マホウトコロ   作:西野圭吾

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第3話 硝子玉

二〇二七年一月一日。

 

午後八時二十六分。

 

東京。

 

初詣を終えた蓮根奎星と烏丸スズメは、マホウトコロへ戻るため、都心から少しずつ離れていく電車に乗っていた。

 

正月の夜。中心部へ向かう車両にはまだ人が多いのだろうが、二人が乗っているのはその反対方向だった。駅を一つ過ぎるたびに乗客は減っていき、家族連れが降り、若い男女が降り、紙袋を抱えた老人が降り、気づけば最後尾の車両には奎星とスズメしか残っていなかった。

 

がたん、ごとん。

 

一定の間隔で、車輪が線路の継ぎ目を踏んでいく。暖房の効いた車内の窓の向こうには、夜の東京が流れていた。高層の建物はもう遠く、代わりに住宅街の明かりが増えている。コンビニの看板。マンションの窓。赤信号で停まる車。どこにでもある、一般社会の夜だった。

 

奎星は長い座席へ深く腰掛け、大きく息を吐いた。

 

「疲れたぁ……」

 

隣に座るスズメが横目で見る。

 

「食べすぎです」

 

「食い疲れじゃねえよ」

 

「では何疲れですか」

 

「遊び疲れ」

 

「大差ありません」

 

「全然違うだろ」

 

奎星の足元には、小さな紙袋が二つ置いてある。片方は学校へ残っている小妖たちへの土産。もう片方は、結局食べ切れずに持ち帰ることになった菓子だった。

 

スズメがその袋へ視線を落とす。

 

「だから、最後の大判焼きはいらないと言ったでしょう」

 

「いけると思ったんだよ」

 

「その前にたこ焼き、焼きそば、じゃがバター、たい焼きを食べています」

 

「りんご飴も」

 

「増やさないでください」

 

「事実だから」

 

「誇ることではありません」

 

奎星は笑いながら左腕を上げた。銀色の腕時計。午後八時二十八分。スズメからクリスマスにもらって以来、外す時間のほうが少なくなっていた。

 

「学校着くの何時?」

 

「移動拠点へ着いてから転移経路を使いますから……十時前後でしょうか」

 

「補習は?」

 

奎星が警戒する。

 

スズメは少し考えるふりをした。

 

「そうですね」

 

「…………」

 

「今日はなしです」

 

奎星の顔が一気に明るくなった。

 

「マジ!?」

 

「朝から十分勉強しましたから」

 

「先生!」

 

「何です?」

 

「今日はいい先生だな!」

 

「普段も良い教師のつもりですが」

 

「今日は特に!」

 

「明日は補習です」

 

「前言撤回」

 

「早いですね」

 

二人の笑い声が、誰もいない車内へ小さく響いた。

 

また、がたん、ごとん、と車輪が線路を踏む。

 

奎星は窓の外を見て、しばらくしてから口を開いた。

 

「でもさ」

 

「はい」

 

「七十九点だったんだよな」

 

「正式には」

 

「そこ強調すんなよ」

 

「事実でしょう」

 

「今日だけ八十点相当ってことでいいじゃん」

 

「外出条件に限ってです」

 

「細けえなぁ」

 

「教師ですから」

 

「でも」

 

奎星は少しだけ笑った。

 

「今までで一番悔しかったかも」

 

スズメが彼を見る。その声音に、冗談はなかった。

 

「テストがですか?」

 

「うん」

 

「珍しいですね」

 

「そんな?」

 

「一学期のあなたを知っていますので」

 

「六十一点」

 

「はい」

 

「三択に四番」

 

「はい」

 

「黒歴史だな」

 

スズメが笑った。

 

奎星も笑う。

 

でも、すぐにまた窓へ目を向けた。

 

「前はさ」

 

少し考えながら話す。

 

「合格なら何点でもいいって思ってたじゃん」

 

「そうですね」

 

「六十一点のときなんか、一点上だっただけでめっちゃ喜んだし」

 

「あれはあれで、あなたなりによく頑張っていましたよ」

 

奎星が振り向く。

 

「今褒めた?」

 

「昔の話です」

 

「今の俺も褒めてよ」

 

