神代冥司が立っていた。
星迎祭の開会式で九重院紫苑が生徒たちへ語りかけた、校舎正面の壇上。その中央に、長い黒髪と濃い紫の和装を纏った男がいる。
まるで、初めからそこが自分の場所だったかのように。
そして、その後ろ。
「…………!」
御影の目が見開かれた。
九重院が倒れていた。
白を基調とした長衣は土と埃に汚れ、いつも丁寧に整えられていた銀髪も乱れている。杖は数メートル離れた場所へ転がり、片腕を床についたまま、起き上がることすらできていなかった。
「馬鹿な……」
御影の声が掠れる。
「九重院が……!?」
奎星も言葉を失った。
ついさっきまで。
黒曜の門へ引き寄せられた何百人もの生徒を、一人で止めた人だ。
御影が異変へ誰より早く気づくほどの魔女。
入学初日、奎星の膨大な魔力が暴走しかけたときも、砕けた測定水晶の破片すべてを完全に制御した。
その九重院が。
倒れている。
「校長先生……?」
日向が呟いた。
「九重院先生!」
スズメが一歩踏み出そうとする。
しかし、その瞬間。
「皆さん」
神代の声が校庭へ響いた。
大声ではなかった。
いつもの。
妙に穏やかな声。
なのに。
校舎中から向けられていた視線が、一斉に神代へ集まった。
「怯える必要はありません」
奎星の眉が寄る。
「……は?」
神代は壇上から、生徒たちを見渡した。
「彼らもまた被害者なのです。誤った考えを植えつけられ、正しい判断ができなくなっているだけです」
ゆっくりと。
その指が。
奎星たちへ向けられた。
「九重院紫苑と同じように」
「…………」
奎星の背筋に、ぞっとするものが走った。
視線を感じる。
一つ。
二つではない。
校舎の窓。
回廊。
教室。
そこかしこに、生徒たちがいた。
下級課程。
中級課程。
上級課程。
皆。
こちらを見ている。
だが。
その目は。
助けを求めるものではなかった。
怖がっている。
奎星たちを。
「……あいつら……」
教室の窓辺にいた下級生が、小さく呟く。
「門から出てきた……」
別の生徒が身を寄せ合う。
「黒曜の人たち……?」
「神代校長を襲いに来たの?」
「九重院先生みたいに……?」
「…………は?」
奎星の顔から。
血の気が引いた。
「今……何て言った?」
日向も同じ言葉を聞いていた。
「神代……校長?」
楓が、日向の肩を借りたまま顔を上げる。
「何それ……」
伊織も眼鏡の奥で目を見開いていた。
神代校長。
聞き間違いではない。
一人ではない。
あちらでも。
こちらでも。
「神代校長」
そう呼んでいる。
まるで。
最初から。
この学校の校長が神代冥司だったかのように。
御影の目が動いた。
壇上。
九重院。
生徒。
校舎。
窓。
回廊。
教室。
そして。
「…………」
一つの教室で。
土御門が。
両腕を背中へ回され、魔法の縄で椅子へ縛りつけられていた。
その隣には薬師寺。
別の窓には早瀬。
白峰から応援に来た教員たちもいる。
全員。
拘束されている。
杖もない。
その周囲には生徒たちがいて、教師を守ろうとも、助けようともしていない。
むしろ。
困惑と恐怖の目で。
自分たちの教師を見ている。
まるで。
危険人物を見るように。
「……征士郎」
御影が小さく呟いた。
探す。
一階。
二階。
回廊。
校庭。
拘束された教師たち。
倒れた九重院。
どこにも。
いない。
真壁征士郎だけが。
いなかった。
倒れてもいない。
縛られてもいない。
姿そのものが。
ない。
「…………」
何があった。
考える。
だが。
それを追う時間はなかった。
御影は。
全てを理解した。
黒曜の門。
大量の生徒。
自分たちを内側へ誘導した敵。
外へ残った九重院と真壁。
そして。
門の中で時間を使わされた。
その間に。
学校そのものを。
「……やられた」
御影の口から。
言葉が落ちる。
奎星が見る。
「御影先生……?」
御影は神代を見た。
左頬の傷が。
僅かに歪む。
