マホウトコロ   作:西野圭吾

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第8話 追いつきたい背中

 

御影玄一郎は、駆け寄ってくる蓮根奎星を黙って見ていた。

 

先ほどまで「派手な魔法を教えてほしい」と駄々をこね、こっぴどく叱られていた少年とは思えない勢いだった。桜色の魔法衣を翻し、床を蹴り、訓練人形の前まで戻ってくる。奎星はそこで一度だけ息を整えると、神代榊の杖を握り直した。

 

「御影先生」

 

「何だ」

 

「もう一回、やらせて」

 

御影はすぐには答えなかった。

 

奎星は訓練人形を見つめている。少し前まで、手にした杖は「派手な魔法を覚えるまでの練習台」にすぎなかった。敵を吹き飛ばす呪文や、炎を巻き起こす呪文のほうが格好いい。そう思っていた。

 

けれど、御影に言われたことが、今は頭から離れない。

 

魔法は、壊すためだけにあるのではない。

 

「エクスペリアームス。もう一回やりたい」

 

奎星が言った。

 

御影の左頬を走る深い傷は、相変わらず微動だにしない。

 

「理由は」

 

「ちゃんとできるようになりたいから」

 

「派手ではないぞ」

 

「……それ、もういいって」

 

奎星は少し恥ずかしそうに鼻を掻いた。

 

「俺が悪かったよ」

 

周囲では、すでに他の生徒たちが訓練を再開していた。赤い閃光が飛び交い、盾の呪文が弾ける乾いた音が響いている。誰もが自分の課題へ集中しているように見えたが、何人かはちらちらと奎星の様子を窺っていた。

 

御影は訓練人形の手へ、落ちた杖を戻した。

 

「なら撃て」

 

「はい」

 

奎星は人形の正面へ立ち、杖を構えた。

 

肩の力を抜く。

 

手首を固めすぎない。

 

御影がさっき言ったことを思い返す。

 

壊すのではない。

 

殺すのでもない。

 

ただ、止める。

 

相手の手から、杖だけを。

 

「エクスペリアームス!」

 

赤い光が走った。

 

ぱしっ、と小さな音がして、杖が人形の指から抜ける。勢いは強くなかった。杖は床を二度ほど転がり、御影の靴の手前で止まった。

 

奎星は、床に落ちた杖を見つめた。

 

「……これ?」

 

「もう一度」

 

御影は褒めなかった。

 

けれど奎星は、さっきほど不満そうな顔をしなかった。人形へ杖を戻してもらうと、今度は先ほどよりも慎重に構える。

 

二度目も成功した。

 

三度目は人形の向きを変えたが、それでも杖だけを弾き飛ばした。

 

四度目は距離を離した。

 

五度目、御影は何の予告もなく人形を横へ滑らせた。

 

「うわっ!」

 

奎星の呪文が外れ、赤い光が人形の肩をかすめて壁へ消えた。

 

「動くなんて聞いてねえ!」

 

「敵が止まってくれると思うか」

 

「それはそうだけど!」

 

「もう一度」

 

奎星は口を尖らせながらも、すぐに構え直した。

 

今度は人形の胸を追わない。手を見る。杖を見る。人形が動く先を読む。

 

「エクスペリアームス!」

 

杖が飛んだ。

 

御影の目が、ほんの僅かに細くなる。

 

「もう一度」

 

人形が右へ動く。

 

成功。

 

左へ動く。

 

成功。

 

急停止。

 

一度外した。

 

次は成功。

 

奎星は失敗するたび、同じ間違いを繰り返さなかった。

 

身体の向きが悪ければ直す。杖の振りが大きければ小さくする。魔力が強すぎれば次の一度で絞り、弱ければ必要な分だけ足す。

 

その修正には、ほとんど迷いがなかった。

 

まるで、一度の失敗そのものが説明書になっているかのようだった。

 

御影は腕を組み、訓練人形と奎星を交互に見ていた。表情には出さなかったが、胸の奥には、久しく感じたことのない高揚が生まれている。

 

魔力量ではない。

 

五千を超える魔力は確かに異常だ。それだけでも、御影がこれまで出会ってきた魔法使いの常識から外れている。しかし、魔力が多いだけの人間なら、まだ理解できる。生まれつき身体の大きい人間がいるのと同じで、才能という言葉で片づけられる。

 

御影が目を離せなかったのは、そこではなかった。

 

失敗する。

 

理解する。

 

直す。

 

成功する。

 

そして、その成功を再現する。

 

その間が、あまりにも短い。

 

魔法を覚えて、わずか二週間。

 

