古い訓練場へ駆け込んできた伊織の声に、全員が振り返った。
外周を終えたばかりの奎星たちは地面へ座り込み、柊木は次の訓練について御影と話していた。そこへ飛び込んできた伊織は肩で息をしながら、眼鏡を押し上げる暇すらなく叫ぶ。
「通信です!」
御影の表情が変わった。
「誰だ」
「真壁さんです!」
次の瞬間。
御影玄一郎は走っていた。
「…………え?」
奎星が目を丸くする。
速い。
いや、そんなことより。
走り方がおかしい。
普段の御影なら、何があっても必要以上に慌てることはない。生徒が危険な目に遭っていても、顔を険しくすることはあっても、動きそのものは常に最短で、無駄がない。
その御影が。
今は、明らかに急いでいた。
古い石造りの建物へ向かって、本気で走っている。
「御影先生が……走ってる……」
日向が呆然と呟く。
「いや、いつも走るでしょ」
楓が言う。
「そういう意味じゃなくて! あんな必死に走ってんの初めて見た!」
柊木は何も言わなかった。
ただ、遠ざかっていく御影の背中を見て、ほんの少しだけ目を細める。
「行きましょう」
その一言で、生徒たちも立ち上がった。
*
地下の通信室。
御影が階段を駆け下りる。
最後の数段はほとんど飛ぶように降り、開け放たれていた扉を潜った。
そこにはスズメがいた。
そして。
中央の石台。
銀白色に輝く術式の向こうへ。
男の姿が映っていた。
濃紺の魔法省制服。
坊主頭。
顎から口元を覆う髭。
見慣れた。
十二年前から、ほとんど変わらない。
ただ、少し白いものが増えた。
「…………」
御影は。
入口で足を止めた。
石台の向こう。
真壁征士郎も。
同じように黙った。
数秒。
何も言わない。
お互い。
生きている。
それを。
確かめるように。
御影の肩から、ほんの僅かに力が抜けた。
そして。
いつもの仏頂面へ戻る。
「……相変わらず疲れた顔してるな」
真壁が眉を寄せる。
『それはお前もだ、玄一郎』
「俺は元からだ」
『自覚があるなら少し直せ』
「お前に言われたくない」
真壁の口元が。
少しだけ上がった。
御影も。
笑ったわけではない。
けれど。
スズメには分かった。
安心している。
今まで見たことがないほど走ってきて。
顔を見た途端。
ほんの少しだけ。
いつもの御影玄一郎に戻った。
「御影先生!」
後ろから足音。
奎星。
日向。
楓。
岳。
澪。
冬真。
その最後に、柊木と伊織も入ってくる。
狭い部屋へ一気に人が増えた。
『おい、全員来たのか』
真壁が苦笑する。
奎星が石台の前へ割り込んだ。
「真壁さん!」
『近い』
「生きてた!」
『君たちもな』
「当たり前じゃん!」
『当たり前ではないだろう』
真壁の声は呆れていたが、その顔にははっきりと安堵があった。
一人。
二人。
三人。
楓。
岳。
伊織。
門へ入ったことを聞いていた三人もいる。
全員。
いる。
真壁は一度だけ目を閉じた。
『……よかった』
小さな声だった。
奎星が笑う。
「真壁さん、なんか顔やべえぞ。寝てる?」
『寝てない』
「やっぱり」
『君にだけは生活習慣を心配されたくない』
「なんで!?」
「蓮根」
御影の声。
「黙れ」
「はい」
一瞬で静かになる。
真壁の表情も変わった。
ここからは。
報告だった。
*
「こっちから話す」
御影が石台の前へ立つ。
「門の内部で、黒曜の環の構成員と思われる連中と交戦した」
『何人だ』
「正確には分からん。空間を分断され、三組に分けられた」
御影と柊木。
奎星とスズメ。
日向、澪、冬真。
それぞれ別の場所で敵と戦った。
御影は簡潔に説明していく。
「俺と柊木の相手は黒曜石の術式を複数使っていた。制圧した。蓮根と烏丸も一人を倒した」
『澄か』
奎星が反応する。
「知ってんの?」
『記録で名前だけは追えている。続けろ』
御影が頷く。
「朝比奈たちも突破した。その後、水無瀬、榊、岩戸を発見。全員連れて門の外へ戻った」
真壁の目が一瞬だけ柔らかくなる。
しかし。
御影の次の言葉で、また険しくなった。
「戻ったときには、全部終わっていた」
部屋が静まる。
誰も。
あの光景を忘れていない。
神代冥司。
自分の学校の正面。
倒れている九重院。
拘束されている教師たち。
そして。
自分たちへ。
敵を見る目を向けた生徒たち。
「門の中での戦闘も」
御影が低く言う。
