「《対・蓮根奎星》」
月白澄がそう告げると、両手首、首元、腰、両足首に取りつけられた六枚の黒曜石が一斉に赤黒い光を帯びた。
「…………」
奎星はしばらく黙っていたが、やがて真顔のまま口を開いた。
「……ダッサ」
「…………」
「もっといい名前なかったの?」
「そこですか!?」
スズメの声と同時に、澄の杖先へ赤い光が集まった。
「ステューピファイ」
速い。
奎星は反射的に右へ跳んだ。赤い閃光が制服の脇を掠め、そのまま背後の黒曜石の床へ弾ける。
「いきなり撃つ!?」
「戦うんでしょ」
「そうだけど!」
奎星は着地と同時に神代榊を振り返した。
「エクスペリアームス!」
真正面。
普段なら十分に速い。
しかし澄は、奎星が呪文を口にするより早く半歩左へ動いていた。赤い光はその肩口を抜け、闇の奥へ消えていく。
「……え?」
「撃つ前、右肩が少し上がる」
澄は淡々と言った。
「それから、強く狙うときは右足を半歩前へ出す」
奎星の足元へ視線を落とす。
確かに。
右足が前にある。
「…………」
奎星は無言で戻した。
「戻しても遅いよ」
「うるせえ!」
再び神代榊を振る。
「ステューピファイ!」
今度は足を動かさない。
澄が僅かに身体を沈め、避ける。
「今度は撃ったあと動かない」
奎星の顔が引きつった。
一学期。
楓に負けた直後。
――俺、撃ったあと足止まってるな……。
自分で気づき、御影から何度も直された癖だった。
今では昔ほど露骨ではない。それでも、完全に消えたわけではなかったらしい。
「……何で知ってんだよ」
澄は答えない。
代わりに杖を振る。
「デパルソ」
「プロテゴ!」
透明な盾へ衝撃が叩きつけられた。奎星の靴が床を滑る。
その瞬間、澄の杖先が僅かに下がった。
次が来る。
奎星は盾を解きながら左へ飛ぼうとした。
「そっち」
「え?」
白い閃光が既に飛んでいた。
「ディフィンド」
「っ!」
奎星は咄嗟に身体を反対へ捻る。
切断呪文が袖を浅く裂いた。
「いって!」
「蓮根君!」
スズメがすぐに前へ出る。
「プロテゴ!」
澄の追撃を防いだ。
だが、澄はその防壁を見ても驚かなかった。
むしろ。
待っていたように。
「三歩」
「……何です?」
「烏丸スズメは、生徒を庇うとき必ず相手より三歩前へ出る」
スズメの顔が変わった。
「盾を張ったあとは、右斜めから反撃する」
「――ステューピファイ!」
スズメが撃つ。
その瞬間。
澄はもう右側にはいなかった。
「……!」
左へ。
先回りしている。
赤い光が空を切った。
澄はさらに続けた。
「攻撃呪文より防御を優先する。相手に傷を負わせる可能性がある術はほとんど使わない。生徒が近くにいると、さらに選択肢が減る」
「何で……」
スズメが呟く。
「私の戦い方まで」
「神代様は、君たちをよく見ている」
澄の杖が上がった。
「特に」
その視線が。
奎星へ向く。
「君をね」
赤い光。
スズメへ。
「ステューピファイ」
「スズメちゃん!」
奎星が。
前へ出た。
「プロテゴ!」
盾。
閃光が弾ける。
「…………」
澄は無表情だった。
奎星の顔が止まる。
「……わざとか」
「うん」
あっさり認めた。
「君は烏丸スズメへの攻撃を、自分への攻撃より優先して止める」
夏。
八咫小路。
森。
青白い切断呪文。
考えるより先に。
身体が動いた。
「自分が傷つく可能性を考えない」
澄が言う。
「それも、君の癖」
奎星の奥歯が噛み締められた。
「てめえ……」
「蓮根君、乗らないでください!」
スズメの声が飛ぶ。
「分かってる!」
「今、完全に乗っています!」
「分かってるって!」
「分かっている人の顔ではありません!」
澄はそのやり取りすら、何度も見たことがあるもののように眺めていた。
奎星が先に動く。
一発。
「エクスペリアームス!」
避けられる。
二発目。
「ステューピファイ!」
撃つ前に澄がしゃがむ。
三発目。
「インカーセラス!」
縄が伸びる位置へ、澄は既にいない。
「ちっ……!」
奎星が距離を詰めようとすれば、今度は澄のデパルソが足元へ飛ぶ。
