マホウトコロ   作:西野圭吾

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第5話 2年2組

 

奎星がマホウトコロへやって来てから、二週間が過ぎた。

 

たった二週間、と言ってしまえばそれまでだ。けれど、彼の十七年間を知る者が見れば、その二週間は十分に奇跡と呼べる長さだった。

 

なにしろ、蓮根奎星の生活は、驚くほど規則正しくなっていたのである。

 

朝七時。

 

烏丸スズメが、奎星の部屋の扉を開ける。

 

最初の三日ほどは、毎朝きっちり鍵が掛かっていたため、スズメは「アロホモラ」で開錠していた。四日目、奎星は「毎朝勝手に入ってくる教師からプライバシーを守る」という崇高な理念のもと、扉の前へ座布団を六枚積み上げた。

 

翌朝、スズメは無言で座布団を浮かせ、そのまま部屋へ入ってきた。

 

五日目には机を置いた。机も浮いた。

 

六日目には机の上へ座布団を載せ、その上に重たい教科書を積み上げた。もちろん、それも全部浮いた。

 

布団の中からその光景を見ていた奎星は、寝起きの掠れた声で抗議した。

 

「教師が生徒の部屋に毎朝魔法で侵入していいのかよ……」

 

スズメは浮かせた机を部屋の隅へ移動させながら、眉一つ動かさなかった。

 

「教師が六日連続で生徒を起こしに来なければならない状況については、どう思いますか?」

 

「……先生って大変だな」

 

「原因はあなたです」

 

七日目から、奎星は鍵を掛けなくなった。

 

なお、八日目にはスズメが扉を開けるより先に起きていた。本人はそれを認めず、「たまたま喉が渇いて目が覚めただけ」と言い張ったが、九日目には六時五十八分、十日目には六時五十三分に起きていた。

 

そして十一日目。

 

スズメが朝七時ちょうどに部屋へ入ると、奎星はすでに制服へ着替え、顔も洗い終え、丸机の前で『日本魔法史・下級課程第三学年』を読んでいた。

 

スズメは入口で五秒ほど黙った。

 

「……何?」

 

奎星が不審そうに尋ねる。

 

「いえ。部屋を間違えたかと思いました」

 

「失礼すぎるだろ」

 

「蓮根君が自主的に六時台へ起床している可能性より、私が部屋を間違えた可能性のほうが高いと判断しました」

 

「俺への評価、どうなってんの?」

 

「入学初日の印象が強すぎます」

 

十二日目には、とうとう奎星のほうが、朝食を持ってきた天ぷらへ声をかけた。

 

「遅いぞ、天ぷら。俺、七時から腹減ってんだけど」

 

「イマ、ロクジゴジュウハップン」

 

「…………」

 

小妖にも時計が読めることを、奎星が初めて知った朝だった。

 

生活だけではない。

 

勉強も進んでいた。

 

最初は七歳児用の教科書を見て、「十七歳の尊厳が死ぬ」と嘆いていた奎星だったが、三日目には下級課程一年の魔法史を読み終え、五日目には二年生、七日目には三年生の内容へ進んだ。

 

ただし、算術や魔法社会倫理には露骨に食いつきが悪かった。

 

「魔法界で物を買うときも消費税ある?」

 

「あります」

 

「夢ねえな」

 

「納税は夢とは無関係です」

 

「じゃあ、この頁は飛ばして古代魔法やろうぜ」

 

「駄目です」

 

「なんでだよ。古代魔法のほうが絶対面白いじゃん」

 

「あなたが興味のある分野だけ学んで、試験に合格できると思いますか?」

 

「思う」

 

「思わないでください」

 

歴史だけは異様に速かった。

 

平安魔法史から鎌倉期の呪術統制へ飛び、そこから江戸時代の秘匿社会成立へ移る。気になった言葉があれば授業の流れなど無視して質問し、スズメが答え終わる前に次の疑問を口にした。

 

「これ、一般史だとただの火事ってことになってるけど、本当に?」

 

「記録局の史料では魔法災害とされています」

 

「誰がやったの?」

 

「不明です」

 

「闇の魔法使い?」

 

「可能性はあります」

 

「その犯人、古代魔術を使ってたりしない?」

 

「どうして何でも古代魔術へ繋げるのですか」

 

「好きだから」

 

