マホウトコロ   作:西野圭吾

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第12話 弱いのはあなたです

 

「ステューピファイ!」

 

奎星が神代榊を振り抜くと、赤い閃光が杖先から迸った。同時に、眞田の杖から放たれた銀白色の光が正面から飛来し、二つの魔法が研究室の中央で激突する。

 

空気が爆ぜた。

 

轟音とともに衝撃波が走り、机が横倒しになった。積み上げられていた羊皮紙が宙へ舞い、壁に貼られていた術式図が何枚も剥がれ落ちる。棚の魔法具が床へ転がり、金属音を立てて跳ねた。

 

それでも、黒い台座の上に置かれた硝子玉だけは微動だにしなかった。

 

ちん、と小さな音が響く。

 

奎星の視線が、反射的にそちらへ向いた。

 

「蓮根君!」

 

スズメの声に、奎星は咄嗟に身を沈めた。頭上を青白い光が通り過ぎ、背後の本棚へ突き刺さる。木材が一瞬で凍りつき、白い霜が棚全体へ広がった。

 

「うおっ!」

 

奎星は床を蹴り、眞田へ向かって杖を突き出した。

 

「デパルソ!」

 

圧縮された空気の塊が、床の埃を巻き上げながら眞田へ突進する。眞田は身体を半歩だけずらし、落ち着いた動作で杖を掲げた。

 

「プロテゴ」

 

透明な防壁が展開され、衝撃を受け止める。防壁全体が大きく揺れたものの、ひび一つ入らなかった。

 

「威力が高い」

 

眞田は防壁の向こうから奎星を見た。

 

「聞いていた通りだ」

 

「あ?」

 

奎星が眉を寄せる。

 

その隙を埋めるように、スズメが杖を振った。

 

「インカーセラス!」

 

銀色の縄が床を這い、蛇のように眞田の両足へ絡みつこうとする。しかし眞田は、杖を一度下へ向けただけだった。

 

「ディフィンド」

 

縄が途中で切断され、床へ落ちる。

 

スズメの動きが止まった。

 

ほんの一瞬だった。けれど、眞田はその一瞬を見逃さなかった。

 

「烏丸」

 

スズメの目が動く。

 

「遅いよ」

 

眞田の杖が閃いた。

 

「エクスペリアームス!」

 

赤い光がスズメへ迫る。スズメは反射的に杖を振り上げた。

 

「プロテゴ!」

 

防壁が展開され、魔法を弾き返す。

 

だが、その先に続く攻撃が出てこない。

 

杖は眞田へ向いている。次に唱えるべき呪文も分かっている。眞田の姿勢には、明らかな隙があった。

 

それでも、撃てなかった。

 

三年前、同じ机を囲んで資料を読んだ男。古代文字の読み方を教えてくれた男。分からないことを尋ねれば、何時間でも丁寧に説明してくれた男。仕事が遅くなった夜には、何も言わず食事へ誘ってくれた男。

 

事故のあと、眞田は青ざめた顔で相原の病室へ何度も足を運び、何度も謝っていた。

 

スズメは、あの頃の眞田を尊敬していた。

 

だからこそ、目の前の男がどれほど危険なことをしているのか理解していても、身体が最後の一歩を拒んでいた。

 

「スズメちゃん!」

 

奎星の叫び声が飛ぶ。

 

眞田が杖を振り抜いた。

 

床に刻まれていた古代文字が、赤黒く染まる。

 

「――!」

 

スズメの顔色が変わった。

 

見覚えのない術式だった。だが、その構造には覚えがある。霊脈。黒曜石。侵食。神代冥司が使っていた術式と同じ系統だ。

 

「蓮根君、避けて――」

 

言葉が終わる前に、眞田の足元から赤黒い古代文字が一斉に浮かび上がった。文字は空中で幾重にも連なり、巨大な帯となって二人へ押し寄せる。

 

壁を這い、床を覆い、空気そのものへ食い込むように、赤黒い光が広がっていく。

 

奎星は迷わなかった。

 

一歩踏み出し、スズメの前へ出る。

 

「プロテゴ!!」

 

透明な防壁が弾けるように広がった。

 

直後、古代魔術が真正面から激突する。

 

轟音が研究室を揺らし、奎星の両足が床を滑った。防壁の表面へ赤黒い古代文字が貼りつき、まるで生き物のように這い回る。

 

「何だ、これ……っ!」

 

奎星は両手で神代榊を握り直した。

 

