二〇二七年一月一日。
午前八時十二分。
冬季休暇中のマホウトコロは、昨日と変わらず静かだった。
いつもなら朝食を終えた生徒たちが行き交う回廊にも人影はほとんどなく、窓の外には冬の海が青く広がっている。風が吹くたび、軒先に吊られた銀色の鈴だけが小さく鳴った。
そんな静かな新年最初の朝、魔法史研究室に蓮根奎星の声が響いた。
「初詣行こうぜ!!」
机の向こうで書類を読んでいた烏丸スズメは、顔すら上げなかった。
「嫌です」
「まだ一緒に行こうって言ってねえ!」
「言うでしょう」
「言うけど!」
奎星は机へ両手をついた。
「東京行こうぜ!」
「嫌です」
「何で!?」
「補習中だからです」
「元日だぞ!?」
「昨日も似たようなことを聞きました」
「昨日は大晦日! 今日は元日! 全然違う!」
「一日しか経っていません」
「年が変わったんだぞ! 二〇二七年! 新年! 正月! 初詣!」
「補習です」
「流れをぶった切るなよ!」
スズメは何事もなかったように羽根筆を動かした。
研究室の机には、昨日まで使っていた教科書や問題集、奎星のノートが積まれている。その横には、新年早々とは思えない量の赤字が入った答案が置かれていた。
対する奎星は、朝食を食べ終えてから十五分ほどしか経っていないにもかかわらず、もう限界を迎えたような顔をしていた。椅子から立ち上がり、スズメの机の右側へ回り込む。
「スズメちゃん」
無視。
今度は左側へ回り込む。
「スズメちゃーん」
無視。
正面へ戻る。
「烏丸せんせー」
筆が止まった。
奎星の顔がぱっと明るくなる。
「反応した!」
「その呼び方なら最初から反応します」
「じゃあ初詣!」
「話は別です」
「東京!」
「補習」
「屋台!」
「補習」
「おみくじ!」
「補習です」
「強えな今日の先生!」
スズメはようやく顔を上げた。
「蓮根君。あなた、昨日まで『大晦日にまで勉強する人間なんかいるか』と散々文句を言っていましたよね」
「今も言いたいよ」
「なら勉強してください」
「だからこそ息抜きが必要なんだよ。人間は適度に休まないと効率が落ちる」
「今朝の補習を始めて十五分です」
奎星は左腕を見る。銀色の腕時計。クリスマスにスズメから貰ったものだった。防水、耐魔法、方角表示。魔力を流せば暗闇でも文字盤が淡く光る。受け取った日から、ほとんど毎日つけている。
「違う。もう十七分経ってる」
「二分増えただけです」
「十七分も集中した」
「あなたの場合、最初の十分は集中するまでに使っています」
「じゃあ今ちょうど集中できる時間じゃん」
「では勉強してください」
「論破された……」
奎星は諦めたように自分の席へ戻り、教科書を開いた。
三秒後。
「初詣」
「蓮根君」
「はい」
「静かに」
「はい」
五秒後、奎星が再び口を開いた。
「屋台あるぞ」
「静かに」
「たこ焼き」
「…………」
「焼きそば」
「…………」
「じゃがバター」
「…………」
「水羊羹」
スズメの筆が止まった。
奎星の口元が、にやりと上がる。
「今反応した」
「水羊羹は初詣の定番ではありません」
「あるかもしれないじゃん」
「ありません」
「探そうぜ」
「そのために初詣へ行くのは目的が逆でしょう」
「あ、それもそうか」
「馬鹿ですね」
「新年最初の悪口!」
「昨日の午前零時を過ぎてからすでに何度か言っています」
「じゃあ今年何回目?」
「数えていません」
「俺は覚えてる」
「勉強内容もそのくらい覚えてください」
また負けた。
奎星は教科書へ視線を落とした。しばらくして、本当に問題を解き始める。スズメも再び書類へ戻り、研究室に静けさが戻った。
紙を捲る音。
鉛筆が走る音。
遠くの海鳴り。
それだけだった。
スズメは羽根筆を動かしながら、机の向こうにいる少年へ一度だけ目を向けた。
文句は言う。
逃げようともする。
隙があれば遊ぼうとする。
そこは五月から何も変わっていない。
それでも、六月、初めて補習をした頃とは、確かに違っている。
あの頃の奎星は、本当に勉強そのものを嫌っていた。教科書を開けば眠り、分からない問題は飛ばし、三択問題へ存在しない四番を書く。魔法法規は六十一点で、合格点との差はたった一点だった。
夏休みに入ってからは分からない場所を自分で整理し、わざわざ東京からマホウトコロまで質問へ来た。二学期は朝に御影から実技を叩き込まれ、放課後にはスズメの研究室で筆記をやった。
星迎祭。
黒曜の門。
常隠島。
星帰り作戦。
普通なら勉強など手につかなくなってもおかしくない出来事が続いた。それでも、戻ってくればまた机へ向かった。
逃げながら。
文句を言いながら。
結局。
「……蓮根君」
「ん?」
奎星が顔を上げる。
「何?」
「いえ」
「絶対なんか考えてた」
「考えていません」
「俺のこと見てたじゃん」
「教師ですから」
「成長したなぁ、とか?」
スズメの眉が少し上がる。
「自分で言いますか?」
「してるだろ?」
「以前よりは」
「ほら!」
「以前が酷すぎたのです」
「褒めてから落とすのやめろよ!」
スズメは小さく笑った。
奎星がまた教科書へ戻る。
「……初詣行きてえなぁ」
その声だけは、さっきより少し小さかった。
スズメの手が止まる。
昨日の夜、二人で年越し蕎麦を食べた。校庭で新年を迎え、奎星は年越しの瞬間に全力で跳びながら「地球にいなかった」と喜んでいた。
教師と生徒。
冬季補習。
ただ、それだけのはずだった。
なのにクリスマスから今日までを振り返ると、妙に一緒にいる時間が長い。
「…………」
――それだけですか?
