日本魔法省、地下庁舎。
時刻は、とっくに日付を跨いでいた。
それでも真壁征士郎は休まなかった。
斎賀玄弥との話を終え、厳重な施錠を施した取調室を出ると、その足で旧・教育管理局の記録区画へ向かっていた。
九重院紫苑から託された言葉。
――魔法省の旧・教育管理局に、マホウトコロ非常時避難標の記録が残されているはずです。
――常隠島という名では登録されていません。
――歴代校長印に紐づく《返し標》を探してください。
それだけが、今の真壁に残された手掛かりだった。
「返し標……」
歩きながら小さく呟く。
聞いたことがない。
監察局へ二十年以上勤め、禍祓官時代も含めれば魔法省の内部資料には嫌というほど触れてきた。それでも、その名前には一度も行き当たったことがなかった。
当然なのだろう。
歴代校長しか知らない島へ通じるものが、誰でも検索できる資料へそのまま記載されているはずがない。
問題は。
どこまで隠されているか。
そして。
誰が、その存在を知っているか。
深夜の魔法省は、昼間とは違う静けさに包まれていた。
職員が完全に消えることはない。夜勤の警備員、災害対策局、魔法法執行局の一部部署。廊下の向こうを誰かが歩くたび、真壁の目は無意識にそちらへ向いた。
顔を知っている。
だから何だ。
十年同じ部署にいるから。
それが何の証明になる。
さっきまでなら何も考えず挨拶していた相手を、今は一人ずつ疑っている。
嫌な感覚だった。
けれど、九重院の警告を無視するわけにはいかない。
神代冥司は、マホウトコロの結界内へ直接現れた。
学校側の術式だけを破ったとは限らない。
外から座標を知った者がいる。
経路を渡した者がいる。
情報を流した者がいる。
その可能性を考えるなら。
今、自分が何を探しているのか。
誰にも知られるわけにはいかなかった。
*
旧・教育管理局。
現在の教育管理局が新庁舎区画へ移転したのは十数年前で、かつて使われていた区域の大半は資料保管庫へ変わっている。
地下六階。
さらにその奥。
普段なら職員がほとんど立ち入らない古い回廊を、真壁は一人で歩いていた。
壁に並ぶ案内板も古い。
《学校施設管理》
《教育結界監査》
《魔法学校移動経路》
《緊急避難記録》
「……ここか」
足を止める。
細長い部屋。
扉を開けると、内部には何百という紙の記録箱が並んでいた。
真壁は杖を取り出す。
「アクシオ。マホウトコロ非常時避難標」
何も起こらない。
「……だろうな」
簡単なら九重院も場所くらい指定していたはずだ。
棚を一つずつ確認する。
年代。
学校名。
管理番号。
古い記録ほど魔法による検索が利かない。紙そのものへ秘匿術式が掛けられているためだった。
真壁は上着を脱いだ。
椅子へ置く。
袖を捲る。
そして探した。
一冊。
違う。
二冊目。
違う。
箱。
違う。
古い台帳。
違う。
一時間。
二時間。
羽根筆で番号を書き留め、年代を照合し、保管場所を潰していく。
《国立魔法学校マホウトコロ 非常時避難経路 一九六三年改訂》
開く。
本土側の避難所。
違う。
《南硫黄島周辺 教育施設転移標》
朝凪島。
違う。
《マホウトコロ校長権限・災害時特別経路》
真壁の手が止まる。
開く。
最初の数頁は普通だった。
火災。
噴火。
結界崩壊。
外敵侵入。
大規模魔法災害。
だが。
最後の一頁だけ。
切り取られている。
「…………」
真壁は切断面を指でなぞった。
破られたのではない。
最初から。
そこへ綴じられていた紙だけを、綺麗に外している。
ページ番号は飛んでいた。
四十七。
次が。
四十九。
「四十八……」
真壁は台帳を閉じる。
