マホウトコロ   作:西野圭吾

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第13話 尊敬していました

 

「弱いのは、あなたです……!」

 

スズメの杖先が、眞田大の胸元をまっすぐに捉えた。

 

研究室には、先ほどまでの戦闘の痕跡が生々しく残っていた。倒れた机の脚が床を引っ掻き、破れた羊皮紙が炎の余熱でゆっくりと丸まっている。壁に貼られていた術式図の一部は剥がれ落ち、残った紙片だけが、風もないのに小刻みに揺れていた。

 

床には、奎星が眞田の魔法を受けた跡がある。石材が砕け、赤黒い焦げ目が円形に広がっていた。

 

その奥。

 

黒い台座の上に置かれた硝子玉だけは、何事もなかったかのように静かに光っている。

 

内部を銀色の糸がゆっくりと巡り、時折、遠くで鳴る鈴のような音を立てていた。

 

奎星は、その少し後ろで床へ座り込んでいた。

 

胸には、眞田から受けた《ステューピファイ》の鈍い痛みが残っている。息を吸うたびに肋骨の奥が軋み、左脇腹には《ダムナティオ・メモリアエ》が掠ったときの、痛みとは違う不快な感覚がこびりついていた。

 

頭の中には、綺麗な穴が空いている。

 

何かが抜け落ちた。

 

それだけは分かる。

 

けれど、何が抜けたのかが分からない。

 

赤い光を放つ呪文。

 

何度も使ってきたはずの魔法。

 

御影に初めて教えられたときのことも、訓練で何度も失敗したことも、実戦で相手を倒したことも、すべてが霧の向こうに消えていた。

 

言葉だけが、どうしても出てこない。

 

「……僕が弱い?」

 

眞田が訊いた。

 

その声には、まだ余裕があった。だが、先ほどまでの冷静さとは違う。自分の足元が少しずつ崩れていることを、本人だけが認められずにいるような響きだった。

 

「はい」

 

スズメは即答した。

 

眞田の眉が僅かに動く。

 

「僕は三年間、研究を続けた」

 

「知っています」

 

「君が逃げたあとも」

 

「そうですね」

 

「固定に成功した。抽出した記憶を硝子へ定着させ、対象範囲も指定できるようになった。神代冥司が使っていた術式も解析した。あと一つなんだ」

 

眞田は、杖を握る手へ力を込めた。

 

「あと一つで、全部戻せる」

 

「だから何ですか」

 

「何……?」

 

「それまでに、何人から記憶を奪ったのですか」

 

眞田の顔から、僅かに血の気が引いた。

 

スズメは一歩も引かなかった。杖先を下げることもなく、眞田の目を見据えている。

 

「相原さんから始まって、黒曜の環の関係者、一般社会の人たち。そして私。今度は蓮根君です」

 

「消していない」

 

「同じです」

 

「違う!」

 

眞田の杖が振られた。

 

赤い閃光が、研究室の薄暗がりを切り裂く。

 

スズメは反射的に杖を立てた。

 

「プロテゴ!」

 

透明な防壁が展開し、赤い光が正面からぶつかる。衝撃が防壁の表面を波打たせ、スズメの足元に細かな亀裂が走った。

 

だが、眞田は一発で終わらせるつもりなどなかった。

 

防壁へ魔法が当たった瞬間、彼はすでに次の術式を組み始めている。杖先が床をなぞり、古代文字の一つが赤く点灯した。

 

スズメは防壁を解くと同時に左へ跳んだ。

 

その直後、彼女が立っていた場所から青白い光の柱が噴き上がった。床石が弾け、熱風がスズメの髪を大きく揺らす。

 

着地した瞬間、スズメは身体を捻った。

 

「ステューピファイ!」

 

赤い閃光が眞田へ走る。

 

「プロテゴ!」

 

眞田の前に盾が現れた。赤い光が弾け、火花が周囲へ散る。

 

スズメは止まらない。

 

「インカーセラス!」

 

銀色の縄が床を這い、左右から眞田の足元へ伸びた。

 

眞田は後ろへ跳びながら杖を切り返す。

 

「ディフィンド!」

 

縄が二本とも切断された。

 

しかし、切れた縄の先端は床へ落ちる前に再び跳ね上がった。スズメが術式を維持していたのだ。切断されたはずの銀糸が空中で軌道を変え、眞田の右腕へ巻きつこうとする。

 

眞田は舌打ちし、杖を逆手に持ち替えた。

 

「フリペンド!」

 

空気が爆ぜる。

 

縄が吹き飛び、壁へ叩きつけられた。

 