「七十九点」

 

「やめろ!」

 

また笑う。

 

車窓の向こうへ街灯が一本、二本と流れていく。

 

「でも」

 

奎星の声が少し落ち着く。

 

「あと一点だったからさ。本気で悔しかった」

 

スズメは何も言わず聞いていた。

 

「前だったら絶対、『一くらいくれよ』って騒いでたと思う」

 

「今日も多少は言っていましたが」

 

「多少だろ?」

 

「それなりに」

 

「多少!」

 

「はいはい」

 

「はいは一度!」

 

「……そこは覚えているのですね」

 

奎星は満足そうに頷いた。

 

「俺、成長してるから」

 

「自分で言わなければ格好良かったのですが」

 

「でも追加問題はちゃんと答えたじゃん」

 

「そうですね」

 

今度の返事は素直だった。

 

スズメは少しだけ目を細める。

 

「良い答えでしたよ」

 

奎星が止まった。

 

「…………」

 

「何です?」

 

「いや」

 

「はい」

 

「もう一回言って」

 

「嫌です」

 

「何で!?」

 

「一度で覚えてください」

 

「今の録音したかった!」

 

「褒められるために勉強しているのですか?」

 

「半分くらい」

 

「残り半分は?」

 

奎星は即答した。

 

「今日スズメちゃんと初詣行くため」

 

「…………」

 

今度はスズメが黙った。

 

奎星は気づかず続ける。

 

「でも楽しかったな」

 

「屋台が?」

 

「それも」

 

「食べ物ばかりではありませんか」

 

「違うって」

 

奎星が笑いながらスズメを見る。

 

「初詣」

 

目が合う。

 

「スズメちゃんと行けたから」

 

ほんの少し、車内の音だけが大きくなった気がした。

 

がたん、ごとん。

 

スズメの目が僅かに揺れる。

 

奎星も、自分が何を言ったのか気づいたらしい。

 

「……いや」

 

視線が少し泳ぐ。

 

「その」

 

「はい」

 

「別に変な意味じゃ」

 

そこで止まった。

 

クリスマスにも同じことを言った。

 

――変な意味じゃない。

 

そのたびに余計に変になることくらい、本人もいい加減学んでいた。

 

スズメの口元が少し上がる。

 

「言わないのですか?」

 

「何を」

 

「変な意味ではない、と」

 

「言ったらまた笑うだろ!」

 

「学習しましたね」

 

「俺七十九点だから!」

 

「そこへ戻りますか?」

 

二人とも笑った。

 

スズメは窓へ顔を向ける。ガラスへ、自分たちの姿が薄く映っていた。座席。一席分も空いていない距離。肩は触れていない。けれど、少し動けば触れる。

 

以前なら、意識もしなかった距離。

 

今は、少しだけ近い。

 

「……私も」

 

奎星が見る。

 

スズメは窓を向いたまま言った。

 

「楽しかったですよ」

 

「マジ?」

 

「はい」

 

奎星の顔が明るくなる。

 

「じゃ来年も」

 

「来られたら、でしょう」

 

「またそれ!」

 

「一年後の予定など分かりません」

 

「空けとけよ!」

 

「なぜ命令されるのです?」

 

「来年は俺、補習なしで行くから」

 

スズメがゆっくり奎星を見る。

 

「そこは期待していいのですか?」

 

「…………」

 

「蓮根君?」

 

「努力します」

 

「弱くなりましたね」

 

「来年まで一年あるから!」

 

「一年もある、でしょう」

 

「そうそう」

 

「では」

 

スズメが少し笑った。

 

「期待しておきます」

 

奎星も笑う。

 

「おう」

 

たった一言。それだけだった。それなのに、なぜかずっと残った。

 

 

次の駅へ停まった。車内放送が流れ、扉が開く。冷たい外気が少し流れ込んだが、誰も乗ってこない。誰も降りない。発車ベルが鳴り、扉が閉まる。電車が再び動き始める。

 

がたん、ごとん。

 

奎星はスマートフォンを取り出した。二年二組のグループメッセージには、日向から《大吉!!!!!!》という文字と、おみくじを片手に満面の笑顔を浮かべた写真が送られていた。

