マホウトコロ   作:西野圭吾

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第9話 失われていない

 

翌朝、マホウトコロには何事もなかったかのように日が昇った。

 

冬の海から現れた太陽が、羊脂玉で造られた校舎を淡く照らしている。まだ眠そうな生徒たちが教室へ向かい、廊下では提出物を忘れた生徒が友人から羽根筆を借り、階段では走った一年生が教師に呼び止められていた。大食堂からは焼きたてのパンと味噌汁の匂いが漂い、校庭では箒の練習をする生徒たちの声が響いている。

 

いつもの朝だった。

 

昨日起きたことを知っている者は、ほんの一握りしかいない。相原美里のこと。三年前の事故のこと。眞田大のこと。そして、一般社会で増え始めている原因不明の記憶障害のこと。

 

それでも学校は、いつも通りに動いていた。

 

「起立」

 

教室中の生徒が立ち上がる。

 

「礼」

 

「お願いします」

 

授業が始まる。

 

一時間目、二時間目、三時間目。黒板の文字が書き換えられ、教科書の頁がめくられ、教師たちが淡々と授業を進めていく。

 

その中で、蓮根奎星は珍しく、最初から最後まで教室にいた。

 

 

昼休みになると、奎星たちはいつものように大食堂の隅へ集まった。

 

奎星は焼き魚の骨と格闘していた。身をほとんど食べ終えているのに、骨の間に残った部分まで取ろうとして、箸を妙な角度に傾けている。

 

そんな彼を見ながら、楓がふと口を開いた。

 

「……珍しいわね」

 

「何が?」

 

奎星は魚から目を離さずに答えた。

 

「今日、一度も抜け出していないじゃない」

 

楓は箸の先を奎星へ向ける。

 

「授業中に地下へ行ったり、図書室へ逃げたり、魔法省へ行こうとしたりしていない」

 

「俺を何だと思ってんだよ」

 

「授業中に学校の地下へ行く人」

 

「一回だろ!」

 

「一回ではないと思う」

 

伊織が淡々と訂正した。

 

「数えるなよ!」

 

日向も味噌汁を飲みながら頷く。

 

「俺も、今日は絶対に眞田のことを調べ始めると思ってた。朝からそわそわしてたし」

 

「してねえよ」

 

「してた」

 

岳が即答する。

 

「図書室へ行く?」

 

「行かねえ」

 

「魔法省の記録局へ忍び込む?」

 

「しない」

 

「眞田の住所を探す?」

 

「探さない!」

 

「勝手に東京へ行く?」

 

「行かねえって!」

 

四人が揃って奎星を見つめる。

 

奎星は箸を置き、眉を寄せた。

 

「何だよ、その顔」

 

楓が少し笑う。

 

「本当に?」

 

「本当だよ」

 

「ずいぶん聞き分けがよくなったじゃない」

 

伊織が眼鏡を押し上げた。

 

「成長したね」

 

「馬鹿にしてる?」

 

「半分くらい」

 

「半分かよ!」

 

日向が身を乗り出す。

 

「じゃあ、どうして今日は大人しくしてるんだ?」

 

「どうしてって……」

 

奎星の箸が止まった。

 

もちろん、気になっている。

 

昨日のニュースも、相原の失った記憶も、硝子玉も、眞田大のことも、頭から離れてはいない。むしろ、考えれば考えるほど、今すぐ調べに行きたい気持ちは強くなっていた。

 

けれど、奎星は魚の骨へ視線を戻した。

 

「だってさ」

 

骨の間から、残った身をようやく取り出す。

 

「授業をサボったら、どうせまた補習が増えるだろ」

 

食卓の周囲が静まり返った。

 

日向が箸を置く。

 

楓も目を丸くし、伊織は珍しく眼鏡の奥の目を大きくした。岳だけは、いつも通りの真顔で奎星を見ている。

 

「……お前」

 

日向が、しみじみと言った。

 

「過去から学んでる」

 

「失礼だな!」

 

楓が感心したように頷く。

 

「人って成長するのね」

 

「お前ら、俺のことを何だと思ってんの!?」

 

岳が真顔で答えた。

 

「補習」

 

「人ですらねえ!」

 

日向が吹き出した。

 

その笑い声を聞きながら、奎星は少しだけ考えた。

 

昨日、相原から言われた言葉が、まだ胸の中に残っている。

 

