光が弾けた。
足元が消え、身体が一瞬だけ上下左右の感覚を失う。耳の奥で何かが強く鳴り、常隠島の朝日も、海も、御影たちの姿も、一度すべてが白へ塗り潰された。
次の瞬間、奎星の靴底が硬い石床を踏んだ。
「……っ」
反射的に神代榊を構える。
暗い。狭い。鼻に入ってくるのは湿った石の匂いだった。
常隠島ではない。
奎星は息を止めたまま周囲を見回した。足元に残っていた転移陣の淡い光が消えていくにつれ、古びた石壁や低い天井、その片側に積まれた木箱と空の樽、反対側に放置された錆びた運搬用の台車が少しずつ闇の中から浮かび上がってくる。
厨房地下。
小妖たちが使っている旧搬送路。
誰も声を出さない。
奎星はゆっくり振り返った。
スズメ、日向、楓、岳、伊織、澪、冬真。そして倉橋、久世を含む五人の禍祓官。
いる。
全員、欠けていない。
伊織が素早く人数を確認したあと、最後に床へ視線を落とした。先ほどまで足元にあった転移陣は、もう跡形もなく消えている。
「……侵入成功」
囁くような声だった。
日向が両手で小さく拳を握る。
「マジで入った……」
楓がすぐ口元へ指を立てた。
「静かに」
「分かってるって」
「もう喋ってるじゃない」
「お前もだろ」
「二人とも」
伊織が冷たい目を向ける。
「今やる?」
二人とも黙った。
そのやり取りを聞きながら、奎星はそっと壁へ手を触れた。
冷たい。ざらついている。
何でもない、古い石壁だった。
それでも分かる。
「…………」
ここだ。
帰ってきた。
この上には、あの大食堂がある。何度も飯を食い、日向たちと騒ぎ、天ぷらが料理を運んできた。編入したばかりの頃には、一人で夕食を食べたくなくて、スズメを無理やり自分の部屋へ引き留めたこともある。
さらに上には教室があり、廊下があり、観測塔があり、寮がある。
そして、その全部が。
今は、神代に奪われている。
マホウトコロ。
「帰ってきたな」
奎星が、ごく小さく呟いた。
隣にいたスズメには聞こえていた。
彼女は一瞬だけ奎星を見て、それから前へ視線を戻す。
「はい」
それだけだった。
今は、帰還を喜ぶ時間ではない。
伊織が杖先へ僅かな光を灯した。通路全体を照らすほど強くはなく、足元と古い壁面に刻まれた印だけを判別できる程度の明るさだ。
「ここから先は予定通り。旧搬送路を二百メートルほど進んで保守階段を下りる。そのあと、三つ目の分岐を左」
「そこから中枢?」
奎星が訊く。
「古い図面が正しければ」
「またそれ」
「百年以上前の図面に完璧を求めないで」
久世が小さく笑った。
「十分すごいよ。こんな道、私も知らなかった」
伊織は特に反応せず、通路の奥へ目を向けた。
「行こう」
そのときだった。
ぺた。
小さな音がした。
全員の動きが止まり、五人の禍祓官の杖がほとんど同時に音のした方向へ向く。
ぺた。ぺた。
暗い通路の奥から、何かがこちらへ走ってくる。
日向が身構え、岳が奎星の少し前へ出る。スズメも杖を上げた。
やがて暗闇の向こうから、小さな影が飛び出した。
「レンコン!!」
「――天ぷら!」
奎星の顔が一気に変わった。
藍染めの作務衣。胸元には少し曲がった《テンプラ》の名札。何度も見てきた、小さな小妖。
天ぷらだった。
「レンコン!」
「蓮根な!」
反射だった。
そう言い返した次の瞬間には、もう奎星は走り出している。天ぷらもこちらへ駆けてくるが、人間と小妖では歩幅が違いすぎる。ほとんど奎星のほうから距離を詰め、勢いよくしゃがみ込んだ。
「天ぷら!」
そのまま小さな身体を両腕で抱き上げる。
「うおおお、無事だった!!」
「レンコン! レンコン!」
「だから蓮根!」
「レンコン、カエッタ!」
奎星の動きが、一瞬だけ止まった。
「…………」
天ぷらは嬉しそうに、もう一度言った。
「レンコン、カエッタ」
奎星の口元が、ゆっくりと上がる。