周囲を見る。
誰かが持ち出した。
いつ。
誰が。
分からない。
だが、その瞬間。
別のことに気づいた。
四十九頁の端。
小さな記号。
円。
その中央に、折り重なる二本の線。
見覚えがある。
真壁は懐へ手を入れた。
白い折り鶴。
九重院から託されたもの。
魔法はすでに言葉を伝え終え、今はただの紙へ戻っている。
その翼。
端の部分。
そこへ、同じ印があった。
「……これか」
真壁は台帳を持ち上げた。
四十九頁の記録番号。
《旧教育管理局 秘匿保管区画・四》
聞いたことのない区画だった。
*
さらに下。
魔法省地下庁舎の図面では、倉庫としか記されていない区域。
真壁は薄暗い廊下の前で立ち止まった。
「……こんな場所があったのか」
監察官である自分ですら、入ったことがない。
奥へ進む。
一。
二。
三。
古い木製の扉が続く。
四番目。
他とは違った。
扉の中央に、何も書かれていない。
部署名も。
管理番号も。
鍵穴すらない。
真壁は胸元から監察官証を取り出した。
銀色のカードを扉へ当てる。
何も起きない。
もう一度。
反応なし。
「監察局権限、真壁征士郎。開錠を要求する」
沈黙。
杖を抜く。
「アロホモラ」
小さな光。
それだけ。
鍵は開かない。
真壁の眉間へ深い皺が寄る。
別の解除術式。
駄目。
結界干渉。
駄目。
物理的な破壊魔法を使うわけにもいかない。
それ以前に。
嫌な予感がした。
この扉。
魔法を弾いているのではない。
最初から。
自分の魔法を、鍵として認識していない。
「…………」
真壁は杖を下ろした。
どうする。
九重院。
歴代校長。
校長印。
返し標。
そこまで考えて。
懐にあるものへ手を伸ばした。
「まさかな……」
白い折り鶴。
真壁はそれを掌へ乗せた。
魔力はもう感じない。
声も聞こえない。
それでも。
九重院が最後に残したもの。
真壁は折り鶴を、そっと扉へ近づけた。
翼が触れる。
一秒。
何もない。
二秒。
「……違うか」
そう思った瞬間。
折り鶴の中央に、淡い紫の光が灯った。
真壁の目が見開かれる。
扉の表面へ。
今まで存在しなかった文字が浮かび上がった。
古い文字。
その中央。
九重院の折り鶴へ刻まれていたものと同じ印。
かちり。
小さな音がした。
扉が。
僅かに開く。
「…………」
真壁はしばらく動かなかった。
やがて。
大きく息を吐く。
「校長……」
誰もいない廊下で。
少し呆れたように。
それでも、どこか敬意の混じった声で呟く。
「あなたは、どこまで考えてるんだ……」
折り鶴を握り。
扉を開けた。
*
部屋は、想像していたより狭かった。
窓はない。
机が一つ。
壁一面の書架。
そして中央には、人の腰ほどの高さをした黒い石台が置かれていた。
石台の天面には日本列島を思わせる細長い術式が刻まれ、その周囲へいくつもの印が配置されている。
ほとんどは消えていた。
使われなくなったのだろう。
だが。
一つだけ。
南の海。
地図上なら伊豆諸島からさらに遥か南。
何もない場所に。
小さな窪みがある。
真壁は書架を調べた。
一冊目。
《国立魔法学校緊急転移標・登録台帳》
二冊目。
《校長権限による秘匿避難経路》
三冊目。
《返し標運用規定》
「……あった」
真壁が机へ置く。
頁を開く。
そこに。
常隠島という名前はなかった。
九重院の言った通りだ。
代わりに。
《特別秘匿避難標 第零号》
《管理者――国立魔法学校マホウトコロ校長》
《外部座標登録――なし》
《通常転移――不可》
《対となる校長標からの一方向退避のみ許可》
真壁の目が動く。
「一方向……」
学校から島へは行ける。
