マホウトコロ   作:西野圭吾

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第16話 ありもしない未来

 

黒曜の門をくぐった瞬間、奎星は反射的に息を止めた。

 

冷たい。

 

そう感じたのに、風はなかった。

 

一歩前まで背後にいたはずの御影も、スズメも、日向も、澪も、冬真も、柊木もいない。振り返っても門すらなく、ただ見渡す限り、薄暗い空間がどこまでも続いていた。

 

地面はある。

 

けれど石でも土でもない。磨かれた黒曜石にも、水面にも見える真っ黒な床が足元へ広がり、そのさらに下を、赤黒い古代文字が魚の群れのようにゆっくり流れている。天井らしきものは見えず、空もない。遠近感さえ曖昧で、十メートル先と百メートル先の区別がつかなかった。

 

「……スズメちゃん?」

 

声を出す。

 

返事はない。

 

「御影先生!」

 

静寂。

 

「日向! 澪! 冬真先輩!」

 

誰も答えなかった。

 

奎星はすぐに神代榊を抜いた。

 

「……またこれかよ」

 

三門巡りのときとは違う。

 

あのときは、気づけば東京の自室にいた。

 

今回は。

 

最初から。

 

おかしいと分かる。

 

だからこそ、余計に気味が悪かった。

 

奎星は神代榊を握ったまま、慎重に一歩進む。

 

こつ。

 

足音が不自然なほど長く響いた。

 

もう一歩。

 

こつ。

 

すると。

 

「やあ」

 

声がした。

 

奎星の足が止まる。

 

「初めまして……かな」

 

前方。

 

何もなかった闇の中に。

 

いつの間にか一人の男が立っていた。

 

奎星は息を呑んだ。

 

名前は。

 

もう知っている。

 

直接会ったことはない。

 

写真も見ていない。

 

それでも。

 

分かった。

 

おそらく。

 

いや。

 

絶対に。

 

こいつだ。

 

長い黒髪の中には、何本もの白いものが混じっていた。

 

けれど顔は、奇妙なほど若い。

 

皺がない。

 

肌は異様なほど白く、頬にも弛みがない。四十代にも見えるし、三十代にも見える。もっと若いと言われても、一瞬なら信じてしまうかもしれない。

 

なのに。

 

目だけが。

 

古かった。

 

細く、黒く、何十年どころではない時間を見てきたような目。

 

老いているはずの部分だけを無理やり削り取り、若い顔をその上へ貼りつけたような、不自然さがあった。

 

濃い紫の和装。

 

その上に黒い羽織。

 

口元には穏やかな笑み。

 

けれど、その笑みには何の温度もない。

 

男は、まるで茶室へ客でも招いたような声で言った。

 

「蓮根奎星君」

 

「…………」

 

奎星の指が、神代榊を強く握る。

 

「……神代冥司」

 

男の眉がほんの僅かに上がった。

 

「もう名前まで知っているのですね」

 

「てめえが神代か」

 

「ええ」

 

否定しない。

 

隠しもしない。

 

神代冥司は穏やかに笑った。

 

「先日の出来事は、本当に驚きましたよ」

 

「……何が」

 

「あの世界から、君が自分自身の力で目を覚ましたことです」

 

奎星の目が細くなる。

 

「俺自身じゃねえよ」

 

「ほう?」

 

「ばあちゃんが教えてくれたんだ」

 

神代の笑みが。

 

ほんの一瞬だけ。

 

消えた。

 

「……蓮根八重子」

 

声が低くなる。

 

「本当に厄介ですね、あの女は」

 

その言い方に。

 

奎星の中で、何かがすぐ熱を持った。

 

「てめえ」

 

神代榊の杖先が上がる。

 

「ばあちゃんのこと知ってんのか」

 

「もちろん」

 

「何で」

 

「蓮根家を知らずして、私の目的を語ることはできません」

 

「じゃあ語れよ」

 

奎星は一歩前へ出た。

 

「てめえの狙いはなんだよ。黒曜の環なんか作って、久我先生使って第零書庫狙って、鬼火鳥捕まえて、今度は学校中のやつら巻き込んで」

 

声が少しずつ強くなる。

 

「何がしてえんだよ!」

 

神代は動じなかった。

 

むしろ少し愉快そうに目を細める。

 

「君に話しても、私の高尚な思想は理解できないでしょう」

 

「意味わかんねえよ」

 

「でしょうね」

 

「いや、そうじゃなくて」

 

神代が僅かに首を傾げる。

 

奎星は真顔だった。

 

