マホウトコロ   作:西野圭吾

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第10話 三つの杖、再び

 

光が消えたとき、御影玄一郎はすでに杖を抜いていた。

 

転移直後の眩暈も、上下の感覚が戻るまでの僅かな空白も、ほとんど動きには出ない。靴底が石床へ触れた瞬間には身体を低くし、正面の通路、左右の壁、天井、背後までを一度に確認している。

 

真壁征士郎も同じだった。

 

その横で、斎賀玄弥だけは転移の余韻を確かめるように首を一度鳴らした。

 

「……久しぶりだな、この感じ」

 

「黙れ」

 

御影の声は低かった。

 

迎撃隊が出たのは、マホウトコロ中央部の地下へ繋がる旧通路だった。

 

霊脈隊が入った厨房地下の経路ほど狭くはない。かつて職員や物資の移動にも使われていたらしく、大人が三、四人並んでも歩けるだけの幅がある。石造りの壁には古い魔法灯が一定間隔で残されていたが、今はその大半が消えており、遠くに一つだけ淡い青白い火が揺れていた。

 

御影、真壁、斎賀、鷲尾宗一、深見玲司、そして真壁が魔法省から連れてきた残る禍祓官たち。十名、合計十三人。

 

全員いる。

 

誰も欠けていない。

 

鷲尾が最後尾を確認し、小さく頷いた。

 

「侵入成功です」

 

御影は返事をしなかった。杖を下ろさないまま通路の先を見つめ、数秒だけ耳を澄ませる。

 

聞こえる。

 

足音。

 

遥か上で、生徒たちが歩いている。

 

微かな話し声。

 

扉の開閉。

 

授業の始まりを告げる鐘。

 

何も知らずに聞けば、いつもの朝だった。

 

その事実が、かえって不気味だった。

 

数日前、この学校は落ちた。

 

九重院は倒され、教師たちは拘束され、生徒たちは神代冥司を校長として受け入れている。

 

それでも朝になれば鐘が鳴る。

 

授業が始まる。

 

生徒は笑う。

 

日常だけが、何事もなかったように続いている。

 

深見が小声で訊いた。

 

「隊長、動きますか」

 

「まだだ」

 

御影は即答した。

 

深見は反射的に姿勢を正す。

 

「了解」

 

斎賀が横目で見る。

 

「まだ隊長って呼ばれてんの?」

 

「お前は黙ってろ」

 

「人気者だねえ、玄一郎」

 

「黙れと言った」

 

真壁が二人の間へ低く言葉を挟む。

 

「本当に黙れ。今は待機だ」

 

斎賀が肩を竦めた。

 

「二人して冷てえなあ」

 

だが、それ以上は何も言わなかった。

 

それが今の作戦だった。

 

迎撃隊の役割は、戦うことではない。

 

正確には、戦わずに済むなら、それが一番いい。

 

奎星たちはすでに別の経路から霊脈中枢へ向かっている。柊木率いる救出隊も、九重院と教師たちを救うために本館側へ入った。

 

三隊の中で、最も派手に動くことを想定されているのが迎撃隊だった。

 

それでも、神代に気づかれず、黒曜の環にも気づかれず、奎星が十二分を終え、九重院たちまで救出できるなら、御影たちが杖を一度も振らずに帰ることこそ最善だった。

 

敵を倒すことが目的ではない。

 

学校を取り戻すことが目的なのだから。

 

真壁が腕時計を見る。

 

「転移から三十秒」

 

御影は何も言わない。

 

四十秒。

 

五十秒。

 

一分。

 

十三人は、旧通路の陰へ身を隠したまま動かなかった。

 

誰かの呼吸。

 

衣擦れ。

 

それだけだった。

 

斎賀すら、今は壁へ背中を預けて黙っている。

 

御影は頭の中で作戦をなぞった。

 

霊脈隊。

 

厨房地下。

 

中枢へ。

 

蓮根が守護霊を入れる。

 

そこから十二分。

 

救出隊。

 

本館。

 

九重院を最優先。

 

教師を順次解放。

 

そして、自分たちは必要になるまで動かない。

 

