神代冥司が立っていた。
星迎祭の開会式で九重院紫苑が生徒たちへ語りかけた、校舎正面の壇上。その中央に、長い黒髪と濃い紫の和装を纏った男がいる。まるで、初めからそこが自分の場所だったかのように。
そして、その後ろ。
「…………!」
御影の目が見開かれた。
九重院が倒れていた。
白を基調とした長衣は土と埃に汚れ、いつも丁寧に整えられていた銀髪も乱れている。杖は数メートル離れた場所へ転がり、片腕を床についたまま、起き上がることすらできていなかった。
「馬鹿な……」
御影の声が掠れる。
「九重院が……?」
奎星も言葉を失った。
ついさっきまで、黒曜の門へ引き寄せられた何百人もの生徒を、一人で止めた人だ。御影が異変へ誰より早く気づくほどの魔女であり、入学初日、奎星の膨大な魔力が暴走しかけたときも、砕けた測定水晶の破片すべてを完全に制御した。
その九重院が、倒れている。
「校長先生……?」
日向が呟いた。
「九重院先生!」
スズメが一歩踏み出そうとする。
しかし、その瞬間。
「皆さん」
神代の声が校庭へ響いた。
大声ではなかった。いつもの、妙に穏やかな声だった。なのに、校舎中から向けられていた視線が、一斉に神代へ集まった。
「怯える必要はありません」
奎星の眉が寄る。
「……は?」
神代は壇上から、生徒たちを見渡した。
「彼らもまた被害者なのです。誤った考えを植えつけられ、正しい判断ができなくなっているだけです」
ゆっくりと、その指が奎星たちへ向けられた。
「九重院紫苑と同じように」
「…………」
奎星の背筋に、ぞっとするものが走った。
視線を感じる。一つや二つではない。校舎の窓、回廊、教室。そこかしこに、生徒たちがいた。
下級課程。中級課程。上級課程。
皆、こちらを見ている。
だが、その目は助けを求めるものではなかった。
怖がっている。
奎星たちを。
「……あいつら……」
教室の窓辺にいた下級生が、小さく呟く。
「門から出てきた……」
別の生徒が身を寄せ合う。
「黒曜の人たち……?」
「神代校長を襲いに来たの?」
「九重院先生みたいに……?」
「…………は?」
奎星の顔から血の気が引いた。
「今……何て言った?」
日向も同じ言葉を聞いていた。
「神代……校長?」
楓が、日向の肩を借りたまま顔を上げる。
「何それ……」
伊織も眼鏡の奥で目を見開いていた。
神代校長。
聞き間違いではない。
一人ではない。あちらでも、こちらでも、「神代校長」と呼んでいる。
まるで、最初からこの学校の校長が神代冥司だったかのように。
御影の目が動いた。
壇上。九重院。生徒。校舎。窓。回廊。教室。
そして。
「…………」
一つの教室で、土御門が両腕を背中へ回され、魔法の縄で椅子へ縛りつけられていた。その隣には薬師寺。別の窓には早瀬。白峰から応援に来た教員たちもいる。
全員、拘束されている。
杖もない。
その周囲には生徒たちがいて、教師を守ろうとも、助けようともしていない。むしろ、困惑と恐怖の目で自分たちの教師を見ている。
まるで、危険人物を見るように。
「……征士郎」
御影が小さく呟いた。
一階。二階。回廊。校庭。拘束された教師たち。倒れた九重院。
どこにもいない。
真壁征士郎だけが、いなかった。
倒れてもいない。縛られてもいない。
姿そのものが、ない。
「…………」
何があった。
考える。
だが、それを追う時間はなかった。
御影は、すべてを理解した。
黒曜の門。大量の生徒。自分たちを内側へ誘導した敵。外へ残った九重院と真壁。そして、門の中で時間を使わされた。
その間に、学校そのものを。
「……やられた」
御影の口から、言葉が落ちる。
