「弱いのは、あなたです……!」
スズメの杖先が、眞田大の胸元をまっすぐに捉えた。
研究室には、先ほどまでの戦闘の痕跡が生々しく残っていた。倒れた机の脚が床を引っ掻き、破れた羊皮紙が炎の余熱でゆっくりと丸まっている。壁に貼られていた術式図の一部は剥がれ落ち、残った紙片だけが、風もないのに小刻みに揺れていた。
床には、奎星が眞田の魔法を受けた跡がある。石材が砕け、赤黒い焦げ目が円形に広がっていた。
その奥。
黒い台座の上に置かれた硝子玉だけは、何事もなかったかのように静かに光っている。
内部を銀色の糸がゆっくりと巡り、時折、遠くで鳴る鈴のような音を立てていた。
奎星は、その少し後ろで床へ座り込んでいた。
胸には、眞田から受けた《ステューピファイ》の鈍い痛みが残っている。息を吸うたびに肋骨の奥が軋み、左脇腹には《ダムナティオ・メモリアエ》が掠ったときの、痛みとは違う不快な感覚がこびりついていた。
頭の中には、綺麗な穴が空いている。
何かが抜け落ちた。
それだけは分かる。
けれど、何が抜けたのかが分からない。
赤い光を放つ呪文。
何度も使ってきたはずの魔法。
御影に初めて教えられたときのことも、訓練で何度も失敗したことも、実戦で相手を倒したことも、すべてが霧の向こうに消えていた。
言葉だけが、どうしても出てこない。
「……僕が弱い?」
眞田が訊いた。
その声には、まだ余裕があった。だが、先ほどまでの冷静さとは違う。自分の足元が少しずつ崩れていることを、本人だけが認められずにいるような響きだった。
「はい」
スズメは即答した。
眞田の眉が僅かに動く。
「僕は三年間、研究を続けた」
「知っています」
「君が逃げたあとも」
「そうですね」
「固定に成功した。抽出した記憶を硝子へ定着させ、対象範囲も指定できるようになった。神代冥司が使っていた術式も解析した。あと一つなんだ」
眞田は、杖を握る手へ力を込めた。
「あと一つで、全部戻せる」
「だから何ですか」
「何……?」
「それまでに、何人から記憶を奪ったのですか」
眞田の顔から、僅かに血の気が引いた。
スズメは一歩も引かなかった。杖先を下げることもなく、眞田の目を見据えている。
「相原さんから始まって、黒曜の環の関係者、一般社会の人たち。そして私。今度は蓮根君です」
「消していない」
「同じです」
「違う!」
眞田の杖が振られた。
赤い閃光が、研究室の薄暗がりを切り裂く。
スズメは反射的に杖を立てた。
「プロテゴ!」
透明な防壁が展開し、赤い光が正面からぶつかる。衝撃が防壁の表面を波打たせ、スズメの足元に細かな亀裂が走った。
だが、眞田は一発で終わらせるつもりなどなかった。
防壁へ魔法が当たった瞬間、彼はすでに次の術式を組み始めている。杖先が床をなぞり、古代文字の一つが赤く点灯した。
スズメは防壁を解くと同時に左へ跳んだ。
その直後、彼女が立っていた場所から青白い光の柱が噴き上がった。床石が弾け、熱風がスズメの髪を大きく揺らす。
着地した瞬間、スズメは身体を捻った。
「ステューピファイ!」
赤い閃光が眞田へ走る。
「プロテゴ!」
眞田の前に盾が現れた。赤い光が弾け、火花が周囲へ散る。
スズメは止まらない。
「インカーセラス!」
銀色の縄が床を這い、左右から眞田の足元へ伸びた。
眞田は後ろへ跳びながら杖を切り返す。
「ディフィンド!」
縄が二本とも切断された。
しかし、切れた縄の先端は床へ落ちる前に再び跳ね上がった。スズメが術式を維持していたのだ。切断されたはずの銀糸が空中で軌道を変え、眞田の右腕へ巻きつこうとする。
眞田は舌打ちし、杖を逆手に持ち替えた。
「フリペンド!」
空気が爆ぜる。
縄が吹き飛び、壁へ叩きつけられた。
その瞬間には、スズメが距離を詰めていた。
「エクスペリアームス!」
赤い光が眞田の杖へ向かう。
「プロテゴ!」
眞田の防壁が間に合った。
杖と防壁がぶつかり、甲高い音が研究室へ響く。眞田の足が床を滑り、背後の机へ腰が当たった。
スズメは追撃しなかった。
一歩下がり、杖を構えたまま呼吸を整える。
眞田もまた、机から身体を離した。
