残り、一分。
神代冥司は、自分の前に立つ魔法使いたちを見ていた。
御影玄一郎。真壁征士郎。斎賀玄弥。その周囲には、中央回廊を制圧して駆けつけた禍祓官たちがいる。
もう、一人ではない。右へ抜ければ誰かが立ち、左へ射線を取れば盾が重なる。姿くらましで距離を変えれば、現れた先へ別の杖が向く。
御影を突破できないのではなかった。
今は、御影を突破したとしても、その後ろに誰かがいる。
十一分。
地下へ向かう銀色の魔力は、すでに学校の大半へ広がっていた。神代の認識干渉が、一つずつ剥がされている。
残された時間。目の前の人数。地下までの距離。そして、そこへ辿り着いてから蓮根奎星の守護霊を止めるために必要な時間。
神代は計算した。
そして、答えを出した。
「…………」
杖を下ろす。
御影の目が鋭くなった。
「何をする気だ」
神代は答えない。
真壁もすぐに異変を察した。
「全員、構えろ!」
十一人の禍祓官が一斉に杖を上げる。
だが、神代は攻撃しなかった。
代わりに、自分の胸元へ左手を置いた。
「……?」
斎賀が眉を寄せる。
次の瞬間、神代の身体から魔力が消えた。
ほんの一瞬だった。
これまで周囲を圧迫し続けていた、底の見えない赤黒い魔力。それがまるで栓を抜かれた水のように、一気に神代の身体から足元へ落ちていく。
古代文字も、黒い光も、その中を走る赤い筋も、すべてが地面へ沈み、地下の霊脈へ流れ込んでいった。
「まずい!」
真壁が叫ぶ。
御影はもう走っていた。
「神代!!」
神代の膝が崩れる。
倒れる寸前、その胸元を御影が掴んだ。
抵抗はない。
「……!」
身体には触れられる。脈もある。呼吸もしている。
だが、その目は何も見ていなかった。
「こいつ……!」
斎賀が神代の顔を覗き込み、表情を変える。
「中身がいねえぞ!」
真壁は足元へ視線を落とした。地面の亀裂を通り、赤黒い文字が地下へ消えていく。
「意識ごとだ!」
御影が振り返る。
「何?」
「肉体を捨てた! 魔力も意識も、全部霊脈へ流した!」
「そんなことできんの!?」
「やってるだろう!」
御影の顔色が変わった。
地下。
奎星。
「蓮根――!」
だが、声は届かない。
すでに神代は、ここにはいなかった。
御影は神代の身体を地面へ押さえつけたまま怒鳴る。
「杖を取れ! 拘束しろ!」
鷲尾が即座に神代の杖を狙った。
「エクスペリアームス!」
杖が弾き飛ばされ、校庭の遥か先へ転がる。同時に深見と二人の禍祓官が拘束術を放った。
「インカーセラス!」
何十本もの縄が神代の両腕、両脚、胴へ巻きつく。さらに魔法封じの枷が手首へ嵌められ、足首にも二重の拘束具が掛けられた。
真壁はまだ杖を下ろさない。
「まだだ! こいつが戻った瞬間を考えろ!」
拘束が追加される。三重、四重。姿くらましを封じる術式まで神代の周囲へ展開されていった。
斎賀がその光景を見下ろす。
「……ここまでされる奴、初めて見た」
「黙って手伝え!」
「何すんの!?」
「黒曜石がないか探せ!」
「はい!」
身体は捕らえた。
だが、御影は地下から目を離せなかった。
神代冥司の最後の一手は、もう蓮根奎星へ届いている。
*
霊脈中枢で、銀の鴉が悲鳴を上げた。
「――っ!!」
奎星の身体が大きく仰け反り、スズメが咄嗟に支える。
「蓮根君!」
神代榊を握る両手が激しく震えていた。銀色に染まり始めていた霊脈の中心へ、突然、途方もない量の赤黒い魔力が逆流してくる。
伊織の周囲に浮かんでいた計測文字が一斉に乱れた。
「何これ……!?」
数字も、線も、魔力流の表示も、すべてが一瞬で狂う。
「さっきまでと量が違う!」
久世も杖を地面へ向けた。その顔から、すっと血の気が引く。
「上から全部来た……!」
「全部?」
「神代だよ!」
赤黒い魔力が、奎星の銀色へ食らいつく。
学校を支配するためではない。生徒を操るためでもない。
ただ一人。
蓮根奎星へ。
すべてが向いている。
スズメには分かった。
この感覚を知っている。
さっきも一度、神代は霊脈を逆流して奎星の精神へ侵入した。だが、今度は比べものにならない。
「蓮根君……!」
返事がない。
奎星はもう、現実の声を聞いていなかった。鼻から再び血が流れ、杖を握る指の間にも汗が滲んでいる。それでも神代榊だけは離さない。
スズメはその横顔を見つめた。
迷ったのは、ほんの一瞬だった。
「…………」
杖を抜き、奎星へ向ける。
以前、常隠島で二人は同じことをした。
守護霊を維持しながら、心を閉じる。自分はその扉へ入ろうとした。
あのとき、奎星は拒んだ。
――ここから先は入れない。
そして、本当に入れなかった。
だからこそ、今、彼の中で何が起きているのか分かる。
スズメは奎星の肩へ片手を置き、もう一方の手で杖を構えた。
「レジリメンス」
静かな光が、二人を繋いだ。
*
扉が揺れた。
どん。
奎星は黒い扉の前に立っていた。
どん!!
