二〇二七年一月一日。
午後八時二十六分。
東京。
初詣を終えた蓮根奎星と烏丸スズメは、マホウトコロへ戻るため、都心から少しずつ離れていく電車に乗っていた。
正月の夜。中心部へ向かう車両にはまだ人が多いのだろうが、二人が乗っているのはその反対方向だった。駅を一つ過ぎるたびに乗客は減っていき、家族連れが降り、若い男女が降り、紙袋を抱えた老人が降り、気づけば最後尾の車両には奎星とスズメしか残っていなかった。
がたん、ごとん。
一定の間隔で、車輪が線路の継ぎ目を踏んでいく。暖房の効いた車内の窓の向こうには、夜の東京が流れていた。高層の建物はもう遠く、代わりに住宅街の明かりが増えている。コンビニの看板。マンションの窓。赤信号で停まる車。どこにでもある、一般社会の夜だった。
奎星は長い座席へ深く腰掛け、大きく息を吐いた。
「疲れたぁ……」
隣に座るスズメが横目で見る。
「食べすぎです」
「食い疲れじゃねえよ」
「では何疲れですか」
「遊び疲れ」
「大差ありません」
「全然違うだろ」
奎星の足元には、小さな紙袋が二つ置いてある。片方は学校へ残っている小妖たちへの土産。もう片方は、結局食べ切れずに持ち帰ることになった菓子だった。
スズメがその袋へ視線を落とす。
「だから、最後の大判焼きはいらないと言ったでしょう」
「いけると思ったんだよ」
「その前にたこ焼き、焼きそば、じゃがバター、たい焼きを食べています」
「りんご飴も」
「増やさないでください」
「事実だから」
「誇ることではありません」
奎星は笑いながら左腕を上げた。銀色の腕時計。午後八時二十八分。スズメからクリスマスにもらって以来、外す時間のほうが少なくなっていた。
「学校着くの何時?」
「移動拠点へ着いてから転移経路を使いますから……十時前後でしょうか」
「補習は?」
奎星が警戒する。
スズメは少し考えるふりをした。
「そうですね」
「…………」
「今日はなしです」
奎星の顔が一気に明るくなった。
「マジ!?」
「朝から十分勉強しましたから」
「先生!」
「何です?」
「今日はいい先生だな!」
「普段も良い教師のつもりですが」
「今日は特に!」
「明日は補習です」
「前言撤回」
「早いですね」
二人の笑い声が、誰もいない車内へ小さく響いた。
また、がたん、ごとん、と車輪が線路を踏む。
奎星は窓の外を見て、しばらくしてから口を開いた。
「でもさ」
「はい」
「七十九点だったんだよな」
「正式には」
「そこ強調すんなよ」
「事実でしょう」
「今日だけ八十点相当ってことでいいじゃん」
「外出条件に限ってです」
「細けえなぁ」
「教師ですから」
「でも」
奎星は少しだけ笑った。
「今までで一番悔しかったかも」
スズメが彼を見る。その声音に、冗談はなかった。
「テストがですか?」
「うん」
「珍しいですね」
「そんな?」
「一学期のあなたを知っていますので」
「六十一点」
「はい」
「三択に四番」
「はい」
「黒歴史だな」
スズメが笑った。
奎星も笑う。
でも、すぐにまた窓へ目を向けた。
「前はさ」
少し考えながら話す。
「合格なら何点でもいいって思ってたじゃん」
「そうですね」
「六十一点のときなんか、一点上だっただけでめっちゃ喜んだし」
「あれはあれで、あなたなりによく頑張っていましたよ」
奎星が振り向く。
「今褒めた?」
「昔の話です」
「今の俺も褒めてよ」
「七十九点」
「やめろ!」
また笑う。
車窓の向こうへ街灯が一本、二本と流れていく。
「でも」
奎星の声が少し落ち着く。
「あと一点だったからさ。本気で悔しかった」
スズメは何も言わず聞いていた。
「前だったら絶対、『一くらいくれよ』って騒いでたと思う」
「今日も多少は言っていましたが」
「多少だろ?」
「それなりに」
「多少!」
「はいはい」
「はいは一度!」
「……そこは覚えているのですね」
奎星は満足そうに頷いた。