何も起きるな。

 

御影玄一郎が戦場でそんなことを願うのは珍しかった。

 

敵が出るなら倒す。

 

来るなら止める。

 

それが仕事だった。

 

だが今日は、何も起こらないことのほうがいい。

 

蓮根。

 

十二分。

 

やれ。

 

ただ、それだけを思う。

 

一分半。

 

真壁がもう一度時計を見る。

 

斎賀が僅かに目を閉じる。

 

鷲尾が通路の先を見張っている。

 

まだ、何も――

 

そのときだった。

 

音が消えた。

 

「…………」

 

御影の目が動く。

 

上から聞こえていた生徒たちの話し声が消えている。

 

廊下を歩く足音も、鐘の余韻も、鳥の声まで。

 

何も聞こえない。

 

まるで学校そのものが、一瞬で息を止めたようだった。

 

深見がゆっくり顔を上げる。

 

「……隊長?」

 

誰も答えない。

 

御影の左手が僅かに動く。

 

真壁も杖を握り直した。

 

斎賀だけが、閉じていた目を開く。

 

静かだった。

 

あまりにも静かだった。

 

次の瞬間。

 

ざ。

 

古い魔法灯が一つ、消えた。

 

通路の奥にあった青白い光が消える。

 

暗闇が一つ分、近づく。

 

ざ。

 

二つ目が消えた。

 

「…………」

 

禍祓官たちの表情が変わった。

 

ざ。

 

三つ目。

 

また、暗闇が近づいた。

 

何かが通路を歩いてきているわけではない。

 

それでも、一つ、また一つと、遠くから順番に魔法灯だけが消えていく。

 

御影たちのいる場所へ、真っ直ぐ近づいてくる。

 

ざ。

 

残り二つ。

 

誰も動かない。

 

深見の額へ、僅かに汗が浮かんだ。

 

ざ。

 

最後の一つ。

 

御影たちの頭上に残った魔法灯だけが、青白い光を落としている。

 

沈黙。

 

一秒。

 

二秒。

 

三秒。

 

そして、その灯りも消えた。

 

完全な闇。

 

直後。

 

『地下へ』

 

声がした。

 

「――」

 

誰かが息を呑んだ。

 

前ではない。

 

後ろでもない。

 

天井、床、壁、通路そのものから、人の声が染み出してくる。

 

穏やかな、静かな、聞き覚えのある声。

 

『侵入者がいます』

 

御影の左頬の傷が、僅かに歪んだ。

 

神代冥司。

 

『地下中枢へ向かいなさい』

 

通路の奥、どこかで複数の足音が止まる。

 

『蓮根奎星がいます』

 

御影の目が鋭くなる。

 

バレた。

 

ただ侵入を察知されたのではない。

 

誰が、どこで、何をしているのか。

 

そこまで。

 

『一刻も早く、術を止めてください』

 

静かな声。

 

焦りなど一切ない。

 

だからこそ、異様だった。

 

最後、ほんの少しだけ間が空いた。

 

『必ず』

 

ぶつ。

 

声が切れる。

 

暗闇。

 

誰も、すぐには喋らなかった。

 

真壁が最初に口を開く。

 

「……早い」

 

鷲尾が低く言う。

 

「予定より、かなり」

 

深見が通路の奥を見る。

 

「もう蓮根君の位置まで……?」

 

「霊脈に触れたんだ」

 

御影が言った。

 

「それで気づいた」

 

つまり、始まった。

 

奎星が、もう守護霊を流している。

 

そして神代も、それを止めるために動いた。

 

通路の遠くから、どどどどど、と足音が響き始めた。

 

一方向ではない。

 

前。

 

後ろ。

 

さらに、頭上。

 

一斉に近づいてくる。

 

真壁が即座に指示を飛ばす。

 

「全員、戦闘準備!」

 

十人の禍祓官が一斉に杖を抜いた。

 

「学生が混じる可能性がある! 識別するまで高威力術式は禁止!」

 

「了解!」

 

「黒曜の環は?」

 

「拘束優先! 突破を最優先する!」

 

