マホウトコロ   作:西野圭吾

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第6話 記憶の中の二人

 

 

真夜中、三学期が始まって間もない冬のマホウトコロで、烏丸スズメは魔法史研究室を出ると、何も言わずに廊下を歩き始めた。蓮根奎星は少し遅れて、その背中を追う。

 

「…………」

 

どこへ行くのか、まだ聞いていない。さっき聞いた。けれど、スズメは――あなたに、来てほしい場所があるのです――と、そう言っただけだった。

 

いつもの教員衣ではなく、夜用の薄い羽織を着たスズメは、杖先へ小さな明かりを灯している。奎星も神代榊を持っているが、ルーモスは使わなかった。目の前の明かりだけで十分だった。

 

静かな回廊を、羊脂玉の壁に沿って歩く。窓の外には月が浮かび、誰もいない学校を、二人だけで進んでいく。

 

「…………」

 

なんとなく、昔を思い出した。

 

一学期、第零書庫。スズメが消えた夜、学校中を探し回った。今は逆だった。スズメの後ろを、奎星がついていく。

 

階段を上り、回廊を抜け、また階段を上る。そして途中から、奎星は行き先に気づいた。

 

「……あ」

 

スズメは振り返らない。

 

古い校舎。人通りの少ない道。外へ出ると、夜風が吹いた。

 

南硫黄島の冬は、東京のような冷え方とは少し違う。それでも夜は十分に冷たく、海からの風が奎星の髪を揺らす。

 

「ここ……」

 

石畳の先に、古い塔が立っていた。

 

もう、間違いない。

 

「観測塔じゃん」

 

スズメの足が、ほんの少し止まった。

 

「はい」

 

「…………」

 

奎星も足を止める。

 

観測塔。

 

一学期、日向を傷つけたと思い込み、魔法が怖くなった奎星が、誰にも見つからない場所へ逃げた。スズメだけが探しに来て、自分の失敗を初めて話してくれた。

 

――一緒に探します。

 

そう言った。

 

二学期の星迎祭では、花火の下で嫌われたと思った。距離を置かれて、何が悪かったのか分からなくて、ここでもう一度向き合った。

 

――あなたは……私にとって、とても大切な人です。

 

――私から、離れないでください。

 

抱きしめた。そのあと、二人でめちゃくちゃ下手なダンスを踊った。足を踏みそうになって、笑った。

 

星灯石。同じ銀色の星。

 

全部、ここにあった。

 

「…………」

 

奎星は塔を見上げた。

 

スズメが静かに言う。

 

「やはり」

 

「え?」

 

「あなたは、ここを知っているのですね」

 

「……知ってるよ」

 

胸が少し痛い。

 

「何回も来た」

 

「私と?」

 

「…………」

 

奎星はすぐには答えなかった。でも、嘘をつく意味もない。

 

「うん」

 

スズメは塔を見る。その表情から何を考えているのか、奎星には分からなかった。

 

「行きましょう」

 

「うん」

 

二人は古い扉を開けた。

 

 

螺旋階段を上る二人分の足音が、塔の中へ響いていく。

 

昔、奎星はこの階段を、膝を抱えるような気分で上った。別の日には、星迎祭の喧騒から逃げるように上った。

 

今日は何だろう。

 

怖い。期待している。でも、期待するのが怖い。

 

前を歩くスズメが急に振り返って、全部思い出したと言ってくれないか。そんなことを考えてしまう。

 

けれど、何も起きない。

 

一段、また一段と階段を上る。

 

「スズメちゃん」

 

「はい」

 

「……何でここ?」

 

スズメは少し黙った。

 

「上で話します」

 

「うん」

 

また上る。

 

奎星は、もう何も聞かなかった。

 

 

観測塔の最上部からは、夜空と海が見えた。昔と変わっていない。古い石壁、開けた窓、遥か下で白く岩へぶつかる波。

 

星迎祭の夜のような花火はない。音楽も、笑う生徒たちもいない。ただ、冬の星だけが空いっぱいに浮かんでいた。

 

スズメは窓際へ歩いた。奎星は少し離れた場所で止まる。いつもなら隣へ行く。今日は、どこまで近づいていいのか分からなかった。

 