「俺たちを足止めすること自体が目的だった可能性が高い」
真壁が頷いた。
『同意する』
「敵は強かった。だが」
御影の目が細くなる。
「あれで俺たちを倒し切るつもりだったとは思えん」
柊木も静かに頷く。
「戦闘時間を稼ぐこと。私たちを学校から隔離すること。その二つが優先されていたように感じました」
『その間に』
真壁が言う。
『神代が動いた』
御影の顔が硬くなる。
「話せ」
今度は。
真壁が報告する番だった。
『お前たちが門へ入った後、神代冥司本人がマホウトコロへ現れた』
「どこからだ」
『分からん』
御影の眉間へ皺が刻まれる。
『転移術だ。少なくとも私にはそう見えた。外周結界の破損も、通常の侵入経路を使った痕跡もない。気づいたときには校庭にいた』
「……直接か」
『ああ』
柊木の表情も険しくなる。
マホウトコロへ外部から直接転移する。
それ自体が。
異常だった。
真壁は続ける。
『早瀬、高宮、土御門の三人が先に接触した』
御影の目が動く。
『数秒だった』
「…………」
『全員やられた』
奎星たちは何も言えなかった。
あの三人は。
自分たちが日頃授業を受けている教師だ。
弱いわけがない。
それを。
数秒。
『その後、九重院校長が神代と交戦した』
御影は黙って聞く。
真壁は、見たままを話した。
九重院が。
神代と正面から戦ったこと。
盾。
拘束。
気絶呪文。
地形そのものを利用した連続攻撃。
神代を校舎正面まで吹き飛ばしたこと。
「……校長が押していた?」
澪が思わず訊く。
『少なくとも、正面からの戦闘ではな』
真壁は迷わず答えた。
『神代本人も、九重院校長を正面から倒すのは面倒だと言っていた』
御影は何も言わない。
驚いてはいなかった。
あの人なら。
そうだろう。
ただ。
続きがある。
『その直後だ』
真壁の声が重くなる。
『神代は九重院校長ではなく、地面へ魔法を撃った』
御影の目が鋭くなる。
「地面?」
『ああ』
「どんな魔法だ」
『分からん。見たことがない。赤黒い魔力だった。地面の奥へ潜っていった』
真壁は一度言葉を切った。
『それから、すべてがおかしくなった』
空気が重くなる。
『生徒たちが神代を校長と呼び始めた』
奎星の拳が握られる。
『九重院校長を敵として認識した。教師たちもだ。九重院校長は、生徒を攻撃できなかった』
誰も。
口を開かない。
『それで倒された』
御影の目が伏せられる。
ほんの一瞬だけ。
それから。
「九重院は」
『生きている』
真壁が即答する。
『少なくとも私が離脱した時点では、生きていた』
御影が短く息を吐いた。
『校長が残した折り鶴で、私はここまで来た。お前たちを常隠島へ送ったのも、あの人の仕込みだ』
御影は懐へ手を入れた。
今はもう光を失った。
白い紙。
小さな折り鶴。
それを見る。
「……相変わらずだな」
『ああ』
九重院紫苑は。
倒される直前まで。
その後のことを考えていた。
*
しばらく。
誰も言葉を発しなかった。
御影は石台の上へ浮かぶ術式を見ている。
真壁が話した内容。
神代の転移。
九重院との戦闘。
地面。
赤黒い魔力。
直後。
生徒の認識変化。
守護霊。
黒い靄。
鬼火鳥。
神代榊。
霊脈。
「…………」
御影の右手が。
ゆっくり顎へ触れた。
人差し指。
顎。
目が細くなる。
奎星が横を見る。
「御影先生?」
反応がない。
「御影先生」
何も。
「おーい」
御影の視線は石台へ向いている。
だが。
見ていない。
頭の中。
もっと別のものを見ている。
奎星が真壁の映像を見る。
「壊れた?」
『放っておけ』
「え?」
『玄一郎は考え事を始めると聞かないんだ』
真壁は慣れた声だった。
『昔からそうだ。声をかけても無駄だ』
「先生ってそんな感じだったの?」
『むしろ今より酷かった』
「おい」
御影が突然言う。
奎星がびくっとする。
「聞いてたの!?」
「うるさい」
「どっちだよ!」
御影はもう奎星を見ていなかった。
「征士郎」
『何だ』
「お前」
御影の目が鋭くなる。
「生徒を戻すときに守護霊を使ったな」
真壁が少し止まる。
『門へ引き寄せられていたときか?』
「ああ」
『使った。私の狼と、蓮根君の鴉だ』
奎星も思い出す。
星迎祭。
校庭。
真壁の巨大なニホンオオカミ。
その後ろを飛んだ。
自分の銀の鴉。
守護霊が近づいた生徒から。
黒い靄が抜けた。
