朝凪島での隔離生活。
そう聞いたとき、烏丸スズメはもっと陰鬱なものを想像していた。
学校から離され、友人たちとも会えず、黒曜の門が現れるかもしれないという不安を抱えながら、狭い宿舎で何日も監視を続ける。少なくとも、楽しい時間になるとは考えていなかった。
しかし、当の蓮根奎星にとって、この隔離生活はむしろ好都合だったらしい。
「コンフリンゴォォォ!!」
青空の下、朝凪島の浜辺に轟音が響き渡った。
奎星の神代榊から放たれた赤い光が、海岸から二十メートルほど離れた巨大な岩へ一直線に飛ぶ。次の瞬間、岩の表面が赤い炎と黒煙に包まれ、砕けた石片が海へ向かって派手に吹き飛んだ。
どごおおおん、と腹に響く爆音が遅れて島へ広がり、沖にいた海鳥たちが一斉に飛び立つ。
「うおおおおお!!」
奎星の目が輝いた。
「やっば!! これやっば!!」
少し離れた場所で記録板を持っていたスズメは、爆風に黒髪を煽られながら目を細めた。
「蓮根君!」
「見た!? 今の見た!?」
「見ています! というより、島中に聞こえています!」
「御影先生、こんな面白いの隠してたのかよ!」
「隠していたのではなく、あなたに全力で撃たせられる場所がなかったのでしょう!」
だが、奎星はほとんど聞いていない。満面の笑みのまま腰を落とし、もう一度神代榊を構えた。
朝凪島は、マホウトコロ本島から離れた小さな島だった。中央には合宿用の二階建て宿舎があり、その周囲に簡素な訓練場と林、そして島の大半を囲む白い砂浜が広がっている。結界も本島とは独立しており、今日はその中でも破壊訓練に使われる南側の浜まで来ていた。
奎星の標的になっている岩もただの岩ではない。訓練用に用意されたもので、どれほど壊しても復元術式によって元へ戻る。
つまり、周囲に人はいない。仲間を巻き込む心配もなければ、校舎を壊す心配もほとんどない。
何より、御影からずっと言われ続けてきた言葉が、今日はない。
――威力を抑えろ。
――必要な分だけ使え。
その制約から一時的に解放された奎星が、どうなるか。
こうなった。
「次!」
「待ってください、今の結果を記録して――」
「ディフィンド!」
「人の話を聞いてください!」
今度は白い光が走った。
爆発ではない。鋭い斬撃が岩を横切り、その表面へ、すぱん、と一直線の亀裂が入る。
数秒遅れて、岩の上半分がずるりと滑った。
どすん、と重い音を立て、巨大な塊が砂浜へ落ちる。
奎星は口を開けたまま岩を見る。
スズメも記録板から顔を上げた。
「…………」
「…………」
奎星がゆっくり振り返る。
「めっちゃ切れた」
「見れば分かります」
「これ、人に撃ったらヤバいな」
「だから人へ撃ってはいけません」
「御影先生、何で教えてくれたんだろ」
「使うべきでない場面を学ぶためでもあります」
「なるほど」
珍しく素直に納得した。
そして、すぐ次へ行く。
「ボンバーダ!」
「もうですか!?」
今度は岩そのものが内側から跳ねるように爆ぜた。
どん、と重い衝撃音が響く。コンフリンゴほど炎は出ないが、その代わり衝撃が強く、岩の中央部が大きく抉れて砂煙が一気に広がった。
「うおっ!」
自分で撃っておきながら、奎星が腕で顔を庇う。
スズメの前には即座に透明な防壁が現れた。
「プロテゴ」
砂粒と小石が防壁へ当たり、ぱらぱらと弾かれて落ちていく。
やがて煙が晴れる。
その向こうに立っていた奎星は、満面の笑みだった。
「楽しい!!」
「でしょうね!」
スズメは呆れ果てた声を上げた。
一学期の頃から、彼はこういう魔法を使いたがっていた。炎、爆発、轟音、派手な光。御影の授業でエクスペリアームスを教えられたときなど、本人を目の前にして「地味」とまで言ったほどだ。
それでも夏休み以降、御影は奎星へ教える術の幅を少しずつ広げてきた。
エクスペリアームス、ステューピファイ、プロテゴ、インカーセラス、デパルソ。そこからさらに、対象を切断するディフィンド、爆発を起こすボンバーダ、より強い爆発と炎を伴うコンフリンゴ、炎を操るインセンディオ、障害物を粉砕するレダクト、水流を生むアグアメンティ。
短期間で覚えた呪文の数だけなら、一学期とは比べものにならない。
ただし、覚えることと、全力で使うことはまったく別だった。
御影の訓練で求められたのは、常に制御だ。コンフリンゴなら対象の表面だけを爆ぜさせ、ボンバーダなら必要な範囲だけを壊す。インセンディオなら炎を広げず、決められた線の内側だけを燃やす。