あまりにも迷いなく言われたので、スズメは返事に一瞬詰まった。

 

魔法訓練のほうも、日に日に課題が難しくなっていった。

 

最初は一枚の羽根を浮かせるだけだった。それが五枚になり、十枚になり、やがて重さの違う物体を同時に操るようになった。さらに、動いている対象へ呪文を当てる訓練まで加わった。

 

スズメが投げた木球を、空中で止める。

 

最初は壁に激突させた。

 

二度目はスズメの頭上を通過して、背後の棚を壊した。

 

「ごめん」

 

「謝罪は結構です。次は成功させてください」

 

「棚、弁償したほうがいい?」

 

「あなたが直せば問題ありません」

 

「教育って、物を壊すところから始まるんだな」

 

「始まりません。あなたが壊しただけです」

 

三度目。

 

木球はスズメの鼻先二十センチで止まった。

 

「どう?」

 

「近すぎます」

 

「止まったじゃん」

 

「私の鼻を基準に訓練しないでください」

 

五度目には一メートル手前で止まり、十度目には投げられた瞬間に必要な魔力量を合わせられるようになっていた。

 

召喚呪文では、とうとうスズメが廊下の曲がり角に物を置くようになった。

 

奎星は見えない位置にある教科書を、壁へぶつけずに手元へ呼び寄せる。

 

「アクシオ!」

 

角の向こうから本が飛び出し、綺麗な弧を描いて奎星の掌へ収まった。

 

「よし!」

 

「次は三冊です」

 

「余韻くらい味わわせてよ!」

 

「試験では、成功した直後に次の課題が始まります」

 

「試験ってそんなに人の心がないの?」

 

「ありません」

 

修復呪文では、割れた湯呑みを直した。皿を直し、花瓶を直し、十日目にはスズメが粉々になった急須を持ってきた。

 

奎星は急須とスズメの顔を交互に見た。

 

「これ、割ったの誰?」

 

「私です」

 

「わざわざ!?」

 

「教材です」

 

「先生、最近俺のためなら物を壊すことに躊躇なくなってない?」

 

「あなたが直すので問題ありません」

 

「教育って怖いな」

 

「その台詞は、壊した本人が言うものではありません」

 

発光呪文では、一つの杖先で光量を自由に調整できるようになった。

 

夜、一人で教科書を読むときには、ランプを使わなくなった。それを知ったスズメに「寝る時間になったら消してください」と注意されたが、翌朝、教科書の上で寝落ちしている奎星の横では、ルーモスだけが律儀に光り続けていた。

 

「……消していませんね」

 

「寝たら不可抗力だろ……」

 

「魔法は不可抗力を考慮してくれません」

 

「じゃあ、寝る前に消えるように命令しといてよ」

 

「それができるなら、あなたを起こす必要もありません」

 

十二日目からは、感情を乱した状態での制御訓練が始まった。

 

「今から私が、あなたの集中を乱します」

 

「もう結構得意じゃん」

 

「何ですか?」

 

「なんでもないです」

 

スズメはわざと質問を挟み、急に別の指示を出し、奎星が集中している最中に机の位置を変えた。時には天ぷらまで訓練へ参加した。

 

奎星が五つの木球を浮かせている最中、小妖が横から煎餅を見せる。

 

「レンコン、タベル?」

 

「今、無理!」

 

「オイシイ」

 

「あとで!」

 

「ノリツキ」

 

「……食う!」

 

木球が一斉に落ちた。

 

スズメは淡々と記録板へ書き込む。

 

「集中力、食欲に敗北」

 

「今のは卑怯だろ!」

 

「実戦で敵が海苔煎餅を出さない保証はありません」

 

「そんな敵がいたら仲良くなるよ!」

 

「敵です」

 

「でも海苔煎餅をくれるんだぞ?」

 

「あなたは敵に餌付けされるつもりですか」

 

「美味しいものをくれるなら、話くらい聞く」

 

「その考え方は危険です」

 

二週間。

 

笑って、失敗して、怒られて、また試して。

 

気がつけば、奎星の淡かった魔法衣は、入学初日よりはっきりと色を深めていた。

 

まだ上級生たちの深い紅には遠い。それでも、薄桃色だった布地には、若い桜のような色が宿っている。

 

そして十四日目の朝。

 

スズメは、いつもの教科書を持ってこなかった。

 

