マホウトコロ   作:西野圭吾

86 / 94
第11話 戻すということ

 

錆びついた門を抜けると、建物の正面へ向かって、ひび割れた石畳が伸びていた。

 

三年前まで使われていた研究施設だと聞かされていたが、灰色の外壁に絡みついた蔦や、割れた窓から入り込んだ枯葉を見れば、ここが長いあいだ人の手を離れていたことは明らかだった。入口脇の看板も文字の大半が剥がれ落ち、かろうじて《古代術式実証》という部分だけが残っている。

 

真壁が杖を抜いた。

 

「全員、ここからは声を落とせ」

 

車内で斎賀に昔話を暴露されていたときとは、まるで別人だった。斎賀も笑みを消し、御影は無言のまま建物の二階を見上げている。倉橋、風間、葛城の三人は、互いの視界を確保するように自然と左右へ散った。

 

奎星も神代榊を抜く。隣では、スズメが古びた建物をじっと見つめていた。

 

「覚えてる?」

 

奎星が小声で訊くと、スズメは少しだけ目を細めた。

 

「はい。三年前に来たときとは、かなり変わっていますが」

 

「どんな場所だった?」

 

「普通の研究施設でしたよ」

 

「普通?」

 

「少なくとも、今のような廃墟ではありませんでした。記録局や研究部門の人間が、必要なときに使用していた程度ですが、設備も動いていましたし、ここまで荒れてはいませんでした」

 

スズメの言葉を聞きながら、奎星は正面の扉へ目を向けた。扉は閉じている。真壁は取っ手へ触れる前に杖を振り、扉の表面へ淡い光を走らせた。

 

「魔力反応、呪詛、接触型術式、転移術式……複数の痕跡があります」

 

御影が訊く。

 

「罠は?」

 

「少なくとも、入口にはない」

 

「少なくとも、か」

 

斎賀が嫌そうに呟いた。

 

「嫌な言い方するねえ」

 

「捜査では当然だ」

 

「征士郎、車を降りた途端、いつもの十倍くらい固くなったな」

 

「黙れ」

 

真壁は扉へ手を掛け、ゆっくりと押し開けた。錆びた蝶番が長く軋み、冷たい空気が建物の中から流れ出してくる。

 

埃と古い紙、それから金属の匂い。その奥に、魔法を使った直後のような、わずかに焼けた空気が混じっていた。

 

御影の目が細くなる。

 

「無人じゃないな」

 

真壁も頷いた。

 

「最近、何かが動いている」

 

全員の杖が上がる。八人は互いの距離を保ったまま、静かに施設の中へ入った。

 

 

玄関を抜けると、広い廊下が奥へ伸びていた。床には厚く埃が積もっている。しかし、その上には複数の足跡が残っていた。新しいものと古いものが混じり、靴底の形も一つではない。

 

「眞田一人じゃない?」

 

奎星が訊く。

 

真壁はしゃがみ込み、足跡の縁を指先で確認した。

 

「断定はできない。施設へ出入りしていた時期が違うだけかもしれない」

 

斎賀は壁へ顔を向けた。

 

「魔力の流れは奥だな」

 

「分かるのか?」

 

「黒曜にいた頃、こういう閉鎖施設は嫌になるほど使ったからな」

 

「自慢するな」

 

「してねえよ」

 

真壁が立ち上がると、スズメは廊下の先を見ながら口を開いた。

 

「以前は、右へ進むと資料室、左側に小規模な実験室が三つありました。さらに奥が、大型術式用の実証室です」

 

「眞田に連れてこられたのも、そこ?」

 

奎星が訊く。

 

「はい。ただし、地下については知りません」

 

「地下があるの?」

 

「当時の施設図にはありませんでした」

 

真壁が反応した。

 

「当時の、ということは?」

 

「現在の図面には、地下区画が記載されている」

 

真壁は懐から折り畳んだ紙を取り出した。魔法省で確認してきた施設資料だった。

 

「閉鎖直前の改修記録に、地下区画増設の申請が残っている。ただし、完成報告はない」

 

斎賀が苦笑する。

 

「完成報告がないだけで、作ってねえとは限らない」

 

「同感だ」

 

一行はさらに奥へ進んだ。

 

誰もいない。人の気配もない。それなのに、時折、どこか遠くから小さな音が聞こえてくる。

 

ちん。

 

硝子が触れ合うような音だった。

 

奎星の足が止まる。

 

「……今の、聞こえた?」

 

スズメも立ち止まった。

 

「はい」

 

ちん。

 

もう一度、音が響く。

 

その瞬間、奎星の脳裏に一月一日の光景が蘇った。走行中の列車、黒いフード、男の指輪、そして掌の上に浮かんだ透明な球。

 

神代榊を握る手に力がこもる。

 

「この音だ」

 

誰も冗談を言わなかった。

 

真壁が先頭へ出る。廊下の突き当たりには、大きな両開きの扉があった。鍵は掛かっていない。

 

真壁が御影を見る。御影は短く頷いた。

 

倉橋、風間、葛城が後方を警戒し、斎賀が左、御影が右につく。真壁が取っ手を押すと、扉は抵抗なく開いた。

 

そして、八人全員が息を呑んだ。

 

そこは、普通の研究室ではなかった。

 

天井の高い円形の部屋。その中央には黒い石の台座があり、上には両手で抱えられるほど大きな透明の硝子球が置かれている。内部には何もないように見えるが、球の中心では、ごく淡い光が脈打っていた。