その瞬間には、スズメが距離を詰めていた。

 

「エクスペリアームス!」

 

赤い光が眞田の杖へ向かう。

 

「プロテゴ!」

 

眞田の防壁が間に合った。

 

杖と防壁がぶつかり、甲高い音が研究室へ響く。眞田の足が床を滑り、背後の机へ腰が当たった。

 

スズメは追撃しなかった。

 

一歩下がり、杖を構えたまま呼吸を整える。

 

眞田もまた、机から身体を離した。

 

二人の間に、数メートルの距離が生まれる。

 

奎星は、息を詰めてその戦いを見ていた。

 

速い。

 

眞田も。

 

スズメも。

 

自分のように大きな魔法を連続して撃ち続ける戦いではない。一発を防ぎ、その防御が終わる前に次の魔法を置く。相手がどちらへ避けるのかを読み、避けた先へ魔法を置く。

 

攻撃。

 

防御。

 

拘束。

 

解除。

 

一つ一つの魔法は見覚えがある。

 

それなのに、二人が繋げると、まるで別の術式のように見えた。

 

眞田が杖を横へ払った。

 

壁に刻まれた三つの古代文字が同時に光る。

 

青白い刃が、異なる角度からスズメへ飛んだ。

 

一つ目。

 

「プロテゴ!」

 

防壁で弾く。

 

二つ目。

 

身体を沈めて避ける。

 

三つ目。

 

「デパルソ!」

 

正面から衝撃をぶつけ、軌道を逸らす。

 

青白い刃が石壁へ突き刺さり、壁の一部が崩れ落ちた。

 

眞田の眉が僅かに上がる。

 

「腕を上げたね」

 

「教師ですから」

 

「魔法史の?」

 

「魔法史教師を舐めないでください」

 

「昔から口だけは達者だった」

 

「あなたに鍛えられました」

 

眞田の表情が、一瞬だけ止まった。

 

その隙を、スズメは見逃さなかった。

 

「ステューピファイ!」

 

赤い光が飛ぶ。

 

眞田は咄嗟に盾を張った。

 

轟音とともに防壁が揺れ、眞田の足が後ろへ一歩下がる。

 

スズメは追わない。

 

追えば、眞田の反撃を受ける。

 

彼女はそれを知っていた。

 

眞田もまた、攻め急がなかった。

 

二人の戦いは、ほぼ互角だった。

 

眞田には、三年間積み上げた古代魔術の知識と、この研究施設そのものを利用できる優位がある。床にも壁にも、彼が組み込んだ術式が刻まれている。杖を振るだけで、研究室の一部を武器へ変えられる。

 

一方で、スズメはこの場所で使われている術式の基礎を知っていた。

 

眞田がどこへ魔力を流し、どの文字を起点に術式を組み上げるのかも分かる。

 

同じ研究室にいたから。

 

同じ資料を読んだから。

 

三年前。

 

同じ研究をしていたから。

 

眞田が杖を上げる。

 

床の文字が再び光った。

 

「先輩」

 

スズメが呼んだ。

 

眞田の手が僅かに止まる。

 

「何だ」

 

「あの実験は」

 

スズメは杖を向けたまま言った。

 

「失敗でした」

 

眞田の顔が固まった。

 

「……違う」

 

「失敗です」

 

「違う」

 

「相原さんは記憶を失いました」

 

「抽出そのものは成功した!」

 

「固定できなかった」

 

「だから改良した!」

 

「対象範囲も制御できなかった」

 

「それも直した!」

 

眞田の声が大きくなる。

 

「だから、あれは無駄じゃなかった!」

 

赤い光が飛ぶ。

 

スズメが防ぐ。

 

「無駄だったとは言っていません!」

 

「同じだ!」

 

「違います!」

 

スズメの声も強くなった。

 

「失敗だったことと、無駄だったことは違います!」

 

眞田が止まる。

 

スズメは杖を下ろさない。

 

「あの日の実験は失敗でした。人へ使う段階ではなかった。私たちは、間違えたんです!」

 

「違う」

 

「間違えました!」

 

「違う!」

 

眞田が杖を振る。

 

赤い閃光。

 

スズメは右へ避けた。

 

二発目。

 

また赤い光。

 

今度は防壁で受ける。

 

三発目。

 

同じ角度。

 

スズメの目が動いた。

 

さっきまでとは違う。

 

眞田の攻撃から、選択肢が減っている。

 

古代文字を組み替え、複数方向から攻撃してきた男が、今は正面から魔法を撃ってくる。

 

一発。

 

防ぐ。

 

また一発。

 

「僕は間違っていない!」

 

