「……烏丸さん」
窓際の椅子に座っていた女性が、スズメを見つめたまま静かに笑った。
「お久しぶりです」
その声を聞いた瞬間、スズメの足が止まった。
三年前の記録局。古代魔術の実験。床に描かれた術式。光に包まれて倒れた少女。そして、目を覚ましたあとも戻らなかった記憶。治療を受けても、専門家へ相談しても、決して取り戻せなかったもの。
ずっと自分の中で止まったままだった時間が、今、目の前にいる。
「相原……さん」
ようやく、スズメの唇から名前がこぼれた。
相原美里。
三年前、記録局の研究に協力し、選択的な記憶欠損を起こした当事者。相原はもう一度、小さく笑った。
「はい。相原美里です」
スズメは一歩、応接室へ入った。その後ろから奎星たちも続く。真壁は全員が入ったのを確認してから扉を閉め、改めて相原へ向き直った。
「こちらが、三年前の記録局研究事故に協力していた烏丸スズメさん。そして、彼女の教え子たちだ」
「初めまして」
相原が軽く頭を下げる。
日向たちも少し緊張した様子で頭を下げた。
「初めまして」
「よろしくお願いします」
最後に奎星も頭を下げる。
「蓮根奎星です」
その名前を聞いた瞬間、相原の視線が一瞬だけ奎星へ止まった。何かを知っているようにも見えたが、彼女はすぐに柔らかな笑顔へ戻った。
「よろしくお願いします」
その間も、スズメだけは立ったままだった。
やがて彼女は、深く頭を下げる。
「相原さん。三年前は――」
「烏丸さん」
相原が穏やかに遮った。
スズメの言葉が止まる。
相原は困ったように肩を竦めた。
「謝罪なら、三年前に散々してもらいましたから」
スズメが顔を上げる。
「ですが……」
「本当に、もう何回聞いたか分からないくらいです」
相原は指を折りながら数えるように言った。
「病室でも、魔法省でも、退院したあとも。手紙もいただきましたし」
スズメの目が僅かに揺れた。
覚えている。
何度も書き直した。謝罪の言葉、事故の経緯、自分の責任、戻せなかった記憶。何を書いても足りない気がして、結局、何通も手紙を送った。
「ですから」
相原は、今度は少しだけ明るく笑った。
「今日は謝られるために来たわけじゃありません」
「……はい」
スズメの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
真壁が部屋の中央に置かれた椅子を示す。
「座りましょう。長くなるかもしれません」
全員が席についた。相原の向かいに真壁、その隣にスズメ。少し離れた場所に奎星たち五人が並ぶ。
真壁は相原へ確認するように言った。
「人数が多くなってしまって申し訳ありません。途中で答えたくない質問があれば、無理に答えなくて構いません。疲れた場合も、すぐに言ってください」
「分かりました」
相原は笑って頷いた。
その笑顔を見て、奎星は少し戸惑っていた。
もっと違う人を想像していたのだ。
三年前に記憶を失った少女。写真を見ても自分の思い出だと感じられず、治療を受けても記憶が戻らなかった人。スズメが三年間ずっと引きずり、教師になる理由の一つにまでなった人。
だから勝手に、暗い人だと思っていた。
何か大きなものが欠けたまま、空っぽの場所を抱えて生きている人。笑うことも忘れてしまったような人。
けれど、目の前の相原美里は普通に笑っていた。真壁へ冗談を言い、スズメへ怒りを向けることもなく、初対面の奎星たちにも気さくに接している。
明るくて、人当たりがいい。どこにでもいそうな、普通の人だった。
真壁が口を開く。
「まず、現在の記憶障害について教えていただけますか」
「はい」
相原は頷いた。
「戻ってません」
あまりにもあっさりと言われたため、奎星の表情から一瞬だけ色が消えた。
相原はその反応に気づいたのか、少しだけ苦笑する。
「三年前になくなった記憶は、今もそのままです。突然思い出したこともありませんし、夢に出てきたこともありません」
スズメの指が、膝の上で僅かに動いた。
「ただ」
相原は少し考えてから続けた。
「生活は普通にできてますよ」
奎星が顔を上げる。
「普通に?」
「はい。学校にも通いましたし、友達とも遊びます。家族とも普通に暮らしています」
相原は、まるで特別なことではないように話していた。
「失った記憶があること自体、普段はそんなに意識しません」
楓が少し驚いたように訊く。
「今でも、失った記憶があるって分かるんですか?」
「たまにです」
相原は笑った。
「友達と昔の話をしていると、『あのとき一緒に行ったよね』って言われるんです」
「でも?」
「私は全然覚えてない」
日向が黙り込む。
相原は少し困ったように笑いながら続けた。
「写真まで出てきて、確かに私が写っているんですよ。でも、やっぱり自分の記憶って感じはしません」
奎星の中で、以前スズメから聞いた話が重なった。
写真を見ても、自分のものだと感じられない。
