マホウトコロ   作:西野圭吾

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第16話 ありもしない未来

 

黒曜の門をくぐった瞬間、奎星は反射的に息を止めた。

 

冷たい。

 

そう感じたのに、風はなかった。

 

一歩前まで背後にいたはずの御影も、スズメも、日向も、澪も、冬真も、柊木もいない。振り返っても門すらなく、ただ見渡す限り、薄暗い空間がどこまでも続いていた。

 

地面はある。けれど石でも土でもない。磨かれた黒曜石にも、水面にも見える真っ黒な床が足元へ広がり、そのさらに下を、赤黒い古代文字が魚の群れのようにゆっくり流れている。天井らしきものは見えず、空もない。遠近感さえ曖昧で、十メートル先と百メートル先の区別がつかなかった。

 

「……スズメちゃん?」

 

声を出す。

 

返事はない。

 

「御影先生!」

 

静寂。

 

「日向! 澪! 冬真先輩!」

 

誰も答えなかった。

 

奎星はすぐに神代榊を抜いた。

 

「……またこれかよ」

 

三門巡りのときとは違う。あのときは、気づけば東京の自室にいた。

 

今回は、最初からおかしいと分かる。だからこそ、余計に気味が悪かった。

 

奎星は神代榊を握ったまま、慎重に一歩進む。

 

こつ。

 

足音が不自然なほど長く響いた。

 

もう一歩。

 

こつ。

 

すると、

 

「やあ」

 

声がした。

 

奎星の足が止まる。

 

「初めまして……かな」

 

前方、何もなかった闇の中に、いつの間にか一人の男が立っていた。

 

奎星は息を呑んだ。

 

名前は、もう知っている。直接会ったことはない。写真も見ていない。それでも分かった。おそらく、いや、絶対にこいつだ。

 

長い黒髪の中には、何本もの白いものが混じっていた。けれど顔は、奇妙なほど若い。皺がなく、肌は異様なほど白く、頬にも弛みがない。四十代にも見えるし、三十代にも見える。もっと若いと言われても、一瞬なら信じてしまうかもしれない。

 

なのに、目だけが古かった。

 

細く、黒く、何十年どころではない時間を見てきたような目。老いているはずの部分だけを無理やり削り取り、若い顔をその上へ貼りつけたような、不自然さがあった。

 

濃い紫の和装。その上に黒い羽織。口元には穏やかな笑み。けれど、その笑みには何の温度もない。

 

男は、まるで茶室へ客でも招いたような声で言った。

 

「蓮根奎星君」

 

「…………」

 

奎星の指が、神代榊を強く握る。

 

「……神代冥司」

 

男の眉がほんの僅かに上がった。

 

「もう名前まで知っているのですね」

 

「てめえが神代か」

 

「ええ」

 

否定しない。隠しもしない。

 

神代冥司は穏やかに笑った。

 

「先日の出来事は、本当に驚きましたよ」

 

「……何が」

 

「あの世界から、君が自分自身の力で目を覚ましたことです」

 

奎星の目が細くなる。

 

「俺自身じゃねえよ」

 

「ほう?」

 

「ばあちゃんが教えてくれたんだ」

 

神代の笑みが、ほんの一瞬だけ消えた。

 

「……蓮根八重子」

 

声が低くなる。

 

「本当に厄介ですね、あの女は」

 

その言い方に、奎星の中で何かがすぐ熱を持った。

 

「てめえ」

 

神代榊の杖先が上がる。

 

「ばあちゃんのこと知ってんのか」

 

「もちろん」

 

「何で」

 

「蓮根家を知らずして、私の目的を語ることはできません」

 

「じゃあ語れよ」

 

奎星は一歩前へ出た。

 

「てめえの狙いはなんだよ。黒曜の環なんか作って、久我先生使って第零書庫狙って、鬼火鳥捕まえて、今度は学校中のやつら巻き込んで」

 

声が少しずつ強くなる。

 

「何がしてえんだよ!」

 

神代は動じなかった。むしろ少し愉快そうに目を細める。

 

