マホウトコロ   作:西野圭吾

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第10話 ハイウェイと憧れ

 

魔法史研究室の窓の外は、すっかり夜になっていた。校舎のあちこちに灯った魔法灯が、暗い中庭を淡く照らしている。昼間なら生徒たちの声で満ちている廊下も、今は静まり返っていた。

 

机の上には、一通の白い封筒と、そこから取り出された手紙が置かれている。

 

《烏丸》

 

《君の記憶は失われていない》

 

《蓮根奎星を連れてきてほしい》

 

《――眞田 大》

 

奎星は、もう何度目か分からないほど、その三行を読み返していた。何度読んでも文字は変わらない。眞田大の名前も、スズメの記憶が失われていないという断言も、そして自分を連れてこいという要求も、紙の上から消えてくれなかった。

 

「……これ、やっぱり眞田が書いたんだよな」

 

「はい」

 

スズメは短く答えると、研究室の奥にある小さな暖炉の前へ移動した。杖を一振りすると、薪の間に橙色の火が灯る。さらに二度、杖先で空中に術式を描いた。

 

「インセンディオ」

 

炎が青白く変わった。揺らめいていた火は次第に平らになり、やがて一枚の薄い鏡のような形へと変わっていく。火映しの術式だ。

 

「真壁さん」

 

スズメが呼びかけると、青白い炎の表面が波打った。しばらくして、魔法省の監察局らしい部屋を背景に、真壁征士郎の顔が浮かび上がる。

 

『……烏丸先生?』

 

「夜分にすみません」

 

『構わない。何かあったか』

 

「はい。少し、確認していただきたいものがあります」

 

スズメが身体を横へずらすと、背後にいた奎星と机の上の手紙が見えた。真壁の目が、わずかに細くなる。

 

『蓮根君もいるのか』

 

「いる」

 

奎星は待っていたように暖炉の前へ寄り、火映しへ顔を近づけた。

 

「真壁さん、これ見て」

 

『近い』

 

「え?」

 

『顔が近い』

 

「前にも言われた気がする!」

 

「下がってください」

 

スズメに肩を押され、奎星は渋々一歩下がった。その直後、火映しの向こうで誰かが横切る。長い髪が一瞬だけ見えた。

 

「……今、斎賀いた?」

 

『いるぞー』

 

画面の外から、気の抜けた声が返ってくる。

 

「やっぱり!」

 

斎賀玄弥が真壁の肩越しに顔を出した。

 

『何だよ。夜に二人で火映しか?』

 

「違う!」

 

「斎賀さん」

 

スズメの声が冷たくなる。

 

『はいはい。冗談だって』

 

真壁が斎賀を押し退ける。

 

『それで、何が届いた』

 

スズメは机の上の手紙を持ち上げた。

 

「これです」

 

真壁の表情が変わった。

 

『……見せてくれ』

 

スズメが手紙を火映しの前へ向ける。真壁は何も言わず、紙面に並んだ文字を一行ずつ追っていった。

 

《烏丸》

 

《君の記憶は失われていない》

 

《蓮根奎星を連れてきてほしい》

 

そして、最後に記された署名。

 

《眞田 大》

 

長い沈黙のあと、真壁はゆっくりと眉間を押さえた。

 

『……どこから届いた』

 

「正確な経路は分かりません。食堂で天ぷらが見つけました。小妖たちが運ぶ書類の中に、いつの間にか混じっていたそうです」

 

『配送術式の痕跡は?』

 

「調べましたが、残っていませんでした。意図的に消された可能性があります」

 

スズメは手紙を見つめた。

 

「ただ、筆跡は眞田先輩のものに間違いありません」

 

『確実か』

 

「はい」

 

即答だった。

 

真壁の背後で、斎賀が小さく口笛を吹く。

 

『これで確定か』

 

真壁は斎賀を横目で見た。

 

『少なくとも、一月一日の件について眞田が無関係という線は、ほぼ消えた』

 

「ほぼ?」

 

奎星が聞き返す。

 

『手紙が本人の筆跡であることと、本人が術式を使用したことは、厳密には別問題だ』

 

「でも、これを書いたのは眞田なんだろ?」

 

『そうだろう』

 

「じゃあ、ほとんど同じじゃん」

 

『捜査では同じではない』

 

