黒曜の門をくぐった瞬間、奎星は反射的に息を止めた。
冷たい。
そう感じたのに、風はなかった。
一歩前まで背後にいたはずの御影も、スズメも、日向も、澪も、冬真も、柊木もいない。振り返っても門すらなく、ただ見渡す限り、薄暗い空間がどこまでも続いていた。
地面はある。
けれど石でも土でもない。磨かれた黒曜石にも、水面にも見える真っ黒な床が足元へ広がり、そのさらに下を、赤黒い古代文字が魚の群れのようにゆっくり流れている。天井らしきものは見えず、空もない。遠近感さえ曖昧で、十メートル先と百メートル先の区別がつかなかった。
「……スズメちゃん?」
声を出す。
返事はない。
「御影先生!」
静寂。
「日向! 澪! 冬真先輩!」
誰も答えなかった。
奎星はすぐに神代榊を抜いた。
「……またこれかよ」
三門巡りのときとは違う。
あのときは、気づけば東京の自室にいた。
今回は。
最初から。
おかしいと分かる。
だからこそ、余計に気味が悪かった。
奎星は神代榊を握ったまま、慎重に一歩進む。
こつ。
足音が不自然なほど長く響いた。
もう一歩。
こつ。
すると。
「やあ」
声がした。
奎星の足が止まる。
「初めまして……かな」
前方。
何もなかった闇の中に。
いつの間にか一人の男が立っていた。
奎星は息を呑んだ。
名前は。
もう知っている。
直接会ったことはない。
写真も見ていない。
それでも。
分かった。
おそらく。
いや。
絶対に。
こいつだ。
長い黒髪の中には、何本もの白いものが混じっていた。
けれど顔は、奇妙なほど若い。
皺がない。
肌は異様なほど白く、頬にも弛みがない。四十代にも見えるし、三十代にも見える。もっと若いと言われても、一瞬なら信じてしまうかもしれない。
なのに。
目だけが。
古かった。
細く、黒く、何十年どころではない時間を見てきたような目。
老いているはずの部分だけを無理やり削り取り、若い顔をその上へ貼りつけたような、不自然さがあった。
濃い紫の和装。
その上に黒い羽織。
口元には穏やかな笑み。
けれど、その笑みには何の温度もない。
男は、まるで茶室へ客でも招いたような声で言った。
「蓮根奎星君」
「…………」
奎星の指が、神代榊を強く握る。
「……神代冥司」
男の眉がほんの僅かに上がった。
「もう名前まで知っているのですね」
「てめえが神代か」
「ええ」
否定しない。
隠しもしない。
神代冥司は穏やかに笑った。
「先日の出来事は、本当に驚きましたよ」
「……何が」
「あの世界から、君が自分自身の力で目を覚ましたことです」
奎星の目が細くなる。
「俺自身じゃねえよ」
「ほう?」
「ばあちゃんが教えてくれたんだ」
神代の笑みが。
ほんの一瞬だけ。
消えた。
「……蓮根八重子」
声が低くなる。
「本当に厄介ですね、あの女は」
その言い方に。
奎星の中で、何かがすぐ熱を持った。
「てめえ」
神代榊の杖先が上がる。
「ばあちゃんのこと知ってんのか」
「もちろん」
「何で」
「蓮根家を知らずして、私の目的を語ることはできません」
「じゃあ語れよ」
奎星は一歩前へ出た。
「てめえの狙いはなんだよ。黒曜の環なんか作って、久我先生使って第零書庫狙って、鬼火鳥捕まえて、今度は学校中のやつら巻き込んで」
声が少しずつ強くなる。
「何がしてえんだよ!」
神代は動じなかった。
むしろ少し愉快そうに目を細める。
「君に話しても、私の高尚な思想は理解できないでしょう」
「意味わかんねえよ」
「でしょうね」
「いや、そうじゃなくて」
神代が僅かに首を傾げる。
奎星は真顔だった。
「コーショーってなんだ」
「…………」
初めて。
神代冥司が黙った。
ほんの二秒。
けれど、奎星には十分だった。
「何その顔」
「……そこからですか?」
「何だよ」
「いえ」
神代は額へ指先を当てた。
「なるほど。久我から聞いていた印象以上ですね」
「悪口?」
「半分ほど」
「半分は?」