御影の指が。
また顎へ触れる。
「……元に戻す」
真壁が眉を寄せた。
『何?』
「生徒を元に戻す」
『玄一郎』
「神代が地面へ撃った」
御影の声が、少しずつ速くなる。
「地面の下へ魔法が流れた。直後に、校内の生徒全体へ認識異常が出た」
真壁の顔が変わる。
御影は続けた。
「マホウトコロの地面の下には霊脈がある」
奎星。
岳。
伊織。
楓。
全員が。
夏休みの出来事へ繋がる。
鬼火鳥。
青白い炎。
神代榊が示した方角。
「鬼火鳥は霊脈を辿って移動する」
御影が言う。
「蓮根家も昔から、その流れを知っていた」
伊織がすぐに理解した。
「神代は霊脈を利用した?」
「可能性は高い」
「学校全体へ?」
「ああ」
御影は地面を見る。
ここではない。
遠く離れた。
マホウトコロの地面を。
「何を流したかまでは分からん。黒曜石に使っていた魔力か、古代魔術を組み込んだ術式か。だが」
目が上がる。
「神代は霊脈を使って、生徒全体へ何かを流した」
真壁の声が低くなる。
『……だとしたら』
御影が頷く。
「逆もできるかもしれん」
「逆?」
奎星が訊く。
御影が呟く。
「元に戻す……」
『何を考えている』
「守護霊だ」
真壁が。
黙った。
御影の目が、石台の向こうの古い友人を捉える。
「守護霊の魔法は、あの黒い靄に効いた」
『ああ』
「生徒一人ずつへ使えば、解除できる可能性がある」
『だが数が多すぎる』
「だから一人ずつやらない」
真壁の目が。
大きくなる。
御影が言った。
「霊脈に流す」
沈黙。
奎星たちは。
まだ意味を理解できていない。
だが。
真壁。
スズメ。
柊木。
三人の大人は。
すぐに分かった。
『……まさか』
真壁が呟く。
御影は止めない。
「神代が霊脈を使って術式を学校全体へ走らせたなら、同じ経路を使う」
『守護霊を』
「ああ」
『マホウトコロ全体へ?』
「可能性にすぎん」
御影は断言しなかった。
「神代の術式がどういうものか分からん。守護霊だけで完全に解除できる保証もない」
『だが』
真壁の顔が。
明らかに変わっていく。
考えている。
組み立てている。
『可能性はある』
「だろ」
『門へ引き寄せられていた生徒へは効いた。同じ黒曜由来の精神干渉なら』
「ああ」
『……みんなが戻る可能性はある』
奎星の顔が明るくなる。
「じゃあやろうぜ!」
真壁が即座に言った。
『簡単に言うな』
「え?」
『マホウトコロの霊脈だぞ』
真壁の声が重い。
『南硫黄島一帯を通り、学校の結界や古い術式にまで影響している規模だ。そこへ守護霊を流し込んで、全域を走らせるなんて』
一拍。
『普通の魔法量じゃ無理だぞ』
「…………」
普通の。
魔法量。
沈黙。
真壁。
御影。
柊木。
スズメ。
伊織。
冬真。
楓。
澪。
日向。
岳。
一人。
また一人。
同じ方向を見る。
最後には。
全員が。
蓮根奎星を見ていた。
「…………」
奎星は。
左右を見る。
後ろを見る。
もう一度。
全員を見る。
「……なに?」
誰も答えない。
奎星が自分を指差す。
「俺?」
「お前だ」
御影が言う。
「何が!?」
「霊脈へ守護霊を流す」
「待って待って待って、話飛んだ!」
「飛んでない」
「俺まだ理解してない!」
「理解しろ」
「今!?」
御影はスズメを見た。
「烏丸」
「はい」
「蓮根の守護霊術をもっと磨かせろ」
奎星が止まる。
「え」
「この島にも、マホウトコロほどの規模ではないが霊脈はあるはずだ」
スズメも石台へ刻まれた古代文字を見る。
「訓練に利用するのですね」
「ああ。小規模で試す。守護霊を出すだけじゃない。流れへ乗せ、形を崩さず、可能な限り遠くまで走らせる」
「分かりました」
即答だった。
奎星が二人を見る。
「ちょっと待って」
スズメの表情は真剣だった。
けれど。
別の懸念が浮かぶ。
「御影先生」
「何だ」
「それは、かなり危険です」
「ああ」
「神代の術式が霊脈そのものへ残っているなら」
スズメは奎星を見る。
「こちらから守護霊を流すということは、向こうとも繋がることになります」
奎星の笑顔が消える。
「つまり?」
「神代の術式が逆流する可能性があります」
日向が眉を寄せた。
「逆流?」
「蓮根君の精神へ」
沈黙。
御影は驚かなかった。
最初から。
そこまで考えていた。
「ああ」
奎星が御影を見る。
「『ああ』じゃないんだけど」
