一月上旬。
冬季休暇が終わった。
三学期。
国立魔法学校マホウトコロへ、生徒たちが戻ってきた。
巨大なウミツバメが次々と発着場へ降り立ち、正月をそれぞれの故郷で過ごしていた生徒たちが、大きな荷物を抱えて校舎へ入っていく。久しぶりに会った友人へ駆け寄る者、土産を見せ合う者、冬休みの宿題が終わっていないと騒ぐ者、食堂の小妖へ帰省先の菓子を渡す者。
そして。
「奎星ぃぃぃぃ!!」
「うるせえ!!」
男子寮の廊下へ、朝比奈日向の声が響いた。
「久しぶり!!」
「一週間ちょいだろ!」
「正月挟んでるから体感一か月!」
「お前初詣で俺のこと煽ったの忘れてねえからな!」
「末吉!」
「殺す!」
「新年早々怖っ!」
楓が二人の間へ鞄を押し込む。
「廊下で騒がない」
「楓も久しぶり!」
「うん。久しぶり」
「何その温度差!?」
岳は大きな荷物を肩へ掛けている。
「土産持ってきた」
奎星の目が光る。
「食い物?」
「食い物」
「友よ」
「俺にもある?」
日向が割り込む。
「ある」
「岳ぇ!」
伊織は少し離れたところで、その騒ぎを見ながら眼鏡を押し上げた。
「始業式前から元気だね」
「伊織も食う?」
「食べ物の話しかしてないの?」
いつもの五人。
いつもの朝。
冬休み前と、何も変わらない。
少なくとも、表面上は。
*
始業式の行われる大講堂では、九重院紫苑が壇上へ立った。
一学期、二学期と、あまりにも多くのことがあった学校。壊れた場所は、もうほとんど修復されている。神代冥司に占拠され、生徒たち自身が校長を攻撃し、教師と生徒が学校を追われた。そんな出来事が、嘘のようだった。
九重院は三学期について簡潔に話した。授業、進級、卒業。一部、二学期に中断された学校行事の代替。そして。
「昨年は、皆さんにとって決して平穏な一年ではありませんでした」
講堂が静かになる。
「ですが、マホウトコロは学校です」
九重院の声は穏やかだった。
「ここは、恐怖の記憶だけを残す場所ではありません」
教師たち、生徒たちが見る。
「学び。間違え。友人と笑い。そして次へ進む場所です」
奎星は、ぼんやりと壇上を見ていた。
次へ。
進む。
その言葉が、今の自分には少しだけ難しかった。
視線が教師席へ動く。御影、藤森、薬師寺、高宮、柊木、そして烏丸スズメ。
「…………」
いつもの教員衣。顎で揃えた黒髪。背筋は真っ直ぐで、何も変わらない。
彼女は普通に九重院の話を聞いていた。時折、近くの教師と話す。高宮が何か言い、スズメが小さく返す。
普通。
あまりにも普通だった。
自分のこと以外は、全部。
「…………」
奎星は目を逸らした。
*
三学期最初の魔法史。
「では、教科書百八十六頁を開いてください」
頁をめくる音が響く。スズメが教壇に立ち、いつもの授業が始まった。黒板、羽根筆、丁寧で少し堅い説明。
「前学期までに扱った魔法社会分離の成立過程を踏まえ、今学期は近代日本における魔法行政制度の再編から始めます」
日向が小声で言った。
「初日から重い」
楓がすぐに返す。
「聞こえるわよ」
「まだ何もしてないのに」
「喋ってる」
スズメが教科書から顔を上げる。
「朝比奈君」
日向が、ぴしっと背筋を伸ばした。
「はい!」
「授業中です」
「はい!」
教室に小さな笑いが起こる。
いつも通り。
奎星も、昔なら笑っていた。そして、きっと何か余計なことを言った。
「スズメちゃん、日向だけずるくね?」
「烏丸先生です」
そんなやり取りが、あったはずだった。
今日は、ない。
スズメの視線が教室を流れ、奎星のところにも一瞬だけ来る。教師が生徒を見る目。それだけだった。
「…………」
奎星は教科書へ目を落とした。
授業は普通に進んだ。
奎星は珍しく、一度も喋らなかった。
*
一時間後、授業が終わった。
「では、ここまでです」
生徒たちが一斉に立ち上がる。スズメは教卓の資料をまとめた。
以前なら、奎星がその横へ行った。
「今日補習?」
「あります」
「何時?」
「放課後です」
「飯食ってからでいい?」
「先に来てください」
「えー」
「蓮根君」
そんな、どうでもいいやり取りが毎日あった。
今日は、スズメが資料を抱え、そのまま教室を出ていく。奎星へ何も言わず、扉が閉まった。
「…………」
奎星は教科書を閉じた。
ぱたん、と音がする。
思ったより大きく聞こえた。
「……奎星」
楓の声がした。
「何?」
「…………」
楓は少し、奎星を見る。
「いや」
「何だよ」
「別に」
隣では、日向も何か言いたそうな顔をしていた。伊織も、奎星と扉を交互に見る。