「家族と話していてもありますよ。小さい頃の旅行とか、親戚の家へ行ったときの話とか。私だけ知らないんです」
「…………」
「そのたびに、『ああ、これもなのかな』って思います」
相原はそこで少し間を置き、にっこり笑った。
「まあ、それが魔法のせいかは分からないですけどね。私、普通に記憶力が悪いので」
「え」
日向が思わず声を漏らした。
相原は楽しそうに笑う。
「昨日食べた夕飯も怪しいです」
「それは魔法関係なくないですか?」
奎星が反射的に口を挟んだ。
真壁の視線が飛んでくる。
「蓮根君」
「あ」
勝手に喋るなと言われていたことを思い出し、奎星は慌てて口を閉じた。
「すみません」
相原が吹き出す。
「ふふ」
真壁も相原へ頭を下げた。
「申し訳ありません」
「いいですよ」
「よくありません」
「厳しいですね」
「必要なので」
奎星が小声で言う。
「真壁さん、御影先生みたいになってきた」
「蓮根君」
「はい」
今度こそ黙った。
相原はますます楽しそうに笑っている。
その顔を見ながら、奎星は胸の奥が少し軽くなるのを感じていた。
記憶がなくなった。戻らない。それは間違いなく酷いことだ。けれど、それがその人のすべてを奪うわけではない。
相原は笑える。新しいこともできる。誰かと話し、食事をし、学校へ通い、今を生きている。
記憶を失ったからといって、その人が空っぽになるわけではないのだ。
真壁が本題へ入る。
「では、三年前の事故当日について。覚えている範囲で構いません」
相原の表情が少しだけ引き締まった。
「はい」
「烏丸先生と眞田大。この二人から、どのような説明を受けましたか」
相原はしばらく考えた。
「難しい説明は、正直あまり覚えていません」
「構いません。覚えている部分だけで」
「記憶を一度外へ移して、それから戻す……みたいな話だったと思います」
スズメが小さく目を伏せた。当時の認識と一致している。
「危険性については?」
「聞いていません」
スズメの肩が僅かに強張る。
相原はすぐに続けた。
「でも、それで烏丸さんたちが危険を隠していたとか、そういうことではないですよ」
スズメが顔を上げる。
「二人とも、本当に大丈夫だと思っていたんだと思います。私もそう思っていましたし」
相原は少し困ったように笑った。
「むしろ、面白そうって思ってましたから」
真壁が確認する。
「実験への参加は自発的だった?」
「はい」
「強制ではない」
「全然」
「眞田から直接、勧誘された?」
「最初に話をしたのは、たぶん烏丸さんだったと思います。でも、眞田さんからも説明は受けました」
真壁が記録へ書き込む。
「術式が発動する直前のことは?」
「覚えています」
相原は目を閉じた。
三年前の記録局。古い部屋。机の上に置かれた巻物。床へ描かれた術式。魔力の流れを確認するために並べられた器具。
「少し緊張していました」
「当然でしょう」
「でも」
相原はスズメを見る。
「烏丸さんのほうが緊張していましたよ」
「……私が?」
「はい。何回も『気分は悪くありませんか』って聞いてきて」
スズメは何も言えなかった。
「始める前なのに」
相原は笑う。
「眞田さんに、『まだ何もしてないよ』って言われてました」
奎星の目が僅かに動いた。
眞田。
その名前が出るだけで、部屋の空気が変わる。
真壁が訊く。
「発動後は?」
相原の笑みが消えた。
「そこが、少し曖昧なんです」
「術式の影響でしょうか」
「分かりません」
相原は正直に答えた。
「光ったのは覚えています。身体が変な感じになって、頭の奥を引っ張られるような……」
奎星の脳裏に、一月一日の光景が蘇る。
スズメが呪文を受けた瞬間。あの光。掌に浮かんだ透明な硝子玉。内部を走る銀色の光。
「そのあと、多分倒れました」
「意識を失った?」
「少しだけ」
「目を覚ましたのは?」
「同じ部屋です」
真壁の筆が紙の上を走る。
「最初に見たのは?」
相原は少しだけスズメを見た。
「烏丸さん」
スズメの呼吸が止まりかける。
「すごい顔をしていました」
「…………」
「泣きそうで。いや、多分、泣いていました」
スズメは何も言わない。
「それから」
真壁が訊く。
「眞田は?」
「いました」
部屋が静かになる。
「どんな様子だった?」
相原は目を細め、記憶の中を探った。
「……やってしまった、っていう顔でした」
奎星の眉が動いた。真壁も筆を止める。
「具体的には?」
「難しいですね」
相原は少し考えた。
「青ざめていたと思います。少なくとも、喜んでいたとか、興奮していたとか、そういう感じではありませんでした」
「…………」
「烏丸さんと同じです」
スズメが僅かに顔を上げる。
「二人とも」
相原は静かに言った。
「やってしまった、って顔をしていました」
誰も、すぐには口を開かなかった。
眞田の言葉が奎星の脳裏をよぎる。
――失敗ではない。
――記憶の抽出そのものは成功している。
――これは、まだ一歩に過ぎない。
