マホウトコロ   作:西野圭吾

7 / 114
第7話 基本の魔法1

 

放課後になっても、蓮根奎星の一日は終わらなかった。

 

一般の生徒たちが教室を出て、寮や部活動へ散っていく頃になると、奎星にはもう一つの授業が待っている。烏丸スズメによる補習だ。

 

日中は二年二組の教室へ混ざることを許されたとはいえ、魔法を学び始めてまだ二週間の奎星と、十一年近く魔法を学んできた同級生たちとの間には、簡単には埋められない知識の差がある。彼らが長い時間をかけて覚えてきたことを、奎星はこれから追いかけなければならない。

 

そのため、通常授業が終われば森の端にある小部屋へ戻り、夕食までスズメと勉強する。それが、奎星の新しい日課だった。

 

――本来なら。

 

「それでさ! 日向が実はクィディッチ部のエースなんだよ!」

 

丸机の向かいで、スズメが教科書を開いた。

 

「蓮根君」

 

「得点王だって! あいつ、あんな感じなのに!」

 

「蓮根君」

 

「それで岳がさ、昼飯をめちゃくちゃ食うんだよ。マジで俺の倍くらい――」

 

「蓮根君」

 

「何?」

 

「補習を始めてもよろしいですか?」

 

「いいよ」

 

「では、教科書の四十二頁を――」

 

「あと楓がめっちゃ頭いい!」

 

スズメは静かに教科書を閉じた。

 

夕暮れの光が障子を淡い橙色に染めている。窓の外では海から上がってきた風が木々を揺らし、遠くから部活動へ向かう生徒たちの声が聞こえていた。

 

奎星は朝からあった出来事を、ほとんど一から十まで話し続けていた。大食堂がどれほど広かったか。岳がどれほど食べたか。一般社会の高校について質問攻めにされたこと。日向が箒で飛ぶと腹立たしいほど格好よかったこと。そして、自分は校舎の梁へ激突したこと。

 

「そこはもう知っています」

 

スズメが言った。

 

「見てたもんな」

 

「見ていました」

 

「俺が落ちたとき、焦った?」

 

「早瀬先生がいましたから」

 

「ちょっとくらい焦っただろ」

 

「まったく」

 

「嘘つけ」

 

「補習を始めます」

 

奎星は笑いながら、座布団の上で胡座をかいた。一日中授業を受けたはずなのに、妙に元気だった。むしろ朝よりもよく喋る。

 

スズメは呆れたように彼を見ていたが、その実、少しだけ安心していた。

 

昨日まで、奎星は窓の外の生徒たちを眺めながら、「友達できるかな」「早く外に出たい」と何度も口にしていた。それが今日、ちゃんと友人を作って帰ってきた。

 

「伊織は静かなんだけど、あいつ、たぶん一番口悪いよ」

 

「榊君は優秀な生徒ですよ」

 

「知ってんの?」

 

「魔法史を教えていますから」

 

「楓も?」

 

「水無瀬さんは学年でも成績上位です」

 

「やっぱり!」

 

「朝比奈君は、もう少し提出物を期限内に出せば成績が上がるのですが」

 

「あいつっぽいな」

 

「岩戸君は――」

 

スズメが言葉を止めた。

 

奎星が待つ。

 

「……食堂でよく見ます」

 

奎星は吹き出した。

 

「教師から見てもそれなんだ!」

 

「非常に目立ちますから」

 

「いい奴らだよ」

 

その言い方は、少しだけ柔らかかった。

 

奎星は窓の外へ目を向けた。夕日が森の向こうへ落ちかけている。木々の隙間から差し込む光が、机の上の教科書や筆記具を赤く染めていた。

 

「学校生活、ほんとに楽しい!」

 

スズメが瞬きをする。

 

奎星が振り返った。

 

そこには、何の裏もなかった。照れ隠しも、いつもの軽口もない。ただ嬉しそうな、十七歳の少年の顔だった。

 

「スズメちゃんのおかげだ!」

 

「…………」

 

スズメは一瞬、言葉を失った。

 

朝、奎星を起こす。魔法を教える。失敗すれば叱り、できるまでやり直させる。教師として当然のことをしてきただけだ。少なくとも、彼女自身はそう思っていた。

 

けれど、奎星にとってのこの二週間は、たぶんそれだけではなかった。

 

スズメは視線を教科書へ落とした。

 

「それは……」

 

少しだけ間を置いてから、彼女は言った。

 