後退させられる。
逆にスズメが援護へ入る。
「ステューピファイ!」
澄は杖を僅かに傾けた。
「プロテゴ」
防ぐ。
スズメがすぐ次へ移ろうとする。
その前に。
「次は左」
「……っ!」
澄の予告通り、スズメの身体が左へ動きかけていた。
本人が気づき、途中で止める。
その一瞬。
「エクスペリアームス」
「プロテゴ!」
奎星が割り込む。
また。
庇った。
澄の目が僅かに細くなる。
「ほら」
「……ムカつくな、こいつ」
「私もです」
珍しく。
スズメも即答した。
しかし。
苛立っても。
勝てない。
二人が左右へ分かれても、澄は乱れなかった。
奎星が先に仕掛ける。
スズメが死角を狙う。
澄は奎星の攻撃を避けながら、そのまま身体を回してスズメの魔法を防ぐ。
スズメが盾を張る。
その盾越しに奎星が撃つ。
その位置も。
読まれる。
「デパルソ!」
「右へ避ける」
「――っ!」
奎星は無理やり左へ飛んだ。
だが。
普段とは逆の動き。
身体がついてこない。
着地が僅かに遅れる。
そこへ。
「ステューピファイ」
「プロテゴ!」
ぎりぎり。
盾が間に合う。
「くっ……!」
奎星の腕が痺れた。
スズメがすぐ援護する。
だが澄は、その魔法すら当然のように避ける。
六枚の黒曜石には、絶えず赤黒い文字が流れていた。
戦っている。
というより。
再生されている。
奎星がこれまで見せた動き。
魔法。
間合い。
失敗。
修正。
御影に直された癖さえ含めて、何もかもが記録され、目の前の少年へ映し出されているようだった。
「……スズメちゃん!」
「はい!」
奎星が大きく後ろへ下がる。
今度は。
火力。
読めるなら。
読んでみろ。
神代榊を両手で握り、杖先へ一気に魔力を流す。
空気が。
震えた。
スズメの顔が変わる。
「蓮根君、出力を――」
「分かってる!」
狙うのは澄の身体ではない。
その横。
床。
朝凪島で何度も試した。
高火力の爆発呪文。
「コンフリンゴ!!」
青白い光が黒曜の床へ突き刺さった。
轟音。
爆発。
黒い床が大きくめくれ上がり、衝撃と破片が一気に澄へ襲いかかる。
これなら。
直接狙わなくても。
避ける範囲そのものを潰せる。
「どうだ!」
煙が広がる。
スズメが杖を構えたまま目を凝らす。
「……いません」
「は?」
次の瞬間。
煙の上から。
黒い影が落ちた。
澄だった。
爆発する直前。
奎星の杖の振り方を見ただけで。
上へ跳んでいた。
着地。
ほぼ無傷。
「嘘だろ!?」
「高い出力を使うとき、君は杖を両手で握る」
澄が言った。
「あと、絶対に人間そのものを狙わない」
「…………」
「だから着弾点が分かる」
奎星の口が半開きになった。
「そこまで!?」
スズメが澄へ杖を向ける。
「ステューピファイ!」
澄は見もせず身体を半歩ずらした。
「先生は、生徒が大きな魔法を使った直後に必ず援護する」
赤い光が横を抜ける。
「……っ」
スズメの顔にも。
はっきり焦りが浮かんだ。
奎星が舌打ちする。
「火力じゃこっちの方が上なのに!」
「火力だけならね」
澄は静かだった。
「当たらなければ意味がない」
その言葉。
どこかで。
御影から何度も言われた気がする。
だから余計に腹が立つ。
奎星はまた攻撃を仕掛けた。
一発。
二発。
三発。
どれも届かない。
スズメが角度を変える。
届かない。
二人でタイミングをずらす。
それすら読まれる。
奎星は何度も庇わされ、そのたびに攻め手を失う。
やがて。
奎星の呼吸が。
明らかに荒くなった。
スズメも肩で息をしている。
それでも。
澄には。
汗一つなかった。
「…………」
澄は二人を見た。
少し考える。
そして。
「じゃあ」
杖を上げた。
「そろそろいいかな」
奎星の眉が寄る。
「何が」
六枚の黒曜石が。
同時に強く発光した。
赤黒い文字が、一気に高速で流れ始める。
奎星の顔が変わった。
空気が。
震える。
知っている。
この感じ。
「まさか……」
澄が。
両手で杖を握った。
奎星と。
同じように。
「コンフリンゴ」
