マホウトコロ   作:西野圭吾

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最終話 学校

 

神代冥司が立っていた。

 

星迎祭の開会式で九重院紫苑が生徒たちへ語りかけた、校舎正面の壇上。その中央に、長い黒髪と濃い紫の和装を纏った男がいる。まるで、初めからそこが自分の場所だったかのように。

 

そして、その後ろ。

 

「…………!」

 

御影の目が見開かれた。

 

九重院が倒れていた。

 

白を基調とした長衣は土と埃に汚れ、いつも丁寧に整えられていた銀髪も乱れている。杖は数メートル離れた場所へ転がり、片腕を床についたまま、起き上がることすらできていなかった。

 

「馬鹿な……」

 

御影の声が掠れる。

 

「九重院が……?」

 

奎星も言葉を失った。

 

ついさっきまで、黒曜の門へ引き寄せられた何百人もの生徒を、一人で止めた人だ。御影が異変へ誰より早く気づくほどの魔女であり、入学初日、奎星の膨大な魔力が暴走しかけたときも、砕けた測定水晶の破片すべてを完全に制御した。

 

その九重院が、倒れている。

 

「校長先生……?」

 

日向が呟いた。

 

「九重院先生!」

 

スズメが一歩踏み出そうとする。

 

しかし、その瞬間。

 

「皆さん」

 

神代の声が校庭へ響いた。

 

大声ではなかった。いつもの、妙に穏やかな声だった。なのに、校舎中から向けられていた視線が、一斉に神代へ集まった。

 

「怯える必要はありません」

 

奎星の眉が寄る。

 

「……は?」

 

神代は壇上から、生徒たちを見渡した。

 

「彼らもまた被害者なのです。誤った考えを植えつけられ、正しい判断ができなくなっているだけです」

 

ゆっくりと、その指が奎星たちへ向けられた。

 

「九重院紫苑と同じように」

 

「…………」

 

奎星の背筋に、ぞっとするものが走った。

 

視線を感じる。一つや二つではない。校舎の窓、回廊、教室。そこかしこに、生徒たちがいた。

 

下級課程。中級課程。上級課程。

 

皆、こちらを見ている。

 

だが、その目は助けを求めるものではなかった。

 

怖がっている。

 

奎星たちを。

 

「……あいつら……」

 

教室の窓辺にいた下級生が、小さく呟く。

 

「門から出てきた……」

 

別の生徒が身を寄せ合う。

 

「黒曜の人たち……?」

 

「神代校長を襲いに来たの?」

 

「九重院先生みたいに……?」

 

「…………は?」

 

奎星の顔から血の気が引いた。

 

「今……何て言った?」

 

日向も同じ言葉を聞いていた。

 

「神代……校長?」

 

楓が、日向の肩を借りたまま顔を上げる。

 

「何それ……」

 

伊織も眼鏡の奥で目を見開いていた。

 

神代校長。

 

聞き間違いではない。

 

一人ではない。あちらでも、こちらでも、「神代校長」と呼んでいる。

 

まるで、最初からこの学校の校長が神代冥司だったかのように。

 

御影の目が動いた。

 

壇上。九重院。生徒。校舎。窓。回廊。教室。

 

そして。

 

「…………」

 

一つの教室で、土御門が両腕を背中へ回され、魔法の縄で椅子へ縛りつけられていた。その隣には薬師寺。別の窓には早瀬。白峰から応援に来た教員たちもいる。

 

全員、拘束されている。

 

杖もない。

 

その周囲には生徒たちがいて、教師を守ろうとも、助けようともしていない。むしろ、困惑と恐怖の目で自分たちの教師を見ている。

 

まるで、危険人物を見るように。

 

「……征士郎」

 

御影が小さく呟いた。

 

一階。二階。回廊。校庭。拘束された教師たち。倒れた九重院。

 

どこにもいない。

 

真壁征士郎だけが、いなかった。

 

倒れてもいない。縛られてもいない。

 

姿そのものが、ない。

 

「…………」

 

何があった。

 

考える。

 

だが、それを追う時間はなかった。

 

御影は、すべてを理解した。

 

黒曜の門。大量の生徒。自分たちを内側へ誘導した敵。外へ残った九重院と真壁。そして、門の中で時間を使わされた。

 

その間に、学校そのものを。

 

「……やられた」

 

御影の口から、言葉が落ちる。

 

奎星が見る。

 

「御影先生……?」

 

御影は神代を見た。左頬の傷が僅かに歪む。

 

「マホウトコロが……」

 

