常隠島、返し標の地下室。
『レンコン』
雑音の向こうから届いた、その一言で、止まっていた《星帰り作戦》が再び動き始めた。
*
「天ぷら、もう一回。ゆっくりな」
『ワカッタ』
返し標の上に浮かぶ像は、未だ安定していなかった。光が揺れるたびに映像は乱れ、声にも細かな雑音が混じる。それでも昨夜よりは遥かに鮮明で、今では天ぷらの顔だけでなく、その後ろにいる何匹もの小妖まで見分けられるようになっていた。
《モンジャ》。
《オカカ》。
《チクワ》。
《キナコ》。
《オデン》。
そして、少し後ろから覗き込んでいる《ツクネ》。
星迎祭の日に妙な法被を着て校内を歩き回っていた小妖たちが、今度は揃ってマホウトコロの内側からこちらを見ている。
常隠島側には、ほとんど全員が集まっていた。
御影。真壁。斎賀。柊木。スズメ。
伊織は返し標の真正面に座り、膝の上へマホウトコロの校内図と何枚もの紙を広げている。その後ろには奎星、日向、楓、岳、澪、冬真。白峰から来た者たちと禍祓官の一部も、少し離れた場所から通信を見守っていた。
昨夜、天ぷらの声が届いた。
なら、聞かなければならない。
今、マホウトコロで何が起きているのか。
「まず校長」
伊織が言った。
「九重院校長を見た?」
天ぷらが大きく頷く。
『ミタ』
空気が変わる。
真壁が僅かに身を乗り出した。
「生きてる?」
奎星が訊く。
『イキテル』
一瞬、誰も何も言わなかった。
御影の肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。真壁は目を閉じ、長く息を吐いた。
「……そうか」
それだけだった。けれど、その声には数日分の重さがあった。
九重院紫苑。
生きている。
倒れていた。
生徒たちの魔法を受けた。
その後、どうなったのか、誰にも分からなかった。
だが、生きている。
それだけで十分だった。
「どこ?」
伊織が訊く。
天ぷらは言葉に詰まった。
『コッチ』
「こっちじゃ分からないな」
日向が小声で言う。
伊織はすぐに校内図を持ち上げ、返し標の前へ向けた。
「天ぷら、この地図分かる?」
『ガッコウ』
「そう。学校」
伊織は杖を振り、校内図をいくつかの区画に分けた。順番に光らせながら、天ぷらへ確認していく。
「ここ?」
『チガウ』
「ここ」
『チガウ』
「ここ?」
天ぷらが首を傾げる。
後ろからオカカが出てきた。
『ソコ、チカイ』
伊織の目が変わる。
「この辺り?」
『ウン』
さらに質問を細かくする。
階。
廊下。
窓があるか。
階段は近いか。
普段、生徒が使う場所か。
小妖たちの言葉は短い。だからこそ、伊織が一つずつ情報へ変えていく。
数分後、校内図の一点へ小さな丸がついた。
「九重院校長は、本館の奥」
伊織が言う。
「少なくとも天ぷらたちが最後に見た時点では、そこで拘束されてる」
柊木がすぐに訊く。
「見張りは?」
『クロイヒト、イル』
「黒い人?」
奎星が眉を寄せる。
天ぷらが何度も頷く。
『クロイ、フク。ツエ。ミハリ』
御影が低く言った。
「黒曜の環だろうな」
真壁も頷く。
「人数は」
伊織が訊く。
天ぷらが指を使おうとする。
一。
二。
迷う。
後ろからモンジャまで手を出す。
「……数は当てにしないほうがいいですね」
スズメが言った。
「そうだね」
伊織もすぐ諦めた。
重要なのは、生きていること。場所が分かること。見張りがいること。それだけでも大きい。
「先生たちは?」
今度は楓が訊いた。
天ぷらたちの顔が少し曇る。
『センセイ、バラバラ』
「バラバラ?」
『シバラレテル』
スズメの表情が硬くなる。
教師たちは、やはり拘束されたまま。しかも、一か所ではない。