奎星の魔力量で何も考えずに撃てば、敵を倒すより先に周囲を巻き込む。
だからこそ、これまで本当の意味で《全力》を試す機会はなかった。御影の訓練でも、一度感覚を掴めば急速に安定するところまでは確認されていたが、今朝凪島で奎星がやっているのは、その先だ。
「スズメちゃん!」
「はい?」
「もう一回コンフリンゴいい!?」
「何回撃つつもりなのですか」
「岩なくなるまで!」
「復元式が泣きますよ」
「魔法陣って泣くの?」
「比喩です」
「じゃ大丈夫!」
「そういう意味ではありません!」
奎星は笑いながら次の岩へ向き直った。
今度は、ただ勢いに任せて撃つのではない。
距離。
角度。
岩の向こうが海であること。
そして、スズメが十分後方にいること。
そこまで確認してから、神代榊を振る。
「コンフリンゴ!」
さっきより、さらに強い。
神代榊が一瞬だけ青白く輝き、その直後、赤い閃光が岩へ突き刺さった。
着弾した瞬間、浜辺全体が白く染まる。
轟音とともに巨大な岩の上半分が完全に吹き飛び、砕けた破片が海面へ雨のように降り注いだ。数秒遅れて波が岸へ押し寄せ、奎星の軽装を爆風がばさばさと揺らす。
「…………」
スズメはしばらく、半分になった岩を眺めていた。
それから無言で記録板へ何かを書き込む。
奎星が振り返った。
「何書いた?」
「《蓮根君に大きな岩を与えると喜ぶ》」
「観察日記!?」
「隔離中の記録ですから」
「もっとこう、魔力量とか威力とか!」
スズメはさらに一行書き足した。
「《大きな音でも喜ぶ》」
「俺、犬みたいじゃん!」
スズメの口元が少し緩む。
「否定はしません」
「ひどい!」
奎星は笑いながら近づいてきたが、途中でふと足を止めた。何かを思い出したらしい。
「そうだ」
「何ですか?」
「昨日、冬真先輩起こしたやつ」
その一言で、スズメの表情が少し変わる。
「真壁さんの守護霊ですか?」
「そう!」
奎星の目が、また分かりやすく輝いた。
「狼出したやつ! あれ教えて!」
「嫌な予感しかしません」
「なんで!?」
「先ほどまで岩を爆破していた人が、突然高等魔法を教えてほしいと言い始めましたから」
「守護霊は岩壊さないだろ!」
「そういう問題ではありません」
それでも、奎星はもう完全にやる気だった。
「エクスペクト・パトローナムだろ?」
「よく覚えていましたね」
「そりゃ覚えるよ。あんなでっかい狼出たし」
真壁の守護霊。
銀白色のニホンオオカミ。
冬真へまとわりついていた黒い気を追い払い、最後には黒曜の門まで消した。
奎星は、あの光景を鮮明に覚えている。
「俺も出したい」
「守護霊の魔法は、ただ強い魔力を流せば成功するものではありませんよ」
「じゃ何がいるの?」
「強く、幸福な感情です」
「幸福?」
「一般的には、幸福な記憶を一つ選びます。その出来事を思い出すだけではなく、そのとき自分が感じた喜びや安心まで、もう一度心の中へ戻すのです」
奎星は珍しく神妙な顔で聞いていた。
「それで唱える?」
「はい」
スズメは杖を取り出す。
「まず見本を」
浜辺へ身体を向け、一度静かに目を閉じた。
何を思い出したのか、奎星には分からない。
ただ、ほんの少しだけ。
スズメの表情が柔らかくなった。
「エクスペクト・パトローナム」
杖先から銀色の光が溢れ出した。
最初は細い霧だったものが、空中で羽根の形へ集まっていく。翼が広がり、嘴が生まれ、長い尾羽が光の中から伸びていく。
やがて一羽の鳥が、銀白色の光をまといながら空へ飛び立った。
「おお……!」
奎星が目を見開く。
鴉だった。
大きな銀色の鴉。
守護霊は二人の頭上を一周すると、羽音すら立てず、スズメの肩近くへ舞い降りた。実体はないはずなのに、その姿には生き物らしい知性と温かさが感じられる。
奎星がすぐ隣まで寄ってきた。
「鴉じゃん!」
「見れば分かります」
「スズメちゃんなのに鴉!」
「その話はもう何度目ですか」
「烏丸だから?」
「違います」
「じゃ何で?」
「守護霊の姿は自分で決めるものではありません」
奎星は銀の鴉を覗き込んだ。
鴉もまた、じっと奎星を見返している。
「かっこいいな」
「……ありがとうございます」
「俺、何出るかな」
「やってみなければ分かりません」
やがて鴉は銀色の光へ戻り、潮風の中へ静かに消えていった。
