マホウトコロ   作:西野圭吾

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第12話 扉の向こうの怪物

 

その音は、地下まで届いた。

 

何千枚もの硝子が一斉に砕ける音。続いて、遥か頭上で巨大な建物そのものが軋み、細かな破片が石床へ降り注ぐ音が幾重にも重なって、霊脈中枢の天井を低く震わせる。

 

蓮根奎星は目を開けなかった。いや、開けられなかった。

 

両手で神代榊を握り、杖先から生まれた銀色の鴉を霊脈の奥へ送り込み続けている。額から落ちた汗が鼻筋を伝い、顎から石床へ落ちた。さっきまで一定だった呼吸も、今は僅かに乱れ始めている。

 

それでも、耳だけは嫌になるほどよく聞こえていた。

 

「何だ、今の!?」

 

入口側から日向の声が響く。

 

「上よ! 学校全体から聞こえた!」

 

楓が答え、続いて伊織が浮かぶ計測文字を睨みながら言った。

 

「窓が割れた音じゃない。多すぎる。倉橋さん!」

 

声そのものは冷静だったが、いつもより明らかに速い。

 

「聞こえてる! 全員、入口から離れるな!」

 

その直後、さらに遠くで轟音がした。

 

今度は硝子ではない。もっと重い、何か巨大なものが地面へ叩きつけられたような音だった。

 

奎星の指に力が入る。

 

――御影先生。

 

頭へ浮かんだ、その瞬間だった。

 

霊脈が脈打った。

 

「っ……!」

 

それまで奎星の銀色と神代の赤黒い魔力が押し合っていた石柱の溝が、一斉に黒く染まる。

 

どくん。

 

心臓のような音が一度。

 

どくん。

 

二度。

 

そして三度目には、霊脈中枢全体が大きく揺れた。

 

「奎星!」

 

伊織が振り返る。

 

「流れが変わった!」

 

奎星にも分かった。

 

今までとは違う。銀の鴉を押し戻そうとしているだけではない。何かが霊脈を逆に辿り、こちらへ上ってきている。

 

スズメの表情が変わった。

 

「蓮根君!」

 

次の瞬間、奎星の視界が暗転した。

 

 

暗い。

 

音もない。

 

霊脈中枢も、仲間たちの声も、何も見えない。

 

奎星は一人で立っていた。

 

目の前には、黒く大きな扉がある。

 

いつから、こんなものを自分の心の中へ作ったのかは分からない。それでも、これが何なのかは知っていた。

 

何度も訓練した。

 

スズメに覗かれ、入られ、失敗して、怒って、やり直して。最後には閉じた。

 

自分の心。

 

ここから先へは、誰も入れない。

 

奎星は扉の取っ手を掴ぎ、強く閉める。鍵を掛けた、その瞬間だった。

 

こん。

 

「…………」

 

奎星が顔を上げる。

 

扉の向こう。

 

こん。

 

もう一度。

 

誰かが叩いている。

 

スズメではない。

 

それだけは分かった。

 

訓練のときとは、まるで違う。あのときは、どれだけ本気で踏み込まれても、そこには彼女がいた。扉の向こうにいる相手を、自分は知っていた。

 

今は違う。

 

こん。

 

三度目の音とともに、冷たいものが背筋を這った。

 

『蓮根奎星』

 

神代冥司の声だった。

 

奎星の顔から血の気が引く。

 

「…………」

 

『聞こえていますね』

 

返さない。

 

取っ手を強く握る。

 

扉を閉じろ。それだけだ。

 

スズメと何度もやった。相手の言葉に反応するな。思考を追うな。見せたくないものを隠そうとするな。心の奥へ押し込めようとするほど、そこにあると教えているようなものだから。

 

何も開けない。

 

何も渡さない。

 

こん。

 

『古代魔術を使い始めました』

 

奎星の眉が僅かに動く。

 

扉の向こうから、神代の声は淡々と続いた。

 

『久我のことは覚えているでしょう』

 

赤黒い光。

 

第零書庫。

 

砕けた黒曜石。

 

宙を飛び交った古代文字。壁を裂いた衝撃波。床を這った黒い蔓。そして、その全てから自分たちを守るため、巨大な盾を一人で張り続けた御影。

 