「精神へ入ってくる可能性は高い」
「何それ怖っ!」
御影は平然としている。
「だから閉心術も覚えろ」
「…………へ?」
「守護霊を使いながら、自分の精神を閉じる」
奎星の口が開く。
「同時に?」
「ああ」
「二個?」
「ああ」
「俺が?」
「ああ」
「いつまでに?」
「奪還までに」
「無茶じゃない!?」
御影は何も言わない。
スズメが。
静かに頷いた。
「分かりました」
奎星が勢いよく振り向く。
「分かったの!?」
「覚えさせます」
「なんなの!? それ!」
「必要です」
「スズメちゃんまで!」
「烏丸先生です」
「今そこ!?」
真壁が石台の向こうで額を押さえていた。
『……大丈夫なのか』
御影が答える。
「やらせる」
『質問への答えになってない』
「やる」
「俺の意思は!?」
御影が見る。
「嫌か」
奎星が止まる。
学校。
神代。
九重院。
生徒たち。
友達。
数秒。
「…………やる」
「なら決まりだ」
「聞く意味あった!?」
「ある」
「どこに!?」
少しだけ。
部屋の緊張が緩んだ。
だが。
やることは。
決まった。
*
真壁が記録用の紙へ何かを書き込む。
『こちらも動く』
全員の目が石台へ戻る。
『信用できる人間を集める』
御影が頷く。
『禍祓官だ。現役、退役は問わん』
「現役は慎重に選べ」
『分かっている』
魔法省内部に。
黒曜の環へ情報を流している人間がいる可能性。
一人なのか。
複数なのか。
役職は。
部署は。
何も分からない。
『昔一緒に仕事をした人間を中心に当たる。組織ではなく、一人ずつ私が判断する』
柊木が一歩前へ出た。
「白峰にもいます」
真壁が彼女を見る。
「協力してくれる教員。卒業生にも、実戦経験のある魔法使いがいます」
柊木は御影へ顔を向けた。
「御影先生。以前お渡ししたものを持っていますね?」
御影は懐へ手を入れる。
取り出した。
掌ほどの薄い金属板。
白峰魔法学校の紋章。
細かな魔法陣。
奎星が目を見開く。
「あ、それ」
澪も気づく。
「火映しの主座標」
御影が頷いた。
「持ってる」
「この場所から返し標を経由すれば、火映しの術式へ接続できるかもしれません」
伊織が石台へ近づく。
「理屈としてはできると思います。この石台、外部術式との同期を前提に作られてる」
「なら白峰へ連絡を取ります」
柊木の声が静かに強くなる。
「こちらだけで戦う必要はありません」
御影が短く頷いた。
「頼む」
*
それから。
真壁が。
少しだけ黙った。
さっきまでとは違う沈黙だった。
何かを。
言おうとしている。
スズメが気づく。
「真壁さん?」
『……それから』
真壁は一度。
全員を見る。
『みんな、落ち着いて聞いてくれ』
御影の目が僅かに動いた。
嫌な予感。
ではない。
もっと。
別のもの。
『今話した通り、魔法省はもはや全面的には信用できない』
誰も否定しない。
『だから私は、組織の外にいる人間にも協力を求めている』
一拍。
『今』
真壁が言った。
『斎賀玄弥に協力してもらっている』
空気が。
変わった。
「…………は?」
岳。
最初に声を出した。
その顔から。
一瞬で血の気が引き。
次に。
怒りが浮かんだ。
「斎賀だと!?」
奎星も。
日向も。
楓も。
伊織も。
表情が変わる。
夏休み。
山。
鬼火鳥。
黒曜の狩人。
そして。
御影と戦った男。
スズメの顔から。
表情が消えた。
けれど。
目だけが。
冷たくなる。
斎賀玄弥。
彼の率いた黒曜の狩人たちは、鬼火鳥を傷つけた。
捕らえた。
尾羽を奪った。
奎星を狙った。
自分たちへ魔法を向けた。
そして。
御影玄一郎を。
本気で殺しかねない戦いへ引きずり込んだ。
許せるか。
そんな簡単な話ではない。
御影も。
黙っていた。
「…………玄弥が」
小さな声。
真壁だけが。
そこに混ざった感情を知っている。
怒り。
困惑。
痛み。
そして。
ほんの僅かに。
隠しきれないもの。
安堵。
十二年前。
帰ってこなかった。
探しても見つからなかった。
もう一度。
敵として会った。
その男が。
今。
少なくとも。
こちら側へ戻ろうとしている。
御影にとって。
簡単に喜べることではない。
それでも。
嬉しくないはずがなかった。
岳が一歩前へ出た。
「ふざけんな!」
石室へ声が響く。
「岳」
伊織が見る。
だが。
今度は止めなかった。
