マホウトコロ   作:西野圭吾

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シーズン4 星帰りと黒曜の王
第1話 最後の希望


 

黒曜の門が、七人を呑み込んだ。

 

最後に御影玄一郎の背中が闇の中へ消え、その直後、門は何事もなかったように静まり返った。閉じたわけではない。漆黒の入口はそこに残ったまま、表面を走る赤黒い古代文字だけが、脈打つように明滅している。

 

九重院紫苑は、その門を数秒だけ見つめていた。

 

御影。柊木。スズメ。奎星。日向。澪。冬真。

 

七人。

 

門へ入った彼らの姿は、もうどこにもない。

 

「校長先生!」

 

背後から藤森の声が飛び、九重院は振り返った。

 

校庭には、まだ何十人もの生徒が倒れている。先ほど九重院自身が放った大規模な気絶呪文によって、黒曜の門へ引き寄せられていた生徒たちはようやく動きを止めていたが、それですべてが終わったわけではない。呼吸の浅い者、黒い靄のようなものを身体へ残した者、転倒した際に怪我をした者までいる。

 

九重院の表情が、すぐに校長のものへ戻った。

 

「藤森先生は重症者を。薬師寺先生は魔力反応の確認を続けてください。土御門先生、意識の戻った生徒から校舎へ移します。早瀬先生は上空から、まだ倒れている生徒がいないか確認を」

 

「はい!」

 

教師たちが一斉に動き始める。

 

真壁征士郎も杖を握り直した。御影から最後に言われた言葉が、まだ耳に残っている。

 

――征士郎。

 

――お前も九重院と一緒に、ここを守れ。

 

――お前の守護霊が一番広く効く。また同じことが起きたら、九重院一人に全部やらせるな。

 

本音を言えば、今すぐあの門へ飛び込みたかった。

 

黒曜の環。神代冥司。そして、十二年前に失ったと思っていた斎賀玄弥。そのすべてに繋がる何かが、あの向こうにあるかもしれない。

 

だが、御影はここを任せた。

 

「……任されたからな」

 

真壁は小さく呟き、杖を振った。

 

「エクスペクト・パトローナム!」

 

銀白色の光が校庭へ溢れ、巨大なニホンオオカミの姿を取る。狼は一度だけ大きく身を震わせると、倒れた生徒たちの間を駆け始めた。その身体が近づくたび、皮膚や衣服にまとわりついていた黒い靄が薄れ、空気へ溶けるように消えていく。

 

「こちら、まだ残っています!」

 

藤森の声に、真壁の狼が方向を変えた。そのすぐ横では藤森が膝をつき、両手を一人の生徒の胸元へ翳している。淡い光が傷口へ吸い込まれ、荒かった呼吸が少しずつ整っていった。

 

「大丈夫。ゆっくり息をしてください。ここは学校です。あなたは安全です」

 

目を覚ました少女が、ぼんやりと藤森を見る。

 

「……門……」

 

「今は考えなくていいです。身体を治すことだけ考えて」

 

少し離れた場所では、土御門が浮遊魔法で数人を一度に校舎へ運び、高宮がそれを手伝っている。早瀬は箒で校舎と森の上空を何度も旋回し、取り残された者がいないか確認していた。

 

その光景を見ながら、九重院だけが一度、黒曜の門へ目を向ける。

 

「……必ず、帰ってきてくださいね」

 

誰にも聞こえない声だった。

 

そして九重院は袖の中へ手を入れた。

 

白い紙が一枚。

 

いや、二枚。

 

細い指が、静かに紙を折り始める。

 

 

それから、しばらく時間が経った。

 

大半の生徒は回復傾向に入り、意識を取り戻した者から順に医務室や大食堂へ移されていた。黒曜の門だけは依然として校庭の中央に残っていたが、先ほどまでのように人を引き寄せる気配はない。

 

マホウトコロの資料室では、真壁征士郎が机へ向かっていた。

 

目の前には何枚もの紙が広げられ、右手の羽根筆が休むことなく動いている。

 

《星迎祭二日目。校内試練区域において、競技用術式には存在しない大型の黒色門を確認》

 

《その後、校庭にも同種の巨大門が出現》

 

《複数生徒に意識・認識への干渉と推定される症状。門へ向かう行動を確認》

 

《守護霊の魔法により症状の一部解除が可能》

 

《九重院校長による集団気絶呪文で進行を一時停止》

 

《御影玄一郎、柊木志乃、烏丸スズメ、蓮根奎星、朝比奈日向、常盤澪、三枝冬真の七名、門内部へ侵入》

 