 

しかし、目を奪われたのは中央の球ではない。

 

壁一面に並んだ棚だった。

 

床から天井まで伸びた棚のすべてに、透明な硝子玉が収められている。一つ、二つ、十、二十。数えようとしても、途中で意味を失うほどの数だった。

 

右の壁にも、左の壁にも、奥の壁にも、硝子、硝子、硝子。大きさは一つずつ違い、内部には銀色の糸のような光が浮かんでいる。淡い青、薄い金、ほとんど透明なもの。中には、光が脈打つたびに、文字や景色、人の顔のような形を作っては消すものもあった。

 

「……おい」

 

斎賀の声から、いつもの軽さが消えていた。

 

奎星は、壁を見渡したまま呟く。

 

「これ、全部……」

 

誰も答えなかった。

 

スズメが棚の一つへ近づきかける。真壁が腕を伸ばして止めた。

 

「触らないでください」

 

「はい」

 

真壁自身も、硝子玉から目を離せずにいた。

 

魔法省が把握している被害者数。一般社会側から寄せられた相談。黒曜の環の関係者六名。それだけでは、この部屋に並ぶ硝子玉の数を説明できない。

 

明らかに多すぎる。

 

「ニュースで言ってた数より……」

 

奎星の声が掠れた。

 

「ずっと多くない?」

 

「多い」

 

真壁は短く答えた。その一言だけで、事態の重さは十分に伝わった。

 

倉橋が棚を見渡す。

 

「すべてが一人分とは限りません」

 

「そうだ」

 

真壁は頷いた。

 

「だが、それを考慮しても異常だ」

 

スズメは、一つの硝子玉を見つめていた。内部の銀色の糸が揺れ、何かの形を作っては消えていく。文字にも、景色にも、顔にも見える。ただの錯覚かもしれない。それでも、スズメの声は震えていた。

 

「記憶……」

 

奎星が彼女を見る。

 

「やっぱり?」

 

「断定はできません。ですが、魔力反応が一月一日に生成された球と似ています」

 

奎星の目が鋭くなる。

 

「あいつ……」

 

その瞬間、部屋全体に声が響いた。

 

『来たね』

 

全員の杖が一斉に上がる。

 

声の出所が分からない。天井から聞こえたようでもあり、壁の奥から響いたようでもあった。魔法によって、部屋そのものが声を発している。

 

奎星が叫ぶ。

 

「眞田!」

 

返事は数秒遅れて返ってきた。

 

『蓮根奎星』

 

落ち着いた男の声だった。若くも老いてもいない。スズメの表情が変わる。知っている声だった。

 

『それから……烏丸』

 

呼びかけるときだけ、声がほんの少し柔らかくなる。

 

スズメの指が杖を強く握った。

 

「……眞田先輩」

 

『久しぶりだ』

 

三年も会っていなかったとは思えないほど、普通の声だった。記録局で資料の読み方を教えてくれたときも、分からない古代文字を尋ねたときも、勤務後に食事へ誘われたときも、眞田は同じ声で話していた。

 

その声が今、壁一面の硝子玉の中から聞こえている。

 

「どこにいるんですか」

 

『奥だ』

 

「姿を見せてください」

 

『その前に、蓮根奎星と烏丸の姿を見せてくれ』

 

御影が奎星の前へ半歩出た。

 

「何をする気だ」

 

返事はない。

 

『蓮根奎星』

 

今度は奎星へ。

 

『烏丸』

 

そしてスズメへ。

 

『二人で前へ』

 

真壁が即座に制した。

 

「動くな」

 

奎星もスズメも足を止める。

 

真壁は中央の硝子球へ杖を向けた。

 

「こちらから条件を出す。まず姿を見せろ」

 

『真壁征士郎。君も来ると思っていたよ』

 

「なら話は早い。ここで話せ」

 

『それでは意味がない』

 

「何の意味だ」

 

短い沈黙のあと、眞田の声が返ってきた。

 

『僕が呼んだのは、その二人だ』

 

声が途切れ、部屋に静寂が戻る。

 

奎星は真壁を見る。

 

「真壁さん」

 

「駄目だ」

 

「でも」

 

「罠だと言っただろう」

 

「ここまで来て、何もせずに帰れるわけ――」

 

「蓮根君」

 

低い声に遮られ、奎星は口を閉じた。

 

真壁の言うことは正しい。分かっている。それでも、壁の硝子玉のどこかに人々の記憶がある。さらに奥には、スズメの記憶がある。

 

そのとき、スズメが一歩前へ出た。

 

「烏丸先生」

 

真壁が呼ぶ。

 

「私が呼ばれています」

 

「だからこそです」

 

「ですが、このままでは何も分かりません」

 

「相手の目的も分からない」

 

「はい」

 

「危険です」

 

「分かっています」

 

スズメは一度、奎星を見た。奎星も彼女を見る。

 

二人のあいだに、言葉は必要なかった。

 

奎星は神代榊を握り直し、スズメとほとんど同時に中央へ一歩踏み出した。

 

「蓮根君!」

 

真壁の声が響く。

 

次の瞬間、中央の硝子球が強く光った。

 

床に銀色の円形術式が浮かび、瞬く間に部屋全体へ広がる。

 

「下がれ!」

 

御影が叫んだ。

 

しかし、間に合わなかった。

 

透明な壁が床から噴き上がり、奎星とスズメのいる場所と、残る六人のあいだを完全に隔てた。

 