「俺、成長してるから」
「自分で言わなければ格好良かったのですが」
「でも追加問題はちゃんと答えたじゃん」
「そうですね」
今度の返事は素直だった。
スズメは少しだけ目を細める。
「良い答えでしたよ」
奎星が止まった。
「…………」
「何です?」
「いや」
「はい」
「もう一回言って」
「嫌です」
「何で!?」
「一度で覚えてください」
「今の録音したかった!」
「褒められるために勉強しているのですか?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
奎星は即答した。
「今日スズメちゃんと初詣行くため」
「…………」
今度はスズメが黙った。
奎星は気づかず続ける。
「でも楽しかったな」
「屋台が?」
「それも」
「食べ物ばかりではありませんか」
「違うって」
奎星が笑いながらスズメを見る。
「初詣」
目が合う。
「スズメちゃんと行けたから」
ほんの少し、車内の音だけが大きくなった気がした。
がたん、ごとん。
スズメの目が僅かに揺れる。
奎星も、自分が何を言ったのか気づいたらしい。
「……いや」
視線が少し泳ぐ。
「その」
「はい」
「別に変な意味じゃ」
そこで止まった。
クリスマスにも同じことを言った。
――変な意味じゃない。
そのたびに余計に変になることくらい、本人もいい加減学んでいた。
スズメの口元が少し上がる。
「言わないのですか?」
「何を」
「変な意味ではない、と」
「言ったらまた笑うだろ!」
「学習しましたね」
「俺七十九点だから!」
「そこへ戻りますか?」
二人とも笑った。
スズメは窓へ顔を向ける。ガラスへ、自分たちの姿が薄く映っていた。座席。一席分も空いていない距離。肩は触れていない。けれど、少し動けば触れる。
以前なら、意識もしなかった距離。
今は、少しだけ近い。
「……私も」
奎星が見る。
スズメは窓を向いたまま言った。
「楽しかったですよ」
「マジ?」
「はい」
奎星の顔が明るくなる。
「じゃ来年も」
「来られたら、でしょう」
「またそれ!」
「一年後の予定など分かりません」
「空けとけよ!」
「なぜ命令されるのです?」
「来年は俺、補習なしで行くから」
スズメがゆっくり奎星を見る。
「そこは期待していいのですか?」
「…………」
「蓮根君?」
「努力します」
「弱くなりましたね」
「来年まで一年あるから!」
「一年もある、でしょう」
「そうそう」
「では」
スズメが少し笑った。
「期待しておきます」
奎星も笑う。
「おう」
たった一言。それだけだった。それなのに、なぜかずっと残った。
*
次の駅へ停まった。車内放送が流れ、扉が開く。冷たい外気が少し流れ込んだが、誰も乗ってこない。誰も降りない。発車ベルが鳴り、扉が閉まる。電車が再び動き始める。
がたん、ごとん。
奎星はスマートフォンを取り出した。二年二組のグループメッセージには、日向から《大吉!!!!!!》という文字と、おみくじを片手に満面の笑顔を浮かべた写真が送られていた。
楓。
《さっきから五回見た》
伊織。
《大吉の出現率は神社によってかなり違うから、統計的には――》
日向。
《正月くらい黙れ》
岳からは、餅の写真だけが送られていた。文章はない。
奎星が吹き出した。
「岳、何してんだよ」
スズメも横から画面を覗く。
「食べていますね」
「それは分かる」
奎星が入力する。
《俺末吉》
送信して数秒後、日向から返事が届いた。
《ざっこwwwww》
奎星の眉が動く。
《お前補習受けてねえだろ》
日向。
《元日に補習してるやついる?》
「…………」
奎星は静かに画面を閉じた。
「殺す」
「初詣帰りに物騒なことを言わないでください」
スズメが笑う。
「決闘する」
「御影先生へ報告しますよ」
「それは卑怯!」
「安全対策です」
「先生側の権力強すぎるだろ」
奎星がまだ文句を言っていると、連結扉が開いた。
がらり。