そこで筆が止まった。

 

真壁は少しだけ目を閉じる。

 

書かなければならない。何が起きたか。誰がいたか。何を使ったか。どの魔法が効き、どの魔法が効かなかったか。

 

現場にいた人間の記憶は、必ず歪む。

 

恐怖。焦り。怒り。そして、あとから得た情報。

 

それらは、実際に見たものと、その場で考えたものを簡単に混ぜる。だから真壁は書く。禍祓官だった頃から、ずっとそうしてきた。

 

御影と。

 

玄弥と。

 

三人で現場へ出ていた頃から。

 

「……玄一郎」

 

小さく名前を呼ぶ。

 

当然、返事はない。

 

真壁は再び筆を動かそうとした。

 

そのときだった。

 

ぞくり、と背筋を冷たいものが走った。

 

「…………」

 

筆が止まる。

 

気温が下がったわけではない。窓も閉じている。それなのに、何かがいる。

 

何十年も現場へ立ち続けた身体が、頭より先に警告していた。

 

これは知らない。

 

今まで、一度も感じたことがない。

 

禍々しい魔力とも違う。殺気とも違う。ただ、存在そのものが異常だった。

 

真壁はゆっくりと立ち上がり、資料室の扉を開ける。

 

廊下には誰もいない。

 

だが、校庭の方角から一度、空気が揺れた。

 

真壁の顔から血の気が引く。

 

走った。

 

 

校庭へ出た瞬間、真壁は足を止めた。

 

そこに、男がいた。

 

黒曜の門から少し離れた、つい先ほどまで誰もいなかったはずの校庭の中央。

 

長い黒髪。その中に混じる白。濃い紫の和装に、黒い羽織。年齢を拒絶するような若い顔。そして、何十年どころではない時間を、その奥へ閉じ込めたような黒い瞳。

 

真壁は写真でしか見たことがない。記録でしか知らない。

 

それでも、間違えなかった。

 

「……神代、冥司」

 

名前が口から落ちた。

 

あり得ない。

 

マホウトコロには結界がある。通常の姿くらましも、外部からの直接転移も通さない。正規の移動手段か、校内側から許可された転移経路を使わなければ、この場所へいきなり現れることなどできない。

 

それなのに神代冥司は、最初からここにいたかのように立っていた。

 

「誰だ!」

 

上空から早瀬の声が響き、箒が急降下する。高宮も杖を抜き、土御門が生徒たちを背後へ庇うように前へ出た。

 

「全員、下がってください!」

 

土御門の柔らかな声から、いつもの穏やかさが消えている。

 

三本の杖が神代へ向く。

 

神代は一度だけそちらを見た。

 

「邪魔ですね」

 

杖が動いた。

 

それだけだった。

 

呪文すら聞こえない。

 

空気が爆ぜる。

 

「――っ!」

 

早瀬の箒が横から殴り飛ばされたように吹き飛び、本人ごと地面へ叩きつけられた。

 

高宮の盾が展開される。だが、一瞬で砕けた。

 

「ぐっ……!」

 

身体が後方へ飛び、石段へ激突する。

 

土御門が杖を振るより早く、足元から黒い帯のような魔力が巻き上がった。身体を拘束し、そのまま地面へ強く倒す。

 

三人。

 

ほんの数秒。

 

誰一人、神代へ触れることすらできなかった。

 

「…………」

 

真壁の右手が杖へ伸びる。

 

そこで、止まった。

 

行け。

 

頭のどこかが言う。

 

今なら、九重院と挟める。

 

だが、身体は動かなかった。

 

恐怖ではない。もっと冷たいものだった。

 

経験。

 

何百という現場で生き延びてきた経験が、結論を出している。

 

――私一人では、奴には勝てない。

 

真壁は歯を食いしばった。

 

ここで出れば、一人増える。

 

戦力ではない。

 

倒れる人間が、一人増えるだけだ。

 

真壁は回廊の太い柱の陰へ身体を滑り込ませると、自分でも吐き気がするほど冷静に懐から小さな記録帳を取り出し、羽根筆を握った。

 

《神代冥司、校内へ直接出現》

 

《侵入経路不明》

 

《早瀬、高宮、土御門――三名をほぼ同時に無力化》

 

手が僅かに震えている。

 

それでも、書いた。

 

そのとき。

 

「随分と」

 

声がした。

 

真壁が顔を上げる。

 

神代の前に、九重院紫苑が立っていた。

 

