マホウトコロ   作:西野圭吾

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シーズン5 夢盗りと硝子の記憶
第1話 硝子の音


 

二〇二六年十二月三十一日。

 

大晦日。

 

日本中の学生が、宿題を後回しにしたり、家族と出かけたり、炬燵で蜜柑を食べたりしながら、一年の終わりを迎えている頃。

 

南硫黄島。

 

国立魔法学校マホウトコロ。

 

魔法史研究室。

 

「納得いかねえ!!」

 

蓮根奎星の声が響いた。

 

窓の外には冬の海が広がっている。南の島とはいえ十二月も終わりとなれば風は冷たく、羊脂玉の校舎を抜ける潮風にも冬らしい鋭さが混じっていた。

 

普段なら生徒の声で騒がしい回廊も、今日は静かだった。冬季休暇に入り、ほとんどの生徒は帰省している。日向も、楓も、岳も、伊織も、みんな今頃、それぞれの家で年末を過ごしている。

 

なのに。

 

「何で大晦日に勉強してんの俺!?」

 

奎星は机へ突っ伏した。

 

目の前には教科書、問題集、大量の付箋、そして赤、赤、赤、赤。スズメの筆によって、容赦なく修正された答案が並んでいる。

 

向かいに座る烏丸スズメは、何事もなかったように次の頁を捲った。

 

「あなたに冬休みがないからです」

 

「言い方!」

 

「事実です」

 

「大晦日だぞ!?」

 

「存じています」

 

「十二月三十一日!」

 

「日付も存じています」

 

「あと十二時間くらいで来年!」

 

「時計の読み方まで教える必要はなさそうで安心しました」

 

「そういう話してねえ!」

 

奎星は椅子の背へ倒れ込んだ。

 

左手には、クリスマスにスズメから貰った腕時計がある。銀色で、派手ではない。防水、耐魔法、簡単な方角表示。そして魔力を通せば、暗闇でも文字盤が光る。

 

貰った日から、毎日つけていた。

 

嬉しかった。ものすごく。

 

ただし、まさかその時計で、大晦日の補習時間を確認することになるとは思っていなかった。

 

「なあ」

 

「何です?」

 

「俺、学校救ったよな?」

 

「救いましたね」

 

「神代倒したよな?」

 

「あなた一人ではありませんが」

 

「守護霊で全校生徒戻したよな?」

 

「ええ」

 

「古代魔術も使える」

 

「はい」

 

「死の呪文も消した」

 

「以前の話ですね」

 

「黒曜の門にも入った」

 

「入りました」

 

「常隠島でも頑張った」

 

「頑張りましたね」

 

「星帰り作戦の中心人物!」

 

「そうですね」

 

奎星は両手を机へつき、立ち上がった。そして胸を張る。

 

「こんな偉大な学生、世界中探しても他にいねえぜ!」

 

静寂が落ちた。

 

スズメは数秒、奎星を見た。

 

「いましたよ」

 

「え?」

 

「英国に」

 

さらりと言った。

 

「あなたと同じくらいの年齢で、闇の帝王を倒した少年が」

 

奎星の胸が、少しだけ萎んだ。

 

「…………誰?」

 

「ハリー・ポッター」

 

「比較対象が世界史なんだよ!」

 

「自分から世界中と言ったのでしょう」

 

「もうちょい日本国内で探せよ!」

 

「条件を後から変えないでください」

 

「そいつ大晦日に補習した!?」

 

「知りません」

 

「じゃあ俺の勝ち!」

 

「何の勝負ですか」

 

「大晦日に勉強してる偉大な魔法使い選手権!」

 

「参加者一名では?」

 

「優勝じゃん!」

 

スズメは深くため息を吐いた。

 

「では優勝者には追加問題を差し上げます」

 

「辞退します」

 

「受賞後の辞退は認めません」

 

「権力の乱用!」

 

「教育です」

 

「大晦日だぞ!?」

 

「何度目ですか、それ」

 

奎星は再び机へ倒れた。

 

「日向たち今頃遊んでんだろうなぁ……」

 

「でしょうね」

 

「楓は家族と年越し」

 