――進歩に犠牲はつきものだ。
その男は、事故の直後から平然としていたわけではない。少なくとも相原の記憶では、最初は自分たちが取り返しのつかないことをしたと理解していた。
伊織の目が細くなる。真壁も同じように、何かを考えていた。
「その後、眞田と話したことは?」
「私は、ほとんどありません」
「見舞いには?」
「来ました」
奎星が僅かに目を開く。
「一度?」
「何度か」
真壁が訊く。
「何を話した?」
「謝られました」
「研究の話は?」
「私には、ほとんど」
相原は首を横へ振った。
「体調とか、困っていることはないかとか。そういう話だったと思います」
「研究を続けたい、という話は?」
「聞いていません」
真壁が静かに頷く。
「分かりました」
資料へ一行、書き加える。
奎星は少し混乱していた。
もっと分かりやすい悪人だと思っていたのだ。
少女の記憶を失わせ、それでも《失敗ではない》と言った男。しかし事故直後は青ざめ、見舞いにも来て、謝罪している。
分からない。
人間は、一つの言葉だけでは分からない。
真壁が以前言った言葉が蘇る。
――疑うのは構わない。
――決めつけるな。
その意味が、少しだけ分かった気がした。
真壁が次の質問へ移る。
「相原さん。当日の記憶について、もう一つ確認したいことがあります」
「何でしょう」
「硝子の音を聞いた記憶はありませんか」
相原が瞬きをする。
「硝子?」
奎星の身体が僅かに前へ動いた。
真壁が続ける。
「小さな硝子玉同士を当てたような音です」
ちん。
一月一日。あの男の指輪。掌に浮かんだ透明な球。内部を走る銀の光。
相原はしばらく考え、目を閉じた。
事故。光。倒れる。誰かの声。
「ごめんなさい」
目を開く。
「そこまでは覚えていません」
奎星の肩が僅かに落ちた。
「聞いていない?」
真壁が確認する。
「聞いていないのか、聞いたけれど忘れているのか、それも分からないです」
「そうですか」
「三年前ですし。事故の前後は、結構ごちゃごちゃしているので」
真壁は頷いた。
「十分です」
だが、奎星はそこで一つ引っかかった。
三年前の術式は、記憶を外へ取り出し、別の媒体へ保存するはずだった。そして今回、スズメの記憶を奪ったあと、硝子玉が生まれた。
「真壁さん」
「何だ」
「質問していい?」
真壁が少し嫌そうな顔をした。
「今回は許可する」
「三年前も」
奎星は言葉を探した。
「もし、記憶が消えたんじゃなくて」
相原を見る。
「どこかに残っていたら?」
スズメの目が動く。日向たちも顔を上げた。
「今回みたいに、何かに入っていた可能性ってないの?」
静寂が落ちた。
真壁はすぐには答えなかった。相原も奎星を見る。
「硝子玉?」
楓が小さく言う。
「そう」
奎星は頷いた。
「今回、俺は見た。透明な球と、銀色の光。でも三年前は、誰も見ていない」
伊織が静かに言う。
「見ていないことと、存在しなかったことは同じではない」
「うん」
奎星の声が少し強くなる。
「相原さんが今も覚えていないだけかもしれないし」
真壁が腕を組む。
「可能性だけなら、ゼロとは言えない」
奎星の目が開いた。
「じゃあ――」
「ただし」
真壁が遮る。
「それ以上でもない」
「…………」
「三年前に記憶を保持した媒体が生成されたという記録は、現時点では確認されていない」
スズメも静かに頷いた。
「私の研究記録にも、成功した固定媒体の記述はありませんでした」
「でも」
「可能性はある」
真壁が言う。
「可能性があるというだけだ」
奎星は黙った。
期待するな、という意味ではない。諦めろ、という意味でもない。ただ、まだ何も分かっていない。それだけだった。
相原はそんな奎星を少し不思議そうに見ていた。
「私の記憶も」
自分の胸へ指を当てる。
「どこかにあるかもしれないってことですか?」
奎星が頷く。
「かもしれない」
「へえ」
相原は少しだけ目を丸くした。それから、穏やかに笑った。
「それは、見つかったら嬉しいですね」
その声は、意外なほど落ち着いていた。
スズメが相原を見る。
また顔を伏せかけた、そのときだった。
相原はスズメに顔を近づけた
「相原さん?」
スズメが顔を上げる。
相原は彼女の顔を覗き込む。
「烏丸さん」
「……はい」
「親友とは」
スズメの目が止まる。
相原は、優しく笑った。
「今も親友です」
「…………」
「確かに、出会った頃の記憶はありません」
三年前に失った、一番最初の日。どうやって知り合ったのか、何を話したのか、なぜ仲良くなったのか。もう分からない。
「でも」
相原は続けた。
「そのあと、またいっぱい遊びましたから」
「…………」
「買い物へ行って、ご飯を食べて、喧嘩もして」
少し笑う。
「一回、旅行にも行きました」
スズメの唇が僅かに開く。
「新しい思い出が、たくさんできました」
静かな応接室に、相原の声だけが響く。