「……ああ」
抱き上げたまま頷いた。
「帰ってきた」
天ぷらの尖った耳が嬉しそうに動く。
少し離れたところからその様子を見ていた日向が、小さな声で呟いた。
「なんか……」
楓も頷く。
「うん」
「感動的なのに」
「ええ」
「ずっとレンコンって言われてる」
「そこはもう諦めなさいよ」
澪も、天ぷらを見ながら少しだけ笑っていた。
星迎祭より前、奎星にマホウトコロを案内されたときに初めて出会った小妖。あのときはただ、奎星が妙な名前をつけた学校の小さな住人だった。
今は、その小さな存在が、自分たち全員の帰る道を作ってくれた。
奎星は天ぷらを床へ下ろした。
「他のみんなは?」
「イル」
「無事?」
「ムジ」
その一言で、また少し肩から力が抜けた。
モンジャも、オカカも、チクワも、キナコも、オデンも、ツクネも。
全員、無事。
「よかった……」
奎星が本当に安心した顔をすると、天ぷらはその服の裾を引っ張った。
「コッチ」
「案内してくれんの?」
「ウン」
「中枢まで?」
「チカク」
伊織がすぐ前へ出る。
「途中の扉だけお願いできる?」
「ワカッタ」
天ぷらは胸を張った。
「テンプラ、テツダウ」
奎星は笑った。
「頼もしいじゃん」
しかし、すぐに少しだけ表情を真面目なものへ戻した。
「でも、道を開けたらお前は隠れろ」
「?」
「安全なとこ」
「テンプラ、テツダウ」
「もう十分手伝ってもらった」
「テツダウ」
「駄目」
珍しく、はっきりと言い切った。
天ぷらの耳が少し下がる。
奎星はその小さな頭へ手を置いた。
「お前らが道作ってくれなかったら、俺らここまで来れなかった」
「…………」
「だから次は、俺らの番」
天ぷらが奎星を見上げる。
「黒い奴らとか、生徒とか来ても、絶対出てくんなよ。厨房でも倉庫でも、壁ん中でもいい。お前らが一番安全だと思うとこに隠れてろ」
天ぷらは、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく口を開く。
「レンコン」
「蓮根な」
「カエル?」
奎星は一瞬、目を丸くした。
それから笑った。
「帰るよ」
「マタ?」
「うん」
「マタ、カエル?」
今度は奎星も、すぐに意味を理解した。
学校へ戻る。
それだけではない。
今日の戦いが終わったあとも、またここへ。
「帰る」
奎星は言った。
「ちゃんと帰ってくる」
天ぷらがゆっくり頷く。
「ワカッタ」
奎星も立ち上がった。
「じゃ、案内頼む」
「ウン」
天ぷらはくるりと背を向けると、暗い旧搬送路の奥へ小さな足で走り始めた。
*
マホウトコロの地下は、奎星が想像していたより遥かに広かった。
これまで自分が知っていた地下といえば、第零書庫くらいだ。けれど、そこへ続く道とも、この旧搬送路はまるで違っている。
狭く、古く、飾り気もない。
何百年ものあいだ、料理や薪、道具を運ぶためだけに使われてきたのだろうと思わせる、徹底して実用的な造りだった。
先頭を進むのは天ぷら。その少し後ろを伊織が歩き、次に倉橋と久世。中央には奎星とスズメ、その周囲を日向、楓、岳、澪、冬真が固め、残る三人の禍祓官が後方を警戒していた。
誰も余計な声を出さない。
普段なら一分も持たないような面子だというのに、日向ですら今は黙っていた。
十三人分の足音。
その先を行く天ぷらの、ぺた、ぺた、という小さな足音。
それだけが古い地下通路に響いている。
一つ目の角を曲がる。
誰もいない。
階段を下りる。
その途中。
上から、人の声が聞こえた。
全員が一斉に立ち止まる。
薄い石壁の向こうから聞こえてくるのは、女子生徒らしい声だった。
「……次、魔法薬だっけ?」
「うん。神代校長が視察に来るかもって」
「え、マジ?」
笑い声まで続く。
普通だった。
あまりにも、普通だった。
奎星の顔から表情が消える。日向も楓も同じだった。