島の場所を知らなくても。
歴代校長の持つ標が。
避難者を送り出す。
だから神代にも座標は掴めない。
だが。
それでは戻れない。
頁をめくる。
次。
《緊急時、魔法省側返し標を用いることで避難先との連絡を確立可能》
真壁の手が止まった。
「これだ」
さらに読む。
《接続には歴代校長印を必要とする》
真壁は。
ゆっくり。
折り鶴を見た。
「……なるほどな」
全部。
残している。
九重院は。
自分が倒される可能性まで考えた。
御影たちが戻ることも。
学校へ残れば戦えないことも。
真壁が逃げることも。
魔法省へ辿り着くことも。
そして。
ここまで来ることも。
折り鶴一羽で。
全部。
「本当に……」
真壁は目を閉じた。
一瞬だけ。
倒れた九重院の姿が浮かぶ。
「生きててくださいよ」
返事はない。
目を開ける。
今は。
やることがある。
真壁は折り鶴を石台中央の窪みへ置いた。
紫の光。
術式が走る。
一つ。
二つ。
古い文字が次々と浮かび上がる。
そして。
南の海にあった何もない一点が。
白く。
灯った。
*
翌朝。
常隠島。
「もう一周!」
「はあ!?」
御影の声に、朝比奈日向が絶望した。
古い訓練場の外周。
先頭を走る冬真が一度だけ振り返る。
その少し後ろには楓。
澪。
さらに距離を空けて岳。
奎星。
そして最後尾。
日向。
「待って! 俺クィディッチ選手なんだけど!?」
「だから何だ」
御影は腕を組んでいる。
走ってすらいない。
「体力には自信ある側なんだけど!」
「なら走れ」
「昨日から何周したと思ってんの!?」
柊木が隣で時計を見た。
「十一周ですね」
「数えなくていいです柊木先生!」
「教師ですから」
「関係ある!?」
日向の声が遠ざかっていく。
奎星がその横を抜いた。
「遅えぞ日向!」
「お前さっきまで俺の後ろだっただろ!」
「復活した!」
「何で!?」
「知らん!」
「一番怖いやつ!」
その数秒後。
奎星の速度が落ちた。
日向が抜く。
「ほら!」
「待て!」
「復活短っ!」
楓の声が前から飛ぶ。
「喋る体力あるなら走りなさい!」
「楓速くね!?」
「日向も!」
「何で俺まで!?」
訓練場には。
昨日までの学校生活と変わらないような声が響いていた。
だが。
やっていることは。
まるで違う。
常隠島へ来てから。
御影玄一郎と柊木志乃は、休む暇をほとんど与えなかった。
朝。
基礎体力。
午前。
防御と回避。
昼を挟み。
午後。
対人戦。
複数戦。
救出訓練。
夜には反省。
そして翌朝。
もう一度。
当然、生徒から不満は出た。
主に奎星と日向から。
御影は一度も聞かなかった。
理由は。
全員分かっている。
戻るため。
マホウトコロへ。
神代冥司から。
学校を取り返すため。
「全員、集合!」
外周が終わった。
日向が地面へ倒れた。
「死ぬ……」
「死なない」
澪が息を整えながら言う。
「根拠は?」
「まだ喋ってるから」
「冷たくない?」
岳は膝へ手をついている。
奎星も肩で大きく息をしていた。
「御影先生……」
「何だ」
「これ学校取り返す前に俺ら死なない?」
「ならない」
「言い切った!」
「死ぬ前に止める」
「そういう問題!?」
冬真が笑う。
疲れている。
けれど。
呼吸の戻りが明らかに早い。
柊木はそれを見ていた。
三枝冬真。
やはり。
完成度が高い。
昨年度のマホウトコロ校内決闘大会優勝者。
上級課程の中でも、純粋な決闘技術なら最上位にいる生徒。
攻撃。
防御。
距離。
味方。
相手。
全部を同時に見ている。
派手な魔法を撃つわけではない。
それでも。
崩れない。
楓も目立った。