「親友って、もちろん思い出も大切だと思います。一緒にいた時間が長いから親友になることもあるし、昔のことを全部知っているからこそ分かることもあります」
相原はそこで一度言葉を切った。
「でも私、気が合うから親友なんだと思うんです」
スズメの目が揺れた。
「私とあの子は、多分」
相原は笑う。
「何回記憶をなくしても、また話す機会さえあれば、また親友になると思います」
「…………」
「そういう相手だから」
スズメは何も言えなかった。
ずっと怖かった。
三年前、自分が奪ったもの。親友との出会い。写真に残っていても、本人から消えてしまった記憶。それを自分は取り戻せなかった。
だから、相原の人生から何か決定的なものを壊してしまったのだと思っていた。
もちろん、壊したものはある。なかったことにはならない。失われた記憶は、今も戻っていない。
けれど、その先の時間まで止まっていたわけではなかった。
相原美里は、また親友と笑い、遊び、新しい思い出を作って、今ここにいる。
「……そう、ですか」
スズメの口元が僅かに震えた。
「はい」
相原は笑った。
「だから、そんな顔をしないでください」
「…………」
「烏丸さん、三年前から」
相原はくすっと笑う。
「謝るときだけ、顔が全然変わっていません」
スズメが目を伏せる。
「……すみません」
「また謝った」
相原が笑う。
日向も小さく笑い、楓は目元を緩めた。岳も、伊織も、静かにその様子を見ている。
奎星は、相原の言葉を頭の中で何度も繰り返していた。
何度記憶をなくしても。
話す機会があれば。
また親友になる。
胸の奥に、今までとは違う形の何かが引っかかっていた。
*
面会は、それから十分ほどで終わった。
真壁が必要な確認を済ませ、相原へ礼を言う。
「今日はありがとうございました」
「いえ。何か役に立ったならよかったです」
スズメも立ち上がった。
「相原さん」
「はい」
「今日は……ありがとうございました」
今度の言葉に、謝罪は含まれていなかった。
相原もそれを理解したらしい。にっこり笑う。
「こちらこそ」
スズメが応接室を出る。その背中は、入ってきたときより少しだけ軽く見えた。
楓が続き、日向、岳、伊織も何となく何も言わずに部屋を出ていく。
奎星だけが動かなかった。
頭の中に、まだ相原の言葉が残っている。
――何回記憶をなくしても。
――また話す機会さえあれば。
――また親友になると思います。
「蓮根君」
真壁の声がした。
奎星は反応しない。
「蓮根君」
それでも動かない。
「蓮根奎星」
「うおっ!」
奎星が顔を上げた。
「何!?」
「帰るぞ」
「え?」
周囲を見回す。いつの間にか、部屋に残っているのは相原と真壁と奎星だけだった。
「あれ? みんなは?」
「全員出た」
「いつ!?」
「今だ」
「言えよ!」
「言った」
「聞いてない!」
「君が聞いていなかったんだ」
真壁は額を押さえた。
「早くしなさい」
「はい」
奎星が立ち上がった、そのときだった。
「蓮根奎星さん」
相原に呼ばれた。
「え?」
振り返る。
相原は奎星を見ていた。
「蓮根奎星さん……ですよね」
「あ、はい」
「烏丸さんの記憶」
相原は少し言葉を選ぶ。
「あなたのことだけ、ないんですよね」
奎星の表情が変わった。
「……はい」
「今日、真壁さんから少し聞きました」
奎星は左腕へ目を落とした。
銀色の腕時計。スズメが選んだもの。でも、今のスズメはそれを選んだことを覚えていない。
相原が静かに言う。
「戻るといいですね」
奎星はすぐに顔を上げた。
「絶対戻します」
迷いのない声だった。
相原は少しだけ目を細める。
「はい。でも」
「?」
「戻るまでの時間も、無駄にしないほうがいいですよ」
「……え?」
相原は窓の外へ目を向けた。冬の東京。遠くに見える街並み。行き交う人々。車の流れ。すべてが、記憶とは関係なく動き続けている。
「私、最初の頃は、なくした記憶ばかり探していたんです」
奎星の目が動く。
「家族に聞いて、友達に聞いて、昔の日記を読んで、写真を見て」
今のスズメと同じだった。
「でも、思い出してもらうことばかり考えていたら」
相原は奎星へ視線を戻す。
「今日のことを、見落としちゃいますよ」
「…………」
「せっかく」
相原は優しく笑った。
「今も会えるんですから」
奎星は何も言えなかった。
今も会える。
スズメはここにいる。授業をして、研究室にいて、怒って、笑って、話せる。観測塔へも行った。手も握った。一緒に記憶を取り戻そうと約束した。
それなのに自分は、ずっと前のスズメを探していた。
戻ってほしい。思い出してほしい。あの半年を取り返したい。
そればかり考えていた。
奎星はゆっくり頷いた。
「……ありがとうございます」
相原も頷く。
「はい」
真壁は何も言わず、そのやり取りを見ていた。
奎星が扉へ向かう。開ける前に、一度だけ振り返った。
「相原さん」
「はい?」
「記憶」