真壁はそう言いながらも、再び手紙へ視線を落とした。

 

《君の記憶は失われていない》

 

硝子玉。

 

一月一日の襲撃。

 

そして、蓮根奎星を連れてきてほしいという要求。

 

眞田大が、スズメの記憶について知っている。それも、外部から事件を調べた人間の知り方ではない。奪われた記憶がどこにあるのかを知っている者の言葉だった。

 

『……厄介だな』

 

「何が?」

 

『全部だ』

 

「雑!」

 

『君が言うな』

 

斎賀が再び火映しの前へ顔を出した。

 

『なあ。向こうから呼んできたってことは、罠だろ』

 

その一言で、研究室の空気が変わった。

 

誰もが同じことを考えていた。一月一日、眞田は奎星を狙った。列車を脱線させてまで、スズメではなく奎星へ術式を向けた。スズメが身を挺して庇わなければ、奪われていたのは奎星の記憶だったはずだ。

 

その男が今度は、わざわざ手紙を送りつけてきた。

 

蓮根奎星を連れてこい。

 

「でも」

 

奎星が口を開く。

 

「行くしかなくね?」

 

『即答するな』

 

「だって、本人に会えば何で俺を狙ったのか分かるだろ!」

 

『だから君を連れて行きたくないんだ!』

 

「まだ行くって決まってないじゃん!」

 

『今、君が決めようとしただろう!』

 

「意見!」

 

『決定にしか聞こえん!』

 

斎賀が笑った。

 

『征士郎、血圧上がるぞ』

 

『誰のせいだ!』

 

『主に蓮根?』

 

「俺!?」

 

スズメは小さく息を吐いた。

 

「真壁さん。どうしますか」

 

『……』

 

真壁はすぐには答えなかった。

 

眞田大が、現在増え続けている記憶障害事件の中心にいる可能性は高い。魔法社会では、今回の一連の事件を非公式に《夢盗り》と呼ぶ者まで出始めていた。記憶だけではない。経験も、技術も、人が生きてきた時間そのものが、夢でも盗むように持ち去られている。

 

そして、被害は今も増え続けていた。

 

真壁の執務室には、魔法界の新聞記事や一般社会側の報道記録、病院や相談窓口から上がった報告書が積み重なっている。昨年末から始まった異常は、いまだに止まっていない。

 

『……今日も三件、追加された』

 

「三件?」

 

『魔法社会側で二件。一般社会側で一件だ』

 

スズメの顔が硬くなる。

 

『いずれも、選択的な記憶欠損だった』

 

真壁は手元の資料を一枚取り上げた。

 

『一人は古い結界術に関する実務経験を失った。一人は魔法具の加工工程を忘れた。そして一般社会側の一人は、勤めていた研究所で扱っていた特定設備の操作経験だけを失っている』

 

「他の記憶は?」

 

『残っている。家族も、生活も、自分自身のこともな』

 

斎賀が壁へ寄りかかる。

 

『相変わらず、欲しいところだけ抜いてやがる』

 

奎星の拳が固く握られた。

 

「あの野郎……」

 

『蓮根君』

 

「分かってる。勝手に行かない」

 

真壁が黙る。

 

「何その顔」

 

『少し驚いただけだ』

 

「成長してんだよ!」

 

スズメが横から口を挟んだ。

 

「反省文は四枚半でしたが」

 

「今それ関係ない!」

 

斎賀が楽しそうに笑う。

 

『俺、こいつ結構好きだわ』

 

真壁がまた額を押さえた。

 

『好きになるな』

 

「何で!?」

 

『ややこしくなる』

 

「もうなってるだろ!」

 

『そうだな……』

 

真壁が疲れた声で認めると、ほんの少しだけ空気が緩んだ。しかし、手紙の存在が消えたわけではない。スズメは改めて、真壁へ問いかける。

 

「眞田先輩が、なぜ蓮根君を狙っているのか。何か分かりましたか」

 

真壁の表情が変わった。

 

『確証はない。推測なら、いくつかある』

 

奎星が暖炉の前へ近づく。

 

「何?」

 

『まず、君自身の魔力だ』

 

奎星の顔から笑みが消える。

 

一万七百二。規格外の魔力。古代魔術への適性。そして、神代榊との異常な反応。

 