「コーショーってなんだ」

 

「…………」

 

初めて。

 

神代冥司が黙った。

 

ほんの二秒。

 

けれど、奎星には十分だった。

 

「何その顔」

 

「……そこからですか?」

 

「何だよ」

 

「いえ」

 

神代は額へ指先を当てた。

 

「なるほど。久我から聞いていた印象以上ですね」

 

「悪口?」

 

「半分ほど」

 

「半分は?」

 

「まだ決めかねています」

 

「ムカつくなこいつ!」

 

奎星は神代榊を振り抜いた。

 

「ステューピファイ!」

 

赤い閃光が一直線に神代へ飛ぶ。

 

速い。

 

完全に身体の中央を捉えていた。

 

だが。

 

光は。

 

神代の胸を。

 

すり抜けた。

 

「なに!?」

 

魔法はそのまま後方の闇へ消えていく。

 

神代の衣服も。

 

髪も。

 

何一つ揺れていない。

 

「無駄ですよ」

 

「……!」

 

「これは私の実体ではない」

 

神代は自分の胸元を指で軽く叩く。

 

そこには確かに身体があるように見える。

 

けれど。

 

どこか。

 

薄い。

 

「前に君が見た夢と、似たようなものです」

 

奎星は杖を下ろさなかった。

 

「……何の用だよ」

 

「君には理想の世界を見せても無駄だと思いましてね」

 

神代はゆっくり歩き始めた。

 

足音はしない。

 

「祖母を生き返らせ、家族を近くに置き、友人を揃え、烏丸スズメとの障害まで取り除いた。それでも君は戻った」

 

奎星の眉が動く。

 

「……見てたのか」

 

「私の門ですよ?」

 

神代は笑う。

 

「なら、今度は直接話すことにしたのです」

 

「直接なら姿見せりゃいいだろ」

 

「あいにく、私は多忙でね」

 

「忙しい奴が人の夢に出てくんなよ」

 

「君に伝えておきたいことがあるのですよ」

 

「あ?」

 

神代が足を止めた。

 

その目が。

 

奎星だけを見る。

 

「なぜ御影玄一郎や烏丸スズメが、君に制御を覚えさせると思います?」

 

「…………」

 

あまりにも唐突だった。

 

奎星は眉を寄せる。

 

「そりゃ……危ないからだろ」

 

「そう」

 

神代が微笑む。

 

「君が危険だからです」

 

「……は?」

 

「一万を超える魔力。十七歳まで一度も魔法教育を受けていなかったにもかかわらず、異常な速度で術を習得する。そして死の呪文を、杖すら持たずに消した」

 

神代の声はどこまでも穏やかだった。

 

「そんな存在が、自分たちの理解の外へ行ってしまえば不安でしょう?」

 

「何言ってんだよ」

 

「御影玄一郎は君へ抑えろと言い続けた」

 

足元の黒い床が揺れる。

 

そこへ。

 

一瞬だけ。

 

映像が浮かんだ。

 

御影の授業。

 

――狙うのは杖だけだ。

 

――人形そのものを飛ばすな。

 

次。

 

――必要な分だけ使え。

 

次。

 

朝練。

 

息を切らす奎星。

 

御影の声。

 

――もう一度。

 

次。

 

スズメ。

 

編入直後。

 

――あなたの魔力は、まだ制御できていません。

 

――危険です。

 

「……だから何だよ」

 

奎星の声が低くなる。

 

神代は続ける。

 

「君を守るため?」

 

「そうだろ」

 

「本当に?」

 

「…………」

 

「彼らは、君の力が自分たちの支配下にあるうちは安心できる」

 

「支配?」

 

「教育。訓練。指導。規則。呼び方はいくらでもあります」

 

神代は両腕を軽く広げた。

 

「結局は同じです。自分たちが扱える範囲へ、君を押し込めている」

 

「何が言いてえんだよ……」

 

「君自身も、もう気づいているのでは?」

 

神代の声が。

 

少しだけ甘くなる。

 

「朝凪島で、楽しかったでしょう」

 

奎星の顔が止まった。

 

「誰もいない場所で。誰も巻き込む心配をせず。全力で魔法を放って」

 

砕ける岩。

 

炎。

 

爆音。

 

コンフリンゴ。

 

笑った自分。

 

「御影玄一郎の目がなければ」

 

次。

 

姿くらまし。

 

一度。

 

二度。

 

三度。

 

成功。

 

スズメの背後へ飛び。

 

抱きついた。

 

