マホウトコロ   作:西野圭吾

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第6話 初めての昼休み

 

昼休みを知らせる鐘が鳴った瞬間、岩戸岳は立ち上がった。

 

それは、教師が「では今日はここまで」と言い終えるより早かった。

 

大柄な身体が勢いよく椅子を押し退け、床板がごとりと鳴る。教科書を閉じることすら後回しにしたまま、岳は真剣な眼差しで教室の時計を見上げた。

 

「行くぞ」

 

奎星はまだノートを鞄へ押し込んでいる途中だった。

 

「どこに?」

 

「戦場」

 

「怖いんだけど」

 

前の席で水無瀬楓が溜息をついた。

 

「大食堂よ。岳にとってはね」

 

「今日は何だっけ?」

 

朝比奈日向も立ち上がり、机の中を雑に漁り始める。

 

榊伊織は眼鏡の位置を直しながら、落ち着き払った声で答えた。

 

「午前中に献立板を見たけど、鶏の照り焼き、鯖の味噌煮、豚汁、出汁巻き卵。それと季節の天ぷら」

 

岳の目つきが変わった。

 

「天ぷら」

 

「反応した」

 

奎星が笑う。

 

「お前、天ぷら好きなの?」

 

「好きだ」

 

「俺、知り合いに天ぷらいるよ」

 

四人が止まった。

 

「……何?」

 

楓が訊いた。

 

「小妖。天ぷらって名前つけた」

 

「なんで?」

 

「俺が蓮根だから」

 

「説明になってない」

 

伊織が冷静に言った。

 

「大丈夫。その話すると長いから歩きながら話そ」

 

「待て蓮根」

 

岳の声だけが妙に切迫していた。

 

「今日は天ぷらが出るんだぞ」

 

「だから?」

 

「十五分出遅れたら海老が消える」

 

「嘘だろ」

 

「去年、十一分で消えた」

 

日向が肩をすくめる。

 

「犯人の一人がお前だったけどな」

 

「食う者が悪いんじゃない。遅い者が悪い」

 

「食堂で弱肉強食を説くな」

 

五人は笑いながら教室を出た。

 

奎星にとって、マホウトコロの昼休みは初めてだった。

 

昨日までの彼は、森の端にある六畳の部屋でスズメと向かい合い、小妖が運んできた昼食を食べていた。窓の向こうを歩く生徒たちの姿を眺めながら、早くあちら側へ行きたいと思っていた。

 

それが今日は、自分も群れの中にいる。

 

廊下には同じように大食堂へ向かう生徒たちが溢れていた。深さの違う赤い制服が朝の光とは違う柔らかな昼の陽射しを受け、長い回廊を彩っている。下級課程の小さな生徒が列を作って歩き、その横を箒を抱えた上級生が追い越していく。頭上では伝書用の折り鶴が飛び交い、どこからか教師の「廊下を走らない!」という声が聞こえた。

 

その直後、岳が走った。

 

「海老!」

 

「お前だよ怒られてんの!」

 

奎星が叫ぶ。

 

大食堂は、奎星が想像していたより遥かに広かった。

 

羊脂玉の柱が幾列にも並び、高い天井には巨大な木組みが渡されている。壁の一部は大きく開かれ、その向こうに青い海と南硫黄島の山肌が見えた。海から吹き上げる風が食堂の中を抜け、天井から吊るされた無数の風鈴をかすかに鳴らしている。

 

長い卓が何十列も並び、下級、中級、上級の生徒たちが入り混じって食事をしていた。

 

箸が皿へ触れる音。

 

椀の蓋を取る音。

 

笑い声。

 

呼びかけ。

 

千人近い人間が一斉に食事をしているはずなのに、ただ騒がしいだけではない。音の一つ一つが大きな建物の中で混じり合い、巨大な生き物の呼吸のように響いていた。

 

そして、その奥。

 

料理がずらりと並んでいる。

 

「うおお……」

 

奎星は立ち止まった。

 

岳も立ち止まった。

 

二人は同時に呟く。

 

「天国じゃん」

 

楓が二人の背中を見る。

 

「すごく嫌なところで意気投合したわね」

 

食事は自分で取る形式だった。

 

