白峰魔法学校。
夜明け前の雪は、まだ静かに降り続いていた。
転移場の周囲には夜通し明かりが灯され、石床の上には複雑な魔法陣が幾重にも描き足されている。その中央に据えられているのは、星迎祭のあと、柊木志乃が御影へ渡していた《火映し》の主座標。掌に収まるほどの金属板を囲むように、古代文字の写しや返し標の術式、白峰に残る転移魔法の資料が所狭しと広げられ、数人の魔法使いがほとんど休むことなく作業を続けていた。
白峰側には、転移術式に詳しい教員と卒業生。それに結界解除を専門としていた元禍祓官、久世環。
そして海を隔てた常隠島では、烏丸スズメと榊伊織が返し標を前に、まったく同じ作業を行っている。
離れた二つの場所で、同時に一本の道を作る。
口で言うほど簡単な作業ではなかった。
「そちら、第三環をもう一度お願いします」
火映しの向こうからスズメの声が届き、白峰側の術師が杖を振る。
「第三環、再設定」
床へ描かれた文字が白く輝いた。
『違います』
今度は伊織だった。
『十二番と十四番の間に、古い転移文字が一つ抜けています。それを入れないと、向こう側へ着いた瞬間に経路が閉じます』
「十四番……これか?」
『それです。たぶん』
「たぶん?」
『古代魔術なので』
作業をしていた白峰の教師が顔を上げる。
「この状況で一番聞きたくない言葉だな」
『僕も言いたくありません』
火映しの向こうで、伊織がいつもの無表情のまま眼鏡を押し上げる。その横ではスズメが別の資料を確認していた。
『こちらの返し標は安定しています。白峰側から魔力を流してください。こちらで受けます』
「久世さん」
「分かってる」
久世環が杖を構えた。
少し離れた場所では、真壁たちと行動を共にすることを決めた十五人の禍祓官、そのさらに後ろで白峰の有志二十五人が息を詰めて見守っている。
その中には、斎賀玄弥もいた。
昨夜まで両手首を締めつけていた魔力拘束具は、もうない。白峰へ到着したあと、久世と白峰の解除術師たちが規格術式を解析し、ようやく外したのだ。
そして今、斎賀の腰には一本の杖がある。
かつて黒曜の環の側で振るった杖。
けれど今度は、違う。
御影玄一郎と真壁征士郎のいる側へ戻るための杖だった。
「始めるよ」
久世が杖を振る。
次の瞬間、白峰の転移陣から眩い白光が噴き上がった。
同時に、火映しの向こう側――常隠島の返し標も光を放つ。
『来ています!』
伊織の声が飛ぶ。
『そのまま!』
スズメも声を張る。
雪山と海の孤島。遠く離れた二つの場所を繋ぐように、一本、また一本と白い線が空中へ浮かび上がり、やがて巨大な円を描いていく。
久世の額に汗が浮かんだ。
「……よし」
真壁がすぐに訊く。
「繋がったか」
「まだ」
久世の声は低い。
「今のままじゃ通信だけ。人間を通すなら、もう一段必要だよ」
『こちらで開きます』
スズメが返す。
『榊君』
『はい』
伊織が術式の中央へ杖を向けた。
『三、二、一――』
二人の声が重なる。
『今!』
白峰側。
常隠島側。
ほとんど同時に杖が振られた。
転移陣の中央で、空間そのものが裂ける。
雪でもなければ、石壁でもない。
向こう側に見えたのは、青空だった。
海。
濃い緑の木々。
そして、その景色を遮るようにこちらを覗き込んだ一人の少年。
「うおおおおお! 開いた!!」
奎星だった。
「蓮根君、近いです!」
背後からスズメが外套を引っ張る。
「だって白峰見える!」
「だから顔を突っ込まないでください!」
白峰側を包んでいた張り詰めた空気が、一瞬だけ崩れた。
真壁は目を閉じ、小さく息を吐く。
「……成功だな」
久世が笑った。