岳の拳は。
震えている。
「あんな奴、協力させんのかよ!」
『岩戸君』
「あいつらが鬼火鳥に何したか見ただろ!」
真壁は答えない。
岳は止まらない。
「足枷つけて! 羽むしって! 傷つけて!」
夏の山。
動けない鬼火鳥。
短く切られた尾羽。
脚につけられた違法な拘束具。
岳は。
誰より近くで。
あの鳥たちを世話した。
「奎星だって狙われた!」
奎星が岳を見る。
「岳」
「俺は許せねえ!」
「岳!」
奎星が。
肩を掴んだ。
岳が振り払おうとする。
だが。
奎星は離さなかった。
「離せ!」
「落ち着けって!」
「お前は平気なのかよ!」
「平気じゃねえよ!」
声がぶつかった。
岳が止まる。
奎星も。
笑っていない。
「あいつらに殺されかけたんだぞ!」
「分かってる!」
「じゃあ!」
「でも!」
奎星の手に力が入る。
「学校取り戻すんだぞ!」
全員が。
見る。
「神代と真正面から戦うんだ!」
奎星の声は。
大きかった。
「味方は一人だって多いほうがいいだろ!」
「…………奎星」
「俺だって忘れてねえよ」
奎星の声が。
少しだけ低くなる。
「夏休みのことも。鬼火鳥のことも。御影先生とあいつが戦ったことも」
御影の目が。
奎星へ向く。
「許したわけじゃない」
その言葉だけは。
はっきり言った。
「でも」
奎星は石台を見る。
真壁。
「真壁さんが」
一拍。
「信じるって決めたんだろ」
真壁の瞳が。
僅かに揺れる。
奎星は続ける。
「だったら」
岳を見る。
「俺らは真壁さんを信じよう」
「…………」
岳は何も言わない。
奎星の手。
自分の肩。
石台の向こう。
真壁。
長い沈黙。
真壁は。
その言葉を聞きながら。
別の病室を思い出していた。
一学期。
第零書庫事件のあと。
まだ傷だらけだった少年。
――でも、信じるって決めたら信じたいじゃん。
あのとき。
自分は。
もう少し人を疑えと言った。
久我に裏切られたばかりだったから。
簡単に人を信じるなと。
それでも。
奎星は真壁を信じた。
御影が信じる人間だから。
実際に話したから。
それだけで。
そして今。
同じ少年が。
真壁自身へ。
その言葉を返している。
『……全く』
真壁が小さく呟く。
奎星が見る。
「何?」
『いや』
真壁は。
ほんの少し笑った。
『何でもない』
全く。
この子は。
十二年前に失った友人を信じようと決めた自分を。
今度は。
十七歳の少年に肯定されるとは思わなかった。
岳は。
長く息を吐いた。
拳は。
まだ握られている。
怒りも。
消えていない。
「……俺は」
低い声。
「許さねえからな」
奎星が頷く。
「うん」
「協力するからって、やったこと消えねえからな」
「うん」
「鬼火鳥に謝ったって足りねえ」
「それは本人に言え」
「言う」
「おう」
岳は奎星の手を振り払った。
今度は。
怒りに任せた動きではなかった。
スズメも。
何も言わない。
許してはいない。
自分も。
同じだ。
ただ。
今。
戦う相手は。
別にいる。
御影が石台を見る。
「征士郎」
『何だ』
「玄弥は」
一度。
言葉が止まる。
「……協力すると言ったのか」
『ああ』
真壁は迷わず答えた。
『自分からな』
「そうか」
それだけ。
御影は。
それ以上何も言わなかった。
けれど。
拳が。
一度だけ。
小さく握られた。
*
真壁は机へ一枚の紙を広げた。
『では』
全員の表情が変わる。
『現時点での作戦を共有する』
奎星も。
岳も。
切り替えた。
『もちろん、味方を必要数集められた場合を前提とする。霊脈の構造もまだ調べる必要がある。神代の術式が本当に守護霊で解除できるかも確定ではない』
真壁は最初から。
不確定なものを。
不確定なまま話す。
『そのうえで』
紙の中央へ。
マホウトコロ。
『第一目標。学校への侵入』
その周囲。
黒曜の環。
支配された生徒。
『第二目標。神代の術式を受けている生徒の解放』
そして。
中心。
『蓮根君』
「はい」
『君がマホウトコロの霊脈へ守護霊を流す』
奎星が。
今度はふざけず頷いた。
『その間』
線が一本。
奎星の周囲へ。
『全員で君を守る』
日向。
楓。
岳。
伊織。
澪。
冬真。
全員が。
奎星を見る。
「全員って」
奎星が少し笑う。
「なんか俺、姫みたいじゃん」
「黙って守られなさい」
楓が即答する。
「嫌だなその言い方!」