二人が同時にそちらを見る。
隣の車両から、一人の男が入ってきた。
背が高い。百八十を優に超えている。黒いロングコート。頭には深くフードを被っており、顔の上半分は影に隠れていた。
男は車両へ入ると扉を閉め、そして、その場で止まった。
座らない。
反対側。二十メートル近く離れた場所。ただ立っている。
「…………」
奎星は一度だけ男を見る。視線を戻し、また見る。
男も、こちらを見ていた。
いや、正確には、奎星を。
「…………」
奎星の笑みが少し消えた。
スズメはまだ気づいていない。
「なあ」
小声で呼びかける。
「はい?」
「後ろのやつ」
スズメが僅かに視線だけを動かす。
男と目が合った。
顔は見えない。でも、確かにこちらを向いている。
「ずっと見てね?」
「…………」
スズメは男を数秒観察した。
「気にしないでください」
「いや気味悪いだろ」
「見るだけなら犯罪ではありません」
「でも俺見てんじゃん」
「有名になりましたから」
「こんな一般社会で?」
「新聞の一面に載ったわけではないでしょうけど」
「じゃ違うじゃん」
奎星の右手が、自然に腰へ動いた。服の内側にある神代榊。その指先が柄へ触れる寸前、スズメの手が奎星の手首を押さえた。
「駄目です」
小さい声だった。
「でも」
「ここは一般社会です」
「誰もいないじゃん」
「車内には監視設備もあります。それに、見られているという理由だけで杖を抜かないでください」
奎星は男を見る。まだ見ている。
「……なんか」
「分かります」
「分かるんじゃん」
「だからといって先に杖を向けていい理由にはなりません」
「はいはい」
奎星は手を離した。それでも、視線だけは男から完全には外さなかった。スズメも、もう笑ってはいなかった。
*
数分のあいだ、男は動かなかった。
電車は走る。がたん、ごとん。街灯。暗闇。また街灯。
奎星が時々見る。そのたび、男は同じ場所からこちらを見ている。
「…………」
「次の駅で車両を移りましょう」
スズメが小さく言った。
「やっぱ怪しい?」
「怪しいかどうかとは別に、あなたが気にしているのでしょう」
「先生もだろ」
「多少は」
「ほら」
「ただし何もしていません」
「分かってるよ」
奎星は腕を組む。次の駅まで、あと数分。
そのとき、男が動いた。
こつ。
靴音が響く。
奎星の背筋が少し伸びた。
男はこちらへ歩いてくる。
こつ。こつ。
ゆっくり。急いでいない。それが、余計に気味が悪い。
「スズメちゃん」
「はい」
スズメも立ち上がった。
「次で降ります」
「え?」
「車両を移るより、一度降りましょう。次の列車でも時間は十分あります」
奎星も立つ。
「分かった」
二人は反対側の扉へ向かおうとした。
その瞬間、男の声がした。
「見つけたぞ」
二人の足が止まった。
低い声。少し掠れている。
奎星が振り返る。
男は数メートル先に立っていた。
「…………」
フードの奥。表情は見えない。
男がもう一度、口を開く。
「……蓮根奎星」
「……何?」
奎星の声が変わった。
右手が腰へ。今度は迷わない。神代榊の柄を握る。
「誰だよテメェ…」
スズメがすぐに奎星の前へ半歩出た。
「蓮根君。抜いてはいけません」
「俺の名前知ってんだぞ」
「それでもです」
「でも」
「一般社会です」
奎星の手は杖を握ったまま、まだ抜かない。
男が、それを見ていた。
奎星の手。スズメ。窓。車内。
そして、小さく笑った。
「……不便だな」
「何?」
男の口元だけが、フードの影から見えた。
「縛られるものは」
スズメの表情が変わった。
「蓮根君!」
同時だった。
男が杖を抜いた。
奎星も神代榊を抜く。
だが、男は二人へ向けなかった。
杖先を床へ向ける。
「デパルソ」
「――何!?」
鈍い衝撃が、足元を突き抜けた。
どんっ!!
床そのものが持ち上がったような感覚。次の瞬間、車輪の下から凄まじい金属音が響いた。
ガンッ!!