いつからそこにいたのか。銀髪が風に揺れ、白を基調とした長衣の右手には杖。左の袖口からは、白い紙の端が僅かに覗いている。

 

折り鶴。

 

御影たちが帰ってきたときのために。

 

真壁は気づいた。

 

九重院は準備していたのだ。

 

最悪の事態を、最初から。

 

「私の可愛い生徒に」

 

九重院の声は穏やかだった。いつもの校長室で、生徒へ話しかけるときのように。

 

「随分と、ちょっかいをかけてくれましたね」

 

神代が僅かに笑う。

 

「何」

 

黒い瞳が、周囲の生徒たちへ向く。

 

「すぐに彼らは、私のものになります」

 

九重院の笑みが消えた。

 

「それは」

 

杖が上がる。

 

「聞き捨てなりませんね」

 

次の瞬間、校庭から二人の姿が消えた。

 

 

真壁には、最初の三手が見えなかった。

 

轟音。

 

気づいたときには校庭の中央へ巨大な透明防壁が立ち、その表面を紫色の光が走っていた。

 

神代が一歩引く。

 

九重院はすでに、その横にいる。

 

「エクスペリアームス」

 

赤い光。

 

神代が身体を捻る。杖が空を切る。

 

だが、その逃げた先へもう一発。

 

無言で放たれた白い光が、地面を抉った。

 

神代は飛び退く。

 

着地地点の石床が、突然、何十本もの白い鎖へ変わった。

 

「ほう」

 

神代が初めて、少しだけ目を見開く。

 

杖を下へ振ると、鎖が黒く染まり、一斉に砕けた。

 

その間に、九重院はもう正面にいる。

 

神代が杖を振った。

 

黒い衝撃波。

 

「プロテゴ」

 

一枚、二枚、三枚。

 

透明な防壁が重なる。

 

一枚目が割れ、二枚目も砕ける。だが、三枚目で止まった。

 

九重院の杖先が、その隙間から神代を捉える。

 

「ステューピファイ」

 

赤い光が走った。

 

一本ではない。

 

十数本。

 

扇状に分かれた気絶呪文が、逃げ道そのものを潰すように神代へ襲いかかる。

 

神代が初めて大きく動いた。

 

杖を横へ振り、地面そのものを持ち上げる。

 

巨大な石壁。

 

赤い光が次々とぶつかり、石壁を砕く。

 

飛び散った破片を、九重院はすべて止めた。

 

何十、何百という石片が空中に浮かぶ。

 

その光景を見た瞬間、真壁の脳裏へ昔読んだ記録が蘇った。

 

マホウトコロ校長、九重院紫苑。

 

決闘。災害対応。結界術。魔力制御。

 

どれも知っていた。

 

だが、知識として知ることと、目の前で見ることはまるで違う。

 

「……化け物同士かよ」

 

思わず声が漏れた。

 

九重院の指が僅かに動く。

 

浮いていた石片が、一斉に神代へ飛んだ。

 

神代の周囲で黒い防壁が膨らむ。

 

衝突。

 

粉塵。

 

その中を、九重院が真っ直ぐ突っ切った。

 

神代が杖を向ける。

 

だが、九重院のほうが速い。

 

「デパルソ」

 

どん、と空気が一度だけ巨大な鼓動のように膨らんだ。

 

神代の身体が消える。

 

いや。

 

吹き飛ばされた。

 

校庭を横切り、星迎祭のために組まれていた屋台を二つ突き破り、そのまま校舎正面の羊脂玉の壁へ激突する。

 

轟音。

 

白い壁が陥没し、瓦礫が崩れ落ちる。

 

静寂。

 

「…………」

 

真壁は、息をすることすら忘れていた。

 

九重院は杖を下ろさない。

 

「終わってはいませんね」

 

瓦礫の中から、低く静かな笑い声がした。

 

「……ここまでとは」

 

石が動く。

 

神代が、ゆっくりと身体を起こした。

 

口元から細い血が流れ、黒い羽織は裂け、髪も乱れている。

 

それでも、笑っていた。

 

「流石は、マホウトコロの校長だ」

 

九重院は答えない。

 

「正面からあなたを倒すのは」

 

神代が立ち上がる。

 

「やはり、少々面倒ですね」

 

「降参してくださるなら歓迎しますよ」

 

「まさか」

 

神代の杖が動く。

 

九重院が即座に構えた。

 

だが、杖先は彼女へ向かなかった。

 

地面。

 

「…………?」

 

神代は足元へ杖を突きつけた。

 

そして、撃った。

 