「成功」
そして。
最初の一人が、常隠島へ足を踏み入れた。
*
一歩進んだだけで、雪の冷気は消えた。
代わりに鼻へ届いたのは潮の匂い。頬を撫でるのは暖かな海風だった。
白峰から常隠島へ移動した者たちは、あまりにも突然変わった景色に思わず足を止める。つい一歩前まで雪深い山の中にいたはずなのに、目の前には青い海と濃い緑、古い石造りの建物が広がっていた。
そして、その前には。
待っていた者たちがいる。
「先生!」
真っ先に飛び出したのは澪だった。
白峰の教師たちの顔を見た瞬間、それまで凛としていた少女の表情が崩れる。
「澪!」
女性教師が両腕を広げた。
澪はほんの一瞬だけ迷い、そのまま胸へ飛び込んだ。
「よかった……! 本当に……無事で……!」
強く抱きしめられる。
「先生、苦しい」
そう言いながらも。
澪も離れなかった。
そのすぐ近くでは、別の白峰教師が柊木の姿を見つけている。
「志乃!」
「あら」
柊木の目が丸くなり、次の瞬間には抱きしめられていた。
「『あら』じゃない!」
「ちゃんと帰ってきたでしょう?」
「連絡が途切れてから何日心配したと思ってるの!」
「すみません」
柊木は、いつもの余裕ある笑みを浮かべる。
それでも。
抱き返す腕には、ほんの少しだけ力が入っていた。
周囲でも教員と卒業生、澪、柊木、それぞれが言葉を交わし、無事を確かめ合っている。
その光景を眺めながら、日向が小さく呟いた。
「なんかいいな、こういうの」
楓も素直に頷く。
「うん」
奎星は別のところを見ていた。
転移陣。
そこから、真壁征士郎が出てくる。
真壁も島へ足を踏み入れた瞬間に、一人の男を見つけていた。
御影玄一郎。
二人は、すぐには何も言わなかった。
真壁が歩く。
御影も動く。
数歩。
距離が縮まる。
そして、互いの手が届くところで止まった。
「…………」
「…………」
奎星が日向へ顔を寄せる。
「何か言わないの?」
「知らん」
しばらく御影の顔を見ていた真壁が、ようやく口を開いた。
「酷い顔だな」
御影が鼻を鳴らす。
「お前に言われたくない」
「それは前にも聞いた」
「ああ」
また沈黙。
けれど今度は。
御影が右手を出した。
真壁は差し出された手を見て、それから握る。
強くもない。
弱くもない。
短い握手。
それだけだった。
十二年以上の付き合いがある二人には、それで十分だった。
「遅かったな」
御影が言う。
「誰のために走り回っていたと思ってる」
「知らん」
「そうか」
手が離れる。
けれど、真壁の口元にはほんの僅かに笑みがあった。
その直後だった。
「御影隊長っ……!」
御影の眉が動いた。
「…………」
振り返る。
遅かった。
「隊長ぉぉぉぉ!!」
「待て」
深見玲司が、そのまま御影へ抱きついた。
「ぐっ」
大柄な御影の身体が僅かに揺れる。
奎星の目が見開かれた。
「ええ!?」
日向も驚愕する。
「御影先生に抱きついた!?」
楓まで目を丸くしていた。
御影は自分の胸元へ顔を埋めている男を見下ろし、数秒黙ったあとに言った。
「……老けたな」
「隊長もです!」
「離れろ」
「またあなたと戦えて光栄ですっ!」
「聞いてない。離れろ」
「十二年ですよ!」
「分かったから離れろ」
「隊長ぉ!」
「うるさい」
御影が額を押さえる。
その後ろには鷲尾宗一、久世環、そして何人もの禍祓官たちがいた。
かつて御影と共に現場へ出た者たちが、一人ずつ前へ出る。
「お久しぶりです」
「また隣で杖を振れるとは思いませんでした」
「御影さん、相変わらず怖い顔だ」
「お前も老けた」
「第一声それですか」
「他に何がある」
笑い声が上がる。
