マホウトコロ   作:西野圭吾

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第17話 先生

 

「――っ!!」

 

奎星は大きく息を吸い込んだ。

 

胸が跳ね、肺へ一気に流れ込んだ冷たい空気に咳き込みながら、両手を黒い床へつく。

 

「げほっ……はっ、はっ……!」

 

目の前に神代冥司はいない。

 

燃え盛るマホウトコロも、倒れた友人たちも、御影の亡骸も、杖を向けたスズメもいない。

 

足元にあるのは、黒曜石とも水面ともつかない不気味な床。その下を、赤黒い古代文字がゆっくりと流れている。

 

戻った。

 

あの男が見せた、ありもしない未来から。

 

「……っ、戻った……!」

 

思わず胸を押さえる。

 

心臓は痛いほど速く、全身には汗が滲み、指先まで細かく震えていた。何より恐ろしいのは、ついさっきまで自分の中に確かに存在した憎しみが、まだ心の奥へ薄く貼りついていることだった。

 

御影を憎んだ。

 

友人へ魔法を撃った。

 

最後には、スズメへ杖を向けた。

 

起きていない。

 

全部、神代が見せた偽物だ。

 

それでも、そこで感じた怒りも、恐怖も、憎しみも、あまりにも本物だった。

 

「……最悪だ、あいつ……」

 

奎星が袖で顔を乱暴に拭った、そのときだった。

 

すぐ近くで、立て続けに二つの破裂音が響いた。

 

「――うわああああっ!!」

 

「っ……!」

 

奎星が顔を上げる。

 

少し離れた床の上で、日向が弾かれたように飛び起きていた。さらにその向こうでは冬真も片膝をつき、肩を大きく上下させている。

 

「日向! 冬真先輩!」

 

「奎星!?」

 

日向は自分の身体を慌てて見回した。

 

腕。

 

胸。

 

足。

 

顔。

 

全部ある。

 

「生きてるっ!? 生きてる俺!?」

 

「生きてる生きてる!」

 

「マジ!?」

 

「多分!」

 

「多分やめろ!!」

 

日向は自分の頬を両手でぱんぱんと叩いた。尋常ではない量の汗をかき、髪は額へべったりと張りついている。

 

冬真も普段の落ち着いた顔ではなかった。どうにか呼吸を整えようとしているが、握った杖の先が僅かに震えている。

 

奎星は二人を見比べた。

 

「どうやって起きた?」

 

「どうやってって……」

 

日向が顔を上げる。

 

そして、ものすごく嫌そうな顔をした。

 

「……お前が言ってたやつ」

 

「俺?」

 

「ほら」

 

日向は自分の胸元を指差す。

 

「《だいぶ都合のいい世界だなって思ったら、自分に魔法撃て》って」

 

「…………」

 

奎星の目が輝いた。

 

「役立ったじゃん!!」

 

「二度と言うな!!」

 

「何でだよ!」

 

「あんなもん人に勧める方法じゃねえよ!! めちゃくちゃ怖かったわ!!」

 

「でも起きたじゃん!」

 

「結果論だろ!!」

 

冬真が荒い息の合間に、静かに口を挟んだ。

 

「……俺も、それで戻った」

 

奎星が勢いよく振り返る。

 

「先輩も!?」

 

「ああ」

 

「ほら!!」

 

「ほらじゃねえ!!」

 

日向が叫んだ。

 

冬真は額の汗を袖で拭う。

 

彼が何を見ていたのかまでは言わなかった。奎星も訊かなかったし、日向も何も尋ねない。

 

三人とも、もう分かっていた。

 

ここは、そういう場所だ。

 

一番欲しいもの。

 

一番怖いもの。

 

一番触れられたくないもの。

 

そこへ勝手に踏み込み、心の奥から引きずり出してくる。

 

「……他のみんなは?」

 

日向の声で、奎星も我に返った。

 

辺りを見る。

 

いた。

 

少し離れた場所に澪。その隣には柊木が倒れている。

 

そして。

 

スズメ。

 

さらに向こうには。

 

御影もいた。

 

「スズメちゃん!」

 

奎星は真っ先に駆け寄ろうとして、途中で足を止めた。

 

前と同じだ。

 

ただ呼びかけ、身体を揺らしたところで、夢の中に囚われている人間が目を覚ますとは限らない。

 

なら。

 

今、自分にできることは一つ。

 

「……いける」

 

奎星は神代榊を握った。

 

日向がすぐに気づく。

 

「守護霊?」

 

「昨日、冬真先輩起こしただろ」

 

奎星は一度目を閉じた。

 

ついさっきまで見せられていた光景を、頭の外へ追い出す。

 

燃える学校ではない。

 

自分が壊した未来でもない。

 

戻る場所。

 

日向。

 

楓。

 

岳。

 

伊織。

 

御影。

 

そして。

 

星迎祭の夜。

 

左手がポケットの中にある銀色の星へ触れる。

 

本物。

 

ちゃんとここにある。

 

「エクスペクト・パトローナム!」

 

銀白色の光が神代榊から伸び、空中で大きな翼を開いた。

 

一羽の銀色の鴉。

 

奎星の守護霊が、羽音すら立てずに黒い空間を飛んでいく。

 

最初に澪の上を通った。

 

その瞬間、彼女の身体から黒い靄が細い煙のように抜ける。

 

「――っ!」

 

澪の身体が跳ねた。

 

「はっ……!」

 

目を見開き、反射的に床へ手をつく。

 

「澪!」

 

「……蓮根、君……?」

 

「起きた!」

 

まだ澪は状況を理解しきれていない。

 

だが、奎星の鴉は止まらず、そのままスズメへ向かった。

 

「スズメちゃん!」

 

銀色の翼が彼女の身体を包む。

 

胸元から抜けた黒い靄が鴉の光へ触れた瞬間、音もなく霧散した。

 

スズメの指が動く。

 

次いで。

 

大きく息を吸った。

 

「――っ!」

 

「スズメちゃん!」

 

「……蓮根、君……?」

 

瞼が開いた。

 

その声を聞いた瞬間、奎星の身体から一気に力が抜ける。

 

「よかったぁ……」

 

「……?」

 

スズメは上体を起こしながら、まだぼんやりと奎星を見た。

 

「何ですか、その顔」

 

「いや、何でもねえ」

 

「泣いたのですか?」

 

「泣いてねえ!」

 

「目が赤いです」

 

「寝起き!」

 

「あなたも今、起きたところでしょう」

 

「だから寝起き!」

 

