放課後になっても、蓮根奎星の一日は終わらなかった。
一般の生徒たちが教室を出て、寮や部活動へ散っていく頃になると、奎星にはもう一つの授業が待っている。烏丸スズメによる補習だ。
日中は二年二組の教室へ混ざることを許されたとはいえ、魔法を学び始めてまだ二週間の奎星と、十一年近く魔法を学んできた同級生たちとの間には、簡単には埋められない知識の差がある。彼らが長い時間をかけて覚えてきたことを、奎星はこれから追いかけなければならない。
そのため、通常授業が終われば森の端にある小部屋へ戻り、夕食までスズメと勉強する。それが、奎星の新しい日課だった。
――本来なら。
「それでさ! 日向が実はクィディッチ部のエースなんだよ!」
丸机の向かいで、スズメが教科書を開いた。
「蓮根君」
「得点王だって! あいつ、あんな感じなのに!」
「蓮根君」
「それで岳がさ、昼飯をめちゃくちゃ食うんだよ。マジで俺の倍くらい――」
「蓮根君」
「何?」
「補習を始めてもよろしいですか?」
「いいよ」
「では、教科書の四十二頁を――」
「あと楓がめっちゃ頭いい!」
スズメは静かに教科書を閉じた。
夕暮れの光が障子を淡い橙色に染めている。窓の外では海から上がってきた風が木々を揺らし、遠くから部活動へ向かう生徒たちの声が聞こえていた。
奎星は朝からあった出来事を、ほとんど一から十まで話し続けていた。大食堂がどれほど広かったか。岳がどれほど食べたか。一般社会の高校について質問攻めにされたこと。日向が箒で飛ぶと腹立たしいほど格好よかったこと。そして、自分は校舎の梁へ激突したこと。
「そこはもう知っています」
スズメが言った。
「見てたもんな」
「見ていました」
「俺が落ちたとき、焦った?」
「早瀬先生がいましたから」
「ちょっとくらい焦っただろ」
「まったく」
「嘘つけ」
「補習を始めます」
奎星は笑いながら、座布団の上で胡座をかいた。一日中授業を受けたはずなのに、妙に元気だった。むしろ朝よりもよく喋る。
スズメは呆れたように彼を見ていたが、その実、少しだけ安心していた。
昨日まで、奎星は窓の外の生徒たちを眺めながら、「友達できるかな」「早く外に出たい」と何度も口にしていた。それが今日、ちゃんと友人を作って帰ってきた。
「伊織は静かなんだけど、あいつ、たぶん一番口悪いよ」
「榊君は優秀な生徒ですよ」
「知ってんの?」
「魔法史を教えていますから」
「楓も?」
「水無瀬さんは学年でも成績上位です」
「やっぱり!」
「朝比奈君は、もう少し提出物を期限内に出せば成績が上がるのですが」
「あいつっぽいな」
「岩戸君は――」
スズメが言葉を止めた。
奎星が待つ。
「……食堂でよく見ます」
奎星は吹き出した。
「教師から見てもそれなんだ!」
「非常に目立ちますから」
「いい奴らだよ」
その言い方は、少しだけ柔らかかった。
奎星は窓の外へ目を向けた。夕日が森の向こうへ落ちかけている。木々の隙間から差し込む光が、机の上の教科書や筆記具を赤く染めていた。
「学校生活、ほんとに楽しい!」
スズメが瞬きをする。
奎星が振り返った。
そこには、何の裏もなかった。照れ隠しも、いつもの軽口もない。ただ嬉しそうな、十七歳の少年の顔だった。
「スズメちゃんのおかげだ!」
「…………」
スズメは一瞬、言葉を失った。
朝、奎星を起こす。魔法を教える。失敗すれば叱り、できるまでやり直させる。教師として当然のことをしてきただけだ。少なくとも、彼女自身はそう思っていた。
けれど、奎星にとってのこの二週間は、たぶんそれだけではなかった。
スズメは視線を教科書へ落とした。