「教師たちが決めた枠の外へ出れば、君はあれほど自由だ」

 

「……スズメちゃんいたけど」

 

「監督役としてね」

 

「一緒に遊んでたぞ」

 

「…………」

 

神代が少し黙る。

 

奎星は眉を寄せた。

 

「何だよ」

 

「君は本当に話しづらいですね」

 

「知らねえよ」

 

神代は僅かに息を吐いた。

 

「では、別の話をしましょう」

 

再び。

 

その目が細くなる。

 

「君の祖母が、なぜ君へ魔法を教えなかったと思います?」

 

「……ばあちゃん?」

 

「蓮根八重子は、君に魔力が発現する可能性を知っていた」

 

「知ってたよ」

 

「それでも教えなかった」

 

「…………」

 

「怖かったのでしょう」

 

奎星の表情が変わる。

 

「何が」

 

「君がその力に耐えうる器ではないかもしれない、と」

 

「…………」

 

「だから何も知らせず、一般社会へ置いた。魔法など知らないまま一生を終えてくれれば、そのほうが安全だと」

 

奎星は。

 

しばらく何も言わなかった。

 

神代の笑みが深くなる。

 

だが。

 

次の瞬間。

 

「違う」

 

「……?」

 

奎星が言った。

 

「ばあちゃんは、そんなこと言ってねえ」

 

神代の目が僅かに動く。

 

「本人から聞いた」

 

奎星は神代榊を握り直した。

 

大樹。

 

鬼火鳥。

 

八重子。

 

――珍しいものを持っているとね、それを欲しがる人間が出てくる。

 

――味方になれと言う奴もいれば、利用しようとする奴もいる。

 

そして。

 

――好きに生きてほしかったんだよ。

 

奎星の眉が寄る。

 

「ばあちゃんは俺を怖がったんじゃねえ」

 

一歩。

 

前へ出る。

 

「俺に、蓮根家とか鬼火鳥とか霊脈とか、そういう面倒くせえもん背負わせたくなかったんだ」

 

神代の笑みが薄くなる。

 

「それは彼女が君へ見せた解釈にすぎません」

 

「さっきから好き勝手言いやがって……!」

 

奎星の声が響く。

 

「人の気持ち、勝手に決めるんじゃねえよ!」

 

静寂。

 

神代は。

 

数秒。

 

奎星を見つめた。

 

それから。

 

笑った。

 

「……やはり」

 

「何だよ」

 

「君は、面白い」

 

「俺はムカついてる」

 

「では」

 

神代が片手を上げる。

 

「もう一つ、教えてあげましょう」

 

「いらねえ」

 

「これから君の未来に、何が待っているかです」

 

「…………なに?」

 

神代の指が。

 

奎星へ向いた。

 

「これから君が何をするのか」

 

笑う。

 

「見届けるのです」

 

「何を――」

 

言い終えるより先に。

 

世界が。

 

弾けた。

 

 

火。

 

最初に見えたのは。

 

火だった。

 

「…………え」

 

マホウトコロが。

 

燃えていた。

 

羊脂玉の白い校舎が赤く染まり、窓から黒煙が噴き出している。回廊は崩れ、星迎祭で飾ったままだった星灯籠が炎を纏って空から落ちてくる。

 

叫び声。

 

爆発。

 

泣いている子供。

 

教師の怒号。

 

黒い服を着た魔法使いたち。

 

黒曜石。

 

赤黒い文字。

 

「やめろ!!」

 

奎星が走っていた。

 

違う。

 

見ているだけではない。

 

自分だった。

 

身体が。

 

本当に動いている。

 

神代榊を振る。

 

「プロテゴ!!」

 

巨大な防壁が下級生たちの前へ広がる。

 

直後。

 

黒い魔法が衝突する。

 

ひび。

 

「っ……!」

 

防壁が砕けた。

 

間に合わない。

 

別の方向。

 

校舎の塔が崩れる。

 

「奎星!!」

 

日向の声。

 

振り向く。

 

遠い。

 

誰かが倒れている。

 

誰なのか。

 

煙で見えない。

 

「待ってろ!!」

 

走る。

 

けれど。

 

次の爆発。

 

間に合わない。

 

また。

 

誰かが倒れる。

 

「くそっ!」

 

別の場所。

 

また。

 

守れない。

 

また。

 

遅い。

 

何度魔法を撃っても。

 

何人助けても。

 

その向こうで。

 

もっと多くの誰かが傷つく。

 

「なんでだよ……」

 

神代榊を握る手が震える。

 