土御門。
薬師寺。
早瀬。
高宮。
白峰から応援に来ていた教員たち。
神代に反抗する力を持つ者を、一か所へ集めず、校内の各所へ分散しているらしい。
「まとめて助けられないようにしたのね」
楓が呟く。
柊木が静かに頷く。
「でしょうね」
一か所に集めれば、そこさえ突破されれば教師全員が戻る。神代がそんな配置をするはずがない。
「次」
伊織が紙へ書き込みながら言う。
「神代冥司は?」
『コーチョー』
奎星の眉がぴくっと動いた。
「いや、天ぷらまで神代校長って――」
『ミンナ、イッテル』
奎星が止まる。
天ぷら自身が神代を校長と思っているわけではない。
生徒たちが、そう呼んでいる。
『カミシロコーチョー』
『ミンナ、イウ』
「……まだか」
日向の声から、いつもの軽さが消える。
あの日、門から戻ったとき、窓にいた生徒たちが言っていた。
神代校長。
九重院先生。
まるで最初から、それが正しかったように。
「生徒はどうしてる?」
冬真が訊いた。
天ぷらは少し考えた。
『ゴハン』
「飯?」
『タベル』
岳が微妙な顔をする。
「そこは普通なんだな」
『ジュギョウ』
「授業も?」
『スル』
『ソウジ』
『ネル』
『アサ、オキル』
小妖たちが次々と答える。
食べる。
授業をする。
掃除をする。
眠る。
朝になれば起きる。
一見すれば、いつものマホウトコロ。
ただ、そこに九重院はいない。
教師たちは拘束されている。
そして、生徒たちは神代冥司を校長として生活している。
「……気味悪いな」
奎星が低く呟いた。
暴れているわけではない。
操り人形のように立ち尽くしているわけでもない。
笑う。
飯を食う。
友達と話す。
授業を受ける。
その生活の中心だけが、丸ごと神代へ置き換えられている。
スズメの顔から血の気が引く。
「記憶そのものを書き換えているわけではないのかもしれません」
伊織が見る。
「どういうことです?」
「認識です」
スズメは言った。
「神代さんが校長である、九重院校長たちが危険である。その判断だけを、霊脈を通して継続的に上書きしている可能性があります」
御影が腕を組む。
「だから生活はできる」
「はい」
日向が嫌そうに顔を歪める。
「余計やべえじゃん」
「ええ」
スズメの返事は短かった。
完全に壊す必要などない。
たった一つ。
誰を信じるか。
誰を敵と思うか。
そこだけ変えればいい。
神代冥司は、学校そのものを、そうやって奪った。
*
「黒曜の環は?」
真壁が訊いた。
今度はオデンが前へ出た。
『アルク』
「どこを?」
『ローカ』
「校内を巡回してる?」
『ウン』
チクワも頷く。
『ヨルモ』
「夜も」
真壁が呟く。
伊織が校内図へ新しい線を引いていく。
中央回廊。
大食堂周辺。
校庭。
本館。
教師たちを拘束している区画。
巡回の頻度までは分からない。
だが、人間の警備がある場所と、薄い場所は少しずつ見えてきた。
そのとき、伊織が顔を上げた。
「天ぷらたちは?」
『ナニ』
「普通に歩けるの?」
天ぷらが首を傾げる。
「黒い服の人に止められない?」
『トメナイ』
「生徒にも?」
『ゴハン、ハコブ』
モンジャ。
『ソウジ』
オカカ。
『クラ』
「倉庫?」
『イク』
キナコ。
『チュウボウ』
岳の目が少し動く。
「厨房も」
『イク』
「どこでも行けるんだな」
『ドコデモイク』
「……強いな、お前ら」
奎星が思わず言う。
天ぷらが胸を張る。
『テンプラ』
「そこ名前言うとこじゃないけどな」
日向が吹き出しかけた。
だが、伊織だけは笑っていなかった。
「どこでも」
小さく繰り返す。
校内図。
厨房。
倉庫。
大食堂。
教師用区画。
本館。