「スズメちゃん!」

 

奎星が振り返る。

 

「蓮根君!」

 

すぐ隣にスズメがいる。透明な壁の向こうには、御影、真壁、斎賀、倉橋、風間、葛城がいた。

 

「くそっ!」

 

倉橋が杖を上げる。

 

「待て!」

 

真壁の怒声が飛ぶ。

 

「撃つな!」

 

「でも!」

 

「撃つな!」

 

御影もすでに杖を構えていたが、真壁の言葉を聞いて攻撃を止めた。

 

真壁は透明な壁へ近づき、触れずに杖先から細い魔力を流す。

 

結界が反応した。

 

その瞬間、壁一面の硝子玉が一斉に鳴った。

 

ちん。

 

真壁の顔が変わる。

 

彼はもう一度、ごく僅かな魔力だけを結界へ流した。棚の硝子玉が揺れ、内部の銀色の光が一斉に波打つ。

 

斎賀が息を呑んだ。

 

「……マジかよ」

 

奎星が透明な壁越しに叫ぶ。

 

「何が!?」

 

真壁はすぐには答えなかった。中央の球、結界、棚の硝子玉。それぞれの魔力の流れを目で追い、ようやく顔を上げる。

 

「この結界を攻撃するな」

 

御影が訊く。

 

「理由は」

 

「衝撃を逃がす先が、結界そのものではない」

 

斎賀が棚を見る。

 

「硝子玉か」

 

「そうだ」

 

真壁の声が重くなる。

 

「結界へ一定以上の干渉を加えれば、その負荷が棚へ分散する」

 

奎星の目が見開かれた。

 

「……割れる?」

 

真壁は答えたくなかった。しかし、嘘をつくこともできない。

 

「可能性が高い」

 

壁に並ぶ無数の硝子玉。その一つ一つに、人の記憶が入っているかもしれない。すべてが人質だった。

 

御影は結界を見つめた。

 

力ずくで壊すことは、おそらくできる。御影なら、斎賀なら、真壁なら、三人で力を合わせれば、この程度の結界を破壊すること自体は難しくない。

 

だが、その瞬間、何人分の記憶が砕けるのかは分からない。

 

斎賀が舌打ちした。

 

「性格悪ぃな、あいつ」

 

真壁は結界の端へ走った。

 

「別経路を探す。倉橋君、風間君、葛城さんは左右へ。玄弥は中央球の接続を見ろ。玄一郎――」

 

真壁が振り返る。

 

しかし、御影は指示を聞いていなかった。

 

透明な壁の向こうにいる奎星を見ていた。

 

奎星も御影を見る。

 

数か月前なら、御影は迷わず止めていただろう。お前は生徒だ。下がれ。勝手に動くな。俺の後ろにいろ。そう言ってきた。

 

奎星はまだ十七歳で、経験も足りない。御影より弱い。真壁より弱い。斎賀より弱い。それは何も変わっていない。

 

それでも、御影玄一郎は奎星の目を見た。

 

そこには怒りがある。怖さもある。スズメの記憶を取り戻したいという焦りもある。

 

だが、もう怒りだけで杖を振る少年ではない。

 

御影は、短く言った。

 

「行け」

 

奎星の目が僅かに見開かれる。

 

「玄一郎!」

 

真壁が振り返った。

 

御影は奎星から目を逸らさない。それ以上、何も言わなかった。

 

奎星は数秒、御影を見つめた。そして、小さく頷く。

 

「……うん」

 

スズメが奎星を見る。

 

奎星は神代榊を握り直した。

 

「行こう」

 

「はい」

 

二人は透明な壁へ背を向け、部屋の奥にある扉へ向かった。

 

その向こうでは、真壁が何かを叫び、斎賀が結界の構造を調べている。御影はもう何も言わない。

 

十メートル。

 

二十メートル。

 

奎星は一度だけ振り返った。

 

透明な壁の向こうに、まだ御影たちがいる。御影も奎星を見ていた。

 

それだけで十分だった。

 

奎星は前を向き、スズメとともに角を曲がった。今度こそ、互いの姿は見えなくなった。

 

 

廊下の奥は、先ほどまでとは明らかに違っていた。

 

床に埃はなく、壁に取り付けられた魔法灯も生きている。古代文字と現代式の配線を組み合わせた術式が壁を走り、淡い光を規則正しく明滅させていた。

 

ここだけは、今も使われている。

 

奎星は歩きながら口を開いた。

 

「御影先生、止めなかった」

 

スズメが少しだけ奎星を見る。

 

「そうですね」

 

「……何か、変な感じがする」

 

「怖いですか」

 

「それもある」

 

奎星は前を見たまま続けた。

 

「でも、行けって言われたから」

 

「はい」

 

「行く」

 

スズメは何も言わず、ほんの少しだけ奎星の隣へ近づいた。二人の足音が、静かな廊下に重なって響く。

 

やがて突き当たりに、一枚の扉が現れた。扉の前の床には古代文字で円が描かれている。しかし、近づいても罠は作動しなかった。扉には鍵すら掛かっていない。

 

奎星がスズメを見る。

 

スズメは頷いた。

 

奎星は取っ手を掴み、ゆっくりと扉を開いた。

 

 

その部屋は、外の廃墟からは想像できないほど整えられていた。

 

本棚には資料が並び、机の上には魔法具と羊皮紙が置かれている。壁には数え切れないほどの術式図が貼られ、その多くに《記憶》《認識》《精神》《外部媒体》という言葉が書き込まれていた。

