常隠島の朝は早い。
海から昇ったばかりの太陽が島の東側を照らし始めた頃、蓮根奎星はすでに宿舎から少し離れた林の中にいた。朝露を含んだ草が足元で光り、木々の隙間から差し込む陽が、まだ薄暗い地面へ細長い筋を作っている。
目の前には烏丸スズメ。そして奎星の右手には、いつもの神代榊が握られていた。
昨日決まった《星帰り作戦》。
マホウトコロの霊脈へ守護霊を走らせ、神代冥司によって認識を歪められた生徒たちを元へ戻す。そのためには、今まで以上に守護霊術を磨かなければならない。しかも、霊脈を通じて神代の術式へ直接触れる以上、相手側から何かが逆流してくる可能性もある。
もし、それが精神へ干渉する魔法だったなら。
奎星自身が、それを押し返さなければならない。
そこで、まず覚えることになったのが――。
「閉心術」
奎星は腕を組み、いかにも分かったような顔で頷いた。
「簡単だよ」
スズメの顔に、早くも嫌な予感が浮かぶ。
「……何がです?」
「何も考えなきゃいいんだろ?」
「違います」
即答だった。
「そんな単純なものではありません」
「でも心閉じるんだろ?」
「ええ」
「じゃ無だよ、無。頭空っぽにすればいいじゃん」
スズメは数秒、黙って奎星を見つめた。
「あなたは普段から何も考えていません」
「どういう意味だ!」
林へ声が響き、枝に止まっていた鳥が二羽、驚いて飛び立った。
スズメはまったく気にせず杖を取り出す。
「閉心術とは、何も考えなくなる魔法ではありません。そもそも、人間が完全に思考を止めることなどできません」
「寝る?」
「寝たら訓練になりません」
「気絶?」
「もっと駄目です」
「じゃあどうすんの?」
スズメは少し考え、できるだけ簡単な言葉を選ぶようにして答えた。
「心の中には、常に何かがあります。考えていること、思い出、感情、そして目の前で起きていることへの反応。それらを無くすのではなく、相手に触れさせないのです」
奎星が眉を寄せる。
「……箱に入れる感じ?」
「近いですね」
「鍵かける?」
「その感覚でも構いません。ただし、開心術を使う側は、その箱を探します。扉を叩きますし、隙間があればそこから入り込みます」
スズメは自分の胸元を指した。
「怒れば、その怒りから。怖がれば、その恐怖から。何かを隠そうと強く意識すれば、逆にそこから辿られることもあります」
「じゃ隠そうとしちゃ駄目なの?」
「《見せたくない》と考え続ければ、それ自体が目印になります」
「めんどくさ!」
「精神魔法ですから」
「プロテゴで防げねえの?」
「神代があなたの頭の中へ入ってからプロテゴを唱えるつもりですか?」
「……無理そう」
「無理です」
スズメは奎星の正面へ立つと、今度は少し声を落とした。
「最初から完璧に防ぐ必要はありません。まずは、自分の感情がどう動いているのかを把握してください。そして、私が入ってきたと感じたら――」
人差し指を立てる。
「押し返す」
「それだけ?」
「言葉にすれば」
「簡単じゃん」
「その台詞を一時間後にも言えるといいですね」
「言えるって」
「では」
スズメの杖が上がった。
さっきまで笑っていた奎星の顔から、少しだけ余裕が消える。
「本当にやるんだ」
「そのための訓練です」
「人の記憶とか見えんの?」
「見える場合があります」
「どこまで?」
「術者の技量と、対象がどれだけ抵抗できるかによります」
奎星が少し迷ってから訊いた。
「全部?」
スズメは一拍置いた。
「抵抗しなければ」
「…………」
奎星の顔が引きつる。
「ちょっと待って」
「待ちません」
「心の準備!」
「それをする時間を与えてくれる相手ばかりではありません」
「スズメちゃん今日ちょっと御影先生っぽくない!?」
「褒め言葉として受け取ります」
杖先が額へ向けられる。
「目を逸らさないでください」
「はいはい」
「はいは一度です」
奎星が少し笑った。
何度も聞いた言葉だった。
「はい」
「では」
スズメの目が、奎星の目を真っ直ぐ捉える。
「レジリメンス」
世界が弾けた。
*
最初に見えたのは、東京だった。
夕暮れの住宅街。まだ魔法など何も知らなかった頃の蓮根奎星が、自転車で見慣れた道を走っている。コンビニ、スマートフォン、父と母。さらに記憶が遡ると、もっと幼い奎星の少し離れたところで、蓮根八重子が笑っていた。
場面が変わる。
病室。痩せた祖母。小さな木札。
――奎星も、やりたいこと見つけな。
その声を聞いたときの寂しさまで、スズメの中へ流れ込んできた。
次の瞬間には、十七歳の誕生日を迎えたあとの東京へ戻る。夜中の自室。窓を何度も嘴で叩く一羽の鴉。
何だよ。うるせえな。寝かせろ。
そんなことを思いながら窓を開け、鴉を部屋へ入れた少年。そして、腹が減った勢いで、その鴉を食べようとして両手で捕まえた。
白い煙が弾ける。
腕の中へ現れた、小柄な女性。
『初めまして』
『国立魔法学校マホウトコロにて魔法史を担当しております。烏丸スズメと申します』
