「ステューピファイ!」
奎星が神代榊を振り抜くと、赤い閃光が杖先から迸った。同時に、眞田の杖から放たれた銀白色の光が正面から飛来し、二つの魔法が研究室の中央で激突する。
空気が爆ぜた。
轟音とともに衝撃波が走り、机が横倒しになった。積み上げられていた羊皮紙が宙へ舞い、壁に貼られていた術式図が何枚も剥がれ落ちる。棚の魔法具が床へ転がり、金属音を立てて跳ねた。
それでも、黒い台座の上に置かれた硝子玉だけは微動だにしなかった。
ちん、と小さな音が響く。
奎星の視線が、反射的にそちらへ向いた。
「蓮根君!」
スズメの声に、奎星は咄嗟に身を沈めた。頭上を青白い光が通り過ぎ、背後の本棚へ突き刺さる。木材が一瞬で凍りつき、白い霜が棚全体へ広がった。
「うおっ!」
奎星は床を蹴り、眞田へ向かって杖を突き出した。
「デパルソ!」
圧縮された空気の塊が、床の埃を巻き上げながら眞田へ突進する。眞田は身体を半歩だけずらし、落ち着いた動作で杖を掲げた。
「プロテゴ」
透明な防壁が展開され、衝撃を受け止める。防壁全体が大きく揺れたものの、ひび一つ入らなかった。
「威力が高い」
眞田は防壁の向こうから奎星を見た。
「聞いていた通りだ」
「あ?」
奎星が眉を寄せる。
その隙を埋めるように、スズメが杖を振った。
「インカーセラス!」
銀色の縄が床を這い、蛇のように眞田の両足へ絡みつこうとする。しかし眞田は、杖を一度下へ向けただけだった。
「ディフィンド」
縄が途中で切断され、床へ落ちる。
スズメの動きが止まった。
ほんの一瞬だった。けれど、眞田はその一瞬を見逃さなかった。
「烏丸」
スズメの目が動く。
「遅いよ」
眞田の杖が閃いた。
「エクスペリアームス!」
赤い光がスズメへ迫る。スズメは反射的に杖を振り上げた。
「プロテゴ!」
防壁が展開され、魔法を弾き返す。
だが、その先に続く攻撃が出てこない。
杖は眞田へ向いている。次に唱えるべき呪文も分かっている。眞田の姿勢には、明らかな隙があった。
それでも、撃てなかった。
三年前、同じ机を囲んで資料を読んだ男。古代文字の読み方を教えてくれた男。分からないことを尋ねれば、何時間でも丁寧に説明してくれた男。仕事が遅くなった夜には、何も言わず食事へ誘ってくれた男。
事故のあと、眞田は青ざめた顔で相原の病室へ何度も足を運び、何度も謝っていた。
スズメは、あの頃の眞田を尊敬していた。
だからこそ、目の前の男がどれほど危険なことをしているのか理解していても、身体が最後の一歩を拒んでいた。
「スズメちゃん!」
奎星の叫び声が飛ぶ。
眞田が杖を振り抜いた。
床に刻まれていた古代文字が、赤黒く染まる。
「――!」
スズメの顔色が変わった。
見覚えのない術式だった。だが、その構造には覚えがある。霊脈。黒曜石。侵食。神代冥司が使っていた術式と同じ系統だ。
「蓮根君、避けて――」
言葉が終わる前に、眞田の足元から赤黒い古代文字が一斉に浮かび上がった。文字は空中で幾重にも連なり、巨大な帯となって二人へ押し寄せる。
壁を這い、床を覆い、空気そのものへ食い込むように、赤黒い光が広がっていく。
奎星は迷わなかった。
一歩踏み出し、スズメの前へ出る。
「プロテゴ!!」
透明な防壁が弾けるように広がった。
直後、古代魔術が真正面から激突する。
轟音が研究室を揺らし、奎星の両足が床を滑った。防壁の表面へ赤黒い古代文字が貼りつき、まるで生き物のように這い回る。
「何だ、これ……っ!」
奎星は両手で神代榊を握り直した。
「黒曜の残党から得たものだ」