二度目の衝撃で、扉全体が内側へ大きく軋む。
「っ……!」
ここは、自分の心だ。
何度もスズメと訓練し、さっき神代を止めた場所。
ここから先へ、誰も入れない。
そのための扉。
どん!!!
三度目の衝撃は地面まで揺らした。
さっきとは違う。
霊脈の向こうから魔法を伸ばしているのではない。
神代自身が、扉の反対側まで来ている。
すべてを持って。
『蓮根奎星』
声が近い。
「…………」
『開きなさい』
「嫌だ」
どん!!
奎星の足が滑る。
扉は開かない。
だが、重い。
『もう時間がありません』
「知ってる」
『ならば――』
再び、扉が鳴った。
どん!!
『私も、手段を選んでいる場合ではない』
「そっちの都合だろ!」
奎星は両手を扉へ押しつけた。
黒い表面へ、銀色の亀裂が走る。
壊されているわけではない。
あれは自分の魔力だ。
守護霊の銀色。
扉の外には神代の赤黒い魔力。
内側には奎星の銀。
二つの力が、たった一枚の扉を挟んでぶつかり合っていた。
その少し後ろに、誰かが静かに立っている。
濃紺の教員衣。
顎の辺りで揃えた黒髪。
烏丸スズメ。
彼女は何も言わなかった。
奎星も振り返らない。
気づいていない。
ただ、扉の向こうにいる神代だけを見ている。
スズメは黙って、その背中を見つめていた。
どん!!
「……っ!」
奎星の腕が震える。
『いつまで、そうしているつもりですか』
神代の声が響いた。
『君は私を拒み続ける』
「当たり前だ!」
『しかし、拒むだけでは何も証明できない』
「…………」
『君は私を理解しようとすらしない』
奎星の眉が動いた。
以前にも、神代は似たようなことを言っていた。
自分には、彼の高尚な思想など理解できない。
人間は間違える。
だから、管理する。
奎星は目の前の扉を見た。
自分の手で押さえている。
閉じている。
入れない。
それでいい。
さっきスズメにも言われた。
追い出さなくていい。入れなければいい。
自分の仕事は、守護霊を飛ばすこと。
それだけだ。
「…………」
なのに。
奎星の手から、少しずつ力が抜けていった。
遠くに立つスズメの瞳が揺れる。
それでも、声は出さない。
止めない。
奎星は扉の取っ手へ手を掛けた。
『…………』
神代の声も止まる。
「お前さ」
奎星は小さく息を吐いた。
「ずっとそうなんだよ」
扉の鍵を一つ外す。
「俺のことも」
もう一つ。
「ばあちゃんのことも」
さらに一つ。
「御影先生も」
そして最後の鍵へ触れた。
「スズメちゃんも」
かちり、と音がする。
すべての鍵が外れた。
「勝手に決める」
神代が、初めて扉の向こうで黙った。
奎星は取っ手を握る。
「だったら」
扉を開いた。
「ちゃんと見ろよ」
黒い扉が大きく開く。
赤黒い光が一気に流れ込んだ。
その中を、奎星は自分から歩いていった。
*
扉の向こうには、何もなかった。
どこまでも暗い、黒い世界。
その中央に神代冥司が立っている。
濃い紫の和装。黒い羽織。長い黒髪。
何十年、あるいはそれ以上の年月を経ても変わらない顔。
奎星は止まらなかった。
一歩、二歩と、神代へ近づいていく。
神代はそんな奎星を見つめた。
「……賢明な判断です」
「違う」
「何がです?」
「入れたんじゃねえ」
奎星はさらに一歩進んだ。
「俺が出てきた」
「…………」
「お前に見せるために」
神代の目が僅かに細くなる。
奎星は数メートルの距離を残して止まった。
「お前の言ってること」
神代は黙って聞いている。
「分かんないわけじゃない」
遠くで、スズメの目が少し大きくなった。
神代も僅かに意外そうな顔をする。
奎星は続けた。
「人は間違える。怖くて変なことする。ムカついて人を傷つける。大事なやつ守りたくて、やっちゃいけないこともやる」
日向との初めての対人訓練が浮かぶ。
自分の魔法。
壁へ吹き飛ばされた友達。
「俺もやった」
神代は何も言わない。
「一学期、日向を怪我させた。調子乗って、勝ちたくて、自分の魔力もちゃんと分かってなくて」
今でも覚えている。
日向が倒れた音。
目を閉じた顔。
自分の手にあった杖が、急に怖くなった瞬間。
「俺、あれから魔法使えなくなった」
暗い世界に別の景色が滲んだ。
古い観測塔。
夕暮れ。
一人で座り込んでいた自分。
そして、息を切らして探しに来た女。
――見つけました。
「間違えたから、怖くなった」
景色が訓練場へ変わる。
御影玄一郎。
魔法人形。
杖だけを狙え。
強すぎる。
もう一度。
弱い。
もう一度。