岳だけが少し考えたあと、口を開いた。
「補習ないの?」
奎星の手が止まった。
「…………」
日向と楓が同時に岳を見る。岳は、普通に疑問だったらしい。
「冬休みずっとやってたんだろ」
「…………」
奎星は鞄へ教科書を入れる。
「ない」
「終わった?」
「まあ」
「よかったじゃん」
「…………」
「うん」
短い返事。それだけだった。
四人は何も言わなかった。
けれど、全員が気づいていた。
何かがおかしい。
*
昼の大食堂は、三学期初日ということもあり、生徒でいっぱいだった。天井の魔法灯、食器の音、笑い声。小妖たちが忙しそうに料理を運んでいる。
いつもの五人は、少し端の席にいた。
奎星、日向、楓、岳、伊織。
しばらく普通に飯を食べていた。少なくとも、普通にしようとしていた。
やがて、日向が耐えられなくなった。
「なあ」
奎星が顔を上げる。
「何?」
「お前」
日向は少し声を潜めた。
「烏丸先生と何かあった?」
箸が止まる。
楓も、もう奎星を見ていた。
「私も気になってた」
「…………」
「授業中、一回も絡まなかったし」
日向が続ける。
「廊下ですれ違っても何も言ってなかったし」
伊織も口を開いた。
「烏丸先生のほうもね」
「…………」
奎星は周囲を見た。他の生徒が近くにいる。少し顔を寄せると、四人も近づいた。
「……絶対」
奎星が言う。
「絶対、他のやつに言うなよ」
日向の顔が急に真面目になる。
「何」
「先生たちからも」
奎星は小さく言った。
「生徒には伏せるって言われてる」
「……何を?」
一拍置いて、奎星は言った。
「スズメちゃん」
喉が少し詰まる。
「記憶喪失になった」
「記憶喪失!?」
楓の声が食堂へ響いた。近くの生徒が何人か振り向く。
奎星が即座に言う。
「静かにしろ……!!」
楓が口を押さえた。
「ご、ごめん!」
日向も周囲を見る。幸い、騒がしい食堂の中で全員に聞かれたわけではない。
奎星はさらに声を落とした。
「他の生徒にバレて質問責めにされたら、スズメちゃんが怖いだろ」
楓がすぐに表情を改める。
「……そうね」
伊織も頷いた。
「本人の混乱を防ぐために伏せてるってこと?」
「うん」
「でも」
日向が少し眉を寄せる。
「普通に授業してたぞ」
「できるんだよ」
「え?」
奎星は箸を置いた。
「俺以外」
四人の動きが止まる。
「…………」
「俺以外のことは」
奎星はゆっくりと言った。
「全部覚えてる」
誰も喋らなかった。
奎星は続ける。
「自分の名前も。先生なのも。学校も。御影先生も。校長も。お前らも」
「…………」
「星帰りも。神代も。記録局にいたことも」
日向が口を挟んだ。
「待って」
少し混乱したように奎星を見る。
「じゃあ」
「お前だけ?」
「うん」
岳の箸も止まっていた。
「奎星のことだけ?」
「正確には」
奎星は少し目を落とした。
「俺が関わってる記憶」
初詣、補習、クリスマス、星迎祭、夏、五月。全部。
「スズメちゃんは覚えてんだよ。冬休みに補習してたことも」
「でも?」
楓が訊く。
「誰に教えてたか分かんない」
「…………」
「初詣も行ったの覚えてる」
「…………」
「誰と行ったかだけ、ない」
楓の顔から血の気が少し引いた。
「そんな……」
日向も、今度はふざけなかった。
「何で」
「分かんない」
「いつから?」
「元日」
奎星は短く答えた。
「俺と初詣行った帰り」
伊織の目が少し鋭くなる。
「……東京で?」
「うん」
「まさか」
日向がゆっくり顔を上げる。
「正月のニュースでやってた電車の脱線事故」
奎星を見る。
「あれ」
「俺」
「…………」
「俺とスズメちゃんが乗ってた」
「マジかよ……」
日向が本当に言葉を失う。
楓も言った。
「怪我人ゼロって」
「…………」
「奇跡だってニュースでずっと言ってたわよ」
奎星は少し気まずそうに頭を掻いた。
「まあ」
「お前がやったの?」
伊織が訊く。
「アレスト・モメンタム」
四人がまた止まる。
日向が訊いた。
「電車に?」
「うん」
「一両?」
「多分ほぼ全部」
「…………」
「止めきれなかったけど」
日向が椅子の背へ身体を預ける。
「いやいやいや」
「何?」
「何してんの、お前」
「俺もそう思う」
楓が少し怒った顔になる。
「怪我は?」
「背中」
「何で言わないのよ!」
「もう治ってきてるし」
「それは言う!」
「今言った」
「そういうことじゃない!」
いつもの楓だった。
少しだけ、奎星が笑う。
その笑みを見て、楓の声が少し弱くなった。
「……本当に大丈夫?」