『君は神代の認識術式を破る中心にいた。星帰りで銀の鴉を霊脈へ通し、学校全体へ流れた術式を崩したのも君だ』

 

『眞田が神代の術式に関する記憶や技術を集めているのなら、術式を壊した側の記憶も欲しがるかもしれない』

 

斎賀が続ける。

 

「俺がどうやって壊したかを知りたいってこと?」

 

『可能性はある』

 

真壁は二本目の指を立てた。

 

『次に、君の周囲にあるものだ。蓮根家、鬼火鳥、霊脈、古代魔術。眞田が研究対象として興味を持ちそうな要素が多すぎる』

 

「じゃあ、どれが理由なんだよ」

 

『分からん』

 

「全部?」

 

『それも分からん』

 

「使えねえ!」

 

『捜査とはそういうものだ!』

 

斎賀が肩を揺らす。

 

『まあ、一番可能性が高いのは、お前の中に何か欲しい記憶があるってことだろうな』

 

奎星は黙った。

 

その言葉だけは、冗談として流せなかった。

 

自分の中に、眞田が欲しがる記憶がある。そう考えると、これまでの出来事が別の形に見えてくる。神代榊との反応も、星帰りでの役割も、そして一月一日に自分へ向けられた術式も。

 

だが、推測はいくら並べても答えにはならない。

 

奎星は机の上の手紙へ視線を落とした。

 

《蓮根奎星を連れてきてほしい》

 

そして、静かに言った。

 

「確証なら、本人に聞くしかないだろ」

 

真壁は奎星を見た。

 

スズメも、斎賀も、火映しの向こうから真壁を見ている。

 

真壁は何も言わなかった。

 

奎星の言葉は乱暴で、危険で、捜査官なら簡単には選べない方法だった。それでも、正しい。なぜ蓮根奎星なのか。なぜスズメの記憶を奪ったのか。眞田本人にしか分からないことがある。

 

斎賀は、真壁が黙った理由を察したらしい。

 

『征士郎』

 

『何だ』

 

『言い返さねえの?』

 

『うるさい』

 

『正論だった?』

 

『うるさいと言っている』

 

奎星が得意げに胸を張る。

 

「ほら!」

 

『君は調子に乗るな!』

 

「何で!」

 

そのとき、斎賀がふと首を傾げた。

 

『つーかさ』

 

「何?」

 

『会うにしても、場所が書いてねえだろ、その手紙』

 

全員が手紙へ視線を落とした。

 

確かに、日時も場所もない。書かれているのは、スズメへの呼びかけと、奎星を連れてこいという要求だけだった。

 

「……確かに」

 

奎星が呟く。

 

斎賀が呆れた顔をする。

 

『今気づいたのかよ』

 

「内容が衝撃的だったから!」

 

『で、どこに蓮根を連れていくんだ?』

 

真壁も眉を寄せた。

 

『手紙の文面だけでは判断できない。眞田がこちらの行動を誘導している可能性もある』

 

スズメは返事をせず、手紙を見つめていた。

 

眞田は、場所を書かなかった。

 

書かなくても、自分なら分かると思ったからだ。

 

三年前、まだ事故が起きる前。眞田に連れられて、一度だけ訪れた場所がある。記録局の通常研究室では扱えない、周囲への魔力干渉が強い術式を実証するための施設だった。

 

スズメは、ゆっくり顔を上げた。

 

「……心当たりのある場所があります」

 

真壁の表情が変わる。

 

『どこだ』

 

「群馬県です」

 

「群馬?」

 

奎星が聞き返す。

 

「はい。三年前、眞田先輩に連れて行っていただいた研究施設があります」

 

『何の施設だ』

 

「古代魔術の実証研究に使われていた小規模施設です。記録局の通常研究室では扱えない術式や、周囲への魔力干渉が強い実験を行うための場所でした」

 

真壁はすぐに手元の資料を確認した。紙をめくる音が、火映しの向こうから聞こえる。

 

『……ある』

 

「今も使われていますか」

 

『いや。三年前の事故から少しあとに閉鎖されている』

 

斎賀が眉を上げた。

 

『廃施設ってことか』

 

『現在は使用されていない』

 

スズメは手紙へ視線を戻した。

 

場所を書かなくても分かるだろう。眞田は、そう考えたのかもしれない。

 