 

楓。

 

《さっきから五回見た》

 

伊織。

 

《大吉の出現率は神社によってかなり違うから、統計的には――》

 

日向。

 

《正月くらい黙れ》

 

岳からは、餅の写真だけが送られていた。文章はない。

 

奎星が吹き出した。

 

「岳、何してんだよ」

 

スズメも横から画面を覗く。

 

「食べていますね」

 

「それは分かる」

 

奎星が入力する。

 

《俺末吉》

 

送信して数秒後、日向から返事が届いた。

 

《ざっこwwwww》

 

奎星の眉が動く。

 

《お前補習受けてねえだろ》

 

日向。

 

《元日に補習してるやついる?》

 

「…………」

 

奎星は静かに画面を閉じた。

 

「殺す」

 

「初詣帰りに物騒なことを言わないでください」

 

スズメが笑う。

 

「決闘する」

 

「御影先生へ報告しますよ」

 

「それは卑怯!」

 

「安全対策です」

 

「先生側の権力強すぎるだろ」

 

奎星がまだ文句を言っていると、連結扉が開いた。

 

がらり。

 

二人が同時にそちらを見る。

 

隣の車両から、一人の男が入ってきた。

 

背が高い。百八十を優に超えている。黒いロングコート。頭には深くフードを被っており、顔の上半分は影に隠れていた。

 

男は車両へ入ると扉を閉め、そして、その場で止まった。

 

座らない。

 

反対側。二十メートル近く離れた場所。ただ立っている。

 

「…………」

 

奎星は一度だけ男を見る。視線を戻し、また見る。

 

男も、こちらを見ていた。

 

いや、正確には、奎星を。

 

「…………」

 

奎星の笑みが少し消えた。

 

スズメはまだ気づいていない。

 

「なあ」

 

小声で呼びかける。

 

「はい?」

 

「後ろのやつ」

 

スズメが僅かに視線だけを動かす。

 

男と目が合った。

 

顔は見えない。でも、確かにこちらを向いている。

 

「ずっと見てね?」

 

「…………」

 

スズメは男を数秒観察した。

 

「気にしないでください」

 

「いや気味悪いだろ」

 

「見るだけなら犯罪ではありません」

 

「でも俺見てんじゃん」

 

「有名になりましたから」

 

「こんな一般社会で?」

 

「新聞の一面に載ったわけではないでしょうけど」

 

「じゃ違うじゃん」

 

奎星の右手が、自然に腰へ動いた。服の内側にある神代榊。その指先が柄へ触れる寸前、スズメの手が奎星の手首を押さえた。

 

「駄目です」

 

小さい声だった。

 

「でも」

 

「ここは一般社会です」

 

「誰もいないじゃん」

 

「車内には監視設備もあります。それに、見られているという理由だけで杖を抜かないでください」

 

奎星は男を見る。まだ見ている。

 

「……なんか」

 

「分かります」

 

「分かるんじゃん」

 

「だからといって先に杖を向けていい理由にはなりません」

 

「はいはい」

 

奎星は手を離した。それでも、視線だけは男から完全には外さなかった。スズメも、もう笑ってはいなかった。

 

 

数分のあいだ、男は動かなかった。

 

電車は走る。がたん、ごとん。街灯。暗闇。また街灯。

 

奎星が時々見る。そのたび、男は同じ場所からこちらを見ている。

 

「…………」

 

「次の駅で車両を移りましょう」

 

スズメが小さく言った。

 

「やっぱ怪しい?」

 

「怪しいかどうかとは別に、あなたが気にしているのでしょう」

 

「先生もだろ」

 

「多少は」

 

「ほら」

 

「ただし何もしていません」

 

「分かってるよ」

 

奎星は腕を組む。次の駅まで、あと数分。

 

そのとき、男が動いた。

 

こつ。

 

靴音が響く。

 

奎星の背筋が少し伸びた。

 

男はこちらへ歩いてくる。

 

こつ。こつ。

 

ゆっくり。急いでいない。それが、余計に気味が悪い。

 

「スズメちゃん」

 

「はい」

 

スズメも立ち上がった。

 

「次で降ります」

 

「え?」

 