頭の中で、美琴の声がした気がした。
消す。
即座に。
スズメは静かに机の引き出しを開いた。
「蓮根君」
奎星が勢いよく顔を上げた。
「行く!?」
「まだ何も言っていません」
「その前置き、条件出すやつじゃん」
「どうして分かるのですか」
奎星は笑った。
「半年一緒にいるから」
その一言に、スズメの指が僅かに止まる。
半年。
五月二十九日。
深夜一時。
鴉の姿で窓を叩いた。
最初は、ただの特例編入生だった。
異常な魔力量を持ち、危なっかしく、人の話を聞かず、教師を教師と呼ばない少年。
それが半年。
「……確認テストをします」
「確認テスト?」
「はい」
スズメは紙の束を机へ置いた。
奎星の顔が、露骨に曇る。
「何で初詣の話からテスト出てくんの?」
「条件です」
「条件?」
「今日の確認テストで八十点以上取れたら、午後から初詣へ行っても構いません」
沈黙。
奎星はテスト用紙を見る。
スズメを見る。
また用紙を見る。
「……マジ?」
「はい」
「東京?」
「そうですね」
「屋台ある?」
「参拝する場所ですから、あるでしょうね」
「おみくじも?」
「もちろん」
「二人で?」
ほんの一瞬、スズメの返事が遅れた。
「他に誰がいるのです?」
奎星の顔が一気に明るくなった。
「やる!」
椅子を引き、座る。教科書、ノート、鉛筆を一瞬で揃えた。
「どこ出る?」
あまりの変わりように、スズメが瞬きをする。
「……急にやる気が出ましたね」
「初詣かかってるからな」
「昨日までの補習にはあなたの単位がかかっていたのですが」
「それとこれとは違う」
「どう違うのです?」
「初詣は今日なんだよ!」
「一月中に行く人も大勢います」
「元日が一番初詣だろ!」
「日本語が怪しくなっています」
「範囲!」
「昨日までに扱った内容すべてです」
「全部!?」
「魔法史、魔法法規、高等魔法理論、呪文学の筆記。基本問題を中心に五十問」
奎星の顔が少し引きつった。
「記述ある?」
「あります」
「部分点」
「あります」
「名前は?」
「書いてください」
「名前で点くれる?」
「つきません」
「けち」
「名前を書いて加点される試験など聞いたことがありません」
奎星は鉛筆を握った。
「八十か」
「はい」
「余裕」
スズメは知っていた。この少年がこう言ったときほど、だいたい余裕ではない。
*
午前八時三十分、勉強開始。
十二分後。
「スズメちゃん!」
「何です?」
「十八世紀の地方魔法自治制度と十九世紀の魔法省地方支局制度って、結局何が違う!?」
「九月に説明しました」
「記憶が年越した!」
「意味が分かりません」
二十分後。
「緊急避難と緊急魔法使用許可!」
「以前もやりましたね」
「分かってる!」
「では何が分からないのです?」
「違い!」
「分かっていないではありませんか」
午前九時十五分。
「この頁絶対出る?」
「教えません」
「先生」
「教えません」
「スズメちゃん」
「教えません」
「スズメさん」
「気持ち悪いのでやめてください」
「烏丸様」
「もっと嫌です」
「烏丸大先生」
「一点減らしますよ」
「横暴!」
「テストはまだ始まっていません」
「未来の点を奪うなよ!」
文句を言いながらも、奎星の鉛筆は止まらなかった。
問題集を解き、間違えれば戻る。ノートの端には、自分なりの言葉で短く書く。
《緊急避難=ヤバい状況が今ある》
その下へ。
《緊急使用許可=制度側から事前・事後に認められるやつ》
スズメが見つけた。
「もう少し正確に書けませんか?」
「俺が分かればいいんだよ」
「試験ではそのまま書かないでくださいね」
「駄目?」
「『ヤバい状況』は減点します」
「厳しいなぁ」
「法律です」
さらに一時間が過ぎ、午前十時前になった。
奎星が両腕を伸ばす。
「頭から煙出てない?」
「出ていません」
「脳みそがすごい速度で回ってる」
「普段も回してください」
「オーバーヒートする」
「今が適温です」
「冷たいもの食いたい」
「休憩しますか?」
奎星が時計を見る。それから、教科書を見る。少し迷った。
「……いや、続ける」
スズメが顔を上げる。
「十五分くらい休んでも構いませんよ?」
「いい」
奎星は鉛筆を握り直した。
「八十取らないと駄目なんだろ」