御影も、すでに通路から出る位置を見ている。

 

予想より早い。

 

だが、まだ崩れてはいない。

 

ここから敵を引きつければいい。

 

奎星へ向かう人数を減らす。

 

それが、迎撃隊の仕事だった。

 

「玄一郎」

 

斎賀の声がした。

 

御影が見る。

 

さっきまで壁へ寄りかかっていた男は、もう笑っていた。

 

人を食った、十二年前と変わらない笑み。

 

右手には杖。

 

「何だ」

 

斎賀は杖を肩へ乗せた。

 

「さあ」

 

足音が近づく。

 

闇の向こうに、黒い影が一つ、二つ、三つ。

 

斎賀玄弥の笑みが深くなる。

 

「仕事の時間だぜ」

 

「玄弥、待――」

 

真壁が言い終えるより早かった。

 

斎賀の杖が振られる。

 

「コンフリンゴ」

 

閃光。

 

轟音。

 

ドォォォォン――!!

 

旧通路の出口、敵が展開し始めていた中央回廊と通路を隔てる、古い石造りの柱が爆ぜた。

 

ただし、狙ったのは人間ではない。

 

敵の列のど真ん中、誰もいない場所。石柱と床の境目だった。

 

爆発で大量の石片と白煙が巻き上がり、今まさに杖を構えようとしていた黒曜の環の者たちが、反射的に左右へ分断される。

 

「何をしている!」

 

真壁が怒鳴った。

 

斎賀は煙の向こうを見ながら笑う。

 

「戦局崩した」

 

「先に言え!」

 

「言ったら止めるだろ」

 

「当たり前だ!」

 

爆発音は学校中へ響いた。

 

上階の窓が揺れる。

 

廊下の向こうから、さらに多くの足音がこちらへ向きを変える。

 

鷲尾が状況を一瞬で理解した。

 

「……なるほど」

 

深見も笑う。

 

「全員こっち見ますね」

 

「それが仕事だろ?」

 

斎賀が言う。

 

真壁は額へ青筋を浮かべていた。

 

「だからと言って学校を爆破するな!」

 

「あとで直せる!」

 

「そういう問題じゃない!」

 

「征士郎」

 

御影が一言。

 

真壁が止まる。

 

御影は白煙の向こうを見ていた。

 

来る。

 

黒曜の環。

 

一人、二人、五人。

 

さらに、校舎の回廊から、階段から、次々と黒い外套の人影が現れる。

 

杖。

 

黒曜石。

 

赤黒い術式。

 

完全に、こちらへ戦力が向いた。

 

御影が言う。

 

「結果は出た」

 

真壁が信じられないものを見るように横を向く。

 

「玄一郎、お前まで」

 

「説教は後だ」

 

斎賀が嬉しそうに笑う。

 

「分かってんじゃん」

 

「お前は後で殴る」

 

「二発目!?」

 

「来るぞ!」

 

鷲尾の声。

 

黒曜の環から、一斉に魔法が飛んだ。

 

「プロテゴ・マキシマ!」

 

十人の禍祓官が前へ出る。

 

巨大な防壁。

 

赤、黒、紫。

 

幾つもの光が正面から衝突し、轟音と共に回廊全体が揺れた。

 

深見が防壁の隙間から杖を突き出す。

 

「ステューピファイ!」

 

鷲尾。

 

「エクスペリアームス!」

 

別の禍祓官が。

 

「インカーセラス!」

 

戦闘が始まる。

 

魔法。

 

盾。

 

拘束縄。

 

爆発。

 

石床へ反射する無数の光。

 

御影は、それを一秒だけ見た。

 

「鷲尾!」

 

「はい!」

 

「ここを頼む」

 

鷲尾は防壁を維持したまま御影を見る。

 

「最初からそのつもりです」

 

「敵を霊脈隊へ行かせるな」

 

「一人も通しません」

 

深見が横から叫ぶ。

 

「御影隊長!」

 

「何だ」

 

「神代ぶん殴ったら、俺の分もお願いします!」

 

御影の眉が寄った。

 

「魔法使え」

 

「了解!」

 