「おそらく」

 

「伊織は本読んでそう」

 

「あり得ますね」

 

「岳は?」

 

「食べています」

 

即答だった。

 

奎星が顔を上げる。

 

「それは俺もそう思う」

 

「でしょう?」

 

二人とも、少しだけ笑った。

 

静かな学校で聞こえるのは、海と風、ときおり軒先の銀鈴が鳴る音、そして筆が紙の上を走る音だけだった。

 

ほんの一週間前、クリスマスに大食堂で自分だけ冬休みがないと知ったときは、本気で世界の終わりだと思った。けれど、実際に残ってみれば、案外そこまで悪くなかった。

 

朝は遅くていい。御影は学校を空ける日が多く、朝練も一時休止。大食堂は縮小営業だが、小妖たちは普通に飯を作ってくれる。

 

そして、補習はほとんどスズメと二人だった。

 

「…………」

 

奎星が顔を上げる。

 

スズメは答案を読んでいる。

 

「何です?」

 

「いや」

 

「何か言いたそうですね」

 

奎星は少し考えた。

 

「スズメちゃんは帰んなくていいの?」

 

筆が止まる。

 

「烏丸先生です」

 

「大晦日までそれ言う?」

 

「来年も言います」

 

「年跨ぐの!?」

 

スズメは答案へ視線を戻した。

 

「私は教師ですから」

 

「いや教師も休みだろ」

 

「仕事が残っています」

 

「俺?」

 

「主に」

 

「俺じゃん!」

 

「それ以外にもあります」

 

スズメは淡々と言う。

 

けれど、奎星は少しだけ眉を寄せた。

 

「……ごめん」

 

あまりにも素直だった。

 

今度はスズメが顔を上げる。

 

「何がです?」

 

「いや」

 

奎星は頭を掻いた。

 

「俺の補習で大晦日まで残ってんだろ」

 

「…………」

 

「だったらまあ……悪いなって」

 

スズメはしばらく奎星を見た。

 

五月、初めて会った頃なら、こんなことを言う少年ではなかった。いや、言えない少年だった。自分が迷惑を掛けても笑って誤魔化す。怒られれば逃げる。都合が悪ければ寝る。そういう十七歳だった。

 

今も、かなりそうではある。

 

「……では」

 

スズメが言った。

 

「早く終わらせてください」

 

奎星が顔を上げる。

 

「え?」

 

「今日の予定分が終われば、補習は終了です」

 

「マジ?」

 

「今日の、ですよ」

 

「大晦日の?」

 

「はい」

 

「何時?」

 

「あなた次第です」

 

奎星の目が変わった。

 

教科書を開き、鉛筆を握り、背筋を伸ばす。

 

「先生」

 

「はい」

 

「次どこ」

 

スズメが瞬きをする。

 

「急にやる気になりましたね」

 

「年越しまで勉強とか絶対嫌だからな!」

 

「理由はともかく、良いでしょう」

 

「来い!」

 

「問題に喧嘩を売らないでください」

 

スズメが紙を一枚差し出した。

 

奎星は受け取った。

 

そして五分後。

 

「これ何!?」

 

「先ほど説明しました」

 

「聞いてねえ!」

 

「聞いていました」

 

「記憶にない!」

 

「それは聞いていなかったという意味ではありません」

 

「難しい!」

 

「頑張ってください。英国には十七歳で闇の帝王を――」

 

「そいつ出すの禁止!!」

 

静かな研究室へ、今日も二人の声が響いていた。

 

 

同じ頃。

 

東京から数百キロ離れた山間部。雪の積もった古い屋敷に、三人の男がいた。

 

御影玄一郎、真壁征士郎、そして斎賀玄弥。

 

床には男が一人、倒れていた。

 

「終わりか?」

 

斎賀が杖を肩へ乗せる。

 

御影は屋敷の奥を見る。

 

「まだ二階を確認していない」

 

「逃げた奴はいない」

 

真壁が窓際へしゃがみ込む。床に薄く残った転移術式を指でなぞった。

 

「少なくともここから転移した痕跡はない」

 

「じゃ全員?」

 