眞田が答える。
奎星の顔が険しくなった。
「何?」
「彼らが神代冥司の下で扱っていた古代術式の一つだ。術式を霊脈へ定着させる際、外部からの魔力干渉を押し退けるために使われていた」
「それも……」
奎星は歯を食いしばった。
「盗った記憶かよ!」
「保存した記憶だ」
「うるせえ!!」
奎星が神代榊を強く振り抜く。
防壁が一気に膨張し、赤黒い文字を押し返した。古代魔術は空中で砕け、無数の光の欠片となって消えていく。
眞田の目が、わずかに見開かれた。
「……やはり」
奎星は肩で息をしながら睨みつける。
「何だよ」
「魔力量だけなら、本当に異常だ」
「褒めても何も出ねえぞ」
「褒めてはいない」
「じゃあ黙れ!」
奎星が踏み込もうとしたとき、背後のスズメが目に入った。
杖を構えている。だが、顔色が悪い。呼吸も浅く、眞田へ向けた杖先がわずかに震えていた。
奎星の動きが止まる。
「スズメちゃん」
「……はい」
「下がってて」
スズメが顔を上げた。
「何を言っているのです?」
「俺がやる」
「二人で戦うのでしょう」
「今はいい」
「よくありません」
「スズメちゃん」
「私は教師です」
「知ってる」
「なら――」
「無理してるじゃん」
スズメの言葉が止まった。
奎星は笑っていなかった。
「撃てないんだろ。眞田に」
スズメは答えなかった。
それが答えだった。
奎星は眞田から目を離さないまま、左手だけを後ろへ伸ばした。
「下がってて」
もう一度、同じ言葉を口にする。
その瞬間、奎星の脳裏に別の場所が浮かんだ。黒曜石の地下施設。自分の魔法をコピーしていた少年。自分の癖をすべて読んでいた相手。
あのときも、奎星はスズメへ同じ言葉を告げた。
――スズメちゃん、下がってて。
奎星は覚えている。
けれど、スズメはもう覚えていない。
「蓮根君」
不安そうな声だった。
奎星は後ろへ伸ばしていた手を少し動かし、スズメの指先へ触れた。そのまま、しっかりと握る。
スズメの目がわずかに見開かれた。
奎星は振り返らない。
「大丈夫」
「あなたの大丈夫は、あまり信用できません」
「信用ないんだろ?」
「……はい」
「知ってる」
奎星は、ほんの少しだけ笑った。
「じゃあ、信じなくていいから」
握った手へ、一度だけ力を込める。
「俺を見てて」
スズメは何も言えなかった。
「それならいいだろ」
奎星は手を離した。
指先に残った少年の体温が、妙に鮮明だった。
「……無茶は」
「しない」
「本当に?」
「多分」
「蓮根君」
「今はそれで!」
「もう……!」
それでも、スズメは一歩下がった。
奎星が前へ出る。
眞田は二人のやり取りを黙って見ていた。そして、初めて楽しそうに口元を歪めた。
「面白いね」
奎星が神代榊を向ける。
「何が」
「いや」
眞田はスズメへ視線を移した。
「君の記憶を見たよ、烏丸!」
部屋の空気が凍りついた。
スズメの顔から血の気が引く。
奎星の眉が、ゆっくりと下がった。
「……あ?」
その声には、完全に喧嘩腰の響きがあった。
眞田は、今まで見せなかった表情を浮かべている。相手の反応を楽しんでいるような、意地の悪い笑みだった。
「驚いたよ。ずいぶんと、この少年に入れ込んだものだね!」
奎星の握る神代榊が軋む。
スズメの唇がわずかに開いた。
「先輩……」
「観測塔」
スズメの目が揺れる。
「やめてください」
「水月庵」
「やめてください、眞田先輩」
「星迎祭」
「もう、やめてください!」
「常隠島」
奎星の目から、完全に笑みが消えた。
「やめろ」
眞田は奎星を見る。
「何だい?」
