マホウトコロ   作:西野圭吾

82 / 92
第7話 失敗ではなかった

 

数日後。

 

三学期のマホウトコロは、すっかりいつもの学校へ戻っていた。

 

朝になれば眠そうな顔で生徒たちが教室へ集まり、授業が始まり、昼になれば大食堂が騒がしくなる。廊下を走った生徒は教師に叱られ、岳は昼食を二度おかわりし、日向は提出物を忘れて楓に呆れられ、伊織はその横で我関せずと本を読んでいる。

 

そんな、ごく普通の学校生活。

 

そして蓮根奎星は。

 

「…………」

 

魔法理論の教科書を机の上へ立て、その陰で見事に寝ていた。

 

「蓮根」

 

御影の声が教室へ落ちる。

 

返事はない。

 

「蓮根」

 

「起きてます」

 

即答だった。

 

御影の眉間に皺が寄る。

 

「目を開けろ」

 

「開いてるって」

 

「では、今説明した箇所を言ってみろ」

 

「…………」

 

奎星はゆっくり顔を上げた。

 

黒板を見る。

 

知らない式。

 

知らない図。

 

知らない文字。

 

少なくとも、寝る前には存在していなかったものばかりだった。

 

「……御影先生」

 

「何だ」

 

「人生にはさ」

 

「うん」

 

「知らないほうが幸せなこともあると思うんだよ」

 

「廊下に立て」

 

「何で!?」

 

教室に笑いが起きた。

 

三学期。

 

いつもの授業。

 

いつもの学校。

 

少しずつ、日常は戻っていた。

 

少なくとも――表面上は。

 

 

帰りのホームルーム。

 

土御門が教壇の前で出席簿を閉じた。

 

「では、今日はここまでです」

 

その瞬間、教室の空気が一気に緩んだ。

 

椅子を引く音、鞄を閉じる音、友人同士で放課後の予定を話し始める声。

 

日向が両腕を上げ、大きく伸びをする。

 

「終わったぁ!」

 

楓が呆れた顔を向けた。

 

「まだ帰寮するだけでしょ」

 

「学校生活における最大の幸福は放課後だぞ」

 

「授業を受けなさいよ」

 

岳はもう鞄を肩へ掛けていた。

 

「食堂」

 

奎星が振り返る。

 

「まだ夕飯じゃねえよ」

 

「間食」

 

「ブレねえな、お前」

 

伊織も読みかけの本へ栞を挟み、静かに鞄へしまう。

 

そのときだった。

 

「それから」

 

土御門が、何かを思い出したように顔を上げた。

 

教室の空気が止まった。

 

生徒にとって、担任教師の「それから」で始まる話にはろくなものがない。

 

「蓮根君」

 

「はい」

 

「朝比奈君」

 

「はい?」

 

「水無瀬さん」

 

「はい」

 

「岩戸君」

 

「はい」

 

「榊君」

 

「はい」

 

呼ばれた五人が、ほぼ同時に土御門を見る。

 

「皆さんは放課後、烏丸先生の研究室へ行ってください」

 

一秒。

 

二秒。

 

教室の後ろから、待ってましたとばかりに声が飛んだ。

 

「何やらかしたんだよー!」

 

どっと笑いが広がる。

 

「何で最初からやらかした前提なんだよ!」

 

奎星が振り返ると、別の生徒も笑いながら言う。

 

「五人まとめて呼び出しは絶対なんかしただろ!」

 

「してねえ!」

 

日向も身を乗り出した。

 

「俺は今回マジで何もしてない!」

 

楓がすぐに反応する。

 

「今回?」

 

「言葉の綾!」

 

今度は別の方向から声が飛ぶ。

 

「どうせ蓮根が主犯だろー!」

 

「何で俺!?」

 

伊織が静かに眼鏡を押し上げる。

 

「過去の実績かな」

 

「味方しろよ!」

 

岳も口を開く。

 

「俺も何もしてない」

 

「岳はほんとに何もしてなさそう」

 

「差別だろ!」

 

また教室が笑いに包まれた。

 

土御門はいつもの柔らかな笑顔で、その騒ぎを眺めている。

 

「蓮根君」

 

「はい?」

 

「烏丸先生から、必ず五人で来るようにとのことです」

 

奎星が首を傾げた。

 

「何だろ」

 

「私は知っていますが」

 

「教えて!」

 

「烏丸先生から聞いてください」

 

「土御門先生、そういうとこ固いな!」

 

「教師ですから」

 

「みんなそれ言う!」

 

土御門がくすりと笑った。

 

「寄り道しないで行ってくださいね」

 

「はーい」

 

「返事は一度」

 

「はい!」

 

教室に、また笑いが起こる。

 

その中で。

 

奎星だけが、ほんの少し動きを止めた。

 

返事は一度。

 

違う。

 

いつも自分が聞いていたのは。

 

――はいは一度。

 

少し似ている。

 

ただ、それだけだ。

 

奎星は一瞬だけ視線を落とし、それから何事もなかったように鞄を肩へ掛けた。

 

「行こうぜ」

 

日向も立ち上がる。

 

「怒られに?」

 

「怒られねえって!」

 

「お前、一週間前に烏丸先生の研究室へ不法侵入したばっかだろ」

 

「もう反省文書いたわ!」

 

楓が横から訊く。

 

「何枚?」

 

「四枚半」

 

伊織が顔を上げた。

 

「五枚って言われてなかった?」

 

「最後、半分余った」

 

「そういう数え方じゃないと思う」

 

「うるせえ!」

 

五人はそんなことを言い合いながら、騒がしく教室を出ていった。

 

 

魔法史研究室。

 

こんこん。

 

奎星が扉を叩く。

 

「どうぞ」

 

中から声が返ってきた。

 

奎星が取っ手へ手を掛けた瞬間、楓がその腕を掴んだ。

 

「返事待ちなさい」

 

「今どうぞって言ったじゃん!」

 

「言ったわね」

 

「何で止めた!?」

 

「一応」

 

「信用ねえな!」

 

扉を開ける。

 

「失礼しまーす」

 

「失礼します」

 

五人が順番に研究室へ入った。

 

大きな机。本棚。古文書。巻物。積み上げられた教科書。窓の向こうには、冬の海。

 

何度も見てきた、いつもの魔法史研究室。

 

けれど。

 

「……何これ」

 

日向が足を止めた。

 

普段なら授業計画や研究用の古代文字が並んでいるホワイトボードが、今日は隅から隅まで文字で埋め尽くされていた。

 

中央に大きく書かれている。

 

《一月一日 列車襲撃事件》

 

その下には。

 

《標的――蓮根奎星》

 

《使用術式――《ダムナティオ・メモリアエ》》

 