「車両を移るより、一度降りましょう。次の列車でも時間は十分あります」

 

奎星も立つ。

 

「分かった」

 

二人は反対側の扉へ向かおうとした。

 

その瞬間、男の声がした。

 

「見つけたぞ」

 

二人の足が止まった。

 

低い声。少し掠れている。

 

奎星が振り返る。

 

男は数メートル先に立っていた。

 

「…………」

 

フードの奥。表情は見えない。

 

男がもう一度、口を開く。

 

「……蓮根奎星」

 

「……何?」

 

奎星の声が変わった。

 

右手が腰へ。今度は迷わない。神代榊の柄を握る。

 

「誰だよテメェ…」

 

スズメがすぐに奎星の前へ半歩出た。

 

「蓮根君。抜いてはいけません」

 

「俺の名前知ってんだぞ」

 

「それでもです」

 

「でも」

 

「一般社会です」

 

奎星の手は杖を握ったまま、まだ抜かない。

 

男が、それを見ていた。

 

奎星の手。スズメ。窓。車内。

 

そして、小さく笑った。

 

「……不便だな」

 

「何?」

 

男の口元だけが、フードの影から見えた。

 

「縛られるものは」

 

スズメの表情が変わった。

 

「蓮根君!」

 

同時だった。

 

男が杖を抜いた。

 

奎星も神代榊を抜く。

 

だが、男は二人へ向けなかった。

 

杖先を床へ向ける。

 

「デパルソ」

 

「――何!?」

 

鈍い衝撃が、足元を突き抜けた。

 

どんっ!!

 

床そのものが持ち上がったような感覚。次の瞬間、車輪の下から凄まじい金属音が響いた。

 

ガンッ!!

 

「っ!?」

 

車両が大きく跳ねる。吊革が一斉に揺れ、照明が消え、戻った。

 

「蓮根君!」

 

線路の下。今の魔法は、車内の床へ撃ったのではない。そのさらに下、台車、車輪、あるいはレールそのものへ向けられていた。

 

がががががががががっ!!

 

聞いたことのない音がした。

 

車体が横へ振られ、奎星の身体が座席へぶつかる。

 

「っ!」

 

スズメも手すりを掴んだ。

 

窓の外で、火花が大量に散る。

 

「嘘だろ……!」

 

脱線。

 

理解した瞬間、先頭側から何かが潰れるような巨大な音が響いた。

 

一両。次。また次。

 

衝撃が、こちらへ近づいてくる。

 

一般の乗客の悲鳴が、遠い車両から響いた。

 

奎星の顔色が変わった。

 

「……っ!」

 

神代榊を握る。

 

考える時間はなかった。

 

早瀬が自分を落下から救ったとき。御影が吹き飛ばされた日向と楓の速度を殺したとき。何度も聞いた呪文。

 

「アレスト・モメンタム!!」

 

銀白色の魔力が、一気に車両を満たした。

 

一人ではない。

 

座席。吊革。荷物。窓。車両。その先へ、さらに次の車両へ。

 

奎星の魔力が、列車全体を包もうとする。

 

「ぐっ……!」

 

腕へ凄まじい負荷がかかった。

 

重い。

 

人間一人ではない。何十トン。それが何両も、高速で動いている。

 

「止まれ……!」

 

車体の揺れが、ほんの少しだけ鈍くなる。飛び上がった鞄が空中で奇妙にゆっくりと回り、吊革の速度が落ちる。

 

しかし、列車そのものは止まらない。

 

「止まれぇぇぇぇぇぇ!!」

 

奎星が叫ぶ。

 

神代榊が震える。手首、肩、全身から魔力が一気に抜けていく。

 

それでも、速度は殺しきれない。

 

がんっ!!

 

車両が大きく傾いた。

 

「きゃ――!」

 

スズメの足が床から離れる。

 

奎星が見る。

 

「スズメちゃん!」

 

考えなかった。

 

魔法を維持したまま、左腕を伸ばす。スズメの身体を引き寄せた。

 

「蓮根君!?」

 

抱く。強く、胸へ。右手には神代榊。左腕はスズメの背中。もう片方の身体を、自分の内側へ。

 

次の瞬間、車両が横へ叩きつけられた。

 

ドンッ!!