奎星はすぐに浜辺へ立つ。
「幸せな記憶……」
考える。
最初に浮かんだのは、八重子だった。
幼い頃。
夏の日。
祖母の家。
冷たい麦茶。
昼寝。
頭を撫でられたこと。
魔法なんて何も知らなかった頃。
ただ、ばあちゃんがいた。
「これだな」
神代榊を構え、目を閉じる。
八重子の笑い声を思い出す。
――野菜食いな。
――若いんだから平気だよ。
適当で。
よく笑って。
昔から、自分のことを見ていた。
奎星の口元が少しだけ緩む。
「エクスペクト・パトローナム!」
杖先が白く光った。
ほんの少し。
銀の霧が出る。
「お!」
奎星が目を開けた。
その瞬間、霧はふっと消えた。
「…………」
「惜しいですね」
「今出たよな?」
「形になる前ですが」
「もう一回!」
再び目を閉じる。
八重子。
笑っている。
麦茶。
夕方。
自分の頭へ置かれた手。
けれど、その記憶はやがて夏休みの大樹へ繋がってしまった。
死にかけた自分。
青白い鬼火鳥。
八重子。
――そろそろ帰りな。
笑っていた。
――ずっと先にね。
「…………」
奎星の表情から笑みが消え、杖先の光も同時に失われた。
「蓮根君?」
「……駄目だ」
杖を下ろす。
スズメが近づいた。
「どうしました?」
奎星は少し困った顔で笑う。
「ばあちゃん思い出したんだけどさ」
「はい」
「途中で……もういねえこと思い出しちゃった」
笑おうとして。
少し失敗した。
「幸せだったのに、最後悲しくなる」
スズメは何も言わなかった。
すぐに励まそうともせず、悲しまないでくださいと否定することもせず、ただ奎星の隣へ立つ。
しばらく波の音だけが二人の間を通り過ぎた。
やがて、スズメが静かに口を開いた。
「別の記憶にしてみましょうか」
「ばあちゃんじゃ駄目?」
「駄目ではありません」
スズメは海を見る。
「ただ、今の蓮根君にとって、その記憶は幸福だけでは終われないのでしょう」
「……うん」
「過去の一瞬だけにこだわらなくても構いません」
「え?」
奎星が隣を見る。
スズメは少し考えながら続けた。
「守護霊を呼ぶために必要なのは、《写真のように切り取った一場面》だけではありません。あなた自身が強く幸福を感じられるものなら、それでいいのです」
「じゃあ何?」
「今後も続いていくものを、思ってみてはどうですか」
「今後も?」
「はい」
奎星は黙った。
そして海を見る。
これから。
続いていくもの。
最初に浮かんだのは、マホウトコロだった。
東京から遠く離れた南硫黄島。
初めて見た羊脂玉の校舎。
突然入れられた二年二組。
日向。
楓。
岳。
伊織。
喧嘩して、笑って、夜中まで話して、寮で寝て、朝になれば御影に走らされる。
小妖。
天ぷら。
星迎祭。
鬼火鳥。
全部。
これからも続いていく。
そして、その中に。
当然のように、一人いた。
最初の二週間、毎日魔法を教えに来た。
一人で食べるはずだった夕飯を一緒に食べた。
魔法が怖くなったとき、観測塔へ連れていってくれた。
第零書庫。
夏休み。
八咫祭。
水月庵。
花火。
そして、星迎祭の夜。
――私から、離れないでください。
奎星の指先がポケットへ触れた。
銀色の星。
スズメからもらったもの。
「…………」
不思議だった。
八重子のことを思ったときとは違う。
胸の奥が温かい。
寂しくならない。
むしろ、これから先のことが次々と浮かんでくる。
学校へ戻ったら、また補習をする。
また飯を食う。
観測塔へ行くかもしれない。
日向たちの話をする。
くだらないことで怒られる。
たぶん。
また。
何度でも。
「……これなら」
神代榊を構える。
少し離れた場所で、スズメが見守っていた。
奎星が息を吸う。
「エクスペクト・パトローナム!」
今度は一瞬だった。
神代榊から銀白色の光が噴き出した。
さっきの薄い霧ではない。強く、はっきりと形を持つ光が浜辺を駆け抜け、そのまま空へ昇っていく。
翼が開く。
銀の羽根。
鋭い嘴。
長い尾。
「…………え」
スズメの目が大きくなった。
奎星も口を開ける。
空を飛んでいたのは。
一羽の、銀色の鴉だった。
「…………」
「…………」
鴉は二人の頭上を大きく一周する。
そして、先ほどスズメの守護霊が降りたのとほとんど同じ場所――奎星の肩の近くへ、静かに舞い降りた。
奎星は守護霊を見る。
スズメを見る。
また守護霊を見る。
「……同じじゃん」