先ほどまでとは少し違う声だった。
「だったら、やる」
スズメは何も言わなかった。机の端に置いてあった湯呑みだけを、奎星の近くへ動かす。
「せめてお茶は飲んでください」
「ありがと」
奎星が一口飲む。
「熱っ!」
「ゆっくり飲んでください」
「先に言って!」
「湯気が見えています」
「魔法で冷やしてよ」
「自分でできますよね?」
「今は勉強してるから」
「都合の良いときだけ学生らしくなりますね」
スズメが笑う。
奎星も、少しだけ笑った。
*
午前十一時、口頭確認。
「では、一般社会において魔法使いが公衆の面前で魔法を使った場合、原則として何が問題になりますか」
「国際魔法使い機密保持法」
「具体的には?」
「一般人に魔法社会の存在がバレること」
「その言い方は試験では使わないでください」
「露見すること」
「はい」
「おお、俺賢い」
「次です」
「褒めて」
「一問正解しただけです」
「一問も積み重なれば百点になる」
「今日は百点満点ですよ」
「じゃあと九十九問!」
「五十問です」
「半分になった!」
「計算がおかしいです」
魔法法規、高等魔法理論、呪文学。ところどころ詰まる。けれど、以前のように完全に黙ることは少なくなった。
分からないときでも、途中までは答える。
何が分からないのかを言う。
スズメも、そのたびに答えそのものではなく、考えるための手掛かりだけを返した。
「魔力を大量に流し込めば、強い呪文になりますか?」
「ならない」
奎星は即答した。
「理由は?」
「出力だけ上げても術式が崩れるから。必要な形に必要な量を通さないと駄目」
「誰に習いました?」
「御影先生」
「よく覚えていましたね」
奎星が少し得意げになる。
「何百回も言われてるからな」
「何百回も言われなければ覚えなかったのですか?」
「褒めるところで終われよ!」
午前十一時五十分。普段なら、とっくに「腹減った」と十回くらい言っている時間だったが、今日は一度だけだった。しかも、言ったあとも教科書を閉じなかった。
スズメはそれに気づいていた。
「蓮根君」
「ん?」
「少し休みましょう」
「でも」
「昼食です」
「…………」
奎星の腹が鳴った。
ぐううううう。
研究室に、結構な音で響く。
沈黙。
スズメを見る。
「身体が賛成してる」
「そうですね」
「飯!」
やっぱり。
そこだけは変わっていなかった。
*
午後零時十分、縮小営業中の大食堂。
冬休みで生徒はほとんどいないが、小妖たちは普段通り奎星を迎えた。
「レンコン!」
「おう!」
天ぷらが両手を上げる。
その直後、奎星の手に教科書があることへ気づいた。
「…………」
奎星を見る。
教科書を見る。
また奎星。
「何その顔」
「レンコン?」
「俺だよ」
「ニセモノ?」
「本人!!」
天ぷらが恐る恐る近づき、奎星の頬をぺちぺち叩く。
「何してんだよ!」
「ホンモノ?」
「本物!」
向かいでスズメが口元を押さえた。
奎星が即座に見る。
「今笑った!」
「笑っていません」
「絶対笑った!」
天ぷらが教科書を指す。
「ベンキョウ?」
「そう」
「レンコン、ベンキョウ」
「するよ!」
「エライ」
奎星が感動したような顔になる。
「お前だけだよ、素直に褒めてくれんの!」
「食事中に教科書を広げないでください」
「スズメちゃんも褒めて!」
「八十点取ったら」
「絶対取る」
スズメは湯呑みを持ち上げた。
「楽しみにしています」
奎星の動きが少しだけ止まった。
「…………」
「何です?」
「いや」
視線を教科書へ戻す。
耳が少し赤い。
スズメは気づいた。
けれど何も言わなかった。
*
午後二時三十分、魔法史研究室。
机の上には確認テストが置かれていた。五十問。制限時間は六十分。
奎星は問題用紙の前で深く息を吸った。
「八十」
「はい」
「七十九は?」
「七十九です」
「実質八十じゃない?」
「違います」
「七十九・五」
「小数点の点数はありません」
「四捨五入」
「しません」
「先生の愛」
スズメの指が一瞬止まった。
「……ありません」
「一点くらい」
「始めてください」
「けち」
「零点にしますよ」
「減った!」
スズメは壁の時計を見た。
「午後二時三十一分。始め」
問題用紙を開く。
第一問。日本魔法史。分かる。