「実際そうでしょう」
「俺も戦いたい!」
冬真が笑う。
「守護霊と閉心術を同時にやりながら?」
「…………」
「さらに決闘?」
「…………無理かも」
「だろうね」
「冬真先輩、圧が優しい!」
御影が紙を見る。
「問題は護衛だ」
真壁も頷く。
『ああ』
「黒曜の環の構成員はいる」
門の中。
御影。
柊木。
奎星。
スズメ。
それぞれが戦った相手。
学生の強さではない。
「学生を主戦力にするな」
御影がはっきり言う。
奎星たちも。
反論しなかった。
ここ数日。
身に染みている。
自分たちは。
強くなっている。
冬真。
楓。
澪。
学生の中では抜けている。
奎星も。
異常な速さで成長している。
それでも。
御影や柊木。
真壁。
そして斎賀。
十年以上。
二十年以上。
本物の戦場を生きてきた大人たちとは。
まだ違う。
「黒曜の環の相手は禍祓官が必要だ」
御影が言う。
「現役、退役。そっちを主軸にする」
真壁が頷く。
『蓮根君たちの仕事は、神代の術を解除することだ』
「勘違いするな」
御影が生徒たちを見る。
「お前たちに敵の主力を倒せと言っているわけじゃない」
奎星が口を尖らせる。
「分かってる」
「ならいい」
『そして』
真壁が。
紙の一番上を見る。
『最大の問題』
言わなくても。
全員分かっている。
神代冥司。
真壁が名前を書く。
部屋の空気が。
また重くなる。
『仮に生徒全員を元へ戻せたとしても』
御影が言う。
「神代を倒せるわけじゃない」
『ああ』
「むしろ術式を潰せば、確実に蓮根を狙う」
奎星の顔から笑みが消える。
神代冥司。
九重院と真正面から渡り合った男。
教師三人を。
数秒で無力化した。
御影が腕を組む。
「俺一人でも厳しい」
奎星が御影を見る。
御影玄一郎が。
自分からそう言う。
それだけで。
相手がどれほど異常か分かる。
柊木が。
静かに口を開いた。
「ですが」
全員が見る。
「それを倒せるのが誰なのか」
柊木は。
御影。
そして。
石台の向こうの真壁。
二人を見る。
「お二人とも、もう分かっているのではないですか?」
沈黙。
御影の目が。
真壁を見る。
真壁も。
御影を見る。
二人。
同じものを。
考えていた。
十二年前。
どんな危険な任務でも。
三人で出た。
一人が前へ出すぎれば。
一人が戻す。
一人が慎重になりすぎれば。
もう一人が先へ行く。
誰かが失敗すれば。
残り二人が埋める。
実力だけなら。
近かった。
ずっと。
三人で戦った。
そして。
三人で帰った。
その形は。
十二年前に。
壊れた。
真壁が。
ゆっくり口を開く。
『……ああ』
御影は何も言わない。
真壁の目が。
まっすぐ御影を捉える。
『私と』
一拍。
『玄一郎と』
もう一拍。
『玄弥』
その名前だけ。
少し重い。
『斎賀玄弥』
真壁征士郎が。
静かに言った。
『三人で神代と戦う』
誰も。
声を出さなかった。
御影は。
石台の向こうにいる古い友人を見る。
「…………」
十二年前。
最後の任務。
人質。
崩れる施設。
一人残った斎賀。
その後。
何度も。
夢に見た。
三人でもう一度戦う日を。
そんなものは。
二度と来ないと思っていた。
実際。
斎賀は敵として戻った。
御影自身が。
その男を倒した。
拘束した。
もう。
昔へは戻れない。
それでも。
「玄一郎」
柊木が呼ぶ。
御影は目を閉じる。
ほんの一瞬。
そして。
開く。
「……異論はない」
短い言葉だった。
だが。
真壁には。
十分だった。
*
奎星は。
御影を見る。
真壁を見る。
また御影を見る。
それから。
隣のスズメへ身体を寄せた。
「スズメちゃん」
「何ですか」
奎星は声を落とす。
「やっぱ三人って昔すごかったの?」
「…………」
スズメが奎星を見る。
「今、それを訊きます?」
「気になるじゃん」
「空気を読んでください」
「小声じゃん」
スズメは小さくため息をつく。
だが。
答えた。
「凄かったですよ」
奎星の目が光る。
「どんくらい?」
「当時の日本魔法界で、御影玄一郎、真壁征士郎、斎賀玄弥の名を知らない者は、ほとんどいませんでした」
「マジ?」
「特に禍祓官や実戦に関わる魔法使いなら、なおさらです」
スズメは石台の向こうの真壁を見る。
そして。
御影を見る。
「三人とも、単独でも非常に優秀でした」
十二年前。
三人は。
最も多く。