斎賀が笑う。

 

「慕われてんなあ」

 

真壁が杖を構えたまま言う。

 

「行くぞ」

 

「ああ」

 

御影、真壁、斎賀。

 

三人が同時に戦列を離れた。

 

目指す場所は一つ。

 

校長室。

 

神代冥司。

 

本丸。

 

*

 

三人は走った。

 

中央回廊、東階段、二階。

 

マホウトコロの構造を最も知っているのは御影だ。何十年もこの学校で過ごしてきた男は最短経路を迷わず選び、真壁と斎賀がその後ろへ続く。

 

角。

 

御影が止まる。

 

一秒もない。

 

前方から生徒が二人、杖を構えて現れた。

 

「止まれ!」

 

上級課程。

 

御影の知っている顔だった。

 

「黒曜の環だ!」

 

生徒が叫ぶ。

 

「神代校長に近づくな!」

 

御影の顔は変わらない。

 

「エクスペリアームス」

 

二本の杖が同時に飛んだ。

 

生徒たちが何が起こったのか理解するより先に、真壁の杖が動く。

 

「インカーセラス」

 

縄が二人の腕と胴を巻き取り、壁際へ安全に拘束した。

 

「なっ――!」

 

「悪い」

 

御影は足を止めない。

 

「後で解く」

 

三人はそのまま走り抜ける。

 

次。

 

階段。

 

黒曜の環、三人。

 

一人が杖を上げる。

 

「アバ――」

 

「ステューピファイ」

 

言い切る前に、真壁の赤い光が胸へ入った。

 

倒れる。

 

左右。

 

二人目が御影へ向けて叫ぶ。

 

「ディフィンド!」

 

白い刃。

 

御影は身体を半歩だけずらした。

 

避ける。

 

同時に杖先を向ける。

 

「エクスペリアームス」

 

敵の杖が飛ぶ。

 

三人目は背後。

 

御影からは見えない。

 

だが。

 

「遅えよ」

 

斎賀が壁に足をついた。

 

蹴る。

 

身体が斜めへ飛ぶ。

 

敵の視界から一瞬で消え、着地点そのものを変える。

 

「なっ――」

 

「デパルソ」

 

杖を持つ腕へ。

 

最小限。

 

男の身体ではない。

 

腕だけが横へ弾かれる。

 

そこへ真壁。

 

「インカーセラス」

 

拘束。

 

三人。

 

七秒もかからない。

 

斎賀が着地した。

 

「懐かしくない?」

 

「何がだ」

 

御影はもう先を見ている。

 

「この感じ」

 

「喋る暇があるなら走れ」

 

「征士郎は?」

 

真壁も足を止めない。

 

「昔よりうるさい」

 

「ひでえな!」

 

次の廊下。

 

二人。

 

今度は黒曜の環ではない。

 

学生服。

 

御影の杖が、一瞬だけ下がる。

 

傷つけない。

 

それだけで、三人の選択が変わる。

 

生徒が赤い光を撃つ。

 

御影。

 

盾。

 

「プロテゴ」

 

弾く。

 

真壁が反対側から杖だけを飛ばす。

 

斎賀は廊下の壁を蹴り、二人の背後へ回った。

 

「うわっ!?」

 

「ごめんな」

 

二人の襟を掴む。

 

引く。

 

そのまま近くの教室へ押し込む。

 

「ちょっと寝てろ」

 

扉を閉じる。

 

「コロポータス」

 

「お前」

 

真壁が走りながら見る。

 

「それでいいのか」

 

「撃つよりいいだろ」

 

「珍しくまともだな」

 

「褒めんなよ」

 

「褒めてない」

 

「知ってる」

 

御影の足が、一瞬、僅かに遅くなった。

 

十二年前。

 

何度も聞いた会話。

 

だから、すぐに前を見る。

 

今は、後ろを振り返る必要はない。

 

二人とも、いる。

 

次の角。

 

御影が言う。

 

「右」

 

真壁は聞く前から右へ杖を向けていた。

 

黒い魔法。

 

「プロテゴ!」

 

弾く。

 

御影が下へ撃つ。

 

