マホウトコロ   作:西野圭吾

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第11話 十二年ぶりの呼吸

 

最初の一撃で、校長室の机が消し飛んだ。

 

神代冥司が杖を横へ払っただけだった。黒い光が半月状に走り、御影玄一郎は正面へ盾を展開する。

 

「プロテゴ!」

 

衝突。

 

重い。

 

ただの牽制に見えた一発で、御影の靴底が床を半歩滑った。

 

その左右から、真壁と斎賀が同時に出る。

 

「ステューピファイ!」

 

「エクスペリアームス!」

 

二色の光を、神代は身体すら大きく動かさずに受け流した。杖先で空中へ小さな円を描くと、二つの魔法は軌道を変え、互いに交差して背後の壁へ突き刺さる。

 

「玄一郎!」

 

真壁の声に、御影はすでに踏み込んでいた。

 

「インカーセラス!」

 

床から拘束縄が噴き出し、神代の足首へ迫る。

 

その直前。

 

「デパルソ!」

 

横から斎賀の魔法が飛んだ。

 

御影の縄と斎賀の魔法が、ほとんど同じ場所へ入る。

 

「玄弥!」

 

「そっち来ると思わねえじゃん!」

 

「見れば分かる!」

 

「十二年ぶりに無茶言うな!」

 

神代が杖を振る。

 

二人が言い合っている間を、黒い光が一直線に抜けた。

 

「伏せろ!」

 

真壁が叫び、巨大な盾を展開する。

 

「プロテゴ!」

 

御影と斎賀の頭上を黒い奔流が通過し、歴代校長の肖像画が三枚まとめて吹き飛んだ。壁が陥没し、破れた肖像の一人が額縁の外から怒鳴る。

 

『何をする!!』

 

「すみません!」

 

なぜか真壁が謝った。

 

斎賀が振り返る。

 

「お前が謝るんだ」

 

「今そこか!」

 

神代は静かに三人を見ていた。

 

呼吸すら乱れていない。

 

御影が正面、真壁が右、斎賀が左。配置だけを見れば悪くない。

 

だが、噛み合わない。

 

御影が前へ出れば斎賀も出る。真壁が二人を守ろうとすれば、斎賀が盾の外へ勝手に飛び出す。斎賀が敵の死角へ入った瞬間、御影の攻撃までそこへ飛んでくる。

 

十二年前なら、いちいち考えなくても分かっていた。

 

玄一郎がどこへ立つか。

 

征士郎が何を見るか。

 

玄弥がどこへ消えるか。

 

だが、十二年。

 

一人は教師になった。

 

一人は監察官になった。

 

一人は、生き延びるために一人で戦うことを覚えた。

 

変わっていないはずがない。

 

神代が薄く笑う。

 

「《最強の三人》」

 

斎賀の眉が動いた。

 

「……誰がそんな恥ずい名前広めたんだろうな」

 

「少なくとも、今のあなた方を見て付ける名前ではありませんね」

 

「うるせえなあ」

 

「玄弥」

 

御影が低く言う。

 

「乗るな」

 

「乗ってねえよ」

 

その瞬間、神代の姿が消えた。

 

「――上!」

 

真壁の声に、三人が同時に顔を上げる。

 

天井近くで、神代の濃い紫の和装が宙に翻っていた。

 

「レダクト!」

 

黒い光が放たれる。

 

「散れ!」

 

三人が三方向へ飛び退いた。

 

轟音とともに床が爆ぜる。校長室の中央が円形に抉れ、机も椅子も書類も一斉に宙へ舞った。

 

御影は転がる机を避けながら杖を上げる。

 

「ステューピファイ!」

 

神代が空中で盾を展開し、赤い閃光が弾けた。

 

そこへ真壁が続く。

 

「デパルソ!」

 

神代の着地点へ、先に床を押すための一撃を放つ。体勢を崩させるための魔法だった。

 

だが。

 

「甘い」

 

神代は空中で身体を捻った。着地せず、壁へ足をついて再び跳ぶ。

 

斎賀が目を丸くする。

 

「俺の真似?」

 

「自意識過剰です」

 

「ムカつくなこいつ!」

 

「玄弥、左!」

 

御影が叫ぶ。

 

「分かってる!」

 

斎賀が左へ飛ぶ。

 

