光が消えたとき、御影玄一郎はすでに杖を抜いていた。
転移直後の眩暈も、上下の感覚が戻るまでの僅かな空白も、ほとんど動きには出ない。靴底が石床へ触れた瞬間には身体を低くし、正面の通路、左右の壁、天井、背後まで一度に確認している。
真壁征士郎も同じだった。
その横で斎賀玄弥だけは、転移の余韻を確かめるように首を一度鳴らした。
「……久しぶりだな、この感じ」
「黙れ」
御影の声は低かった。
迎撃隊が出たのは、マホウトコロ中央部の地下へ繋がる旧通路だった。
霊脈隊が入った厨房地下の経路ほど狭くはない。かつて職員や物資の移動にも使われていたらしく、大人が三、四人並んでも歩けるだけの幅がある。石造りの壁には古い魔法灯が一定間隔で残されていたが、今はその大半が消えており、遠くに一つだけ淡い青白い火が揺れていた。
御影。
真壁。
斎賀。
鷲尾宗一。
深見玲司。
そして、真壁が魔法省から連れてきた残る禍祓官たち。
十名。
合計十三人。
全員いる。
誰も欠けていない。
鷲尾が最後尾を確認し、小さく頷いた。
「侵入成功です」
御影は返事をしなかった。杖を下ろさないまま通路の先を見つめ、数秒だけ耳を澄ませる。
聞こえる。
足音。
遥か上。
生徒たちが歩いている。
微かな話し声。
扉の開閉。
授業の始まりを告げる鐘。
何も知らずに聞けば、いつもの朝だった。
その事実が、かえって不気味だった。
数日前、この学校は落ちた。
九重院は倒され、教師たちは拘束され、生徒たちは神代冥司を校長として受け入れている。
それでも朝になれば鐘が鳴る。
授業が始まる。
生徒は笑う。
日常だけが。
何事もなかったように続いている。
深見が小声で訊いた。
「隊長、動きますか」
「まだだ」
御影は即答した。
深見は反射的に姿勢を正した。
「了解」
斎賀が横目で見る。
「まだ隊長って呼ばれてんの?」
「お前は黙ってろ」
「人気者だねえ、玄一郎」
「黙れと言った」
真壁が二人の間へ低く言葉を挟む。
「本当に黙れ。今は待機だ」
斎賀が肩を竦めた。
「二人して冷てえなあ」
だが、それ以上は何も言わなかった。
それが今の作戦だった。
迎撃隊の役割は、戦うことではない。
正確には。
戦わずに済むなら、それが一番いい。
奎星たちはすでに別の経路から霊脈中枢へ向かっている。柊木率いる救出隊も、九重院と教師たちを救うために本館側へ入った。
三隊の中で。
最も派手に動くことを想定されているのが迎撃隊だった。
それでも。
神代に気づかれず。
黒曜の環にも気づかれず。
奎星が十二分を終え。
生徒たちへの干渉が解け。
九重院たちまで救出できるなら。
御影たちが杖を一度も振らずに帰ることこそ、最善だった。
敵を倒すことが目的ではない。
学校を取り戻すことが目的なのだから。
真壁が腕時計を見る。
「転移から三十秒」
御影は何も言わない。
四十秒。
五十秒。
一分。
十三人は、旧通路の陰へ身を隠したまま動かなかった。
誰かの呼吸。
衣擦れ。
それだけ。
斎賀すら、今は壁へ背中を預けて黙っている。
御影は頭の中で作戦をなぞった。
霊脈隊。
厨房地下。
中枢へ。
蓮根が守護霊を入れる。
そこから十二分。
救出隊。
本館。
九重院を最優先。
教師を順次解放。
そして。
自分たちは。
必要になるまで。
動かない。
何も起きるな。
御影玄一郎が戦場でそんなことを願うのは珍しかった。
敵が出るなら倒す。
来るなら止める。
それが仕事だった。
だが今日は。
何も起こらないことのほうがいい。
蓮根。
十二分。
やれ。
ただ、それだけを思う。
一分半。
真壁がもう一度時計を見る。
斎賀が僅かに目を閉じる。