第二問。近代魔法法制。いける。
第三問。少し怪しい。
第四問。分かる。
第五問。
奎星の鉛筆が止まった。
三択。
一。
二。
三。
「…………」
頭のどこかに、四、という数字が浮かぶ。
一学期。
存在しない選択肢。
教室中の爆笑。
六十一点。
奎星はゆっくり首を横へ振った。
「ないない」
二番へ丸をつける。
スズメの眉がほんの少し動いた。聞こえていた。
二十分。
三十分。
四十分。
冬だというのに、奎星の額には薄く汗が浮かんでいる。
記述問題。
《一般社会における魔法使用と記憶修正について、術者個人による対応が原則として認められない理由を述べよ》
「…………」
夏休み、東京から学校へ来た日。付箋だらけの教科書。
――事故の場合は、まず担当部署へ。
思い出す。
書く。
次。
古代魔術。
ここは速かった。
スズメが答案を横から見ていたなら、多分止めただろう。必要以上に長い。好きな分野へ来ると、書きすぎる癖はまだ直っていなかった。
呪文学。
術式構造。
魔力制御。
御影に何度も言われた。
魔力量だけでは魔法は決まらない。
形。
量。
精度。
状況。
言葉へ変える。
残り五分。
鉛筆が速くなる。
残り一分。
最後の記述。
「うわ待って」
「声を出さないでください」
「はい!」
残り十秒。
奎星が一番上を見る。
「名前!」
空欄。
「うおおおお!」
「声!」
蓮。
根。
奎。
星。
最後の一画。
「終了です」
「危なっ!」
奎星は鉛筆を置き、そのまま机へ突っ伏した。
「……死んだ」
「お疲れさまでした」
「燃え尽きた」
「採点します」
奎星がゆっくり顔を上げる。
「今?」
「初詣へ行くなら、今採点しなければ間に合わないでしょう」
「確かに」
スズメが赤い羽根筆を持つ。
奎星は椅子ごと少し近づいた。
「見てていい?」
「静かにできるなら」
「できる」
第一問。
丸。
奎星の顔が明るくなる。
第二問。
丸。
第三問。
バツ。
「それ違うの!?」
「静かに」
第四問。
丸。
第五問。
丸。
「よし!」
「静かに」
第六問。
丸。
第七問。
バツ。
「ああっ!」
「静かに!」
「無理だろこれ!」
「なら離れてください」
「見たい!」
採点は進む。
丸。
バツ。
部分点。
一。
二。
また丸。
途中から奎星は声を出さず、指だけで点数を数え始めた。
「…………」
スズメが見る。
「何をしています?」
「邪魔しないで」
「私が採点しているのですが」
「今六十二」
「数えないでください」
「六十四」
「蓮根君」
「六十六」
「集中できません」
「俺も心臓に集中できない!」
最後の記述。
スズメの筆が止まった。
一行。
二行。
読み返す。
一部足りない。
けれど、主旨は合っている。
部分点。
一点。
集計。
奎星が息を止める。
スズメはもう一度計算した。
「…………」
答案用紙の上に、赤い数字を書く。
七十九。
奎星の表情が止まった。
「…………え?」
答案を見る。
七。
九。
もう一度見る。
変わらない。
「七十九?」
「はい」
「あと一?」
「そうですね」
奎星の身体から力が抜けた。椅子へ沈み、そのままゆっくり机へ額をつける。
ごん。
「…………」
スズメは少し困った。
絶対に文句を言うと思っていた。
七十九は実質八十だ。
誤差だ。
一問くらい見逃せ。
先生の愛でなんとかしろ。
それくらいは言うと思っていた。
でも、何も言わない。
「蓮根君?」
「……うん」
「惜しかったですよ」
「うん」
「魔法法規も、以前に比べればかなり――」
「六十一?」
「……はい」
「それ今聞きたくない」
「すみません」
奎星は答案を引き寄せた。
間違えた箇所を見る。
「ここ?」
「そこです」
「この言葉が入ってたら?」
「一点追加でした」
「…………」
次。
「これは?」
「結論自体は合っています。ただ根拠が不足しています」
「一点?」
「もう少し書けていれば」
「…………」
また額をつける。
ごん。
「七十九……」
これまで奎星は、テスト結果そのものでここまで落ち込んだことがなかった。
一学期の六十一点など、合格と分かった瞬間に校長室で叫んだ。一点上だった。それだけで勝利だった。
今日は逆。
あと一点。
足りなかった。
「初詣……」