「それは……」
少しだけ間を置いてから、彼女は言った。
「あなたが頑張ったからですよ、蓮根君」
今度は奎星が黙った。
「…………」
「何です?」
「今日のスズメちゃん、優しくね?」
「撤回します」
「なんでだよ!」
「すぐ余計なことを言うからです」
奎星は笑った。けれど、その頬は少し嬉しそうだった。
「それにさ!」
すぐに次の話題へ移る。
「明日は御影先生の授業だろ!」
「闇の魔術に対する防衛術ですね」
「そう!」
奎星は杖を抜き、妙に格好をつけて構えた。
「ついに魔法バトルだよ!」
「人に向けないでください」
「はい」
奎星は素直に杖を下ろした。
「めっちゃ楽しみなんだよね。なんか一番『魔法使い』って感じしない?」
「何となく言いたいことは分かりますが」
スズメは教科書を開き直した。
「対人魔法については、私より御影先生に教わったほうが間違いありません」
「そんなに強い?」
「以前申し上げたでしょう。元禍祓官です」
「でも魔力量なら俺のほうが――」
「蓮根君」
声が低くなった。
「はい」
「そういうところです」
「すみません」
「魔力量だけで御影先生に勝てると思わないことです。あなたでは今、十回戦って十回負けます」
「十回も!?」
「百回なら百回です」
「一回くらい、まぐれがあるだろ!」
「ありません」
「言い切るなよ!」
スズメは淡々と頁をめくった。
「真面目に受けるのですよ」
「まっかせてくれよ!」
奎星は胸を叩いた。
スズメが不安そうな目をする。
「その返事を聞くと、余計に心配になります」
「あ、そうだ」
奎星は何かを思い出したように身を乗り出した。
「久我先生もいい人だな!」
スズメの指が止まった。
「……久我先生を知っているのですか?」
「うん」
「いつお話を?」
「飛行術の後」
スズメの目が僅かに細くなる。
奎星はそれに気づかず、楽しそうに話を続けた。
「早瀬先生に説教されて、そのあと校舎へ戻ってるときに話しかけてくれてさ。『君が蓮根奎星君か』って」
「何を話したのです?」
「なんか色々」
「色々では分かりません」
「魔力測定のことを聞いたよ、とか。二週間で通常授業まで来たのもすごいとか」
奎星は得意げに胸を張った。
「あと、俺のこと天才だって!」
「…………」
「『これだけの魔力量と習得速度を併せ持つ生徒は、そういない』って。めっちゃ褒めてくれた!」
「……それは、よかったですね」
スズメは微笑んだ。
ただし、奎星が学校生活について話したときの笑顔とは少し違っていた。口元は笑っているのに、目の奥には何かを測るような光がある。
「だろ?」
「ええ」
「スズメちゃんも素直に天才って言えばいいのに」
「言いません」
「なんで久我先生は言ってくれんの」
「では、久我先生に補習を頼みますか?」
「それは嫌」
即答だった。
スズメが眉を上げる。
「なぜです?」
「だって魔法史の質問できないじゃん」
「高等魔法理論の先生なので、知識はありますよ」
「でもスズメちゃんほどオタクじゃないだろ」
「…………褒めていますか?」
「めちゃくちゃ」
「そうですか」
不思議と、悪い気はしなかった。
奎星はさらに何かを思い出したように言う。
「そういや、箒の授業のとき、スズメちゃん、久我先生と一緒にいなかった?」
「いましたよ」
「仲いいの?」
「普通です」
「研究仲間?」
スズメは一瞬だけ考えた。
「研究対象に重なる部分がある、というだけです」
「古代魔術?」
「久我先生は魔法理論全般が専門です。古い魔術体系も研究されています」
「へえ」
奎星はそれ以上気にしなかった。
スズメは教科書へ目を戻す。
