鳴海景の魔法は、当たらない。
正確には、当てさせない。
冬真が杖を上げるより早く肩を見る。足が踏み出される前に重心を見て、呼吸が変われば攻撃の瞬間を読む。
「ステューピファイ!」
赤い閃光が通路を走った。
しかし、鳴海はすでにそこにはいなかった。半歩だけ身体をずらして冬真の魔法を紙一重で避けると、ほとんど間を置かずに杖を返す。
「エクスペリアームス!」
「プロテゴ」
冬真の正面へ小さな盾が生まれ、赤い光が弾けた。
大きく退かない。盾を張った場所から半歩だけ右へ動き、すぐさま次の魔法へ繋げる。
「インペディメンタ!」
これも鳴海は避けた。
「やっぱ当たんないな」
冬真が苦笑する。
鳴海は杖を下ろさなかった。
「退いてください、三枝先輩」
「それは無理」
「僕は蓮根先輩を止めないといけません」
「それも無理」
「なら」
鳴海の目が細くなる。
決闘のときの顔だった。
人の多い場所では視線すら合わせるのが苦手だった後輩が、杖を持った途端に別人になる。
「退かします」
「やってみろ」
二人の杖が同時に動いた。
赤と白、二本の魔法が交差する。
冬真が避ける。鳴海も避ける。
三発。
四発。
五発。
どちらの魔法も当たらない。
ただし、その理由は違った。
鳴海は読んでいる。
対して冬真は、必要なぶんだけ動いていた。
半歩。盾。一歩。身体を僅かに傾ける。
星迎祭の決闘大会で見せたのと同じだった。大きく避けない。強すぎる盾も使わない。必要な魔力を、必要な動きにだけ使う。
だから消耗が少ない。
一方で、鳴海の額には少しずつ汗が浮かび始めていた。
「…………」
冬真はそれを見逃さなかった。
鳴海は強い。
相手が何をするか読むことに関しては、学年を考えれば異常なほど鋭い。
けれど、読むということは、見続けなければならないということでもある。
杖先。
肩。
足。
呼吸。
一瞬たりとも冬真から目を離せない。
「鳴海」
「何ですか」
「俺のどこ見てる?」
鳴海の眉が僅かに寄る。
「……何の話ですか」
「いや」
冬真は笑った。
「確認」
杖を上げる。
鳴海の肩が動き、右へ避けた。
だが、魔法は来ない。
「…………?」
冬真が杖を下げた。
「今、右行ったな」
鳴海の目が僅かに見開かれる。
「もう一回」
今度は左肩を動かす。
鳴海は動かない。
冬真も撃たない。
「…………」
「なるほど」
「何がです?」
「やっぱ見てる」
冬真の構えが変わった。
鳴海の視線が鋭くなる。
肩。
右足。
杖先。
呼吸。
全部を見る。
次に何が来る。
その瞬間。
冬真は盾を出した。
「プロテゴ」
「……?」
小さな盾。
何も飛んできていない。攻撃でもなければ、防御する必要もない。
それなのに冬真は、自分の正面へ盾を置いた。
鳴海から、自分の上半身を隠すように。
「――!」
気づいたときには遅かった。
盾の向こうから、杖先だけが僅かに覗く。
星迎祭。
小鳥遊真白との決闘。
あのときも冬真は、同じことをした。
「インカーセラス」
床を這った縄が、鳴海の両足へ絡みついた。
「っ!」
鳴海が跳ぼうとする。
遅い。
一本目が足首。
二本目が膝。
三本目が腰。
「フィニート!」
鳴海が切ろうとしたが、冬真のほうが速かった。
「エクスペリアームス」
鳴海の杖が飛ぶ。
「――!」
さらに縄が伸び、腕と胴を巻き取って壁際へ締めつけた。
「…………」
数秒、鳴海は身体を動かそうとした。
動けない。
冬真が盾を消す。
「はい」
小さく息を吐いた。
「先輩の勝ち」
鳴海が悔しそうに冬真を見る。
「……卑怯です」
「決闘大会じゃないんだから許してよ」
「視界を……」
「読むなら、見えなくすればいいかなって」
「…………」
鳴海は黙った。
冬真は杖を下ろさない。
拘束した。
それでも、終わりではない。
この後輩は今も自分を敵だと思い、奎星を止めようとしている。
なら、ここで待つ。
奎星の銀の鴉が、ここまで届くのを。
