錆びついた門を抜けると、建物の正面へ向かって、ひび割れた石畳が伸びていた。
三年前まで使われていた研究施設だと聞かされていたが、灰色の外壁に絡みついた蔦や、割れた窓から入り込んだ枯葉を見れば、ここが長いあいだ人の手を離れていたことは明らかだった。入口脇の看板も文字の大半が剥がれ落ち、かろうじて《古代術式実証》という部分だけが残っている。
真壁が杖を抜いた。
「全員、ここからは声を落とせ」
車内で斎賀に昔話を暴露されていたときとは、まるで別人だった。斎賀も笑みを消し、御影は無言のまま建物の二階を見上げている。倉橋、風間、葛城の三人は、互いの視界を確保するように自然と左右へ散った。
奎星も神代榊を抜く。隣では、スズメが古びた建物をじっと見つめていた。
「覚えてる?」
奎星が小声で訊くと、スズメは少しだけ目を細めた。
「はい。三年前に来たときとは、かなり変わっていますが」
「どんな場所だった?」
「普通の研究施設でしたよ」
「普通?」
「少なくとも、今のような廃墟ではありませんでした。記録局や研究部門の人間が、必要なときに使用していた程度ですが、設備も動いていましたし、ここまで荒れてはいませんでした」
スズメの言葉を聞きながら、奎星は正面の扉へ目を向けた。扉は閉じている。真壁は取っ手へ触れる前に杖を振り、扉の表面へ淡い光を走らせた。
「魔力反応、呪詛、接触型術式、転移術式……複数の痕跡があります」
御影が訊く。
「罠は?」
「少なくとも、入口にはない」
「少なくとも、か」
斎賀が嫌そうに呟いた。
「嫌な言い方するねえ」
「捜査では当然だ」
「征士郎、車を降りた途端、いつもの十倍くらい固くなったな」
「黙れ」
真壁は扉へ手を掛け、ゆっくりと押し開けた。錆びた蝶番が長く軋み、冷たい空気が建物の中から流れ出してくる。
埃と古い紙、それから金属の匂い。その奥に、魔法を使った直後のような、わずかに焼けた空気が混じっていた。
御影の目が細くなる。
「無人じゃないな」
真壁も頷いた。
「最近、何かが動いている」
全員の杖が上がる。八人は互いの距離を保ったまま、静かに施設の中へ入った。
*
玄関を抜けると、広い廊下が奥へ伸びていた。床には厚く埃が積もっている。しかし、その上には複数の足跡が残っていた。新しいものと古いものが混じり、靴底の形も一つではない。
「眞田一人じゃない?」
奎星が訊く。
真壁はしゃがみ込み、足跡の縁を指先で確認した。
「断定はできない。施設へ出入りしていた時期が違うだけかもしれない」
斎賀は壁へ顔を向けた。
「魔力の流れは奥だな」
「分かるのか?」
「黒曜にいた頃、こういう閉鎖施設は嫌になるほど使ったからな」
「自慢するな」
「してねえよ」
真壁が立ち上がると、スズメは廊下の先を見ながら口を開いた。
「以前は、右へ進むと資料室、左側に小規模な実験室が三つありました。さらに奥が、大型術式用の実証室です」
「眞田に連れてこられたのも、そこ?」
奎星が訊く。
「はい。ただし、地下については知りません」
「地下があるの?」
「当時の施設図にはありませんでした」
真壁が反応した。
「当時の、ということは?」
「現在の図面には、地下区画が記載されている」
真壁は懐から折り畳んだ紙を取り出した。魔法省で確認してきた施設資料だった。
「閉鎖直前の改修記録に、地下区画増設の申請が残っている。ただし、完成報告はない」
斎賀が苦笑する。
「完成報告がないだけで、作ってねえとは限らない」
「同感だ」
一行はさらに奥へ進んだ。
誰もいない。人の気配もない。それなのに、時折、どこか遠くから小さな音が聞こえてくる。
ちん。
硝子が触れ合うような音だった。
奎星の足が止まる。
「……今の、聞こえた?」
スズメも立ち止まった。
「はい」
ちん。
もう一度、音が響く。
その瞬間、奎星の脳裏に一月一日の光景が蘇った。走行中の列車、黒いフード、男の指輪、そして掌の上に浮かんだ透明な球。
神代榊を握る手に力がこもる。
「この音だ」
誰も冗談を言わなかった。
真壁が先頭へ出る。廊下の突き当たりには、大きな両開きの扉があった。鍵は掛かっていない。
真壁が御影を見る。御影は短く頷いた。
倉橋、風間、葛城が後方を警戒し、斎賀が左、御影が右につく。真壁が取っ手を押すと、扉は抵抗なく開いた。
そして、八人全員が息を呑んだ。
そこは、普通の研究室ではなかった。
天井の高い円形の部屋。その中央には黒い石の台座があり、上には両手で抱えられるほど大きな透明の硝子球が置かれている。内部には何もないように見えるが、球の中心では、ごく淡い光が脈打っていた。