「では、本当にそろそろ――」
ごぉん。
そのとき、夕食を知らせる鐘が鳴った。
奎星の顔が変わる。
「やばい!」
「何がです?」
「スズメちゃん、夕飯だ!」
スズメは時計を見る。それから、机の上の教科書を見る。
一頁も進んでいない。
「……蓮根君」
「何?」
「あなたのせいで、補習になりませんでした」
「何言ってんだよ!」
奎星は立ち上がった。
「大事な時間だっただろ!」
「補習より?」
「友情を深める時間だよ!」
「私とあなたは教師と生徒です」
「細かいこと気にすんなって」
「細かくありません」
「天ぷらに今日の飯が何か聞いてくる!」
「逃げないでください、蓮根君!」
奎星はすでに扉の外へ出ていた。
スズメは追いかけようとして、ふと足を止める。
机の上には、結局ほとんど使われなかった教科書が残されていた。窓の外からは、奎星の声が聞こえてくる。
「天ぷらー! 今日、肉!?」
スズメは呆れたように息を吐いた。
それでも、口元には小さな笑みが浮かんでいた。
翌日。
闇の魔術に対する防衛術の教室は、他の教室とは雰囲気が違っていた。
窓は小さく、壁は厚い。壁際には人型の訓練人形や、奇妙な形をした盾、拘束具、破損した杖などが展示されている。教室というより、武道場や訓練施設に近い。
床には、いくつもの円形の白線が描かれていた。
奎星はその中央に立ち、周囲を見回す。
「……いいね」
隣の日向が振り返った。
「何が?」
「ここ」
奎星は目を輝かせていた。
「めちゃくちゃ魔法バトルしそう」
伊織が眼鏡を押し上げる。
「その発言、御影先生の前ではしないほうがいいよ」
「なんで?」
楓も小声で言った。
「奎星。今日は本当に、余計なことを言わないほうがいいわよ」
「俺、そんな余計なこと言う?」
四人が奎星を見る。
「言う」
声が揃った。
「ひどくない?」
そのとき、教室の扉が開いた。
がらり、と乾いた音が響く。
御影玄一郎が入ってくる。
黒い短髪。左頬を縦断する深い傷。大柄な身体には、装飾のほとんどない黒灰色の教師用魔法衣をまとっている。
足音は大きくない。それでも、御影が教壇へ立っただけで、教室全体が静かになった。
奎星は周囲を見る。
日向が姿勢を正している。岳すら食べ物を持っていない。伊織は元から静かで、楓も真っ直ぐ前を向いていた。
「……怖」
奎星が小声で呟く。
御影がこちらを見る。
「何か言ったか、蓮根」
「言ってません!」
「声が大きい」
「すみません!」
御影は教壇へ手を置いた。
低い声が教室に響く。
「闇の魔術に対する防衛術。お前たちには下級課程の頃から教えてきたと思うが、攻撃を受けた際に最も重要な呪文は何だ」
何人もの声が返る。
「プロテゴ」
「そうだ」
御影は杖を抜いた。
「プロテゴ。盾の呪文だ。そして、相手を無力化する基本呪文の一つが――」
杖を振る。
教卓の端に置かれていた訓練用の杖が跳ね上がり、御影の手へ飛び込んだ。
「エクスペリアームス」
奎星の目が輝く。
御影はそれを見た。
「今、目を輝かせた奴」
奎星がさっと真顔になる。
「誰でしょう」
「お前だ」
「はい」
「この二つが基本だ」
御影は生徒たちを見回した。
「派手な呪文ではない。だが、実戦で生き残りたいなら、まずこれを徹底的に覚えろ」
奎星は腕を組みながら聞いていた。
盾を出す。相手の杖を吹き飛ばす。そして、その後にはもっと何かこう、轟音が鳴るような魔法を使う。炎、稲妻、爆発。そんなものを想像していた。
御影の声が続く。
「このクラスには今日から、魔法を始めて二週間の奴もいる」
教室の視線が集まった。
奎星は軽く手を挙げる。