自分たちが命懸けで戻ってきた学校で、生徒たちはいつもの時間割を気にしながら授業の話をして、神代冥司を校長と呼んでいる。
足音と話し声が遠ざかっていった。
それでも、しばらく誰も動かなかった。
奎星の神代榊を握る手に力が入る。
「……行こう」
小さく言うと、伊織が頷いた。
再び進む。
二つ目の分岐を右へ曲がり、壁の一部へ天ぷらが手を当てた。
淡い光が灯る。
ご、と低い音を立てて石壁が動き、その向こうにさらに細い通路が現れた。
「こんなの……」
楓が小声で呟く。
「十二年通ってても知らなかった」
伊織が答える。
「多分、知らなくて普通」
「天ぷらたち、毎日ここ通ってたの?」
「ウン」
天ぷらが頷く。
日向が小さく笑った。
「俺らより学校詳しいじゃん」
「あなたが知らなさすぎるだけでしょ」
「楓だって知らなかったろ」
「普通こんなの知らないわよ」
奎星も口を挟む。
「俺も知らない」
伊織が振り返った。
「数か月しかいない人は基準に入れてない」
「冷た!」
スズメが奎星を見る。
「静かに」
「はい」
ほんの少しだけ、いつもの空気が戻った。
けれど誰も、そこへ浸ることはしない。
三つ目の分岐を左へ。
さらに下る。
進むにつれて、周囲の空気が変わってきた。
冷たい。
それだけではない。
奎星の右手で、神代榊が僅かに震えた。
「……ん?」
奎星が足を止めると、スズメも横を見る。
「どうしました?」
「杖」
神代榊を持ち上げる。
握り手の木目が、微かに赤く光っている。
一学期の第零書庫。
夏の鬼火鳥。
これまでにも、何かへ近づいたとき、この杖は何度か反応した。
伊織が杖へ目を向ける。
「近い?」
「多分」
「霊脈?」
「だと思う」
久世が壁へ手を触れ、目を閉じた。
数秒。
「……流れてるね」
岳が訊く。
「分かるんですか?」
「昔、解除の仕事で霊脈絡みの結界も結構触ったから」
久世は目を開いたが、その眉は僅かに寄っていた。
「ただ……嫌な流れ方してる」
「何?」
奎星が訊く。
「本来なら、もっと散ってるはずの魔力が一方向へ寄せられてる。学校全部から、ここへ」
伊織が息を呑む。
「神代の術式……」
「多分ね」
その先で、天ぷらが止まった。
大きな古い石扉が立ちはだかっている。人間の背丈を遥かに超える高さがあり、表面には幾重もの古代文字が刻まれていた。長い年月で薄れてしまったものもあれば、未だ微かな魔力を残しているものもある。
天ぷらは右端、人間なら見落としそうな小さな印へ手を当てた。
「テンプラ、ココマデ」
伊織が目を見開く。
「この先?」
「ウン」
「中に入ったことある?」
天ぷらは首を横へ振る。
「アケルダケ」
「十分」
伊織が言った。
「本当に十分だよ」
天ぷらの手が光る。
重い音を立て、石扉がゆっくり開き始めた。
その隙間から何かが吹きつける。
風。
いや、違う。
魔力だった。
黒く、冷たい。
奎星の前髪が揺れ、スズメの外套が僅かに持ち上がる。神代榊も、今まで以上に強く震え始めた。
やがて石扉が完全に開いた。
その先には、さらに地下へ続く暗い階段。
伊織が静かに息を吐く。
「ここだ」
天ぷらが奎星の裾を引いた。
「レンコン」
「ん?」
「カエッテキテ」
「…………」
奎星は少し笑った。
「おう」
一度、天ぷらの頭を撫でる。
「だから、お前は隠れろよ」
「ウン」
「絶対だぞ」
「ウン」
「モンジャたちにも言えよ」
「ワカッタ」
「よし」
奎星が手を離すと、天ぷらは数歩後ろへ下がった。それから、ぺこりと深く頭を下げる。
「ガンバレ、レンコン」
奎星も笑った。
「天ぷらもな」
天ぷらは来た道を走って戻っていった。
ぺた、ぺた、ぺた。
その小さな足音が少しずつ遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなる。