「あなたが頑張ったからですよ、蓮根君」

 

今度は奎星が黙った。

 

「…………」

 

「何です?」

 

「今日のスズメちゃん、優しくね?」

 

「撤回します」

 

「なんでだよ!」

 

「すぐ余計なことを言うからです」

 

奎星は笑った。けれど、その頬は少し嬉しそうだった。

 

「それにさ!」

 

すぐに次の話題へ移る。

 

「明日は御影先生の授業だろ!」

 

「闇の魔術に対する防衛術ですね」

 

「そう!」

 

奎星は杖を抜き、妙に格好をつけて構えた。

 

「ついに魔法バトルだよ!」

 

「人に向けないでください」

 

「はい」

 

奎星は素直に杖を下ろした。

 

「めっちゃ楽しみなんだよね。なんか一番『魔法使い』って感じしない?」

 

「何となく言いたいことは分かりますが」

 

スズメは教科書を開き直した。

 

「対人魔法については、私より御影先生に教わったほうが間違いありません」

 

「そんなに強い?」

 

「以前申し上げたでしょう。元禍祓官です」

 

「でも魔力量なら俺のほうが――」

 

「蓮根君」

 

声が低くなった。

 

「はい」

 

「そういうところです」

 

「すみません」

 

「魔力量だけで御影先生に勝てると思わないことです。あなたでは今、十回戦って十回負けます」

 

「十回も!?」

 

「百回なら百回です」

 

「一回くらい、まぐれがあるだろ!」

 

「ありません」

 

「言い切るなよ!」

 

スズメは淡々と頁をめくった。

 

「真面目に受けるのですよ」

 

「まっかせてくれよ!」

 

奎星は胸を叩いた。

 

スズメが不安そうな目をする。

 

「その返事を聞くと、余計に心配になります」

 

「あ、そうだ」

 

奎星は何かを思い出したように身を乗り出した。

 

「久我先生もいい人だな!」

 

スズメの指が止まった。

 

「……久我先生を知っているのですか?」

 

「うん」

 

「いつお話を?」

 

「飛行術の後」

 

スズメの目が僅かに細くなる。

 

奎星はそれに気づかず、楽しそうに話を続けた。

 

「早瀬先生に説教されて、そのあと校舎へ戻ってるときに話しかけてくれてさ。『君が蓮根奎星君か』って」

 

「何を話したのです?」

 

「なんか色々」

 

「色々では分かりません」

 

「魔力測定のことを聞いたよ、とか。二週間で通常授業まで来たのもすごいとか」

 

奎星は得意げに胸を張った。

 

「あと、俺のこと天才だって!」

 

「…………」

 

「『これだけの魔力量と習得速度を併せ持つ生徒は、そういない』って。めっちゃ褒めてくれた!」

 

「……それは、よかったですね」

 

スズメは微笑んだ。

 

ただし、奎星が学校生活について話したときの笑顔とは少し違っていた。口元は笑っているのに、目の奥には何かを測るような光がある。

 

「だろ?」

 

「ええ」

 

「スズメちゃんも素直に天才って言えばいいのに」

 

「言いません」

 

「なんで久我先生は言ってくれんの」

 

「では、久我先生に補習を頼みますか?」

 

「それは嫌」

 

即答だった。

 

スズメが眉を上げる。

 

「なぜです?」

 

「だって魔法史の質問できないじゃん」

 

「高等魔法理論の先生なので、知識はありますよ」

 

「でもスズメちゃんほどオタクじゃないだろ」

 

「…………褒めていますか?」

 

「めちゃくちゃ」

 

「そうですか」

 

不思議と、悪い気はしなかった。

 

奎星はさらに何かを思い出したように言う。

 

「そういや、箒の授業のとき、スズメちゃん、久我先生と一緒にいなかった?」

 

「いましたよ」

 

「仲いいの?」

 

「普通です」

 

「研究仲間?」

 

スズメは一瞬だけ考えた。

 

「研究対象に重なる部分がある、というだけです」

 

「古代魔術?」

 

「久我先生は魔法理論全般が専門です。古い魔術体系も研究されています」

 

「へえ」

 

奎星はそれ以上気にしなかった。

 

スズメは教科書へ目を戻す。

 

「では、本当にそろそろ――」

 

ごぉん。

 

そのとき、夕食を知らせる鐘が鳴った。

 

奎星の顔が変わる。

 

「やばい!」

 

「何がです?」

 

「スズメちゃん、夕飯だ!」

 