「…………」
「行きたかった……」
その声には、冗談の響きがほとんどなかった。
スズメは答案へ目を落とした。
七十九点。
正式に採点すれば、七十九。
そこを変えるべきではない。
それは分かっている。
奎星が顔を上げた。
少しだけ笑おうとする。
「まあ、仕方ねえか」
「…………」
「条件八十だったし」
答案を机へ戻す。
「ごめん。もう言わない」
本気で悔しかったのだろう。
だからこそ、諦め方まで以前とは違った。
六月なら、絶対に食い下がっていた。
スズメは少し考えた。
「蓮根君」
「ん?」
「一点だけ、追加問題を出します」
奎星が止まる。
「……追加?」
「確認テストの正式な点数は七十九点です。これは変えません」
「うん」
「ただし」
スズメが答案を指で軽く叩く。
「今日の外出条件についてだけ、もう一問。正解できれば八十点相当とします」
奎星の目が少しずつ開く。
「マジ?」
「今回だけですよ」
「何でも来い」
椅子へ座り直す。背筋まで伸びた。
「古代魔術でも法規でも御影先生の年齢でも」
「最後は試験範囲ではありません」
「四十七!」
「聞いていません」
スズメは少し笑う。
そして尋ねた。
「魔法使いが魔力を扱う際、最も大切なことは何ですか」
奎星の顔から笑みが消えた。
簡単そうで、広い。
答えはいくらでもある。
安全。
制御。
知識。
責任。
奎星はすぐには答えなかった。
今まで、魔力があれば何でもできると思っていた。
最初の頃は。
一万を超える魔力量。
古代魔術。
死の呪文を消した右手。
けれど、それだけでは何もできなかった。
日向を傷つけた。
杖が怖くなった。
御影に言われた。
力があることと、使えることは違う。
スズメにも、何度も言われた。
正しい知識を持つこと。
自分が何をしているのか理解すること。
奎星は考えた末、口を開く。
「……自分の魔法が、何をするのか分かってること」
スズメは黙って聞く。
「強いかどうかじゃなくて」
奎星は自分の右手を見る。
「自分が使った魔法で何が起きるか。誰に当たるか。止められるか。そういうのをちゃんと分かって使うこと」
一拍。
「あと」
少し気まずそうに頭を掻く。
「分かんないなら、人に聞くこと」
夏休み、東京から、わざわざ南硫黄島まで来た。
スズメの目が、少し柔らかくなる。
「正解です」
奎星が跳び上がった。
「よっしゃああああ!!」
「静かに!」
「八十!」
「正式には七十九点です!」
「今日だけ八十!」
「今日だけです!」
「初詣!」
「約束ですから」
奎星は答案を持ち上げる。
「これ持ってく!」
「何のためにです?」
「七十九点から這い上がった男の証!」
「大袈裟です」
「一学期六十一だぞ!?」
そこは自分から言うらしい。
奎星は嬉しそうに答案を眺めた。
七十九。
高得点とは言えない。
まだ間違いも多い。
けれど、スズメは思った。
この七十九点のほうが、六月の六十一点より、ずっと価値がある。
「着替えてきてください」
「行く!?」
「そのために問題を出したのでしょう」
「よっしゃ!」
奎星は研究室を飛び出しかけた。
扉を開く。
そして止まる。
振り返る。
「スズメちゃん!」
「烏丸先生です」
「ありがと!」
それだけ言って、走っていった。
足音が遠ざかる。
研究室に、また静けさが戻った。
スズメは答案の控えを見る。
七十九。
小さく息を吐いた。
「……甘いですね」
誰も聞いていない。
でも、今日くらいは、それでいいと思った。
*
午後四時すぎ、東京、神田。
「人、多っ!」
最寄り駅を出た瞬間、奎星が叫んだ。
「元日ですから」
「学校と違いすぎるだろ!」
「比べる場所を間違えています」
朝までほとんど人のいなかったマホウトコロとは、文字通り別世界だった。
冬の冷たい空気。
道路を埋める参拝客。
家族連れ。
学生。
恋人。
赤い提灯。
警備員の声。
通りの両側には屋台が並び、焼けた醤油や甘い砂糖の匂いが白い湯気と一緒に流れてくる。
「うおー……」
奎星は完全に浮かれていた。
グレーのパーカーにMA-1、濃い色のパンツ、履き慣れた黒いコンバース。そして左腕には、いつもの銀色の腕時計。神代榊は服の内側へ隠している。一般社会側へ来る以上、当然だった。
「たこ焼き!」