「意味が分かりません」

 

そこまで言って。

 

スズメ自身も、何が起きていたのかを思い出したらしい。

 

ふっと表情が消える。

 

黒曜の門。

 

幻覚。

 

自分が見たもの。

 

彼女も何も言わなかった。

 

ただ、反射的に奎星の顔をもう一度見る。

 

いる。

 

無事だ。

 

それだけを確かめるように。

 

鴉はそのまま柊木の身体を通過した。

 

「……っ!」

 

柊木も息を吹き返すように目を開ける。

 

「ここは……」

 

「先生!」

 

澪がすぐに駆け寄った。

 

「澪ちゃん……あなたも戻ったのですね」

 

「はい」

 

奎星は守護霊を大きく旋回させる。

 

残る一人。

 

御影。

 

「御影先生!」

 

銀の鴉が頭上を通った。

 

その身体からも。

 

黒い靄が抜けた。

 

確かに。

 

全員が見た。

 

胸元から離れた黒い煙が、守護霊の光に触れて消えていった。

 

なのに。

 

「…………」

 

御影は目を開けない。

 

奎星の笑みが消えた。

 

「……え?」

 

もう一度。

 

「エクスペクト・パトローナム!」

 

銀の鴉が低く飛ぶ。

 

胸。

 

頭。

 

肩。

 

御影の全身を銀色の光が包む。

 

けれど。

 

何も起きない。

 

「御影先生!」

 

日向も駆け寄った。

 

「先生! 起きろって!」

 

冬真はすぐに御影の首元へ指を当てる。

 

「呼吸はあります」

 

「じゃ、なんで……!?」

 

奎星が御影の肩へ手を置いた。

 

「御影先生!」

 

揺らしても。

 

起きない。

 

「おい! 俺ら起きたぞ! 先生も起きろよ!」

 

返事はなかった。

 

その姿を、スズメは黙って見つめていた。

 

やがて御影の胸元へ杖をかざす。

 

微かな魔力反応。

 

肉体には問題がない。

 

門の黒い靄も、既にほとんど残っていない。

 

それでも。

 

意識だけが。

 

戻らない。

 

「……もしかすると」

 

スズメが呟いた。

 

奎星が振り返る。

 

「何?」

 

スズメは御影から目を離さなかった。

 

「御影先生自身が……目を覚ますことを拒否しているのかもしれません」

 

「……え?」

 

「門の力で起きられないのではなく」

 

スズメの声が低くなる。

 

「心の底から、《夢から覚めたくない》と思ってしまっている」

 

「御影先生が……?」

 

奎星には信じられなかった。

 

御影玄一郎。

 

毎朝まだ暗いうちから起きて、奎星を走らせ、自分も走る。

 

何があっても冷静で、誰かが危険なら真っ先に前へ出る。

 

三門巡りの門へ入るときだって、迷わなかった男。

 

そんな御影が。

 

偽物の世界に残ることを。

 

自分から選んでいる。

 

「何見てんだよ……」

 

奎星が小さく呟いた。

 

スズメは少しだけ目を伏せた。

 

そして。

 

決める。

 

「……私が入ります」

 

「入る?」

 

奎星が振り向いた。

 

「どこに?」

 

「御影先生の心へ」

 

「……心?」

 

一拍置いて。

 

奎星の目が見開かれる。

 

「真壁さんが日向と澪にやってた、あれ!?」

 

「はい」

 

スズメは短く答えた。

 

「レジリメンスです」

 

澪の顔が変わる。

 

日向も、自分が真壁によって起こされたときの感覚を思い出したのだろう。無意識に胸元へ手を置いた。

 

柊木がすぐ一歩前へ出た。

 

「待ってください」

 

スズメが振り返る。

 

柊木の表情は真剣だった。

 

「御影さんの心は……危険ですよ」

 

「分かっています」

 

「現役ではなくても元禍祓官です。強い魔法使いほど、無意識の精神防御も強い。それに今は、黒曜の門の術式そのものが干渉している」

 

「はい」

 

「入ったあなたまで戻れなくなる可能性があります」

 

「それも分かっています」

 

「なら――」

 

「でも」

 

スズメは御影を見る。

 

怖い。

 

普段から怖い。

 

同僚になった今ですら、廊下の向こうから歩いてくる姿を見ると、学生時代の癖で僅かに背筋が伸びることがある。

 

けれど。

 

「私の先生なので」

 

柊木が言葉を失った。

 

奎星も黙る。

 

スズメは御影の傍らへ膝をつき、左手でその手首へ触れた。

 

脈はある。

 

強い。

 

生きている。

 

「御影先生」

 

返事はない。

 

杖先を御影の額へ向け、スズメは一度だけ目を閉じた。

 

「必ず戻ってきます」

 

それが誰へ向けた言葉だったのか。

 

奎星には分からなかった。

 

御影へ。

 

自分へ。

 

あるいは。

 

ここで待っている人たちへ。

 

「レジリメンス」

 

魔法が。

 

繋がった。

 

 

最初に聞こえたのは。

 

子供の笑い声だった。

 

スズメはゆっくりと目を開ける。

 

山。

 

川。

 

木造の家々。

 

小さな畑。

 

炊事場から上がる細い煙。

 

山間に隠れるように作られた、小さな魔法使いたちの集落だった。

 

時刻は夕方だろう。

 

茜色の陽が山の端へ沈みかけ、子供たちが細い道を駆け回っている。

 

その中に。

 

一人の少年がいた。

 

十二歳ほど。

 

短い黒髪。

 

日に焼けた顔。

 

今よりずっと細い身体。

 

そして。

 

左頬に、まだ傷がない。

 

「お兄ちゃん!」

 

その背後から、小さな女の子が一生懸命に追いかけてくる。

 

少年が振り向いた。

 

「小夜、遅いぞ!」

 

「待ってよ!」

 

「追いつけ!」

 

「お兄ちゃんが速いの!」

 

少女――御影小夜が頬を膨らませる。

 

少年は笑った。

 

「……御影、先生……?」

 

スズメの足が止まった。

 

信じられない。

 

あの御影玄一郎が。

 

子供だった。

 

当たり前のことだ。

 

誰にだって、子供の頃はある。

 

それなのに、今の御影を知っているスズメには、その光景がひどく奇妙に思えた。

 

少年の御影は、よく笑った。

 

追いついてきた小夜の頭を雑に撫でて怒られ、母親から夕飯の手伝いをしろと呼ばれれば、「今行く!」と大声で返す。

 