スズメは時計を見る。それから、机の上の教科書を見る。

 

一頁も進んでいない。

 

「……蓮根君」

 

「何?」

 

「あなたのせいで、補習になりませんでした」

 

「何言ってんだよ!」

 

奎星は立ち上がった。

 

「大事な時間だっただろ!」

 

「補習より?」

 

「友情を深める時間だよ!」

 

「私とあなたは教師と生徒です」

 

「細かいこと気にすんなって」

 

「細かくありません」

 

「天ぷらに今日の飯が何か聞いてくる!」

 

「逃げないでください、蓮根君!」

 

奎星はすでに扉の外へ出ていた。

 

スズメは追いかけようとして、ふと足を止める。

 

机の上には、結局ほとんど使われなかった教科書が残されていた。窓の外からは、奎星の声が聞こえてくる。

 

「天ぷらー! 今日、肉!?」

 

スズメは呆れたように息を吐いた。

 

それでも、口元には小さな笑みが浮かんでいた。

 

翌日。

 

闇の魔術に対する防衛術の教室は、他の教室とは雰囲気が違っていた。

 

窓は小さく、壁は厚い。壁際には人型の訓練人形や、奇妙な形をした盾、拘束具、破損した杖などが展示されている。教室というより、武道場や訓練施設に近い。

 

床には、いくつもの円形の白線が描かれていた。

 

奎星はその中央に立ち、周囲を見回す。

 

「……いいね」

 

隣の日向が振り返った。

 

「何が?」

 

「ここ」

 

奎星は目を輝かせていた。

 

「めちゃくちゃ魔法バトルしそう」

 

伊織が眼鏡を押し上げる。

 

「その発言、御影先生の前ではしないほうがいいよ」

 

「なんで?」

 

楓も小声で言った。

 

「奎星。今日は本当に、余計なことを言わないほうがいいわよ」

 

「俺、そんな余計なこと言う?」

 

四人が奎星を見る。

 

「言う」

 

声が揃った。

 

「ひどくない?」

 

そのとき、教室の扉が開いた。

 

がらり、と乾いた音が響く。

 

御影玄一郎が入ってくる。

 

黒い短髪。左頬を縦断する深い傷。大柄な身体には、装飾のほとんどない黒灰色の教師用魔法衣をまとっている。

 

足音は大きくない。それでも、御影が教壇へ立っただけで、教室全体が静かになった。

 

奎星は周囲を見る。

 

日向が姿勢を正している。岳すら食べ物を持っていない。伊織は元から静かで、楓も真っ直ぐ前を向いていた。

 

「……怖」

 

奎星が小声で呟く。

 

御影がこちらを見る。

 

「何か言ったか、蓮根」

 

「言ってません!」

 

「声が大きい」

 

「すみません!」

 

御影は教壇へ手を置いた。

 

低い声が教室に響く。

 

「闇の魔術に対する防衛術。お前たちには下級課程の頃から教えてきたと思うが、攻撃を受けた際に最も重要な呪文は何だ」

 

何人もの声が返る。

 

「プロテゴ」

 

「そうだ」

 

御影は杖を抜いた。

 

「プロテゴ。盾の呪文だ。そして、相手を無力化する基本呪文の一つが――」

 

杖を振る。

 

教卓の端に置かれていた訓練用の杖が跳ね上がり、御影の手へ飛び込んだ。

 

「エクスペリアームス」

 

奎星の目が輝く。

 

御影はそれを見た。

 

「今、目を輝かせた奴」

 

奎星がさっと真顔になる。

 

「誰でしょう」

 

「お前だ」

 

「はい」

 

「この二つが基本だ」

 

御影は生徒たちを見回した。

 

「派手な呪文ではない。だが、実戦で生き残りたいなら、まずこれを徹底的に覚えろ」

 

奎星は腕を組みながら聞いていた。

 

盾を出す。相手の杖を吹き飛ばす。そして、その後にはもっと何かこう、轟音が鳴るような魔法を使う。炎、稲妻、爆発。そんなものを想像していた。

 

御影の声が続く。

 

「このクラスには今日から、魔法を始めて二週間の奴もいる」

 

教室の視線が集まった。

 

奎星は軽く手を挙げる。

 

「どうも」

 

「返事はいらん」

 

「はい」

 

「お前たちは十一年学んでいる。蓮根にとって、ここにいる全員が先輩だ。手本になるよう努力しろ」

 

教室の背筋が、さらに伸びた。

 

