真夜中、三学期が始まって間もない冬のマホウトコロで、烏丸スズメは魔法史研究室を出ると、何も言わずに廊下を歩き始めた。蓮根奎星は少し遅れて、その背中を追う。
「…………」
どこへ行くのか、まだ聞いていない。さっき聞いた。けれど、スズメは――あなたに、来てほしい場所があるのです――と、そう言っただけだった。
いつもの教員衣ではなく、夜用の薄い羽織を着たスズメは、杖先へ小さな明かりを灯している。奎星も神代榊を持っているが、ルーモスは使わなかった。目の前の明かりだけで十分だった。
静かな回廊を、羊脂玉の壁に沿って歩く。窓の外には月が浮かび、誰もいない学校を、二人だけで進んでいく。
「…………」
なんとなく、昔を思い出した。
一学期、第零書庫。スズメが消えた夜、学校中を探し回った。今は逆だった。スズメの後ろを、奎星がついていく。
階段を上り、回廊を抜け、また階段を上る。そして途中から、奎星は行き先に気づいた。
「……あ」
スズメは振り返らない。
古い校舎。人通りの少ない道。外へ出ると、夜風が吹いた。
南硫黄島の冬は、東京のような冷え方とは少し違う。それでも夜は十分に冷たく、海からの風が奎星の髪を揺らす。
「ここ……」
石畳の先に、古い塔が立っていた。
もう、間違いない。
「観測塔じゃん」
スズメの足が、ほんの少し止まった。
「はい」
「…………」
奎星も足を止める。
観測塔。
一学期、日向を傷つけたと思い込み、魔法が怖くなった奎星が、誰にも見つからない場所へ逃げた。スズメだけが探しに来て、自分の失敗を初めて話してくれた。
――一緒に探します。
そう言った。
二学期の星迎祭では、花火の下で嫌われたと思った。距離を置かれて、何が悪かったのか分からなくて、ここでもう一度向き合った。
――あなたは……私にとって、とても大切な人です。
――私から、離れないでください。
抱きしめた。そのあと、二人でめちゃくちゃ下手なダンスを踊った。足を踏みそうになって、笑った。
星灯石。同じ銀色の星。
全部、ここにあった。
「…………」
奎星は塔を見上げた。
スズメが静かに言う。
「やはり」
「え?」
「あなたは、ここを知っているのですね」
「……知ってるよ」
胸が少し痛い。
「何回も来た」
「私と?」
「…………」
奎星はすぐには答えなかった。でも、嘘をつく意味もない。
「うん」
スズメは塔を見る。その表情から何を考えているのか、奎星には分からなかった。
「行きましょう」
「うん」
二人は古い扉を開けた。
*
螺旋階段を上る二人分の足音が、塔の中へ響いていく。
昔、奎星はこの階段を、膝を抱えるような気分で上った。別の日には、星迎祭の喧騒から逃げるように上った。
今日は何だろう。
怖い。期待している。でも、期待するのが怖い。
前を歩くスズメが急に振り返って、全部思い出したと言ってくれないか。そんなことを考えてしまう。
けれど、何も起きない。
一段、また一段と階段を上る。
「スズメちゃん」
「はい」
「……何でここ?」
スズメは少し黙った。
「上で話します」
「うん」
また上る。
奎星は、もう何も聞かなかった。
*
観測塔の最上部からは、夜空と海が見えた。昔と変わっていない。古い石壁、開けた窓、遥か下で白く岩へぶつかる波。
星迎祭の夜のような花火はない。音楽も、笑う生徒たちもいない。ただ、冬の星だけが空いっぱいに浮かんでいた。
スズメは窓際へ歩いた。奎星は少し離れた場所で止まる。いつもなら隣へ行く。今日は、どこまで近づいていいのか分からなかった。
スズメが振り返る。
「蓮根君」
「うん」
「少し、長い話になります」
「平気」
「それから」
目がほんの少し鋭くなる。
「先ほどの不法侵入については、あとで話します」
「…………」
奎星の肩が落ちた。
「やっぱ怒ってんじゃん」
「当然でしょう」
「この雰囲気で?」
「雰囲気と校則は別です」
「スズメちゃんだ……」
ぽつりと奎星が言った。
スズメの表情が少し止まる。
「…………」
「ごめん」
奎星はすぐに視線を逸らした。
「何でもない」
今の言い方を、何度も聞いた。