その先で、真壁が声を上げた。

 

「玄弥、待て!」

 

「どっちだよ!」

 

真壁の拘束縄と斎賀がぶつかりかける。斎賀は咄嗟に机を蹴り、軌道を変更した。

 

「危ねえ!」

 

「勝手に入るな!」

 

「そこ俺の道だった!」

 

「知らん!」

 

神代が、初めて小さく息を吐いた。

 

呆れたように。

 

「……本当に」

 

杖が振られる。

 

黒い閃光が三人へ分裂した。

 

御影は盾を展開し、真壁も盾を構える。斎賀は身を翻して避けた。

 

その後ろで、本棚が爆発する。

 

大量の本が降り注ぎ、そのうちの一冊が斎賀の頭へ落ちた。

 

ぼす。

 

「…………」

 

斎賀が本を拾い、表紙を見る。

 

『歴代校長記録・第三巻』。

 

「玄一郎」

 

「何だ」

 

「めっちゃ煽られてる」

 

「分かってる」

 

「腹立つ?」

 

「集中しろ」

 

真壁が神代から視線を外さずに言った。

 

「二人とも」

 

「何だ」

 

「うん?」

 

「一度、昔の動きを忘れろ」

 

御影の目が動く。

 

斎賀も、僅かに笑みを消した。

 

神代が静かに杖を構えている。

 

真壁は続けた。

 

「合わないのは当然だ。十二年経っている」

 

斎賀が鼻から息を吐く。

 

「じゃどうする?」

 

「今を見ろ」

 

短い。

 

それだけだった。

 

御影が神代を見る。

 

斎賀も、真壁も。

 

もう、互いの昔の癖を当てにしない。

 

今、どこへいる。

 

何を撃った。

 

何を見る。

 

それだけを見る。

 

神代の杖が動いた。

 

三人も同時に動いた。

 

*

 

次の十秒で、神代の眉が初めて僅かに動いた。

 

御影が正面から撃つ。

 

「エクスペリアームス!」

 

神代が右へ流す。

 

そこには誰もいない。

 

さっきまでなら斎賀がいた。

 

だが、いない。

 

神代の視線が一瞬だけ動く。

 

上。

 

「正解」

 

斎賀が天井近くの梁へ立っていた。

 

いつ上がったのか、神代が杖を向ける。

 

その瞬間、真壁が背後から仕掛けた。

 

「インカーセラス!」

 

縄が迫る。

 

神代が切り払う。

 

「ディフィンド」

 

そこへ御影が続く。

 

「ステューピファイ!」

 

神代が盾を展開する。

 

斎賀が落ちる。

 

「デパルソ!」

 

上からの一撃に、神代が半歩退いた。

 

避ける。

 

その先には、真壁がもういる。

 

「エクスペリアームス!」

 

神代の袖を掠めた。

 

「…………」

 

神代の目が少し細くなる。

 

斎賀が着地する。

 

御影は何も言わない。

 

真壁も。

 

次に神代が御影へ三発撃ち込んだ。

 

御影は二発を盾で流す。

 

三発目を避けない。

 

真壁の盾が横から滑り込んだ。

 

「プロテゴ!」

 

衝突。

 

その盾を足場に、斎賀が蹴る。

 

「借りるぜ!」

 

「盾を足場にするな!」

 

斎賀の身体が横へ飛ぶ。

 

神代が追う。

 

だが、斎賀は途中で壁を蹴った。

 

方向を変更する。

 

神代の背後に御影が正面、真壁が右、斎賀が左後方。

 

三方向から杖が向けられた。

 

神代が僅かに腰を落とす。

 

「ステューピファイ!」

 

御影が撃つ。

 

神代が防ぐ。

 

「インペディメンタ!」

 

真壁の魔法で、神代の動きが一瞬だけ鈍る。

 

そして、斎賀は撃たなかった。

 

「…………?」

 

神代の視線が斎賀へ向く。

 

その一瞬、御影がもう二発目を撃っていた。

 

「エクスペリアームス!」

 

神代が反応し、盾を正面へ向ける。

 

斎賀が笑った。

 

「そっち見たな」

 

神代の目が動く。

 

遅い。

 

斎賀は床にはいなかった。

 

横。

 

壁。

 

三歩。

 

文字通り、壁を走っていた。

 

一歩。

 

二歩。

 

蹴る。

 

神代の頭上へ身体を反転させ、杖先を至近距離へ突きつける。

 

「デパルソ!」

 

ドンッ!!