スズメが振り返る。

 

「蓮根君」

 

「うん」

 

「少し、長い話になります」

 

「平気」

 

「それから」

 

目がほんの少し鋭くなる。

 

「先ほどの不法侵入については、あとで話します」

 

「…………」

 

奎星の肩が落ちた。

 

「やっぱ怒ってんじゃん」

 

「当然でしょう」

 

「この雰囲気で?」

 

「雰囲気と校則は別です」

 

「スズメちゃんだ……」

 

ぽつりと奎星が言った。

 

スズメの表情が少し止まる。

 

「…………」

 

「ごめん」

 

奎星はすぐに視線を逸らした。

 

「何でもない」

 

今の言い方を、何度も聞いた。

 

教師だから、駄目なものは駄目。雰囲気が良かろうと、奎星がどれだけ必死だろうと、ちゃんと叱る。

 

そこが、あまりに同じだった。

 

スズメは少しだけ黙ってから、口を開いた。

 

「……日記を」

 

「え?」

 

「読みました」

 

奎星が顔を上げる。

 

スズメは窓の外を見る。

 

「事故のあと。自分の記憶に何が欠けているのかを調べるために、私物も確認しました」

 

「うん」

 

「手紙。写真。授業記録。補習計画。研究記録」

 

一つずつ、言葉を並べる。

 

「それから、日記」

 

「スズメちゃん日記つけてんの?」

 

「悪いですか?」

 

「いや」

 

奎星は少し笑った。

 

「なんか意外」

 

「記録を残す癖は、記録局にいた頃からです」

 

「なるほど」

 

妙に納得した。真壁ほどではないだろうけれど、スズメもそういうところがある。記録、整理、文章。

 

「毎日?」

 

「ほぼ」

 

「何書いてんの?」

 

「その日にあったことです」

 

「普通だ」

 

「日記ですから」

 

「魔法史の考察とかだけ書いてそう」

 

「失礼ですね」

 

「だってスズメちゃんだし」

 

「どういう意味です?」

 

一瞬、いつものやり取りが戻ったようで、奎星は笑いそうになった。

 

けれど、スズメは続けた。

 

「教師になって二年目の記録を、最初から読み返しました」

 

奎星の笑みが少し消える。

 

「…………」

 

「最初は、授業のこと。研究のこと。御影先生の授業がまた壊れたこと」

 

奎星が目を丸くする。

 

「壊したの御影先生?」

 

「訓練用の壁です」

 

「なら御影先生だ」

 

「本人は耐久不足だと言っていました」

 

「絶対先生が悪い」

 

「私もそう書いていました」

 

奎星が少し笑った。スズメも、ほんの僅かに口元を緩める。

 

そして。

 

「昨年の五月末」

 

その言葉で、空気が変わった。

 

五月二十九日。夜中の一時。鴉。

 

「そこから」

 

スズメが奎星を見る。

 

「急に、あなたの名前ばかりになりました」

 

「…………」

 

奎星の喉が小さく動く。

 

「最初の日」

 

スズメは静かに言った。

 

「《蓮根奎星。十七歳。魔力覚醒による特例編入。非常に高い魔力量を持つ》」

 

「めっちゃ事務的」

 

「続きがあります」

 

「何?」

 

「《無礼》」

 

「…………」

 

「《不躾》」

 

「待って」

 

「《人の話を聞かない》」

 

「待ってって」

 

「《危機感がない》」

 

「悪口日記じゃん!」

 

スズメの口元が少し緩む。

 

「さらに」

 

「まだあんの!?」

 

「《初対面の教師を食べようとした》」

 

「それ書いてんの!?」

 

「相当印象的だったようですね」

 

「忘れろよ!」

 

「忘れています」

 

「今それ最強じゃん!」

 

奎星の声が観測塔へ小さく響いた。

 

二人は少し笑った。

 

その笑いが収まると、スズメはまた口を開いた。

 

「ただ」

 

「うん」

 

「読み進めていくと、文章が変わっていきました」

 

声が少し柔らかくなる。

 

奎星は黙って聞いた。

 

「《無礼で、不躾で、落ち着きがなく、驚くほど不器用な私の教え子》」

 