奎星は笑った。
「見つかったら、絶対返しますから」
相原は少し驚いた顔をして、それから笑った。
「期待しすぎないで待っています」
「そこは期待してくださいよ!」
「では、少しだけ」
「少し!?」
真壁が奎星の背中を押す。
「帰るぞ」
「押すなって!」
扉が閉まった。
*
監察局の廊下では、先に出ていた五人が待っていた。
日向が奎星を見る。
「遅っ」
「考え事してた」
楓が眉を上げる。
「あんたが?」
「何その反応!」
伊織が淡々と言った。
「珍しいから」
「俺だって考えるわ!」
岳が訊く。
「飯?」
「違う!」
少しだけ、いつもの空気が戻った。
その後ろから真壁が出てくると、全員が少し姿勢を正した。
「今日聞いた内容については、外で話さないこと。相原さんの個人情報もだ」
「はい」
全員が頷く。
「それから」
真壁の視線が五人とスズメへ向けられる。
「改めて言っておく。眞田大については、こちらで追う」
「…………」
「君たちはこれ以上、首を突っ込むな」
日向が口を開きかけたが、真壁に見られてすぐ閉じた。
「公開情報を読む程度なら止めない。しかし、居場所を探すな。接触するな。後をつけるな」
真壁は一つずつ言い聞かせ、最後に奎星を見た。
「戦おうとするな」
「俺だけ具体的じゃない?」
「君だからだ」
「信用ねえ!」
スズメが横から静かに言った。
「日記にも書いてあります」
「まだそれ使う!?」
「有効な資料です」
「悪用だ!」
日向が笑い、ほんの少しだけ空気が和らぐ。
しかし、真壁の表情は変わらなかった。
「冗談ではない」
奎星も笑うのをやめる。
「一月一日の男は、列車一つを故意に脱線させた」
あの日の光景が、再び脳裏をよぎる。
「今までの相手と同じだと思うな」
「…………」
「眞田であろうとなかろうと、相手はこちらで追う」
奎星は少し黙ってから頷いた。
「分かった」
「本当だな?」
「分かったって」
真壁は数秒、奎星を見た。
「……信じておく」
「最初から信じろよ!」
「これまでの実績を考えろ」
「もうその言葉嫌い!」
「自業自得だ」
真壁は踵を返した。
「今日は帰りなさい」
*
魔法省を出た頃には、冬の日はもう傾き始めていた。
霞が関の地下に広がる魔法使いたちの世界から出れば、そこには普通の街がある。スーツ姿の会社員、車、信号、スマートフォンを見ながら歩く人々。奎星たちも、その人波の中へ混じった。
「で」
日向が歩きながら言う。
「今日の話だけど」
楓が少し考える。
「眞田大については、少し印象が変わったわね」
「うん」
伊織も頷いた。
「事故直後から結果を肯定していたわけではないらしい」
岳が短く言う。
「やらかした顔」
「そう」
伊織が続ける。
「少なくとも相原さんの記憶では、直後は自分たちの失敗だと理解しているように見えた」
奎星はポケットへ手を入れたまま歩いていた。
「じゃあさ」
「うん?」
「何で、あとから《失敗じゃない》になったんだろ」
誰もすぐには答えられなかった。
楓が言う。
「受け入れられなかったとか?」
「自分がやったことを?」
「分からないけど」
日向も考えながら続ける。
「最初は『やべえことした』って思った。でも時間が経って、ここまでやったんだから無駄じゃない、みたいな?」
伊織が慎重に言う。
「可能性はある」
「それで」
奎星の声が低くなる。
「今も続けてた?」
「それは、まだ分からない」
伊織がすぐに止めた。
「眞田さんが犯人だとも決まっていない」
真壁に言われたばかりの言葉が、奎星の中で繰り返される。
疑う。
決めつけるな。
「分かってる」
奎星が不満そうに答えた、そのときだった。
歩道脇に設置された大型の街頭ビジョンから、夕方のニュースが流れ始めた。
『続いて、原因不明の記憶障害に関するニュースです』
奎星の足が止まった。
「……え?」
全員が振り返る。
画面には病院の映像と、白衣の医師、モザイクの掛かった患者が映っていた。画面下部には、次のテロップが表示されている。
《原因不明の記憶障害 相談件数増加》
『昨年十二月下旬頃から、過去の出来事の一部を思い出せないなど、原因不明の記憶障害を訴える患者の報告が、複数の医療機関で増えていることが分かりました』
奎星の顔から色が消える。
『症状や年齢にはばらつきがあり、現時点で共通する原因は確認されていません。関係機関が調査を進めています』
楓が小さく呟いた。
「十二月下旬……」
日向も笑っていない。
「元日より前だよな」
伊織の表情が険しくなる。
「魔法によるものとは限らない」
「分かってる」
奎星が答える。
けれど、拳は震えていた。
『専門家は、強い物忘れや日常生活への支障を感じた場合――』
ニュースは続いている。
しかし奎星には、もうほとんど聞こえていなかった。
黒いフード。列車。デパルソ。術式。硝子玉。ちん、と鳴った音。銀色の光。スズメの目。
――どちら様ですか?