あの日の光景が、鮮明に浮かぶ。

 

「…………」

 

奎星は目を閉じた。

 

見るな。

 

思い出すな。

 

――違う。

 

違う。

 

思い出してもいい。

 

ただ、扉を開けるな。

 

『古代魔術の器でない彼でさえ、あの威力を誇りました』

 

こん。

 

扉が揺れる。

 

奎星の腕へ衝撃が伝わった。

 

今のはノックではない。

 

叩いた。

 

明確に、力を込めて。

 

『私はコントロールできます』

 

どん。

 

今度は扉そのものが大きく内側へ軋んだ。

 

「っ……!」

 

奎星が両手で押さえる。

 

重い。

 

久我とは違う。

 

あの男は理解していなかった。第零書庫から奪った複数の術式を黒曜石へ詰め込み、意味も分からず、ただ発動した。その力に、自分自身まで飲まれていた。

 

けれど、神代は違う。

 

使える。

 

分かっている。

 

制御している。

 

その事実が、何より怖かった。

 

『蓮根奎星』

 

声が近くなる。

 

まるで扉のすぐ向こうに口を寄せているようだった。

 

『御影玄一郎も』

 

奎星の指が震える。

 

『真壁征士郎も』

 

嫌だ。

 

聞くな。

 

『斎賀玄弥も』

 

扉が、どん、と鳴る。

 

『間もなく殺します』

 

一瞬、奎星の頭へ校庭の光景が浮かんだ。

 

御影が倒れている。

 

真壁が血を流している。

 

斎賀が動かない。

 

「…………っ」

 

扉に細い隙間が開いた。

 

そこから、赤黒い光が差し込んでくる。

 

『あなたのせいで』

 

「――っ!」

 

現実で、銀の鴉が大きく揺らいだ。

 

 

「蓮根君!」

 

スズメが奎星の肩を掴んだ。

 

返事がない。

 

目は閉じたままなのに、その顔は明らかな苦痛へ歪んでいる。

 

「奎星!?」

 

入口側で日向が振り返ろうとした。

 

「前見て!」

 

楓の声と同時に、敵の魔法が飛んでくる。

 

「プロテゴ!」

 

冬真が防いだ。

 

倉橋が叫ぶ。

 

「中央は烏丸先生に任せろ! こっちは絶対に通すな!」

 

「分かってる!」

 

日向は歯を食いしばり、前へ向き直る。

 

霊脈では、銀と赤黒、二つの魔力が激しくぶつかっていた。

 

だが、今までとは違う。

 

黒い流れの一部が銀色を押し返すのではなく、その中へ潜り込み、さらに奥へ侵入しようとしている。

 

伊織が浮かぶ計測文字を見て、顔色を変えた。

 

「神代だ」

 

スズメが振り向く。

 

「分かりますか?」

 

「逆流してる。霊脈から奎星へ直接!」

 

その言葉が終わる前に、奎星の鼻から一筋の血が流れた。

 

「蓮根君!」

 

スズメの顔から血の気が引く。

 

奎星の口が僅かに動いた。

 

「…………黙れ」

 

「え?」

 

「黙ってろ……」

 

神代榊を握る手は震えている。

 

それでも離さない。

 

「御影先生は……」

 

一度、息を吸う。

 

「負けない」

 

銀の鴉が、再び羽ばたいた。

 

 

心の中。

 

黒い扉。

 

細い隙間から、赤黒い光が入り込んでいる。

 

神代の声が笑ったような気がした。

 

『そう思いたいのですね』

 

「違う」

 

奎星は扉を押し返す。

 

『あなた自身が、一番恐れていたことではありませんか』

 

「…………」

 

昨夜。

 

常隠島。

 

布団の中で震えていた。

 

御影たちが負けたら。

 

自分が失敗したら。

 

全部が無駄になったら。

 

神代は、そこを正確に叩いている。

 

『彼らは、あなたが十二分を終えるために私を止めている』

 

どん。

 

『なら』

 

どん。

 

『あなたがここへ来なければ』

 

どん。

 

『彼らは死なずに済んだ』

 