 

初めて、直撃した。

 

神代冥司の身体が吹き飛ぶ。

 

「――!」

 

机の残骸を越え、椅子を弾き、真っ直ぐ校長室の窓へ向かう。

 

ガシャアアアアアアアン――!!

 

巨大な窓硝子が砕けた。

 

紫の和装と黒い羽織をまとった神代の身体が、朝の空へ放り出される。

 

三階。

 

下は校庭。

 

落下。

 

ドォン!!

 

土煙が上がった。

 

「…………」

 

斎賀が窓枠へ着地し、下を見た。

 

「入った」

 

真壁がすぐ隣まで来る。

 

「直撃だ」

 

御影は、すでに窓へ向かっていた。

 

「降りるぞ」

 

「相変わらず感想ねえなあ」

 

御影は迷いなく、割れた窓から飛び出した。

 

「玄一郎!?」

 

真壁が一瞬だけ声を上げる。

 

「……昔からそうだった」

 

そう言って、自分も飛ぶ。

 

斎賀が笑った。

 

「そうそう」

 

三人が落下する。

 

校庭まで十数メートル。御影が杖を下へ向けた。

 

「アレスト・モメンタム」

 

落下速度が緩む。

 

御影が着地し、その横へ真壁も降り立った。

 

斎賀だけは途中の外壁を一度蹴り、

 

「っと」

 

回転して着地する。

 

真壁が見る。

 

「普通に降りられないのか」

 

「こっちのがカッコいいだろ」

 

「四十七だぞ」

 

「お前にだけは言われたくねえ!」

 

「俺は普通に降りた」

 

「喧嘩は後だ」

 

御影の声に、二人とも同時に前を見る。

 

校庭の中央には土煙が立ち込めていた。

 

その中心で、神代が倒れている。

 

斎賀が首を傾けた。

 

「玄一郎」

 

「何だ」

 

「別に」

 

斎賀の杖が、くるりと指の間で回る。

 

「このまま倒しちまっても良いんだろ?」

 

御影は一秒も迷わなかった。

 

「ああ」

 

斎賀の口元が上がる。

 

土煙の向こうへ、杖を向ける。

 

「だってよ」

 

「残念だったな」

 

沈黙。

 

風が煙を払う。

 

神代冥司は地面へ片膝をついていた。

 

濃い紫の和装。

 

黒い羽織。

 

長い髪。

 

さっきまでと同じ姿だった。

 

ただ、黒い羽織には土がつき、長い髪も少し乱れている。

 

近くには杖が地面へ斜めに突き刺さっていた。

 

だが、顔には苦痛がない。

 

怒りもない。

 

むしろ、笑っていた。

 

今までの穏やかな微笑とは違う。

 

口の端だけを薄く吊り上げている。

 

「……私が」

 

神代が立ち上がる。

 

「この程度だとでも?」

 

右手で、地面へ刺さった杖の柄を握る。

 

ゆっくりと引き抜いた。

 

御影の目が細くなる。

 

神代は三人を見る。

 

その瞳に、初めて明確な戦意が宿った。

 

*

 

同時刻。

 

本館、北側旧搬送路。

 

「止まって」

 

柊木志乃が右手を上げた。

 

二十五人の全員が、ぴたりと止まる。

 

ほんの数秒前まで、校舎の反対側から巨大な破砕音が聞こえていた。

 

何かが割れた。

 

続いて、外から重い着地音。

 

白峰の若い教師が、僅かに顔を引きつらせる。

 

「……今の、何でしょう」

 

柊木は少し考えた。

 

「気にしないでください」

 

「でも」

 

「迎撃隊です」

 

「それは分かりますけど」

 

「なら、なおさら気にしない」

 

穏やかな声だった。

 

しかし、目は前だけを見ている。

 

「私たちの仕事は、こちらです」

 

旧搬送路。

 

天ぷらたちが開いた、学校内部の古い道。

 

白峰から来た二十五人は数名ずつに分かれ、壁沿いへ展開していた。

 

中央にいる柊木の手には、伊織が何度も書き直した簡易地図がある。

 

小妖たちが、指と身振りと短い言葉で教えてくれた。

 