白米や炊き込みご飯、何種類もの汁物、煮魚、焼き魚、肉料理、野菜の小鉢。その日によって献立は変わり、食堂で働く料理人と小妖たちが絶え間なく補充しているらしい。

 

岳は恐ろしい速度で盆を完成させていった。

 

白米、大盛り。

 

豚汁。

 

鶏の照り焼き。

 

鯖の味噌煮。

 

出汁巻き卵。

 

天ぷら。

 

さらに白米。

 

奎星は横から覗き込んだ。

 

「お前、一人で宴会すんの?」

 

「成長期だから」

 

「俺らと同い年だろ」

 

「俺の成長はまだ終わってない」

 

伊織が後ろから言う。

 

「主に横方向へ」

 

「喧嘩売ってんのか伊織」

 

「事実確認」

 

「お前今日メシ半分もらうからな」

 

「恐喝まで始めた」

 

五人は海の見える一角に席を取った。

 

奎星が腰を下ろすと、目の前には大きく切り取られた青空があった。その下には海がどこまでも続き、海鳥が何羽か風に乗っている。

 

こんなところで昼飯を食べるという事実だけでも、東京の高校とは何もかも違っていた。

 

「で」

 

日向が出汁巻き卵を箸でつまみながら、奎星を見る。

 

「聞きたいことがある」

 

「何?」

 

「一般人の学校って、本当に魔法一切使わないの?」

 

奎星は箸を止めた。

 

「当たり前だろ」

 

「全部?」

 

「全部」

 

楓まで身を乗り出した。

 

「じゃあ黒板って、先生が手で書くの?」

 

「手で書くよ」

 

「全部?」

 

「全部だって」

 

岳が驚いた顔になる。

 

「消すときは?」

 

「黒板消し」

 

「自分で?」

 

「自分で」

 

四人が顔を見合わせた。

 

奎星は眉を寄せる。

 

「いや、何その反応。普通だから」

 

伊織が眼鏡越しに興味深そうな目を向ける。

 

「授業資料も浮遊させたりしない?」

 

「しない」

 

「教科書が自動で頁をめくったり」

 

「しない」

 

「筆記具が口述筆記をしてくれたり」

 

「しない」

 

「不便だな」

 

「お前らが便利すぎんだよ!」

 

奎星からすれば、魔法学校のほうが奇妙なことだらけなのだ。

 

ところが四人にとっては逆だった。

 

楓は普通の高校の制服について訊いた。

 

岳は購買のパンについて訊いた。

 

伊織はスマートフォンを授業へ持ち込めるのか訊いた。

 

日向に至っては、

 

「教室に箒置き場ないの?」

 

という質問から始めた。

 

「ないよ。何のためにあんだよ」

 

「じゃあ移動授業どうすんの?」

 

「歩く」

 

「全部!?」

 

「なんでそんな驚くんだよ!」

 

「校舎の端から端まで?」

 

「歩くよ!」

 

日向は感心したように頷いた。

 

「一般人、脚強いな」

 

「そういう話じゃねえ」

 

楓が興味深そうに尋ねる。

 

「部活動は?」

 

「あるよ。野球とかサッカーとかバスケとか」

 

「箒を使わないスポーツ?」

 

「基本使わねえよ!」

 

「地面だけで?」

 

「地面に対する偏見やめろ!」

 

岳が口いっぱいに鯖を頬張ったまま、

 

「空飛べねえのに楽しいの?」

 

と訊いた。

 

「お前ら一般社会舐めすぎだろ!」

 

奎星の声に、周囲の何人かが振り返った。

 

それでも五人は笑い続けた。

 

奎星は不思議な気分だった。

 

昨日まで、自分だけが何も知らないと思っていた。

 

魔法界の常識を知らない。

 

呪文を知らない。

 

歴史を知らない。

 

交通手段も、役所も、スポーツも、食事の決まりも知らない。

 

けれど、彼らにも知らない世界がある。

 

自分にとって当たり前だったものが、四人には珍しい。

 

それだけのことで、自分が少しだけこの場所にいていいような気がした。

 

日向が箸を奎星へ向けた。

 

「そういや、朝ちゃんと自己紹介してなかったな」

 

「しただろ」

 

「名前だけじゃん」

 

「あー、確かに」

 