扉の隙間が広がる。

 

「……違う」

 

『本当に?』

 

「違う」

 

『では、扉を開けて確かめますか?』

 

一瞬。

 

本当に、開けそうになった。

 

外で何が起きている。

 

御影は生きているのか。

 

真壁は。

 

斎賀は。

 

見たい。

 

確かめたい。

 

今すぐ。

 

そのとき、遠くから声がした。

 

神代ではない。

 

「蓮根君」

 

スズメ。

 

「私の声を聞いてください」

 

扉を押していた奎星の手が止まる。

 

「……スズメちゃん」

 

「はい」

 

聞こえる。

 

現実から。

 

遠い。

 

でも、確かに。

 

「扉は閉じたままでいいです」

 

奎星が息を吸う。

 

「押し返そうとしなくていい」

 

「……でも」

 

「神代さんを追い出そうとしなくていいのです」

 

スズメの声は、いつも補習で魔法を教えるときと同じだった。

 

「入れなければいい」

 

奎星の閉じた瞼が僅かに動く。

 

「御影先生たちは、自分の仕事をしています」

 

昨夜、言われた言葉を思い出す。

 

全部ではありません。

 

あなたが守護霊を維持する。

 

朝比奈君たちは、あなたを守る。

 

柊木先生たちは救う。

 

御影、真壁、斎賀は、神代を止める。

 

「あなたは」

 

スズメの手が、奎星の手の上へ重なった。

 

冷たい。

 

小さな手。

 

「あなたの仕事をしてください」

 

「…………」

 

扉の向こうで、神代がまた叩く。

 

どん。

 

今度は、奎星は動かなかった。

 

「……そうだった」

 

『何?』

 

「俺の仕事」

 

扉の取っ手から手を離す。

 

押さえない。

 

ただ、その前に立つ。

 

「お前を倒すことじゃねえ」

 

神代の声が止まる。

 

「御影先生を助けに行くことでもねえ」

 

昨夜は怖かった。

 

だから、全部を自分がやらなければならない気がしていた。

 

違った。

 

「俺は」

 

銀色の光が、足元から広がっていく。

 

「みんなを戻す」

 

黒い扉そのものが銀色に染まった。

 

どん!!

 

神代の衝撃。

 

だが、今度は開かない。

 

奎星が歯を見せる。

 

「そこから先」

 

ほんの少し笑った。

 

「入れねえよ」

 

銀の光が爆発した。

 

 

現実。

 

銀の鴉が大きく翼を広げた。

 

「戻った!」

 

伊織が叫ぶ。

 

黒い逆流が奎星の目前で二つに裂ける。

 

スズメも杖を抜いた。

 

霊脈から逆流してくる赤黒い文字。奎星へ届く直前、その侵入経路だけを正確に狙う。

 

「フィニート!」

 

白い光が走り、古代文字の外側を切った。

 

全部は消えない。

 

神代の魔法そのものを、スズメ一人で止められるはずがない。それでも、一瞬だけなら。

 

奎星が呼吸を整えるだけの隙間なら、作れる。

 

「蓮根君!」

 

「分かってる!」

 

奎星は目を開けない。

 

「ありがと!」

 

「お礼は終わってから!」

 

「はい!」

 

銀色の光が、霊脈のさらに深くへ走った。

 

 

その変化は、学校の至るところで少しずつ起き始めていた。

 

中央回廊。

 

杖を構えていた中級課程の生徒が、突然足を止める。

 

「……え」

 

胸元から、黒い靄が細く抜けた。

 

隣にいた生徒が振り向く。

 

「どうした?」

 

「俺……」

 

自分の杖を見る。

 

目の前には禍祓官。

 

その向こうには黒曜の環。

 

さらに、砕けた校舎。

 

「……何で」

 

頭を押さえる。

 

「何で俺……あの人たちと戦って……」

 

別の廊下では、一人の女子生徒が不意に顔を上げた。

 

「神代……校長……?」

 

口にした言葉が途中で止まる。

 

「……校長?」

 

何かがおかしい。

 

今は、それだけしか分からない。

 