《烏丸スズメが被弾》

 

《蓮根奎星および蓮根奎星に強く関連する記憶のみ欠落》

 

《術式発動直後、透明な硝子球が生成》

 

《内部に銀色の魔力反応》

 

《犯人の指輪と接触した際、硝子音》

 

左側には。

 

《黒曜の環残党・六名》

 

《認識干渉術式に関する記憶のみ欠落》

 

《全員が硝子音を記憶》

 

右側には。

 

《二〇二四年 記録局研究事故》

 

《記憶に関する古代術式》

 

《外部媒体への記憶保存を想定》

 

《協力者一名に選択的記憶欠損》

 

《治療による回復なし》

 

《研究担当――烏丸スズメ》

 

これまで五人が調べてきたもの。

 

魔法省から聞いたもの。

 

スズメ自身が確認したもの。

 

ばらばらだった情報が、一枚の板の上へ集められている。

 

そして、その脇に。

 

一つだけ、見覚えのない名前があった。

 

《眞田 大》

 

奎星の目が、そこで止まった。

 

「……誰?」

 

机の向こうで資料を整理していたスズメが顔を上げる。

 

「皆さん、来ましたね」

 

「来た」

 

「座ってください」

 

研究室の中央には、あらかじめ六脚の椅子が用意されていた。

 

奎星、日向、楓、岳、伊織がそれぞれ腰を下ろす。

 

スズメだけは立ったままだった。

 

「まず」

 

五人を見渡す。

 

「皆さんに、お礼を言わせてください」

 

日向が目を丸くする。

 

「え?」

 

スズメは、その場で静かに頭を下げた。

 

「私の記憶を取り戻すために、調べてくださっていると聞きました」

 

「…………」

 

「ありがとうございます」

 

五人が、少しだけ戸惑った顔をする。

 

日向が楓を見る。

 

楓も日向を見る。

 

岳は黙っている。

 

伊織も何も言わない。

 

奎星だけは、スズメから目を逸らさなかった。

 

正直に言えば、日向などは最初、この件を少し面白そうだと思っていた。

 

魔法省の事故。

 

謎の古代魔術。

 

硝子玉。

 

秘密の研究。

 

探偵みたいだ。

 

そんな気持ちが一切なかったと言えば嘘になる。

 

けれど、いざ本人から真正面に「ありがとうございます」と言われれば、それを口にできるほど無神経でもなかった。

 

「まあ……」

 

日向が頬を掻く。

 

「奎星、放っとくと何するか分かんないし」

 

「おい」

 

「事実でしょ」

 

楓も頷く。

 

「一人で研究室へ忍び込むような人だし」

 

「もう反省したって!」

 

スズメが静かに訊く。

 

「反省文は?」

 

「出した!」

 

「四枚半でした」

 

「五枚書いたようなもんだろ!」

 

「半枚足りません」

 

「細か!」

 

「反省文ですから」

 

「文字大きくすればよかった」

 

「書き直しますか?」

 

「すみませんでした」

 

あまりにも自然なやり取りに、日向が小さく呟く。

 

「……ちょっと戻ってきた感あるな」

 

奎星が振り返る。

 

「何が?」

 

「いや」

 

日向は少しだけ笑った。

 

「別に」

 

以前と同じではない。

 

まだ、全然違う。

 

けれど数日前、古い観測塔で二人は一つだけ、新しい記憶を作った。

 

それから。

 

ほんの少しだけ。

 

スズメから奎星へ向ける言葉の距離が、近くなった気がしていた。

 

スズメは机の上へ、何冊かの古いノートを置いた。

 

「皆さんが調べていた二〇二四年の事故について、私も改めて自分の資料と日記を確認しました」

 

奎星の表情がわずかに変わる。

 

日記。

 

数日前、観測塔で一緒に読んだ。

 

去年の五月末から、自分の名前ばかりが増えていったという、あの日記。

 

「その結果」

 

スズメがホワイトボードの名前を指す。

 

《眞田 大》

 

「現在、私が最も確認する必要があると考えている人物です」

 

全員の顔が上がった。

 

「さなだ?」

 

奎星が声に出して読む。

 

「眞田大」

 

スズメが答える。

 

「さん?」

 

「私より十歳上でした」

 

その瞬間。

 

奎星の記憶が、一気に動いた。

 

一学期。

 

日向を傷つけたと思い込み、自分の魔法が怖くなった夜。

 

古い観測塔。

 

海。

 

風。

 

隣に座ったスズメが、自分の過去を初めて話してくれた。

 

――私には、十個上の先輩がいました。

 

――非常に優秀な人で、古代魔術に関しても私より知識があった。

 

「…………」

 

奎星が少し身を乗り出す。

 

「その人?」

 

スズメを見る。

 

「前に俺に話した、記録局の先輩」

 

スズメは一瞬だけ奎星を見つめ、それから頷いた。

 

「はい」

 

奎星はもう一度、ホワイトボードを見る。

 

眞田大。

 

ずっと「先輩」としか聞いていなかった人物に、初めて名前がついた。

 

「眞田……大」

 

忘れないように、頭へ刻み込むように。

 

もう一度、声に出した。

 

日向が訊く。

 

「その人が犯人ってこと?」

 

「まだ分かりません」

 

スズメの返事は早かった。

 

「疑う理由はあります。しかし、証拠はありません」

 

伊織がホワイトボードへ目を向けた。

 

「理由は?」

 

「その前に」

 

奎星が手を上げる。

 

楓が嫌そうな顔をする。

 

「何?」

 

「質問」

 

「どうぞ」

 

奎星は真剣な顔でスズメを見た。

 

「その人、背ぇ高かった?」

 

沈黙。

 

ぱしん。

 

楓が奎星の後頭部を叩いた。

 

「痛っ!」

 

「何で最初の質問がそれなのよ!」

 

「いやマジで関係あるから!」

 

「何に!」

 

「電車の男!」

 

楓の手が止まる。

 

奎星は後頭部を押さえながら続けた。

 

「黒いフードのやつ、めっちゃ背高かったんだって!」

 

「あ」

 

日向も思い出したらしい。

 

「言ってたな」

 

「だろ!?」

 

奎星が得意げにスズメを見る。

 

「で?」

 

スズメは少し考えた。

 

「高かったです」

 

奎星の目が鋭くなる。

 

「どのくらい?」

 

「正確な身長までは覚えていませんが、かなり高かったと思います」

 

「ほら!」

 

楓がすぐ止める。

 

「それだけで犯人にしない」

 

「分かってるって!」

 

奎星は腕を組み、数秒考え込んだ。

 

「…………」

 

そして、ぽつり。

 

「いやでも」

 

「何です?」

 

「スズメちゃんからしたら、だいたい全員背高いしな……」

 