『スズメ?』
『はい』
『鴉だったのに?』
『よく言われます』
記憶の中の奎星は、初対面から遠慮がない。
小さい。
若い。
先生に見えない。
そんな第一印象まで、開心術を通じてそのまま伝わってくる。
「…………」
現実のスズメの眉が、ほんの僅かに動いた。
だが、術は切らない。
次に見えたのは南硫黄島。巨大なウミツバメと青い海、初めて目にした羊脂玉の校舎。そして魔力測定で、水晶が砕け散った瞬間だった。
何が起きたのか分からない。
周囲の大人たちが固まっている。
自分だけが置いていかれているような感覚。
それから、森の端に用意された六畳の部屋。誰とも一緒に暮らせず、夕食も一人で食べることになるはずだった最初の日。
大きなお盆を持ってきたスズメへ、奎星が声をかける。
『スズメちゃん』
『烏丸先生です』
『スズメちゃんもここで食ってってよ』
『烏丸先生です。私は研究室で食事をします』
『いいじゃん』
『駄目です』
言い訳を重ね、最後にはスズメから図星を刺される。
『あなた、ただ一人で食事をしたくないだけでしょう』
『…………』
『…………』
『それもある』
深いため息。
『分かりました』
『よっしゃ』
『一度だけです』
『さすがスズメちゃん』
『烏丸先生です』
その夕食が、思っていたよりずっと楽しかったことまで流れ込んでくる。
そして補習。
ルーモス。
明るすぎる。
暗すぎる。
今度は天井が光る。
もう一度。
『魔法とは、力を出す技術ではありません』
『必要な量だけ使う技術です』
六回目。
杖先へようやく柔らかな光が灯った。
『これ?』
『……はい』
『できた!』
『簡単じゃん!』
『六回失敗しましたが』
『七回目で成功したからいいんだよ』
『六回目です』
『細か』
褒められたときの、妙にくすぐったい嬉しさ。
一つできれば、すぐに次を知りたくなる好奇心。
そのすべてが、鮮明だった。
次。
教室。
日向。楓。岳。伊織。
最初は窓の外から見ていた四人。いつの間にか五人で食堂へ行き、くだらないことで笑うようになった。
自分も、ここにいていい。
初めてそう思えた。
次の記憶は、暗かった。
決闘。
自分の魔法。
倒れる日向。
目を開けない友人。
血の気が引き、右手に持った神代榊を見る。
怖い。
魔法がではない。
自分が、怖い。
誰にも見つからない場所へ行きたくて、校舎の裏へ歩き続けた。苔むした石垣の近くで一人座り込み、とうとう口にする。
『……俺、もう魔法使いたいのか分かんない』
『自分が怖い』
スズメは「大丈夫」とは言わなかった。
「事故だから忘れろ」とも言わない。
ただ、ゆっくり立ち上がった。
『蓮根君』
『ん?』
『悩むのであれば、もう少し景色の良いところで悩みませんか』
古い観測塔。
海。
空。
自分の失敗を話し、それでも奎星がもう一度杖を握れるようになるまで隣にいた人。
そして、別の記憶の中で。
――一緒に探します。
その言葉が、奎星の中へ残っている。
あの夜。
確かに。
届いていた。
スズメには、それが分かった。
次。
暗闇。
第零書庫。
『スズメちゃん!』
何度も。
何度も。
広い地下空間で、自分の名前を呼ぶ声が響く。
危険だと知っていた。
入ってはいけない場所だった。
それでも、自分がいなくなったから探しに来た。
久我。
黒曜石。
古代文字。
そして。
緑の閃光。
死の呪文。
逃げればよかった。
御影を待てばよかった。
けれど。
あの瞬間。
奎星の身体は前へ出た。
青白い光。
緑色の死の呪文が消える。
直後、暴走した古代魔術が第零書庫を呑み込んだ。
『スズメちゃん!』
今度は身体ごと、スズメを庇う。
爆発。
衝撃。
痛み。
怖い。
それでも、腕の中の人だけは離さない。
――先生だから。
それだけではない。
――魔法を教えてくれたから。
それだけでもない。
スズメ自身が、もう奎星にとって大切な何かになっていた。
ただ。
当時の奎星は。
まだ、その感情へ名前をつける言葉を持っていなかった。
記憶が飛ぶ。
一学期の終わり。
九重院の手にある《第一学期修了認定証》。
『この結果は、あなたの魔力量に対する評価ではありません。測定値が一万を超えているからでも、珍しい魔法を使ったからでもありません』
証書が差し出される。
『あなたが、一人の生徒として学び続けたことへの評価です』
『……ありがとうございます』
嬉しかった。
自分が、ただ強い魔力を持つ人間ではなく。
一人の生徒として認められたことが。
ポケットの中の木札へ触れながら、誰にも聞こえない声で呟いた。
『……ばあちゃん』
『ちょっとずつなら、見つかってるかも』
次。
夏。
八咫祭。
提灯。
人混み。
花火。
偶然見つけたスズメと、一緒に歩いた夜。
特別なことをしようと思ったわけではない。ただ話して、祭りを見て、それだけで楽しかった。
日向たちのところへ戻る直前。
振り返る。
会えてよかった。
本当に、何の計算もなく、ただそう思った。