数日前に何が起きたのか、記憶が一度に全て戻ったわけではない。まだ霧の中にいる。それでも、今まで疑問にすら思えなかったことを、疑問に思える。

 

それだけで違う。

 

「九重院……先生……?」

 

肩から、黒い靄が消えていく。

 

銀の光は地面の下を、壁を、柱を、学校そのものを通りながら、少しずつ広がっていた。

 

地下で。

 

奎星の鴉が飛んでいる。

 

まだ全員ではない。

 

ほんの数人。

 

それでも確実に、戻り始めていた。

 

 

その頃、校庭はもう校庭ではなかった。

 

「消えろ!!」

 

御影の怒声と同時に、三人の姿が消失する。

 

直後、神代冥司の正面から放たれた赤黒い奔流が、校庭を丸ごと抉り取った。

 

爆音。

 

芝生も、土も、石も、訓練用の魔法人形も区別なく巻き上げられ、数十メートル先まで吹き飛んでいく。さっきまで御影、真壁、斎賀が立っていた場所には、地面を裂く深い溝だけが残った。

 

神代が横を見る。

 

ばちん!!

 

空気が裂け、十五メートル右に御影が姿現しする。

 

現れた瞬間には、もう杖が神代へ向いていた。

 

「コンフリンゴ!」

 

爆発。

 

神代の前に赤黒い古代文字が浮かび、盾となって炎を弾く。

 

その背後。

 

ばちん!!

 

今度は真壁。

 

「ステューピファイ!」

 

神代は振り返りもしない。

 

杖だけを後ろへ向けると黒い盾が現れ、赤い閃光を正面から受け止めた。

 

さらに頭上。

 

ばちん!!

 

「はい、上」

 

斎賀が空中へ姿を現し、落下しながら杖を振る。

 

「ディフィンド!」

 

白い刃。

 

神代が上を見る。

 

杖を一振り。

 

地面から黒い柱が一瞬で伸びた。

 

「うおっ!」

 

空中では避けられない。

 

斎賀はもう一度、空間を蹴るように姿を消す。

 

「――!」

 

ばちん!!

 

黒い柱が、つい一瞬前まで斎賀の腹があった場所を突き抜ける。

 

五十メートル離れた本館の屋根。

 

ばちん!!

 

斎賀が膝をついて姿を現し、一度だけ息を吐いた。

 

「……あっぶね」

 

その直後、神代がそちらを見た。

 

斎賀の顔から笑みが消える。

 

「マジ?」

 

神代の杖が動く。

 

空中へ、何十、何百もの赤黒い古代文字が浮かび上がった。

 

「玄弥、そこを離れろ!!」

 

真壁が叫ぶ。

 

遅い。

 

無数の文字が一斉に斎賀へ向く。

 

「だよな!」

 

ばちん!!

 

斎賀が消えた瞬間、本館の屋根へ黒い雨が降った。

 

ドドドドドドドドドドドドドドッ!!

 

瓦も梁も壁も、まとめて粉砕される。屋根の一角が丸ごと崩落するのを見て、真壁が息を呑んだ。

 

「学校ごと壊す気か……!」

 

「そのようなつもりはありません」

 

神代は静かな声で答えた。

 

その背後では、たった今校舎の屋根が崩れている。

 

「あなた方が避けなければ済む話です」

 

「無茶苦茶言いやがるな!」

 

別方向から斎賀の声。

 

生きている。

 

御影は神代から目を離さない。

 

「防ぐな」

 

真壁が見る。

 

「玄一郎?」

 

「受け切れん」

 

神代の前では、地面へ次々と古代文字が浮かび始めていた。

 

一つ。

 

二つ。

 

十。

 

百。

 

久我のときとは違う。

 

あのとき、文字は暴れていた。意味も方向もなく、ただ膨大な魔力を吐き出し続けていた。

 

今は違う。

 

円。

 

線。

 

層。

 

全てが整列し、一つの巨大な術式へ完璧に組み上がっていく。

 

真壁の顔色が変わった。

 

「来るぞ!」

 

神代が杖先を僅かに持ち上げる。

 

地面が隆起した。

 

一メートル。

 

三メートル。

 

十メートル。

 

校庭の地面そのものが、巨大な波のように持ち上がっていく。

 

「っ――!」

 

御影が走る。

 

だが、走って避けられる大きさではない。

 

正面。

 

校舎より高くそびえ立った土と石の壁。その表面を、無数の赤黒い古代文字が走っている。

 

遠くから、斎賀が思わず叫んだ。

 

「怪獣と戦ってんじゃねえんだぞ!!」

 

「玄弥!」

 

御影の怒声。

 

巨大な壁が倒れる。

 

校庭全てを呑み込む。

 

「姿くらまし!」

 

三人同時。

 

ばちん!!