奎星は四人を順番に指差した。

 

「じゃあ改めて。優等生の楓」

 

楓が頷く。

 

「大食いの岳」

 

岳が飯を食いながら親指を立てる。

 

「眼鏡の伊織」

 

伊織が眉を上げた。

 

「それは自己紹介というより身体的特徴だけど」

 

「で、お調子者の日向」

 

「お調子者は、お前もだろ奎星」

 

四人が吹き出した。

 

奎星だけが納得できない顔をする。

 

「俺は違うだろ」

 

「どの辺が?」

 

楓が訊いた。

 

「俺は……自由人」

 

「言い換えただけ」

 

「陽気な好青年」

 

「自分で言うな」

 

日向が奎星の肩へ腕を回す。

 

「お前、俺と同じ匂いするもん」

 

「やめろ。俺はお前より品がある」

 

「朝、担任の前で『スズメちゃん』って叫んだ奴が?」

 

「仲いいからいいんだよ」

 

その一言に。

 

四人の表情が変わった。

 

まず楓。

 

「待って」

 

日向。

 

「そう、それ!」

 

伊織。

 

「朝から気になってた」

 

岳だけは天ぷらを食べていた。

 

「何?」

 

奎星が訊く。

 

日向が身を乗り出す。

 

「お前、烏丸先生のこと本当に『スズメちゃん』って呼んでんの?」

 

「そうだけど」

 

「本人の前で?」

 

「うん」

 

「……生きてる」

 

「見れば分かるだろ」

 

楓が少し声を潜めた。

 

「蓮根君、この二週間、烏丸先生から個別指導を受けてたのよね?」

 

「奎星でいいよ」

 

「あ、じゃあ奎星。この二週間、ほとんどずっと?」

 

「うん。朝来て、飯食って、座学やって、魔法やって。夜もたまに一緒に飯食ってた」

 

日向の顔から笑みが消えた。

 

「……怖くない?」

 

奎星が瞬きをする。

 

「誰が?」

 

「烏丸先生」

 

「スズメちゃんが?」

 

四人が一斉に言った。

 

「スズメちゃんって何!?」

 

「さっきも思ったけど!」

 

「なんでそこまで自然に呼べるの?」

 

岳だけ一拍遅れて、

 

「スズメちゃん」

 

と復唱し、なぜか自分で笑っていた。

 

奎星は首を傾げる。

 

「怖くねえよ、全く」

 

「魔法史の授業で寝たら教科書飛んでくるぞ」

 

日向が言う。

 

「寝なきゃいいじゃん」

 

「正論で殴るなよ」

 

楓も苦笑する。

 

「私は怖いというより、かなり厳しい先生だと思うけど」

 

「そう?」

 

「課題の採点も細かいし、歴史上の人物名を一文字間違えただけでも直される」

 

伊織が続ける。

 

「提出期限については一秒も融通が利かない」

 

「うん、それは分かる」

 

「やっぱ怖いんじゃないか」

 

「いや」

 

奎星は少し考えた。

 

二週間。

 

毎朝起こされ。

 

飯を食い。

 

授業を受け。

 

質問をして。

 

怒られて。

 

笑って。

 

自分でも分からないほど濃い時間だった。

 

「二十一歳だからさ、先生っていうより口うるさい姉貴って感じかなぁ」

 

その瞬間。

 

ぞわっ。

 

背筋を冷たいものが走った。

 

奎星の箸が止まった。

 

「……ん?」

 

鳥肌が立っている。

 

何だ。

 

今の。

 

視線。

 

刺さるような何か。

 

ゆっくり周囲を見る。

 

大食堂の遥か向こう。

 

教員用の席。

 

何十メートルも離れている。

 

その中に。

 

スズメがいた。

 

湯呑みを片手に。

 

真っ直ぐ。

 

こちらを見ている。

 

表情は穏やかだった。

 

穏やかすぎた。

 

奎星の喉が鳴る。

 

目が合った。

 

スズメがほんの少し首を傾げる。

 

口うるさい姉貴?