奎星が小さく呟く。

 

「……全然嬉しくねえな」

 

「そうですか?」

 

「良いこと一個もねえじゃん」

 

「《素直》ともありました」

 

「先にそれ言って!」

 

「《単純》」

 

「戻った!」

 

スズメが笑った。奎星も少し笑う。

 

でも、次の言葉で、また笑えなくなった。

 

「毎日でした」

 

「……え?」

 

「本当に」

 

スズメが奎星を見る。

 

「毎日毎日、あなたのことばかり書いてありました」

 

風が入り、黒髪が揺れる。

 

「補習をした」

 

一日。

 

「今日は魔法法規に文句を言われた」

 

別の日。

 

「今日は授業中に寝た」

 

また別の日。

 

「今日は初めて友人と昼食を食べたようだった」

 

「…………」

 

「今日は魔法が成功して、とても嬉しそうだった」

 

奎星の目が少し下がる。

 

「今日は友人を傷つけたと思い込み、姿を消した」

 

「…………」

 

「探した」

 

一拍置いて、スズメは続けた。

 

「見つけた」

 

奎星が息を止める。

 

スズメの視線が観測塔の床へゆっくり落ちる。

 

「ここで」

 

「…………」

 

「私は、あなたを慰めたと書いてありました」

 

奎星の胸が、きゅっと痛くなる。

 

「正確には、自分の過去の失敗を話し、《一緒に探します》と言った、と」

 

「……うん」

 

奎星の声は小さかった。

 

「あった」

 

「覚えているのですね」

 

「全部」

 

即答だった。

 

その言葉が、少し重く響く。

 

スズメは目を伏せた。

 

「私は」

 

「…………」

 

「覚えていません」

 

「うん」

 

分かっている。分かっているけれど、聞くとやっぱり痛い。

 

スズメが塔の中央を見る。

 

星迎祭の夜、二人が踊った場所。

 

「それから」

 

「…………」

 

「ここへ、もう一度来ています」

 

奎星は何も言わない。

 

「星迎祭」

 

スズメは日記の内容を思い出しながら、ゆっくりと言葉にする。

 

「私は、あなたを傷つけた」

 

奎星の指が動く。

 

「距離を置いて」

 

「うん」

 

「あなたは、自分が嫌われたと思った」

 

「……うん」

 

「私は」

 

一度、言葉が止まる。

 

日記には、自分の字で書いてあった。読んでも記憶はない。でも、文章だけはあまりにも生々しかった。

 

「ここで、あなたへ」

 

スズメが奎星を見る。

 

「《大切な人です》と言ったそうです」

 

「…………」

 

「《私から離れないでください》とも」

 

奎星の目が耐えきれず、少し逸れる。

 

「そのあと」

 

スズメの声が、ほんの少し恥ずかしそうになる。

 

「あなたに抱きしめられた、と」

 

奎星の耳が赤くなる。

 

「…………」

 

「そして」

 

さらに、スズメは続けた。

 

「踊った」

 

奎星が小さく笑う。泣きそうな笑いだった。

 

「めちゃくちゃ下手だった」

 

「日記にも」

 

スズメが少し眉を寄せる。

 

「《蓮根君は驚くほど踊れない》と」

 

奎星が顔を上げた。

 

「スズメちゃんも下手だっただろ!」

 

「《私もあまり上手くなかった》と書いてあります」

 

「ほら!」

 

「ですが、《蓮根君よりはまし》とも」

 

「絶対嘘だ!」

 

「私の記録です」

 

「主観じゃん!」

 

「日記ですから」

 

「都合よすぎ!」

 

また少し笑う。

 

でも、すぐに静かになった。

 

スズメは奎星を見る。

 

その顔は、笑うと少し子供っぽい。怒るとすぐ顔へ出る。思っていた以上に、表情が分かりやすい。

 

自分の日記には、こんな一文もあった。

 

《褒めるとすぐ顔に出る》

 

本当だった。

 

「…………」

 

スズメは少し不思議だった。

 

記憶はない。それなのに、日記に書かれていた少年と、目の前の少年が少しずつ重なっていく。

 

もちろん、知っている感覚はない。懐かしさも、まだない。

 