「なんで……」

 

涙が出ていた。

 

悔しい。

 

怖い。

 

怒り。

 

全部。

 

本物だった。

 

「俺が……」

 

炎の中で。

 

奎星が叫んだ。

 

「俺が強ければ守れたのに!!」

 

その瞬間。

 

景色が変わる。

 

 

夜。

 

第零書庫。

 

机の上へ。

 

開いてはいけない本が積み上がっている。

 

古代文字。

 

禁術。

 

現代では使用を禁じられた術。

 

「…………」

 

奎星は読んでいた。

 

寝ていない。

 

目の下には濃い隈。

 

制服も汚れたまま。

 

神代榊の周囲へ。

 

青白い魔力が滲んでいる。

 

「もっと……」

 

頁をめくる。

 

「もっと強くならねえと」

 

背後。

 

扉が開く。

 

御影がいた。

 

「蓮根」

 

「…………」

 

「何をしている」

 

「勉強」

 

「その本を閉じろ」

 

「嫌だ」

 

「閉じろ」

 

「なんで」

 

「今のお前に必要なものじゃない」

 

「またそれ?」

 

奎星の顔が。

 

ゆっくり上がる。

 

「また、俺に弱いままでいろって?」

 

「そうは言っていない」

 

「じゃ何だよ!」

 

机を叩く。

 

魔力が弾ける。

 

本が何冊も宙へ浮いた。

 

「俺がもっと強ければ、あの日みんな守れた!」

 

「違う」

 

「何が違うんだよ!!」

 

御影は奎星を見る。

 

いつもの。

 

あの目。

 

「お前が今欲しがってるのは強さじゃない」

 

「…………」

 

「二度と失敗しない保証だ」

 

奎星の顔が歪む。

 

「そんなものはない」

 

「だったら作る!」

 

「作れん」

 

「俺ならできる!!」

 

「できない!」

 

御影の怒声。

 

奎星の胸に。

 

痛いほど刺さる。

 

その瞬間。

 

奎星の中に浮かんだ感情も。

 

本物だった。

 

怒り。

 

――また止める。

 

――また俺を抑える。

 

――また。

 

守れなくなる。

 

景色が変わる。

 

 

誰かが。

 

襲われていた。

 

下級課程の生徒。

 

黒い魔法使い。

 

敵の杖先に。

 

緑に近い光が集まっている。

 

間に合わない。

 

普通の魔法じゃ。

 

遅い。

 

「…………」

 

奎星の口が動く。

 

知らないはずの。

 

いや。

 

知ってしまった。

 

禁じられた呪文。

 

神代榊が。

 

黒い光を纏う。

 

「奎星、やめろ!!」

 

誰かが叫ぶ。

 

それでも。

 

撃った。

 

相手が。

 

倒れた。

 

動かない。

 

「…………」

 

助かった。

 

後ろの子供は。

 

生きている。

 

奎星は荒い息のまま。

 

倒れた敵を見た。

 

次に。

 

助かった子供を見る。

 

「……ほら」

 

震えながら。

 

笑った。

 

「助かったじゃん」

 

誰も。

 

答えない。

 

「使わなかったら、こいつ死んでたじゃん」

 

声が少しずつ大きくなる。

 

「何が悪いんだよ」

 

景色が変わる。

 

 

教師たちが。

 

奎星を囲んでいた。

 

「杖を下ろせ!」

 

「嫌だ!」

 

「蓮根!」

 

「近づくな!」

 

神代榊から。

 

魔力が溢れている。

 

「俺は守っただけだ!」

 

「だからといって、使っていい術ではない!」

 

「じゃあ何使えばよかったんだよ!」

 

「それを一人で決めるな!」

 

その言葉で。

 

何かが切れた。

 

「じゃあ誰が決めんだよ!!」

 

奎星が杖を振った。

 

止めようとした教師が。

 

吹き飛ぶ。

 

壁へ叩きつけられる。

 

動かない。

 

「…………」

 

一瞬。

 

奎星の顔が。

 

青ざめた。

 

「先生……?」

 

別の教師が杖を向ける。

 

「蓮根、動くな!」

 

怖い。

 

捕まる。

 

杖を奪われる。

 

力を使えなくなる。

 

そうなったら。

 

次に誰かが襲われたとき。

 

また。

 

守れない。

 

「やめろ……」

 

「杖を置け!」

 

「やめろって!!」

 

青白い魔力が爆発した。

 

もう一人。

 

倒れる。

 

「…………」

 

息が止まる。

 