 

部屋の奥には大きな窓があり、冬の山々が見える。その窓の前に、一人の男が立っていた。

 

背が高く、黒い服を着ている。一月一日の夜とは違い、フードは被っていない。三十代前半ほどに見える、整った短い髪と細い目。特別に恐ろしい顔ではなかった。むしろ、穏やかで、どこにでもいそうな普通の男だった。

 

スズメの足が止まる。

 

男が振り返り、彼女を見る。そして、ほんの少し笑った。

 

「久しぶりだね、烏丸」

 

スズメの顔が強張る。

 

「……眞田先輩」

 

眞田大。

 

名前と顔が一致した。

 

奎星は一月一日の夜、男の顔を見ていない。それでも、分かった。こいつだ。

 

眞田の視線が奎星へ移る。

 

「君が蓮根奎星君だね」

 

奎星は答えなかった。神代榊を握ったまま、眞田を睨みつける。

 

眞田はその杖を見ても、顔色一つ変えなかった。

 

「初めまして」

 

「初めましてじゃねえだろ」

 

眞田が少しだけ目を細める。

 

「そうか」

 

「一月一日。電車。あれ、お前だろ」

 

沈黙が落ちた。

 

眞田は否定しなかった。

 

「そうだ」

 

奎星の目つきが変わり、杖が僅かに上がる。

 

「蓮根君」

 

スズメがすぐ横から呼びかけた。

 

奎星は止まった。杖は下げない。しかし、撃つこともしなかった。

 

眞田はその様子を静かに見ている。

 

「ずいぶん信頼されているんだね」

 

「黙れ」

 

「蓮根君」

 

「……はい」

 

眞田は小さく息を吐いた。

 

「三年前より、ずいぶん賑やかな後輩になった」

 

スズメの眉が動く。

 

「私の教え子です」

 

「そうらしい」

 

眞田は机へ向かった。

 

「手紙を読んでくれてありがとう」

 

奎星が言う。

 

「呼んだんだから説明しろ」

 

「そのつもりだ」

 

「全部」

 

「全部?」

 

「三年前から、今までのことを全部だ」

 

奎星は壁の資料へ目を向けた。

 

眞田はしばらく彼を見つめ、それから椅子には座らず、机の縁へ手を置いた。

 

「いいだろう」

 

 

「始まりは三年前だ」

 

眞田は、壁に貼られた古い術式図へ目を向けた。

 

「僕と烏丸は、記憶に関する古代魔術を調べていた。当時の僕たちは、記憶を一度人間の外へ出し、別の媒体へ固定し、必要に応じて本人へ戻す技術だと考えていた」

 

スズメは黙って聞いている。自分もそこにいた。あの頃の研究室の匂いも、机の上に積まれた資料も、今でも覚えている。

 

「理論は間違っていなかった」

 

スズメの目が細くなる。

 

「相原さんの記憶が失われました」

 

「分かっている」

 

「それでも、間違っていなかったと言うんですか」

 

眞田は少し首を横に振った。

 

「術式の目的についてだ」

 

「抽出は起きた」

 

眞田は三年前の術式図へ目を向ける。

 

「問題は二つあった。固定先と、対象範囲だ」

 

奎星が呟く。

 

「固定先と対象範囲……」

 

眞田が奎星を見る。

 

「知っているんだね」

 

「スズメちゃんの日記で見た」

 

「そうか」

 

眞田は、ほんの少し懐かしそうに笑った。

 

「烏丸は昔から、よく書く人だった」

 

「そこはどうでもいい」

 

「蓮根君」

 

「今はよくね?」

 

スズメは一瞬だけ黙り、それから静かに言った。

 

「……続けてください」

 

眞田の口元から笑みが消える。

 

「固定できなかった記憶がどこへ行ったのかは分からない。抽出範囲も制御できず、相原さんから複数の記憶が不規則に失われた」

 

眞田は淡々と続けた。

 

「だから僕は研究を続けた」

 

スズメの目が変わる。

 

「三年間?」

 

「ああ」

 

「一人で?」

 

「最初は」

 

眞田は部屋を見渡した。

 

「途中から、必要な知識を集めた」

 

奎星は壁一面の硝子玉を思い出した。

 

「……集めた?」

 

「そうだ」

 

「人から?」

 

「そうだ」

 

短い答えだった。

 

「黒曜のやつらも?」

 

「六人」

 

「一般人も?」

 

「含まれる」

 

奎星の拳が震える。

 

「何で」

 

「必要だったからだ」

 

「それで人の記憶を取ったのかよ!」

 

「必要な部分だけだ」

 

「同じだろ!」

 

奎星の怒声が部屋に響く。

 

眞田は声を荒らげなかった。

 

「暗号化技術。記憶を固定媒体へ保存する際、複数の情報が混線しないために必要だった。特殊な計測設備の構造。魔力媒体内部の状態を破壊せず観測する方法。古い文献の復元に必要な一節。彼らの記憶がなければ、研究は進まなかった」

 

「だから何だよ」

 

「三年前にできなかったことが、今はできる」

 

眞田は壁に貼られた術式図を指した。

 

《抽出》《固定》《範囲指定》。

 

奎星は、以前スズメと研究室で並べた資料を思い出した。二〇二四年、固定は失敗し、対象範囲は制御不能だった。だが、二〇二七年の術式には、確かにその二つが組み込まれている。