教師だから、駄目なものは駄目。雰囲気が良かろうと、奎星がどれだけ必死だろうと、ちゃんと叱る。
そこが、あまりに同じだった。
スズメは少しだけ黙ってから、口を開いた。
「……日記を」
「え?」
「読みました」
奎星が顔を上げる。
スズメは窓の外を見る。
「事故のあと。自分の記憶に何が欠けているのかを調べるために、私物も確認しました」
「うん」
「手紙。写真。授業記録。補習計画。研究記録」
一つずつ、言葉を並べる。
「それから、日記」
「スズメちゃん日記つけてんの?」
「悪いですか?」
「いや」
奎星は少し笑った。
「なんか意外」
「記録を残す癖は、記録局にいた頃からです」
「なるほど」
妙に納得した。真壁ほどではないだろうけれど、スズメもそういうところがある。記録、整理、文章。
「毎日?」
「ほぼ」
「何書いてんの?」
「その日にあったことです」
「普通だ」
「日記ですから」
「魔法史の考察とかだけ書いてそう」
「失礼ですね」
「だってスズメちゃんだし」
「どういう意味です?」
一瞬、いつものやり取りが戻ったようで、奎星は笑いそうになった。
けれど、スズメは続けた。
「教師になって二年目の記録を、最初から読み返しました」
奎星の笑みが少し消える。
「…………」
「最初は、授業のこと。研究のこと。御影先生の授業がまた壊れたこと」
奎星が目を丸くする。
「壊したの御影先生?」
「訓練用の壁です」
「なら御影先生だ」
「本人は耐久不足だと言っていました」
「絶対先生が悪い」
「私もそう書いていました」
奎星が少し笑った。スズメも、ほんの僅かに口元を緩める。
そして。
「昨年の五月末」
その言葉で、空気が変わった。
五月二十九日。夜中の一時。鴉。
「そこから」
スズメが奎星を見る。
「急に、あなたの名前ばかりになりました」
「…………」
奎星の喉が小さく動く。
「最初の日」
スズメは静かに言った。
「《蓮根奎星。十七歳。魔力覚醒による特例編入。非常に高い魔力量を持つ》」
「めっちゃ事務的」
「続きがあります」
「何?」
「《無礼》」
「…………」
「《不躾》」
「待って」
「《人の話を聞かない》」
「待ってって」
「《危機感がない》」
「悪口日記じゃん!」
スズメの口元が少し緩む。
「さらに」
「まだあんの!?」
「《初対面の教師を食べようとした》」
「それ書いてんの!?」
「相当印象的だったようですね」
「忘れろよ!」
「忘れています」
「今それ最強じゃん!」
奎星の声が観測塔へ小さく響いた。
二人は少し笑った。
その笑いが収まると、スズメはまた口を開いた。
「ただ」
「うん」
「読み進めていくと、文章が変わっていきました」
声が少し柔らかくなる。
奎星は黙って聞いた。
「《無礼で、不躾で、落ち着きがなく、驚くほど不器用な私の教え子》」
奎星が小さく呟く。
「……全然嬉しくねえな」
「そうですか?」
「良いこと一個もねえじゃん」
「《素直》ともありました」
「先にそれ言って!」
「《単純》」
「戻った!」
スズメが笑った。奎星も少し笑う。
でも、次の言葉で、また笑えなくなった。
「毎日でした」
「……え?」
「本当に」
スズメが奎星を見る。
「毎日毎日、あなたのことばかり書いてありました」
風が入り、黒髪が揺れる。
「補習をした」
一日。
「今日は魔法法規に文句を言われた」
別の日。
「今日は授業中に寝た」
また別の日。
「今日は初めて友人と昼食を食べたようだった」
「…………」
「今日は魔法が成功して、とても嬉しそうだった」
奎星の目が少し下がる。
「今日は友人を傷つけたと思い込み、姿を消した」
「…………」
「探した」
一拍置いて、スズメは続けた。
「見つけた」
奎星が息を止める。
スズメの視線が観測塔の床へゆっくり落ちる。
「ここで」
「…………」
「私は、あなたを慰めたと書いてありました」
奎星の胸が、きゅっと痛くなる。
「正確には、自分の過去の失敗を話し、《一緒に探します》と言った、と」
「……うん」
奎星の声は小さかった。
「あった」
「覚えているのですね」
「全部」
即答だった。