しかし、目を奪われたのは中央の球ではない。
壁一面に並んだ棚だった。
床から天井まで伸びた棚のすべてに、透明な硝子玉が収められている。一つ、二つ、十、二十。数えようとしても、途中で意味を失うほどの数だった。
右の壁にも、左の壁にも、奥の壁にも、硝子、硝子、硝子。大きさは一つずつ違い、内部には銀色の糸のような光が浮かんでいる。淡い青、薄い金、ほとんど透明なもの。中には、光が脈打つたびに、文字や景色、人の顔のような形を作っては消すものもあった。
「……おい」
斎賀の声から、いつもの軽さが消えていた。
奎星は、壁を見渡したまま呟く。
「これ、全部……」
誰も答えなかった。
スズメが棚の一つへ近づきかける。真壁が腕を伸ばして止めた。
「触らないでください」
「はい」
真壁自身も、硝子玉から目を離せずにいた。
魔法省が把握している被害者数。一般社会側から寄せられた相談。黒曜の環の関係者六名。それだけでは、この部屋に並ぶ硝子玉の数を説明できない。
明らかに多すぎる。
「ニュースで言ってた数より……」
奎星の声が掠れた。
「ずっと多くない?」
「多い」
真壁は短く答えた。その一言だけで、事態の重さは十分に伝わった。
倉橋が棚を見渡す。
「すべてが一人分とは限りません」
「そうだ」
真壁は頷いた。
「だが、それを考慮しても異常だ」
スズメは、一つの硝子玉を見つめていた。内部の銀色の糸が揺れ、何かの形を作っては消えていく。文字にも、景色にも、顔にも見える。ただの錯覚かもしれない。それでも、スズメの声は震えていた。
「記憶……」
奎星が彼女を見る。
「やっぱり?」
「断定はできません。ですが、魔力反応が一月一日に生成された球と似ています」
奎星の目が鋭くなる。
「あいつ……」
その瞬間、部屋全体に声が響いた。
『来たね』
全員の杖が一斉に上がる。
声の出所が分からない。天井から聞こえたようでもあり、壁の奥から響いたようでもあった。魔法によって、部屋そのものが声を発している。
奎星が叫ぶ。
「眞田!」
返事は数秒遅れて返ってきた。
『蓮根奎星』
落ち着いた男の声だった。若くも老いてもいない。スズメの表情が変わる。知っている声だった。
『それから……烏丸』
呼びかけるときだけ、声がほんの少し柔らかくなる。
スズメの指が杖を強く握った。
「……眞田先輩」
『久しぶりだ』
三年も会っていなかったとは思えないほど、普通の声だった。記録局で資料の読み方を教えてくれたときも、分からない古代文字を尋ねたときも、勤務後に食事へ誘われたときも、眞田は同じ声で話していた。
その声が今、壁一面の硝子玉の中から聞こえている。
「どこにいるんですか」
『奥だ』
「姿を見せてください」
『その前に、蓮根奎星と烏丸の姿を見せてくれ』
御影が奎星の前へ半歩出た。
「何をする気だ」
返事はない。
『蓮根奎星』
今度は奎星へ。
『烏丸』
そしてスズメへ。
『二人で前へ』
真壁が即座に制した。
「動くな」
奎星もスズメも足を止める。
真壁は中央の硝子球へ杖を向けた。
「こちらから条件を出す。まず姿を見せろ」
『真壁征士郎。君も来ると思っていたよ』
「なら話は早い。ここで話せ」
『それでは意味がない』
「何の意味だ」
短い沈黙のあと、眞田の声が返ってきた。
『僕が呼んだのは、その二人だ』
声が途切れ、部屋に静寂が戻る。
奎星は真壁を見る。
「真壁さん」
「駄目だ」
「でも」
「罠だと言っただろう」
「ここまで来て、何もせずに帰れるわけ――」
「蓮根君」
低い声に遮られ、奎星は口を閉じた。
真壁の言うことは正しい。分かっている。それでも、壁の硝子玉のどこかに人々の記憶がある。さらに奥には、スズメの記憶がある。
そのとき、スズメが一歩前へ出た。
「烏丸先生」
真壁が呼ぶ。
「私が呼ばれています」
「だからこそです」
「ですが、このままでは何も分かりません」
「相手の目的も分からない」
「はい」
「危険です」
「分かっています」
スズメは一度、奎星を見た。奎星も彼女を見る。
二人のあいだに、言葉は必要なかった。
奎星は神代榊を握り直し、スズメとほとんど同時に中央へ一歩踏み出した。
「蓮根君!」
真壁の声が響く。
次の瞬間、中央の硝子球が強く光った。
床に銀色の円形術式が浮かび、瞬く間に部屋全体へ広がる。
「下がれ!」
御影が叫んだ。
しかし、間に合わなかった。