「鳴海」
「何ですか」
「もうちょっとだけ我慢してな」
「嫌です」
「だよな」
冬真が苦笑した。
そのときだった。
床を、淡い銀色の光が走った。
「…………」
冬真の目が動く。
霊脈の奥から伸びてきた細い銀光が、通路を、壁を伝い、鳴海の足元へ届く。
「……何」
鳴海が光を見る。
その胸元から、黒い靄がゆっくりと浮かび上がった。
「っ……!」
身体が震え、鳴海の瞳が大きく開く。
黒い靄は糸のように細くなりながら、胸から肩へ、肩から頭上へと抜けていき――消えた。
「…………」
鳴海は何度か瞬きをした。
さっきまで冬真を睨んでいた目から、すっと力が抜けていく。
「……三枝」
声が震えた。
「先輩……?」
冬真の表情が変わる。
「鳴海?」
「…………」
鳴海は自分の身体を見下ろした。
拘束縄。
少し離れた場所に落ちた自分の杖。
傷だらけの通路。
「……え」
呼吸が急に浅くなる。
「僕……」
辺りを見回す。
「何して……」
「鳴海」
「僕、今……三枝先輩に……」
「大丈夫」
冬真はすぐに言った。
鳴海が顔を上げる。
「でも」
「大丈夫」
もう一度、今度は少しゆっくりと繰り返す。
「俺もやったから」
鳴海の目が揺れた。
冬真は杖を振る。
「フィニート」
拘束縄が解け、支えを失った鳴海の身体が前へ傾いた。
冬真が咄嗟に腕を掴む。
「っと」
「……すみません」
「謝んなくていい」
「でも僕……」
「俺も前に同じことされたんだって」
「…………」
「黒曜の門のとき」
鳴海の動きが止まる。
冬真は少し笑った。
「覚えてる?」
鳴海の顔が変わった。
あの日。
黒い気に覆われた冬真は、門へ向かって歩いていた。
真壁の銀の狼が、それを引き剥がした。
そして倒れた冬真へ、鳴海自身が駆け寄った。
――三枝先輩!
「そう。それ」
冬真が鳴海の肩を軽く叩く。
「今度は俺が待ってただけ」
鳴海は何も言えなかった。
代わりに唇を噛み、目が少し赤くなる。
冬真は見ないふりをした。
「立てる?」
「……はい」
「じゃあ」
落ちていた杖を拾い、鳴海へ渡す。
「今度はこっち側な」
鳴海は自分の杖を見つめ、それから小さく頷いた。
「……はい」
*
変化は、一人では終わらなかった。
中央回廊では、戦っていた生徒たちが一人、また一人と杖を下ろし始めていた。
「……待って」
「何で俺たち……」
「先生?」
「これ……何?」
胸や肩から、黒い靄が次々と抜けていく。
記憶が完全に戻るわけではない。まだ混乱している。自分がなぜここにいるのか、どうして禍祓官へ魔法を撃っていたのか、数日前の出来事をうまく繋げられない者もいる。
それでも、一つだけ確かに変わっていた。
目の前にいる相手が、《敵》ではないと分かる。
「杖を下ろせ!」
鷲尾宗一が叫んだ。
ただし、今度その声が向けられたのは生徒ではない。
黒曜の環。
黒い外套の男へ。
「生徒を巻き込むな!」
「ステューピファイ!」
赤い光を、黒曜の男が盾で防ぐ。
その横で、ついさっきまで禍祓官と戦っていた生徒が反射的に杖を上げた。
「エクスペリアームス!」
黒曜の男の杖が宙を飛ぶ。
「……え」
撃った本人が、一番驚いていた。
鷲尾も一瞬だけその生徒を見る。
「助かった」
「…………はい!」
返事は少し遅れた。
けれど、確かに戻っている。
別の場所では、深見が二人の黒曜の環を相手にしていた。
「インカーセラス!」
一人を縛る。
二人目。
死角から杖が上がった。
「隊――」
生徒の声。
「先生、後ろ!」
深見が振り返る。
「プロテゴ!」
黒い魔法を盾で受け、そのまま杖を返した。
「ステューピファイ!」
直撃。
深見が振り返る。
「……今、隊長って言おうとした?」
「言ってません!」
「言ったよね!?」
「今それどころじゃないです!」
「そうだった!」
生徒が戻る。
一人。
二人。
五人。
十人。
徐々に、しかし確実に盤面が変わっていく。