「まだ決めかねています」
「ムカつくなこいつ!」
奎星は神代榊を振り抜いた。
「ステューピファイ!」
赤い閃光が一直線に神代へ飛ぶ。
速い。
完全に身体の中央を捉えていた。
だが。
光は。
神代の胸を。
すり抜けた。
「なに!?」
魔法はそのまま後方の闇へ消えていく。
神代の衣服も。
髪も。
何一つ揺れていない。
「無駄ですよ」
「……!」
「これは私の実体ではない」
神代は自分の胸元を指で軽く叩く。
そこには確かに身体があるように見える。
けれど。
どこか。
薄い。
「前に君が見た夢と、似たようなものです」
奎星は杖を下ろさなかった。
「……何の用だよ」
「君には理想の世界を見せても無駄だと思いましてね」
神代はゆっくり歩き始めた。
足音はしない。
「祖母を生き返らせ、家族を近くに置き、友人を揃え、烏丸スズメとの障害まで取り除いた。それでも君は戻った」
奎星の眉が動く。
「……見てたのか」
「私の門ですよ?」
神代は笑う。
「なら、今度は直接話すことにしたのです」
「直接なら姿見せりゃいいだろ」
「あいにく、私は多忙でね」
「忙しい奴が人の夢に出てくんなよ」
「君に伝えておきたいことがあるのですよ」
「あ?」
神代が足を止めた。
その目が。
奎星だけを見る。
「なぜ御影玄一郎や烏丸スズメが、君に制御を覚えさせると思います?」
「…………」
あまりにも唐突だった。
奎星は眉を寄せる。
「そりゃ……危ないからだろ」
「そう」
神代が微笑む。
「君が危険だからです」
「……は?」
「一万を超える魔力。十七歳まで一度も魔法教育を受けていなかったにもかかわらず、異常な速度で術を習得する。そして死の呪文を、杖すら持たずに消した」
神代の声はどこまでも穏やかだった。
「そんな存在が、自分たちの理解の外へ行ってしまえば不安でしょう?」
「何言ってんだよ」
「御影玄一郎は君へ抑えろと言い続けた」
足元の黒い床が揺れる。
そこへ。
一瞬だけ。
映像が浮かんだ。
御影の授業。
――狙うのは杖だけだ。
――人形そのものを飛ばすな。
次。
――必要な分だけ使え。
次。
朝練。
息を切らす奎星。
御影の声。
――もう一度。
次。
スズメ。
編入直後。
――あなたの魔力は、まだ制御できていません。
――危険です。
「……だから何だよ」
奎星の声が低くなる。
神代は続ける。
「君を守るため?」
「そうだろ」
「本当に?」
「…………」
「彼らは、君の力が自分たちの支配下にあるうちは安心できる」
「支配?」
「教育。訓練。指導。規則。呼び方はいくらでもあります」
神代は両腕を軽く広げた。
「結局は同じです。自分たちが扱える範囲へ、君を押し込めている」
「何が言いてえんだよ……」
「君自身も、もう気づいているのでは?」
神代の声が。
少しだけ甘くなる。
「朝凪島で、楽しかったでしょう」
奎星の顔が止まった。
「誰もいない場所で。誰も巻き込む心配をせず。全力で魔法を放って」
砕ける岩。
炎。
爆音。
コンフリンゴ。
笑った自分。
「御影玄一郎の目がなければ」
次。
姿くらまし。
一度。
二度。
三度。
成功。
スズメの背後へ飛び。
抱きついた。
「教師たちが決めた枠の外へ出れば、君はあれほど自由だ」
「……スズメちゃんいたけど」
「監督役としてね」
「一緒に遊んでたぞ」
「…………」
神代が少し黙る。
奎星は眉を寄せた。
「何だよ」
「君は本当に話しづらいですね」
「知らねえよ」
神代は僅かに息を吐いた。
「では、別の話をしましょう」
再び。
その目が細くなる。
「君の祖母が、なぜ君へ魔法を教えなかったと思います?」
「……ばあちゃん?」
「蓮根八重子は、君に魔力が発現する可能性を知っていた」
「知ってたよ」
「それでも教えなかった」
「…………」
「怖かったのでしょう」
奎星の表情が変わる。
「何が」
「君がその力に耐えうる器ではないかもしれない、と」