奎星が見る。
「御影先生……?」
御影は神代を見た。左頬の傷が僅かに歪む。
「マホウトコロが……」
握った杖が軋む。
「堕ちた」
あの門の中で、声が言っていた。
――マホウトコロに伝えるのです。
――今に堕とす、と。
神代冥司は、宣言通りにやった。
「レンコン……」
小さな声がした。
奎星が反射的に振り向く。
校庭の隅、建物の陰へ、小さな影がいくつも集まっていた。
小妖たち。
普段なら廊下を掃き、食堂へ料理を運び、生徒の荷物を抱えて校内を忙しく歩き回っている彼らが、今は固まるように身を寄せ合っている。
その中から、一匹、見覚えのある藍染めの作務衣がふらふらと前へ出た。
「……天ぷら」
大きな黒い目。
いつもなら、奎星を見つければ「レンコン」と嬉しそうに呼ぶ。
今は、その目が震えていた。
天ぷらは校庭を見た。
倒れている九重院。壇上の神代。縛られた教師たち。そして、奎星。
全部、見ていたのだろう。
小さな身体が震える。
「レンコン……」
声まで震えていた。
「タスケテ」
「…………」
何かが切れた。
「てめえッ!!!」
「蓮根!!」
奎星が飛び出した。
伊織の身体を支えていた腕を離し、神代榊を抜く。そのまま一直線に壇上へ向かう。
「蓮根、よせ!!」
御影が背後から奎星の身体を掴んだ。
「離せよ!!」
奎星が暴れる。
「離せ!!」
「落ち着け!」
「落ち着けるかよ!!」
奎星は神代を指差した。
「あいつだろ!! あいつが全部やったんだろ!!」
「分かってる!」
「だったら!」
「今撃つな!!」
御影の怒声が、奎星の声を叩き潰した。
「何でだよ!!」
「周りを見ろ!!」
「…………!」
「今お前が神代へ攻撃すれば、どう見える!」
奎星の顔が止まる。
御影が掴んだ腕へ力を込める。
「ここの生徒たちは、神代を校長だと思ってる!」
「…………」
「お前が杖を向ければ、あいつを守るために生徒がお前へ杖を向けるぞ!」
奎星の目が校舎へ向く。
上級生。中級生。下級生。
何百人もいる。
その全員が、怯えた目で自分を見ている。
何人かは、すでに杖を握っていた。震えながら、自分たちへ向けている。
「考えろ!」
御影が言う。
「俺たちは十人! そのうち水無瀬、岩戸、榊はまともに動けない! 向こうには学校中の生徒がいる!」
「でも……!」
「今戦えば!」
御影の声がさらに強くなる。
「俺たちは生徒と戦うことになる!!」
「…………っ」
奎星の歯が強く噛み締められた。
御影の言葉は正しい。
それでも、御影自身も冷静ではなかった。奎星を掴んでいる手は僅かに震えている。
目の前には、自分が何十年も過ごした学校がある。九重院が倒れている。同僚たちは拘束され、生徒たちは敵を校長と呼んでいる。
今すぐにでも神代へ杖を向けたい。
それを、自分で抑えているだけだった。
「流石ですね、御影玄一郎」
神代が拍手する。
ぱち。ぱち。
妙にゆっくりとした音。
「状況の把握が早い」
御影が睨む。
「……最初からか」
「何のことでしょう」
「門だ」
御影の声が低い。
「俺たちを中へ入れたのも」
奎星が顔を上げる。
御影は続ける。
「お前の部下を三組へ分けて当てたのも。全部、俺たちを学校から切り離すためか」
神代が微笑んだ。
「門の中にいた私の部下が倒されることは、想定の範囲内でした」
「なに……!?」
日向が声を上げる。
神代は、まるで授業の説明でもするように続けた。
「彼らには役目を果たしてもらいました。皆さんに《正しいこと》を思い出していただくには、それなりの時間が必要でしたからね」
「正しいこと……?」
澪が眉を寄せる。
「これが?」