鷲尾が通路の先を見張っている。
まだ。
何も――
そのときだった。
音が。
消えた。
「…………」
御影の目が動く。
上から聞こえていた生徒たちの話し声が。
消えている。
廊下を歩く足音も。
鐘の余韻も。
鳥の声まで。
何も。
聞こえない。
まるで学校そのものが、一瞬で息を止めたようだった。
深見がゆっくり顔を上げる。
「……隊長?」
誰も答えない。
御影の左手が僅かに動く。
真壁も杖を握り直した。
斎賀だけが、閉じていた目を開く。
静かだった。
あまりにも。
静かだった。
次の瞬間。
ざ。
古い魔法灯が一つ。
消えた。
通路の奥。
青白い光。
消える。
暗闇が一つ分。
近づく。
ざ。
二つ目。
消える。
「…………」
禍祓官たちの表情が変わった。
ざ。
三つ目。
また。
暗闇が近づいた。
何かが通路を歩いてきているわけではない。
それでも。
一つ。
また一つ。
遠くから順番に魔法灯だけが消えていく。
御影たちのいる場所へ。
真っ直ぐ。
近づいてくる。
ざ。
残り二つ。
誰も動かない。
深見の額へ、僅かに汗が浮かんだ。
ざ。
最後の一つ。
御影たちの頭上に残った魔法灯だけが、青白い光を落としている。
沈黙。
一秒。
二秒。
三秒。
そして。
その灯りも。
消えた。
完全な闇。
直後。
『地下へ』
声がした。
「――」
誰かが息を呑んだ。
前ではない。
後ろでもない。
天井。
床。
壁。
通路そのものから。
人の声が染み出してくる。
穏やかな。
静かな。
聞き覚えのある声。
『侵入者がいます』
御影の左頬の傷が、僅かに歪んだ。
神代冥司。
『地下中枢へ向かいなさい』
通路の奥。
どこかで。
複数の足音が止まる。
『蓮根奎星がいます』
御影の目が鋭くなる。
バレた。
ただ侵入を察知されたのではない。
誰が。
どこで。
何をしているのか。
そこまで。
『一刻も早く、術を止めてください』
静かな声。
焦りなど一切ない。
だからこそ。
異様だった。
最後。
ほんの少しだけ。
間が空いた。
『必ず』
ぶつ。
声が切れる。
暗闇。
誰も。
すぐには喋らなかった。
真壁が最初に口を開く。
「……早い」
鷲尾が低く言う。
「予定より、かなり」
深見が通路の奥を見る。
「もう蓮根君の位置まで……?」
「霊脈に触れたんだ」
御影が言った。
「それで気づいた」
つまり。
始まった。
奎星が。
もう。
守護霊を流している。
そして。
神代も。
それを止めるために動いた。
通路の遠く。
どどどどど、と足音が響き始めた。
一方向ではない。
前。
後ろ。
さらに。
頭上。
一斉に。
近づいてくる。
真壁が即座に指示を飛ばす。
「全員、戦闘準備!」
十人の禍祓官が一斉に杖を抜いた。
「学生が混じる可能性がある! 識別するまで高威力術式は禁止!」
「了解!」
「黒曜の環は?」
「拘束優先! 突破を最優先する!」
御影も、すでに通路から出る位置を見ている。
予想より早い。
だが。
まだ。
崩れてはいない。
ここから敵を引きつければいい。
奎星へ向かう人数を減らす。
それが。
迎撃隊の仕事。
「玄一郎」
斎賀の声がした。
御影が見る。
さっきまで壁へ寄りかかっていた男は。
もう笑っていた。
人を食った。
十二年前と。
変わらない笑み。
右手には。
杖。
「何だ」
斎賀は杖を肩へ乗せた。
「さあ」
足音が近づく。
闇の向こう。
黒い影。
一つ。
二つ。
三つ。
斎賀玄弥の笑みが。
深くなる。
「仕事の時間だぜ」
「玄弥、待――」
真壁が言い終えるより早かった。
斎賀の杖が振られる。
「コンフリンゴ」
閃光。
轟音。
ドォォォォン――!!