「…………」
「スズメちゃん」
「…………」
「同じだよ」
「見れば分かります!」
やけに強い返事だった。
奎星が不思議そうに眉を上げる。
「何で怒ってんの?」
「怒っていません」
「顔赤くね?」
「日差しです」
「さっきまで普通だったじゃん」
「暑くなったのです」
「急に?」
「急にです」
スズメはくるりと背を向けた。
「今日はもう戻りましょう」
「え、何で!?」
「十分練習しました」
「まだ昼じゃん!」
「昼食の準備があります」
「俺作るよ」
スズメの足が止まる。
「それはやめてください」
「何で!?」
「別の理由で生命の危険が発生します」
「料理できるって!」
「根拠は?」
「家庭科!」
「魔法学校には家庭科はありません」
「中学のときやった!」
「何年前ですか!」
奎星が後ろから追いかけてくる。
だがスズメの頭は、昼食どころではなかった。
同じ。
守護霊。
偶然。
そういうこともある。
同じ動物の守護霊を持つ魔法使いなど、世界中を探せば珍しくない。頭では分かっている。
分かっているのに。
昔、魔法史の資料で読んだ記録を思い出してしまった。
遠い英国。
大きな魔法戦争の時代。
かつて闇の側へ身を置いた一人の男。
その男の守護霊は、長く想い続けた女性とまったく同じ姿だったという。
「…………」
スズメの歩調が速くなる。
「スズメちゃん!」
「何ですか」
「待って!」
「普通に歩いています」
「速いって!」
「蓮根君の足が遅いのでは?」
「俺、毎朝御影先生に走らされてんだけど!」
奎星はすぐに追いつき、横へ並んだ。
そして顔を覗き込む。
「なあ」
「何ですか」
「何で同じだったら恥ずかしいの?」
「恥ずかしがっていません」
「じゃ何で俺見ないの?」
「前を見て歩いているからです」
奎星がスズメの前へ回り込む。
スズメは右へ避ける。
奎星も右。
左へ避ける。
奎星も左。
「蓮根君」
「何?」
「邪魔です」
「何で逃げんの?」
「逃げていません」
「逃げてるじゃん!」
星迎祭の夜、互いに大切な存在だと分かった。
ただそれだけで、奎星の遠慮は以前よりかなり減っていた。
しかも今、この島には二人しかいない。
誰かに見られることも。
日向に茶化されることも。
楓に呆れられることも。
伊織に分析されることもない。
スズメがどれだけ逃げても、奎星は当然のようについてくる。
「スズメちゃん」
「はい」
「同じ守護霊ってなんか意味あんの?」
「ありません」
返事が速すぎた。
「絶対あるじゃん」
「ありません」
「今の間ゼロだったよ?」
「知りません」
「何か知ってる?」
「知りません」
「嘘下手だな!」
「蓮根君!」
「何?」
振り返ったスズメのすぐ前に、奎星がいた。
近い。
近すぎる。
「…………」
スズメが一歩下がる。
奎星も一歩出る。
もう一歩下がる。
また出る。
「何で来るのですか」
「何で下がるの?」
「近いからです!」
「昨日まではもっと近かったじゃん」
「っ……!」
星迎祭の観測塔。
抱きしめられた。
踊った。
転びそうになって、腰を支えられた。
そして、あの距離まで顔が近づいた。
全部、一気に思い出す。
「それとこれは別です!」
「何が違うの?」
「全部です!」
「分かんねえ!」
スズメはとうとう、逃げるように宿舎へ向かって歩き始めた。
奎星は普通に追いかける。
「待ってって!」
「待ちません!」
「守護霊の意味だけ!」
「ありません!」
「じゃ何で赤いの!」
「暑いからです!」
「島そんな暑くねえよ!」
「うるさいです!」
二羽の銀色の鴉は、いつの間にか並んで二人の頭上を飛んでいた。
*
昼。
朝凪島の宿舎。
小さな食堂の机へ、二枚の皿が並んだ。
スズメは皿を見る。
奎星を見る。
そして、もう一度皿を見る。
「…………」
「どう?」
奎星は得意げだった。
「…………」
「めっちゃ頑張った」
皿の上には、何かがあった。
色は茶色。
ところどころ黒。
少しだけ黄色。
液体のようでもあり、固体のようでもある。中心部だけ妙に盛り上がり、その上へ青葱らしきものが二本、申し訳程度に乗せられていた。
スズメは真剣な顔で訊いた。
「これは」
「昼飯」
「分類ではなく、料理名を訊いています」
「……炒め物?」
「なぜ疑問形なのですか」
「最初は炒め物だった」
「途中で何があったのですか」
「水入れた」
「なぜ」
「焦げたから」