「先輩!」

 

「僕は戻そうとしている!」

 

「だからといって!」

 

「三年間やったんだ!」

 

眞田の声が震え始める。

 

「三年間! どうやったら戻せるのか、それだけを考えた!」

 

「…………」

 

「固定した! 範囲も絞った! 必要な知識も集めた! 神代の術式も手に入れた!」

 

「人から奪って!」

 

「戻すためだ!」

 

「許可もなく!」

 

「戻せばいい!」

 

「戻せる保証もないのに!」

 

「戻せる!!」

 

眞田が叫んだ。

 

「僕が戻すんだ!!」

 

その声が研究室の壁に反響した。

 

硝子玉が一斉に震える。

 

ちん、ちん、と小さな音が重なり、まるで無数の人間が遠くで囁いているように聞こえた。

 

スズメの目が揺れる。

 

そこにいたのは、冷静な研究者ではなかった。

 

三年間。

 

一つの失敗を。

 

失敗だったと認められないまま。

 

立ち止まれなくなった男だった。

 

「そうじゃないと……」

 

眞田の声が小さくなる。

 

「そうじゃないと」

 

杖を握る指へ力が入る。

 

「あの実験は……」

 

スズメは何も言わない。

 

眞田の視線が、黒い台座の硝子玉へ向いた。

 

「あの子の記憶は……」

 

相原美里。

 

「僕たちがやったことは……」

 

眞田の呼吸が乱れる。

 

「全部……」

 

スズメは、静かに言った。

 

「無駄にはなりません」

 

眞田が顔を上げる。

 

「失敗だったと認めても」

 

「…………」

 

「相原さんが失ったものは、無駄にはなりません」

 

「分かったようなことを言うな!」

 

眞田の杖が振り抜かれた。

 

「ステューピファイ!」

 

赤い閃光。

 

スズメは横へ跳ぶ。

 

光が肩を掠め、背後の壁へ突き刺さった。

 

眞田は間髪入れずに二発目を放つ。

 

「ステューピファイ!」

 

同じ軌道。

 

スズメは身体を捻り、今度は防壁を展開した。

 

「プロテゴ!」

 

赤い光が弾ける。

 

眞田はさらに杖を上げた。

 

「ステュ――」

 

遅い。

 

スズメの杖が先に動いた。

 

「エクスペリアームス!」

 

赤い光が眞田の手元を掠めた。

 

杖が大きく跳ねる。

 

完全には落ちない。

 

眞田は握り直した。

 

しかし、その一瞬で十分だった。

 

スズメの杖先は、すでに眞田の胸へ向いている。

 

二人の目が合った。

 

眞田の動きが止まった。

 

スズメも、すぐには撃たなかった。

 

三年前。

 

記録局の研究室。

 

机の向かいに座っていた男。

 

古代文字を教えてくれた人。

 

失敗して落ち込んだとき、大丈夫だと言ってくれた人。

 

何も知らなかった自分へ、研究することの面白さを教えてくれた人。

 

尊敬していた。

 

だからこそ。

 

今、苦しかった。

 

「先輩」

 

眞田の目が動く。

 

スズメの声は小さかった。

 

「私は……」

 

一度だけ、息を吸う。

 

「あなたのことを、尊敬していました」

 

眞田の表情が止まった。

 

その言葉は、攻撃よりも深く彼の中へ入った。

 

尊敬していた。

 

過去形。

 

それが何を意味するのか、眞田には分かってしまった。

 

スズメは、もう自分を見上げていない。

 

もう、自分の言葉を正しいものとして受け取っていない。

 

もう、自分の隣へ戻るつもりもない。

 

ほんの一瞬。

 

眞田の杖先が下がった。

 

それで十分だった。

 

「ステューピファイ」

 

赤い閃光が、眞田の胸へ直撃した。

 

「――っ」

 

身体が大きく後ろへ飛ぶ。

 

背中が机へぶつかり、机の上に積まれていた資料が宙へ舞った。眞田はそのまま床へ落ち、石床を滑って壁際で止まった。

 

研究室に静寂が戻る。

 

スズメは杖を下ろさなかった。

 

眞田が動かないことを確認するまで、視線を逸らさない。

 

数秒。

 

十秒。

 

やがて、眞田の指が僅かに動いた。

 

スズメはすぐに杖を振る。

 

「インカーセラス」

 

銀色の縄が伸び、眞田の両腕、胴、両脚へ幾重にも巻きついた。さらに床へ固定された術式が縄へ重なり、魔力を吸収していく。

 

眞田の杖が床へ落ちた。

 