「それ以上、喋んな」
「事実だよ」
「てめえに」
奎星が一歩踏み出す。
「何が」
さらに一歩。
「分かんだよ」
眞田の目が細くなる。
「分かるさ」
杖を上げる。
「蓮根奎星。君のことは、烏丸の記憶で把握済みだ」
奎星も杖を構えた。
「魔力の出し方。攻撃へ移る直前、右肩がわずかに上がる」
眞田の杖先が、奎星の右肩を指す。
「デパルソは、押し切りたいときほど踏み込みが深い。プロテゴのあと、すぐ反撃するときは左へ回ることが多い」
スズメの顔が強張った。
それは、彼女自身が知っていたことだった。
毎日の補習で見ていた。訓練で見ていた。戦いの中で、傷を負いながら成長していく姿を見ていた。いつの間にか覚えていた、奎星の癖。
それを今、眞田が口にしている。
「皮肉なものだ」
眞田が笑う。
「育てたのは彼女自身なのになぁ」
奎星の中で、何かが完全に切れた。
「……殺す」
「蓮根君!?」
スズメが思わず声を上げる。
「言葉!」
「ごめん!」
「今ですか!?」
「でもムカつく!」
眞田が杖を振った。
「ステューピファイ」
奎星は、光が放たれる前から左へ跳んだ。赤い閃光が身体の横を通り過ぎる。
「ほら」
眞田が言った。
「左だ」
奎星の目が鋭くなる。
「コンフリンゴ!!」
青白い爆炎が眞田へ迫る。眞田はすでに盾を展開していた。
「プロテゴ」
爆発が防壁へぶつかり、炎が左右へ割れる。眞田は動かない。
「怒ると出力が上がる」
「うるせえ!」
「そして――」
眞田の杖先が、奎星の着地点へ向いた。
「攻撃のあとに着地が雑になる」
「っ!」
「インカーセラス」
銀色の縄が奎星の足首へ絡みついた。
奎星は床へ倒れ込む。
「蓮根君!」
スズメが動きかけた。
「来んな!」
奎星は倒れたまま神代榊を向ける。
「ディフィンド!」
縄が切断される。奎星はすぐに横へ転がった。直後、赤い光が床へ突き刺さる。
奎星は片膝をついて立ち上がった。
眞田が淡々と続ける。
「攻撃を受けたあと、距離を取るより先に反撃したがる」
「……」
「御影先生から、何度も直されているね」
「……」
「でも、完全には直っていない」
スズメが息を呑んだ。
そこまで見たのか。
自分の記憶を。奎星との時間を。補習も、会話も、笑ったことも、怖かったことも。すべてを研究資料のように覗き込んだのか。
奎星が立ち上がる。
眞田はさらに言った。
「君は強い」
「…………」
「でも、分かりやすい」
奎星は眞田を見た。
「そっか」
「何?」
「全部、分かってんだ」
「そう言っただろう」
「俺がどう撃つかも?」
「ああ」
「どっちへ避けるかも?」
「ああ」
「どんくらい魔法を使えるかも?」
眞田がわずかに笑う。
「ああ」
奎星も笑った。
ただし、その笑みには嫌な気配があった。
「じゃあ、これも知ってるよな」
「何を――」
「ボンバーダ!!」
爆発が研究室を揺らした。
眞田は即座に盾を展開する。
「プロテゴ!」
爆炎を防いだ直後、奎星がさらに杖を振る。
「デパルソ!!」
圧縮された衝撃が防壁を押し込み、眞田の足が半歩下がった。
「……」
奎星は止まらない。
「ステューピファイ!」
赤い光。
「プロテゴ!」
「コンフリンゴ!」
青白い爆炎。
眞田の防壁が大きく震える。
「っ……」
眞田の眉が、初めてわずかに寄った。
奎星はすでに次の攻撃へ移っている。
「レダクト!」
衝撃が防壁へ叩き込まれ、表面に亀裂が走った。
「……!」
眞田が二枚目の防壁を展開する。
「プロテゴ!」
しかし、奎星は止まらない。
「デパルソ!」