「身体は」
身体は。
その言い方で、全員が分かった。
精神は、大丈夫ではない。
「それで」
伊織が話を戻す。
「事故と記憶喪失は繋がってるんだね」
「うん」
奎星の表情が変わる。
「変な男がいた」
黒いフード。長身。ずっと自分を見ていた。名前を呼ばれた。
「そいつが電車脱線させた」
「故意に?」
「デパルソ撃った」
楓の目が険しくなる。
「最悪じゃない」
「んで」
奎星が机の上で指を使い、小さな丸を作る。
「外出たあと、俺に変な呪文撃ってきた」
「何て?」
伊織が訊く。
「ダムナティオ・メモリアエ」
伊織がすぐに頭の中で探す。
「……聞いたことない」
「真壁さんも知らなかった」
「真壁さんが?」
「うん」
日向が訊いた。
「それを烏丸先生が庇った?」
奎星は頷いた。
「そのあと」
小さな丸を描いていた指が止まる。
「男の手に、硝子玉が出た」
「硝子玉?」
「透明で。中に銀色の光みたいなのが入ってた」
岳が言った。
「それが記憶?」
奎星が岳を見る。
「俺も」
少し声が強くなる。
「そう思ってる」
楓が訊く。
「根拠は?」
「ない」
「ないの!?」
「でも」
奎星は左腕の時計へ一度触れた。
「多分」
「…………」
「あの中にスズメちゃんの記憶がある」
伊織が考える。
「呪文が当たった直後に現れた」
「うん」
「それまでなかったものが?」
「うん」
「それなら」
伊織がゆっくり言った。
「少なくとも何らかの魔法的生成物である可能性は高い」
奎星の顔が少し明るくなる。
「だろ?」
「でも」
楓が冷静に言った。
「だからって奪えば戻るって決まってないでしょ」
「戻せるかもしれない」
「かもしれない、じゃない」
「でもやる」
「奎星」
「俺」
声が少し落ちる。
「絶対取り戻したい」
それだけだった。
楓は何も言えなくなる。
日向が少し椅子へ身を預けた。
「……確かにさ」
「何?」
「二人の距離がいつもより遠い感じはしたけど」
「うん」
「俺」
一拍置いて言った。
「てっきり振られたのかと思ってた」
奎星の目が細くなる。
「殺すぞ」
「はいはい」
「はいは一度」
奎星が条件反射で言った。
「…………」
全員が止まる。
奎星自身も止まった。
それは、スズメから何度も言われた言葉だった。
日向の顔から笑いが消える。
「……ごめん」
奎星は少しだけ目を伏せた。
「いや」
「…………」
「いい」
岳が黙って奎星の皿へ唐揚げを一個置いた。
「食え」
奎星が見る。
「何で」
「元気出る」
「単純だな」
「出ない?」
「…………」
奎星は唐揚げを一口食べた。
「うまい」
「だろ」
少しだけ、空気が戻った。
そのとき。
「レンコン」
足元から声がした。
奎星が下を見る。
「天ぷら」
藍染めの作務衣。小さな名札。《テンプラ》。
天ぷらが、お盆を持って奎星へ近づいてきた。
「オカワリ?」
「いや、まだ大丈夫」
天ぷらは奎星を見た。その次に、日向、楓、伊織、岳を見る。全員が妙に小さな声で話していたため、天ぷらは首を傾げた。
「ナイショ?」
「…………」
奎星が少し笑った。
「内緒」
天ぷらが真面目に頷く。
「ワカッタ」
そして去っていく。
日向が言った。
「絶対聞いてたぞ今」
「天ぷらなら大丈夫」
「信頼すごいな」
「前に学校取り戻したときもめっちゃ働いたからな」
伊織が頷く。
「実績はあるね」
天ぷらが少し遠くから叫んだ。
「レンコン!」
「何ー!?」
「シズカニ!」
食堂に笑いが起こる。
奎星も少し笑った。
*
午後の授業が終わり、放課後になった。三学期の日常が始まった。
けれど、奎星にとっては日常ではなかった。
魔法史の授業が終わっても研究室へ行かない。夕食後も行かない。夜になっても、赤字の課題は来ない。
「…………」
男子寮の机で、奎星は教科書を開いていた。けれど、目には入らない。窓の外には暗い海が広がっている。
「奎星」
伊織が声をかけた。
「ん?」
「さっきの話だけど」
三人もまだ起きている。日向、岳、伊織。楓は女子寮だが、昼食後、五人のグループへ《調べるなら手伝う》と短く送ってきた。
伊織が机へノートを置く。
「硝子玉の件。魔法省が調べてるなら、僕たちにできることは少ない」
「うん」
「でも」
頁を開く。
「烏丸先生の過去の事故」
奎星が顔を上げた。
「…………」
「さっき言ったよね。先生は記録局にいたことを覚えてるって」
「うん」
「記憶に関わる事故を起こしたことも?」
「多分」
奎星の動きが止まる。
多分。
いや、真壁が言っていた。記録局を辞めた理由も覚えている。
