。
「うおっ!?」
「ちょ、蓮根君!?」
右腕に日向。
左腕に澪。
完全に、二人まとめて。
「よかったぁ……!」
日向の顔が一瞬止まる。
澪も驚いたまま固まった。
奎星の声は、本気だった。
「マジで……起きねえから……」
腕の力が少し強くなる。
日向の表情から、冗談を言いかけていた気配が消えた。
「……悪かった」
「お前が謝ることじゃねえだろ」
「じゃあ離せ、苦しい」
「もうちょい」
「何で!?」
澪が奎星の腕の中で苦笑した。
「私は結構痛いんだけど」
「ごめん!」
奎星が慌てて離れる。
日向も肩を回した。
「俺には謝らねえの?」
「お前は頑丈だから」
「扱い違くね?」
「日向だし」
「理由になってねえ!」
そのやり取りを見て、御影の肩からほんの僅かに力が抜けた。
九重院も静かに息を吐く。
スズメは何も言わなかったが、目を覚ましている二人を見たあと、ようやく安心したように小さく息をついた。
奎星は改めて二人の顔を見る。
「マジで大丈夫?」
「俺は平気」
日向が答える。
澪も頷いた。
「少し頭重いけど。それくらい」
「どうやって起こしたの?」
奎星の視線が真壁へ向く。
「俺、自分で無理やり目ぇ覚ましたけど……二人はずっと起きなくて」
その言葉に、スズメの眉がぴくりと動いた。
奎星は気づかないふりをした。
真壁は少しだけ困ったように笑う。
「レジリメンス」
「……何それ」
「他人の精神へ干渉し、思考や記憶へ触れる術だ」
「え、怖」
「その反応は正しいよ」
真壁は肩を竦める。
「役人としては使うべき術ではない。許可なく他人の精神へ踏み込むなんて、本来なら褒められたものじゃないからね」
そこで日向と澪を見る。
「ただ、君の話を聞いて、直接目を覚まさせるしかないと思ってな」
「中に入ったの?」
「正確には、夢の中へ私の存在を押し込んだ。二人とも、自分が幻覚を見ていると認識できていなかったからね。外から声を掛けても意味がなかった」
奎星の目が丸くなる。
「じゃあ真壁さんが『目ぇ覚ませ!』って?」
「私はもう少し丁寧に言ったよ」
「そこ丁寧なんだ」
「役人だからな」
「精神勝手に入ったのに?」
「痛いところを突くなあ」
真壁が苦笑する。
日向は椅子を引いて座り、澪もその隣へ腰を下ろした。
奎星も座り直そうとして。
途中で止まった。
日向を見る。
「なあ」
「何だよ」
「どんな夢見てた?」
「…………」
日向の肩がほんの少し動いた。
奎星の目が細くなる。
「何?」
「別に」
「今、何かあった」
「ねえよ」
「顔赤くね?」
「赤くねえ!」
奎星がさらに身を乗り出す。
「何見てた?」
日向が答えるより先に、真壁が口を挟んだ。
「それは個人情報だから話せないな」
「真壁さん全部見たの!?」
「必要な範囲だけだ」
「教えてよ!」
「駄目」
「ちょっとだけ!」
「役人だからな」
「そこだけ急にちゃんとしてる!」
真壁は笑っている。
奎星は諦めきれない顔で日向を見た。
日向が目を逸らす。
右。
奎星も右へ動く。
左。
奎星も左。
「…………」
「…………」
「どうせ楓だろ」
日向の顔が、一瞬で真っ赤になった。
「違えよ!!」
「当たりじゃん!」
「違うっつってんだろ!」
「今の顔で無理あるって!」
「うるせえ!」
日向が立ち上がった。
奎星も笑いながら逃げる。
机を挟んで右。
左。
「何だよ、楓と何してたんだよ!」
「言うか!」
「結婚してた?」
「してねえ!!」
「じゃ付き合ってた?」
「だから個人情報だ!!」
「真壁さんのパクんな!」
ついに日向が机を回り込んだ。
奎星の襟を掴む。
「お前だって!!」
「何だよ!」
「どうせ烏丸先生だろうが!!」
「…………」
今度は。
奎星が止まった。
会議室が。
止まった。
日向も、言ってから気づいた。