『じゃあな!』
走り出した背中へ、スズメが声をかける。
『蓮根君!』
『何ー!?』
『本当に、危ないことはしないでくださいね!』
『しないって!』
その言葉を聞きながら、友達のところへ戻っていく。
夜空には花火。
自分の胸には。
会えてよかった。
ただ、それだけ。
水月庵。
あんみつ。
水羊羹。
葛切り。
学生時代の話。
杖の話。
宿題。
笑っているスズメ。
夏の間に、二人で八咫小路を歩くことが、いつの間にか奎星にとって普通のことになっていた。
そして。
森。
鬼火鳥。
黒曜の狩人。
御影と斎賀。
崩れていく戦場。
女が杖を振る。
『セクタムセンプラ!』
魔法が向かう先。
スズメ。
その瞬間、奎星の頭の中から余計なものが全部消えた。
逃げる。
伏せる。
防ぐ。
選択肢はいくつもあったはずなのに。
身体が先に動いた。
『スズメちゃん!』
『え――』
突き飛ばす。
胸。
肩。
腕。
脇腹。
背中。
全身が裂ける。
熱い。
次の瞬間には寒い。
血が止まらない。
音が遠くなっていく。
それでも最後まで、奎星が見ていたのは自分の傷ではなかった。
スズメ。
無事だ。
よかった。
そこまで確認して。
意識が沈む。
「…………っ」
現実にいるスズメの指が、僅かに震えた。
あのときの恐怖を。
今度は奎星側から。
もう一度感じてしまった。
それでも術を切らない。
次。
生と死の境。
八重子。
『そろそろ帰りな』
『俺、もっと話したい』
『ばあちゃんに、まだいっぱい話したい』
『魔法のことも。学校のことも。スズメちゃんのことも。御影先生のことも』
それでも、八重子は笑っていた。
『またいつか聞くよ』
『いつ?』
『ずっと先さ』
『それまで』
昔と同じように頬をつまむ。
『好きに生きな』
そして奎星は。
生きて戻った。
次。
朝凪島。
守護霊。
真壁の巨大なニホンオオカミを見て、すぐに自分もやりたいと言い出した。
『守護霊の魔法は、ただ強い魔力を流せば成功するものではありませんよ』
『じゃ何がいるの?』
『強く、幸福な感情です』
幸福な記憶。
最初に選んだのは八重子だった。
けれど。
幸せなだけでは終わらない。
どうしても最後には、いなくなった悲しさへ繋がってしまう。
だから奎星は、別のものを探した。
終わった幸福ではなく。
これからも続いていくもの。
マホウトコロ。
日向。
楓。
岳。
伊織。
御影。
小妖たち。
授業。
食堂。
朝。
夜。
また明日もあると思えるもの。
そして。
その中には。
最初から当然のように。
烏丸スズメがいた。
補習。
夕食。
観測塔。
第零書庫。
八咫祭。
水月庵。
怒られる声。
くだらない会話。
これからも。
また補習をする。
飯を食う。
話す。
笑う。
そう思えたから。
銀色の鴉が飛んだ。
そして。
次。
星迎祭。
スズメの呼吸が止まりかけた。
夜の観測塔。
花火。
ずっと噛み合わなかった二人が、ようやく真正面から話した夜。
『私は、あなたを嫌ってなどいません』
『あなたに触れられることが嫌なのでもありません』
『あなたは……私にとって、とても大切な人です』
『ですから……』
『私から、離れないでください』
そして。
もっと小さな声。
『離れないで……ほしいです』
奎星の中で、張り詰めていた何かが一気にほどけた。
『……よかった』
嫌われたと思った。
離れなければならないと思った。
教師と生徒。
それだけなのだと、自分へ言い聞かせようとしていた。
だから。
本当に。
ただ、よかった。
一歩近づいた。
抱きしめた。
細い身体が驚いて固まる。
『蓮根君――』
離したくなかった。
けれど、やがて腕を解いた。
そのあと。
踊った。
下手くそなダンス。
どちらも慣れていない。
何度も足を踏みそうになる。
笑った。
花火が上がった。
同じ星灯石のキーホルダーを買っていたことが分かって、また笑った。
そして、スズメが足を滑らせる。
奎星の腕が反射的に腰を支えた。
身体が近づく。
顔。
近い。
近すぎる。
黒い瞳。
その中へ、花火の光が映っている。
心臓が跳ねた。
そこで。
スズメは。
見てしまった。
あの瞬間。
奎星の中に確かにあったものを。
離れたくない。
もう少しだけ、このままでいたい。
彼女が離れないなら、自分も離れたくない。
もっと近くで見ていたい。
あと少しだけ。
近づきたい。
けれど。
それが何なのか。
奎星自身はまだ、きちんと言葉にはできていない。
ただ。
胸がうるさい。
スズメが。
いつもと違って見える。
「――っ!!」
スズメが杖を弾くように下ろした。
世界が戻った。
*
林。
海風。
鳥の声。
目の前に奎星がいる。
「…………」
スズメは完全に固まっていた。
頬だけではない。
耳。
首元。
見える範囲が、全部赤い。
奎星は数秒ぼんやり瞬きをした。
「……終わった?」
返事がない。
「す、スズメちゃん?」
「…………」
「大丈夫?」
スズメがゆっくり顔を上げた。