透明な壁が床から噴き上がり、奎星とスズメのいる場所と、残る六人のあいだを完全に隔てた。
「スズメちゃん!」
奎星が振り返る。
「蓮根君!」
すぐ隣にスズメがいる。透明な壁の向こうには、御影、真壁、斎賀、倉橋、風間、葛城がいた。
「くそっ!」
倉橋が杖を上げる。
「待て!」
真壁の怒声が飛ぶ。
「撃つな!」
「でも!」
「撃つな!」
御影もすでに杖を構えていたが、真壁の言葉を聞いて攻撃を止めた。
真壁は透明な壁へ近づき、触れずに杖先から細い魔力を流す。
結界が反応した。
その瞬間、壁一面の硝子玉が一斉に鳴った。
ちん。
真壁の顔が変わる。
彼はもう一度、ごく僅かな魔力だけを結界へ流した。棚の硝子玉が揺れ、内部の銀色の光が一斉に波打つ。
斎賀が息を呑んだ。
「……マジかよ」
奎星が透明な壁越しに叫ぶ。
「何が!?」
真壁はすぐには答えなかった。中央の球、結界、棚の硝子玉。それぞれの魔力の流れを目で追い、ようやく顔を上げる。
「この結界を攻撃するな」
御影が訊く。
「理由は」
「衝撃を逃がす先が、結界そのものではない」
斎賀が棚を見る。
「硝子玉か」
「そうだ」
真壁の声が重くなる。
「結界へ一定以上の干渉を加えれば、その負荷が棚へ分散する」
奎星の目が見開かれた。
「……割れる?」
真壁は答えたくなかった。しかし、嘘をつくこともできない。
「可能性が高い」
壁に並ぶ無数の硝子玉。その一つ一つに、人の記憶が入っているかもしれない。すべてが人質だった。
御影は結界を見つめた。
力ずくで壊すことは、おそらくできる。御影なら、斎賀なら、真壁なら、三人で力を合わせれば、この程度の結界を破壊すること自体は難しくない。
だが、その瞬間、何人分の記憶が砕けるのかは分からない。
斎賀が舌打ちした。
「性格悪ぃな、あいつ」
真壁は結界の端へ走った。
「別経路を探す。倉橋君、風間君、葛城さんは左右へ。玄弥は中央球の接続を見ろ。玄一郎――」
真壁が振り返る。
しかし、御影は指示を聞いていなかった。
透明な壁の向こうにいる奎星を見ていた。
奎星も御影を見る。
数か月前なら、御影は迷わず止めていただろう。お前は生徒だ。下がれ。勝手に動くな。俺の後ろにいろ。そう言ってきた。
奎星はまだ十七歳で、経験も足りない。御影より弱い。真壁より弱い。斎賀より弱い。それは何も変わっていない。
それでも、御影玄一郎は奎星の目を見た。
そこには怒りがある。怖さもある。スズメの記憶を取り戻したいという焦りもある。
だが、もう怒りだけで杖を振る少年ではない。
御影は、短く言った。
「行け」
奎星の目が僅かに見開かれる。
「玄一郎!」
真壁が振り返った。
御影は奎星から目を逸らさない。それ以上、何も言わなかった。
奎星は数秒、御影を見つめた。そして、小さく頷く。
「……うん」
スズメが奎星を見る。
奎星は神代榊を握り直した。
「行こう」
「はい」
二人は透明な壁へ背を向け、部屋の奥にある扉へ向かった。
その向こうでは、真壁が何かを叫び、斎賀が結界の構造を調べている。御影はもう何も言わない。
十メートル。
二十メートル。
奎星は一度だけ振り返った。
透明な壁の向こうに、まだ御影たちがいる。御影も奎星を見ていた。
それだけで十分だった。
奎星は前を向き、スズメとともに角を曲がった。今度こそ、互いの姿は見えなくなった。
*
廊下の奥は、先ほどまでとは明らかに違っていた。
床に埃はなく、壁に取り付けられた魔法灯も生きている。古代文字と現代式の配線を組み合わせた術式が壁を走り、淡い光を規則正しく明滅させていた。
ここだけは、今も使われている。
奎星は歩きながら口を開いた。
「御影先生、止めなかった」
スズメが少しだけ奎星を見る。
「そうですね」
「……何か、変な感じがする」
「怖いですか」
「それもある」
奎星は前を見たまま続けた。
「でも、行けって言われたから」
「はい」
「行く」
スズメは何も言わず、ほんの少しだけ奎星の隣へ近づいた。二人の足音が、静かな廊下に重なって響く。
やがて突き当たりに、一枚の扉が現れた。扉の前の床には古代文字で円が描かれている。しかし、近づいても罠は作動しなかった。扉には鍵すら掛かっていない。
奎星がスズメを見る。
スズメは頷いた。
奎星は取っ手を掴み、ゆっくりと扉を開いた。
*
その部屋は、外の廃墟からは想像できないほど整えられていた。
本棚には資料が並び、机の上には魔法具と羊皮紙が置かれている。壁には数え切れないほどの術式図が貼られ、その多くに《記憶》《認識》《精神》《外部媒体》という言葉が書き込まれていた。
