光が消えたとき、御影玄一郎はすでに杖を抜いていた。
転移直後の眩暈も、上下の感覚が戻るまでの僅かな空白も、ほとんど動きには出ない。靴底が石床へ触れた瞬間には身体を低くし、正面の通路、左右の壁、天井、背後までを一度に確認している。
真壁征士郎も同じだった。
その横で、斎賀玄弥だけは転移の余韻を確かめるように首を一度鳴らした。
「……久しぶりだな、この感じ」
「黙れ」
御影の声は低かった。
迎撃隊が出たのは、マホウトコロ中央部の地下へ繋がる旧通路だった。
霊脈隊が入った厨房地下の経路ほど狭くはない。かつて職員や物資の移動にも使われていたらしく、大人が三、四人並んでも歩けるだけの幅がある。石造りの壁には古い魔法灯が一定間隔で残されていたが、今はその大半が消えており、遠くに一つだけ淡い青白い火が揺れていた。
御影、真壁、斎賀、鷲尾宗一、深見玲司、そして真壁が魔法省から連れてきた残る禍祓官たち。十名、合計十三人。
全員いる。
誰も欠けていない。
鷲尾が最後尾を確認し、小さく頷いた。
「侵入成功です」
御影は返事をしなかった。杖を下ろさないまま通路の先を見つめ、数秒だけ耳を澄ませる。
聞こえる。
足音。
遥か上で、生徒たちが歩いている。
微かな話し声。
扉の開閉。
授業の始まりを告げる鐘。
何も知らずに聞けば、いつもの朝だった。
その事実が、かえって不気味だった。
数日前、この学校は落ちた。
九重院は倒され、教師たちは拘束され、生徒たちは神代冥司を校長として受け入れている。
それでも朝になれば鐘が鳴る。
授業が始まる。
生徒は笑う。
日常だけが、何事もなかったように続いている。
深見が小声で訊いた。
「隊長、動きますか」
「まだだ」
御影は即答した。
深見は反射的に姿勢を正す。
「了解」
斎賀が横目で見る。
「まだ隊長って呼ばれてんの?」
「お前は黙ってろ」
「人気者だねえ、玄一郎」
「黙れと言った」
真壁が二人の間へ低く言葉を挟む。
「本当に黙れ。今は待機だ」
斎賀が肩を竦めた。
「二人して冷てえなあ」
だが、それ以上は何も言わなかった。
それが今の作戦だった。
迎撃隊の役割は、戦うことではない。
正確には、戦わずに済むなら、それが一番いい。
奎星たちはすでに別の経路から霊脈中枢へ向かっている。柊木率いる救出隊も、九重院と教師たちを救うために本館側へ入った。
三隊の中で、最も派手に動くことを想定されているのが迎撃隊だった。
それでも、神代に気づかれず、黒曜の環にも気づかれず、奎星が十二分を終え、九重院たちまで救出できるなら、御影たちが杖を一度も振らずに帰ることこそ最善だった。
敵を倒すことが目的ではない。
学校を取り戻すことが目的なのだから。
真壁が腕時計を見る。
「転移から三十秒」
御影は何も言わない。
四十秒。
五十秒。
一分。
十三人は、旧通路の陰へ身を隠したまま動かなかった。
誰かの呼吸。
衣擦れ。
それだけだった。
斎賀すら、今は壁へ背中を預けて黙っている。
御影は頭の中で作戦をなぞった。
霊脈隊。
厨房地下。
中枢へ。
蓮根が守護霊を入れる。
そこから十二分。
救出隊。
本館。
九重院を最優先。
教師を順次解放。
そして、自分たちは必要になるまで動かない。
何も起きるな。
御影玄一郎が戦場でそんなことを願うのは珍しかった。
敵が出るなら倒す。
来るなら止める。
それが仕事だった。
だが今日は、何も起こらないことのほうがいい。
蓮根。
十二分。
やれ。
ただ、それだけを思う。
一分半。
真壁がもう一度時計を見る。