「どうも」
「返事はいらん」
「はい」
「お前たちは十一年学んでいる。蓮根にとって、ここにいる全員が先輩だ。手本になるよう努力しろ」
教室の背筋が、さらに伸びた。
奎星は隣の日向を見る。
「お前も?」
「今、喋るな!」
日向が口だけ動かす。
どうやら本気で怖がっているらしい。
御影は簡単な指示を飛ばした。
「水無瀬、朝比奈。防御組。榊、岩戸は攻撃組。昨日の続きだ。他も二人一組。三メートル以上距離を取れ」
生徒たちが一斉に動き出す。
「蓮根」
「はい!」
「お前はこっちだ」
「個人レッスン?」
「そうだ」
奎星は嬉しそうに御影の元へ向かった。
元禍祓官。魔法界でも名の知られた実力者。そんな人間から直接教わる。それだけで胸が躍った。
教室の端、人型の訓練人形が置かれた場所まで来ると、御影は一本の予備杖を人形の手へ固定した。
「まずエクスペリアームスを教える」
「はい」
「目標は、人形の杖だけを飛ばすことだ」
「それだけ?」
御影の眉間が僅かに深くなる。
「それだけだ」
奎星は少し肩を落とした。
「もっとこう……戦う感じかと思ってた」
「戦う感じ?」
「ばちばち魔法を撃ち合ったり」
周囲の生徒たちの動きが、ほんの少し止まった。
御影は奎星を見た。
「基礎が最も重要だ」
「でも俺、スズメちゃんとの補習で制御も結構――」
「烏丸が何を教えたかは聞いている」
御影は遮った。
「だから言っている。派手なことをやろうとするな」
奎星の口が尖る。
「……はい」
「不満か」
「ちょっと」
「帰るか?」
「やります!」
御影は杖を構えた。
「見ていろ」
人形へ向ける。動きは小さい。力んでいるようには見えない。
「エクスペリアームス」
ぱしん。
人形の手から杖だけが抜け、御影の少し前へ落ちた。
奎星が眉を上げる。
「地味」
「蓮根」
「すみません」
「やれ」
御影は人形の手へ杖を戻した。
奎星が構える。
「狙うのは杖だけだ。人形そのものを飛ばすな」
「分かってます」
「魔力を出しすぎるな」
「分かってます」
「お前の『分かってる』は信用していない」
「ひどいな」
奎星は人形を見る。
手。杖。そこだけ。
「エクスペリアームス!」
赤い閃光が迸った。
次の瞬間、人形が轟音を立てて吹き飛び、後ろの壁へ激突した。
教室が静まり返る。
奎星は口を開けた。
「…………」
御影が言う。
「何を狙った」
「杖」
「俺には、人形の人生そのものを否定したように見えたが」
教室のあちこちから笑いが漏れる。
奎星は耳を赤くした。
「強かった?」
「強すぎだ」
御影は人形を元の位置へ戻した。
「今度は思い切り絞れ」
「はい」
二度目。
「エクスペリアームス」
ぽふっ。
杖が一ミリほど動いた。
奎星が目を細める。
「……今、動いた?」
御影が腕を組む。
「弱すぎだ」
「極端だな、俺!」
「知っている」
三度目は人形の腕ごと跳ね、四度目は杖が飛んだものの勢い余って天井近くまで上がった。五度目は弱すぎ、六度目は少し強い。
七度目。
奎星は一度、杖を下ろした。
「待って」
御影が黙って見る。
奎星は目を閉じた。
これまでと同じだった。
浮遊。召喚。発光。
魔力を出すことは難しくない。むしろ簡単だ。奎星にとって難しいのは、出さないことだった。
五千を超える水を抱えながら、コップ一杯だけを注ぐ。しかも、相手の身体にはぶつけず、手元の杖だけを狙う。
奎星はゆっくり目を開いた。
人形の手にある杖を見つめる。
「エクスペリアームス」
ぱしっ。
杖が抜けた。
一メートルほど飛び、床へ落ちる。
御影の眉が、ほんの僅かに動いた。
奎星が見る。
「どう?」