必要な力だけ。
「怖くなったから、御影先生に教わった」
赤い光が走る。
人形そのものではなく、手元の杖だけが飛ぶ。
「怒られた」
御影の声が蘇る。
自分が怒っていても。
怖くても。
仲間が傷つけられていても。
それでも必要な力だけを使う。
「めちゃくちゃ怒られた」
奎星の口元が少しだけ上がった。
「今も怒られてるけど」
神代は笑わない。
奎星も、もう笑わなかった。
「でもさ」
一歩、近づく。
「それで、できるようになった」
*
景色が変わった。
二〇二六年五月二十八日。
東京。
何の変哲もない部屋には漫画が散らばり、飲み残した炭酸飲料が転がっている。スマートフォンの充電は十二パーセント。
そして、進路希望調査。
第一志望。
海賊。
「…………」
神代の眉が、ほんの僅かに寄った。
奎星はすぐに気づく。
「何その顔」
「……いえ」
「そこは昔スズメちゃんにも引かれた」
遠くで、スズメの瞳がほんの少し揺れる。
奎星は気づかない。
「俺さ、マホウトコロ来るまで」
自分の昔を見ながら、少し考える。
「別に、人生なんてどうでもよかった」
十七歳の誕生日。
やりたいことなどなかった。
高校も別に好きではない。進路も将来も、どうにかなる。
そんなものだった。
「父さんも母さんもいた。ばあちゃんのことも大好きだった。俺のこと大事にしてくれてたのも分かってる」
だから、孤独だったなどとは言わない。
「でも」
東京の景色が消える。
夜。
窓。
鴉。
食おうとした。
白い煙。
腕の中。
二十一歳の女。
――初めまして。
――国立魔法学校マホウトコロにて魔法史を担当しております。烏丸スズメと申します。
記憶の中の奎星が、呆気に取られて訊く。
「スズメ?」
「はい」
「鴉だったのに?」
「よく言われます」
神代が僅かにそちらを見る。
「……食べようとしたのですか」
「腹減ってたから」
「…………」
「そんな顔すんなよ!」
遠くでスズメが一瞬だけ目を閉じた。
「で」
奎星は続ける。
「そこから全部始まった」
*
南硫黄島。
初めて目にした、羊脂玉の校舎。海と森。
壊れた測定水晶。
強すぎるルーモス。
天井へ刺さった羽根。
箒に掌を叩かれ、調子に乗っては暴走して。
毎日、毎日。
「蓮根君」
「はい」
「強すぎます」
「はい」
「もう一度」
「はい」
「まだ強いです」
「マジ?」
「もう一度」
六回目。
ようやく必要なぶんだけ灯った光。
そして、一人で食べるはずだった夕食。
「スズメちゃんも食ってってよ」
「烏丸先生です」
「いいじゃん」
「仕事があります」
「一人で食うの寂しい」
「最初からそう言ってください」
そこへ、小さな小妖が現れる。
「レンコン」
「蓮根な」
天ぷら。
神代がその奇妙な名前へ反応した。
「なぜ天ぷらなのです」
「そこ説明すると長い」
「今、君の精神の中ですが」
「じゃ時間あるだろ」
「残り一分もありませんよ」
「そうだった!」
それでも記憶は止まらない。
初めてクラスへ入った日。
窓の外にいるスズメへ、奎星が親指を立てる。
スズメは少し周りを見てから、そっと親指を立て返した。
そして、日向。楓。岳。伊織。
昼休み。
「行くぞ」
「どこに?」
「戦場」
「怖いんだけど」
大食堂。
天ぷら。
海老が十一分で消える。
馬鹿みたいな話。くだらない言い合い。笑い声。
神代の周囲を、そんな記憶が次々と通り過ぎていく。
「俺」
奎星が言った。
「友達って、こういうもんなんだって知らなかった」
日向と競争する。
楓に怒られる。
伊織に静かに煽られる。
岳が何かを食べている。
奎星も一緒に食べている。
「一緒にいて、喧嘩して、ムカついて。次の日また普通に飯食って」
笑う。
「アホらしいだろ」
神代は何も答えなかった。
*
観測塔。
第零書庫。
黒曜石。
久我朔弥。
拘束されたスズメ。
死の呪文。
自分の掌。
青白い光。
「俺、あんときも間違えた」
「…………」
「本当は大人呼ぶべきだった」
御影を呼ぶ。
九重院へ伝える。
それが正しかった。
「でも行った」
スズメを見つけたかった。
「結果、死にかけた」
神代が口を開く。
「それこそ、私が言っていることです」
奎星が見る。
神代の声は穏やかだった。
「君は感情によって正しい判断を捨てた。烏丸スズメを助けたい。その一心で危険へ入り、自分の命まで失いかけた」
「うん」
「夏もそうでしょう」
景色が変わる。
山。
黒曜の狩人。
崩壊する結界。
スズメへ向けられた杖。
――セクタムセンプラ!
