その晩、蓮根奎星は眠れなかった。
常隠島の宿舎に夜が訪れてから、もう随分と時間が経っている。窓の外からは絶え間なく波の音が聞こえ、風が吹くたびに古い木造の建物が僅かに軋んだ。
部屋の中は暗い。
岳はとっくに寝息を立てている。伊織も眼鏡を枕元へ置き、布団の中で静かに眠っていた。
けれど、日向の布団だけは空だった。
「…………」
奎星は仰向けになったまま、暗い天井を見つめていた。
目を閉じても眠気は来ない。むしろ閉じれば閉じるほど、明日のことばかりが浮かんでくる。
夕食もほとんど喉を通らなかった。
岳が釣った魚も、炊いた米も、いつもなら奪い合うくらい食べるのに、今夜は味がよく分からなかった。茶碗を持った手が震えているのに気づいて、途中から膝の上へ隠した。
誰かに見られただろうか。
御影には、たぶん気づかれている。
スズメにも。
それでも二人とも、何も言わなかった。
奎星は布団の中から右手を出した。暗闇の中でも分かる。震えている。
「…………」
明日は、大丈夫だろうか。
三つの座標は、本当に開くのか。転移の途中で神代に気づかれたら。そもそも、学校まで辿り着けなかったら。天ぷらたちが内側から道を開いたせいで、黒曜の環に見つかったら。捕まったら。殺されたら。
「……やめろ」
小さく呟く。
考えるな。そう思う。
けれど、閉心術の訓練で、もう嫌というほど知った。考えないようにすればするほど、考える。
学校へ入れたとして。
生徒たちは。
友達は。
自分たちを敵だと思っている。
攻撃してくる。
止められるのか。
日向たちは、手加減しながら戦えるのか。
失敗して、誰かを傷つけたら。
殺すことになったら。
救出隊は九重院のところへ辿り着けるのか。
柊木たちが負けたら。
教師たちが間に合わなかったら。
そして。
御影。
真壁。
斎賀。
あの三人が。
神代冥司に。
負けたら。
「…………」
胸が苦しくなった。呼吸が浅い。
分かっている。
御影たちは強い。
真壁も。
斎賀も。
柊木も。
白峰の人たちも。
集まった禍祓官も。
日向たちも。
みんな、それぞれの役割を持っている。一人で戦うわけではない。
分かっている。
なのに、最後には必ず自分へ戻ってくる。
十二分。
銀の鴉。
霊脈。
神代の精神干渉。
――もし俺が失敗したら?
伊織が何日も寝ずに作った経路も、真壁が魔法省を捨ててまで集めた禍祓官も、柊木が白峰から呼んだ人たちも、御影たちが黒曜の環を引き受ける十二分も、天ぷらたちが危険を冒して開けた道も。
全部。
水の泡になる。
「俺が……」
喉が乾く。
「失敗したら……」
明日の十二分。そこだけは、誰にも代われない。
自分がやらなければならない。
その事実が、今になって猛烈な重さで肩へ乗ってきた。
奎星は布団を剥いだ。これ以上寝台にいるほうが無理だった。
音を立てないように起き上がり、神代榊だけを腰へ差す。岳の寝台を避け、伊織の脇を通り、そっと扉へ手を掛けた。
ぎ、と小さく音が鳴る。
「…………」
岳。
動かない。
伊織。
動かない。
「よし」
何がよしなのか分からない。
奎星は忍び足で部屋を抜けた。
*
外へ出ると、夜の風が思っていたより冷たかった。
昼間は暖かい常隠島も、深夜になれば海風が熱を奪っていく。奎星は薄い上着の襟を寄せながら、宿舎から離れた。
頭上には星。
海の向こうには何もない。
灯りも。
船も。
島影も。
この方向の、さらに遥か先。
そこにマホウトコロがある。
「…………」
歩く。
目的地はない。ただ、部屋には戻りたくなかった。
足は自然に浜辺へ向いた。
ざあ、と波が寄せる。
ざあ、と引いていく。
奎星は砂浜へ下りようとして、止まった。
「……ん?」
少し先、海へ突き出した岩に二人の人影がある。
月明かりだけでも分かった。
一人。
日向。
もう一人。
楓。