地下。
伊織の目が、少しずつ変わっていく。
「天ぷら」
『ナニ』
「いつも生徒が使う廊下だけ通る?」
『?』
言い方を変える。
「ご飯運ぶとき」
『ウン』
「廊下を通らない道、ある?」
天ぷらは、すぐに頷いた。
『アル』
全員の視線が集まった。
伊織が眼鏡を押し上げる。
「どこ」
『ウラ』
「裏?」
『チイサイ、ミチ』
オカカも横から言う。
『カベ、ナカ』
モンジャ。
『ユカ、シタ』
「…………」
伊織が立ち上がった。
「小妖用の作業経路だ」
スズメも理解する。
「厨房や倉庫へ物資を運ぶための……?」
「多分。それだけじゃない」
伊織は校内図を広げ直す。
マホウトコロは何百年も前から、建て増しと改修を繰り返してきた。現在の廊下とは別に、古い通路が残っていても不思議ではない。
しかも、それを日常的に使っている者がいる。
小妖たち。
「天ぷら」
奎星が石台へ顔を寄せる。
「その道、俺ら入れる?」
『レンコン、デカイ』
「傷ついた!」
伊織が即座に訊き直す。
「人間が通れないほど狭い?」
天ぷらが考える。
『オオキイミチ、アル』
「あるんだ」
伊織の声が、初めて少し弾んだ。
「昔、人間も使ってた通路が残ってる」
御影が校内図へ近づく。
「どこへ繋がってる」
「それを今から調べます」
伊織は紙を全部引き寄せた。
「天ぷら。今日は長くなるよ」
『ワカッタ』
「モンジャたちにも手伝ってもらっていい?」
小妖たちが一斉に頷いた。
『ワカッタ』
『テツダウ』
『レンコン、カエル』
奎星の顔が止まる。
天ぷらが、もう一度言った。
『レンコン、カエル』
「……ああ」
奎星は笑った。
「帰るよ」
*
それから数時間、返し標の地下室は即席の作戦室へ変わった。
伊織が校内図を分割し、返し標の向こうでは小妖たちが実際にマホウトコロを歩く。
天ぷらが厨房から出る。
『ミギ』
「右」
伊織が線を引く。
『カイダン』
「階段。何段?」
『イッパイ』
「そこは後で測ろう」
『トビラ』
「扉」
『アカナイ』
「鍵?」
『テンプラ、アク』
「天ぷらは開けられる」
『ウン』
「どうやって?」
天ぷらが扉の横へ小さな手を置く。
光る。
開く。
伊織の目が細くなる。
「小妖の魔力を認識してる」
スズメが隣で古い資料を捲る。
「学校の維持機構と繋がっているのでしょう」
小妖たちは昔からマホウトコロで働いている。
生徒より、教師より、ずっと長く。
学校そのものに組み込まれた存在。
神代が外部座標を閉じても、厨房は動く。
倉庫は開く。
食事は運ばれる。
掃除は続く。
学校を維持するための道まで、完全に止めることはできなかった。
そこに穴があった。
伊織は見逃さない。
厨房裏。
古い搬送路。
地下へ降りる石段。
壁の中を通る保守通路。
本館の床下。
現在は使われていない職員用の旧経路。
一本、また一本と、地図の上へ新しい線が増えていく。
白峰の術師も加わった。
久世環も。
真壁も。
古い転移術の記録を照合する。
夜が近づく頃には、三本の経路が形になっていた。
「……できる」
伊織が言った。
部屋の全員が振り返る。
伊織は三つの地点を指した。
「同じ入り口から全員を送る必要はありません」
一つ目。
本館側。
教師たちが拘束されている区画へ繋がる旧搬送路。
二つ目。
厨房の地下から、さらに古い基礎部分へ降りる経路。
霊脈へ接触するための道。
三つ目。
校内中央部へ抜ける広い旧通路。
神代側の巡回と接触しやすい位置。
「小妖たちが内側から旧経路を開く。常隠島の返し標でその瞬間の術式を拾い、白峰の転移式を重ねる」
真壁が訊く。
「座標として固定できるのか」
「できます」
伊織は即答した。