――思い出してもらうことばかり考えていたら、今日のことを見落としちゃいますよ。

 

奎星は、ふと食堂の入口へ目を向けた。

 

そこには、数冊の資料を抱えたスズメが立っていた。昼食を終えたらしく、これから研究室へ戻るところらしい。

 

「それにさ」

 

奎星が言った。

 

四人が振り返る。

 

「思い出すことばっか考えてたら、今日のことを見落としちまうぜ」

 

その言葉に、四人は黙った。

 

奎星は、いつもの調子で言っただけだった。けれど、昨日までの彼なら、そんな言葉は口にしなかっただろう。

 

なくした半年。戻らない記憶。硝子玉。眞田大。

 

それだけを見つめていた奎星が、今は少しだけ違う方向を見ている。

 

記憶は、絶対に取り戻す。

 

それでも、戻るまでの時間を無駄にするつもりはない。今ここにいるスズメと過ごせる時間まで、過去のために捨てるつもりはなかった。

 

奎星は椅子から立ち上がった。

 

「さて」

 

日向が顔を上げる。

 

「どこへ行くんだ?」

 

「スズメちゃんがいた」

 

「え?」

 

奎星は返事をする代わりに、食堂の入口へ向かって声を張り上げた。

 

「スズメちゃ〜ん!」

 

大食堂中へ響き渡る声に、何人もの生徒が振り返った。

 

スズメの足が止まる。嫌な予感を覚えたように、ゆっくりと振り返った。

 

「蓮根君」

 

「何ー?」

 

「ここは大食堂です」

 

「知ってる!」

 

「では、なぜそのような大声を出すのです?」

 

「呼んだ!」

 

「見れば分かります!」

 

奎星はすでにスズメのところまで歩いていた。

 

「今日さ!」

 

「何です?」

 

「授業で俺を当てるって言ったじゃん!」

 

「言っていません」

 

「昨日言った!」

 

「あなたが勝手に要求しただけです」

 

「じゃあ、今ここで約束して!」

 

「何をですか!」

 

二人の声が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。

 

残された四人は、しばらくその背中を見送っていた。

 

日向が口を開けたまま呟く。

 

「……なんか」

 

楓も同じように二人を見ていた。

 

「うん」

 

「良いこと言ったな、あいつ」

 

「言ったわね」

 

「直後に全部台無しになったけど」

 

伊織が静かに眼鏡を押し上げる。

 

「相原さんの受け売りだけどね」

 

岳が言った。

 

「でも、覚えていた」

 

日向が頷く。

 

「そうなんだよな」

 

四人の視線の先で、奎星はスズメの横を歩きながら、何かを一方的に喋っている。スズメは呆れた顔で返していたが、追い払おうとはしなかった。

 

いつの間にか、二人の歩く速度は同じになっている。

 

楓は小さく笑い、箸を持ち直した。

 

「まあ、いいんじゃない?」

 

日向も笑った。

 

「だな」

 

 

同じ頃、東京・霞が関にある日本魔法省監察局では、六冊の分厚い調書が大机の上へ並べられていた。

 

真壁征士郎は、そのうちの一冊を開いたまま、同じ頁を何度も読み返している。

 

向かいの席には斎賀玄弥が座っていた。今日は拘束具をつけていないが、部屋の外には二人の監察官が控えている。条件付きの捜査協力であり、正式な復職でも、無罪放免でもない。

 

それでも、黒曜の環について斎賀以上に詳しい人間は、監察局内にもほとんどいなかった。

 

「なあ、征士郎」

 

斎賀が椅子へ深くもたれた。

 

「何だ」

 

「これ、もう答えは出てるんじゃねえか?」

 

「だから確認している」

 

「相変わらず真面目だねえ」

 

「人の記憶に関することだ」

 

「分かってるよ」

 

斎賀の声から、わずかに軽口の色が消えた。

 

机の上にある六冊の調書。その六人は、全員が元・黒曜の環関係者だった。そして全員が、昨年末から年始にかけて、特定の記憶だけを失っている。

 

最初の一人は、学校占拠の直前に長野から運び込まれた黒曜石のことを覚えていた。誰から受け取ったのか、どこへ運んだのかも覚えている。

 

しかし、その黒曜石を何のために使ったのかだけが、抜け落ちていた。

 

二人目は、マホウトコロの地下へ入ったことを覚えている。霊脈の近くまで案内され、そこで何かを設置したことも分かっていた。

 