「…………」
奎星の目が、ゆっくり大きくなる。
――日向、いないと思ったら。
まさか。
「……デキた?」
口に出しかけ、自分で口を塞ぐ。
いや。待て。
星迎祭。舞踏会。
日向はずっと楓を誘うかどうかで悩んでいた。結局誘った。楓も受けた。
そして今。
深夜。
浜辺。
二人きり。
岩の上。
「…………マジ?」
恐怖で震えていたことが、一瞬だけ頭から消えた。
奎星は音を立てずに近くの茂みへ入った。その姿勢は、第零書庫へ潜り込んだときより妙に慎重だった。
――別に盗み聞きじゃない。
たまたま、ここにいるだけ。
たまたま二人の声が聞こえるだけ。
そう自分へ言い訳した直後、楓の声が聞こえた。
「……怖い」
奎星の顔から、にやけた笑いが消えた。
日向は何も言わなかった。
楓は膝を抱え、暗い海を見ていた。
「明日」
少し間を空けて続ける。
「本当に、あの学校に戻るんだよね」
「ああ」
「なんか……まだ実感ない」
日向の声も、いつもより静かだった。
楓は唇を噛む。
「私たちが戦う相手、生徒なんだよ」
「うん」
「知ってる子もいる」
「うん」
「同級生も」
「いるな」
「……十年以上、一緒にいる子も」
日向の表情が少し変わった。
二人自身も、下級課程一年から十二年近く隣にいる。幼馴染ではないと言い張る楓と、《運命》だと騒ぐ日向。その関係は、奎星がマホウトコロへ来る遥か前から続いていた。
「友達に杖向けるんだよ」
楓の声が、僅かに震える。
「向こうは本気で来る。私たちは傷つけられない」
「うん」
「禍祓官の人たちが抜かれたら、最後に奎星の前へ立つのは私たちでしょ」
その言葉に、茂みの中の奎星の指が僅かに動いた。
楓は続けた。
「十二分」
「長いよな」
「長い」
「……怖い?」
今度は楓が訊いた。
日向は少し黙った。
いつもなら、「余裕」とか、「俺を誰だと思ってんだ」とか、そんなことを言いそうなのに、今夜は違った。
「怖いよ」
日向はあっさり認めた。
「めちゃくちゃ怖い」
楓が横を見る。
日向も海を見ていた。
「御影先生たちが負けたらどうしようって思うし。俺らが奎星守れなかったらどうしようって思うし、昔から知ってる奴にステューピファイ撃たれたら、ちゃんと避けられんのかなって思う」
少し笑う。
「俺、意外と繊細だから」
「最後の一言で台無し」
「何でだよ」
楓も、ほんの少し笑った。
それから、また静かになる。
数秒後、日向の手が動いた。
岩の上、楓の横へ置かれていた手へ、自分の手を重ねる。
「……日向?」
「でも」
楓の手を、今度はきちんと握った。
「きっと、大丈夫」
「…………」
「御影先生たちは絶対に負けない」
その声には、妙な確信があった。
「真壁さんもいる。柊木先生もいる。斎賀も……まあ、強いのは間違いない」
「うん」
「奎星だって」
日向が少し笑う。
「やる時はやるって、俺らが一番知ってるだろ」
奎星の目が僅かに揺れた。
日向は楓を見る。
「だから大丈夫」
そして、少しだけ声が変わる。
「それに、楓」
「何?」
「お前のことは」
楓と目が合う。
日向は一瞬、喉を鳴らした。それでも逸らさなかった。
「絶対に俺が守る」
「…………」
楓が固まった。
耳が、見る見る赤くなる。
「な……」
「何」
「何急に……」
「いや」
「そういうこと言ってる場合?」
「今だから言ってんだけど」
「…………」
楓は握られている手を見る。それから、日向を見る。
「日向が守らなきゃいけないのは奎星でしょ」
「奎星も守る」
「欲張り」
「エースなんで」
「関係ないから」
「じゃ才能?」
「自分で言うな」
「奎星よりマシだろ」
「比較対象が悪い」
二人は小さく笑った。
楓は手を離さなかった。そして、少しだけ身体を横へ傾ける。
日向の肩へ。
頭を預けた。
「…………」
日向が完全に固まる。
数秒。