スズメはそれを遠くへ弾き飛ばす。

 

そこで初めて、彼女の肩から力が抜けた。

 

「……」

 

「スズメちゃん」

 

後ろから声がした。

 

振り返る。

 

床に座り込んだ奎星が、呆然とこちらを見ていた。

 

「強……」

 

スズメは少し眉を寄せた。

 

「何です?」

 

「いや」

 

奎星は眞田を見る。

 

それから、スズメを見る。

 

「俺より強くない?」

 

「比較するものではありません」

 

「俺、あいつに負けたんだけど」

 

「あなたは戦い方が雑です」

 

「そこ御影先生と同じこと言う!?」

 

スズメの口元が僅かに緩んだ。

 

しかし、すぐに奎星の表情が変わる。

 

「……今の」

 

「何です?」

 

「最後の魔法」

 

スズメが振り返る。

 

「《ステューピファイ》です」

 

「…………」

 

奎星は、その言葉を頭の中で繰り返した。

 

ステューピファイ。

 

今聞けば意味は分かる。

 

赤い光。

 

気絶呪文。

 

けれど、自分がそれを覚えた日のことは思い出せない。

 

御影に何度も撃たされたことも、訓練場で杖を振り続けたことも、実戦で初めて相手を倒したときの感覚も、すべてが抜け落ちている。

 

「……やっぱ取られてる」

 

スズメの顔が曇った。

 

「はい」

 

奎星は左脇腹へ手を当てた。

 

ほんの少し掠っただけ。

 

それだけで、一つ。

 

自分から消えた。

 

「一つだけで済んだのか、それとも一つしか気づけていないのか……」

 

スズメが呟く。

 

奎星は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。

 

「怖いこと言うなよ」

 

「すみません」

 

「でも、まあ」

 

奎星は眞田を見る。

 

「俺の記憶を盗んだのに、俺のことは倒せたんだな」

 

「それは記憶の問題ではありません」

 

「何で?」

 

「あなたが無茶をしたからです」

 

「それも御影先生と同じ……」

 

「蓮根君」

 

「はい」

 

「今は黙っていてください」

 

「はい」

 

スズメは倒れた眞田を見る。

 

壁一面の資料。

 

無数の硝子玉。

 

そして、人々から切り取られた記憶。

 

その恐ろしさを、改めて理解した。

 

 

同じ頃。

 

透明な結界の向こうでは、真壁征士郎が床へ片膝をついていた。

 

目の前には、研究室の中央に置かれた巨大な硝子球がある。

 

その周囲を銀色の術式が幾重にも巡り、さらに壁際の棚へ細い魔力線が伸びていた。

 

結界の表面には、外からの魔力を弾くための文字が浮かんでいる。

 

一見すると、巨大な一つの術式だった。

 

だが、真壁は違和感を覚えていた。

 

「……違う」

 

斎賀が横から覗き込む。

 

「何が?」

 

「結界そのものと、硝子玉へ負荷を逃がす術式は別だ」

 

御影が振り向いた。

 

「切り離せるのか」

 

「理論上は」

 

「また嫌な言い方をするな」

 

斎賀が言う。

 

真壁は無視した。

 

「最初は、一つの術式に見えた。だが違う。結界を維持する流れの外側へ、別系統の魔力線が重なっている」

 

倉橋が棚を見る。

 

「それが、硝子玉への分散経路ですか」

 

「そうだ」

 

風間が訊く。

 

「そこだけ止めれば?」

 

「先に止めれば、次に結界へ加わった負荷が逃げ場を失う」

 

斎賀が顔をしかめる。

 

「爆発?」

 

「可能性がある」

 

「ほんっと性格悪いな」

 

葛城が中央球の反対側へ回った。

 

「では、結界を止めるのと分散経路を切るのを同時に?」

 

「それも危険です」

 

真壁がすぐに否定する。

 

「僅かでも順序を誤れば、どこへ負荷が流れるか分からない」

 

「じゃあどうする?」

 

斎賀がしゃがみ込む。

 

真壁は答えず、魔力線を見ていた。

 

結界の表面を流れる光。

 

中央球へ集まる線。

 

棚の硝子玉へ分かれる線。

 

そして、ほとんど見えないほど細い、逆向きの線。

 

真壁は目を細めた。

 

「……」

 

「見つけた?」

 

御影が訊く。

 

「まだだ」

 

「急げ」

 

「急かすな」

 

真壁の声が低くなる。

 

「焦って壊せば、この部屋にある記憶が失われる」

 

御影は黙った。

 

奥に奎星とスズメがいる。

 