 

声など聞こえていない。

 

はずなのに。

 

そう言われた気がした。

 

「…………」

 

日向が奎星の顔を覗く。

 

「どうした?」

 

「いや」

 

奎星は不自然なほど大きな声で笑った。

 

「あははは! いやあ! 烏丸先生は! 非常に! 尊敬できる! 素晴らしい先生だなあ!」

 

楓が眉を寄せる。

 

「急にどうしたの」

 

「いや別に!」

 

「声裏返ってるぞ」

 

伊織が言う。

 

奎星は絶対に教員席を見なかった。

 

「それより食おうぜ!」

 

岳が頷く。

 

「そうだな」

 

「お前はずっと食ってるだろ!」

 

遠く。

 

スズメは湯呑みへ口をつけた。

 

その目元が、ほんの少しだけ笑っていた。

 

午後。

 

奎星が初めて時間割を見たとき、最も楽しみにしていた授業があった。

 

飛行術。

 

箒で空を飛ぶ。

 

魔法学校へ来て以来、校庭の上を飛び回る生徒を何度も見ていた。

 

ウミツバメで空を飛んだとはいえ、あれは乗せてもらっていただけだ。

 

自分で操るとなれば話は違う。

 

飛行術用の訓練場は、校舎の山側に造られた広大な空き地だった。

 

一方は校舎。

 

もう一方は深い森。

 

さらに向こうには海まで見える。

 

芝の上には人数分の箒が整然と並べられていた。

 

奎星は一本の隣に立つ。

 

「これで飛ぶのか……」

 

普通の掃除用の箒に見える。

 

柄は艶のある木製で、穂先だけが妙に整っている。

 

「舐めんなよ」

 

隣から日向が言った。

 

「箒は奥深いぞ」

 

「何その先輩面」

 

「飛行に関しては先輩だから」

 

そのとき。

 

笛が鳴った。

 

ぴいっ!

 

「全員集合!」

 

大きな声が訓練場に響く。

 

担当教師、早瀬将吾。

 

三十代前半。

 

日に焼けた顔に短い黒髪。教師用の長衣は他の教員より短く仕立てられ、袖も肘まで捲っている。身体つきも教師というより運動部の顧問そのもので、首には銀色の笛が掛けられていた。

 

早瀬は生徒たちを見回す。

 

そして。

 

奎星で止まる。

 

にやり。

 

嫌な笑い方をした。

 

「お前が蓮根か」

 

「はい」

 

「蓮根ぇ」

 

「なんで二回言ったんすか」

 

「聞いてるぞ」

 

「何を?」

 

「問題児だってな」

 

「なんで!?」

 

教室のあちこちから笑いが起きた。

 

「俺まだ今日初登校なんだけど!」

 

「初日に水晶を壊した」

 

「事故です!」

 

「羽根を天井へ突き刺した」

 

「それ二週間前!」

 

「隔離された」

 

「言い方!」

 

「烏丸先生をスズメちゃんと呼ぶ」

 

「誰から聞いたんすか!?」

 

早瀬は声を上げて笑った。

 

「有名人だな、お前」

 

「嬉しくない!」

 

「まあいい」

 

早瀬は手を叩いた。

 

表情から笑いが消える。

 

「いいか! 箒は楽しい!」

 

生徒たちを見る。

 

「速い! 気持ちいい! 慣れれば魔法交通の中でも最高だ!」

 

そこから声が一段低くなった。

 

「だが――危険だ」

 

風が芝を撫でた。

 

「箒から落ちれば怪我をする。速度を出した状態で木や壁へぶつかれば、魔法使いだって骨は折れる。調子に乗った瞬間が一番危ない。特に」

 

早瀬が奎星を指差す。

 

「蓮根!」

 

「なんで俺だけ!?」

 

「お前みたいな奴!」

 

「どういう奴だよ!」

 

「今みたいな奴だ!」

 

教室がまた笑う。

 

早瀬自身も笑いながら、今度は日向を指した。

 

「だが!」

 

日向が急に胸を張る。

 

「この朝比奈は別だ!」

 

奎星が横を見る。

 

「何?」

 

早瀬は嬉しそうだった。

 

「我らがマホウトコロ、クィディッチ部のエースだからな!」

 

日向が髪をかき上げる。

 

「まあね」

 

ものすごいドヤ顔だった。

 

奎星が目を丸くする。

 

「そうなの?」

 

「言ってなかった?」

 

「聞いてない」

 