「インカーセラス」

 

敵が跳ぶ。

 

その着地点。

 

斎賀がいる。

 

「はい残念」

 

「ステューピファイ」

 

赤い光。

 

倒れる。

 

止まらない。

 

一発。

 

一歩。

 

一人。

 

無駄がない。

 

巨大な魔法も、派手な魔力のぶつけ合いもない。

 

必要なところへ、必要な力だけ。

 

相手が攻撃を選ぶ前に、その選択肢を潰す。

 

御影が前を読む。

 

真壁が全体を見る。

 

斎賀が予測そのものを壊す。

 

一人が前へ出過ぎれば、もう一人が穴を埋める。

 

御影が敵を追えば、真壁が背後を取る。

 

真壁が足を止めれば、斎賀が先へ出る。

 

斎賀が無茶な角度へ飛べば、御影が着地点を守る。

 

十二年、離れていた。

 

一人は教師になった。

 

一人は監察官になった。

 

一人は敵側にまでいた。

 

それでも、身体だけは覚えていた。

 

三人で現場へ出ていた頃のことを。

 

斎賀が走りながら笑った。

 

「意外と忘れねえもんだな」

 

真壁は前を向く。

 

「何の話だ」

 

「別に」

 

御影も何も言わない。

 

けれど、速度は一度も落ちなかった。

 

*

 

本館、最上階。

 

校長室へ続く廊下で、三人は初めて足を止めた。

 

静かだった。

 

下では戦闘音が聞こえている。

 

遠く、中央部では迎撃隊。

 

別方向では、本館側の柊木たちも始まっているのだろう。

 

さらに足元、地下。

 

目には見えない。

 

けれど、蓮根奎星が今も銀の鴉を飛ばしている。

 

十二分。

 

そのために、ここへ来た。

 

廊下の先。

 

校長室。

 

九重院紫苑が使っていた扉。

 

今は閉じている。

 

斎賀が息を整える。

 

「いる?」

 

御影は即答した。

 

「いる」

 

「勘?」

 

「分かる」

 

真壁が扉を見る。

 

「同じだろ」

 

「何が」

 

「勘だ」

 

御影が睨む。

 

「今言うことか」

 

斎賀が吹き出した。

 

「お前ら、昔からそれやってんの?」

 

「玄弥」

 

「はいはい」

 

御影が一歩進んだ。

 

その瞬間。

 

ぎい。

 

三人とも止まる。

 

誰も扉へ触れていない。

 

それなのに、校長室の扉が内側からゆっくり開いた。

 

「…………」

 

暗い部屋。

 

窓。

 

机。

 

本棚。

 

その中央、校長の席。

 

男が座っていた。

 

神代冥司。

 

まるで最初から待っていたように。

 

「どうぞ」

 

穏やかな声だった。

 

「せっかく、ここまでいらしたのですから」

 

三人は何も言わず、部屋へ入った。

 

*

 

校長室。

 

数日前、九重院紫苑が倒れ、神代冥司がその椅子に座っていた場所。

 

今も、同じ男が同じ場所にいる。

 

窓から差し込む朝日は明るい。

 

机の上には書類。

 

壁には歴代校長の肖像。

 

何も知らなければ、本当にこの男が長年ここにいたようにすら見えた。

 

御影は中央。

 

真壁が右。

 

斎賀は左へ。

 

神代は三人を順番に見た。

 

最初に御影。

 

次に真壁。

 

最後に斎賀。

 

そこで、ほんの僅かに目が止まる。

 

「……これは」

 

神代の口元へ薄い笑みが浮かんだ。

 

「随分と懐かしい顔ぶれですね」

 

斎賀が室内を見回す。

 

「俺、ここ初めてだけど」

 

真壁が小さく息を吐く。

 

「そういう意味ではない」

 

「分かってるよ」

 

斎賀は、まるで人の部屋へ遊びに来たように歩き始めた。

 

本棚。

 

壁。

 

歴代校長の肖像。

 

窓。

 

神代を中心に、ゆっくり校長室を一周する。

 

真壁が横目で見る。

 