神代は答えない。
スズメは生徒たちを見ていた。
表情。視線。怯え方。神代を見る目。九重院を見る目。
「……違う」
「烏丸?」
御影が僅かに振り返る。
スズメの顔が青ざめていた。
「洗脳ではありません」
奎星が見る。
「え?」
「少なくとも、単純に命令を聞かされている状態ではない」
生徒たちは、神代に操られているようには見えない。怖がっている。迷っている。自分で考えている。
けれど、前提だけが違う。
神代冥司は校長。九重院紫苑は学校へ害を与えた人間。御影たちは敵。
その前提の上で、普通に考えている。
「認識そのものが……」
スズメが呟く。
「書き換えられています」
御影の顔が険しくなる。
「そんな規模の術式……」
「普通なら無理です」
スズメは校舎を見る。
そして、足元、地面、その下へ視線を落とした。
「でも」
思い出す。
蓮根家。古い記録。鬼火鳥。霊脈。マホウトコロが建つ、この島。
「……霊脈」
「何?」
奎星が聞く。
スズメが顔を上げる。
「マホウトコロの地下を通る霊脈です」
御影の目が変わった。
「まさか」
「神代は……」
スズメが壇上の男を見る。
「学校の結界だけではありません。地下を流れる霊脈そのものを掌握した」
一瞬、全員が黙った。
「学校全体に繋がっている魔力の流れを使って……生徒たちの認識へ干渉している」
神代が楽しそうに目を細めた。
「流石は魔法史の教師ですね」
「…………」
「正解です、烏丸スズメ」
奎星が神代を睨む。
「何がしてえんだよ……」
「以前、お話ししたでしょう」
神代が奎星を見る。
「君には理解できないと」
「今なら聞いてやるよ」
「蓮根君」
スズメが止める。
だが、神代はもう話し始めていた。
「人は、間違える」
穏やかな声が校庭へ広がる。
「恐怖で判断を誤る。怒りに任せて他者を傷つける。愛する者のために規則を破る。自分だけは正しいと思い込み、何度も同じ過ちを繰り返す」
奎星の目が細くなる。
門の中で、自分へ見せられた未来。
「教師も」
神代は御影を見る。
「生徒も」
奎星。日向。楓。岳。伊織。冬真。澪。
一人ずつ見る。
「魔法省も」
そして、倒れた九重院を一瞥する。
「校長でさえも」
「…………」
「だから」
神代は両腕を広げた。
その背後にある羊脂玉の校舎、マホウトコロのすべてが、自分のものだと言うように。
「私が管理するのです」
「……管理?」
「学ぶもの。使う魔法。進む道。守るべきもの。信じるべきもの」
神代は笑う。
「人間に自由など与えるから、間違える」
奎星の顔が歪んだ。
「ざけんな……」
「私の願いは、もうすぐ叶う」
神代の声には、本気の確信があった。
「すべてを私に委ねればいい」
校舎の窓から、生徒たちが聞いている。
「そうすれば、誰も道を誤らない。誰も無益な争いを起こさない。誰も間違った選択によって、大切なものを失うこともない」
御影の目が一瞬だけ変わった。
小夜。斎賀。
さっき、門の中で見たもの。
神代は、それすら知っているのかもしれない。
「私がすべてを管理すれば」
神代は静かに言い切った。
「何も悪いことは起きない」
「……気持ちわりぃ」
奎星が言った。
神代の目が細くなる。
「君はやはり理解できませんか」
「理解したくもねえよ」
奎星は吐き捨てた。
「間違えるから何だよ」
「…………」
「間違えたら自分で直せばいいだろ」
御影の手の中で拳を握る。
「失敗して、怒られて、もう一回やって」
朝練。御影。授業。友達。スズメ。
「それ全部取り上げて、てめえの言うことだけ聞かせて」
神代を睨む。
「それ、生きてんのかよ」
「蓮根君」
スズメが小さく呼ぶ。