「君に話しても、私の高尚な思想は理解できないでしょう」

 

「意味わかんねえよ」

 

「でしょうね」

 

「いや、そうじゃなくて」

 

神代が僅かに首を傾げる。

 

奎星は真顔だった。

 

「コーショーってなんだ」

 

「…………」

 

初めて、神代冥司が黙った。

 

ほんの二秒。けれど、奎星には十分だった。

 

「何その顔」

 

「……そこからですか?」

 

「何だよ」

 

「いえ」

 

神代は額へ指先を当てた。

 

「なるほど。久我から聞いていた印象以上ですね」

 

「悪口?」

 

「半分ほど」

 

「半分は?」

 

「まだ決めかねています」

 

「ムカつくなこいつ!」

 

奎星は神代榊を振り抜いた。

 

「ステューピファイ!」

 

赤い閃光が一直線に神代へ飛ぶ。速い。完全に身体の中央を捉えていた。

 

だが、光は神代の胸をすり抜けた。

 

「なに!?」

 

魔法はそのまま後方の闇へ消えていく。神代の衣服も、髪も、何一つ揺れていない。

 

「無駄ですよ」

 

「……!」

 

「これは私の実体ではない」

 

神代は自分の胸元を指で軽く叩く。そこには確かに身体があるように見える。けれど、どこか薄い。

 

「前に君が見た夢と、似たようなものです」

 

奎星は杖を下ろさなかった。

 

「……何の用だよ」

 

「君には理想の世界を見せても無駄だと思いましてね」

 

神代はゆっくり歩き始めた。足音はしない。

 

「祖母を生き返らせ、家族を近くに置き、友人を揃え、烏丸スズメとの障害まで取り除いた。それでも君は戻った」

 

奎星の眉が動く。

 

「……見てたのか」

 

「私の門ですよ?」

 

神代は笑う。

 

「なら、今度は直接話すことにしたのです」

 

「直接なら姿見せりゃいいだろ」

 

「あいにく、私は多忙でね」

 

「忙しい奴が人の夢に出てくんなよ」

 

「君に伝えておきたいことがあるのですよ」

 

「あ?」

 

神代が足を止めた。その目が、奎星だけを見る。

 

「なぜ御影玄一郎や烏丸スズメが、君に制御を覚えさせると思います?」

 

「…………」

 

あまりにも唐突だった。奎星は眉を寄せる。

 

「そりゃ……危ないからだろ」

 

「そう」

 

神代が微笑む。

 

「君が危険だからです」

 

「……は?」

 

「一万を超える魔力。十七歳まで一度も魔法教育を受けていなかったにもかかわらず、異常な速度で術を習得する。そして死の呪文を、杖すら持たずに消した」

 

神代の声はどこまでも穏やかだった。

 

「そんな存在が、自分たちの理解の外へ行ってしまえば不安でしょう?」

 

「何言ってんだよ」

 

「御影玄一郎は君へ抑えろと言い続けた」

 

足元の黒い床が揺れる。そこへ一瞬だけ、映像が浮かんだ。

 

御影の授業。

 

――狙うのは杖だけだ。

 

――人形そのものを飛ばすな。

 

次に、

 

――必要な分だけ使え。

 

さらに、朝練で息を切らす奎星と、御影の声。

 

――もう一度。

 

次に、編入直後のスズメ。

 

――あなたの魔力は、まだ制御できていません。

 

――危険です。

 

「……だから何だよ」

 

奎星の声が低くなる。

 

神代は続ける。

 

「君を守るため?」

 

「そうだろ」

 

「本当に?」

 

「…………」

 

「彼らは、君の力が自分たちの支配下にあるうちは安心できる」

 

「支配?」

 

「教育。訓練。指導。規則。呼び方はいくらでもあります」

 

神代は両腕を軽く広げた。

 

「結局は同じです。自分たちが扱える範囲へ、君を押し込めている」

 

「何が言いてえんだよ……」

 

「君自身も、もう気づいているのでは?」

 