 

「……全部、実験に使ったのか」

 

「実験?」

 

「人間を!」

 

神代榊が上がる。

 

今度はスズメも止めなかった。

 

眞田は動かない。

 

「彼らの記憶は失われていない」

 

「は?」

 

「消してはいない」

 

眞田は、はっきりと言った。

 

「保存している」

 

奎星の顔が歪む。

 

「人間の記憶は、失えば二度と同じものを作れない。だから僕は、一つも消していない。必要な情報だけを抜き出し、硝子へ固定した」

 

「それを奪ったって言うんだろ!」

 

「本人が困ってんだぞ! 家族と話せなくなって、仕事もできなくなって、自分だけ何も覚えてなくて。それで保存してるからいいって言うのかよ!」

 

「いいとは言っていない」

 

「同じだろ!」

 

「違う」

 

眞田の声は静かだった。

 

「失われることと、保存されることは違う」

 

「本人の中にねえなら同じだろ!」

 

奎星の怒鳴り声が部屋を震わせる。

 

眞田は怒鳴り返さなかった。ただ、机の上へ視線を落とした。

 

「だから戻す」

 

奎星の動きが止まる。

 

スズメの目も、眞田へ向いた。

 

眞田は机の引き出しへ手を掛けた。

 

奎星の杖が一気に上がる。

 

「ゆっくり動け」

 

「分かった」

 

眞田は言われた通り、ゆっくりと引き出しを開けた。中から小さな黒い箱を取り出し、机の上へ置く。

 

蓋が開く。

 

その瞬間、奎星の呼吸が止まった。

 

中に入っていたのは、親指より少し大きな透明の硝子玉だった。内部では無数の銀色の糸が絡み合い、淡い光を放っている。

 

見覚えがある。

 

一月一日。電車。スズメの掌。男が持ち去ったもの。

 

奎星の手が震えた。

 

スズメも動かない。

 

眞田が言った。

 

「これが、烏丸から抽出した記憶だ」

 

奎星の顔から血の気が引く。

 

目の前にある。

 

ずっと探していたものが。

 

補習、水月庵、観測塔、星迎祭、常隠島、星帰り、クリスマス、初詣。スズメと過ごした半年の記憶が、すべてこの小さな球の中にある。

 

「返せ」

 

奎星が掠れた声で言った。

 

眞田は硝子玉へ触れない。

 

「返すために、君を呼んだ」

 

「じゃあ返せ!」

 

「まだ戻せない」

 

時間が止まったようだった。

 

奎星はゆっくり眞田を見る。

 

「……何て?」

 

「現在の術式では、抽出できる。対象を選べる。硝子へ固定できる。しかし、本人へ安全に戻すことはできない」

 

奎星の中で、何かが切れた。

 

「お前ぇぇぇ!!」

 

神代榊が振り上がる。

 

「蓮根君!」

 

スズメが腕を掴んだ。

 

「離して!」

 

「駄目です!」

 

「こいつ、戻せねえのに!」

 

「分かっています!」

 

スズメの声も震えていた。怒っている。奎星と同じように。

 

「ですが、今ここで撃っても何も戻りません!」

 

奎星は歯を食いしばった。数秒、何十秒と耐え、ようやく杖を少し下げる。

 

眞田はその様子を見ていた。

 

「手紙には、君の記憶は失われていない、としか書かなかった」

 

「……」

 

「戻せるとは書いていない」

 

奎星のこめかみに血管が浮く。

 

「スズメちゃん」

 

「はい」

 

「一発だけ殴っていい?」

 

「駄目です」

 

「魔法じゃない」

 

「もっと駄目です」

 

眞田がほんの僅かに笑った。

 

「仲がいいんだね」

 

「黙れ!」

 

スズメは机へ近づいた。硝子玉を見つめているが、手は伸ばさない。

 

「戻せない」

 

「正確には、戻すこと自体はできる」

 

奎星が顔を上げる。

 

「は?」

 

スズメの声が鋭くなる。

 

「先輩、それはどういう意味です」

 

眞田は壁に貼られた術式図を一枚外し、机の上へ置いた。

 

「見れば分かる」

 

スズメは紙へ目を落とした。古代文字と現代式の補助記号。三年前、自分も触れていた術式。しかし、目の前のものは、あの頃より遥かに複雑で、先へ進んでいる。

 

「抽出した記憶は、単なる映像ではない」

 

眞田が説明する。

 

「感情、認識、関連する人物、時間、感覚。すべてが繋がっている」

 

スズメの指が一箇所で止まった。

 

「ここ。復帰時の接続先」

 

「やはり、君は早い」

 

奎星が二人のあいだへ割り込む。

 

「どういうこと?」

 

スズメは術式から目を離さずに答えた。

 

「記憶は、単純に元の場所へ戻せばいいわけではありません」

 

「何で?」

 

「人間は、記憶を失ったあとも生き続けるからです」

 

奎星は黙った。

 

相原のことが頭に浮かぶ。記憶を失ったあとも、彼女は生きていた。友達と話し、旅行へ行き、喧嘩をし、失ったものを知らないまま新しい時間を積み重ねていた。

 

「記憶を失った瞬間から現在まで、新しい記憶が作られている」

 

スズメの声が小さくなる。

 

奎星の胸が冷えた。

 

観測塔で握った手。魔法省での会話。相原と再会した帰り道。授業。研究室で飲んだ冷めた茶。高速道路で笑ったこと。今日までのすべてが、一月一日以後に作られた記憶だった。