父親とは庭先で杖を振っていた。

 

まだ。

 

上手くない。

 

「もう一回!」

 

「今日は終わりだ」

 

「まだできる!」

 

「明日やれ」

 

「今できる!」

 

父親が笑った。

 

「誰に似たんだ、そのしつこさ」

 

「父さんじゃない?」

 

母親が家の中から言う。

 

父親が振り返った。

 

「俺か?」

 

「絶対そう」

 

小夜まで笑う。

 

「お兄ちゃん、父さんそっくり!」

 

「小夜、お前どっちの味方だ」

 

「母さん!」

 

「即答かよ!」

 

家族が。

 

笑った。

 

父も。

 

母も。

 

小夜も。

 

御影も。

 

スズメは、何も言えなかった。

 

御影玄一郎の過去など。

 

ほとんど知らない。

 

学生だった頃も。

 

教師になってからも。

 

御影は自分自身のことを語る男ではなかった。

 

けれど。

 

今。

 

目の前にある。

 

御影にも。

 

こんな時間があった。

 

当たり前に家へ帰り。

 

当たり前に家族と食事をし。

 

当たり前に明日が来ると思っていた頃が。

 

そして。

 

世界が。

 

赤く染まった。

 

 

夜。

 

火。

 

悲鳴。

 

さっきまで笑い声が響いていた集落が。

 

燃えていた。

 

「走れ!!」

 

父親の声が轟く。

 

十二歳の御影は、小夜の手を掴んでいた。

 

「父さん!」

 

「行け!!」

 

「でも!」

 

「玄一郎!!」

 

今まで聞いたことのない声だった。

 

父親が、息子を怒鳴る。

 

「小夜を連れて逃げろ!!」

 

母親も小夜の背を押した。

 

「お兄ちゃんと行きなさい!」

 

「ママ!」

 

「早く!」

 

後方で黒い魔法が飛ぶ。

 

父親が防ぐ。

 

母親も杖を抜く。

 

御影は。

 

動けなかった。

 

「玄一郎!」

 

父の怒声。

 

「行け!!」

 

「……っ!」

 

十二歳の少年は、小夜の手を握った。

 

走った。

 

「お兄ちゃん!」

 

「走れ!」

 

「パパとママは!?」

 

「後から来る!」

 

「ほんと!?」

 

「ああ!」

 

嘘だった。

 

そのときの御影にも。

 

分かっていた。

 

父と母は。

 

自分たちを逃がすために残った。

 

それでも。

 

本当のことなど言えるはずがなかった。

 

二人は山へ入る。

 

暗い。

 

木々の隙間を、魔法の光が走る。

 

後ろから叫び声が聞こえる。

 

御影は振り返らない。

 

小夜の手だけを。

 

絶対に離さない。

 

やがて見えてきたのは、小さな洞窟だった。

 

集落の子供たちが非常時に避難するための横穴。

 

「小夜、こっち!」

 

御影が妹を中へ押し込む。

 

そのとき。

 

背後から。

 

声がした。

 

「見つけた」

 

「…………」

 

少年の身体が固まった。

 

黒い長衣。

 

知らない魔法使い。

 

杖先。

 

御影は反射的に小夜の前へ出た。

 

震えている。

 

足も。

 

手も。

 

全部。

 

それでも。

 

杖を構える。

 

「来るな」

 

男が笑った。

 

「子供か」

 

「来るな!!」

 

御影が撃つ。

 

「ステューピファイ!」

 

赤い光。

 

簡単に弾かれた。

 

「っ!」

 

もう一度。

 

「エクスペリアームス!」

 

防がれる。

 

「インカーセラス!」

 

避けられる。

 

「うわあああっ!!」

 

何度撃っても。

 

届かない。

 

男は。

 

ただ笑っている。

 

御影の知っている魔法では。

 

何一つ。

 

通用しない。

 

「お兄ちゃん!」

 

小夜の声。

 

守らなければ。

 

俺が。

 

守らなければ。

 

「来んなぁぁぁ!!」

 

御影が杖を振った。

 

その瞬間。

 

白い光が。

 

顔のすぐ横を走った。

 

熱。

 

痛み。

 

「――っ!」

 

左頬が裂ける。

 

血が飛んだ。

 

少年の身体が地面へ倒れる。

 

視界が。

 

暗くなっていく。

 

最後に聞こえたのは。

 

「お兄ちゃん!」

 

小夜が、自分を呼ぶ声だった。

 

 

目を開ける。

 

朝だった。

 

御影は洞窟の中へ倒れていた。

 

左頬が焼けるように痛い。

 

乾いた血が顔へこびりついている。

 

「…………」

 

身体を起こす。

 

少し離れたところに、昨夜の闇の魔法使いが倒れていた。

 

動かない。

 

誰かが来たのか。

 

別の戦闘があったのか。

 

十二歳の御影には分からない。

 

そんなことは、どうでもよかった。

 

「……小夜」

 

声が震える。

 

横を見る。

 

いた。

 

「お兄……ちゃん……」

 

小さな声。

 

御影は這うように近づいた。

 

「小夜!」

 

妹の身体を抱き起こす。

 

「大丈夫か!?」

 

冷たい。

 

「おい、小夜」

 

返事はある。

 

でも。

 

弱い。

 

「お兄ちゃん……」

 

「何だ」

 

「パパと……ママは……?」

 

「…………」

 

御影の口が止まった。

 

洞窟の外。

 

遠く。

 

集落の方角から。

 

黒い煙が上がっている。

 

昨日まであった家。

 

家族。

 

友人。

 

近所の人たち。

 

全部。

 

あの煙の向こう。

 

御影は小夜を見る。

 

泣かなかった。

 

十二歳。

 

まだ。

 

泣いていい子供だった。

 

それでも。

 

妹の前では。

 

笑った。

 

どうにか。

 

笑った。

 

「……ああ」

 

声が震える。

 

「無事だよ」

 

小夜の目が少しだけ開いた。

 

「ほんと……?」

 

「ああ」

 

御影は妹の頭を支えた。

 

「だから大丈夫だ」

 

「よかった……」

 

小夜が。

 

小さく笑った。

 

「また……みんなで……ご飯……」

 

「ああ」

 

御影の唇が震える。

 

「食べよう」

 

「……うん」

 

「母さんの飯、小夜いっつも残すだろ」

 

「残さないよ……」

 

「残す」

 

「お兄ちゃんが……食べてくれるから……」

 

「じゃあ今度も食ってやるよ」

 

御影は笑おうとした。

 