斎賀が訊く。

 

真壁は周囲を見る。

 

一人、二人、三人。拘束、武装解除、魔法封じ。合計六人。

 

「六名」

 

「少な」

 

「残党だ」

 

御影が言う。

 

「神代が消えた以上、以前の規模では動けん」

 

「それでもいるんだな」

 

斎賀が少しだけ笑った。

 

「しぶといねえ」

 

神代冥司との戦いから数週間。黒曜の環は崩れた。中心を失い、魔法省内部へ入り込んでいた協力者も次々と拘束され、物資を運んでいた施設、黒曜石を加工していた拠点、連絡網、隠れ家が一つずつ潰されている。

 

だが、全員が捕まったわけではない。

 

そもそも黒曜の環という呼び名自体、明確な構成員名簿が存在する組織ではなかった。神代に直接従っていた者、金で雇われていた者、思想へ共鳴していた者、一度だけ仕事を請け負った者、黒曜石の運搬だけをした者。互いの顔すら知らない者もいる。

 

だから、残った糸を一人ずつ探し、切っていく。

 

「征士郎」

 

御影が呼ぶ。

 

真壁が見る。

 

「こいつ、意識ある」

 

「名前は」

 

壁際に拘束された男は、四十代ほど。黒い外套をまとい、右腕には古い黒曜石の腕輪が嵌められている。

 

真壁が近づき、しゃがみ込んだ。

 

「所属していた集団について聞く」

 

男は睨んだ。

 

「…………」

 

返事はない。

 

「神代冥司との接触は」

 

沈黙。

 

「マホウトコロ襲撃について、何を知っている」

 

男の目が、ほんの僅かに動いた。

 

真壁は見逃さない。

 

「学校の生徒へ行われた認識干渉について」

 

男が初めて口を開いた。

 

「……知らねえ」

 

「知らない?」

 

「俺は学校には行ってねえ」

 

「それは聞いていない」

 

真壁の声は淡々としている。

 

「術式について、何を知っている」

 

「知らねえって言ってんだろ」

 

「誰が準備した」

 

「神代だろ」

 

「どのように」

 

「…………」

 

男が黙った。

 

真壁の目が細くなる。

 

「誰から説明を受けた」

 

「だから知らねえ」

 

「では、なぜ神代が生徒の認識を書き換えると知っている?」

 

「…………」

 

男の表情が止まった。

 

御影が見る。斎賀も見る。

 

男は何かを言おうとした。口を開き、閉じる。

 

「…………あ?」

 

真壁が眉を寄せる。

 

「どうした」

 

「待て」

 

男の顔から、少しずつ血の気が引いていく。

 

「俺……」

 

「何だ」

 

「知ってた」

 

「何を」

 

「学校のガキどもの頭を……変えるって」

 

真壁は動かない。

 

「誰から聞いた」

 

「…………」

 

「誰だ」

 

「…………分からねえ」

 

斎賀の笑みが消えた。

 

御影も一歩近づく。

 

男は額を押さえた。

 

「いや、違う」

 

「何が違う」

 

「聞いたんだよ」

 

「誰に」

 

「だから……」

 

男の呼吸が少しだけ速くなる。

 

「……誰だ?」

 

静寂が落ちた。

 

真壁がゆっくり立ち上がる。

 

「もう一度訊く」

 

声が低くなる。

 

「生徒の認識を変更する計画を、誰から聞いた」

 

「…………」

 

男が目を閉じる。記憶を探している。

 

その顔を、三人が見つめた。

 

「会った」

 

男が言った。

 

「いつ」

 

「……襲撃の前」

 

「どこで」

 

「知らねえ」

 

「知らない?」

 

「場所じゃねえ!」

 

男が苛立ったように叫ぶ。

 

「思い出せねえんだ!」

 

真壁の表情が変わった。

 

「会ったことは覚えている?」

 

「ああ!」

 

「会話した?」

 

「した!」

 

「内容は」

 

「…………」

 

また止まる。

 

「認識を書き換える」

 

男が小さく言う。

 

「それだけは知ってる」

 

「方法は」

 

「知らねえ」

 