「そこです」

 

奎星が言った。

 

真壁がすぐに制する。

 

『まだ決まっていない』

 

「でも、他に手がかりはないだろ」

 

『蓮根君』

 

「……はい」

 

『調べる。施設の周辺と内部を確認し、危険がないと判断できた場合に限って向かう』

 

「それって、行くってことじゃん」

 

『君は黙っていろ』

 

「はい」

 

スズメは、火映しの向こうの真壁を見つめた。

 

『烏丸先生』

 

「はい」

 

『先生も、蓮根君も、単独では動かないこと。眞田と接触する場合は、必ず監察局の指示に従う』

 

「分かりました」

 

奎星も頷いた。

 

「分かった」

 

斎賀が横から口を挟む。

 

『俺も行くぞ』

 

真壁が振り返る。

 

『お前はまだ正式な捜査員ではない』

 

『でも、眞田の術式を知ってる人間が必要だろ』

 

真壁は黙った。

 

斎賀は笑っていたが、その目は真剣だった。

 

『それに、俺がいないと征士郎が真面目すぎて話が進まねえ』

 

『余計なことを言うな』

 

『ほらな』

 

奎星が吹き出す。

 

「確かに」

 

『蓮根君』

 

「はい」

 

『君も斎賀も、現地では絶対に勝手な行動をするな』

 

「俺はしない」

 

斎賀が言う。

 

『お前はする』

 

「何で!?」

 

『過去の実績だ』

 

火映しの炎が揺れた。

 

その向こうで、真壁は深く息を吐く。

 

『明朝、出発する』

 

 

翌朝。

 

群馬県へ向かう二台の車が、東京を出た。

 

結局、行くことになった。ただし、奎星とスズメだけではない。

 

真壁は御影玄一郎にも協力を要請した。事情を聞いた御影は三秒ほど黙り、それから短く答えた。

 

「俺も行く」

 

それだけだった。

 

真壁が止める余地はなかった。

 

さらに、星帰り作戦で霊脈隊の護衛を務めた若手禍祓官、倉橋哲人。その同期である風間遼と葛城千景も同行することになった。

 

合計八人。

 

車は二台。

 

目的地は、群馬県の山間部にある廃研究施設だった。

 

一号車は斎賀が運転し、助手席に真壁。後部座席には、左から御影、奎星、スズメが座っている。

 

高速道路へ入ってから十五分ほど経った頃、早くも車内で問題が起きた。

 

奎星は、左に御影、右にスズメという配置の中で、何度も身体を捩っていた。御影の肩幅は広く、スズメは窓側へ寄っている。それでも、中央の席はどう考えても狭い。

 

「……御影先生」

 

「何だ」

 

「でかいんだから、もうちょい足閉じてよ」

 

御影は横目で奎星を見た。

 

「閉じている」

 

「閉じてないって! 膝こっち来てる!」

 

「お前が広げている」

 

「俺は真ん中なんだよ!」

 

右側から、スズメも不満を漏らした。

 

「蓮根君こそ、もう少し閉じてください。狭いです」

 

「これが限界なんだよ! 男は大変なの!」

 

一瞬、車内が静まり返った。

 

御影とスズメが同時に奎星を見る。助手席の真壁も、ゆっくり振り返った。

 

奎星の顔が引きつる。

 

「……何」

 

真壁が静かに尋ねた。

 

「君は朝から何の話をしているんだ」

 

「いや、物理的な話!」

 

「分かっています」

 

「なら、その顔やめて!」

 

スズメが窓側へさらに身体を寄せる。

 

「とにかく狭いです」

 

「俺、真ん中なんだぞ! 一番大変なんだよ!」

 

「我慢しろ」

 

御影が言った。

 

「御影先生の肩幅のせいだろ!」

 

「鍛えろ」

 

「鍛えたらもっと狭くなるじゃん!」

 

真壁が額へ手を当てる。

 

「三人とも、もう少し静かにできないのか……」

 

運転席の斎賀が笑った。

 

「いいじゃねえか。退屈せずに済む」

 

「お前は運転に集中しろ」

 

「してるって」

 

「本当だろうな」

 

「征士郎、俺は禍祓官時代も運転事故ゼロだぞ」

 

真壁は少し黙った。

 