研究室が静まり返った。

 

スズメの眉がぴくりと動く。

 

「……どういう意味ですか?」

 

「いや」

 

奎星は目を逸らした。

 

「別に」

 

「蓮根君」

 

「はい」

 

「今、何と言いました?」

 

「何も」

 

「聞こえていました」

 

「じゃあ聞くなよ!」

 

「私の身長について言いましたね?」

 

「言ってない」

 

「言いました」

 

「幻聴じゃね?」

 

「廊下へ出ますか?」

 

「研究室でそれできんの!?」

 

日向が口元を押さえている。

 

楓も少し笑っていた。

 

伊織は妙に興味深そうに二人を眺めている。

 

岳は隙を見て何か食べようとしていたが、楓に無言で手を押さえられた。

 

以前と同じではない。

 

スズメは、奎星との半年を覚えていない。

 

でも。

 

数日前の観測塔の夜は覚えている。

 

それは今のスズメが、自分自身で作った奎星との記憶だ。

 

ほんの少し。

 

本当に、ほんの少しだけ。

 

二人の間に、新しい距離が生まれていた。

 

「話を戻します」

 

スズメが言う。

 

「はい」

 

今度の奎星は素直だった。

 

伊織がノートを開く。

 

「参考までに、眞田さんとはどういう関係だったんですか?」

 

「先輩と後輩です」

 

「それは分かる」

 

「榊君」

 

「研究上の関係として、です」

 

スズメは少し考えた。

 

「……尊敬していました」

 

奎星の耳が、ぴくりと動く。

 

「知識は非常に深かったです。古代魔術だけではなく、古代文字、記憶術式、魔力媒体にも詳しく、私が記録局へ入ったばかりの頃には何度も教えていただきました」

 

日向が訊く。

 

「頭良かった?」

 

「はい」

 

「スズメちゃんより?」

 

奎星が割り込む。

 

「当時の私よりは、遥かに」

 

「へえ」

 

奎星は何となく面白くなかった。

 

理由は分からない。

 

いや。

 

多分、分かっている。

 

「穏やかな人でした」

 

スズメは続ける。

 

「質問すれば必ず答えてくれましたし、研究者としては、とても優秀だったと思います」

 

奎星はさらに面白くない。

 

「二人で飯行った?」

 

全員が止まった。

 

楓が、ゆっくり奎星を見る。

 

「何の参考?」

 

「いや」

 

奎星は真顔だった。

 

「人間関係の調査」

 

伊織が頷く。

 

「なるほど」

 

「納得しないで」

 

楓が即座に止めた。

 

スズメは、そんな周囲の空気などまるで理解していないらしく、普通に答える。

 

「行きましたよ」

 

奎星が固まる。

 

「……二人で?」

 

「はい。勤務後に食事へ行くこともありましたし、昼食をご一緒することもありました」

 

「へえ」

 

声が低い。

 

スズメが首を傾げる。

 

「何ですか?」

 

「別に」

 

「顔が別にではありませんが」

 

「別に!」

 

「何を怒っているのです?」

 

「怒ってない!」

 

ぱしん。

 

楓がまた頭を叩いた。

 

「痛ってえ!」

 

「話を進める!」

 

「何で殴るんだよ!」

 

「今の質問いる!?」

 

「いる!」

 

「いらない!」

 

日向が、ものすごく小さな声で言った。

 

「嫉妬?」

 

奎星が凄まじい速度で振り向く。

 

「違う」

 

「嫉妬だろ?」

 

「違う」

 

「はいはい」

 

日向は即座に撤退した。

 

スズメだけが、本当に何も分かっていない。

 

「何の話ですか?」

 

「何でもないです」

 

楓が引き取った。

 

「続けてください」

 

「……はい」

 

スズメは少し不思議そうな顔をしながら、机の上の古い日記を開いた。

 

使い込まれた表紙。

 

黄ばんだ紙の端。

 

今の研究者としての整った記録とは少し違う、若い頃の自分が残したもの。

 

「事故のあと、私は眞田先輩と何度か話しています」

 

それだけで、部屋の空気が変わった。

 

奎星たちも自然と静かになる。

 

「その内容が、日記に残っていました」

 

開かれた頁。

 

日付は二〇二四年、春。

 

あの事故から、まだ数日しか経っていない頃だった。

 

スズメは、過去の自分が残した文字へ視線を落とす。

 

「私は、この出来事を《事故だった》と書いています」

 

日向が首を傾げた。

 

「普通じゃない?」

 

「はい」

 

スズメは静かに頷く。

 

「使用した文献の解釈が誤っていた。術式の再構成に問題があった。安全確認が不足していた。人間を対象にする段階ではなかった、と」

 

奎星には、それが以前聞いた話と重なった。

 

事故。

 

失敗。

 

取り返せないもの。

 

だから原因を調べた。

 

報告書を書いた。

 

規則を変えた。

 

そして。

 

記録局を辞めた。

 

「私は、この実験を明確な失敗だと考えていました」

 

スズメの声が少しだけ低くなる。

 

「ですが」

 

一枚、頁を捲る。

 

「眞田先輩は違った」

 

伊織の目が細くなる。

 

外では冬の海から吹き上げてきた風が、研究室の窓をかすかに鳴らしている。

 

スズメは続けた。

 

「日記には、事故後に眞田先輩と交わした会話の概要があります」

 

誰も口を挟まない。

 

「私は、研究を止めるべきだと言った」

 

淡々とした声。

 

けれど、その言葉の向こうには、まだ二十歳にも満たなかった頃のスズメがいる。

 

倒れた少女。

 

思い出せない祭り。

 

初めて乗った箒。

 

親友と出会った日。

 

写真を見ても、自分の過去だと感じられなくなった記憶。

 

「人間の記憶を扱うには、私たちはあまりにも理解が足りていない。あの子の記憶が戻るまで、少なくとも同じ術式を試すべきではない、と」

 

奎星の指が、膝の上で僅かに動く。

 

「それに対して」

 

スズメの視線が次の行へ移る。

 

「眞田先輩は」

 

一度、言葉が止まった。

 

そして。

 

「《失敗ではない》」

 

研究室から、音が消えた。

 

「……は?」

 

奎星の声だけが落ちる。

 

スズメは頁から目を離さず、続きを読んだ。

 

「《記憶の抽出そのものは起きた。術式は反応した。問題は固定先と対象範囲の制御にある》」

 

伊織の目つきが変わった。

 

「つまり」

 

静かに確認する。

 

「現象そのものは、成功していたと?」

 

「眞田先輩は、そう考えていたようです」

 

スズメが頷く。

 

「そして――」

 

さらに視線を落とす。

 

「《これは、まだ一歩に過ぎない》」

 