奎星は石扉の向こうに続く暗い階段へ目を向けた。
「……行こう」
今度は誰も答えなかった。
ただ、全員が同時に動き出した。
*
階段は深かった。
十段、二十段、五十段。
途中から数えるのをやめた。
地下へ進むほど、壁に刻まれた古代文字の数が増えていく。そして、その文字の隙間には、本来そこに存在しなかったはずの赤黒い線が走っていた。
まるで血管のように。
スズメが足を緩める。
「これ……」
伊織も見上げた。
「神代の?」
「ええ」
古代文字そのものではない。
学校に元々存在していた術式の上へ、別の魔法を無理やり被せている。
マホウトコロ本来の魔力経路へ寄生するように、黒曜の環の術式が入り込んでいた。
奎星は露骨に顔をしかめる。
「キモいな」
「触らないでください」
スズメが即座に言う。
「触ろうとしてないって」
「今、手を伸ばしました」
「見るだけ」
「手で?」
「近くで」
「触るつもりですね」
「今やる!?」
後ろで日向が小声で言った。
「いつものだな」
楓も僅かに口元を緩める。
「ちょっと安心する」
奎星が振り返った。
「何で!?」
「静かに!」
ほとんど全員から同時に言われた。
「はい……」
そのままさらに下る。
やがて、長かった階段が終わった。
そして。
「…………」
奎星は言葉を失った。
目の前に広がっていたのは、巨大な地下空間だった。
第零書庫とも違う。
棚も、本も、巻物もない。
あるのは石と、光だけ。
円形の空間の中央には、人の背丈ほどもある古い石柱が立っている。その周囲からは無数の溝が放射状に延び、床から壁へ、壁から天井へと続いていた。
一本。
二本。
十本。
百。
まるで学校全体へ根を伸ばす、巨大な樹のようだった。
本来なら、その一つ一つを淡い白や青、金色といった様々な魔力が流れていたのだろう。
だが今は違う。
黒。
そして、赤黒い濁った魔力。
それがすべての流路を覆い尽くし、規則的に脈打っていた。
どくん。
どくん。
まるで、マホウトコロそのものの心臓が黒く染められているようだった。
スズメの顔が強張る。
「……ここまで」
伊織も呆然と呟く。
「やられてたんだ」
久世は何も言わなかった。ただ、その目だけが厳しくなる。
奎星が中央へ一歩近づく。
神代榊が震えた。
「ここに」
伊織が頷く。
「守護霊を入れる」
そこから先の動きに迷いはなかった。
全員が訓練通りに散開する。
中央に奎星。そのすぐ後ろへスズメが立ち、伊織は少し離れた位置に計測用の術式を展開した。薄い光の文字が宙へ浮かび、その周囲を久世、倉橋、残る三人の禍祓官が固める。
さらに内側には日向、楓、岳、澪、冬真。
二重、三重に。
奎星を中心として囲んだ。
倉橋が全員へ低く告げる。
「ここからは一人も通しません」
岳が大きな身体で奎星の正面へ立つ。
「分かってる」
日向が杖を回した。
「十二分」
楓も静かに構える。
「絶対守る」
澪が杖先を通路へ向け、冬真も周囲の構造を確かめるように視線を巡らせた。
伊織は術式を確認すると、奎星を見る。
「いつでも」
「うん」
奎星は中央へ進み、石柱と、その内部を巡る黒い魔力へ神代榊を向けた。
「…………」
昨日は、あれだけ怖かった。
今だって怖くないわけではない。
むしろ実際にこの場所へ立ったからこそ、余計にはっきり分かる。
本当に。
自分がやるのだ。
失敗すれば終わる。
けれど。
奎星は振り返った。
みんな、いる。
日向。
楓。
岳。
伊織。
澪。
冬真。
倉橋。
久世。
禍祓官たち。
そして、スズメ。
昨夜。
言われた。
――一人ではありません。
奎星の口元が、少しだけ上がった。
「みんな」
全員が奎星を見る。
「任せたぞ」
日向が即座に笑う。
「任せろ」
楓も続く。
「前だけ見てなさい」
「絶対通さない」
岳が言い、伊織は宙に浮かぶ計測術式へ目を向けたまま答える。