旧通路の出口。
敵が展開し始めていた中央回廊と通路を隔てる、古い石造りの柱が爆ぜた。
ただし。
狙ったのは人間ではない。
敵の列の。
ど真ん中。
誰もいない場所。
石柱と床の境目。
爆発で大量の石片と白煙が巻き上がり、今まさに杖を構えようとしていた黒曜の環の者たちが反射的に左右へ分断される。
「何をしている!」
真壁が怒鳴った。
斎賀は煙の向こうを見ながら笑う。
「戦局崩した」
「先に言え!」
「言ったら止めるだろ」
「当たり前だ!」
爆発音は。
学校中へ響いた。
上階の窓が揺れる。
廊下の向こうから、さらに多くの足音がこちらへ向きを変える。
鷲尾が状況を一瞬で理解した。
「……なるほど」
深見も笑う。
「全員こっち見ますね」
「それが仕事だろ?」
斎賀が言う。
真壁は額へ青筋を浮かべていた。
「だからと言って学校を爆破するな!」
「あとで直せる!」
「そういう問題じゃない!」
「征士郎」
御影が一言。
真壁が止まる。
御影は白煙の向こうを見ていた。
来る。
黒曜の環。
一人。
二人。
五人。
さらに。
校舎の回廊から。
階段から。
次々と黒い外套の人影が現れる。
杖。
黒曜石。
赤黒い術式。
完全に。
こちらへ戦力が向いた。
御影が言う。
「結果は出た」
真壁が信じられないものを見るように横を向く。
「玄一郎、お前まで」
「説教は後だ」
斎賀が嬉しそうに笑う。
「分かってんじゃん」
「お前は後で殴る」
「二発目!?」
「来るぞ!」
鷲尾の声。
黒曜の環から。
一斉に。
魔法が飛んだ。
「プロテゴ・マキシマ!」
十人の禍祓官が前へ出る。
巨大な防壁。
赤。
黒。
紫。
幾つもの光が正面から衝突し、轟音と共に回廊全体が揺れた。
深見が防壁の隙間から杖を突き出す。
「ステューピファイ!」
鷲尾。
「エクスペリアームス!」
別の禍祓官が。
「インカーセラス!」
戦闘が。
始まる。
魔法。
盾。
拘束縄。
爆発。
石床へ反射する無数の光。
御影は。
それを一秒だけ見た。
「鷲尾!」
「はい!」
「ここを頼む」
鷲尾は防壁を維持したまま御影を見る。
「最初からそのつもりです」
「敵を霊脈隊へ行かせるな」
「一人も通しません」
深見が横から叫ぶ。
「御影隊長!」
「何だ」
「神代ぶん殴ったら、俺の分もお願いします!」
御影の眉が寄った。
「魔法使え」
「了解!」
斎賀が笑う。
「慕われてんなあ」
真壁が杖を構えたまま言う。
「行くぞ」
「ああ」
御影。
真壁。
斎賀。
三人が。
同時に。
戦列を離れた。
目指す場所は。
一つ。
校長室。
神代冥司。
本丸。
*
三人は走った。
中央回廊。
東階段。
二階。
マホウトコロの構造を最も知っているのは御影だ。何十年もこの学校で過ごしてきた男は最短経路を迷わず選び、真壁と斎賀がその後ろへ続く。
角。
御影が止まる。
一秒もない。
前方から生徒が二人。
杖。
すでに構えている。
「止まれ!」
上級課程。
御影の知っている顔だった。
「黒曜の環だ!」
生徒が叫ぶ。
「神代校長に近づくな!」
御影の顔は変わらない。
「エクスペリアームス」
二本の杖が同時に飛んだ。
生徒たちが何が起こったのか理解するより先に、真壁の杖が動く。
「インカーセラス」
縄が二人の腕と胴を巻き取り、壁際へ安全に拘束した。
「なっ――!」
「悪い」
御影は足を止めない。
「後で解く」
三人はそのまま走り抜ける。
次。
階段。
黒曜の環。
三人。
一人が杖を上げる。
「アバ――」
「ステューピファイ」
言い切る前に。
真壁の赤い光が胸へ入った。
倒れる。
左右。
二人目。
御影へ。
「ディフィンド!」
白い刃。
御影は身体を半歩だけずらした。
避ける。
同時に。
杖先。