戦闘が始まっている可能性も高い。

 

それでも、真壁の言う通りだった。

 

この結界を力任せに破れば、硝子玉へ流れた魔力が記憶そのものを焼き切るかもしれない。

 

助けに入るために、救出すべきものを壊す。

 

それだけは避けなければならない。

 

真壁は、術式の流れを追い続けた。

 

一分。

 

二分。

 

誰も急かさなかった。

 

遠くから、かすかな爆発音が聞こえる。

 

斎賀が顔を上げる。

 

「今の、向こうか?」

 

御影が答える。

 

「戦闘が始まっている」

 

「なら、なおさら急がないと」

 

「だから急かすなと言っている」

 

真壁の目が、一箇所で止まった。

 

「……ここだ」

 

斎賀が見る。

 

「何?」

 

「戻りの線がある」

 

「戻り?」

 

「分散先から中央へ戻る魔力線だ。通常は使われていない」

 

斎賀の目が細くなる。

 

「非常時用か」

 

「ああ」

 

真壁が立ち上がった。

 

「負荷が限界を超えた場合、一度中央球へ戻し、術式全体を停止するための経路だ」

 

「要するに」

 

斎賀が笑う。

 

「自分で止めるための道は作ってあったわけだ」

 

「研究施設だからな。完全に暴走した場合の停止機構くらいは必要だったのだろう」

 

御影が短く訊く。

 

「使えるか」

 

真壁は数秒考えた。

 

「ああ」

 

そして全員を見た。

 

「ただし、一人でもずれれば硝子玉へ負荷が流れる」

 

倉橋が杖を構える。

 

「指示を」

 

風間も頷く。

 

葛城はすでに反対側へ移動していた。

 

真壁は配置を確認する。

 

「倉橋君、北側の接続を固定。風間君は西。葛城さんは東」

 

「はい」

 

「了解」

 

「分かりました」

 

「玄弥、南側だ」

 

斎賀が眉を上げる。

 

「俺?」

 

「黒曜系の術式に一番慣れている」

 

「信用されてる?」

 

「必要だから使っているだけだ」

 

「はいはい」

 

「玄一郎」

 

御影を見る。

 

「中央球の流れが逆転した瞬間、結界維持部だけを止めろ」

 

「壊さずにか」

 

「ああ」

 

御影の眉が僅かに寄る。

 

「面倒だな」

 

「できるだろう」

 

「誰に言っている」

 

斎賀が笑う。

 

「出た」

 

「黙れ」

 

六人が配置につく。

 

真壁は中央へ立った。

 

全員を見る。

 

「絶対に強く流すな。必要最低限だ」

 

斎賀が御影を見る。

 

「聞いた?」

 

「お前に言っている」

 

「二人ともだ!」

 

真壁が怒鳴る。

 

「はい」

 

珍しく二人の返事が重なった。

 

真壁は深く息を吸った。

 

「行くぞ」

 

杖を中央球へ向ける。

 

「三」

 

部屋が静まる。

 

「二」

 

銀色の光が揺れる。

 

「一」

 

六本の杖から、ごく細い魔力が流れた。

 

中央球を囲む術式が逆回転する。

 

最初は、何も起こらなかった。

 

次の瞬間、結界の表面に無数の亀裂のような光が走った。

 

ちん。

 

壁の硝子玉が一つ鳴る。

 

続いて、別の硝子玉が鳴る。

 

ちん、ちん、ちん。

 

音が次第に重なり、研究室全体が巨大な楽器になったようだった。

 

「まだだ」

 

真壁が言う。

 

「流れを維持しろ」

 

斎賀の額に汗が浮かぶ。

 

「これ、いつまで?」

 

「黙っていろ」

 

「はいはい」

 

中央球の光が、ゆっくりと逆向きへ回り始める。

 

御影の目が鋭くなった。

 

「今だ!」

 

真壁が叫ぶ。

 

御影の杖が一度だけ振られた。

 

魔法は大きくない。

 

爆発もしない。

 

眩しい光さえ出ない。

 

ただ、結界の中心を流れていた一本の魔力線だけが、ぷつりと切れた。

 

透明な壁が大きく揺れる。

 

一瞬、棚の硝子玉がすべて同時に明滅した。

 

倉橋が息を呑む。

 

「流れが跳ねます!」

 

「固定しろ!」

 

真壁が叫ぶ。

 

倉橋と風間が同時に杖を押し込み、北と西の接続を固定する。

 

葛城が東側の術式を押さえ、斎賀が南側へ流れた黒い魔力を受け止めた。

 

「重い!」

 

「耐えろ!」

 