握った杖が軋む。

 

「堕ちた」

 

あの門の中で、声が言っていた。

 

――マホウトコロに伝えるのです。

 

――今に堕とす、と。

 

神代冥司は、宣言通りにやった。

 

「レンコン……」

 

小さな声がした。

 

奎星が反射的に振り向く。

 

校庭の隅、建物の陰へ、小さな影がいくつも集まっていた。

 

小妖たち。

 

普段なら廊下を掃き、食堂へ料理を運び、生徒の荷物を抱えて校内を忙しく歩き回っている彼らが、今は固まるように身を寄せ合っている。

 

その中から、一匹、見覚えのある藍染めの作務衣がふらふらと前へ出た。

 

「……天ぷら」

 

大きな黒い目。

 

いつもなら、奎星を見つければ「レンコン」と嬉しそうに呼ぶ。

 

今は、その目が震えていた。

 

天ぷらは校庭を見た。

 

倒れている九重院。壇上の神代。縛られた教師たち。そして、奎星。

 

全部、見ていたのだろう。

 

小さな身体が震える。

 

「レンコン……」

 

声まで震えていた。

 

「タスケテ」

 

「…………」

 

何かが切れた。

 

「てめえッ!!!」

 

「蓮根!!」

 

奎星が飛び出した。

 

伊織の身体を支えていた腕を離し、神代榊を抜く。そのまま一直線に壇上へ向かう。

 

「蓮根、よせ!!」

 

御影が背後から奎星の身体を掴んだ。

 

「離せよ!!」

 

奎星が暴れる。

 

「離せ!!」

 

「落ち着け!」

 

「落ち着けるかよ!!」

 

奎星は神代を指差した。

 

「あいつだろ!! あいつが全部やったんだろ!!」

 

「分かってる!」

 

「だったら!」

 

「今撃つな!!」

 

御影の怒声が、奎星の声を叩き潰した。

 

「何でだよ!!」

 

「周りを見ろ!!」

 

「…………!」

 

「今お前が神代へ攻撃すれば、どう見える!」

 

奎星の顔が止まる。

 

御影が掴んだ腕へ力を込める。

 

「ここの生徒たちは、神代を校長だと思ってる!」

 

「…………」

 

「お前が杖を向ければ、あいつを守るために生徒がお前へ杖を向けるぞ!」

 

奎星の目が校舎へ向く。

 

上級生。中級生。下級生。

 

何百人もいる。

 

その全員が、怯えた目で自分を見ている。

 

何人かは、すでに杖を握っていた。震えながら、自分たちへ向けている。

 

「考えろ!」

 

御影が言う。

 

「俺たちは十人! そのうち水無瀬、岩戸、榊はまともに動けない! 向こうには学校中の生徒がいる!」

 

「でも……!」

 

「今戦えば!」

 

御影の声がさらに強くなる。

 

「俺たちは生徒と戦うことになる!!」

 

「…………っ」

 

奎星の歯が強く噛み締められた。

 

御影の言葉は正しい。

 

それでも、御影自身も冷静ではなかった。奎星を掴んでいる手は僅かに震えている。

 

目の前には、自分が何十年も過ごした学校がある。九重院が倒れている。同僚たちは拘束され、生徒たちは敵を校長と呼んでいる。

 

今すぐにでも神代へ杖を向けたい。

 

それを、自分で抑えているだけだった。

 

「流石ですね、御影玄一郎」

 

神代が拍手する。

 

ぱち。ぱち。

 

妙にゆっくりとした音。

 

「状況の把握が早い」

 

御影が睨む。

 

「……最初からか」

 

「何のことでしょう」

 

「門だ」

 

御影の声が低い。

 

「俺たちを中へ入れたのも」

 

奎星が顔を上げる。

 

御影は続ける。

 

「お前の部下を三組へ分けて当てたのも。全部、俺たちを学校から切り離すためか」

 

神代が微笑んだ。

 

「門の中にいた私の部下が倒されることは、想定の範囲内でした」

 

「なに……!?」

 

日向が声を上げる。

 

神代は、まるで授業の説明でもするように続けた。

 

「彼らには役目を果たしてもらいました。皆さんに《正しいこと》を思い出していただくには、それなりの時間が必要でしたからね」

 

「正しいこと……?」

 

澪が眉を寄せる。

 

「これが?」

 

神代は答えない。

 

スズメは生徒たちを見ていた。

 

表情。視線。怯え方。神代を見る目。九重院を見る目。

 

「……違う」

 

「烏丸?」

 