十二年という時間を挟んでも。
現場で背中を預けた人間同士の距離は、不思議なほど簡単に戻るものらしい。
少し後ろでは、若い倉橋哲人がその光景を食い入るように見つめていた。
記録でしか知らなかった御影玄一郎。
自分が禍祓官を志すきっかけになった《最強の三人》の一人。
それが今、目の前にいる。
しかも。
昔の仲間たちに囲まれている。
奎星も、同じ光景を見ていた。
「…………」
御影先生。
みんなに尊敬されてる。
魔法が強いから。
きっと、それだけじゃない。
何度も誰かと現場へ出て。
守って。
助けて。
怒鳴って。
それでも、一緒に生きて帰ってきた。
だから十二年経っても。
また隣に立ちたいと言う人がいる。
「すげえ……」
小さく呟き、奎星は無意識に右手を握った。
いつか。
自分も。
強いだけじゃなく。
あんなふうに、誰かから「一緒に戦いたい」と思ってもらえる魔法使いに。
「…………」
御影が一瞬だけ奎星を見る。
何を考えているのかまでは分からない。
けれど。
強く握られた拳には気づいた。
御影は何も言わなかった。
それでよかった。
*
「いやぁ」
転移陣の向こうから。
最後に、一人の男が現れた。
「感動の再会だねえ」
その瞬間。
空気が変わった。
御影の目が動く。
真壁は、やはり来たかというように目を閉じる。
奎星。
日向。
楓。
岳。
伊織。
スズメ。
全員の視線が、その男へ向いた。
斎賀玄弥。
拘束具は、もうない。
腰には杖がある。
夏。
黒曜の狩人を率い、鬼火鳥を追っていたときと同じ男。
ただし。
もう黒い長衣は着ていない。
白峰で用意された簡素な外套を羽織り、転移陣の向こうに立っている。
斎賀は少しだけ笑った。
そして。
御影を見る。
十二年前、帰ってこなかった友人。
夏に再会し。
敵として。
互いに本気で杖を向けた男。
「よお、玄一――」
最後まで言えなかった。
御影の拳が、斎賀の頬へ叩き込まれた。
「ぶっ!?」
斎賀の身体が回る。
そのまま地面へ倒れた。
「えええええええ!?」
一番驚いたのは奎星だった。
日向も叫ぶ。
「御影先生!?」
真壁は。
何も言わなかった。
というより。
止めようとすらしなかった。
斎賀が地面へ手をつき、頬を押さえる。
「…………痛っっった!!」
御影は無表情だった。
「何すんだよ!?」
「十二年分だ」
「一発で!?」
「足りないか」
「いやいやいや! 十分! めちゃくちゃ十分!」
斎賀が顔を上げる。
御影は。
そこに手を差し出していた。
「…………」
斎賀の声が止まる。
御影は短く言う。
「一旦」
一拍。
「これで仲間だ」
斎賀は差し出された手を見る。
次に御影を。
その後ろの真壁を。
一度、目を閉じた。
そして。
少し笑う。
「……ならよかった」
手を取る。
御影が斎賀を引き上げた。
十二年前。
戻れと言った。
帰ってこなかった。
十二年後。
ようやく現れたと思えば、敵だった。
戦った。
倒した。
捕まえた。
けれど今。
もう一度。
同じ側へ立たせる。
二人の手が離れた。
もちろん。
それで全部が元へ戻ったわけではない。
そんなに簡単な話ではなかった。
だからこそ。
次に待っていた視線は。
冷たかった。
「…………」
斎賀がそちらを見る。
烏丸スズメ。
普段なら穏やかな表情には、今は一切の笑みがない。
その隣。
岳。
拳が固く握られている。
さらに奎星、日向、楓、伊織。
鬼火鳥の現場にいた者たち。
誰も。
斎賀を笑顔で迎えてはいなかった。
斎賀はそれを見渡し、小さく息を吐く。
「……分かるよ」
岳の眉が寄った。
「何がだよ」
「ムカついてんだろ。俺に」