「それで?」
「味薄くなったから醤油入れた」
「はい」
「濃くなったから卵入れた」
「はい」
「卵固まんねえから片栗粉入れた」
「待ってください」
「で、いい感じになった」
スズメは皿を見る。
《いい感じ》。
その言葉の意味を、人生で初めて疑った。
奎星が箸を持つ。
「食おうぜ!」
「蓮根君」
「何?」
「先に食べてください」
「毒味!?」
「料理人の責任です」
「信用ないな!」
奎星が一口食べる。
もぐもぐ。
「…………」
止まった。
スズメが見る。
「どうですか」
「…………」
「蓮根君?」
「……食べられなくはない」
「最高評価がそれですか?」
「でも何か」
もう一口食べる。
「後半うまい」
「料理に前半と後半があるのですか」
「噛んでると途中からうまくなる」
「怖いです」
それでもスズメも、恐る恐る一口食べた。
「…………」
奎星が身を乗り出す。
「どう?」
「…………」
「どう!?」
「……食べられなくは、ありません」
「同じじゃん!」
二人で顔を見合わせる。
数秒後。
先に奎星が笑った。
スズメも耐えきれず、小さく笑った。
結局、二人とも全部食べた。
食後は奎星が皿を洗い、スズメが午後の記録を整理する。開けた窓からは潮風が入り、遠くから規則正しい波の音が聞こえてくる。
学校では、常に誰かがいた。
研究室。
教室。
廊下。
寮。
教師。
生徒。
ここには。
二人しかいない。
「スズメちゃん」
「何ですか」
「暇?」
「仕事中です」
「じゃ終わったら散歩しよう」
「観察対象が監督者を遊びに誘わないでください」
「監督者も運動したほうがいいよ」
「あなたは朝から岩を壊していたでしょう」
「だから俺は健康!」
「理屈が分かりません」
奎星は洗った皿を棚へ戻す。
「夜は何食う?」
「私が作ります」
「俺やるよ」
「私が作ります」
「一緒にやる?」
「…………」
スズメが少し考えた。
「それなら」
「よし!」
奎星は嬉しそうだった。
スズメも、自分では気づかない程度に少しだけ笑っていた。
《隔離》。
そんな言葉とは、妙に似合わない時間だった。
*
夜。
宿舎の居間にある暖炉へ、青白い火が灯った。
ぱちぱちと普通の炎のように揺れていた火が、やがて一枚の鏡のように平らになっていく。
その中へ、御影の顔が現れた。
「聞こえるか」
奎星が暖炉の前へしゃがむ。
「聞こえる!」
「近い」
「え?」
「顔が近い」
「火映し初めてちゃんと使うから!」
「下がれ」
奎星が一歩下がる。
その横へスズメも座った。
「朝凪島、異常ありません」
「門は」
「現時点では出現していません。魔力結界にも異常なしです」
御影が頷く。
すると画面の端から、真壁がひょいと顔を出した。
「やあ」
「真壁さん!」
「元気そうだな」
「めっちゃ元気! 今日岩吹っ飛ばした!」
御影の目が細くなる。
「何をした」
「御影先生が教えたコンフリンゴ!」
「全力で撃ったのか」
「うん!」
御影の視線がスズメへ移る。
「烏丸」
「周囲の安全と結界の強度は確認しました」
「……ならいい」
奎星が笑う。
「今ちょっと怒ると思っただろ」
「余計なことを言うな」
真壁が小さく笑った。
「ところで蓮根君」
「何?」
「一つ、追加で教えておきたい術がある」
奎星の顔がすぐ変わる。
「新しい魔法!?」
「食いつきが早いな」
「何!?」
「姿くらまし」
「…………」
奎星が止まる。
「何それ」
「短い距離を、一瞬で移動する術だ」
「瞬間移動!?」
「まあ、乱暴に言えば」
「やる!!」
「まだ説明してないだろう」
御影が低く言った。
奎星はすぐ姿勢を正す。
「はい」
真壁は苦笑しながら続ける。
「本来、不用意に練習させる術ではない。難易度が高いし、失敗すると身体の一部だけ取り残されることもある」
「…………」
奎星の顔から少しだけ喜びが消えた。
「怖っ」
「怖がるくらいでちょうどいい」
横で聞いていたスズメも、僅かに表情を硬くする。
姿くらましは簡単な術ではない。
知識として理論は学んでいるが、スズメ自身もまだ安定して成功させられる段階には達していなかった。魔力量だけでどうにかなるものではなく、行き先の認識、自分の肉体の把握、そして移動の瞬間に迷いを持たない集中力が必要になる。
だからこそ。
こんなものを、奎星に今教えるのか。
少し不安があった。
真壁が続ける。