斎賀が僅かに目を閉じる。
鷲尾が通路の先を見張っている。
まだ、何も――
そのときだった。
音が消えた。
「…………」
御影の目が動く。
上から聞こえていた生徒たちの話し声が消えている。
廊下を歩く足音も、鐘の余韻も、鳥の声まで。
何も聞こえない。
まるで学校そのものが、一瞬で息を止めたようだった。
深見がゆっくり顔を上げる。
「……隊長?」
誰も答えない。
御影の左手が僅かに動く。
真壁も杖を握り直した。
斎賀だけが、閉じていた目を開く。
静かだった。
あまりにも静かだった。
次の瞬間。
ざ。
古い魔法灯が一つ、消えた。
通路の奥にあった青白い光が消える。
暗闇が一つ分、近づく。
ざ。
二つ目が消えた。
「…………」
禍祓官たちの表情が変わった。
ざ。
三つ目。
また、暗闇が近づいた。
何かが通路を歩いてきているわけではない。
それでも、一つ、また一つと、遠くから順番に魔法灯だけが消えていく。
御影たちのいる場所へ、真っ直ぐ近づいてくる。
ざ。
残り二つ。
誰も動かない。
深見の額へ、僅かに汗が浮かんだ。
ざ。
最後の一つ。
御影たちの頭上に残った魔法灯だけが、青白い光を落としている。
沈黙。
一秒。
二秒。
三秒。
そして、その灯りも消えた。
完全な闇。
直後。
『地下へ』
声がした。
「――」
誰かが息を呑んだ。
前ではない。
後ろでもない。
天井、床、壁、通路そのものから、人の声が染み出してくる。
穏やかな、静かな、聞き覚えのある声。
『侵入者がいます』
御影の左頬の傷が、僅かに歪んだ。
神代冥司。
『地下中枢へ向かいなさい』
通路の奥、どこかで複数の足音が止まる。
『蓮根奎星がいます』
御影の目が鋭くなる。
バレた。
ただ侵入を察知されたのではない。
誰が、どこで、何をしているのか。
そこまで。
『一刻も早く、術を止めてください』
静かな声。
焦りなど一切ない。
だからこそ、異様だった。
最後、ほんの少しだけ間が空いた。
『必ず』
ぶつ。
声が切れる。
暗闇。
誰も、すぐには喋らなかった。
真壁が最初に口を開く。
「……早い」
鷲尾が低く言う。
「予定より、かなり」
深見が通路の奥を見る。
「もう蓮根君の位置まで……?」
「霊脈に触れたんだ」
御影が言った。
「それで気づいた」
つまり、始まった。
奎星が、もう守護霊を流している。
そして神代も、それを止めるために動いた。
通路の遠くから、どどどどど、と足音が響き始めた。
一方向ではない。
前。
後ろ。
さらに、頭上。
一斉に近づいてくる。
真壁が即座に指示を飛ばす。
「全員、戦闘準備!」
十人の禍祓官が一斉に杖を抜いた。
「学生が混じる可能性がある! 識別するまで高威力術式は禁止!」
「了解!」
「黒曜の環は?」
「拘束優先! 突破を最優先する!」
御影も、すでに通路から出る位置を見ている。
予想より早い。
だが、まだ崩れてはいない。
ここから敵を引きつければいい。
奎星へ向かう人数を減らす。
それが、迎撃隊の仕事だった。
「玄一郎」
斎賀の声がした。
御影が見る。
さっきまで壁へ寄りかかっていた男は、もう笑っていた。
人を食った、十二年前と変わらない笑み。
右手には杖。
「何だ」
斎賀は杖を肩へ乗せた。
「さあ」
足音が近づく。
闇の向こうに、黒い影が一つ、二つ、三つ。
斎賀玄弥の笑みが深くなる。
「仕事の時間だぜ」
「玄弥、待――」
真壁が言い終えるより早かった。
斎賀の杖が振られる。
「コンフリンゴ」
閃光。
轟音。
ドォォォォン――!!