代わりに、奎星の前へ一枚の紙を置いた。

 

「今日は試験です」

 

奎星は箸を止めた。

 

「……試験?」

 

「隔離措置を段階的に解除し、通常授業へ参加できるか判断するための試験です」

 

数秒。

 

奎星の口が開いた。

 

「今日!?」

 

「はい」

 

「聞いてない!」

 

「昨日言えば眠れなかったでしょう」

 

「いや、寝るけど!」

 

「なら同じですね」

 

「違うだろ!」

 

だが、その目はもう完全に覚めていた。

 

試験は、二週間前に最初の魔力測定を行った建物で行われた。

 

あの日と同じ灰色の壁。同じ高い天井。ただし、中央にあった巨大な水晶はもうない。奎星が壊したからである。

 

代わりに今日は、広い床の上へ大小さまざまな標的や台が設置されていた。長机の向こうには九重院紫苑。そして御影玄一郎が座っている。

 

御影は相変わらず、そこにいるだけで周囲の気温を二度ほど下げそうな顔をしていた。

 

奎星は室内を見回した。

 

「あれ?」

 

「どうしました?」

 

九重院が穏やかに尋ねる。

 

「おじいちゃんは?」

 

「薬師寺先生ですか?」

 

「そう」

 

九重院はにこやかに答えた。

 

「本日は通院です」

 

奎星の表情が少し曇る。

 

「大丈夫なんすか?」

 

「定期的なものですので、ご心配なく」

 

「ああ……お大事にって伝えといてください」

 

「伝えておきましょう」

 

隣で御影が口を開いた。

 

「百を超えた老人に『お大事に』と言っても、本人は『まだ若い』と怒るぞ」

 

奎星が御影を見る。

 

「御影先生、そういうこと言うんですね」

 

「どういう意味だ」

 

「いや、もっと『黙れ』とかしか言わない人かと」

 

「黙れ」

 

「やっぱり!」

 

スズメが溜息をつく。

 

「緊張感を持ってください」

 

その言葉に、奎星の笑顔が少しだけ固くなった。

 

緊張していないわけではない。

 

むしろ、かなりしていた。

 

今日成功すれば、外へ出られる。同年代の生徒と授業を受けられる。大食堂へも行ける。友達も作れるかもしれない。

 

だからこそ、失敗したくなかった。

 

スズメは隣に立つ奎星の横顔を見た。いつもなら試験前ですら冗談を言い続ける少年が、今日は杖を握る指を何度も開いては閉じている。

 

「蓮根君」

 

「ん?」

 

「力が入りすぎています」

 

奎星が自分の右手を見る。

 

「……あ」

 

「いつも通りで構いません」

 

「でも今日失敗したら、またあの部屋だろ?」

 

「失敗しても、それだけで全てが無駄になるわけではありません」

 

スズメは落ち着いた声で続けた。

 

「二週間前、あなたは羽根を天井へ打ち込みました。ですが今は、十の物体を同時に制御できます。最初にできなかったからといって、今日までの成長が消えることはありません」

 

奎星は黙って彼女を見る。

 

「あなたが二週間やってきたことを、そのまま見せればいいのです」

 

ほんの少し、肩の力が抜けた。

 

「珍しく優しいじゃん」

 

「珍しくは余計です」

 

「スズメちゃん、緊張してる俺に惚れ――」

 

「失格にしますよ」

 

「頑張ります」

 

切り替えが早い。

 

九重院の口元に、小さな笑みが浮かんだ。

 

「では、始めましょう」

 

最初の課題は浮遊だった。

 

重さの異なる十個の物体を、それぞれ指定された高さで一分間静止させる。二週間前なら、一個の羽根を天井へ打ち込んでいた魔法だ。

 

奎星は標的を見る。

 

呼吸を整える。

 

焦るな。

 

以前は蛇口から流れる水を絞るように考えていた。けれど今では、もうそのイメージすら必要なかった。

 

十本。

 

それぞれ太さの違う糸。

 

「ウィンガーディアム・レビオーサ」

 

木球、羽根、硝子瓶、鉄の輪、本、陶器の杯、石、布袋、紙風船、小さな木箱。

 

十個の物体が、ふわりと床を離れた。

 

御影の視線が鋭くなる。

 

九重院は時計を見る。

 

三十秒。

 

奎星の額に薄い汗が浮かぶ。

 