神代の声が、少しだけ甘くなる。

 

「朝凪島で、楽しかったでしょう」

 

奎星の顔が止まった。

 

「誰もいない場所で。誰も巻き込む心配をせず。全力で魔法を放って」

 

砕ける岩。炎。爆音。コンフリンゴ。笑った自分。

 

「御影玄一郎の目がなければ」

 

次に、姿くらまし。一度、二度、三度。成功。スズメの背後へ飛び、抱きついた。

 

「教師たちが決めた枠の外へ出れば、君はあれほど自由だ」

 

「……スズメちゃんいたけど」

 

「監督役としてね」

 

「一緒に遊んでたぞ」

 

「…………」

 

神代が少し黙る。

 

奎星は眉を寄せた。

 

「何だよ」

 

「君は本当に話しづらいですね」

 

「知らねえよ」

 

神代は僅かに息を吐いた。

 

「では、別の話をしましょう」

 

再び、その目が細くなる。

 

「君の祖母が、なぜ君へ魔法を教えなかったと思います?」

 

「……ばあちゃん?」

 

「蓮根八重子は、君に魔力が発現する可能性を知っていた」

 

「知ってたよ」

 

「それでも教えなかった」

 

「…………」

 

「怖かったのでしょう」

 

奎星の表情が変わる。

 

「何が」

 

「君がその力に耐えうる器ではないかもしれない、と」

 

「…………」

 

「だから何も知らせず、一般社会へ置いた。魔法など知らないまま一生を終えてくれれば、そのほうが安全だと」

 

奎星は、しばらく何も言わなかった。

 

神代の笑みが深くなる。

 

だが、次の瞬間、

 

「違う」

 

「……?」

 

奎星が言った。

 

「ばあちゃんは、そんなこと言ってねえ」

 

神代の目が僅かに動く。

 

「本人から聞いた」

 

奎星は神代榊を握り直した。

 

大樹。鬼火鳥。八重子。

 

――珍しいものを持っているとね、それを欲しがる人間が出てくる。

 

――味方になれと言う奴もいれば、利用しようとする奴もいる。

 

そして、

 

――好きに生きてほしかったんだよ。

 

奎星の眉が寄る。

 

「ばあちゃんは俺を怖がったんじゃねえ」

 

一歩、前へ出る。

 

「俺に、蓮根家とか鬼火鳥とか霊脈とか、そういう面倒くせえもん背負わせたくなかったんだ」

 

神代の笑みが薄くなる。

 

「それは彼女が君へ見せた解釈にすぎません」

 

「さっきから好き勝手言いやがって……!」

 

奎星の声が響く。

 

「人の気持ち、勝手に決めるんじゃねえよ!」

 

静寂。

 

神代は数秒、奎星を見つめた。それから笑った。

 

「……やはり」

 

「何だよ」

 

「君は、面白い」

 

「俺はムカついてる」

 

「では」

 

神代が片手を上げる。

 

「もう一つ、教えてあげましょう」

 

「いらねえ」

 

「これから君の未来に、何が待っているかです」

 

「…………なに?」

 

神代の指が奎星へ向いた。

 

「これから君が何をするのか」

 

笑う。

 

「見届けるのです」

 

「何を――」

 

言い終えるより先に、世界が弾けた。

 

 

火。

 

最初に見えたのは火だった。

 

「…………え」

 

マホウトコロが燃えていた。

 

羊脂玉の白い校舎が赤く染まり、窓から黒煙が噴き出している。回廊は崩れ、星迎祭で飾ったままだった星灯籠が炎を纏って空から落ちてくる。

 

叫び声。爆発。泣いている子供。教師の怒号。黒い服を着た魔法使いたち。黒曜石。赤黒い文字。

 

「やめろ!!」

 

奎星が走っていた。

 

違う。見ているだけではない。自分だった。身体が本当に動いている。

 

神代榊を振る。

 

「プロテゴ!!」

 

巨大な防壁が下級生たちの前へ広がる。直後、黒い魔法が衝突する。

 

ひび。

 