青白い光。
さっき。
奎星が放ったものと。
ほとんど同じ。
いや。
魔力の流れも。
膨張の仕方も。
そのまま。
「プロテゴ!!」
奎星が飛び出した。
巨大な防壁が二人の前へ展開される。
直後。
爆発。
「――っ!!」
轟音が空間を揺らした。
盾全体が白く発光する。
奎星の両足が床を滑った。
一メートル。
二メートル。
「ぐっ……!」
「蓮根君!」
スズメが後ろから奎星の肩を支える。
どうにか。
止まった。
煙。
静寂。
奎星は盾を維持したまま。
目を見開いていた。
「今の……」
澄が杖を下ろす。
「そう」
六枚の黒曜石へ。
赤黒い文字が浮かぶ。
「君の魔法だよ」
澄の目が。
奎星を捉えた。
「蓮根奎星」
「…………」
「黒曜石が集めた君の魔力、術式、出力、癖。僕はそれを使える」
奎星が自分の神代榊を見る。
今。
自分の魔法を。
自分が防いだ。
「コピー……?」
「そういう言い方でもいい」
「……マジかよ」
奎星が乾いた笑いを漏らす。
スズメの顔は笑っていなかった。
「だから……」
ようやく理解する。
澄が奎星の動きを知りすぎていた理由。
六枚の黒曜石は。
ただ魔力を増幅するためのものではない。
蓄積された奎星の情報を。
この少年の中へ。
そのまま映している。
「神代は」
スズメが低く言った。
「あなた一人を倒すために、ここまで……」
澄は答えない。
奎星はしばらくその場に立っていた。
呼吸を整える。
そして。
突然。
杖を下ろした。
「スズメちゃん」
「はい?」
「下がってて」
スズメの目が見開かれる。
「何を言っているのですか」
「ちょっとだけ」
「駄目です」
「俺一人でやりたいんだ」
「蓮根君!」
「お願い」
その声。
さっきまでと。
少し違った。
奎星は澄を見ている。
怒ってはいない。
少なくとも。
怒りだけではない。
考えている。
スズメには。
それが分かった。
「……理由を言ってください」
「こいつ」
奎星は杖先で澄を示した。
「俺のこと知りすぎなんだよ」
「だからこそ二人で――」
「二人だと」
奎星が。
少しだけ笑う。
「俺、スズメちゃん庇うじゃん」
「…………」
否定できない。
「それまで読まれてるなら、ずっとそこ使われる」
「ですが」
「大丈夫」
「その言葉が一番信用できません」
「じゃあ」
奎星は一瞬考えた。
「多分大丈夫」
「悪化しました」
それでも。
奎星の目は澄から離れない。
スズメは数秒迷った末に、ゆっくり数歩後ろへ下がった。
「危険だと思ったら入ります」
「うん」
「勝手に決めないでください」
「うん」
「無茶も駄目です」
「それは無理かも」
「蓮根君」
「頑張る」
「何をですか」
澄が二人を見ていた。
「……勝てるの?」
奎星が振り向く。
「何が?」
「一人で」
澄は淡々と言った。
「君が何をするか、僕はほとんど知ってる」
「そうだな」
「魔法も使える」
「うん」
「癖も知ってる」
「うん」
「なら、何をするの?」
奎星は少し考えた。
それから。
にっと笑った。
「俺が計算できない男ってのを見せてやるよ」
「…………」
澄の眉が。
僅かに寄った。
奎星は神代榊を持ったまま。
急にその場で。
とん。
とん。
軽く跳ね始めた。
スズメが目を瞬く。
「……何をしているのですか?」
「準備運動」
「今!?」
首を左右へ倒す。
肩を回す。
足首を軽く捻る。
とん。
とん。
もう一度跳ねる。
澄も。
さすがに。
意味が分からない顔をした。
「…………?」
奎星が。
それを見た。
「お」
「何」
「初めてその顔した」
次の瞬間。
奎星は。
走った。
「……え?」
澄の目が見開かれる。
杖を構えたまま。
魔法を撃つ距離へ入るのではない。
さらに。
近づく。
五メートル。
三メートル。
二メートル。
「蓮根君!?」
スズメも声を上げる。
澄が反射的に杖を向けた。
「ステューピ――」
遅い。
奎星が。
床を蹴った。
身体ごと。
跳ぶ。
膝が。
上がる。
「うおおおおお!!」
「――っ!?」
飛び膝蹴り。
どんっ!!