その言葉が、少し重く響く。
スズメは目を伏せた。
「私は」
「…………」
「覚えていません」
「うん」
分かっている。分かっているけれど、聞くとやっぱり痛い。
スズメが塔の中央を見る。
星迎祭の夜、二人が踊った場所。
「それから」
「…………」
「ここへ、もう一度来ています」
奎星は何も言わない。
「星迎祭」
スズメは日記の内容を思い出しながら、ゆっくりと言葉にする。
「私は、あなたを傷つけた」
奎星の指が動く。
「距離を置いて」
「うん」
「あなたは、自分が嫌われたと思った」
「……うん」
「私は」
一度、言葉が止まる。
日記には、自分の字で書いてあった。読んでも記憶はない。でも、文章だけはあまりにも生々しかった。
「ここで、あなたへ」
スズメが奎星を見る。
「《大切な人です》と言ったそうです」
「…………」
「《私から離れないでください》とも」
奎星の目が耐えきれず、少し逸れる。
「そのあと」
スズメの声が、ほんの少し恥ずかしそうになる。
「あなたに抱きしめられた、と」
奎星の耳が赤くなる。
「…………」
「そして」
さらに、スズメは続けた。
「踊った」
奎星が小さく笑う。泣きそうな笑いだった。
「めちゃくちゃ下手だった」
「日記にも」
スズメが少し眉を寄せる。
「《蓮根君は驚くほど踊れない》と」
奎星が顔を上げた。
「スズメちゃんも下手だっただろ!」
「《私もあまり上手くなかった》と書いてあります」
「ほら!」
「ですが、《蓮根君よりはまし》とも」
「絶対嘘だ!」
「私の記録です」
「主観じゃん!」
「日記ですから」
「都合よすぎ!」
また少し笑う。
でも、すぐに静かになった。
スズメは奎星を見る。
その顔は、笑うと少し子供っぽい。怒るとすぐ顔へ出る。思っていた以上に、表情が分かりやすい。
自分の日記には、こんな一文もあった。
《褒めるとすぐ顔に出る》
本当だった。
「…………」
スズメは少し不思議だった。
記憶はない。それなのに、日記に書かれていた少年と、目の前の少年が少しずつ重なっていく。
もちろん、知っている感覚はない。懐かしさも、まだない。
それでも。
「蓮根君」
「ん?」
「この場所について」
スズメが窓の外へ目を向ける。
「私自身の記憶では、誰かへ教えた覚えがありません」
「…………」
「学生時代から知っている場所です」
古い観測塔。普段、人が来ない。静かで、海が見える。考え事をしたいとき、一人になりたいとき、時々来ていた。
「私は」
少し、声が小さくなる。
「誰かをここへ連れてきた記憶がない」
奎星は黙る。
「でも」
スズメが彼を見る。
「日記には」
一拍置いて、続けた。
「あなたに教えた、と書いてありました」
奎星の目が少し揺れる。
「それだけではありません」
一歩、スズメが塔の中央へ歩く。
「ここであなたを探した」
さらに一歩。
「ここであなたを慰めた」
また一歩。
「ここで自分の失敗を話した」
一歩。
「ここであなたから抱きしめられた」
そして、あの日、二人が笑いながら踊っていた場所で、スズメは足を止めた。
「あなたと踊った」
「…………」
奎星は、もう駄目だった。
顔を下へ向ける。
「……やめて」
スズメの目が僅かに揺れる。
「ごめん」
奎星は笑おうとした。
「ごめん、違う」
顔を上げられない。
「嫌なわけじゃない」
喉が痛い。
「ただ」
一度、息を吸う。
「きつい」
声が震える。
「スズメちゃんが覚えてないのに」
「…………」
「スズメちゃんの口から」
思い出を話される。
「俺だけ覚えてんの」
ぽたり、と床へ何かが落ちた。奎星自身、一瞬それが何なのか分からなかった。
涙だった。
「…………」
慌てて袖で目を擦る。
「ごめん」
「蓮根君」
「大丈夫」
反射的に答える。
「大丈夫だから」
一月一日。脱線。医務室。
何度も言った、大丈夫。
そして、誰からも信用されなかった。
今日も、大丈夫ではなかった。
「……クソ」
奎星は目を強く擦る。
「泣くつもりじゃなかった」
「…………」
「せっかくスズメちゃんが話してくれてんのに」
声がだんだん崩れていく。
