「――っ!!」
奎星は大きく息を吸い込んだ。
胸が跳ね、肺へ一気に流れ込んだ冷たい空気に咳き込みながら、両手を黒い床へつく。
「げほっ……はっ、はっ……!」
目の前に神代冥司はいない。
燃え盛るマホウトコロも、倒れた友人たちも、御影の亡骸も、杖を向けたスズメもいない。
足元にあるのは、黒曜石とも水面ともつかない不気味な床。その下を、赤黒い古代文字がゆっくりと流れている。
戻った。
あの男が見せた、ありもしない未来から。
「……っ、戻った……!」
思わず胸を押さえる。
心臓は痛いほど速く、全身には汗が滲み、指先まで細かく震えていた。何より恐ろしいのは、ついさっきまで自分の中に確かに存在した憎しみが、まだ心の奥へ薄く貼りついていることだった。
御影を憎んだ。
友人へ魔法を撃った。
最後には、スズメへ杖を向けた。
起きていない。
全部、神代が見せた偽物だ。
それでも、そこで感じた怒りも、恐怖も、憎しみも、あまりにも本物だった。
「……最悪だ、あいつ……」
奎星が袖で顔を乱暴に拭った、そのときだった。
すぐ近くで、立て続けに二つの破裂音が響いた。
「――うわああああっ!!」
「っ……!」
奎星が顔を上げる。
少し離れた床の上で、日向が弾かれたように飛び起きていた。さらにその向こうでは冬真も片膝をつき、肩を大きく上下させている。
「日向! 冬真先輩!」
「奎星!?」
日向は自分の身体を慌てて見回した。
腕。
胸。
足。
顔。
全部ある。
「生きてるっ!? 生きてる俺!?」
「生きてる生きてる!」
「マジ!?」
「多分!」
「多分やめろ!!」
日向は自分の頬を両手でぱんぱんと叩いた。尋常ではない量の汗をかき、髪は額へべったりと張りついている。
冬真も普段の落ち着いた顔ではなかった。どうにか呼吸を整えようとしているが、握った杖の先が僅かに震えている。
奎星は二人を見比べた。
「どうやって起きた?」
「どうやってって……」
日向が顔を上げる。
そして、ものすごく嫌そうな顔をした。
「……お前が言ってたやつ」
「俺?」
「ほら」
日向は自分の胸元を指差す。
「《だいぶ都合のいい世界だなって思ったら、自分に魔法撃て》って」
「…………」
奎星の目が輝いた。
「役立ったじゃん!!」
「二度と言うな!!」
「何でだよ!」
「あんなもん人に勧める方法じゃねえよ!! めちゃくちゃ怖かったわ!!」
「でも起きたじゃん!」
「結果論だろ!!」
冬真が荒い息の合間に、静かに口を挟んだ。
「……俺も、それで戻った」
奎星が勢いよく振り返る。
「先輩も!?」
「ああ」
「ほら!!」
「ほらじゃねえ!!」
日向が叫んだ。
冬真は額の汗を袖で拭う。
彼が何を見ていたのかまでは言わなかった。奎星も訊かなかったし、日向も何も尋ねない。
三人とも、もう分かっていた。
ここは、そういう場所だ。
一番欲しいもの。
一番怖いもの。
一番触れられたくないもの。
そこへ勝手に踏み込み、心の奥から引きずり出してくる。
「……他のみんなは?」
日向の声で、奎星も我に返った。
辺りを見る。
いた。
少し離れた場所に澪。その隣には柊木が倒れている。
そして。
スズメ。
さらに向こうには。
御影もいた。
「スズメちゃん!」
奎星は真っ先に駆け寄ろうとして、途中で足を止めた。
前と同じだ。
ただ呼びかけ、身体を揺らしたところで、夢の中に囚われている人間が目を覚ますとは限らない。
なら。
今、自分にできることは一つ。
「……いける」
奎星は神代榊を握った。
日向がすぐに気づく。
「守護霊?」
「昨日、冬真先輩起こしただろ」
奎星は一度目を閉じた。
ついさっきまで見せられていた光景を、頭の外へ追い出す。
燃える学校ではない。
自分が壊した未来でもない。
戻る場所。
日向。
楓。
岳。
伊織。
御影。
そして。
星迎祭の夜。
左手がポケットの中にある銀色の星へ触れる。
本物。
ちゃんとここにある。
「エクスペクト・パトローナム!」
銀白色の光が神代榊から伸び、空中で大きな翼を開いた。
一羽の銀色の鴉。
奎星の守護霊が、羽音すら立てずに黒い空間を飛んでいく。
最初に澪の上を通った。
その瞬間、彼女の身体から黒い靄が細い煙のように抜ける。
「――っ!」
澪の身体が跳ねた。
「はっ……!」
目を見開き、反射的に床へ手をつく。
「澪!」
「……蓮根、君……?」
「起きた!」
まだ澪は状況を理解しきれていない。
だが、奎星の鴉は止まらず、そのままスズメへ向かった。
「スズメちゃん!」
銀色の翼が彼女の身体を包む。
胸元から抜けた黒い靄が鴉の光へ触れた瞬間、音もなく霧散した。
スズメの指が動く。
次いで。
大きく息を吸った。
「――っ!」
「スズメちゃん!」
「……蓮根、君……?」
瞼が開いた。
その声を聞いた瞬間、奎星の身体から一気に力が抜ける。
「よかったぁ……」
「……?」
スズメは上体を起こしながら、まだぼんやりと奎星を見た。
「何ですか、その顔」
「いや、何でもねえ」
「泣いたのですか?」