首だけ、恐る恐る傾ける。
楓の頭へ、自分の頭を軽く重ねた。
海。
月。
波の音。
二人とも、もう何も言わない。
茂みの中、奎星は目を見開いたまま、口を手で押さえていた。
――うわ。
――うわうわうわ。
――これマジじゃん。
さっきまでの恐怖とは、別の意味で心臓が速い。
そのときだった。
「盗み聞きなんて、趣味が悪いですね」
「――っっ!?」
背後。
耳元。
声。
奎星は本気で叫びかけ、自分の両手で口を塞いだ。
振り返る。
すぐ後ろ。
スズメ。
「んんんん!?」
「静かに」
「びっ……くりした……!」
声を殺す。
「いつからいたの!?」
「あなたが茂みへ入るところから」
「最初じゃん!」
「何をしているのかと思って」
「スズメちゃん、見てよ」
奎星は岩のほうを指した。
「あいつら、めっちゃ距離近い」
スズメはそちらを一度見る。
楓は日向の肩へ頭を預けたまま。日向も動かない。
「そうですね」
「そうですねって!」
「何です?」
「もっと驚かない?」
「朝比奈君が星迎祭で水無瀬さんを舞踏会へ誘ったことは知っています」
「でも今これだぞ?」
「距離の近い男女が閉ざされた島に何日もいれば、ああなるのも自然なのではないですか」
「……そっか」
何となく納得しかけ、奎星は止まった。
「…………」
スズメも止まる。
二人は茂みの中で、隠れるためにかなり近い。奎星の肩とスズメの肩は、ほとんど触れている。
少し顔を向ければ、思っていた以上に顔も近い。
「…………」
「…………」
奎星の視線がスズメの目へ落ちる。
スズメも同じことへ気づいたらしい。
一歩、下がろうとする。
後ろ。
木。
「…………」
下がれない。
奎星も、前へ行けば茂みが揺れる。
動けない。
「そ、そっか……」
なぜか、同じ言葉をもう一度言った。
スズメの頬が僅かに赤くなる。
「……何がです?」
「いや」
奎星も視線を逸らす。
「閉鎖空間ってすげえなって」
「意味が分かりません」
「俺も今分かんなくなった」
「では言わないでください」
岩の上から、日向の声。
「楓」
「何?」
二人とも、反射的にそちらを見る。
数秒後、スズメが小声で言った。
「行きましょう」
「え?」
「これ以上は本当に趣味が悪いです」
「確かに」
奎星も頷く。
二人は茂みから静かに離れ、日向と楓の声が届かない方角へ歩き始めた。
*
しばらく歩いた。
浜辺の反対側。岩場もなく、開けた砂浜。こちらには人影がない。
月明かりが海面へ細い道を作り、遠くの波だけが白く光っている。
奎星とスズメは並んで歩いた。
最初は何も言わなかった。
少し前まで、日向と楓を見て笑いそうになっていた。なのに、静かになった途端、また戻ってきた。
明日。
十二分。
神代。
奎星の歩みが少し遅くなる。
スズメは気づいた。
「眠れなかったのですか?」
「…………うん」
嘘はつかなかった。
「日向も多分それで外出てたんだな」
「そうかもしれませんね」
「スズメちゃんは?」
「私も」
奎星が横を見る。
「寝れなかった?」
「少し」
「先生でも?」
「教師は眠れなくならない生き物だと思っていますか?」
「御影先生とか普通に寝そう」
「御影先生は、眠れるときに寝る訓練もされているでしょう」
「禍祓官すげえ」
一度、会話が止まる。
奎星は足元の砂を見る。そして、ぽつりと言った。
「怖い」
スズメは何も言わず、隣を歩く。
「めっちゃ怖い」
今度は少し大きな声だった。
「さっきまでさ」
奎星は笑おうとした。失敗した。
「明日大丈夫かなって、ずっと考えてた」
「はい」
「学校まで行けなかったらどうしようとか。天ぷらたち見つかったらどうしようとか」
「はい」
「生徒、止めらんなかったら」
言葉が少し詰まる。
「……誰か殺したらどうしようとか」
スズメの目が僅かに動く。