教師たちの位置。

 

一つ、本館一階東。

 

一つ、二階。

 

一つ、北棟連絡路。

 

そして最奥。

 

九重院紫苑。

 

「最初は、この先です」

 

柊木が小さく言った。

 

古い扉の向こうから、足音が二つ聞こえる。

 

黒曜の環。

 

柊木は指を二本上げた。

 

左右の白峰教員が頷く。

 

扉が開く。

 

「――誰だ!」

 

黒い外套をまとった二人が杖を構える。

 

だが、杖が上がるより早く、柊木が放った。

 

「エクスペリアームス」

 

一発で、二人の杖が同時に宙を舞う。

 

「な――」

 

白峰の教員たちが左右から続く。

 

「ステューピファイ!」

 

二人が倒れた。

 

柊木は足を止めない。

 

「拘束を」

 

「はい!」

 

後続が黒曜の環を縛る。

 

柊木は正面の教室へ向かい、杖を構えた。

 

「アロホモラ」

 

鍵は開かない。

 

扉の表面へ黒い術式が浮かび上がる。

 

「通常の鍵ではありません!」

 

「分かっています」

 

柊木が術式を見る。

 

複雑な黒曜石の封鎖術式。

 

彼女は一秒だけ見つめた。

 

「解除班」

 

二人が前へ出る。

 

それでも、柊木自身が杖を置いた。

 

「外周から。中央へ触れないでください」

 

「はい」

 

三本の杖から魔力が流れ、術式の端を一つずつ剥がしていく。

 

黒い文字が崩れた。

 

ぱき。

 

扉が開く。

 

中には、土御門芽衣子と薬師寺和政がいた。

 

二人とも拘束されたままだった。

 

手首、足首、胴。

 

黒い魔法の縄が何重にも巻きついている。

 

土御門は顔色がひどく悪かった。いつもなら柔らかな色をしている頬に血の気がなく、唇も乾き切っている。背中を起こしていることすら難しいのか、椅子へ身体を預けたまま浅い呼吸を繰り返していた。

 

薬師寺も同じだった。

 

百歳を超えてなお、いつも笑っている老人。

 

だが今は、丸眼鏡がずれ、白髭も乱れ、俯いている。

 

「……先生」

 

白峰の一人が息を呑む。

 

土御門が僅かに顔を上げた。

 

焦点がなかなか合わない。

 

「……白峰……?」

 

声は掠れていた。

 

柊木はすぐに近づく。

 

「助けに来ました」

 

「……生徒、は」

 

最初に、それだった。

 

柊木の目が少しだけ細くなる。

 

「今、仲間が助けています」

 

「そう……」

 

土御門の肩から、僅かに力が抜けた。

 

薬師寺の瞼が動く。

 

「……水……」

 

後ろから治療担当がすぐに入った。

 

「拘束を先に!」

 

「待ってください」

 

柊木が止める。

 

縄を見る。

 

黒い術式が僅かに脈打っている。

 

「魔力へ繋がっています」

 

一人が気づいた。

 

「無理に切れば反発します」

 

「解除を」

 

「はい」

 

白峰の術者が慎重に、一つ、また一つと術式を剥がしていく。

 

黒い縄が緩む。

 

その下に現れた手首は赤紫に腫れていた。

 

土御門の腕が力なく落ちる。

 

柊木が支える。

 

「ゆっくり」

 

「……柊木先生……?」

 

「はい」

 

「星迎祭の……」

 

「覚えていてくださってよかったです」

 

土御門がほんの少し笑おうとした。

 

けれど、力がない。

 

「……ひどい顔でしょう」

 

「今は鏡を見ないほうがいいですね」

 

土御門の口元が、本当に少しだけ動いた。

 

「……御影先生みたいなこと、言いますね」

 

柊木は一瞬だけ黙った。

 

「それは少し不本意です」

 

後ろで、白峰の教師が小さく笑う。

 

緊張が一瞬だけ和らいだ。

 

その間にも救出は進む。

 

薬師寺の拘束が解除される。

 

魔力反応は弱い。

 

だが、生きている。

 

治療担当が水を少量ずつ含ませる。

 

薬師寺は何とか目を開いた。

 

「……わしの……薬……」

 

「今はあなたが飲む側です」

 

「……不味いのは……嫌じゃ……」

 