奎星は拳を強く握り締めた。
「あの野郎……」
日向が奎星を見る。
「奎星」
「もし」
声が低い。
「もし、あいつが」
一般人。魔法使いではない人間まで。
「スズメちゃんだけじゃなくて、他の人間までやってんなら……」
楓が奎星の腕を掴んだ。
「まだ決まってない」
「…………」
「今、真壁さんに言われたばかりでしょ」
奎星は画面を見たまま答えた。
「……分かってる」
少し時間を置いて、もう一度言う。
「分かってるよ」
伊織がスマートフォンを取り出した。
「この記事は保存しておこう」
奎星が見る。
「真壁さんに送る?」
「魔法省なら、もう把握している可能性が高い。でも念のため」
岳が頷く。
「送る」
「うん」
奎星はもう一度、ニュース画面を見た。
去年の年末。記憶障害の増加。
偶然かもしれない。
それでも、嫌な予感だけは消えなかった。
*
その日の夕方、マホウトコロの帰着場へ巨大なウミツバメが降り立った。
冷たい海風が吹き抜け、橙色の空の下で遠くの波が岩壁へ砕けている。
「疲れたー!」
日向が大きく伸びをした。
楓が呆れた顔を向ける。
「あんた、面会中ほとんど喋ってなかったでしょ」
「喋らないのが疲れたんだよ」
「子供?」
岳が訊く。
「飯」
「まだそれ?」
「夕食」
「時間的には正しいな」
伊織が頷く。
六人で校舎へ向かい、教師寮へ続く道と生徒寮へ続く道が分かれる場所まで来たとき、日向が急に足を止めた。
「あ」
「何?」
奎星が振り返る。
日向はスズメを見て、次に奎星を見た。そして、あまりにも分かりやすく楓へ視線を送る。
「あー、俺、ちょっと用事思い出した」
楓が一秒で意図を理解した。
「私も」
「何だよ」
岳も言う。
「俺も」
奎星が怪訝な顔をする。
「全員?」
伊織まで頷いた。
「僕もかな」
「怪しすぎだろ!」
日向が奎星の肩を叩く。
「じゃ、烏丸先生よろしく!」
「何を!?」
「教師寮まで送ってけよ!」
「何で俺が!」
「ついで!」
楓が日向の背中を押す。
「行くわよ」
「はいはい!」
岳は最後まで言った。
「飯」
伊織も手を上げる。
「じゃあ、また明日」
四人は、ものすごい速度で生徒寮側へ去っていった。
奎星はぽかんとその背中を見送る。
「……何だよ、あいつら」
スズメは、何となく事情を察していた。だから何も言わなかった。
「まあ」
奎星が振り返る。
「送るよ」
「教師寮までなら、一人で帰れます」
「知ってる」
「では」
「俺が送りたいだけ」
スズメが黙った。
一拍置いて、静かに頷く。
「……そうですか」
「うん」
二人で歩き始めた。
*
冬のマホウトコロは、夕暮れになると海の冷たさが一段と増す。
校舎から教師寮へ続く石畳の道では、羊脂玉の壁が夕日の色を受け、淡い橙色に透けていた。海から吹き上げる風が冷たく、奎星は両手をポケットへ入れて歩いている。
隣にはスズメ。
「…………」
やけに静かだった。
普段なら奎星が何かを喋り、それにスズメが返す。今日は奎星も相原の言葉を考えていたため、二人はしばらく無言のまま歩いていた。
やがて奎星が口を開く。
「スズメちゃん」
「はい」
「静かじゃね?」
「あなたもでしょう」
「俺は考え事」
「私もです」
「何考えてんの?」
スズメはすぐには答えなかった。石畳を踏む二人分の足音だけが、夕暮れの道に続いている。
「……相原さんのことです」
「うん」
「安心しました」
スズメが奎星を見る。
「とても」
「俺も」
「…………」
奎星は頭を掻いた。
「なんかさ。俺、勝手にもっと暗い人を想像してた」
「暗い?」
「記憶をなくして、ずっと空っぽみたいな」
スズメは少し考えた。
「私も、そう思っていたのかもしれません」
奎星が横を見る。
「三年間?」
「はい」
スズメの目は前を向いていた。
「私は、相原さんから奪ったものばかり考えていました。親友との出会い、お母様との祭り、初めて箒へ乗った日」
戻らない。自分が戻せなかったもの。
「それがなくなった人生を、私は勝手に不完全なものだと思っていたのかもしれません」
奎星は何も言わずに聞いていた。
「ですが」
スズメの口元に、ほんの少し笑みが浮かぶ。
「相原さんは幸せそうでした」
「うん」
「……本当に、幸せそうでした」
その声には、安堵が滲んでいた。
二人は数歩進んだ。
しかし、スズメはまた黙り込んだ。
今度の沈黙は、先ほどとは違っていた。
奎星が横から顔を覗き込む。
「スズメちゃん?」
「はい」
「まだ何かある?」
「…………」
「安心した顔じゃない」
スズメが少しだけ眉を寄せる。
「人の顔を勝手に分類しないでください」
「じゃあ、何」
「…………」
「怖い?」
スズメの足が止まった。
奎星も止まる。
夕方の風に、スズメの黒髪が揺れていた。彼女はしばらく奎星を見なかったが、やがて小さく答えた。