旧通路の出口、敵が展開し始めていた中央回廊と通路を隔てる、古い石造りの柱が爆ぜた。
ただし、狙ったのは人間ではない。
敵の列のど真ん中、誰もいない場所。石柱と床の境目だった。
爆発で大量の石片と白煙が巻き上がり、今まさに杖を構えようとしていた黒曜の環の者たちが、反射的に左右へ分断される。
「何をしている!」
真壁が怒鳴った。
斎賀は煙の向こうを見ながら笑う。
「戦局崩した」
「先に言え!」
「言ったら止めるだろ」
「当たり前だ!」
爆発音は学校中へ響いた。
上階の窓が揺れる。
廊下の向こうから、さらに多くの足音がこちらへ向きを変える。
鷲尾が状況を一瞬で理解した。
「……なるほど」
深見も笑う。
「全員こっち見ますね」
「それが仕事だろ?」
斎賀が言う。
真壁は額へ青筋を浮かべていた。
「だからと言って学校を爆破するな!」
「あとで直せる!」
「そういう問題じゃない!」
「征士郎」
御影が一言。
真壁が止まる。
御影は白煙の向こうを見ていた。
来る。
黒曜の環。
一人、二人、五人。
さらに、校舎の回廊から、階段から、次々と黒い外套の人影が現れる。
杖。
黒曜石。
赤黒い術式。
完全に、こちらへ戦力が向いた。
御影が言う。
「結果は出た」
真壁が信じられないものを見るように横を向く。
「玄一郎、お前まで」
「説教は後だ」
斎賀が嬉しそうに笑う。
「分かってんじゃん」
「お前は後で殴る」
「二発目!?」
「来るぞ!」
鷲尾の声。
黒曜の環から、一斉に魔法が飛んだ。
「プロテゴ・マキシマ!」
十人の禍祓官が前へ出る。
巨大な防壁。
赤、黒、紫。
幾つもの光が正面から衝突し、轟音と共に回廊全体が揺れた。
深見が防壁の隙間から杖を突き出す。
「ステューピファイ!」
鷲尾。
「エクスペリアームス!」
別の禍祓官が。
「インカーセラス!」
戦闘が始まる。
魔法。
盾。
拘束縄。
爆発。
石床へ反射する無数の光。
御影は、それを一秒だけ見た。
「鷲尾!」
「はい!」
「ここを頼む」
鷲尾は防壁を維持したまま御影を見る。
「最初からそのつもりです」
「敵を霊脈隊へ行かせるな」
「一人も通しません」
深見が横から叫ぶ。
「御影隊長!」
「何だ」
「神代ぶん殴ったら、俺の分もお願いします!」
御影の眉が寄った。
「魔法使え」
「了解!」
斎賀が笑う。
「慕われてんなあ」
真壁が杖を構えたまま言う。
「行くぞ」
「ああ」
御影、真壁、斎賀。
三人が同時に戦列を離れた。
目指す場所は一つ。
校長室。
神代冥司。
本丸。
*
三人は走った。
中央回廊、東階段、二階。
マホウトコロの構造を最も知っているのは御影だ。何十年もこの学校で過ごしてきた男は最短経路を迷わず選び、真壁と斎賀がその後ろへ続く。
角。
御影が止まる。
一秒もない。
前方から生徒が二人、杖を構えて現れた。
「止まれ!」
上級課程。
御影の知っている顔だった。
「黒曜の環だ!」
生徒が叫ぶ。
「神代校長に近づくな!」
御影の顔は変わらない。
「エクスペリアームス」
二本の杖が同時に飛んだ。
生徒たちが何が起こったのか理解するより先に、真壁の杖が動く。
「インカーセラス」
縄が二人の腕と胴を巻き取り、壁際へ安全に拘束した。
「なっ――!」
「悪い」
御影は足を止めない。
「後で解く」
三人はそのまま走り抜ける。
次。
階段。
黒曜の環、三人。
一人が杖を上げる。
「アバ――」
「ステューピファイ」
言い切る前に、真壁の赤い光が胸へ入った。
倒れる。
左右。
二人目が御影へ向けて叫ぶ。
「ディフィンド!」