「覚えてる」
「じゃあ」
伊織が言った。
「今回と比較できるかもしれない」
奎星の胸が少しざわつく。
「前の事故」
日向が訊いた。
「あれ何?」
奎星はゆっくり椅子へ座り直した。
「……俺」
「うん」
「前にスズメちゃんから聞いたことある」
観測塔。夜。スズメが話してくれた、自分の過去。記録局。古代魔術。
「記憶を外に取り出して」
日向が眉を上げる。
「え?」
「別の何かに保存する魔法」
伊織の目が変わった。
「ちょっと待って」
奎星も、もう同じところへ辿り着いていた。
「…………」
外へ取り出す。
別の媒体へ保存。
記憶。
硝子玉。
「……同じじゃん」
奎星が呟く。
日向が訊いた。
「何が?」
奎星が勢いよく立ち上がる。
「同じだよ!」
「何が!?」
「今の!」
背中はもうかなり痛みが薄れている。それでも、少し響いた。
「スズメちゃんが昔やった魔法!」
伊織も、もう立っていた。
「詳しく教えて」
「古い巻物だった。記録局に保管されてたやつ」
「術式は?」
「知らない」
「使用方法」
「知らない」
「媒体は?」
「それも」
奎星は止まった。
「…………」
硝子だったか?
聞いていない。
いや、スズメはそこまで話していない。
「分かんない」
「被験者は?」
「女の子」
奎星は記憶を辿る。
「事故ったあと、自分の名前とか家族とか学校とか、そういうのは覚えてた」
「でも?」
「一部の記憶だけなくなった」
日向が言った。
「…………」
「母親と祭り行った記憶とか。初めて箒乗ったときとか」
伊織が小さく言う。
「選択的な記憶欠損」
「あと」
奎星の声が少し低くなる。
「親友と初めて会った日の記憶」
「…………」
今のスズメは、奎星だけが抜けている。
写真、答案、記録を見ても、自分の記憶だと感じられない。
過去の少女も、写真を見ても、自分の思い出だと感じられなかった。
奎星の背中を冷たいものが走る。
「……やっぱり」
伊織も真剣だった。
「似すぎてる」
日向が訊く。
「その女の子、記憶戻ったの?」
「…………」
奎星は答えなかった。
「奎星?」
「戻んなかった」
静かな声だった。
「魔法省でも治療した」
「…………」
「外国の研究者にも聞いたって」
「でも」
「戻らなかった」
誰も喋らない。
奎星は左腕の時計を見る。
「…………」
でも、今は違う。
過去の事故では、記憶がどこへ行ったか分からない。
今回は、硝子玉を見た。
あれがもし記憶なら、まだ存在している。
「……戻せる」
奎星が言った。
伊織が訊く。
「根拠は?」
「あれがある」
「硝子玉?」
「うん」
「過去の事故に、媒体が生成された記録は?」
「知らねえ」
「なら」
伊織は眼鏡を押し上げた。
「そこからだね」
奎星が訊く。
「調べる?」
「調べる」
日向が立ち上がった。
「俺も」
岳も言う。
「俺も」
奎星が三人を見る。
「……ありがと」
日向が肩へ腕を回す。
「何言ってんだよ」
「重い」
「感動するとこだろ!」
「背中痛い!」
「先に言え!!」
「事故ったって言ったじゃん!」
岳が日向の腕を外す。
「怪我人」
「すまん!」
奎星が笑う。
少しだけ、ちゃんと笑った。
*
翌日の昼休み、五人は図書室に集合した。楓も来ていた。
「で」
楓が腕を組む。
「いつの事故なの?」
奎星が答える。
「そこなんだよ」
「聞いてないの?」
「スズメちゃん、事故った日付まで話さねえだろ普通」
「まあそうね」
伊織はすでにノートを広げていた。
「時期は絞れる」
「どうやって?」
日向が訊く。
「烏丸先生、今二十一歳」
「うん」
「去年の夏」
伊織が奎星を見る。
「卒業したのは三年前だと本人が言っていたんだよね」
奎星が思い出す。
水月庵での会話。
――卒業したのも別に三年前だもんな。
――そうですね。
「言ってた」
「つまり、おおよそ二〇二三年に卒業」
伊織が一行書く。
《2023 マホウトコロ卒業》
「そして」
奎星が続ける。
「記録局にいたの一年だけ」
「そう」
伊織はさらに書いた。
《2023〜2024頃 魔法省記録局》
楓が言う。
「なら事故もその一年の中」
「少なくとも可能性が高い」
「よし」
日向が図書室の奥を見る。
「新聞!」
司書が遠くからこちらを睨む。
日向の声が急に小さくなった。
「……新聞」
奎星が言った。
「怒られてやんの」
「お前も静かにしろ」
図書室には一般社会の新聞はほとんどない。けれど、魔法社会側で発行された新聞、公報、業界誌、古い縮刷版はいくつも保存されていた。