「泣いてねえ!」
「目が赤いです」
「寝起き!」
「あなたも今、起きたところでしょう」
「だから寝起き!」
「意味が分かりません」
そこまで言って。
スズメ自身も、何が起きていたのかを思い出したらしい。
ふっと表情が消える。
黒曜の門。
幻覚。
自分が見たもの。
彼女も何も言わなかった。
ただ、反射的に奎星の顔をもう一度見る。
いる。
無事だ。
それだけを確かめるように。
鴉はそのまま柊木の身体を通過した。
「……っ!」
柊木も息を吹き返すように目を開ける。
「ここは……」
「先生!」
澪がすぐに駆け寄った。
「澪ちゃん……あなたも戻ったのですね」
「はい」
奎星は守護霊を大きく旋回させる。
残る一人。
御影。
「御影先生!」
銀の鴉が頭上を通った。
その身体からも。
黒い靄が抜けた。
確かに。
全員が見た。
胸元から離れた黒い煙が、守護霊の光に触れて消えていった。
なのに。
「…………」
御影は目を開けない。
奎星の笑みが消えた。
「……え?」
もう一度。
「エクスペクト・パトローナム!」
銀の鴉が低く飛ぶ。
胸。
頭。
肩。
御影の全身を銀色の光が包む。
けれど。
何も起きない。
「御影先生!」
日向も駆け寄った。
「先生! 起きろって!」
冬真はすぐに御影の首元へ指を当てる。
「呼吸はあります」
「じゃ、なんで……!?」
奎星が御影の肩へ手を置いた。
「御影先生!」
揺らしても。
起きない。
「おい! 俺ら起きたぞ! 先生も起きろよ!」
返事はなかった。
その姿を、スズメは黙って見つめていた。
やがて御影の胸元へ杖をかざす。
微かな魔力反応。
肉体には問題がない。
門の黒い靄も、既にほとんど残っていない。
それでも。
意識だけが。
戻らない。
「……もしかすると」
スズメが呟いた。
奎星が振り返る。
「何?」
スズメは御影から目を離さなかった。
「御影先生自身が……目を覚ますことを拒否しているのかもしれません」
「……え?」
「門の力で起きられないのではなく」
スズメの声が低くなる。
「心の底から、《夢から覚めたくない》と思ってしまっている」
「御影先生が……?」
奎星には信じられなかった。
御影玄一郎。
毎朝まだ暗いうちから起きて、奎星を走らせ、自分も走る。
何があっても冷静で、誰かが危険なら真っ先に前へ出る。
三門巡りの門へ入るときだって、迷わなかった男。
そんな御影が。
偽物の世界に残ることを。
自分から選んでいる。
「何見てんだよ……」
奎星が小さく呟いた。
スズメは少しだけ目を伏せた。
そして。
決める。
「……私が入ります」
「入る?」
奎星が振り向いた。
「どこに?」
「御影先生の心へ」
「……心?」
一拍置いて。
奎星の目が見開かれる。
「真壁さんが日向と澪にやってた、あれ!?」
「はい」
スズメは短く答えた。
「レジリメンスです」
澪の顔が変わる。
日向も、自分が真壁によって起こされたときの感覚を思い出したのだろう。無意識に胸元へ手を置いた。
柊木がすぐ一歩前へ出た。
「待ってください」
スズメが振り返る。
柊木の表情は真剣だった。
「御影さんの心は……危険ですよ」
「分かっています」
「現役ではなくても元禍祓官です。強い魔法使いほど、無意識の精神防御も強い。それに今は、黒曜の門の術式そのものが干渉している」
「はい」
「入ったあなたまで戻れなくなる可能性があります」
「それも分かっています」
「なら――」
「でも」
スズメは御影を見る。
怖い。
普段から怖い。
同僚になった今ですら、廊下の向こうから歩いてくる姿を見ると、学生時代の癖で僅かに背筋が伸びることがある。
けれど。
「私の先生なので」
柊木が言葉を失った。
奎星も黙る。
スズメは御影の傍らへ膝をつき、左手でその手首へ触れた。
脈はある。
強い。
生きている。
「御影先生」
返事はない。
杖先を御影の額へ向け、スズメは一度だけ目を閉じた。
「必ず戻ってきます」
それが誰へ向けた言葉だったのか。
奎星には分からなかった。
御影へ。
自分へ。
あるいは。
ここで待っている人たちへ。
「レジリメンス」
魔法が。
繋がった。
*
最初に聞こえたのは。
子供の笑い声だった。
スズメはゆっくりと目を開ける。
山。
川。
木造の家々。
小さな畑。
炊事場から上がる細い煙。
山間に隠れるように作られた、小さな魔法使いたちの集落だった。
時刻は夕方だろう。
茜色の陽が山の端へ沈みかけ、子供たちが細い道を駆け回っている。
その中に。
一人の少年がいた。
十二歳ほど。
短い黒髪。
日に焼けた顔。
今よりずっと細い身体。
そして。
左頬に、まだ傷がない。
「お兄ちゃん!」
その背後から、小さな女の子が一生懸命に追いかけてくる。
少年が振り向いた。
「小夜、遅いぞ!」
「待ってよ!」
「追いつけ!」
「お兄ちゃんが速いの!」
少女――御影小夜が頬を膨らませる。
少年は笑った。
「……御影、先生……?」
スズメの足が止まった。
信じられない。
あの御影玄一郎が。