「っ……!」

 

防壁が砕けた。

 

間に合わない。

 

別の方向で校舎の塔が崩れる。

 

「奎星!!」

 

日向の声。

 

振り向く。遠い。誰かが倒れている。誰なのか、煙で見えない。

 

「待ってろ!!」

 

走る。

 

けれど、次の爆発には間に合わない。また、誰かが倒れる。

 

「くそっ!」

 

別の場所でも、また守れない。また遅い。

 

何度魔法を撃っても、何人助けても、その向こうでもっと多くの誰かが傷つく。

 

「なんでだよ……」

 

神代榊を握る手が震える。

 

「なんで……」

 

涙が出ていた。悔しい。怖い。怒り。全部、本物だった。

 

「俺が……」

 

炎の中で、奎星が叫んだ。

 

「俺が強ければ守れたのに!!」

 

その瞬間、景色が変わる。

 

 

夜。

 

第零書庫。

 

机の上へ、開いてはいけない本が積み上がっている。古代文字。禁術。現代では使用を禁じられた術。

 

「…………」

 

奎星は読んでいた。寝ていない。目の下には濃い隈。制服も汚れたまま。神代榊の周囲へ、青白い魔力が滲んでいる。

 

「もっと……」

 

頁をめくる。

 

「もっと強くならねえと」

 

背後で扉が開く。

 

御影がいた。

 

「蓮根」

 

「…………」

 

「何をしている」

 

「勉強」

 

「その本を閉じろ」

 

「嫌だ」

 

「閉じろ」

 

「なんで」

 

「今のお前に必要なものじゃない」

 

「またそれ?」

 

奎星の顔がゆっくり上がる。

 

「また、俺に弱いままでいろって?」

 

「そうは言っていない」

 

「じゃ何だよ!」

 

机を叩く。魔力が弾け、本が何冊も宙へ浮いた。

 

「俺がもっと強ければ、あの日みんな守れた!」

 

「違う」

 

「何が違うんだよ!!」

 

御影は奎星を見る。いつもの、あの目。

 

「お前が今欲しがってるのは強さじゃない」

 

「…………」

 

「二度と失敗しない保証だ」

 

奎星の顔が歪む。

 

「そんなものはない」

 

「だったら作る!」

 

「作れん」

 

「俺ならできる!!」

 

「できない!」

 

御影の怒声が、奎星の胸に痛いほど刺さる。

 

その瞬間、奎星の中に浮かんだ感情も本物だった。

 

怒り。

 

――また止める。

 

――また俺を抑える。

 

――また、守れなくなる。

 

景色が変わる。

 

 

誰かが襲われていた。

 

下級課程の生徒。黒い魔法使い。敵の杖先に、緑に近い光が集まっている。

 

間に合わない。普通の魔法じゃ遅い。

 

「…………」

 

奎星の口が動く。

 

知らないはずの、いや、知ってしまった禁じられた呪文。

 

神代榊が黒い光を纏う。

 

「奎星、やめろ!!」

 

誰かが叫ぶ。

 

それでも撃った。

 

相手が倒れた。動かない。

 

「…………」

 

助かった。後ろの子供は生きている。

 

奎星は荒い息のまま、倒れた敵を見た。次に、助かった子供を見る。

 

「……ほら」

 

震えながら笑った。

 

「助かったじゃん」

 

誰も答えない。

 

「使わなかったら、こいつ死んでたじゃん」

 

声が少しずつ大きくなる。

 

「何が悪いんだよ」

 

景色が変わる。

 

 

教師たちが奎星を囲んでいた。

 

「杖を下ろせ!」

 

「嫌だ!」

 

「蓮根!」

 

「近づくな!」

 

神代榊から魔力が溢れている。

 

「俺は守っただけだ!」

 

「だからといって、使っていい術ではない!」

 

「じゃあ何使えばよかったんだよ!」

 

「それを一人で決めるな!」

 

その言葉で、何かが切れた。

 

「じゃあ誰が決めんだよ!!」

 

奎星が杖を振った。

 