「対象は」

 

「生徒」

 

「範囲は」

 

「…………」

 

「術式は」

 

「…………」

 

「実行手順は」

 

「…………」

 

男の手が震えた。

 

「何でだ……」

 

自分の記憶へ、初めて恐怖していた。

 

「俺……知ってたはずだ」

 

真壁は御影を見る。

 

御影も何も言わない。

 

斎賀が男の前へしゃがんだ。

 

「おい」

 

男が顔を上げる。

 

目の前にいるのは、斎賀玄弥。元、黒曜の環。

 

「俺の顔」

 

斎賀は笑った。

 

「知ってる?」

 

「……斎賀」

 

「正解」

 

「裏切り者が」

 

斎賀の笑みが少し深くなる。

 

「元気あんじゃん」

 

「…………」

 

「じゃあさ」

 

斎賀は杖を指先でくるりと回した。

 

「もうちょい頑張って思い出そうぜ」

 

男が睨む。

 

「知らねえっつって――」

 

「俺」

 

斎賀が楽しそうに言った。

 

「十二年くらい、そっち側にいたから」

 

杖先が男の頬のすぐ横の壁へ当たる。

 

こつん。

 

「人がどういう脅し方されたら喋りたくなるか、結構詳しいんだよね」

 

「玄弥」

 

真壁の声。

 

「何?」

 

「やめろ」

 

「まだ何もしてない」

 

「だからやめろ」

 

斎賀は真壁を見る。

 

「冗談じゃん」

 

御影が言った。

 

「顔が冗談じゃない」

 

「玄一郎まで?」

 

男の額に汗が浮かぶ。

 

斎賀がまた男を見る。

 

にこり。

 

「安心しろよ」

 

一拍。

 

「征士郎が止めてくれるうちはな」

 

「玄弥!」

 

「はいはい」

 

斎賀は立ち上がった。

 

男は、さっきより明らかに青ざめていた。

 

真壁が額を押さえる。

 

「お前を連れてくるんじゃなかった」

 

「役立ったじゃん」

 

「何がだ」

 

「顔色よくなった」

 

「悪くなったんだ!」

 

御影は二人を無視して、男へ訊いた。

 

「思い出せる最後の場面は」

 

男が御影を見る。

 

しばらく呼吸を整えた。

 

「…………部屋」

 

「どんな」

 

「暗かった」

 

「誰かいたか」

 

「いた……と思う」

 

「何人」

 

「分からねえ」

 

「声は」

 

「……覚えてない」

 

御影の目が細くなる。

 

「その次は」

 

「…………」

 

男は長く黙った。

 

そして眉を寄せる。

 

「音」

 

三人が見る。

 

「何の音だ」

 

真壁が訊いた。

 

「分からねえ」

 

「思い出せ」

 

「やってる!」

 

男は目を閉じた。

 

暗い部屋。人。何かを聞いた。知った。認識を書き換える計画。

 

そのはずなのに、そこだけ何もない。黒い。空白。

 

ただ。

 

「…………硝子」

 

真壁の筆が止まった。

 

「何?」

 

「硝子だ」

 

男が目を開ける。

 

「硝子が……」

 

指を動かす。何か薄いもの同士を触れさせるように。

 

「……当たる音」

 

ちん。

 

そんな小さな音。

 

「それだけ?」

 

「ああ」

 

「人の声は」

 

「ない」

 

「顔」

 

「ない」

 

「場所」

 

「ない」

 

「何を説明された」

 

「ない」

 

「硝子の音だけ?」

 

男はゆっくり頷いた。

 

「……それだけだ」

 

三人の間に沈黙が落ちた。

 

 

一時間後。

 

別の場所、魔法省の臨時拘束区画。

 

二人目。

 

「覚えていません」

 

「何を」

 

「その……認識を変える魔法についてです」

 

「計画自体は?」

 

「知っていました」

 

「誰から」

 

「分かりません」

 

「その直前の記憶は」

 

「…………音が」

 

真壁の手が止まる。

 

「何の音だ」

 

「硝子……だと思います」

 

 

三人目。

 

「硝子です」

 

 