「時間は僕が見る」
澪も杖を構え直す。
「集中して」
冬真が入口を確認する。
「こっちは気にしなくていい」
倉橋も杖を上げた。
「十二分、こちらで作ります」
久世が笑う。
「行っといで」
最後に。
奎星はスズメを見た。
「…………」
目が合う。
スズメは、大げさなことを何も言わなかった。
ただ静かに頷く。
「大丈夫です」
それだけだった。
奎星は目を閉じた。
*
幸福な記憶を、もう探す必要はなかった。
全部、ここにある。
初めて何も知らずにやってきたマホウトコロ。
魔力測定。
砕けた水晶。
一人きりの部屋。
最初の夕食。
スズメ。
補習。
日向。
楓。
岳。
伊織。
御影。
九重院。
天ぷら。
夏。
鬼火鳥。
八咫祭。
星迎祭。
澪。
冬真。
真壁。
柊木。
数か月前まで、この世界のことを何一つ知らなかった。
それなのに。
こんなにも増えた。
そして、まだ終わっていない。
これからも続く。
帰る。
教室へ。
寮へ。
食堂へ。
観測塔へ。
補習へ。
みんなのところへ。
奎星の右手から、震えが消えた。
神代榊を握り、深く一度呼吸する。
そして。
「エクスペクト・パトローナム」
銀色の光が生まれた。
最初は杖先の一点に灯った小さな光。
次の瞬間、それが大きく翼を開く。
銀白色の鴉。
暗い地下空間を一度だけ奎星の頭上で旋回したその姿は、黒く染まった霊脈の底へ、朝の光が一羽だけ降りてきたようにも見えた。
スズメが僅かに息を呑む。
日向が笑った。
「行け……!」
奎星は目を閉じたまま、杖を中央の石柱へ向ける。
銀の鴉が翼を畳んだ。
急降下。
そして黒い霊脈へ飛び込む。
衝撃が走った。
「――っ!」
銀と黒。
二つの魔力が真正面からぶつかり、地下空間全体が一瞬、真っ白な光に包まれる。
その直後、銀色の鴉が霊脈の中へ沈んだ。
「入った!」
伊織が叫ぶ。
中央の石柱から一本の銀色の線が走った。
黒い流れを押し退け、ほんの少しずつ外へ、枝へ、支流へ。
マホウトコロ全体へ。
伊織の前に浮かぶ術式の数字が動き始める。
「計測開始!」
一拍。
「十二分!」
その瞬間。
《星帰り作戦》における本当の十二分が始まった。
*
校長室。
神代冥司は窓の外を眺めていた。
朝のマホウトコロ。
生徒たちは、いつも通りに動いている。
そのはずだった。
「…………」
神代の目が僅かに細くなった。
机に触れていた指先へ、ごく微かな振動が伝わってくる。
誰にも気づけないほど小さな変化。
だが、神代には分かった。
学校全体を流れる魔力。
自分が掌握した霊脈。
その内側へ。
何かが入った。
神代は目を閉じた。
地下。
主流。
黒い術式。
そこを逆方向から押し上げてくる魔力がある。
清浄で。
強い。
そして。
覚えがある。
ゆっくり目を開く。
「守護霊……」
穏やかな声だった。
怒鳴りもしない。
表情も崩れない。
それでも、部屋の空気だけが冷えたように感じられた。
「なるほど」
神代は数秒考えた。
外部転移経路は閉じた。
魔法省からも、白峰からも、学校へ直接入ることはできない。
ならば。
内側。
古い経路。
誰が、それを開いた。
「……小妖ですか」
答えへ辿り着くまでに、ほとんど時間はかからなかった。
神代は机の上に置いていた杖を取る。
その先端が黒く光った。
次の瞬間、その声が校内のいくつもの場所へ届く。
「地下へ」
食堂。
廊下。
教室。
巡回中の黒曜の環。
そして、生徒たち。
一斉に顔を上げた。
「侵入者がいます。地下中枢へ向かいなさい」
生徒たちが杖を取る。
黒曜の環の者たちも動き始める。
「蓮根奎星がいます」
神代の瞳から温度が消えた。
「一刻も早く、術を止めてください」
一拍。
「必ず」
通信が切れる。
神代は一人、校長室に残った。
その直後。
遠く。
校舎のどこかで。
轟音が響いた。
ドォン――!!