止めようとした教師が吹き飛び、壁へ叩きつけられる。動かない。

 

「…………」

 

一瞬、奎星の顔が青ざめた。

 

「先生……?」

 

別の教師が杖を向ける。

 

「蓮根、動くな!」

 

怖い。捕まる。杖を奪われる。力を使えなくなる。

 

そうなったら、次に誰かが襲われたとき、また守れない。

 

「やめろ……」

 

「杖を置け!」

 

「やめろって!!」

 

青白い魔力が爆発した。

 

もう一人、倒れる。

 

「…………」

 

息が止まる。

 

二人。動かない。

 

奎星の手が震える。けれど、心のどこかで声がした。

 

――仕方なかった。

 

――あいつらが止めようとしたから。

 

――俺は、守ろうとしただけだ。

 

「……俺が悪いんじゃねえ」

 

奎星の口が、そう言った。

 

今の奎星は、その言葉を聞いて吐きそうになった。

 

「違う……」

 

けれど、景色は止まらない。

 

 

「奎星!」

 

日向がいた。その隣に楓、岳、伊織。四人とも杖を持っている。でも、奎星へ向けてはいない。

 

「もうやめろ」

 

日向が言った。

 

「帰ろう」

 

「……どこに」

 

「寮だよ」

 

日向の目が赤い。

 

「いつもの部屋。戻ろうぜ」

 

岳もいた。いつもの大きな身体で。でも、笑っていない。

 

「飯食おう」

 

「…………」

 

「腹減った」

 

こんなときまで、岳だった。

 

伊織が眼鏡を押し上げる。

 

「奎星」

 

声がいつもより優しい。

 

「君は間違ってる」

 

「…………」

 

「でも、まだ戻れる」

 

楓が日向の少し前へ出る。

 

「誰もあなたを敵だなんて思ってない」

 

「嘘つけ」

 

奎星の声が出た。自分の声。本当に怒っていた。

 

「みんな俺を止めるじゃん」

 

「当たり前でしょ!」

 

楓が叫ぶ。

 

「今のあんたを止めないで、何が友達よ!」

 

「俺は守ろうとしてんだよ!!」

 

「誰を!?」

 

「みんなだよ!!」

 

「じゃあ今、誰に杖向けてんのよ!!」

 

「…………」

 

神代榊の先には、日向、楓、岳、伊織がいた。

 

「俺たちだろ」

 

日向が言った。

 

「奎星」

 

一歩、近づく。

 

「杖下ろせ」

 

「来んな」

 

「大丈夫だから」

 

「来んな!」

 

「奎星!」

 

日向が手を伸ばした。

 

その瞬間、奎星の中に恐怖が走った。

 

杖を取られる。力を奪われる。何もできなくなる。また、守れなくなる。

 

「来んなぁぁぁ!!」

 

魔法が放たれた。

 

「――っ」

 

景色が白くなった。

 

次に見えたとき、誰かが倒れていた。

 

赤い髪飾り。割れた眼鏡。床へ転がった菓子袋。日向の杖。

 

「…………」

 

奎星の呼吸が止まる。

 

「やめろ……」

 

今の奎星が呟いた。

 

「やめろよ……」

 

未来の奎星は立っている。神代榊を持って、友人たちを見下ろしている。

 

泣いている。

 

なのに、まだ杖を手放していない。

 

 

「蓮根!!」

 

御影の声。

 

次の景色は、崩れた校庭だった。二人だけ。御影玄一郎と蓮根奎星。

 

御影の左頬にはいつもの傷。制服ではなく戦闘用の外套。呼吸が荒く、何か所も服が裂けている。それでも杖は奎星へ向けていなかった。

 

「もう終わりだ」

 

「終わってねえ」

 

「終わりだ!」

 

「俺はまだ――」

 

「何を守る!!」

 

御影の怒声が空気を震わせた。

 

奎星が止まる。

 

「周りを見ろ!!」

 

見たくない。見たくない。

 

でも、目が動く。

 