「っ!?」
車両が大きく跳ねる。吊革が一斉に揺れ、照明が消え、戻った。
「蓮根君!」
線路の下。今の魔法は、車内の床へ撃ったのではない。そのさらに下、台車、車輪、あるいはレールそのものへ向けられていた。
がががががががががっ!!
聞いたことのない音がした。
車体が横へ振られ、奎星の身体が座席へぶつかる。
「っ!」
スズメも手すりを掴んだ。
窓の外で、火花が大量に散る。
「嘘だろ……!」
脱線。
理解した瞬間、先頭側から何かが潰れるような巨大な音が響いた。
一両。次。また次。
衝撃が、こちらへ近づいてくる。
一般の乗客の悲鳴が、遠い車両から響いた。
奎星の顔色が変わった。
「……っ!」
神代榊を握る。
考える時間はなかった。
早瀬が自分を落下から救ったとき。御影が吹き飛ばされた日向と楓の速度を殺したとき。何度も聞いた呪文。
「アレスト・モメンタム!!」
銀白色の魔力が、一気に車両を満たした。
一人ではない。
座席。吊革。荷物。窓。車両。その先へ、さらに次の車両へ。
奎星の魔力が、列車全体を包もうとする。
「ぐっ……!」
腕へ凄まじい負荷がかかった。
重い。
人間一人ではない。何十トン。それが何両も、高速で動いている。
「止まれ……!」
車体の揺れが、ほんの少しだけ鈍くなる。飛び上がった鞄が空中で奇妙にゆっくりと回り、吊革の速度が落ちる。
しかし、列車そのものは止まらない。
「止まれぇぇぇぇぇぇ!!」
奎星が叫ぶ。
神代榊が震える。手首、肩、全身から魔力が一気に抜けていく。
それでも、速度は殺しきれない。
がんっ!!
車両が大きく傾いた。
「きゃ――!」
スズメの足が床から離れる。
奎星が見る。
「スズメちゃん!」
考えなかった。
魔法を維持したまま、左腕を伸ばす。スズメの身体を引き寄せた。
「蓮根君!?」
抱く。強く、胸へ。右手には神代榊。左腕はスズメの背中。もう片方の身体を、自分の内側へ。
次の瞬間、車両が横へ叩きつけられた。
ドンッ!!
「――っ!!」
奎星の背中が、座席脇の仕切りへまともにぶつかった。
息が消えた。
「…………っ」
声が出ない。
目の前が白くなる。
神代榊が手から落ちた。
列車はさらに数十メートル、金属を擦りながら進んだ。火花。硝子。悲鳴。
そして、ようやく止まった。
*
音が遠かった。
「…………」
奎星は、何が起きたのかすぐには分からなかった。
身体は横向き。いや、車両が傾いている。自分がどっちを向いているのか分からない。
「……っ」
息を吸う。入らない。
もう一度。
「っ……!」
肺が動かない。胸を何かに潰されているような感覚。苦しい。
「蓮根君!」
声が近い。
「蓮根君!」
スズメ。
奎星は目を開けようとする。ぼやける。黒い髪。白い服。紺色のコート。
「聞こえますか!?」
聞こえる。返したい。でも、息ができない。
「私を見てください!」
スズメの手が頬へ触れる。
「ゆっくり。息を吐いて」
吐く? 先に吸えていない。
「大丈夫です。ゆっくり」
スズメの声は、珍しく震えている。
「蓮根君」
もう一度。
「私を見て」
奎星は何とか彼女を見る。
「そうです」
ゆっくり、肺が動いた。
「……っ、は……!」
一気に空気が入る。
「ごほっ……!」
咳が出た。胸も背中も痛い。全部、遅れて来た。
「っ……ぁ……!」
「呼吸できますか?」
「……たぶん……」
「たぶんでは困ります」
「……できてる……」
スズメの顔が少しだけ緩む。
奎星はその顔を見た。
最初に思った。
「……スズメちゃん」
「はい」
「怪我……」
「私は大丈夫です」
「ほんと?」
「はい」
その言葉を聞いて、奎星の肩から少し力が抜けた。
「……よかった」
スズメの表情が、一瞬歪んだ。
まただった。
またこの少年は、自分より先に他人を。