「マホウトコロが……」
握った杖が軋む。
「堕ちた」
あの門の中。
声が言っていた。
――マホウトコロに伝えるのです。
――今に堕とす、と。
神代冥司は。
宣言通り。
やった。
「レンコン……」
小さな声がした。
奎星が反射的に振り向く。
校庭の隅。
建物の陰へ。
小さな影がいくつも集まっていた。
小妖たち。
普段なら廊下を掃き、食堂へ料理を運び、生徒の荷物を抱えて校内を忙しく歩き回っている彼らが、今は固まるように身を寄せ合っている。
その中から。
一匹。
見覚えのある藍染めの作務衣が。
ふらふらと前へ出た。
「……天ぷら」
大きな黒い目。
いつもなら。
奎星を見つければ。
「レンコン」
と嬉しそうに呼ぶ。
今は。
その目が震えていた。
天ぷらは校庭を見た。
倒れている九重院。
壇上の神代。
縛られた教師たち。
そして。
奎星。
全部。
見ていたのだろう。
小さな身体が震える。
「レンコン……」
声まで。
震えていた。
「タスケテ」
「…………」
何かが。
切れた。
「てめえぇぇぇ!!」
「蓮根!!」
奎星が飛び出した。
伊織の身体を支えていた腕を離し、神代榊を抜く。
そのまま。
一直線に。
壇上へ。
「蓮根、よせ!!」
御影が背後から奎星の身体を掴んだ。
「離せよ!!」
奎星が暴れる。
「離せ!!」
「落ち着け!」
「落ち着けるかよ!!」
奎星は神代を指差した。
「あいつだろ!! あいつが全部やったんだろ!!」
「分かってる!」
「だったら!」
「今撃つな!!」
御影の怒声が。
奎星の声を叩き潰した。
「何でだよ!!」
「周りを見ろ!!」
「…………!」
「今お前が神代へ攻撃すれば、どう見える!」
奎星の顔が止まる。
御影が掴んだ腕へ力を込める。
「ここの生徒たちは、神代を校長だと思ってる!」
「…………」
「お前が杖を向ければ、あいつを守るために生徒がお前へ杖を向けるぞ!」
奎星の目が。
校舎へ向く。
上級生。
中級生。
下級生。
何百人。
いる。
その全員が。
怯えた目で。
自分を見ている。
何人かは。
既に。
杖を握っていた。
震えながら。
自分たちへ向けて。
「戦力差を考えろ!」
御影が言う。
「俺たちは十人! そのうち水無瀬、岩戸、榊はまともに動けない! 向こうには学校中の生徒がいる!」
「でも……!」
「今戦えば!」
御影の声が。
さらに強くなる。
「俺たちは生徒と戦うことになる!!」
「…………っ」
奎星の歯が。
強く噛み締められた。
御影の言葉は。
正しい。
それでも。
御影自身も。
冷静ではなかった。
奎星を掴んでいる手は。
僅かに震えている。
目の前には。
自分が何十年も過ごした学校がある。
九重院が倒れている。
同僚たちは拘束され。
生徒たちは。
敵を校長と呼んでいる。
今すぐにでも。
神代へ杖を向けたい。
それを。
自分で。
抑えているだけだった。
「流石ですね、御影玄一郎」
神代が拍手する。
ぱち。
ぱち。
妙にゆっくりとした音。
「状況の把握が早い」
御影が睨む。
「……最初からか」
「何のことでしょう」
「門だ」
御影の声が低い。
「俺たちを中へ入れたのも」
奎星が顔を上げる。
御影は続ける。
「お前の部下を三組へ分けて当てたのも。全部、俺たちを学校から切り離すためか」
神代が。
微笑んだ。
「門の中にいた私の部下が倒されることは、想定の範囲内でした」
「なんだと……!?」
日向が声を上げる。
神代はまるで。
授業の説明でもするように続けた。
「彼らには役目を果たしてもらいました。皆さんに《正しいこと》を思い出していただくには、それなりの時間が必要でしたからね」
「正しいこと……?」
澪が眉を寄せる。
「これが?」
神代は答えない。
スズメは。
生徒たちを見ていた。
表情。
視線。
怯え方。
神代を見る目。
九重院を見る目。
「……違う」
「烏丸?」
御影が僅かに振り返る。