白い刃。
御影は身体を半歩だけずらした。
避ける。
同時に杖先を向ける。
「エクスペリアームス」
敵の杖が飛ぶ。
三人目は背後。
御影からは見えない。
だが。
「遅えよ」
斎賀が壁に足をついた。
蹴る。
身体が斜めへ飛ぶ。
敵の視界から一瞬で消え、着地点そのものを変える。
「なっ――」
「デパルソ」
杖を持つ腕へ。
最小限。
男の身体ではない。
腕だけが横へ弾かれる。
そこへ真壁。
「インカーセラス」
拘束。
三人。
七秒もかからない。
斎賀が着地した。
「懐かしくない?」
「何がだ」
御影はもう先を見ている。
「この感じ」
「喋る暇があるなら走れ」
「征士郎は?」
真壁も足を止めない。
「昔よりうるさい」
「ひでえな!」
次の廊下。
二人。
今度は黒曜の環ではない。
学生服。
御影の杖が、一瞬だけ下がる。
傷つけない。
それだけで、三人の選択が変わる。
生徒が赤い光を撃つ。
御影。
盾。
「プロテゴ」
弾く。
真壁が反対側から杖だけを飛ばす。
斎賀は廊下の壁を蹴り、二人の背後へ回った。
「うわっ!?」
「ごめんな」
二人の襟を掴む。
引く。
そのまま近くの教室へ押し込む。
「ちょっと寝てろ」
扉を閉じる。
「コロポータス」
「お前」
真壁が走りながら見る。
「それでいいのか」
「撃つよりいいだろ」
「珍しくまともだな」
「褒めんなよ」
「褒めてない」
「知ってる」
御影の足が、一瞬、僅かに遅くなった。
十二年前。
何度も聞いた会話。
だから、すぐに前を見る。
今は、後ろを振り返る必要はない。
二人とも、いる。
次の角。
御影が言う。
「右」
真壁は聞く前から右へ杖を向けていた。
黒い魔法。
「プロテゴ!」
弾く。
御影が下へ撃つ。
「インカーセラス」
敵が跳ぶ。
その着地点。
斎賀がいる。
「はい残念」
「ステューピファイ」
赤い光。
倒れる。
止まらない。
一発。
一歩。
一人。
無駄がない。
巨大な魔法も、派手な魔力のぶつけ合いもない。
必要なところへ、必要な力だけ。
相手が攻撃を選ぶ前に、その選択肢を潰す。
御影が前を読む。
真壁が全体を見る。
斎賀が予測そのものを壊す。
一人が前へ出過ぎれば、もう一人が穴を埋める。
御影が敵を追えば、真壁が背後を取る。
真壁が足を止めれば、斎賀が先へ出る。
斎賀が無茶な角度へ飛べば、御影が着地点を守る。
十二年、離れていた。
一人は教師になった。
一人は監察官になった。
一人は敵側にまでいた。
それでも、身体だけは覚えていた。
三人で現場へ出ていた頃のことを。
斎賀が走りながら笑った。
「意外と忘れねえもんだな」
真壁は前を向く。
「何の話だ」
「別に」
御影も何も言わない。
けれど、速度は一度も落ちなかった。
*
本館、最上階。
校長室へ続く廊下で、三人は初めて足を止めた。
静かだった。
下では戦闘音が聞こえている。
遠く、中央部では迎撃隊。
別方向では、本館側の柊木たちも始まっているのだろう。
さらに足元、地下。
目には見えない。
けれど、蓮根奎星が今も銀の鴉を飛ばしている。
十二分。
そのために、ここへ来た。
廊下の先。
校長室。
九重院紫苑が使っていた扉。
今は閉じている。
斎賀が息を整える。
「いる?」
御影は即答した。
「いる」
「勘?」
「分かる」
真壁が扉を見る。
「同じだろ」
「何が」
「勘だ」
御影が睨む。
「今言うことか」
斎賀が吹き出した。
「お前ら、昔からそれやってんの?」
「玄弥」
「はいはい」
御影が一歩進んだ。
その瞬間。
ぎい。
三人とも止まる。