「普通の転移座標は神代に切られています。でも、これは外から学校の座標を指定するんじゃない」
石台へ指を置く。
「中から道を開いてもらうんです」
スズメが小さく息を吐く。
「天ぷらたちを目印に」
「はい」
「小妖の魔力を帰還地点として利用する?」
「正確には、小妖が開いた学校内部の旧術式を目印にします」
伊織は眼鏡を押し上げる。
「神代が切ったのは《外からマホウトコロへ入る道》です。でも、小妖たちが今も使っている経路は、学校の内側で生きている」
奎星が笑った。
「裏口から入るってこと?」
伊織は少し考える。
「ものすごく雑に言えば」
「よし」
「納得しないで。もう少しありがたがって」
「すげえ裏口!」
「悪化した」
日向が吹き出した。
御影は笑わなかった。だが、地図を見る目はもう違っていた。
入れる。
マホウトコロへ。
帰れる。
「榊」
「はい」
「三つとも安定させろ」
「やります」
御影は全員へ向き直った。
「なら次だ」
空気が変わる。
「作戦を分ける」
*
常隠島の訓練場。
夕暮れの地面の中央へ、大きなマホウトコロの校内図が広げられていた。その周囲に、全員が集まっている。
御影が杖先で地図を三つに分けた。
「全員で動けば遅い」
一つ目。
「九重院と教師を救出する隊」
柊木が顔を上げる。
「私ですね」
「ああ」
御影は白峰の者たちを見る。
「柊木を指揮に、白峰組」
白峰の教員、卒業生、治療術師、元決闘選手。二十五人。
柊木志乃を中心に、一つの隊となる。
「最優先は九重院の確保。その後、分散拘束されている教師を順次救出する」
柊木が頷く。
「生徒と遭遇した場合は?」
「傷つけるな」
御影は即答した。
「止めるだけだ」
「分かりました」
柊木の目が静かに鋭くなる。
「では、《救出隊》ですね」
御影が次の地点を指した。
地下。
古い霊脈へ続く経路。
「二つ目」
スズメ。
奎星。
日向。
楓。
岳。
伊織。
澪。
冬真。
全員の目が地図へ落ちる。
「霊脈へ向かう」
奎星が神代榊へ触れる。
「蓮根が守護霊を流す」
スズメが続けた。
「そして、生徒たちへの術式を解除する」
「ああ」
御影は禍祓官の列へ視線を向ける。
「護衛をつける」
倉橋哲人。
久世環。
さらに三人の禍祓官が前へ出る。
五人。
「蓮根が術を使っている間、絶対に近づけさせるな」
倉橋が頷く。
「了解です」
久世は奎星を見る。
「私ら五人と、その友達全員で守るわけね」
「そうだ」
「重役だねえ、蓮根君」
奎星が胸を張る。
「俺主役?」
御影が即座に言う。
「違う」
「そこ否定すんの早くない!?」
「お前は術を使うだけだ」
「それが一番大事じゃん!」
「だから黙って集中しろ」
「まだ本番じゃねえよ!」
日向が笑う。
楓は額を押さえた。
スズメだけが、少しだけ笑っていた。
御影が地図の二つ目へ杖先を置く。
「《霊脈隊》」
そして、三つ目。
校内中央。
神代の配下が巡回する区画。
最も敵とぶつかる可能性が高い場所。
御影は自分自身の杖先を、そこへ置いた。
「最後」
真壁が隣へ立つ。
斎賀も、少し遅れて、その横へ。
禍祓官たちの中から、鷲尾宗一、深見玲司、残る十名が前へ出る。
奎星が三人を見る。
御影玄一郎。
真壁征士郎。
斎賀玄弥。
十二年前、最も危険な現場へ三人で出ていた。
《最強の三人》。
その三人が、同じ地図の前へ並んでいる。
御影が言った。
「俺たちは黒曜の環を引き受ける」
真壁が続ける。
「可能な限り、敵の主戦力をこちらへ向ける。救出隊と霊脈隊へ行かせない」
斎賀が肩へ杖を乗せる。
「派手に暴れりゃいい?」
真壁が睨む。
「言い方を考えろ」
「意味は合ってるだろ?」