「勝手に触るな」

 

「触ってねえよ」

 

「今、置物を持ち上げようとしただろ」

 

「見ただけ」

 

「手で見るな」

 

神代の目が細くなる。

 

「変わりませんね」

 

斎賀が振り返る。

 

「何が?」

 

「その態度です」

 

「お褒めいただき光栄です、校長先生」

 

「私はあなたを褒めたつもりはありません」

 

「知ってる」

 

御影の目が、ほんの少し動いた。

 

真壁も同じだった。

 

神代はそれを見逃さない。

 

「なるほど」

 

静かに言う。

 

「本当に、戻ったのですね」

 

斎賀の足が止まる。

 

一秒。

 

それだけ。

 

また歩き出す。

 

「何が?」

 

「そちら側へ」

 

神代は机の上で指を組んだ。

 

「随分と都合のよい話です」

 

斎賀は笑っている。

 

「そう?」

 

「あなたがこちら側で何をしたか、彼らはご存じなのですか?」

 

斎賀は答えない。

 

神代が続ける。

 

「魔法生物を捕らえた。羽根を奪った。魔法省職員を襲った。マホウトコロの生徒を標的にした」

 

真壁の目が僅かに鋭くなる。

 

御影は何も言わない。

 

神代の視線だけが斎賀へ向く。

 

「そして」

 

少し間を置く。

 

「御影玄一郎へ杖を向けた」

 

斎賀が窓際で止まった。

 

「彼らは、それを許したのですか?」

 

沈黙。

 

朝日。

 

遠く、爆発音。

 

斎賀が振り返る。

 

笑っていた。

 

「許してねえよ」

 

神代の目が僅かに動いた。

 

「俺も頼んでねえ」

 

軽い声。

 

でも、そこだけは冗談ではなかった。

 

「俺がやったことは消えないし、岳には次に鬼火鳥へ手ぇ出したらぶん殴るって言われてるし」

 

真壁が低く言う。

 

「今そこまで説明する必要はない」

 

「一応」

 

斎賀は肩を竦める。

 

「あと玄一郎にはもう殴られた」

 

「十二年分だ」

 

「一発で済ます量じゃなかったけどな」

 

神代は三人を見る。

 

「では、なぜ?」

 

斎賀が杖を軽く回した。

 

「何が」

 

「許されてもいない。罪も消えていない。それでも、あなたは彼らの隣へ立っている」

 

斎賀は一度、御影を見る。

 

真壁を見る。

 

二人とも何も言わない。

 

「一旦」

 

斎賀が言った。

 

神代の眉が僅かに動く。

 

「……一旦?」

 

「一旦、仲間なんだって」

 

御影が低く言う。

 

「余計な説明をするな」

 

「大事だろ?」

 

「大事ではない」

 

「俺は結構気に入ってんだけど」

 

真壁が額へ手を当てた。

 

「なぜここまで来てその話になる」

 

斎賀が笑う。

 

神代は笑わなかった。

 

「あなたは」

 

声が少しだけ低くなる。

 

「本当に、自分の居場所へ戻れたと思っているのですか?」

 

それは、今までより少しだけ深いところを狙った言葉だった。

 

十二年前。

 

一人、残った。

 

帰れなかった。

 

生きるために、何でもした。

 

戻る道を失った。

 

斎賀の瞳が、一瞬だけ昔の色になる。

 

神代が続ける。

 

「一度、置いていかれた場所へ」

 

御影の顔が変わった。

 

真壁も。

 

だが、斎賀が先に笑った。

 

「そのネタ」

 

杖を肩へ乗せる。

 

「十二年遅えよ」

 

神代が黙る。

 

「あと」

 

斎賀が御影と真壁の間へ、ゆっくり戻ってくる。

 

「こいつら、しつこいんだわ」

 

御影が眉を寄せる。

 

「誰がだ」

 

「二人とも」

 

真壁が言う。

 

「今反応するな」

 

「十二年探してたんだろ?」

 

御影。

 

「玄弥」

 

「はいはい」

 

斎賀は笑った。

 

「だから、今さらその程度じゃ乗んねえよ」

 