部屋の奥には大きな窓があり、冬の山々が見える。その窓の前に、一人の男が立っていた。
背が高く、黒い服を着ている。一月一日の夜とは違い、フードは被っていない。三十代前半ほどに見える、整った短い髪と細い目。特別に恐ろしい顔ではなかった。むしろ、穏やかで、どこにでもいそうな普通の男だった。
スズメの足が止まる。
男が振り返り、彼女を見る。そして、ほんの少し笑った。
「久しぶりだね、烏丸」
スズメの顔が強張る。
「……眞田先輩」
眞田大。
名前と顔が一致した。
奎星は一月一日の夜、男の顔を見ていない。それでも、分かった。こいつだ。
眞田の視線が奎星へ移る。
「君が蓮根奎星君だね」
奎星は答えなかった。神代榊を握ったまま、眞田を睨みつける。
眞田はその杖を見ても、顔色一つ変えなかった。
「初めまして」
「初めましてじゃねえだろ」
眞田が少しだけ目を細める。
「そうか」
「一月一日。電車。あれ、お前だろ」
沈黙が落ちた。
眞田は否定しなかった。
「そうだ」
奎星の目つきが変わり、杖が僅かに上がる。
「蓮根君」
スズメがすぐ横から呼びかけた。
奎星は止まった。杖は下げない。しかし、撃つこともしなかった。
眞田はその様子を静かに見ている。
「ずいぶん信頼されているんだね」
「黙れ」
「蓮根君」
「……はい」
眞田は小さく息を吐いた。
「三年前より、ずいぶん賑やかな後輩になった」
スズメの眉が動く。
「私の教え子です」
「そうらしい」
眞田は机へ向かった。
「手紙を読んでくれてありがとう」
奎星が言う。
「呼んだんだから説明しろ」
「そのつもりだ」
「全部」
「全部?」
「三年前から、今までのことを全部だ」
奎星は壁の資料へ目を向けた。
眞田はしばらく彼を見つめ、それから椅子には座らず、机の縁へ手を置いた。
「いいだろう」
*
「始まりは三年前だ」
眞田は、壁に貼られた古い術式図へ目を向けた。
「僕と烏丸は、記憶に関する古代魔術を調べていた。当時の僕たちは、記憶を一度人間の外へ出し、別の媒体へ固定し、必要に応じて本人へ戻す技術だと考えていた」
スズメは黙って聞いている。自分もそこにいた。あの頃の研究室の匂いも、机の上に積まれた資料も、今でも覚えている。
「理論は間違っていなかった」
スズメの目が細くなる。
「相原さんの記憶が失われました」
「分かっている」
「それでも、間違っていなかったと言うんですか」
眞田は少し首を横に振った。
「術式の目的についてだ」
「抽出は起きた」
眞田は三年前の術式図へ目を向ける。
「問題は二つあった。固定先と、対象範囲だ」
奎星が呟く。
「固定先と対象範囲……」
眞田が奎星を見る。
「知っているんだね」
「スズメちゃんの日記で見た」
「そうか」
眞田は、ほんの少し懐かしそうに笑った。
「烏丸は昔から、よく書く人だった」
「そこはどうでもいい」
「蓮根君」
「今はよくね?」
スズメは一瞬だけ黙り、それから静かに言った。
「……続けてください」
眞田の口元から笑みが消える。
「固定できなかった記憶がどこへ行ったのかは分からない。抽出範囲も制御できず、相原さんから複数の記憶が不規則に失われた」
眞田は淡々と続けた。
「だから僕は研究を続けた」
スズメの目が変わる。
「三年間?」
「ああ」
「一人で?」
「最初は」
眞田は部屋を見渡した。
「途中から、必要な知識を集めた」
奎星は壁一面の硝子玉を思い出した。
「……集めた?」
「そうだ」
「人から?」
「そうだ」
短い答えだった。
「黒曜のやつらも?」
「六人」
「一般人も?」
「含まれる」
奎星の拳が震える。
「何で」
「必要だったからだ」
「それで人の記憶を取ったのかよ!」
「必要な部分だけだ」
「同じだろ!」
奎星の怒声が部屋に響く。
眞田は声を荒らげなかった。
「暗号化技術。記憶を固定媒体へ保存する際、複数の情報が混線しないために必要だった。特殊な計測設備の構造。魔力媒体内部の状態を破壊せず観測する方法。古い文献の復元に必要な一節。彼らの記憶がなければ、研究は進まなかった」
「だから何だよ」
「三年前にできなかったことが、今はできる」
眞田は壁に貼られた術式図を指した。
《抽出》《固定》《範囲指定》。
奎星は、以前スズメと研究室で並べた資料を思い出した。二〇二四年、固定は失敗し、対象範囲は制御不能だった。だが、二〇二七年の術式には、確かにその二つが組み込まれている。