窓硝子が震える。
神代がそちらへ目を向ける。
今度は別方向。
さらに大きな爆発。
誰かの声。
廊下の向こうで鳴り始める警報。
魔法同士が衝突する音。
神代は初めて、ほんの僅かに目を細めた。
地下だけではない。
来ている。
複数。
同時に。
「…………」
一つずつ。
戻ってきた。
切ったはずの繋がりが。
マホウトコロへ。
*
地下中枢。
最初の変化に気づいたのは久世だった。
黒く濁った霊脈が、一瞬だけ大きく脈打ったのだ。
どくん、と。
先ほどまで奎星の守護霊を押し返そうとしていた流れとは違う。学校全体へ何かを伝達するように、中央の石柱から黒い波が一斉に外へ走っていく。
久世の表情が変わる。
「……気づかれた」
倉橋がすぐ振り返った。
「神代に?」
「この流れ、指示を飛ばした。来るよ」
ほとんど同時だった。
頭上の遥か上から、ドォォン――!! と鈍い轟音が響き、地下空間そのものが僅かに揺れた。天井から細かな砂が落ちてくる。
日向が思わず上を見る。
「……始まった」
楓も杖を強く握る。
また轟音。
今度は二つ、連続だった。
ドンッ!
ズガァァン!!
何が起きているのかは見えない。
御影なのか。
真壁なのか。
斎賀なのか。
柊木たちなのか。
あるいは黒曜の環なのか。
この地下からでは、何も分からない。
ただ、戦っている。
その音だけが届く。
そして今度は、中枢へ続く階段の遥か向こうから、微かな足音まで聞こえ始めた。
倉橋の判断は早かった。
「ここで待ちません。入口を押さえます」
久世も頷く。
「中まで入れたら奎星君の集中が持たない。狭いところで止めるよ」
五人の禍祓官が、奎星を囲んでいた位置から一斉に離れた。
倉橋。
久世。
残る三人。
それぞれが杖を構えたまま中枢への道へ走り、階段と地下空間が接続する狭い入口へ散開していく。
「僕たちも行く」
伊織が計測術式へ杖を振る。
宙に浮かんでいた数字と術式が彼の動きに合わせて滑り、入口側へ移動した。
日向が笑う。
「最初からそのつもり!」
楓、岳、澪、冬真も続く。
岳は最後まで奎星の前に立っていたが、数秒だけその背中を振り返ったあと、大きな身体を入口へ向けた。
「奎星」
返事はない。
目を閉じたままだ。
岳はそれで十分だった。
「任せろ」
日向たち五人も、禍祓官たちを追って中枢への入口へ向かう。
伊織は入口の少し内側へ陣取り、計測術式と戦況の両方を見られる位置へ移動した。
一人。
また一人。
奎星のそばから離れていく。
やがて中央の石柱の前に残ったのは。
奎星。
そして。
烏丸スズメ。
二人だけになった。
スズメは去っていく生徒たちの背中を一度見たあと、奎星のすぐ隣へ立った。
自分は、ここにいる。
もし霊脈を通じて神代から精神への干渉が来たなら。
それを最初に見抜くために。
奎星の集中が崩れかけたなら。
最後まで彼をここへ繋ぎ止めるために。
昨夜、言った通り。
一緒に。
霊脈へ行く。
奎星は目を開けなかった。
それでも。
スズメが隣に残ったことは。
分かっていた。
*
上から、また魔法の衝突音が響いた。
遠くでは誰かが叫んでいる。
言葉までは聞き取れない。
石を叩く衝撃。
轟音。
まるで学校全体が目を覚ましたように、あちらこちらから戦いの音が伝わってくる。
奎星の眉が僅かに動いた。
――御影先生。
――真壁さん。