スズメの顔が青ざめていた。
「洗脳ではありません」
奎星が見る。
「え?」
「少なくとも、単純に命令を聞かされている状態ではない」
生徒たちは。
神代に操られているようには見えない。
怖がっている。
迷っている。
自分で考えている。
けれど。
前提だけが。
違う。
神代冥司は校長。
九重院紫苑は学校へ害を与えた人間。
御影たちは敵。
その前提の上で。
普通に考えている。
「認識そのものが……」
スズメが呟く。
「書き換えられています」
御影の顔が険しくなる。
「そんな規模の術式……」
「普通なら無理です」
スズメは校舎を見る。
そして。
足元。
地面。
その下へ。
視線を落とした。
「でも」
思い出す。
蓮根家。
古い記録。
鬼火鳥。
霊脈。
マホウトコロが建つ。
この島。
「……霊脈」
「何?」
奎星が聞く。
スズメが顔を上げる。
「マホウトコロの地下を通る霊脈です」
御影の目が変わった。
「まさか」
「神代は……」
スズメが壇上の男を見る。
「学校の結界だけではありません。地下を流れる霊脈そのものを掌握した」
一瞬。
全員が黙った。
「学校全体に繋がっている魔力の流れを使って……生徒たちの認識へ干渉している」
神代が。
楽しそうに目を細めた。
「流石は魔法史の教師ですね」
「…………」
「正解です、烏丸スズメ」
奎星が神代を睨む。
「何がしてえんだよ……」
「以前、お話ししたでしょう」
神代が。
奎星を見る。
「君には理解できないと」
「今なら聞いてやるよ」
「蓮根君」
スズメが止める。
だが。
神代はもう話し始めていた。
「人は、間違える」
穏やかな声が。
校庭へ広がる。
「恐怖で判断を誤る。怒りに任せて他者を傷つける。愛する者のために規則を破る。自分だけは正しいと思い込み、何度も同じ過ちを繰り返す」
奎星の目が細くなる。
門の中で。
自分へ見せられた未来。
「教師も」
神代は御影を見る。
「生徒も」
奎星。
日向。
楓。
岳。
伊織。
冬真。
澪。
一人ずつ。
見る。
「魔法省も」
そして。
倒れた九重院を。
一瞥する。
「校長でさえも」
「…………」
「だから」
神代は両腕を広げた。
その背後。
羊脂玉の校舎。
マホウトコロ。
すべてが。
自分のものだと言うように。
「私が管理するのです」
「……管理?」
「学ぶもの。使う魔法。進む道。守るべきもの。信じるべきもの」
神代は笑う。
「人間に自由など与えるから、間違える」
奎星の顔が歪んだ。
「ふざけんな……」
「私の願いは、もうすぐ叶う」
神代の声には。
本気の確信があった。
「すべてを私に委ねればいい」
校舎の窓から。
生徒たちが聞いている。
「そうすれば、誰も道を誤らない。誰も無益な争いを起こさない。誰も間違った選択によって、大切なものを失うこともない」
御影の目が。
一瞬だけ。
変わった。
小夜。
斎賀。
さっき。
門の中で見たもの。
神代は。
それすら。
知っているのかもしれない。
「私がすべてを管理すれば」
神代は。
静かに。
言い切った。
「何も悪いことは起きない」
「……気持ち悪い」
奎星が言った。
神代の目が細くなる。
「君はやはり理解できませんか」
「理解したくもねえよ」
奎星は吐き捨てた。
「間違えるから何だよ」
「…………」
「間違えたら自分で直せばいいだろ」
御影の手の中で。
拳を握る。
「失敗して、怒られて、もう一回やって」
朝練。
御影。
授業。
友達。
スズメ。
「それ全部取り上げて、てめえの言うことだけ聞かせて」
神代を睨む。
「それ、生きてんのかよ」
「蓮根君」
スズメが小さく呼ぶ。
神代は。
しばらく何も言わなかった。
やがて。
「だから子供なのですよ」
「十七だよ」
「そういうところです」
「何だよ!」
「蓮根、今は喧嘩するな!」
御影が怒鳴った。
奎星はなおも何か言いかけたが。
御影は。
もう神代を見ていなかった。