御影が僅かに振り返る。

 

スズメの顔が青ざめていた。

 

「洗脳ではありません」

 

奎星が見る。

 

「え?」

 

「少なくとも、単純に命令を聞かされている状態ではない」

 

生徒たちは、神代に操られているようには見えない。怖がっている。迷っている。自分で考えている。

 

けれど、前提だけが違う。

 

神代冥司は校長。九重院紫苑は学校へ害を与えた人間。御影たちは敵。

 

その前提の上で、普通に考えている。

 

「認識そのものが……」

 

スズメが呟く。

 

「書き換えられています」

 

御影の顔が険しくなる。

 

「そんな規模の術式……」

 

「普通なら無理です」

 

スズメは校舎を見る。

 

そして、足元、地面、その下へ視線を落とした。

 

「でも」

 

思い出す。

 

蓮根家。古い記録。鬼火鳥。霊脈。マホウトコロが建つ、この島。

 

「……霊脈」

 

「何?」

 

奎星が聞く。

 

スズメが顔を上げる。

 

「マホウトコロの地下を通る霊脈です」

 

御影の目が変わった。

 

「まさか」

 

「神代は……」

 

スズメが壇上の男を見る。

 

「学校の結界だけではありません。地下を流れる霊脈そのものを掌握した」

 

一瞬、全員が黙った。

 

「学校全体に繋がっている魔力の流れを使って……生徒たちの認識へ干渉している」

 

神代が楽しそうに目を細めた。

 

「流石は魔法史の教師ですね」

 

「…………」

 

「正解です、烏丸スズメ」

 

奎星が神代を睨む。

 

「何がしてえんだよ……」

 

「以前、お話ししたでしょう」

 

神代が奎星を見る。

 

「君には理解できないと」

 

「今なら聞いてやるよ」

 

「蓮根君」

 

スズメが止める。

 

だが、神代はもう話し始めていた。

 

「人は、間違える」

 

穏やかな声が校庭へ広がる。

 

「恐怖で判断を誤る。怒りに任せて他者を傷つける。愛する者のために規則を破る。自分だけは正しいと思い込み、何度も同じ過ちを繰り返す」

 

奎星の目が細くなる。

 

門の中で、自分へ見せられた未来。

 

「教師も」

 

神代は御影を見る。

 

「生徒も」

 

奎星。日向。楓。岳。伊織。冬真。澪。

 

一人ずつ見る。

 

「魔法省も」

 

そして、倒れた九重院を一瞥する。

 

「校長でさえも」

 

「…………」

 

「だから」

 

神代は両腕を広げた。

 

その背後にある羊脂玉の校舎、マホウトコロのすべてが、自分のものだと言うように。

 

「私が管理するのです」

 

「……管理?」

 

「学ぶもの。使う魔法。進む道。守るべきもの。信じるべきもの」

 

神代は笑う。

 

「人間に自由など与えるから、間違える」

 

奎星の顔が歪んだ。

 

「ざけんな……」

 

「私の願いは、もうすぐ叶う」

 

神代の声には、本気の確信があった。

 

「すべてを私に委ねればいい」

 

校舎の窓から、生徒たちが聞いている。

 

「そうすれば、誰も道を誤らない。誰も無益な争いを起こさない。誰も間違った選択によって、大切なものを失うこともない」

 

御影の目が一瞬だけ変わった。

 

小夜。斎賀。

 

さっき、門の中で見たもの。

 

神代は、それすら知っているのかもしれない。

 

「私がすべてを管理すれば」

 

神代は静かに言い切った。

 

「何も悪いことは起きない」

 

「……気持ちわりぃ」

 

奎星が言った。

 

神代の目が細くなる。

 

「君はやはり理解できませんか」

 

「理解したくもねえよ」

 

奎星は吐き捨てた。

 

「間違えるから何だよ」

 

「…………」

 

「間違えたら自分で直せばいいだろ」

 

御影の手の中で拳を握る。

 

「失敗して、怒られて、もう一回やって」

 

朝練。御影。授業。友達。スズメ。

 

「それ全部取り上げて、てめえの言うことだけ聞かせて」

 

神代を睨む。

 

「それ、生きてんのかよ」

 

「蓮根君」

 

スズメが小さく呼ぶ。

 

神代はしばらく何も言わなかった。

 

やがて。

 

「だから子供なのですよ」

 

「十七だよ」

 

「そういうところです」

 

「何だよ!」

 

「よせ蓮根!」

 

御影が怒鳴った。

 