「プロテゴ!」
「ボンバーダ!」
「プロテゴ!」
「ステューピファイ!」
「プロテゴ!」
赤、青、白。爆発と衝撃が途切れることなく研究室を駆け巡る。
スズメは、ただ目を見開いていた。
眞田は奎星の魔力を知っている。一万を超える、異常な数値も記憶の中で見ているはずだ。
だが、数字と実際に正面から受ける魔法は違う。
一発が重い。
二発目も重い。
三発、四発、五発と続いても、普通の魔法使いのように出力が落ちない。呼吸が乱れず、杖の動きも鈍らない。
「コンフリンゴ!!」
爆炎が防壁へ叩きつけられる。
「っ!」
眞田の防壁が後ろへ押された。
奎星はまだ撃てる。いや、怒りが乗るたびに、むしろ強くなっている。
「どうした!」
爆発。
「俺のことっ!」
衝撃。
「調べたんじゃっ!」
赤い光。
「ねえのかよ!!」
轟音とともに、眞田の盾へ新たな亀裂が走った。
「っ……!」
眞田が一歩後退する。
奎星は追った。
「プロテゴ!」
眞田が新しい防壁を展開する。
「レダクト!」
防壁が砕ける。
「デパルソ!」
眞田の身体が後ろへ飛び、倒れた机へ激突した。
「ぐっ……!」
初めて、眞田の顔から余裕が消えた。
奎星は怒りの中で笑っていた。
「なあ!」
神代榊を向ける。
「何で避けねえの!?」
眞田は息を乱しながら立ち上がる。
「知ってんだろ!?」
「……君は」
「何!」
「無駄が……多すぎる……!」
「ああ!?」
「魔力を使いすぎだ!」
「だから何だよ!」
奎星が再び杖を振る。
「俺!」
杖先へ魔力が集まる。
「めちゃくちゃ!」
光が膨れ上がる。
「持ってんだよ!!」
「コンフリンゴ!!」
眞田の目が見開かれた。
「プロテゴ!!」
爆発。
今までで最も大きな炎が研究室を覆った。窓が一斉に揺れ、天井から埃が降り注ぐ。眞田の盾が大きく歪み、ついには砕け散った。
「っ……!!」
眞田の身体が数メートル後ろへ滑る。
スズメは、言葉を失った。
一万七百二。魔法省で測定された奎星の魔力量。普通の成人魔法使いの百倍以上という、現実離れした数値。
もちろん、魔力量がそのまま強さになるわけではない。経験も、判断力も、技術も、制御も必要だ。だから奎星は、まだ御影や真壁たち大人の魔法使いには及ばない。
それでも、彼には他の人間が簡単には真似できないものがあった。
撃っても、撃っても、まだ撃てる。
眞田には、まるで底が見えなかった。
「……馬鹿げている」
眞田が初めて、吐き捨てるように言った。
奎星が眉を上げる。
「何が?」
「そんな魔力量……」
「知ってたんだろ?」
「記録と実際では――」
「じゃあ!」
奎星が踏み込む。
「もっと!」
「っ!」
「調べとけよ!!」
「ステューピファイ!」
赤い閃光が走る。
眞田は咄嗟に身体を捻った。光が肩を掠める。
「ぐっ……!」
奎星の目が光った。
入った。
浅いが、眞田の体勢が崩れた。
今なら決められる。
奎星は神代榊を高く掲げた。
眞田は、その動きを見ていた。
知っている。
奎星が相手を倒し切るとき、殺傷呪文を使わないことを。御影から最初に叩き込まれた、気絶呪文を使うことを。
ステューピファイ。
来る。
「……!」
眞田が杖を振る。
奎星が息を吸った。
「ステュ――」
銀白色の光が、眞田の杖先で膨れ上がる。
「ダムナティオ・メモリアエ!」
「っ!」
奎星は反射的に横へ跳んだ。
ほとんど避けた。
だが、銀白色の光の先端が、左脇腹をわずかに掠めた。
「――っ!」
熱くない。痛くもない。
それなのに、頭の奥で何かを引き抜かれたような感覚が走った。