岳の顔が一気に険しくなる。
「そんなもんじゃねえ!」
一歩前へ出る。
奎星がすぐに腕を掴んだ。
「岳」
「離せ!」
「落ち着けって!」
「こいつらが鬼火鳥に何したか、お前も見ただろ!」
「見た!」
「お前だって殺されかけたんだぞ!」
「分かってる!」
「だったら――!」
「岳」
今度は。
奎星の声が少し低かった。
岳が止まる。
斎賀は二人を見ていた。
それから。
スズメを見る。
その冷たい視線から。
逃げなかった。
やがて斎賀は。
ゆっくり頭を下げた。
深く。
深く。
腰から。
「…………」
全員が黙る。
斎賀玄弥は、頭を下げたまま言った。
「本当に、悪かった」
そこに、いつもの軽さはなかった。
「全部だ。鬼火鳥を傷つけた。捕まえた。黒曜の狩人として、お前たちに杖を向けた。蓮根奎星を狙った連中の側にいた」
奎星は黙って斎賀を見る。
「玄一郎とも戦った」
御影も何も言わない。
「俺のしたことが許されるなんて思ってない。許してほしいとも思ってない」
風が島の木々を揺らす。
斎賀は頭を下げたまま続けた。
「だけど、神代の好きにさせたくないってのは俺も一緒だ」
そこで、ようやく身体を起こす。
目に。
もうふざけた色はなかった。
「奴を倒す」
一拍。
そして。
最後だけ。
妙に斎賀らしく言った。
「俺は強い」
日向の眉が僅かに上がる。
「それだけは、役に立てる」
斎賀はもう一度、全員を見た。
「だから」
短く。
「協力させてくれ」
沈黙。
岳は斎賀を睨んでいた。
許せるか。
無理だ。
鬼火鳥の傷ついた翼。
脚へつけられた拘束具。
切り取られた尾羽。
今でもはっきり思い出せる。
奎星が血だらけで倒れたことも。
そして。
もう一つ。
岳は見ていた。
透明な結界の向こう。
御影玄一郎と。
斎賀玄弥。
二人の戦い。
あの御影が魔力を削られ、体力を削られ、最後には片膝をついた。
そこまで追い詰めた男。
強い。
認めたくなくても。
それだけは分かる。
これから自分たちが戦うのは、神代冥司なのだ。
そのとき。
この男がいるか。
いないか。
「…………」
岳は長く息を吐いた。
「俺は」
斎賀を見る。
「お前を許さねえ」
「ああ」
「鬼火鳥にしたことも」
「ああ」
「奎星にしたことも」
「ああ」
「でも」
岳は御影、真壁、斎賀の三人を見る。
「……使えるなら使う」
斎賀の口元が、ほんの少しだけ上がった。
「十分だ」
「笑うな」
「悪い」
「あと」
「何?」
岳の目が鋭くなる。
「また鬼火鳥に何かしたら、今度は俺がぶん殴る」
斎賀が少し驚き、それから御影を見る。
「今日二発目?」
「知らん」
「止めてくんない?」
「自分で避けろ」
「仲間じゃなかった?」
「一旦な」
「一旦ってそういう意味!?」
岳の口元が。
ほんの僅かに緩んだ。
許したわけではない。
それでも。
同じ方向へ向くことはできる。
今は。
それでよかった。
*
戦力は揃った。
禍祓官。
白峰の教員と卒業生。
御影。
真壁。
斎賀。
柊木。
スズメ。
そして生徒たち。
《星帰り作戦》は、もはや机の上だけの構想ではなくなり始めている。
しかし。
最後にして最大の問題が、まだ残っていた。
「……消えてる」
伊織が言った。
常隠島。
返し標が置かれた地下室。
壁いっぱいに転移経路の術式が広げられている。
白峰から常隠島。
そこには、一本の明確な線がある。
魔法省旧区画から常隠島。
こちらも繋がっている。
だが。
マホウトコロ。
そこだけが。
ない。
伊織は何度も術式を確認した。
スズメも。
白峰から来た術師たちも。
久世も。
結論は同じだった。