子供だった。
当たり前のことだ。
誰にだって、子供の頃はある。
それなのに、今の御影を知っているスズメには、その光景がひどく奇妙に思えた。
少年の御影は、よく笑った。
追いついてきた小夜の頭を雑に撫でて怒られ、母親から夕飯の手伝いをしろと呼ばれれば、「今行く!」と大声で返す。
父親とは庭先で杖を振っていた。
まだ。
上手くない。
「もう一回!」
「今日は終わりだ」
「まだできる!」
「明日やれ」
「今できる!」
父親が笑った。
「誰に似たんだ、そのしつこさ」
「父さんじゃない?」
母親が家の中から言う。
父親が振り返った。
「俺か?」
「絶対そう」
小夜まで笑う。
「お兄ちゃん、父さんそっくり!」
「小夜、お前どっちの味方だ」
「母さん!」
「即答かよ!」
家族が。
笑った。
父も。
母も。
小夜も。
御影も。
スズメは、何も言えなかった。
御影玄一郎の過去など。
ほとんど知らない。
学生だった頃も。
教師になってからも。
御影は自分自身のことを語る男ではなかった。
けれど。
今。
目の前にある。
御影にも。
こんな時間があった。
当たり前に家へ帰り。
当たり前に家族と食事をし。
当たり前に明日が来ると思っていた頃が。
そして。
世界が。
赤く染まった。
*
夜。
火。
悲鳴。
さっきまで笑い声が響いていた集落が。
燃えていた。
「走れ!!」
父親の声が轟く。
十二歳の御影は、小夜の手を掴んでいた。
「父さん!」
「行け!!」
「でも!」
「玄一郎!!」
今まで聞いたことのない声だった。
父親が、息子を怒鳴る。
「小夜を連れて逃げろ!!」
母親も小夜の背を押した。
「お兄ちゃんと行きなさい!」
「ママ!」
「早く!」
後方で黒い魔法が飛ぶ。
父親が防ぐ。
母親も杖を抜く。
御影は。
動けなかった。
「玄一郎!」
父の怒声。
「行け!!」
「……っ!」
十二歳の少年は、小夜の手を握った。
走った。
「お兄ちゃん!」
「走れ!」
「パパとママは!?」
「後から来る!」
「ほんと!?」
「ああ!」
嘘だった。
そのときの御影にも。
分かっていた。
父と母は。
自分たちを逃がすために残った。
それでも。
本当のことなど言えるはずがなかった。
二人は山へ入る。
暗い。
木々の隙間を、魔法の光が走る。
後ろから叫び声が聞こえる。
御影は振り返らない。
小夜の手だけを。
絶対に離さない。
やがて見えてきたのは、小さな洞窟だった。
集落の子供たちが非常時に避難するための横穴。
「小夜、こっち!」
御影が妹を中へ押し込む。
そのとき。
背後から。
声がした。
「見つけた」
「…………」
少年の身体が固まった。
黒い長衣。
知らない魔法使い。
杖先。
御影は反射的に小夜の前へ出た。
震えている。
足も。
手も。
全部。
それでも。
杖を構える。
「来るな」
男が笑った。
「子供か」
「来るな!!」
御影が撃つ。
「ステューピファイ!」
赤い光。
簡単に弾かれた。
「っ!」
もう一度。
「エクスペリアームス!」
防がれる。
「インカーセラス!」
避けられる。
「うわあああっ!!」
何度撃っても。
届かない。
男は。
ただ笑っている。
御影の知っている魔法では。
何一つ。
通用しない。
「お兄ちゃん!」
小夜の声。
守らなければ。
俺が。
守らなければ。
「来んなぁぁぁ!!」
御影が杖を振った。
その瞬間。
白い光が。
顔のすぐ横を走った。
熱。
痛み。
「――っ!」
左頬が裂ける。
血が飛んだ。
少年の身体が地面へ倒れる。
視界が。
暗くなっていく。
最後に聞こえたのは。
「お兄ちゃん!」
小夜が、自分を呼ぶ声だった。
*
目を開ける。
朝だった。
御影は洞窟の中へ倒れていた。
左頬が焼けるように痛い。
乾いた血が顔へこびりついている。
「…………」
身体を起こす。
少し離れたところに、昨夜の闇の魔法使いが倒れていた。
動かない。
誰かが来たのか。
別の戦闘があったのか。
十二歳の御影には分からない。
そんなことは、どうでもよかった。
「……小夜」
声が震える。
横を見る。
いた。
「お兄……ちゃん……」
小さな声。
御影は這うように近づいた。
「小夜!」
妹の身体を抱き起こす。
「大丈夫か!?」
冷たい。
「おい、小夜」
返事はある。
でも。
弱い。
「お兄ちゃん……」
「何だ」
「パパと……ママは……?」
「…………」
御影の口が止まった。
洞窟の外。
遠く。
集落の方角から。
黒い煙が上がっている。
昨日まであった家。
家族。
友人。
近所の人たち。
全部。
あの煙の向こう。
御影は小夜を見る。
泣かなかった。
十二歳。
まだ。
泣いていい子供だった。
それでも。
妹の前では。
笑った。
どうにか。
笑った。
「……ああ」
声が震える。
「無事だよ」
小夜の目が少しだけ開いた。
「ほんと……?」
「ああ」
御影は妹の頭を支えた。
「だから大丈夫だ」
「よかった……」
小夜が。
小さく笑った。
「また……みんなで……ご飯……」