「…………」
「だから何も知らせず、一般社会へ置いた。魔法など知らないまま一生を終えてくれれば、そのほうが安全だと」
奎星は。
しばらく何も言わなかった。
神代の笑みが深くなる。
だが。
次の瞬間。
「違う」
「……?」
奎星が言った。
「ばあちゃんは、そんなこと言ってねえ」
神代の目が僅かに動く。
「本人から聞いた」
奎星は神代榊を握り直した。
大樹。
鬼火鳥。
八重子。
――珍しいものを持っているとね、それを欲しがる人間が出てくる。
――味方になれと言う奴もいれば、利用しようとする奴もいる。
そして。
――好きに生きてほしかったんだよ。
奎星の眉が寄る。
「ばあちゃんは俺を怖がったんじゃねえ」
一歩。
前へ出る。
「俺に、蓮根家とか鬼火鳥とか霊脈とか、そういう面倒くせえもん背負わせたくなかったんだ」
神代の笑みが薄くなる。
「それは彼女が君へ見せた解釈にすぎません」
「さっきから好き勝手言いやがって……!」
奎星の声が響く。
「人の気持ち、勝手に決めるんじゃねえよ!」
静寂。
神代は。
数秒。
奎星を見つめた。
それから。
笑った。
「……やはり」
「何だよ」
「君は、面白い」
「俺はムカついてる」
「では」
神代が片手を上げる。
「もう一つ、教えてあげましょう」
「いらねえ」
「これから君の未来に、何が待っているかです」
「…………なに?」
神代の指が。
奎星へ向いた。
「これから君が何をするのか」
笑う。
「見届けるのです」
「何を――」
言い終えるより先に。
世界が。
弾けた。
*
火。
最初に見えたのは。
火だった。
「…………え」
マホウトコロが。
燃えていた。
羊脂玉の白い校舎が赤く染まり、窓から黒煙が噴き出している。回廊は崩れ、星迎祭で飾ったままだった星灯籠が炎を纏って空から落ちてくる。
叫び声。
爆発。
泣いている子供。
教師の怒号。
黒い服を着た魔法使いたち。
黒曜石。
赤黒い文字。
「やめろ!!」
奎星が走っていた。
違う。
見ているだけではない。
自分だった。
身体が。
本当に動いている。
神代榊を振る。
「プロテゴ!!」
巨大な防壁が下級生たちの前へ広がる。
直後。
黒い魔法が衝突する。
ひび。
「っ……!」
防壁が砕けた。
間に合わない。
別の方向。
校舎の塔が崩れる。
「奎星!!」
日向の声。
振り向く。
遠い。
誰かが倒れている。
誰なのか。
煙で見えない。
「待ってろ!!」
走る。
けれど。
次の爆発。
間に合わない。
また。
誰かが倒れる。
「くそっ!」
別の場所。
また。
守れない。
また。
遅い。
何度魔法を撃っても。
何人助けても。
その向こうで。
もっと多くの誰かが傷つく。
「なんでだよ……」
神代榊を握る手が震える。
「なんで……」
涙が出ていた。
悔しい。
怖い。
怒り。
全部。
本物だった。
「俺が……」
炎の中で。
奎星が叫んだ。
「俺が強ければ守れたのに!!」
その瞬間。
景色が変わる。
*
夜。
第零書庫。
机の上へ。
開いてはいけない本が積み上がっている。
古代文字。
禁術。
現代では使用を禁じられた術。
「…………」
奎星は読んでいた。
寝ていない。
目の下には濃い隈。
制服も汚れたまま。
神代榊の周囲へ。
青白い魔力が滲んでいる。
「もっと……」
頁をめくる。
「もっと強くならねえと」
背後。
扉が開く。
御影がいた。
「蓮根」
「…………」
「何をしている」
「勉強」
「その本を閉じろ」
「嫌だ」
「閉じろ」
「なんで」
「今のお前に必要なものじゃない」
「またそれ?」
奎星の顔が。
ゆっくり上がる。
「また、俺に弱いままでいろって?」
「そうは言っていない」
「じゃ何だよ!」
机を叩く。
魔力が弾ける。
本が何冊も宙へ浮いた。
「俺がもっと強ければ、あの日みんな守れた!」
「違う」
「何が違うんだよ!!」
御影は奎星を見る。
いつもの。
あの目。
「お前が今欲しがってるのは強さじゃない」