「……もっと」
「え?」
「もっと、心を閉じてください」
「何も考えないようにしてたって!」
「だから!」
突然、声が大きくなった。
奎星がびくっとする。
「そういう話ではないのです!」
「何怒ってんの!?」
「怒っていません!」
「顔真っ赤じゃん!」
「暑いだけです!」
「またそれ!?」
スズメは顔を背けた。
奎星は何も分かっていない。
自分が何を見られたのか。
本当に、一つも。
「いやでもさ」
奎星が神代榊を持ち直す。
「ちょっと分かった」
スズメが警戒するように見る。
「……何がです?」
「入ってこられる感じ」
奎星は目を閉じてみた。
「あれだろ? 頭ん中引っ張られる感じ」
「……ええ」
「じゃ、もっかいやって!」
「今ですか!?」
「今の感覚忘れたくない!」
一瞬、スズメは断ろうとした。
けれど。
訓練。
これは訓練だ。
自分は教師。
今見たものは、本人の許可なく触れた心の中にあったもの。必要以上に意識するべきではない。
「…………分かりました」
「よし!」
スズメは一度深く息を吸った。
「今度は、入られたと感じた瞬間に押し返してください」
「おう」
「何かを考えないようにするのではなく、自分の内側と私の魔法との境界を意識してください」
「分かった」
「では」
もう一度杖を上げる。
今度こそ。
訓練。
「レジリメンス」
*
観測塔。
――スズメちゃん。
補習。
――スズメちゃん。
八咫祭。
――スズメちゃん。
水月庵。
――スズメちゃん。
血に染まった夏。
――スズメちゃん。
朝凪島。
――スズメちゃん。
星迎祭。
――スズメちゃん。
「…………っ!」
スズメは即座に術を切った。
奎星が目を開ける。
「早くない!?」
「…………」
「今俺、結構いけてた気したけど!」
「全然です」
「マジ?」
「全然です!」
「どこまで入った?」
スズメの顔は。
また赤い。
「…………」
「スズメちゃん?」
「少し休憩します」
「ええ!?」
スズメは踵を返した。
宿舎の方角へ早足で歩き出す。
「待って! だから何見たんだよ!」
「何でもありません!」
「何でもない顔じゃないじゃん!」
「全然閉じられていません!」
「それは分かったって!」
「筒抜けです!」
「だから何が!?」
「全部です!」
「全部!?」
奎星が止まる。
スズメは歩き続ける。
その数秒後。
奎星の顔が、少しずつ引きつった。
「待って待って!」
追う。
「全部って何!?」
「全部は全部です!」
「俺の考えてることも!?」
「だから閉心術を覚えるのです!」
「どこまで分かるの!? 記憶だけ!?」
「知りません!」
「術者なのに!?」
「うるさいです!」
奎星は必死についていった。
最初は恥ずかしさのほうが大きかった。
だが。
だんだん。
腹が立ってきた。
「そんな言うんだったら!」
スズメが振り返る。
「何です?」
「スズメちゃんだって閉心術できんのかよ!」
一瞬。
沈黙。
スズメの眉がゆっくり上がる。
「できますよ」
即答。
「本当に?」
「できます」
「じゃあやってみて!」
「なんで私がやらなければならないのですか!」
「俺ばっか見られてんのずるいだろ!」
「これは訓練です!」
「じゃ俺も訓練!」
「何の!」
「開心術!」
「あなたはまず閉心術を――」
奎星は。
スズメが二度使った魔法を思い出した。
杖の角度。
視線。
発音。
いつもの悪い癖だった。
見た。
面白そう。
やってみる。
神代榊が上がる。
「レジリメンス!」
「え?」
スズメの目が大きくなる。
「蓮根君――!」
世界が変わった。
*
本。
本。
本。
本。
「…………」
奎星は思った。
スズメちゃん。
マジで本ばっか読んでる。
幼いスズメがいた。
まだ下級課程。
身体には少し大きな制服。
教室。
本。
廊下。
本。
休み時間。
本。
魔法史ですらない授業で教師へ妙に難しい質問をしている。
そして。
向こうから御影玄一郎が歩いてきた。
今より若い。
それでも。
顔は怖い。
幼いスズメの背筋が、ぴしっと伸びた。
次。
少し成長したスズメ。
その隣に、明るい少女。
美琴。
「スズメ!」
よく喋る。
スズメは本を読む。
美琴は喋る。
まだ喋る。
スズメは本を読む。
とうとう本を閉じる。
少しだけ笑う。
別の記憶。
廊下の向こうに御影が見えた瞬間、美琴と並んで姿勢を正す。
片方は逃げる。
スズメだけ残る。
「……マジで姿勢よくなってんじゃん」
奎星の声が、記憶の中へ漏れた。
次。
授業。
魔法史。
古代文字。
書庫。
星迎祭。
美琴に舞踏会へ誘われる。
断る。
花火を見る。
本を読む。
卒業。
教員。
研究室。
また本。
古い史料。
授業準備。
一人で仕事。
そして。
時間が進んだ。
校長室。
九重院。
御影。
薬師寺。
その中に。
一人の少年がいる。
黒髪。
まだ学校の制服ですらない。
何も分かっていない顔。
魔力量を測ったら、水晶を壊した。
蓮根奎星。
「…………」