二人。

 

動かない。

 

奎星の手が震える。

 

けれど。

 

心のどこかで。

 

声がした。

 

――仕方なかった。

 

――あいつらが止めようとしたから。

 

――俺は。

 

守ろうとしただけだ。

 

「……俺が悪いんじゃねえ」

 

奎星の口が。

 

そう言った。

 

今の奎星は。

 

その言葉を聞いて。

 

吐きそうになった。

 

「違う……」

 

けれど。

 

景色は止まらない。

 

 

「奎星!」

 

日向がいた。

 

その隣に。

 

楓。

 

岳。

 

伊織。

 

四人とも。

 

杖を持っている。

 

でも。

 

奎星へ向けてはいない。

 

「もうやめろ」

 

日向が言った。

 

「帰ろう」

 

「……どこに」

 

「寮だよ」

 

日向の目が。

 

赤い。

 

「いつもの部屋。戻ろうぜ」

 

岳もいた。

 

いつもの大きな身体で。

 

でも。

 

笑っていない。

 

「飯食おう」

 

「…………」

 

「腹減った」

 

こんなときまで。

 

岳だった。

 

伊織が。

 

眼鏡を押し上げる。

 

「奎星」

 

声が。

 

いつもより優しい。

 

「君は間違ってる」

 

「…………」

 

「でも、まだ戻れる」

 

楓が。

 

日向の少し前へ出る。

 

「誰もあんたを敵だなんて思ってない」

 

「嘘つけ」

 

奎星の声が出た。

 

自分の声。

 

本当に。

 

怒っていた。

 

「みんな俺を止めるじゃん」

 

「当たり前でしょ!」

 

楓が叫ぶ。

 

「今のあんたを止めないで、何が友達よ!」

 

「俺は守ろうとしてんだよ!!」

 

「誰を!?」

 

「みんなだよ!!」

 

「じゃあ今、誰に杖向けてんのよ!!」

 

「…………」

 

神代榊の先。

 

日向。

 

楓。

 

岳。

 

伊織。

 

「俺たちだろ」

 

日向が言った。

 

「奎星」

 

一歩。

 

近づく。

 

「杖下ろせ」

 

「来んな」

 

「大丈夫だから」

 

「来んな!」

 

「奎星!」

 

日向が手を伸ばした。

 

その瞬間。

 

奎星の中に。

 

恐怖が走った。

 

杖を取られる。

 

力を奪われる。

 

何もできなくなる。

 

また。

 

守れなくなる。

 

「来んなぁぁぁ!!」

 

魔法が。

 

放たれた。

 

「――っ」

 

景色が。

 

白くなった。

 

次に見えたとき。

 

誰かが倒れていた。

 

赤い髪飾り。

 

割れた眼鏡。

 

床へ転がった菓子袋。

 

日向の杖。

 

「…………」

 

奎星の呼吸が。

 

止まる。

 

「やめろ……」

 

今の奎星が。

 

呟く。

 

「やめろよ……」

 

未来の奎星は。

 

立っている。

 

神代榊を持って。

 

友人たちを見下ろしている。

 

泣いている。

 

なのに。

 

まだ。

 

杖を手放していない。

 

 

「蓮根!!」

 

御影の声。

 

次の景色。

 

崩れた校庭。

 

二人だけ。

 

御影玄一郎。

 

蓮根奎星。

 

御影の左頬には。

 

いつもの傷。

 

制服ではなく。

 

戦闘用の外套。

 

呼吸が荒い。

 

何か所も服が裂けている。

 

それでも。

 

杖は。

 

奎星へ向けていなかった。

 

「もう終わりだ」

 

「終わってねえ」

 

「終わりだ!」

 

「俺はまだ――」

 

「何を守る!!」

 

御影の怒声が。

 

空気を震わせた。

 

奎星が止まる。

 

「周りを見ろ!!」

 

見たくない。

 

見たくない。

 

でも。

 

目が動く。

 

燃えた学校。

 

倒れた教師。

 

友達。

 

壊れた回廊。

 

「これのどこが守った結果だ!!」

 

「…………」

 

「お前は!」

 

御影の声が。

 

震えた。

 

怒りだけではない。

 

悲しみ。

 

後悔。

 

「俺は……」

 

言葉が詰まる。

 

御影が。

 

あの御影が。

 

泣きそうな顔をしていた。

 

「俺は、お前を……!」

 

拳が震える。

 

「息子のように思っていた!!」

 

「…………っ」

 

今の奎星の胸まで。

 

痛んだ。

 