これまで黒曜の環には、最大の盾があった。
生徒たちだ。
敵として戦わせながら、こちらは傷つけることができない。その制約が、禍祓官たちを縛り続けていた。
けれど、奎星の銀の鴉が、一人ずつその盾を剥がしている。
そして地下、霊脈中枢へ続く入口でも同じ変化が起きていた。
「神代校長を――」
攻撃しようとしていた生徒が、不意に止まる。
胸から黒い靄が抜けた。
「……え?」
その隣でも。
「俺……何で……」
五人の禍祓官たちは、その変化を見逃さなかった。
倉橋哲人がすぐに判断する。
「久世さん」
「うん」
「ここ、何人残せます」
久世環は戦況を見渡した。
生徒。
日向。
楓。
岳。
澪。
そして、次々と戻り始めたマホウトコロの生徒たち。
「今なら」
一拍。
「三人減らしても持つ」
日向が振り返る。
「マジ?」
「君たちが無茶しなければね」
「じゃ余裕!」
楓が睨む。
「今の聞いてた!?」
「聞いてた!」
倉橋はすぐに二人の禍祓官を指した。
「中央回廊へ! 鷲尾さんたちと合流。黒曜の環を押し返せ!」
「了解!」
二人が走り出す。
来た道ではない。
戦闘音が大きく響く方角。
迎撃隊が黒曜の環の主戦力を引き受けている、その戦場へ。
戦力が戻っていく。
倉橋は残った人数を確認した。
自分。
久世。
もう一人。
「まだ行ける」
久世が言う。
「もう少し戻れば、あと一人出せるよ」
倉橋が地下の奥を見る。
そこでは奎星が、まだ目を閉じたまま銀の鴉を飛ばし続けている。
「……すごいな」
誰にも聞こえないほど小さな声で、倉橋は呟いた。
「本当に盤面をひっくり返してる」
伊織が計測文字を確認し、声を上げた。
「五分!」
十二分のうち、五分が経過した。
残り七分。
銀色はもう、学校の一部を細く走るだけの光ではない。
明確な流れとなって広がり始めていた。
*
校庭。
巨大な円環が空を覆っていた。
何千、何万もの赤黒い古代文字。
その中心に神代冥司。
御影、真壁、斎賀の三人は動かない。
いや。
動けない。
迂闊に飛び込めば何が起きるのか、分からない。
その中で、真壁の目だけが異常な速度で動いていた。
円。
外周。
内周。
古代文字。
接続。
魔力の流れ。
一つずつ追っていく。
「…………」
神代が杖を上げる。
円環が一段回転した。
空気が沈み、風もないのに御影の長衣が揺れる。
斎賀が横目で真壁を見る。
「征士郎」
「黙れ」
「まだ何も言ってねえじゃん」
「今考えている」
「分かった?」
「黙れと言った」
「はい」
斎賀が本当に黙った。
それだけで、御影が一瞬だけ二人を見る。
珍しい。
真壁は術式から目を離さない。
「……一枚じゃない」
御影が聞く。
「何がだ」
「この術式」
真壁の杖先が僅かに動く。
「巨大な一つの円に見えるが、違う。複数の術式を重ねている」
斎賀が空を見上げる。
「どれくらい?」
「分からん」
「分からんの?」
「ふざける時間があるなら手伝え!」
「何すればいい?」
真壁の目が、一つの箇所で止まった。
巨大な円環の外側。一見すれば同じ文字が並んでいるように見える。
だが、一部だけ流れが逆だった。
「支点がある」
「どこ」
「北東。外周から三番目の環」
斎賀が目を凝らす。
「どれ?」
「三番目だ!」
「いっぱいある!」
「玄弥!」
「分かった分かった!」
真壁が杖を向ける。
「あそこだ!」
細い白光が伸び、一点を指し示した。
斎賀の目がそこへ合う。
笑った。
「なるほど」
その瞬間。
神代がこちらを見た。
真壁の顔色が変わる。
「まずい」
神代の杖が動く。
支点の配置が変わった。
「変えやがった!」
斎賀が叫ぶ。
「こっちの動きを見てる!」
「当たり前だ!」
真壁はすぐに新しい構成を追う。
だが、また変わる。
解析。
変更。
解析。
変更。
これでは間に合わない。
「玄一郎!」
真壁が叫んだ。
御影が見る。
「何だ!」