誰も動かない。

 

「《ここで研究を止めれば、彼女の犠牲こそ無駄になる》」

 

楓の表情が硬くなる。

 

スズメの指が、最後の一行で止まった。

 

「《進歩に犠牲はつきものだ》」

 

沈黙。

 

大きな言葉でもない。

 

怒鳴り声でもない。

 

それなのに、妙に冷たかった。

 

奎星はホワイトボードを見る。

 

《眞田 大》

 

さっきまで。

 

ただの名前だった。

 

今は。

 

その文字の向こうに、初めて人間の輪郭が見えた気がした。

 

「……何それ」

 

奎星の声が低くなる。

 

「それ」

 

一拍。

 

「失敗だろ」

 

スズメが奎星を見る。

 

「……はい」

 

「人の記憶なくなってんじゃん」

 

「はい」

 

「戻ってねえんだろ?」

 

「戻っていません」

 

「だったら」

 

奎星は眉を寄せた。

 

「失敗じゃん」

 

単純だった。

 

研究者の言葉ではない。

 

難しい理屈もない。

 

けれど奎星には、それ以外なかった。

 

自分も失敗した。

 

日向を傷つけたと思った。

 

魔法が怖くなった。

 

杖を捨てそうになった。

 

御影には何度も怒られた。

 

スズメには何度も止められた。

 

それでも。

 

失敗を成功だったことにしたことは、一度もない。

 

間違えたら、間違えた。

 

そのあと、どうするかを考えた。

 

「…………」

 

スズメは日記へ目を落とした。

 

「当時の私も、同じように思ったのでしょう」

 

もう一行。

 

「《私は、そうは思えなかった》」

 

文字は続いている。

 

「《あの子が失ったものを、進歩という言葉で片付けることはできない》」

 

日向が、ゆっくり息を吐いた。

 

「結構……怖いな」

 

それが一番近かった。

 

眞田は怒鳴っていない。

 

事故から逃げたとも書かれていない。

 

少なくとも、この日記には。

 

同じ場所にいた。

 

同じ少女が記憶を失うところを見た。

 

同じ結果を目の前にした。

 

ただ。

 

そこから出した結論だけが、決定的に違った。

 

スズメは止まろうとした。

 

眞田は進もうとした。

 

「このあと」

 

伊織が訊く。

 

「眞田さんは?」

 

スズメは首を横へ振った。

 

「分かりません」

 

「分からない?」

 

「私は事故後に報告書を提出し、その後しばらくして記録局を辞めました。それから眞田先輩とは一度も連絡を取っていません」

 

奎星が訊く。

 

「今、何してんの?」

 

「知りません」

 

「記録局にいる?」

 

「それも分かりません」

 

スズメは少しだけ目を伏せる。

 

「私が知っているのは、あの頃までです」

 

ホワイトボード。

 

眞田大。

 

十歳上。

 

古代魔術。

 

記憶術式。

 

魔力媒体。

 

長身。

 

実験。

 

事故。

 

そして。

 

失敗ではない。

 

その言葉の隣に。

 

一月一日の硝子玉がある。

 

選択的な記憶欠損がある。

 

奎星が腕を組んだ。

 

「怪しくね?」

 

楓も今回は否定しなかった。

 

「怪しい」

 

日向も頷く。

 

「かなり」

 

岳。

 

「怪しい」

 

伊織だけは少し慎重だった。

 

「少なくとも、調べる価値はある」

 

奎星が勢いよく立ち上がる。

 

「よし。探そう」

 

楓が即座に訊く。

 

「どうやって?」

 

「…………」

 

奎星は静かに座った。

 

「分かんね」

 

「早い!」

 

伊織がホワイトボードを見る。

 

「ここから先は、僕たちだけでは難しいね」

 

日向が首を傾げる。

 

「何で?」

 

「人事記録」

 

伊織が指を折っていく。

 

「記録局の職員歴。もし退職しているなら退職記録。現在の勤務先。研究許可。事故当時の正式な聴取記録」

 

楓が理解する。

 

「魔法省」

 

「そう」

 

奎星が言った。

 

「真壁さん」

 

全員の視線が集まる。

 

日向が肩を落とした。

 

「……結局そこか」

 

奎星は少し不満そうだった。

 

「俺ら結構頑張ったのに」

 

伊織が淡々と返す。

 

「学生五人で国家機関の人事記録まで抜けたら、それはそれで問題だよ」

 

「アロホモラ――」

 

「駄目」

 

五人の声が完全に揃った。

 

「まだ何も言ってねえ!」

 

スズメまで冷たい目を向ける。

 

「蓮根君」

 

「冗談です」

 

「半分、本気でしたね?」

 

「一割」

 

「ゼロにしてください」

 

「はい」

 

スズメはもう一度ホワイトボードを見る。

 

「真壁さんへ連絡しましょう」

 

奎星が訊く。

 

「次の休み?」

 

「そうですね」

 

「みんなも?」

 

楓が頷く。

 

「行く」

 

日向。

 

「もちろん」

 

岳。

 

「行く」

 

伊織。

 

「ここまで来たらね」

 

奎星の顔に笑みが戻る。

 

「決まり!」

 

スズメは、そんな五人を見ていた。

 

少し不思議そうに。

 

そして。

 

ほんの少しだけ、柔らかく笑った。

 

 

次の休日。

 

東京、霞が関。

 

日本魔法省地下庁舎。

 

「何回来ても役所だな」

 

巨大な吹き抜けを見上げながら、奎星が言った。

 

頭上では何百羽もの折り鶴が書類を咥え、部署から部署へ忙しなく飛び交っている。壁際には青白い炎を灯した転移扉が並び、濃紺の制服を着た魔法省職員たちが足早に行き交っていた。

 

巨大な案内板には。

 

《魔法法執行局》

 

《機密保持局》

 

《記録局》

 

《監察局》

 

日向がきょろきょろと周囲を見る。

 

「俺、初めて来た」

 

楓も同じだった。

 

「私も」

 

岳は案内板を見上げる。

 

「食堂ある?」

 

「お前はまずそこなの?」

 

伊織は別の文字に目を止めた。

 

「記録局もここなんだ」

 

その言葉に。

 

スズメの視線が一瞬だけ、案内板へ向いた。

 

《記録局》

 

かつて毎日のように通った場所。

 

古文書を読み。

 

先輩と研究し。

 

事故を起こし。

 

そして辞めた。

 

「…………」

 

奎星はその横顔を見た。

 

「大丈夫?」

 

スズメが振り返る。

 

少し驚いたような顔をしたあと、小さく頷いた。

 

「はい」

 

「ならいい」

 

それ以上は訊かなかった。

 

今のスズメは、奎星との半年を覚えていない。

 