奎星は隣の日向を見る。

 

「お前も?」

 

「今、喋るな!」

 

日向が口だけ動かす。

 

どうやら本気で怖がっているらしい。

 

御影は簡単な指示を飛ばした。

 

「水無瀬、朝比奈。防御組。榊、岩戸は攻撃組。昨日の続きだ。他も二人一組。三メートル以上距離を取れ」

 

生徒たちが一斉に動き出す。

 

「蓮根」

 

「はい!」

 

「お前はこっちだ」

 

「個人レッスン?」

 

「そうだ」

 

奎星は嬉しそうに御影の元へ向かった。

 

元禍祓官。魔法界でも名の知られた実力者。そんな人間から直接教わる。それだけで胸が躍った。

 

教室の端、人型の訓練人形が置かれた場所まで来ると、御影は一本の予備杖を人形の手へ固定した。

 

「まずエクスペリアームスを教える」

 

「はい」

 

「目標は、人形の杖だけを飛ばすことだ」

 

「それだけ?」

 

御影の眉間が僅かに深くなる。

 

「それだけだ」

 

奎星は少し肩を落とした。

 

「もっとこう……戦う感じかと思ってた」

 

「戦う感じ?」

 

「ばちばち魔法を撃ち合ったり」

 

周囲の生徒たちの動きが、ほんの少し止まった。

 

御影は奎星を見た。

 

「基礎が最も重要だ」

 

「でも俺、スズメちゃんとの補習で制御も結構――」

 

「烏丸が何を教えたかは聞いている」

 

御影は遮った。

 

「だから言っている。派手なことをやろうとするな」

 

奎星の口が尖る。

 

「……はい」

 

「不満か」

 

「ちょっと」

 

「帰るか?」

 

「やります!」

 

御影は杖を構えた。

 

「見ていろ」

 

人形へ向ける。動きは小さい。力んでいるようには見えない。

 

「エクスペリアームス」

 

ぱしん。

 

人形の手から杖だけが抜け、御影の少し前へ落ちた。

 

奎星が眉を上げる。

 

「地味」

 

「蓮根」

 

「すみません」

 

「やれ」

 

御影は人形の手へ杖を戻した。

 

奎星が構える。

 

「狙うのは杖だけだ。人形そのものを飛ばすな」

 

「分かってます」

 

「魔力を出しすぎるな」

 

「分かってます」

 

「お前の『分かってる』は信用していない」

 

「ひどいな」

 

奎星は人形を見る。

 

手。杖。そこだけ。

 

「エクスペリアームス!」

 

赤い閃光が迸った。

 

次の瞬間、人形が轟音を立てて吹き飛び、後ろの壁へ激突した。

 

教室が静まり返る。

 

奎星は口を開けた。

 

「…………」

 

御影が言う。

 

「何を狙った」

 

「杖」

 

「俺には、人形の人生そのものを否定したように見えたが」

 

教室のあちこちから笑いが漏れる。

 

奎星は耳を赤くした。

 

「強かった?」

 

「強すぎだ」

 

御影は人形を元の位置へ戻した。

 

「今度は思い切り絞れ」

 

「はい」

 

二度目。

 

「エクスペリアームス」

 

ぽふっ。

 

杖が一ミリほど動いた。

 

奎星が目を細める。

 

「……今、動いた?」

 

御影が腕を組む。

 

「弱すぎだ」

 

「極端だな、俺!」

 

「知っている」

 

三度目は人形の腕ごと跳ね、四度目は杖が飛んだものの勢い余って天井近くまで上がった。五度目は弱すぎ、六度目は少し強い。

 

七度目。

 

奎星は一度、杖を下ろした。

 

「待って」

 

御影が黙って見る。

 

奎星は目を閉じた。

 

これまでと同じだった。

 

浮遊。召喚。発光。

 

魔力を出すことは難しくない。むしろ簡単だ。奎星にとって難しいのは、出さないことだった。

 

五千を超える水を抱えながら、コップ一杯だけを注ぐ。しかも、相手の身体にはぶつけず、手元の杖だけを狙う。

 

奎星はゆっくり目を開いた。

 

人形の手にある杖を見つめる。

 

「エクスペリアームス」

 

ぱしっ。

 

杖が抜けた。

 

一メートルほど飛び、床へ落ちる。

 

御影の眉が、ほんの僅かに動いた。

 

奎星が見る。

 

「どう?」

 

「もう一度」

 