大事件、魔法災害、魔法省人事、学校行事、新魔法具、妖怪被害。数年分の記録が並んでいる。
「二〇二三年」
楓が言った。
「こっち」
「二〇二四年は?」
日向が訊く。
「奥」
「なんで俺分厚い方!?」
「黙って探して」
「はい」
伊織は一冊ずつ目次を確認し、岳は机へ大量に運ぶ。奎星は新聞をめくった。
《大阪・難波地下街にて妖狐脱走》
「違う」
次。
《国際クィディッチ交流戦、日本代表――》
日向が反応する。
「待ってそれ」
楓が取り上げた。
「後」
「歴史!」
「調査!」
奎星は次の紙面をめくった。
《魔法交通局、新型転移門の試験運用開始》
「違う」
《北海道にて雪女保護区域拡張》
「違う」
《魔法省記録局、古文書保全規則を改訂》
奎星の指が止まった。
「……これ?」
日付は二〇二四年の春だった。
「伊織」
全員が集まる。
小さな記事だった。大きな見出しではない。事件というより、魔法省の内部事故についての記事だった。
《記録局保管資料を用いた研究中に事故》
楓が読み上げる。
「魔法省は昨日、記録局内で保管されていた古代魔術資料を用いた研究中、協力者一名に記憶障害が発生したと発表……」
奎星の目が動かない。
「これだ」
伊織が続けて読む。
「協力者は未成年の魔法使い。生命に別状はないものの、一部記憶の欠損が確認された」
日向が呟く。
「未成年……」
「少女ってことは?」
奎星が訊く。
「記事では出してない」
続きには、こうあった。
《事故に関わった記録局職員について、魔法省は個人情報および調査中であることを理由に公表していない》
名前はない。
烏丸スズメの名前もない。
先輩の名前もない。
少女の名前もない。
「もっと」
奎星が急かす。
《使用された資料は現在封印され、記録局および魔法法執行局が事故原因を調査している》
《同省は保管資料の取り扱い手順に問題がなかったか確認するとしている》
それだけだった。
「……終わり?」
日向が言った。
「短っ」
楓が裏面を見る。
「続きない」
奎星は次の日の新聞を探した。
翌日には、小さな続報が載っていた。
《記録局研究事故、保管規則見直しへ》
内容は、事故、一部記憶、検証、管理について。関係者の名前はなかった。
「これだけ?」
奎星の声に苛立ちが混じる。
伊織が別の新聞を開く。
「他紙も見よう」
一時間探した。三紙、公報、魔法省関連誌。けれど、どれも大差なかった。
《一部記憶欠損》
《古代魔術研究中の事故》
《資料管理規則改定》
《関係者は非公表》
それ以上はない。
「…………」
奎星は机へ額をつけた。
「何も分かんねえ」
楓が言う。
「全くじゃないわ」
「でも」
「時期は分かった」
伊織が続ける。
「それに」
新聞を指す。
「烏丸先生から聞いた話が、公的記録でも確認できた」
「記憶を外に出すやつは?」
「記事にはない」
「硝子も?」
「ない」
岳が訊く。
「呪文の名前」
「ない」
日向が訊く。
「先輩」
「ない」
奎星が訊く。
「使った巻物」
「資料名すらない」
「…………」
日向が顔を上げた。
「魔法省行けば?」
奎星が答える。
「無理じゃね」
伊織が言った。
「事故報告書はあるはず」
「スズメちゃんが書いたって言ってた」
奎星は続けた。
「でも記録局」
真壁へ頼むことを考える。けれど、今は真壁も黒曜の残党や硝子について調査中だ。すぐに見せてもらえるかは分からない。しかも、当事者の個人情報、未成年者、研究事故。機密である可能性も高い。
楓が言った。
「烏丸先生自身は?」
奎星が顔を上げる。
「え?」
「自分で研究してたんでしょ」
「うん」
「それなら」
伊織が、もう理解したように言った。
「研究記録を個人的に残している可能性がある」
奎星の目が少し開く。
「……研究室」
「そう」
魔法史研究室。
何百回も行った場所だった。教科書、答案、巻物、古い本。スズメが個人的に集めた資料。古代魔法史、記録局、研究。
「あるかも」
奎星が立ち上がる。
「行こう」
楓が腕を掴んだ。
「待ちなさい」
「何?」
「普通に入って『昔の事故の資料見せて』って言うの?」
「…………」
「言える?」
奎星は止まった。
今、スズメにとって、自分は自分の生徒らしい。記録上は、そうだ。
でも、知らない。
ほとんど初対面の生徒が突然研究室へ来て、個人的な過去の事故の資料を見せてほしいと言えるだろうか。
「…………」
無理だった。
日向が言う。
「前のお前なら普通に入ってたよな」
「うん」
「ノックしてた?」
「してたよ!」