奎星の膝が、澄の胸へまともに入った。
「ぐっ……!」
細い身体が後ろへ吹き飛ぶ。
スズメは。
完全に固まった。
「…………」
魔法使い同士の決闘。
杖。
呪文。
防御。
駆け引き。
そこへ。
飛び膝蹴り。
「……は?」
スズメの口から。
教師らしからぬ声が漏れた。
奎星は着地に失敗し、自分も床へ転がった。
「いってぇ!」
「蓮根君!?」
「膝も痛い!」
「当たり前でしょう!!」
澄も床へ手をつく。
咳き込む。
「げほっ……何……」
明らかに。
動揺していた。
奎星が。
それを見る。
「効いてんじゃん」
「……何で」
「何でって」
奎星は立ち上がる。
「蹴ったから」
「そうじゃない!」
初めて。
澄の声が荒れた。
「君はそんな戦い方してない!」
「うん」
「記録にない!」
「だろうな!」
奎星が笑った。
「俺も今初めてやった!」
スズメが額を押さえた。
「そんな自信満々に言うことではありません!」
だが。
澄にとっては。
致命的だった。
記録にない。
黒曜石にない。
神代が集めた。
蓮根奎星の戦闘情報に。
ない。
奎星が。
杖を持ったまま突っ込んでくる。
澄が距離を取る。
奎星は魔法を撃つ――と見せて。
床へ手をついた。
「え」
そのまま。
足払い。
「っ!」
澄が跳ぶ。
奎星も。
何も考えていなかった。
「うおっ、避けた!」
「何なんだ君は!」
「知らねえよ!」
「自分のことでしょう!?」
スズメの突っ込みが飛んだ。
澄が着地する。
その瞬間。
奎星は。
肩から。
体当たりした。
「ぐっ!」
二人で転がる。
杖同士がぶつかる。
澄が奎星の腕を押し返す。
奎星も。
別に格闘が上手いわけではない。
むしろ。
滅茶苦茶だった。
肘をどこへ置けばいいかも分かっていない。
起き上がり方も雑。
殴り方も。
蹴り方も。
魔法使いとしては。
最悪。
だから。
読めない。
「離れろ!」
澄が至近距離で杖を向ける。
奎星は。
杖を持った右手で。
その腕を押した。
魔法が天井のない闇へ飛ぶ。
「近いと当てづらいだろ!」
「君もだろ!」
「そうだよ!」
「何で嬉しそうなの!?」
「条件同じになったから!」
澄の顔が歪む。
奎星は。
笑っていた。
ようやく。
同じ場所だ。
知識じゃない。
記録じゃない。
今。
この瞬間。
何をするか。
自分にも分からない。
なら。
向こうにも。
分からない。
澄が奎星を蹴り離す。
「っ!」
今度は奎星が転がった。
即座に。
澄が杖を構える。
「ステューピファイ!」
奎星は起き上がらない。
床へ寝転がったまま。
「デパルソ!」
「何――」
狙いは澄ではない。
自分の横。
床。
反動で。
奎星の身体が横へ滑った。
赤い光が。
さっきまで頭のあった場所を通過する。
スズメが。
目を見開く。
似た動き。
夏休み。
御影と斎賀の戦い。
魔法を。
相手へ撃つのではなく。
自分の移動へ使う。
奎星がその戦いを見ていたわけではない。
ただ。
思いついただけだ。
だからこそ。
滅茶苦茶。
「もう一回!」
奎星が床へ。
「デパルソ!」
どんっ!