「黒曜の残党から得たものだ」

 

眞田が答える。

 

奎星の顔が険しくなった。

 

「何?」

 

「彼らが神代冥司の下で扱っていた古代術式の一つだ。術式を霊脈へ定着させる際、外部からの魔力干渉を押し退けるために使われていた」

 

「それも……」

 

奎星は歯を食いしばった。

 

「盗った記憶かよ!」

 

「保存した記憶だ」

 

「うるせえ!!」

 

奎星が神代榊を強く振り抜く。

 

防壁が一気に膨張し、赤黒い文字を押し返した。古代魔術は空中で砕け、無数の光の欠片となって消えていく。

 

眞田の目が、わずかに見開かれた。

 

「……やはり」

 

奎星は肩で息をしながら睨みつける。

 

「何だよ」

 

「魔力量だけなら、本当に異常だ」

 

「褒めても何も出ねえぞ」

 

「褒めてはいない」

 

「じゃあ黙れ!」

 

奎星が踏み込もうとしたとき、背後のスズメが目に入った。

 

杖を構えている。だが、顔色が悪い。呼吸も浅く、眞田へ向けた杖先がわずかに震えていた。

 

奎星の動きが止まる。

 

「スズメちゃん」

 

「……はい」

 

「下がってて」

 

スズメが顔を上げた。

 

「何を言っているのです?」

 

「俺がやる」

 

「二人で戦うのでしょう」

 

「今はいい」

 

「よくありません」

 

「スズメちゃん」

 

「私は教師です」

 

「知ってる」

 

「なら――」

 

「無理してるじゃん」

 

スズメの言葉が止まった。

 

奎星は笑っていなかった。

 

「撃てないんだろ。眞田に」

 

スズメは答えなかった。

 

それが答えだった。

 

奎星は眞田から目を離さないまま、左手だけを後ろへ伸ばした。

 

「下がってて」

 

もう一度、同じ言葉を口にする。

 

その瞬間、奎星の脳裏に別の場所が浮かんだ。黒曜石の地下施設。自分の魔法をコピーしていた少年。自分の癖をすべて読んでいた相手。

 

あのときも、奎星はスズメへ同じ言葉を告げた。

 

――スズメちゃん、下がってて。

 

奎星は覚えている。

 

けれど、スズメはもう覚えていない。

 

「蓮根君」

 

不安そうな声だった。

 

奎星は後ろへ伸ばしていた手を少し動かし、スズメの指先へ触れた。そのまま、しっかりと握る。

 

スズメの目がわずかに見開かれた。

 

奎星は振り返らない。

 

「大丈夫」

 

「あなたの大丈夫は、あまり信用できません」

 

「信用ないんだろ?」

 

「……はい」

 

「知ってる」

 

奎星は、ほんの少しだけ笑った。

 

「じゃあ、信じなくていいから」

 

握った手へ、一度だけ力を込める。

 

「俺を見てて」

 

スズメは何も言えなかった。

 

「それならいいだろ」

 

奎星は手を離した。

 

指先に残った少年の体温が、妙に鮮明だった。

 

「……無茶は」

 

「しない」

 

「本当に?」

 

「多分」

 

「蓮根君」

 

「今はそれで!」

 

「もう……!」

 

それでも、スズメは一歩下がった。

 

奎星が前へ出る。

 

眞田は二人のやり取りを黙って見ていた。そして、初めて楽しそうに口元を歪めた。

 

「面白いね」

 

奎星が神代榊を向ける。

 

「何が」

 

「いや」

 

眞田はスズメへ視線を移した。

 

「君の記憶を見たよ、烏丸!」

 

部屋の空気が凍りついた。

 

スズメの顔から血の気が引く。

 

奎星の眉が、ゆっくりと下がった。

 

「……あ?」

 

その声には、完全に喧嘩腰の響きがあった。

 

眞田は、今まで見せなかった表情を浮かべている。相手の反応を楽しんでいるような、意地の悪い笑みだった。

 

「驚いたよ。ずいぶんと、この少年に入れ込んだものだね!」

 

奎星の握る神代榊が軋む。

 

スズメの唇がわずかに開いた。

 

「先輩……」

 

「観測塔」

 

スズメの目が揺れる。

 

「やめてください」

 

「水月庵」

 

「やめてください、眞田先輩」

 

「星迎祭」

 

「もう、やめてください!」

 

「常隠島」

 

奎星の目から、完全に笑みが消えた。

 

「やめろ」

 