それでも。

 

「蓮根君」

 

「ん?」

 

「この場所について」

 

スズメが窓の外へ目を向ける。

 

「私自身の記憶では、誰かへ教えた覚えがありません」

 

「…………」

 

「学生時代から知っている場所です」

 

古い観測塔。普段、人が来ない。静かで、海が見える。考え事をしたいとき、一人になりたいとき、時々来ていた。

 

「私は」

 

少し、声が小さくなる。

 

「誰かをここへ連れてきた記憶がない」

 

奎星は黙る。

 

「でも」

 

スズメが彼を見る。

 

「日記には」

 

一拍置いて、続けた。

 

「あなたに教えた、と書いてありました」

 

奎星の目が少し揺れる。

 

「それだけではありません」

 

一歩、スズメが塔の中央へ歩く。

 

「ここであなたを探した」

 

さらに一歩。

 

「ここであなたを慰めた」

 

また一歩。

 

「ここで自分の失敗を話した」

 

一歩。

 

「ここであなたから抱きしめられた」

 

そして、あの日、二人が笑いながら踊っていた場所で、スズメは足を止めた。

 

「あなたと踊った」

 

「…………」

 

奎星は、もう駄目だった。

 

顔を下へ向ける。

 

「……やめて」

 

スズメの目が僅かに揺れる。

 

「ごめん」

 

奎星は笑おうとした。

 

「ごめん、違う」

 

顔を上げられない。

 

「嫌なわけじゃない」

 

喉が痛い。

 

「ただ」

 

一度、息を吸う。

 

「きつい」

 

声が震える。

 

「スズメちゃんが覚えてないのに」

 

「…………」

 

「スズメちゃんの口から」

 

思い出を話される。

 

「俺だけ覚えてんの」

 

ぽたり、と床へ何かが落ちた。奎星自身、一瞬それが何なのか分からなかった。

 

涙だった。

 

「…………」

 

慌てて袖で目を擦る。

 

「ごめん」

 

「蓮根君」

 

「大丈夫」

 

反射的に答える。

 

「大丈夫だから」

 

一月一日。脱線。医務室。

 

何度も言った、大丈夫。

 

そして、誰からも信用されなかった。

 

今日も、大丈夫ではなかった。

 

「……クソ」

 

奎星は目を強く擦る。

 

「泣くつもりじゃなかった」

 

「…………」

 

「せっかくスズメちゃんが話してくれてんのに」

 

声がだんだん崩れていく。

 

「俺が泣いたら困るだろ」

 

スズメは何も言わない。

 

奎星は下を向いたまま、言葉を続けた。

 

「何で」

 

一度、息が震える。

 

「何で俺なんだよ」

 

「…………」

 

「何で俺のことだけ」

 

奪った。

 

他は全部、残したのに。

 

「俺」

 

唇を噛む。

 

「別にスズメちゃんに何かしてほしいわけじゃなくて」

 

「…………」

 

「思い出してほしいだけで」

 

もう一度、涙が落ちる。

 

「いつもみたいに」

 

蓮根君。

 

烏丸先生です。

 

勉強してください。

 

危ないことはしないでください。

 

怒る。笑う。

 

全部。

 

「……俺のこと見てほしいだけなのに」

 

スズメの胸の奥が小さく痛んだ。

 

記憶はない。なのに、目の前で泣いている少年を見て、何も感じないわけではなかった。むしろ、辛かった。

 

自分のせいではない。それは分かっている。

 

でも、この少年が、自分との記憶を一人で半年分抱えている。自分には何もない。

 

それが急に、ひどく残酷なことのように思えた。

 

スズメの右手が僅かに動く。けれど、途中で止まった。

 

「…………」

 

どうする。

 

彼は生徒。自分は教師。

 

それ以前に、今の自分にとっては、まだ知り合って数日。記録を読んで、事情を聞いて、何度か話しただけだ。

 

それなのに、日記にいる自分は、この少年の手を何度も握っていた。

 

死にかけたとき。

 

常隠島。

 

不安なとき。

 

そして、今。

 

自分なら、どうする。

 

いや。

 

昔の自分ではない。

 

今の自分。

 