「合っているのが腹立たしい」
鷲尾が小さく笑った。
御影は構わず続ける。
「神代が出てくるなら」
目が少しだけ細くなる。
「俺たちが止める」
空気が沈む。
それだけで、意味は伝わった。
《迎撃隊》。
黒曜の環。
そして、神代冥司。
最も危険な相手を引き受ける。
柊木が三つの地点を見比べる。
「救出隊が九重院校長と先生方を戻す」
スズメ。
「霊脈隊が生徒を戻す」
真壁。
「迎撃隊が、その二つを邪魔する戦力を止める」
伊織が頷いた。
「三つが同時に成功しないと駄目ですね」
「そうだ」
御影が言う。
「どれか一つでも崩れたら、学校は取り返せん」
奎星が地図を見た。
教師。
生徒。
神代。
全部。
一度に。
取り戻す。
岳が低く言う。
「やるしかねえな」
「うん」
楓。
「ここまで来たんだしね」
日向。
「やっと帰れんのか」
澪は黙ってマホウトコロの印を見つめる。
冬真が小さく笑った。
「帰ろう」
奎星が顔を上げた。
「おう」
*
その翌日。
常隠島の中央部。島の地面を横切る小さな霊脈の上に、何十人もの魔法使いが集まっていた。
これまでの訓練とは、少し違う。
今日試すのは、《星帰り作戦》の成否そのもの。
奎星の前には烏丸スズメ。
少し離れて、真壁征士郎。銀のニホンオオカミという完成された守護霊を扱う魔法使い。
御影玄一郎。奎星へ、何度も魔力の制御を叩き込んできた教師。
柊木志乃。実戦の中で、何度も集中を保ち続けてきた決闘者。
伊織と久世は霊脈の流れを確認するための術式を広げ、白峰の術師たちがそれを補助している。
斎賀は少し離れた木へ寄りかかっていた。
「豪華だねえ」
奎星が周囲を見る。
「めっちゃ見られてる」
「失敗できないな」
斎賀が笑う。
「プレッシャーかけんなよ!」
「大丈夫大丈夫」
「何が!」
御影が斎賀を見る。
「黙ってろ」
「はいはい」
真壁が奎星へ近づいた。
「蓮根君」
「はい」
「守護霊を大きくする必要はない」
奎星が頷く。
星迎祭。
自分の銀の鴉。
そして、その隣を走った真壁の巨大なニホンオオカミ。
魔力量だけなら、自分のほうが多い。
それでも、あの日の守護霊は明らかに真壁のほうが上だった。
濃さ。
安定性。
無駄のなさ。
経験。
「霊脈全体へ届かせるからといって、最初に全部出そうとするな」
真壁が言う。
「流れへ乗せるんだ」
「押すんじゃなくて?」
「そうだ」
御影も続ける。
「必要な量だけを、途切れさせず流せ」
何度も言われてきたこと。
必要な力だけ。
巨大だから、全部使う。
ではない。
「分かった」
奎星は神代榊を握り直す。
スズメが正面へ立った。
「そして、私は途中から開心術を使います」
奎星が見る。
「本気?」
「本気です」
「この前より?」
「本番の神代さんが、私より弱く入ってくる保証がありますか?」
「……ない」
「なら」
スズメの杖が上がる。
「私を押し返してください」
奎星も笑う。
「分かった」
伊織が紙を見る。
「霊脈、安定」
久世。
「反対側の観測点も準備できてる」
真壁。
「守護霊の形を崩すな」
御影。
「途中で無理だと思ったら切れ」
奎星がすぐに反応する。
「え、最後までやるんじゃないの?」
「訓練で壊れて本番に出られなきゃ意味がない」
「……はい」
御影が少しだけ目を細める。
「始めろ」
奎星は目を閉じた。
幸福な記憶。
もう、探す必要はなかった。
マホウトコロ。
羊脂玉の校舎。
食堂。
二年二組。
日向。
楓。
岳。
伊織。
御影。
スズメ。
天ぷら。
九重院。
夏。
鬼火鳥。
八咫祭。
星迎祭。
終わったものだけではない。
これから、また続くもの。
学校へ帰る。
授業を受ける。
飯を食う。
怒られる。