誰も扉へ触れていない。
それなのに、校長室の扉が内側からゆっくり開いた。
「…………」
暗い部屋。
窓。
机。
本棚。
その中央、校長の席。
男が座っていた。
神代冥司。
まるで最初から待っていたように。
「どうぞ」
穏やかな声だった。
「せっかく、ここまでいらしたのですから」
三人は何も言わず、部屋へ入った。
*
校長室。
数日前、九重院紫苑が倒れ、神代冥司がその椅子に座っていた場所。
今も、同じ男が同じ場所にいる。
窓から差し込む朝日は明るい。
机の上には書類。
壁には歴代校長の肖像。
何も知らなければ、本当にこの男が長年ここにいたようにすら見えた。
御影は中央。
真壁が右。
斎賀は左へ。
神代は三人を順番に見た。
最初に御影。
次に真壁。
最後に斎賀。
そこで、ほんの僅かに目が止まる。
「……これは」
神代の口元へ薄い笑みが浮かんだ。
「随分と懐かしい顔ぶれですね」
斎賀が室内を見回す。
「俺、ここ初めてだけど」
真壁が小さく息を吐く。
「そういう意味ではない」
「分かってるよ」
斎賀は、まるで人の部屋へ遊びに来たように歩き始めた。
本棚。
壁。
歴代校長の肖像。
窓。
神代を中心に、ゆっくり校長室を一周する。
真壁が横目で見る。
「勝手に触るな」
「触ってねえよ」
「今、置物を持ち上げようとしただろ」
「見ただけ」
「手で見るな」
神代の目が細くなる。
「変わりませんね」
斎賀が振り返る。
「何が?」
「その態度です」
「お褒めいただき光栄です、校長先生」
「私はあなたを褒めたつもりはありません」
「知ってる」
御影の目が、ほんの少し動いた。
真壁も同じだった。
神代はそれを見逃さない。
「なるほど」
静かに言う。
「本当に、戻ったのですね」
斎賀の足が止まる。
一秒。
それだけ。
また歩き出す。
「何が?」
「そちら側へ」
神代は机の上で指を組んだ。
「随分と都合のよい話です」
斎賀は笑っている。
「そう?」
「あなたがこちら側で何をしたか、彼らはご存じなのですか?」
斎賀は答えない。
神代が続ける。
「魔法生物を捕らえた。羽根を奪った。魔法省職員を襲った。マホウトコロの生徒を標的にした」
真壁の目が僅かに鋭くなる。
御影は何も言わない。
神代の視線だけが斎賀へ向く。
「そして」
少し間を置く。
「御影玄一郎へ杖を向けた」
斎賀が窓際で止まった。
「彼らは、それを許したのですか?」
沈黙。
朝日。
遠く、爆発音。
斎賀が振り返る。
笑っていた。
「許してねえよ」
神代の目が僅かに動いた。
「俺も頼んでねえ」
軽い声。
でも、そこだけは冗談ではなかった。
「俺がやったことは消えないし、岳には次に鬼火鳥へ手ぇ出したらぶん殴るって言われてるし」
真壁が低く言う。
「今そこまで説明する必要はない」
「一応」
斎賀は肩を竦める。
「あと玄一郎にはもう殴られた」
「十二年分だ」
「一発で済ます量じゃなかったけどな」
神代は三人を見る。
「では、なぜ?」
斎賀が杖を軽く回した。
「何が」
「許されてもいない。罪も消えていない。それでも、あなたは彼らの隣へ立っている」
斎賀は一度、御影を見る。
真壁を見る。
二人とも何も言わない。
「一旦」
斎賀が言った。
神代の眉が僅かに動く。
「……一旦?」
「一旦、仲間なんだって」
御影が低く言う。
「余計な説明をするな」
「大事だろ?」
「大事ではない」
「俺は結構気に入ってんだけど」
真壁が額へ手を当てた。
「なぜここまで来てその話になる」
斎賀が笑う。
神代は笑わなかった。
「あなたは」