奎星の呼吸が止まる。
自分だ。
スズメの記憶の中に。
自分がいる。
最初。
面倒を見る必要のある生徒。
魔法界の常識を何も知らない。
魔法も知らない。
距離感もおかしい。
勝手に「スズメちゃん」と呼ぶ。
言うことを聞かない。
何でも触る。
何でも訊く。
補習はすぐ脱線する。
一人で飯を食べたくないからと、教師まで巻き込む。
「ひどくない!?」
その瞬間。
映像が変わった。
食卓。
笑っている奎星。
朝、布団から出ない奎星。
魔法を覚えて目を輝かせる奎星。
初めて友達の輪へ入っていく奎星。
観測塔で、自分が怖いと俯いていた奎星。
第零書庫で。
自分を探しに来た奎星。
緑色の光の前へ出た背中。
暴走する古代魔術から、自分を抱き込んだ腕。
病室。
八咫祭。
笑顔。
水月庵。
そして。
夏の森。
『セクタムセンプラ!』
青白い光。
奎星の身体から血が弾ける。
『蓮根君!!』
今度は。
スズメの側の感情が。
奎星へ流れ込んできた。
怖い。
嫌だ。
死なないで。
お願いだから。
起きて。
手が冷たい。
もっと治して。
まだ。
まだ生きている。
目を開けて。
蓮根君。
「…………」
奎星の顔から、笑みが消えた。
あのとき。
自分は意識を失っていた。
知らなかった。
スズメが。
こんなに怖がっていたことを。
次。
朝凪島。
銀色の鴉。
スズメの守護霊も。
自分の守護霊も。
同じ姿。
二羽の鴉が、並んで空を飛んでいる。
そして。
星迎祭。
観測塔。
花火。
『あなたは……私にとって、とても大切な人です』
自分がスズメを抱きしめる。
その瞬間。
スズメの心臓が。
速い。
奎星の目が僅かに見開かれる。
次。
踊る。
笑う。
足を滑らせる。
腰を支えられる。
顔が。
近い。
その瞬間。
スズメの中にあった感情が。
奎星へ流れ込もうとした。
「――っ!」
景色が一瞬で吹き飛んだ。
*
「うおっ!」
奎星の身体が後ろへ仰け反った。
一歩。
二歩。
どうにか踏みとどまる。
目の前では、スズメが杖を構えていた。
「勝手に」
低い。
「人の心に」
さらに低い。
「入らないでください!」
「いや!」
奎星が神代榊を持ち上げる。
「成功した!」
「そこではありません!」
「一発で!」
「喜ばないでください!」
スズメの顔は真っ赤だった。
今まで以上に。
「でも閉心術できてたじゃん!」
「できますと言ったでしょう!」
「あれどうやったの!?」
「あなたの魔法を押し出しました!」
「じゃ今の教えてよ!」
「順番です!」
奎星は興奮していた。
初めて見る。
他人の記憶。
しかも。
スズメの。
「学生時代見えた!」
「忘れてください」
「本ばっか読んでた!」
「忘れてください!」
「美琴さんいた!」
「忘れなさい!」
「御影先生見たらマジで姿勢よくなってた!」
「蓮根君!!」
その学生時代については、御影が九歳の頃からスズメを知っており、美琴と一緒に彼を恐れていたことも実際の過去と一致している。
「あと俺!」
スズメが止まった。
奎星も。
止まる。
数秒。
「……俺いた」
当たり前だ。
出会ってからなら、いる。
でも。
思っていたより。
ずっと多かった。
奎星の声が、少しだけ変わる。
「待って」
スズメが嫌な予感を覚えた顔になる。
「何です?」
「最後」
「…………」
「最後、何考えてた?」
「教えません」
即答。
「なんで!」
「教える必要がありません!」
「俺の全部見たじゃん!」
「訓練です!」
「じゃ俺のも訓練!」
「違います!」
「同じ魔法!」
「違います!」
「何が!」
「あなたは勝手に使ったでしょう!」
「神代にも言うのかよそれ!」
スズメが一瞬詰まった。
奎星の顔に、勝ち誇った笑みが浮かぶ。
「ほら!」
「あなたは蓮根君です!」
「何その理屈!」
「神代と同じ扱いをされたいのですか!?」
「それは嫌!」
「ならやめてください!」
スズメは歩き出した。
奎星が追う。
「待ってって!」
「待ちません!」
「最後だけ!」
「嫌です!」
「俺が近づいたとこ!」
「知りません!」
「見えた!」
「忘れなさい!」
「何考えてた!?」
「教えません!」
「なんでだよ!」
「なんでもです!」
「絶対何かあったじゃん!」
「ありません!」
「嘘!」
「蓮根君!」
常隠島の林道を、二人が走っていく。
正確には。
スズメが逃げ。
奎星が追っていた。
「待ってスズメちゃん!」
「来ないでください!」
「何で!」
「今だけです!」
「余計気になる!」
「気にしないでください!」
「無理!」
その様子を。
少し離れた古い建物の前で。
御影玄一郎が眺めていた。
隣には榊伊織。
手には、返し標と転移術式について書き写した何枚もの紙がある。
「…………」
伊織が二人を見る。
御影も見る。
林の向こうから、まだ声が聞こえてくる。
「教えてって!」
「嫌です!」
「一個だけ!」
「全部嫌です!」
「ケチ!」
「何とでも言ってください!」
御影は少しだけ鼻から息を吐いた。