 

消える。

 

次の瞬間。

 

ドォォォォォォォォォォォォォン――!!

 

校庭が消えた。

 

土、岩、木、魔法灯、石畳が一斉に爆ぜ、衝撃波が校舎へ叩きつけられる。すでに割れていた窓枠はさらに砕け、外壁へ縦に巨大な亀裂が走った。

 

その上空。

 

ばちん!!

 

御影が姿を現す。

 

足場はない。

 

空中。

 

落下まで二秒。

 

その二秒で十分だった。

 

「レダクト!」

 

神代の足元が爆ぜる。

 

神代が避ける。

 

その先。

 

ばちん!!

 

真壁。

 

着地点へ。

 

「インカーセラス!」

 

何十本もの縄が噴き出す。

 

神代が切る。

 

その背後。

 

ばちん!!

 

斎賀。

 

「今度こそ!」

 

「デパルソ!」

 

神代は杖で真正面から受けた。

 

衝撃で足元の地面が割れる。

 

だが。

 

吹き飛ばない。

 

斎賀の目が細くなる。

 

「さっきは飛んだじゃん」

 

「だから言ったでしょう」

 

神代の瞳は冷たい。

 

「この程度だとでも?」

 

杖が斎賀の胸へ向く。

 

近い。

 

消える。

 

間に合うか。

 

「玄弥!」

 

御影の声。

 

ばちん!!

 

斎賀が姿くらましで消える。

 

ほぼ同時に、神代の黒い光が空間を薙いだ。

 

一瞬遅れて、遠く。

 

ばちん!!

 

斎賀が姿を現す。

 

「っ……!」

 

右袖が裂けている。

 

その下から血が滲んだ。

 

真壁の表情が変わる。

 

「玄弥!」

 

「掠っただけ!」

 

「次は掠らない!」

 

御影が叫ぶ。

 

「分かってる!」

 

神代は、その三人を静かに見ていた。

 

御影たちも、神代を見る。

 

今までの戦いで、移動魔法をここまで連発する必要などなかった。

 

生徒同士の決闘。

 

黒曜の狩人。

 

久我。

 

斎賀との戦い。

 

どれも、身体で避け、盾で流し、相手の位置を読むことができた。

 

今は違う。

 

一撃の範囲そのものが、人間の身体能力でどうにかできる大きさではない。

 

姿くらましで空間ごと逃げなければ、死ぬ。

 

そして三人は、その高速移動すら戦術へ組み込んでいた。

 

一人が消える。

 

別方向へ現れる。

 

神代がそちらを向く前に二人目。

 

さらに三人目。

 

視界。

 

距離。

 

上下。

 

全てを一瞬ごとに変える。

 

魔法を撃ってから避けるのではない。

 

撃つ位置へ姿現しする。

 

神代の死角へ直接飛ぶ。

 

一度でも失敗すれば、身体の一部を置いていく。

 

それでも躊躇しない。

 

何百、何千という修羅場を潜ってきた大人たち。

 

その戦いだった。

 

 

地下。

 

奎星の耳にも轟音が届いた。

 

今度は学校全体が上下へ揺れ、天井から細かな砂が落ちてくる。

 

スズメが一瞬だけ上を見る。

 

「…………」

 

奎星は目を開けない。

 

「スズメちゃん」

 

「はい」

 

「今の」

 

「気にしないでください」

 

「めっちゃ気になるんだけど」

 

「気にしないでください」

 

「二回言った」

 

「あなたが聞かないからです」

 

奎星の口元が、ほんの少し上がった。

 