笑う。
その未来。
奎星が目を開いた。
「エクスペクト・パトローナム!」
銀白色の光が神代榊から溢れた。
以前のように爆発しない。
光は一本の流れとなり、空中で翼へ変わる。
嘴。
尾羽。
銀色の鴉。
輪郭が揺れない。
真壁の目が僅かに細くなる。
「……いい」
鴉は一度だけ奎星の頭上を旋回した。
そして。
「行け!」
杖が地面へ向く。
銀の鴉が急降下する。
地面へ触れた。
その瞬間、光となって沈んだ。
伊織の前、常隠島の霊脈を描いた紙へ銀色の線が走り始める。
「入った」
百メートル。
さらに先へ。
鴉は地面の下、霊脈の流れへ乗りながら進んでいる。
奎星の呼吸、安定。
魔力、安定。
形、崩れない。
真壁が何も言わず見ている。
御影も一言も挟まない。
それが、今は一番の評価だった。
「……蓮根君」
スズメの声。
「いきます」
奎星の目が少しだけ鋭くなる。
「おう」
杖先が額へ向く。
「レジリメンス」
衝撃。
奎星の視界が揺れた。
東京。
一瞬、見えかける。
扉。
閉じる。
スズメの魔法が押す。
奎星は押し返さない。
いや、力任せには押さない。
境界。
ここから。
内側。
自分のもの。
入れない。
守護霊。
銀の鴉。
意識を切らない。
霊脈の先。
飛ぶ。
スズメが、もう一段魔法を強めた。
今度は別のところ。
感情。
帰りたい。
マホウトコロ。
そこへ触れようとする。
奎星の眉が寄る。
だが、閉じる。
消さない。
マホウトコロを忘れない。
隠さない。
大事だから。
そこに置いたまま、触らせない。
「…………っ」
汗が一筋、頬を流れる。
伊織が紙を見る。
「半分」
日向たちは誰も喋らない。
楓。
岳。
澪。
冬真。
全員、奎星を見ている。
スズメの目がさらに鋭くなる。
開心術。
もう一度、強く。
奎星の心の扉が揺れる。
観測塔。
花火。
黒い瞳。
一瞬、浮かぶ。
奎星の顔が僅かに歪む。
スズメ自身が、そこで気づく。
入れる。
あの感情なら、以前なら簡単に。
「…………」
けれど、次の瞬間、閉じた。
完全に。
何も見えなくなった。
「……!」
スズメの目が大きくなる。
押し返された。
魔力そのものではない。
拒絶された。
はっきりと。
ここから先は、入れない。
「まだだ……!」
奎星が低く言う。
銀の鴉が進む。
七割。
八割。
霊脈が島を横切る。
真壁の口元が僅かに上がった。
御影はまだ動かない。
伊織が叫ぶ。
「九割!」
反対側、島の西端。
白峰の術師たちが地面を見ている。
静か。
何もない。
一秒。
二秒。
そして、地面へ細い銀の筋。
「来る!」
次の瞬間、銀色の鴉が地面から飛び出した。
翼を広げる。
海へ面した崖の上。
眩い銀光。
鴉は一度、青空へ上がる。
同時に、伊織の紙の霊脈の端まで完全に銀色へ染まった。
「到達!」
歓声が上がる。
日向が真っ先に跳び上がった。
「いったぁぁぁ!!」
岳が拳を握る。
楓も、澪も、冬真も、顔が明るくなる。
だが、奎星はまだ動かない。
「スズメちゃん」
目を閉じたまま言う。
「まだ入ってる?」
スズメは杖を向けたまま、ほんの少し笑った。
「入れません」
奎星の目が開く。
「…………」
一拍。
「マジ?」
「はい」
その瞬間、奎星の顔が全部崩れた。
「っしゃああああああ!!」
守護霊の鴉が空高く、大きく羽ばたいた。
*
「寝ろ」
「え?」
成功から三十秒。
御影の第一声だった。
奎星が振り返る。
「いや今成功したんだけど!?」
「見てた」
「もうちょっと褒めるとこじゃない!?」
「成功した」
「それ報告!」
「よくやった」
奎星が止まる。
「…………」
御影が眉を寄せる。
「何だ」
「いや」