神代はしばらく何も言わなかった。
やがて。
「だから子供なのですよ」
「十七だよ」
「そういうところです」
「何だよ!」
「よせ蓮根!」
御影が怒鳴った。
奎星はなおも何か言いかけたが、御影はもう神代を見ていなかった。
考えていた。
姿くらまし。自分一人なら、あるいは二人、三人なら、連れて飛べるかもしれない。
だが、十人。
しかも、楓、岳、伊織は門から戻ったばかりで、奎星も消耗している。まして、この島の結界の中でどこまで姿くらましが通るかも分からない。
却下。
神代へ直接仕掛ける。
自分、柊木、スズメ、奎星、日向、冬真、澪。戦える人間を集めれば、勝機がないとは言わない。
だが、周囲には何百人もの生徒がいる。
神代は必ず使う。
自分たちが守ろうとする生徒を、盾に。
却下。
教師たちを先に解放する。
無理だ。
教室に近づく時点で、生徒たちが敵になる。
九重院の救出も同じ。
外部へ連絡する。
手段がない。
火映し。伝書。ウミツバメ。すべて学校側にある。
御影の思考が、一つ、また一つと道を潰していく。
「…………」
ない。
何を考えても、詰んでいる。
その事実を、御影玄一郎は認めざるを得なかった。
そのとき。
かさ。
足元で小さな音がした。
「…………?」
御影は目を動かさない。
視界の端に、白い小さな折り鶴がある。
いつからいたのか分からない。風に飛ばされたようなふりをして、少しずつ、少しずつ、御影の靴へ近づいてくる。
神代は気づいていない。壇上で、生徒たちへ自分の新しい秩序を語っている。
御影は視線を上げたまま、足だけを僅かに動かした。
折り鶴を靴の下へ入れる。
踏む。
ぱき。
紙とは思えない、小さな魔力の感触。
次の瞬間、声が頭の中へ響いた。
『御影先生』
「…………!」
九重院紫苑。
その声だった。
『この折り鶴を聞いているということは』
いつもの穏やかな声。
『マホウトコロが、堕ちたということです』
御影の目が僅かに揺れた。
『あなたたちは逃げなさい』
「…………」
『学校を離れてください』
御影の奥歯が強く噛み締められる。
逃げろ。
今まで、何度聞いた。
十二歳。父親。
――小夜を連れて逃げろ。
二〇一四年。斎賀。
――先行け。
そして、今。
九重院。
『歴代校長のみが知る秘匿島があります』
声は続く。
『常隠島――とこがくれじま』
聞いたことがない。
御影ですら知らない。
『マホウトコロの歴代校長が、学校そのものを維持できなくなった場合に備え、残した場所です』
折り鶴から微かな魔力が足裏へ流れ込む。
複雑な転移術式。
『この折り鶴へ、常隠島への転移術式を組み込みました』
御影の呼吸が一度止まる。
『外部からは絶対に掴むことのできない座標です。神代にも』
九重院の声が、ほんの少し柔らかくなった。
『そこへ行きなさい』
「…………」
『生きて』
一拍。
『そして、いつの日か』
倒れているはずの校長の声が、御影の頭の中で確かに笑った。
『学校を取り戻して』
声が消えた。
「…………」
御影は一秒、目を閉じた。
それだけで、次に開いたときには決めていた。
「全員」
低い声。
柊木が見る。スズメも、奎星も。
「俺の近くへ来い」
「え?」
奎星が眉を寄せる。
「何で」
「説明は後だ」
御影の声音で、スズメがすぐ察した。
「全員、近くへ!」
柊木も動く。
「澪ちゃん、こちらへ」
「はい」
日向は楓を支えたまま御影へ寄る。奎星も伊織の腕を肩へ回し直す。
岳はまだ一人では危うい。御影が空いている腕で、その身体を支えた。
「先生?」
「掴まれ」
冬真。澪。柊木。スズメ。奎星。伊織。日向。楓。岳。御影。