「参拝が先です」
「焼きそば!」
「参拝が先」
「じゃがバター!」
「後です」
「りんご飴!」
「後」
「全部後じゃん!」
「初詣へ来たのでしょう?」
「屋台込みだよ!」
「初めて聞きました」
奎星がぶつぶつ言いながら歩き出す。
その隣で、スズメは今日は教員衣ではなかった。
白いタートルネックの上に、黒に近い濃紺のコート。丈は膝の少し下まであり、顎で真っ直ぐ揃えた黒髪は冬の風に僅かに揺れている。
奎星が横目で見る。
「…………」
「何です?」
すぐ気づかれた。
「いや」
「はい」
「私服だなって」
「以前も見ているでしょう」
「そうだけど」
八咫祭。
水月庵。
クリスマス前。
見ている。
でも、今日、人混みの中で二人並んで歩くスズメは、学校にいるときとは少し違って見えた。
「似合う」
ぽろっと口から出た。
スズメが瞬きをする。
奎星も自分で言ってから少し止まった。
「……いや」
視線を逸らす。
「普通に」
スズメは数秒黙った。
「それ」
「何」
「クリスマスにも似たようなことを言っていましたね」
奎星の耳が赤くなる。
「覚えてんの?」
「記憶力は良いほうです」
「忘れろよ!」
「嫌です」
「何で!」
「面白いので」
「性格悪っ!」
「今さらですね」
スズメが小さく笑う。
奎星は何か言い返そうとして、結局、自分も笑った。
*
鳥居の前には長い列ができていた。
奎星は人の流れを見て、少し眉を上げる。
「これ何分かかる?」
「さあ」
「一時間?」
「元日ですから、それくらいは覚悟してください」
「屋台全部なくならない?」
「なくなりません」
「たこ焼き冷める」
「新しく焼きます」
「じゃがバター売り切れる」
「何個あると思っているのです?」
列が少し動く。
歩く。
止まる。
また動く。
最初の十分は屋台の話ばかりしていた奎星も、さすがに途中から少し静かになった。
周囲を見る。
親に手を引かれた子供。
着物姿の女性。
写真を撮る学生たち。
外国人観光客。
赤い鳥居。
一般社会。
五月まで、こっちが自分の日常だった。
今では、腰に杖がないと少し落ち着かない。知らないうちに、自分の普通が随分変わった。
「スズメちゃん」
「烏丸先生です」
「はぐれんなよ」
「子供ではありません」
「人多いじゃん」
「携帯電話もあります」
「圏外になったら?」
「東京の中心部ですよ」
「魔法で妨害されたら?」
スズメが見る。
奎星も。
一秒。
二人とも、少し黙った。
最近、そういうことが本当にあった。
奎星が先に笑う。
「……まあ今日はないか」
「ないことを願います」
再び列が動く。
そのとき横から大きな集団が入り、流れが少し乱れた。スズメの身体が押される。
「危な」
奎星が反射的に肩へ手を置き、自分のほうへ引いた。
「こっち」
一歩。
二人の距離が近くなる。
「あ」
奎星も気づく。
すぐ手を離した。
「悪い」
「……いえ」
スズメもそれだけ答えた。
再び歩く。
でも、さっきまでより、二人の間隔は少しだけ近かった。
どちらも、それについては何も言わなかった。
*
ようやく賽銭箱の前まで来た。
奎星が財布を取り出す。
「いくら?」
「好きな額で構いません」
「五円?」
「ご縁、ですね」
「じゃ十五円」
「なぜです?」
「十分なご縁」
「そういう仕組みではありません」
「二十五円なら?」
「増やせば良いものでもありません」
「五十円」
「もう好きにしてください」
結局、奎星は硬貨を入れた。
鈴。
礼。
拍手。
目を閉じる。
何を願う。
魔法が上手くなりますように。
御影先生みたいに強くなれますように。
今年は学校が壊れませんように。
日向たちともっと遊べますように。
父さんと母さんが元気でいますように。
ばあちゃん。
ちゃんと見ててくれ。
頭の中に次々浮かぶ。
そして最後、隣に立っている人へ思いを向けた。
奎星は少しだけ考えた。
願う。
目を開ける。
隣を見る。
スズメはまだ目を閉じていた。
「…………」
思ったより長い。
奎星は少し待つ。
ようやくスズメが目を開けた。
「長くね?」
「願い事が多かったので」
「欲張り!」
「あなたにだけは言われたくありません」
歩きながら、奎星が笑う。
「何願った?」
「言いません」
「何で?」