「…………」
「二度と失敗しない保証だ」
奎星の顔が歪む。
「そんなものはない」
「だったら作る!」
「作れん」
「俺ならできる!!」
「できない!」
御影の怒声。
奎星の胸に。
痛いほど刺さる。
その瞬間。
奎星の中に浮かんだ感情も。
本物だった。
怒り。
――また止める。
――また俺を抑える。
――また。
守れなくなる。
景色が変わる。
*
誰かが。
襲われていた。
下級課程の生徒。
黒い魔法使い。
敵の杖先に。
緑に近い光が集まっている。
間に合わない。
普通の魔法じゃ。
遅い。
「…………」
奎星の口が動く。
知らないはずの。
いや。
知ってしまった。
禁じられた呪文。
神代榊が。
黒い光を纏う。
「奎星、やめろ!!」
誰かが叫ぶ。
それでも。
撃った。
相手が。
倒れた。
動かない。
「…………」
助かった。
後ろの子供は。
生きている。
奎星は荒い息のまま。
倒れた敵を見た。
次に。
助かった子供を見る。
「……ほら」
震えながら。
笑った。
「助かったじゃん」
誰も。
答えない。
「使わなかったら、こいつ死んでたじゃん」
声が少しずつ大きくなる。
「何が悪いんだよ」
景色が変わる。
*
教師たちが。
奎星を囲んでいた。
「杖を下ろせ!」
「嫌だ!」
「蓮根!」
「近づくな!」
神代榊から。
魔力が溢れている。
「俺は守っただけだ!」
「だからといって、使っていい術ではない!」
「じゃあ何使えばよかったんだよ!」
「それを一人で決めるな!」
その言葉で。
何かが切れた。
「じゃあ誰が決めんだよ!!」
奎星が杖を振った。
止めようとした教師が。
吹き飛ぶ。
壁へ叩きつけられる。
動かない。
「…………」
一瞬。
奎星の顔が。
青ざめた。
「先生……?」
別の教師が杖を向ける。
「蓮根、動くな!」
怖い。
捕まる。
杖を奪われる。
力を使えなくなる。
そうなったら。
次に誰かが襲われたとき。
また。
守れない。
「やめろ……」
「杖を置け!」
「やめろって!!」
青白い魔力が爆発した。
もう一人。
倒れる。
「…………」
息が止まる。
二人。
動かない。
奎星の手が震える。
けれど。
心のどこかで。
声がした。
――仕方なかった。
――あいつらが止めようとしたから。
――俺は。
守ろうとしただけだ。
「……俺が悪いんじゃねえ」
奎星の口が。
そう言った。
今の奎星は。
その言葉を聞いて。
吐きそうになった。
「違う……」
けれど。
景色は止まらない。
*
「奎星!」
日向がいた。
その隣に。
楓。
岳。
伊織。
四人とも。
杖を持っている。
でも。
奎星へ向けてはいない。
「もうやめろ」
日向が言った。
「帰ろう」
「……どこに」
「寮だよ」
日向の目が。
赤い。
「いつもの部屋。戻ろうぜ」
岳もいた。
いつもの大きな身体で。
でも。
笑っていない。
「飯食おう」
「…………」
「腹減った」
こんなときまで。
岳だった。
伊織が。
眼鏡を押し上げる。
「奎星」
声が。
いつもより優しい。
「君は間違ってる」
「…………」
「でも、まだ戻れる」
楓が。
日向の少し前へ出る。
「誰もあんたを敵だなんて思ってない」
「嘘つけ」
奎星の声が出た。
自分の声。
本当に。
怒っていた。
「みんな俺を止めるじゃん」
「当たり前でしょ!」
楓が叫ぶ。
「今のあんたを止めないで、何が友達よ!」
「俺は守ろうとしてんだよ!!」
「誰を!?」
「みんなだよ!!」
「じゃあ今、誰に杖向けてんのよ!!」
「…………」
神代榊の先。
日向。
楓。
岳。
伊織。
「俺たちだろ」
日向が言った。
「奎星」
一歩。
近づく。
「杖下ろせ」
「来んな」
「大丈夫だから」
「来んな!」
「奎星!」
日向が手を伸ばした。
その瞬間。
奎星の中に。
恐怖が走った。
杖を取られる。
力を奪われる。
何もできなくなる。
また。
守れなくなる。