奎星が少し笑う。
「ちゃんと褒めたなって」
「寝ろ」
「余韻!」
「消耗してる」
言われて、初めて奎星自身も気づいた。
手が少し震えている。
頭も重い。
守護霊。
霊脈。
閉心術。
同時。
できた。
だからこそ、疲労も大きい。
スズメが隣へ来る。
「今日はもう終わりです」
「えー」
「終わりです」
「あと一回だけ」
「駄目です」
「まだ――」
「蓮根」
御影。
「寝ろ」
「……はい」
日向が笑う。
「本番前に珍しく素直」
「うるせえ」
奎星は神代榊を腰へ戻す。
スズメに付き添われ、宿舎へ向かう。
その背中を、御影はしばらく見ていた。
真壁が隣へ来る。
「完成したな」
「まだだ」
「相変わらず厳しいな」
「常隠島とマホウトコロじゃ規模が違う」
真壁は反論しなかった。
それは事実だった。
小さな島を通る一本の霊脈。
対して、マホウトコロ。
学校全体。
幾重にも枝分かれし、結界、古代術式、校舎、地下施設、すべてへ繋がる巨大な霊脈網。
ここからが計算だった。
御影が伊織を見る。
「榊」
「はい」
「全員集めろ」
伊織が頷いた。
*
一時間後。
奎星だけがいなかった。
「何で俺抜きで作戦会議すんだよ!」
宿舎から、遠く抗議の声が聞こえた。
「寝てください!」
スズメの声。
「寝れねえ!」
「目を閉じてください!」
「子供じゃねえんだから!」
「子供です!」
「十七!」
「学生です!」
訓練場に集まった者たちが、一斉にそちらを見る。
斎賀が笑う。
「元気じゃん」
御影が低く言う。
「放っとけ」
伊織は何事もなかったように紙を広げた。
「さっきの結果から計算しました」
全員の表情が変わる。
紙の中央。
常隠島の霊脈。
その横。
マホウトコロの霊脈網。
これまで集めた学校の資料。
鬼火鳥の移動記録。
古い結界図。
伊織が照合した。
複数の線。
「もちろん完全には読めません」
伊織が最初に断る。
「神代が霊脈へ流している術式そのものが抵抗になる可能性もある。枝の一部が閉じられている可能性もあります」
真壁が腕を組む。
「最悪値で出せ」
「そのつもりです」
伊織は紙の一点を指した。
「今日、奎星が常隠島の霊脈へ守護霊を通した速度。形を維持できる魔力量。途中で閉心術へ割く必要があった集中力」
数字が並ぶ。
伊織は一つずつ計算した。
マホウトコロの主流。
支流。
学校全域。
生徒の生活区画。
校舎。
寮。
訓練場。
地下。
神代の術式が霊脈全体へ流れているなら、そこを逆方向に守護霊で塗り替える。
「理論上」
全員が伊織を見る。
「十一分弱」
沈黙。
日向がいない。
奎星もいない。
だから、誰も軽口を挟まなかった。
伊織は続ける。
「ただし、これは霊脈側に抵抗がない場合です。神代の術式とぶつかれば速度は落ちる」
御影の目が細くなる。
「余裕を見ろ」
「はい」
伊織は紙の一番下へ数字を書いた。
十二。
「十二分」
真壁が繰り返す。
「蓮根君が守護霊を霊脈へ入れてから」
伊織が頷く。
「十二分間」
一拍。
「奎星を守り切ってください」
空気が変わった。
十二分。
短い。
普段なら、昼休みより短い。
授業の四分の一にもならない。
けれど、戦場で一人の人間を、神代冥司と黒曜の環と操られた生徒たちから十二分間守り続ける。
真壁が言った。
「長いな」
「ええ」
柊木も頷く。
「相当長いです」
倉橋が無意識に杖へ触れる。
十二分。
その意味を、実戦を知る者ほど理解していた。
斎賀は紙を覗き込む。
「玄一郎」
「何だ」
「十二分だって」
「聞いてた」
「持つ?」
御影が斎賀を見る。
真壁も同時に二人を見る。
その問いが、自分たち三人のことだと分かっている。
迎撃隊が黒曜の環を引きつける。