「……全部、実験に使ったのか」
「実験?」
「人間を!」
神代榊が上がる。
今度はスズメも止めなかった。
眞田は動かない。
「彼らの記憶は失われていない」
「は?」
「消してはいない」
眞田は、はっきりと言った。
「保存している」
奎星の顔が歪む。
「人間の記憶は、失えば二度と同じものを作れない。だから僕は、一つも消していない。必要な情報だけを抜き出し、硝子へ固定した」
「それを奪ったって言うんだろ!」
「本人が困ってんだぞ! 家族と話せなくなって、仕事もできなくなって、自分だけ何も覚えてなくて。それで保存してるからいいって言うのかよ!」
「いいとは言っていない」
「同じだろ!」
「違う」
眞田の声は静かだった。
「失われることと、保存されることは違う」
「本人の中にねえなら同じだろ!」
奎星の怒鳴り声が部屋を震わせる。
眞田は怒鳴り返さなかった。ただ、机の上へ視線を落とした。
「だから戻す」
奎星の動きが止まる。
スズメの目も、眞田へ向いた。
眞田は机の引き出しへ手を掛けた。
奎星の杖が一気に上がる。
「ゆっくり動け」
「分かった」
眞田は言われた通り、ゆっくりと引き出しを開けた。中から小さな黒い箱を取り出し、机の上へ置く。
蓋が開く。
その瞬間、奎星の呼吸が止まった。
中に入っていたのは、親指より少し大きな透明の硝子玉だった。内部では無数の銀色の糸が絡み合い、淡い光を放っている。
見覚えがある。
一月一日。電車。スズメの掌。男が持ち去ったもの。
奎星の手が震えた。
スズメも動かない。
眞田が言った。
「これが、烏丸から抽出した記憶だ」
奎星の顔から血の気が引く。
目の前にある。
ずっと探していたものが。
補習、水月庵、観測塔、星迎祭、常隠島、星帰り、クリスマス、初詣。スズメと過ごした半年の記憶が、すべてこの小さな球の中にある。
「返せ」
奎星が掠れた声で言った。
眞田は硝子玉へ触れない。
「返すために、君を呼んだ」
「じゃあ返せ!」
「まだ戻せない」
時間が止まったようだった。
奎星はゆっくり眞田を見る。
「……何て?」
「現在の術式では、抽出できる。対象を選べる。硝子へ固定できる。しかし、本人へ安全に戻すことはできない」
奎星の中で、何かが切れた。
「お前ぇぇぇ!!」
神代榊が振り上がる。
「蓮根君!」
スズメが腕を掴んだ。
「離して!」
「駄目です!」
「こいつ、戻せねえのに!」
「分かっています!」
スズメの声も震えていた。怒っている。奎星と同じように。
「ですが、今ここで撃っても何も戻りません!」
奎星は歯を食いしばった。数秒、何十秒と耐え、ようやく杖を少し下げる。
眞田はその様子を見ていた。
「手紙には、君の記憶は失われていない、としか書かなかった」
「……」
「戻せるとは書いていない」
奎星のこめかみに血管が浮く。
「スズメちゃん」
「はい」
「一発だけ殴っていい?」
「駄目です」
「魔法じゃない」
「もっと駄目です」
眞田がほんの僅かに笑った。
「仲がいいんだね」
「黙れ!」
スズメは机へ近づいた。硝子玉を見つめているが、手は伸ばさない。
「戻せない」
「正確には、戻すこと自体はできる」
奎星が顔を上げる。
「は?」
スズメの声が鋭くなる。
「先輩、それはどういう意味です」
眞田は壁に貼られた術式図を一枚外し、机の上へ置いた。
「見れば分かる」
スズメは紙へ目を落とした。古代文字と現代式の補助記号。三年前、自分も触れていた術式。しかし、目の前のものは、あの頃より遥かに複雑で、先へ進んでいる。
「抽出した記憶は、単なる映像ではない」
眞田が説明する。
「感情、認識、関連する人物、時間、感覚。すべてが繋がっている」
スズメの指が一箇所で止まった。
「ここ。復帰時の接続先」
「やはり、君は早い」
奎星が二人のあいだへ割り込む。
「どういうこと?」
スズメは術式から目を離さずに答えた。
「記憶は、単純に元の場所へ戻せばいいわけではありません」
「何で?」
「人間は、記憶を失ったあとも生き続けるからです」
奎星は黙った。
相原のことが頭に浮かぶ。記憶を失ったあとも、彼女は生きていた。友達と話し、旅行へ行き、喧嘩をし、失ったものを知らないまま新しい時間を積み重ねていた。
「記憶を失った瞬間から現在まで、新しい記憶が作られている」
スズメの声が小さくなる。
奎星の胸が冷えた。
観測塔で握った手。魔法省での会話。相原と再会した帰り道。授業。研究室で飲んだ冷めた茶。高速道路で笑ったこと。今日までのすべてが、一月一日以後に作られた記憶だった。