「来んなぁぁぁ!!」
魔法が。
放たれた。
「――っ」
景色が。
白くなった。
次に見えたとき。
誰かが倒れていた。
赤い髪飾り。
割れた眼鏡。
床へ転がった菓子袋。
日向の杖。
「…………」
奎星の呼吸が。
止まる。
「やめろ……」
今の奎星が。
呟く。
「やめろよ……」
未来の奎星は。
立っている。
神代榊を持って。
友人たちを見下ろしている。
泣いている。
なのに。
まだ。
杖を手放していない。
*
「蓮根!!」
御影の声。
次の景色。
崩れた校庭。
二人だけ。
御影玄一郎。
蓮根奎星。
御影の左頬には。
いつもの傷。
制服ではなく。
戦闘用の外套。
呼吸が荒い。
何か所も服が裂けている。
それでも。
杖は。
奎星へ向けていなかった。
「もう終わりだ」
「終わってねえ」
「終わりだ!」
「俺はまだ――」
「何を守る!!」
御影の怒声が。
空気を震わせた。
奎星が止まる。
「周りを見ろ!!」
見たくない。
見たくない。
でも。
目が動く。
燃えた学校。
倒れた教師。
友達。
壊れた回廊。
「これのどこが守った結果だ!!」
「…………」
「お前は!」
御影の声が。
震えた。
怒りだけではない。
悲しみ。
後悔。
「俺は……」
言葉が詰まる。
御影が。
あの御影が。
泣きそうな顔をしていた。
「俺は、お前を……!」
拳が震える。
「息子のように思っていた!!」
「…………っ」
今の奎星の胸まで。
痛んだ。
御影は叫んだ。
「馬鹿やって! 怒鳴って! 朝から走らせて! 何度教えても余計なことをして!」
声が掠れる。
「それでも、いつか俺なんかより立派な魔法使いになると思ってた!」
「やめろ……」
「こんなものになるために教えたんじゃない!!」
「やめろ……!」
未来の奎星の顔が。
歪んだ。
「だったら……」
その声に。
憎しみが混じる。
本物だった。
奎星自身が。
感じている。
「だったら、なんで止めたんだよ」
御影が黙る。
「俺がもっと力使ってたら、守れたかもしれねえのに」
「蓮根」
「あんたが制御しろって言った」
「…………」
「あんたが抑えろって言った!」
魔力が。
膨れ上がる。
「奎星!」
「全部……!」
涙。
怒り。
後悔。
それが。
憎しみに変わる。
「あんたが憎い!!!」
魔法が放たれた。
御影が。
倒れた。
「…………」
動かない。
「やめろぉぉぉぉ!!」
今の奎星が叫んだ。
それでも。
止まらない。
景色は。
まだ。
終わらない。
*
静かだった。
燃える音さえ。
遠い。
瓦礫の向こうに。
一人。
立っている。
黒い髪。
小さな身体。
「…………」
奎星の喉が。
完全に閉じた。
「やめろ」
スズメだった。
服は汚れていた。
頬にも煤がついている。
それでも。
杖を構えていない。
「蓮根君」
「やめろ……」
未来の奎星が。
彼女を見る。
「来んな」
「蓮根君」
一歩。
近づく。
「来んなって」
「杖を下ろしてください」
「嫌だ」
「もう十分です」
「嫌だ!」
「あなたは、もう十分苦しみました」
「分かったようなこと言うなよ!」
「分かりません」
スズメの声は。
静かだった。
「全部分かるなどと言いません」
一歩。
「でも」
もう一歩。
「これ以上、一人で背負う必要はありません」
「……止めるのかよ」
「止めます」
「やっぱり」
未来の奎星が。
笑った。
壊れたように。
「スズメちゃんも、俺が怖いんだろ」
スズメが。
黙った。
その沈黙が。
痛い。
「……怖いです」
「…………」
「今のあなたは、怖い」
その言葉が。
刃のように入った。
未来の奎星の目から。
涙が落ちる。
「ほら」
「でも」
スズメが続けた。
「あなたの力が怖いのではありません」
「…………」
「あなたが、あなたでなくなってしまうことが怖いのです」
「やめろ……」
今の奎星が首を振る。
「やめてくれ……」
スズメは。
手を伸ばす。
「帰りましょう」
あの声。