奎星はなおも何か言いかけたが、御影はもう神代を見ていなかった。

 

考えていた。

 

姿くらまし。自分一人なら、あるいは二人、三人なら、連れて飛べるかもしれない。

 

だが、十人。

 

しかも、楓、岳、伊織は門から戻ったばかりで、奎星も消耗している。まして、この島の結界の中でどこまで姿くらましが通るかも分からない。

 

却下。

 

神代へ直接仕掛ける。

 

自分、柊木、スズメ、奎星、日向、冬真、澪。戦える人間を集めれば、勝機がないとは言わない。

 

だが、周囲には何百人もの生徒がいる。

 

神代は必ず使う。

 

自分たちが守ろうとする生徒を、盾に。

 

却下。

 

教師たちを先に解放する。

 

無理だ。

 

教室に近づく時点で、生徒たちが敵になる。

 

九重院の救出も同じ。

 

外部へ連絡する。

 

手段がない。

 

火映し。伝書。ウミツバメ。すべて学校側にある。

 

御影の思考が、一つ、また一つと道を潰していく。

 

「…………」

 

ない。

 

何を考えても、詰んでいる。

 

その事実を、御影玄一郎は認めざるを得なかった。

 

そのとき。

 

かさ。

 

足元で小さな音がした。

 

「…………?」

 

御影は目を動かさない。

 

視界の端に、白い小さな折り鶴がある。

 

いつからいたのか分からない。風に飛ばされたようなふりをして、少しずつ、少しずつ、御影の靴へ近づいてくる。

 

神代は気づいていない。壇上で、生徒たちへ自分の新しい秩序を語っている。

 

御影は視線を上げたまま、足だけを僅かに動かした。

 

折り鶴を靴の下へ入れる。

 

踏む。

 

ぱき。

 

紙とは思えない、小さな魔力の感触。

 

次の瞬間、声が頭の中へ響いた。

 

『御影先生』

 

「…………!」

 

九重院紫苑。

 

その声だった。

 

『この折り鶴を聞いているということは』

 

いつもの穏やかな声。

 

『マホウトコロが、堕ちたということです』

 

御影の目が僅かに揺れた。

 

『あなたたちは逃げなさい』

 

「…………」

 

『学校を離れてください』

 

御影の奥歯が強く噛み締められる。

 

逃げろ。

 

今まで、何度聞いた。

 

十二歳。父親。

 

――小夜を連れて逃げろ。

 

二〇一四年。斎賀。

 

――先行け。

 

そして、今。

 

九重院。

 

『歴代校長のみが知る秘匿島があります』

 

声は続く。

 

『常隠島――とこがくれじま』

 

聞いたことがない。

 

御影ですら知らない。

 

『マホウトコロの歴代校長が、学校そのものを維持できなくなった場合に備え、残した場所です』

 

折り鶴から微かな魔力が足裏へ流れ込む。

 

複雑な転移術式。

 

『この折り鶴へ、常隠島への転移術式を組み込みました』

 

御影の呼吸が一度止まる。

 

『外部からは絶対に掴むことのできない座標です。神代にも』

 

九重院の声が、ほんの少し柔らかくなった。

 

『そこへ行きなさい』

 

「…………」

 

『生きて』

 

一拍。

 

『そして、いつの日か』

 

倒れているはずの校長の声が、御影の頭の中で確かに笑った。

 

『学校を取り戻して』

 

声が消えた。

 

「…………」

 

御影は一秒、目を閉じた。

 

それだけで、次に開いたときには決めていた。

 

「全員」

 

低い声。

 

柊木が見る。スズメも、奎星も。

 

「俺の近くへ来い」

 

「え?」

 

奎星が眉を寄せる。

 

「何で」

 

「説明は後だ」

 

御影の声音で、スズメがすぐ察した。

 

「全員、近くへ!」

 

柊木も動く。

 

「澪ちゃん、こちらへ」

 

「はい」

 

日向は楓を支えたまま御影へ寄る。奎星も伊織の腕を肩へ回し直す。

 

岳はまだ一人では危うい。御影が空いている腕で、その身体を支えた。

 

「先生?」

 

「掴まれ」

 

冬真。澪。柊木。スズメ。奎星。伊織。日向。楓。岳。御影。

 

十人が一か所へ固まる。

 

「全員、誰かに触れろ」

 

「何するの?」

 

日向が訊く。

 

「急げ!」

 

御影が珍しく説明を省いた。

 

「絶対に離すな!」

 

それだけで、全員が動いた。

 

腕。肩。手首。服。

 

何でもいい。

 