十一年学んできた生徒たちと同じことができる、という意味ではない。知識も経験も技術も、まだ比較にならないほど不足している。だが、この少年は、その差を恐ろしい速度で縮めている。

 

「もう一回!」

 

奎星が言った。

 

額には汗が浮かんでいるのに、目はまだ輝いていた。

 

御影は訓練人形へ杖を戻す。

 

「次は走りながらだ」

 

「マジ?」

 

「嫌ならやめるか」

 

奎星の口角が上がった。

 

「やる」

 

御影もまた、誰にも分からないほど僅かに口元を緩めた。

 

ここまでの才能を、御影は見たことがなかった。

 

授業終了の鐘が鳴っても、奎星は杖を下ろさなかった。

 

「御影先生、もう一回!」

 

「終わりだ」

 

「あと一発!」

 

「次の授業に響く」

 

「今から放課後だから!」

 

「補習があるだろう」

 

「五分くらい遅れてもスズメちゃん――」

 

背後から襟を掴まれた。

 

「ぐえ」

 

「帰るわよ」

 

水無瀬楓だった。奎星の襟を片手で掴んだまま、まるで大きな荷物でも運ぶように引っ張っている。

 

「待って楓! 今いいとこ!」

 

「鐘が鳴ったでしょう」

 

「あと一回!」

 

「さっきから『あと一回』を四回言ってるわ」

 

「これが本当の最後!」

 

日向が笑いながら鞄を肩へ担いだ。

 

「パチンコやめられない人みたいになってんぞ」

 

奎星が振り返る。

 

「お前には言われたくねえ!」

 

「俺、パチンコしたことねえよ!」

 

「そういう問題じゃない」

 

教室の入口に立っていた伊織が、眼鏡の位置を直しながら淡々と言った。

 

「そもそも二人とも十七歳だからね」

 

「そうだった」

 

「忘れるな」

 

岳はというと、すでに小さな餡パンを食べていた。

 

奎星が目を見開く。

 

「お前、それどっから出した!?」

 

「秘密」

 

「授業終わって三十秒だぞ!?」

 

「常備してる」

 

「そこだけ尊敬するわ!」

 

楓は奎星の襟を掴んだまま歩き出した。

 

「ほら、帰る」

 

「自分で歩ける!」

 

「なら歩いて」

 

「御影先生! 明日またやろうな!」

 

「教師に対する言葉遣いをどうにかしろ」

 

「またお願いします!」

 

奎星は慌てて言い直した。

 

「最初からそう言いなさい」

 

「はい!」

 

楓に引っ張られながらも、奎星は教室を出る寸前まで杖の振りを確認していた。

 

「エクスペリアームス……」

 

「廊下で振らないでよ」

 

「振ってない、イメージトレーニング」

 

「そのイメージで何か飛んだらどうするの」

 

「そのときは岳が食べる」

 

「何でも食べると思うなよ」

 

「食べるだろ」

 

「食べるけど」

 

「食べるんだ……」

 

五人の声が廊下の向こうへ消えていく。

 

御影は、その背中を黙って見送った。

 

やがて教室には、訓練人形と数本の杖だけが残る。

 

「……二週間、か」

 

呟きは、誰にも聞かれなかった。

 

放課後の回廊には、午後の光が長く差し込んでいた。

 

磨かれた床へ柱の影が伸び、開け放たれた窓の向こうでは、海が傾いた陽を受けて銀色に揺れている。遠くからは運動場で飛行術の練習をする生徒たちの声が聞こえ、時折、箒が風を切る音が響いた。

 

その回廊を、烏丸スズメが歩いていた。

 

正確には、大量の資料に埋もれながら歩いていた。

 

古い魔法史料、授業用の教科書、生徒が提出した巻物、さらに何冊もの分厚い記録集。腕の中に積み重なった本は彼女の顎の辺りまで達し、前方はほとんど見えていない。

 

「…………」

 

一番上の本が、ふらりと傾いた。

 

スズメは慌てて顎で押さえようとしたが、同時に腕の中の巻物がずれた。あと少しで床へ落ちるというところで、横から大きな手が伸びる。

 

積み上がった資料の上半分が、まとめて持ち上げられた。

 

急に視界が開ける。

 

スズメが顔を上げると、御影が無言で本を抱えていた。

 

「御影先生」

 

「半分持つ」

 

「結構です。自分で持てます」

 

「今、落としかけていた」

 

「落としていません」

 

「落ちる前だっただけだ」

 

「つまり、落としていません」

 

御影は横目で彼女を見る。

 