伊織が訊く。
「返事を待っていた?」
「…………」
楓が呆れた。
「待ってなかったのね」
「たまに!」
「駄目じゃない」
「でもスズメちゃん怒んなかったし」
言ってから、奎星は気づいた。
今は違う。
「…………」
奎星は少し顔を下げた。
「今は」
声が小さくなる。
「無理だな」
誰もすぐには答えなかった。
そのとき。
「レンコン」
足元から声がした。
「うおっ」
天ぷらだった。
「天ぷら?」
小妖は一枚の古い紙を両手で持っている。
「ナニコレ」
奎星が受け取る。
新聞だった。
「え?」
天ぷらは机の新聞を指差した。
「サガシテル」
「…………」
日向が口を開く。
「聞いてたんじゃん!」
天ぷらは頷いた。
「ナイショ」
奎星が吹き出す。
「そうだけど!」
天ぷらは新聞を指差した。
「キオク」
奎星の笑いが止まる。
「これ」
古い新聞だった。二〇二四年の別の新聞で、見出しは小さい。
《魔法省記録局で研究事故 少女の記憶一部失われる》
「天ぷら」
奎星がしゃがむ。
「どこにあった?」
「オク」
「奥?」
「フルイカミ」
伊織が新聞を受け取り、記事を見る。
内容は先ほどのものとほぼ同じだった。
けれど、一行だけ違った。
《事故に使用された古代術式は、記憶保存を目的としたものとみられていたという》
全員が止まる。
「……記憶保存」
奎星が呟く。
「これ」
「うん」
伊織が頷く。
「初めて具体的な用途が出た」
奎星が一気に読む。
しかし、それ以上はなかった。
媒体、不明。
術式、不明。
名前、不明。
「ここから先」
伊織が静かに言う。
「新聞では無理だね」
奎星は黙っていた。
「一次資料が必要」
楓が言う。
「研究記録?」
「うん」
「報告書」
「それと」
伊織が奎星を見る。
「烏丸先生自身が持っている本やノート」
魔法史研究室。
やっぱり、そこだった。
奎星は新聞を見た。
少女。
記憶。
保存。
外部。
媒体。
今。
硝子玉。
「…………」
天ぷらが奎星の袖を引く。
「レンコン」
「ん?」
「ダイジョブ?」
奎星が少し笑う。
「大丈夫」
天ぷらはじっと奎星を見る。
「…………」
「何その顔」
「ダイジョブ?」
もう一度、訊いた。
「…………」
こいつは、自分の「大丈夫」を信用していない。
先生たちと同じだった。
「……まあ」
奎星が天ぷらの頭を軽く撫でる。
「今はな」
天ぷらが頷く。
「テツダウ」
「ありがと」
「レンコン、カエス」
「何を?」
「キオク」
奎星の目が少し止まる。
天ぷらがどこまで分かっているのかは分からない。それでも、天ぷらは言った。
「……おう」
奎星は笑う。
「返してもらう」
*
図書室を出た五人は、廊下を歩いた。
奎星は新聞の写しを手にしている。
「まず真壁さんに聞く?」
楓が訊く。
「報告書」
伊織が答えた。
「それが一番正規の手段」
日向が言う。
「でも時間かかりそう」
岳が言った。
「研究室」
全員が奎星を見る。
「何で俺見るの」
楓が答える。
「あんたが一番場所知ってるから」
「みんな知ってるだろ」
「どこに何があるか」
「…………」
知っている。
机、本棚、古代魔法史、個人研究、授業用、赤筆、菓子、水羊羹をたまに置いている場所。
全部。
半年、通った。
「……知ってるけど」
そのとき、角を曲がった。
「…………」
「…………」
奎星が止まる。
向こうから、資料を数冊抱えたスズメが歩いてきた。
「…………」
目が合う。
スズメも止まった。
ほんの一瞬。
「あ」
奎星の心臓が跳ねる。
スズメが少しだけ微笑んだ。
教師が生徒へ普通に向ける笑顔だった。
「蓮根君」
「…………」
同じ声。
違う。
「図書室ですか?」
「……うん」
「何か調べものを?」
奎星の手が新聞を握る。
事故。
あなたの昔。
記憶。
言えない。
「まあ」
目を合わせられない。
「ちょっと」
スズメが一度、新聞へ視線を落とす。
でも、何も聞かなかった。
「そうですか」
「うん」
「三学期が始まったばかりだからといって、授業の復習は怠らないでくださいね」
「…………」
いつもの言い方。
でも、違う。
「分かった」
「はい」
スズメが横を通る。
すれ違う。
「…………」
数歩進んでも、奎星は振り返らなかった。スズメも、多分振り返らない。
昔なら。
「スズメちゃん!」
呼んだ。
絶対に呼んだ。
今日の授業はどうだったとか、補習はないのかとか、本は何を持っているのかとか、何でもいい話をした。
今は、できない。
彼女の顔を見ると、思い出す。
――どちら様ですか?