「古い記憶を戻すと、それがどうなるの?」
奎星が訊く。
スズメは答えられなかった。
眞田が代わりに言う。
「境界が壊れる可能性がある」
「境界?」
「一月一日以前の烏丸と、一月一日以後の烏丸。その二つの認識が衝突する」
眞田は術式図の二本の線を指で重ねた。
「人間の精神は、空の箱ではない。記憶を失ったあとも、新しい記憶は欠けた状態を前提に整理されていく。そこへ半年分の記憶を強制的に戻せば、過去と現在の認識が競合する」
「競合すると?」
「同じ出来事に対して異なる認識が生まれる。人物への感情も、自分自身の認識も変わる」
眞田は一度言葉を切った。
「最悪の場合、記憶の混線、新しい記憶の損傷、人格認識の断裂が起きる。どちらを自分と認識するのか、分からなくなる可能性もある」
奎星の耳から音が遠ざかった。
数日前、夕暮れの教師寮で、スズメが怯えた顔で話していた。
――もし、以前の記憶が戻ったら。
――今の私は、どうなるのでしょうか。
――過去の私の気持ちのほうが、ずっと強かったら。
――今の私は、いなくなるのでしょうか。
奎星は目の前の硝子玉を見る。
ずっと欲しかった。取り戻したかった。絶対に戻す、必ず返すと、何度も言ってきた。相原にも約束した。
それなのに、今は「戻せ」と言えない。
手を伸ばせば届く場所に、スズメの失われた記憶がある。自分が愛していると伝えたことも、彼女がそれを聞いていたことも、クリスマスに腕時計を渡したことも、すべて戻るかもしれない。
だが、その代わりに失うかもしれない。
観測塔で自分の手を握ったスズメ。相原と会い、過去の自分を知ろうとしたスズメ。自分に惹かれていったのかもしれないと話したスズメ。高速道路で声を上げて笑ったスズメ。
今、隣にいる彼女が消えるかもしれない。
「……」
奎星は何も言えなかった。
戻してほしい。その言葉は、喉まで出かかっているのに、どうしても声にならない。
スズメは硝子玉を見つめていた。顔が白い。
眞田が静かに言う。
「だから、君が必要なんだ」
奎星が顔を上げる。
「……俺?」
「蓮根君。君が最後の鍵だ」
*
眞田は机の上へ新しい資料を広げた。
神代冥司、マホウトコロ、霊脈、認識干渉。黒曜の環の関係者六人から抜き取った記憶。それらを繋ぎ合わせるように、何枚もの資料が並べられている。
その中央に、大きく書かれていた。
《星帰り》
奎星の目が変わる。
「……これ」
「神代冥司が使った術式は、驚くほど完成されていた」
眞田が言った。
「学校全体の人間へ、共通した認識を干渉させる術式だ」
「だから黒曜のやつらから記憶を取ったのか?」
「そうだ」
奎星の顔が険しくなる。
眞田は構わず続けた。
「認識と記憶は別物だが、完全に切り離すこともできない」
スズメが資料へ目を落とす。
「神代の術式は、人間そのものの記憶を書き換えたわけではない。既存の記憶へ、別の認識を被せた」
「その通り」
奎星が口を挟む。
「で?」
眞田は《星帰り》の文字を指した。
「君は、それを戻した」
奎星は黙る。
「神代に歪められた認識を」
「俺だけじゃない」
「分かっている」
眞田は頷いた。
「霊脈へ入る道を作った人間、守った人間、作戦を組み立てた人間。全員が必要だった」
そして、奎星を見る。
「だが、最後に霊脈へ流れたのは、君の守護霊だ」
銀の鴉。
「君自身の記憶と感情から作られた精神魔法。既にある人間の認識を壊さず、外部から流れ込んだ異物だけを剥がした」
スズメの指が止まる。
「……守護霊」
「君は、認識を戻した」
奎星は眉を寄せる。
「俺、そんなこと考えてねえよ」
「だから欲しい」
「は?」
「君は術式を理解して行ったわけではない。それでも成功した」
眞田の目に、初めて強い興味が浮かんだ。
「君の魔法は、理論を先に理解して再現したものではない。君自身が、人間の心へ何を戻し、何を残すべきかを選んだ」
奎星には、まだ意味が分からない。
しかし、スズメには少しずつ見えてきていた。
三年前の術式。神代の認識干渉。星帰り。眞田が積み重ねてきた研究。そのすべてが、一本の線で繋がろうとしている。
「先輩」
スズメが術式図へ指を置いた。
「まさか」
「分かった?」
「星帰りのとき、蓮根君が霊脈の中で行った認識の再接続を、記憶の再定着へ転用するつもりですか」
眞田は頷いた。
「その通りだ」
奎星が二人を見る。
「待って。俺だけ分かってない」
スズメが奎星へ向き直る。