一つの繋がった輪になる。

 

壇上で、神代の声が止まった。

 

「…………」

 

初めて、その顔から僅かに余裕が消える。

 

「何をしている……?」

 

御影が足元へ力を込める。

 

折り鶴。九重院の術式。

 

起動。

 

白い光が靴の下から広がった。

 

神代の目が見開かれる。

 

「それは――」

 

杖が上がる。

 

「全員離すな!!」

 

御影が叫んだ。

 

「御影先生!?」

 

奎星の足元まで光が来る。

 

神代の顔から笑みが消えた。

 

「逃がすとでも……!」

 

細い杖が真っ直ぐ御影へ向く。

 

「アバダ・ケダブラ!!」

 

緑。

 

死の光。

 

奎星の顔が変わる。

 

「先生!!」

 

速い。

 

避けられない。

 

神代と御影、その間を緑の閃光が一直線に走る。

 

御影は逃げなかった。

 

神代を真っ直ぐ睨んだ。

 

「神代冥司」

 

光が迫る。

 

十メートル。五メートル。

 

御影の左頬の傷が歪む。

 

「必ず貴様を倒す」

 

緑の光が届く。

 

その寸前、十人の姿が白い光の中へ消えた。

 

次の瞬間、死の呪文が誰もいなくなった地面へ直撃した。

 

轟音。

 

校庭が抉れる。

 

白い光の残滓だけが宙へ散った。

 

「…………」

 

神代は杖を構えたまま、消えた場所を見ていた。

 

長い沈黙。

 

そして、ゆっくりと振り返る。

 

壇上の後ろに、倒れている九重院紫苑。

 

「……やってくれましたね」

 

神代の声から、初めて完全に温度が消えた。

 

「九重院紫苑……」

 

「…………」

 

九重院は動けない。

 

息をするのもやっとだった。

 

それでも顔だけを僅かに上げ、口元に小さな皮肉な笑みを浮かべた。

 

神代が目を細める。

 

九重院は何も言わない。

 

言う必要などなかった。

 

校長は、まだ負けていなかった。

 

 

潮の匂いがした。

 

「――っ!」

 

奎星の身体が地面へ投げ出された。

 

「いってぇ!」

 

「蓮根君!」

 

スズメも膝をつく。

 

次々と人が現れる。

 

日向。楓。伊織。岳。冬真。澪。柊木。そして御影。

 

十人。

 

全員、いる。

 

「……どこ」

 

日向が顔を上げる。

 

海。青い空。濃い緑の木々。

 

遠く、波が白い砂浜へ打ち寄せている。

 

奎星は荒い息をしながら、周囲を見回した。

 

「マホウトコロ……じゃない」

 

当たり前だ。

 

校舎がない。

 

ウミツバメも、発着場も、何もない。

 

小さな島。

 

それだけ。

 

御影だけが、すぐに立ち上がった。

 

「常隠島」

 

「……え?」

 

スズメが見る。

 

御影は短く答える。

 

「九重院が残した避難場所だ」

 

「校長先生が……?」

 

「歴代校長だけが知ってる島らしい」

 

御影は、それ以上まだ説明しなかった。

 

「全員ここで待て」

 

「御影先生?」

 

「建物を確認する」

 

「私も」

 

柊木が立ち上がる。

 

「いや」

 

御影は浜辺の生徒たちを見る。

 

楓。岳。伊織。

 

三人とも、まだまともに立てない。

 

奎星も、さっきまで澄と戦い続けていた。

 

日向。冬真。澪。

 

顔には疲労と混乱、そして何より、現実をまだ受け止めきれていない様子が浮かんでいる。

 

「柊木」

 

「はい」

 

「こいつらを見てろ」

 

一瞬、柊木は御影を見る。

 

それから静かに頷いた。

 

「分かりました」

 

御影は一人、島の内側へ歩き始めた。

 

 

宿舎はすぐに見つかった。

 

浜辺から少し林へ入ったところにある、古い木造二階建ての建物だった。外から見れば、山小屋を少し大きくしたようなものだ。

 

杖を構えたまま、御影が扉を開く。

 

「…………」

 

人はいない。

 

玄関。廊下。居間。長い机。椅子。簡素な暖炉。

 

奥には寝室が一つ、二つ、三つ。

 

二十人ほどなら寝泊まりできる。

 

水は使える。魔法の灯りも生きている。

 

さらに地下へ下りる。

 

「……食料庫か」

 

扉を開けると、棚に保存食が並んでいた。

 