「教師になって口が達者になったな」

 

スズメの眉がぴくりと動いた。

 

「昔からです」

 

「九歳の頃は、もう少し素直だった」

 

「九歳の人間と二十一歳の人間を比較しないでください」

 

「十二歳の頃も」

 

「御影先生」

 

「十五歳――」

 

「昔話を始めるなら返してください」

 

スズメが資料へ手を伸ばすが、御影はその手が届かない高さまで本を持ち上げた。百五十五センチほどのスズメと、大柄な御影ではどうにもならない。

 

「大人げないですよ」

 

「教師に向かって、その口を利くようになったか」

 

「今は同僚です」

 

「そうだったな」

 

低い声に、わずかに笑いが混じった。

 

御影玄一郎がマホウトコロへ赴任したのは、十年以上前のことだった。

 

当時のスズメは、まだ下級課程の生徒だった。九歳。黒髪を今と同じように切り揃え、身体に対して少し大きな桃色の制服を着て、教師へ質問を浴びせていた。

 

魔法史の授業でもないのに、

 

「先生、江戸期の禍祓官制度と現在のものに連続性はありますか」

 

などと尋ねてくる、妙に大人びた子供だった。

 

御影は、その頃から彼女を知っている。

 

学生だったスズメを。

 

記録局へ就職したスズメを。

 

一年で戻ってきたスズメを。

 

そして、教師になった今のスズメを。

 

二人は並んで回廊を歩いた。

 

しばらくは、紙の擦れる音と足音だけが続いた。窓から差し込む光が二人の影を長く伸ばし、その影が階段の手前で重なる。

 

先に口を開いたのは御影だった。

 

「烏丸」

 

「はい」

 

「蓮根をどう思う」

 

スズメは前を向いたまま答えた。

 

「無礼です」

 

「…………」

 

「不器用で、無計画で、不躾。落ち着きがありませんし、食べ物に釣られます。勝手に小妖へ名前を付けますし、私のことを何度訂正しても――」

 

「待て」

 

御影が足を止めた。

 

スズメも立ち止まる。

 

「そんなことを俺が気にして聞いたと思っていないだろう」

 

「違うのですか?」

 

御影はじっと彼女を見る。

 

「……少し蓮根に似てきたな」

 

「心外ですね」

 

返事が速かった。

 

御影は鼻で笑う。

 

「俺が言いたいのは、あいつの吸収力だ」

 

スズメの表情から、僅かに冗談が消えた。

 

二人は再び歩き出す。

 

「今日、エクスペリアームスを教えた」

 

「はい」

 

「最初は人形ごと吹き飛ばした」

 

スズメが遠い目をした。

 

「容易に想像できます」

 

「二回目は弱すぎた」

 

「それも想像できます」

 

「七回目で適正出力へ合わせた」

 

そこで、スズメの足が少し遅くなった。

 

御影は続ける。

 

「その後、距離を変えた。角度を変えた。標的を動かした。一度失敗した条件は、次にはほとんど修正していた」

 

「……やはり」

 

「お前も気づいていたな」

 

「二週間、ほぼ毎日見ていましたから」

 

スズメの腕の中には、まだ何冊もの資料がある。その一番上には、『古代東洋魔術体系論』と書かれた古い本が載っていた。

 

彼女の指先が、表紙を静かに押さえる。

 

「初めは、魔力量だけが異常なのだと思っていました」

 

「俺もだ」

 

「けれど、違います」

 

スズメは遠くの海へ目を向けた。

 

「一度教えたことを、そのまま覚えるというだけではありません。蓮根君は、失敗したときに何が違ったのかを自分で探します。しかも、その判断が速い」

 

御影が短く頷く。

 

「はっきり言う」

 

低い声が、静かな廊下へ落ちた。

 

「二週間であれは異常だ」

 

スズメは否定しなかった。

 

「同じ失敗を繰り返さない」

 

「はい」

 

「魔法量が多い人間はいる。技術に優れる人間もいる。頭の切れる奴もいる」

 

御影は腕の中の資料を持ち直した。

 

「だが、覚える速さそのものがあそこまで飛び抜けた奴を、俺は見たことがない」

 

スズメは何も言わなかった。

 

その言葉を、誰より理解している。

 

一日目。

 

ルーモス。

 

ノックス。

 

アロホモラ。

 

レパロ。

 

アクシオ。

 

浮遊呪文。

 

二日、三日、一週間。

 

失敗の数が減っていった。

 

魔法の数が増えるほど、むしろ新しい魔法への適応は速くなっている。

 