だが、何を、どのように設置したのかが思い出せない。

 

三人目は、神代から直接指示を受けたことを覚えていた。指示を受ける前のことも、その後のことも覚えている。

 

ただし、指示の内容だけが空白になっていた。

 

四人目は、学校全体へ術式を流す作業に参加したことを覚えている。誰と一緒にいたのかも分かる。

 

それなのに、術式の構成だけがない。

 

五人目は、発動直前まで地下区画にいた。時間も、場所も、周囲にいた人間も覚えている。

 

何を確認していたのかだけが、抜け落ちていた。

 

そして六人目は、神代が校長室へ姿を現したあと、生徒たちの認識が変わったことを覚えている。

 

しかし、どうやって学校全体へ認識干渉を行ったのか、その方法だけが失われていた。

 

真壁は六冊の調書の横へ、大きな紙を広げていた。そこには時刻、場所、人物、作業内容が書き込まれ、それぞれが一本の線で繋がれている。

 

斎賀が指で線をなぞった。

 

「ここが黒曜石の搬入」

 

次の線へ移る。

 

「ここが地下区画」

 

さらに次。

 

「ここが神代からの指示」

 

その先には、術式構成、発動直前、そして認識変化が続いている。

 

六人の欠損を繋ぎ合わせると、それは一つの工程になった。

 

黒曜石を運び、地下へ入り、霊脈へ術式を組み込み、神代の指示を受け、発動させる。

 

その直後、生徒たちは神代を校長だと認識し、九重院たちを敵だと思い込んだ。教師たちまで敵と見なされ、九重院は生徒へ攻撃できないまま倒された。

 

真壁の目が細くなる。

 

「やはり」

 

斎賀も笑っていなかった。

 

「丸ごと一つ、抜かれてるな」

 

部屋の端にいた監察局員が訊く。

 

「何がです?」

 

真壁は紙の中央に書かれた文字を指した。

 

《マホウトコロ》

 

その下にあるのは、《霊脈》という文字だった。

 

「神代冥司が、生徒たちの認識へ干渉した術式だ」

 

部屋の空気が重くなる。

 

「六人それぞれの欠損は、ばらばらに見えていた。しかし前後を繋げれば、一つの術式工程になる」

 

斎賀が六冊の調書を見下ろした。

 

「俺たちが星帰りで壊したやつか」

 

「正確には、蓮根君の守護霊を霊脈へ通し、認識干渉を剥がした」

 

「細かいな」

 

「事実だ」

 

斎賀は肩をすくめた。

 

「つまり、誰かがそのやり方だけを持っていった」

 

真壁は答えなかった。

 

だが、否定もしない。

 

六人とも、神代が学校を乗っ取ったことや、生徒たちの認識が変わったこと、星帰り作戦によって元へ戻ったことは覚えている。

 

消えたのは、どうやって認識を変えたのかという部分だけだった。

 

斎賀が低い声で言う。

 

「これ、記憶を消してるんじゃねえな」

 

真壁が顔を上げる。

 

「欲しいところだけ、抜いてる」

 

斎賀は六冊を順番に指で叩いた。

 

「証拠隠滅なら、もっと消すだろ。黒曜にいたこと自体とか、神代の顔とか、場所とか」

 

真壁が頷く。

 

「だが、そこは残っている」

 

「欲しかったのは、神代冥司の魔法そのものだ」

 

斎賀の言葉に、真壁の表情が険しくなった。

 

そのとき、扉が開いた。

 

監察官が一枚の資料を手に入ってくる。

 

「真壁監察官。一般社会側で報告されている記憶障害について、機密保持局から追加報告です」

 

真壁は資料を受け取り、素早く目を通した。

 

昨年十二月下旬頃から増えている、原因不明の記憶障害。年齢も職業も症状の程度もばらばらだが、失われ方には共通点がある。

 

ある者は、勤務先で扱っていた特殊な暗号化技術に関する経験だけを失っていた。

 

ある者は、特定の研究施設で見た設備の記憶を失っていた。

 

またある者は、古い文献を修復した際に読んだ文章だけを思い出せなくなっていた。

 

日常生活の記憶や家族の記憶、自分自身に関する記憶は残っている。

 

それなのに、一つの対象、一つの知識に関連する記憶だけが、不自然なほど綺麗に抜け落ちている。

 

さらに、複数の証言に共通して、小さな硝子が触れ合うような音を聞いたという記録があった。

 