「白峰側の記録からも消えています」
白峰の教師が言った。
「星迎祭の日までは存在していたんです。マホウトコロの転移標へ接続する通常経路が」
御影が壁を見る。
「今は」
「反応がありません」
奎星が訊く。
「壊れた?」
伊織は首を振った。
「壊れた、とは少し違う」
「じゃ何?」
「切られた」
奎星の顔から笑みが消える。
「誰に」
答える者はいなかった。
答える必要も。
ほとんどなかった。
神代冥司。
真壁が腕を組む。
「魔法省側にも経路がない」
「白峰にもありません」
スズメも続けた。
「外部座標そのものを閉じたのでしょう」
柊木が術式を見ながら考える。
「マホウトコロを完全に孤立させた……」
御影はしばらく壁を見つめていた。
「用心深いな」
斎賀が横を見る。
「神代が?」
「ああ」
御影の指が、地図上のマホウトコロへ触れる。
「今のあいつにとって最優先なのは、学校の維持だ」
真壁も同じ場所を見る。
「魔法省全体を掌握したわけでもない」
「ああ」
「だから」
柊木が言った。
「私たちと戦う必要がない?」
御影が頷く。
「現時点で、俺たちが一番邪魔だ」
奎星が少し目を丸くする。
御影は構わず続ける。
「俺。征士郎。玄弥。柊木。烏丸。それに蓮根」
「俺も?」
「お前の杖と古代魔術は、神代にとって不確定要素だ」
奎星が腰の神代榊へ目を落とす。
「なら」
真壁が言った。
「わざわざこちらと接触する必要はない」
「学校を閉じて」
伊織が理解する。
「その間に魔法省を内側から崩す」
「そのあいだ」
御影が続ける。
「俺たちは入れない」
斎賀が小さく舌打ちした。
「徹底してんな」
「あいつはそういう男だ」
真壁の声は重かった。
負ける可能性がある戦いを。
今。
わざわざやる必要はない。
自分の支配を固める。
敵を隔離する。
情報を遮断する。
十分に準備が整うまで、御影たちという最大の脅威へ触れない。
「つまり」
日向が恐る恐る口を開く。
「戦力集めても……」
伊織が答える。
「学校に入れない」
「意味ないじゃん!」
「意味はある」
御影が即座に返した。
「入る方法を探す」
「でも」
奎星は壁に広がる術式を見る。
「道がないんだろ?」
御影の目が奎星へ向いた。
「なら」
短い声。
「作る」
奎星は一瞬黙った。
やがて。
笑う。
「そうだな」
真壁が二人を見る。
「似た者同士になってきたな」
「どこが」
御影。
「どこが?」
奎星。
ほとんど同時だった。
真壁は。
何も言わなかった。
*
それから一日。
常隠島では、マホウトコロへ繋がる痕跡を探し続けた。
伊織とスズメは返し標の術式を何度も洗い直し、白峰から来た転移術師たちは古い記録と現代式の転移座標を照合する。真壁と久世も魔法省側に残っていた非常時経路の記録を持ち込み、使えそうなものを片端から試した。
それでも。
道は開かなかった。
白峰。
繋がる。
魔法省。
繋がる。
マホウトコロ。
反応なし。
日が沈み。
食事を終え。
一人、また一人と地下室を離れていったあとも。
伊織だけは残っていた。
静かな石室。
机には紙が積み上がり、壁には無数の線と古代文字が並んでいる。
伊織は返し標の前へ座り、今日何度目かも分からない確認を続けていた。
白峰。
魔法省。
二つの接続。
そして。
閉ざされたマホウトコロ。
「…………」
紙へ新しい線を書き足す。
その瞬間だった。
「……?」
指が止まる。
返し標。
中央。
ほんの小さな光。
見間違いかと思うほど弱い。
「…………」
伊織が顔を近づけた。
何もない。
消えた。
けれど。
今。
確かに。
何かが。
伊織は立ち上がる。