御影は叫んだ。

 

「馬鹿やって! 怒鳴って! 朝から走らせて! 何度教えても余計なことをして!」

 

声が掠れる。

 

「それでも、いつか俺なんかより立派な魔法使いになると思ってた!」

 

「やめろ……」

 

「こんなものになるために教えたんじゃない!!」

 

「やめろ……!」

 

未来の奎星の顔が。

 

歪んだ。

 

「だったら……」

 

その声に。

 

憎しみが混じる。

 

本物だった。

 

奎星自身が。

 

感じている。

 

「だったら、なんで止めたんだよ」

 

御影が黙る。

 

「俺がもっと力使ってたら、守れたかもしれねえのに」

 

「蓮根」

 

「あんたが制御しろって言った」

 

「…………」

 

「あんたが抑えろって言った!」

 

魔力が。

 

膨れ上がる。

 

「奎星!」

 

「全部……!」

 

涙。

 

怒り。

 

後悔。

 

それが。

 

憎しみに変わる。

 

「あんたが憎い!!!」

 

魔法が放たれた。

 

御影が。

 

倒れた。

 

「…………」

 

動かない。

 

「やめろぉぉぉぉ!!」

 

今の奎星が叫んだ。

 

それでも。

 

止まらない。

 

景色は。

 

まだ。

 

終わらない。

 

 

静かだった。

 

燃える音さえ。

 

遠い。

 

瓦礫の向こうに。

 

一人。

 

立っている。

 

黒い髪。

 

小さな身体。

 

「…………」

 

奎星の喉が。

 

完全に閉じた。

 

「やめろ」

 

スズメだった。

 

服は汚れていた。

 

頬にも煤がついている。

 

それでも。

 

杖を構えていない。

 

「蓮根君」

 

「やめろ……」

 

未来の奎星が。

 

彼女を見る。

 

「来んな」

 

「蓮根君」

 

一歩。

 

近づく。

 

「来んなって」

 

「杖を下ろしてください」

 

「嫌だ」

 

「もう十分です」

 

「嫌だ!」

 

「あなたは、もう十分苦しみました」

 

「分かったようなこと言うなよ!」

 

「分かりません」

 

スズメの声は。

 

静かだった。

 

「全部分かるなどと言いません」

 

一歩。

 

「でも」

 

もう一歩。

 

「これ以上、一人で背負う必要はありません」

 

「……止めるのかよ」

 

「止めます」

 

「やっぱり」

 

未来の奎星が。

 

笑った。

 

壊れたように。

 

「スズメちゃんも、俺が怖いんだろ」

 

スズメが。

 

黙った。

 

その沈黙が。

 

痛い。

 

「……怖いです」

 

「…………」

 

「今のあなたは、怖い」

 

その言葉が。

 

刃のように入った。

 

未来の奎星の目から。

 

涙が落ちる。

 

「ほら」

 

「でも」

 

スズメが続けた。

 

「あなたの力が怖いのではありません」

 

「…………」

 

「あなたが、あなたでなくなってしまうことが怖いのです」

 

「やめろ……」

 

今の奎星が首を振る。

 

「やめてくれ……」

 

スズメは。

 

手を伸ばす。

 

「帰りましょう」

 

あの声。

 

何度も聞いた。

 

授業のあと。

 

観測塔の帰り。

 

八咫小路。

 

星迎祭。

 

朝凪島。

 

「一緒に帰りましょう、蓮根君」

 

未来の奎星が。

 

神代榊を上げた。

 

その杖先が。

 

スズメへ向く。

 

「やめろ」

 

奎星の身体が震える。

 

「やめろ!!」

 

杖先へ。

 

青白い光が集まる。

 

スズメは逃げない。

 

「やめろぉぉぉぉぉぉ!!!!!」

 

世界が。

 

砕けた。

 

 

「――っ、は……!」

 

奎星は。

 

黒い床へ膝をついていた。

 

息ができない。

 

「はっ……はっ……!」

 

手をつく。

 

吐きそうだった。

 

涙が。

 

床へ落ちる。

 

神代冥司が。

 

目の前にいる。

 

さっきと。

 

まったく同じ姿で。

 

穏やかに。

 

こちらを見ていた。

 

「……どうでした?」

 

「…………」

 

奎星は答えられない。

 

頭では分かっている。

 

今のは。

 

幻覚。

 

未来。

 

いや。

 

神代が見せた。

 

何か。

 

実際には起きていない。

 

御影は生きている。

 

日向も。

 

楓も。

 