今度は自分から澄へ滑っていく。
「馬鹿なの!?」
澄が叫んだ。
「今さら!?」
奎星が返す。
澄が杖を振る。
奎星は横へ転がる。
立つ。
撃たない。
走る。
途中で急に止まる。
「エクスペリアームス!」
今度こそ魔法。
澄が。
一瞬だけ。
反応を遅らせた。
赤い光が。
黒い杖へ掠る。
「っ……!」
完全には飛ばない。
けれど。
澄の指が開く。
そこへ。
奎星が。
踏み込む。
「インカーセラス!」
「――!」
縄。
今まで何度撃っても。
発動前に見切られていた拘束呪文。
今度は。
近い。
澄の右腕へ巻きつく。
「くっ!」
澄が切ろうとする。
奎星は。
止めない。
「インカーセラス!」
二発目。
左腕。
「やめ――」
「三発目!」
「インカーセラス!」
胴。
脚。
一気に。
巻く。
澄が倒れる。
それでも杖を動かそうとする。
奎星は走り込み。
その手元だけへ。
神代榊を向けた。
「エクスペリアームス!」
赤い光。
今度こそ。
黒い杖が。
高く飛んだ。
からん。
床へ落ちる。
六枚の黒曜石が。
激しく点滅する。
奎星は息を切らしたまま。
澄へ杖を向けていた。
「……どうよ」
「…………」
「計算できた?」
澄は。
答えなかった。
というより。
答えられない顔だった。
スズメも。
しばらく。
何も言わなかった。
「…………」
奎星が振り返る。
「スズメちゃん?」
「……何ですか」
「勝った」
「見れば分かります」
「褒めて」
「嫌です」
「何で!?」
「飛び膝蹴りをする魔法使いをどう褒めればいいのですか!」
「効いたじゃん!」
「効きましたけど!」
「じゃあいいじゃん!」
「よくありません!」
スズメは完全に頭を抱えていた。
それでも。
目だけは。
奎星を見る。
さっきまで。
まるで歯が立たなかった。
魔力でも。
術式でも。
奎星のほうが上だった。
それでも勝てなかった。
相手が。
奎星を知りすぎていたから。
だから。
奎星は。
それまでの奎星を。
自分から捨てた。
上手くやるのではなく。
やったことのないことを。
その場で試した。
無茶苦茶。
危なっかしい。
教師としては。
頭が痛い。
けれど。
「……あなたらしいですね」
スズメが小さく言った。
「ん?」
「何でもありません」
そのとき。
ごごごごご……。
音がした。
二人が同時に顔を上げる。
周囲を取り囲んでいた黒曜石の壁に、亀裂が走っていた。
「壁!」
大きな亀裂。
一本。
二本。
三本。
やがて。
轟音とともに。
壁が崩れ落ちる。
その向こう。
「……ようやく終わったか」
御影が立っていた。
ほぼ無傷。
隣には柊木。
こちらも。
普段と大して変わらない。
「…………」
奎星が固まる。
「え」
御影が拘束された澄を見る。
次に。
奎星を見る。
服。
汚れている。
膝。
痛そうに押さえている。
「何をしてた」
「戦ってた!」
「なぜ膝を押さえてる」
「飛び膝蹴りした」
「…………」
御影が。
黙った。
柊木が。
珍しく。
目を瞬く。
スズメが疲れ切った声で言った。
「聞かないでください」
「いや聞く」
「後にしてください」
「何があった」
「後で!」
反対側から。
別の壁も崩れる。
「うわっ!」
日向の声。
黒い破片の向こうから、澪と冬真も現れた。
三人とも御影たちよりは明らかに疲れている。日向は肩で息をし、澪の髪も少し乱れ、冬真も長衣の袖へ埃をつけていた。
「奎星!」
「日向!」
二人が互いを見る。
「勝った!?」
「勝った!」
「こっちも!」
「俺飛び膝蹴りした!」
「は!?」
澪が眉を寄せる。
「何の報告?」
「俺も分からない」
冬真が言った。
御影が日向たちを見る。
「怪我は」
「ないです!」
日向が即答する。
「めっちゃ疲れたけど!」
柊木も澪を確認した。
「大丈夫ですね?」
「はい。冬真先輩がほとんど指示してくれました」
「澪が相手の足の癖を見つけたからです」
冬真が返す。
「日向もずっと囮で走ってくれた」
「俺さっきから囮ばっかなんだけど!」