斎賀が椅子から身を起こす。

 

「おい」

 

「ああ」

 

一月一日に襲われた烏丸スズメ。

 

黒曜の環の残党六人。

 

一般社会で増え続ける記憶障害。

 

硝子音。

 

選択的な記憶の欠損。

 

真壁は資料を机へ置いた。

 

「同一人物」

 

斎賀が言った。

 

真壁は数秒考えたあと、低い声で答えた。

 

「少なくとも、同一術者、あるいは同一の術式系統と見て間違いない」

 

斎賀は椅子の背へ身体を預けた。

 

「派手にやり始めたな」

 

「いや」

 

真壁は資料へ目を落とした。

 

「逆かもしれない」

 

「逆?」

 

「烏丸先生が狙われた一月一日が、最初ではなかった」

 

斎賀の目が細くなる。

 

昨年十二月下旬。

 

すでに、誰かは記憶を奪い始めていた。

 

「だったら」

 

斎賀の声が低くなる。

 

「何を集めてるんだ、そいつは」

 

誰も答えられなかった。

 

 

午後の魔法史の授業で、スズメは黒板へ年号を書き込んでいた。

 

「では、この行政再編によって、それまで複数の機関へ分散していた記録管理の権限は、どのように変化したでしょうか」

 

教室は静かだった。

 

奎星は珍しく、真面目に授業を聞いている。少なくとも、眠ってはいない。

 

スズメが教室を見渡す。

 

その視線が奎星と重なった。

 

奎星は、昨日の約束を思い出したように、ものすごく分かりやすく背筋を伸ばした。

 

スズメの眉がわずかに動く。

 

数秒後、彼女は口を開いた。

 

「蓮根君」

 

奎星の顔が一気に明るくなる。

 

「はい!」

 

周囲の生徒が何人か振り返った。

 

「今説明した、記録管理制度再編の目的を答えてください」

 

「えっ」

 

「どうしました?」

 

「いや、当ててって言ったけどさ」

 

「はい」

 

「答えられるところで当ててよ」

 

「授業を聞いていれば答えられます」

 

「聞いてた!」

 

「では、どうぞ」

 

奎星は黒板を見た。教科書を見た。そして、もう一度スズメを見る。

 

「……記録を」

 

「はい」

 

「ちゃんと」

 

「はい」

 

「管理するため?」

 

教室が静まり返った。

 

日向は机へ顔を伏せ、楓は目を閉じ、伊織は眼鏡を押し上げた。岳だけは、いつも通り真顔で奎星を見ている。

 

スズメは数秒、奎星を見つめた。

 

「廊下へ出ますか?」

 

「何で!?」

 

教室中に笑いが起きた。

 

奎星が叫ぶ。

 

「昨日の良い話、全部なしじゃん!」

 

スズメが首を傾げる。

 

「昨日の良い話?」

 

「何でもない!」

 

日向が机を叩いて笑っている。

 

昨日まで、こんなやり取りはなかった。

 

昔とまったく同じではない。スズメには、昔の記憶がない。

 

それでも今、この教室で、二人の間に新しいやり取りが一つ増えた。

 

奎星は少し恥ずかしかったが、悪い気はしなかった。

 

 

放課後。

 

魔法史研究室の窓の外には、冬の海が広がっていた。夕暮れの光はすでに消え、海面には夜の色が滲み始めている。

 

机の上には、二つの資料が開かれていた。

 

左側には《二〇二四年 相原美里》。

 

右側には《二〇二七年 烏丸スズメ》。

 

スズメは椅子に座り、二つの資料を何度も見比べていた。

 

少し離れた机では、奎星が魔法理論の宿題をしている。珍しく、自分から取り組んでいた。

 

羽根筆が動く。

 

三行書く。

 

止まる。

 

奎星の目がスズメへ向く。

 

また宿題へ戻る。

 

一行書く。

 

またスズメを見る。

 

「蓮根君」

 

「はい」

 

奎星が即座に返事をした。

 

スズメは資料から目を離さない。

 

「先ほどから、何度こちらを見ていますか」

 

「数えてない」

 

「宿題をしてください」

 

「してる」

 

「進んでいません」

 

「進んでるよ」

 

「十分前と同じ頁ですが」

 

奎星は教科書を見た。

 

本当だった。

 

「スズメちゃんこそ、俺を見てるじゃん」

 

「目に入ります」

 