――あなたのことを、覚えていないようです。
胸が痛い。
「奎星」
日向が声をかけた。
奎星が歩き出す。
「行こう」
「…………」
楓が少し心配そうに訊く。
「大丈夫?」
「うん」
奎星は速く歩いた。
「今日は寮戻る」
伊織は何も言わなかった。
スズメの足音が後ろで遠ざかっていく。
奎星は一度も振り返らなかった。
今は、彼女の顔を見るのが辛かった。
*
その夜、午後十一時五十六分。
男子寮では、日向と岳が眠っていた。伊織は読書灯をまだ点けている。
奎星はベッドで目を開き、天井を見ていた。
「…………」
眠れない。
研究室。
資料。
事故。
硝子。
記憶。
「…………」
奎星は布団を捲って起き上がった。
伊織が本から目を上げる。
「どこ行くの」
奎星は止まった。
「トイレ」
「杖持って?」
「…………」
腰には神代榊がある。
伊織が見る。
「研究室?」
「…………」
「やめたほうがいいよ」
「でも」
「普通に不法侵入だから」
「学校の中だぞ」
「教員の研究室」
「前は毎日入ってた」
「今は?」
「…………」
痛い。
伊織は本を閉じた。
「明日、真壁さんに連絡しよう」
「時間かかる」
「焦って失敗するほうが」
「分かってるよ」
奎星の声が少し強くなる。
「……分かってる」
伊織が黙る。
「でもさ」
奎星は小声で続けた。
「俺」
「うん」
「何もしてない時間が一番きつい」
「…………」
「スズメちゃん普通にいるんだよ」
研究室、廊下、授業。
「いるのに」
声が少し落ちる。
「俺のこと知らない」
伊織は何も言わなかった。
「だったら」
奎星は神代榊を握る。
「調べてるほうがマシ」
少し沈黙があった。
伊織がため息をつく。
「見つかったら」
「うん」
「僕は止めたからね」
奎星が少し笑う。
「ありがと」
「許可はしてない」
「分かってる」
奎星は扉を静かに開けた。
「奎星」
「何?」
「人の研究資料だから」
伊織は真剣だった。
「必要なもの以外、勝手に見ないで」
奎星が頷く。
「分かってる」
今度は、本当に。
*
真夜中のマホウトコロは静かだった。昼の騒がしさが嘘のように消えている。月明かりが羊脂玉の壁を青白く透かしていた。
奎星は足音を殺し、魔法史研究室の前で立ち止まった。
「…………」
何百回も来た、この扉。
ノックをした。しなかった。怒られた。中へ入った。勉強をした。水羊羹を食べた。寝た。赤字を増やされた。笑った。
今、扉は閉まっている。
中は暗い。
取っ手を動かす。
鍵が掛かっていた。
「…………」
奎星は神代榊を抜いた。
「ごめん」
誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
「アロホモラ」
かちり、と普通の錠前が開く。
「……開くんだ」
少し拍子抜けした。
第零書庫のように特殊なものではない。研究室には普通の鍵が掛かっていただけだった。
奎星はそっと扉を開けた。
暗い。
「ルーモス」
杖先に淡い光が灯る。
いつもの部屋だった。机、本棚、書類、赤い羽根筆、窓。
全部、知っている。
「…………」
奎星は中へ入り、扉を閉めた。
変な感じがした。
スズメがいない。
いつもここへ来れば、いた。
「スズメちゃん」
呼んでみる。
返事はない。
当たり前だった。
「…………」
奎星は探し始めた。
古代魔術、記録局、記憶、媒体。何かないかと机を探す。
けれど、個人的な手紙や答案は見ない。
引き出しを一つ開く。
授業資料。
次の引き出しには鍵が掛かっていた。
「…………」
開けていいのか。
今更だった。
すでに不法侵入をしている。
それでも、少し迷う。
「アロホモラ」
かちり、と鍵が開いた。
中には古いノートが三冊入っていた。
研究記録。
表紙には、こう書かれている。
《古代魔術・記憶術式》
奎星の目が見開かれた。
「……あった」
手を伸ばし、一冊を取る。
頁を開く。
細かいスズメの字だった。今より少し若いようにも見える。字に若いも何も分からない。