「蓮根君」
「他の人」
「…………」
「電車」
奎星の目が周囲を動く。
「他の車両……」
スズメもすぐに理解した。
「待っていてください」
杖を拾い、身体を起こす。
「ホメナム・レベリオ」
淡い魔力が車両の外へ広がっていく。一両。二両。その先。人の存在を示す反応が、たくさんあった。
「…………」
スズメが息を吐く。
「います」
「……みんな?」
「少なくとも、周囲には多数の反応があります」
遠くから声も聞こえる。泣いている子供。誰かを呼ぶ声。
「大丈夫ですか!」
「こっち開きます!」
車掌らしき声。自力で動く音。完全に潰れた車両もない。
奎星の魔法が、最後の最後に速度を削った。完全には止められなかった。けれど、本来ならもっと酷かった。
「……よかった」
奎星が笑った。
スズメが振り返る。
「あなたがやったのですよ」
「止められてねえけど」
「十分です」
「御影先生なら止めたかな」
「今それを考えますか?」
「いや……なんとなく」
スズメが本気で怒った顔になる。
「あなたは何十トンあると思っている列車に、一人で魔法を掛けたのですか!」
「重かった」
「でしょうね!」
「褒めてよ」
「後でいくらでも褒めますから!」
「マジ?」
「ですから今は自分の身体を心配してください!」
「じゃ覚えとく……」
奎星が身体を起こそうとする。
「っ……!」
背中に激痛が走った。足へ力が入らず、身体が崩れる。
スズメが受け止めた。
「蓮根君!」
「……あれ」
「立たないでください!」
「ちょっと待って」
もう一度、足に力を入れる。
駄目だった。
「……立てねえ」
スズメの顔から血の気が引く。
「脚の感覚は?」
「ある」
「動かせますか?」
「動く」
「痛みは?」
「背中めっちゃ痛い」
スズメが息を吐く。
「おそらく衝撃と魔力消耗です。無理をしないで」
奎星が少し笑う。
「スズメちゃん軽かったから助かった」
「そういう問題ではありません」
「あと十キロあったら死んでた」
「怒りますよ」
「もう怒ってるじゃん」
「もっとです」
それでも、スズメは奎星の腕を自分の肩へ回した。
「外へ出ましょう」
「重いぞ」
「知っています」
「俺百七十五あるし」
「身長は関係ありません」
「体重は?」
「黙ってください」
「はい」
*
車両の非常扉は大きく歪んでいた。
スズメが杖を向ける。今は機密保持法を気にしている場合ではない。人命。緊急避難。奎星が今日のテストで答えたばかりの状況だった。
「デパルソ」
強すぎない。必要な分だけ。
歪んだ扉が外へ押し開かれる。
冬の冷たい空気が一気に車内へ入った。
「寒っ……」
「今それを言います?」
「寒いもんは寒い」
スズメに肩を借り、奎星は外へ出る。
線路脇。砂利。保守用の細い通路。
列車は完全には横倒しになっていなかった。何両かが大きく傾き、車輪の一部がレールから外れている。
前方では、乗客たちが少しずつ外へ誘導され始めていた。
遠くでサイレンが聞こえる。警察。消防。救急。まだ距離はある。でも、近づいている。
「……マジで大事故じゃん」
奎星が呟く。
「あなたは座ってください」
「でも」
「座る」
「はい」
スズメに押され、コンクリートの端へ座る。
「先生怖」
「誰のせいです?」
「フードのやつ」
言った瞬間、二人は止まった。
「…………」
そうだ。
男。
どこへ。
奎星の目が動く。
脱線した車両。線路。反対側。
「……スズメちゃん」
「はい」
「いた」
少し先、線路脇の十数メートルほど離れた場所に、男が立っていた。
黒いコート。フード。
怪我はない。服もほとんど乱れていない。
まるで、最初からここで待っていたように。
「…………」
スズメが奎星の前へ立った。杖を構える。
「何者ですか」