四人目。

 

「何か……細いものがぶつかるみたいな」

 

「材質は」

 

「硝子」

 

 

五人目。

 

「ちん、って」

 

 

六人目。

 

「…………硝子の音」

 

 

夜。

 

魔法省の人気のない会議室に、六枚の調書が並んでいた。

 

真壁は一枚ずつ見ている。御影は壁際で腕を組み、斎賀は椅子を後ろ向きに使って背もたれへ腕を乗せていた。

 

「全員同じか」

 

御影が言う。

 

「ああ」

 

真壁が答える。

 

「所属していた班も違う」

 

一枚。

 

「活動場所も」

 

次。

 

「神代との距離も違う」

 

次。

 

「直接会ったことがある者もいれば、一度もない者もいる」

 

次。

 

「それでも」

 

最後の一枚を机へ並べる。

 

「生徒の認識変更について訊いた瞬間、同じ箇所で記憶が途切れる」

 

御影の目が細くなる。

 

「偶然ではない」

 

「だろうな」

 

斎賀が天井を見る。

 

「俺も黒曜にいたけど、こんなの知らねえ」

 

真壁が見る。

 

「本当に?」

 

斎賀も見る。

 

しばらく目が合う。

 

「…………」

 

「何」

 

「お前が言うと説得力がない」

 

「ひどくない?」

 

「八月まで何を聞いても黙っていただろう」

 

「昔の話じゃん」

 

「四か月前だ!」

 

「年越したら去年だよ」

 

「まだ越してない!」

 

御影が低く言う。

 

「静かにしろ」

 

二人とも黙った。

 

御影が調書を一枚取る。

 

「忘却魔法か」

 

「可能性はある」

 

真壁が言う。

 

「だが不自然だ」

 

「どこが」

 

「消え方が綺麗すぎる」

 

真壁の指が証言の一箇所をなぞる。

 

「全員、前後の出来事は覚えている。計画が存在したことも。結果も知っている」

 

「でも」

 

斎賀が言う。

 

「どうやったかだけがない」

 

「そうだ」

 

「誰から聞いたかも」

 

「ああ」

 

「そこだけ抜いた?」

 

「そう見える」

 

御影は調書から目を離さない。

 

「神代がやったと思うか」

 

真壁はすぐには答えなかった。

 

神代冥司。認識そのものを学校規模で書き換えた男。記憶へ干渉できても、何もおかしくはない。

 

だが。

 

「……分からん」

 

真壁は正直に言った。

 

「神代なら可能だったかもしれない」

 

一拍置いて、六枚の調書を見る。

 

「だが」

 

すべて同じ、硝子の音。

 

「神代がやったという証拠はない」

 

斎賀の指が背もたれを、とん、とん、と叩く。

 

「しかもさ」

 

「何だ」

 

「変じゃね?」

 

真壁が見る。

 

「何が」

 

「記憶消すなら」

 

斎賀が笑わずに言った。

 

「全部消しゃいいじゃん」

 

静寂。

 

御影の目が斎賀へ向く。

 

「計画があったことまで残す必要ないだろ」

 

「…………」

 

「認識を変えるって知識そのものは残ってる」

 

斎賀は机を見る。

 

「でも」

 

指が六枚の紙を示す。

 

「方法だけない」

 

真壁の顔が少しずつ険しくなる。

 

「隠したいのは」

 

御影が低く言った。

 

「神代の計画ではない」

 

三人は同じ答えへ辿り着く。

 

「方法だ」

 

真壁が言った。

 

窓のない会議室で、時計の針だけが静かに進んでいた。

 

十二月三十一日、午後十一時二十分。

 

新しい年まで四十分。

 

机の上には六人分の証言がある。どれも同じ場所で記憶がない。

 

そして、その空白の縁にだけ、小さな硝子の音が残っていた。

 

 

午後十一時五十九分。

 

マホウトコロの校庭。

 

「寒っ!」

 

奎星が叫んだ。

 

「静かにしてください」

 

スズメが言う。

 

「いや寒いだろ!」

 

「十二月ですから」

 

「南の島じゃん!」

 