「……それは本当だ」

 

奎星が前方へ身を乗り出す。

 

「斎賀、運転上手いんだ」

 

「意外だろ」

 

「うん」

 

「即答すんな」

 

スズメが窓の外を見たまま言う。

 

「斎賀さん、前を見てください」

 

「はい、先生」

 

「斎賀さんの先生ではありません」

 

どうでもいい会話だった。

 

これから向かう場所には、おそらく敵がいる。しかも、その敵は自分たちを待っている。それなのに、車内には妙に普通の時間が流れていた。

 

奎星は、前の二人と隣の御影を見た。何かを思いついたらしく、今度は別の話題を持ち出す。

 

「ねえ、三人の禍祓官時代の話、聞かせてよ」

 

御影の眉がわずかに動いた。

 

「よせ」

 

しかし、斎賀はすぐに答えた。

 

「いいぜ」

 

「おい、玄弥」

 

「だって暇じゃん」

 

「お前は運転中だ」

 

「口は暇」

 

「理屈になっていない」

 

斎賀は前を見たまま、楽しそうに話し始めた。

 

「まずな、玄一郎は規則破りの問題児だった」

 

奎星の目が輝く。

 

「マジ!?」

 

「玄弥」

 

御影の声が低くなる。

 

「何だよ、本当だろ。誇張するなっていうなら訂正する。規則に従う気はあるって顔をしながら、現場では平然と無視する問題児だ」

 

「もっと悪くない!?」

 

御影は腕を組んだ。

 

「必要なら動いただけだ」

 

真壁が前を向いたまま言う。

 

「撤退命令を三度無視した人間が言う台詞ではない」

 

御影の目が助手席へ向く。

 

「征士郎」

 

「事実だ」

 

奎星が身を乗り出した。

 

「三回!?」

 

「昔の話だ」

 

斎賀が指を折る。

 

「一回目は人質が残っていた。二回目は後続班を待たずに犯人を追った」

 

「三回目は?」

 

斎賀は楽しそうに笑った。

 

「俺を助けに戻った」

 

車内が、ほんの一瞬だけ静かになった。

 

御影は窓の外へ視線を向ける。

 

「……話を盛るな」

 

「盛っていない」

 

真壁が淡々と答えた。

 

奎星の顔に、少しだけ笑みが浮かぶ。

 

「御影先生、めっちゃ問題児じゃん」

 

「お前に言われたくない」

 

「俺、撤退命令三回も破ってない!」

 

「これから破りそうだから困っている」

 

「未来で怒るな!」

 

斎賀が笑う。

 

「もちろん、俺も問題児だったけどな」

 

真壁が即座に言った。

 

「お前は種類が違う」

 

「ひどいな」

 

「玄一郎は判断の結果、規則を外れる」

 

御影が少しだけ真壁を見る。

 

「玄弥は?」

 

真壁の声が重くなる。

 

「規則を確認してから破る」

 

奎星が吹き出した。

 

「最悪じゃん!」

 

「いや、規則を知らずに破ったら事故だろ?」

 

「知ってて破るのも駄目だろ!」

 

「違いが分かる男なんだよ」

 

「犯罪者の言い方!」

 

「今は協力者」

 

「そこを誇るな!」

 

スズメは口元を押さえていた。笑いを堪えているらしい。

 

斎賀はさらに続ける。

 

「だからさ、同期で一番堅物だった征士郎と――」

 

「誰が堅物だ」

 

真壁が即座に反応した。

 

「お前以外に誰がいるんだよ」

 

「私は規則を守っていただけだ」

 

「それを堅物って言うんだよ」

 

「違う」

 

「同じだ」

 

「違う」

 

奎星が面白そうに前を見る。

 

「じゃあ、御影先生と斎賀が問題児で、真壁さんが止める係?」

 

真壁は少し考えた。

 

「概ね」

 

「征士郎」

 

御影が低く呼ぶ。

 

「余計なことを言うな」

 

「事実だろう」

 

「何したの?」

 

奎星が尋ねると、御影は即答した。

 

「聞くな」

 

斎賀は即座に反対した。

 

「聞け聞け。最初の合同訓練から面白かったぞ」

 

真壁が目を閉じる。

 

「あれはお前だけだ」

 

「何?」

 

斎賀は嬉しそうに話し始めた。

 