「簡単に言うな!」

 

御影が一歩踏み込む。

 

「玄弥、左へ流せ!」

 

「分かってる!」

 

斎賀が杖を捻る。

 

黒い魔力が中央球へ戻り、銀色の術式へ吸い込まれていく。

 

真壁は最後の線を見つめた。

 

「あと一つ」

 

「どこだ!」

 

御影が叫ぶ。

 

「中央の下だ」

 

「見えない」

 

「見えなくても切れ」

 

「無茶を言うな」

 

「お前ならできる」

 

御影が舌打ちした。

 

杖先を床へ向ける。

 

「レダクト」

 

小さな衝撃が床へ走った。

 

石材が一枚だけ浮き上がる。

 

その下に、細い銀色の線があった。

 

御影は迷わず杖を振る。

 

「ディフィンド」

 

線が切れた。

 

結界が静かに消えた。

 

音もなく。

 

光もなく。

 

ただ、そこにあった透明な壁が、最初から存在しなかったかのように消えた。

 

斎賀が息を吐く。

 

「……やった」

 

真壁はもう走り出していた。

 

「奥へ!」

 

御影も続く。

 

倉橋、風間、葛城。

 

斎賀。

 

六人が一斉に、奎星とスズメが消えた廊下へ駆け込んだ。

 

 

足音が聞こえた。

 

奎星が顔を上げる。

 

「……来た」

 

スズメも扉を見る。

 

直後。

 

勢いよく扉が開いた。

 

最初に入ってきたのは御影だった。

 

杖を構え、部屋全体を一瞬で確認する。

 

倒れて拘束されている眞田。

 

立っているスズメ。

 

床に座り込んでいる奎星。

 

黒い台座の上の硝子玉。

 

御影の視線が最後に奎星で止まった。

 

「蓮根」

 

「先生」

 

御影はすぐ奎星の前へしゃがみ込んだ。

 

「どこをやられた」

 

「胸と……あと、記憶ちょっと」

 

御影の顔が止まる。

 

「何?」

 

真壁が入ってくる。

 

「記憶?」

 

スズメが答えた。

 

「《ダムナティオ・メモリアエ》が掠りました。一部だけ抽出された可能性があります」

 

「何を失った」

 

「ステューピファイ」

 

奎星が言う。

 

「多分」

 

真壁の表情が険しくなる。

 

「他には?」

 

「分かんない」

 

「あとで詳しく検査する」

 

その間に、倉橋と風間が眞田の左右へ回った。葛城が杖を回収し、床へ落ちた魔法具を遠ざける。

 

斎賀は拘束された眞田を見下ろした。

 

「……俺ら、いらなかった?」

 

スズメが答える。

 

「結界を解除していただいたので必要でした」

 

「よかった」

 

「玄弥」

 

真壁の声が飛ぶ。

 

「ふざけていないで手伝え」

 

「はいはい」

 

眞田が僅かに目を開いた。

 

気絶呪文の効果が薄れ始めたらしい。

 

倉橋がすぐに魔力拘束具を両手首へ装着する。

 

「眞田大。魔法省監察局です。身柄を拘束します」

 

眞田は抵抗しなかった。

 

視線だけを動かす。

 

最初に。

 

スズメを見る。

 

スズメは見返さなかった。

 

眞田の目がほんの僅かに伏せられる。

 

その横で、真壁は黒い台座の前へ立っていた。

 

「烏丸先生」

 

「はい」

 

「これが?」

 

スズメもそちらを見る。

 

透明な硝子玉。

 

内部を、銀色の糸が静かに巡っている。

 

「私から一月一日に抽出された記憶です。眞田先輩本人が、そう説明しました」

 

真壁は触れなかった。

 

杖を振る。

 

透明な保存膜が何重にも硝子玉を包み込む。

 

さらに専用の黒い保護箱を取り出し、台座の周囲ごと魔力反応を固定する。

 

「この場では動かさない」

 

奎星が驚く。

 

「持って帰らないの?」

 

「今すぐはな」

 

「何で!」

 

「保管術式との接続状態が分からない。下手に外して中身へ影響が出たらどうする」

 

「……あ」

 

奎星は黙った。

 

真壁は周囲の資料へ目を向ける。

 

「施設全体を封鎖する。硝子玉も資料も、位置を記録してから一つずつ回収する」

 

壁の向こうには、数え切れない記憶がある。

 

今度こそ。

 

誰にも触れさせない。

 

御影は奎星の前で片膝をついたまま訊いた。

 

「立てるか」

 

「余裕」

 

奎星は床へ手をつき、立ち上がろうとした。

 