「……はい」
奎星の表情が変わる。
「何が?」
「記憶が」
「…………」
スズメはようやく奎星を見る。
「戻ることが」
「……戻るのが?」
「はい」
「何で」
スズメは困ったように笑った。
「おかしいでしょうか」
「いや。分かんないけど」
「…………」
「聞く」
スズメは目を伏せた。
「相原さんが、今とても幸せそうだったでしょう」
「うん」
「実は」
少し間を置く。
「私も、そうなのです」
奎星が止まった。
スズメは言葉を探していた。
「これは、記憶がないから言えることなのかもしれません」
「…………」
「蓮根君からすれば、とんでもない話かもしれない」
奎星は黙って聞いている。
「ですが私は」
スズメは自分の胸元へ指を置いた。
「今、不幸なわけではありません」
教師としての生活。学校。友人。自分の過去。三年前の事故。
そして、失われた半年の中にいた一人の少年。
最初は知らなかった。ただ記録に書かれた生徒だった。それが今は違う。
研究室へ忍び込んだ。怒った。一緒に観測塔へ行った。日記を読んだ。泣いた彼の手を握った。彼も握り返した。一緒に記憶を取り戻そうと約束した。魔法省まで来て、相原の話を一緒に聞いた。
「最近」
スズメの声が少しだけ小さくなる。
「少しずつ、分かるようになってきました」
「何が?」
スズメはすぐには答えなかった。頬に僅かに色が差す。
「日記の中にいる私が」
奎星の心臓が一度、強く鳴った。
「どうして」
スズメの目が逸れる。
「あなたに惹かれていったのか」
「…………」
奎星は完全に固まった。
「最近、少し」
スズメはさらに頬を赤くする。
「分かる気がしてきたのです」
「…………」
「蓮根君?」
「待って」
「何をです?」
「今、心臓が」
奎星が胸を押さえる。
「大丈夫ですか?」
「多分」
「藤森先生を呼びますか?」
「そういうやつじゃない!」
「では、何です?」
「今の発言が!」
スズメも、そこで自分が何を言ったのか改めて理解したらしい。目を逸らす。
「……忘れてください」
「無理だろ!」
「忘却術を使えば」
「今この話でそれ言う!?」
「冗談です」
「冗談言うようになってきたな!?」
一瞬、二人とも黙った。
それから、どちらからともなく笑った。
しかし、スズメの笑顔はすぐに消えた。
「だからこそ」
奎星も黙る。
「怖いのです」
「…………」
「もし、以前の記憶が戻ったら」
「うん」
「今の私は、どうなるのでしょうか」
奎星の眉が寄る。
「昔の私には」
スズメは日記を思い浮かべているのだろう。
記録。半年。そこには、今の自分が知らないほど強い感情がある。
大切。離れないで。抱擁。守護霊。手。そして、彼が自分へ向けていた気持ち。
「過去の私の気持ちのほうが、ずっと強かったら」
スズメが胸元を握る。
「今の私は」
奎星を見る。
不安に揺れる、二十一歳の顔。
「いなくなるのでしょうか」
夕暮れの風が、止まったように感じられた。
奎星はすぐには答えなかった。
難しい。
記憶が戻る。昔の感情と今の感情。人格と自己。魔法の作用。
頭のいい人間なら、もっときちんとした答えを出せるのかもしれない。伊織や、スズメ本人や、魔法省の研究者なら。
でも、奎星は少しだけ考えてから言った。
「いなくならないよ」
スズメが目を上げる。
「…………」
「多分」
「多分?」
「いや!」
奎星が慌てて手を振る。
「難しいことは正直分かんないけど!」
「…………」
「でも」
奎星はスズメを真っ直ぐ見た。
「俺、記憶のないスズメちゃんと話してて、別人と話してるって思ったこと、一度もないよ」
スズメが瞬きをする。
「最初は、めちゃくちゃ距離あったけど」
「……それは」
「知らない男だったんだから仕方ない」
自分で言って、奎星の胸が少し痛んだ。
けれど、今はもう違う。
「だけど、やっぱスズメちゃんだよ」
「何を根拠に」
「あるよ!」
「何です?」
奎星は急に得意げな顔になった。
「細かいとこ!」
「細かいところ?」
「まず、俺がスズメちゃんって呼ぶと、すぐ眉が動く」
スズメの眉が、ぴくりと動いた。
奎星が指を差す。
「今!」
「…………」
「ほら!」
「これは」
「次!」
奎星は指を二本立てた。
「何か説明するとき、俺が途中で口を挟むと、一回黙ってから続ける」
「それは、あなたが人の話を最後まで聞かないからでしょう」
「あと!」
三本目。
「自分はすぐ『大丈夫です』って言うくせに、俺が大丈夫って言うと全然信じない」
「それは蓮根君の日頃の行いです」
「ほら、そういう言い方!」
四本目。
「『教師ですから』って、何でもそれで押し切る!」
「教師ですから」
「今言った!」
「事実です」
「あと、日付に細かい!」