スズメは息を少し吸った。

 

一歩、近づく。

 

奎星は気づかない。下を向いたままだった。

 

そして、手に触れる。

 

「…………!」

 

奎星の身体が、びくりと止まった。

 

スズメが、奎星の右手を握っていた。

 

小さい、冷たい手。

 

「スズメちゃん……?」

 

奎星がゆっくり顔を上げる。

 

スズメの顔も少し赤かった。

 

「…………」

 

自分から触れた。今の、知らない相手へ。

 

勇気が要った。かなり要った。

 

それでも、離さない。

 

指に少し力を入れる。

 

ぎゅっ。

 

奎星の目が大きくなる。

 

その感覚を、奎星は知っている。

 

常隠島。夜の海。怖いと口にした、あの日。スズメが握った、同じ小さな手。細い指。少し冷たい手。

 

「…………」

 

奎星が目を閉じた。無意識だった。

 

握られている手を、今度は少しだけ握り返す。

 

神代榊は腰にある。魔法は使っていない。呪文も唱えていない。

 

でも、願った。

 

お願い。

 

何でもいい。

 

古代魔術でも、奇跡でも、この学校に残っている何か、訳の分からない力でも、神様でも、ばあちゃんでも、誰でもいい。

 

「……お願い」

 

スズメが奎星を見る。

 

目を閉じたまま、奎星の声が震える。

 

「思い出して……」

 

指に少し力がこもる。

 

「スズメちゃん……」

 

お願い。

 

戻れ。

 

何でもいい。

 

あの日、俺を見つけたこと。

 

第零書庫。

 

夏。

 

水月庵。

 

星迎祭。

 

常隠島。

 

クリスマス。

 

初詣。

 

一個でもいい。

 

一個、戻って。

 

「俺」

 

奎星は息を震わせた。

 

「まだ」

 

喉が詰まる。

 

「まだスズメちゃんに」

 

言えていない。

 

本人の目を見て、ちゃんと言えていない。

 

言葉がある。

 

自分が何を思っているのか。

 

神代には言えた。あの銀色の光の中で、迷いなく言えた。

 

でも、本人には言えなかった。

 

クリスマス。プレゼントを渡すだけで顔が赤くなって、変な意味じゃない、なんて逃げた。

 

まだ、ちゃんと言っていない。

 

「……言ってないことあるんだよ」

 

スズメの瞳が僅かに揺れる。

 

奎星は、それ以上言わなかった。

 

今、言うのは違う。

 

記憶がないスズメへ言うのは違う。

 

ちゃんと取り戻して、またいつものスズメちゃんに戻ったとき、そのときに言いたい。

 

だから。

 

「戻ってよ……」

 

祈る。

 

本当に、祈った。

 

二人の手が繋がっている。

 

月。星。海。観測塔。

 

何度も二人の関係が変わった場所。

 

もし、場所に記憶が残るなら。

 

もし、手に何か残るなら。

 

もし、気持ちだけで何かできるなら。

 

お願い。

 

「…………」

 

何も起きなかった。

 

光もない。魔法もない。

 

風が吹く。それだけだった。

 

スズメの黒髪が少し揺れる。

 

「…………」

 

長い沈黙のあと、奎星がゆっくり目を開けた。

 

スズメが目の前にいる。

 

「…………」

 

その目を見る。

 

何か変わった?

 

一秒。

 

二秒。

 

スズメの眉が少し寄る。思い出そうとしている。

 

奎星の呼吸が止まる。

 

「…………」

 

スズメが小さく首を横へ振った。

 

「……ごめんなさい」

 

その一言で分かった。

 

「そっか」

 

奎星は笑った。今度も下手だった。

 

「そっかぁ……」

 

何も戻らない。

 

そんな簡単ではない。

 

当たり前だ。

 

分かっている。分かっていた。

 

でも、期待した。

 

「……残念」

 

軽く言おうとした。でも、声は少し震えた。

 

「蓮根君」

 

「大丈夫」

 

「…………」

 

「今度は本当に」

 

スズメの目が少し細くなる。

 

「信用できません」

 

奎星が止まる。

 

「…………」

 

その言い方。

 

「スズメちゃん」

 