一瞬。
本当に一瞬だった。
奎星は着地に成功する。
眞田は体勢を崩したままだ。
今なら、まだいける。
奎星は神代榊を向けた。
「…………」
口を開く。
「…………」
言葉が出ない。
奎星の眉が寄った。
赤い光。相手を気絶させる魔法。御影に何度も撃たされた。訓練用の人形を倒した。斎賀にも、神代にも、黒曜にも使った。
分かるはずだった。
なのに。
「……あれ」
奎星の顔が変わる。
「何だっけ」
スズメの目が見開かれた。
「蓮根君?」
奎星は神代榊を向けたまま固まっている。
「赤い……」
何だ。
名前は。
何だった。
頭の中に、穴が空いている。
その呪文があった場所だけが、綺麗に抜け落ちていた。
「……何で」
眞田の目が細くなる。
そして、理解した。
「掠ったか」
奎星が顔を上げる。
眞田の杖が、すでにこちらを向いていた。
「……あ」
次の瞬間、眞田が呪文を唱える。
奎星が思い出せなくなった、その言葉を。
「ステューピファイ!」
赤い閃光が奎星の胸へ真正面から命中した。
「――っ!!」
身体が浮き上がる。
吹き飛ばされた奎星は床へ肩から叩きつけられ、そのまま跳ねて転がった。何度か床を打ち、下がっていたスズメのすぐ横でようやく止まる。
「蓮根君!」
スズメが膝をつく。
「蓮根君、聞こえますか!」
奎星は目を閉じたまま、神代榊を手から離していなかった。
「……っ」
「蓮根君!」
「痛って……」
かすれた声が返る。
スズメの表情がわずかに緩んだ。
「意識はありますか?」
「ある……」
「どこか動かないところは?」
「……多分ない」
「多分では――」
「スズメちゃん」
奎星はゆっくり目を開いた。
「今……」
「はい」
「俺……何忘れた?」
スズメの胸が締めつけられる。
奎星自身にも分かっていない。自分から何が抜け落ちたのか。ただ、さっき唱えられなかった呪文だけは、もう思い出せない。
「……後で確認します」
「そっか」
「今は、動かないでください」
「うん」
奎星が起き上がろうとする。
「待ってください!」
「まだ……」
「駄目です!」
「まだやれるって……」
「駄目です!」
強い声に、奎星の動きが止まった。
スズメの手が、奎星の肩へ置かれている。指先がわずかに震えていた。
その向こうで、眞田が立ち上がる。
服には埃がつき、肩には赤い痕が残っている。呼吸も乱れていた。それでも、杖はまだしっかりと握られていた。
「……驚いたよ」
眞田が言う。
「まさか、ここまでとはね」
奎星が睨みつける。
「うるせえ……」
「でも」
眞田は一度呼吸を整え、さっきまで押されていた事実を隠すように杖を上げた。
「結局、経験が足りない」
奎星の拳が床の上で握られる。
「魔力量が多い。才能もある」
眞田が一歩近づく。
「けれど、たった一つ記憶を奪われただけで動けなくなる」
奎星は歯を食いしばった。
眞田の口元が上がる。
「弱いものだな」
スズメの目が、ゆっくりと眞田へ向いた。
「君の生徒も!!」
静寂が落ちた。
奎星が動こうとする。しかし、まだ身体が言うことを聞かない。
スズメの手が、奎星の肩から離れた。
「スズメちゃん……?」
スズメは立ち上がった。
ゆっくりと、眞田の前へ出る。小さな身体で奎星を庇うように立ち、杖を握り直した。
さっきまで震えていた手は、もう震えていない。
眞田がわずかに眉を上げる。
「烏丸」
スズメは答えなかった。
「やっと戦う気になった?」
「……あなたには」
声は小さかった。
「何?」
スズメが顔を上げる。
「あなたには分かりません」