柊木の目が僅かに丸くなる。

 

土御門が掠れた声で言った。

 

「……元気ですね」

 

「ふぉ……ふぉ……」

 

笑い声は途中で咳に変わった。

 

それでも、生きている。

 

「第一地点、確保!」

 

柊木が振り返る。

 

「ここへ治療要員を二名残します。動かせる状態になっても、まだ移動させないでください」

 

「了解!」

 

「次へ」

 

土御門が、その背中へ声をかけた。

 

「柊木先生……」

 

柊木が振り返る。

 

「九重院校長を……」

 

「分かっています」

 

土御門の目を見る。

 

「必ず」

 

柊木たちは再び走った。

 

*

 

同じ頃。

 

地下。

 

「二分!」

 

伊織の声が霊脈中枢へ響く。

 

銀の鴉が黒い霊脈を、一筋、また一筋と押し返している。

 

その先の通路では、

 

「プロテゴ!!」

 

五人の禍祓官が魔法を激突させていた。

 

日向、楓、岳、澪、冬真。

 

その後ろで、奎星は目を閉じたまま動かない。

 

隣にいるのはスズメだけだった。

 

十二分。

 

その時計は止まらない。

 

*

 

本館二階。

 

「ステューピファイ!」

 

赤い光が黒曜の環を倒す。

 

柊木が走り抜ける。

 

「右!」

 

白峰の教師が扉を開けた。

 

中には早瀬が窓際の床へ座らされ、腕を背後で拘束されていた。

 

「早瀬先生!」

 

「…………」

 

反応がない。

 

一瞬、空気が凍る。

 

治療担当が駆け寄った。

 

首。

 

呼吸。

 

「あります!」

 

全員の息が戻る。

 

「意識消失。魔力枯渇がかなり進んでいます!」

 

「拘束解除」

 

「はい!」

 

柊木が周囲を見る。

 

箒はない。

 

杖もない。

 

早瀬の手には、長時間縛られていた跡が残っている。

 

それでも呼吸はある。

 

生きている。

 

「第二地点、確保」

 

柊木が言った。

 

「次」

 

足を止めない。

 

廊下の遠くから戦闘音が聞こえる。

 

中央では、禍祓官たちが戦っている。

 

迎撃隊の残った十人が敵を引き受けていた。

 

さらに一度、地面が小さく揺れた。

 

白峰の一人が天井を見る。

 

「また……」

 

柊木は腕時計を見る。

 

転移から三分を少し過ぎていた。

 

まだ九分近く残っている。

 

長い。

 

あまりにも長い。

 

「進みます」

 

*

 

北棟。

 

白峰から星迎祭へ来ていた教員たち三名が、全員拘束されていた。

 

衰弱している。

 

一人は意識があり、二人はない。

 

その先にいた高宮も生きていた。

 

だが、声を出す力すらほとんど残っていなかった。

 

一人、また一人と救出する。

 

けれど、喜んでいる暇はない。

 

柊木たちが教師を見つけるたび、同じものを目にする。

 

黒い縄。

 

魔力を抑え続ける術式。

 

水分も食事も最低限だったのだろう。

 

何日も自由に身体を動かせず、杖にも触れられない。

 

それでも、意識を取り戻した教師が最初に訊くことは、皆ほとんど同じだった。

 

「生徒は」

 

「学校は」

 

「九重院校長は」

 

誰一人、自分のことから訊かなかった。

 

柊木はその度に、同じことを答えた。

 

「取り戻しに来ました」

 

それだけだった。

 

*

 

本館最奥。

 

古い会議室へ続く回廊だけは、今までと空気が違った。

 

扉の前には黒曜の環が六人、杖を構えている。

 

柊木が角の陰から一度だけ確認した。

 

後ろには、残っている戦闘要員の白峰教員たち。

 

もう説明は要らない。

 

柊木が指を三本、二本、一歩と下げる。

 

一斉に飛び出した。

 

「侵入者!」

 

敵が一斉に杖を向ける。

 

「プロテゴ・マキシマ!」

 

白峰の盾が展開され、壁のように攻撃を受け止めた。

 

爆発魔法が衝突し、回廊が揺れる。

 

柊木は盾の真後ろから一歩だけ出た。

 

「エクスペリアームス」

 

一人の杖が飛ぶ。

 