何度も聞いた。
授業のあと。
観測塔の帰り。
八咫小路。
星迎祭。
朝凪島。
「一緒に帰りましょう、蓮根君」
未来の奎星が。
神代榊を上げた。
その杖先が。
スズメへ向く。
「やめろ」
奎星の身体が震える。
「やめろ!!」
杖先へ。
青白い光が集まる。
スズメは逃げない。
「やめろぉぉぉぉぉぉ!!!!!」
世界が。
砕けた。
*
「――っ、は……!」
奎星は。
黒い床へ膝をついていた。
息ができない。
「はっ……はっ……!」
手をつく。
吐きそうだった。
涙が。
床へ落ちる。
神代冥司が。
目の前にいる。
さっきと。
まったく同じ姿で。
穏やかに。
こちらを見ていた。
「……どうでした?」
「…………」
奎星は答えられない。
頭では分かっている。
今のは。
幻覚。
未来。
いや。
神代が見せた。
何か。
実際には起きていない。
御影は生きている。
日向も。
楓も。
岳も。
伊織も。
生きている。
スズメも。
生きている。
分かっている。
なのに。
心が。
理解してくれない。
自分は。
見た。
違う。
体験した。
炎の熱。
守れなかった悔しさ。
もっと力が欲しいという焦り。
禁じられた魔法を使った瞬間の。
恐ろしいほどの納得。
――これで助かるなら、いいじゃん。
そう思った。
本当に。
自分が。
教師を殺した。
友達へ魔法を撃った。
御影を。
憎んだ。
あんなにも世話になった人を。
本気で。
心の底から。
殺したいと思った。
そして。
最後には。
スズメへ。
杖を向けた。
「やめてくれ……」
声が。
震えた。
「もう……やめてくれ……」
神代は。
ゆっくり奎星の前へ屈んだ。
「怖かったでしょう」
「…………」
「ですが」
その声は。
優しかった。
だからこそ。
恐ろしかった。
「これが、君です」
奎星の肩が震える。
「違う……」
「違いません」
「違う……」
「君は既に、その片鱗を何度も見せている」
三門巡り。
黒曜の門が消える直前。
怒りに任せ。
御影から何度も教えられた制御を捨て。
全力で魔法を放った。
第零書庫。
スズメが危険に晒されたとき。
死の呪文の前へ。
考えずに飛び出した。
夏休み。
セクタムセンプラ。
また。
考えるより先に。
自分の身体を差し出した。
「君は、大切なものを守るためなら、自分を顧みない」
神代の声が。
耳へ入る。
「それは今のところ、美徳に見える」
「…………」
「ですが」
神代が笑う。
「自分だけでは足りなくなったら?」
「…………」
「誰か一人を犠牲にすれば、百人を救えるとしたら?」
「やめろ……」
「禁じられた魔法を使えば、烏丸スズメを救えるとしたら?」
「やめろって……!」
「君は使いますよ」
奎星の呼吸が止まる。
否定したい。
なのに。
さっきの未来の中で。
使った。
迷った。
でも。
使った。
「そして一度成功すれば、次も使う」
神代は。
奎星へ手を差し出した。
「君には力がありすぎる」
「…………」
「御影玄一郎では扱えない」
優しく。
「烏丸スズメでは理解できない」
さらに。
「君の友人たちでは、ついて来られない」
奎星は。
差し出された手を見る。
「だから」
神代の笑みが深くなる。
「君の力を、私に委ねなさい」
「…………」
「そうすれば、すべてうまくいく」
穏やかな声。
「私は君を恐れない」
「…………」
「制御という名の鎖で縛りもしない」
「…………」
「君が持つ力を、正しく使ってあげましょう」
奎星の指が。
僅かに動いた。
怖かった。
今見たものが。
あまりにも。
怖かった。
もし。
本当に。
ああなったら。
自分が。
自分を止められなくなったら。
誰かに。
任せたほうが。
いいのかもしれない。
自分より。
知っている人間に。
強い人間に。
未来を。
間違えない人間に。
神代の手が近づく。
「蓮根奎星君」
声が。
優しい。
「君は、一人でその力を持つ必要はない」
「…………」