まるで奎星自身が、魔法というものの法則を理解し始めているように。

 

御影は前を向いた。

 

「あいつが、どんな魔法使いになるか」

 

足音が響く。

 

「それは、俺たちの責任だ」

 

スズメが御影を見る。

 

頬の傷。険しい顔。普段と変わらない姿に見える。

 

しかし、言っていることは重かった。

 

「成長が速ければ」

 

御影は続ける。

 

「それだけ早く覚える」

 

「良いことも」

 

スズメが言った。

 

御影が頷く。

 

「悪いこともだ」

 

カズヒロ・シラトリ。

 

白くなった制服。

 

才能は時に凶器になる。

 

スズメの脳裏に、自分が奎星へ語った言葉が蘇った。

 

「力を持つ速度に、精神が追いつかなければ危険だ」

 

御影は言った。

 

「だから急がせるな」

 

「はい」

 

「褒めすぎるな」

 

「それは元から」

 

「……そうだな」

 

「むしろ、もう少し褒めるべきかもしれないと思っていましたが」

 

「やめておけ。調子に乗る」

 

「ですよね」

 

そこだけは、恐ろしいほど意見が一致した。

 

二人は同時に頷く。

 

「本人には?」

 

スズメが訊いた。

 

御影は即答した。

 

「言わん」

 

「私もです」

 

「あいつに『お前の成長速度は異常だ』なんて言ってみろ」

 

スズメは無表情で答えた。

 

「その日のうちに『やっぱ俺、天才じゃん』と言いますね」

 

「翌日には廊下で自慢する」

 

「翌日まで待ちません」

 

「そうだな」

 

二人は珍しく、同時に溜息をついた。

 

夕方。

 

いつもの六畳の和室で、奎星は丸机の前へ座るなり、今日一日の出来事を話し始めた。

 

スズメが教科書を開くより早かった。

 

「御影先生に怒られた!」

 

「そうですか」

 

「もっと興味持ってよ!」

 

「ある程度予想していましたから」

 

「ひどくない?」

 

奎星は頬杖をついた。

 

「俺がさ、派手な魔法を教えてって言ったら、めっちゃ怒られて」

 

「……あなたは本当に」

 

スズメは額へ指を当てる。

 

「私が昨日、何を言ったか覚えていますか?」

 

「真面目に受けろ」

 

「その結果がそれですか?」

 

「でも、ちゃんと反省したって!」

 

奎星は少し身を乗り出した。さっきまでの軽い調子から、声が少し変わる。

 

「御影先生、禍祓官だった頃の話をしてくれた」

 

スズメの指が止まった。

 

「御影先生が?」

 

「うん」

 

「ご自分から?」

 

「そう」

 

「……珍しいですね」

 

奎星が首を傾げる。

 

「そうなの?」

 

「御影先生は、禍祓官時代のお話をあまりされません」

 

「なんで?」

 

「話したくないこともあるのでしょう」

 

スズメは静かに頁をめくった。

 

奎星は、御影の左頬に残る深い傷を思い出した。あれがいつできたものなのか、今日の話と関係しているのか、少し気になった。

 

けれど、今は訊かなかった。

 

「どのようなお話でしたか?」

 

スズメが尋ねる。

 

「山で闇の魔法使いを捕まえたときの話」

 

「はい」

 

「相手を殺せたけど、殺さなかったって」

 

奎星は自分の杖を取り出し、丸机の上へ置いた。

 

黒に近い神代榊の木が、夕暮れの光を鈍く返す。

 

「エクスペリアームスを使ったんだって」

 

スズメは静かに聞いている。

 

「最初さ、俺、あれ地味だと思ってたんだけど」

 

「失礼ですね」

 

「今は違うよ」

 

奎星は杖へ指を置いた。

 

「殺さないで止めるほうが難しいって言われてさ」

 

自分の指を見る。

 

この中には、水晶で測れないほどの魔力がある。

 

それでも、必要なのは全部出すことではない。

 

「なんか、かっけえなって」

 

スズメが眉を上げる。

 

「御影先生が?」

 

「うん」

 

奎星は笑った。

 

「俺、御影先生みたいになりたい」

 

その言葉に、スズメはすぐには答えなかった。

 

奎星は気づいていない。

 

どれほど大きなことを言ったのか。

 

御影玄一郎。元禍祓官。日本魔法界でも屈指の実戦魔法使い。現役時代には、幾つもの重大魔法事件へ関わった。若い禍祓官の中には、今でも彼を目標にする者がいる。

 

そこへ、魔法を覚えて二週間の少年が「なりたい」と言った。

 