米。乾物。缶詰。魔法で鮮度を固定された肉。魚。野菜。水。薬草。最低限の治療用品。

 

御影は一つずつ確認する。

 

今いる人数。消費量。節約。

 

一か月。

 

少なくとも、その程度なら籠もれる。

 

宿舎の居間へ戻ったところで、御影の足が止まった。

 

壁には古い写真が何枚も飾られている。

 

着物姿の老人。軍服のような魔法衣を着た男。洋装の女性。

 

時代は違う。

 

けれど、全員マホウトコロの校長、歴代校長だった。

 

その一番端に、まだ九重院の写真はない。現役だからだろう。

 

そして写真の下には、一つの額縁があった。

 

そこへ、古い墨文字で言葉が書かれている。

 

御影は読む。

 

――校舎を失っても、学校は失われない。

 

「…………」

 

その下に続きがあった。

 

――教える者がいて。

 

――学ぶ者がいて。

 

――共に明日を望むかぎり。

 

――そこが、学校である。

 

御影はしばらく、その言葉を見た。

 

「…………そうか」

 

小さく呟く。

 

そして、もう一度外へ出た。

 

 

島を一周する。

 

御影は歩いた。

 

林。岩場。浜辺。小さな高台。

 

転移用らしき石碑もあったが、使えるかは今は分からない。

 

他に建物はない。

 

船もない。桟橋もない。

 

周囲はすべて海で、どの方向を見ても陸地は見えなかった。

 

一周、約二十分。

 

小さい。

 

完全に隔離された島だった。

 

外部と連絡を取る手段も、今のところ見当たらない。

 

ウミツバメはない。通信鏡もない。

 

折り鶴を外へ飛ばせるかは不明だ。

 

そもそも、ここが日本のどこなのかすら分からない。

 

「……徹底しているな」

 

外から絶対に掴めない座標。

 

その代わり、こちらからも簡単には外へ触れられない。

 

避難場所としては正しい。

 

反撃拠点としては、何もない。

 

だから、作るしかない。

 

御影は歩き続けた。

 

二十分。

 

それだけの間に、頭の中で数えた。

 

人数。戦力。怪我。使える魔法。食料。時間。敵。学校。神代。霊脈。洗脳。黒曜の環。九重院。

 

真壁。

 

征士郎はいない。

 

なぜ、あの場所にいなかったのか。

 

分からない。

 

それでも。

 

「…………」

 

御影は足を止めた。

 

浜辺。

 

そこに、生徒たちがいた。

 

誰も、ほとんど動いていなかった。

 

 

奎星は砂浜へ膝をついていた。

 

両手を砂へつき、指が強くめり込んでいる。

 

誰も話しかけていなかった。

 

スズメは少し離れたところにいる。

 

近づきたい。

 

でも、何を言えばいいか分からない。

 

マホウトコロが奪われた。

 

奎星にとって、ほんの数か月前まで存在すら知らなかった場所。それなのに、今は帰る場所だった。

 

友達がいる。先生がいる。小妖がいる。寮がある。大食堂。訓練場。教室。観測塔。

 

全部、置いてきた。

 

天ぷらの声が頭から離れない。

 

――レンコン。

 

――タスケテ。

 

「…………くそ」

 

拳が震える。

 

「くそっ……!」

 

砂を殴る。

 

一度。

 

「くそがっ……!」

 

もう一度。

 

スズメが僅かに動く。

 

けれど、止まる。

 

今は奎星だけではない。

 

日向は楓の隣へ座っていた。

 

何も言わない。

 

楓も何も言わない。

 

ただ、二人の肩が少しだけ触れている。

 

岳は砂浜へ大の字になっていた。

 

普段なら腹が減ったと言う。

 

今は言わない。

 

伊織は眼鏡をかけて海を見ている。

 

何かを考えようとしている。

 

でも、考えがまとまらない。

 

そんな顔だった。

 

冬真は膝を立て、その上へ腕を置いていた。

 

星迎祭。

 

二日前まで、後輩たちとくだらない話をしていた学校。

 

ない。

 

澪も少し離れて海を見ている。

 

本来なら白峰へ帰るはずだった。

 

なのに、今は常隠島にいる。

 

柊木がその隣へ立っていた。

 

教師として、何かを言わなければ。

 

そう思う。

 

でも、言葉が出ない。

 

スズメも同じだった。

 

「…………」

 

負けた。

 

その言葉だけが、全員の中にあった。

 

負けた。

 

学校を取られた。

 

何百人もの生徒を残した。

 