《記録局保管番号――》
《断片術式――》
《外部媒体への記憶定着について》
奎星の呼吸が止まる。
「媒体」
読む速度が上がる。
分からない専門用語が多い。古代文字や図、術式も並んでいる。
「どれだよ……」
頁をめくる。
《定着対象》
《魔力反応》
《抽出》
「抽出……」
さらに頁をめくる。
事故はどこにある。
後ろか。
一冊目の途中に、二〇二四年の日付があった。
「…………」
手が止まる。
《実地検証》
その下には大量の文字があったが、黒く塗られている。
いや、自分で消したのか。
頁そのものが破れていた。
「何だこれ」
次の頁にも、事故についての報告はない。
もう一冊を開く。
事故後の記録だろうか。
奎星は必死に探した。
「どこだよ……」
そのとき。
かちゃ。
「…………」
奎星は固まった。
扉が開いた。
杖先の光が差し込む。
「っ!」
奎星は反射的に両手を上げた。
「すいません!!」
明るい光が顔を照らす。
「勝手に入りました! でも盗むつもりとかじゃなくて!」
目を細める。
「昔の事故のこと調べたくて、いやそれでも駄目なの分かってます! ごめんなさい!」
光が少し下がる。
目が慣れていく。
黒髪。
顎で揃えた髪。
真っ直ぐな背筋。
夜用の薄い羽織。
手には杖。
烏丸スズメだった。
「…………」
奎星の口が止まる。
「スズメちゃん……」
スズメは研究室の中を見る。
開いた引き出し。
机。
奎星の手にある古い研究ノート。
「…………」
怒られる。
当然だった。
奎星はノートをすぐに閉じた。
「ごめん」
声が小さくなる。
「勝手に見て」
スズメが部屋へ入り、扉を閉めた。
「…………」
奎星は顔を上げられない。
「真壁さんから」
スズメが静かに言った。
「あなたが、私の過去の事故について調べていると聞きました」
奎星は少し顔を上げる。
「……真壁さん?」
「それから」
スズメの目が、机の新聞へ向いた。図書室から写した記事だった。
「今日、図書室で持っていたものも見えました」
「…………」
気づいていた。
「すみません」
また謝る。
「でも」
奎星はノートを握った。
「今のスズメちゃんと、昔の事故」
「…………」
「似てる」
スズメの表情は動かなかった。
「めちゃくちゃ似てるんだよ」
「知っています」
奎星は止まった。
「……え?」
「私も調べました」
静かな声だった。
「自分のことですから」
「…………」
その通りだった。
何で自分だけが気づいたつもりでいたのか。
スズメは記憶を失った。
頭の良さを失ったわけじゃない。
古代魔法史研究者。
記録局。
元職員。
事故。
本人。
「じゃあ」
奎星が一歩近づく。
「何か分かった?」
スズメはすぐには答えなかった。
「先生?」
その呼び方に、スズメの目が僅かに動く。
奎星は自分でも気づかなかった。
いつものスズメちゃんではなく、今、自然に「先生」と呼んでいた。
スズメは、それについて何も言わなかった。
代わりに、口を開く。
「蓮根君」
「……うん」
スズメは杖の光を消した。
研究室には月明かりだけが残る。
「私も」
少し言葉を選ぶ。
「確認したいことがあります」
「…………」
「ですが」
スズメは扉へ向かった。
「ここでは確認できません」
奎星には意味が分からなかった。
「どこ行くの?」
スズメが振り返る。
知らない少年。
けれど、自分を助けた。記録上、半年間、自分のすぐ近くにいた。自分がどうしても思い出せない生徒。
その少年を数秒見つめて、スズメは言った。
「あなたに」
一拍置く。
「来てほしい場所があるのです」
奎星の目が僅かに見開かれた。
夜の、誰もいない魔法史研究室。
開け放たれた扉の向こうには、暗い回廊が続いている。
スズメは先に一歩、外へ出た。
奎星は手の中の研究ノートを見る。それを元の場所へ戻し、引き出しを閉めた。
そして神代榊を握り、彼女の後を追った。
どこへ行くのか、まだ知らない。