十人が一か所へ固まる。
「全員、誰かに触れろ」
「何するの?」
日向が訊く。
「急げ!」
御影が珍しく説明を省いた。
「絶対に離すな!」
それだけで、全員が動いた。
腕。肩。手首。服。
何でもいい。
一つの繋がった輪になる。
壇上で、神代の声が止まった。
「…………」
初めて、その顔から僅かに余裕が消える。
「何をしている……?」
御影が足元へ力を込める。
折り鶴。九重院の術式。
起動。
白い光が靴の下から広がった。
神代の目が見開かれる。
「それは――」
杖が上がる。
「全員離すな!!」
御影が叫んだ。
「御影先生!?」
奎星の足元まで光が来る。
神代の顔から笑みが消えた。
「逃がすとでも……!」
細い杖が真っ直ぐ御影へ向く。
「アバダ・ケダブラ!!」
緑。
死の光。
奎星の顔が変わる。
「先生!!」
速い。
避けられない。
神代と御影、その間を緑の閃光が一直線に走る。
御影は逃げなかった。
神代を真っ直ぐ睨んだ。
「神代冥司」
光が迫る。
十メートル。五メートル。
御影の左頬の傷が歪む。
「必ず貴様を倒す」
緑の光が届く。
その寸前、十人の姿が白い光の中へ消えた。
次の瞬間、死の呪文が誰もいなくなった地面へ直撃した。
轟音。
校庭が抉れる。
白い光の残滓だけが宙へ散った。
「…………」
神代は杖を構えたまま、消えた場所を見ていた。
長い沈黙。
そして、ゆっくりと振り返る。
壇上の後ろに、倒れている九重院紫苑。
「……やってくれましたね」
神代の声から、初めて完全に温度が消えた。
「九重院紫苑……」
「…………」
九重院は動けない。
息をするのもやっとだった。
それでも顔だけを僅かに上げ、口元に小さな皮肉な笑みを浮かべた。
神代が目を細める。
九重院は何も言わない。
言う必要などなかった。
校長は、まだ負けていなかった。
*
潮の匂いがした。
「――っ!」
奎星の身体が地面へ投げ出された。
「いってぇ!」
「蓮根君!」
スズメも膝をつく。
次々と人が現れる。
日向。楓。伊織。岳。冬真。澪。柊木。そして御影。
十人。
全員、いる。
「……どこ」
日向が顔を上げる。
海。青い空。濃い緑の木々。
遠く、波が白い砂浜へ打ち寄せている。
奎星は荒い息をしながら、周囲を見回した。
「マホウトコロ……じゃない」
当たり前だ。
校舎がない。
ウミツバメも、発着場も、何もない。
小さな島。
それだけ。
御影だけが、すぐに立ち上がった。
「常隠島」
「……え?」
スズメが見る。
御影は短く答える。
「九重院が残した避難場所だ」
「校長先生が……?」
「歴代校長だけが知ってる島らしい」
御影は、それ以上まだ説明しなかった。
「全員ここで待て」
「御影先生?」
「建物を確認する」
「私も」
柊木が立ち上がる。
「いや」
御影は浜辺の生徒たちを見る。
楓。岳。伊織。
三人とも、まだまともに立てない。
奎星も、さっきまで澄と戦い続けていた。
日向。冬真。澪。
顔には疲労と混乱、そして何より、現実をまだ受け止めきれていない様子が浮かんでいる。
「柊木」
「はい」
「こいつらを見てろ」
一瞬、柊木は御影を見る。
それから静かに頷いた。
「分かりました」
御影は一人、島の内側へ歩き始めた。
*
宿舎はすぐに見つかった。
浜辺から少し林へ入ったところにある、古い木造二階建ての建物だった。外から見れば、山小屋を少し大きくしたようなものだ。
杖を構えたまま、御影が扉を開く。
「…………」
人はいない。
玄関。廊下。居間。長い机。椅子。簡素な暖炉。
奥には寝室が一つ、二つ、三つ。
二十人ほどなら寝泊まりできる。
水は使える。魔法の灯りも生きている。