「俺も」

 

「何がです?」

 

「スズメちゃんが目に入る」

 

スズメの羽根筆が止まった。

 

「…………」

 

奎星は何でもない顔をしている。

 

スズメは数秒黙ったあと、視線を資料へ戻した。

 

「宿題をしてください」

 

「はい」

 

スズメの耳が、ほんの少し赤くなっている。

 

奎星はそれを見て笑いそうになったが、怒られそうなので黙って教科書へ戻った。

 

それからしばらく、研究室には静かな時間が流れた。

 

以前なら、奎星は何度も話しかけていただろう。何を調べているのか、何の資料なのか、自分にも見せてほしい、腹が減った、水羊羹はないのか。

 

けれど今日は、そうしなかった。

 

スズメが集中していることが分かっていたからだ。

 

邪魔をせず、ただ同じ部屋にいる。

 

羽根筆が紙を擦る音。頁をめくる音。窓の外から聞こえる海風の音。

 

それだけで、不思議と落ち着いていた。

 

やがてスズメは、一枚の紙へ線を引いた。

 

相原美里。

 

失った記憶。

 

母親と祭りへ行った記憶。

 

初めて箒へ乗った記憶。

 

親友と出会った記憶。

 

その他、本人も把握しきれていない複数の欠損。

 

その隣には、自分の名前がある。

 

烏丸スズメ。

 

その下に、失われた記憶を書き出していく。

 

補習。

 

食事。

 

観測塔。

 

星迎祭。

 

常隠島。

 

戦闘。

 

初詣。

 

クリスマス。

 

それらの出来事自体は覚えている。

 

初詣へ行ったことも覚えている。神田の街並みも、屋台の匂いも、参拝したことも、おみくじを引いたことも覚えている。

 

ただ、そこにいた相手だけがない。

 

蓮根奎星だけが、抜け落ちている。

 

補習をしたことも覚えている。教材も、問題も、採点したことも覚えている。

 

誰に教えていたのかだけが、ない。

 

星迎祭も、学校占拠も、常隠島も、星帰り作戦も覚えている。

 

それなのに、その中にいた蓮根奎星だけが消えている。

 

スズメの目が細くなった。

 

三年前とは違う。

 

相原の欠損は、複数の出来事へ散らばっていた。ある日、ある経験、ある場面。失われた記憶には、明確な統一基準が見えなかった。

 

しかし自分の場合は、一人の人間を中心に、記憶が綺麗に切り抜かれている。

 

スズメは立ち上がり、ホワイトボードへ向かった。

 

そこへ、二つの年代を並べて書く。

 

《二〇二四年》

 

《抽出――発生》

 

《固定――失敗》

 

《対象範囲――制御不能》

 

その隣に、現在の術式について書く。

 

《二〇二七年》

 

《抽出――成功》

 

《固定――硝子球》

 

《対象範囲――蓮根奎星》

 

背後で椅子が動いた。

 

奎星が、もう宿題を見ていない。

 

「何か分かった?」

 

スズメは答えず、さらに文字を書き足した。

 

三年前の日記に残されていた眞田大の言葉が、頭の中に蘇る。

 

――記憶の抽出そのものは起きた。

 

――術式は反応した。

 

――問題は固定先と対象範囲の制御にある。

 

スズメはホワイトボードへ《固定先》と書き、その横へ《硝子球》と記した。

 

奎星が椅子から立ち上がる。

 

続いて、《対象範囲》と書く。

 

そこで、スズメの手が止まった。

 

数秒後、彼女はその横へ、ゆっくりと名前を書いた。

 

《蓮根奎星》

 

研究室が静まり返った。

 

奎星はホワイトボードへ近づいた。

 

三年前、眞田が問題だと言っていた二つの要素。固定先と対象範囲。

 

現在、記憶は硝子玉へ格納された可能性が高い。そして奪われた範囲は、一人の人物に関する記憶だけだった。

 

「……直ってる」

 

奎星が呟いた。

 

スズメが振り返る。

 

「何がです?」

 

「三年前に、眞田が問題だって言ってたところ」

 

奎星はホワイトボードを指した。

 

「どっちも、今はできてるじゃん」

 

固定先は硝子球。

 

対象範囲は蓮根奎星。

 

スズメはゆっくり頷いた。

 

「はい」

 

相原の事故から三年。

 

「今の術式は、二〇二四年に私たちが使用したものより、遥かに精密です」

 