二人の間に、数メートルの距離が生まれる。
奎星は、息を詰めてその戦いを見ていた。
速い。
眞田も。
スズメも。
自分のように大きな魔法を連続して撃ち続ける戦いではない。一発を防ぎ、その防御が終わる前に次の魔法を置く。相手がどちらへ避けるのかを読み、避けた先へ魔法を置く。
攻撃。
防御。
拘束。
解除。
一つ一つの魔法は見覚えがある。
それなのに、二人が繋げると、まるで別の術式のように見えた。
眞田が杖を横へ払った。
壁に刻まれた三つの古代文字が同時に光る。
青白い刃が、異なる角度からスズメへ飛んだ。
一つ目。
「プロテゴ!」
防壁で弾く。
二つ目。
身体を沈めて避ける。
三つ目。
「デパルソ!」
正面から衝撃をぶつけ、軌道を逸らす。
青白い刃が石壁へ突き刺さり、壁の一部が崩れ落ちた。
眞田の眉が僅かに上がる。
「腕を上げたね」
「教師ですから」
「魔法史の?」
「魔法史教師を舐めないでください」
「昔から口だけは達者だった」
「あなたに鍛えられました」
眞田の表情が、一瞬だけ止まった。
その隙を、スズメは見逃さなかった。
「ステューピファイ!」
赤い光が飛ぶ。
眞田は咄嗟に盾を張った。
轟音とともに防壁が揺れ、眞田の足が後ろへ一歩下がる。
スズメは追わない。
追えば、眞田の反撃を受ける。
彼女はそれを知っていた。
眞田もまた、攻め急がなかった。
二人の戦いは、ほぼ互角だった。
眞田には、三年間積み上げた古代魔術の知識と、この研究施設そのものを利用できる優位がある。床にも壁にも、彼が組み込んだ術式が刻まれている。杖を振るだけで、研究室の一部を武器へ変えられる。
一方で、スズメはこの場所で使われている術式の基礎を知っていた。
眞田がどこへ魔力を流し、どの文字を起点に術式を組み上げるのかも分かる。
同じ研究室にいたから。
同じ資料を読んだから。
三年前。
同じ研究をしていたから。
眞田が杖を上げる。
床の文字が再び光った。
「先輩」
スズメが呼んだ。
眞田の手が僅かに止まる。
「何だ」
「あの実験は」
スズメは杖を向けたまま言った。
「失敗でした」
眞田の顔が固まった。
「……違う」
「失敗です」
「違う」
「相原さんは記憶を失いました」
「抽出そのものは成功した!」
「固定できなかった」
「だから改良した!」
「対象範囲も制御できなかった」
「それも直した!」
眞田の声が大きくなる。
「だから、あれは無駄じゃなかった!」
赤い光が飛ぶ。
スズメが防ぐ。
「無駄だったとは言っていません!」
「同じだ!」
「違います!」
スズメの声も強くなった。
「失敗だったことと、無駄だったことは違います!」
眞田が止まる。
スズメは杖を下ろさない。
「あの日の実験は失敗でした。人へ使う段階ではなかった。私たちは、間違えたんです!」
「違う」
「間違えました!」
「違う!」
眞田が杖を振る。
赤い閃光。
スズメは右へ避けた。
二発目。
また赤い光。
今度は防壁で受ける。
三発目。
同じ角度。
スズメの目が動いた。
さっきまでとは違う。
眞田の攻撃から、選択肢が減っている。
古代文字を組み替え、複数方向から攻撃してきた男が、今は正面から魔法を撃ってくる。
一発。
防ぐ。
また一発。
「僕は間違っていない!」
「先輩!」
「僕は戻そうとしている!」
「だからといって!」
「三年間やったんだ!」
眞田の声が震え始める。
「三年間! どうやったら戻せるのか、それだけを考えた!」
「…………」
「固定した! 範囲も絞った! 必要な知識も集めた! 神代の術式も手に入れた!」
「人から奪って!」
「戻すためだ!」
「許可もなく!」
「戻せばいい!」
「戻せる保証もないのに!」
「戻せる!!」
眞田が叫んだ。
「僕が戻すんだ!!」
その声が研究室の壁に反響した。
硝子玉が一斉に震える。
ちん、ちん、と小さな音が重なり、まるで無数の人間が遠くで囁いているように聞こえた。
スズメの目が揺れる。
そこにいたのは、冷静な研究者ではなかった。
三年間。
一つの失敗を。
失敗だったと認められないまま。