どくん。

 

島が揺れた。

 

大きな地震ではない。建物も倒れない。

 

けれど、マホウトコロそのものが一度だけ脈打った。

 

そんな揺れだった。

 

真壁は反射的に壁へ手をつく。

 

足元のさらに下。

 

深い、深い場所へ、何かが落ちていく。

 

赤黒い光が石の隙間を、根のように走った。

 

九重院の表情が初めて変わる。

 

「何を……?」

 

神代は答えなかった。

 

その代わり、一人の生徒が立ち上がった。

 

藤森の治療を終えたばかりの少年だった。まだ足元はふらつき、顔にも擦り傷が残っている。

 

それなのに、杖を抜いた。

 

九重院へ向ける。

 

手は震えていた。

 

怖いのだ。

 

それでも少年は、勇気を振り絞るように一歩、神代の前へ出た。

 

「……神代校長から」

 

九重院の目が、ゆっくりと見開かれる。

 

「離れろ……!」

 

静寂。

 

「…………何を」

 

九重院の声が掠れた。

 

もう一人が立つ。

 

その隣も。

 

また一人。

 

また一人。

 

「校長先生に近づくな!」

 

「九重院を止めろ!」

 

「神代校長を守れ!」

 

十本、二十本。

 

杖が次々と九重院へ向き、さらに増えていく。

 

真壁は言葉を失った。

 

《神代校長》。

 

生徒たちは、そう呼んでいる。

 

冗談でもなければ、操られているような無表情でもない。本気で恐怖し、本気で神代を守ろうとしている。

 

自分たちの校長だと信じて。

 

「……今の一撃か」

 

真壁の筆が走った。

 

《地下へ何らかの魔法》

 

《直後、生徒の認識に変化》

 

《神代冥司を“校長”と認識》

 

《九重院紫苑を敵性存在として認識している可能性》

 

具体的な仕組みは分からない。

 

なぜ。

 

どうやって。

 

何へ干渉した。

 

何も分からない。

 

ただ、一つだけは見れば分かる。

 

生徒たちは、奪われた。

 

「やめなさい!」

 

藤森が一人の生徒へ近づく。

 

「あなたたち、何を――」

 

「先生、危ない!」

 

別の生徒が藤森を突き飛ばした。

 

「九重院がいる!」

 

藤森の顔が凍る。

 

その瞬間。

 

「ステューピファイ!」

 

赤い光が九重院へ飛んだ。

 

「プロテゴ!」

 

弾く。

 

二発目、三発目。

 

十発。

 

九重院はすべて防いだ。

 

当然だった。

 

一人一人の魔法など、彼女に届くはずがない。

 

だが、反撃しない。

 

「皆さん!」

 

声を張る。

 

「杖を下ろしてください!」

 

「騙されるな!」

 

「神代校長を守れ!」

 

再び魔法が飛ぶ。

 

九重院は防ぎ、一歩退いた。

 

さらに十数本。

 

盾。

 

また一歩。

 

「…………」

 

神代は生徒たちの後ろにいた。

 

一切攻撃していない。

 

笑ってすらいない。

 

ただ、見ている。

 

九重院がどうするのかを。

 

そこで真壁は理解した。

 

「……最初から」

 

神代は、九重院に勝つ必要などなかった。

 

彼女より強い必要もない。

 

この学校で九重院紫苑を最も簡単に倒せるものを、知っていたのだ。

 

生徒。

 

彼女が何より愛しているもの。

 

「校長!」

 

高宮が起き上がろうとする。

 

その前へ生徒が立った。

 

「動くな!」

 

「お前たち……!」

 

「九重院の仲間だ!」

 

教師たちまで敵へ変わる。

 

神代の杖は、もう下がっていた。

 

九重院の防壁へ、次々と生徒の呪文が当たる。

 

赤。

 

白。

 

青。

 

一発一発は弱い。

 

けれど、途切れない。

 

九重院なら全員を止められる。

 

先ほど実際に、校庭を覆うほどの気絶呪文を放ち、何百人もの生徒を一度に止めた。

 

今も、やろうと思えばできる。

 

だが、目の前にいるのは、門へ無表情に歩く生徒たちではない。

 

泣きながら。

 

震えながら。

 

自分たちの校長を守ろうとしていると、心の底から信じている子供たちだった。

 

九重院の杖が一度上がる。

 

攻撃呪文を放てる位置へ。

 

「…………」

 

止まった。

 

目の前では、一年生の少女が泣いている。

 

それでも、杖を向けている。

 