岳も。

 

伊織も。

 

生きている。

 

スズメも。

 

生きている。

 

分かっている。

 

なのに。

 

心が。

 

理解してくれない。

 

自分は。

 

見た。

 

違う。

 

体験した。

 

炎の熱。

 

守れなかった悔しさ。

 

もっと力が欲しいという焦り。

 

禁じられた魔法を使った瞬間の。

 

恐ろしいほどの納得。

 

――これで助かるなら、いいじゃん。

 

そう思った。

 

本当に。

 

自分が。

 

教師を殺した。

 

友達へ魔法を撃った。

 

御影を。

 

憎んだ。

 

あんなにも世話になった人を。

 

本気で。

 

心の底から。

 

殺したいと思った。

 

そして。

 

最後には。

 

スズメへ。

 

杖を向けた。

 

「やめてくれ……」

 

声が。

 

震えた。

 

「もう……やめてくれ……」

 

神代は。

 

ゆっくり奎星の前へ屈んだ。

 

「怖かったでしょう」

 

「…………」

 

「ですが」

 

その声は。

 

優しかった。

 

だからこそ。

 

恐ろしかった。

 

「これが、君です」

 

奎星の肩が震える。

 

「違う……」

 

「違いません」

 

「違う……」

 

「君は既に、その片鱗を何度も見せている」

 

三門巡り。

 

黒曜の門が消える直前。

 

怒りに任せ。

 

御影から何度も教えられた制御を捨て。

 

全力で魔法を放った。

 

第零書庫。

 

スズメが危険に晒されたとき。

 

死の呪文の前へ。

 

考えずに飛び出した。

 

夏休み。

 

セクタムセンプラ。

 

また。

 

考えるより先に。

 

自分の身体を差し出した。

 

「君は、大切なものを守るためなら、自分を顧みない」

 

神代の声が。

 

耳へ入る。

 

「それは今のところ、美徳に見える」

 

「…………」

 

「ですが」

 

神代が笑う。

 

「自分だけでは足りなくなったら?」

 

「…………」

 

「誰か一人を犠牲にすれば、百人を救えるとしたら?」

 

「やめろ……」

 

「禁じられた魔法を使えば、烏丸スズメを救えるとしたら?」

 

「やめろって……!」

 

「君は使いますよ」

 

奎星の呼吸が止まる。

 

否定したい。

 

なのに。

 

さっきの未来の中で。

 

使った。

 

迷った。

 

でも。

 

使った。

 

「そして一度成功すれば、次も使う」

 

神代は。

 

奎星へ手を差し出した。

 

「君には力がありすぎる」

 

「…………」

 

「御影玄一郎では扱えない」

 

優しく。

 

「烏丸スズメでは理解できない」

 

さらに。

 

「君の友人たちでは、ついて来られない」

 

奎星は。

 

差し出された手を見る。

 

「だから」

 

神代の笑みが深くなる。

 

「君の力を、私に委ねなさい」

 

「…………」

 

「そうすれば、すべてうまくいく」

 

穏やかな声。

 

「私は君を恐れない」

 

「…………」

 

「制御という名の鎖で縛りもしない」

 

「…………」

 

「君が持つ力を、正しく使ってあげましょう」

 

奎星の指が。

 

僅かに動いた。

 

怖かった。

 

今見たものが。

 

あまりにも。

 

怖かった。

 

もし。

 

本当に。

 

ああなったら。

 

自分が。

 

自分を止められなくなったら。

 

誰かに。

 

任せたほうが。

 

いいのかもしれない。

 

自分より。

 

知っている人間に。

 

強い人間に。

 

未来を。

 

間違えない人間に。

 

神代の手が近づく。

 

「蓮根奎星君」

 

声が。

 

優しい。

 

「君は、一人でその力を持つ必要はない」

 

「…………」

 

指先が。

 

触れそうになる。

 

そのとき。

 

ちりん。

 

「…………」

 

小さな音がした。

 

神代の眉が動く。

 

ちりん。

 

奎星のポケット。

 

指先へ。

 

何かが触れている。

 

銀色の。

 

小さな星。

 

「…………」

 

呼吸が。

 

少し止まった。

 

星迎祭。

 

観測塔。

 

花火。

 

――私は、あなたを嫌ってなどいません。

 

抱きしめた。

 

泣いた。

 

下手くそに踊った。

 

――あなたは……私にとって、とても大切な人です。

 

――私から、離れないでください。

 

そして。

 

朝凪島。

 

――あなた一人で行かせるほうが、よほど問題です。

 