「俺ら三人で初めて合同訓練をした日、訓練人形を吹っ飛ばす課題があったんだ」

 

「うん!」

 

「俺、壁ごと消した」

 

奎星は数秒、言葉を失った。

 

「最初から!?」

 

「ちょっと威力を間違えてな」

 

「ちょっとで壁はなくならん」

 

「何か聞いたことあるな、この会話!」

 

御影が低い声で言った。

 

「初日から報告書を書かされた」

 

「御影先生も?」

 

「連帯責任だ」

 

「何もしてないのに!?」

 

真壁がぼそりと付け加える。

 

「玄一郎はその直後の模擬戦で、立入禁止区域へ犯人役を追って入った」

 

「征士郎」

 

御影が睨む。

 

奎星はもう止まらなかった。

 

「何で!?」

 

「近道だった」

 

「立入禁止だろ!」

 

「誰もいなかった」

 

「そういう問題じゃない!」

 

スズメが、ついに声を漏らして笑った。

 

「ふっ……」

 

奎星が振り向く。

 

「スズメちゃん、今笑った!」

 

「笑っていません」

 

「絶対笑った!」

 

「前を向いてください」

 

「俺、後ろ!」

 

斎賀はさらに追い打ちをかける。

 

「しかも玄一郎、そのとき征士郎に捕まってな」

 

「玄弥!」

 

「やめろ」

 

御影と真壁の声が、珍しく同時に重なった。

 

斎賀は楽しそうに続ける。

 

「怒られてるのに、こいつ何て言ったと思う?」

 

奎星が身を乗り出す。

 

「何て?」

 

「『捕まえたなら俺の勝ちだろ』って」

 

一秒の沈黙。

 

次の瞬間、奎星が腹を抱えて笑い出した。

 

「ハハハハハハ! 御影先生が!?」

 

「昔の話だ!」

 

「今の俺みたいじゃん!」

 

「違う!」

 

真壁の肩も、わずかに震えていた。

 

御影が睨む。

 

「征士郎、笑うな」

 

「……笑っていない」

 

「笑っているだろ!」

 

「思い出しただけだ」

 

斎賀が真壁へ顔を向ける。

 

「征士郎も大概だったけどな」

 

真壁の笑みが消えた。

 

「何だと」

 

「初任務で、撤退命令が出ているのに居座った」

 

「玄弥」

 

「『報告書上、撤退の条件を満たしていません』とか言ってな」

 

奎星が真壁を見る。

 

「真壁さんも破ってんじゃん!」

 

「違う!」

 

「何が!?」

 

「命令の前提条件が間違っていた!」

 

「堅物の破り方だ!」

 

斎賀が爆笑する。

 

「だろ!?」

 

スズメも、今度は完全に笑っていた。

 

「ふふっ……」

 

奎星が目を見開く。

 

「スズメちゃん!」

 

「すみません」

 

スズメは口元を押さえたが、笑いは止まらなかった。

 

「だって……真壁さんらしいというか……」

 

真壁が振り返る。

 

「烏丸先生まで?」

 

「すみません……ふふっ」

 

御影が深く息を吐いた。

 

「もうやめろ」

 

「まだあるぞ」

 

「やめろ」

 

「北海道の雪女事件」

 

「玄弥」

 

「大阪の呪具暴走」

 

「やめろ」

 

「あと玄一郎が屋根から――」

 

「降ろせ」

 

御影が突然言った。

 

車内が止まる。

 

斎賀が聞き返す。

 

「何?」

 

「俺を降ろせ」

 

奎星が笑いながら叫ぶ。

 

「高速道路だぞ!?」

 

「次の出口でいい」

 

「嫌だよ!」

 

「降ろせ」

 

「これから群馬へ行くんだぞ!」

 

「別の車で行く」

 

「二号車は三人しか乗ってねえから席あるけど!」

 

真壁が振り返る。

 

「そういう問題ではない!」

 

「降ろせ」

 

斎賀がハンドルを握ったまま叫ぶ。

 

「高速道路で降ろせるわけねえだろ!」

 

「サービスエリアで!」

 

「任務中だぞ!」

 

「今さら任務を理由にするな!」

 

「運転しているのは俺だぞ!?」

 

「だから止めろ!」

 

「高速で!?」

 