奎星は考えるより先に前へ出た。
血。
大量の血。
スズメの声。
泣きながら、自分の手を握っている。
「もう一度、君は自分の命を捨てかけた」
「うん」
「それを」
神代の目が細くなる。
「美しいとでも?」
奎星の顔から少しだけ笑みが消えた。
「違う」
「では?」
「あれは怒られた」
「…………」
「マジで」
目を覚ましたあとも、スズメは何度も確認した。
傷はない。
後遺症もない。
黒曜の呪いもない。
それでも、心配し続けた。
「俺、死んでいいなんて思ってない」
奎星は言う。
「今は特に」
夏。
生と死の境。
大樹。
青白い鬼火鳥。
八重子。
――またいつか聞くよ。
――ずっと先さ。
――それまで。
――好きに生きな。
「ばあちゃんに追い返されたからな」
奎星は小さく笑った。
「次会うの、ずっと先って約束した」
神代は黙っている。
「だから」
奎星は真っ直ぐ神代を見る。
「間違えたら、次は変える」
一学期。
一人で第零書庫へ行った。
夏。
危険を見つけても、今度は一人では行かなかった。
友達に話した。
先生へ話した。
大人を呼んだ。
それでもまた、別の失敗をした。
「全部一発で正解になんかなんねえよ」
奎星が言う。
「俺なんか特に」
「自覚はあるのですね」
「あるよ!」
少しだけ、いつもの声に戻る。
けれど、次の言葉は静かだった。
「でも」
記憶の中で鬼火鳥が飛ぶ。
八重子が、その首を撫でている。
飼い主でもない。
主人でもない。
従わせるわけでもない。
困ったときに助ける。
困ったときには助けてもらう。
互いの場所を守り、道を教える。
「支え合うって」
奎星は言った。
「たぶん、そういうことなんだよ」
*
神代が初めて奎星から視線を外し、周囲を流れていく記憶を見た。
夏休み。
東京。
机の上には課題。
「長えな」
そう言いながら、奎星は夏季課題を開く。
勉強が好きになったわけではない。ただ、二学期から寮へ入れる。
日向、岳、伊織。みんなと暮らせる。
だから、やる。
八咫祭。
五人で屋台を回って、馬鹿騒ぎをした。
水月庵。
スズメ。
あんみつ。
水羊羹。
葛切り。
約束。
二学期。
学生寮。
朝。
まだ全員が寝ている時間に、奎星だけ御影に叩き起こされる。
五時半。
「朝が終わってる!」
それでも朝練へ行く。
新しい魔法を教えてもらえば、すぐに楽しくなる。
朝食。
授業。
昼食。
また授業。
夕食。
風呂。
部屋へ戻れば日向がうるさくて、伊織が煽り、岳が何か食べている。
奎星も食べる。
「これ」
奎星が言った。
「俺、めっちゃ好きなんだよ」
何でもない一日だった。
大事件でもない。
特別な魔法でもない。
ただ学校へ行き、授業を受けて、友達と飯を食う。先生に怒られて、夜はくだらない話をして、眠る。
そして次の日、また起きる。
「前は、授業終わったら俺だけ森の小屋に戻ってた」
二学期。
寮へ向かって、四人と一緒に歩いている。
「今はみんなと帰れる」
奎星の目が少しだけ柔らかくなった。
「それだけで、めちゃくちゃ嬉しかった」
神代は黙っている。
「お前だったら」
奎星が訊く。
「こんなのも管理すんの?」
「…………」
「朝何時に起きるか。誰と飯食うか。誰と喧嘩するか。何にムカつくか」
「必要であれば」
神代は答えた。
「します」
奎星は小さく息を吐いた。
「やっぱ駄目だわ」
「なぜ?」
「つまんねえもん」
「人生を娯楽だと思っているのですか」
「思ってねえよ」
奎星は神代を見る。
「嫌なこともある」
日向を傷つけた。
久我。
黒曜の環。
鬼火鳥。
八重子。
死。
黒曜の門。
「怖いことも」
学校を奪われた。
友達から杖を向けられた。
常隠島へ逃げた。
帰る道が消えた。
「ムカつくことも」
斎賀。
神代。
補習。
朝五時半。
「最後二つを並べるのですか」
「どっちもムカつくし」
「……そうですか」
「でも」
奎星が笑った。
「楽しいんだよ」
*
星迎祭。
夜の学校中へ、無数の星が浮かんでいる。
日向。楓。岳。伊織。澪。冬真。鳴海。
教師たち。
白峰。
小妖。
法被を着た天ぷら。
「レンコン」
「蓮根な」
花火。
観測塔。
下手くそなダンス。
小さな銀色の星。
同じものを二人で持って、笑った。
神代の目が僅かに動く。
そして、黒い門。
偽物の東京。
死んだはずの八重子がいる。
父と母がいる。
日向たちもいる。
何も失わない世界。
そこではスズメに、何の迷いもなく好きだと言えた。
「お前、一回見せたよな」
奎星が言う。
「俺が欲しいもん、全部ある世界」
「ええ」
「ばあちゃんも生きてて。父さん母さんもいて。みんな近くにいて」
神代は奎星を見る。
「幸福だったでしょう」
「うん」
即答だった。
神代の眉が僅かに動く。
「めちゃくちゃいたかった」
記憶の中の奎星は、泣きそうな顔で言っていた。
――俺だって、ここにいたいよ……。
「でも」
神代榊を自分へ向ける。
――これじゃねえ。
偽物の世界が砕けていく。