 

「古い記憶を戻すと、それがどうなるの?」

 

奎星が訊く。

 

スズメは答えられなかった。

 

眞田が代わりに言う。

 

「境界が壊れる可能性がある」

 

「境界?」

 

「一月一日以前の烏丸と、一月一日以後の烏丸。その二つの認識が衝突する」

 

眞田は術式図の二本の線を指で重ねた。

 

「人間の精神は、空の箱ではない。記憶を失ったあとも、新しい記憶は欠けた状態を前提に整理されていく。そこへ半年分の記憶を強制的に戻せば、過去と現在の認識が競合する」

 

「競合すると?」

 

「同じ出来事に対して異なる認識が生まれる。人物への感情も、自分自身の認識も変わる」

 

眞田は一度言葉を切った。

 

「最悪の場合、記憶の混線、新しい記憶の損傷、人格認識の断裂が起きる。どちらを自分と認識するのか、分からなくなる可能性もある」

 

奎星の耳から音が遠ざかった。

 

数日前、夕暮れの教師寮で、スズメが怯えた顔で話していた。

 

――もし、以前の記憶が戻ったら。

 

――今の私は、どうなるのでしょうか。

 

――過去の私の気持ちのほうが、ずっと強かったら。

 

――今の私は、いなくなるのでしょうか。

 

奎星は目の前の硝子玉を見る。

 

ずっと欲しかった。取り戻したかった。絶対に戻す、必ず返すと、何度も言ってきた。相原にも約束した。

 

それなのに、今は「戻せ」と言えない。

 

手を伸ばせば届く場所に、スズメの失われた記憶がある。自分が愛していると伝えたことも、彼女がそれを聞いていたことも、クリスマスに腕時計を渡したことも、すべて戻るかもしれない。

 

だが、その代わりに失うかもしれない。

 

観測塔で自分の手を握ったスズメ。相原と会い、過去の自分を知ろうとしたスズメ。自分に惹かれていったのかもしれないと話したスズメ。高速道路で声を上げて笑ったスズメ。

 

今、隣にいる彼女が消えるかもしれない。

 

「……」

 

奎星は何も言えなかった。

 

戻してほしい。その言葉は、喉まで出かかっているのに、どうしても声にならない。

 

スズメは硝子玉を見つめていた。顔が白い。

 

眞田が静かに言う。

 

「だから、君が必要なんだ」

 

奎星が顔を上げる。

 

「……俺?」

 

「蓮根君。君が最後の鍵だ」

 

 

眞田は机の上へ新しい資料を広げた。

 

神代冥司、マホウトコロ、霊脈、認識干渉。黒曜の環の関係者六人から抜き取った記憶。それらを繋ぎ合わせるように、何枚もの資料が並べられている。

 

その中央に、大きく書かれていた。

 

《星帰り》

 

奎星の目が変わる。

 

「……これ」

 

「神代冥司が使った術式は、驚くほど完成されていた」

 

眞田が言った。

 

「学校全体の人間へ、共通した認識を干渉させる術式だ」

 

「だから黒曜のやつらから記憶を取ったのか?」

 

「そうだ」

 

奎星の顔が険しくなる。

 

眞田は構わず続けた。

 

「認識と記憶は別物だが、完全に切り離すこともできない」

 

スズメが資料へ目を落とす。

 

「神代の術式は、人間そのものの記憶を書き換えたわけではない。既存の記憶へ、別の認識を被せた」

 

「その通り」

 

奎星が口を挟む。

 

「で?」

 

眞田は《星帰り》の文字を指した。

 

「君は、それを戻した」

 

奎星は黙る。

 

「神代に歪められた認識を」

 

「俺だけじゃない」

 

「分かっている」

 

眞田は頷いた。

 

「霊脈へ入る道を作った人間、守った人間、作戦を組み立てた人間。全員が必要だった」

 

そして、奎星を見る。

 

「だが、最後に霊脈へ流れたのは、君の守護霊だ」

 

銀の鴉。

 

「君自身の記憶と感情から作られた精神魔法。既にある人間の認識を壊さず、外部から流れ込んだ異物だけを剥がした」

 

スズメの指が止まる。

 

「……守護霊」

 

「君は、認識を戻した」

 

奎星は眉を寄せる。

 

「俺、そんなこと考えてねえよ」

 

「だから欲しい」

 

「は?」

 

「君は術式を理解して行ったわけではない。それでも成功した」

 

眞田の目に、初めて強い興味が浮かんだ。

 

「君の魔法は、理論を先に理解して再現したものではない。君自身が、人間の心へ何を戻し、何を残すべきかを選んだ」

 

奎星には、まだ意味が分からない。

 

しかし、スズメには少しずつ見えてきていた。

 

三年前の術式。神代の認識干渉。星帰り。眞田が積み重ねてきた研究。そのすべてが、一本の線で繋がろうとしている。

 

「先輩」

 

スズメが術式図へ指を置いた。

 

「まさか」

 

「分かった?」

 

「星帰りのとき、蓮根君が霊脈の中で行った認識の再接続を、記憶の再定着へ転用するつもりですか」

 

眞田は頷いた。

 

「その通りだ」

 

奎星が二人を見る。

 

「待って。俺だけ分かってない」

 

スズメが奎星へ向き直る。

 

「蓮根君。理論上は、可能性があります」

 

奎星の目が大きくなる。

 