燃えた学校。倒れた教師。友達。壊れた回廊。

 

「これのどこが守った結果だ!!」

 

「…………」

 

「お前は!」

 

御影の声が震えた。怒りだけではない。悲しみ。後悔。

 

「俺は……」

 

言葉が詰まる。

 

御影が、あの御影が、泣きそうな顔をしていた。

 

「俺は、お前を……!」

 

拳が震える。

 

「息子のように思っていた!!」

 

「…………っ」

 

今の奎星の胸まで痛んだ。

 

御影は叫んだ。

 

「馬鹿やって! 怒鳴って! 朝から走らせて! 何度教えても余計なことをして!」

 

声が掠れる。

 

「それでも、いつか俺なんかより立派な魔法使いになると思ってた!」

 

「やめろ……」

 

「こんなものになるために教えたんじゃない!!」

 

「やめろ……!」

 

未来の奎星の顔が歪んだ。

 

「だったら……」

 

その声に憎しみが混じる。本物だった。奎星自身が感じている。

 

「だったら、なんで止めたんだよ」

 

御影が黙る。

 

「俺がもっと力使ってたら、守れたかもしれねえのに」

 

「蓮根」

 

「あんたが制御しろって言った」

 

「…………」

 

「あんたが抑えろって言った!」

 

魔力が膨れ上がる。

 

「蓮根!!」

 

「全部……!」

 

涙。怒り。後悔。それが憎しみに変わる。

 

「あんたが憎い!!!」

 

魔法が放たれた。

 

御影が倒れた。

 

「…………」

 

動かない。

 

「やめろぉぉぉぉ!!」

 

今の奎星が叫んだ。

 

それでも止まらない。

 

景色は、まだ終わらない。

 

 

静かだった。燃える音さえ遠い。

 

瓦礫の向こうに、一人立っている。

 

黒い髪。小さな身体。

 

「…………」

 

奎星の喉が完全に閉じた。

 

「やめろ」

 

スズメだった。

 

服は汚れていた。頬にも煤がついている。それでも杖を構えていない。

 

「蓮根君」

 

「やめろ……」

 

未来の奎星が彼女を見る。

 

「来んな」

 

「蓮根君」

 

一歩、近づく。

 

「来んなって」

 

「杖を下ろしてください」

 

「嫌だ」

 

「もう十分です」

 

「嫌だ!」

 

「あなたは、もう十分苦しみました」

 

「分かったようなこと言うなよ!」

 

「分かりません」

 

スズメの声は静かだった。

 

「全部分かるなどと言いません」

 

一歩。

 

「でも」

 

もう一歩。

 

「これ以上、一人で背負う必要はありません」

 

「……止めるのかよ」

 

「止めます」

 

「やっぱり」

 

未来の奎星が笑った。壊れたように。

 

「スズメちゃんも、俺が怖いんだろ」

 

スズメが黙った。

 

その沈黙が痛い。

 

「……怖いです」

 

「…………」

 

「今のあなたは、怖い」

 

その言葉が刃のように入った。

 

未来の奎星の目から涙が落ちる。

 

「ほら」

 

「でも」

 

スズメが続けた。

 

「あなたの力が怖いのではありません」

 

「…………」

 

「あなたが、あなたでなくなってしまうことが怖いのです」

 

「やめろ……」

 

今の奎星が首を振る。

 

「やめてくれ……」

 

スズメは手を伸ばす。

 

「帰りましょう」

 

あの声。何度も聞いた。授業のあと。観測塔の帰り。八咫小路。星迎祭。朝凪島。

 

「一緒に帰りましょう、蓮根君」

 

未来の奎星が神代榊を上げた。その杖先がスズメへ向く。

 

「やめろ」

 

奎星の身体が震える。

 

「やめろ!!」

 

杖先へ青白い光が集まる。

 

スズメは逃げない。

 

「やめろぉぉぉぉぉぉ!!!!!」

 

世界が砕けた。

 

 

「――っ、は……!」

 

奎星は黒い床へ膝をついていた。息ができない。

 