さらに地下へ下りる。
「……食料庫か」
扉を開けると、棚に保存食が並んでいた。
米。乾物。缶詰。魔法で鮮度を固定された肉。魚。野菜。水。薬草。最低限の治療用品。
御影は一つずつ確認する。
今いる人数。消費量。節約。
一か月。
少なくとも、その程度なら籠もれる。
宿舎の居間へ戻ったところで、御影の足が止まった。
壁には古い写真が何枚も飾られている。
着物姿の老人。軍服のような魔法衣を着た男。洋装の女性。
時代は違う。
けれど、全員マホウトコロの校長、歴代校長だった。
その一番端に、まだ九重院の写真はない。現役だからだろう。
そして写真の下には、一つの額縁があった。
そこへ、古い墨文字で言葉が書かれている。
御影は読む。
――校舎を失っても、学校は失われない。
「…………」
その下に続きがあった。
――教える者がいて。
――学ぶ者がいて。
――共に明日を望むかぎり。
――そこが、学校である。
御影はしばらく、その言葉を見た。
「…………そうか」
小さく呟く。
そして、もう一度外へ出た。
*
島を一周する。
御影は歩いた。
林。岩場。浜辺。小さな高台。
転移用らしき石碑もあったが、使えるかは今は分からない。
他に建物はない。
船もない。桟橋もない。
周囲はすべて海で、どの方向を見ても陸地は見えなかった。
一周、約二十分。
小さい。
完全に隔離された島だった。
外部と連絡を取る手段も、今のところ見当たらない。
ウミツバメはない。通信鏡もない。
折り鶴を外へ飛ばせるかは不明だ。
そもそも、ここが日本のどこなのかすら分からない。
「……徹底しているな」
外から絶対に掴めない座標。
その代わり、こちらからも簡単には外へ触れられない。
避難場所としては正しい。
反撃拠点としては、何もない。
だから、作るしかない。
御影は歩き続けた。
二十分。
それだけの間に、頭の中で数えた。
人数。戦力。怪我。使える魔法。食料。時間。敵。学校。神代。霊脈。洗脳。黒曜の環。九重院。
真壁。
征士郎はいない。
なぜ、あの場所にいなかったのか。
分からない。
それでも。
「…………」
御影は足を止めた。
浜辺。
そこに、生徒たちがいた。
誰も、ほとんど動いていなかった。
*
奎星は砂浜へ膝をついていた。
両手を砂へつき、指が強くめり込んでいる。
誰も話しかけていなかった。
スズメは少し離れたところにいる。
近づきたい。
でも、何を言えばいいか分からない。
マホウトコロが奪われた。
奎星にとって、ほんの数か月前まで存在すら知らなかった場所。それなのに、今は帰る場所だった。
友達がいる。先生がいる。小妖がいる。寮がある。大食堂。訓練場。教室。観測塔。
全部、置いてきた。
天ぷらの声が頭から離れない。
――レンコン。
――タスケテ。
「…………くそ」
拳が震える。
「くそっ……!」
砂を殴る。
一度。
「くそがっ……!」
もう一度。
スズメが僅かに動く。
けれど、止まる。
今は奎星だけではない。
日向は楓の隣へ座っていた。
何も言わない。
楓も何も言わない。
ただ、二人の肩が少しだけ触れている。
岳は砂浜へ大の字になっていた。
普段なら腹が減ったと言う。
今は言わない。
伊織は眼鏡をかけて海を見ている。
何かを考えようとしている。
でも、考えがまとまらない。
そんな顔だった。
冬真は膝を立て、その上へ腕を置いていた。
星迎祭。
二日前まで、後輩たちとくだらない話をしていた学校。
ない。
澪も少し離れて海を見ている。
本来なら白峰へ帰るはずだった。
なのに、今は常隠島にいる。
柊木がその隣へ立っていた。
教師として、何かを言わなければ。