「精密……」

 

「相原さんの記憶欠損には、明確な統一基準を確認できませんでした。しかし私の場合、対象となる人物が明確です」

 

スズメは、ホワイトボードに書かれた奎星の名前へ視線を落とした。

 

「それ以外の記憶は、可能な限り維持されている」

 

奎星は嫌そうな顔をした。

 

「綺麗に俺だけ抜いたってことか」

 

「……はい」

 

「気持ち悪ぃな」

 

「同感です」

 

スズメは資料へ戻った。

 

「さらに、三年前には成功しなかった可能性が高い固定も、今回は視認できる形で成立している」

 

「じゃあ」

 

奎星が言った。

 

「進化してる」

 

スズメの目が鋭くなる。

 

「三年前の術式から」

 

「はい」

 

今まで、似ていると思っていた。

 

だが、ただ似ているのではない。

 

三年前の失敗によって露呈した問題が、二つとも修正されている。

 

固定先。

 

対象範囲。

 

誰かが、あの研究の続きを三年間進めていた。

 

奎星の視線が、ホワイトボードの端に書かれた名前へ移る。

 

《眞田大》

 

かつて読んだ日記の一節が蘇る。

 

――これは、まだ一歩に過ぎない。

 

――ここで研究を止めれば、彼女の犠牲こそ無駄になる。

 

「……眞田」

 

奎星が呟いた。

 

スズメはすぐに言った。

 

「まだ、証拠ではありません」

 

「分かってる」

 

「眞田先輩が研究を続けた可能性は高くなりました。しかし、それだけで犯人と決めつけることはできません」

 

「決めつけるな、だろ?」

 

奎星が言った。

 

真壁から何度も言われた言葉だった。

 

スズメは少し驚いたように彼を見る。

 

「学習しましたね」

 

「俺を犬みたいに言うな」

 

「褒めています」

 

「絶対違う」

 

奎星はもう一度、ホワイトボードを見た。

 

「でも、三年前から進んでるのは間違いないっしょ」

 

スズメも頷いた。

 

「私も、そう思います」

 

研究は止まっていなかった。

 

誰かが続けていた。

 

まだ断定はできない。

 

それでも、候補は一人しかいなかった。

 

 

スズメは再び椅子へ座り、資料へ目を落とした。

 

奎星も自分の席へ戻り、羽根筆を持つ。

 

一分。

 

二分。

 

三分。

 

スズメが無意識に額へ指を当てた。

 

その瞬間、目の前へ湯呑みが置かれた。

 

スズメが顔を上げる。

 

「何です?」

 

「飲みなよ」

 

湯呑みの中には、さっきスズメ自身が淹れた茶が入っていた。もうすっかり冷めている。

 

「研究を始めると、飲むのを忘れるから」

 

スズメの目がわずかに動いた。

 

「私が?」

 

「うん」

 

「…………」

 

「前もそうだった」

 

その言葉に、スズメの指が止まる。

 

以前、二人は何度もこの部屋にいた。

 

補習をして、食事をして、雑談をして、研究をした。

 

スズメが古文書へ集中すると、淹れた茶はいつも冷めていた。

 

それは、記憶ではない。

 

けれど奎星は、覚えている。

 

スズメは湯呑みへ手を伸ばし、一口飲んだ。

 

「少し冷めています」

 

「文句言うな!」

 

「事実を言っただけです」

 

「じゃあ自分で飲め!」

 

奎星が手を伸ばすと、スズメは湯呑みをさっと引いた。

 

「飲みます」

 

「飲むんじゃん」

 

「勿体ないので」

 

「はいはい」

 

「返事は一度」

 

奎星の動きが止まった。

 

スズメも一瞬、黙る。

 

二人の間に、短い沈黙が落ちた。

 

やがて奎星が、少し笑った。

 

「はい」

 

今度は一度だけ返事をする。

 

スズメも、ほんの少し笑った。

 

昔を思い出したわけではない。

 

ただ今、新しく同じやり取りが生まれた。

 

奎星は、それでよかった。

 

少なくとも、今日は。

 

 

午後六時を過ぎる頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。

 

研究室の魔法灯が、本棚と机を柔らかく照らしている。

 

奎星はようやく宿題の最後の問題へ辿り着いた。

 

「終わった!」

 

「まだ確認していません」

 

「終わったのは終わっただろ!」

 

「正解しているかは別です」

 