神代は数秒、斎賀を見る。

 

それから、興味を失ったように御影へ視線を戻した。

 

「御影玄一郎」

 

「何だ」

 

「あなたには、失望しました」

 

御影の表情は変わらない。

 

「勝手にしろ」

 

「数日前、あなたは正しい判断をした」

 

神代が言う。

 

「生徒へ杖を向けず、撤退した。あの場で戦えば、あなた方は確実に敗れていた」

 

「ああ」

 

御影は認めた。

 

神代の目が僅かに細くなる。

 

「認めるのですね」

 

「事実だ」

 

「では、なぜ戻ったのです?」

 

御影は少しも迷わなかった。

 

「取り返すためだ」

 

「同じことを繰り返すだけかもしれませんよ」

 

「ならまた考える」

 

「また敗れたら?」

 

「また立つ」

 

「何度でも?」

 

「何度でもだ」

 

神代の口元から薄い笑みが消えた。

 

御影は続ける。

 

「一回負けたら終わりなら、教師なんかやってられん」

 

真壁が僅かに口元を上げる。

 

斎賀も笑う。

 

神代だけが笑わない。

 

「蓮根奎星ですか」

 

その名前に、御影の目が僅かに鋭くなる。

 

「あなた方の希望は」

 

「違う」

 

即答。

 

神代が止まる。

 

「蓮根は」

 

御影が言う。

 

「あいつの仕事をしているだけだ」

 

「…………」

 

「生徒を戻す。それがあいつの仕事だ」

 

一歩、前へ。

 

「九重院と教師を救うのは柊木たちの仕事」

 

さらに。

 

「黒曜の環を止めるのは、下にいる禍祓官の仕事」

 

そして、杖先が僅かに上がる。

 

「俺の仕事は」

 

神代を見る。

 

「お前をここから動かさないことだ」

 

沈黙。

 

神代の瞳が、初めて明確に冷えた。

 

「一人の少年へ、随分と大きな役割を与えましたね」

 

真壁が口を開く。

 

「一人ではない」

 

神代が見る。

 

「何?」

 

「蓮根君を一人にした覚えはない」

 

真壁の声は、いつも通り淡々としていた。

 

「周囲には仲間がいる。禍祓官がいる。烏丸先生がいる。そして、ここには俺たちがいる」

 

斎賀が口を挟む。

 

「めちゃくちゃいるな」

 

真壁が無視する。

 

「お前はずっと、そこを読み違えている」

 

神代の目が細くなる。

 

「人と人との繋がり、ですか?」

 

「安っぽく聞こえるか」

 

「ええ」

 

神代は答えた。

 

「非常に」

 

真壁も僅かに笑った。

 

「そうか」

 

杖を上げる。

 

「なら、その安っぽいものにここまで追い込まれた気分はどうだ?」

 

初めて、校長室の空気が僅かに動いた。

 

斎賀が口笛を吹く。

 

神代は真壁を見る。

 

「魔法省監察官ともあろう者が、正式な命令もなく犯罪者を連れ出し、武装した禍祓官を率いて学校へ侵入した」

 

「訂正しよう」

 

真壁が言う。

 

「率いてはいない」

 

「では?」

 

「俺を信じた者が、自分で来た」

 

「詭弁ですね」

 

「報告書にはそう書く」

 

斎賀が笑いを堪えられなかった。

 

「やっぱ書くんだ」

 

「お前の分は特に長い」

 

「うわ最悪」

 

「心配するな。罪状から書く」

 

「もっと最悪」

 

御影が二人を見る。

 

「後にしろ」

 

「お前から始めたんじゃないだろ」

 

「玄弥」

 

「はいはい」

 

その会話を、神代は静かに見ていた。

 

御影玄一郎。

 

真壁征士郎。

 

斎賀玄弥。

 

かつて、同じ任務へ出ていた三人。

 

一人が消え、二人が別々の道へ進み、二度と並ぶことはないはずだった三本の杖。

 

今、自分の前にある。

 

遠く、校舎がまた揺れた。

 

神代の視線が、ほんの一瞬、床へ落ちる。

 