「日付?」
「俺が六月からって言ったら、五月末って直す!」
スズメが止まる。
「……それは」
「な?」
「正確性は重要です」
「それ!」
奎星の勢いが増す。
「あと、水羊羹好きなくせに好きって言わない!」
「それは癖ではありません!」
「『嫌いではありません』って言う!」
「……嫌いではありませんから」
「同じじゃん!」
「違います!」
「あと、怒ってるのに怒ってませんって言う!」
「怒っていません」
「今ちょっと怒ってる!」
「怒っていません!」
「ほら!」
「蓮根君!」
「その呼び方も!」
「何がですか!?」
奎星は笑っていた。
いつの間にか、スズメも、さっきまで記憶が戻れば自分が消えるかもしれないと本気で怯えていたことを忘れたように、目の前の少年へ若干腹を立てている。
「もう」
スズメがため息を吐く。
「何が言いたいのですか」
「え?」
奎星が止まった。
今まで勢いで喋っていたが、改めて考えると、自分でも何を言いたいのか分からない。
数秒考えたあと、奎星の顔がぱっと明るくなった。
「あ!」
スズメが嫌な予感のする顔になる。
「分かった!」
「今まで分からずに話していたのですか?」
「つまりさ!」
奎星は笑った。
夕暮れの橙色の空を背に、まずスズメを指差す。
「スズメちゃんはスズメちゃんで!」
次に、自分を指差す。
「俺は俺!」
スズメが目を丸くする。
「だから!」
奎星は何の迷いもなく言い切った。
「大丈夫!」
沈黙が落ちた。
風が吹き、スズメの黒髪が揺れる。
あまりにも雑な答えだった。
記憶とは何か。人格とは何か。過去の感情と現在の感情がどう統合されるのか。何一つ答えていない。科学的な根拠も、魔法理論上の根拠もない。
それなのに。
スズメは少し笑った。
「何笑ってんの」
「いえ」
「今、めっちゃいいこと言っただろ!」
「そうですね」
「だろ?」
スズメはもう一度笑った。
不思議だった。本当に何の根拠もないのに、少しだけ怖くなくなった。
過去の自分が戻ってきたとしても、それで今日、この道をこの少年と歩いた自分まで消えてしまうわけではない。
そんな気がした。
「ただ」
スズメが言う。
「何?」
「あなたの《大丈夫》は信用できない、と」
奎星の顔が固まる。
スズメの口元が上がった。
「日記に書いてありました」
「…………」
「何度も」
「…………」
「かなり強い表現で」
「良いこと言ったのにぃぃぃ!」
奎星が頭を抱える。
「今、めっちゃ決まってたじゃん!」
「そうですね」
「絶対安心しただろ!」
「どうでしょう」
「顔が安心してる!」
「人の顔を勝手に分類しないでください」
「一本取られたぁぁ!」
スズメが笑う。
今度は、ちゃんと声を出して。
奎星は悔しそうに、けれど少し嬉しそうに、その顔を見ていた。
やがて、教師寮の入口が見えてくる。
二人の足が、少しずつ遅くなった。
「ここで大丈夫です」
「うん」
入口前で立ち止まる。
「今日は」
スズメが奎星を見る。
「ありがとうございました」
「俺?」
「はい」
「俺なんかした?」
スズメは少し考えた。
「……色々」
「何それ」
「色々です」
奎星が笑う。
「じゃあ、おやすみ」
手を上げる。
「はい」
スズメも少しだけ笑った。
「おやすみなさい、蓮根君」
奎星が数歩歩いたところで、振り返る。
「スズメちゃん!」
「何ですか」
「明日!」
「はい?」
「ちゃんと授業で俺を当てて!」
スズメが目を丸くする。
「……何です、それは」
「最近避けてるだろ!」
「避けていません」
「じゃあ当てて!」
「答えられるのですか?」
「そこは問題を読んでから考える!」
「駄目ではありませんか」
「じゃあな!」
「蓮根君!」
奎星は逃げるように手を振りながら、生徒寮のほうへ走っていく。
「廊下は走らないでくださいよ!」
「外だからセーフ!」
「そういう問題ではありません!」
「おやすみー!」
声が遠ざかっていく。
スズメは教師寮の入口に立ったまま、その背中を見ていた。
十七歳。落ち着きがない。人の話を聞かない。無茶をする。反省文を四枚半で出す。研究室へ勝手に入る。大丈夫が信用できない。
日記には、そんなことが何度も何度も書かれていた。
でも同時に、大切、離れないでほしい、という言葉も残っている。
以前の自分が、なぜそこまでこの少年を大切に思ったのか。まだ全部は分からない。記憶も戻っていない。
けれど今日、ほんの少しだけ分かった。
難しいことを難しいまま抱えているとき、何の根拠もない顔で「大丈夫」と言い切ってしまう。
それが呆れるほど彼らしくて、だからなぜだか、本当に大丈夫な気がしてしまう。
スズメは小さく笑った。
遠ざかっていく奎星の背中を見ながら思う。
きっと私は、彼のああいうところが好きだったのだ。