「だから……」

 

言葉が。

 

続かない。

 

喉が。

 

閉じる。

 

それでも言う。

 

「今は……ゆっくり休んでろ」

 

小夜の目が。

 

ゆっくりと閉じた。

 

「…………」

 

御影は待った。

 

次の呼吸を。

 

来ない。

 

「……小夜?」

 

頭を抱える。

 

「おい」

 

返事はない。

 

「起きろ」

 

身体を揺らす。

 

「小夜」

 

動かない。

 

「もう休んだだろ」

 

揺らす。

 

「おい」

 

声が。

 

十二歳へ戻る。

 

「起きろよ」

 

返事はない。

 

「小夜」

 

もう一度。

 

「小夜!」

 

何度呼んでも。

 

御影小夜は。

 

目を開けなかった。

 

やがて洞窟の外から、複数の足音が近づいてきた。

 

禍祓官だった。

 

ようやく。

 

助けが来た。

 

遅かった。

 

父も。

 

母も。

 

小夜も。

 

集落にいた多くの人間も。

 

既に死んでいた。

 

スズメは。

 

その全部を。

 

見ていた。

 

 

十二歳の御影玄一郎は、その後マホウトコロへ入学した。

 

教師たちは皆、彼を心配した。

 

当然だった。

 

家族を一晩で失った。

 

故郷も。

 

家も。

 

友人も。

 

全部。

 

心の傷が深すぎる。

 

眠れない夜が続いた。

 

食事を残す日もあった。

 

授業中、炎の弾ける音を聞いただけで、一瞬だけ顔が止まることもあった。

 

それでも。

 

何より教師たちを心配させたのは。

 

御影が。

 

訓練を。

 

やめなかったことだった。

 

朝。

 

誰よりも早く訓練場へ来る。

 

杖を振る。

 

一回。

 

失敗。

 

もう一回。

 

夜。

 

皆が寮へ戻っても。

 

杖を振る。

 

一回。

 

失敗。

 

もう一回。

 

「もう消灯時間だぞ」

 

教師が止める。

 

「あと一回」

 

「御影」

 

「あと一回だけ」

 

許される。

 

撃つ。

 

失敗。

 

「……もう一回」

 

翌朝。

 

また同じ場所にいる。

 

決闘大会があれば、すべて出た。

 

学年が違っても。

 

上級生でも。

 

挑んだ。

 

負ければ、その日のうちに理由を全部書き出した。

 

翌朝。

 

直す。

 

右からの攻撃への反応が遅れた。

 

なら、同じ攻撃を百回受ける。

 

防げるまで。

 

杖を振る瞬間に肩が僅かに上がる。

 

直す。

 

一歩余計に下がった。

 

直す。

 

力が強すぎた。

 

直す。

 

弱すぎた。

 

直す。

 

何度も。

 

何度も。

 

何度も。

 

才能がなかったわけではない。

 

けれど、一度見れば何でもできるような天才でもなかった。

 

失敗する。

 

だから。

 

その失敗を。

 

二度としないようにする。

 

また別の失敗をする。

 

それも。

 

二度としないようにする。

 

ただ、その繰り返しだった。

 

毎朝。

 

毎晩。

 

毎日。

 

毎日。

 

まるで。

 

強くなれば。

 

いつかあの日へ戻れるとでも思っているように。

 

あの洞窟へ戻って。

 

小夜の前へ立ちはだかった男を。

 

今度こそ。

 

倒せるとでも思っているように。

 

十八歳になる頃。

 

御影玄一郎は。

 

校内で最も強い生徒になっていた。

 

最後の校内決闘大会。

 

相手が倒れる。

 

歓声が上がる。

 

御影は。

 

笑わなかった。

 

勝った。

 

誰よりも強くなった。

 

でも。

 

何も。

 

戻ってこなかった。

 

試合のあと、回廊で待っていた一人の女性がいた。

 

今よりずっと若い。

 

けれど、穏やかな目と静かな声は何も変わらない。

 

九重院紫苑。

 

「御影君」

 

「はい」

 

「卒業後について、少しお話があります」

 

「進路なら決めていません」

 

「では」

 

九重院は静かに言った。

 

「禍祓官という道を、考えてみませんか」

 

御影の目が変わった。

 

力を使える。

 

人を守れる。

 

あの日。

 

来るのが遅かった者たち。

 

今度は。

 

自分が。

 

そちらへ行く。

 

「……詳しく、聞かせてください」

 

 

そこで。

 

世界が変わった。

 

スズメが次に見た御影は。

 

もう少年ではなかった。

 

二十代。

 

禍祓官の制服を着ている。

 

目の前には、二人の男がいた。

 

一人は腕を組み、見るからに堅い顔をしている。

 

真壁征士郎。

 

もう一人は。

 

訓練用人形を。

 

壁ごと吹き飛ばしていた。

 

轟音。

 

崩れる壁。

 

沈黙。

 

「…………」

 

御影がゆっくりそちらを見る。

 

真壁も。

 

まったく同じ方向を見る。

 

壁。

 

ない。

 

人形。

 

半分。

 

訓練場の外。

 

その中心で。

 

斎賀玄弥が笑っていた。

 

「いやあ、ちょっと威力間違えた」

 

「ちょっとで壁がなくなるか」

 

御影が低く言う。

 

「玄一郎、細けえって」

 

「細かくない」

 

真壁が額を押さえた。

 

「初日から施設破壊で報告書を書かせるな」

 

「征士郎は真面目だなあ」

 

「お前が不真面目すぎる」

 

斎賀が御影を見る。

 

「玄一郎、征士郎がいじめる」

 

「俺に振るな」

 

三人。

 

合うはずがなかった。

 

御影は無駄を嫌う。

 

真壁は規則を守る。

 

斎賀は。

 

規則を一度確認してから破る。

 

任務の前も同じだった。

 

「配置通り動け」

 

御影が言う。

 

「分かった分かった」

 

斎賀が手を振る。

 

「その返事で一度も配置通り動いたことがないだろ」

 

真壁が淡々と突っ込む。

 

「状況って変わるじゃん?」

 

「お前が変えるんだ」

 

「征士郎、今日飲み行こうぜ」

 

「報告書が終わればな」

 

「じゃ玄一郎」

 

「俺も報告書だ」

 

「何だよ、つまんねえな!」

 

それでも。

 

三人で行った。

 

実力だけは。

 

近かった。

 

三人とも、それまで自分が一番強い場所で生きてきた。

 

だから初めて。

 

追いついてくる相手がいた。

 