「……あいつら見てたら」
伊織が御影を見る。
「はい?」
御影は、追いかけっこを続ける二人を見たまま言った。
「まだまだ日本の終わりって感じはしないな……」
伊織は一瞬黙った。
それから。
ほんの少しだけ笑う。
「そうですね」
*
「それで」
伊織は石造りの建物へ戻ると、壁一面へ広げられた古い術式の前で足を止めた。
「こっちですが」
真壁との通信を確立した返し標。その周囲を、伊織は昨日から何度も調べ続けている。壁には写し取った術式を並べ、机の上には古代文字と現代の転移術式を比較した紙が何枚も重なっていた。
御影には、その半分も分からない。
伊織はその中から一枚を抜き出した。
「結論から言うと、多分、この島から外へ出られます」
御影の目が動く。
「確実か」
「まだ確実とは言えません。でも、通信が成立した時点で、少なくとも一方向だった接続が双方向になっています」
伊織は石台の一部を指した。
「真壁さんが魔法省側の返し標を起動したことで、向こうとこちらの術式が同期した。ここに白峰の火映しを重ねたときも、同じ反応が出ました」
「つまり」
「一度接続できた場所なら、座標そのものを知らなくても経路を使える可能性があります」
御影は腕を組んだ。
「魔法省と白峰」
「はい。今なら、その二つには転移できると思います」
「戻れるか」
「それも多分」
「多分が多いな」
「古代魔術なので」
伊織は平然としている。
「現代式なら、もっと断言できます」
「そうか」
御影は石台へ目を落とした。
出られる。
常隠島から。
それは大きい。
だが、すぐに使うつもりはなかった。
「今は出ない」
伊織も頷く。
「僕もそれがいいと思います」
「理由は」
「ここが一番安全だからです」
即答だった。
「神代はこの島の座標を知らない。魔法省は内部に黒曜の環がいる可能性がある。白峰も協力してくれる人はいるけど、全員を無条件に信用できる段階じゃない」
伊織は紙を一枚捲った。
「準備が整うまでは、ここを拠点にしたほうがいいです」
御影は短く頷く。
「同意見だ」
「じゃあ僕は、帰還経路の安定化を続けます」
「頼む」
御影が外へ目を向けた。
遠くに訓練場がある。
そちらから。
魔法の衝突音が聞こえてきた。
*
「もう一度!」
柊木志乃の声が訓練場へ響く。
正面に並ぶのは、冬真、楓、岳、日向、澪の五人。その向こうには人型の訓練人形が並べられていた。
ただし。
顔の部分へ貼られている紙には、それぞれ違う文字が書かれている。
《友人》。
《同級生》。
《後輩》。
日向が露骨に嫌な顔をした。
「これ、地味にやりづらいですね」
「そのためです」
柊木は杖を下ろしたまま答える。
「マホウトコロへ戻ったとき、あなたたちの前へ最初に立つ相手が黒曜の環とは限りません」
全員の表情が変わった。
柊木は訓練人形を見る。
「相手は、あなたの友人です」
静かになる。
「ですが、友人だからといって躊躇すれば、蓮根君へ攻撃が届きます」
星帰り作戦の中心。
奎星は。
霊脈。
守護霊。
閉心術。
それらを同時に扱わなければならない。
その最中に、まともな決闘までできると思わないほうがいい。
「蓮根君を最後に守るのは、あなたたちです」
楓が杖を握り直す。
冬真。
澪。
岳。
日向も。
「ただし」
柊木の声が一段低くなった。
「倒してはいけません」
日向が顔を上げる。
「え?」
「神代さんの術式を受けた生徒たちは、敵ではありません」
柊木は人形を指した。
「傷つけずに無力化する方法を選びなさい」
一瞬。
誰も動かなかった。
最初に杖を上げたのは冬真だった。
「インカーセラス」
縄が伸び、人形の両腕を縛る。
倒さない。
杖を封じる。
続いて澪。
「エクスペリアームス」
杖だけが飛んだ。
楓は足元を狙う。
「インペディメンタ」
動きを止める。
岳は少し悩んだあと、人形へ攻撃を向けなかった。
「プロテゴ!」
奎星役として置かれた別の人形の前へ、透明な盾が展開される。
柊木の目が僅かに細くなった。
「それでいいです」
岳が顔を上げる。
「倒すだけが護衛ではありません」
日向が腕を回した。
「なるほど」
冬真が笑う。
「じゃあ次は五人同時かな」
「はい」
「え?」
日向が止まった。
「五人同時です」
「やっぱそうなるんだ!」
「実戦ではもっと多いですよ」
「知りたくなかった!」
「構えてください」
再び、魔法の光が訓練場を走った。
*
夜。
古い宿舎の食堂では、十人が一つの長い机を囲んでいた。
常隠島へ来た初日は、食べるものを探すだけでも一苦労だった。それでも数日も経てば、保存されていた米や乾物、魔法で維持されていた野菜の場所も分かり、最低限の生活は形になっている。
そして今日。
机の中央には、大量の焼き魚が並んでいた。
「だから何でお前十五匹も釣ってんだよ」
日向が呆れた顔で言う。
岳は白米を食べながら答えた。
「釣れたから」
「理由になってねえ!」
「明日も食える」