教師たちも、九重院も、小妖も置いてきた。

 

逃げた。

 

その事実が重かった。

 

そして、そこへ足音が近づいた。

 

ざっ。ざっ。

 

砂を踏む。

 

全員が少しずつ顔を上げる。

 

御影玄一郎が一人、歩いてくる。

 

奎星は何も言わなかった。

 

御影は皆の前まで来て、海を背に立った。

 

十人。

 

いや、自分を除けば九人を見る。

 

「建物は使える」

 

誰も返事をしない。

 

御影は続けた。

 

「二十人程度なら寝られる。水もある。食料もある」

 

日向が僅かに顔を上げる。

 

「魔法で保存されてる。俺たちの人数なら、一か月は問題ない」

 

「……一か月」

 

伊織が呟いた。

 

「外部との連絡は?」

 

冬真が訊く。

 

「今は分からん」

 

「ここがどこかは?」

 

「分からん」

 

「戻る方法は」

 

「それもこれから調べる」

 

また沈黙が落ちた。

 

奎星が俯いたまま言う。

 

「……じゃあ」

 

声が掠れている。

 

「何もねえじゃん」

 

スズメが奎星を見る。

 

「俺ら……」

 

奎星の拳がまた砂へ沈む。

 

「逃げてきただけじゃん」

 

「違う」

 

御影が即答した。

 

奎星が顔を上げる。

 

御影の目は真っ直ぐだった。

 

「違わないだろ」

 

「違う」

 

「学校取られた!」

 

奎星が立ち上がった。

 

「天ぷらも! 校長先生も! みんな置いてきた!」

 

「知ってる」

 

「なら!」

 

「知ってる!!」

 

御影の声が浜辺へ響いた。

 

奎星が止まる。

 

御影も怒っている。

 

隠していない。

 

左手が強く握られている。

 

「俺だって今すぐ戻りたい」

 

低い声だった。

 

「九重院を連れ戻したい。教師たちを解放したい。生徒の頭の中から、あの男を校長だと思ってるふざけた術式を引き剥がしたい」

 

御影の目が険しくなる。

 

「できるなら今この瞬間に神代の前へ戻って、ぶん殴ってやりたい」

 

奎星の目が少しだけ見開かれる。

 

杖ではなく、ぶん殴る。

 

珍しい。

 

でも、それほど怒っている。

 

「だが」

 

御影の声が変わる。

 

怒りが消えたわけではない。

 

その上へ、別のものを置く。

 

冷静さ。覚悟。

 

「今戻ったら負ける」

 

誰も否定できない。

 

「神代は学校の霊脈を取った。生徒の認識も書き換えた。教師も拘束されている。こっちの戦力も足りない」

 

指を一つ折る。

 

「敵の人数」

 

もう一つ。

 

「術式」

 

もう一つ。

 

「学校の中の状況」

 

さらに。

 

「外部との連絡」

 

「…………」

 

「何も分からない」

 

御影は言い切る。

 

「なら調べる」

 

日向が顔を上げる。

 

「一つずつ」

 

御影は言う。

 

「分からないなら調べる。足りないなら集める。弱いなら強くなる。敵の術式が分からないなら解く」

 

その言葉を、奎星は聞いたことがある気がした。

 

毎朝。訓練場。失敗。

 

「もう一回」

 

御影が何度も言う。

 

できない。

 

「もう一回」

 

失敗。

 

「もう一回」

 

負ける。

 

なら、次。

 

同じ負け方をしない。

 

「準備期間は」

 

御影が言った。

 

「一か月を目安にする」

 

柊木が顔を上げた。

 

「一か月……」

 

「ああ」

 

「その間に、外部との連絡方法を探す」

 

スズメも御影を見る。

 

「学校の霊脈と、神代の認識改変について調べます」

 

「頼む」

 

「はい」

 

冬真がゆっくり立ち上がる。

 

「俺たちは?」

 

御影が見る。

 

「休め」

 

「……それだけ?」

 

「今日だけだ」

 

冬真の目が僅かに変わる。

 

御影は生徒たちを見る。

 

奎星。日向。楓。岳。伊織。冬真。澪。

 

「明日から鍛える」

 

奎星の眉が動いた。

 

「今まで以上に」

 

日向が僅かに笑う。

 

疲れた。どうしようもなく疲れている。

 

それでも、その言葉は妙に御影だった。

 

「また朝早い?」

 

奎星が訊いた。

 

「当然だ」

 

「マジかよ……」

 

「嫌なら寝てろ」

 

「やるよ!」

 