「俺が泣いたら困るだろ」
スズメは何も言わない。
奎星は下を向いたまま、言葉を続けた。
「何で」
一度、息が震える。
「何で俺なんだよ」
「…………」
「何で俺のことだけ」
奪った。
他は全部、残したのに。
「俺」
唇を噛む。
「別にスズメちゃんに何かしてほしいわけじゃなくて」
「…………」
「思い出してほしいだけで」
もう一度、涙が落ちる。
「いつもみたいに」
蓮根君。
烏丸先生です。
勉強してください。
危ないことはしないでください。
怒る。笑う。
全部。
「……俺のこと見てほしいだけなのに」
スズメの胸の奥が小さく痛んだ。
記憶はない。なのに、目の前で泣いている少年を見て、何も感じないわけではなかった。むしろ、辛かった。
自分のせいではない。それは分かっている。
でも、この少年が、自分との記憶を一人で半年分抱えている。自分には何もない。
それが急に、ひどく残酷なことのように思えた。
スズメの右手が僅かに動く。けれど、途中で止まった。
「…………」
どうする。
彼は生徒。自分は教師。
それ以前に、今の自分にとっては、まだ知り合って数日。記録を読んで、事情を聞いて、何度か話しただけだ。
それなのに、日記にいる自分は、この少年の手を何度も握っていた。
死にかけたとき。
常隠島。
不安なとき。
そして、今。
自分なら、どうする。
いや。
昔の自分ではない。
今の自分。
スズメは息を少し吸った。
一歩、近づく。
奎星は気づかない。下を向いたままだった。
そして、手に触れる。
「…………!」
奎星の身体が、びくりと止まった。
スズメが、奎星の右手を握っていた。
小さい、冷たい手。
「スズメちゃん……?」
奎星がゆっくり顔を上げる。
スズメの顔も少し赤かった。
「…………」
自分から触れた。今の、知らない相手へ。
勇気が要った。かなり要った。
それでも、離さない。
指に少し力を入れる。
ぎゅっ。
奎星の目が大きくなる。
その感覚を、奎星は知っている。
常隠島。夜の海。怖いと口にした、あの日。スズメが握った、同じ小さな手。細い指。少し冷たい手。
「…………」
奎星が目を閉じた。無意識だった。
握られている手を、今度は少しだけ握り返す。
神代榊は腰にある。魔法は使っていない。呪文も唱えていない。
でも、願った。
お願い。
何でもいい。
古代魔術でも、奇跡でも、この学校に残っている何か、訳の分からない力でも、神様でも、ばあちゃんでも、誰でもいい。
「……お願い」
スズメが奎星を見る。
目を閉じたまま、奎星の声が震える。
「思い出して……」
指に少し力がこもる。
「スズメちゃん……」
お願い。
戻れ。
何でもいい。
あの日、俺を見つけたこと。
第零書庫。
夏。
水月庵。
星迎祭。
常隠島。
クリスマス。
初詣。
一個でもいい。
一個、戻って。
「俺」
奎星は息を震わせた。
「まだ」
喉が詰まる。
「まだスズメちゃんに」
言えていない。
本人の目を見て、ちゃんと言えていない。
言葉がある。
自分が何を思っているのか。
神代には言えた。あの銀色の光の中で、迷いなく言えた。
でも、本人には言えなかった。
クリスマス。プレゼントを渡すだけで顔が赤くなって、変な意味じゃない、なんて逃げた。
まだ、ちゃんと言っていない。
「……言ってないことあるんだよ」
スズメの瞳が僅かに揺れる。
奎星は、それ以上言わなかった。
今、言うのは違う。
記憶がないスズメへ言うのは違う。
ちゃんと取り戻して、またいつものスズメちゃんに戻ったとき、そのときに言いたい。
だから。
「戻ってよ……」
祈る。
本当に、祈った。
二人の手が繋がっている。
月。星。海。観測塔。
何度も二人の関係が変わった場所。
もし、場所に記憶が残るなら。
もし、手に何か残るなら。
もし、気持ちだけで何かできるなら。
お願い。
「…………」
何も起きなかった。
光もない。魔法もない。
風が吹く。それだけだった。
スズメの黒髪が少し揺れる。
「…………」
長い沈黙のあと、奎星がゆっくり目を開けた。
スズメが目の前にいる。
「…………」
その目を見る。
何か変わった?