「サービスエリアだ!」

 

奎星は笑いすぎて、まともに息ができなくなっていた。

 

「御影先生……っ、降りようとしてる……!」

 

「黙れ!」

 

スズメも、とうとう堪えきれなくなった。

 

「ふふっ……あはは……!」

 

普段、大きな声で笑うことなどほとんどないスズメが、肩を揺らして笑っている。目尻には、薄く涙まで浮かんでいた。

 

奎星は一瞬、笑うのを忘れた。

 

「……何です?」

 

スズメが気づいて顔を向ける。

 

「いや」

 

奎星は少しだけ笑った。

 

「スズメちゃん、めっちゃ笑うじゃん」

 

「……面白かったので」

 

「そっか」

 

「はい」

 

奎星は、それ以上何も言わなかった。

 

戻っていない記憶は、まだたくさんある。スズメが自分と過ごした半年間も、そこにあったはずの時間も、まだ硝子玉の中に閉じ込められている。

 

それでも今、この車の中でスズメが笑った。

 

それは、誰にも奪えない新しい記憶だった。

 

その隣で、御影は本気で不機嫌そうに腕を組んでいる。

 

「玄弥」

 

「何だよ」

 

「帰りは俺が運転する」

 

斎賀が吹き出した。

 

「お前、運転荒いじゃん」

 

「貴様よりはましだ」

 

真壁が言う。

 

「二人とも、帰りは私が運転する」

 

「征士郎は遅い」

 

「何?」

 

「法定速度ぴったりだ」

 

「当たり前だ!」

 

「追越車線でも?」

 

「状況に応じる!」

 

奎星が口を挟む。

 

「真壁さん、一番運転つまんなそう」

 

「安全と言え!」

 

スズメが、また小さく笑った。

 

 

二号車の車内は、一号車とは対照的に静かだった。

 

運転席には倉橋哲人。助手席に風間遼。後部座席に葛城千景が座っている。車内に響くのは、エンジン音とタイヤが道路を走る音だけだった。

 

風間は、少し先を走る一号車へ目を向けた。

 

「……なあ」

 

「何」

 

倉橋が前を見たまま答える。

 

「あっち、本当にこれから危険指定施設へ突入する車か?」

 

倉橋も一号車を見る。車内の様子までは見えないが、さっきから何度も車体が揺れている。誰かが暴れているというより、どうやら全員で笑っているらしい。

 

葛城が窓の外から一号車を見た。

 

「笑っていますね」

 

「めちゃくちゃな」

 

「さっき、御影さんが後ろを向いていませんでしたか?」

 

「振り返っていた」

 

「揉めているのでしょうか」

 

「多分」

 

倉橋はしばらく黙って前方の車を見つめた。

 

任務記録で読んだ、最強の三人。御影玄一郎、真壁征士郎、斎賀玄弥。危険な魔法使いとの戦闘、人質救出、魔法災害への対処。三人で出て、三人で帰る。

 

倉橋は子供の頃から、その記録を何度も読んでいた。彼らはいつも冷静で、恐ろしく、威厳に満ちていた。どんな危険な現場でも、短い言葉だけで状況を動かす。敵は名前を聞くだけで震え、味方は彼らがいるだけで安心する。

 

その姿に憧れて、倉橋は禍祓官になった。

 

前方の一号車が、突然ブレーキランプを点灯させた。

 

その直後、窓越しでも聞こえるほど大きな声が響く。

 

「高速道路で降ろせるわけねえだろ!!」

 

倉橋は黙った。

 

風間も黙った。

 

葛城も黙った。

 

一号車の中から、誰かの爆笑が聞こえてくる。

 

倉橋はハンドルを握ったまま、長い沈黙のあとで呟いた。

 

「……憧れって」

 

風間が横を見る。

 

「何?」

 

倉橋は前方の一号車を見つめた。

 

「実物は見ないほうがいいこともあるな」

 

風間が吹き出した。

 

「今さらかよ」

 

葛城も、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「星帰りのときに気づきませんでした?」

 

「戦っているときは格好よかったんだよ」

 

「じゃあ、いいじゃん」

 

「普段を知りたくなかった」

 

「遅い」

 

葛城が短く言った。

 

「もう知りました」

 

倉橋は小さくため息を吐いた。

 