神代の声はもう聞こえない。

 

扉は閉じている。

 

それでいい。

 

伊織が計測文字を見る。

 

「四分!」

 

残り八分。

 

長い。

 

まだ八分もある。

 

入口では戦闘が続いていた。

 

五人の禍祓官。

 

その後ろに日向たち。

 

攻めてくる生徒へ、強い魔法は撃てない。

 

「エクスペリアームス!」

 

日向の一撃で、一人の杖が飛ぶ。

 

「インペディメンタ!」

 

楓が足を止める。

 

そのまま岳が身体ごと押さえ込んだ。

 

「悪い!」

 

「離せ! 黒曜の環――!」

 

「俺たちじゃねえって!」

 

「神代校長を守らないと!」

 

「そいつが敵なんだよ!」

 

「何を――」

 

その生徒の声が止まった。

 

「…………?」

 

胸から黒い靄が抜ける。

 

日向も岳も動きを止めた。

 

生徒は何度か目を瞬かせる。

 

「……朝比奈?」

 

日向の顔が変わった。

 

「お前」

 

「何で……」

 

生徒は辺りを見回した。

 

杖。

 

戦闘。

 

黒曜の環。

 

「……何してんの、俺」

 

岳が息を呑む。

 

「戻った」

 

楓が地下の奥を見る。

 

奎星。

 

「効いてる……!」

 

日向の顔に、一瞬だけ笑みが浮かんだ。

 

「奎星!」

 

思わず叫びかける。

 

「呼ばない!」

 

伊織に止められた。

 

「分かってる!」

 

日向は慌てて声量を落とす。

 

それでも、笑っていた。

 

「マジでやってる……!」

 

銀の光が、通路の床を僅かに走る。

 

一人。

 

また一人。

 

まだ少ない。

 

それでも確実に、黒い靄が消え始めていた。

 

「五分まで行けば」

 

伊織が計測文字を見る。

 

「もっと広がる」

 

「じゃ、守るだけだな」

 

冬真が杖を握り直した。

 

「あと八分」

 

日向が呟く。

 

「長っ!」

 

「言わないで!」

 

楓が睨んだ、そのときだった。

 

前方の禍祓官が声を上げる。

 

「一人来る!」

 

倉橋がすぐに構えた。

 

「黒曜か!?」

 

「違う!」

 

通路の奥。

 

一人分の足音が、ゆっくり近づいてくる。

 

淡い桜色の学生用魔法衣。

 

少し長めの髪。

 

寝不足のような薄い隈。

 

そして、杖。

 

冬真の表情が変わった。

 

「……鳴海」

 

鳴海景。

 

上級課程一年。

 

以前、星迎祭の決闘大会で、人の多さだけで吐きそうになっていた後輩。

 

教師に質問するときですら、頭の中で何度も文章を組み立ててからでなければ口を開けないほどの人見知り。

 

そのくせ、決闘になると別人だった。

 

相手の杖先。

 

肩。

 

足。

 

呼吸。

 

魔法を撃つ前の僅かな動き。

 

その全てを読む。

 

攻撃力そのものは高くない。

 

ただ。

 

当たらない。

 

鳴海が杖を上げた。

 

「三枝先輩」

 

声は震えていなかった。

 

あの日の、人見知りの少年とは違う。

 

「そこを退いてください」

 

冬真は杖を僅かに下げた。

 

「鳴海」

 

「神代校長を守らないと」

 

「……そうか」

 

「蓮根先輩が、学校を壊そうとしています」

 

その後ろでは、奎星の銀の鴉が霊脈を飛び続けている。

 

冬真は一度、目を閉じた。

 

以前。

 

黒曜の門。

 

自分も同じだった。

 

黒い気が身体へ絡みつき、何を見ていたのか、何を思わされていたのか、今でも全てを覚えているわけではない。

 

ただ。

 

真壁の銀の狼が、自分からそれを引き剥がしてくれた。

 

そして、そのとき。

 

最初に自分へ駆け寄った後輩の一人が、今、目の前にいる。

 

――三枝先輩!