 

「――っ!!」

 

奎星の背中が、座席脇の仕切りへまともにぶつかった。

 

息が消えた。

 

「…………っ」

 

声が出ない。

 

目の前が白くなる。

 

神代榊が手から落ちた。

 

列車はさらに数十メートル、金属を擦りながら進んだ。火花。硝子。悲鳴。

 

そして、ようやく止まった。

 

 

音が遠かった。

 

「…………」

 

奎星は、何が起きたのかすぐには分からなかった。

 

身体は横向き。いや、車両が傾いている。自分がどっちを向いているのか分からない。

 

「……っ」

 

息を吸う。入らない。

 

もう一度。

 

「っ……!」

 

肺が動かない。胸を何かに潰されているような感覚。苦しい。

 

「蓮根君!」

 

声が近い。

 

「蓮根君!」

 

スズメ。

 

奎星は目を開けようとする。ぼやける。黒い髪。白い服。紺色のコート。

 

「聞こえますか!?」

 

聞こえる。返したい。でも、息ができない。

 

「私を見てください!」

 

スズメの手が頬へ触れる。

 

「ゆっくり。息を吐いて」

 

吐く? 先に吸えていない。

 

「大丈夫です。ゆっくり」

 

スズメの声は、珍しく震えている。

 

「蓮根君」

 

もう一度。

 

「私を見て」

 

奎星は何とか彼女を見る。

 

「そうです」

 

ゆっくり、肺が動いた。

 

「……っ、は……!」

 

一気に空気が入る。

 

「ごほっ……!」

 

咳が出た。胸も背中も痛い。全部、遅れて来た。

 

「っ……ぁ……!」

 

「呼吸できますか?」

 

「……たぶん……」

 

「たぶんでは困ります」

 

「……できてる……」

 

スズメの顔が少しだけ緩む。

 

奎星はその顔を見た。

 

最初に思った。

 

「……スズメちゃん」

 

「はい」

 

「怪我……」

 

「私は大丈夫です」

 

「ほんと?」

 

「はい」

 

その言葉を聞いて、奎星の肩から少し力が抜けた。

 

「……よかった」

 

スズメの表情が、一瞬歪んだ。

 

まただった。

 

またこの少年は、自分より先に他人を。

 

「蓮根君」

 

「他の人」

 

「…………」

 

「電車」

 

奎星の目が周囲を動く。

 

「他の車両……」

 

スズメもすぐに理解した。

 

「待っていてください」

 

杖を拾い、身体を起こす。

 

「ホメナム・レベリオ」

 

淡い魔力が車両の外へ広がっていく。一両。二両。その先。人の存在を示す反応が、たくさんあった。

 

「…………」

 

スズメが息を吐く。

 

「います」

 

「……みんな?」

 

「少なくとも、周囲には多数の反応があります」

 

遠くから声も聞こえる。泣いている子供。誰かを呼ぶ声。

 

「大丈夫ですか!」

 

「こっち開きます!」

 

車掌らしき声。自力で動く音。完全に潰れた車両もない。

 

奎星の魔法が、最後の最後に速度を削った。完全には止められなかった。けれど、本来ならもっと酷かった。

 

「……よかった」

 

奎星が笑った。

 

スズメが振り返る。

 

「あなたがやったのですよ」

 

「止められてねえけど」

 

「十分です」

 

「御影先生なら止めたかな」

 

「今それを考えますか?」

 

「いや……なんとなく」

 

スズメが本気で怒った顔になる。

 

「あなたは何十トンあると思っている列車に、一人で魔法を掛けたのですか!」

 

「重かった」

 

「でしょうね!」

 

「褒めてよ」

 

「後でいくらでも褒めますから!」

 

「マジ?」

 

「ですから今は自分の身体を心配してください!」

 

「じゃ覚えとく……」

 

奎星が身体を起こそうとする。

 

「っ……!」

 

背中に激痛が走った。足へ力が入らず、身体が崩れる。

 

スズメが受け止めた。

 

「蓮根君!」

 

「……あれ」

 

「立たないでください!」

 

「ちょっと待って」

 

もう一度、足に力を入れる。

 