「あなたは?」
「俺も言わない」
「では同じでしょう」
「ヒント!」
「ありません」
「仕事?」
「秘密です」
「健康?」
「秘密」
「金?」
「違います」
「一個消えた!」
「質問形式にしないでください」
奎星が少し考える。
それから、悪戯っぽく笑った。
「恋愛?」
スズメの足が、ほんの僅かに止まった。
奎星も止まる。
「…………」
「…………」
一秒。
「違います」
「今の間!」
「ありません」
「あった!」
「ありません!」
「絶対なんかあるじゃん!」
スズメは歩き出した。少し速い。
奎星が追う。
「スズメちゃん!」
「烏丸先生です!」
「顔赤いぞ!」
「寒いからです!」
「便利だな冬!」
「うるさいです!」
奎星は笑いながら追いついた。
スズメも、最初は不満そうな顔をしていた。でも、数歩後には少し笑っていた。
なお、このとき奎星が願ったことを、スズメは知らない。
――今年も、スズメちゃんの隣にいられますように。
そして、スズメが願ったことも、奎星は知らない。
――今年は、蓮根君がもう傷つきませんように。
どちらも、自分自身の願いではなかった。
*
「よし!」
参拝を終えた奎星が腕を捲る。
「何をするのです?」
スズメが警戒する。
「本番」
「何の?」
奎星が屋台の並ぶ道を指した。
「屋台!!」
「やはりそちらが目的だったのでは?」
「初詣はちゃんとやった!」
「言い方」
「行こうぜ!」
奎星が歩き出す。
三歩進んだところで振り返る。
「スズメちゃん!」
「いますよ」
「早く!」
「走らないでください」
「たこ焼きなくなる!」
「なくなりません!」
十分後。
「熱っっっ!」
「だから言ったでしょう」
「何も言ってねえ!」
奎星が口を開けたまま、たこ焼きを転がす。
「はふっ……熱っ……!」
「焼きたてを丸ごと入れるからです」
「うまいけど熱い!」
「どちらなのです?」
「両方!」
紙皿には六個のたこ焼きが載っている。奎星は二個目へ爪楊枝を刺した。
「スズメちゃんも食う?」
「今のあなたを見て、なぜ食べようと思えるのです?」
「うまいって」
「少し冷ましてください」
奎星はたこ焼きを持ったまま待つ。
「もういい?」
「知りません」
「はい」
「自分で食べられます」
「皿持ってるから」
「渡してください」
「落とす」
「子供ですか」
言いながら、スズメが少し前へ顔を寄せた。
奎星の手にある爪楊枝。
たこ焼きを一口。
「…………」
奎星の動きが止まる。
スズメは普通に食べる。
「……美味しいですね」
「…………」
「蓮根君?」
「いや」
奎星は急に紙皿へ視線を戻した。
「何でもない」
耳が少し赤い。
スズメは一秒遅れて、自分が今どうやって食べたのかに気づいた。
「…………」
今度は、スズメが少しだけ顔を逸らした。
奎星はもう三個目を食べていた。
「うまっ」
気づいていない。
スズメはなぜか、少しだけ腹が立った。
理由は考えなかった。
*
焼きそば、じゃがバター、たい焼き。奎星は最初の勢いのまま食べ続けた。
「食べすぎですよ」
「初詣だから」
「理由になっていません」
「正月だから」
「それもです」
奎星はカスタードのたい焼きを持ち、スズメの手を見る。小豆。
「一口交換しようぜ」
「嫌です」
「即答!?」
「私は小豆が食べたくて買ったので」
「俺も小豆気になってきた」
「自分でもう一つ買えばいいでしょう」
「もう一個は食えない」
「ようやく限界が来たのですね」
「一口!」
「嫌です」
「俺のカスタード一口やるから」
「いりません」
「頼む!」
スズメは自分のたい焼きを見る。奎星を見る。そしてため息をついた。
「……一口だけですよ」
「よっしゃ!」
奎星がそのまま顔を近づけた。
スズメが反射的にたい焼きを引く。
「待ってください」
「何?」
「渡します」
「持ってくれてたほうが食いやすいじゃん」
「渡します」
「はい」
妙に強い。
奎星は素直に受け取った。頭の部分を一口食べる。
「あ、小豆うま」
「でしょう」
返す。
スズメはたい焼きを見る。
少し間が空いた。
そして、奎星が食べたのとは反対側から食べた。
奎星が気づく。
「そっちから食うんだ」
スズメの目が細くなる。
「何か問題でも?」
「別に」
「なら黙ってください」