声が少しだけ低くなる。
「本当に、自分の居場所へ戻れたと思っているのですか?」
それは、今までより少しだけ深いところを狙った言葉だった。
十二年前。
一人、残った。
帰れなかった。
生きるために、何でもした。
戻る道を失った。
斎賀の瞳が、一瞬だけ昔の色になる。
神代が続ける。
「一度、置いていかれた場所へ」
御影の顔が変わった。
真壁も。
だが、斎賀が先に笑った。
「そのネタ」
杖を肩へ乗せる。
「十二年遅えよ」
神代が黙る。
「あと」
斎賀が御影と真壁の間へ、ゆっくり戻ってくる。
「こいつら、しつこいんだわ」
御影が眉を寄せる。
「誰がだ」
「二人とも」
真壁が言う。
「今反応するな」
「十二年探してたんだろ?」
御影。
「玄弥」
「はいはい」
斎賀は笑った。
「だから、今さらその程度じゃ乗んねえよ」
神代は数秒、斎賀を見る。
それから、興味を失ったように御影へ視線を戻した。
「御影玄一郎」
「何だ」
「あなたには、失望しました」
御影の表情は変わらない。
「勝手にしろ」
「数日前、あなたは正しい判断をした」
神代が言う。
「生徒へ杖を向けず、撤退した。あの場で戦えば、あなた方は確実に敗れていた」
「ああ」
御影は認めた。
神代の目が僅かに細くなる。
「認めるのですね」
「事実だ」
「では、なぜ戻ったのです?」
御影は少しも迷わなかった。
「取り返すためだ」
「同じことを繰り返すだけかもしれませんよ」
「ならまた考える」
「また敗れたら?」
「また立つ」
「何度でも?」
「何度でもだ」
神代の口元から薄い笑みが消えた。
御影は続ける。
「一回負けたら終わりなら、教師なんかやってられん」
真壁が僅かに口元を上げる。
斎賀も笑う。
神代だけが笑わない。
「蓮根奎星ですか」
その名前に、御影の目が僅かに鋭くなる。
「あなた方の希望は」
「違う」
即答。
神代が止まる。
「蓮根は」
御影が言う。
「あいつの仕事をしているだけだ」
「…………」
「生徒を戻す。それがあいつの仕事だ」
一歩、前へ。
「九重院と教師を救うのは柊木たちの仕事」
さらに。
「黒曜の環を止めるのは、下にいる禍祓官の仕事」
そして、杖先が僅かに上がる。
「俺の仕事は」
神代を見る。
「お前をここから動かさないことだ」
沈黙。
神代の瞳が、初めて明確に冷えた。
「一人の少年へ、随分と大きな役割を与えましたね」
真壁が口を開く。
「一人ではない」
神代が見る。
「何?」
「蓮根君を一人にした覚えはない」
真壁の声は、いつも通り淡々としていた。
「周囲には仲間がいる。禍祓官がいる。烏丸先生がいる。そして、ここには俺たちがいる」
斎賀が口を挟む。
「めちゃくちゃいるな」
真壁が無視する。
「お前はずっと、そこを読み違えている」
神代の目が細くなる。
「人と人との繋がり、ですか?」
「安っぽく聞こえるか」
「ええ」
神代は答えた。
「非常に」
真壁も僅かに笑った。
「そうか」
杖を上げる。
「なら、その安っぽいものにここまで追い込まれた気分はどうだ?」
初めて、校長室の空気が僅かに動いた。
斎賀が口笛を吹く。
神代は真壁を見る。
「魔法省監察官ともあろう者が、正式な命令もなく犯罪者を連れ出し、武装した禍祓官を率いて学校へ侵入した」
「訂正しよう」
真壁が言う。
「率いてはいない」
「では?」
「俺を信じた者が、自分で来た」
「詭弁ですね」
「報告書にはそう書く」
斎賀が笑いを堪えられなかった。
「やっぱ書くんだ」
「お前の分は特に長い」
「うわ最悪」
「心配するな。罪状から書く」