駄目だった。

 

「……立てねえ」

 

スズメの顔から血の気が引く。

 

「脚の感覚は?」

 

「ある」

 

「動かせますか?」

 

「動く」

 

「痛みは?」

 

「背中めっちゃ痛い」

 

スズメが息を吐く。

 

「おそらく衝撃と魔力消耗です。無理をしないで」

 

奎星が少し笑う。

 

「スズメちゃん軽かったから助かった」

 

「そういう問題ではありません」

 

「あと十キロあったら死んでた」

 

「怒りますよ」

 

「もう怒ってるじゃん」

 

「もっとです」

 

それでも、スズメは奎星の腕を自分の肩へ回した。

 

「外へ出ましょう」

 

「重いぞ」

 

「知っています」

 

「俺百七十五あるし」

 

「身長は関係ありません」

 

「体重は?」

 

「黙ってください」

 

「はい」

 

 

車両の非常扉は大きく歪んでいた。

 

スズメが杖を向ける。今は機密保持法を気にしている場合ではない。人命。緊急避難。奎星が今日のテストで答えたばかりの状況だった。

 

「デパルソ」

 

強すぎない。必要な分だけ。

 

歪んだ扉が外へ押し開かれる。

 

冬の冷たい空気が一気に車内へ入った。

 

「寒っ……」

 

「今それを言います?」

 

「寒いもんは寒い」

 

スズメに肩を借り、奎星は外へ出る。

 

線路脇。砂利。保守用の細い通路。

 

列車は完全には横倒しになっていなかった。何両かが大きく傾き、車輪の一部がレールから外れている。

 

前方では、乗客たちが少しずつ外へ誘導され始めていた。

 

遠くでサイレンが聞こえる。警察。消防。救急。まだ距離はある。でも、近づいている。

 

「……マジで大事故じゃん」

 

奎星が呟く。

 

「あなたは座ってください」

 

「でも」

 

「座る」

 

「はい」

 

スズメに押され、コンクリートの端へ座る。

 

「先生怖」

 

「誰のせいです?」

 

「フードのやつ」

 

言った瞬間、二人は止まった。

 

「…………」

 

そうだ。

 

男。

 

どこへ。

 

奎星の目が動く。

 

脱線した車両。線路。反対側。

 

「……スズメちゃん」

 

「はい」

 

「いた」

 

少し先、線路脇の十数メートルほど離れた場所に、男が立っていた。

 

黒いコート。フード。

 

怪我はない。服もほとんど乱れていない。

 

まるで、最初からここで待っていたように。

 

「…………」

 

スズメが奎星の前へ立った。杖を構える。

 

「何者ですか」

 

男は答えない。

 

「先ほどの事故を故意に起こしたのですね」

 

沈黙。

 

「目的は」

 

男の視線がスズメを越え、奎星へ向いた。

 

奎星も神代榊を握った。座ったまま。

 

「俺なんだろ」

 

男の口元が僅かに動く。

 

「何の用だよ」

 

「…………」

 

「黒曜の残党?」

 

反応なし。

 

「神代の仲間か?」

 

ほんの少し、男の首が傾いた。それだけだった。

 

奎星の眉が寄る。

 

「てめえ」

 

立とうとする。

 

背中に激痛が走った。

 

「っ……!」

 

膝が落ちる。

 

「蓮根君!」

 

「大丈夫」

 

「大丈夫ではありません!」

 

「でも俺狙いだろ!」

 

「だから何です!」

 

スズメは一歩も退かない。

 

「私は教師です」

 

短い一言だった。

 

奎星の口が止まる。

 

何度、聞いただろう。

 

危ないとき。

 

無茶をしたとき。

 

自分を守ろうとするとき。

 

教師だから。

 

男が杖を上げた。

 

スズメも構える。

 

遠くでサイレンがさらに近づく。

 

時間がない。

 

男の杖先が、スズメではなく奎星へ向いた。

 

「蓮根君!」

 

「分かってる!」

 

奎星も神代榊を上げる。

 

男の口が動く。

 

「ダムナティオ・メモリアエ」

 

聞いたことのない呪文だった。

 