初めて。

 

自分の失敗を、その場で指摘してくる相手がいた。

 

「玄一郎、今の右遅かったぞ」

 

「お前は左を空けすぎだ」

 

「二人とも敵を追いすぎだ。後衛を見ろ」

 

「うるせえ堅物!」

 

「お前にだけは言われたくない」

 

任務へ出る。

 

一つ。

 

二つ。

 

十。

 

五十。

 

難しい任務。

 

危険な任務。

 

他の部隊が嫌がるもの。

 

いつしか、そういう仕事ばかりを任されるようになった。

 

誰か一人が失敗すれば、残る二人が埋める。

 

斎賀が前へ出すぎれば御影が戻す。

 

御影が追い込みすぎれば真壁が止める。

 

真壁が慎重になりすぎれば、斎賀が笑いながら先へ行く。

 

いつも。

 

三人で出た。

 

そして。

 

三人で。

 

帰った。

 

任務帰り。

 

三人でくだらない話をした。

 

疲れきった夜に、斎賀が急に飯へ行こうと言い出す。

 

真壁が文句を言う。

 

御影も面倒そうな顔をする。

 

それでも。

 

結局。

 

三人で行く。

 

御影玄一郎は、いつの間にか少しだけ笑うようになっていた。

 

家族を失った十二歳の頃から、ずっと強さだけを追い続けていた男が。

 

ようやく。

 

自分と同じ速度で歩く人間を。

 

二人。

 

見つけた。

 

 

二〇一四年。

 

御影、三十五歳。

 

真壁も同じ。

 

三人は禍祓官として、最も多くの現場へ出ていた。

 

そして。

 

その日。

 

黒曜の環に繋がる拠点が見つかった。

 

「人質を確認!」

 

地下。

 

崩れかけた魔法施設。

 

黒曜石。

 

赤黒い術式。

 

泣いている人々。

 

追ってくる敵。

 

「先に出せ!」

 

御影が叫ぶ。

 

「出口の術式が持たん!」

 

真壁が人質の列を誘導する。

 

「玄弥!」

 

御影が振り返る。

 

斎賀が。

 

後方にいた。

 

敵が来る方向へ一人で立ち、いつものように笑っている。

 

「先行け!」

 

「何言ってる!」

 

「ここ狭いんだよ! 三人いるより俺一人のほうが暴れられる!」

 

「玄弥!」

 

真壁が叫ぶ。

 

斎賀は。

 

いつもの。

 

人を食った笑みだった。

 

「人質優先だろ?」

 

御影が止まる。

 

その言葉は。

 

正しい。

 

禍祓官として。

 

絶対に。

 

正しい。

 

「玄一郎!」

 

真壁が叫ぶ。

 

構造が崩れ始める。

 

天井から石が落ちる。

 

人質。

 

斎賀。

 

選ばなければならない。

 

「……っ」

 

御影は。

 

人質のほうへ走った。

 

「絶対戻れよ!!」

 

背後へ怒鳴る。

 

斎賀の声が返ってきた。

 

「誰に言ってんだ!」

 

それが。

 

最後だった。

 

人質は。

 

全員。

 

救出した。

 

犠牲者は。

 

出なかった。

 

禍祓官として見れば。

 

成功だった。

 

ただ一人。

 

斎賀玄弥だけが。

 

帰ってこなかった。

 

「戻る」

 

外へ出た御影は。

 

即座に言った。

 

上官が止める。

 

「施設内部が崩壊している!」

 

「玄弥がいる」

 

「生存反応はない」

 

「確認してないだろ!」

 

「現場の術式が不安定すぎる!」

 

「だから何だ!!」

 

真壁も隣にいた。

 

「捜索班を組め」

 

「現状では二次被害の危険が――」

 

「一人残っている!」

 

「真壁」

 

「仲間だ!!」

 

御影も。

 

真壁も。

 

怒った。

 

訴えた。

 

探した。

 

魔法省は最低限の捜索を行った。

 

記録を残した。

 

危険区域。

 

生存反応なし。

 

行方不明。

 

推定死亡。

 

そう処理された。

 

「……ふざけるな」

 

御影は自分で探した。

 

真壁も探した。

 

休みの日。

 

任務の合間。

 

手掛かりがあれば。

 

全国どこへでも行った。

 

噂。

 

黒曜石。

 

闇市場。

 

目撃証言。

 

全部。

 

追った。

 

一年。

 

二年。

 

五年。

 

それでも。

 

いない。

 

やがて御影は禍祓官を辞め、マホウトコロへ戻った。

 

教師になった。

 

真壁は魔法省に残り、監察局へ進んだ。

 

道が。

 

分かれた。

 

それでも最初の頃は、会うたび同じことを訊いた。

 

「何かあったか」

 

「ない」

 

「そっちは」

 

「ない」

 

それだけ。

 

やがて会う回数が減った。

 

探す回数も減った。

 

そして。

 

いつしか。

 

二人とも。

 

探すのをやめた。

 

十二年後。

 

斎賀玄弥は。

 

生きていた。

 

黒曜の環の側で。

 

 

スズメは。

 

全部を見た。

 

十二歳の御影。

 

十八歳の御影。

 

禍祓官だった御影。

 

斎賀と真壁と笑っていた御影。

 

斎賀を探し続けていた御影。

 

そして。

 

現在。

 

四十七歳の御影玄一郎。

 

その男が。

 

いた。

 

最初の。

 

洞窟に。

 

「…………」

 

スズメは足を止めた。

 

景色は、あの日と同じだった。

 

燃える集落。

 

薄暗い洞窟。

 

幼い小夜。

 

闇の魔法使い。

 

けれど。

 

一つだけ。

 

違う。

 

御影が。

 

強い。

 

「ステューピファイ」

 

赤い光。

 

闇の魔法使いが吹き飛ぶ。

 

男が起き上がるより早く。

 

「インカーセラス」

 

拘束。

 

「エクスペリアームス」

 

杖を飛ばす。

 

男が倒れる。

 

完全に。

 

御影の勝ちだった。

 

「…………」

 

御影が振り返る。

 

「お兄ちゃん!」

 

小夜がいる。

 

生きている。

 

無傷で。

 

その向こうから。

 

父と母も走ってくる。

 

「玄一郎!」

 

「父さん」

 

「小夜!」

 

母が妹を抱きしめる。

 

「よかった……!」

 

御影も。

 

その輪へ入る。

 

四人が。

 

抱き合う。

 

「…………」

 

そして。

 

景色が戻った。

 