「ああ」
御影の唇が震える。
「食べよう」
「……うん」
「母さんの飯、小夜いっつも残すだろ」
「残さないよ……」
「残す」
「お兄ちゃんが……食べてくれるから……」
「じゃあ今度も食ってやるよ」
御影は笑おうとした。
「だから……」
言葉が。
続かない。
喉が。
閉じる。
それでも言う。
「今は……ゆっくり休んでろ」
小夜の目が。
ゆっくりと閉じた。
「…………」
御影は待った。
次の呼吸を。
来ない。
「……小夜?」
頭を抱える。
「おい」
返事はない。
「起きろ」
身体を揺らす。
「小夜」
動かない。
「もう休んだだろ」
揺らす。
「おい」
声が。
十二歳へ戻る。
「起きろよ」
返事はない。
「小夜」
もう一度。
「小夜!」
何度呼んでも。
御影小夜は。
目を開けなかった。
やがて洞窟の外から、複数の足音が近づいてきた。
禍祓官だった。
ようやく。
助けが来た。
遅かった。
父も。
母も。
小夜も。
集落にいた多くの人間も。
既に死んでいた。
スズメは。
その全部を。
見ていた。
*
十二歳の御影玄一郎は、その後マホウトコロへ入学した。
教師たちは皆、彼を心配した。
当然だった。
家族を一晩で失った。
故郷も。
家も。
友人も。
全部。
心の傷が深すぎる。
眠れない夜が続いた。
食事を残す日もあった。
授業中、炎の弾ける音を聞いただけで、一瞬だけ顔が止まることもあった。
それでも。
何より教師たちを心配させたのは。
御影が。
訓練を。
やめなかったことだった。
朝。
誰よりも早く訓練場へ来る。
杖を振る。
一回。
失敗。
もう一回。
夜。
皆が寮へ戻っても。
杖を振る。
一回。
失敗。
もう一回。
「もう消灯時間だぞ」
教師が止める。
「あと一回」
「御影」
「あと一回だけ」
許される。
撃つ。
失敗。
「……もう一回」
翌朝。
また同じ場所にいる。
決闘大会があれば、すべて出た。
学年が違っても。
上級生でも。
挑んだ。
負ければ、その日のうちに理由を全部書き出した。
翌朝。
直す。
右からの攻撃への反応が遅れた。
なら、同じ攻撃を百回受ける。
防げるまで。
杖を振る瞬間に肩が僅かに上がる。
直す。
一歩余計に下がった。
直す。
力が強すぎた。
直す。
弱すぎた。
直す。
何度も。
何度も。
何度も。
才能がなかったわけではない。
けれど、一度見れば何でもできるような天才でもなかった。
失敗する。
だから。
その失敗を。
二度としないようにする。
また別の失敗をする。
それも。
二度としないようにする。
ただ、その繰り返しだった。
毎朝。
毎晩。
毎日。
毎日。
まるで。
強くなれば。
いつかあの日へ戻れるとでも思っているように。
あの洞窟へ戻って。
小夜の前へ立ちはだかった男を。
今度こそ。
倒せるとでも思っているように。
十八歳になる頃。
御影玄一郎は。
校内で最も強い生徒になっていた。
最後の校内決闘大会。
相手が倒れる。
歓声が上がる。
御影は。
笑わなかった。
勝った。
誰よりも強くなった。
でも。
何も。
戻ってこなかった。
試合のあと、回廊で待っていた一人の女性がいた。
今よりずっと若い。
けれど、穏やかな目と静かな声は何も変わらない。
九重院紫苑。
「御影君」
「はい」
「卒業後について、少しお話があります」
「進路なら決めていません」
「では」
九重院は静かに言った。
「禍祓官という道を、考えてみませんか」
御影の目が変わった。
力を使える。
人を守れる。
あの日。
来るのが遅かった者たち。
今度は。
自分が。
そちらへ行く。
「……詳しく、聞かせてください」
*
そこで。
世界が変わった。
スズメが次に見た御影は。
もう少年ではなかった。
二十代。
禍祓官の制服を着ている。
目の前には、二人の男がいた。
一人は腕を組み、見るからに堅い顔をしている。
真壁征士郎。
もう一人は。
訓練用人形を。
壁ごと吹き飛ばしていた。
轟音。
崩れる壁。
沈黙。
「…………」
御影がゆっくりそちらを見る。
真壁も。
まったく同じ方向を見る。
壁。
ない。
人形。
半分。
訓練場の外。
その中心で。
斎賀玄弥が笑っていた。
「いやあ、ちょっと威力間違えた」
「ちょっとで壁がなくなるか」
御影が低く言う。
「玄一郎、細けえって」
「細かくない」
真壁が額を押さえた。
「初日から施設破壊で報告書を書かせるな」
「征士郎は真面目だなあ」
「お前が不真面目すぎる」
斎賀が御影を見る。
「玄一郎、征士郎がいじめる」
「俺に振るな」
三人。
合うはずがなかった。
御影は無駄を嫌う。
真壁は規則を守る。
斎賀は。
規則を一度確認してから破る。
任務の前も同じだった。
「配置通り動け」
御影が言う。
「分かった分かった」
斎賀が手を振る。
「その返事で一度も配置通り動いたことがないだろ」
真壁が淡々と突っ込む。
「状況って変わるじゃん?」
「お前が変えるんだ」
「征士郎、今日飲み行こうぜ」
「報告書が終わればな」