「御影先生たちが神代に負けたらとか。九重院校長、間に合わなかったらとか」
奎星は右手を見る。
まだ、僅かに震えている。
「俺が失敗したら」
スズメが足を止めた。
奎星も、少し遅れて止まる。
「みんながやったこと」
声が掠れる。
「全部、無駄になる」
「蓮根君」
「だって最後は俺じゃん」
スズメを見る。
今まで、何度も自分は天才だと言った。余裕だと言った。俺ならできる。何度も簡単に言った。
今、その顔には何もなかった。
ただ、十七歳の少年が怖がっていた。
「十二分、みんなが俺守ってくれるんだろ」
「はい」
「御影先生たちも、神代止める」
「はい」
「天ぷらも、伊織も、真壁さんも、柊木先生も」
一つずつ、数える。
「みんな俺が魔法流すために動く」
「…………」
「全部」
奎星の拳が震える。
「俺にかかってる」
そのとき、冷たい感触が右手へ触れた。
「……え」
スズメの手だった。
細い指が、奎星の震えていた手へそっと重なる。そして、握る。
「全部ではありません」
奎星がスズメを見る。
「でも」
「全部ではありません」
もう一度、今度は少し強く。
「あなたが十二分、守護霊を維持する」
「うん」
「朝比奈君たちは、そのあなたを守る」
「うん」
「柊木先生たちは九重院校長と先生方を救う。御影先生、真壁さん、斎賀さんは黒曜の環と神代さんを止める」
スズメは手を離さない。
「私は、あなたと一緒に霊脈へ行きます」
「…………」
「一人ではありません」
夜風。
波。
二人の手。
「蓮根君」
スズメの声は、いつもの補習のときと同じ。静かで、真面目で、けれど少しだけ柔らかい。
「私とずっと訓練しました」
奎星の目が揺れる。
「守護霊も」
「うん」
「閉心術も」
「うん」
「何度も失敗しました」
「そこ言う?」
「大事なことです」
「はい」
「それでも、最後にはできた」
奎星の手を、もう一度握る。
「あなたなら大丈夫です」
「…………」
奎星は動かなかった。
スズメを見る。
真っ直ぐ。
長い睫毛。
綺麗な二重の線。
顎の辺りで揃った黒髪。
そして、黒い瞳。
何度も見た。毎日のように。
補習。
食堂。
観測塔。
水月庵。
朝凪島。
星迎祭。
なのに、今夜はその一つ一つが妙に目に入る。
綺麗だと思った。
それより、もっと別の言葉。
大切。
違う。
それだけでは足りない。
愛おしい。
不意に、そんな言葉が頭へ浮かんだ。
奎星の指が動く。
握られている手を、今度は自分から握り返した。
ぎゅっと。
スズメの目が少し大きくなる。
細い。
小さい。
冷たい手だった。
自分が少し力を入れれば、全部包めてしまう。
「蓮根君?」
奎星は手を離さなかった。
「俺さ」
「はい」
海を見る。
「学校に戻りたい」
「…………」
「みんなとバカやって」
小さく笑う。
「御影先生に怒られて」
スズメの口元が僅かに緩む。
「また日向と競争して。楓にうるさいって言われて。岳がなんか食ってて。伊織に馬鹿にされて」
「いつも通りですね」
「うん」
一拍。
奎星がスズメを見る。
「スズメちゃんと補習したい」
「…………」
その言葉だけ、少し違って聞こえた。
スズメは目を逸らさなかった。
「……はい」
小さな返事。
「また、しましょう」
「魔法法規?」
「まずそこからですね」
「えー」
「一番成績が危ないので」
「今めっちゃいい雰囲気だったじゃん」
「事実です」
「空気読んで!」
スズメが少し笑う。
奎星も笑った。
それだけで、胸を締めつけていた何かがほんの少しだけ軽くなった。
そのとき、奎星は思い出した。
「あ」
「何です?」
左手をポケットへ入れる。
取り出した。
銀色。
小さな星。
星灯石のキーホルダー。
暗い夜の中、中央の魔法石が淡く光っている。
スズメの視線がそこへ落ちる。
「それ」
「持ってるよ」
「知っています」
「スズメちゃんは?」