神代を止める。
霊脈隊へ行かせない。
十二分。
そのために三人がいる。
御影は一切迷わなかった。
「持たせる」
斎賀が笑う。
真壁も僅かに口元を上げる。
「それでこそ」
斎賀が杖を肩へ乗せる。
「最強の三人、ってやつ?」
御影の顔が露骨に嫌そうになる。
「自分で言うな」
「昔から俺らが言ってたわけじゃないだろ」
「だから言うな」
鷲尾が後ろから言った。
「呼ばれてましたよ、実際」
「お前まで乗るな」
真壁が額を押さえる。
「今その話をする必要があるのか」
「ないね」
斎賀が即答する。
「なら黙れ!」
ほんの少し、緊張が緩んだ。
だが、作戦の数字は変わらない。
十二分。
その十二分を作るために、何十人もの魔法使いが戦う。
*
夜。
返し標の地下室。
伊織が最後の術式を書き込んだ。
返し標の周囲に、三つの小さな光が灯る。
救出隊。
霊脈隊。
迎撃隊。
三つの侵入座標。
天ぷらたちが学校の内側から開いた。
三本の道。
『イオリ』
返し標の向こうから天ぷらが呼ぶ。
伊織が顔を上げる。
「何?」
『デキタ?』
伊織は三つの光を見る。
「できたよ」
『レンコン、カエル?』
伊織は少しだけ笑った。
「うん」
その後ろ、いつの間に起きてきたのか、奎星が壁へ寄りかかっていた。
スズメもいる。
見張っていたらしい。
「だから寝てくださいと言ったでしょう」
「寝たって。一時間」
「短いです」
「もう平気」
「平気かどうかは私が決めます」
「何その権限」
言い合いながら、奎星は返し標へ近づいた。
天ぷらが向こうにいる。
『レンコン』
「天ぷら」
『アシタ?』
奎星が伊織を見る。
伊織は答えない。
まだ、御影が最終決定していない。
そのとき、地下室の入口から声がした。
「明日だ」
全員が振り返る。
御影玄一郎。
その後ろに、真壁、斎賀、柊木。
御影は三つの光を見る。
もう、迷うものはなかった。
戦力。
ある。
侵入経路。
できた。
校内情報。
ある。
教師の場所。
分かった。
霊脈への道。
分かった。
そして、奎星の術。
届く。
「夜明け前に準備」
御影が言う。
「日の出と同時に入る」
奎星の目がゆっくり大きくなる。
「…………マジ?」
「ああ」
「帰る?」
「ああ」
奎星は何も言わなかった。
数秒。
本当に何も。
それから、返し標の向こうの天ぷらを見る。
「聞いた?」
『キイタ』
「明日」
『アシタ』
「帰るから」
天ぷらが大きく頷いた。
『マッテル』
「…………」
奎星の口元が少しだけ上がる。
「おう」
たった数日前、奎星たちは学校を追われた。
帰ろうとして、御影に止められた。
敵の数も分からない。
術式も分からない。
学校の中の情報もない。
外部との連絡もない。
弱いなら強くなる。
分からないなら調べる。
足りないなら集める。
あの日、御影が言った通りに、一つずつやった。
調べた。
仲間を集めた。
強くなった。
神代の術式を解く方法を考えた。
九重院が残した折り鶴。
真壁が繋いだ魔法省。
柊木が繋いだ白峰。
戻ってきた斎賀。
集まった禍祓官たち。
小妖が開いた古い道。
伊織が繋いだ三つの座標。
そして、銀の鴉。
全部、揃った。
常隠島の地下室。
三つの侵入座標が淡い光を放っている。
まるで夜空へ浮かぶ、三つの星。
海の向こうには、マホウトコロ。
奪われた学校。
自分たちの帰る場所。
明日。
その海を越える。
星はもう、迎えられるだけではない。
自分の意志で帰る。
奪われた空へ、もう一度昇るために。
《星帰り作戦》。
作戦開始まで、あと一夜。
そして、霊脈隊に与えられた時間は十二分。
その十二分が終わるとき、マホウトコロのすべてが動き出す。