「じゃ玄一郎」
「俺も報告書だ」
「何だよ、つまんねえな!」
それでも。
三人で行った。
実力だけは。
近かった。
三人とも、それまで自分が一番強い場所で生きてきた。
だから初めて。
追いついてくる相手がいた。
初めて。
自分の失敗を、その場で指摘してくる相手がいた。
「玄一郎、今の右遅かったぞ」
「お前は左を空けすぎだ」
「二人とも敵を追いすぎだ。後衛を見ろ」
「うるせえ堅物!」
「お前にだけは言われたくない」
任務へ出る。
一つ。
二つ。
十。
五十。
難しい任務。
危険な任務。
他の部隊が嫌がるもの。
いつしか、そういう仕事ばかりを任されるようになった。
誰か一人が失敗すれば、残る二人が埋める。
斎賀が前へ出すぎれば御影が戻す。
御影が追い込みすぎれば真壁が止める。
真壁が慎重になりすぎれば、斎賀が笑いながら先へ行く。
いつも。
三人で出た。
そして。
三人で。
帰った。
任務帰り。
三人でくだらない話をした。
疲れきった夜に、斎賀が急に飯へ行こうと言い出す。
真壁が文句を言う。
御影も面倒そうな顔をする。
それでも。
結局。
三人で行く。
御影玄一郎は、いつの間にか少しだけ笑うようになっていた。
家族を失った十二歳の頃から、ずっと強さだけを追い続けていた男が。
ようやく。
自分と同じ速度で歩く人間を。
二人。
見つけた。
*
二〇一四年。
御影、三十五歳。
真壁も同じ。
三人は禍祓官として、最も多くの現場へ出ていた。
そして。
その日。
黒曜の環に繋がる拠点が見つかった。
「人質を確認!」
地下。
崩れかけた魔法施設。
黒曜石。
赤黒い術式。
泣いている人々。
追ってくる敵。
「先に出せ!」
御影が叫ぶ。
「出口の術式が持たん!」
真壁が人質の列を誘導する。
「玄弥!」
御影が振り返る。
斎賀が。
後方にいた。
敵が来る方向へ一人で立ち、いつものように笑っている。
「先行け!」
「何言ってる!」
「ここ狭いんだよ! 三人いるより俺一人のほうが暴れられる!」
「玄弥!」
真壁が叫ぶ。
斎賀は。
いつもの。
人を食った笑みだった。
「人質優先だろ?」
御影が止まる。
その言葉は。
正しい。
禍祓官として。
絶対に。
正しい。
「玄一郎!」
真壁が叫ぶ。
構造が崩れ始める。
天井から石が落ちる。
人質。
斎賀。
選ばなければならない。
「……っ」
御影は。
人質のほうへ走った。
「絶対戻れよ!!」
背後へ怒鳴る。
斎賀の声が返ってきた。
「誰に言ってんだ!」
それが。
最後だった。
人質は。
全員。
救出した。
犠牲者は。
出なかった。
禍祓官として見れば。
成功だった。
ただ一人。
斎賀玄弥だけが。
帰ってこなかった。
「戻る」
外へ出た御影は。
即座に言った。
上官が止める。
「施設内部が崩壊している!」
「玄弥がいる」
「生存反応はない」
「確認してないだろ!」
「現場の術式が不安定すぎる!」
「だから何だ!!」
真壁も隣にいた。
「捜索班を組め」
「現状では二次被害の危険が――」
「一人残っている!」
「真壁」
「仲間だ!!」
御影も。
真壁も。
怒った。
訴えた。
探した。
魔法省は最低限の捜索を行った。
記録を残した。
危険区域。
生存反応なし。
行方不明。
推定死亡。
そう処理された。
「……ふざけるな」
御影は自分で探した。
真壁も探した。
休みの日。
任務の合間。
手掛かりがあれば。
全国どこへでも行った。
噂。
黒曜石。
闇市場。
目撃証言。
全部。
追った。
一年。
二年。
五年。
それでも。
いない。
やがて御影は禍祓官を辞め、マホウトコロへ戻った。
教師になった。
真壁は魔法省に残り、監察局へ進んだ。
道が。
分かれた。
それでも最初の頃は、会うたび同じことを訊いた。
「何かあったか」
「ない」
「そっちは」
「ない」
それだけ。
やがて会う回数が減った。
探す回数も減った。
そして。
いつしか。
二人とも。
探すのをやめた。
十二年後。
斎賀玄弥は。
生きていた。
黒曜の環の側で。
*
スズメは。
全部を見た。
十二歳の御影。
十八歳の御影。
禍祓官だった御影。
斎賀と真壁と笑っていた御影。
斎賀を探し続けていた御影。
そして。
現在。
四十七歳の御影玄一郎。
その男が。
いた。
最初の。
洞窟に。
「…………」
スズメは足を止めた。
景色は、あの日と同じだった。
燃える集落。
薄暗い洞窟。
幼い小夜。
闇の魔法使い。
けれど。
一つだけ。
違う。
御影が。
強い。
「ステューピファイ」
赤い光。
闇の魔法使いが吹き飛ぶ。
男が起き上がるより早く。
「インカーセラス」
拘束。
「エクスペリアームス」
杖を飛ばす。
男が倒れる。
完全に。
御影の勝ちだった。
「…………」
御影が振り返る。
「お兄ちゃん!」
小夜がいる。
生きている。
無傷で。
その向こうから。
父と母も走ってくる。
「玄一郎!」
「父さん」
「小夜!」
母が妹を抱きしめる。
「よかった……!」
御影も。
その輪へ入る。
四人が。