「何が?」
「人を大切にするということが」
眞田の顔から、わずかに笑みが消えた。
スズメは続ける。
「三年前、相原さんの記憶を失わせたとき、あなたは青ざめていました。自分が取り返しのつかないことをしたと、分かっていたからです」
眞田の目が細くなる。
「何度も病室へ足を運び、謝っていた。けれど、あなたはその失敗を受け入れられなかった」
「それが何だ」
「怖かったのでしょう」
スズメが一歩踏み出す。
「自分が人を傷つけたことを、認めるのが」
「烏丸」
「だから、失敗ではなかったと言い続けた。研究は進んだ。犠牲を無駄にしないためだ。そう言い聞かせて、三年間、研究を続けた」
「やめろ」
眞田の声が初めて強くなった。
奎星は床に座り込んだまま、眞田を見上げていた。
どれだけ怒鳴っても、どれだけ魔法を撃ち込んでも崩れなかった男が、スズメの言葉にだけ明らかに反応している。
「眞田先輩」
スズメが言った。
「あなたは結局、逃げただけです」
眞田の目が見開かれる。
「……なんだって?」
「失敗を受け入れられず、自分が人を傷つけたことを、ただの失敗として受け止めることができず、それから逃げただけです」
「違う」
「違いません」
「僕は!」
初めて、眞田が声を荒らげた。
「僕は三年間、戻す方法を――」
「だからです」
スズメが遮る。
「戻せば、なかったことになると思っている」
「違う!」
「相原さんが失った記憶を戻せば、あなたの失敗も消えると思っている」
「違うと言っている!」
眞田の声が研究室を震わせた。
スズメは一度、自分の胸元へ指を触れた。
「私も、三年前は逃げました」
眞田が黙る。
「怖かった。相原さんの事故から。自分が関わった研究から。だから記録局を辞めて、研究からも離れた」
スズメは背後の奎星を見る。
「でも、この子に教えられました」
「……俺?」
奎星が小さく声を漏らす。
スズメはほんの少しだけ笑った。
「失敗しても、間違えても、怖くても、逃げなければやり直せると」
観測塔で、杖を握ることさえ怖がっていた少年。
常隠島で、何度閉心術に失敗しても立ち上がった少年。
一月一日の夜、自分を庇うために迷わず前へ出た少年。
そして今、記憶を一つ奪われても、まだ立ち上がろうとしている少年。
スズメは眞田を見据えた。
「私の生徒、蓮根君は、絶対に逃げません」
「…………」
「間違えます。すぐ無茶をします。人の話を最後まで聞きません」
「ちょ」
奎星が抗議する。
「蓮根君」
「はい」
反射的に返事をしてしまい、スズメの口元がわずかに緩んだ。
「ですが、間違えたことから逃げない」
スズメは杖を構え直す。
「自分が弱いことからも、知らないことからも、怖いことからも逃げない」
神代に勝てなくても。
大人たちに及ばなくても。
魔法を知らなくても。
怖くても。
奎星は、いつもそこから逃げなかった。
「だから」
スズメの目に、強い光が宿る。
「蓮根君は、弱くなんかありません」
部屋が静まり返った。
眞田の顔から、完全に笑みが消える。
「烏丸……」
スズメは杖を構え直した。
今度は、迷いが一つもない。
奎星は床へ座り込んだまま、その背中を見ていた。
小柄で、自分よりずっと小さい背中。初めて会った日に学校へ連れていってくれた背中。魔法を教えてくれた背中。観測塔で隣を歩いていた背中。
その人が今、自分の前に立っている。
眞田が杖を上げた。
スズメも杖先を向ける。
「弱いのは」
その声は静かだった。
だからこそ、研究室の隅々まで、はっきりと響いた。
「あなたです……!」