また洞窟。

 

闇の魔法使い。

 

御影が倒す。

 

小夜を守る。

 

父と母が来る。

 

四人で帰る。

 

また。

 

最初へ。

 

闇の魔法使い。

 

倒す。

 

家族。

 

救う。

 

もう一度。

 

また。

 

何度も。

 

何度も。

 

何度も。

 

御影玄一郎は。

 

四十七歳になった自分の力で。

 

十二歳のあの日を。

 

やり直し続けていた。

 

「…………御影先生」

 

スズメが小さく呼ぶ。

 

聞こえていない。

 

また。

 

景色が変わる。

 

二〇一四年。

 

「先行け!」

 

斎賀が笑う。

 

今度の御影は。

 

人質のほうへ行かなかった。

 

「玄一郎!?」

 

真壁が叫ぶ。

 

「人質を頼む!」

 

「お前は!?」

 

御影は。

 

斎賀へ向かって走る。

 

「玄弥!」

 

「は!?」

 

敵。

 

倒す。

 

一人。

 

二人。

 

三人。

 

斎賀の腕を掴む。

 

「帰るぞ!」

 

「おい、人質――」

 

「征士郎がいる!」

 

二人で戻る。

 

施設が崩れる。

 

出口。

 

真壁。

 

人質。

 

全員。

 

いる。

 

「遅い!」

 

真壁が怒鳴る。

 

斎賀は笑う。

 

「悪い悪い」

 

御影も。

 

ほんの少し。

 

笑う。

 

三人。

 

揃う。

 

帰る。

 

そして。

 

また。

 

最初。

 

斎賀を助ける。

 

また。

 

助ける。

 

また。

 

今度こそ。

 

失わない。

 

「御影先生!」

 

スズメの声が。

 

初めて。

 

世界へ届いた。

 

御影が止まる。

 

振り返る。

 

「…………烏丸?」

 

「目を覚ましてください」

 

御影の目が細くなる。

 

「何をしている」

 

「あなたを起こしに来ました」

 

「必要ない」

 

即答だった。

 

「御影先生」

 

「出ていけ」

 

「聞いてください」

 

「黙れ」

 

低い。

 

いつもの声。

 

それでも。

 

スズメは動かなかった。

 

「あなたは今、神代に幻想を見せられています!」

 

その瞬間。

 

御影の顔が歪んだ。

 

「そんなの分かってる!!!」

 

怒声。

 

洞窟全体が震えた。

 

スズメが一瞬だけ言葉を失う。

 

御影は。

 

分かっていた。

 

ここが偽物だと。

 

小夜がもういないことも。

 

父も。

 

母も。

 

斎賀を救った過去など存在しないことも。

 

全部。

 

最初から。

 

分かっている。

 

それでも。

 

「でも!!」

 

拳が震える。

 

「ようやく強くなったんだ!!」

 

「…………」

 

「ずっと……!」

 

御影の声が掠れた。

 

「ずっと、この時のために強くなったんだ!!」

 

その瞬間。

 

四十七歳の男の姿が。

 

揺れる。

 

身体が縮む。

 

戦闘用の外套が消える。

 

大きな手が。

 

小さくなる。

 

左頬の傷だけが。

 

まだ。

 

血を流している。

 

そこにいたのは。

 

十二歳の。

 

御影玄一郎だった。

 

「俺が強ければ……」

 

少年の声。

 

「父さんも、母さんも死ななかった」

 

「…………」

 

「小夜も」

 

小さな手が震える。

 

「俺が勝てれば……」

 

涙が落ちる。

 

「小夜を守れた」

 

スズメの胸が締めつけられた。

 

どれだけ強くなっても。

 

どれだけ平気な顔をするのが上手くなっても。

 

どれだけ生徒の前で。

 

冷静な教師でいても。

 

御影玄一郎は。

 

ずっと。

 

ここにいた。

 

十二歳。

 

洞窟。

 

冷たくなった妹を腕へ抱いたまま。

 

何もできなかった。

 

あの日に。

 

強くなれば。

 

いつか、ここから出られると思っていた。

 

だから強くなった。

 

負けるたびにやり直した。

 

失敗するたびに直した。

 

誰よりも強くなった。

 

なのに。

 

大人になったあと。

 

もう一度。

 

失った。

 

斎賀玄弥。

 

今度は。

 

自分と同じ速度で歩いていた男を。

 

「御影先生」

 

スズメが一歩近づく。

 

「来るな」

 

「嫌です」

 

「烏丸」

 

「嫌です」

 

「これは命令だ」

 

「今は同僚です」

 

御影が。

 

僅かに顔を上げた。

 

その言葉。

 

どこかで。

 

何度も。

 

聞いている。

 

学校の回廊。

 

大量の本を抱えた、小柄な女性。

 

九歳の頃から知っている少女。

 

教師になって。

 

ずいぶん口が達者になった。

 

「……生意気になったな」

 

御影が呟く。

 

スズメは少しだけ笑った。

 

「あなたの生徒でしたから」

 

「…………」

 

「九歳の頃から」

 

スズメは続ける。

 

「あなたは、怖い先生でした」

 

「……そうか」

 

「今も怖いです」

 

「お前」

 

「本当です」

 

ほんの少し。

 

昔の御影の顔が戻った。

 

スズメは言った。

 

「廊下の向こうにあなたが見えるだけで、美琴と一緒に姿勢を正していました」

 

「一人、逃げてなかったか」

 

「美琴です」

 

「そうか」

 

「私は逃げていません」

 

「知ってる」

 

短い会話。

 

ほんの一瞬だけ。

 

洞窟を包んでいた炎の音が遠くなる。

 

「でも」

 

スズメの声が、再び真剣になった。

 

「怖かったけれど、知っていました」

 

御影が見る。

 

「御影先生は、生徒を見捨てない」

 

「…………」

 

「危険なことをすれば怒る。失敗すれば何度でもやり直させる。自分が怒っていても、怖くても、相手が憎くても、それでも必要な力だけを使えと教える」

 

奎星。

 

訓練場。

 

――必要な分だけ使え。

 

スズメも。

 

何度も見てきた。

 

「あなたは、蓮根君へそう教えたでしょう」

 

御影の目が揺れた。

 

「力があるから何をしてもいいわけではない。強いだけでは駄目だと」

 

「…………」

 

「それを教えた人が」

 

スズメは。

 

目の前の十二歳の少年を見る。

 

「過去をやり直すために、今を捨てるのですか」

 

「…………」

 

「お父様も」

 