「本物じゃなかった」
「本物である必要が?」
神代が問う。
「幸福を感じられるのであれば、それでいいでしょう。苦痛も、後悔も、失敗もない。失う必要もない」
奎星は少し考えた。
それから、首を横へ振る。
「やだ」
「なぜ?」
「だって」
笑う。
「俺が選んでねえじゃん」
神代の目が僅かに細くなる。
「ばあちゃんが生きててほしい。日向たちとずっといたい。スズメちゃんにもいてほしい」
一つずつ。
全部、本当だ。
「でも、そのために偽物にするのは違う」
奎星は神代へもう一歩近づいた。
「いなくなるのが怖いからって、最初から全部決めるのも違う。失敗しないように、何も選ばせないのも違う」
「選択が人を傷つけます」
「知ってる」
「愛する者のためなら、人は規則すら破る」
「俺、やりそう」
「でしょうね」
「でも」
奎星はまっすぐ言った。
「そのときは止めてもらう」
神代が黙る。
「俺が間違ったら、日向が止める。楓がぶん殴る」
「殴りはしないのでは?」
「たまに本気で痛い」
遠くで、スズメの口元がほんの少しだけ動いた。
「伊織は一番ムカつく正論言う。岳は……」
少し考える。
「飯食わせる」
「…………」
「たぶん」
「そこだけ自信がないのですね」
「岳だから」
奎星は笑った。
「御影先生は怒鳴る。死ぬほど走らせる。真壁さんはもっとちゃんと説明してくれる」
少し考えてから。
「斎賀は……」
さらに考える。
「今は一旦仲間」
神代の表情が、ほんの僅かに変わる。
「そして」
奎星の声が少しだけ柔らかくなった。
「スズメちゃんが」
遠くで、スズメの瞳が揺れる。
「俺を戻してくれる」
*
銀の鴉。
最初は、八重子の記憶では出せなかった。
幸せだった。
けれど最後には悲しくなった。
もう、いないから。
そのとき、スズメが言った。
過去の一瞬だけにこだわらなくてもいい。
――今後も続いていくものを、思ってみてはどうですか。
「俺の守護霊」
銀色の光が暗闇へ広がっていく。
「何で出たと思う?」
マホウトコロ。
羊脂玉の校舎。
二年二組。
日向。楓。岳。伊織。
喧嘩して、笑って、夜中まで話す。
寮で寝る。
朝になれば御影に走らされる。
小妖。
天ぷら。
鬼火鳥。
星迎祭。
「一個の、すげえ幸せな思い出じゃなかった」
銀の鴉が、奎星たちの頭上を飛ぶ。
「これからだった」
学校へ戻ったら、また補習をする。
また飯を食う。
観測塔へ行くかもしれない。
日向たちの話をする。
くだらないことで怒られる。
たぶん、また何度でも。
「それで出た」
神代は銀の鴉を見上げていた。
「俺さ」
奎星の声が静かになる。
「明日が楽しみなんだよ」
*
神代はしばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくり奎星を見る。
「君は、運がよかっただけです」
「…………」
「朝比奈日向は生きていた。烏丸スズメも生きている。君自身も、二度、死の淵から戻った」
声は相変わらず穏やかだった。
「だから、そう言える」
奎星は黙って聞く。
「次は?」
「…………」
「次の失敗で、誰かが死んだら?」
今度は神代が一歩近づいた。
「朝比奈日向が」
奎星の目が僅かに動く。
「水無瀬楓が」
「…………」
「岩戸岳が。榊伊織が」
一人ずつ、名前が挙がる。
「御影玄一郎が」
奎星の指に力が入る。
「烏丸スズメが」
胸が痛む。
「それでも君は」
神代の瞳が真っ直ぐ奎星を射抜く。
「間違えてもいい、と言えますか」
沈黙が落ちた。
奎星は、すぐには答えなかった。
笑いもしない。
強がりもしない。
ただ、考えた。
そして。
「……怖いよ」
神代の目が僅かに動く。
「めちゃくちゃ怖い」
昨夜。
常隠島。
布団の中で震えていた。
自分が失敗したら。
全部が無駄になる。
大人たちが死ぬかもしれない。
友達が死ぬかもしれない。
スズメが、いなくなるかもしれない。
「絶対なんてないって、分かってる」
御影も言っていた。
保証などない。
どれだけ強くなっても、必ず守れる魔法などない。
「俺、これからも間違えると思う」
「…………」
「多分いっぱい」
「自信満々に言うことではありませんよ」
「うるせえな!」
少しだけ笑った。
そして奎星は、もう一度神代を見る。
「でも」
声は真っ直ぐだった。
「間違えたっていいんだ」
神代の瞳が細くなる。
「いいわけがないでしょう」
「いいんだよ」
「間違いによって人は――」
「傷つく。知ってる」
奎星は遮った。
「後悔する。泣く。取り返せないこともある」
一度、息を吸う。
「でも」
日向が笑う。
楓が怒る。
岳が食べる。
伊織が呆れる。
御影が怒鳴る。
真壁が見ている。
斎賀がふざける。
柊木が静かに前へ出る。
九重院が、動けない身体で学校の道を教える。
天ぷらが、小さな声で呼ぶ。
――レンコン。
常隠島。
切れたはずの道。
そこから届いた。
一人、一人。
繋がっていった。
真壁が人を集めた。
白峰が来た。