普通なら、無謀な夢だと笑える。

 

けれど、スズメは笑えなかった。

 

五千を超える魔力量。

 

異常な習得速度。

 

そして今日、御影から聞いた話。

 

もし、このまま正しく成長したなら。

 

「……大きな夢ですね」

 

スズメは言った。

 

「そう?」

 

「御影先生は、日本魔法界でも屈指の魔法使いです」

 

奎星の目がまた輝く。

 

「やっぱそんなすげえの!?」

 

「先ほど言ったでしょう」

 

「じゃあ、余計になりたい!」

 

スズメは思わず微笑んだ。

 

「では、たくさん勉強しなければなりませんね」

 

教科書を開き、奎星の前へ置く。

 

奎星の笑顔が消えた。

 

「…………」

 

「何です?」

 

「御影先生、絶対そんな勉強してないだろ」

 

スズメは真顔になった。

 

「していますよ」

 

「嘘だ」

 

「なぜです?」

 

「なんか勉強嫌いそうじゃん」

 

「御影先生に言ってみますか?」

 

「やめてください」

 

即座に敬語になった。

 

スズメは溜息をつきながら教科書を開く。

 

「禍祓官になるには、魔法法規、呪術理論、魔法生物、魔法薬、対闇魔術、魔法犯罪史など、多くの知識が必要です」

 

「多っ」

 

「御影先生は今でも勉強されています」

 

「先生なのに?」

 

「先生だからです」

 

奎星の眉が寄る。

 

「なんで?」

 

「知らないことを教えることはできないでしょう」

 

それを言われると、ぐうの音も出ない。

 

「それに」

 

スズメは続けた。

 

「今あなたが学んでいることの多くは、禍祓官にならなくても役立ちます。どんな仕事をするにしても」

 

仕事。

 

その言葉に、奎星の表情が少し変わった。

 

進路希望調査。

 

海賊。

 

何も考えていなかった未来。

 

今でも、禍祓官になると決めたわけではない。御影みたいになりたいという気持ちだって、今日生まれたばかりだ。明日にはまた別の何かを見つけるかもしれない。

 

それでも、以前なら将来の話をされた瞬間に逃げていたのに、今は逃げなかった。

 

「……そっか」

 

スズメは、その小さな変化に気づいた。

 

だが、何も言わない。

 

「では」

 

教科書を指で叩く。

 

「補習を始めます」

 

奎星の顔が崩れた。

 

「えぇー……今日、エクスペリアームスめっちゃ頑張ったんだけど」

 

「防衛術と魔法史は別科目です」

 

「御影先生みたいになるには魔法史いる?」

 

「必要です」

 

「絶対?」

 

「絶対です」

 

「古代魔術ならやる」

 

「今日は近代魔法行政史です」

 

「一番眠そう!」

 

「寝たら教科書を飛ばします」

 

「みんな言ってたけど、マジだったんだ!?」

 

スズメは黒板代わりの小さな板へ杖を向けた。

 

白い文字が浮かび上がる。

 

近代日本における禍祓官制度の成立

 

奎星の目が止まった。

 

「…………」

 

スズメが横目で見る。

 

「何です?」

 

「それ、御影先生に関係ある?」

 

「現在の禍祓官制度へ繋がる話ですから、多少は」

 

奎星は座り直した。

 

「やろう」

 

「随分早いですね」

 

「御影先生みたいになるから」

 

スズメは、ほんの僅かに笑った。

 

「では、まず明治期の魔法行政再編から」

 

「待って。江戸から繋げて教えて」

 

「長くなりますよ」

 

「いいよ」

 

「夕食を過ぎますが」

 

「それは困る」

 

「どちらですか」

 

「夕飯までに全部教えて」

 

「無茶を言わないでください」

 

外では、夕方の鐘が鳴るまで、まだ少し時間があった。

 

丸机の上で、奎星の杖の横に白紙のノートが開かれる。

 

昨日まで夢などなかった少年が、初めて誰かの背中を追いかけようとしていた。

 

その背中は、まだ遠い。

 

けれど、奎星はもう、立ち止まって見ているだけではなかった。

 

「先生」

 

「何です?」

 

「御影先生って、昔からあんなに怖かったの?」

 

「ええ」

 

「じゃあ、俺が追いつく頃にはもっと怖くなってる?」

 

「あなたが成長すれば、少しは丸くなるかもしれません」

 

「俺が?」

 

「御影先生がです」

 

「そっちかよ!」

 

和室の外へ、スズメの小さな笑い声が漏れた。

 

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