一秒。
二秒。
スズメの眉が少し寄る。思い出そうとしている。
奎星の呼吸が止まる。
「…………」
スズメが小さく首を横へ振った。
「……ごめんなさい」
その一言で分かった。
「そっか」
奎星は笑った。今度も下手だった。
「そっかぁ……」
何も戻らない。
そんな簡単ではない。
当たり前だ。
分かっている。分かっていた。
でも、期待した。
「……残念」
軽く言おうとした。でも、声は少し震えた。
「蓮根君」
「大丈夫」
「…………」
「今度は本当に」
スズメの目が少し細くなる。
「信用できません」
奎星が止まる。
「…………」
その言い方。
「スズメちゃん」
「何ですか?」
「今の」
「はい?」
「前も」
言いかけて、奎星は止まった。
また過去を押しつける。やめる。
「……何でもない」
でも、少し笑えた。
スズメはまだ手を離していなかった。
奎星がそれに気づく。
「…………」
スズメも気づく。
二人は同時に手を見る。
「…………」
「…………」
スズメの耳が赤くなる。
普通なら、離す。
でも、一瞬迷ったあと、離さなかった。
奎星の目が少し大きくなる。
「スズメちゃん?」
「……もう少しだけ」
「え?」
「このままで」
視線を逸らす。
「構いませんか」
奎星は何も言えなかった。
数秒のあと、ようやく答える。
「……うん」
小さい返事だった。
二人は並んだまま、手を繋いで窓の外を見た。
海。夜空。
以前と同じ場所。
でも、違う。
スズメには記憶がない。奎星には全部ある。
同じ景色を見ているのに、二人の中にあるものはまるで違う。
それでも今、二人は同じ場所へ立っている。
「蓮根君」
「ん?」
スズメがゆっくり話し始めた。
「日記を読んで」
「うん」
「怖くなりました」
奎星が少し彼女を見る。
「怖い?」
「はい」
「何で?」
「自分が知らない自分が」
スズメは、自分の手を見る。奎星と繋がっている。
「そこにいたからです」
日記。自分の字。自分の文章。自分が書いた。間違いない。
なのに、記憶がない。
「あなたが怪我をした日に」
声が少し小さくなる。
「《怖かった》と何度も書いてありました」
夏。血。
「《死なないでほしい》と」
奎星の目が少し揺れる。
「星迎祭のあとには」
一瞬、言葉が詰まる。
「……随分」
頬が赤くなる。
「恥ずかしいことが書いてありました」
奎星が少し興味を示す。
「何?」
「言いません」
「そこまで言ったなら!」
「絶対に言いません」
「俺のこと?」
「言いません!」
「絶対俺じゃん!」
「今は黙ってください!」
「はい」
スズメが少し息を吐く。
「でも」
「うん」
「読んでいくうちに」
また声が落ち着く。
「不思議だったのです」
「何が?」
「日記の中にいる私と」
一拍置いて、スズメは続けた。
「あなたが」
奎星が静かになる。
「とても」
スズメの視線が少し下がる。繋いだ手へ。
「仲が良さそうだったので」
奎星の胸が、また少し痛む。
でも、今度はさっきと違った。
「そう?」
「はい」
「俺めちゃくちゃ怒られてなかった?」
「怒っています」
「ほら」
「ですが」
日記を読み返した。
何百頁にもわたって、蓮根君、蓮根君、蓮根君。
あの日、笑った。
あの日、怒った。
あの日、心配した。
あの日、無茶をした。
また、無茶をした。
生きていた。
よかった。
「怒っている記録のほうが」
スズメは少し笑った。
「文章が長い」
奎星が吹き出す。
「それ怒ってるだけじゃん!」
「そのようです」
「全然ロマンチックじゃねえな!」
「日記に何を求めているのです?」
二人は少し笑った。
笑い声が観測塔に響く。
昔、同じ場所で笑った。
スズメはそれを知らない。
でも、今、また笑った。