考えていた。
姿くらまし。
自分一人なら。
あるいは。
二人。
三人なら。
連れて飛べるかもしれない。
だが。
十人。
しかも。
楓、岳、伊織は門から戻ったばかり。
奎星も消耗している。
まして。
この島の結界の中。
どこまで姿くらましが通るかも分からない。
却下。
神代へ直接仕掛ける。
自分。
柊木。
スズメ。
奎星。
日向。
冬真。
澪。
戦える人間を集めれば。
勝機が。
ないとは言わない。
だが。
周囲には。
何百人もの生徒。
神代は。
必ず使う。
自分たちが守ろうとする生徒を。
盾に。
却下。
教師たちを先に解放。
無理だ。
教室に近づく時点で。
生徒たちが敵になる。
九重院の救出。
同じ。
外部へ連絡。
手段がない。
火映し。
伝書。
ウミツバメ。
すべて。
学校側にある。
御影の思考が。
一つ。
また一つ。
道を潰していく。
「…………」
ない。
何を考えても。
詰んでいる。
その事実を。
御影玄一郎は。
認めざるを得なかった。
そのとき。
かさ。
足元で。
小さな音がした。
「…………?」
御影は目を動かさない。
視界の端。
紙。
白い。
小さな。
折り鶴。
いつからいたのか。
分からない。
風に飛ばされたようなふりをして。
少しずつ。
少しずつ。
御影の靴へ近づいてくる。
神代は。
気づいていない。
壇上。
生徒たちへ。
自分の新しい秩序を語っている。
御影は。
視線を上げたまま。
足だけを。
僅かに動かした。
折り鶴。
靴の下。
踏む。
ぱき。
紙とは思えない。
小さな。
魔力の感触。
次の瞬間。
声が。
頭の中へ響いた。
『御影君』
「…………!」
九重院紫苑。
その声だった。
『この折り鶴を聞いているということは』
いつもの。
穏やかな声。
『マホウトコロが、堕ちたということです』
御影の目が。
僅かに揺れた。
『あなたたちは逃げなさい』
「…………」
『学校を離れてください』
御影の奥歯が。
強く噛み締められる。
逃げろ。
今まで。
何度。
聞いた。
十二歳。
父親。
――小夜を連れて逃げろ。
二〇一四年。
斎賀。
――先行け。
そして。
今。
九重院。
『歴代校長のみが知る秘匿島があります』
声は続く。
『常隠島――とこがくれじま』
聞いたことがない。
御影ですら。
知らない。
『マホウトコロの歴代校長が、学校そのものを維持できなくなった場合に備え、残した場所です』
折り鶴から。
微かな魔力が。
足裏へ流れ込む。
複雑な。
転移術式。
『この折り鶴へ、常隠島への転移術式を組み込みました』
御影の呼吸が。
一度。
止まる。
『外部からは絶対に掴むことのできない座標です。神代にも』
九重院の声が。
ほんの少し。
柔らかくなった。
『そこへ行きなさい』
「…………」
『生きて』
一拍。
『そして、いつの日か』
倒れているはずの校長の声が。
御影の頭の中で。
確かに笑った。
『学校を取り戻して』
声が。
消えた。
「…………」
御影は。
一秒。
目を閉じた。
それだけ。
次に開いたときには。
決めていた。
「全員」
低い声。
柊木が見る。
スズメも。
奎星も。
「俺の近くへ来い」
「え?」
奎星が眉を寄せる。
「何で」
「説明は後だ」
御影の声音で。
スズメがすぐ察した。
「全員、近くへ!」
柊木も動く。
「澪ちゃん、こちらへ」
「はい」
日向は楓を支えたまま御影へ寄る。
奎星も伊織の腕を肩へ回し直す。
岳はまだ一人では危うい。
御影が空いている腕で、その身体を支えた。
「先生?」
「掴まれ」
冬真。
澪。
柊木。
スズメ。
奎星。
伊織。
日向。
楓。
岳。
御影。
十人が。
一か所へ固まる。
「全員、誰かに触れろ」
「何するの?」
日向が訊く。
「いいから!」
御影が珍しく。
説明を省いた。
「絶対に離すな!」
それだけで。
全員。
動いた。
腕。
肩。
手首。
服。
何でもいい。
一つの。