四十五秒。

 

硝子瓶が少し傾いた。

 

奎星の指が僅かに動き、すぐに戻る。

 

一分。

 

「結構です」

 

奎星が杖を下ろす。

 

十個の物体は、一つも音を立てず元の場所へ戻った。

 

「よし……!」

 

小さく拳を握る。

 

次は召喚。

 

障害物の向こうに置かれた三つの物を、順番に呼び寄せる。

 

成功。

 

修復呪文。

 

粉々になった器。

 

成功。

 

開錠呪文。

 

通常の錠前。

 

成功。

 

二重構造。

 

一度失敗。

 

奎星の顔が強張る。

 

「蓮根君」

 

スズメの声がした。

 

奎星が見ると、彼女は自分の胸元で小さく手を上下させていた。

 

呼吸。

 

奎星は息を吐いた。

 

二度目。

 

「アロホモラ」

 

かちり。

 

錠が開いた。

 

最後の課題は、突発的な魔力制御だった。

 

御影が立ち上がる。

 

奎星の顔が引きつった。

 

「先生がやんの?」

 

「俺がやる」

 

「なんか怖いんだけど」

 

「安心しろ」

 

御影は杖を抜いた。

 

「死なせはしない」

 

「安心できる要素、そこ!?」

 

次の瞬間、御影の杖が動いた。

 

三つの木球が、別々の方向から奎星へ飛ぶ。

 

「うわっ!」

 

奎星は反射的に杖を振り上げた。

 

二つが空中で止まる。

 

一つ。

 

右側。

 

遅れた。

 

木球が頬へ向かってくる。

 

二週間前なら、焦っていた。魔力を出しすぎ、対象を吹き飛ばしていた。

 

だが、スズメの声が脳裏に浮かんだ。

 

必要な量だけ。

 

「止まれ!」

 

杖先が動く。

 

木球は、奎星の右頬から十五センチのところで静止した。

 

部屋が静かになる。

 

奎星は目を見開き、目の前の球を見る。

 

「…………止まった」

 

御影が杖を下げる。

 

九重院は手元の帳面へ何かを書き込んだ。

 

スズメは、その横顔を見つめている。

 

二週間前、同じ少年が羽根一枚すら止められなかった。

 

「試験を終了します」

 

九重院が言った。

 

奎星はすぐに振り向いた。

 

「どう!?」

 

「少し待ちなさい」

 

「今教えてよ!」

 

「校長先生を急かさないでください」

 

「スズメちゃん、絶対分かってるだろ!」

 

「烏丸先生です」

 

御影と九重院が小声で言葉を交わす。

 

奎星には聞こえない。

 

それが余計に焦れた。

 

「長くない?」

 

「二十秒です」

 

「体感二十分なんだけど」

 

「黙って待ってください」

 

そして、九重院が顔を上げた。

 

いつもの、穏やかな微笑みだった。

 

「蓮根奎星さん」

 

「はい」

 

「本日をもって、日中の隔離措置を解除します」

 

一秒。

 

意味が頭へ入るまで、一秒かかった。

 

二秒目。

 

奎星の顔が弾けた。

 

「よっしゃあああああああ!!」

 

声が建物中へ響き渡る。

 

両腕を上げ、その場で飛び跳ねる。

 

「外! 学校! 大食堂!」

 

「順番がおかしいですよ」

 

「友達!」

 

「そこが先でしょう」

 

「寮!」

 

「寮については経過を見てからです」

 

「なんで!」

 

「夜間の魔力変動がまだ完全には安定していません」

 

「半分解除じゃん!」

 

「日中だけでも十分な進歩です」

 

そう言いながら、スズメの頬がわずかに緩んでいた。

 

奎星はそれに気づいた。

 

「スズメちゃん、笑ってる?」

 

「笑っていません」

 

「いや、笑ってる!」

 

「うるさいです」

 

だが今度は、否定する声にもそれほど力がなかった。

 

二週間。

 

朝起こし、朝食を食べ、教科書を読み、質問を受け、魔法を教え、失敗を見て、成功を見た。

 

初日に水晶を破壊した少年が、ようやく一人で魔力を止められるようになった。

 

教師になって二年目。

 

初めて最初から面倒を見た、あまりにも特殊な生徒だった。

 

嬉しくないはずがなかった。

 

「よく頑張りましたね」

 