「エクスペリアームス」
敵の杖が飛ぶ。
三人目。
背後。
御影からは見えない。
だが。
「遅えよ」
斎賀が。
壁に足をついた。
蹴る。
身体が斜めへ飛ぶ。
敵の視界から一瞬で消え、着地点そのものを変える。
「なっ――」
「デパルソ」
杖を持つ腕へ。
最小限。
男の身体ではない。
腕だけが横へ弾かれる。
そこへ真壁。
「インカーセラス」
拘束。
三人。
七秒もかからない。
斎賀が着地した。
「懐かしくない?」
「何がだ」
御影はもう先を見ている。
「この感じ」
「喋る暇があるなら走れ」
「征士郎は?」
真壁も足を止めない。
「昔よりうるさい」
「ひでえな!」
次の廊下。
二人。
今度は黒曜の環ではない。
学生服。
御影の杖が。
一瞬だけ下がる。
傷つけない。
それだけで。
三人の選択が変わる。
生徒が赤い光を撃つ。
御影。
盾。
「プロテゴ」
弾く。
真壁が反対側から杖だけを飛ばす。
斎賀は廊下の壁を蹴り、二人の背後へ回った。
「うわっ!?」
「ごめんな」
二人の襟を掴む。
引く。
そのまま近くの教室へ押し込む。
「ちょっと寝てろ」
扉。
閉じる。
鍵。
「コロポータス」
「お前」
真壁が走りながら見る。
「それでいいのか」
「撃つよりいいだろ」
「珍しくまともだな」
「褒めんなよ」
「褒めてない」
「知ってる」
御影の足が。
一瞬。
僅かに遅くなった。
十二年前。
何度も。
聞いた会話。
だから。
すぐに。
前を見る。
今は。
後ろを振り返る必要はない。
二人とも。
いる。
次の角。
御影が言う。
「右」
真壁は聞く前から右へ杖を向けていた。
黒い魔法。
「プロテゴ!」
弾く。
御影が下へ撃つ。
「インカーセラス」
敵が跳ぶ。
その着地点。
斎賀がいる。
「はい残念」
「ステューピファイ」
赤い光。
倒れる。
止まらない。
一発。
一歩。
一人。
無駄がない。
巨大な魔法も。
派手な魔力のぶつけ合いもない。
必要なところへ。
必要な力だけ。
相手が攻撃を選ぶ前に。
その選択肢を潰す。
御影が前を読む。
真壁が全体を見る。
斎賀が。
予測そのものを壊す。
一人が前へ出過ぎれば。
もう一人が穴を埋める。
御影が敵を追えば。
真壁が背後を取る。
真壁が足を止めれば。
斎賀が先へ出る。
斎賀が無茶な角度へ飛べば。
御影が着地点を守る。
十二年。
離れていた。
一人は教師になった。
一人は監察官になった。
一人は。
敵側にまでいた。
それでも。
身体だけは。
覚えていた。
三人で。
現場へ出ていた頃のことを。
斎賀が走りながら笑った。
「意外と忘れねえもんだな」
真壁は前を向く。
「何の話だ」
「別に」
御影も何も言わない。
けれど。
速度は。
一度も。
落ちなかった。
*
本館。
最上階。
校長室へ続く廊下。
そこで初めて。
三人は足を止めた。
静かだった。
下では戦闘音が聞こえている。
遠く。
中央部。
迎撃隊。
別方向。
本館側。
柊木たちも始まっているのだろう。
さらに。
足元。
地下。
目には見えない。
けれど。
蓮根奎星が。
今も。
銀の鴉を飛ばしている。
十二分。
そのために。
ここへ来た。
廊下の先。
校長室。
九重院紫苑が使っていた扉。
今は。
閉じている。
斎賀が息を整える。
「いる?」
御影は即答した。
「いる」
「勘?」
「分かる」
真壁が扉を見る。
「同じだろ」
「何が」
「勘だ」
御影が睨む。
「今言うことか」
斎賀が吹き出した。
「お前ら、昔からそれやってんの?」
「玄弥」
「はいはい」
御影が一歩進んだ。
その瞬間。
ぎい。
三人とも。
止まる。
誰も。
扉へ触れていない。
それなのに。
校長室の扉が。
内側から。
ゆっくり。
開いた。
「…………」