繋がった輪になる。
壇上。
神代の声が。
止まった。
「…………」
初めて。
その顔から。
僅かに余裕が消える。
「何をしている……?」
御影が。
足元へ力を込める。
折り鶴。
九重院の術式。
起動。
白い光が。
靴の下から広がった。
神代の目が見開かれる。
「それは――」
杖が上がる。
「全員離すな!!」
御影が叫んだ。
「御影先生!?」
奎星の足元まで。
光が来る。
神代の顔から。
笑みが消えた。
「逃がすとでも……!」
細い杖が。
真っ直ぐ。
御影へ向く。
「アバダ・ケダブラ!!」
緑。
死の光。
奎星の顔が変わる。
「先生!!」
速い。
避けられない。
神代と。
御影。
その間を。
緑の閃光が。
一直線に走る。
御影は。
逃げなかった。
神代を。
真っ直ぐ睨んだ。
「神代冥司」
光が迫る。
十メートル。
五メートル。
御影の左頬の傷が。
歪む。
「必ず貴様を倒す」
緑の光が。
届く。
その。
寸前。
十人の姿が。
白い光の中へ。
消えた。
次の瞬間。
死の呪文が。
誰もいなくなった地面へ直撃した。
轟音。
校庭が抉れる。
白い光の残滓だけが。
宙へ散った。
「…………」
神代は。
杖を構えたまま。
消えた場所を見ていた。
長い。
沈黙。
そして。
ゆっくりと。
振り返る。
壇上の後ろ。
倒れている。
九重院紫苑。
「……やってくれましたね」
神代の声から。
初めて。
完全に温度が消えた。
「九重院紫苑……」
「…………」
九重院は。
動けない。
息をするのも。
やっと。
それでも。
顔だけを。
僅かに上げた。
そして。
口元に。
小さな。
皮肉な笑みを浮かべた。
神代が。
目を細める。
九重院は何も言わない。
言う必要など。
なかった。
校長は。
まだ。
負けていなかった。
*
潮の匂いがした。
「――っ!」
奎星の身体が。
地面へ投げ出された。
「いってぇ!」
「蓮根君!」
スズメも膝をつく。
次々と。
人が現れる。
日向。
楓。
伊織。
岳。
冬真。
澪。
柊木。
そして。
御影。
十人。
全員。
いる。
「……どこ」
日向が顔を上げる。
海。
青い空。
濃い緑の木々。
遠く。
波が。
白い砂浜へ打ち寄せている。
奎星は。
荒い息をしながら。
周囲を見回した。
「マホウトコロ……じゃない」
当たり前だ。
校舎が。
ない。
ウミツバメも。
発着場も。
何もない。
小さな島。
それだけ。
御影だけが。
すぐに立ち上がった。
「常隠島」
「……え?」
スズメが見る。
御影は短く答える。
「九重院が残した避難場所だ」
「校長先生が……?」
「歴代校長だけが知ってる島らしい」
御影は。
それ以上。
まだ説明しなかった。
「全員ここで待て」
「御影先生?」
「建物を確認する」
「私も」
柊木が立ち上がる。
「いや」
御影は。
浜辺の生徒たちを見る。
楓。
岳。
伊織。
三人とも。
まだまともに立てない。
奎星も。
さっきまで澄と戦い続けていた。
日向。
冬真。
澪。
顔には。
疲労。
混乱。
そして。
何より。
現実を。
まだ。
受け止めきれていない。
「柊木」
「はい」
「こいつらを見てろ」
一瞬。
柊木は御影を見る。
それから。
静かに頷いた。
「分かりました」
御影は。
一人。
島の内側へ歩き始めた。
*
宿舎は。
すぐに見つかった。
浜辺から少し林へ入ったところ。
古い。
木造。
二階建て。
外から見れば。
山小屋を少し大きくしたような建物だった。
杖を構えたまま。
御影が扉を開く。
「…………」
人はいない。
玄関。
廊下。
居間。
長い机。
椅子。
簡素な暖炉。
奥には。
寝室。
一つ。
二つ。
三つ。
二十人ほどなら。
寝泊まりできる。
水。
使える。
魔法の灯りも。
生きている。
さらに。
地下。
「……食料庫か」
扉を開ける。
棚。
保存食。
米。
乾物。
缶詰。
魔法で鮮度を固定された肉。
魚。