最も危険な現場へ出ていた。
「ですが」
スズメの声が。
少しだけ柔らかくなる。
「三人でいるときが、一番強かった」
奎星が黙る。
「斎賀さんが前へ出る。御影先生がその穴を埋める。御影先生が追い込みすぎれば真壁さんが止める。真壁さんが慎重になりすぎれば斎賀さんが先へ出る」
「…………」
「そういう三人だったそうです」
奎星が。
小さく呟く。
「すげえ……」
スズメは少し笑う。
「当時は」
一拍。
「《最強の三人》と呼ぶ人もいました」
奎星の顔が。
完全に少年のものへ戻った。
「うわ、カッケえ……」
「蓮根」
御影が言う。
「聞こえてるぞ」
「すみません」
「余計なことを教えるな、烏丸」
「事実です」
「おい」
真壁が石台の向こうで。
少しだけ笑っていた。
『懐かしい呼び方だな』
「お前まで乗るな」
『私は何も言っていない』
「顔が言ってる」
『お前、そういうの分かるようになったんだな』
「切るぞ」
『待て』
奎星が笑う。
日向も。
楓も。
少しだけ。
肩の力が抜ける。
これから。
神代冥司と戦う。
その事実は。
変わらない。
けれど。
戦えるかもしれない。
初めて。
そんな形が見え始めていた。
*
「じゃあさ」
日向が手を上げる。
全員が見る。
「これ、作戦名とかないの?」
沈黙。
御影が眉を寄せる。
「要るか?」
「要るでしょ!」
「要らん」
「絶対いる!」
奎星が乗る。
「そういうの大事じゃん!」
「何が大事なんだ」
「士気!」
「お前が今覚えた言葉だろ」
「違う!」
楓が呆れた顔をする。
「どうせ二人とも変なのつけるんだからやめなさい」
岳が腕を組む。
「学校取り返す作戦でいいだろ」
伊織が即座に返す。
「そのまますぎる」
「じゃ奪還作戦」
「変わってない」
澪が少し考える。
「マホウトコロ奪還作戦」
「岳から一文字しか進化してないよ」
冬真が笑う。
柊木まで少し楽しそうに見ている。
真壁は困惑していた。
『今決める必要があるのか?』
「ある!」
奎星と日向が同時に答える。
御影が深いため息をついた。
「勝手にしろ」
「よし!」
許可ではない。
放棄だった。
それでも。
奎星たちには十分だった。
「黒曜ぶっ潰し作戦」
日向。
「却下」
楓。
「なんで!?」
「頭が悪そう」
「じゃあ楓考えろよ!」
「そうね……」
楓も少し考える。
「帰還作戦?」
「普通」
澪。
「じゃあ反攻作戦」
伊織。
「役所っぽい」
奎星。
「お前が言う?」
「星迎祭から始まったんだよな」
冬真が。
何気なく言った。
そこで。
奎星が止まった。
星迎祭。
楽しかった。
三門巡り。
クィディッチ。
屋台。
白峰の生徒たち。
笑って。
競って。
次の日には。
全部。
奪われた。
星を迎える祭り。
自分たちは。
そこから。
学校を追われた。
奎星が顔を上げる。
「……星帰り」
「え?」
日向が見る。
奎星は。
自分でも確かめるように言う。
「星帰り作戦」
伊織が眼鏡を押し上げる。
「どういう意味?」
「いや」
奎星が少し笑う。
「星迎祭で、学校取られたじゃん」
「うん」
「だったら」
石台。
その向こう。
マホウトコロ。
今は。
神代冥司がいる場所。
「今度は俺らが帰る」
誰も喋らない。
奎星は言った。
「学校に」
一拍。
「星帰り作戦」
日向の口元が上がる。
「いいじゃん」
岳も頷く。
「俺は好きだぞ」
楓は少し考える。
「……まあ」
「何だよ」
「あなたが考えたにしては悪くない」
「何その言い方!」
澪も笑う。
「私は賛成」
冬真が手を上げる。
「俺も」
伊織も。
「異論なし」
全員。
決まる。
奎星がスズメを見る。
「スズメちゃんは?」
「私は教師です」
「教師も投票!」
「……別に反対はしません」
「賛成って言えよ!」
柊木が小さく笑う。
「では」
真壁へ向き直る。
「星帰り作戦、ということで」
『本当に正式名称にするのか……』
真壁が額を押さえる。
御影は。
一言。
「好きにしろ」
奎星が笑った。
「決まり!」
*
それから。
さらに細かな確認を続けた。
真壁は。
信頼できる禍祓官を集める。
現役だけではない。
既に魔法省を離れた者。
御影や真壁と過去に現場へ出た者。
黒曜の環を追ってきた者。
一人ずつ。
確かめる。
柊木は白峰へ接触する。
主座標。
火映し。
常隠島の返し標。