「朝昼晩魚になんじゃん!」
「嫌なのか?」
「嫌じゃないけど!」
奎星が魚を一口食べる。
「うまいじゃん」
「だろ」
岳が少し嬉しそうな顔をした。
楓は味噌汁を飲みながら口を開く。
「それで、今日の進捗報告するんでしょう?」
御影が頷いた。
「榊」
伊織は箸を置く。
「術式の解析はかなり進んだよ」
全員の視線が集まった。
「多分、もう魔法省と白峰になら転移できる」
「マジ?」
奎星の目が輝く。
「帰れんの!?」
「転移先が違う」
「学校は?」
「まだ無理」
「あ、そっか」
伊織は続ける。
「それに、今はここから動かないほうがいいと思う」
日向が首を傾げる。
「出られんのに?」
「ここが一番安全だから」
「……ああ」
それなら全員、すぐに意味を理解した。
「御影先生とも話したけど、準備が整うまでは常隠島を拠点にする。魔法省と白峰への経路だけ安定させておく」
冬真が頷く。
「逃げ道にもなるね」
「そういうことです」
次に、柊木が口を開いた。
「白峰とは今日も通信しました」
澪が少し身体を前へ出す。
「先生たちは?」
「協力してくださいます」
澪の表情が明るくなった。
「本当ですか?」
「ええ。少なくとも、私が直接連絡を取った教員は全員」
柊木は穏やかに続ける。
「卒業生にも声をかけてもらっています。決闘経験者、対黒魔術の実務経験者、それから治療魔法に長けた方も」
「白峰って卒業生も強いの?」
奎星が訊く。
「色々な方がいますよ」
「柊木先生みたいな?」
「私を基準にしないでください」
日向が小声で奎星へ言った。
「全国三回取ってる人基準にしたら、どこも終わるだろ」
「確かに」
御影が二人を見る。
「聞こえてるぞ」
「御影先生に言ってないじゃん!」
「静かにしろ」
「はい」
御影は食事を続けながら言った。
「征士郎は今、禍祓官の身元を一人ずつ調べてる」
スズメが顔を上げる。
「やはり時間がかかりますね」
「ああ」
魔法省。
組織として招集をかければ早い。
だが、それはできない。
誰が神代へ繋がっているのか分からない以上、一人ずつ過去の所属、任務、交友関係まで確認しなければならない。
「玄弥も手伝ってるらしい」
一瞬。
岳の箸が止まった。
御影は気づいた。
だが、何も言わない。
岳も何も言わず、また飯を食べ始めた。
許したわけではない。
それでいい。
柊木が生徒たちを見る。
「こちらの訓練も順調です」
日向が顔を上げた。
「順調なんですか!?」
「順調ですよ」
「めっちゃやられましたけど!」
「昨日よりは」
「基準そこ!?」
楓が呆れる。
「実際、昨日より良かったでしょう」
「楓まで!」
冬真が笑った。
「得意なことも分かってきたしね」
楓。
判断。
拘束。
状況整理。
澪。
防御。
魔法を受け止めず、角度をつけて逸らす技術。
冬真。
戦闘全体の把握。
岳。
護衛。
一度守ると決めた相手の前から簡単には動かない。
そして。
日向。
「俺は?」
期待に満ちた目を向ける。
柊木が答えた。
「動き続けることですね」
「おお!」
「落ち着きがないとも言います」
「どっち!?」
「敵の視線を引きつけながら位置を変えられるのは長所です」
「やっぱ褒めてる!」
「ただし無駄口を減らしてください」
「最後に落とす!」
笑いが起きた。
そして。
全員の視線が奎星へ向く。
焼き魚を食べていた奎星が気づく。
「何?」
御影が口を開く。
「お前は」
「ああ!」
奎星は箸を置き、胸を張った。
「俺は、閉心術を習得中」
スズメが即座に言う。
「全く駄目です」
「何でだよ!」
「全然できていません」
「スズメちゃんが中断するからだろ!」
何人かの箸が止まった。
スズメの顔が僅かに赤くなる。
「全然できていないし、全部見えるからでしょう!」
奎星が止まる。
「ぜ、全部!?」
「筒抜けという意味です!」
「だからどこまで見たの!?」
「その話はもう終わりました!」
「終わってない!」
周囲では、日向の顔がゆっくり楽しそうなものへ変わっていた。
楓がそれに気づく。
「日向」
「何も言ってない」
「顔が言ってる」
「俺まだ何も!」
奎星はスズメしか見ていない。
「その術ってどこまで分かるの!?」
「蓮根君!」
「考えてることも!?」
「場合によります!」
「今の俺の考えてることまで!?」
「訓練中の話です!」
「何思い出したとかも!?」
「だから!」
スズメの箸が、少し強く置かれた。
「閉じてくださいと言っているのです!」
「閉じ方教わってんだろ!」
「覚えてください!」
「やってる!」
「できていません!」
「もっかいやればできる!」
「今日はもうやりません!」
「何で!」
「やりません!」
日向が小声で冬真へ訊いた。
「何見られたと思います?」
冬真が笑いを堪える。
「知らないほうがいいんじゃない?」
「日向」
楓。
「はい」
「黙りなさい」
「はい」
御影だけが。
黙々と魚を食べていた。
伊織が横から訊く。