野菜。
水。
薬草。
最低限の治療用品。
御影が。
一つずつ確認する。
今いる人数。
消費量。
節約。
一か月。
少なくとも。
その程度なら。
籠もれる。
宿舎の居間へ戻る。
そこで。
足が止まった。
壁。
古い写真が。
何枚も飾られている。
着物姿の老人。
軍服のような魔法衣を着た男。
洋装の女性。
時代。
違う。
けれど。
全員。
マホウトコロの校長。
歴代校長。
その一番端。
まだ。
九重院の写真はない。
現役だからだろう。
そして。
写真の下。
一つの額縁。
そこへ。
古い墨文字で。
言葉が書かれていた。
御影は。
読む。
――校舎を失っても、学校は失われない。
「…………」
その下。
続き。
――教える者がいて。
――学ぶ者がいて。
――共に明日を望むかぎり。
――そこが、学校である。
御影は。
しばらく。
その言葉を見た。
「…………そうかよ」
小さく。
呟く。
そして。
もう一度。
外へ出た。
*
島を一周する。
御影は。
歩いた。
林。
岩場。
浜辺。
小さな高台。
転移用らしき石碑。
使えるかは。
今は分からない。
他に建物はない。
船もない。
桟橋もない。
周囲。
全部。
海。
どの方向を見ても。
陸地は。
見えなかった。
一周。
約二十分。
小さい。
完全に。
隔離された島。
外部と連絡を取る手段も。
今のところ。
見当たらない。
ウミツバメ。
なし。
通信鏡。
なし。
折り鶴を外へ飛ばせるか。
不明。
そもそも。
ここが。
日本のどこなのかすら。
分からない。
「……徹底してやがる」
外から絶対に掴めない座標。
その代わり。
こちらからも。
簡単には外へ触れられない。
避難場所としては。
正しい。
反撃拠点としては。
何もない。
だから。
作るしかない。
御影は。
歩き続けた。
二十分。
それだけの間に。
頭の中で。
数えた。
人数。
戦力。
怪我。
使える魔法。
食料。
時間。
敵。
学校。
神代。
霊脈。
洗脳。
黒曜の環。
九重院。
真壁。
征士郎は。
いない。
なぜ。
あの場所に。
いなかった。
分からない。
それでも。
「…………」
御影は。
足を止めた。
浜辺。
そこに。
生徒たちがいた。
誰も。
ほとんど。
動いていなかった。
*
奎星は。
砂浜へ。
膝をついていた。
両手。
砂。
指が。
強く。
めり込んでいる。
誰も。
話しかけていなかった。
スズメは。
少し離れたところにいる。
近づきたい。
でも。
何を言えばいいか。
分からない。
マホウトコロが。
奪われた。
奎星にとって。
ほんの数か月前まで。
存在すら知らなかった場所。
それなのに。
今は。
帰る場所だった。
友達がいる。
先生がいる。
小妖がいる。
寮がある。
大食堂。
訓練場。
教室。
観測塔。
全部。
置いてきた。
天ぷらの。
声が。
頭から離れない。
――レンコン。
――タスケテ。
「…………くそ」
拳が。
震える。
「くそっ……!」
砂を殴る。
一度。
「くそぉ……!」
もう一度。
スズメが。
僅かに動く。
けれど。
止まる。
今は。
奎星だけではない。
日向は。
楓の隣へ座っていた。
何も言わない。
楓も。
何も言わない。
ただ。
二人の肩が。
少しだけ触れている。
岳は。
砂浜へ大の字になっていた。
普段なら。
腹が減ったと言う。
今は。
言わない。
伊織は。
眼鏡をかけて。
海を見ている。
何かを考えようとして。
でも。
考えが。
まとまらない。
そんな顔。
冬真は。
膝を立て。
その上へ腕を置いていた。
星迎祭。
二日前まで。
後輩たちと。
くだらない話をしていた学校。
ない。
澪も。
少し離れて。
海を見ている。
本来なら。
白峰へ帰るはずだった。
なのに。
今。
常隠島。
柊木が。
その隣へ立っていた。
教師として。
何かを言わなければ。
そう思う。
でも。
言葉が。
出ない。
スズメも。