「っ……」

 

膝が折れた。

 

御影が腕を掴む。

 

「余裕?」

 

「今のは床が悪い」

 

「床のせいにするな」

 

「あとちょっと眞田のせい」

 

御影は深く息を吐いた。

 

そして奎星へ背を向けてしゃがむ。

 

「乗れ」

 

奎星が止まった。

 

「……え」

 

「歩けないんだろう」

 

「いやでも」

 

「早くしろ」

 

「先生がおんぶ?」

 

御影が振り返る。

 

「置いていくぞ」

 

「乗ります!」

 

奎星は素直に御影の背中へ乗った。

 

四十七歳とは思えないほど安定している。

 

「うわ、でか」

 

「降ろすぞ」

 

「ごめんなさい」

 

御影が立ち上がる。

 

奎星の身体が軽々と持ち上がった。

 

廊下へ向かいながら、奎星はしばらく黙っていた。

 

その背中に揺られながら、やがて小さく呟く。

 

「先生」

 

「何だ」

 

「俺……負けちゃった」

 

御影は前を向いたまま答えた。

 

「ああ」

 

慰める様子はなかった。

 

否定もしない。

 

「胸に刻め」

 

奎星は少し黙った。

 

「そこ慰めてくんないの?」

 

「何のために」

 

「生徒が負けて落ち込んでるんだけど」

 

「負けたことを忘れるな」

 

御影の声はいつも通りだった。

 

「次は同じ負け方をするな」

 

奎星は、ほんの少しだけ笑った。

 

「……うん」

 

その返事を聞いても、御影は振り返らなかった。

 

ただ、歩く速度だけが、ほんの僅かにゆっくりになった。

 

 

数時間後。

 

東京・霞が関。

 

日本魔法省地下庁舎。

 

群馬の研究施設は、監察局と機密保持局によって完全に封鎖された。

 

内部にあった硝子玉は、その場で一つずつ位置、魔力反応、接続先を記録したうえで回収作業へ入ることになった。

 

スズメの硝子玉も同じだった。

 

すぐに戻すことはしない。

 

できない。

 

けれど、少なくとも、どこにあるのかはもう分かっている。

 

眞田大も確保された。

 

一月一日の列車脱線。

 

選択的記憶抽出。

 

黒曜の環関係者六人への記憶干渉。

 

一般社会を含む複数の被害。

 

これから調べなければならないことは、山ほどある。

 

魔法省へ戻ったあと、七人は二手に分かれることになった。

 

真壁。

 

斎賀。

 

倉橋、風間、葛城。

 

そして、拘束された眞田。

 

彼らはこのまま監察局へ向かう。

 

御影、奎星、スズメはマホウトコロへ戻る。奎星は学校の医務室で、改めて記憶と身体の両方を検査することになっていた。

 

地下庁舎の分岐廊下。

 

眞田の両手には魔力拘束具が嵌められている。

 

倉橋と風間が左右につき、葛城が少し後ろを歩く。

 

なぜか斎賀もその横にいる。

 

「俺が護送する側なの、変な感じするな」

 

真壁が睨む。

 

「余計なことを言うな」

 

「だって数か月前まで俺、そっち側――」

 

「言うな」

 

「はい」

 

眞田は何も言わなかった。

 

暴れもしない。

 

逃げようともしない。

 

ただ静かに歩いている。

 

スズメも、施設を出てから一度も眞田へ話しかけなかった。

 

眞田が何度かこちらを見たことには気づいていた。

 

それでも、目を合わせなかった。

 

もう、言うべきことは言った。

 

三年前に言えなかったことも。

 

今日。

 

全部。

 

言った。

 

真壁が足を止める。

 

「では、我々はこちらだ」

 

御影が頷く。

 

「ああ」

 

「蓮根君は必ず検査を受けること」

 

「分かってる」

 

「本当に?」

 

「何でみんな俺に同じ確認するの?」

 

「実績です」

 

スズメが即答した。

 

「スズメちゃんまで!」

 

斎賀が笑う。

 

「じゃあな、蓮根。また記憶抜かれんなよ」

 

「縁起でもねえこと言うな!」

 

「玄弥」

 

「はいはい」

 

眞田たちが歩き出す。

 

スズメは、その背中を見送ろうとはしなかった。

 

御影も踵を返す。

 

「行くぞ」

 

「うん」

 

三人も反対方向へ歩き始めた。

 

一歩。

 

二歩。

 

三歩。

 

そのとき。

 

奎星が突然止まった。

 

「あ」

 

御影が嫌な予感を覚えたように振り返る。

 