「烏丸先生!」
階上へ向かって声を張る。
少しして、慌ただしい足音が降りてきた。
最初に入ってきたのはスズメ。
その後ろ。
なぜか奎星。
「何!?」
スズメが振り返る。
「何で蓮根君まで来るのですか!」
「スズメちゃん走ってたから!」
「ついてこないでください!」
「何かあったんだろ!」
伊織が二人を制した。
「静かに」
「…………」
石室が静まり返る。
返し標。
何も起きない。
一秒。
二秒。
三秒。
奎星が小声で言った。
「何もなくね?」
「今、反応した」
伊織が答える。
「どこ?」
「ここ」
指したのは、石台の中央。
マホウトコロ側。
本来なら。
接続そのものが消えている場所。
そこへ。
また。
小さな光が灯った。
点。
「……!」
スズメが息を呑む。
「これは……」
伊織がすぐ杖を取り出す。
「接続……?」
「あり得ません」
スズメも石台へ近づいた。
「経路は完全に閉じられているはずです」
「でも」
光が消える。
少しして。
また点く。
一定ではない。
弱い。
けれど。
何かが。
向こう側から。
こちらへ触れようとしている。
「真壁さんたち呼ぶ?」
奎星が訊く。
伊織は首を振った。
「まだ。何なのか分からない」
そのとき。
ざ。
小さな音がした。
三人が止まる。
「…………」
ざざ。
石から。
雑音。
奎星の顔が変わる。
「声?」
石台へ近づこうとすると、スズメが腕を掴んだ。
「待ってください」
「でも!」
『…………』
遠い。
ほとんど聞き取れない。
何か。
誰か。
「…………」
三人は息を潜める。
『……ン……』
奎星の眉が寄る。
今。
何か。
『……コン……』
「…………」
知っている。
その声を。
小さい。
舌足らず。
何度訂正しても。
一度も。
直らなかった。
『……レンコン』
奎星の目が大きく見開かれた。
次の瞬間。
石台へ飛びつく。
「天ぷら!?」
伊織も目を見開いた。
スズメは言葉を失う。
雑音。
ざざ。
その向こう。
もう一度。
『レンコン……?』
「天ぷら!!」
奎星が叫ぶ。
「俺! 奎星!」
『…………』
「天ぷら! 聞こえる!?」
ざざ。
雑音が大きくなる。
弱い。
今にも消えそうだった。
それでも。
そこに。
声がある。
『レンコン』
その呼び方をする小妖を。
奎星が間違えるはずがなかった。
「……いる」
小さな声だった。
スズメが奎星を見る。
奎星は石台から目を離さない。
「学校だ」
神代冥司によって外部から完全に閉ざされたマホウトコロ。
転移経路は消えた。
座標も封じられた。
こちらから。
誰も入れない。
そう思っていた。
けれど。
向こうから。
声が届いた。
『レンコン……』
「天ぷら」
今度の奎星の声は。
少しだけ震えていた。
小妖。
天ぷら。
マホウトコロへ来たばかりの頃から、毎日のように食事を運び、何度「蓮根だ」と訂正しても、ずっと「レンコン」と呼び続けた小さな友人。
その声が。
学校の中から。
ここまで来た。
たった一言。
それだけだった。
それでも。
十分だった。
道は。
完全には消えていない。
マホウトコロは。
まだ。
こちらと繋がっている。
その向こうには。
神代だけではない。
九重院がいる。
教師たちがいる。
生徒たちがいる。
そして。
天ぷらがいる。
待っている。
奎星の右手が。
神代榊を握った。
「見つけた」
スズメが顔を上げる。
伊織も、もう一度石台を見る。
奎星は。
笑った。
「帰る道」
《星帰り作戦》。
最後まで見つからなかった。
たった一つのもの。
奪われた学校へ帰る道が。
今。
海の向こうから。
自分たちを呼んだ。