「俺の達成感を潰すな!」

 

スズメが答案を受け取る。

 

一問目を見る。

 

「ここです」

 

「早くない?」

 

「間違っています」

 

「まだ三秒だぞ!」

 

「三秒で分かる間違いです」

 

「言い方!」

 

そのとき、研究室の扉が小さく叩かれた。

 

こん、こん。

 

二人が同時に扉を見る。

 

「どうぞ」

 

スズメが答える。

 

扉が少しだけ開き、下から小さな顔が覗いた。

 

藍染めの作務衣を着た天ぷらだった。

 

「レンコン」

 

「天ぷら!」

 

奎星の顔が明るくなる。

 

天ぷらは、とことこと研究室へ入ってきた。両手には白い封筒を持っている。

 

「トリマル」

 

奎星がすぐに訂正した。

 

「烏丸先生な」

 

「トリマル」

 

「烏丸」

 

「トリマル」

 

「何でそこだけ覚えねえんだよ!」

 

スズメが小さくため息を吐く。

 

「もう諦めてください」

 

「俺は諦めない!」

 

天ぷらは、そんな二人のやり取りを気にする様子もなく、封筒をスズメへ差し出した。

 

「テガミ」

 

スズメの表情が変わる。

 

「私に?」

 

「ウン」

 

封筒は薄い白紙で、見たところ何の変哲もない。

 

切手はない。

 

魔法省の印もない。

 

学校内の連絡印もない。

 

折り鶴の術式も、配送魔法の痕跡も見当たらない。

 

差出人の名前はなく、表にはただ《烏丸スズメ》とだけ書かれていた。

 

スズメの指が止まる。

 

奎星が気づいた。

 

「どうした?」

 

スズメは答えず、封筒を見つめている。

 

「スズメちゃん?」

 

「…………」

 

「誰から?」

 

スズメの顔から、さっきまでの柔らかさが消えていた。

 

「天ぷら」

 

声が少し低くなる。

 

「これは、どこから?」

 

天ぷらは首を傾げた。

 

「アッタ」

 

「どこに?」

 

「シタ」

 

「下?」

 

「ショクドウ」

 

「食堂?」

 

天ぷらが頷く。

 

「カミ、イッパイ」

 

食堂では、小妖たちが校内各所へ書類や伝言を運んでいる。食材の発注書、教師への連絡、寮への通知。その中へ、いつの間にかこの封筒が混じっていたらしい。

 

「誰かが持ってきたのを見ましたか?」

 

「ミテナイ」

 

「他の小妖は?」

 

「シラナイ」

 

奎星の表情も変わった。

 

「じゃあ、いつの間にかそこにあったってことか?」

 

「ウン」

 

スズメは杖を抜き、封筒へ向けた。

 

小さな術式が展開する。

 

配送魔法。転移。伝達。残留魔力。

 

一つずつ確認していく。

 

しかし、何も出なかった。

 

正確には、何かが残っていないのではない。

 

残っていたはずの痕跡が、意図的に消されている。

 

「……痕跡がありません」

 

「え?」

 

「通常、魔法で送られた物品なら、僅かでも術式の残留反応が残ります」

 

「ないのか?」

 

「ありません」

 

スズメは封筒を裏返した。

 

「ここまで綺麗に残っていないということは、意図的に消された可能性があります」

 

誰が、どうやってマホウトコロへ入れたのか。

 

学校の中でも、食堂は小妖たちが頻繁に出入りする場所だ。そこへ誰にも気づかれず、配達物に紛れ込ませた。

 

奎星の手が、腰の神代榊へ伸びかける。

 

スズメがすぐに言った。

 

「抜かないでください」

 

「分かってる」

 

「本当に?」

 

「今は」

 

「その言い方は信用できません」

 

「……はい」

 

奎星は手を離した。

 

スズメは、もう一度封筒の文字を見る。

 

《烏丸スズメ》

 

その文字には、見覚えがあった。

 

一度や二度ではない。

 

三年前、記録局で見た研究資料。古代文字の解読メモ。術式の補足。自分へ渡された書類。眞田の机に置かれていた記録。

 

何百回、何千回と見た文字。

 

「スズメちゃん?」

 

奎星が呼ぶ。

 

スズメの唇が動いた。

 

「……この字」

 

「何?」

 

「知っています」

 

奎星の目が変わる。

 

「誰の字?」

 

答えは、もう分かっていた。

 