「こいつの視線を切れ!」
御影は一秒だけ真壁を見る。
それだけで意味を理解した。
「どれくらいだ」
「一分!」
「長いな」
「やれ!」
「分かった」
御影が一人、前へ出た。
斎賀が眉を上げる。
「玄一郎?」
「お前は征士郎とやれ」
「一人で?」
「一分だろ」
真壁が苦い顔をする。
「無茶するなよ」
御影は振り返らずに答えた。
「誰に言ってる」
斎賀の目が僅かに止まる。
真壁も、何も言わなかった。
十二年前。
何度も聞いた。
同じような言葉。
だが、今は三人いる。
御影が杖を上げた。
「神代!」
神代の視線が御影へ向く。
「何です?」
「こっちだ」
「……随分と単純な挑発ですね」
「効いたなら十分だ」
神代の瞳が僅かに細くなる。
御影が走った。
神代の杖が正面を向く。
黒い光。
「プロテゴ!」
衝突。
盾が軋む。
御影は退かない。
さらに二発。
三発。
一人で受ける。
「玄一郎!」
真壁の声。
「見るな!」
御影が怒鳴った。
「自分の仕事しろ!」
真壁の歯が一瞬だけ鳴る。
それでも、すぐに空へ視線を戻した。
「玄弥!」
「見てる!」
二人で術式を追う。
その間、御影は一人で神代の正面に立ち続けた。
「ステューピファイ!」
赤い閃光。
神代が弾く。
「インカーセラス!」
縄。
切られる。
「コンフリンゴ!」
爆発。
神代が盾を張る。
直後、反撃。
赤黒い槍が三本。
御影は一歩だけ右へ動き、一本目を避ける。
二本目は盾。
三本目には身体を僅かに反らす。
頬を掠めた。
細い血が一筋。
それでも止まらない。
「しつこいですね」
神代が言う。
「よく言われる」
「教師としても?」
「特に生徒にな」
神代の杖が再び上がる。
「では」
黒い光が集まる。
「少し静かにしていただきましょう」
御影の目が細くなった。
「やってみろ」
*
本館最奥。
砕けた窓から、朝の光が差し込んでいた。
硝子片はすでに柊木たちによって端へ寄せられている。
部屋の中央では、九重院紫苑が壁際へ身体を預けていた。
立てない。
杖を持つことすら、今は難しい。
治療担当が魔力回復薬を少量ずつ飲ませている。
「九重院校長」
柊木が隣へ膝をつく。
「喋らないでください」
九重院は答えなかった。
紫の瞳は、砕けた窓の外へ向いている。
空。
巨大な赤黒い円環。
校庭。
その中心にいる神代。
遠すぎて、人影程度にしか見えない。
それでも九重院は術式を見ていた。
「……違う」
「校長?」
「神代は……」
一度、息を整える。
「自分の魔力だけで、あれを作っているのではありません」
柊木の目が鋭くなる。
「どういうことです?」
九重院の指が、僅かに上がる。
震えていた。
東。
学校の端にある塔。
そして反対側、西。
「……柊木先生」
「はい」
「あれは」
九重院が苦しそうに息を吐く。
「学校を、術式の器にしています」
柊木の顔から僅かに表情が消えた。
九重院は目を閉じない。
校長として何十年も見てきた学校だった。
改修。
結界。
校舎への魔力供給。
使われなくなった古い経路。
今も現役の導管。
その全てを知っている。
「マホウトコロは……地下の霊脈から汲み上げた魔力を、校内へ分配しています」
声は弱い。
それでも説明は正確だった。
「東塔と西塔。その二つに、校舎へ魔力を分配する主導管がある」
柊木が窓の外を見る。
「神代は、それを使っている?」
「はい」
九重院がゆっくり頷く。
「霊脈を掌握し……さらに、学校の魔力経路そのものへ、自分の術式を重ねています」
だから窓が割れた。
だから校庭が隆起した。
だから古代文字が、校舎にも、壁にも、塔にも、学校全体へ広がっている。
神代冥司は、マホウトコロの中で戦っているのではない。
マホウトコロそのものを、自分の術式の一部に変えようとしている。
柊木の表情が変わる。
「切れば」
「神代本人の魔力は落ちません」
九重院が即座に言った。