指先が。
触れそうになる。
そのとき。
ちりん。
「…………」
小さな音がした。
神代の眉が動く。
ちりん。
奎星のポケット。
指先へ。
何かが触れている。
銀色の。
小さな星。
「…………」
呼吸が。
少し止まった。
星迎祭。
観測塔。
花火。
――私は、あなたを嫌ってなどいません。
抱きしめた。
泣いた。
下手くそに踊った。
――あなたは……私にとって、とても大切な人です。
――私から、離れないでください。
そして。
朝凪島。
――あなた一人で行かせるほうが、よほど問題です。
「……違う」
神代の手が止まった。
「何です?」
奎星は。
ポケットの上から。
星を握った。
「違う……」
神代の目が。
僅かに細くなる。
「何がです?」
次に。
御影。
――その言葉を二度と使うな。
――軽く言うな。
怒った顔。
朝練。
何度も。
何度も。
何度も。
派手な魔法ではなく。
人を傷つけない魔法を教えた。
エクスペリアームス。
プロテゴ。
インカーセラス。
必要な分だけ。
自分より弱い人間を。
守れるように。
そして。
八重子。
――好きに生きてほしかったんだよ。
神代は言った。
怖かったから。
器じゃないかもしれないから。
違う。
本人から。
聞いた。
「ちげえだろ……」
「……?」
奎星が。
ゆっくり立ち上がった。
足は震えている。
涙も。
まだ頬に残っている。
今見た未来は。
消えない。
怖い。
本当に。
自分がああなる可能性が。
一欠片もないとは。
言い切れなかった。
だからこそ。
分かった。
「間違ってるのは……」
神代を見る。
「てめえだ……」
神代の顔から。
初めて。
完全に笑みが消えた。
「……何?」
「ありもしねえことを」
奎星は。
神代榊を握り直した。
「俺に見せるんじゃねえ」
「ありもしない?」
「起きてねえだろ」
「未来とは、そういうものです」
「じゃあ決まってもねえだろ!」
奎星の声が。
闇へ響く。
神代の目が見開かれる。
「御影先生が俺を止めるのも!」
一歩。
「スズメちゃんが俺に制御覚えろって言うのも!」
もう一歩。
「ばあちゃんが魔法隠してたのも!」
神代の前へ。
「俺がああならねえようにだろ!!」
「…………」
「怖いから閉じ込めてんじゃねえ!」
奎星の声が震える。
「俺が俺のまま、好きにやれるように……!」
神代榊を。
持ち上げる。
「だから教えてんだろ!!」
神代の表情が。
変わった。
「やめなさい」
奎星は。
杖先を。
自分の胸へ向けた。
「…………」
一度。
やった。
あの幻覚から。
戻ったときと。
同じ。
身体が。
すぐに拒絶する。
手が震える。
怖い。
また。
怖い。
もし。
今回は違ったら。
もし。
ここが現実だったら。
そんな考えが。
頭を過る。
それでも。
ポケットの星を握る。
本物。
あの人から。
もらったもの。
「また……それをするつもりですか」
神代の声が。
初めて。
僅かに焦った。
奎星は笑った。
顔は。
ぐしゃぐしゃだった。
「俺もやりたくねえよ」
「なら杖を下ろしなさい」
「でも」
神代榊の先へ。
青白い光が集まり始める。
「前もこれで起きた」
「蓮根奎星」
「それに」
奎星は神代を見る。
「スズメちゃんに怒られる前に」
少しだけ。
いつもの顔に戻る。
「さっさと起きねえとな」
神代の目が。
鋭くなる。
「やめなさい!」
奎星は息を吸った。
怖い。
嫌だ。
また自分へ撃つなんて。
馬鹿だと思う。
でも。
今度は。
前より少しだけ。
分かっている。
一人ではない。
戻った先に。
いる。
御影が。
日向が。
澪が。
冬真が。
柊木が。
そして。
スズメが。
「目ぇ……覚ませ……!」
神代が。
舌打ちした。
「チッ――!」
同時に。
奎星は。
魔法を放った。
青白い光が。
自分の胸へ。
真正面から突き刺さる。
世界が。
白く。
弾けた。
「――っ!!」
奎星は。
目を覚ました。