水無瀬楓。
基礎が強い。
判断が速い。
余計な動きが少ない。
授業で積み重ねてきたものを、そのまま戦闘へ持ち込める。
そして。
常盤澪。
白峰でも優秀な決闘者。
盾の使い方が特に巧い。
ただ正面で受けるのではない。
角度を変える。
流す。
相手の魔法を別方向へ逸らす。
守りながら。
次の一手を作る。
この三人は。
明確に抜けていた。
学生。
それは間違いない。
御影や柊木のように、十年以上、二十年以上も実戦と研鑽を積み重ねた人間とは比較にならない。
だが。
学生の中で見るなら。
冬真。
楓。
澪。
この三人が、今のところ最も安定した戦力だった。
そして。
もう一人。
柊木の目が動く。
「次。三対三」
御影が言った。
奎星の顔が明るくなる。
「よし!」
日向が地面から起きる。
「お前何で戦うときだけ元気なんだよ」
「楽しいじゃん」
「さっき死ぬって言ってたよな?」
「走るのは別」
「都合いいな!」
御影が組み分けを告げる。
「冬真、常盤、水無瀬」
三人が並ぶ。
「蓮根、朝比奈、岩戸」
奎星が止まった。
「待って」
日向も相手を見る。
「強い方固めてない?」
「固めた」
「認めた!」
御影は平然としている。
「勝て」
「無茶言うな!」
「神代にも同じことを言うのか」
奎星が黙る。
「…………」
御影が見る。
「嫌ならやめるか」
奎星の眉が上がった。
神代榊を抜く。
「やる」
「知ってた」
日向がため息をついた。
岳も杖を構える。
柊木が訓練場の端へ下がった。
「開始します」
六人の表情が変わる。
「始め」
最初に動いたのは冬真だった。
「エクスペリアームス!」
「プロテゴ!」
奎星が盾を出す。
赤い光。
弾く。
その直後。
楓がもう横へ回っている。
「インカーセラス!」
「うおっ!」
奎星が跳ぶ。
縄が足元を掠める。
その隙に澪。
白い光。
日向の杖へ。
「やばっ!」
日向が身体を捻った。
ぎりぎり。
避ける。
だが。
冬真はもう次を撃っている。
「速っ!」
奎星が振り返る。
間に合わない。
岳が前へ出た。
「プロテゴ!」
盾。
衝突。
奎星の目が動く。
岳。
冬真。
楓。
澪。
全員。
速い。
一人を見れば。
別から来る。
「蓮根!」
御影の声。
奎星が反射的に前を見る。
楓。
杖。
右肩。
僅かに上がる。
来る。
奎星が撃つより前に。
横へ動いた。
楓の赤い光が、さっきまで奎星の杖があった位置を通る。
「……!」
楓の目が少し開く。
奎星はもう撃っている。
「エクスペリアームス!」
楓が盾を張る。
真正面。
奎星の赤い光が当たった。
弾ける。
当然。
防がれる。
だが。
奎星はそこで止まらなかった。
身体を沈める。
地面へ。
「デパルソ!」
「え?」
楓の足元。
直接撃っていない。
土。
砂。
衝撃で巻き上がる。
視界が一瞬だけ消える。
「日向!」
「おう!」
日向が飛び出す。
「エクスペリアームス!」
砂煙の向こうから楓の杖を狙う。
「プロテゴ!」
盾。
今度は澪だった。
斜め。
真正面ではない。
透明な盾を傾けて。
日向の魔法を。
横へ流す。
その角度。
奎星が見た。
「…………」
一度。
それだけ。
次。
冬真が奎星へ撃つ。
赤い光。
奎星が盾を出す。
「プロテゴ!」
今までと違う。
真正面ではない。
少し斜め。
赤い光が。
盾へ当たり。
横へ逸れた。
柊木の目が動いた。
「……今の」
御影は何も言わない。
冬真も気づいた。
「へえ」
少しだけ笑う。
「それ澪の?」
「使えそうだったから!」
「一回見ただけだろ?」
「うん!」
「怖いな!」
冬真が二発目。
奎星がもう一度。