九重院の杖先が下がった。

 

神代の目が僅かに細くなる。

 

「……そうですか」

 

九重院が小さく呟く。

 

誰に言ったのかは、分からない。

 

「これは……困りましたね」

 

少しだけ笑った。

 

悲しい笑顔だった。

 

次の瞬間、盾が割れた。

 

一発の気絶呪文が肩へ当たり、身体が揺れる。

 

二発目は脇腹。

 

三発目。

 

九重院は倒れない。

 

まだ盾を出す。

 

生徒へは撃たない。

 

また防ぐ。

 

防ぐ。

 

防ぐ。

 

ただ、それだけ。

 

勝てないのではない。

 

勝つために必要なことを、彼女は選べなかった。

 

自分の可愛い生徒を傷つけてまで校長でいることを、九重院紫苑は選べなかった。

 

そして、いつしか膝が地面へついた。

 

「校長……!」

 

真壁の口から声が漏れそうになる。

 

噛み殺した。

 

今出れば、すべてが無駄になる。

 

九重院はまだ倒れていない。片手を地面へつき、土で汚れた長衣の上へ銀髪が垂れ、頬へ張りついている。

 

その視線が、一瞬だけ動いた。

 

真壁のいる柱の方角へ。

 

目が合った。

 

「…………!」

 

見つかっていた。

 

最初から。

 

九重院は、真壁が隠れていることを知っていた。

 

そして、ほんの僅かに右手の指が動く。

 

袖口。

 

二羽の小さな折り鶴。

 

一羽が地面へ落ち、そのまま生徒たちの足元をすり抜けて石段の隙間へ潜り込み、校庭へ消えた。

 

もう一羽は、誰にも見つからない高さで地面すれすれを飛ぶ。

 

柱の陰。

 

真壁の足元へ。

 

ぽとり、と落ちた。

 

直後。

 

最後の呪文が、九重院の胸元へ当たった。

 

「…………っ」

 

身体がゆっくりと倒れる。

 

自分の愛する生徒たちの魔法によって。

 

神代冥司は、その姿を静かに見下ろしていた。

 

 

真壁は折り鶴を拾った。

 

手の中へ入れた瞬間、声がした。

 

九重院。

 

『真壁さん』

 

真壁の喉が詰まる。

 

『姿を見せないでください』

 

外では、生徒たちが倒れた教師を拘束し始めている。

 

高宮。

 

土御門。

 

早瀬。

 

藤森。

 

薬師寺。

 

白峰の教師たち。

 

混乱しながら、それでも自分たちは正しいことをしていると信じて。

 

『そして、逃げてください』

 

真壁が目を閉じる。

 

『神代冥司が、マホウトコロの結界内へ直接転移しました。本校の防護術式だけでなく、魔法省側で管理されている情報まで漏れている可能性があります』

 

真壁の表情が変わった。

 

『魔法省内部に、黒曜の環の人間……あるいは、彼らへ協力する者がいる可能性を捨てないでください』

 

「…………」

 

最悪。

 

その言葉しか浮かばなかった。

 

『御影先生たちは、必ず帰ってきます』

 

九重院の声には迷いがない。

 

『そのために、もう一羽を残しました』

 

校庭へ消えた折り鶴。

 

『彼らが戻ったとき、神代の支配下へ置かれているならば……私は、彼らを別の場所へ逃がします』

 

少し間が空く。

 

『常隠島』

 

初めて聞く名前だった。

 

『歴代校長のみが知る、秘匿島です。外部から座標を掴むことはできません。神代にも』

 

真壁は折り鶴を握り直した。

 

『ですが、完全に断絶した場所ではありません。島には古い転移石碑があります』

 

九重院の声が僅かに小さくなる。

 

『魔法省の旧・教育管理局に、マホウトコロ非常時避難標の記録が残されているはずです。常隠島という名では登録されていません。歴代校長印に紐づく《返し標》を探してください』

 

それだけ。

 

手掛かり。

 

直接の座標ではない。

 

簡単な転移方法でもない。

 

だが、何もないより遥かに大きい。

 

『真壁さん』

 

最後に、九重院の声が少しだけ柔らかくなった。

 

『信頼できる仲間を、集めてください』

 

真壁の目が揺れる。

 

『あなたが――』

 

一拍。

 

『最後の希望です』

 

折り鶴の光が消えた。

 

「…………」

 

真壁は何も言えなかった。

 

柱の向こうでは、九重院が倒れている。

 

助けに行きたい。

 

今すぐ。

 

だが、行けば託されたものが全部消える。

 