御影の拳が強く握られる。

 

「お母様も」

 

「やめろ」

 

「小夜さんも」

 

「烏丸」

 

「斎賀さんも」

 

「黙れ!」

 

「救いたかったでしょう!」

 

「黙れ!!」

 

「分かっています!!」

 

スズメも。

 

叫んだ。

 

御影が。

 

止まる。

 

学生だった頃から。

 

今まで。

 

御影玄一郎へ。

 

こんな声をぶつけたことは一度もなかった。

 

スズメの目にも。

 

涙が浮かんでいた。

 

「分かるなどと言うつもりはありません!」

 

声が震える。

 

「私はあなたのご家族を知りません! 小夜さんがどんな子だったのかも、あの日のあなたがどれほど苦しかったのかも、斎賀さんを失った十二年間がどんなものだったのかも……全部分かるなんて言えません!」

 

「…………」

 

「でも!」

 

一歩。

 

近づく。

 

「今の御影先生なら知っています!」

 

十二歳の少年へ。

 

自分の先生だった男へ。

 

今は同僚になった男へ。

 

言う。

 

「朝早くから生徒を走らせて!」

 

御影の目が僅かに動く。

 

「何度失敗しても、できるまでやらせて!」

 

「…………」

 

「危険なら自分が前へ出て!」

 

「…………」

 

「生徒が《死ぬわけじゃない》なんて言えば、本気で怒る!」

 

朝凪島へ送られる前。

 

奎星へ向けた。

 

あの声。

 

――その言葉を二度と使うな。

 

――軽く言うな。

 

「それが」

 

スズメの声が。

 

少しだけ柔らかくなる。

 

「私が知っている御影玄一郎です」

 

御影は。

 

何も言わなかった。

 

炎だけが。

 

周囲で揺れている。

 

「先生」

 

その呼び方に。

 

御影が顔を上げた。

 

スズメが九歳の頃から。

 

何度も。

 

何度も。

 

使ってきた言葉。

 

「私が生徒だった頃」

 

スズメは、涙を浮かべたまま少しだけ笑う。

 

「あなたは何度も、私たちを守ってくれました」

 

「…………」

 

「だから今度は」

 

手を差し出す。

 

「私が、あなたを戻します」

 

御影はその手を見る。

 

小さい。

 

自分よりずっと。

 

昔から。

 

ずっと。

 

小さい。

 

それでも今。

 

自分へ向かって差し出されている。

 

「戻ってください」

 

「…………」

 

「蓮根君が待っています」

 

御影の眉間へ僅かに皺が寄った。

 

「朝比奈君も。常盤さんも。三枝君も」

 

黒曜の門。

 

その向こう側。

 

「水無瀬さんと、榊君と、岩戸君を連れて帰らなければならない」

 

「…………」

 

「まだ終わっていません」

 

御影が俯く。

 

「俺がいなくても」

 

「駄目です」

 

「柊木がいる」

 

「駄目です」

 

「お前もいる」

 

「駄目です」

 

「……征士郎も外にいる」

 

「もっと駄目です」

 

御影の眉が動いた。

 

「なぜだ」

 

「蓮根君を誰が止めるのですか」

 

「…………」

 

数秒。

 

御影が黙る。

 

スズメがほんの少しだけ笑った。

 

「さっき、目を覚ますために自分へ魔法を撃ったそうですよ」

 

御影の顔が。

 

完全に止まった。

 

「……また?」

 

「またです」

 

「…………」

 

「二回目です」

 

御影の眉間へ。

 

今までで一番深い皺が刻まれる。

 

「馬鹿が……」

 

「はい」

 

「何を考えてる」

 

「多分、何も考えていません」

 

「…………」

 

「ですから」

 

スズメは。

 

差し出した手を。

 

さらに近づける。

 

「帰ってきてください」

 

洞窟の向こう。

 

小夜がいた。

 

父がいた。

 

母がいた。

 

みんな。

 

生きている。

 

少し離れた場所には。

 

斎賀もいる。

 

若い。

 

真壁も。

 

三十五歳。

 

三人で。

 

また帰れる。

 

御影がずっと欲しかったもの。

 

失ったもの。

 

取り戻したかったもの。

 

全部。

 

この世界にはある。

 

それを見たまま。

 

少年の御影は。

 

動けなかった。

 

「……ここなら」

 

小さな声。

 

「守れる」

 

スズメの胸が痛む。

 

「はい」

 

「今度は……俺が強い」

 

「はい」

 

「誰も死なない」

 

「……はい」

 

「小夜も……死なない」

 

「はい」

 

「父さんも。母さんも」

 

「はい」

 

「玄弥も帰る」

 

「はい」

 

御影の目から。

 

涙が落ちた。

 

「なら……」

 

掠れた声。

 

「何で戻らなきゃならない」

 

スズメは。

 

すぐには答えなかった。

 

簡単な言葉で。

 

否定したくなかった。

 

この人が何十年も欲しかったものだ。

 

父親。

 

母親。

 

小夜。

 

友人。

 

帰る場所。

 

全部。

 

一度は本当に存在したものだ。

 

だから。

 

ただ。

 

事実を言う。

 

「それは」

 

静かに。

 

「あなたが守れなかった人たちだからです」

 

「…………」

 

「今、あなたを待っているのは」

 

手を差し出したまま。

 

「あなたが、まだ守れる人たちです」

 

御影の目が。

 

大きくなる。

 

「過去を救い直すために」

 

スズメの声が。

 

強くなる。

 

「今の生徒を見捨てて、何が教師ですか!」

 

その言葉が。

 

洞窟を貫いた。

 

炎が止まる。

 

父も。

 

母も。

 

小夜も。

 

斎賀も。

 

真壁も。

 

世界中が。

 

止まった。

 

御影玄一郎だけが。

 

目の前の元生徒を見る。

 

長い。

 

沈黙。

 

やがて。

 

「…………」

 

御影が。

 

手を伸ばした。

 

十二歳の。

 

小さな手。

 

スズメの手へ触れる。

 

その瞬間。

 

少年の姿が。

 

変わる。

 

十二。

 

十八。

 

二十。

 

三十五。

 

そして。

 

四十七。

 

左頬の傷。

 

黒灰色の長衣。

 

今の。

 

御影玄一郎。

 

「……烏丸」

 

「はい」

 

「教師になって」

 

少し息を吐く。

 

「本当に口が達者になったな」

 

スズメも。

 

泣きながら笑った。

 

「今は同僚です」

 

「そうだったな」

 