「蓮根君。理論上は、可能性があります」
奎星の目が大きくなる。
「戻せるの?」
「可能性です」
「でも!」
「最後まで聞いてください」
「はい」
スズメは資料へ目を戻した。
「記憶をそのまま押し込むのではなく、現在の自分を維持したまま、外部にある記憶を本人の精神へ再び接続する。星帰りで蓮根君の守護霊が行ったことと、構造は似ています」
「じゃあ、やれば――」
「理論上は、です」
スズメが遮った。
「人間一人の記憶へ使った実例はありません」
眞田が言う。
「だから、ここから先が必要なんだ」
奎星が眞田を見る。
「何が?」
「君の記憶だ」
空気が変わった。
「星帰り作戦の最中、霊脈へ守護霊を流したとき、何を見て、何を感じ、どのように神代の干渉を押し返したのか。その部分だけでいい」
奎星の顔がゆっくり歪む。
「一月一日」
「そうだ」
「俺から、その記憶を抜くつもりだったのか」
眞田は、はっきりと答えた。
「スズメちゃんじゃなくて?」
「烏丸は予定外だった」
奎星の目つきが変わる。
「あの夜、君から星帰りに関する記憶だけを抽出する予定だった」
「電車を脱線させて?」
「逃げられないようにする必要があった」
「人が死んでたかもしれねえだろ!」
「結果として死者は出なかった」
「結果の話をしてんじゃねえ!」
奎星が机を叩いた。硝子玉が僅かに揺れ、ちん、と音を立てる。その音が、怒りをさらに煽った。
「お前、何人巻き込めば気が済むんだよ!」
眞田は奎星を見た。
「全員を戻すまでだ」
静かで、迷いのない答えだった。
*
しばらく、誰も口を開かなかった。
スズメは机の上の資料を見つめている。眞田の研究には、三年前に自分が書いた式の上へ、何層もの新しい線が加えられていた。
認めたくなくても、研究は進んでいる。
抽出の精度も、固定の技術も、対象範囲の制御も、三年前にはできなかったところまで完成している。そこへ星帰りの原理を加えれば、記憶を戻せる可能性は確かにあった。
しかし。
「先輩」
スズメが顔を上げた。
「この再定着術式には、現在の記憶を保護する式が足りません」
眞田は少し目を細めた。
「やはり、君はそう見るか」
「見れば分かります」
「僕もそう考えている」
「では」
スズメの声が強くなる。
「使えません」
眞田は黙った。
奎星もスズメを見る。
「この状態で記憶を戻せば」
スズメは硝子玉へ目を向けた。
「過去の記憶と現在の記憶、どちらが優先されるか分かりません」
「成功する可能性もある」
「可能性では駄目です」
「危険があることは分かっている」
「なら、人へ使う段階ではありません」
沈黙が落ちた。
その言葉は、三年前と同じだった。
記録局の研究室。相原の事故。青ざめた眞田。研究を止めるべきだと訴えたスズメ。それでも続けようとした眞田。
三年が経ち、場所も術式も変わった。それでも、二人は同じ場所で、逆の答えを出している。
「……烏丸」
眞田が呼ぶ。
「はい」
「三年前と同じだね」
スズメは眞田を見た。
「そうですね」
「君は何も変わらない」
スズメは首を横に振った。
「変わりました」
眞田の目が僅かに動く。
「三年前は、失敗したから怖くて止まりました」
「……」
「今は違います」
スズメは奎星を見る。
「戻したいです。私も、自分の記憶を取り戻したい。相原さんの記憶も、ここにある他の人たちの記憶も、戻せるなら全部戻したい」
壁一面の硝子玉へ目を向ける。
「だからこそ、安全に戻せるまで使いません」
眞田は黙っている。
スズメの声は静かだった。
「失ったものを取り戻すために、今あるものまで壊すのは違います」
奎星が顔を上げる。
スズメは硝子玉を見つめていた。その中には、失われた半年がある。自分と奎星が過ごした時間も、そこに閉じ込められている。
しかし、今も隣には奎星がいる。
「私は」
スズメは小さく息を吸った。
「今の私も、失いたくありません」
奎星の目が揺れた。
眞田は何も言わない。
その横で、奎星が一歩前へ出た。机の上の硝子玉とスズメのあいだに立つ。
「俺も」
スズメが見る。
奎星は眞田へ向き直った。
「今はやらない」
「蓮根君」
「戻してほしいよ」
声が少し震える。
「めちゃくちゃ戻してほしい。ずっと、それしか考えてなかった」
一月一日。どちら様ですか。
あの日から、ずっと。
「でも」
奎星はスズメを見る。
「今のスズメちゃんがいなくなるかもしれないなら、今はやらない」
眞田が目を細める。
「君は、中にある記憶が欲しくないのか」