真壁は記録帳を閉じた。

 

最後に一行だけ書く。

 

《九重院紫苑――神代冥司本人ではなく、生徒による攻撃にて戦闘不能》

 

そして、背を向けた。

 

 

マホウトコロの外周結界を抜けるまで、真壁は一度も振り返らなかった。

 

振り返れば、戻る気がした。

 

裏手の森。職員用通路。結界管理用の狭い道。

 

走る。

 

肺が焼ける。

 

もう四十代だ。若い頃のようには走れない。

 

それでも、止まらない。

 

結界の境界を越えた瞬間、真壁は杖を振った。

 

「魔法省――緊急転移!」

 

景色が潰れた。

 

 

東京、霞が関。

 

日本魔法省、地下庁舎。

 

真壁が転移区画へ現れた瞬間、職員が何人も振り向いた。

 

「真壁監察官?」

 

「マホウトコロへ行かれていたのでは――」

 

「何かありましたか?」

 

全員が敵に見えた。

 

受付。

 

警備。

 

監察局。

 

魔法法執行局。

 

顔を知っている者。何年も一緒に働いた者。飲みに行ったことのある者。部下。上司。

 

誰も信用できない。

 

――魔法省内部に、黒曜の環の人間がいる可能性。

 

九重院の声が蘇る。

 

誰だ。

 

何人いる。

 

どこまで入り込んでいる。

 

今、自分が学校陥落を報告すれば、その情報は誰へ届く。

 

神代へ届かないと、言い切れるか。

 

「真壁さん?」

 

同僚が近づく。

 

真壁は一歩下がった。

 

「……悪い」

 

「え?」

 

「今は誰も、近づくな」

 

その声に、周囲が止まった。

 

真壁征士郎。

 

いつも規則を守る。

 

手順を踏む。

 

報告系統を飛ばさない。

 

その男が何の説明もせず、歩き始める。

 

向かう先は地下。

 

拘束区画。

 

頭の中へ、一人の顔が浮かんでいた。

 

信頼できる相手。

 

いや。

 

正確には、信じるしかない相手。

 

今の魔法省の組織図の中にいない。

 

神代のやり方を知っている。

 

黒曜の環の内部にいた。

 

そして玄一郎を、自分と同じだけ知っている男。

 

斎賀玄弥。

 

よりにもよって、檻の中にいる男だった。

 

 

「この取調室を使う」

 

「真壁監察官、斎賀被疑者の聴取は本日の予定には――」

 

「監察局特別案件だ」

 

「ですが――」

 

「全員出ろ」

 

「真壁さん?」

 

「出ろ」

 

低い声だった。

 

職員たちは顔を見合わせたが、真壁の顔を見ると、それ以上は誰も逆らわなかった。

 

扉が閉まる。

 

真壁は自分で施錠した。

 

一つ。

 

二つ。

 

三つ。

 

遮音。

 

魔力感知阻害。

 

盗聴防止。

 

記録魔法遮断。

 

通常の取調室なら絶対に重ねないほどの結界を、内側から張り巡らせる。

 

最後には、自動記録用の羽根筆まで机の上から退けた。

 

椅子。

 

机。

 

灰色の壁。

 

その向こうに、斎賀玄弥がいた。

 

両手首には魔力拘束具。山で御影と戦った傷は最低限治療されているものの、頬にはまだ薄い傷が残っている。

 

斎賀は真壁を見た。

 

これまで何度問いかけても、ほとんど口を開かなかった男。

 

黒曜の環。

 

鬼火鳥。

 

神代榊。

 

蓮根奎星。

 

神代冥司。

 

何を聞いても黙っていた。

 

その斎賀の目が、真壁の姿を見て変わった。

 

濃紺の制服は土で汚れ、額には汗。いつも整っているはずの襟も僅かにずれている。

 

何より、その顔。

 

「…………」

 

斎賀がゆっくりと身体を起こした。

 

「征士郎?」

 

真壁は何も言わない。

 

「お前……」

 

斎賀の笑みが消える。

 

「何があった」

 

真壁は椅子へ座らなかった。

 

立ったまま、話し始める。

 

黒曜の門。

 

生徒たち。

 

御影たち七人が中へ入ったこと。

 

その直後、神代冥司が結界を越えて学校へ現れたこと。

 

九重院との戦い。

 

神代が地面へ魔法を撃ったこと。

 

その直後、生徒たちが神代を校長と呼び始めたこと。

 

そして九重院が、自分の生徒たちに倒されたこと。

 