男は答えない。
「先ほどの事故を故意に起こしたのですね」
沈黙。
「目的は」
男の視線がスズメを越え、奎星へ向いた。
奎星も神代榊を握った。座ったまま。
「俺なんだろ」
男の口元が僅かに動く。
「何の用だよ」
「…………」
「黒曜の残党?」
反応なし。
「神代の仲間か?」
ほんの少し、男の首が傾いた。それだけだった。
奎星の眉が寄る。
「てめえ」
立とうとする。
背中に激痛が走った。
「っ……!」
膝が落ちる。
「蓮根君!」
「大丈夫」
「大丈夫ではありません!」
「でも俺狙いだろ!」
「だから何です!」
スズメは一歩も退かない。
「私は教師です」
短い一言だった。
奎星の口が止まる。
何度、聞いただろう。
危ないとき。
無茶をしたとき。
自分を守ろうとするとき。
教師だから。
男が杖を上げた。
スズメも構える。
遠くでサイレンがさらに近づく。
時間がない。
男の杖先が、スズメではなく奎星へ向いた。
「蓮根君!」
「分かってる!」
奎星も神代榊を上げる。
男の口が動く。
「ダムナティオ・メモリアエ」
聞いたことのない呪文だった。
奎星の頭に何も浮かばなかった。魔法史。呪文学。古代魔術。御影の訓練。スズメの授業。どこにもない。
光さえ、ほとんど見えなかった。
空気が透明な水のように、一瞬だけ歪む。
奎星へ。
「――っ!」
神代榊を上げる。
遅い。
一瞬、判断が遅れた。
そして、スズメが動いた。
「蓮根君!」
黒髪。紺色のコート。自分の前。
「スズメちゃん!?」
奎星の目が見開かれる。
「やめろ!!」
透明な魔法がスズメへ触れた。
ぱん。
音は小さかった。
爆発もない。血も出ない。衝撃もほとんどない。
ただ、スズメの身体が僅かに揺れた。
「…………」
一秒。
「スズメちゃん?」
二秒。
スズメは立っている。
「……何」
本人も分からない顔をしていた。
痛みはない。身体も動く。
それなのに、何かが変だった。
「スズメちゃん…?」
そのとき、ちん、と小さな音がした。
男の右手。
スズメの目がそちらへ向いた。
「…………」
男の掌に、いつの間にか小さな硝子玉があった。
透明。親指ほど。
内部には銀色の細い光。糸のようなものが、ゆっくり揺れている。
ちん。
もう一度、男の指にはめられた指輪へ硝子玉が触れた。
その音を聞いた瞬間、スズメの顔が変わった。
「…………それ」
掠れた声だった。
「スズメちゃん?」
スズメは男の掌だけを見ていた。
昔。
魔法省。
記録局。
古い巻物。
記憶を外へ写し取る媒体。
「……まさか」
そこまでだった。
膝から力が抜ける。
「スズメちゃん!!」
奎星が飛び込む。
背中に痛みが走る。それでも受け止めた。地面へ倒さない。
腕の中。
「おい!」
返事はない。
「スズメちゃん!」
奎星が男を見る。
硝子玉。銀色の光。
「…………」
奎星の顔から血の気が消えた。
「それ……」
男の手。硝子玉。
「何入ってんだ」
返事はない。
「おい」
奎星の声が震える。
「それ何だよ」
男は硝子玉をゆっくり握った。
「返せ」
奎星が言う。
「…………」
「返せよ」
神代榊を握る。
身体が痛い。
立てない。
関係ない。
「それ」
声が低くなる。
「スズメちゃんのだろ」
男の口元が僅かに笑った。
奎星の中で、何かが切れた。
「返せっつってんだろ!!」
立つ。
無理やり。
脚が震える。
それでも神代榊を男へ向ける。
「返せよ!!」
遠くでサイレンが大きくなった。
「警察です!」
拡声器の声が響く。
「線路内から離れてください!」
別方向から消防と救急の声も聞こえる。複数の光。赤。白。
男がそちらを見る。
そして、奎星へ視線を戻す。
「…………」
「待て」
奎星が杖を持ち上げる。
「逃げんな」