「褒めてよ」

 

「もう一度」

 

人形の杖を戻す。

 

「エクスペリアームス」

 

成功。

 

三回目も成功。

 

四回目、御影は人形の手の角度を変えた。それでも杖は正確に飛んだ。

 

御影は何も言わない。

 

奎星は知らなかった。

 

この呪文は、ただ対象へ魔力をぶつければいいわけではない。相手を傷つけず、持っている物だけへ干渉する。奎星ほどの魔力量を持つ者にとって、その調整は普通の魔法使いよりも難しい。

 

五千を超える魔力を、百程度の魔法使いと同じ威力まで落とし、さらにそこから標的の一点だけへ通す。

 

それを、奎星は七度目で掴んだ。

 

御影は奎星の横顔を見る。

 

少年本人は、何も気づいていない。

 

「お、今の完璧じゃね?」

 

喜んでいる。

 

だから御影は言った。

 

「まだだ」

 

「えー!」

 

「次はプロテゴだ」

 

「おお!」

 

「まず俺が弱い呪文を撃つ。それを防げ」

 

「待ってました!」

 

奎星の顔が再び輝く。

 

御影が嫌そうに見る。

 

「その顔をやめろ」

 

「なんで!」

 

「遊びじゃない」

 

「分かってるって」

 

しばらく訓練は続いた。

 

防御。失敗。もう一度。

 

防御。強すぎて盾が大きく広がる。

 

絞る。弱すぎて盾が割れる。

 

もう一度。

 

五度。十度。十五度。

 

やがて、奎星の前に必要最低限の大きさの透明な盾が生まれた。

 

御影の弱い攻撃呪文が、それへ当たる。

 

ぱん、と乾いた音を立てて弾けた。

 

「おお……」

 

奎星は自分の盾を見る。

 

楽しい。

 

昨日まで知らなかったことが、今日できるようになる。それは、どうしようもなく楽しかった。

 

そして、楽しすぎた。

 

だから、また余計なことを言った。

 

「御影先生!」

 

「何だ」

 

「もっと派手な魔法教えてよ!」

 

教室が止まった。

 

日向が奎星を見る。目が言っていた。

 

――馬鹿。

 

楓の顔が引きつり、岳ですら口を開けている。伊織はそっと眼鏡を直し、巻き込まれないために視線を逸らした。

 

御影は動かなかった。

 

ただでさえ深い眉間の皺が、さらに深くなる。

 

奎星の笑顔が消えた。

 

「…………」

 

やべ。

 

そう思った。

 

だが、遅い。

 

「蓮根」

 

声は大きくなかった。むしろ低く、静かだった。そのほうが怖い。

 

「はい」

 

「派手な魔法とは何だ」

 

「いや……その」

 

「炎か?」

 

御影が一歩近づく。

 

「爆発か?」

 

奎星は答えられない。

 

「人を吹き飛ばせば満足か」

 

「違――」

 

「何のために、お前は魔法を学ぶ」

 

御影の目が、真っ直ぐ奎星を射抜いた。

 

「人を殺すためか?」

 

「違います」

 

今度は、奎星もすぐに答えた。

 

「なら何だ」

 

「…………」

 

「派手なら価値があるのか?」

 

御影の声が教室に響く。

 

誰も喋らない。

 

「大きな音が鳴れば、優れた魔法か。相手を血まみれにすれば強いのか。建物を壊せば才能か」

 

一つ一つの言葉が重かった。

 

奎星は目を伏せた。

 

そんなつもりではなかった。

 

誰かを傷つけたいわけではない。殺したいなんて、一度も思っていない。

 

ただ、凄い魔法を使いたかった。

 

派手なやつ。

 

できるようになったら、きっとスズメに見せられる。

 

「見てよ、すげえだろ」

 

そう言って驚かせて、もしかしたら褒めてもらえる。

 

二週間、何度も「調子に乗らないでください」と言われた。それでも、できたときにはほんの少し笑ってくれた。

 

だから、もっと凄いことができたら、もっと褒めてくれるかもしれない。

 

たった、それだけだった。

 

なのに、自分が今口にした言葉は、まるで違う意味に聞こえた。

 

奎星は自分の杖を見た。

 

神代榊。鬼火鳥の尾羽。

 

まだ二週間しか使っていない。それでも、手にはすっかり馴染んでいる。

 

五千を超える魔力量。測定不能。水晶を壊した。羽根を天井へ打ち込んだ。箒を暴走させた。

 