奎星の頭に何も浮かばなかった。魔法史。呪文学。古代魔術。御影の訓練。スズメの授業。どこにもない。

 

光さえ、ほとんど見えなかった。

 

空気が透明な水のように、一瞬だけ歪む。

 

奎星へ。

 

「――っ!」

 

神代榊を上げる。

 

遅い。

 

一瞬、判断が遅れた。

 

そして、スズメが動いた。

 

「蓮根君!」

 

黒髪。紺色のコート。自分の前。

 

「スズメちゃん!?」

 

奎星の目が見開かれる。

 

「やめろ!!」

 

透明な魔法がスズメへ触れた。

 

ぱん。

 

音は小さかった。

 

爆発もない。血も出ない。衝撃もほとんどない。

 

ただ、スズメの身体が僅かに揺れた。

 

「…………」

 

一秒。

 

「スズメちゃん?」

 

二秒。

 

スズメは立っている。

 

「……何」

 

本人も分からない顔をしていた。

 

痛みはない。身体も動く。

 

それなのに、何かが変だった。

 

「スズメちゃん…?」

 

そのとき、ちん、と小さな音がした。

 

男の右手。

 

スズメの目がそちらへ向いた。

 

「…………」

 

男の掌に、いつの間にか小さな硝子玉があった。

 

透明。親指ほど。

 

内部には銀色の細い光。糸のようなものが、ゆっくり揺れている。

 

ちん。

 

もう一度、男の指にはめられた指輪へ硝子玉が触れた。

 

その音を聞いた瞬間、スズメの顔が変わった。

 

「…………それ」

 

掠れた声だった。

 

「スズメちゃん?」

 

スズメは男の掌だけを見ていた。

 

昔。

 

魔法省。

 

記録局。

 

古い巻物。

 

記憶を外へ写し取る媒体。

 

「……まさか」

 

そこまでだった。

 

膝から力が抜ける。

 

「スズメちゃん!!」

 

奎星が飛び込む。

 

背中に痛みが走る。それでも受け止めた。地面へ倒さない。

 

腕の中。

 

「おい!」

 

返事はない。

 

「スズメちゃん!」

 

奎星が男を見る。

 

硝子玉。銀色の光。

 

「…………」

 

奎星の顔から血の気が消えた。

 

「それ……」

 

男の手。硝子玉。

 

「何入ってんだ」

 

返事はない。

 

「おい」

 

奎星の声が震える。

 

「それ何だよ」

 

男は硝子玉をゆっくり握った。

 

「返せ」

 

奎星が言う。

 

「…………」

 

「返せよ」

 

神代榊を握る。

 

身体が痛い。

 

立てない。

 

関係ない。

 

「それ」

 

声が低くなる。

 

「スズメちゃんのだろ」

 

男の口元が僅かに笑った。

 

奎星の中で、何かが切れた。

 

「返せっつってんだろ!!」

 

立つ。

 

無理やり。

 

脚が震える。

 

それでも神代榊を男へ向ける。

 

「返せよ!!」

 

遠くでサイレンが大きくなった。

 

「警察です!」

 

拡声器の声が響く。

 

「線路内から離れてください!」

 

別方向から消防と救急の声も聞こえる。複数の光。赤。白。

 

男がそちらを見る。

 

そして、奎星へ視線を戻す。

 

「…………」

 

「待て」

 

奎星が杖を持ち上げる。

 

「逃げんな」

 

男の身体が僅かに揺らぐ。

 

「待て!!」

 

ぱん。

 

小さな破裂音がした。

 

男の姿が消えた。

 

姿くらまし。

 

「――っ!」

 

奎星が神代榊を振る。

 

もう遅い。

 

「クソッ!!」

 

声が夜へ響いた。

 

硝子玉も、男も、どこにもいない。

 

「クソ……!」

 

追えない。

 

身体が動かない。

 

スズメが腕の中にいる。

 

「…………」

 

奎星の怒りが、一瞬で消えた。

 

「スズメちゃん」

 

頬へ触れる。

 

温かい。

 

呼吸がある。

 

首に脈がある。

 

「……大丈夫」

 

誰へ言ったのか、分からない。

 

「大丈夫だから」

 

スズメへなのか、自分へなのか。

 