けれど。

 

数日前、観測塔で交わした言葉は覚えている。

 

あれは今の彼女自身が作った、新しい記憶だった。

 

それだけで。

 

ほんの少し。

 

違う。

 

「こっちだ」

 

低い声がした。

 

六人が振り向く。

 

真壁征士郎。

 

濃紺の魔法省制服。

 

胸元には監察局の証票。

 

「真壁さん!」

 

奎星が手を上げる。

 

真壁は一人ずつ顔を確認した。

 

奎星。

 

日向。

 

楓。

 

岳。

 

伊織。

 

最後に。

 

スズメ。

 

そして眉間に深い皺を寄せた。

 

「……何で増えている」

 

奎星が答える。

 

「仲間」

 

「聞いていない」

 

「今言った」

 

「そういう意味ではない」

 

真壁は深く息を吐いた。

 

「会議室へ来なさい」

 

奎星が訊く。

 

「怒ってる?」

 

「少しな」

 

「何で!?」

 

「分からないのか?」

 

「分からない!」

 

「だろうな」

 

 

監察局、小会議室。

 

机を囲んで八つの席。

 

一番奥に真壁が座り、その向かいへ六人が並んだ。

 

奎星。

 

日向。

 

楓。

 

岳。

 

伊織。

 

スズメ。

 

真壁はしばらく全員を眺めたあと、最初に口を開く。

 

「まず」

 

奎星。

 

「はい」

 

「怒る」

 

「何で俺から!?」

 

「君が中心だからだ」

 

「理不尽!」

 

「烏丸先生が記憶を失って、まだ一週間も経っていない」

 

その言葉で、奎星が少し黙る。

 

「自分自身に何が起きたのかさえ完全には分かっていない。精神的にも安定しているとは言い難い」

 

スズメが僅かに目を伏せた。

 

「その烏丸先生の過去の事故を、学生だけで調べた?」

 

「はい」

 

「本人まで巻き込んで?」

 

「いや、それは――」

 

「私です」

 

スズメが奎星の言葉を遮った。

 

真壁が見る。

 

「烏丸先生」

 

「私も、自分で調べました。蓮根君たちに巻き込まれたわけではありません」

 

「しかし」

 

「真壁さん」

 

スズメは真っ直ぐに言った。

 

「私も、取り戻したいのです」

 

真壁が黙る。

 

「失った記憶を」

 

一拍。

 

「取り戻したい」

 

奎星の目が僅かに動いた。

 

数日前の観測塔。

 

――私のためにも。

 

――それから、あなたのためにも。

 

同じ意志だった。

 

「ですから、調査を止めるつもりはありません」

 

真壁は額へ手を当てた。

 

「……玄一郎なら止めるぞ」

 

奎星が即座に言う。

 

「御影先生には言わないで」

 

「言う」

 

「真壁さん!」

 

「教師だぞ」

 

「裏切り!」

 

「何の?」

 

「俺らの!」

 

「仲間になった覚えはない」

 

「星帰り一緒にやったじゃん!」

 

「それとこれは別だ!」

 

日向が小声で言う。

 

「真壁さん大変だな」

 

楓も小声で返す。

 

「半分くらい奎星のせいね」

 

「聞こえてんぞ!」

 

真壁が机を軽く叩いた。

 

「資料」

 

「はい」

 

伊織が分厚い紙束を置く。

 

真壁が一瞬止まった。

 

「……何だこれは」

 

「まとめました」

 

楓が説明する。

 

「新聞記事、公報、烏丸先生の研究記録、日記、それから私たちが確認できた現在の事件との共通点です」

 

真壁は紙束を手に取った。

 

思った以上に厚い。

 

一枚目。

 

《二〇二四年 記録局研究事故》

 

次。

 

《古代記憶術式――外部媒体への定着》

 

次。

 

《一月一日 列車襲撃》

 

《黒曜の環残党六名における共通記憶欠損》

 

《硝子音》

 

《人物単位での記憶欠損可能性》

 

そして。

 

《眞田大》

 

真壁の指が止まる。

 

「…………」

 

それでも何も言わず、続きを読んだ。

 

一枚。

 

また一枚。

 

数分。

 

誰も喋らなかった。

 

奎星は待つのが苦手なのか、少しずつ落ち着きがなくなっていく。

 

日向も同じ。

 

岳は静か。

 

伊織は真壁の目線と指の動きを観察している。

 

楓は腕を組んで待ち。

 

スズメだけは比較的落ち着いていた。

 

やがて。

 

真壁が顔を上げた。

 

「これ」

 

資料を見る。

 

「全部、君たちでまとめたのか?」

 

奎星が少し胸を張る。

 

「まあね」

 

楓。

 

「蓮根は途中、研究室へ不法侵入しましたけど」

 

「言うなよ!」

 

真壁の目が奎星へ向く。

 

「……何?」

 

「解決済み」

 

「蓮根君」

 

「反省文書いた!」

 

スズメが付け加える。

 

「四枚半です」

 

「スズメちゃんまで!」

 

真壁は目を閉じた。

 

「頭が痛い」

 

「それより」

 

奎星が身を乗り出す。

 

「どう?」

 

資料を指す。

 

「結構すごくね?」

 

真壁は再び紙束へ目を落とす。

 

「……正直に言えば」

 

「うん」

 

「よく調べた」

 

五人の顔が少し明るくなる。

 

「新聞から事故時期を特定し、公開情報と烏丸先生自身の記憶を照合。現在の事件との共通点を整理し、研究関係者まで辿った」

 

伊織の口元が少し上がった。

 

「学生の調査としては」

 

真壁が僅かに笑う。

 

「かなり出来がいい」

 

「よっしゃ!」

 

日向が拳を握る。

 

「静かに」

 

楓に止められる。

 

奎星も嬉しそうに身を乗り出した。

 

「じゃあ!」

 

「ただし」

 

真壁が資料を閉じる。

 

その言葉だけで、五人の顔が嫌そうになる。

 

「ここに書いてあることのほとんどは――魔法省も既に把握している」

 

沈黙。

 

「…………」

 

奎星。

 

「え」

 

日向。

 

「ほとんど?」

 

「ほとんどだ」

 

楓が確認する。

 

「眞田大も?」

 

「ああ」

 

伊織。

 

「二〇二四年の研究事故も?」

 

「ああ」

 

岳。

 

「記憶が戻ってない人」

 

「把握している」

 

奎星。

 

「硝子と似てることも?」

 

「そこも含め、現在検証している」

 

五人が揃って黙り込む。

 

日向が力なく椅子へ沈んだ。

 

「俺らの一週間……」

 

楓がすぐ返す。

 

「無駄ではないでしょ」

 