「昨年の全国魔法学校交流杯、得点王」

 

「マジ!?」

 

楓が隣から言う。

 

「飛行術だけなら、本当に上手よ」

 

「だけなら、ね」

 

伊織が静かに付け加えた。

 

日向の笑顔が止まった。

 

「……伊織」

 

「何?」

 

「今なんつった?」

 

「唯一の長所」

 

次の瞬間。

 

日向が伊織の胸ぐらを掴んだ。

 

「お前マジで今日は許さねえ!」

 

「暴力は評価を下げるよ」

 

「誰のせいだ!」

 

ごんっ。

 

鈍い音。

 

楓が日向の頭を教科書で叩いていた。

 

「授業始まるわよ」

 

「なんで俺だけ!?」

 

「伊織は手を出してないもの」

 

「口は出してる!」

 

奎星は腹を抱えて笑った。

 

その横で岳は、自分の箒の強度を心配そうに確認していた。

 

「これ俺乗って折れない?」

 

「そっち!?」

 

飛行訓練が始まった。

 

まずは地面に置いた箒を手元へ呼ぶ。

 

早瀬が実演する。

 

「利き手を箒の上へ出して、『上がれ』!」

 

箒が跳ね上がり、掌へ吸いつくように収まった。

 

生徒たちが一斉に行う。

 

「上がれ!」

 

ぱしっ。

 

楓の箒がすぐ手に収まる。

 

「上がれ」

 

伊織も成功。

 

岳の箒も多少鈍かったが上がった。

 

日向に至っては、声を出すより先に箒が手へ飛び込んでいた。

 

奎星は見る。

 

「カッコつけんなよ」

 

「才能?」

 

「むかつく!」

 

奎星も手を出した。

 

二週間の訓練がある。

 

召喚。

 

浮遊。

 

出力調整。

 

箒一本くらい。

 

「上がれ!」

 

バシンッ!

 

箒が猛烈な勢いで跳ね上がった。

 

「いっっってえ!」

 

柄が掌を打った。

 

奎星は右手を押さえてしゃがみ込む。

 

日向が笑い転げる。

 

「お前、箒にビンタされた!」

 

「うるせえ!」

 

早瀬が腕を組む。

 

「蓮根ぇ!」

 

「はい!」

 

「力入れすぎだ!」

 

「魔法って全部それ言われるんですけど!」

 

「なら学べ!」

 

「はい!」

 

二度目。

 

今度は慎重に。

 

「上がれ」

 

箒がふわりと上がる。

 

掌へ。

 

奎星の顔が明るくなる。

 

「来た!」

 

「よし。次は跨がれ!」

 

いよいよ。

 

奎星は箒へ跨がった。

 

地面を蹴る。

 

身体が浮く。

 

三十センチ。

 

一メートル。

 

「おお……!」

 

自分の意思で。

 

浮いている。

 

風景が少し低くなる。

 

芝が足元へ遠ざかる。

 

胸の奥がくすぐったい。

 

怖い。

 

けれど。

 

それ以上に。

 

「すげえ!」

 

奎星は笑った。

 

日向は既に五メートルほど上空にいる。

 

片手で箒を操り、身体を傾けながら滑らかに旋回する。

 

「奎星! 上来いよ!」

 

「待ってろ!」

 

「蓮根!」

 

早瀬の声が飛ぶ。

 

「ゆっくりだぞ!」

 

「分かってます!」

 

奎星は箒の柄を握る。

 

前。

 

進みたい。

 

ほんの少し。

 

魔力を。

 

「…………」

 

箒が動く。

 

一メートル。

 

二メートル。

 

「お」

 

もう少し。

 

「おお!」

 

速度が上がる。

 

風が頬を撫でる。

 

「できた!」

 

嬉しくなった。

 

そして。

 

嬉しくなると。

 

蓮根奎星は。

 

だいたい余計なことをする。

 

「もっと行けるだろ!」

 

「蓮根! 待て!」

 

箒へ魔力を流す。

 

少し。

 

本人としては。

 

少し。

 

ドンッ!