「何ですか?」

 

「今の」

 

「はい?」

 

「前も」

 

言いかけて、奎星は止まった。

 

また過去を押しつける。やめる。

 

「……何でもない」

 

でも、少し笑えた。

 

スズメはまだ手を離していなかった。

 

奎星がそれに気づく。

 

「…………」

 

スズメも気づく。

 

二人は同時に手を見る。

 

「…………」

 

「…………」

 

スズメの耳が赤くなる。

 

普通なら、離す。

 

でも、一瞬迷ったあと、離さなかった。

 

奎星の目が少し大きくなる。

 

「スズメちゃん?」

 

「……もう少しだけ」

 

「え?」

 

「このままで」

 

視線を逸らす。

 

「構いませんか」

 

奎星は何も言えなかった。

 

数秒のあと、ようやく答える。

 

「……うん」

 

小さい返事だった。

 

二人は並んだまま、手を繋いで窓の外を見た。

 

海。夜空。

 

以前と同じ場所。

 

でも、違う。

 

スズメには記憶がない。奎星には全部ある。

 

同じ景色を見ているのに、二人の中にあるものはまるで違う。

 

それでも今、二人は同じ場所へ立っている。

 

「蓮根君」

 

「ん?」

 

スズメがゆっくり話し始めた。

 

「日記を読んで」

 

「うん」

 

「怖くなりました」

 

奎星が少し彼女を見る。

 

「怖い?」

 

「はい」

 

「何で?」

 

「自分が知らない自分が」

 

スズメは、自分の手を見る。奎星と繋がっている。

 

「そこにいたからです」

 

日記。自分の字。自分の文章。自分が書いた。間違いない。

 

なのに、記憶がない。

 

「あなたが怪我をした日に」

 

声が少し小さくなる。

 

「《怖かった》と何度も書いてありました」

 

夏。血。

 

「《死なないでほしい》と」

 

奎星の目が少し揺れる。

 

「星迎祭のあとには」

 

一瞬、言葉が詰まる。

 

「……随分」

 

頬が赤くなる。

 

「恥ずかしいことが書いてありました」

 

奎星が少し興味を示す。

 

「何?」

 

「言いません」

 

「そこまで言ったなら!」

 

「絶対に言いません」

 

「俺のこと?」

 

「言いません!」

 

「絶対俺じゃん!」

 

「今は黙ってください!」

 

「はい」

 

スズメが少し息を吐く。

 

「でも」

 

「うん」

 

「読んでいくうちに」

 

また声が落ち着く。

 

「不思議だったのです」

 

「何が?」

 

「日記の中にいる私と」

 

一拍置いて、スズメは続けた。

 

「あなたが」

 

奎星が静かになる。

 

「とても」

 

スズメの視線が少し下がる。繋いだ手へ。

 

「仲が良さそうだったので」

 

奎星の胸が、また少し痛む。

 

でも、今度はさっきと違った。

 

「そう?」

 

「はい」

 

「俺めちゃくちゃ怒られてなかった?」

 

「怒っています」

 

「ほら」

 

「ですが」

 

日記を読み返した。

 

何百頁にもわたって、蓮根君、蓮根君、蓮根君。

 

あの日、笑った。

 

あの日、怒った。

 

あの日、心配した。

 

あの日、無茶をした。

 

また、無茶をした。

 

生きていた。

 

よかった。

 

「怒っている記録のほうが」

 

スズメは少し笑った。

 

「文章が長い」

 

奎星が吹き出す。

 

「それ怒ってるだけじゃん!」

 

「そのようです」

 

「全然ロマンチックじゃねえな!」

 

「日記に何を求めているのです?」

 

二人は少し笑った。

 

笑い声が観測塔に響く。

 

昔、同じ場所で笑った。

 

スズメはそれを知らない。

 

でも、今、また笑った。

 

「それで」

 

スズメが笑みを少し収める。

 

「思ったのです」

 

奎星が見る。

 

スズメも彼を見る。

 

真っ直ぐな黒い目。

 

「私は」

 

スズメは言った。

 

「記憶を取り戻したい」

 

奎星の表情が止まる。

 

「…………」

 