眞田は奎星を見る。

 

「何だい?」

 

「それ以上、喋んな」

 

「事実だよ」

 

「てめえに」

 

奎星が一歩踏み出す。

 

「何が」

 

さらに一歩。

 

「分かんだよ」

 

眞田の目が細くなる。

 

「分かるさ」

 

杖を上げる。

 

「蓮根奎星。君のことは、烏丸の記憶で把握済みだ」

 

奎星も杖を構えた。

 

「魔力の出し方。攻撃へ移る直前、右肩がわずかに上がる」

 

眞田の杖先が、奎星の右肩を指す。

 

「デパルソは、押し切りたいときほど踏み込みが深い。プロテゴのあと、すぐ反撃するときは左へ回ることが多い」

 

スズメの顔が強張った。

 

それは、彼女自身が知っていたことだった。

 

毎日の補習で見ていた。訓練で見ていた。戦いの中で、傷を負いながら成長していく姿を見ていた。いつの間にか覚えていた、奎星の癖。

 

それを今、眞田が口にしている。

 

「皮肉なものだ」

 

眞田が笑う。

 

「育てたのは彼女自身なのになぁ」

 

奎星の中で、何かが完全に切れた。

 

「……殺す」

 

「蓮根君!?」

 

スズメが思わず声を上げる。

 

「言葉!」

 

「ごめん!」

 

「今ですか!?」

 

「でもムカつく!」

 

眞田が杖を振った。

 

「ステューピファイ」

 

奎星は、光が放たれる前から左へ跳んだ。赤い閃光が身体の横を通り過ぎる。

 

「ほら」

 

眞田が言った。

 

「左だ」

 

奎星の目が鋭くなる。

 

「コンフリンゴ!!」

 

青白い爆炎が眞田へ迫る。眞田はすでに盾を展開していた。

 

「プロテゴ」

 

爆発が防壁へぶつかり、炎が左右へ割れる。眞田は動かない。

 

「怒ると出力が上がる」

 

「うるせえ!」

 

「そして――」

 

眞田の杖先が、奎星の着地点へ向いた。

 

「攻撃のあとに着地が雑になる」

 

「っ!」

 

「インカーセラス」

 

銀色の縄が奎星の足首へ絡みついた。

 

奎星は床へ倒れ込む。

 

「蓮根君!」

 

スズメが動きかけた。

 

「来んな!」

 

奎星は倒れたまま神代榊を向ける。

 

「ディフィンド!」

 

縄が切断される。奎星はすぐに横へ転がった。直後、赤い光が床へ突き刺さる。

 

奎星は片膝をついて立ち上がった。

 

眞田が淡々と続ける。

 

「攻撃を受けたあと、距離を取るより先に反撃したがる」

 

「……」

 

「御影先生から、何度も直されているね」

 

「……」

 

「でも、完全には直っていない」

 

スズメが息を呑んだ。

 

そこまで見たのか。

 

自分の記憶を。奎星との時間を。補習も、会話も、笑ったことも、怖かったことも。すべてを研究資料のように覗き込んだのか。

 

奎星が立ち上がる。

 

眞田はさらに言った。

 

「君は強い」

 

「…………」

 

「でも、分かりやすい」

 

奎星は眞田を見た。

 

「そっか」

 

「何?」

 

「全部、分かってんだ」

 

「そう言っただろう」

 

「俺がどう撃つかも?」

 

「ああ」

 

「どっちへ避けるかも?」

 

「ああ」

 

「どんくらい魔法を使えるかも?」

 

眞田がわずかに笑う。

 

「ああ」

 

奎星も笑った。

 

ただし、その笑みには嫌な気配があった。

 

「じゃあ、これも知ってるよな」

 

「何を――」

 

「ボンバーダ!!」

 

爆発が研究室を揺らした。

 

眞田は即座に盾を展開する。

 

「プロテゴ!」

 

爆炎を防いだ直後、奎星がさらに杖を振る。

 

「デパルソ!!」

 

圧縮された衝撃が防壁を押し込み、眞田の足が半歩下がった。

 

「……」

 

奎星は止まらない。

 

「ステューピファイ!」

 

赤い光。

 

「プロテゴ!」

 

「コンフリンゴ!」

 

青白い爆炎。

 

眞田の防壁が大きく震える。

 

「っ……」

 

眞田の眉が、初めてわずかに寄った。

 

奎星はすでに次の攻撃へ移っている。

 

「レダクト!」

 