斎賀が戻った。
小妖が内側から道を開いた。
伊織が地図を作った。
冬真が鳴海を待った。
柊木たちが教師を救った。
九重院が導管の場所を教えた。
御影たちが神代を止めた。
禍祓官たちが集まった。
日向たちは、行きたいのを我慢して地下に残った。
そしてスズメは、今も奎星の隣にいる。
「お前の計画」
奎星が言った。
「マジですごかったと思う」
神代の目が少しだけ見開かれる。
「学校取って、生徒全員敵にして、先生捕まえて、外から入れなくして。魔法省まで中から崩そうとして」
奎星は笑わない。
「普通なら、終わってた」
神代も否定しなかった。
「でも」
奎星は銀の鴉を見る。
「みんな来た」
常隠島。
御影。
仲間。
白峰。
小妖。
昔の三人。
「お前が計算できなかったやつ」
奎星の口元が少しだけ上がる。
「全部、人だった」
神代が黙る。
「一人だったら無理だった」
奎星も、それは認める。
「俺なんか、今でも御影先生たちより全然弱いし」
学校のどこかで、自分のために大人たちが立っている。
「今日だって、俺一人じゃ何もできてねえ」
自分は守護霊を飛ばしているだけだ。
その十二分を、みんなが作ってくれた。
「でも」
奎星は自分の胸を軽く叩いた。
「一人じゃないから、ここまで来た」
*
神代の目が、ゆっくりと奎星へ戻る。
「それが、友情ですか」
奎星は一瞬止まった。
「……多分」
「多分?」
「だって誰かに定義教わったわけじゃねえし」
神代は、ほんの僅かに息を吐いた。
奎星が言う。
「でも、お前は知らない」
「何を?」
「友情」
神代の目が静かに細くなる。
「断定するのですね」
「する」
奎星は迷わなかった。
「愛情も」
空気が変わった。
遠くで、スズメが僅かに息を止める。
神代は何も言わない。
奎星は続けた。
「俺も知らなかった」
「…………」
「いや」
少し考えて、言い直す。
「父さんも母さんも好きだった。ばあちゃんも。大事にされてた。だから、愛されてなかったって話じゃない」
昔の家。
適当な母親。
静かに話を聞く父親。
八重子。
その全部が大切だった。
「でもさ」
奎星の目が柔らかくなる。
「マホウトコロ来るまで、こういうの知らなかった」
誰かが傷ついたら、自分まで痛い。
誰かが戻ってきたら、泣くほど嬉しい。
嫌われたと思っただけで、一日中胸が重くなる。
喧嘩しても、次の日にはまた隣へ行きたい。
「人って、こんなに大事になるんだって」
奎星は笑った。
「知らなかった」
神代は、奎星の記憶の中を見ている。
アホらしい。
くだらない。
騒がしい。
何度も失敗する。
同じことで怒られる。
魔法法規、六十一点。
三択なのに、四番。
神代が本当に一瞬だけ目を閉じた。
「そこまで見なくてよくない!?」
「君が開いたのでしょう」
「選べねえの!?」
「精神を開くとはそういうことです」
「先に言えよ!」
「聞きませんでしたから」
「ムカつく!」
遠くで、スズメが口元を押さえた。
声は出さない。
けれど、ほんの少し笑っていた。
奎星は気づかず、また神代を見る。
「だから」
今度の声は、さっきよりずっと穏やかだった。
「間違えたっていい。完璧じゃなくていい」
日々が流れていく。
朝。
昼。
夜。
失敗して、笑って、怒られて、やり直す。
「俺」
胸の奥が温かい。
「そんな毎日が好きなんだ」
銀の光が、さらに広がった。
*
そして、その中にはいつも一人の女がいた。
最初の日。
鴉。
最初の二週間は、毎日。
「起きていますか」
魔法を教えに来た。
一人で食べるはずだった夕食も、一緒に食べた。
「あなた、ただ一人で食事をしたくないだけでしょう」
「それもある」
窓の外。
友達が欲しいと話した。
初めてクラスへ入る日。
――あなたなら大丈夫です。
親指を立て返した。
日向を傷つけ、魔法が怖くなった。
誰にも見つからない場所へ隠れた。
それでも探しに来た。
観測塔。
海。
夕暮れ。
そこで、初めて自分の失敗を話してくれた。
――一緒に探します。
第零書庫。
拘束された彼女が叫ぶ。
「逃げてください!」
それでも行った。
死の呪文。
爆発。
自分の身体で庇った。
夏。
東京。
スズメは美琴に、自分の話をしていた。
八咫祭では一緒に歩いた。
水月庵。
あんみつ。
水羊羹。
そして、まだ食べていなかった葛切り。
死にかけながら。
「まだだからな」
そう言った。
生きて戻った。
約束通り、食べた。
「これ食うために俺生き返ったのかもしれない!」
「もっと大切な理由を持ってください」
笑った。
二学期。
星迎祭。
花火。
観測塔。
ダンス。
星灯石。
同じ、銀色の星。
そして、あの夜。
「私は、あなたを嫌ってなどいません」
スズメの声は震えていた。
「あなたは……私にとって、とても大切な人です」
奎星の胸が、苦しくなるほど温かくなる。
「私から、離れないでください」
抱きしめた。
泣いた。
「よかった」
それしか言えなかった。
朝凪島。
守護霊。