「何だ」

 

奎星は答えない。

 

後ろを見る。

 

眞田たちは、まだ廊下の先にいる。

 

「なあ、眞田!」

 

大声が響いた。

 

全員が止まった。

 

真壁がものすごく嫌そうな顔で振り返る。

 

斎賀は面白そうに振り返る。

 

倉橋たち三人も振り返った。

 

そして、眞田がゆっくりと顔だけをこちらへ向けた。

 

「……?」

 

奎星は一度、御影とスズメを確認した。

 

そして、少しだけ声を小さくする。

 

小さくしたつもりだった。

 

「スズメちゃんが俺のことどう思ってたかだけ教えてくんない?」

 

ぺしん。

 

「いったぁ〜!!」

 

御影の平手が、奎星の後頭部へ綺麗に入った。

 

「何すんの!?」

 

「馬鹿なことを聞くな」

 

「だって!」

 

「聞くな」

 

「こいつ見たんだぞ!? スズメちゃんの記憶!」

 

スズメの肩がびくりと動いた。

 

そのことを、今、言う必要があるだろうか。

 

いや。

 

ない。

 

絶対にない。

 

眞田は見ている。

 

自分が奎星と過ごした半年。

 

観測塔。

 

水月庵。

 

星迎祭。

 

常隠島。

 

クリスマス。

 

初詣。

 

自分が何を考え、どんな顔をし、どんな気持ちを抱いていたのか。

 

どこまで見たのかは分からない。

 

できれば、今は永遠に黙っていてほしい。

 

スズメは平静を装っていた。

 

装っているつもりだった。

 

しかし、耳が少しだけ赤い。

 

眞田は奎星を見る。

 

次に、スズメを見る。

 

スズメは目を合わせない。

 

頼むから、余計なことを言わないでください。

 

三年前の先輩へ向けて、今日初めて、心の底からそう思った。

 

数秒の沈黙。

 

やがて、眞田の口元がほんの僅かに緩んだ。

 

「……はっ」

 

短い笑いだった。

 

今日初めて聞く、研究者でも術者でもない、昔の眞田に少しだけ似た笑い方。

 

「まあ」

 

奎星が身を乗り出す。

 

「何!?」

 

眞田は答えた。

 

「頑張れ、蓮根」

 

そして、踵を返した。

 

奎星の顔が止まる。

 

「…………」

 

三秒。

 

「が、頑張れって何!?」

 

眞田は振り返らない。

 

「何を!? 何を頑張ればいいんだよ!」

 

御影が奎星の襟を掴んだ。

 

「帰るぞ、蓮根」

 

「待って待って! 今めちゃくちゃ重要なとこ!」

 

そのまま引きずられる。

 

「教えろよ眞田!」

 

廊下の向こうで、斎賀が吹き出した。

 

真壁が額を押さえている。

 

倉橋は何とも言えない顔をし、風間は明らかに笑いを堪えていた。葛城だけは平然としている。

 

「眞田ぁ! 頑張れって何だよ!」

 

「蓮根」

 

御影の声が低くなる。

 

「はい!」

 

「黙れ」

 

「でも!」

 

後ろから、さらに冷たい声が飛んだ。

 

「黙ってください、蓮根君」

 

奎星が振り返る。

 

スズメは、顔こそいつも通りだったが、耳がまだ赤い。

 

「え、何でスズメちゃんまで怒ってんの?」

 

「黙ってください」

 

「何で!?」

 

「黙ってください!」

 

「はい!」

 

廊下の向こうへ、眞田の姿が消えていく。

 

結局、奎星が聞きたかった答えは教えてもらえなかった。

 

スズメの失った記憶も、まだ戻ってはいない。

 

相原美里をはじめとする被害者たちの記憶も、どうすれば安全に戻せるのか分からないままだ。

 

奎星自身も、今日、一つの記憶を失った。

 

何も終わってはいない。

 

それでも、三年間止まらなかった男は止まった。

 

奪われた記憶がどこにあるのかも分かった。

 

そして、失敗だったと、ようやく誰かが本人へ言った。

 

廊下を歩きながら、奎星がまた口を開く。

 

「ねえスズメちゃん」

 

「何です」

 

「頑張れって何だと思う?」

 

「知りません」

 

「絶対何か知ってる顔してる!」

 

「知りません!」

 

「耳赤いよ」

 

「蓮根君」

 

「はい」

 

「今度は私が叩きますよ」

 

「何で!?」

 

御影は深くため息を吐いた。

 

その少し後ろで、スズメは誰にも見えないように、ほんの少しだけ口元を緩めていた。

 

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