「戻せるの?」

 

「可能性です」

 

「でも!」

 

「最後まで聞いてください」

 

「はい」

 

スズメは資料へ目を戻した。

 

「記憶をそのまま押し込むのではなく、現在の自分を維持したまま、外部にある記憶を本人の精神へ再び接続する。星帰りで蓮根君の守護霊が行ったことと、構造は似ています」

 

「じゃあ、やれば――」

 

「理論上は、です」

 

スズメが遮った。

 

「人間一人の記憶へ使った実例はありません」

 

眞田が言う。

 

「だから、ここから先が必要なんだ」

 

奎星が眞田を見る。

 

「何が?」

 

「君の記憶だ」

 

空気が変わった。

 

「星帰り作戦の最中、霊脈へ守護霊を流したとき、何を見て、何を感じ、どのように神代の干渉を押し返したのか。その部分だけでいい」

 

奎星の顔がゆっくり歪む。

 

「一月一日」

 

「そうだ」

 

「俺から、その記憶を抜くつもりだったのか」

 

眞田は、はっきりと答えた。

 

「スズメちゃんじゃなくて?」

 

「烏丸は予定外だった」

 

奎星の目つきが変わる。

 

「あの夜、君から星帰りに関する記憶だけを抽出する予定だった」

 

「電車を脱線させて?」

 

「逃げられないようにする必要があった」

 

「人が死んでたかもしれねえだろ!」

 

「結果として死者は出なかった」

 

「結果の話をしてんじゃねえ!」

 

奎星が机を叩いた。硝子玉が僅かに揺れ、ちん、と音を立てる。その音が、怒りをさらに煽った。

 

「お前、何人巻き込めば気が済むんだよ!」

 

眞田は奎星を見た。

 

「全員を戻すまでだ」

 

静かで、迷いのない答えだった。

 

 

しばらく、誰も口を開かなかった。

 

スズメは机の上の資料を見つめている。眞田の研究には、三年前に自分が書いた式の上へ、何層もの新しい線が加えられていた。

 

認めたくなくても、研究は進んでいる。

 

抽出の精度も、固定の技術も、対象範囲の制御も、三年前にはできなかったところまで完成している。そこへ星帰りの原理を加えれば、記憶を戻せる可能性は確かにあった。

 

しかし。

 

「先輩」

 

スズメが顔を上げた。

 

「この再定着術式には、現在の記憶を保護する式が足りません」

 

眞田は少し目を細めた。

 

「やはり、君はそう見るか」

 

「見れば分かります」

 

「僕もそう考えている」

 

「では」

 

スズメの声が強くなる。

 

「使えません」

 

眞田は黙った。

 

奎星もスズメを見る。

 

「この状態で記憶を戻せば」

 

スズメは硝子玉へ目を向けた。

 

「過去の記憶と現在の記憶、どちらが優先されるか分かりません」

 

「成功する可能性もある」

 

「可能性では駄目です」

 

「危険があることは分かっている」

 

「なら、人へ使う段階ではありません」

 

沈黙が落ちた。

 

その言葉は、三年前と同じだった。

 

記録局の研究室。相原の事故。青ざめた眞田。研究を止めるべきだと訴えたスズメ。それでも続けようとした眞田。

 

三年が経ち、場所も術式も変わった。それでも、二人は同じ場所で、逆の答えを出している。

 

「……烏丸」

 

眞田が呼ぶ。

 

「はい」

 

「三年前と同じだね」

 

スズメは眞田を見た。

 

「そうですね」

 

「君は何も変わらない」

 

スズメは首を横に振った。

 

「変わりました」

 

眞田の目が僅かに動く。

 

「三年前は、失敗したから怖くて止まりました」

 

「……」

 

「今は違います」

 

スズメは奎星を見る。

 

「戻したいです。私も、自分の記憶を取り戻したい。相原さんの記憶も、ここにある他の人たちの記憶も、戻せるなら全部戻したい」

 

壁一面の硝子玉へ目を向ける。

 

「だからこそ、安全に戻せるまで使いません」

 

眞田は黙っている。

 

スズメの声は静かだった。

 

「失ったものを取り戻すために、今あるものまで壊すのは違います」

 

奎星が顔を上げる。

 

スズメは硝子玉を見つめていた。その中には、失われた半年がある。自分と奎星が過ごした時間も、そこに閉じ込められている。

 

しかし、今も隣には奎星がいる。

 

「私は」

 

スズメは小さく息を吸った。

 

「今の私も、失いたくありません」

 

奎星の目が揺れた。

 

眞田は何も言わない。

 

その横で、奎星が一歩前へ出た。机の上の硝子玉とスズメのあいだに立つ。

 

「俺も」

 

スズメが見る。

 

奎星は眞田へ向き直った。

 

「今はやらない」

 

「蓮根君」

 

「戻してほしいよ」

 

声が少し震える。

 

「めちゃくちゃ戻してほしい。ずっと、それしか考えてなかった」

 

一月一日。どちら様ですか。

 

あの日から、ずっと。

 

「でも」

 

奎星はスズメを見る。

 

「今のスズメちゃんがいなくなるかもしれないなら、今はやらない」

 

眞田が目を細める。

 

「君は、中にある記憶が欲しくないのか」

 

「欲しいって言ってんだろ!」

 

「なら」

 

「両方欲しいんだよ!」

 

奎星の声が部屋に響く。

 