スズメが言った。

 

奎星の動きが止まる。

 

「…………」

 

「何です?」

 

「今、普通に褒めた?」

 

スズメの表情が固まった。

 

「……撤回します」

 

「遅い! 聞いた! 校長先生、聞きました!?」

 

「ええ、聞きましたよ」

 

九重院がにこやかに答える。

 

御影も腕を組んだまま言った。

 

「俺も聞いた」

 

「証人二人!」

 

「御影先生まで余計なことを言わないでください!」

 

珍しく慌てるスズメを見て、奎星は腹を抱えて笑った。

 

その日の朝。

 

奎星は初めて、マホウトコロの本校舎へ「生徒として」入った。

 

二週間前にも歩いた場所だった。

 

だが、景色はまるで違って見える。

 

淡い羊脂玉の柱が連なる回廊。磨かれた床には朝の光が映り込み、天井近くでは折り鶴のような伝書式が何羽も飛び交っている。壁際に並ぶ掛け軸の人物が、通り過ぎる生徒へ欠伸をしながら挨拶をしていた。

 

「おはよ」

 

掛け軸の老人に声をかけられ、奎星は思わず振り返った。

 

「喋った!」

 

「肖像画ですから」

 

「こっちにもあるんだ」

 

「あります」

 

「おはようございます!」

 

奎星が元気よく返すと、掛け軸の老人は満足そうに頷いた。

 

「あいさつのできる若者はえらい」

 

「ありがとうございます」

 

「烏丸は愛想がないからの」

 

スズメが足を止める。

 

「聞こえていますよ、紀伊先生」

 

「ほっほっほ」

 

「先生、知り合い多いな」

 

「卒業生ですから」

 

廊下には生徒がいる。

 

これまで窓越しに眺めるだけだった同年代の少年少女たちが、今は自分のすぐ隣を歩いていく。

 

すれ違う生徒の何人かが奎星を見る。

 

知らない顔。しかも上級生らしい年齢なのに、制服の色はまだ薄い。

 

自然と目立った。

 

小声も聞こえる。

 

「編入生かな」

 

「あの人じゃない?」

 

「ほら、急に来たっていう……」

 

奎星は急に、自分の歩き方が分からなくなった。

 

右手と右足が同時に出そうになる。

 

「……なあ、スズメちゃん」

 

「何です?」

 

「俺、変じゃない?」

 

「普段から多少」

 

「服とか!」

 

「制服です」

 

「髪」

 

「朝、直したでしょう」

 

「顔」

 

「今さら直せません」

 

「そういうことじゃなくて!」

 

スズメは横目で彼を見る。

 

先ほど御影から木球を飛ばされたときより、緊張しているように見えた。

 

「……あなたでも、人前で緊張するのですね」

 

「するだろ、普通!」

 

「初対面の教師を食べようとした人が?」

 

「あれは夜中だから!」

 

「時間帯の問題でしょうか」

 

二人は階段を上がる。

 

上級課程第二学年。

 

二年二組。

 

その札が掛かった教室の前で、奎星の足が止まった。

 

中から声が聞こえる。

 

大勢の笑い声。

 

机を動かす音。

 

誰かが叫び、誰かが返す。

 

普通の教室の音だった。

 

だからこそ、胸が妙にざわついた。

 

奎星は髪を触り、制服の襟を直し、杖の位置を確認する。それから、もう一度髪を触った。

 

「蓮根君」

 

「ちょっと待って」

 

「もう始業時刻です」

 

「心の始業がまだ」

 

「何ですか、それは」

 

「スズメちゃん」

 

「烏丸先生です」

 

奎星は彼女を見る。

 

声を少し小さくした。

 

「一緒に入ってよ」

 

スズメが瞬きをした。

 

思いもしなかった言葉だった。

 

「私がですか?」

 

「最初だけ」

 

「私は二年二組の担任ではありません」

 

「後ろに立っててくれりゃいいから」

 

「……」

 

「頼むって」

 

奎星は笑おうとしていた。ただ、いつものふざけた笑い方には少し届いていない。

 

スズメはそれを見た。

 

そして、ほんのわずかに表情を和らげた。

 

「あなたなら大丈夫です」

 

奎星が黙る。

 

「この二週間、何度失敗しても、また杖を振ったでしょう」

 

「……うん」

 