今度は。
角度が違う。
失敗。
盾が割れた。
「あっ」
赤い光が胸へ当たる。
「ぐえっ!」
奎星が吹き飛ぶ。
地面を転がる。
柊木は思わず笑いそうになった。
まだ。
全然だ。
理解したからといって。
使いこなせるわけではない。
見る。
真似る。
失敗する。
普通なら。
そこから何十回。
何百回。
身体へ馴染ませる。
奎星も例外ではない。
経験の差は。
そんな簡単に消えない。
「奎星!」
日向の声。
奎星はすぐ起きた。
「大丈夫!」
胸を押さえる。
「冬真先輩、今の痛え!」
「気絶呪文だからね!?」
「もう一回!」
「今試合中!」
その直後。
楓の魔法で日向の杖が飛んだ。
「あっ」
「日向!」
「ごめん!」
澪が岳を拘束する。
「インカーセラス!」
太い縄。
岳の両腕が止まる。
最後。
奎星一人。
向こう。
三人。
「…………」
奎星は立っている。
冬真が苦笑する。
「降参する?」
「するわけないじゃん」
楓が呆れる。
「でしょうね」
澪も杖を向ける。
「三対一だよ」
「ちょうどいい」
「何が?」
奎星の口角が上がる。
「練習になる」
御影の眉間へ皺が寄る。
柊木が小さく笑った。
「本当に、御影先生の生徒ですね」
「どこがだ」
「無茶を無茶と思っていないところが」
「そこは教えてない」
三人が動く。
奎星も動く。
一発。
避ける。
二発。
盾。
今度は。
斜め。
弾く。
成功。
奎星の目が一瞬輝いた。
その瞬間。
楓。
「余所見!」
「うわっ!」
杖が飛んだ。
くるくる。
空へ。
落ちる。
「…………」
奎星は空になった右手を見た。
楓が杖を下ろす。
「まだまだね」
「くそぉぉ!」
「勝者、三枝、水無瀬、常盤」
柊木が告げる。
奎星はすぐ杖を拾った。
悔しそうな顔。
だが。
次に澪を見る。
「さっきの盾、もう一回見せて!」
「そこ?」
「角度! どれくらい?」
澪が少し笑う。
「普通負けたらもう少し悔しがらない?」
「めっちゃ悔しいよ! だから次勝つために聞いてんじゃん!」
楓が呆れた顔になる。
「昔からそれよ」
冬真はそんな奎星を見て笑っていた。
「じゃあ俺の二発目も教える?」
「教えて!」
「いいよ」
「冬真先輩マジ神!」
「その代わり次の外周付き合って」
「やっぱいい!」
「早いな!」
笑いが起きる。
柊木は、その中心にいる少年を見た。
蓮根奎星。
噂はいくらでも聞いていた。
一万を超える魔力。
十七歳での覚醒。
古代魔術。
神代榊。
黒曜の環。
名前だけなら。
危険な言葉ばかりがついて回る。
実際に見ても。
才能は異常だった。
一度見た魔法を。
その場で試す。
失敗すれば。
何が違うかを考える。
次には修正する。
それでも。
柊木が一番驚いたのは。
そこではなかった。
「水無瀬! 次は勝つからな!」
「まず私の盾を抜きなさい!」
「冬真先輩も!」
「俺も?」
「澪も!」
「全員じゃん」
負けても。
相手を恨まない。
自分より上手い技術を見れば。
素直に教えてくれと言う。
巨大な魔力を持っていても。
力だけで押し潰せばいいとは考えない。
先ほども。
楓の視界を奪うために地面へデパルソを撃った。
本人へ。
直接ではなく。
必要なところへ。
必要な分だけ。
柊木の目が。
隣にいる男へ向いた。
御影玄一郎。
なるほど。
そういうことか。
才能だけを見れば。
危うい。
あれほどの力。
あれほどの成長速度。
周囲より遥かに早くできることが増えていけば。
普通は。
どこかで。
自分は特別だと思う。
何をしても許されると。
勘違いする。
それを。
ここまで。
歪ませずに育てた。
「……御影先生」