「ステューピファイ」

 

二人目が倒れる。

 

三人目が黒い刃を放った。

 

柊木は身体を傾けて避け、杖先を向ける。

 

「デパルソ」

 

手首だけを弾く。

 

敵の呪文が天井へ飛んだ。

 

その横から白峰の教師が続く。

 

「インカーセラス!」

 

拘束。

 

残り三人のうち一人が、背後の扉へ杖を向けた。

 

柊木の表情が変わる。

 

扉の向こうには九重院がいる。

 

「させません」

 

踏み込む。

 

敵が撃つ。

 

「ステューピファイ!」

 

柊木は避けず、杖を僅かに傾けた。

 

「プロテゴ」

 

魔法を弾く。

 

反射した光が敵の肩へ当たり、体勢が崩れた。

 

その一瞬。

 

「エクスペリアームス!」

 

杖が飛ぶ。

 

さらに一発。

 

「ステューピファイ!」

 

直撃。

 

敵が倒れる。

 

後ろでは、最後の二人を白峰の教師たちが同時に抑えていた。

 

「確保!」

 

「全員拘束!」

 

柊木はもう扉の前にいた。

 

術式は、さっきまでとは比べものにならないほど複雑だった。

 

「解除班!」

 

三人が集まり、杖を重ねる。

 

黒い文字が一つ、二つ、三つと浮かび上がる。

 

「外層解除!」

 

「第二層!」

 

「反発来ます!」

 

「止めないで!」

 

赤黒い光が跳ね、柊木の頬を掠めた。

 

血が細い一筋流れる。

 

それでも、視線を外さない。

 

「中央核!」

 

「見えました!」

 

「今!」

 

四本の杖が一点へ向けられる。

 

「フィニート!」

 

ぱきん。

 

黒い術式が砕けた。

 

扉が開く。

 

誰も、すぐには入れなかった。

 

部屋の奥。

 

壁の前に、一人の人間が座っている。

 

白を基調とした長衣は、今や灰色に近い。

 

銀の髪は乱れ、腕と足には黒い拘束が巻きついている。

 

九重院紫苑。

 

頭が下がっていた。

 

「……校長」

 

柊木が歩く。

 

速足。

 

途中から走った。

 

「九重院校長!」

 

反応はない。

 

柊木は膝をつき、首へ指を触れる。

 

一秒。

 

二秒。

 

「…………」

 

ある。

 

弱い。

 

けれど、脈はある。

 

「生きています!」

 

白峰の教師たちが一斉に息を吐いた。

 

「治療!」

 

「拘束から!」

 

術者が周囲へ集まる。

 

九重院の拘束は、他の教師よりさらに深かった。

 

何重もの黒い術式が腕から床、壁、部屋そのものへ繋がっている。

 

「……これ」

 

解除担当の顔が引きつる。

 

「この人一人に……何重重ねてるんだ」

 

柊木が九重院を見る。

 

当然だった。

 

この人を普通の教師と同じ方法で拘束できるわけがない。

 

星迎祭。

 

黒曜の門。

 

何百人もの生徒が一斉に引き寄せられた。

 

その群れを、九重院紫苑は一人で止め続けた。

 

そして、その直後。

 

学校を奪われた。

 

「慎重に」

 

柊木が言う。

 

「一つでも逆流させれば危険です」

 

「はい」

 

解除が始まる。

 

一層。

 

二層。

 

三層。

 

黒い縄が少しずつ薄くなる。

 

九重院の指が僅かに動いた。

 

柊木の目が変わる。

 

「校長?」

 

瞼が揺れる。

 

ゆっくりと開いた紫の瞳は、最初は焦点が合わなかった。

 

「…………」

 

呼吸が一つ。

 

「……ここ……は」

 

「マホウトコロです」

 

柊木が答える。

 

「救出に来ました」

 

九重院の目が少しだけ柊木へ合う。

 

「……白峰……」

 

「はい」

 

「柊木……先生……」

 

「覚えていていただけて光栄です」

 

九重院は辺りを見る。

 

白峰の教師。

 

壊れた拘束。

 

倒れた黒曜の環。

 

そして外から聞こえる、遠い戦闘音。

 

「……始まったのですね」

 

「はい」

 

柊木の声が少しだけ柔らかくなる。

 