「適任だった」
「褒められてんのかな、それ!」
奎星が笑いかけた。
だが。
すぐに。
笑みが消える。
まだ。
終わっていない。
「楓たちは」
その言葉で。
全員の空気が変わった。
日向の右手には。
まだ。
伊織の細い黒縁眼鏡がある。
御影が奥を見る。
崩れた三つの空間の先。
いつの間にか。
一本の道が。
新しく現れていた。
「行くぞ」
誰も休みたいとは言わなかった。
*
三人を見つけるまで。
それほど時間はかからなかった。
黒い道を進んで数分。
最初に。
日向が走った。
「楓!!」
広い円形の空間。
そこに。
三人が倒れていた。
楓。
岳。
伊織。
互いに少し離れた場所で。
目を閉じている。
「楓!」
日向が膝をつく。
身体を抱き起こす。
呼吸。
ある。
「生きてる……!」
御影は岳へ。
冬真は伊織へ走る。
「全員、呼吸あります!」
「外傷は?」
「見える範囲では大きなものはありません!」
スズメもすぐに三人へ杖をかざした。
「門の影響です。黒い魔力反応が残っています」
奎星は。
その言葉を聞いた瞬間。
神代榊を握った。
「じゃあ」
もう。
方法は分かっている。
左手が。
ポケットの銀色の星へ触れる。
帰る。
全員で。
「エクスペクト・パトローナム!」
銀白色の光が。
黒い空間を照らした。
大きな鴉。
奎星の守護霊が翼を広げる。
最初に。
楓。
銀の翼が身体を包んだ。
黒い靄が胸元から抜ける。
「……っ!」
楓が息を吸った。
日向の顔が一気に明るくなる。
「楓!」
「……ひ、なた……?」
「俺! 俺!」
「見れば……分かるわよ……」
「よかったぁ……!」
「うるさ……」
まだ力が入らない。
それでも。
いつもの楓だった。
鴉はそのまま岳へ。
黒い靄が抜ける。
「――っ」
岳の目が開く。
数秒。
天井のない闇を見る。
「…………腹減った」
奎星の顔が綻んだ。
「岳だ!」
御影が僅かに息を吐く。
「起きて第一声がそれか」
「飯……」
「帰ってからだ」
最後。
伊織。
銀の鴉が身体の上を通る。
黒い煙。
消える。
「……っ」
瞼が開いた。
焦点が合う。
「……奎星?」
「伊織!」
奎星が駆け寄る。
伊織は。
奎星の顔を見る。
次に。
何かを探すように目を動かした。
日向がすぐ気づく。
「これ」
右手。
眼鏡。
「入口んとこに落ちてた」
「……ありがとう」
日向が渡す。
伊織は震える手で受け取ろうとするが、指に力が入らない。
奎星が代わりに眼鏡を開き。
顔へかけた。
「ほら」
「……何で君がかけると不安なんだろう」
「俺なくしてないじゃん!」
「僕が落としたのを日向が拾ったんだけど」
「起きてすぐ細けえな!」
伊織の口元が。
ほんの少しだけ。
動いた。
七人。
いや。
十人。
全員。
いる。
御影が周囲を確認する。
「立てるか」
楓は。
日向の腕を借りながら。
どうにか立った。
「……ちょっと、きつい」
「乗る?」
日向が背を向ける。
「そこまでじゃない」
「じゃ肩」
「それで」
楓の腕が日向の肩へ回る。
日向は慎重に身体を支えた。
岳は自力で立とうとして。
ぐらり。
「おい」
御影が腕を掴む。
「すみません」
「肩使え」
「先生の?」
「他に誰がいる」
「潰れません?」
御影の眉が寄る。
「お前一人くらいで潰れるか」
「岳、御影先生より重いんじゃね?」
奎星が言う。
「蓮根」
「はい」
「黙れ」
「はい」
伊織も。
まだ足元が覚束ない。
奎星が横へ入る。
「ほら」
「君?」
「何だよ」
「途中で転ばない?」
「俺を何だと思ってんだよ!」
「転ぶ人」
「転ばねえ!」
伊織の腕を自分の肩へ回す。
「ちゃんと持ってろよ」
「君がね」
「はいはい」
「はいは一回」
後ろで。
スズメが僅かに眉を動かした。
奎星も。
一瞬だけ止まる。
「……それ俺のやつ」
「何が?」
伊織は本気で分かっていなかった。
「いや、いい」
柊木と澪は少し先へ出て、来た道を警戒する。冬真もその反対側へつき、スズメは三人の状態を何度も確認しながら最後尾へ回った。