抱き合う。
「…………」
そして。
景色が戻った。
また洞窟。
闇の魔法使い。
御影が倒す。
小夜を守る。
父と母が来る。
四人で帰る。
また。
最初へ。
闇の魔法使い。
倒す。
家族。
救う。
もう一度。
また。
何度も。
何度も。
何度も。
御影玄一郎は。
四十七歳になった自分の力で。
十二歳のあの日を。
やり直し続けていた。
「…………御影先生」
スズメが小さく呼ぶ。
聞こえていない。
また。
景色が変わる。
二〇一四年。
「先行け!」
斎賀が笑う。
今度の御影は。
人質のほうへ行かなかった。
「玄一郎!?」
真壁が叫ぶ。
「人質を頼む!」
「お前は!?」
御影は。
斎賀へ向かって走る。
「玄弥!」
「は!?」
敵。
倒す。
一人。
二人。
三人。
斎賀の腕を掴む。
「帰るぞ!」
「おい、人質――」
「征士郎がいる!」
二人で戻る。
施設が崩れる。
出口。
真壁。
人質。
全員。
いる。
「遅い!」
真壁が怒鳴る。
斎賀は笑う。
「悪い悪い」
御影も。
ほんの少し。
笑う。
三人。
揃う。
帰る。
そして。
また。
最初。
斎賀を助ける。
また。
助ける。
また。
今度こそ。
失わない。
「御影先生!」
スズメの声が。
初めて。
世界へ届いた。
御影が止まる。
振り返る。
「…………烏丸?」
「目を覚ましてください」
御影の目が細くなる。
「何をしている」
「あなたを起こしに来ました」
「必要ない」
即答だった。
「御影先生」
「出ていけ」
「聞いてください」
「黙れ」
低い。
いつもの声。
それでも。
スズメは動かなかった。
「あなたは今、神代に幻想を見せられています!」
その瞬間。
御影の顔が歪んだ。
「そんなの分かってる!!!」
怒声。
洞窟全体が震えた。
スズメが一瞬だけ言葉を失う。
御影は。
分かっていた。
ここが偽物だと。
小夜がもういないことも。
父も。
母も。
斎賀を救った過去など存在しないことも。
全部。
最初から。
分かっている。
それでも。
「でも!!」
拳が震える。
「ようやく強くなったんだ!!」
「…………」
「ずっと……!」
御影の声が掠れた。
「ずっと、この時のために強くなったんだ!!」
その瞬間。
四十七歳の男の姿が。
揺れる。
身体が縮む。
戦闘用の外套が消える。
大きな手が。
小さくなる。
左頬の傷だけが。
まだ。
血を流している。
そこにいたのは。
十二歳の。
御影玄一郎だった。
「俺が強ければ……」
少年の声。
「父さんも、母さんも死ななかった」
「…………」
「小夜も」
小さな手が震える。
「俺が勝てれば……」
涙が落ちる。
「小夜を守れた」
スズメの胸が締めつけられた。
どれだけ強くなっても。
どれだけ平気な顔をするのが上手くなっても。
どれだけ生徒の前で。
冷静な教師でいても。
御影玄一郎は。
ずっと。
ここにいた。
十二歳。
洞窟。
冷たくなった妹を腕へ抱いたまま。
何もできなかった。
あの日に。
強くなれば。
いつか、ここから出られると思っていた。
だから強くなった。
負けるたびにやり直した。
失敗するたびに直した。
誰よりも強くなった。
なのに。
大人になったあと。
もう一度。
失った。
斎賀玄弥。
今度は。
自分と同じ速度で歩いていた男を。
「御影先生」
スズメが一歩近づく。
「来るな」
「嫌です」
「烏丸」
「嫌です」
「これは命令だ」
「今は同僚です」
御影が。
僅かに顔を上げた。
その言葉。
どこかで。
何度も。
聞いている。
学校の回廊。
大量の本を抱えた、小柄な女性。
九歳の頃から知っている少女。
教師になって。
ずいぶん口が達者になった。
「……生意気になったな」
御影が呟く。
スズメは少しだけ笑った。
「あなたの生徒でしたから」
「…………」
「九歳の頃から」
スズメは続ける。
「あなたは、怖い先生でした」
「……そうか」
「今も怖いです」
「お前」
「本当です」
ほんの少し。
昔の御影の顔が戻った。
スズメは言った。
「廊下の向こうにあなたが見えるだけで、美琴と一緒に姿勢を正していました」
「一人、逃げてなかったか」
「美琴です」
「そうか」
「私は逃げていません」
「知ってる」
短い会話。
ほんの一瞬だけ。
洞窟を包んでいた炎の音が遠くなる。
「でも」
スズメの声が、再び真剣になった。
「怖かったけれど、知っていました」
御影が見る。
「御影先生は、生徒を見捨てない」
「…………」
「危険なことをすれば怒る。失敗すれば何度でもやり直させる。自分が怒っていても、怖くても、相手が憎くても、それでも必要な力だけを使えと教える」
奎星。
訓練場。
――必要な分だけ使え。
スズメも。
何度も見てきた。
「あなたは、蓮根君へそう教えたでしょう」
御影の目が揺れた。
「力があるから何をしてもいいわけではない。強いだけでは駄目だと」
「…………」
「それを教えた人が」
スズメは。
目の前の十二歳の少年を見る。
「過去をやり直すために、今を捨てるのですか」