「だが、玄一郎とも話した。今の君は朝凪島へ隔離されている。もし黒曜の門や外敵が現れ、火映しも転送術式も使えなくなった場合、自力で危険な場所から数十メートルでも離れられる術を知っていたほうがいい」
御影も言う。
「島を出るためではない。島内で危険地点から離脱するための緊急手段だ」
「なるほど」
奎星は真剣に頷いた。
真壁が暖炉越しに杖を持つ。
「まず、行き先をはっきり決める」
「うん」
「《あっちの辺り》では駄目だ。石、木、扉、何でもいい。自分が立つ場所を具体的に思い描く」
「うん」
「次に、自分の身体全部がそこへ移ると決める。途中で迷うな。怖くなって元の場所へ戻ろうとすると、身体が置いていかれる」
「やっぱ怖い!」
「だから慎重にやる」
真壁は笑う。
「そして移動する瞬間、身体を押し出すのではなく、空間のほうを折り畳む感覚に近い」
「分かんねえ」
「最初は誰でもそうだ」
御影が口を挟んだ。
「今夜は宿舎前の平地だけだ。距離は三メートルから。烏丸の監督下で行え」
「はい!」
「勝手に距離を伸ばすな」
「はい!」
「海側へ出るな」
「はい!」
「返事が良すぎて信用できん」
「ひどくない!?」
スズメが横で小さく頷く。
「同感です」
「スズメちゃんまで!」
火映しの向こうで、真壁が笑っていた。
*
その夜。
宿舎前の草地。
月明かりの下で、奎星は三メートル先へ置かれた木箱を睨んでいた。
「三メートル」
スズメが念を押す。
「それ以上は駄目です」
「分かってる」
「本当に?」
「今日だけで何回訊くのそれ」
「あなたが信用を積み上げれば減ります」
「いつになんだよ」
「さて」
奎星は神代榊を腰へ差した。
姿くらましに杖は必要ない。
行き先。
身体。
空間。
真壁に言われたことを頭の中でもう一度並べる。
「行くぞ」
「どうぞ」
木箱の前。
そこに立つ自分を思い描く。
ここから、あそこへ。
身体全部で。
行く。
「…………」
身体を引く。
ぱんっ。
破裂音がした。
「わっ!」
スズメの目の前から奎星の姿が消える。
次の瞬間。
どさっ!
「痛ぇ!」
木箱の後ろ――ではなく、横。
しかも尻から地面へ落ちていた。
スズメが額へ手を当てる。
「蓮根君」
「移動した!」
「転びました」
「でも移動した!」
「二メートルです」
「最初だから!」
失敗ではある。
しかし、スズメは内心で少し驚いていた。
初回で分離も起こさず、身体ごと移動している。
着地点も大きく外れてはいない。
偶然かもしれない。
そう思った。
二回目。
ぱんっ。
今度は木箱の前に現れた。
ただし、身体が後ろ向き。
「お!」
奎星が喜ぶ。
「向きが逆です」
「細かい!」
三回目。
ぱんっ。
木箱の真上に出た。
「何で!?」
「私が訊きたいです!」
四回目。
ぱんっ。
今度は、ほぼ成功だった。
木箱の前。
正面。
両足で立っている。
「できた!」
奎星が勢いよく振り返る。
「スズメちゃん! 見た!?」
「見ています」
「今完璧だった!」
「着地点が四十センチずれています」
「厳しい!」
スズメは平静な顔で記録板へ視線を落とした。
けれど。
内心は、平静ではなかった。
姿くらましは、そんなに簡単な魔法ではない。
スズメ自身でさえ、理論を理解し、練習を重ねても未だ確実に使えるとは言えない。にもかかわらず奎星は、わずか四回で基本的な転移を形にしてしまった。
一学期から何度も見てきた。
一度成功すると、そこから急激に安定する。
御影の訓練でもそうだった。最初は威力を誤っていても、一度ちょうどいい感覚を掴めば、次からほぼ同じ結果を再現する。
それでも。
これは。
少し異常だ。
「…………」
スズメは、その言葉を飲み込んだ。
褒めれば調子に乗る。
絶対に乗る。
しかも今は島に二人きりである。
言わないほうがいい。
そう判断した。
五回目。
三メートル。
成功。
六回目。
「じゃ次、四メートル」
「距離を伸ばさないでください!」
「ちょっとだけ!」
「勝手に伸ばした時点で減点です!」
「競技じゃないじゃん!」
ぱんっ。
成功。
スズメの眉が僅かに動く。
本人は気づいていない。
むしろ、もう楽しくなっている。
「もう一回!」
「蓮根君、まず同じ距離で――」
「大丈夫大丈夫!」
「その大丈夫が一番信用できません!」
七回目。
奎星が木箱を見る。
そして。
ふとスズメを見る。
「…………」