 

あの日に聞いた声。

 

冬真は小さく息を吐いた。

 

「倉橋さん」

 

「何だ」

 

「先、お願いします」

 

倉橋が冬真を見る。

 

「一人でやる気か?」

 

「はい」

 

「三枝」

 

「大丈夫です」

 

冬真は鳴海から目を離さない。

 

「こいつ、強いですけど」

 

鳴海の眉が僅かに動く。

 

冬真は少しだけ笑った。

 

「知ってるんで」

 

日向が前へ出ようとする。

 

「冬真先輩、俺も――」

 

「行け」

 

柔らかい。

 

それでも、拒否を許さない声だった。

 

「奎星の近くから人を減らすな」

 

「でも」

 

「俺」

 

冬真が杖を構える。

 

「一回、戻してもらった側だから」

 

日向の口が閉じる。

 

冬真は鳴海を見る。

 

「今度は俺の番」

 

数秒の沈黙。

 

倉橋が決断する。

 

「行くぞ!」

 

五人の禍祓官が鳴海の横を抜ける。

 

日向、楓、岳、澪も続いた。

 

伊織は計測位置を調整しながら、最後に冬真を見る。

 

「無理はしないで」

 

「それ、蓮根に言ってやって」

 

「奎星には毎日言ってる」

 

「じゃあ俺も気をつける」

 

鳴海が動いた。

 

冬真も同時に杖を振る。

 

「ステューピファイ!」

 

赤い光。

 

だが、鳴海の肩は呪文が放たれるより先に動いていた。

 

避ける。

 

「やっぱ読むよな」

 

鳴海が返す。

 

「エクスペリアームス!」

 

冬真はすでに盾を構えている。

 

「プロテゴ」

 

衝突。

 

冬真の目が僅かに細くなった。

 

久しぶりに、星迎祭の決闘場の空気が戻ってくる。

 

ただし、今日は勝てばいいわけではない。

 

後輩を傷つけず。

 

奎星が戻してくれるまで。

 

ここへ止め続ける。

 

「鳴海」

 

冬真は杖をゆっくり構え直した。

 

「悪いけど」

 

いつもの柔らかな笑み。

 

「先輩命令な」

 

鳴海の杖先が動く。

 

「ちょっとだけ、付き合え」

 

二人の魔法が交差した。

 

 

校庭。

 

地面へ、巨大な古代文字が再び広がっていく。

 

御影。

 

真壁。

 

斎賀。

 

三人の息は、少しずつ荒くなっていた。

 

神代は変わらない。

 

その事実が、一番おかしかった。

 

真壁が短く息を吐く。

 

「玄一郎」

 

「ああ」

 

「これ以上、学校を壊させるな」

 

「分かってる」

 

斎賀が切れた袖を乱暴に引き裂く。

 

「その言い方だと、俺らが壊してるみたいじゃん」

 

「最初に柱を爆破したのはお前だ」

 

「まだ言う?」

 

「あとで直せ」

 

「勝ったらな」

 

御影は神代を見たまま言った。

 

「勝つ」

 

斎賀が一瞬、御影を見る。

 

真壁も。

 

そして二人とも、何も言わず神代へ視線を戻した。

 

赤黒い文字が増えていく。

 

さっきまでの比ではない。

 

空。

 

校庭。

 

校舎の壁。

 

屋根。

 

塔。

 

その全てが、一つの巨大な術式の中へ取り込まれていく。

 

斎賀の笑みが消えた。

 

「……マジか」

 

真壁も杖を握り直す。

 

「これは……」

 

御影の左頬の傷が歪む。

 

神代冥司が、ゆっくりと両腕を広げた。

 

その背後で、赤黒い古代文字が天を覆うほどの巨大な円環へ組み上がっていく。

 

学校一つを、丸ごと飲み込めるほどの大きさ。

 

「逃がしませんよ」

 

神代が言った。

 

御影玄一郎は杖を上げる。

 

真壁征士郎も。

 

斎賀玄弥も。

 

今度は、誰も冗談を言わなかった。

 

地下では、銀の鴉が飛び続けている。

 

残り、八分。

 

その八分を生き残る。

 

三人の仕事は、ただそれだけだった。

 

マホウトコロ シーズン4

星帰りと黒曜の王

 

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