 

空気を蹴った。

 

「え?」

 

奎星の姿が一瞬で遠ざかる。

 

「速っっっ!?」

 

本人が一番驚いた。

 

芝生が下へ流れる。

 

早瀬が叫ぶ。

 

「力抜けぇ!」

 

「抜いてる!」

 

「嘘つけ!」

 

「止まんねええええ!」

 

箒は一直線に訓練場を横切った。

 

生徒たちが慌てて避ける。

 

岳の横を通過。

 

「おお」

 

「おおじゃねえ助けろ!」

 

楓の髪を風圧で乱す。

 

「きゃっ!」

 

「ごめん!」

 

伊織が眼鏡を押さえる。

 

「予想通りだな」

 

「予想してたなら止めろ!」

 

日向が横へ並ぶ。

 

「身体起こせ! 箒の先を上げろ!」

 

「こう!?」

 

「上げすぎ!」

 

箒が急上昇した。

 

「うわああああ!」

 

数十メートル。

 

一気に校舎の二階近くまで上がる。

 

「今度は下げろ!」

 

「下げたら落ちるだろ!」

 

「少しだよ!」

 

「お前らの『少し』信用できねえんだよ!」

 

「お前が言うな!」

 

空中で二人の怒鳴り声が響いた。

 

その頃。

 

飛行訓練場を見下ろす二階の回廊に、スズメがいた。

 

腕に何冊かの資料を抱え、午後の授業へ向かう途中だった。

 

下から聞こえた悲鳴に足を止める。

 

見下ろす。

 

箒にしがみついた奎星が、猛スピードで校舎前を横切っていった。

 

「うわああああああ!」

 

スズメはしばらく黙っていた。

 

そして。

 

ふっ。

 

笑った。

 

二週間。

 

驚異的な速度で魔力制御を身につけた。

 

十個の物体を同時に操れるようになった。

 

試験にも合格した。

 

本人も少しは成長した。

 

そう思っていた。

 

「……相変わらずですね」

 

その声に。

 

「彼が、蓮根奎星君ですか」

 

男の声が重なった。

 

スズメが振り向く。

 

いつの間にか、一人の教師が隣に立っていた。

 

三十代半ばほど。

 

長身で、線の細い男だった。

 

濃い灰色の長衣を隙なく着こなし、黒髪は後ろへ静かに撫でつけられている。肌は白く、薄い唇には常に人当たりのよい微笑が浮かんでいた。

 

整った顔立ちだった。

 

ただし。

 

その笑顔を見ていると、なぜか本心が一枚奥に隠されているような印象を受ける。

 

久我朔弥。

 

上級課程で高等魔法理論を担当する教師だった。

 

スズメは軽く会釈する。

 

「久我先生」

 

久我も眼下を見た。

 

「ずいぶん元気そうですね」

 

「はい」

 

奎星が今度は急降下した。

 

「ぎゃあああああ!」

 

スズメの口元がまた少し緩む。

 

「相変わらずですが」

 

久我が横目でスズメを見る。

 

「楽しそうですね、烏丸先生」

 

「そう見えますか?」

 

「珍しいと思いまして」

 

スズメは答えず、再び訓練場を見る。

 

ちょうどそのとき。

 

奎星も。

 

こちらを見た。

 

数十メートル先。

 

二階の回廊。

 

見覚えのあるおかっぱ頭。

 

「スズメちゃん!」

 

聞こえるはずもない距離なのに、奎星は叫んだ。

 

片手を箒から離し。

 

ぶんぶん。

 

手を振る。

 

スズメの顔から笑みが消えた。

 

「前を――」

 

言うより早かった。

 

ゴンッ!

 

奎星は校舎外壁から突き出た木製の飾り梁へ、真正面からぶつかった。

 

「あ」

 

箒だけが先へ飛んでいく。

 

奎星の身体が。

 

宙に残った。

 

一瞬。

 

本人にも状況が理解できなかったらしい。

 

「…………」

 

下を見る。

 

十数メートル。

 

「うわああああああ!」

 

落下。

 

「まったく!」

 

早瀬が地上で杖を抜く。

 

「アレスト・モメンタム!」

 

落下速度が急激に緩む。

 

奎星は地面から一メートルほどの位置でふわりと止まり、そのまま芝生へ転がった。

 

ごろごろ。

 

仰向け。

 

「…………生きてる」

 

日向が箒で降りてくる。

 

「何やってんだよお前!」

 