奎星は不満そうに真壁を見る。

 

「先に教えてくれればよかったじゃん!」

 

「捜査資料を学生へ共有するわけがないだろう」

 

「俺、当事者!」

 

「学生でもある」

 

「ちぇっ」

 

真壁は紙束をもう一度開いた。

 

「眞田大についても、事故の再調査を始めた時点で名前は上がっている」

 

スズメが真壁を見る。

 

「そうですか」

 

「あの研究に直接関与していた二人のうち、一人だからな」

 

奎星がすぐ訊く。

 

「今どこにいる?」

 

「蓮根君」

 

真壁の声が低くなる。

 

「何?」

 

「捜査情報だ」

 

「ケチ!」

 

「そういう問題ではない」

 

「犯人かもしれないじゃん!」

 

「だからこそだ」

 

真壁の目が鋭くなる。

 

「現時点で、眞田大が一月一日の襲撃犯だと示す証拠はない」

 

奎星が黙る。

 

「身長が似ている。記憶術式を研究していた。烏丸先生と事故を起こした」

 

一つずつ。

 

冷静に。

 

「それだけで犯人にはできない」

 

「…………」

 

「疑うのは構わない」

 

真壁は奎星を真っ直ぐ見る。

 

「決めつけるな」

 

奎星は少し不満そうだった。

 

けれど。

 

「……分かった」

 

真壁が小さく頷く。

 

そして、また資料を捲った。

 

一枚。

 

その指が止まる。

 

「…………」

 

真壁の顔が変わった。

 

わずかな変化。

 

けれど伊織は見逃さなかった。

 

「何か?」

 

「これは」

 

真壁が紙を持ち上げる。

 

日記からの抜粋。

 

《眞田先輩は、失敗ではないと言った》

 

《記憶の抽出そのものは成功している》

 

《これはまだ一歩に過ぎない》

 

《進歩に犠牲はつきものだ》

 

真壁がスズメを見る。

 

「烏丸先生」

 

「はい」

 

「これは、どこから?」

 

「私の日記です」

 

「事故当時の?」

 

「はい」

 

「原本は?」

 

「学校にあります」

 

「……そうか」

 

真壁は、もう一度読み直した。

 

さっきまでとは違う。

 

確認するように。

 

一行ずつ。

 

慎重に。

 

奎星が身を乗り出す。

 

「何?」

 

真壁は答えない。

 

「真壁さん」

 

しばらくして。

 

真壁は紙をゆっくり机へ置いた。

 

「……これは」

 

全員を見る。

 

「我々は知らなかった」

 

日向が目を開く。

 

「え?」

 

「眞田が、この事故を《成功に近いもの》として捉えていたことだ」

 

スズメの目が僅かに動く。

 

「正式な事故記録では、研究は失敗したものとして処理されている」

 

真壁の声が変わる。

 

さっきまで学生たちを注意していた男ではない。

 

監察局の人間の声。

 

「烏丸先生の報告書も同じだ。術式解釈の誤り、安全手順の不備、資料管理規則違反。すべて事故として記録されている」

 

伊織が訊く。

 

「眞田さんの聴取は?」

 

「受けている」

 

「そこでは?」

 

「少なくとも、私が確認した記録上」

 

真壁は首を横へ振った。

 

「こんな発言はない」

 

奎星の目つきが変わった。

 

「……隠した?」

 

「分からない」

 

真壁は即座に止める。

 

「当時の聴取を受けるまでに、本当に考えを変えていた可能性もある。発言が要約された可能性もある。それに、日記へ残された会話がどこまで正確な逐語記録なのかも確認が必要だ」

 

スズメが頷く。

 

「日記ですから」

 

「そうだ」

 

「ですが」

 

スズメも紙を見る。

 

「私は」

 

少し言葉を選んだ。

 

「この言葉を書き残す程度には、強く覚えていたのでしょう」

 

真壁は静かに頷いた。

 

「重要な情報だ」

 

奎星の目が少し明るくなる。

 

「じゃあ」

 

「捜査は進む」

 

真壁が答える。

 

「少なくとも、眞田大という人物を《三年前の事故の共同研究者》としてだけではなく、その後も同種の研究を継続した可能性がある人物として見直す理由にはなる」

 

一瞬。

 

五人が黙った。

 

そして。

 

日向の口元が上がる。

 

「俺ら」

 

「何だ」

 

「魔法省より先行った?」

 

楓も少し笑う。

 

「一個だけね」

 

伊織が頷く。

 

「でも、一個は一個だ」

 

奎星が一気に得意げになる。

 

「ほら!」

 

真壁の顔に嫌な予感が浮かぶ。

 

「何が」

 

「俺ら必要じゃん!」

 

「その話はしていない」

 

「したようなもんだろ!」

 

「していない」

 

楓が腕を組む。

 

「でも、魔法省も私たちも、辿り着いたところはほとんど同じなんですよね?」

 

真壁が少し黙る。

 

「……そうなるな」

 

伊織も続ける。

 

「しかも、こちらには烏丸先生本人の日記がある。少なくとも、この一点では」

 

眼鏡を押し上げる。

 

「僕たちのほうが先へ行った」

 

真壁の眉間が深くなる。

 

「だからと言って――」

 

「それに」

 

今度は岳が口を開いた。

 

真壁が見る。

 

「奎星のことは、俺たちが一番知ってる」

 

日向もすぐ頷く。

 

「そうそう。こいつ絶対、勝手に調べるし」

 

「そこ?」

 

岳。

 

「止めても行く」

 

「だから一緒にいた方がいい」

 

「保護者みたいに言うな!」

 

日向が奎星の肩を指す。

 

「お前一人だとマジで何するか分かんねえんだよ!」

 

「失礼だな!」

 

楓。

 

「事実」

 

伊織。

 

「事実だね」

 

岳。

 

「事実」

 

「全員敵!」

 

真壁はこめかみを押さえた。

 

「君たちはな……」

 

奎星が胸を張る。

 

「あと」

 

真壁の目が嫌そうに向く。

 

「まだあるのか」

 

「俺」

 

一拍。

 

「天才だし」

 

ぱしん!!