そう思う。
でも、言葉が出ない。
スズメも同じだった。
「…………」
負けた。
その言葉だけが、全員の中にあった。
負けた。
学校を取られた。
何百人もの生徒を残した。
教師たちも、九重院も、小妖も置いてきた。
逃げた。
その事実が重かった。
そして、そこへ足音が近づいた。
ざっ。ざっ。
砂を踏む。
全員が少しずつ顔を上げる。
御影玄一郎が一人、歩いてくる。
奎星は何も言わなかった。
御影は皆の前まで来て、海を背に立った。
十人。
いや、自分を除けば九人を見る。
「建物は使える」
誰も返事をしない。
御影は続けた。
「二十人程度なら寝られる。水もある。食料もある」
日向が僅かに顔を上げる。
「魔法で保存されてる。俺たちの人数なら、一か月は問題ない」
「……一か月」
伊織が呟いた。
「外部との連絡は?」
冬真が訊く。
「今は分からん」
「ここがどこかは?」
「分からん」
「戻る方法は」
「それもこれから調べる」
また沈黙が落ちた。
奎星が俯いたまま言う。
「……じゃあ」
声が掠れている。
「何もねえじゃん」
スズメが奎星を見る。
「俺ら……」
奎星の拳がまた砂へ沈む。
「逃げてきただけじゃん」
「違う」
御影が即答した。
奎星が顔を上げる。
御影の目は真っ直ぐだった。
「違わないだろ」
「違う」
「学校取られた!」
奎星が立ち上がった。
「天ぷらも! 校長先生も! みんな置いてきた!」
「知ってる」
「なら!」
「知ってる!!」
御影の声が浜辺へ響いた。
奎星が止まる。
御影も怒っている。
隠していない。
左手が強く握られている。
「俺だって今すぐ戻りたい」
低い声だった。
「九重院を連れ戻したい。教師たちを解放したい。生徒の頭の中から、あの男を校長だと思ってるふざけた術式を引き剥がしたい」
御影の目が険しくなる。
「できるなら今この瞬間に神代の前へ戻って、ぶん殴ってやりたい」
奎星の目が少しだけ見開かれる。
杖ではなく、ぶん殴る。
珍しい。
でも、それほど怒っている。
「だが」
御影の声が変わる。
怒りが消えたわけではない。
その上へ、別のものを置く。
冷静さ。覚悟。
「今戻ったら負ける」
誰も否定できない。
「神代は学校の霊脈を取った。生徒の認識も書き換えた。教師も拘束されている。こっちの戦力も足りない」
指を一つ折る。
「敵の人数」
もう一つ。
「術式」
もう一つ。
「学校の中の状況」
さらに。
「外部との連絡」
「…………」
「何も分からない」
御影は言い切る。
「なら調べる」
日向が顔を上げる。
「一つずつ」
御影は言う。
「分からないなら調べる。足りないなら集める。弱いなら強くなる。敵の術式が分からないなら解く」
その言葉を、奎星は聞いたことがある気がした。
毎朝。訓練場。失敗。
「もう一回」
御影が何度も言う。
できない。
「もう一回」
失敗。
「もう一回」
負ける。
なら、次。
同じ負け方をしない。
「準備期間は」
御影が言った。
「一か月を目安にする」
柊木が顔を上げた。
「一か月……」
「ああ」
「その間に、外部との連絡方法を探す」
スズメも御影を見る。
「学校の霊脈と、神代の認識改変について調べます」
「頼む」
「はい」
冬真がゆっくり立ち上がる。
「俺たちは?」
御影が見る。
「休め」
「……それだけ?」
「今日だけだ」
冬真の目が僅かに変わる。
御影は生徒たちを見る。
奎星。日向。楓。岳。伊織。冬真。澪。
「明日から鍛える」
奎星の眉が動いた。
「今まで以上に」
日向が僅かに笑う。
疲れた。どうしようもなく疲れている。
それでも、その言葉は妙に御影だった。