「…………」
「お父様も」
御影の拳が強く握られる。
「お母様も」
「やめろ」
「小夜さんも」
「烏丸」
「斎賀さんも」
「黙れ!」
「救いたかったでしょう!」
「黙れ!!」
「分かっています!!」
スズメも。
叫んだ。
御影が。
止まる。
学生だった頃から。
今まで。
御影玄一郎へ。
こんな声をぶつけたことは一度もなかった。
スズメの目にも。
涙が浮かんでいた。
「分かるなどと言うつもりはありません!」
声が震える。
「私はあなたのご家族を知りません! 小夜さんがどんな子だったのかも、あの日のあなたがどれほど苦しかったのかも、斎賀さんを失った十二年間がどんなものだったのかも……全部分かるなんて言えません!」
「…………」
「でも!」
一歩。
近づく。
「今の御影先生なら知っています!」
十二歳の少年へ。
自分の先生だった男へ。
今は同僚になった男へ。
言う。
「朝早くから生徒を走らせて!」
御影の目が僅かに動く。
「何度失敗しても、できるまでやらせて!」
「…………」
「危険なら自分が前へ出て!」
「…………」
「生徒が《死ぬわけじゃない》なんて言えば、本気で怒る!」
朝凪島へ送られる前。
奎星へ向けた。
あの声。
――その言葉を二度と使うな。
――軽く言うな。
「それが」
スズメの声が。
少しだけ柔らかくなる。
「私が知っている御影玄一郎です」
御影は。
何も言わなかった。
炎だけが。
周囲で揺れている。
「先生」
その呼び方に。
御影が顔を上げた。
スズメが九歳の頃から。
何度も。
何度も。
使ってきた言葉。
「私が生徒だった頃」
スズメは、涙を浮かべたまま少しだけ笑う。
「あなたは何度も、私たちを守ってくれました」
「…………」
「だから今度は」
手を差し出す。
「私が、あなたを戻します」
御影はその手を見る。
小さい。
自分よりずっと。
昔から。
ずっと。
小さい。
それでも今。
自分へ向かって差し出されている。
「戻ってください」
「…………」
「蓮根君が待っています」
御影の眉間へ僅かに皺が寄った。
「朝比奈君も。常盤さんも。三枝君も」
黒曜の門。
その向こう側。
「水無瀬さんと、榊君と、岩戸君を連れて帰らなければならない」
「…………」
「まだ終わっていません」
御影が俯く。
「俺がいなくても」
「駄目です」
「柊木がいる」
「駄目です」
「お前もいる」
「駄目です」
「……征士郎も外にいる」
「もっと駄目です」
御影の眉が動いた。
「なぜだ」
「蓮根君を誰が止めるのですか」
「…………」
数秒。
御影が黙る。
スズメがほんの少しだけ笑った。
「さっき、目を覚ますために自分へ魔法を撃ったそうですよ」
御影の顔が。
完全に止まった。
「……また?」
「またです」
「…………」
「二回目です」
御影の眉間へ。
今までで一番深い皺が刻まれる。
「馬鹿が……」
「はい」
「何を考えてる」
「多分、何も考えていません」
「…………」
「ですから」
スズメは。
差し出した手を。
さらに近づける。
「帰ってきてください」
洞窟の向こう。
小夜がいた。
父がいた。
母がいた。
みんな。
生きている。
少し離れた場所には。
斎賀もいる。
若い。
真壁も。
三十五歳。
三人で。
また帰れる。
御影がずっと欲しかったもの。
失ったもの。
取り戻したかったもの。
全部。
この世界にはある。
それを見たまま。
少年の御影は。
動けなかった。
「……ここなら」
小さな声。
「守れる」
スズメの胸が痛む。
「はい」
「今度は……俺が強い」
「はい」
「誰も死なない」
「……はい」
「小夜も……死なない」
「はい」
「父さんも。母さんも」
「はい」
「玄弥も帰る」
「はい」
御影の目から。
涙が落ちた。
「なら……」
掠れた声。
「何で戻らなきゃならない」
スズメは。
すぐには答えなかった。
簡単な言葉で。
否定したくなかった。
この人が何十年も欲しかったものだ。
父親。
母親。
小夜。
友人。
帰る場所。
全部。
一度は本当に存在したものだ。
だから。
ただ。
事実を言う。
「それは」
静かに。
「あなたが守れなかった人たちだからです」
「…………」
「今、あなたを待っているのは」
手を差し出したまま。
「あなたが、まだ守れる人たちです」
御影の目が。
大きくなる。
「過去を救い直すために」
スズメの声が。
強くなる。
「今の生徒を見捨てて、何が教師ですか!」
その言葉が。
洞窟を貫いた。
炎が止まる。
父も。
母も。
小夜も。
斎賀も。
真壁も。
世界中が。
止まった。
御影玄一郎だけが。
目の前の元生徒を見る。
長い。
沈黙。
やがて。
「…………」
御影が。
手を伸ばした。
十二歳の。
小さな手。
スズメの手へ触れる。
その瞬間。
少年の姿が。
変わる。
十二。
十八。
二十。
三十五。
そして。
四十七。
左頬の傷。
黒灰色の長衣。
今の。
御影玄一郎。
「……烏丸」
「はい」
「教師になって」
少し息を吐く。