遠く。

 

「お兄ちゃん!」

 

小夜の声がした気がした。

 

御影の足が。

 

一瞬だけ。

 

止まりかける。

 

けれど。

 

振り返らなかった。

 

目を閉じる。

 

ほんの僅かに。

 

そして。

 

スズメの手を握った。

 

「帰るぞ」

 

「はい」

 

世界が。

 

崩れ始めた。

 

 

「――っ!」

 

スズメの身体が大きく揺れた。

 

「スズメちゃん!」

 

奎星が咄嗟に肩を支える。

 

「はっ……はっ……」

 

呼吸が荒い。

 

顔色も悪い。

 

額には汗が浮かんでいる。

 

レジリメンスで他人の記憶へ深く入り込み、さらに黒曜の門による幻覚と直接ぶつかった。

 

身体ではない。

 

精神が。

 

酷く疲弊している。

 

「大丈夫!?」

 

「……大丈夫です」

 

「全然大丈夫そうじゃねえ!」

 

「蓮根君にだけは言われたくありません……」

 

「それ今日日向にも言われた!」

 

「でしょうね……」

 

その声のすぐ横で。

 

「……っ」

 

御影の指が動いた。

 

奎星が振り返る。

 

「御影先生!」

 

御影の胸が。

 

大きく上下する。

 

一度。

 

深く。

 

息を吸う。

 

そして。

 

目を開けた。

 

「…………」

 

焦点が少しずつ戻る。

 

最初に見えたのは。

 

天井すらない黒い空間。

 

次に。

 

自分のそばで息を切らしているスズメ。

 

「……烏丸」

 

「はい」

 

目が合う。

 

それだけで。

 

分かった。

 

見た。

 

全部。

 

小夜も。

 

両親も。

 

斎賀も。

 

御影の目が僅かに細くなる。

 

しばらく何も言わなかった。

 

やがて。

 

本当に小さな声で。

 

「……今見たことは」

 

スズメにだけ届く声。

 

「生徒たちには話すな」

 

スズメは一度だけ頷いた。

 

「話しません」

 

「絶対だぞ」

 

「はい」

 

「玄弥にも」

 

「話しません」

 

「征士郎にも」

 

「……聞かれなければ」

 

御影が僅かに嫌な顔をした。

 

「そこは絶対と言え」

 

「真壁さん、気づきそうですから」

 

「…………」

 

「二十年以上のお付き合いでしょう」

 

「余計なことまで見たな」

 

「不可抗力です」

 

「……忘れろ」

 

「努力します」

 

「忘れろ」

 

「無理です」

 

「烏丸」

 

「はい」

 

「生意気だな」

 

「教師になりましたので」

 

ほんの一瞬。

 

御影の口元が動いた。

 

笑ったのか。

 

疲れただけなのか。

 

スズメにも分からなかった。

 

そのとき。

 

「御影先生おせーよ!!」

 

大声。

 

二人が同時に振り向く。

 

奎星が立っていた。

 

腰には神代榊。

 

服は汗でぐっしょり。

 

目は赤い。

 

それなのに。

 

普段とほとんど変わらない顔で。

 

御影へ怒っている。

 

「俺ら何分待ったと思ってんの!?」

 

「お前が言うな」

 

日向が横から突っ込んだ。

 

「いやマジで! 先生だけ全然起きねえから、死んだかと思ったじゃん!」

 

「縁起でもないことを言うな」

 

「起きて一発目それ!?」

 

「御影先生」

 

冬真も。

 

少しだけ安心したように笑う。

 

「おかえりなさい」

 

澪は腕を組んだ。

 

「ずいぶん遅かったですね」

 

柊木も小さく息を吐く。

 

「無事なら何よりです」

 

御影は。

 

一人ずつ。

 

見た。

 

奎星。

 

日向。

 

澪。

 

冬真。

 

柊木。

 

そして。

 

すぐ横で、まだ呼吸を整えているスズメ。

 

帰ってきた。

 

偽物の家族ではない。

 

若い頃の仲間でもない。

 

今。

 

自分の前にいる人間たち。

 

守るべき相手。

 

いや。

 

もう。

 

一方的に守るだけの相手ですらない。

 

自分を。

 

迎えに来た。

 

元生徒までいる。

 

「……やれやれ」

 

御影は身体を起こした。

 

まだ少し重い。

 

それでも。

 

杖を握る。

 

立つ。

 

「こんな馬鹿たちは」

 

奎星が眉を寄せた。

 

「ん?」

 

御影は黒曜の門の奥へ続く闇を見る。

 

目が。

 

いつもの。

 

御影玄一郎へ戻る。

 

「俺がいないと、駄目だな……」

 

「誰が馬鹿だよ!」

 

「まずお前だ」

 

「即答!?」

 

「自分に魔法を撃ったと聞いた」

 

「…………」

 

奎星が。

 

ゆっくりスズメを見る。

 

スズメは目を逸らした。

 

「スズメちゃん!?」

 

「事実でしょう」

 

「言ったの!?」

 

「言いました」

 

「さっき話すなって――」

 

「それは御影先生の話です」

 

「何の話!?」

 

「お前には関係ない」

 

御影が切る。

 

「気になる!」

 

「黙れ」

 

「横暴!」

 

「元気だな」

 

日向が呆れた声を出す。

 

冬真が小さく笑い、澪も、柊木も、張り詰めていた表情をほんの僅かに緩めた。

 

スズメは。

 

隣で立ち上がった御影を見る。

 

もう。

 

十二歳の少年はいない。

 

左頬には。

 

あの日についた傷が残っている。

 

失ったものは。

 

戻らない。

 

父も。

 

母も。

 

小夜も。

 

十二年前の三人も。

 

もう。

 

あの頃の形には戻らない。

 

それでも。

 

御影玄一郎は。

 

今。

 

ここに立っている。

 

御影が全員を見渡した。

 

「休憩は終わりだ」

 

杖を構える。

 

「水無瀬、榊、岩戸を探す」

 

奎星の顔から、ふざけた表情が消えた。

 

「おう」

 

日向も。

 

伊織の眼鏡を強く握る。

 

「絶対連れて帰る」

 

スズメ。

 

澪。

 

冬真。

 

柊木。

 

全員が。

 

杖を構えた。

 

御影は。

 

一歩前へ出る。

 

遠い昔。

 

小夜の手を引いて逃げた少年ではなく。

 

今度は。

 

生徒たちを連れて帰る教師として。

 

そして。

 

もう。

 

振り返らなかった。

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