「また朝早い?」
奎星が訊いた。
「当然だ」
「マジかよ……」
「嫌なら寝てろ」
「やるよ!」
即答。
御影の口元がほんの少しだけ動く。
「そうか」
岳もゆっくり身体を起こした。
「飯は?」
御影が見る。
「ある」
「一か月?」
「ある」
「ならいけます」
日向が思わず吹き出す。
「お前そこなんだ」
岳は真顔だった。
「大事だろ」
「……うん」
楓も少しだけ笑った。
伊織は眼鏡を押し上げる。
「外部との通信が見つからなかった場合は?」
「別の方法を作る」
「方法が分からなかったら?」
「調べる」
「調べても分からなかったら?」
御影が伊織を見る。
「お前も考えろ」
伊織の口元が少しだけ上がる。
「はい」
澪が柊木を見る。
「先生」
「はい」
「白峰にも知らせないと」
「ええ」
柊木は初めて、はっきりと頷いた。
「必ず」
スズメが奎星を見る。
砂まみれで、目も赤い。膝もまだ痛そうだ。
でも、さっきまで砂へ拳を埋めていた少年が立っている。
奎星が御影を見る。
「先生」
「何だ」
「俺」
神代。夢。ありもしない未来。自分の力。学校。天ぷら。
全部、胸の中へある。
「もっと強くなる」
御影はすぐには答えなかった。
「…………」
そして言う。
「強いだけじゃ駄目だ」
奎星が一瞬止まる。
それから少し笑った。
「知ってる」
「ならいい」
御影は全員を見る。
誰も完全には立ち直っていない。
楓も、まだ日向の支えが必要だ。伊織も、岳も消耗している。
澪は、自分の学校でもない場所のためにここまで来た。
冬真も、門に二度も囚われた。
スズメも、自分の教師の心へ入り、無理をした。
柊木も、白峰の生徒を守りながらこの場所にいる。
そして、自分も負けた。
九重院を置いてきた。
学校を守れなかった。
けれど、御影は思い出す。
宿舎。歴代校長の写真。あの言葉。
――校舎を失っても、学校は失われない。
――教える者がいて。
――学ぶ者がいて。
――共に明日を望むかぎり。
――そこが、学校である。
御影はゆっくり周囲を見た。
生徒がいる。
教師がいる。
なら。
「……そういうことか」
「何?」
奎星が訊く。
「いや」
御影は海を見る。
遠い。
どこにあるのかも分からない。
この海の向こうに、マホウトコロがある。
神代冥司がいる。
今、あの男が校長を名乗っている。
「奪われた」
御影が言った。
全員が見る。
「校舎も」
風が黒灰色の長衣を揺らす。
「生徒も」
左頬の傷。
「仲間も」
拳がゆっくり握られる。
「全部」
奎星が御影を見る。
「だから」
御影玄一郎は真っ直ぐ立った。
四十七年前ではない。
十二歳でもない。
失った過去を取り戻すためでもない。
今、まだ取り戻せるもののために。
「全部、取り返す」
誰も声を出さなかった。
御影は続ける。
「今日、俺たちは負けた」
認める。
逃げない。
「マホウトコロは神代冥司に奪われた」
奎星の拳が握られる。
日向も、冬真も、澪も。
全員が聞く。
「だが」
御影の目には、もう絶望はなかった。
怒りだけでもない。
それより、ずっと強いもの。
「一回負けたくらいで終わるほど」
風が強く吹いた。
「俺は、生徒に教えてない」
奎星の目が大きくなる。
御影はほんの少しだけ笑った。
「準備しろ」
杖を抜く。
海の向こうへ。その先にある、奪われた学校へ向ける。
「ここからだ」
そして御影玄一郎は、はっきりと宣言した。
「マホウトコロ奪還作戦を始める」
誰も、もう俯いていなかった。
海の向こう、見えない場所で、学校は敵の手にある。
だから、取り戻す。
先生と、生徒で。
もう一度。
シーズン3 「星迎祭と黒曜の門」 完