二羽の銀の鴉。
「同じじゃん」
「見れば分かります!」
「顔赤くね?」
「日差しです」
そして、常隠島。
夜。
海。
怖いと話した。
スズメが手を握った。
小さく、冷たい手。
握り返した。
銀色の星が二つ。
顔が近づく。
あと少し。
本当に、あと少しだった。
遠くで日向と楓が喧嘩を始めた。
二人で慌てて離れた。
そして、笑った。
そのとき。
奎星は思った。
綺麗だと。
大切だと。
けれど、それだけでは足りなかった。
愛おしい。
そう、思った。
「…………」
遠くに立つ烏丸スズメの瞳が、大きく揺れた。
奎星は知らない。
自分の記憶を、今、その本人が見ていることを。
彼女の視線にも気づかない。
ただ一人、神代冥司だけが気づいた。
神代の目が、奎星の肩越しへ向く。
遠く、銀色の光の中に、一人の女が立っている。
濃紺の教員衣。
黒髪。
何も言わず、奎星を見つめている。
神代はしばらく彼女を見ていた。
それから奎星へ視線を戻す。
「…………」
ほんの僅かに、声が変わった。
「愛しているのか……?」
奎星は振り返らなかった。
神代だけを見る。
一秒も迷わない。
「愛してる」
はっきりと言った。
スズメの瞳が揺れた。
息が止まる。
何かを言いかけたように唇が僅かに開いたが、声は出なかった。
奎星は気づかない。
ただ初めて、自分の中にあったものへ、ちゃんと名前をつけた。
「スズメちゃんのこと」
もう一度。
今度は少しだけ笑って。
「愛してるよ」
スズメが目を伏せる。
その瞳に、銀色の光が揺れていた。
*
神代冥司は黙っていた。
長い時間のように感じた。
実際には、数秒もなかったのかもしれない。
やがて、小さな音がした。
「……ふ」
奎星が眉を上げる。
「何?」
神代は笑っていた。
初めて見る笑い方だった。
誰かを見下すものでも、計画が予定通り進んだときの静かな笑みでもない。
本当に、少しだけ可笑しそうに。
「ふふ……」
「何だよ!」
神代は銀の鴉を見る。
日向。
楓。
岳。
伊織。
御影。
真壁。
斎賀。
柊木。
九重院。
天ぷら。
白峰。
禍祓官。
そして遠くにいるスズメ。
すべてを見た。
「なるほど」
「何が」
神代はゆっくり奎星を見る。
「私が見誤ったものが」
静かな声だった。
「ようやく、分かりました」
奎星の眉が寄る。
「力ではなかった。血筋でも、古代魔術でも、神代榊でもない」
銀色の光の中に、人がいる。
一人。
また一人。
「人は」
神代がほんの少し目を細める。
「随分と、非合理ですね」
奎星の口元が上がった。
「今更?」
神代が、また笑った。
そして、遠くにいるスズメをもう一度だけ見る。
「それじゃあ」
奎星へ向き直った。
「私は勝てませんね」
その瞬間。
遠くから声が響いた。
*
「十二分!!」
伊織が叫んだ。
*
銀の光が、世界を満たした。
神代の足元が崩れる。
「…………」
奎星が目を見開いた。
足から。
指先から。
濃い紫の衣も。
すべてが細かな灰のようにほどけていく。
「神代」
呼ぶ。
神代は、もう抵抗しなかった。
赤黒い魔力も出ない。
銀色の風の中で、黒髪が少しずつ消えていく。
その顔は、最後まで笑っていた。
「…………」
奎星は何も言えない。
神代の胸が消える。
肩。
首。
そして最後に、その目だけが残った。
ほんの一瞬。
神代の視線が、奎星の向こうへ向く。
遠く。
スズメ。
そして消えた。
一粒の塵となって、銀の光へ溶ける。
神代冥司の姿は、奎星の心から完全に消えた。
*
霊脈中枢で、銀の鴉が翼を広げた。
今までより大きく、一度、羽ばたく。
その光が中央石柱からすべての溝へ流れ込んでいった。
東。
西。
本館。
大食堂。
教室。
回廊。
地下。
塔。
校庭。
学校中を銀色の光が駆け抜け、赤黒い魔力が一斉に剥がれ落ちる。
胸元に黒い靄を残していた最後の生徒たちからも、その影が抜けていった。
「……え」
一人。
「ここ……」
また一人。
「九重院校長……?」
何が起きていたのか、すぐにすべてを理解できるわけではない。記憶もまだ混乱している。
それでも、もう神代を校長だと思わせるものはどこにもなかった。
誰を敵だと思うか。
誰を信じるか。
何をするか。
その判断は再び、一人一人のものへ戻った。
*
奎星の目が開いた。
最初に見えたのは、暗い地下。
石柱。
銀の光。
それから。
「蓮根君!」
スズメ。
目の前にいる。
「…………」
奎星の膝が崩れた。
スズメが両腕で支える。
「蓮根君!」
「うわ……」
力がない。
神代榊を握る指まで、もうまともに動かなかった。
奎星はそのまま、スズメへ体重を預ける。
「重いです……!」
「ごめん……」
「謝る前に立ってください!」
「無理……」
「では座って!」
「どっち……」
「もう!」
その声。
いつもの声だ。
奎星が少しだけ笑った。
スズメの肩へ額が触れる。
「……終わった?」
小さな声。
スズメは答えようとして、一瞬だけ言葉を失った。