「教室の扉を開けるほうが、魔法より簡単ですよ」

 

「いや、人間関係をなめすぎだろ」

 

「では、これも訓練だと思ってください」

 

奎星は苦笑した。

 

「失敗したら?」

 

「修復呪文でも、人間関係は直せません」

 

「怖いこと言うなよ!」

 

スズメは小さく笑った。

 

「でも、あなたなら大丈夫です」

 

今度は冗談ではなかった。

 

奎星はしばらくスズメの顔を見ていた。それから息を吐く。

 

「……行ってくる」

 

「はい」

 

「逃げたら?」

 

「後ろから浮遊呪文で教室へ入れます」

 

「絶対逃げねえ」

 

奎星が扉へ手を伸ばした。

 

教室の中では、一人の女性教師が出席簿を閉じたところだった。

 

年齢は三十代後半ほどに見える。柔らかく波打つ長い黒髪を後ろでゆるくまとめ、穏やかな目元には、いつも笑っているような小さな皺がある。桜鼠色の着物の上に教員用の長衣を羽織り、腰には細い杖を差していた。

 

どこか、学校の先生というより、近所で会えば必ずお菓子をくれそうな雰囲気の女性だった。

 

土御門芽衣子(つちみかど めいこ)。

 

上級課程二年二組の担任であり、生徒たちからは密かに「二年二組のお母さん」と呼ばれている。

 

彼女が教室を見回した。

 

「はーい、皆さん。今日は一人、新しいお友達を紹介しますよ」

 

教室がざわつく。

 

「お友達って、小学生じゃん」

 

「土御門先生、全員子供だと思ってるから」

 

「静かにしなさい。私から見れば、皆さんまだまだ子供です」

 

「ほら出た」

 

笑いが起こる。

 

土御門が扉を見る。

 

「蓮根君、どうぞ」

 

奎星は教室へ入った。

 

三十人近い視線が、一斉に集まる。

 

「…………」

 

頭が真っ白になった。

 

用意してきた挨拶が飛んだ。

 

東京から来ました。

 

十七歳です。

 

魔法覚醒が遅くて。

 

よろしくお願いします。

 

そんなことを考えていたはずなのに、全部消えた。

 

黒板の前まで歩き、振り返る。

 

教室。

 

顔。

 

顔。

 

顔。

 

「……蓮根奎星です」

 

声が思ったより小さい。

 

奎星は咳払いをした。

 

「えっと……東京から来ました」

 

誰かが頷く。

 

「十七歳です」

 

知ってる、とどこかで小声がした。

 

奎星は少し笑った。

 

「魔法使えるようになったの、二週間前です」

 

教室がざわめいた。

 

「二週間!?」

 

誰かが声を上げる。

 

奎星は頭を掻いた。

 

「だから、皆より十一年くらい初心者なんで……なんか爆発したら逃げてください」

 

笑いが起きた。

 

土御門が横から言う。

 

「爆発しないようにしてくださいね」

 

「あ、はい」

 

また笑いが起こる。

 

肩の力が抜けた。

 

奎星は続けた。

 

「勉強とか、たぶん全然追いついてないです。あと魔法社会の常識もほぼ分かんないんで、変なこと言うかもしれないけど……まあ」

 

少しだけ、教室を見回した。

 

「仲良くしてください。よろしくお願いします」

 

頭を下げる。

 

拍手が起こった。

 

思っていたより大きい。

 

奎星が顔を上げると、いくつもの笑顔があった。

 

土御門が優しく微笑む。

 

「よろしくお願いします、蓮根君。空いている席は、窓側の後ろから二番目です」

 

「はい」

 

「分からないことがあったら、何でも訊いてください。先生でも、お友達でも」

 

「はい」

 

「ただし、授業中に分からないからといって寝ないこと」

 

奎星が固まった。

 

「なんで知ってるんですか」

 

「烏丸先生から少し」

 

土御門が扉の外へ目をやる。

 

奎星も見る。

 

スズメがいた。

 

目が合った。

 

「スズメちゃん!」

 

教室がざわつく。

 

スズメの眉がぴくりと動いた。

 

「烏丸先生です」

 

教室中が笑った。

 

奎星の新生活は、そこから始まった。

 

席についた直後、前の席の少女が振り返った。

 