「何だ」
再び外周を走らされる生徒たちを眺めながら。
柊木は口を開いた。
先頭。
冬真。
そのすぐ後ろ。
楓。
澪。
少し遅れて岳。
日向。
そして。
さっきまで一番騒いでいた奎星が、今は日向とどちらが先へ行くかで競っている。
「いずれ蓮根君は、私を抜きます」
御影は。
生徒たちを見たまま。
何も言わない。
柊木が続ける。
「あなたもですよ、御影先生」
一拍。
「ふん」
御影が鼻を鳴らす。
「そうでなければ困る」
柊木は少し目を細めた。
やっぱり。
「一番目をかけていますものね」
「そんなことはない」
即答。
柊木が御影を見る。
「そうですか?」
「そうだ」
「毎朝、個人訓練までしているのに?」
「必要だからやっている」
「他の生徒が一度見た技術を真似したときも、あんな顔をされます?」
御影の眉が寄る。
「どんな顔だ」
「嬉しそうな顔です」
「してない」
「そうですか?」
柊木が笑う。
御影は答えなかった。
前だけを見る。
ちょうど。
奎星が日向を抜いた。
「よっしゃあ!」
「お前さっき後ろだっただろ!」
「成長した!」
「十秒で!?」
「蓮根!」
御影の声。
奎星がびくっとする。
「喋るな! 走れ!」
「はい!」
柊木の笑みが。
少し深くなる。
「よく育てましたね」
今度は。
御影の返事がなかった。
ほんの僅かに。
表情だけが変わる。
柊木は。
それ以上言わなかった。
*
同じ頃。
島の反対側。
スズメと伊織は、古い建物の中にいた。
常隠島には。
人が生活できるだけの最低限の設備が残されている。
寝室。
厨房。
井戸。
倉庫。
訓練場。
どれも古い。
いつ造られたものか。
正確な記録はない。
そして。
この建物だけは。
さらに古かった。
石造り。
外壁の半分は蔦へ覆われ、木製の扉もかなり傷んでいる。
中へ入れば。
空気が違う。
湿っている。
紙と石。
古い魔力の匂い。
伊織が杖先へ灯した光を上げた。
「こっちにもあります」
壁。
細い文字。
現代の魔法文字ではない。
スズメが近づく。
指で追う。
「……転移に関する術式ですね」
「読めるんですか?」
「全部ではありません」
スズメは目を細める。
第零書庫で。
何度も。
似たものを見てきた。
古代魔術。
完全な文章として読もうとすれば意味が崩れる。
言葉。
図形。
魔力の流れ。
全部を一つの術式として見る。
「移動ではなく……」
スズメが呟く。
「接続」
伊織が壁を見る。
「何かと繋ぐ?」
「おそらく」
二人は、朝から島を調べ続けていた。
御影と柊木が戦力を鍛える。
自分たちは。
島そのものを調べる。
外へ出る手段。
外部と連絡する手段。
この場所が何なのか。
何が残されているのか。
伊織が床へしゃがみ込んだ。
「烏丸先生」
「何です?」
「これ」
床。
埃。
その中へ。
線がある。
長い。
壁から。
部屋の奥へ。
伊織が指で埃を払う。
石板同士の隙間ではない。
人工的な溝。
「魔力の道?」
「そう見えますね」
二人で追う。
廊下。
角。
階段。
地下へ。
古い扉。
鍵はなかった。
スズメが杖を向ける。
「開きます」
重い音。
ぎぎぎ。
扉が内側へ動いた。
その向こう。
小さな部屋。
何もない。
いや。
中央。
石。
伊織が光を近づけた。
人の腰ほどの高さ。
平たい石台。
表面へ。
無数の文字。
スズメの目が変わった。
「これ……」
ゆっくり近づく。
伊織も隣へ立つ。
「知ってるんですか?」
「形は」
スズメは周囲を見る。
「第零書庫に、似た構造の石板があります。遠く離れた二つの術式を同期させるためのものです」
「通信?」