暗い部屋。
窓。
机。
本棚。
その中央。
校長の席。
男が。
座っていた。
神代冥司。
まるで。
最初から。
待っていたように。
「どうぞ」
穏やかな声だった。
「せっかく、ここまでいらしたのですから」
三人は。
何も言わず。
部屋へ入った。
*
校長室。
数日前。
九重院紫苑が倒れ。
神代冥司が。
その椅子に座っていた場所。
今も。
同じ男が。
同じ場所にいる。
窓から差し込む朝日は明るい。
机の上には書類。
壁には歴代校長の肖像。
何も知らなければ。
本当に。
この男が。
長年。
ここにいたようにすら見えた。
御影は中央。
真壁が右。
斎賀は左へ。
神代は三人を順番に見た。
最初に。
御影。
次に。
真壁。
最後に。
斎賀。
そこで。
ほんの僅かに。
目が止まる。
「……これは」
神代の口元へ。
薄い笑みが浮かんだ。
「随分と懐かしい顔ぶれですね」
斎賀が室内を見回す。
「俺、ここ初めてだけど」
真壁が小さく息を吐く。
「そういう意味ではない」
「分かってるよ」
斎賀はまるで人の部屋へ遊びに来たように歩き始めた。
本棚。
壁。
歴代校長の肖像。
窓。
神代を中心に。
ゆっくり。
校長室を一周する。
真壁が横目で見る。
「勝手に触るな」
「触ってねえよ」
「今、置物を持ち上げようとしただろ」
「見ただけ」
「手で見るな」
神代の目が細くなる。
「変わりませんね」
斎賀が振り返る。
「何が?」
「その態度です」
「お褒めいただき光栄です、校長先生」
「私はあなたを褒めたつもりはありません」
「知ってる」
御影の目が。
ほんの少し。
動いた。
真壁も。
同じだった。
神代はそれを見逃さない。
「なるほど」
静かに。
言う。
「本当に、戻ったのですね」
斎賀の足が止まる。
一秒。
それだけ。
また歩き出す。
「何が?」
「そちら側へ」
神代は机の上で指を組んだ。
「随分と都合のよい話です」
斎賀は笑っている。
「そう?」
「あなたがこちら側で何をしたか、彼らはご存じなのですか?」
斎賀は答えない。
神代が続ける。
「魔法生物を捕らえた。羽根を奪った。魔法省職員を襲った。マホウトコロの生徒を標的にした」
真壁の目が僅かに鋭くなる。
御影は。
何も言わない。
神代の視線だけが。
斎賀へ。
「そして」
少し間を置く。
「御影玄一郎へ杖を向けた」
斎賀が窓際で止まった。
「彼らは、それを許したのですか?」
沈黙。
朝日。
遠く。
爆発音。
斎賀が。
振り返る。
笑っていた。
「許してねえよ」
神代の目が。
僅かに動いた。
「俺も頼んでねえ」
軽い声。
でも。
そこだけは。
冗談ではなかった。
「俺がやったことは消えないし、岳には次に鬼火鳥へ手ぇ出したらぶん殴るって言われてるし」
真壁が低く言う。
「今そこまで説明する必要はない」
「一応」
斎賀は肩を竦める。
「あと玄一郎にはもう殴られた」
「十二年分だ」
「一発で済ます量じゃなかったけどな」
神代は。
三人を見る。
「では、なぜ?」
斎賀が杖を軽く回した。
「何が」
「許されてもいない。罪も消えていない。それでも、あなたは彼らの隣へ立っている」
斎賀は一度。
御影を見る。
真壁を見る。
二人とも。
何も言わない。
「一旦」
斎賀が言った。
神代の眉が。
僅かに動く。
「……一旦?」
「一旦、仲間なんだって」
御影が低く言う。
「余計な説明をするな」
「大事だろ?」
「大事ではない」
「俺は結構気に入ってんだけど」
真壁が額へ手を当てた。
「なぜここまで来てその話になる」
斎賀が笑う。
神代は。
笑わなかった。
「あなたは」
声が。
少しだけ。
低くなる。
「本当に、自分の居場所へ戻れたと思っているのですか?」
それは。
今までより。