「南硫黄島にも冬はあります」

 

二人は校庭にいた。

 

補習は午後四時十三分に終了した。奎星は最後の問題を書き終えた瞬間、両手を上げ、椅子から飛び上がり、そのまま研究室を飛び出そうとして、スズメに答案を提出するよう止められた。

 

その後、夕食に年越し蕎麦と天ぷらを食べ、小妖たちが作った料理を味わっているうちに、気づけば十一時を過ぎていた。

 

そして今、校庭。

 

空には無数の星が浮かんでいる。街灯のほとんどない南硫黄島では、夜空が異常なほど近い。

 

奎星は左腕を見る。

 

スズメから貰った時計は、十一時五十九分五十秒を示していた。

 

「よし」

 

「何がです?」

 

「あと十秒」

 

スズメも空を見る。

 

遠く、一般社会ではテレビ、神社、寺、街、様々な場所で新年を待っている。

 

ここには二人。それから校舎の中に、少しだけ残った教師と小妖。

 

静かな年越しだった。

 

「七!」

 

奎星が突然叫んだ。

 

「何ですか」

 

「カウントダウン!」

 

「声が大きいです」

 

「六!」

 

「蓮根君」

 

「五!」

 

「何をするつもりです?」

 

奎星が膝を曲げた。

 

スズメの眉が寄る。

 

「四!」

 

「蓮根君」

 

「三!」

 

「まさか」

 

「二!」

 

スズメが完全に察した。

 

「やめなさい」

 

「一!」

 

奎星が全力で跳んだ。

 

「ゼロォォォォ!!」

 

午前零時、一月一日。

 

空中で、蓮根奎星は満面の笑みを浮かべていた。

 

「年越した瞬間、地球にいなかった!!」

 

着地。

 

どん。

 

静寂。

 

スズメは何も言わなかった。

 

「…………」

 

奎星が見る。

 

「何その顔」

 

「…………」

 

「スズメちゃん?」

 

「二〇二七年」

 

スズメが深く、深く息を吐いた。

 

「最初に目にしたものが、それですか」

 

「それって何だよ!」

 

「十七歳の男子学生が大晦日の校庭で跳んでいる姿です」

 

「伝統だぞ!?」

 

「初めて聞きました」

 

「一般社会じゃみんなやる!」

 

「全員ではありません」

 

「やったことないの!?」

 

「ありません」

 

奎星が信じられないという顔をする。

 

「人生損してる!」

 

「年越しの瞬間に跳ばなかった程度で人生は損ないません」

 

「じゃ来年一緒にやろうぜ!」

 

「嫌です」

 

即答。

 

「一年後の予定もう断られた!」

 

「その予定なら空けません」

 

「まだ三百六十四日あるぞ!」

 

「何日あっても嫌です」

 

奎星は笑った。

 

「明けましておめでとう!」

 

あまりにも急だった。

 

スズメが少しだけ目を丸くする。

 

「…………」

 

それから、小さく笑った。

 

「はい」

 

冬の風が吹き、銀色の星が瞬く。復旧した校舎を背に、二人は静かな夜の中に立っていた。

 

「明けましておめでとうございます、蓮根君」

 

「今年もよろしく!」

 

「まず補習を終わらせましょうね」

 

奎星の笑顔が止まった。

 

「え?」

 

「今日は終わりましたが」

 

スズメはにこりと笑った。

 

「冬季補習そのものは、まだ続きます」

 

「…………」

 

一月一日、午前零時十七秒。

 

新年最初の蓮根奎星の言葉は、

 

「うそだろおおおおおおおおおおおおおお!!」

 

だった。

 

静かなマホウトコロへ声が響く。

 

スズメは呆れながら、笑っていた。

 

その頃、遠く離れた魔法省の机には、六枚の証言が並んでいる。

 

誰が、何を奪ったのか。

 

何のために、記憶を消したのか。

 

まだ、誰も知らない。

 

ただ、全員が一つだけ覚えていた。

 

ちん。

 

薄い硝子と硝子が触れ合うような、小さな音。

 

新しい一年は、そんな誰にも気づかれない音と共に始まった。

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