スズメは少し迷ったあと、空いている手を袖へ入れた。
同じ。
銀色の星。
星迎祭の夜、互いに同じ物を買っていたことを知って笑い、自分で買った星を交換した。奎星が持っているのはスズメの星で、スズメが持っているのは奎星の星だった。
二つ。
並ぶ。
同じ形。
奎星が自分の星を見た。
「これさ」
「はい」
「あの門の中でも」
スズメの表情が変わる。
黒曜の門。
偽りの東京。
八重子。
父。
母。
もう一つの人生。
その中で、奎星を現実へ引き戻した。
小さな音。
銀色の星。
「これのおかげで、戻れた」
「…………」
「今日も」
奎星が続ける。
「閉心術やってたとき、星迎祭のこと出てきた」
スズメの頬へ、僅かに赤みが差す。
「そこを狙ったのは私ですが」
「狙ったんだ!?」
「訓練です」
「ひど!」
「神代なら、あなたが揺れる場所を選びます」
「まあ……」
奎星は銀色の星を握る。
「でも閉じられた」
「はい」
「だから」
スズメを見る。
「これのおかげ」
「…………」
「スズメちゃんのおかげで」
声が少し低くなる。
「明日も、守れる気がする」
スズメの指が銀の星を包む。
「あなたが頑張ったからですよ」
「でも」
「蓮根君」
「うん」
「私も」
スズメの視線が、自分の掌にある星へ落ちる。
「これには、何度も助けられています」
奎星の目が少しだけ大きくなる。
「マジ?」
「はい」
「いつ?」
「教えません」
「何で!」
「教える必要はありません」
「またそれ!」
「またです」
奎星は不満そうに口を尖らせる。
けれど、その顔はもう笑っていた。
二人の間。
手。
まだ、繋がったまま。
銀色の星が、それぞれの掌で淡く光る。
「…………」
「…………」
会話が途切れた。
でも、気まずくはなかった。
波の音がする。
夜風が、スズメの黒髪を少し揺らす。
奎星はまた、その顔を見る。
スズメも、いつの間にか奎星を見ていた。
さっきより近い。
いつ、近づいたのか分からない。
手を握ったまま、二人とも僅かに身体が相手へ向いている。
「…………」
奎星の視線がスズメの瞳から少しだけ下へ落ちる。
スズメの呼吸が止まりかける。
星迎祭。
腰を支えた。
あのときと似ている。
けれど、今度は転びそうになったわけではない。
誰かに押されたわけでもない。
二人とも動いていない。
なのに、距離だけが少しずつなくなっていく。
「蓮根君……」
「ん……?」
声が小さい。
奎星は何をしようとしているのか、自分でもはっきり分かっていなかった。
ただ、離れたくない。
今、もう少し近くにいたい。
それだけ。
スズメも離れない。
顔。
あと少し。
本当に、少し。
そのとき、遠く浜辺の反対側から、
「だから俺悪くなくねえ!?」
日向の声が夜の島へ響いた。
「悪いわよ!!」
楓。
二人。
びくっ。
「…………」
「…………」
奎星とスズメは同時に勢いよく離れた。
繋いでいた手まで、ぱっと離れる。
「…………」
奎星。
右を見る。
スズメ。
左を見る。
二人とも、顔が赤い。
浜辺から、まだ聞こえる。
「足痺れたって言っただろ!」
「だからって急に立たないでよ!」
「楓がずっと肩乗ってたからだろ!」
「重いって言いたいの!?」
「言ってねえ!」
「今言った!」
「言ってない!」
「言った!」
「言ってないって!」
「…………」
奎星の口元が震える。
スズメも同じ。
数秒、二人とも耐えた。
無理だった。
「……ふっ」
スズメが先に小さく笑った。
奎星も吹き出した。
「何であいつら、あの空気からもう喧嘩してんだよ!」
「いつも通りですね」
「さっきまで手握ってたぞ!」
「見なかったことにしなさい」
「頭乗せてた!」
「聞こえていますよ」
「日向絶対明日言お」
「やめなさい」
「えー」
「あなたが盗み聞きしていたことも言いますよ」