少しだけ。
深いところを狙った言葉だった。
十二年前。
一人。
残った。
帰れなかった。
生きるために。
何でもした。
戻る道を。
失った。
斎賀の瞳が。
一瞬だけ。
昔の色になる。
神代が続ける。
「一度、置いていかれた場所へ」
御影の顔が変わった。
真壁も。
だが。
斎賀が先に笑った。
「そのネタ」
杖を肩へ乗せる。
「十二年遅えよ」
神代が黙る。
「あと」
斎賀が。
御影と真壁の間へ。
ゆっくり。
戻ってくる。
「こいつら、しつこいんだわ」
御影が眉を寄せる。
「誰がだ」
「二人とも」
真壁が言う。
「今反応するな」
「十二年探してたんだろ?」
御影。
「玄弥」
「はいはい」
斎賀は笑った。
「だから、今さらその程度じゃ乗んねえよ」
神代は。
数秒。
斎賀を見る。
それから。
興味を失ったように。
御影へ視線を戻した。
「御影玄一郎」
「何だ」
「あなたには、失望しました」
御影の表情は変わらない。
「勝手にしろ」
「数日前、あなたは正しい判断をした」
神代が言う。
「生徒へ杖を向けず、撤退した。あの場で戦えば、あなた方は確実に敗れていた」
「ああ」
御影は認めた。
神代の目が僅かに細くなる。
「認めるのですね」
「事実だ」
「では、なぜ戻ったのです?」
御影は。
少しも迷わなかった。
「取り返すためだ」
「同じことを繰り返すだけかもしれませんよ」
「ならまた考える」
「また敗れたら?」
「また立つ」
「何度でも?」
「何度でもだ」
神代の口元から。
薄い笑みが消えた。
御影は続ける。
「一回負けたら終わりなら、教師なんかやってられん」
真壁が。
僅かに口元を上げる。
斎賀も笑う。
神代だけが。
笑わない。
「蓮根奎星ですか」
その名前。
御影の目が。
僅かに鋭くなる。
「あなた方の希望は」
「違う」
即答。
神代が止まる。
「蓮根は」
御影が言う。
「あいつの仕事をしているだけだ」
「…………」
「生徒を戻す。それがあいつの仕事だ」
一歩。
前へ。
「九重院と教師を救うのは柊木たちの仕事」
さらに。
「黒曜の環を止めるのは、下にいる禍祓官の仕事」
そして。
杖先が。
僅かに上がる。
「俺の仕事は」
神代を見る。
「お前をここから動かさないことだ」
沈黙。
神代の瞳が。
初めて。
明確に冷えた。
「一人の少年へ、随分と大きな役割を与えましたね」
真壁が口を開く。
「一人ではない」
神代が見る。
「何?」
「蓮根君を一人にした覚えはない」
真壁の声は。
いつも通り。
淡々としていた。
「周囲には仲間がいる。禍祓官がいる。烏丸先生がいる。そして、ここには俺たちがいる」
斎賀が口を挟む。
「めちゃくちゃいるな」
真壁が無視する。
「お前はずっと、そこを読み違えている」
神代の目が細くなる。
「人と人との繋がり、ですか?」
「安っぽく聞こえるか」
「ええ」
神代は答えた。
「非常に」
真壁も。
僅かに笑った。
「そうか」
杖を上げる。
「なら、その安っぽいものにここまで追い込まれた気分はどうだ?」
初めて。
校長室の空気が。
僅かに。
動いた。
斎賀が口笛を吹く。
神代は真壁を見る。
「魔法省監察官ともあろう者が、正式な命令もなく犯罪者を連れ出し、武装した禍祓官を率いて学校へ侵入した」
「訂正しよう」
真壁が言う。
「率いてはいない」
「では?」
「俺を信じた者が、自分で来た」
「詭弁ですね」
「報告書にはそう書く」
斎賀が笑いを堪えられなかった。
「やっぱ書くんだ」
「お前の分は特に長い」
「うわ最悪」
「心配するな。罪状から書く」
「もっと最悪」
御影が二人を見る。
「後にしろ」
「お前から始めたんじゃないだろ」
「玄弥」
「はいはい」
その会話を。
神代は。
静かに見ていた。