「スズメちゃん」

 

肩を軽く揺らす。

 

「ほら」

 

笑おうとする。

 

全然、笑えない。

 

「今度は逆じゃん」

 

返事はない。

 

「いつも俺が庇って怒られてたのに」

 

声が少し掠れる。

 

「先生がやったら意味ねえだろ」

 

「…………」

 

「怒れよ」

 

「また無茶したとか」

 

「立つなとか」

 

「俺の大丈夫は信用できないとか」

 

どれでもいい。

 

何でもいい。

 

「言ってよ」

 

遠くから人が走ってくる。

 

「君! 大丈夫か!」

 

「女性が倒れてる!」

 

「救急隊!」

 

声がたくさん聞こえる。

 

奎星には、あまり聞こえていなかった。

 

「スズメちゃん」

 

もう一度。

 

「スズメちゃん…」

 

そのとき、瞼が僅かに動いた。

 

「…………!」

 

奎星の顔が一気に明るくなる。

 

「スズメちゃん!」

 

ゆっくり、目が開く。

 

黒い瞳。いつもの目。

 

焦点はまだ合わない。

 

「大丈夫!?」

 

奎星が泣きそうな顔で笑う。

 

「どっか痛い?」

 

「…………」

 

「俺分かる?」

 

スズメの目がゆっくり奎星へ向いた。

 

目が合った。

 

「よかった……」

 

奎星の肩から力が抜けた。

 

本当に、心の底から。

 

「マジで……よかった」

 

笑う。

 

スズメは何も言わない。

 

「スズメちゃん?」

 

見ている。

 

奎星の顔を、じっと。

 

「…………?」

 

いつもなら、何です、と返ってくる。烏丸先生です、かもしれない。

 

声がない。

 

その代わり、スズメの眉が少し寄った。

 

そして、自分が知らない少年の腕の中にいることへ、今初めて気づいたように身体を引いた。

 

「……え」

 

奎星の腕が少し緩む。

 

「どうした?」

 

スズメは周囲を見る。

 

脱線した電車。線路。警察。救急。自分の杖。

 

それらには混乱しながらも、理解がある。

 

魔法も知っている。

 

自分が烏丸スズメであることも分かっている。

 

けれど、目の前で自分を抱えている十七歳ほどの少年は、知らない。

 

「…………」

 

「スズメちゃん?」

 

彼女の目が少しだけ警戒する。

 

「……なぜ」

 

声はいつもの声だった。

 

なのに、違う。

 

「え?」

 

「なぜ、私の名前を……?」

 

奎星の笑顔が消えた。

 

「…………何言ってんの?」

 

スズメは困ったように彼を見る。

 

初対面の相手へ失礼のないように、言葉を選ぶ。そんな顔だった。

 

「スズメちゃん」

 

奎星の声が震える。

 

「俺だよ」

 

返事はない。

 

「蓮根」

 

自分の胸を指す。

 

「奎星」

 

スズメの目が僅かに細くなる。

 

思い出そうとする。

 

でも、何もない。

 

五月二十九日。

 

深夜一時。

 

鴉。

 

魔法学校。

 

二人で食べた最初の夕食。

 

補習。

 

観測塔。

 

第零書庫。

 

死の呪文。

 

夏休み。

 

八咫小路。

 

水羊羹。

 

葛切り。

 

鬼火鳥。

 

星迎祭。

 

花火。

 

ダンス。

 

二羽の銀の鴉。

 

朝凪島。

 

常隠島。

 

握った手。

 

星帰り。

 

大切な人。

 

クリスマス。

 

銀色の腕時計。

 

七十九点。

 

初詣。

 

今日。

 

全部、ない。

 

烏丸スズメの中に、蓮根奎星だけがいない。

 

奎星は、それをまだ理解できなかった。

 

理解したくなかった。

 

救急隊員の足音が近づく。赤い光が二人を何度も照らす。

 

冬の夜。

 

脱線した電車。

 

砕けた窓硝子。

 

その真ん中で、烏丸スズメは半年間、誰よりも近くにいた少年を、知らない人を見る目で見つめた。

 

そして、小さく呟いた。

 

「……どちら様ですか?」

 

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