「……違う」

 

神代の手が止まった。

 

「何です?」

 

奎星は。

 

ポケットの上から。

 

星を握った。

 

「違う……」

 

神代の目が。

 

僅かに細くなる。

 

「何がです?」

 

次に。

 

御影。

 

――その言葉を二度と使うな。

 

――軽く言うな。

 

怒った顔。

 

朝練。

 

何度も。

 

何度も。

 

何度も。

 

派手な魔法ではなく。

 

人を傷つけない魔法を教えた。

 

エクスペリアームス。

 

プロテゴ。

 

インカーセラス。

 

必要な分だけ。

 

自分より弱い人間を。

 

守れるように。

 

そして。

 

八重子。

 

――好きに生きてほしかったんだよ。

 

神代は言った。

 

怖かったから。

 

器じゃないかもしれないから。

 

違う。

 

本人から。

 

聞いた。

 

「ちげえだろ……」

 

「……?」

 

奎星が。

 

ゆっくり立ち上がった。

 

足は震えている。

 

涙も。

 

まだ頬に残っている。

 

今見た未来は。

 

消えない。

 

怖い。

 

本当に。

 

自分がああなる可能性が。

 

一欠片もないとは。

 

言い切れなかった。

 

だからこそ。

 

分かった。

 

「間違ってるのは……」

 

神代を見る。

 

「てめえだ……」

 

神代の顔から。

 

初めて。

 

完全に笑みが消えた。

 

「……何?」

 

「ありもしねえことを」

 

奎星は。

 

神代榊を握り直した。

 

「俺に見せるんじゃねえ」

 

「ありもしない?」

 

「起きてねえだろ」

 

「未来とは、そういうものです」

 

「じゃあ決まってもねえだろ!」

 

奎星の声が。

 

闇へ響く。

 

神代の目が見開かれる。

 

「御影先生が俺を止めるのも!」

 

一歩。

 

「スズメちゃんが俺に制御覚えろって言うのも!」

 

もう一歩。

 

「ばあちゃんが魔法隠してたのも!」

 

神代の前へ。

 

「俺がああならねえようにだろ!!」

 

「…………」

 

「怖いから閉じ込めてんじゃねえ!」

 

奎星の声が震える。

 

「俺が俺のまま、好きにやれるように……!」

 

神代榊を。

 

持ち上げる。

 

「だから教えてんだろ!!」

 

神代の表情が。

 

変わった。

 

「やめなさい」

 

奎星は。

 

杖先を。

 

自分の胸へ向けた。

 

「…………」

 

一度。

 

やった。

 

あの幻覚から。

 

戻ったときと。

 

同じ。

 

身体が。

 

すぐに拒絶する。

 

手が震える。

 

怖い。

 

また。

 

怖い。

 

もし。

 

今回は違ったら。

 

もし。

 

ここが現実だったら。

 

そんな考えが。

 

頭を過る。

 

それでも。

 

ポケットの星を握る。

 

本物。

 

あの人から。

 

もらったもの。

 

「また……それをするつもりですか」

 

神代の声が。

 

初めて。

 

僅かに焦った。

 

奎星は笑った。

 

顔は。

 

ぐしゃぐしゃだった。

 

「俺もやりたくねえよ」

 

「なら杖を下ろしなさい」

 

「でも」

 

神代榊の先へ。

 

青白い光が集まり始める。

 

「前もこれで起きた」

 

「蓮根奎星」

 

「それに」

 

奎星は神代を見る。

 

「スズメちゃんに怒られる前に」

 

少しだけ。

 

いつもの顔に戻る。

 

「さっさと起きねえとな」

 

神代の目が。

 

鋭くなる。

 

「やめなさい!」

 

奎星は息を吸った。

 

怖い。

 

嫌だ。

 

また自分へ撃つなんて。

 

馬鹿だと思う。

 

でも。

 

今度は。

 

前より少しだけ。

 

分かっている。

 

一人ではない。

 

戻った先に。

 

いる。

 

御影が。

 

日向が。

 

澪が。

 

冬真が。

 

柊木が。

 

そして。

 

スズメが。

 

「目ぇ……覚ませ……!」

 

神代が。

 

舌打ちした。

 

「チッ――!」

 

同時に。

 

奎星は。

 

魔法を放った。

 

青白い光が。

 

自分の胸へ。

 

真正面から突き刺さる。

 

世界が。

 

白く。

 

弾けた。

 

「――っ!!」

 

奎星は。

 

目を覚ました。

 

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