同じだった。
「…………」
負けた。
その言葉だけが。
全員の中にあった。
負けた。
学校を。
取られた。
何百人もの生徒を。
残した。
教師たちも。
九重院も。
小妖も。
置いてきた。
逃げた。
その事実が。
重かった。
そして。
そこへ。
足音が近づいた。
ざっ。
ざっ。
砂を踏む。
全員が。
少しずつ。
顔を上げる。
御影玄一郎。
一人。
歩いてくる。
奎星は。
何も言わなかった。
御影は。
皆の前まで来る。
立つ。
海を背に。
十人。
いや。
自分を除けば。
九人を見る。
「建物は使える」
誰も返事をしない。
御影は続けた。
「二十人程度なら寝られる。水もある。食料もある」
日向が。
僅かに顔を上げる。
「魔法で保存されてる。俺たちの人数なら、一か月は問題ない」
「……一か月」
伊織が呟いた。
「外部との連絡は?」
冬真が訊く。
「今は分からん」
「ここがどこかは?」
「分からん」
「戻る方法は」
「それもこれから調べる」
また。
沈黙。
奎星が。
俯いたまま言う。
「……じゃあ」
声が。
掠れている。
「何もねえじゃん」
スズメが奎星を見る。
「俺ら……」
奎星の拳が。
また砂へ沈む。
「逃げてきただけじゃん」
「違う」
御影が。
即答した。
奎星が。
顔を上げる。
御影の目。
真っ直ぐ。
「違わないだろ」
「違う」
「学校取られた!」
奎星が立ち上がった。
「天ぷらも! 校長先生も! みんな置いてきた!」
「知ってる」
「なら!」
「知ってる!!」
御影の声が。
浜辺へ響いた。
奎星が止まる。
御影も。
怒っている。
隠していない。
左手。
強く。
握られている。
「俺だって今すぐ戻りたい」
低い声。
「九重院を連れ戻したい。教師たちを解放したい。生徒の頭ん中から、あの男を校長だと思ってるふざけた術式を引き剥がしたい」
御影の目が。
険しくなる。
「できるなら今この瞬間に神代の前へ戻って、ぶん殴ってやりたい」
奎星の目が。
少しだけ。
見開かれる。
杖ではなく。
ぶん殴る。
珍しい。
でも。
それほど。
怒っている。
「だが」
御影の声が。
変わる。
怒りが。
消えたわけではない。
その上へ。
別のものを。
置く。
冷静さ。
覚悟。
「今戻ったら負ける」
誰も。
否定できない。
「神代は学校の霊脈を取った。生徒の認識も書き換えた。教師も拘束されている。こっちの戦力も足りない」
指を。
一つ。
折る。
「敵の人数」
もう一つ。
「術式」
もう一つ。
「学校の中の状況」
さらに。
「外部との連絡」
「…………」
「何も分からない」
御影は。
言い切る。
「なら調べる」
日向が顔を上げる。
「一つずつ」
御影は言う。
「分からないなら調べる。足りないなら集める。弱いなら強くなる。敵の術式が分からないなら解く」
その言葉。
奎星は。
聞いたことがある気がした。
毎朝。
訓練場。
失敗。
「もう一回」
御影が。
何度も言う。
できない。
「もう一回」
失敗。
「もう一回」
負ける。
なら。
次。
同じ負け方を。
しない。
「準備期間は」
御影が言った。
「一か月を目安にする」
柊木が。
顔を上げた。
「一か月……」
「ああ」
「その間に、外部との連絡方法を探す」
スズメも。
御影を見る。
「学校の霊脈と、神代の認識改変について調べます」
「頼む」
「はい」
冬真が。
ゆっくり立ち上がる。
「俺たちは?」
御影が見る。
「休め」
「……それだけ?」
「今日だけだ」
冬真の目が。
僅かに変わる。
御影は。
生徒たちを見る。
奎星。
日向。
楓。
岳。
伊織。
冬真。
澪。
「明日から鍛える」
奎星の眉が。
動いた。
「今まで以上に」
日向が。
僅かに笑う。
疲れた。
どうしようもなく。
疲れている。
それでも。
その言葉は。
妙に。
御影だった。
「また朝早い?」
奎星が訊いた。
「当然だ」
「マジかよ……」