そこまで話した。

 

「…………」

 

斎賀は何も言わなかった。

 

両手で頭を抱え、指が伸びた髪を乱暴に掴む。

 

「…………クソ」

 

小さな声。

 

次の瞬間。

 

「クソッ!!」

 

椅子が蹴られ、魔力拘束具の鎖が鳴った。

 

斎賀は立ち上がり、鎖の許す範囲を何度も歩く。

 

三歩。

 

鎖。

 

戻る。

 

三歩。

 

また戻る。

 

何かを考えている。

 

いや、違う。

 

今までの出来事を、全部繋いでいる。

 

「久我……」

 

真壁が見る。

 

斎賀が止まった。

 

「久我も」

 

顔を上げる。

 

「俺も」

 

その表情に笑みはなかった。

 

「しくじったと思ってた」

 

「…………」

 

「久我は第零書庫から古代魔術を持ち出せなかった。蓮根に黒曜石を飛ばされて、最後は捕まった」

 

真壁は黙って聞く。

 

「俺もだ。鬼火鳥の狩場は潰された。鳥は逃がされた。玄一郎に負けて、今じゃこのザマだ」

 

拘束具が鳴る。

 

「俺たちは負けた」

 

斎賀は、自分でそう言った。

 

「……でも」

 

目が変わる。

 

「違ったんだ」

 

「何がだ」

 

「目的は、達成されてた」

 

真壁の眉が寄る。

 

斎賀が机へ手をついた。

 

「久我が第零書庫へ入ったこと自体だ」

 

「…………」

 

「神代は最初、あそこにある古代魔術を欲しがってた。久我は黒曜石へ古代魔術を食わせて、あの地下で無理やり起動させたんだろ?」

 

「ああ」

 

「それで十分だったんだよ」

 

「何が」

 

「マホウトコロの古い魔法が、今も死んでねえって証明になった」

 

真壁の目が僅かに動く。

 

斎賀は続けた。

 

「学校の地下には昔の術式が残ってる。第零書庫だけじゃねえ。門も、結界も、あの島を流れる魔力もだ。久我の事件で、神代はそこへ今の魔法から噛みつけるって確信した」

 

「……霊脈」

 

真壁が呟く。

 

斎賀がゆっくり頷いた。

 

「で、今度は俺たちのほうだ」

 

鬼火鳥。

 

真壁の脳裏へ、青白い炎が浮かぶ。

 

「鬼火鳥は霊脈を辿って飛ぶ。蓮根の神代榊は、あいつらに反応した」

 

斎賀の声が低くなる。

 

「群れのいる方角まで指したんだろ」

 

「……そうだ」

 

「しかも蓮根家は、昔から鬼火鳥の道と霊脈を知ってた」

 

真壁の顔から、ゆっくりと血の気が引いた。

 

斎賀が笑う。

 

だが、いつもの人を食った笑いではない。

 

吐き気を堪えているような笑いだった。

 

「揃ってんだよ」

 

久我。

 

古代魔術。

 

第零書庫。

 

斎賀。

 

鬼火鳥。

 

神代榊。

 

蓮根家。

 

霊脈。

 

そして、黒曜の門。

 

「久我が勝てば、古代魔術が手に入る」

 

斎賀が言う。

 

「負けても、マホウトコロの地下に残ってる古い術式が表へ出る」

 

真壁は何も言えない。

 

「俺が勝てば、鬼火鳥と蓮根を押さえられる」

 

斎賀の拳が握られる。

 

「負けても、鬼火鳥と神代榊がどう繋がってるか。どっちが霊脈の道を指すか。それが分かる」

 

「…………」

 

「あいつにとっては」

 

斎賀が小さく息を吐いた。

 

「久我も俺も」

 

一拍。

 

「勝っても、負けても」

 

真壁を見る。

 

「どっちでもよかったんだ……」

 

取調室が静まり返る。

 

「その二つが揃ったから」

 

斎賀は机へ目を落とした。

 

「神代は門を作った」

 

玄一郎たちを中へ入れた。

 

時間を使わせた。

 

学校から、御影玄一郎を。

 

柊木志乃を。

 

烏丸スズメを。

 

奎星たちを。

 

引き離した。

 

残ったのは九重院紫苑。

 

ただ一人。

 

正面から戦えば、神代を押し返せるほどの魔女。

 

だから戦わなかった。

 

生徒を使った。

 

「玄一郎は今、門の中」

 

斎賀の声が掠れる。

 

「マホウトコロは堕ちた」

 

真壁の拳が握られる。

 