「御影先生、止めなくていいんですか」
「いつものことだ」
「そうですね」
食堂に。
久しぶりに。
普通の夕食の声が響いていた。
*
翌朝。
再び林。
奎星は地面へ座っていた。
昨日とは違う。
ふざけていない。
目を閉じ、膝の上へ両手を置いている。
スズメはその正面。
数メートル離れた場所へ立っていたが、今日はまだ杖を向けていなかった。
「昨日」
スズメが言う。
「あなたは、何も考えないようにしようとしていました」
「うん」
「ですが、それでは駄目です」
「分かってきた」
奎星は目を閉じたまま答えた。
「考えないようにするとさ」
「はい」
「逆に浮かぶ」
スズメの目が僅かに変わる。
「何も考えるなって思えば思うほど、今何も考えてないか確認しちゃう」
「そうです」
「それで、何か思い出したら」
膝の上に置いた奎星の指が少し動く。
「消そうとする」
「ええ」
「消そうとしたやつが、一番目立つ」
スズメは少しだけ口元を緩めた。
「そこまで分かったなら、一歩進んでいます」
奎星が片目を開ける。
「褒めた?」
「褒めました」
「よし」
「集中してください」
「はい」
再び目を閉じる。
スズメは続けた。
「閉心術は、感情を殺す技術ではありません」
「うん」
「思い出を消すものでもない」
「うん」
「あなたの心は、あなたのものです」
静かな声だった。
「誰かが触れようとしたとき、自分で《ここから先へは入れない》と決める。その境界を意識してください」
奎星の呼吸が。
ゆっくりになる。
昨日までなら。
何か言った。
今は言わない。
心。
記憶。
父。
母。
八重子。
日向。
楓。
岳。
伊織。
御影。
スズメ。
消さない。
隠さない。
全部。
そこにある。
自分の内側に。
自分が開けると決めたときだけ、誰かへ見せるものとして。
「…………」
スズメが杖を上げる。
「いきます」
奎星の目が開いた。
「おう」
「レジリメンス」
衝撃。
東京。
八重子。
マホウトコロ。
そこまで。
スズメが止まる。
見えない。
いや。
違う。
ある。
向こう側へ記憶が存在することは分かる。
けれど。
間に何かがある。
薄い。
まだ脆い。
扉と呼ぶには不完全なもの。
それでも。
昨日まではなかった。
スズメが少しだけ力を込める。
ぐらり。
奎星の境界が揺れる。
破れる。
観測塔。
一瞬だけ見えた。
「くっ……!」
奎星の顔が歪む。
だが。
次。
戻した。
押し返す。
スズメの魔法が、ほんの僅かに外へ押し出される。
「……!」
スズメの目が大きくなった。
数秒。
そこが限界だった。
術を切る。
奎星が大きく息を吐いた。
「っはぁ……!」
額には汗。
それでも、すぐに顔を上げる。
「今!」
「…………」
「今ちょっといけたよな!?」
スズメはすぐには答えなかった。
奎星が少し不安そうになる。
「駄目だった?」
「……いいえ」
スズメは杖を下ろした。
「押し返しました」
奎星の顔が一気に明るくなる。
「マジ!?」
「ほんの一瞬です」
「できたじゃん!」
「完全には閉じていません」
「でも昨日より!」
「昨日よりは」
「よっしゃ!」
勢いよく立ち上がる。
「じゃ次!」
スズメが少しだけ笑った。
本当に。
この少年は。
一つできれば。
すぐ次へ行く。
失敗した回数より。
成功した一瞬を見る。
「まだです」
「えー!」
「休憩してください」
「いけるって!」
「精神魔法は疲労を自覚しにくいのです」
「大丈夫!」
「あなたの大丈夫は信用していません」
「またそれ!」
スズメは先に歩き始めた。
奎星も神代榊を腰へ戻し、その後ろについていく。
閉心術。
一日で。
覚えなかった。
二日目でも。
まだできない。
一度見れば真似る。
数回試せば、すぐ形にする。
そんな蓮根奎星でも。
心だけは。
そう簡単にはいかなかった。
力は関係ない。
魔力量も。
古代魔術も。
神代榊も。
関係ない。
何度も入られる。
何度も失敗する。
どこから入られた。
何を見られた。
なぜ揺れた。
一つずつ。
自分の心の形を。
自分自身で知っていく。
閉じる。
開けられる。
また閉じる。
何度でも。
何十回でも。
必要なら。
何百回でも。
奎星は。
それを嫌がらなかった。
「スズメちゃん!」
前を歩くスズメが振り返る。
「何です?」
「午後もやろうぜ!」
「今日は守護霊術があります」
「あ」
「忘れていましたね?」
「…………」
「蓮根君」
「今思い出した」
「忘れていたということです」
「閉心術で一回頭空っぽにしたから!」
「そういう魔法ではないと何度言えば分かるのですか!」
また二人の声が、林の中へ響く。
常隠島。
外部から隠された。
誰にも知られない島。
その片隅で。
一人の少年が。
初めて。
力ではなく。
自分自身の心と戦い始めていた。
神代冥司の魔法を。
押し返すために。
奪われた仲間たちを。
自分の手で連れ戻すために。
《星帰り作戦》まで。
準備は。
まだ。
始まったばかりだった。