「もう一度」
「褒めてよ」
「もう一度」
人形の杖を戻す。
「エクスペリアームス」
成功。
三回目も成功。
四回目、御影は人形の手の角度を変えた。それでも杖は正確に飛んだ。
御影は何も言わない。
奎星は知らなかった。
この呪文は、ただ対象へ魔力をぶつければいいわけではない。相手を傷つけず、持っている物だけへ干渉する。奎星ほどの魔力量を持つ者にとって、その調整は普通の魔法使いよりも難しい。
五千を超える魔力を、百程度の魔法使いと同じ威力まで落とし、さらにそこから標的の一点だけへ通す。
それを、奎星は七度目で掴んだ。
御影は奎星の横顔を見る。
少年本人は、何も気づいていない。
「お、今の完璧じゃね?」
喜んでいる。
だから御影は言った。
「まだだ」
「えー!」
「次はプロテゴだ」
「おお!」
「まず俺が弱い呪文を撃つ。それを防げ」
「待ってました!」
奎星の顔が再び輝く。
御影が嫌そうに見る。
「その顔をやめろ」
「なんで!」
「遊びじゃない」
「分かってるって」
しばらく訓練は続いた。
防御。失敗。もう一度。
防御。強すぎて盾が大きく広がる。
絞る。弱すぎて盾が割れる。
もう一度。
五度。十度。十五度。
やがて、奎星の前に必要最低限の大きさの透明な盾が生まれた。
御影の弱い攻撃呪文が、それへ当たる。
ぱん、と乾いた音を立てて弾けた。
「おお……」
奎星は自分の盾を見る。
楽しい。
昨日まで知らなかったことが、今日できるようになる。それは、どうしようもなく楽しかった。
そして、楽しすぎた。
だから、また余計なことを言った。
「御影先生!」
「何だ」
「もっと派手な魔法教えてよ!」
教室が止まった。
日向が奎星を見る。目が言っていた。
――馬鹿。
楓の顔が引きつり、岳ですら口を開けている。伊織はそっと眼鏡を直し、巻き込まれないために視線を逸らした。
御影は動かなかった。
ただでさえ深い眉間の皺が、さらに深くなる。
奎星の笑顔が消えた。
「…………」
やべ。
そう思った。
だが、遅い。
「蓮根」
声は大きくなかった。むしろ低く、静かだった。そのほうが怖い。
「はい」
「派手な魔法とは何だ」
「いや……その」
「炎か?」
御影が一歩近づく。
「爆発か?」
奎星は答えられない。
「人を吹き飛ばせば満足か」
「違――」
「何のために、お前は魔法を学ぶ」
御影の目が、真っ直ぐ奎星を射抜いた。
「人を殺すためか?」
「違います」
今度は、奎星もすぐに答えた。
「なら何だ」
「…………」
「派手なら価値があるのか?」
御影の声が教室に響く。
誰も喋らない。
「大きな音が鳴れば、優れた魔法か。相手を血まみれにすれば強いのか。建物を壊せば才能か」
一つ一つの言葉が重かった。
奎星は目を伏せた。
そんなつもりではなかった。
誰かを傷つけたいわけではない。殺したいなんて、一度も思っていない。
ただ、凄い魔法を使いたかった。
派手なやつ。
できるようになったら、きっとスズメに見せられる。
「見てよ、すげえだろ」
そう言って驚かせて、もしかしたら褒めてもらえる。
二週間、何度も「調子に乗らないでください」と言われた。それでも、できたときにはほんの少し笑ってくれた。
だから、もっと凄いことができたら、もっと褒めてくれるかもしれない。
たった、それだけだった。
なのに、自分が今口にした言葉は、まるで違う意味に聞こえた。
奎星は自分の杖を見た。
神代榊。鬼火鳥の尾羽。
まだ二週間しか使っていない。それでも、手にはすっかり馴染んでいる。
五千を超える魔力量。測定不能。水晶を壊した。羽根を天井へ打ち込んだ。箒を暴走させた。