「昔のスズメちゃんも、今のスズメちゃんも! どっちか片方をなくして、戻ったことにすんな!」

 

スズメの目が大きくなる。

 

奎星は気づかない。

 

眞田の表情から、僅かに温度が消えた。

 

「……欲張りだね」

 

「うるせえ。俺はそういうの、だいたい全部欲しいんだよ!」

 

スズメが小さく息を吐く。緊張しているはずなのに、ほんの一瞬だけ笑いそうになった。

 

「そこは否定できませんね」

 

「何で!?」

 

「今、否定する場面ですか?」

 

「味方してよ!」

 

「味方しています」

 

そのやり取りを、眞田はじっと見ていた。

 

そして、静かに言った。

 

「でも、進めなければならない」

 

二人の表情から笑みが消える。

 

「先輩」

 

「ここまで来た。固定は完成した。抽出範囲も制御できる。神代冥司の認識干渉も得た」

 

眞田は奎星を見る。

 

「あと一つで、記憶を戻せる」

 

「君の星帰りだ」

 

奎星は黙った。

 

眞田は壁の硝子玉を指す。

 

「成功すれば、全部戻せる。相原美里も、烏丸も、黒曜の六人も、この施設にある全員も」

 

その言葉は強かった。

 

あまりにも強い。

 

成功すれば、全員が戻る。相原が親友と出会った記憶も、母親と過ごした祭りも、誰かが積み重ねてきた技術も、誰かの人生も。

 

眞田は、そのために三年間を費やしてきた。

 

「危険はある」

 

眞田は認めた。

 

「今の烏丸の記憶へ影響が出る可能性もある」

 

「なら――」

 

「でも、やるべきだ」

 

スズメの言葉を遮る。

 

「成功すれば、全員へ応用できる」

 

眞田の目は本気だった。

 

「失敗しても、データは残る」

 

奎星の顔が止まる。

 

スズメの目から温度が消えた。

 

「……何だよ、それ」

 

「失敗しても?」

 

「次へ繋がる」

 

「スズメちゃんがどうなるか分かんねえのに?」

 

「だからこそ、観測する」

 

「ふざけんな」

 

「蓮根君」

 

「ふざけんなよ!」

 

眞田の声は変わらない。

 

「ここで止めれば」

 

スズメの表情が変わる。次に何を言うのか、分かっていた。

 

「今までの犠牲が、無駄になる」

 

三年前と同じ言葉だった。

 

スズメは眞田を見る。

 

三年前、尊敬していた先輩。事故のあと、青ざめて謝罪し、相原の見舞いへ行った男。その男が、三年経った今も同じ答えを選ぼうとしている。

 

「三年前」

 

スズメが静かに言った。

 

「あなたは、同じことを言いました」

 

「覚えているよ」

 

「私は」

 

スズメは杖をゆっくり持ち上げた。

 

「同じ答えです」

 

眞田が見る。

 

「まだ、人へ使う段階ではありません」

 

「……」

 

「止めます」

 

眞田は目を閉じた。ほんの一秒。二秒。それから、ゆっくりと目を開く。

 

「そうか」

 

その声は、少しだけ悲しそうだった。

 

「君なら、分かってくれると思った」

 

スズメは首を横に振る。

 

「三年前も」

 

杖を構える。

 

「今も」

 

眞田をまっすぐ見据える。

 

「分かりません」

 

眞田はしばらくスズメを見ていた。

 

やがて、机の上の硝子玉へ視線を落とし、その隣に置かれた自分の杖へ手を伸ばす。

 

奎星の神代榊が即座に上がった。

 

「触るな」

 

眞田の手が止まる。

 

「蓮根君」

 

「何」

 

「君の記憶が必要なんだ」

 

「断る」

 

「ほんの一部分だ」

 

「断る」

 

「失われない」

 

奎星の目が鋭くなる。

 

「保存する?」

 

眞田は答えない。

 

「それ、もう聞いた」

 

スズメも杖を構えた。

 

眞田は二人を見る。

 

「残念だ」

 

ゆっくりと杖を取る。

 

「なら」

 

魔力が広がった。

 

床に刻まれた古代文字が一斉に光り、部屋の空気が震える。

 

スズメの表情が変わる。

 

「蓮根君!」

 

「分かってる!」

 

奎星は神代榊を眞田へ向けた。眞田も杖先を奎星へ向ける。

 

「協力してもらう」

 

その言葉が終わる前に、眞田の杖先へ見覚えのある銀白色の光が集まり始めた。

 

一月一日。

 

あの夜の光。

 

《ダムナティオ・メモリアエ》。

 

奎星の目が一気に鋭くなる。

 

「させるかよ!」

 

眞田の杖が振られた。

 

同時に、奎星も神代榊を振り抜く。

 

「ステューピファイ!」

 

赤い閃光と銀白色の光が、部屋の中央で真正面から激突した。

 

轟音が響き、机が吹き飛ぶ。紙が宙へ舞い上がり、壁の術式図が何枚も剥がれ落ちた。

 

その中で、透明な硝子玉だけが台座の上に残っている。

 

ちん。

 

小さな音が鳴った。

 

スズメが杖を上げる。眞田の足元で古代文字が一斉に発光した。

 

奎星が前へ出る。

 

眞田大。記憶を保存する男。その研究を止めようとする、三年前の後輩。そして、彼女の記憶を取り戻したい少年。

 

三年間止まらなかった研究は、ついに杖を向け合うところまで来た。

 

戦いが始まった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。