そして、最初の日にスズメが言った。

 

――あなたの魔法は危険です。

 

――いずれ周囲に危害を及ぼす可能性がある。

 

もし、あのとき誰かがいたら。

 

もし、昨日、箒で壁ではなく人へぶつかっていたら。

 

もし、今、あの人形ではなく楓や岳や伊織や日向へ、さっきのエクスペリアームスを全力で撃っていたら。

 

背中が冷たくなった。

 

「才能は時に凶器になります」

 

スズメの言葉が、今さら違う重さで胸へ落ちてくる。

 

奎星は杖を下げた。

 

「……すみませんでした」

 

御影は何も言わない。

 

奎星は深く頭を下げた。

 

教室が静まり返る。

 

「俺、誰かを傷つけたいとか、そういう意味じゃなくて……」

 

「分かっている」

 

奎星が少し顔を上げる。

 

御影の声は、もう怒鳴るものではなかった。

 

「頭を上げろ」

 

奎星はゆっくり姿勢を戻した。

 

御影は人形の手へ、もう一度杖を持たせる。

 

「蓮根」

 

「はい」

 

「この呪文を地味だと言ったな」

 

「……はい」

 

「エクスペリアームス」

 

御影は人形を見た。

 

「俺が禍祓官だった頃、一番使った呪文の一つだ」

 

奎星が目を上げる。

 

教室の生徒たちも、静かに聞いていた。

 

「ある冬、闇の魔法使いを追って、山梨の山中へ入ったことがある」

 

十年ほど前。御影がまだ現役の禍祓官だった頃、違法な呪物を製造し、一般人にまで被害を出していた男を追っていた。

 

雪の山。夜。仲間は三人。相手は一人。

 

それでも、追い詰められたのは禍祓官側だった。

 

「相手は俺より魔力量が少なかった」

 

御影は淡々と話す。

 

「だが、実戦経験が多かった」

 

木々。雪。暗闇。視界が悪く、どこから呪文が飛んでくるかも分からない。

 

仲間の一人が負傷し、もう一人の杖が折れた。

 

「俺は相手を殺せる呪文を知っていた」

 

御影は左頬の傷へ、無意識に指を触れた。

 

「撃つ機会もあった」

 

奎星は黙って聞いている。

 

「だが、撃たなかった」

 

「……なんで?」

 

御影は奎星を見る。

 

「捕まえるために行ったからだ」

 

静かな答えだった。

 

「殺すためではない」

 

奎星は何も言わない。

 

「相手が杖を振り上げた」

 

御影が自分の杖を持ち上げる。

 

「俺が使ったのは、エクスペリアームス」

 

一振り。

 

杖が敵の手から飛び、雪の中へ落ちた。

 

「それで終わった」

 

「…………」

 

「大爆発は起きなかった。炎も出なかった。山も吹き飛ばなかった」

 

御影は奎星を見た。

 

「だが、その一発で三人が生きて帰った」

 

奎星の指が、杖を少し強く握る。

 

「殺すことは、強さじゃない」

 

御影の声は低かった。けれど、誰の耳にもはっきり届いた。

 

「相手を壊すだけなら、力があればできる」

 

一拍置いて、御影は続ける。

 

「殺さずに止めるほうが、難しい」

 

奎星の瞳が僅かに揺れた。

 

「自分が怒っていても。怖くても。仲間が傷つけられていても。それでも必要な力だけを使う」

 

さっきの人形を思い出す。

 

強すぎれば、人形そのものが飛んだ。

 

弱ければ、杖は抜けない。

 

ちょうどいい力。それを、どんな状況でも選ぶ。

 

「だから、学ぶ」

 

御影は訓練用の人形を指した。

 

奎星は人形を見る。

 

つい数分前まで、退屈そうに見えていた。ただ杖を飛ばすだけの魔法。

 

今は、違って見えた。

 

御影が全員へ向き直る。

 

「続けろ」

 

空気が動き出した。

 

生徒たちが再び二人一組になる。日向、楓、岳、伊織もそれぞれの場所へ戻っていった。

 

御影も離れようとする。

 

その背中を、奎星は見た。

 

そして、手元の神代榊を見る。

 

巨大な魔力。天才。測定不能。

 

そんな言葉より、今は別のものが頭に残っていた。

 

必要な力だけを使う。

 

奎星は顔を上げた。

 

「御影先生!」

 

御影が振り向く。

 

奎星は杖を握り直し、その元へ走っていった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。