「可能性はあります」
伊織が眼鏡を押し上げた。
石台を観察する。
「でも動いてない」
「ええ」
文字は暗い。
魔力を流す。
スズメが試す。
何も起きない。
伊織も別方向から術式を見る。
「単純に魔力を入れるだけじゃ駄目みたいですね」
「鍵が必要なのでしょう」
「校長権限?」
スズメが伊織を見る。
「どうして?」
「この島、歴代校長しか知らなかったんでしょう?」
「はい」
「なら、島にある重要設備も校長が使う前提で作られている可能性が高い」
スズメが。
少しだけ目を細めた。
「やはり、あなたは優秀ですね」
伊織が一瞬止まる。
「急に褒められると怖いです」
「失礼ですね」
「奎星なら喜びそうですけど」
「蓮根君と一緒にしないでください」
「してません」
「今しました」
そんな会話をしながら。
伊織は石台の裏へ回った。
「ここ」
小さな穴。
指一本ほど。
その周囲に。
二本の線。
円。
スズメの目が止まる。
見覚えがある。
昨日。
学校。
九重院が残した折り鶴。
転移する直前。
一瞬だけ。
翼へ浮かんでいた印。
「返し……」
「何です?」
「いえ」
スズメがしゃがむ。
よく見る。
石の中央へ向かう線。
その反対側。
遠くから何かを受け取るような。
術式。
「こちらから開くものではないのかもしれません」
伊織が考える。
「向こう側から?」
「ええ」
「じゃあ待つしかない?」
「少なくとも、今のところは」
伊織は石台へ手を置いた。
「真壁さん、無事だと思います?」
スズメの表情が。
少しだけ変わる。
学校。
拘束された教師たち。
倒れた九重院。
姿がなかった。
真壁。
「御影先生は」
スズメが答える。
「生きていると考えています」
「ですよね」
「私も同じです」
伊織が小さく頷いた。
「じゃあ、そのうち来ますね」
「……随分簡単に言いますね」
「奎星といると、そういう考え方になります」
スズメが。
少しだけ笑った。
「確かに」
その瞬間。
石台が。
光った。
「…………!」
二人が同時に振り向く。
今まで完全に暗かった文字。
一つ。
白。
次。
二つ。
三つ。
線が。
石の上を走る。
伊織が一歩下がった。
「烏丸先生」
「分かっています」
スズメが杖を構える。
攻撃か。
外部からの侵入か。
分からない。
だが。
光は。
黒でも。
赤でもない。
淡い。
銀白色。
石台中央の円へ。
一つの像が浮かぶ。
ぼやけている。
人。
男。
声。
最初は。
雑音。
『――……えるか』
スズメの目が。
大きくなる。
知っている声。
『こちら――……日本魔法省……』
伊織も息を呑んだ。
「まさか」
石台の光が強くなる。
像が。
少しずつ。
鮮明になる。
濃紺の制服。
坊主頭。
髭。
疲れ切った顔。
それでも。
間違えない。
真壁征士郎。
『こちら真壁征士郎』
声が。
今度は。
はっきり届いた。
『常隠島。誰か聞こえるか』
スズメは。
一瞬。
言葉を失った。
それから。
石台へ駆け寄る。
「真壁さん!」
向こうの映像が揺れる。
『烏丸先生……?』
「はい!」
普段の彼女からは珍しいほど。
強い声だった。
「聞こえています!」
真壁が。
目を閉じる。
ほんの一瞬だけ。
安堵したように。
『……よかった』
スズメも。
小さく息を吐いた。
伊織が。
すぐに踵を返す。
「御影先生たち呼んできます!」
「お願いします!」
伊織が階段を駆け上がっていく。
その足音を聞きながら。
スズメは。
石台の向こうにいる真壁を見る。
学校と。
島。
魔法省と。
常隠島。
神代冥司によって切り離された二つの場所が。
ようやく。
一本。
繋がった。