男の身体が僅かに揺らぐ。
「待て!!」
ぱん。
小さな破裂音がした。
男の姿が消えた。
姿くらまし。
「――っ!」
奎星が神代榊を振る。
もう遅い。
「クソッ!!」
声が夜へ響いた。
硝子玉も、男も、どこにもいない。
「クソ……!」
追えない。
身体が動かない。
スズメが腕の中にいる。
「…………」
奎星の怒りが、一瞬で消えた。
「スズメちゃん」
頬へ触れる。
温かい。
呼吸がある。
首に脈がある。
「……大丈夫」
誰へ言ったのか、分からない。
「大丈夫だから」
スズメへなのか、自分へなのか。
「スズメちゃん」
肩を軽く揺らす。
「ほら」
笑おうとする。
全然、笑えない。
「今度は逆じゃん」
返事はない。
「いつも俺が庇って怒られてたのに」
声が少し掠れる。
「先生がやったら意味ねえだろ」
「…………」
「怒れよ」
「また無茶したとか」
「立つなとか」
「俺の大丈夫は信用できないとか」
どれでもいい。
何でもいい。
「言ってよ」
遠くから人が走ってくる。
「君! 大丈夫か!」
「女性が倒れてる!」
「救急隊!」
声がたくさん聞こえる。
奎星には、あまり聞こえていなかった。
「スズメちゃん」
もう一度。
「スズメちゃん…」
そのとき、瞼が僅かに動いた。
「…………!」
奎星の顔が一気に明るくなる。
「スズメちゃん!」
ゆっくり、目が開く。
黒い瞳。いつもの目。
焦点はまだ合わない。
「大丈夫!?」
奎星が泣きそうな顔で笑う。
「どっか痛い?」
「…………」
「俺分かる?」
スズメの目がゆっくり奎星へ向いた。
目が合った。
「よかった……」
奎星の肩から力が抜けた。
本当に、心の底から。
「マジで……よかった」
笑う。
スズメは何も言わない。
「スズメちゃん?」
見ている。
奎星の顔を、じっと。
「…………?」
いつもなら、何です、と返ってくる。烏丸先生です、かもしれない。
声がない。
その代わり、スズメの眉が少し寄った。
そして、自分が知らない少年の腕の中にいることへ、今初めて気づいたように身体を引いた。
「……え」
奎星の腕が少し緩む。
「どうした?」
スズメは周囲を見る。
脱線した電車。線路。警察。救急。自分の杖。
それらには混乱しながらも、理解がある。
魔法も知っている。
自分が烏丸スズメであることも分かっている。
けれど、目の前で自分を抱えている十七歳ほどの少年は、知らない。
「…………」
「スズメちゃん?」
彼女の目が少しだけ警戒する。
「……なぜ」
声はいつもの声だった。
なのに、違う。
「え?」
「なぜ、私の名前を……?」
奎星の笑顔が消えた。
「…………何言ってんの?」
スズメは困ったように彼を見る。
初対面の相手へ失礼のないように、言葉を選ぶ。そんな顔だった。
「スズメちゃん」
奎星の声が震える。
「俺だよ」
返事はない。
「蓮根」
自分の胸を指す。
「奎星」
スズメの目が僅かに細くなる。
思い出そうとする。
でも、何もない。
五月二十九日。
深夜一時。
鴉。
魔法学校。
二人で食べた最初の夕食。
補習。
観測塔。
第零書庫。
死の呪文。
夏休み。
八咫小路。
水羊羹。
葛切り。
鬼火鳥。
星迎祭。
花火。
ダンス。
二羽の銀の鴉。
朝凪島。
常隠島。
握った手。
星帰り。
大切な人。
クリスマス。
銀色の腕時計。
七十九点。
初詣。
今日。
全部、ない。
烏丸スズメの中に、蓮根奎星だけがいない。
奎星は、それをまだ理解できなかった。
理解したくなかった。
救急隊員の足音が近づく。赤い光が二人を何度も照らす。
冬の夜。
脱線した電車。
砕けた窓硝子。
その真ん中で、烏丸スズメは半年間、誰よりも近くにいた少年を、知らない人を見る目で見つめた。
そして、小さく呟いた。
「……どちら様ですか?」