「本当に口が達者になったな」
スズメも。
泣きながら笑った。
「今は同僚です」
「そうだったな」
遠く。
「お兄ちゃん!」
小夜の声がした気がした。
御影の足が。
一瞬だけ。
止まりかける。
けれど。
振り返らなかった。
目を閉じる。
ほんの僅かに。
そして。
スズメの手を握った。
「帰るぞ」
「はい」
世界が。
崩れ始めた。
*
「――っ!」
スズメの身体が大きく揺れた。
「スズメちゃん!」
奎星が咄嗟に肩を支える。
「はっ……はっ……」
呼吸が荒い。
顔色も悪い。
額には汗が浮かんでいる。
レジリメンスで他人の記憶へ深く入り込み、さらに黒曜の門による幻覚と直接ぶつかった。
身体ではない。
精神が。
酷く疲弊している。
「大丈夫!?」
「……大丈夫です」
「全然大丈夫そうじゃねえ!」
「蓮根君にだけは言われたくありません……」
「それ今日日向にも言われた!」
「でしょうね……」
その声のすぐ横で。
「……っ」
御影の指が動いた。
奎星が振り返る。
「御影先生!」
御影の胸が。
大きく上下する。
一度。
深く。
息を吸う。
そして。
目を開けた。
「…………」
焦点が少しずつ戻る。
最初に見えたのは。
天井すらない黒い空間。
次に。
自分のそばで息を切らしているスズメ。
「……烏丸」
「はい」
目が合う。
それだけで。
分かった。
見た。
全部。
小夜も。
両親も。
斎賀も。
御影の目が僅かに細くなる。
しばらく何も言わなかった。
やがて。
本当に小さな声で。
「……今見たことは」
スズメにだけ届く声。
「生徒たちには話すな」
スズメは一度だけ頷いた。
「話しません」
「絶対だぞ」
「はい」
「玄弥にも」
「話しません」
「征士郎にも」
「……聞かれなければ」
御影が僅かに嫌な顔をした。
「そこは絶対と言え」
「真壁さん、気づきそうですから」
「…………」
「二十年以上のお付き合いでしょう」
「余計なことまで見たな」
「不可抗力です」
「……忘れろ」
「努力します」
「忘れろ」
「無理です」
「烏丸」
「はい」
「生意気だな」
「教師になりましたので」
ほんの一瞬。
御影の口元が動いた。
笑ったのか。
疲れただけなのか。
スズメにも分からなかった。
そのとき。
「御影先生おせーよ!!」
大声。
二人が同時に振り向く。
奎星が立っていた。
腰には神代榊。
服は汗でぐっしょり。
目は赤い。
それなのに。
普段とほとんど変わらない顔で。
御影へ怒っている。
「俺ら何分待ったと思ってんの!?」
「お前が言うな」
日向が横から突っ込んだ。
「いやマジで! 先生だけ全然起きねえから、死んだかと思ったじゃん!」
「縁起でもないことを言うな」
「起きて一発目それ!?」
「御影先生」
冬真も。
少しだけ安心したように笑う。
「おかえりなさい」
澪は腕を組んだ。
「ずいぶん遅かったですね」
柊木も小さく息を吐く。
「無事なら何よりです」
御影は。
一人ずつ。
見た。
奎星。
日向。
澪。
冬真。
柊木。
そして。
すぐ横で、まだ呼吸を整えているスズメ。
帰ってきた。
偽物の家族ではない。
若い頃の仲間でもない。
今。
自分の前にいる人間たち。
守るべき相手。
いや。
もう。
一方的に守るだけの相手ですらない。
自分を。
迎えに来た。
元生徒までいる。
「……やれやれ」
御影は身体を起こした。
まだ少し重い。
それでも。
杖を握る。
立つ。
「こんな馬鹿たちは」
奎星が眉を寄せた。
「ん?」
御影は黒曜の門の奥へ続く闇を見る。
目が。
いつもの。
御影玄一郎へ戻る。
「俺がいないと、駄目だな……」
「誰が馬鹿だよ!」
「まずお前だ」
「即答!?」
「自分に魔法を撃ったと聞いた」
「…………」
奎星が。
ゆっくりスズメを見る。
スズメは目を逸らした。
「スズメちゃん!?」
「事実でしょう」
「言ったの!?」
「言いました」
「さっき話すなって――」
「それは御影先生の話です」
「何の話!?」
「お前には関係ない」
御影が切る。
「気になる!」
「黙れ」
「横暴!」
「元気だな」
日向が呆れた声を出す。
冬真が小さく笑い、澪も、柊木も、張り詰めていた表情をほんの僅かに緩めた。
スズメは。
隣で立ち上がった御影を見る。
もう。
十二歳の少年はいない。
左頬には。
あの日についた傷が残っている。
失ったものは。
戻らない。
父も。
母も。
小夜も。
十二年前の三人も。
もう。
あの頃の形には戻らない。
それでも。
御影玄一郎は。
今。
ここに立っている。
御影が全員を見渡した。
「休憩は終わりだ」
杖を構える。
「水無瀬、榊、岩戸を探す」
奎星の顔から、ふざけた表情が消えた。
「おう」
日向も。
伊織の眼鏡を強く握る。
「絶対連れて帰る」
スズメ。
澪。
冬真。
柊木。
全員が。
杖を構えた。
御影は。
一歩前へ出る。
遠い昔。
小夜の手を引いて逃げた少年ではなく。
今度は。
生徒たちを連れて帰る教師として。
そして。
もう。
振り返らなかった。