「研究者として、原因を知りたいという意味でもあります」

 

スズメらしい。

 

「自分の記憶を勝手に奪われたことへの怒りもあります」

 

少し強い声だった。

 

「それだけではありません」

 

手をぎゅっと握る。

 

奎星の指が少し動く。

 

「私は」

 

スズメがゆっくり言う。

 

「日記に登場する私を、知りたい」

 

「…………」

 

「その私が」

 

奎星を見る。

 

「どうして、毎日あなたのことを書いていたのか」

 

奎星の喉が動く。

 

「どうしてあなたが怪我をするたび、あれほど怖がったのか」

 

「…………」

 

「どうしてあなたに《離れないでください》と言ったのか」

 

風が止まったように感じた。

 

「どうして」

 

声が小さくなる。

 

「この場所へ」

 

観測塔。

 

「あなたを連れてきたのか」

 

奎星は何も言えない。

 

「知りたいのです」

 

スズメの目は、もう逸れなかった。

 

「全部」

 

「…………」

 

「私の日記の中にいる」

 

少し困ったように笑う。

 

「私と」

 

奎星。

 

「男の子は」

 

一拍置いて、スズメは続けた。

 

「とても仲が良さそうでした」

 

奎星の目が少し潤む。

 

スズメは続けた。

 

「私は、その記憶を取り戻したい」

 

「…………」

 

「私のためにも」

 

そして、繋いだ手を見る。

 

「あなたのためにも」

 

奎星はしばらく声が出なかった。

 

嬉しい。

 

でも、それだけじゃない。

 

切ない。

 

悲しい。

 

それでも、事故の日から初めて、本当に少しだけ前へ進んだ気がした。

 

スズメが忘れたまま、自分から戻りたいと言った。

 

「……うん」

 

それしか言えなかった。

 

でも、十分だった。

 

「絶対」

 

奎星が手を握り返す。

 

「取り戻そう」

 

スズメの目が僅かに柔らかくなる。

 

「はい」

 

「硝子玉」

 

「はい」

 

「絶対見つける」

 

「無茶はしないでください」

 

「…………」

 

「蓮根君」

 

「善処します」

 

「駄目です」

 

「努力します」

 

「駄目です」

 

「厳しくね!?」

 

「日記に」

 

スズメが少し笑う。

 

「《この人の大丈夫と努力しますは信用しない》と書いてありました」

 

奎星が固まる。

 

「そこまで書いてんの!?」

 

「何度も」

 

「昔のスズメちゃん、今のスズメちゃんに余計なこと教えすぎ!」

 

「自分の日記です」

 

「敵が自分!」

 

スズメが笑った。

 

今度は少し、しっかりと。

 

奎星も笑った。

 

月。星。海。観測塔。

 

記憶は、まだ戻らない。

 

スズメの中には、この場所で以前何があったのか、何一つ浮かばない。

 

それでも今夜、新しい記憶が一つできた。

 

知らないはずの教え子と、真夜中の観測塔へ来た。

 

自分の日記について話した。

 

泣かせた。

 

手を握った。

 

一緒に記憶を取り戻そうと約束した。

 

それは、盗まれる前の記憶ではない。

 

今の烏丸スズメが自分で作った、新しい蓮根奎星との記憶だった。

 

「……スズメちゃん」

 

「何ですか?」

 

奎星が夜空を見る。

 

「今度は」

 

「はい」

 

少し笑う。

 

「忘れんなよ」

 

スズメも夜空を見る。繋いだ手はそのままだった。

 

「……努力します」

 

奎星がすぐ横を見る。

 

「それ信用できないやつ!」

 

スズメの目が丸くなる。

 

そして、小さく笑った。

 

冬の観測塔に、二人の笑い声が響いた。

 

一学期、同じ場所で、杖を捨てかけた少年と、それを探しに来た教師が笑った。

 

二学期、同じ場所で、すれ違った二人がようやく本音を話し、抱きしめ、下手なダンスを踊った。

 

そして三学期、記憶を失った教師と、その記憶を一人で抱えている少年が、またここに立っている。

 

最初からではない。

 

元通りでもない。

 

けれど、もう一度、二人で新しい続きを作り始めていた。

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