「はっ……はっ……!」

 

手をつく。吐きそうだった。涙が床へ落ちる。

 

神代冥司が目の前にいる。さっきとまったく同じ姿で、穏やかにこちらを見ていた。

 

「……どうでした?」

 

「…………」

 

奎星は答えられない。

 

頭では分かっている。今のは幻覚。未来。いや、神代が見せた何か。実際には起きていない。

 

御影は生きている。日向も、楓も、岳も、伊織も生きている。スズメも生きている。

 

分かっている。

 

なのに、心が理解してくれない。

 

自分は見た。違う。体験した。

 

炎の熱。守れなかった悔しさ。もっと力が欲しいという焦り。禁じられた魔法を使った瞬間の、恐ろしいほどの納得。

 

――これで助かるなら、いいじゃん。

 

そう思った。本当に。

 

自分が教師を殺した。友達へ魔法を撃った。御影を、あんなにも世話になった人を、本気で心の底から殺したいと思った。

 

そして最後には、スズメへ杖を向けた。

 

「やめてくれ……」

 

声が震えた。

 

「もう……やめてくれ……」

 

神代はゆっくり奎星の前へ屈んだ。

 

「怖かったでしょう」

 

「…………」

 

「ですが」

 

その声は優しかった。だからこそ恐ろしかった。

 

「これが、君です」

 

奎星の肩が震える。

 

「違う……」

 

「違いません」

 

「違う……」

 

「君は既に、その片鱗を何度も見せている」

 

三門巡り。黒曜の門が消える直前、怒りに任せ、御影から何度も教えられた制御を捨て、全力で魔法を放った。

 

第零書庫。スズメが危険に晒されたとき、死の呪文の前へ考えずに飛び出した。

 

夏休み。セクタムセンプラ。また、考えるより先に自分の身体を差し出した。

 

「君は、大切なものを守るためなら、自分を顧みない」

 

神代の声が耳へ入る。

 

「それは今のところ、美徳に見える」

 

「…………」

 

「ですが」

 

神代が笑う。

 

「自分だけでは足りなくなったら?」

 

「…………」

 

「誰か一人を犠牲にすれば、百人を救えるとしたら?」

 

「やめろ……」

 

「禁じられた魔法を使えば、烏丸スズメを救えるとしたら?」

 

「やめろって……!」

 

「君は使いますよ」

 

奎星の呼吸が止まる。

 

否定したい。

 

なのに、さっきの未来の中で使った。迷った。でも、使った。

 

「そして一度成功すれば、次も使う」

 

神代は奎星へ手を差し出した。

 

「君には力がありすぎる」

 

「…………」

 

「御影玄一郎では扱えない」

 

優しく、

 

「烏丸スズメでは理解できない」

 

さらに、

 

「君の友人たちでは、ついて来られない」

 

奎星は差し出された手を見る。

 

「だから」

 

神代の笑みが深くなる。

 

「君の力を、私に委ねなさい」

 

「…………」

 

「そうすれば、すべてうまくいく」

 

穏やかな声。

 

「私は君を恐れない」

 

「…………」

 

「制御という名の鎖で縛りもしない」

 

「…………」

 

「君が持つ力を、正しく使ってあげましょう」

 

奎星の指が僅かに動いた。

 

怖かった。今見たものが、あまりにも怖かった。

 

もし本当にああなったら。自分が自分を止められなくなったら。

 

誰かに任せたほうがいいのかもしれない。自分より知っている人間に。強い人間に。未来を間違えない人間に。

 

神代の手が近づく。

 

「蓮根奎星君」

 

声が優しい。

 

「君は、一人でその力を持つ必要はない」

 

「…………」

 

指先が触れそうになる。

 

そのとき、

 

ちりん。

 

「…………」

 

小さな音がした。

 

神代の眉が動く。

 

ちりん。

 

奎星のポケット。指先へ何かが触れている。

 

銀色の小さな星。

 

「…………」

 

呼吸が少し止まった。

 

星迎祭。観測塔。花火。

 