「マホウトコロを取り戻しに来ました」

 

九重院の瞳が僅かに揺れた。

 

「……生徒たちは」

 

「霊脈へ向かった者たちがいます」

 

「…………」

 

「蓮根君が、守護霊を使って認識干渉を解除しています」

 

九重院が目を閉じる。

 

ほんの一瞬。

 

それから訊いた。

 

「御影先生は」

 

「神代冥司のもとへ」

 

九重院の呼吸が止まりかける。

 

柊木は続けた。

 

「真壁さんと」

 

一拍。

 

「斎賀さんも一緒です」

 

九重院の目が開いた。

 

「……三人で?」

 

「はい」

 

何を思ったのか、九重院はしばらく何も言わなかった。

 

ただ、ほんの僅かに目を細める。

 

「……そうですか」

 

そのとき、遠く校庭側から重い音が響いた。

 

ドン。

 

柊木が振り向く。

 

九重院も僅かにそちらを見る。

 

「九重院校長」

 

「…………」

 

「今は休んでください」

 

「いえ」

 

弱い。

 

それでも、校長の声だった。

 

「柊木先生」

 

「はい」

 

九重院が何かを言おうとする。

 

「御影先生たちへ……」

 

直後、空気が変わった。

 

「…………?」

 

柊木が止まる。

 

風ではない。

 

魔力。

 

学校全体、羊脂玉の壁、床、天井、何もかもを内側から押し広げるような圧が広がった。

 

九重院の顔から血の気が引く。

 

「……駄目」

 

「校長?」

 

「伏せ――」

 

バァァァァァァァァン!!

 

世界が硝子の音で埋まった。

 

「プロテゴ!!」

 

柊木が反射的に巨大な盾を展開する。

 

窓は一枚ではなかった。

 

回廊。

 

教室。

 

階段。

 

本館。

 

別棟。

 

大食堂。

 

校長室。

 

マホウトコロ中のありとあらゆる窓が、一斉に砕けた。

 

数千、数万の陽光を反射する硝子片が、校舎内へ、外へと吹き荒れる。

 

白峰の教師たちが一斉に、救出した教師たちへ盾を張った。

 

「全員防御!!」

 

「窓から離れて!」

 

「治療班、伏せろ!」

 

轟音。

 

悲鳴。

 

硝子。

 

学校全体が軋む。

 

床の下から巨大な魔力が噴き上がった。

 

一人の白峰教師が青ざめる。

 

「な……」

 

声が震える。

 

「何なんですか……これ……」

 

柊木は答えなかった。

 

答えられない。

 

額から冷たい汗が流れる。

 

九重院だけが理解していた。

 

「……神代」

 

その声を柊木が拾う。

 

九重院は苦しそうに息をしながら、砕けた窓の向こうを見た。

 

「御影先生…」

 

*

 

校庭。

 

硝子の雨が降っていた。

 

御影、真壁、斎賀の三人は動かない。

 

周囲の校舎の窓が一つ残らず砕けている。

 

遠くの別棟、大食堂、回廊、塔。

 

すべての窓から、何百枚もの硝子が朝日に光りながら地面へ落ちていた。

 

その中心にいる神代冥司は、さっきまでと同じ男だった。

 

濃い紫の和装。

 

黒い羽織。

 

長い髪。

 

一本の杖。

 

ただ、違う。

 

真壁の表情から僅かに余裕が消える。

 

斎賀も笑っていなかった。

 

御影の左頬の傷が、ゆっくり歪む。

 

神代は杖を下ろしたまま、三人を見る。

 

その足元から空気が揺れている。

 

魔法を撃ってすらいない。

 

それなのに、学校中の窓が耐えられなかった。

 

斎賀がぽつりと言った。

 

「……おいおい」

 

返事はない。

 

「玄一郎」

 

「何だ」

 

斎賀は神代から目を離さない。

 

「これ」

 

一拍。

 

「さっきまで、遊ばれてた?」

 

御影は答えなかった。

 

答える必要がなかった。

 

三人とも分かっている。

 

神代冥司が杖を上げる。

 

今度は、さっきまでのような小さな笑みすらない。

 

「では」

 

静かな声。

 

「続きを始めましょうか」

 

次の瞬間、三人の背筋を同時に死の気配が走った。

 

《星帰り作戦》。

 

残り九分。

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