「欲しいって言ってんだろ!」
「なら」
「両方欲しいんだよ!」
奎星の声が部屋に響く。
「昔のスズメちゃんも、今のスズメちゃんも! どっちか片方をなくして、戻ったことにすんな!」
スズメの目が大きくなる。
奎星は気づかない。
眞田の表情から、僅かに温度が消えた。
「……欲張りだね」
「うるせえ。俺はそういうの、だいたい全部欲しいんだよ!」
スズメが小さく息を吐く。緊張しているはずなのに、ほんの一瞬だけ笑いそうになった。
「そこは否定できませんね」
「何で!?」
「今、否定する場面ですか?」
「味方してよ!」
「味方しています」
そのやり取りを、眞田はじっと見ていた。
そして、静かに言った。
「でも、進めなければならない」
二人の表情から笑みが消える。
「先輩」
「ここまで来た。固定は完成した。抽出範囲も制御できる。神代冥司の認識干渉も得た」
眞田は奎星を見る。
「あと一つで、記憶を戻せる」
「君の星帰りだ」
奎星は黙った。
眞田は壁の硝子玉を指す。
「成功すれば、全部戻せる。相原美里も、烏丸も、黒曜の六人も、この施設にある全員も」
その言葉は強かった。
あまりにも強い。
成功すれば、全員が戻る。相原が親友と出会った記憶も、母親と過ごした祭りも、誰かが積み重ねてきた技術も、誰かの人生も。
眞田は、そのために三年間を費やしてきた。
「危険はある」
眞田は認めた。
「今の烏丸の記憶へ影響が出る可能性もある」
「なら――」
「でも、やるべきだ」
スズメの言葉を遮る。
「成功すれば、全員へ応用できる」
眞田の目は本気だった。
「失敗しても、データは残る」
奎星の顔が止まる。
スズメの目から温度が消えた。
「……何だよ、それ」
「失敗しても?」
「次へ繋がる」
「スズメちゃんがどうなるか分かんねえのに?」
「だからこそ、観測する」
「ふざけんな」
「蓮根君」
「ふざけんなよ!」
眞田の声は変わらない。
「ここで止めれば」
スズメの表情が変わる。次に何を言うのか、分かっていた。
「今までの犠牲が、無駄になる」
三年前と同じ言葉だった。
スズメは眞田を見る。
三年前、尊敬していた先輩。事故のあと、青ざめて謝罪し、相原の見舞いへ行った男。その男が、三年経った今も同じ答えを選ぼうとしている。
「三年前」
スズメが静かに言った。
「あなたは、同じことを言いました」
「覚えているよ」
「私は」
スズメは杖をゆっくり持ち上げた。
「同じ答えです」
眞田が見る。
「まだ、人へ使う段階ではありません」
「……」
「止めます」
眞田は目を閉じた。ほんの一秒。二秒。それから、ゆっくりと目を開く。
「そうか」
その声は、少しだけ悲しそうだった。
「君なら、分かってくれると思った」
スズメは首を横に振る。
「三年前も」
杖を構える。
「今も」
眞田をまっすぐ見据える。
「分かりません」
眞田はしばらくスズメを見ていた。
やがて、机の上の硝子玉へ視線を落とし、その隣に置かれた自分の杖へ手を伸ばす。
奎星の神代榊が即座に上がった。
「触るな」
眞田の手が止まる。
「蓮根君」
「何」
「君の記憶が必要なんだ」
「断る」
「ほんの一部分だ」
「断る」
「失われない」
奎星の目が鋭くなる。
「保存する?」
眞田は答えない。
「それ、もう聞いた」
スズメも杖を構えた。
眞田は二人を見る。
「残念だ」
ゆっくりと杖を取る。
「なら」
魔力が広がった。
床に刻まれた古代文字が一斉に光り、部屋の空気が震える。
スズメの表情が変わる。
「蓮根君!」
「分かってる!」
奎星は神代榊を眞田へ向けた。眞田も杖先を奎星へ向ける。
「協力してもらう」
その言葉が終わる前に、眞田の杖先へ見覚えのある銀白色の光が集まり始めた。
一月一日。
あの夜の光。
《ダムナティオ・メモリアエ》。
奎星の目が一気に鋭くなる。
「させるかよ!」
眞田の杖が振られた。
同時に、奎星も神代榊を振り抜く。
「ステューピファイ!」
赤い閃光と銀白色の光が、部屋の中央で真正面から激突した。
轟音が響き、机が吹き飛ぶ。紙が宙へ舞い上がり、壁の術式図が何枚も剥がれ落ちた。
その中で、透明な硝子玉だけが台座の上に残っている。
ちん。
小さな音が鳴った。
スズメが杖を上げる。眞田の足元で古代文字が一斉に発光した。
奎星が前へ出る。
眞田大。記憶を保存する男。その研究を止めようとする、三年前の後輩。そして、彼女の記憶を取り戻したい少年。
三年間止まらなかった研究は、ついに杖を向け合うところまで来た。
戦いが始まった。