 

楓の手が奎星の後頭部へ落ちる。

 

「痛ってえ!!」

 

「黙りなさい」

 

「事実だろ!」

 

「台無し!」

 

「魔力一万七百二!」

 

「数字を出さない!」

 

日向が笑い始める。

 

岳は真面目に頷いた。

 

「天才ではある」

 

「岳!」

 

「ただし馬鹿」

 

「取り消せ!」

 

伊織まで加わる。

 

「両立するからね」

 

「伊織まで!」

 

真壁は、しばらく六人を眺めていた。

 

そして。

 

長い。

 

本当に長い溜息を吐く。

 

「…………はぁ」

 

奎星が言う。

 

「今の御影先生っぽい」

 

「誰のせいだ」

 

「知らん」

 

「君だ」

 

「即答」

 

真壁は資料を揃え直した。

 

「いいか」

 

その声が少し変わる。

 

「ここまでだ」

 

奎星の笑顔が消える。

 

「え」

 

「君たちは学生だ」

 

「でも」

 

「聞け」

 

真壁が止める。

 

「資料を調べる。公開情報を読む。烏丸先生自身が、自分の記録を確認する。そこまでは止めない」

 

奎星が少し身を乗り出す。

 

「じゃあ」

 

「だが」

 

真壁の目が鋭くなる。

 

「眞田大を、自分たちで探すな」

 

奎星の口が閉じた。

 

「接触しようとするな。住所を調べるな。勤務先を突き止めようとするな。魔法省の記録へ勝手に入ろうとするな」

 

最後の一つだけ。

 

完全に奎星を見ている。

 

「何で俺見んの」

 

全員が奎星を見る。

 

日向。

 

「お前だろ」

 

楓。

 

「あんたね」

 

伊織。

 

「君だね」

 

岳。

 

「奎星」

 

最後に。

 

スズメまで。

 

「スズメちゃんまで見ないで!」

 

「私は何も言っていません」

 

「目が言ってる!」

 

真壁は構わず続けた。

 

「今回の相手は、走行中の列車を故意に脱線させた」

 

空気が変わる。

 

奎星の笑みも消えた。

 

「十数人、数十人では済まない人間が死ぬ可能性を承知でだ」

 

あの日の音が。

 

一瞬だけ。

 

奎星の耳の奥へ戻る。

 

鉄が軋む音。

 

悲鳴。

 

砕ける窓。

 

「さらに、正体不明の記憶術式を使う」

 

真壁は奎星を見る。

 

「学生が追っていい相手ではない」

 

奎星は机の下で拳を握った。

 

分かっている。

 

本当は。

 

御影にも。

 

真壁にも。

 

斎賀にも。

 

自分はまだ遠い。

 

魔力量だけでは埋まらないものがある。

 

経験。

 

判断。

 

技術。

 

生き残ってきた年月。

 

それを、この一年で何度も思い知らされてきた。

 

「……分かった」

 

真壁が目を細める。

 

「本当か?」

 

「分かったって」

 

「勝手に探さない」

 

「探さない」

 

「接触しない」

 

「しない」

 

「単独行動」

 

「しない」

 

横から。

 

スズメが静かに言う。

 

「日記に書いておきます」

 

奎星が振り向く。

 

「何で!?」

 

「証拠です」

 

「信用ねえ!」

 

「ありません」

 

即答。

 

日向が吹き出した。

 

奎星は目を見開いてスズメを見る。

 

「ひどくない!?」

 

スズメは、ほんの少し笑っていた。

 

「蓮根君の日頃の行いです」

 

「…………」

 

奎星が一瞬止まる。

 

その言い方。

 

昔も。

 

多分。

 

何度も言われた。

 

スズメが首を傾げる。

 

「何ですか?」

 

奎星は少し笑った。

 

「別に」

 

「そうですか」

 

「うん」

 

前と同じじゃない。

 

でも。

 

少しずつ増えている。

 

今のスズメとの、新しいものが。

 

真壁が資料を閉じた。

 

「それと」

 

六人を見る。

 

「今日、君たちをここへ残した理由がもう一つある」

 

奎星が顔を上げる。

 

「何?」

 

真壁は一瞬だけスズメを見た。

 

「烏丸先生」

 

「はい」

 

「三年前の事故について」

 

スズメの表情が、わずかに固まる。

 

「当時の協力者へ、改めて事情を聞くことになった」

 

静寂。

 

奎星たちはすぐに、その言葉の意味を理解した。

 

三年前。

 

記憶を失った少女。

 

治療しても戻らなかった。

 

写真を見ても。

 

自分の過去だと感じられなくなった。

 

スズメが教師になる理由にまでなった人。

 

「……あの子?」

 

奎星が小さく訊く。

 

真壁が頷いた。

 

「ああ」

 

スズメは何も言わない。

 

真壁の声が、少しだけ柔らかくなる。

 

「今回、似た事案が起きたことで、本人にも改めて話を聞く許可を取った」

 

「…………」

 

「今日、このあと面会する予定だ」

 

奎星がスズメを見る。

 

膝の上。

 

彼女の指が、僅かに握られている。

 

スズメは覚えている。

 

あの事故を。

 

自分がしたことを。

 

少女から失われたものを。

 

何度謝っても戻らなかったことを。

 

「烏丸先生」

 

真壁が静かに訊く。

 

「もしよければ、一緒に来ますか」

 

スズメは、すぐには答えなかった。

 

怖い。

 

きっと。

 

三年前に置いてきたはずの場所へ、もう一度戻ることになる。

 

それでも。

 

やがて顔を上げた。

 

「……はい」

 

小さい。

 

けれど、はっきりした声だった。

 

「会いたいです」

 

真壁が頷く。

 

その瞬間。

 

奎星が立ち上がった。

 

「俺も行く」

 

「駄目だ」

 

即答だった。

 

「何で!?」

 

「何で分からない!」

 

「俺も関係者だろ!」

 

「君は三年前の事故の関係者ではない!」

 

「今は同じ魔法食らった人の関係者!」

 

「ややこしい言い方をするな!」

 

日向が手を上げる。

 

「俺も」

 

「駄目」

 

楓。

 

「私も行きます」

 

「水無瀬さんまで」

 

伊織。

 

「話を聞く価値はあると思います」

 

「榊君」

 

岳。

 

「行く」

 

「岩戸君まで!?」

 

奎星が勝ち誇ったように言う。

 

「ほら全員!」

 

「遠足ではない!」

 

そこで。

 

奎星の顔から、ふざけた色が消えた。

 

「分かってる」

 

真壁が止まる。

 

「遊びじゃねえよ」

 

奎星は左腕へ触れた。

 

銀色の腕時計。

 

スズメから貰ったもの。

 

彼女自身は、もうそれを選んだことを覚えていない。

 

「俺」

 

一拍。

 

「スズメちゃんの記憶、戻したい」

 

スズメの目が僅かに動く。

 

「三年前の人が、何覚えてて、何忘れて、どんな感じだったのか」

 

奎星は続ける。

 

「俺も知りたい」

 

真壁は黙った。

 

伊織が静かに言葉を足す。

 

「現在の烏丸先生の症状と比較できる可能性もあります」

 

楓。

 

「私たちは余計な質問はしません」

 

日向。

 

「黙って聞く」

 

岳。

 

「邪魔しない」

 