――斎賀。
――柊木先生。
次々と頭へ浮かぶ。
けれど、そこへ意識を向けない。
消すのではない。
閉じ込めるのでもない。
そこにいる。
戦っている。
だから。
信じる。
それだけ。
自分は、自分の仕事をする。
銀の鴉は霊脈を進み続けていた。
少しずつ。
少しずつ。
黒い魔力がまとわりつき、行く手を塞ぎ、逆方向から押し返してくる。
重い。
常隠島とはまるで違う。
何倍。
何十倍。
どこまで続いているのか分からない。
「…………っ」
奎星の額へ汗が滲んだ。
すぐ隣にいるスズメが気づく。
けれど。
声は掛けない。
今は集中を切らせない。
少し離れた入口側で、伊織が術式を確認する。
「一分」
それだけだった。
日向の顔が引きつる。
「まだ一分……」
楓は前を見たまま答えた。
「長いわよ」
十二分。
分かっていた。
数字として聞いたときから。
長いとは思っていた。
けれど、実際に始まってみれば。
一分が。
あまりにも長い。
そのとき。
通路の向こうから、音が聞こえた。
どどどどど。
足音。
一人。
二人。
違う。
もっと多い。
倉橋の目が鋭くなる。
「来ます」
入口に展開した全員が杖を上げた。
最前列。
倉橋、久世、三人の禍祓官。
その少し後ろ。
日向。
楓。
岳。
澪。
冬真。
そして伊織。
中央の石柱の前だけが空いている。
そこに。
奎星とスズメ。
暗闇の奥へ、一つ目の人影が現れた。
二つ。
三つ。
さらに増える。
杖先に灯る魔法の光。
そして、その中には。
見覚えのある制服もあった。
日向の顔から笑みが消える。
楓が静かに息を吸った。
岳は一歩前へ出る。
日向たちがずっと知っている。
同級生。
後輩。
友人たち。
その向こうには、黒い服を纏った人影。
黒曜の環。
「蓮根君」
中央で。
スズメが小さく呼んだ。
返事はない。
けれど。
奎星の口元が。
ほんの少し。
上がった。
聞こえている。
分かっている。
大丈夫。
そう言っているように。
スズメは奎星の横で杖を握り直した。
今、目の前の敵と直接戦うのは自分の役割ではない。
彼女が見るべきなのは。
奎星。
その心。
そして。
霊脈。
「……来ます」
入口で倉橋が身構える。
奎星だけは。
目を開けない。
頭上では誰かが戦っている。
遠くでは誰かが叫んでいる。
入口では、友人たちが自分を守るために杖を上げている。
そして。
隣には。
スズメがいる。
なら。
自分もやる。
昨日まで。
怖かった。
失敗したら。
全部終わると思っていた。
でも。
違う。
全部が。
自分にかかっているのではない。
自分の十二分は。
みんなが作ってくれている。
だから。
奎星は銀の鴉だけを見た。
目ではなく。
心で。
もっと先へ。
飛べ。
教室へ。
寮へ。
校庭へ。
食堂へ。
学校の全部へ。
俺たちの。
マホウトコロへ。
「…………行け」
誰にも聞こえないほど、小さな声だった。
銀色の光が、また一本。
黒い霊脈を塗り替えた。
その直後。
地下通路から最初の魔法が飛び込んできた。
「プロテゴ!!」
幾つもの声が重なる。
光。
衝撃。
轟音。
中枢の入口で防壁が弾け、石壁を震わせる。
それでも。
奎星は。
目を開けなかった。
信じている。
だから。
飛ぶ。
銀の鴉は地の底から。
マホウトコロの空へ向かって。
翼を広げ続けていた。
残り。
十一分。