そこに。
本人がいる。
「…………」
スズメがゆっくり瞬きをした。
御影の眉が動く。
九重院も一度だけ目を瞬かせる。
澪は何も言わずに奎星を見る。
真壁だけが「ああ」とでも言いたげな顔をしていた。
そして。
奎星の耳が。
みるみる赤くなった。
「……何で私なのですか?」
スズメが訊いた。
声は平静だった。
平静に聞こえた。
少なくとも。
本人はそうしようとしていた。
「違う違う違う違う!」
奎星が日向の手を振りほどく。
「こいつ適当に言ってるだけだから!」
日向の目が細くなる。
「その慌て方何だよ」
「慌ててねえ!」
「めっちゃ慌ててんじゃん!」
「違うって! 俺はばあちゃんとか! 父さん母さんとか! 東京の家とか! 学校が家の近くにあったりとか! そういう夢だから!」
「烏丸先生はいなかったのか?」
「…………」
奎星が止まった。
スズメの視線が来る。
逃げ場がない。
「……いたけど」
日向の顔がにやりと歪んだ。
「いたんじゃねえか!」
「いただけだよ!!」
「何してた?」
「何もしてねえ!!」
「本当に?」
「本当だよ!!」
幻覚の中。
――俺、スズメちゃんのこと好きだよ。
一瞬で思い出した。
顔がさらに熱くなる。
まずい。
絶対に言えない。
少なくとも。
今ここでは。
「何です、その顔」
スズメが怪訝そうに見る。
「何でもない!」
「蓮根君」
「何でもないから!」
「まだ何も訊いていません」
「じゃ訊かないで!」
日向が噴き出した。
「絶対何かあっただろ!」
「ねえよ!」
「顔赤いぞ!」
「赤くねえ!」
「さっき俺に言ったやつ!」
「俺はばあちゃんもいたし!」
日向の笑みが深くなる。
「『も』って言った!」
「…………あ」
一拍。
「ほら!」
「うるせえええ!!」
奎星が日向へ飛びかかった。
今度は逆だった。
「お前も楓いただろ!」
「いねえ!」
「嘘つけ!」
「個人情報!」
「便利に使うなそれ!」
二人がその場でもみくちゃになる。
スズメはしばらく固まっていた。
自分が。
奎星の《見たいもの》の中にいた。
それだけなら、友人たちもいたと言っていた。
家族も。
八重子も。
だから特別な意味があるとは限らない。
ないのだが。
昨夜。
観測塔。
花火。
抱きしめられたこと。
一緒に踊ったこと。
同じ星を交換したこと。
そうしたものが、一瞬にして頭へ浮かんできてしまう。
「…………」
スズメは無言で視線を逸らした。
耳が少しだけ熱い。
澪だけが、それに気づいた。
何も言わない。
ただ、ほんの僅かに口元を緩めた。
「お前離せ!」
「先にお前が離せ!」
「髪引っ張んな!」
「襟持ってんのお前だろ!」
「蓮根君、朝比奈。会議室」
澪が呆れた声を出した。
聞いていない。
「楓と何してた!」
「烏丸先生と何してた!」
「何もしてねえって!」
「その慌て方で!?」
「お前だって言わねえだろ!」
「俺は烏丸先生の夢なんか見てねえ!」
「当たり前だろ!!」
奎星が日向の肩を押す。
「じゃあ楓だろ!」
「違う!」
「絶対そう!」
「お前こそ烏丸先生!」
「違う!」
「じゃ何で赤いんだよ!」
「お前もだよ!!」
「私は関係ありません!」
とうとうスズメまで声を上げた。
奎星が振り返る。
「そう! スズメちゃん関係ない!」
「いや関係あるだろ、お前の夢にいたんだから!」
「日向ぁ!!」
重かったはずの会議室に、とうとう真壁の笑い声が漏れた。
九重院は二人を眺め、スズメは顔を赤くしたまま額へ手を当てる。
御影だけは。
眉間へ深い皺を寄せていた。
「だから楓だろ!」
「お前こそ烏丸先生だろ!」
「違うっつってんだろ!」
「俺だって違うわ!」
「顔!!」
「お前もだろ!!」
御影が。
小さく。
「……ん゛ん」
咳払いをした。