伊織とスズメが接続術式を解析する。
御影と柊木は。
引き続き生徒を鍛える。
そして。
奎星。
守護霊術。
霊脈。
閉心術。
「…………」
話せば話すほど。
奎星の課題だけ。
異常に増えていく。
「俺さ」
「何だ」
「やること多くない?」
「多い」
御影は認めた。
「普通分散しない?」
「できるならする」
「俺しかできない?」
「ああ」
即答。
「…………」
奎星は天井を見る。
「マジかぁ……」
スズメが隣で言う。
「今日から始めます」
「今日!?」
「時間がありません」
「さっき訓練したんだけど!?」
「守護霊は別です」
「別腹みたいに言うな!」
真壁が笑った。
『元気そうで何よりだ』
「真壁さん助けて!」
『無理だ』
「裏切った!」
『信じろと言った直後にそれか』
「信じてるけど助けて!」
真壁の表情が。
ほんの少し柔らかくなる。
『蓮根君』
「ん?」
『頼んだぞ』
奎星が。
止まる。
ふざけた顔が。
消える。
『学校のみんなを』
真壁が言う。
『連れ戻してくれ』
奎星は。
神代榊を握った。
一学期。
何も知らなかった。
魔法を覚えて。
調子に乗って。
失敗した。
夏。
鬼火鳥を追った。
黒曜の環と戦った。
死にかけた。
秋。
星迎祭。
門。
学校を奪われた。
そして今。
自分にしかできないことが。
ある。
「……おう」
奎星が笑う。
「任せろ」
御影が横目で見る。
「調子に乗るな」
「今の流れで!?」
「失敗したら全員戻らん」
「急に重くするなよ!」
「事実だ」
「分かってるって!」
笑いが。
小さな石室へ響く。
こんな状況なのに。
誰かが。
笑った。
真壁は。
その光景を。
石台の向こうから見ていた。
学校は奪われた。
校長は倒れた。
教師も。
生徒も。
神代の手にある。
魔法省の中にすら。
敵がいるかもしれない。
斎賀玄弥は。
未だ拘束された犯罪者。
常隠島にいる者たちは。
外へ自由に出ることすらできない。
神代冥司の作戦は。
完璧だった。
門を作った。
戦力を分断した。
御影玄一郎を。
柊木志乃を。
烏丸スズメを。
蓮根奎星を。
学校から消した。
残された九重院紫苑へは。
正面から挑まなかった。
彼女が最も攻撃できないもの。
生徒を使った。
学校を奪った。
誰にも。
反撃させないはずだった。
完璧だった。
ただ。
一つ。
いや。
いくつか。
神代冥司が。
まだ知らないことがある。
黒曜の門へ入れた七人は。
帰ってきた。
奪われた三人も。
取り戻した。
九重院紫苑は。
倒れる最後の瞬間まで。
次の一手を残した。
魔法省には。
まだ。
真壁征士郎がいる。
そして。
十二年前。
神代の側へ消えた男。
斎賀玄弥が。
もう一度。
御影玄一郎と真壁征士郎の隣へ戻ろうとしている。
《最強の三人》。
十二年前に壊れたその形が。
今度は。
神代冥司を倒すために。
もう一度。
繋がろうとしている。
そのうえ。
神代が利用し続けてきた。
鬼火鳥。
霊脈。
古代魔術。
神代榊。
それらの中心には。
一人の少年がいる。
魔法を知って。
まだ数か月。
大人たちには。
遠く及ばない。
経験も。
技術も。
何も足りない。
それでも。
誰にも真似できないほどの魔力を持ち。
誰にも真似できない速さで学び。
そして。
何度傷ついても。
誰かを信じることを。
まだやめていない少年。
蓮根奎星。
神代が。
何年もかけて積み上げた計画を。
今。
その計画の中で生き残った者たちが。
一つずつ。
ひっくり返そうとしている。
御影が石台の前へ立った。
真壁を見る。
奎星たちを見る。
柊木。
スズメ。
そして。
生徒たち。
「準備するぞ」
短い声。
全員が。
御影を見る。
「帰る」
御影玄一郎は言った。
「マホウトコロへ」
奎星が。
神代榊を握る。
日向。
楓。
岳。
伊織。
澪。
冬真。
全員。
同じ顔になる。
「おう!」
石台の向こう。
真壁も。
静かに頷いた。
十二年前。
帰れなかった三人。
星迎祭の日。
帰る場所を奪われた生徒たち。
今度は。
違う。
今度は。
全員で。
帰る。
奪われた学校へ。
自分たちの場所へ。
そして。
黒曜の王を。
その玉座から引きずり下ろすために。
反撃の作戦には。
もう。
名前があった。
――《星帰り作戦》。
この日。
常隠島の誰にも知られていない地下室で。
マホウトコロ奪還作戦が。
動き始めた。