さっき聞いた。
――愛してる。
――スズメちゃんのこと。
――愛してるよ。
本人は知らない。
自分があの場所にいたことを。
知らない。
スズメの瞳が、またほんの僅かに揺れる。
それでも今は、教師の声で答えた。
「はい」
奎星の肩へ腕を回す。
「終わりました」
奎星の目がゆっくり閉じた。
「……そっか」
「寝ないでください!」
「寝てない……」
「今、目を閉じたでしょう!」
「疲れた……」
「知っています!」
日向が走ってくる。
「奎星!」
楓。
岳。
澪。
倉橋。
久世。
全員が奎星の周りへ集まった。
「おい!」
「大丈夫!?」
「奎星」
「息してる?」
「してるわよ!」
「俺本人いるんだけど……」
声が重なる。
うるさい。
本当に、うるさい。
奎星は目を閉じたまま笑った。
こういうのだ。
こういうのが、好きだった。
*
校庭。
倒れていた神代冥司の指が、僅かに動いた。
その変化を御影は見逃さない。
「戻るぞ」
真壁も杖を向けた。
斎賀。
鷲尾。
深見。
周囲の禍祓官。
全員の杖先が、一斉に神代へ向く。
神代の瞼がゆっくり開いた。
最初に見えたものは、朝の空ではなかった。
御影玄一郎。
顔は傷だらけ。
左腕には血が滲み、長衣もぼろぼろだった。
それでも、立っている。
その左右には真壁と斎賀。
さらに十一人の禍祓官。
神代は僅かに身体を動かそうとした。
動かない。
両手には魔法封じ。
胴には拘束縄。
脚も二重、三重に拘束されている。
周囲には姿くらましを封じる術式。
自分の杖もない。
神代は一度だけ視線を動かした。
「……随分と」
声が少し掠れている。
「厳重ですね」
斎賀が笑う。
「そりゃお前、放っといたら学校浮かすじゃん」
真壁が言った。
「喋るな、玄弥」
「なんで俺!?」
御影は神代から目を離さない。
「十二分だ」
神代が御影を見る。
「…………」
御影の呼吸は、まだ荒い。
身体中が痛む。
立っていること自体、決して楽ではない。
それでも神代の前に立っている。
「一秒も」
御影が言った。
「通してない」
神代はしばらく何も答えなかった。
やがて目を閉じる。
ほんの少しだけ、口元が動いた。
「……そのようですね」
御影の杖は下がらない。
誰の杖も下がらない。
それでも、もう戦闘音は聞こえなかった。
*
本館。
九重院紫苑が目を開いた。
砕けた窓の向こう。
空には、赤黒い文字が一つもない。
羊脂玉の壁を、銀色の光が静かに流れている。
柊木志乃も同じ光景を見ていた。
「……校長」
九重院はしばらく何も言わなかった。
やがて、本当に小さく息を吐く。
「戻りましたね」
誰が、とは言わなかった。
学校も。
生徒も。
先生も。
全部。
*
霊脈中枢。
伊織は計測文字をずっと見ていた。
十二分。
零秒。
そこから数字は進まない。
もう、進む必要がないから。
その横では、日向がまだ奎星へ騒いでいる。
「おい! お前寝んなって!」
「寝かせて……」
「今寝たら死亡フラグっぽいだろ!」
「縁起悪いこと言うな!」
楓が日向の頭を叩いた。
「痛っ!」
岳が奎星を見る。
「腹減った?」
「……ちょっと」
「じゃ大丈夫」
「判断基準それ?」
澪が呆れたように笑う。
久世はその場へ座り込み、大きく息を吐いた。倉橋も壁へ背中を預ける。
「……十二分」
小さく呟く。
たった、十二分。
けれど、その十二分のために何日も探した。
逃げた。
集めた。
考えた。
教わった。
失敗した。
もう一度やった。
道がなければ作った。
一人で足りなければ、人を集めた。
昔の仲間を。
新しい仲間を。
先生を。
生徒を。
別の学校を。
小妖まで。
繋いだ。
蓮根奎星一人の力で取り戻したのではない。
御影玄一郎一人でもない。
真壁征士郎でも。
斎賀玄弥でも。
九重院紫苑でも。
柊木志乃でもない。
誰一人、一人ではできなかった。
だから、ここにいる。
奎星はスズメの腕の中で、うっすらと目を開けた。
天井。
石。
その向こうにある学校。
日向たちの声。
遠くでは、まだ混乱している生徒たちの声や、走る足音、教師の声が響いている。
小妖の声まで、どこかから聞こえた気がした。
「……スズメちゃん」
「はい」
「帰ってきた?」
スズメは奎星を見る。
星迎祭。
黒い門。
奪われた学校。
常隠島。
あの海で、ずっと帰りたかった場所。
スズメの目がゆっくり細くなる。
「はい」
今度は教師としてだけではない。
もっと柔らかな声だった。
「帰ってきましたよ」
奎星が笑った。
それだけだった。
完璧ではない。
校舎は壊れている。
窓はない。
校庭は滅茶苦茶。
怪我人もいる。
黒曜の環の残党もいる。
神代の罪も。
斎賀の罪も。
これから全部、向き合わなければならない。
明日から、きっと面倒なことばかりだ。
また失敗するかもしれない。
怒られる。
喧嘩する。
泣く。
怖くなる。
それでも直す。
またやる。
そして、きっと笑う。
そんな毎日を。
蓮根奎星は、心の底から愛していた。