御影が全員を見る。
「戻るぞ」
来た道。
黒曜の門の外へ。
今度こそ。
全員で。
*
戻る道は。
行きより長く感じた。
楓も。
岳も。
伊織も。
目を覚ましたとはいえ、門の術式に長く捕まっていたせいか、身体にほとんど力が入っていない。
日向は楓の歩幅へ合わせる。
御影は岳の重さをものともせず歩き。
奎星は伊織の身体を支えながら。
何度も。
「足上げろ」
「上げてる」
「全然上がってねえって」
「君の肩が低い」
「身長ほぼ同じだろ!」
と。
どうでもいい会話を繰り返した。
それが。
ありがたかった。
伊織が喋る。
楓が日向へ文句を言う。
岳が飯の話をする。
生きている。
それを。
確かめられる。
やがて。
前方へ。
光が見えた。
白い。
本物の。
光。
「出口!」
日向の声が上がる。
黒い空間の向こう。
門。
今度は。
はっきり見える。
開いている。
その向こうには。
昼の空。
白い校舎。
「マホウトコロ……」
楓が呟いた。
御影は立ち止まらない。
「気を抜くな。全員出るまでだ」
「はい!」
一人。
また一人。
門をくぐる。
柊木。
澪。
楓を支えた日向。
冬真。
岳を支える御影。
スズメ。
そして。
最後に。
伊織を支えた奎星。
「よいしょ……!」
境界を。
越えた。
空気が変わる。
風。
潮の匂い。
日差し。
遠く。
鳥の声。
「…………」
奎星は。
立ち止まった。
間違いない。
マホウトコロだった。
星迎祭の飾りが一部残る校舎。
羊脂玉の壁。
いつもの校庭。
今までいた場所とは。
何もかも違う。
「戻った……」
日向が息を吐く。
楓も。
肩を借りたまま。
目を閉じた。
「ほんとに……?」
「ああ」
日向が言う。
「本物」
校庭を見回す。
さっきまで。
大勢の生徒が倒れていた場所。
けれど。
今。
そこに倒れたままの生徒はいない。
「……みんなは?」
奎星が周囲を見る。
大量の生徒が黒曜の門へ引き寄せられ、九重院の巨大な気絶呪文で止められた。
その姿が。
ない。
既に目を覚ましたのか。
医務室へ運ばれたのか。
別の場所で治療を受けているのか。
ここからでは分からない。
ただ。
少なくとも。
誰一人として。
あのまま校庭へ倒れっぱなしにはなっていなかった。
スズメも。
少しだけ息を吐く。
「外側も、無事に対処できたようですね」
「真壁さんと校長だもんな」
奎星が言う。
「そりゃ大丈夫か」
御影が辺りを見回す。
「まだ確認はしていない。決めつけるな」
「はい」
「返事だけはいいな」
「いつもいいじゃん」
「中身が伴ってない」
「ひど」
そのとき。
背後。
ごごご……。
低い音。
全員が。
振り返った。
黒曜の門。
巨大な。
学校の二階へ届きそうだった。
あの門が。
揺れている。
赤黒い文字が。
一つずつ消えていく。
輪郭が。
薄くなる。
「下がれ!」
御影の声。
全員が距離を取る。
門は。
音もなく。
少しずつ。
闇へ溶けた。
上。
左右。
最後に。
地面へ接していた黒い部分。
すべて。
消える。
そこには。
何も残らなかった。
「…………」
静かだった。
本当に。
終わった。
そう。
思った。
奎星は。
息を吐こうとした。
そのときだった。
「…………え」
身体が。
固まった。
視線。
校舎正面。
星迎祭の開会式で。
九重院が立っていた。
高い壇上。
そこに。
誰かが。
立っている。
長い黒髪。
その中へ混じる白。
濃い紫の和装。
黒い羽織。
不自然なほど若い顔。
そして。
何十年もの時間だけを閉じ込めたような。
古い。
黒い目。
さっきまで。
奎星の夢の中にいた男。
けれど。
今度は。
透けていない。
風が。
その羽織を。
確かに揺らしている。
奎星の口が。
ゆっくり開いた。
「……嘘だろ」
スズメが奎星を見る。
御影が。
すぐに壇上へ視線を向ける。
その顔から。
表情が消えた。
壇上の男は。
十人を見下ろしていた。
穏やかに。
まるで。
ずっとそこで待っていたかのように。
神代冥司が。
立っていた。