その直後、一号車が追越車線へ移った。倉橋も距離を保ったまま、二号車を走らせる。

 

 

高速道路を降りる頃には、一号車もさすがに静かになっていた。

 

山が近づくにつれて街並みが減り、道路は次第に細くなっていく。舗装された県道を外れ、車はさらに山側へ入った。道路脇には、溶け残った雪が黒ずんでいる。

 

斎賀がナビを確認した。

 

「この先か?」

 

スズメは窓の外を見ながら答える。

 

「はい。もう少し先です」

 

「覚えている?」

 

「……何となく」

 

三年前に来たときは、冬ではなかった。山はもっと濃い緑に覆われ、道端には草が生い茂っていた。眞田の車の助手席に座り、スズメは先輩の説明を聞きながら、窓の外の景色を眺めていた。

 

当時の自分は、まだ記録局へ入ったばかりだった。古代魔術について知らないことばかりで、眞田は何でも教えてくれた。

 

「ここを右です」

 

スズメが前方を指す。

 

斎賀がハンドルを切った。

 

狭い道の両側を木々が覆い、枝の隙間から灰色の空が見える。しばらく進むと、真壁が後ろを確認した。

 

「二号車も来ている」

 

御影は、さっきまでの騒ぎが嘘のように黙って外を見ていた。斎賀も笑っていない。真壁は地図と術式反応を交互に確認している。

 

車内の空気が変わっていた。

 

奎星は左腕の時計へ触れた。スズメからもらった銀色の時計は、冷たい金属の感触を返してくる。

 

隣で、スズメが奎星を見た。

 

「蓮根君」

 

「何?」

 

「怖いですか」

 

奎星は少し考えた。

 

「うん」

 

正直に答える。

 

「でも、行く」

 

スズメは小さく頷いた。

 

御影が横から言う。

 

「勝手に前へ出るな」

 

「分かってる」

 

真壁が続ける。

 

「単独行動するな」

 

「分かってるって」

 

斎賀も言った。

 

「敵を見つけても走っていくなよ」

 

「お前まで言う!?」

 

「お前、俺より信用がないぞ」

 

「それはない!」

 

「ある」

 

御影と真壁の声が、また同時に重なった。

 

「ある」

 

「何で揃うんだよ!」

 

スズメが小さく笑う。

 

その笑みは、先ほどの車内で見せたものよりも短かったが、奎星は気づいていた。

 

やがて、車が止まった。

 

後ろの二号車も続いて停車する。

 

前方には、錆びついた鉄製の門があった。門の向こうには山の木々に隠れるように、灰色の建物が建っている。窓はいくつか割れ、壁には蔦が絡みついていた。入口脇の看板には、かつて施設名が書かれていたはずだが、文字はほとんど消えている。

 

三年前、研究施設だった場所。

 

今は、誰も使っていない廃施設。

 

「……ここです」

 

スズメの顔から笑みが消えた。

 

エンジンが切られる。

 

静寂が戻った。

 

八人が車を降り、それぞれに装備を確認する。倉橋、風間、葛城は杖を抜き、真壁は門の周囲へ視線を走らせた。斎賀は建物の窓を、御影は屋根と周囲の木々を見ている。

 

奎星は、全員の動きを見ながら神代榊へ手を置いた。

 

風が吹いた。

 

錆びた門が、きい、と小さく鳴る。

 

硝子の音ではない。

 

それでも、奎星の背筋を冷たいものが走った。

 

ここに、眞田大がいるかもしれない。

 

三年前、研究を止めるべきではないと言った男。

 

一月一日、スズメの記憶を奪った男。

 

そして今、自分をここへ呼び寄せた男。

 

奎星は隣に立つスズメを見た。スズメもまた、廃施設の奥を見つめている。その表情には恐怖があった。けれど、逃げるつもりはない。

 

前には真壁と斎賀、御影がいる。後ろには倉橋、風間、葛城がいる。一人ではない。今度は最初から、これだけの人数が揃っている。

 

真壁が全員を見渡した。

 

さっきまで高速道路でくだらない話をしていた男の顔は、もうどこにもなかった。声も、完全に現場のものへ戻っている。

 

「行くぞ」

 

誰も笑わなかった。

 

八人は、閉ざされた門へ向かって歩き始めた。

 

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