「それは卑怯!」
スズメが笑う。
奎星も、声を抑えながら笑った。
さっきまで怖かった。身体が震え、明日を考えるだけで息ができなかった。
今も、怖くないわけではない。
何も解決していない。
神代はいる。
十二分は長い。
失敗する可能性だってある。
それでも、一人ではない。
それを、今は少しだけ信じられた。
「戻ろっか」
奎星が言った。
「はい」
二人は宿舎のほうへ歩き始める。
途中、道が分かれる。
男子の部屋。
教師たちの部屋。
奎星が止まる。
スズメも。
「じゃあ」
奎星が手を上げた。
「また明日」
何でもない言葉。
いつもなら、本当に何でもない。
明日。
授業。
補習。
朝食。
また会う。
その程度の言葉だった。
けれど、今夜は少し違った。
明日。
マホウトコロへ。
帰る。
「はい」
スズメも小さく笑う。
「また明日」
二人はそれぞれの宿舎へ戻った。
*
奎星が部屋へ戻ると、
「……楓のやつマジで理不尽……」
暗闇から声がした。
「うおっ」
日向の寝台。布団に入っている。だが、目は開いていた。
「起きてたんだ」
日向が横を見る。
「お前もだろ」
「まあ」
奎星は音を立てないよう、自分の寝台へ入る。
日向が天井を見る。
「眠れなくて」
「俺も」
「…………」
少し静かになる。
日向が訊いた。
「散歩?」
「うん」
「俺も」
「知ってる」
「……何?」
奎星は布団へ潜る。笑いを堪える。
「いや」
「何だよ」
「でももう」
目を閉じる。
さっきまで、何度閉じても眠れなかった目。今は少しだけ重い。
「お前らのおかげで寝れるよ」
日向が身体を起こしかけた。
「どういう意味だよ!?」
「おやすみ」
「待て奎星!」
「明日早いぞ」
「お前何見た!?」
「何もー」
「絶対見ただろ!」
「寝ろって」
「お前に言われたくねえ!」
奎星は布団の中で笑った。
「日向」
「何だよ」
一拍。
「明日」
「……ああ」
「頼むな」
日向も、今度はふざけなかった。
「任せろ」
それだけ。
奎星は目を閉じた。
遠くで波が鳴っている。
右手の中には銀色の星。
いつの間にか、震えは止まっていた。
その夜、奎星は朝まで一度も目を覚まさなかった。
*
夜明け。
常隠島。
東の海から、最初の光が昇り始めていた。
宿舎前の広場には、すでに全員が集まっていた。
白峰魔法学校の教員と卒業生。
禍祓官たち。
御影。
真壁。
斎賀。
柊木。
スズメ。
そして、生徒たち。
誰も普段着ではない。
外套。
杖。
魔法具。
治療用品。
拘束術具。
今日、学校へ帰る。そのための装備。
広場の中央には、三つの転移陣。
一つ。
救出隊。
一つ。
霊脈隊。
一つ。
迎撃隊。
その外周には、伊織が昨夜までかけて組み上げた古代文字と転移術式が淡く光っている。
奎星は霊脈隊の中に立っていた。
右。
日向。
左。
楓。
岳。
伊織。
澪。
冬真。
少し前には、スズメ。
倉橋。
久世たち護衛の禍祓官。
奎星が横目で日向を見る。
「…………」
日向も見る。
「何だよ」
「別に」
「何だその顔!」
楓が二人を見る。
「朝から何やってんの?」
「こいつが!」
「何でもないって!」
「奎星!」
伊織が前へ出た。
「静かに」
一言。
全員が少しずつ口を閉じる。
普段なら、御影か、真壁か、柊木が最後の確認をする。
けれど今日、中央に立ったのは榊伊織だった。
手には何枚もの紙。
何日も、何日も書き直した。
《星帰り作戦》。
その全て。
伊織は一度、全員を見る。
「最後に確認します」
いつもの落ち着いた声。
「侵入は三地点、同時です。救出隊は本館旧搬送路から侵入。柊木先生を指揮に、九重院校長を最優先で救出。その後、拘束されている先生たちを順次解放します」
柊木が頷く。
「了解です」
「霊脈隊は厨房地下の旧経路から霊脈中枢へ。奎星が守護霊を流し始めた時点から、必要時間は十二分」