まず目に入ったのは、きちんと整えられた黒髪だった。肩より少し下まで伸びた髪を一つにまとめ、前髪も乱れなく揃えている。切れ長の目は涼やかで、姿勢もよい。制服は深い紅色で、奎星のものより明らかに濃かった。

 

机の上に並んだ教科書まで、角が揃っている。

 

「水無瀬楓(みなせ かえで)です」

 

少女が言った。

 

「よろしく、蓮根君」

 

「お、よろしく」

 

「授業で分からないところがあれば訊いて。二週間前に覚醒したなら、かなり大変でしょう?」

 

「優しい」

 

「普通です」

 

「神だ」

 

「大袈裟」

 

その横から、ぬっと大きな影が現れた。

 

「なあ、蓮根」

 

「うおっ」

 

大きい。

 

とにかく大きい。

 

身長は百八十を軽く超え、肩幅も広い。制服を着ていなければ、高校生というより若手力士に見えなくもない。

 

丸い目と太い眉。

 

ただし、その手には教科書ではなく、何かの包みが握られていた。

 

男は包みを開く。

 

饅頭だった。

 

「お前、東京から来たんだろ」

 

「そうだけど」

 

「東京土産ある?」

 

「自己紹介より先に土産!?」

 

「岩戸岳(いわと がく)」

 

男は饅頭を頬張りながら名乗った。

 

「よろしく」

 

「食いながら!?」

 

「これ、朝飯の残り」

 

「もうホームルーム始まってんぞ」

 

「昼まで腹もたんから」

 

楓が呆れたように振り返る。

 

「岳、朝食でご飯三杯食べてたでしょ」

 

「三杯しか食ってない」

 

「しか?」

 

奎星は一瞬で親近感を覚えた。

 

「お前、好きだわ」

 

「おう」

 

「食の価値観、合いそう」

 

「昼、一緒に食うか?」

 

「食う!」

 

友情の成立が早かった。

 

その隣では、眼鏡の少年が静かに本を閉じた。

 

細身で黒縁の眼鏡をかけ、髪は長すぎず短すぎず、きちんと整えられている。周囲が騒いでいても、一人だけ温度が二度ほど低いような落ち着きがあった。

 

「榊伊織(さかき いおり)」

 

少年は短く名乗った。

 

「よろしく」

 

「よろしく」

 

「一応、忠告しておくけど」

 

「何?」

 

伊織は岩戸を見る。

 

「岳と昼食に行くなら、出遅れると人気のおかずが消える」

 

「そんなに?」

 

「去年、唐揚げの日に上級一年の列が崩壊した」

 

岳が眉を寄せる。

 

「俺のせいじゃねえよ」

 

「君が唐揚げを十三個取った直後だった」

 

「十四」

 

「訂正する部分、そこ?」

 

奎星は笑った。

 

「伊織も一緒に食おうぜ」

 

「僕も?」

 

「いいじゃん」

 

伊織は一瞬だけ考えた。

 

「まあ、いいけど」

 

そのとき。

 

「おーい、楓ー!」

 

教室の反対側から声が飛んできた。

 

明るい。

 

声だけで分かるほど明るい。

 

男子生徒が一人、机と机の間をすり抜けながら近づいてくる。少し明るい茶色がかった髪、人懐っこい目、笑うと見える犬歯。

 

「その人が噂の編入生?」

 

「噂って何だよ」

 

奎星が言う。

 

「二週間ずっと森のほうで隔離されてた人」

 

「言い方!」

 

「違うの?」

 

「合ってるけど!」

 

少年は笑い、奎星の机へ片手をついた。

 

「朝比奈日向(あさひな ひなた)。よろしく、奎星」

 

「いきなり下の名前?」

 

「蓮根って呼ぶと腹減るじゃん」

 

「レンコンじゃなくてハスネだよ」

 

岳が横から頷く。

 

「分かる」

 

「岳と同じにしないで」

 

日向は即座に返した。

 

「お前ら、仲悪い?」

 

「普通」

 

「俺はこいつ苦手」

 

「俺も」

 

同時に言った。

 

楓が溜息をつく。

 

「二人とも毎日一緒にいるじゃない」

 

「楓は日向と昔から仲いいの?」

 

奎星が訊く。

 

日向が楓の肩へ肘を置こうとして、楓に無言で払われた。

 

「下級課程一年からずっと一緒」

 

日向が言う。

 

「腐れ縁」

 