衝撃が防壁へ叩き込まれ、表面に亀裂が走った。

 

「……!」

 

眞田が二枚目の防壁を展開する。

 

「プロテゴ!」

 

しかし、奎星は止まらない。

 

「デパルソ!」

 

「プロテゴ!」

 

「ボンバーダ!」

 

「プロテゴ!」

 

「ステューピファイ!」

 

「プロテゴ!」

 

赤、青、白。爆発と衝撃が途切れることなく研究室を駆け巡る。

 

スズメは、ただ目を見開いていた。

 

眞田は奎星の魔力を知っている。一万を超える、異常な数値も記憶の中で見ているはずだ。

 

だが、数字と実際に正面から受ける魔法は違う。

 

一発が重い。

 

二発目も重い。

 

三発、四発、五発と続いても、普通の魔法使いのように出力が落ちない。呼吸が乱れず、杖の動きも鈍らない。

 

「コンフリンゴ!!」

 

爆炎が防壁へ叩きつけられる。

 

「っ!」

 

眞田の防壁が後ろへ押された。

 

奎星はまだ撃てる。いや、怒りが乗るたびに、むしろ強くなっている。

 

「どうした!」

 

爆発。

 

「俺のことっ!」

 

衝撃。

 

「調べたんじゃっ!」

 

赤い光。

 

「ねえのかよ!!」

 

轟音とともに、眞田の盾へ新たな亀裂が走った。

 

「っ……!」

 

眞田が一歩後退する。

 

奎星は追った。

 

「プロテゴ!」

 

眞田が新しい防壁を展開する。

 

「レダクト!」

 

防壁が砕ける。

 

「デパルソ!」

 

眞田の身体が後ろへ飛び、倒れた机へ激突した。

 

「ぐっ……!」

 

初めて、眞田の顔から余裕が消えた。

 

奎星は怒りの中で笑っていた。

 

「なあ!」

 

神代榊を向ける。

 

「何で避けねえの!?」

 

眞田は息を乱しながら立ち上がる。

 

「知ってんだろ!?」

 

「……君は」

 

「何!」

 

「無駄が……多すぎる……!」

 

「ああ!?」

 

「魔力を使いすぎだ!」

 

「だから何だよ!」

 

奎星が再び杖を振る。

 

「俺!」

 

杖先へ魔力が集まる。

 

「めちゃくちゃ!」

 

光が膨れ上がる。

 

「持ってんだよ!!」

 

「コンフリンゴ!!」

 

眞田の目が見開かれた。

 

「プロテゴ!!」

 

爆発。

 

今までで最も大きな炎が研究室を覆った。窓が一斉に揺れ、天井から埃が降り注ぐ。眞田の盾が大きく歪み、ついには砕け散った。

 

「っ……!!」

 

眞田の身体が数メートル後ろへ滑る。

 

スズメは、言葉を失った。

 

一万七百二。魔法省で測定された奎星の魔力量。普通の成人魔法使いの百倍以上という、現実離れした数値。

 

もちろん、魔力量がそのまま強さになるわけではない。経験も、判断力も、技術も、制御も必要だ。だから奎星は、まだ御影や真壁たち大人の魔法使いには及ばない。

 

それでも、彼には他の人間が簡単には真似できないものがあった。

 

撃っても、撃っても、まだ撃てる。

 

眞田には、まるで底が見えなかった。

 

「……馬鹿げている」

 

眞田が初めて、吐き捨てるように言った。

 

奎星が眉を上げる。

 

「何が?」

 

「そんな魔力量……」

 

「知ってたんだろ?」

 

「記録と実際では――」

 

「じゃあ!」

 

奎星が踏み込む。

 

「もっと!」

 

「っ!」

 

「調べとけよ!!」

 

「ステューピファイ!」

 

赤い閃光が走る。

 

眞田は咄嗟に身体を捻った。光が肩を掠める。

 

「ぐっ……!」

 

奎星の目が光った。

 

入った。

 

浅いが、眞田の体勢が崩れた。

 

今なら決められる。

 

奎星は神代榊を高く掲げた。

 

眞田は、その動きを見ていた。

 

知っている。

 

奎星が相手を倒し切るとき、殺傷呪文を使わないことを。御影から最初に叩き込まれた、気絶呪文を使うことを。

 

ステューピファイ。

 

来る。

 

「……!」

 

眞田が杖を振る。

 

奎星が息を吸った。

 

「ステュ――」

 

銀白色の光が、眞田の杖先で膨れ上がる。

 