奎星が神代榊へ手を置く。
「その十二分間、奎星は基本的に戦えません。僕たちと護衛の禍祓官で守ります」
日向。
楓。
岳。
澪。
冬真。
全員、杖を握る。
「生徒と遭遇しても、可能な限り傷つけない。拘束、武装解除、防御を優先します。術式が解除された時点で、彼らは味方へ戻る可能性が高い」
伊織は最後の転移陣を見る。
「迎撃隊」
御影。
真壁。
斎賀。
そして、禍祓官たち。
「校内中央部へ入り、黒曜の環の主戦力を引き受ける。神代冥司が出てきた場合は」
ほんの一瞬、伊織が三人を見る。
「御影先生、真壁さん、斎賀さん」
斎賀が笑う。
「はいよ」
御影。
「分かってる」
真壁。
「ああ」
「以上」
伊織は紙を下ろした。
全員が動こうとする。
けれど、伊織はまだそこに立っていた。
「……あと」
御影が見る。
「何だ」
伊織は少しだけ困った顔をした。
「僕、こういうの得意じゃないので」
奎星が眉を上げる。
「何?」
「だから短く言う」
風が吹く。
東。
水平線。
太陽が半分、海から顔を出した。
伊織は振り返る。
集まった人たちを見る。
「数日前」
声はまだ、いつも通りだった。
「僕たちは学校から追い出されました」
誰も喋らない。
「どこにいるかも分からない島に飛ばされて。学校の中がどうなっているかも分からない。魔法省も信用できない。帰る道もなかった」
奎星は聞いている。
「でも今は違う」
伊織の声が少しだけ強くなる。
「九重院校長が生きてることも分かった。先生たちがどこにいるかも分かった。天ぷらたちが、中から道を開けてくれた」
返し標。
小妖たち。
海の向こう。
「真壁さんが人を集めた。柊木先生が白峰を繋いだ。御影先生たちが神代を止める」
御影が静かに見る。
「奎星が生徒を戻す」
奎星の胸が僅かに強く鳴った。
「僕たちは」
伊織が一度、息を吸う。
「負けて逃げるために、ここへ来たんじゃない」
太陽が上がる。
常隠島が金色に照らされていく。
「戻るために」
伊織は言った。
「準備してた」
日向がゆっくり笑う。
楓も。
岳も。
奎星も。
「だから」
伊織の右手が杖を抜く。
これまで、奎星たちがほとんど聞いたことのない大きな声。
「帰ろう!!」
杖を空へ。
「僕たちの学校へ!!」
奎星の目が大きくなる。
伊織が叫んだ。
「マホウトコロを取り戻すぞ!!」
一瞬。
静寂。
次。
「おおおおおおおおおおおおおおッ!!」
島が震えた。
何十人もの魔法使いが一斉に杖を掲げる。
白峰。
禍祓官。
教師。
生徒。
声が重なる。
奎星も神代榊を空へ突き上げた。
「うおおおおおおおおおおおお!!」
日向。
「行くぞぉぉぉ!!」
岳。
「取り戻す!!」
楓。
澪。
冬真。
全員、声を上げる。
スズメも杖を胸元へ構え、その光景を見る。
そして、ほんの一瞬、奎星と目が合った。
「…………」
昨夜。
また明日。
そう言った。
その明日が来た。
奎星が笑う。
スズメも、ほんの少し笑った。
御影玄一郎が三つの転移陣の前へ立つ。
全員の声が少しずつ止む。
朝日。
海。
三つの道。
御影が杖を抜いた。
「各隊」
空気が一瞬で戦場のものへ変わる。
「配置につけ」
一斉に人が動く。
柊木。
救出隊。
第一陣。
スズメ。
奎星たち。
霊脈隊。
第二陣。
御影。
真壁。
斎賀。
迎撃隊。
第三陣。
三つの転移陣が同時に光り始める。
白。
銀。
青。
伊織が術式を起動する。
遠く、海の向こう。
マホウトコロ。
天ぷらたちが内側から道を開く。
光が強くなる。
御影が前を見る。
奪われた学校。
神代冥司。
そこへ帰る。
「《星帰り作戦》」
一拍。
「開始だ」
光が弾けた。
星が海を越える。
マホウトコロへ。
帰るために。
奪われた朝を取り戻すために。
そして、長い夜は今、終わった。