「何ですか」
「いや」
「木箱を見てください」
「見てるよ」
「今、私を見ていました」
「気のせい」
「蓮根君」
「分かったって」
奎星は木箱を見る。
見た。
はずだった。
ぱんっ。
姿が消える。
スズメは反射的に木箱を見る。
いない。
「……?」
次の瞬間。
背後で。
ぱんっ。
「わっ!?」
奎星の腕が、後ろからスズメへ回った。
そのまま肩ごと軽く抱き込まれる。
「できた!!」
「何をしているのですか!?」
「スズメちゃんの後ろ行けた!」
「私の後ろに移動しないでください!」
「なんでよ、間違えただけだって〜!」
「今、明らかに私を見ていたでしょう!」
「途中でこっちのほうが分かりやすいなって」
「途中で目的地を変えるなと真壁さんに言われたでしょう!」
「でも成功した!」
「離れてください!」
「はいはい」
「はいは一回です!」
奎星が笑いながら腕を解いた。
人がいない。
それをいいことに、完全に調子に乗っている。
スズメは赤くなった顔を隠すように木箱へ向き直った。
「次は木箱です」
「分かった」
「絶対ですよ」
「分かったって」
奎星が息を整える。
ぱんっ。
消える。
スズメが木箱を見る。
いない。
「…………」
嫌な予感。
振り向く。
ぱんっ。
「スズメちゃん!」
「また!?」
今度は真正面。
鼻先が触れそうな距離へ奎星が現れた。
スズメが思わず一歩下がる。
「近いです!」
「距離測るのむずい!」
「木箱なら失敗しても怒りません!」
「スズメちゃんのほうが目標にしやすいんだよ」
「なぜですか!」
「分かりやすいから」
「何が!」
「ちっちゃいし」
「それは関係ありません!」
スズメが杖の先で奎星の額を押す。
奎星は笑いながら一歩下がった。
「もう一回」
「木箱へ」
「はい」
ぱんっ。
今度こそ。
木箱の前。
成功。
「ほら!」
「今のは良かったです」
「やった!」
「では今日はそこまで」
「もう一回!」
「終わりです」
「最後!」
「駄目です」
「最後の最後!」
「駄目」
「じゃあスズメちゃんまで競走!」
「何と競うのですか」
「俺が姿くらまし、スズメちゃん普通に走る」
「嫌です」
「じゃあスズメちゃんも姿くらまし」
「嫌です」
「何で!」
一瞬。
スズメの目が泳いだ。
「嫌だからです」
「できないの?」
「…………」
「スズメちゃん?」
「できません」
奎星が止まった。
「え?」
「私はまだ、姿くらましを安定して使えません」
「…………マジ?」
「マジです」
「校長先生みたいになってきた」
「そこはどうでもいいです」
奎星はスズメを見る。
木箱を見る。
またスズメを見る。
「じゃあ俺、今スズメちゃんより先にできた?」
「…………」
スズメは数秒黙った。
「一度できたことと、習得したことは別です」
「でも今何回も成功した」
「明日失敗する可能性もあります」
「でもスズメちゃんできないんだ」
「蓮根君」
「俺できたんだ」
「蓮根君」
「俺すごくね?」
「調子に乗らないでください」
「今の言い方、絶対ちょっとすごいと思ってるじゃん!」
「思っていません」
嘘だった。
かなり驚いている。
一学期から、奎星の魔法習得速度が異常に速いことは知っている。久我もそれを観察し、異常な速度で魔法を習得する少年として見ていたほどだ。
けれど。
姿くらましまで。
ここまで早いとは思わなかった。
絶対に本人へは言わない。
少なくとも今夜は。
「絶対思ってる!」
「思っていません」
「じゃ顔見て言って」
「嫌です」
「ほら!」
「うるさいです!」
スズメは宿舎へ戻ろうとする。
奎星の目が、また悪戯っぽく光った。
「…………」
ぱんっ。
「え?」
背後。
ぱんっ。
「わっ!?」
また腕が回った。
今度は肩へ引っ掛ける程度ではなく、後ろから軽く身体を包むように。
「捕まえた!」
「蓮根君!」
「姿くらまし便利!」
「そのための魔法ではありません!」
「逃げてもすぐ追いつける!」
「一番教えてはいけない人へ教えてしまった気がします!」
奎星が声を上げて笑う。
スズメは慌ててその腕を外した。
「もう練習終了です!」
「えー!」
「終了!」
「まだできる!」
「できるから終わるのです!」
「意味分かんない!」
「悪用を始めたからです!」
「悪用じゃねえよ!」
「では何ですか!」
奎星は少し考えた。
「……遊び?」
「もっと悪いです!」