楓が淡々と訂正する。

 

「幼馴染ではないけど、十二年近く同じクラスになることが多かっただけ」

 

「俺たち、運命じゃん」

 

「気持ち悪い」

 

「ひど!」

 

奎星が吹き出す。

 

日向は全く堪えていない。

 

「楓、昔はもっと可愛かったんだよ。七歳の頃とか、俺の後ろについて――」

 

「日向」

 

楓が笑った。

 

笑っている。

 

だが、目だけが笑っていない。

 

「続きを言ったら、あなたの椅子だけ今日一日ずっと五センチ浮かせるわよ」

 

「地味に嫌な嫌がらせ!」

 

「食事中も」

 

「ごめんなさい!」

 

奎星は腹を抱えて笑った。

 

「いいな、このクラス」

 

ぽろりと、口から漏れた。

 

四人が一瞬だけ奎星を見る。

 

奎星は少し気まずくなり、鼻の下を擦った。

 

「いや、なんでもない」

 

楓が柔らかく笑う。

 

「まだホームルームしか始まっていないわよ」

 

岳は最後の饅頭を飲み込んだ。

 

「昼飯を食ったら、もっといいぞ」

 

伊織が眼鏡を押し上げる。

 

「君の場合、学校評価の八割が食事だろう」

 

「九割」

 

「増えた」

 

日向が奎星の肩を叩く。

 

「じゃあ決まりな。今日の昼、五人で食堂行こうぜ」

 

「マジ?」

 

「どうせ一人じゃ食堂の場所、分かんないだろ」

 

「分かんない」

 

「席取りの仕組みも知らない」

 

「知らない」

 

「人気メニューも」

 

「知らない」

 

岳が真剣な顔で割り込んだ。

 

「それは俺が教える」

 

「お前にだけは任せたくない」

 

「食に関しては俺を信じろ」

 

「それ以外は?」

 

岳は少し考えた。

 

「……まあ」

 

「自信なくすなよ!」

 

また笑いが起こる。

 

奎星も笑った。

 

胸の奥にあった硬いものが、するりと解けていく。

 

友達なんて、作ろうと思って作るものだっただろうか。

 

以前の学校では、気がつけば隣にいた。昼飯を食い、ゲームをし、くだらない話をする。それだけだった。

 

二週間、窓の外から見ていた輪の中へ、自分も今、入ろうとしている。

 

「じゃ、昼な」

 

奎星が言う。

 

日向が笑う。

 

「おう」

 

楓が頷く。

 

「大食堂は広いから、迷子にならないでね」

 

「高校二年で迷子にならねえよ」

 

伊織が言った。

 

「この学校、空間拡張されている廊下があるから、普通に迷うよ」

 

「マジ?」

 

岳はすでに次のことを考えている。

 

「今日の昼、なんだろ」

 

「知るかよ!」

 

土御門が教壇から手を叩いた。

 

「はいはい。仲良くなるのは嬉しいですけど、そろそろ朝の連絡を始めますよ」

 

日向たちは自分の席へ戻る。

 

楓も前を向く。

 

奎星は椅子へ深く座った。

 

そして、何気なく廊下を見る。

 

スズメがまだいた。

 

授業が始まるまで、少し離れた場所から教室の中を見ている。

 

奎星と目が合った。

 

奎星は一度、自分の周りを指した。

 

楓。

 

岳。

 

伊織。

 

日向。

 

それから、スズメへ向けて右手の親指を勢いよく立てた。

 

できた。

 

言葉にしなくても、それで十分だった。

 

スズメが一瞬、目を丸くする。

 

やがて、これまで奎星が見た中でもずいぶん柔らかな顔で微笑んだ。

 

そして、少しだけ周囲を確認してから、同じように右手の親指を立て返した。

 

奎星の目が丸くなる。

 

「…………」

 

笑いそうになるのを堪えた。

 

土御門が教壇から見る。

 

「蓮根君、どうしました?」

 

「いや」

 

奎星は前を向く。

 

それでも、口元の笑みは隠せなかった。

 

「なんでもないです」

 

廊下では、スズメがもう歩き出していた。

 

二週間前。

 

鴉の姿で、食べられかけたところから始まった。

 

あの少年が、ようやく自分の足で、誰かの隣へ歩いていった。

 

そのことが、なぜだか少しだけ嬉しかった。

 

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