「終いにゃ」

 

斎賀が顔を上げる。

 

「お前が信用できるのは」

 

自分の両手を持ち上げる。

 

魔力拘束具。

 

鎖。

 

「檻の中にいる俺だけ」

 

「…………」

 

「完璧な作戦だよ」

 

斎賀は吐き捨てた。

 

「反吐が出るほどにな……」

 

沈黙。

 

長い沈黙だった。

 

真壁は斎賀を見る。

 

十二年前。

 

三人で何度も現場へ出た。

 

玄一郎。

 

玄弥。

 

征士郎。

 

一人、いなくなった。

 

探した。

 

見つからなかった。

 

十二年後、戻ってきた。

 

敵として。

 

その男へ、今から頼もうとしている。

 

真壁がゆっくり口を開いた。

 

「だが」

 

斎賀が見る。

 

「玄弥」

 

その呼び方に、斎賀の目が僅かに揺れた。

 

「玄一郎は、まだ生きてる」

 

「…………」

 

「門の中で何が起きたかは分からない。だが、あいつがあの程度で死ぬとは思えん」

 

真壁は一歩近づいた。

 

「九重院校長も、御影たちが戻ると信じていた」

 

折り鶴。

 

常隠島。

 

「戻ったあとは、常隠島へ逃がすつもりだ」

 

斎賀が小さく息を呑む。

 

「常隠島……?」

 

「ああ。俺も今日初めて聞いた」

 

真壁は頷いた。

 

「まだ希望は残ってる」

 

「…………」

 

「玄一郎は、生きているかもしれない」

 

いや。

 

真壁の目が強くなる。

 

「生きてる」

 

斎賀は何も言わない。

 

「だから」

 

真壁征士郎が、頭を下げた。

 

深く。

 

斎賀の目が大きくなる。

 

「おい」

 

「玄弥」

 

「征士郎」

 

「頼む」

 

真壁の声が、初めて震えた。

 

「力を貸してくれ」

 

「…………」

 

「頼む」

 

斎賀玄弥は動けなかった。

 

真壁が頭を下げている。

 

昔から誰より堅く、誰より規則を守り、どんな現場でも顔色一つ変えず、自分や玄一郎が馬鹿をすれば最後に全部片づけていた男。

 

その男が今、自分へ頭を下げている。

 

「俺一人じゃ」

 

真壁が続ける。

 

「神代には勝てない」

 

正直な言葉だった。

 

「魔法省も信用できない」

 

もう一つ。

 

「玄一郎たちがどこにいるかも分からない」

 

もう一つ。

 

「だから」

 

頭を上げない。

 

「頼む」

 

斎賀の顔が歪んだ。

 

「征士郎」

 

「…………」

 

「頭上げろ」

 

真壁は上げなかった。

 

「頼む」

 

斎賀が目を閉じる。

 

十二年前。

 

自分は二人を残した。

 

黒曜の環へ落ちた。

 

何人もの人間を傷つけた。

 

鬼火鳥を捕らえた。

 

生徒へ杖を向けた。

 

その事実は消えない。

 

玄一郎と戦ったことも、今さらなかったことにはできない。

 

それでも。

 

「……分かった」

 

真壁の肩が僅かに動く。

 

斎賀は目を開いた。

 

「俺にできることなら」

 

鎖が鳴る。

 

右手を前へ出す。

 

「何だってする」

 

真壁がゆっくり顔を上げる。

 

「征士郎」

 

斎賀玄弥は、十二年前の友人を見る目で言った。

 

「俺からも頼む」

 

差し出した手。

 

「協力させてくれ」

 

真壁は、その手を見る。

 

魔力拘束具。

 

鎖。

 

罪。

 

十二年。

 

全部、ついている。

 

それでも、握った。

 

強く。

 

斎賀も握り返した。

 

灰色の取調室。

 

魔法省の地下深く。

 

誰にも知られない場所で、十二年前に途中で途切れた三人の道が、ほんの少しだけ、もう一度繋がった。

 

一人は黒曜の門の向こう。

 

一人は檻の中。

 

一人は、すべてを疑わなければならない場所にいる。

 

学校は奪われた。

 

校長は倒れた。

 

敵は、魔法省の中にまでいるかもしれない。

 

状況だけを並べれば、希望などどこにもない。

 

それでも真壁征士郎は、斎賀玄弥の手を離さなかった。

 

反撃は、まだ始まってすらいない。

 

だが、この瞬間。

 

確かに。

 

最初の一人が、仲間へ戻った。

 

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