二人の声が、夜の朝凪島へ響いた。
学校から離れ、誰もいない。
黒曜の門も、今のところ現れない。
本当なら。
状況は少しも楽観できない。
二度も現れた黒曜の門。
神代冥司。
《蓮根家め》という声。
冬真を呼び寄せた、妹の幻聴。
今こうして離れ島へ隔離されているのも、奎星そのものが門の出現に関わっている可能性を確かめるためだ。
何一つ、解決していない。
それなのに。
今だけ。
この小さな島だけ。
二人の周囲だけは、あまりにもふわふわしていた。
「スズメちゃん!」
宿舎へ向かって歩くスズメを、奎星が後ろから追う。
「何ですか!」
「明日も守護霊やろう!」
「まず姿くらましの復習です!」
「じゃ両方!」
「午前中は勉強です!」
「隔離中なのに!?」
「隔離中でも学生です!」
「最悪!」
「何が最悪ですか!」
星迎祭の夜。
スズメが、自分を大切だと言った。
離れないでほしいと言った。
その言葉が、今まで奎星の中にあった最後の遠慮を、少しずつ溶かしている。
そしてスズメの側も。
本気で嫌なら、こんなふうに言い合ってはいない。
もちろん。
教師と生徒。
その線が消えたわけではない。
消してはいけない。
けれど。
少なくとも今夜。
誰も見ていない朝凪島の夜道で。
二人は、ほんの少しだけ肩の力を抜いて歩いていた。
*
宿舎の明かりが近づく。
奎星はその少し手前で、ふと立ち止まった。
「なあ、スズメちゃん」
「今度は何ですか」
「守護霊、もう一回出して」
スズメが振り返る。
「なぜです?」
「俺のも出すから」
「今から?」
「一回だけ」
「今日は一回だけ、を何度聞いたと思っているのですか」
「これが本当の最後!」
「信用がありません」
「じゃスズメちゃん先!」
「話を聞いてください」
言いながらも。
結局。
スズメは杖を取り出した。
「一度だけですよ」
「やった」
「はいは?」
「一回」
「よろしい」
奎星が笑う。
二人は宿舎の前で並んだ。
月明かり。
潮の匂い。
遠くから聞こえる波。
同時に杖を上げる。
スズメは一瞬だけ迷った。
何を思い浮かべるか。
昼間と同じ記憶でもいい。
そう思ったのに。
なぜか今は。
隣にいる奎星の笑い声が先に浮かんだ。
岩を爆破して喜んでいた顔。
正体不明の昼食を「後半うまい」と言った顔。
姿くらましで後ろから抱きついてきて、悪びれもせず笑った顔。
「…………」
少しだけ困る。
けれど。
消さなかった。
隣では奎星も目を閉じている。
彼が思い浮かべていたものは。
昼間と。
あまり変わらない。
学校。
友達。
そして。
隣にいる人。
二人の声が重なる。
「エクスペクト・パトローナム」
「エクスペクト・パトローナム!」
銀白色の光が二本、夜へ伸びた。
その光は空中で羽根となり。
翼となり。
二羽の鴉へ姿を変える。
一羽。
もう一羽。
同じ銀色。
同じ姿。
二羽の守護霊は夜空へ舞い上がると、互いを追いかけるように一度大きく円を描いた。
それから自然に横へ並ぶ。
同じ高さで。
同じ方向へ。
翼の動きまで揃えるように。
「…………」
奎星が見上げる。
スズメも見ている。
「やっぱ同じだな」
「……そうですね」
今度は。
スズメも否定しなかった。
奎星が隣を見る。
「何で?」
「知りません」
「またそれ?」
「本当に分かりません」
「でも何か意味あんだろ?」
「ありません」
「今ちょっと間あった」
「ありません」
「あるじゃん」
「ありません!」
「怒んなよ!」
「怒っていません!」
二羽の鴉が頭上を越えていく。
宿舎。
月。
静かな海。
その向こうには、まだ何がいるのか分からない。
敵の名前だけが分かって。
何を狙われているのかも分からず。
いつ再び門が開くかも分からない。
そんな緊張感には。
ひどく似合わない。
ふわふわした二人の時間。
「スズメちゃん」
「今度は何ですか」
「宿舎まで姿くらまししていい?」
「歩いてください」
「すぐそこじゃん」
「だから歩いてください」
「じゃスズメちゃんの後ろまで」
「私の後ろに移動しないでください!」
「なんでよ、間違えただけだって〜!」
「二回も三回も同じ間違いをする人がいますか!」
「俺!」
「威張らないでください!」
奎星の笑い声が夜の島へ響く。
スズメは呆れたように息を吐き、それでも最後には少し笑った。
その頭上を。
二羽の銀色の鴉が。
静かに並んで飛んでいた。