真壁は眉間を押さえたまま考える。

 

長い沈黙。

 

やがて。

 

「……本人が」

 

全員が顔を上げる。

 

「面会者が増えることを了承した場合だけだ」

 

奎星の顔が明るくなる。

 

「やった!」

 

「まだだ!」

 

「行ける!」

 

「話を聞け!」

 

真壁が指を一本立てる。

 

「条件がある」

 

「何?」

 

「勝手に発言しない」

 

「え」

 

「質問は私を通す」

 

「えー」

 

「相手が一人でも嫌がった時点で、全員退室」

 

「分かった」

 

「そして」

 

真壁の目が奎星へ刺さる。

 

「絶対に余計なことをするな」

 

「分かってるって!」

 

「蓮根君」

 

「何で俺だけ名指し!?」

 

日向。

 

「実績」

 

楓。

 

「実績ね」

 

伊織。

 

「実績」

 

岳。

 

「実績」

 

最後にスズメまで少し考えて。

 

「……実績ですね」

 

「スズメちゃんまで!?」

 

ほんの少しだけ、部屋に笑いが戻った。

 

真壁は立ち上がる。

 

「本人へ確認してくる。ここで待ちなさい」

 

扉へ向かう。

 

奎星が訊く。

 

「ついてったら?」

 

真壁が振り返る。

 

「置いていく」

 

「待ちます」

 

扉が閉まった。

 

残された六人。

 

しばらく誰も喋らなかった。

 

先に口を開いたのは日向だった。

 

「……会うのか」

 

楓が小さく頷く。

 

「三年前の……」

 

伊織が眼鏡を押し上げる。

 

「生きた一次資料、なんて言い方は失礼だけど」

 

岳が続ける。

 

「一番知ってる人」

 

「うん」

 

奎星はスズメを見た。

 

「…………」

 

スズメは机を見ている。

 

少し。

 

顔が硬い。

 

「スズメちゃん」

 

「はい」

 

「大丈夫?」

 

また。

 

同じ質問。

 

スズメは少し困ったような顔をした。

 

「それは」

 

一拍。

 

「私が言う言葉ではないのでは?」

 

奎星が首を傾げる。

 

「何で?」

 

「あなたの日記ではありませんが」

 

「俺の日記?」

 

「私の日記です」

 

「ああ、俺いっぱい出てくるやつ」

 

スズメの眉が少し動く。

 

「そうです」

 

「何?」

 

「何度も」

 

その口元が、ほんの少し緩む。

 

「あなたの《大丈夫》は信用できない、と書いてありました」

 

「…………」

 

日向が吹き出す。

 

楓も笑う。

 

伊織は納得したように眼鏡を押し上げ。

 

岳は一言。

 

「正しい」

 

「うるせえ!」

 

奎星は少し赤くなった。

 

でも。

 

笑った。

 

「じゃあ」

 

スズメを見る。

 

「大丈夫じゃない?」

 

今度はスズメが止まった。

 

少し。

 

考える。

 

そして。

 

「……怖いです」

 

正直に言った。

 

奎星の笑みが消える。

 

「うん」

 

「ですが」

 

膝の上で握られていた手が、ゆっくり開かれる。

 

「会います」

 

「……うん」

 

奎星は、それだけ言った。

 

無理に励まさない。

 

大丈夫とも言わない。

 

数日前。

 

自分が泣いたとき。

 

観測塔でスズメは手を握ってくれた。

 

だから今は。

 

ただ隣にいる。

 

数分後。

 

扉が開いた。

 

真壁が戻ってくる。

 

全員が一斉に顔を上げた。

 

「本人から」

 

一拍。

 

「了承が取れた」

 

奎星が立つ。

 

「行ける?」

 

「ああ」

 

真壁は全員を見る。

 

「ただし――」

 

「余計なことするな」

 

奎星が先に言った。

 

真壁は僅かに目を細める。

 

「特に君だ」

 

「分かってる!」

 

六人が立ち上がった。

 

 

監察局の廊下。

 

真壁を先頭に、スズメ、奎星、日向、楓、岳、伊織が続く。

 

一つ階段を下りる。

 

廊下を曲がる。

 

先ほどまでの監察局の慌ただしさが、少しずつ遠ざかっていった。

 

やがて着いたのは、人通りの少ない静かな区画。

 

扉の脇に札がある。

 

《第三応接室》

 

真壁が取っ手へ手を掛ける前に、振り返った。

 

「いいか」

 

誰も喋らない。

 

「三年前の事故で、一番多くのものを失った人だ」

 

その言葉だけで。

 

奎星たちの表情が引き締まる。

 

「自分たちが知りたいことより」

 

真壁の声は低かった。

 

「相手が話したくないことを優先しろ」

 

全員が頷く。

 

真壁が取っ手へ手を掛けた。

 

その横で。

 

スズメの指が僅かに震えた。

 

奎星は気づいた。

 

けれど。

 

何も言わなかった。

 

扉が開く。

 

「失礼します」

 

真壁が先に入った。

 

その向こう。

 

窓際に。

 

一人の女性が座っていた。

 

三年前は少女だった。

 

今は少し大人になっている。

 

膝の上には両手が重ねられ、窓から差し込む冬の光が、その横顔を淡く照らしていた。

 

足音に気づき。

 

女性が顔を上げる。

 

最初に真壁を見る。

 

その後ろの日向たちへ視線が流れ。

 

そして。

 

スズメを見つけた。

 

目が止まる。

 

「…………」

 

長い。

 

長い沈黙。

 

スズメも動けなかった。

 

三年前。

 

自分の魔法で。

 

記憶を失わせた人。

 

女性の唇が。

 

ゆっくりと動く。

 

「……烏丸さん」

 

スズメの顔が強張った。

 

女性は。

 

それでも。

 

静かに笑った。

 

「お久しぶりです」

 

奎星は、何も言えなかった。

 

その笑顔に。

 

何が残っていて。

 

何が失われたままなのか。

 

まだ、何も分からない。

 

ただ。

 

一つだけ。

 

分かった。

 

三年前に終わったと思われていた事故は。

 

終わっていなかった。

 

そして。

 

その事故を。

 

《失敗ではなかった》

 

そう言った男がいる。

 

眞田大。

 

これまで「先輩」としか呼ばれていなかった人間。

 

一月一日の男と同じく。

 

記憶を扱う古代魔術を知り。

 

同じように長身で。

 

そして。

 

一人の少女が記憶を失った結果を見ても。

 

研究の続きを見ていた男。

 

もちろん。

 

まだ犯人だとは決まっていない。

 

何一つ。

 

証拠はない。

 

それでも。

 

初めて。

 

敵かもしれない人間に。

 

名前がついた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。