「霊脈の掌握も……蓮根君が解除しきらない限り、残ります」
「…………」
「ですが」
九重院が、もう一度東塔を見る。
「学校を、武器として使うことはできなくなる」
柊木が立ち上がった。
「場所を」
「東塔地下。第一魔力室」
九重院は一度息を継ぐ。
「西塔は……二階、旧変換室」
「解除方法は?」
「壊さないでください」
柊木の動きが止まった。
九重院が薄く目を開く。
「学校の設備です」
「…………」
「切断弁があります。通常は……校長権限が必要ですが」
柊木が少しだけ笑う。
「校長がここにいますね」
九重院の口元が、ほんの僅かに動いた。
「……そうですね」
治療担当が困ったように言う。
「九重院校長、本当にもう喋らないでください」
「すみません」
「謝らないで休んでください!」
柊木はすぐに杖を抜いた。
白峰から来た二十五人。
教師たちを救出するため、ここへ来た者たち。
今はすでに、治療、護衛、各救出地点へと分かれている。
それでも、繋がっている。
柊木が伝達魔法を飛ばす。
白い光が廊下を二方向へ走った。
『白峰、全員へ』
各地点に散っていた二十五人が、一斉に顔を上げる。
『作戦変更です』
柊木の声が届く。
『救出済みの先生方を守る要員は、そのまま治療と護衛を継続。それ以外は二班へ再編してください』
土御門のそばに残った二人が顔を上げる。
早瀬の治療班。
北棟。
高宮。
それぞれの場所で、白峰の教師たちが杖を取る。
『第一班、東塔。第二班、西塔』
一人が走り出した。
続いて二人。
三人。
各地点から、白峰の者たちが次々と動き始める。
『目標は魔力導管の切断。破壊は禁止。設備を止めます』
そして柊木は、はっきりと言った。
『これは神代冥司を弱体化させる作戦ではありません』
九重院は壁へ身体を預けたまま聞いている。
『学校を、これ以上あの男の武器にさせないための作戦です』
九重院は静かに目を閉じた。
立てない。
戦えない。
今、校庭へ行ったところで、杖一本まともに振れない。
それでも、この学校を知っている。
どこに何があるのか。
どの魔法がどこを通るのか。
誰よりも知っている。
校長だから。
「……柊木先生」
「はい」
「東塔は……途中の第三分岐を使ってください。正面階段は……神代の術式が濃い」
「分かりました」
「西塔は……」
九重院が一度、咳き込む。
「校長!」
「……大丈夫です」
「大丈夫ではありません」
「ですが……」
柊木がしゃがみ込み、九重院と目線を合わせた。
「場所だけ教えてください」
「…………」
「動くのは、私たちの仕事です」
九重院の目が僅かに揺れた。
数秒の沈黙。
それから、小さく頷く。
「……お願いします」
「はい」
柊木は立ち上がった。
「白峰魔法学校」
杖を上げる。
「行きますよ!」
遠くから返事が重なった。
『了解!』
東へ。
西へ。
白峰の魔法使いたちが走り始めた。
*
地下。
「もう一人戻った!」
日向が叫ぶ。
「こっちも!」
澪の声が返る。
黒い靄が、また一つ消えた。
倉橋が周囲を見渡す。
入口を攻める敵は減っている。
正確には、敵だった生徒が減っていた。
今なお立ちはだかっているのは、黒曜の環と、まだ干渉が解けていない一部の生徒だけだ。
「久世さん」
倉橋が言う。
「もう一人出します」
「行ける」
久世が即答した。
「僕と彼で入口は持つ」
残る一人の禍祓官も頷く。
「生徒たちもいます」
日向が杖を上げた。
「任せろ!」
楓がすぐ横から釘を刺す。
「調子に乗らない」
岳も前を見据えた。
「抜かせない」
澪が杖を構える。
「白峰の生徒もいること、忘れないでください」
「誰も忘れてないって!」
日向が言い返す。
倉橋は一瞬だけ笑った。
「頼んだ」
そして、もう一人の禍祓官が中央回廊へ走った。
五人いた霊脈隊の護衛。
一人、また一人と、本来の対黒曜の環の戦場へ戻っていく。
それができる。