立ち止まれなくなった男だった。
「そうじゃないと……」
眞田の声が小さくなる。
「そうじゃないと」
杖を握る指へ力が入る。
「あの実験は……」
スズメは何も言わない。
眞田の視線が、黒い台座の硝子玉へ向いた。
「あの子の記憶は……」
相原美里。
「僕たちがやったことは……」
眞田の呼吸が乱れる。
「全部……」
スズメは、静かに言った。
「無駄にはなりません」
眞田が顔を上げる。
「失敗だったと認めても」
「…………」
「相原さんが失ったものは、無駄にはなりません」
「分かったようなことを言うな!」
眞田の杖が振り抜かれた。
「ステューピファイ!」
赤い閃光。
スズメは横へ跳ぶ。
光が肩を掠め、背後の壁へ突き刺さった。
眞田は間髪入れずに二発目を放つ。
「ステューピファイ!」
同じ軌道。
スズメは身体を捻り、今度は防壁を展開した。
「プロテゴ!」
赤い光が弾ける。
眞田はさらに杖を上げた。
「ステュ――」
遅い。
スズメの杖が先に動いた。
「エクスペリアームス!」
赤い光が眞田の手元を掠めた。
杖が大きく跳ねる。
完全には落ちない。
眞田は握り直した。
しかし、その一瞬で十分だった。
スズメの杖先は、すでに眞田の胸へ向いている。
二人の目が合った。
眞田の動きが止まった。
スズメも、すぐには撃たなかった。
三年前。
記録局の研究室。
机の向かいに座っていた男。
古代文字を教えてくれた人。
失敗して落ち込んだとき、大丈夫だと言ってくれた人。
何も知らなかった自分へ、研究することの面白さを教えてくれた人。
尊敬していた。
だからこそ。
今、苦しかった。
「先輩」
眞田の目が動く。
スズメの声は小さかった。
「私は……」
一度だけ、息を吸う。
「あなたのことを、尊敬していました」
眞田の表情が止まった。
その言葉は、攻撃よりも深く彼の中へ入った。
尊敬していた。
過去形。
それが何を意味するのか、眞田には分かってしまった。
スズメは、もう自分を見上げていない。
もう、自分の言葉を正しいものとして受け取っていない。
もう、自分の隣へ戻るつもりもない。
ほんの一瞬。
眞田の杖先が下がった。
それで十分だった。
「ステューピファイ」
赤い閃光が、眞田の胸へ直撃した。
「――っ」
身体が大きく後ろへ飛ぶ。
背中が机へぶつかり、机の上に積まれていた資料が宙へ舞った。眞田はそのまま床へ落ち、石床を滑って壁際で止まった。
研究室に静寂が戻る。
スズメは杖を下ろさなかった。
眞田が動かないことを確認するまで、視線を逸らさない。
数秒。
十秒。
やがて、眞田の指が僅かに動いた。
スズメはすぐに杖を振る。
「インカーセラス」
銀色の縄が伸び、眞田の両腕、胴、両脚へ幾重にも巻きついた。さらに床へ固定された術式が縄へ重なり、魔力を吸収していく。
眞田の杖が床へ落ちた。
スズメはそれを遠くへ弾き飛ばす。
そこで初めて、彼女の肩から力が抜けた。
「……」
「スズメちゃん」
後ろから声がした。
振り返る。
床に座り込んだ奎星が、呆然とこちらを見ていた。
「強……」
スズメは少し眉を寄せた。
「何です?」
「いや」
奎星は眞田を見る。
それから、スズメを見る。
「俺より強くない?」
「比較するものではありません」
「俺、あいつに負けたんだけど」
「あなたは戦い方が雑です」
「そこ御影先生と同じこと言う!?」
スズメの口元が僅かに緩んだ。
しかし、すぐに奎星の表情が変わる。
「……今の」
「何です?」
「最後の魔法」
スズメが振り返る。
「《ステューピファイ》です」
「…………」
奎星は、その言葉を頭の中で繰り返した。
ステューピファイ。
今聞けば意味は分かる。
赤い光。
気絶呪文。
けれど、自分がそれを覚えた日のことは思い出せない。
御影に何度も撃たされたことも、訓練場で杖を振り続けたことも、実戦で初めて相手を倒したときの感覚も、すべてが抜け落ちている。
「……やっぱ取られてる」
スズメの顔が曇った。
「はい」
奎星は左脇腹へ手を当てた。
ほんの少し掠っただけ。
それだけで、一つ。
自分から消えた。