「スズメちゃんいたから……」

 

「運転中によそ見すんな!」

 

「正論やめて!」

 

早瀬が額へ手を当てる。

 

「蓮根ぇ……」

 

「はい……」

 

「初日から伝説作るな」

 

「すみません……」

 

回廊の上。

 

スズメは深い溜息をついた。

 

隣で久我が小さく笑う。

 

「なるほど。面白い少年だ」

 

「見世物ではありません」

 

「失礼」

 

久我はそう言ったものの、その目はしばらく奎星を追っていた。

 

やがて。

 

声を少し落とした。

 

「ところで、烏丸先生」

 

スズメが視線を戻す。

 

「何でしょう」

 

「一つ、お願いしたいことがありまして」

 

「はい」

 

久我はいつもの柔らかな笑みを崩さない。

 

「近いうちに、第零書庫へ同行していただけませんか」

 

スズメの表情が。

 

変わった。

 

ほんのわずかだった。

 

しかし、奎星を見ていたときの柔らかさは完全に消えている。

 

「何のためにですか」

 

「以前申し上げた資料です。平安後期の魔力循環理論に関する巻物を、一度だけ確認したい」

 

「その件でしたら、回答は以前と同じです」

 

「研究上、どうしても必要なのです」

 

「複写資料なら、閲覧許可を申請できます」

 

「複写では不十分でしてね」

 

久我は困ったように眉を下げた。

 

「原本の魔力痕跡を調べたいのです。もちろん触れません。ただ、あなたに立ち会っていただき、少し見せていただければ――」

 

「できません」

 

静かな声だった。

 

久我の笑みは変わらない。

 

「そこを何とか」

 

「申し訳ありません」

 

スズメは真っ直ぐ彼を見る。

 

「以前から申し上げていますが、如何なる理由であっても、入庫権限を持たない者を私の判断で第零書庫へ入れることはできません」

 

「九重院校長の許可があれば?」

 

「その場合は校長先生から正式な通知があるはずです」

 

「堅いですね」

 

「規則ですから」

 

「研究者同士ではありませんか」

 

その言葉に。

 

スズメは一瞬だけ黙った。

 

「だからこそです」

 

久我が目を細める。

 

スズメは資料を抱え直した。

 

「古代魔術は、好奇心だけで扱ってよいものではありません」

 

少しだけ頭を下げる。

 

「では、授業がありますので」

 

「ええ。お引き止めして申し訳ありませんでした」

 

スズメはその場を離れた。

 

長い回廊を歩いていく。

 

足音が遠ざかる。

 

久我は笑顔のまま、その後ろ姿を見送った。

 

やがて。

 

笑みが消えた。

 

眼下。

 

飛行訓練場を見る。

 

奎星が早瀬から説教を受けている。

 

「よそ見するな!」

 

「はい!」

 

「速度出すな!」

 

「はい!」

 

「返事だけはいいな!」

 

「よく言われます!」

 

「褒めてねえ!」

 

その横で日向が笑い、楓は呆れ、岳はいつの間にか何かを食べ、伊織だけが静かに空を見ている。

 

久我は奎星だけを見た。

 

二週間前に突然覚醒した少年。

 

測定不能の魔力量。

 

異常な習得速度。

 

そして。

 

今、彼の腰に差されている。

 

神代榊の杖。

 

久我の目が。

 

僅かに細くなる。

 

「蓮根奎星……」

 

誰にも聞こえないほど小さな声だった。

 

薄い唇に。

 

再び笑みが戻る。

 

先ほどまでの人当たりのよいものとは違う。

 

もっと冷たい。

 

何かを計るような。

 

「君は使える」

 

風が回廊を抜けた。

 

久我の長衣の裾が揺れる。

 

遥か下では。

 

奎星がようやく説教から解放され、日向へ向かって叫んでいた。

 

「もう一回乗ろうぜ!」

 

早瀬が怒鳴る。

 

「今日はもう駄目だ!」

 

「なんで!?」

 

「なんでだと思う!」

 

友人たちの笑い声が、青い空へ上がっていく。

 

その明るさとは対照的に。

 

マホウトコロのどこかで。

 

誰にも見えない小さな歯車が。

 

ゆっくりと。

 

回り始めていた。

 

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