そして、最初の日にスズメが言った。
――あなたの魔法は危険です。
――いずれ周囲に危害を及ぼす可能性がある。
もし、あのとき誰かがいたら。
もし、昨日、箒で壁ではなく人へぶつかっていたら。
もし、今、あの人形ではなく楓や岳や伊織や日向へ、さっきのエクスペリアームスを全力で撃っていたら。
背中が冷たくなった。
「才能は時に凶器になります」
スズメの言葉が、今さら違う重さで胸へ落ちてくる。
奎星は杖を下げた。
「……すみませんでした」
御影は何も言わない。
奎星は深く頭を下げた。
教室が静まり返る。
「俺、誰かを傷つけたいとか、そういう意味じゃなくて……」
「分かっている」
奎星が少し顔を上げる。
御影の声は、もう怒鳴るものではなかった。
「頭を上げろ」
奎星はゆっくり姿勢を戻した。
御影は人形の手へ、もう一度杖を持たせる。
「蓮根」
「はい」
「この呪文を地味だと言ったな」
「……はい」
「エクスペリアームス」
御影は人形を見た。
「俺が禍祓官だった頃、一番使った呪文の一つだ」
奎星が目を上げる。
教室の生徒たちも、静かに聞いていた。
「ある冬、闇の魔法使いを追って、山梨の山中へ入ったことがある」
十年ほど前。御影がまだ現役の禍祓官だった頃、違法な呪物を製造し、一般人にまで被害を出していた男を追っていた。
雪の山。夜。仲間は三人。相手は一人。
それでも、追い詰められたのは禍祓官側だった。
「相手は俺より魔力量が少なかった」
御影は淡々と話す。
「だが、実戦経験が多かった」
木々。雪。暗闇。視界が悪く、どこから呪文が飛んでくるかも分からない。
仲間の一人が負傷し、もう一人の杖が折れた。
「俺は相手を殺せる呪文を知っていた」
御影は左頬の傷へ、無意識に指を触れた。
「撃つ機会もあった」
奎星は黙って聞いている。
「だが、撃たなかった」
「……なんで?」
御影は奎星を見る。
「捕まえるために行ったからだ」
静かな答えだった。
「殺すためではない」
奎星は何も言わない。
「相手が杖を振り上げた」
御影が自分の杖を持ち上げる。
「俺が使ったのは、エクスペリアームス」
一振り。
杖が敵の手から飛び、雪の中へ落ちた。
「それで終わった」
「…………」
「大爆発は起きなかった。炎も出なかった。山も吹き飛ばなかった」
御影は奎星を見た。
「だが、その一発で三人が生きて帰った」
奎星の指が、杖を少し強く握る。
「殺すことは、強さじゃない」
御影の声は低かった。けれど、誰の耳にもはっきり届いた。
「相手を壊すだけなら、力があればできる」
一拍置いて、御影は続ける。
「殺さずに止めるほうが、難しい」
奎星の瞳が僅かに揺れた。
「自分が怒っていても。怖くても。仲間が傷つけられていても。それでも必要な力だけを使う」
さっきの人形を思い出す。
強すぎれば、人形そのものが飛んだ。
弱ければ、杖は抜けない。
ちょうどいい力。それを、どんな状況でも選ぶ。
「だから、学ぶ」
御影は訓練用の人形を指した。
奎星は人形を見る。
つい数分前まで、退屈そうに見えていた。ただ杖を飛ばすだけの魔法。
今は、違って見えた。
御影が全員へ向き直る。
「続けろ」
空気が動き出した。
生徒たちが再び二人一組になる。日向、楓、岳、伊織もそれぞれの場所へ戻っていった。
御影も離れようとする。
その背中を、奎星は見た。
そして、手元の神代榊を見る。
巨大な魔力。天才。測定不能。
そんな言葉より、今は別のものが頭に残っていた。
必要な力だけを使う。
奎星は顔を上げた。
「御影先生!」
御影が振り向く。
奎星は杖を握り直し、その元へ走っていった。