――私は、あなたを嫌ってなどいません。

 

抱きしめた。泣いた。下手くそに踊った。

 

――あなたは……私にとって、とても大切な人です。

 

――私から、離れないでください。

 

そして、朝凪島。

 

――あなた一人で行かせるほうが、よほど問題です。

 

「……違う」

 

神代の手が止まった。

 

「何です?」

 

奎星はポケットの上から星を握った。

 

「違う……」

 

神代の目が僅かに細くなる。

 

「何がです?」

 

次に、御影。

 

――その言葉を二度と使うな。

 

――軽く言うな。

 

怒った顔。朝練。何度も、何度も、何度も。

 

派手な魔法ではなく、人を傷つけない魔法を教えた。

 

エクスペリアームス。プロテゴ。インカーセラス。必要な分だけ。自分より弱い人間を守れるように。

 

そして、八重子。

 

――好きに生きてほしかったんだよ。

 

神代は言った。怖かったから。器じゃないかもしれないから。

 

違う。

 

本人から聞いた。

 

「ちげえだろ……」

 

「……?」

 

奎星がゆっくり立ち上がった。足は震えている。涙もまだ頬に残っている。

 

今見た未来は消えない。怖い。本当に自分がああなる可能性が一欠片もないとは言い切れなかった。

 

だからこそ、分かった。

 

「間違ってるのは……」

 

神代を見る。

 

「てめえだ……」

 

神代の顔から、初めて完全に笑みが消えた。

 

「……何?」

 

「ありもしねえことを」

 

奎星は神代榊を握り直した。

 

「俺に見せるんじゃねえ」

 

「ありもしない?」

 

「起きてねえだろ」

 

「未来とは、そういうものです」

 

「じゃあ決まってもねえだろ!」

 

奎星の声が闇へ響く。

 

神代の目が見開かれる。

 

「御影先生が俺を止めるのも!」

 

一歩。

 

「スズメちゃんが俺に制御覚えろって言うのも!」

 

もう一歩。

 

「ばあちゃんが魔法隠してたのも!」

 

神代の前へ。

 

「俺がああならねえようにだろ!!」

 

「…………」

 

「怖いから閉じ込めてんじゃねえ!」

 

奎星の声が震える。

 

「俺が俺のまま、好きにやれるように……!」

 

神代榊を持ち上げる。

 

「だから教えてんだろ!!」

 

神代の表情が変わった。

 

「やめなさい」

 

奎星は杖先を自分の胸へ向けた。

 

「…………」

 

一度、やった。あの幻覚から戻ったときと同じ。

 

身体がすぐに拒絶する。手が震える。怖い。また怖い。

 

もし今回は違ったら。もしここが現実だったら。

 

そんな考えが頭を過る。

 

それでも、ポケットの星を握る。本物。あの人からもらったもの。

 

「また……それをするつもりですか」

 

神代の声が初めて僅かに焦った。

 

奎星は笑った。顔はぐしゃぐしゃだった。

 

「俺もやりたくねえよ」

 

「なら杖を下ろしなさい」

 

「でも」

 

神代榊の先へ青白い光が集まり始める。

 

「前もこれで起きた」

 

「蓮根奎星」

 

「それに」

 

奎星は神代を見る。

 

「スズメちゃんに怒られる前に」

 

少しだけ、いつもの顔に戻る。

 

「さっさと起きねえとな」

 

神代の目が鋭くなる。

 

「やめなさい!」

 

奎星は息を吸った。

 

怖い。嫌だ。また自分へ撃つなんて、馬鹿だと思う。

 

でも、今度は前より少しだけ分かっている。

 

一人ではない。戻った先にいる。

 

御影が。日向が。澪が。冬真が。柊木が。そして、スズメが。

 

「目ぇ……覚ませ……!」

 

神代が舌打ちした。

 

「チッ――!」

 

同時に、奎星は魔法を放った。

 

青白い光が自分の胸へ真正面から突き刺さる。

 

世界が白く弾けた。

 

「――っ!!」

 

奎星は目を覚ました。

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