奎星が生徒を戻しているから。
伊織が計測文字を見る。
「…………」
銀色の広がる速度は、さらに上がっていた。
「六分」
スズメが奎星を見る。
顔色は悪い。
汗も止まらない。
鼻血の跡も残っている。
それでも、銀の鴉は今までで一番はっきりと形を保っていた。
半分。
六分。
残り、六分。
*
校庭。
神代冥司が、ふと横を見た。
遠い中央回廊。
それでも分かる。
生徒が一人、また一人と杖を下ろしている。
地下に張り巡らせた自分の干渉も薄くなっていく。
黒曜の環と生徒の戦線が、分離し始めている。
「…………」
神代は初めて、少し長くそちらを見た。
その間にも銀色は広がっていく。
神代の目が僅かに細くなった。
「なるほど……」
静かな声。
「無策で来たわけではないようですね……」
御影の口元が僅かに上がる。
「今更気づいたか!」
遠く、空中で術式の支点へ杖を向けていた斎賀が笑った。
「気づくのおっそ」
真壁が振り返る。
「よせお前ら!」
「何でだよ」
「煽るな!」
「向こうも煽ったじゃん」
「だからお前までやる必要はない!」
御影が言う。
「征士郎」
「お前もだ!」
「俺は事実を言っただけだ」
「同じだ!」
斎賀が吹き出す。
「征士郎、余裕出てきた?」
「誰のせいで消耗してると思ってる!」
「神代じゃない?」
「主にお前だ!」
ほんの数秒。
十二年前、三人で任務へ出ていた頃のようなやり取り。
だが、神代は笑わなかった。
銀の光が広がる。
生徒が戻る。
黒曜の環が孤立する。
霊脈隊から離れた禍祓官が、中央へ増援に向かう。
救出隊は教師たちを確保した。
そして空では、自分の術式を真壁が解析している。
一つ。
また一つ。
盤面が動いていく。
神代の瞳から、温度が完全に消えた。
「そうですか」
御影が表情を変える。
声が違う。
神代が杖を下ろした。
空の円環が回転を止める。
真壁の顔色が変わった。
「……待て」
斎賀が見る。
「何?」
「術式が変わる」
外周を構成していた巨大な円の一部が解けていく。
消えるのではない。
組み替わっている。
これまで学校全体へ向いていた広範囲の術式が、少しずつ細く絞られていく。
「…………」
御影の目が鋭くなる。
方向は――下。
地下。
霊脈。
「おい」
斎賀の笑みが消えた。
「こいつ」
真壁が先に理解する。
「蓮根君を狙っている!」
神代の杖先が地面へ向いた。
「十二分」
静かな声。
「待つ必要などありませんでした」
御影の身体が動く。
神代が一歩前へ出る。
「術式を解く必要もない」
赤黒い文字が、杖へ集まり始める。
その先。
地下深く。
奎星。
「術者がいなくなれば」
一拍。
「終わる」
御影玄一郎が神代の前へ立った。
真正面。
神代の杖先と地下を繋ぐ、その線上へ。
「退いてください」
神代が言う。
御影は動かない。
「御影玄一郎」
「言っただろう」
杖を上げる。
左頬の傷が歪んだ。
「俺の仕事は」
神代を睨む。
「お前を動かさないことだと」
神代の瞳が冷える。
御影も一歩たりとも退かない。
その背後で真壁が叫んだ。
「玄弥!」
「分かってる!」
二人は術式へ走る。
真壁が構造を読む。
斎賀が壊す。
御影が前で止める。
十二年前。
いつもそうだった。
一人で全部をやらない。
三人が、それぞれ自分の仕事をする。
神代が杖を上げた。
「では」
赤黒い魔力が膨れ上がる。
「まず、あなたから退かしましょう」
御影も杖を構える。
「やってみろ」
*
同じ瞬間。
東塔では、白峰の第一班が階段を駆け上がっていた。
西塔では、第二班が旧回廊へ飛び込む。
本館。
九重院紫苑は目を閉じたまま、壁へ身体を預けている。治療担当が脈を測る中、その指先だけが僅かに動いた。
校長室でもない。
校庭でもない。
今いる場所から、この学校を守る。
地下では、銀の鴉。
残り、六分。
そして校庭では、御影玄一郎の前で赤黒い光が太陽を覆った。