「…………」
「…………」
奎星と日向の動きが、ぴたりと止まった。
御影は二人を見ていた。
怖い。
ものすごく。
怖い。
「座れ」
「はい」
「はい」
同時だった。
二人は何事もなかったかのように椅子へ座った。
スズメが小さく息を吐く。
真壁はまだ肩を震わせている。
九重院はしばらく二人を見たあと、静かに資料を閉じた。
「一旦、情報を整理しましょう」
誰も逆らわない。
「今日分かったことは、これから教職員と魔法省で共有します。三門巡りの試練空間についても、すべての術式を停止したうえで調査します」
「はい」
「神代冥司についても、現時点では軽率に生徒たちへ広めるべきではありません」
奎星が神代の資料を見る。
「分かってる」
「そして皆さんは、一度休んでください」
「…………」
「…………」
奎星と日向が同時に九重院を見る。
「寝ていいの?」
奎星が訊いた。
「寝なさい」
「校長先生公認?」
「公認です」
日向が笑った。
「よかったな、お前の得意分野じゃん」
「お前も寝てただろ、さっきまで!」
「俺は不可抗力!」
「俺だって!」
「お前は自分に魔法撃って起きたらしいじゃん!」
「それ今言うなよ!」
「蓮根君」
スズメの声が低くなる。
「……はい」
「その件については、後で改めてお話があります」
「寝ていいって言ったじゃん!」
「九重院校長は、です」
「先生同士で連携してよ!」
真壁がとうとう声を上げて笑った。
澪も口元を押さえている。
日向は完全にいつもの顔へ戻っていた。
神代冥司。
黒曜の環。
百年以上前の蓮根清弦。
神代榊。
霊脈。
そして。
《蓮根家め》。
分からないことは、まだあまりにも多い。
これまで別々に見えていた事件が、少しずつ一つの方向へ繋がり始めている。
その先に何があるのか。
まだ誰にも分からない。
けれど。
少なくとも今。
日向は隣にいる。
澪も目を覚ましている。
それだけは。
確かだった。
*
会議が終わり、奎星たちが教員会議室を出た頃には、校内はすっかり静まり返っていた。
日向は真壁と共にもう一度医務室へ戻り、澪も白峰の教師に連れられていく。九重院と御影はそのまま残り、今後の対応について話すらしい。
奎星は男子寮へ戻るため、長い回廊を一人で歩き始めた。
その後ろから。
「蓮根君」
「ん?」
振り返る。
スズメだった。
「寮へ戻るのでしょう?」
「うん」
「途中まで一緒に行きます」
「何で?」
「あなたがまたどこかへ寄り道しないようにです」
「しないよ!」
「今日だけで十分信用を失っています」
「自分に撃ったやつ?」
「それ以外に何があるのですか」
二人は並んで歩き出した。
窓の外には、途中まで飾られたままの星灯籠が見える。
本来なら。
今頃も祭りは続いていたはずだった。
騒いで。
笑って。
屋台を回って。
三門巡りの結果で盛り上がっていたはずだった。
それが、ほんの数時間で。
全部変わった。
奎星はポケットへ手を入れる。
指先へ銀色の星が触れた。
昨夜、スズメからもらったもの。
幻覚の中で。
自分を本物へ戻してくれたもの。
隣を見る。
本物のスズメが歩いている。
「…………」
さっきの日向の言葉を思い出す。
――どうせ烏丸先生だろうが!!
「…………」
顔がまた熱くなった。
スズメが横を見る。
「どうしました?」
「何でもない!」
「そうですか」
「…………」
数歩。
歩く。
このまま別れたら。
何となく。
負けた気がした。
誰にかは分からない。
奎星は男子寮へ続く廊下の角で立ち止まると、スズメへ向き直った。
「あと!」
「はい?」
「別にスズメちゃんの夢なんか見てねえからな!」
「…………」
スズメは数秒、奎星を見た。
それから。
ものすごく適当に。
「はいはい」
「はいは一回!」