御影玄一郎。
真壁征士郎。
斎賀玄弥。
かつて。
同じ任務へ出ていた三人。
一人が消え。
二人が別々の道へ進み。
二度と。
並ぶことはないはずだった三本の杖。
今。
自分の前に。
ある。
遠く。
校舎が。
また。
揺れた。
神代の視線が。
ほんの一瞬。
床へ落ちる。
地下。
霊脈。
銀の魔力が。
少しずつ。
広がっている。
御影は。
その一瞬を見逃さなかった。
「気になるか」
神代が顔を上げる。
「何がです?」
「地下だ」
「…………」
「行きたいんだろ」
神代は。
静かに椅子から立ち上がった。
初めて。
校長の席から。
離れる。
「ええ」
長い黒髪が。
背へ落ちる。
「そろそろ、私自身が止めに行く必要がありそうです」
御影。
真壁。
斎賀。
三本の杖が。
同時に。
動いた。
神代が見る。
「退いていただけますか」
御影が答えた。
「断る」
「生徒を救いたいのでしょう?」
「ああ」
「なら、私をここへ留めることに意味はありません。霊脈の術式を止めれば、彼らは――」
「お前」
御影の声が。
低くなる。
「俺を馬鹿だと思ってるだろ」
斎賀が横で。
「ちょっとは」
「お前に聞いてない」
「怖」
真壁が額を押さえる。
神代は。
無言。
御影が一歩。
前へ出る。
教師ではない。
もう。
学校の廊下で生徒を叱る男の顔ではなかった。
斎賀玄弥と戦った。
あの夏。
久我朔弥へ杖を向けた。
あの日。
何度も。
闇の魔法使いを前にした。
禍祓官。
御影玄一郎。
その声へ。
戻る。
「神代冥司」
校長室に。
低い声が響いた。
神代の表情から。
僅かな笑みが消える。
「日本魔法法・禁呪取締条項、精神干渉魔術規制条項、国立魔法教育機関保安法に基づく」
真壁が。
御影の右へ。
並ぶ。
斎賀も。
左へ。
ゆっくり。
杖を下ろした。
遊ぶように肩へ担いでいた杖を。
今度は。
真っ直ぐ。
神代へ向ける。
御影は続ける。
「国立魔法学校マホウトコロの不法占拠。九重院紫苑および複数教職員への襲撃、違法拘束。霊脈を利用した生徒への継続的精神干渉」
一つ。
一つ。
言葉にする。
神代は。
黙って聞いている。
「黒曜の環を通じた一連の魔法犯罪、および禁制術式の行使に関する容疑に基づき――」
御影の杖先が。
神代冥司の胸へ。
向いた。
十二年前。
何度も。
現場で使った声。
一学期。
久我朔弥へ。
夏。
斎賀玄弥へ。
そして。
今。
「禍祓官の名において」
御影の目が。
細くなる。
「貴様を拘束する」
静寂。
朝日が。
四人の間へ差し込む。
神代冥司は。
御影を見た。
真壁を見る。
斎賀を見る。
そして。
ほんの僅かに。
笑った。
「ですが」
聞き覚えのある。
その返し。
「あなたはもう、《元》でしょう?」
斎賀の眉が上がった。
真壁の口元が。
僅かに動く。
御影は。
一切。
表情を変えなかった。
「試してみろ」
神代の杖が。
上がった。
同時に。
真壁が右へ。
斎賀が左へ。
御影が。
正面。
三人。
誰も。
互いを見ない。
見る必要がない。
斎賀が。
笑った。
「行くぞ」
真壁が言う。
「勝手に先行するな」
「じゃあ征士郎から」
「そういう意味ではない」
御影が。
短く言った。
「来るぞ」
神代の杖先に。
黒い光が灯る。
三本の杖が。
同時に構えられた。
二〇一四年。
三人で出て。
三人で帰っていた。
あの頃から。
十二年。
ようやく。
もう一度。
三人が。
同じ敵へ。
杖を向けた。
次の瞬間。
神代冥司の魔法と。
三人の禍祓官の魔法が。
正面から。
激突した。
《星帰り作戦》。
残された時間は。
十一分。
そして。
マホウトコロ奪還戦。
最大の戦いが。
始まった。
マホウトコロ シーズン4
星帰りと黒曜の王