「照れてる?」
「捨てますよ」
「食べ物を粗末にすんな!」
「誰のせいですか!」
近くにいた若い男女が、ちらりと二人を見る。
女性が小さな声で言った。
「仲いいね」
男が笑う。
「カップルじゃない?」
二人とも聞こえた。
「…………」
「…………」
同時に前を見る。
十歩。
誰も喋らない。
先に口を開いたのは奎星だった。
「……違うけどな」
スズメが少しだけ横を見る。
奎星は前を向いたまま続けた。
「先生と生徒だし」
「…………」
「な?」
少し間を置いて、スズメはたい焼きを一口食べた。
「……そうですね」
小さな声だった。
奎星は気づかなかった。
*
最後はおみくじだった。
奎星が箱を振る。
「大吉来い!」
「欲を出しすぎです」
「今日は七十九点だったんだぞ。神様も同情する」
「試験は神様の責任ではありません」
棒が出る。
番号を伝える。
渡された紙を開く。
「…………」
奎星の顔が曇る。
「末吉」
「良かったではありませんか」
「微妙!」
「凶ではないのですから」
「スズメちゃんは?」
開く。
吉。
奎星の目が見開かれる。
「俺より上!」
「勝負ではありません」
「見せて!」
「嫌です」
「何書いてある?」
「普通です」
「恋愛!」
「見ないでください」
「待ち人!」
「蓮根君」
奎星が横から覗こうとする。
スズメが隠す。
「見せて!」
「嫌です!」
「俺の見せるから!」
「いりません!」
「俺の恋愛!」
「もっといりません!」
「末吉の恋愛、気になるだろ!」
「なりません!」
奎星が笑う。
そして一瞬の隙を突き、スズメのおみくじを覗こうとする。
「こら!」
スズメが奎星のフードを掴んだ。
ぐい。
「ぐえっ!」
「捕まえました」
「首! 首!」
「止まりなさい」
「はい……」
奎星が振り返る。
そこで、二人とも止まった。
近い。
思った以上に。
スズメは奎星のフードを掴んだまま、奎星は少し身体を屈めた状態だった。互いの顔まで、ほんの少し。
「…………」
「…………」
周囲は騒がしい。
屋台の声。
子供の笑い声。
鈴。
遠くの太鼓。
なのに、二人の間だけ、一瞬、妙に静かだった。
先に手を離したのはスズメだった。
「……行きますよ」
「お、おう」
並んで歩く。
さっきより少し距離がある。
でも、人混みですぐに押され、一分後にはまた隣へ戻っていた。
奎星は自分のおみくじを見た。
末吉。
《学問――努力を怠るべからず》
「…………」
スズメが横から見る。
「ぴったりですね」
「神様俺のテスト見てた?」
「七十九点ですから」
「今日だけ八十!」
「正式には七十九です」
「そこ一生言う気!?」
「少なくとも次の試験までは」
「長え!」
奎星は笑いながら、おみくじを結ぶ場所へ向かった。
スズメもその横を歩く。
空はもう夕方の色へ変わり始めていた。赤い提灯には一つずつ明かりが灯り、冬の空へ白い息が溶ける。
朝。
補習。
確認テスト。
七十九点。
あと一歩届かなくて、本気で悔しかった。
でも、もう一問、答えた。
初詣へ来た。
願い事をした。
たこ焼きを食べ、たい焼きを分け、末吉を引いた。
「スズメちゃん」
「烏丸先生です」
「今日来てよかったな」
スズメが奎星を見る。
その顔には、もう朝のような呆れた表情はなかった。
「……そうですね」
小さく笑う。
「悪くありませんでした」
「悪くないだけ?」
「楽しかったですよ」
奎星の顔が明るくなる。
「マジ?」
「はい」
「じゃ来年も来ようぜ!」
スズメが少しだけ目を丸くした。
来年。
何気ない言葉。
まだ三百六十四日も先。
そのとき、二人がどうなっているのか。
教師と生徒なのか。
奎星は卒業しているのか。
どこにいるのか。
何をしているのか。
何一つ、分からない。
けれど。
「……そうですね」
スズメは答えた。
「来られたら」
「よし!」
「まだ約束はしていません」
「した!」
「していません」
「今した!」
「していません!」
奎星が笑う。
スズメも、少し遅れて笑った。
元日の空。
赤い提灯。
人混み。
遠くで鳴る鈴。
七十九点の答案から始まった初詣は、結局、思っていたよりずっと良い一日になった。
そして、この帰り道に何が待っているのか、二人はまだ知らない。