「ダムナティオ・メモリアエ!」

 

「っ!」

 

奎星は反射的に横へ跳んだ。

 

ほとんど避けた。

 

だが、銀白色の光の先端が、左脇腹をわずかに掠めた。

 

「――っ!」

 

熱くない。痛くもない。

 

それなのに、頭の奥で何かを引き抜かれたような感覚が走った。

 

一瞬。

 

本当に一瞬だった。

 

奎星は着地に成功する。

 

眞田は体勢を崩したままだ。

 

今なら、まだいける。

 

奎星は神代榊を向けた。

 

「…………」

 

口を開く。

 

「…………」

 

言葉が出ない。

 

奎星の眉が寄った。

 

赤い光。相手を気絶させる魔法。御影に何度も撃たされた。訓練用の人形を倒した。斎賀にも、神代にも、黒曜にも使った。

 

分かるはずだった。

 

なのに。

 

「……あれ」

 

奎星の顔が変わる。

 

「何だっけ」

 

スズメの目が見開かれた。

 

「蓮根君?」

 

奎星は神代榊を向けたまま固まっている。

 

「赤い……」

 

何だ。

 

名前は。

 

何だった。

 

頭の中に、穴が空いている。

 

その呪文があった場所だけが、綺麗に抜け落ちていた。

 

「……何で」

 

眞田の目が細くなる。

 

そして、理解した。

 

「掠ったか」

 

奎星が顔を上げる。

 

眞田の杖が、すでにこちらを向いていた。

 

「……あ」

 

次の瞬間、眞田が呪文を唱える。

 

奎星が思い出せなくなった、その言葉を。

 

「ステューピファイ!」

 

赤い閃光が奎星の胸へ真正面から命中した。

 

「――っ!!」

 

身体が浮き上がる。

 

吹き飛ばされた奎星は床へ肩から叩きつけられ、そのまま跳ねて転がった。何度か床を打ち、下がっていたスズメのすぐ横でようやく止まる。

 

「蓮根君!」

 

スズメが膝をつく。

 

「蓮根君、聞こえますか!」

 

奎星は目を閉じたまま、神代榊を手から離していなかった。

 

「……っ」

 

「蓮根君!」

 

「痛って……」

 

かすれた声が返る。

 

スズメの表情がわずかに緩んだ。

 

「意識はありますか?」

 

「ある……」

 

「どこか動かないところは?」

 

「……多分ない」

 

「多分では――」

 

「スズメちゃん」

 

奎星はゆっくり目を開いた。

 

「今……」

 

「はい」

 

「俺……何忘れた?」

 

スズメの胸が締めつけられる。

 

奎星自身にも分かっていない。自分から何が抜け落ちたのか。ただ、さっき唱えられなかった呪文だけは、もう思い出せない。

 

「……後で確認します」

 

「そっか」

 

「今は、動かないでください」

 

「うん」

 

奎星が起き上がろうとする。

 

「待ってください!」

 

「まだ……」

 

「駄目です!」

 

「まだやれるって……」

 

「駄目です!」

 

強い声に、奎星の動きが止まった。

 

スズメの手が、奎星の肩へ置かれている。指先がわずかに震えていた。

 

その向こうで、眞田が立ち上がる。

 

服には埃がつき、肩には赤い痕が残っている。呼吸も乱れていた。それでも、杖はまだしっかりと握られていた。

 

「……驚いたよ」

 

眞田が言う。

 

「まさか、ここまでとはね」

 

奎星が睨みつける。

 

「うるせえ……」

 

「でも」

 

眞田は一度呼吸を整え、さっきまで押されていた事実を隠すように杖を上げた。

 

「結局、経験が足りない」

 

奎星の拳が床の上で握られる。

 

「魔力量が多い。才能もある」

 

眞田が一歩近づく。

 

「けれど、たった一つ記憶を奪われただけで動けなくなる」

 

奎星は歯を食いしばった。

 

眞田の口元が上がる。

 

「弱いものだな」

 

スズメの目が、ゆっくりと眞田へ向いた。

 

「君の生徒も!!」

 

静寂が落ちた。

 

奎星が動こうとする。しかし、まだ身体が言うことを聞かない。

 

スズメの手が、奎星の肩から離れた。

 

「スズメちゃん……?」

 

スズメは立ち上がった。

 

ゆっくりと、眞田の前へ出る。小さな身体で奎星を庇うように立ち、杖を握り直した。

 

さっきまで震えていた手は、もう震えていない。

 