即答。

 

御影の口元がほんの少しだけ動く。

 

「そうか」

 

岳もゆっくり身体を起こした。

 

「飯は?」

 

御影が見る。

 

「ある」

 

「一か月?」

 

「ある」

 

「ならいけます」

 

日向が思わず吹き出す。

 

「お前そこなんだ」

 

岳は真顔だった。

 

「大事だろ」

 

「……うん」

 

楓も少しだけ笑った。

 

伊織は眼鏡を押し上げる。

 

「外部との通信が見つからなかった場合は?」

 

「別の方法を作る」

 

「方法が分からなかったら?」

 

「調べる」

 

「調べても分からなかったら?」

 

御影が伊織を見る。

 

「お前も考えろ」

 

伊織の口元が少しだけ上がる。

 

「はい」

 

澪が柊木を見る。

 

「先生」

 

「はい」

 

「白峰にも知らせないと」

 

「ええ」

 

柊木は初めて、はっきりと頷いた。

 

「必ず」

 

スズメが奎星を見る。

 

砂まみれで、目も赤い。膝もまだ痛そうだ。

 

でも、さっきまで砂へ拳を埋めていた少年が立っている。

 

奎星が御影を見る。

 

「先生」

 

「何だ」

 

「俺」

 

神代。夢。ありもしない未来。自分の力。学校。天ぷら。

 

全部、胸の中へある。

 

「もっと強くなる」

 

御影はすぐには答えなかった。

 

「…………」

 

そして言う。

 

「強いだけじゃ駄目だ」

 

奎星が一瞬止まる。

 

それから少し笑った。

 

「知ってる」

 

「ならいい」

 

御影は全員を見る。

 

誰も完全には立ち直っていない。

 

楓も、まだ日向の支えが必要だ。伊織も、岳も消耗している。

 

澪は、自分の学校でもない場所のためにここまで来た。

 

冬真も、門に二度も囚われた。

 

スズメも、自分の教師の心へ入り、無理をした。

 

柊木も、白峰の生徒を守りながらこの場所にいる。

 

そして、自分も負けた。

 

九重院を置いてきた。

 

学校を守れなかった。

 

けれど、御影は思い出す。

 

宿舎。歴代校長の写真。あの言葉。

 

――校舎を失っても、学校は失われない。

 

――教える者がいて。

 

――学ぶ者がいて。

 

――共に明日を望むかぎり。

 

――そこが、学校である。

 

御影はゆっくり周囲を見た。

 

生徒がいる。

 

教師がいる。

 

なら。

 

「……そういうことか」

 

「何?」

 

奎星が訊く。

 

「いや」

 

御影は海を見る。

 

遠い。

 

どこにあるのかも分からない。

 

この海の向こうに、マホウトコロがある。

 

神代冥司がいる。

 

今、あの男が校長を名乗っている。

 

「奪われた」

 

御影が言った。

 

全員が見る。

 

「校舎も」

 

風が黒灰色の長衣を揺らす。

 

「生徒も」

 

左頬の傷。

 

「仲間も」

 

拳がゆっくり握られる。

 

「全部」

 

奎星が御影を見る。

 

「だから」

 

御影玄一郎は真っ直ぐ立った。

 

四十七年前ではない。

 

十二歳でもない。

 

失った過去を取り戻すためでもない。

 

今、まだ取り戻せるもののために。

 

「全部、取り返す」

 

誰も声を出さなかった。

 

御影は続ける。

 

「今日、俺たちは負けた」

 

認める。

 

逃げない。

 

「マホウトコロは神代冥司に奪われた」

 

奎星の拳が握られる。

 

日向も、冬真も、澪も。

 

全員が聞く。

 

「だが」

 

御影の目には、もう絶望はなかった。

 

怒りだけでもない。

 

それより、ずっと強いもの。

 

「一回負けたくらいで終わるほど」

 

風が強く吹いた。

 

「俺は、生徒に教えてない」

 

奎星の目が大きくなる。

 

御影はほんの少しだけ笑った。

 

「準備しろ」

 

杖を抜く。

 

海の向こうへ。その先にある、奪われた学校へ向ける。

 

「ここからだ」

 

そして御影玄一郎は、はっきりと宣言した。

 

「マホウトコロ奪還作戦を始める」

 

誰も、もう俯いていなかった。

 

海の向こう、見えない場所で、学校は敵の手にある。

 

だから、取り戻す。

 

先生と、生徒で。

 

もう一度。

 

シーズン3 「星迎祭と黒曜の門」 完

 

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