地下。

 

霊脈。

 

銀の魔力が少しずつ広がっている。

 

御影は、その一瞬を見逃さなかった。

 

「気になるか」

 

神代が顔を上げる。

 

「何がです?」

 

「地下だ」

 

「…………」

 

「行きたいんだろ」

 

神代は静かに椅子から立ち上がった。

 

初めて、校長の席から離れる。

 

「ええ」

 

長い黒髪が背へ落ちる。

 

「そろそろ、私自身が止めに行く必要がありそうです」

 

御影、真壁、斎賀。

 

三本の杖が同時に動いた。

 

神代が見る。

 

「退いていただけますか」

 

御影が答えた。

 

「断る」

 

「生徒を救いたいのでしょう?」

 

「ああ」

 

「なら、私をここへ留めることに意味はありません。霊脈の術式を止めれば、彼らは――」

 

「お前」

 

御影の声が低くなる。

 

「俺を馬鹿だと思ってるだろ」

 

斎賀が横で言う。

 

「ちょっとは」

 

「お前に聞いてない」

 

「怖」

 

真壁が額を押さえる。

 

神代は無言だった。

 

御影が一歩、前へ出る。

 

教師ではない。

 

もう、学校の廊下で生徒を叱る男の顔ではなかった。

 

斎賀玄弥と戦った。

 

あの夏、久我朔弥へ杖を向けた。

 

あの日。

 

何度も闇の魔法使いを前にした。

 

禍祓官、御影玄一郎。

 

その声へ戻る。

 

「神代冥司」

 

校長室に低い声が響いた。

 

神代の表情から僅かな笑みが消える。

 

「日本魔法法・禁呪取締条項、精神干渉魔術規制条項、国立魔法教育機関保安法に基づく」

 

真壁が御影の右へ並ぶ。

 

斎賀も左へ、ゆっくり杖を下ろした。

 

遊ぶように肩へ担いでいた杖を、今度は真っ直ぐ神代へ向ける。

 

御影は続ける。

 

「国立魔法学校マホウトコロの不法占拠。九重院紫苑および複数教職員への襲撃、違法拘束。霊脈を利用した生徒への継続的精神干渉」

 

一つ、一つ、言葉にする。

 

神代は黙って聞いている。

 

「黒曜の環を通じた一連の魔法犯罪、および禁制術式の行使に関する容疑に基づき――」

 

御影の杖先が、神代冥司の胸へ向いた。

 

十二年前。

 

何度も現場で使った声。

 

一学期、久我朔弥へ。

 

夏、斎賀玄弥へ。

 

そして、今。

 

「禍祓官の名において」

 

御影の目が細くなる。

 

「貴様を拘束する」

 

静寂。

 

朝日が四人の間へ差し込む。

 

神代冥司は御影を見た。

 

真壁を見る。

 

斎賀を見る。

 

そして、ほんの僅かに笑った。

 

「ですが」

 

聞き覚えのある、その返し。

 

「あなたはもう、《元》でしょう?」

 

斎賀の眉が上がった。

 

真壁の口元が僅かに動く。

 

御影は一切、表情を変えなかった。

 

「試してみろ」

 

神代の杖が上がった。

 

同時に、真壁が右へ、斎賀が左へ、御影が正面へ。

 

三人。

 

誰も互いを見ない。

 

見る必要がない。

 

斎賀が笑った。

 

「行くぞ」

 

真壁が言う。

 

「勝手に先行するな」

 

「じゃあ征士郎から」

 

「そういう意味ではない」

 

御影が短く言った。

 

「来るぞ」

 

神代の杖先に黒い光が灯る。

 

三本の杖が同時に構えられた。

 

二〇一四年。

 

三人で出て、三人で帰っていた。

 

あの頃から十二年。

 

ようやく、もう一度、三人が同じ敵へ杖を向けた。

 

次の瞬間、神代冥司の魔法と三人の禍祓官の魔法が正面から激突した。

 

《星帰り作戦》。

 

残された時間は十一分。

 

そして、マホウトコロ奪還戦。

 

最大の戦いが始まった。

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