眞田がわずかに眉を上げる。

 

「烏丸」

 

スズメは答えなかった。

 

「やっと戦う気になった?」

 

「……あなたには」

 

声は小さかった。

 

「何?」

 

スズメが顔を上げる。

 

「あなたには分かりません」

 

「何が?」

 

「人を大切にするということが」

 

眞田の顔から、わずかに笑みが消えた。

 

スズメは続ける。

 

「三年前、相原さんの記憶を失わせたとき、あなたは青ざめていました。自分が取り返しのつかないことをしたと、分かっていたからです」

 

眞田の目が細くなる。

 

「何度も病室へ足を運び、謝っていた。けれど、あなたはその失敗を受け入れられなかった」

 

「それが何だ」

 

「怖かったのでしょう」

 

スズメが一歩踏み出す。

 

「自分が人を傷つけたことを、認めるのが」

 

「烏丸」

 

「だから、失敗ではなかったと言い続けた。研究は進んだ。犠牲を無駄にしないためだ。そう言い聞かせて、三年間、研究を続けた」

 

「やめろ」

 

眞田の声が初めて強くなった。

 

奎星は床に座り込んだまま、眞田を見上げていた。

 

どれだけ怒鳴っても、どれだけ魔法を撃ち込んでも崩れなかった男が、スズメの言葉にだけ明らかに反応している。

 

「眞田先輩」

 

スズメが言った。

 

「あなたは結局、逃げただけです」

 

眞田の目が見開かれる。

 

「……なんだって?」

 

「失敗を受け入れられず、自分が人を傷つけたことを、ただの失敗として受け止めることができず、それから逃げただけです」

 

「違う」

 

「違いません」

 

「僕は!」

 

初めて、眞田が声を荒らげた。

 

「僕は三年間、戻す方法を――」

 

「だからです」

 

スズメが遮る。

 

「戻せば、なかったことになると思っている」

 

「違う!」

 

「相原さんが失った記憶を戻せば、あなたの失敗も消えると思っている」

 

「違うと言っている!」

 

眞田の声が研究室を震わせた。

 

スズメは一度、自分の胸元へ指を触れた。

 

「私も、三年前は逃げました」

 

眞田が黙る。

 

「怖かった。相原さんの事故から。自分が関わった研究から。だから記録局を辞めて、研究からも離れた」

 

スズメは背後の奎星を見る。

 

「でも、この子に教えられました」

 

「……俺?」

 

奎星が小さく声を漏らす。

 

スズメはほんの少しだけ笑った。

 

「失敗しても、間違えても、怖くても、逃げなければやり直せると」

 

観測塔で、杖を握ることさえ怖がっていた少年。

 

常隠島で、何度閉心術に失敗しても立ち上がった少年。

 

一月一日の夜、自分を庇うために迷わず前へ出た少年。

 

そして今、記憶を一つ奪われても、まだ立ち上がろうとしている少年。

 

スズメは眞田を見据えた。

 

「私の生徒、蓮根君は、絶対に逃げません」

 

「…………」

 

「間違えます。すぐ無茶をします。人の話を最後まで聞きません」

 

「ちょ」

 

奎星が抗議する。

 

「蓮根君」

 

「はい」

 

反射的に返事をしてしまい、スズメの口元がわずかに緩んだ。

 

「ですが、間違えたことから逃げない」

 

スズメは杖を構え直す。

 

「自分が弱いことからも、知らないことからも、怖いことからも逃げない」

 

神代に勝てなくても。

 

大人たちに及ばなくても。

 

魔法を知らなくても。

 

怖くても。

 

奎星は、いつもそこから逃げなかった。

 

「だから」

 

スズメの目に、強い光が宿る。

 

「蓮根君は、弱くなんかありません」

 

部屋が静まり返った。

 

眞田の顔から、完全に笑みが消える。

 

「烏丸……」

 

スズメは杖を構え直した。

 

今度は、迷いが一つもない。

 

奎星は床へ座り込んだまま、その背中を見ていた。

 

小柄で、自分よりずっと小さい背中。初めて会った日に学校へ連れていってくれた背中。魔法を教えてくれた背中。観測塔で隣を歩いていた背中。

 

その人が今、自分の前に立っている。

 

眞田が杖を上げた。

 

スズメも杖先を向ける。

 

「弱いのは」

 

その声は静かだった。

 

だからこそ、研究室の隅々まで、はっきりと響いた。

 

「あなたです……!」

 

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