それでも、訊かずにはいられなかった。

 

スズメは封筒から目を離さずに答えた。

 

「眞田先輩です」

 

研究室が静まり返った。

 

天ぷらだけが、よく分かっていない顔で二人を見上げている。

 

奎星がゆっくり立ち上がった。

 

「間違いない?」

 

「はい」

 

今度は迷いがなかった。

 

「この字は、何度も見ています」

 

三年前の記憶。

 

そこは失われていない。

 

眞田大。尊敬していた先輩。教えを受け、食事をし、研究をした相手。そして、事故を起こした男。

 

《失敗ではない》

 

そう言った男。

 

「開ける?」

 

奎星が訊いた。

 

スズメは封筒を見つめた。

 

「真壁さんへ先に連絡するべきです」

 

正しい判断だった。

 

証拠として保存し、触れる前に監察局へ報告するべきだ。

 

しかし、封筒はすでに自分の手の中にある。

 

表には、自分の名前が書かれている。

 

スズメは杖を振った。

 

薄い透明な膜が封筒を包む。記録保存、複製、魔力反応の保持。封筒そのものに触れたことで失われる可能性のある情報を、先に固定する。

 

「開けます」

 

奎星が頷いた。

 

「うん」

 

スズメは封を切った。

 

中に入っていたのは、紙一枚だけだった。

 

ゆっくりと開く。

 

文字は少ない。

 

一行目を読んだ瞬間、スズメの指が止まった。

 

奎星が横から紙を見る。

 

そこには、こう書かれていた。

 

《烏丸》

 

その下に、一行。

 

《君の記憶は失われていない》

 

奎星の呼吸が止まった。

 

さらに、その下。

 

《蓮根奎星を連れてきてほしい》

 

最後に、少し間を空けて署名がある。

 

《――眞田 大》

 

誰も動かなかった。

 

天ぷらも何かを感じ取ったのか、静かに奎星を見上げている。

 

君の記憶は失われていない。

 

その言葉の意味を、奎星は理解していた。

 

消えたのではない。

 

どこかにある。

 

あの硝子玉。透明な球体の中を走っていた銀色の光。一月一日の夜、自分の目の前でスズメから奪われ、男が持ち去ったもの。

 

スズメは紙を見つめていた。

 

字は間違いない。

 

内容も偶然ではない。

 

三年前、記憶術式を研究していた男。固定先と対象範囲が問題だと言っていた男。研究を止めるべきではないと言っていた男。

 

そして一月一日、完成したような術式で、蓮根奎星に関する記憶だけをスズメから抜き取った男。

 

その男から、今、手紙が届いた。

 

《君の記憶は失われていない》

 

疑いは、もう残っていなかった。

 

少なくとも、一月一日の術式について、眞田大は知っている。

 

あの硝子玉についても。

 

それは外部から調べた人間の知り方ではない。

 

奎星の拳が、ゆっくりと握られる。

 

「……なんだよ、これ」

 

声が掠れた。

 

「何で……」

 

スズメが奎星を見る。

 

奎星は手紙から目を離せない。

 

怒り、安堵、恐怖。そのすべてが胸の中で絡み合っていた。

 

記憶は失われていない。

 

その一文だけなら、ずっと欲しかった言葉だった。

 

戻せるかもしれない。

 

スズメと過ごした半年。観測塔、水月庵、常隠島、クリスマス、初詣。

 

全部、まだどこかにある。

 

けれど、その言葉を書いたのは、記憶を奪った側の男だった。

 

そして、次の一文。

 

《蓮根奎星を連れてきてほしい》

 

「俺?」

 

奎星が呟く。

 

「何で俺なんだよ」

 

スズメも答えられなかった。

 

なぜ奎星なのか。

 

一月一日の夜も、最初から標的は奎星だった。スズメは彼を庇っただけだ。

 

最初から、眞田大が欲しかったのは蓮根奎星だった。

 

奎星の目が鋭くなる。

 

これまで、敵かもしれない人間だった。

 

だが今、眞田大という名前が、はっきりと一月一日の男へ重なった。

 

スズメの記憶を奪った術者。

 

三年前の研究を止めなかった男。

 

そして、今も記憶を集め続けている男。

 

眞田大。

 

こちらが探し出したのではない。

 

向こうから、手を伸ばしてきた。

 

烏丸スズメと、蓮根奎星。

 

二人の名前を呼ぶために。

 

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