「嫌なら寝てろ」
「やるよ!」
即答。
御影の口元が。
ほんの少しだけ。
動く。
「そうか」
岳も。
ゆっくり身体を起こした。
「飯は?」
御影が見る。
「ある」
「一か月?」
「ある」
「ならいけます」
日向が。
思わず吹き出す。
「お前そこなんだ」
岳は。
真顔だった。
「大事だろ」
「……うん」
楓も。
少しだけ。
笑った。
伊織は眼鏡を押し上げる。
「外部との通信が見つからなかった場合は?」
「別の方法を作る」
「方法が分からなかったら?」
「調べる」
「調べても分からなかったら?」
御影が。
伊織を見る。
「お前も考えろ」
伊織の口元が。
少しだけ上がる。
「はい」
澪が。
柊木を見る。
「先生」
「はい」
「白峰にも知らせないと」
「ええ」
柊木は。
初めて。
はっきりと頷いた。
「必ず」
スズメが。
奎星を見る。
砂まみれ。
目も赤い。
膝も。
まだ痛そう。
でも。
さっきまで。
砂へ拳を埋めていた少年が。
立っている。
奎星が。
御影を見る。
「先生」
「何だ」
「俺」
神代。
夢。
ありもしない未来。
自分の力。
学校。
天ぷら。
全部。
胸の中へある。
「もっと強くなる」
御影は。
すぐには答えなかった。
「…………」
そして。
言う。
「強いだけじゃ駄目だ」
奎星が。
一瞬止まる。
それから。
少し笑った。
「知ってる」
「ならいい」
御影は。
全員を見る。
誰も。
完全には立ち直っていない。
楓も。
まだ日向の支えが必要だ。
伊織も。
岳も。
消耗している。
澪は。
自分の学校でもない場所のために。
ここまで来た。
冬真も。
門に二度も囚われた。
スズメも。
自分の教師の心へ入り。
無理をした。
柊木も。
白峰の生徒を守りながら。
この場所にいる。
そして。
自分も。
負けた。
九重院を。
置いてきた。
学校を。
守れなかった。
けれど。
御影は。
思い出す。
宿舎。
歴代校長の写真。
あの言葉。
――校舎を失っても、学校は失われない。
――教える者がいて。
――学ぶ者がいて。
――共に明日を望むかぎり。
――そこが、学校である。
御影は。
ゆっくり。
周囲を見た。
生徒がいる。
教師がいる。
なら。
「……そういうことか」
「何?」
奎星が訊く。
「いや」
御影は。
海を見る。
遠い。
どこにあるのかも分からない。
この海の向こうに。
マホウトコロがある。
神代冥司が。
いる。
今。
あの男が。
校長を名乗っている。
「奪われた」
御影が言った。
全員が見る。
「校舎も」
風が。
黒灰色の長衣を揺らす。
「生徒も」
左頬の傷。
「仲間も」
拳が。
ゆっくり。
握られる。
「全部」
奎星が。
御影を見る。
「だから」
御影玄一郎は。
真っ直ぐ立った。
四十七年前ではない。
十二歳でもない。
失った過去を取り戻すためでもない。
今。
まだ。
取り戻せるもののために。
「全部、取り返す」
誰も。
声を出さなかった。
御影は続ける。
「今日、俺たちは負けた」
認める。
逃げない。
「マホウトコロは神代冥司に奪われた」
奎星の拳が。
握られる。
日向も。
冬真も。
澪も。
全員。
聞く。
「だが」
御影の目には。
もう。
絶望はなかった。
怒りだけでもない。
それより。
ずっと。
強いもの。
「一回負けたくらいで終わるほど」
風が。
強く吹いた。
「俺は、生徒に教えてない」
奎星の目が。
大きくなる。
御影は。
ほんの少しだけ。
笑った。
「準備しろ」
杖を抜く。
海の向こうへ。
その先にある。
奪われた学校へ。
向ける。
「ここからだ」
そして。
御影玄一郎は。
はっきりと。
宣言した。
「マホウトコロ奪還作戦を始める」
誰も。
もう。
俯いていなかった。
海の向こう。
見えない場所で。
学校は。
敵の手にある。
だから。
取り戻す。
先生と。
生徒で。
もう一度。
シーズン3 星迎祭と黒曜の門
完