「もっと最悪」
御影が二人を見る。
「後にしろ」
「お前から始めたんじゃないだろ」
「玄弥」
「はいはい」
その会話を、神代は静かに見ていた。
御影玄一郎。
真壁征士郎。
斎賀玄弥。
かつて、同じ任務へ出ていた三人。
一人が消え、二人が別々の道へ進み、二度と並ぶことはないはずだった三本の杖。
今、自分の前にある。
遠く、校舎がまた揺れた。
神代の視線が、ほんの一瞬、床へ落ちる。
地下。
霊脈。
銀の魔力が少しずつ広がっている。
御影は、その一瞬を見逃さなかった。
「気になるか」
神代が顔を上げる。
「何がです?」
「地下だ」
「…………」
「行きたいんだろ」
神代は静かに椅子から立ち上がった。
初めて、校長の席から離れる。
「ええ」
長い黒髪が背へ落ちる。
「そろそろ、私自身が止めに行く必要がありそうです」
御影、真壁、斎賀。
三本の杖が同時に動いた。
神代が見る。
「退いていただけますか」
御影が答えた。
「断る」
「生徒を救いたいのでしょう?」
「ああ」
「なら、私をここへ留めることに意味はありません。霊脈の術式を止めれば、彼らは――」
「お前」
御影の声が低くなる。
「俺を馬鹿だと思ってるだろ」
斎賀が横で言う。
「ちょっとは」
「お前に聞いてない」
「怖」
真壁が額を押さえる。
神代は無言だった。
御影が一歩、前へ出る。
教師ではない。
もう、学校の廊下で生徒を叱る男の顔ではなかった。
斎賀玄弥と戦った。
あの夏、久我朔弥へ杖を向けた。
あの日。
何度も闇の魔法使いを前にした。
禍祓官、御影玄一郎。
その声へ戻る。
「神代冥司」
校長室に低い声が響いた。
神代の表情から僅かな笑みが消える。
「日本魔法法・禁呪取締条項、精神干渉魔術規制条項、国立魔法教育機関保安法に基づく」
真壁が御影の右へ並ぶ。
斎賀も左へ、ゆっくり杖を下ろした。
遊ぶように肩へ担いでいた杖を、今度は真っ直ぐ神代へ向ける。
御影は続ける。
「国立魔法学校マホウトコロの不法占拠。九重院紫苑および複数教職員への襲撃、違法拘束。霊脈を利用した生徒への継続的精神干渉」
一つ、一つ、言葉にする。
神代は黙って聞いている。
「黒曜の環を通じた一連の魔法犯罪、および禁制術式の行使に関する容疑に基づき――」
御影の杖先が、神代冥司の胸へ向いた。
十二年前。
何度も現場で使った声。
一学期、久我朔弥へ。
夏、斎賀玄弥へ。
そして、今。
「禍祓官の名において」
御影の目が細くなる。
「貴様を拘束する」
静寂。
朝日が四人の間へ差し込む。
神代冥司は御影を見た。
真壁を見る。
斎賀を見る。
そして、ほんの僅かに笑った。
「ですが」
聞き覚えのある、その返し。
「あなたはもう、《元》でしょう?」
斎賀の眉が上がった。
真壁の口元が僅かに動く。
御影は一切、表情を変えなかった。
「試してみろ」
神代の杖が上がった。
同時に、真壁が右へ、斎賀が左へ、御影が正面へ。
三人。
誰も互いを見ない。
見る必要がない。
斎賀が笑った。
「行くぞ」
真壁が言う。
「勝手に先行するな」
「じゃあ征士郎から」
「そういう意味ではない」
御影が短く言った。
「来るぞ」
神代の杖先に黒い光が灯る。
三本の杖が同時に構えられた。
二〇一四年。
三人で出て、三人で帰っていた。
あの頃から十二年。
ようやく、もう一度、三人が同じ敵へ杖を向けた。
次の瞬間、神代冥司の魔法と三人の禍祓官の魔法が正面から激突した。
《星帰り作戦》。
残された時間は十一分。
そして、マホウトコロ奪還戦。
最大の戦いが始まった。