「それで」
スズメが笑みを少し収める。
「思ったのです」
奎星が見る。
スズメも彼を見る。
真っ直ぐな黒い目。
「私は」
スズメは言った。
「記憶を取り戻したい」
奎星の表情が止まる。
「…………」
「研究者として、原因を知りたいという意味でもあります」
スズメらしい。
「自分の記憶を勝手に奪われたことへの怒りもあります」
少し強い声だった。
「それだけではありません」
手をぎゅっと握る。
奎星の指が少し動く。
「私は」
スズメがゆっくり言う。
「日記に登場する私を、知りたい」
「…………」
「その私が」
奎星を見る。
「どうして、毎日あなたのことを書いていたのか」
奎星の喉が動く。
「どうしてあなたが怪我をするたび、あれほど怖がったのか」
「…………」
「どうしてあなたに《離れないでください》と言ったのか」
風が止まったように感じた。
「どうして」
声が小さくなる。
「この場所へ」
観測塔。
「あなたを連れてきたのか」
奎星は何も言えない。
「知りたいのです」
スズメの目は、もう逸れなかった。
「全部」
「…………」
「私の日記の中にいる」
少し困ったように笑う。
「私と」
奎星。
「男の子は」
一拍置いて、スズメは続けた。
「とても仲が良さそうでした」
奎星の目が少し潤む。
スズメは続けた。
「私は、その記憶を取り戻したい」
「…………」
「私のためにも」
そして、繋いだ手を見る。
「あなたのためにも」
奎星はしばらく声が出なかった。
嬉しい。
でも、それだけじゃない。
切ない。
悲しい。
それでも、事故の日から初めて、本当に少しだけ前へ進んだ気がした。
スズメが忘れたまま、自分から戻りたいと言った。
「……うん」
それしか言えなかった。
でも、十分だった。
「絶対」
奎星が手を握り返す。
「取り戻そう」
スズメの目が僅かに柔らかくなる。
「はい」
「硝子玉」
「はい」
「絶対見つける」
「無茶はしないでください」
「…………」
「蓮根君」
「善処します」
「駄目です」
「努力します」
「駄目です」
「厳しくね!?」
「日記に」
スズメが少し笑う。
「《この人の大丈夫と努力しますは信用しない》と書いてありました」
奎星が固まる。
「そこまで書いてんの!?」
「何度も」
「昔のスズメちゃん、今のスズメちゃんに余計なこと教えすぎ!」
「自分の日記です」
「敵が自分!」
スズメが笑った。
今度は少し、しっかりと。
奎星も笑った。
月。星。海。観測塔。
記憶は、まだ戻らない。
スズメの中には、この場所で以前何があったのか、何一つ浮かばない。
それでも今夜、新しい記憶が一つできた。
知らないはずの教え子と、真夜中の観測塔へ来た。
自分の日記について話した。
泣かせた。
手を握った。
一緒に記憶を取り戻そうと約束した。
それは、盗まれる前の記憶ではない。
今の烏丸スズメが自分で作った、新しい蓮根奎星との記憶だった。
「……スズメちゃん」
「何ですか?」
奎星が夜空を見る。
「今度は」
「はい」
少し笑う。
「忘れんなよ」
スズメも夜空を見る。繋いだ手はそのままだった。
「……努力します」
奎星がすぐ横を見る。
「それ信用できないやつ!」
スズメの目が丸くなる。
そして、小さく笑った。
冬の観測塔に、二人の笑い声が響いた。
一学期、同じ場所で、杖を捨てかけた少年と、それを探しに来た教師が笑った。
二学期、同じ場所で、すれ違った二人がようやく本音を話し、抱きしめ、下手なダンスを踊った。
そして三学期、記憶を失った教師と、その記憶を一人で抱えている少年が、またここに立っている。
最初からではない。
元通りでもない。
けれど、もう一度、二人で新しい続きを作り始めていた。