「一つだけで済んだのか、それとも一つしか気づけていないのか……」
スズメが呟く。
奎星は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「怖いこと言うなよ」
「すみません」
「でも、まあ」
奎星は眞田を見る。
「俺の記憶を盗んだのに、俺のことは倒せたんだな」
「それは記憶の問題ではありません」
「何で?」
「あなたが無茶をしたからです」
「それも御影先生と同じ……」
「蓮根君」
「はい」
「今は黙っていてください」
「はい」
スズメは倒れた眞田を見る。
壁一面の資料。
無数の硝子玉。
そして、人々から切り取られた記憶。
その恐ろしさを、改めて理解した。
*
同じ頃。
透明な結界の向こうでは、真壁征士郎が床へ片膝をついていた。
目の前には、研究室の中央に置かれた巨大な硝子球がある。
その周囲を銀色の術式が幾重にも巡り、さらに壁際の棚へ細い魔力線が伸びていた。
結界の表面には、外からの魔力を弾くための文字が浮かんでいる。
一見すると、巨大な一つの術式だった。
だが、真壁は違和感を覚えていた。
「……違う」
斎賀が横から覗き込む。
「何が?」
「結界そのものと、硝子玉へ負荷を逃がす術式は別だ」
御影が振り向いた。
「切り離せるのか」
「理論上は」
「また嫌な言い方をするな」
斎賀が言う。
真壁は無視した。
「最初は、一つの術式に見えた。だが違う。結界を維持する流れの外側へ、別系統の魔力線が重なっている」
倉橋が棚を見る。
「それが、硝子玉への分散経路ですか」
「そうだ」
風間が訊く。
「そこだけ止めれば?」
「先に止めれば、次に結界へ加わった負荷が逃げ場を失う」
斎賀が顔をしかめる。
「爆発?」
「可能性がある」
「ほんっと性格悪いな」
葛城が中央球の反対側へ回った。
「では、結界を止めるのと分散経路を切るのを同時に?」
「それも危険です」
真壁がすぐに否定する。
「僅かでも順序を誤れば、どこへ負荷が流れるか分からない」
「じゃあどうする?」
斎賀がしゃがみ込む。
真壁は答えず、魔力線を見ていた。
結界の表面を流れる光。
中央球へ集まる線。
棚の硝子玉へ分かれる線。
そして、ほとんど見えないほど細い、逆向きの線。
真壁は目を細めた。
「……」
「見つけた?」
御影が訊く。
「まだだ」
「急げ」
「急かすな」
真壁の声が低くなる。
「焦って壊せば、この部屋にある記憶が失われる」
御影は黙った。
奥に奎星とスズメがいる。
戦闘が始まっている可能性も高い。
それでも、真壁の言う通りだった。
この結界を力任せに破れば、硝子玉へ流れた魔力が記憶そのものを焼き切るかもしれない。
助けに入るために、救出すべきものを壊す。
それだけは避けなければならない。
真壁は、術式の流れを追い続けた。
一分。
二分。
誰も急かさなかった。
遠くから、かすかな爆発音が聞こえる。
斎賀が顔を上げる。
「今の、向こうか?」
御影が答える。
「戦闘が始まっている」
「なら、なおさら急がないと」
「だから急かすなと言っている」
真壁の目が、一箇所で止まった。
「……ここだ」
斎賀が見る。
「何?」
「戻りの線がある」
「戻り?」
「分散先から中央へ戻る魔力線だ。通常は使われていない」
斎賀の目が細くなる。
「非常時用か」
「ああ」
真壁が立ち上がった。
「負荷が限界を超えた場合、一度中央球へ戻し、術式全体を停止するための経路だ」
「要するに」
斎賀が笑う。
「自分で止めるための道は作ってあったわけだ」
「研究施設だからな。完全に暴走した場合の停止機構くらいは必要だったのだろう」
御影が短く訊く。
「使えるか」
真壁は数秒考えた。
「ああ」
そして全員を見た。
「ただし、一人でもずれれば硝子玉へ負荷が流れる」
倉橋が杖を構える。
「指示を」
風間も頷く。
葛城はすでに反対側へ移動していた。
真壁は配置を確認する。
「倉橋君、北側の接続を固定。風間君は西。葛城さんは東」
「はい」
「了解」
「分かりました」
「玄弥、南側だ」
斎賀が眉を上げる。
「俺?」
「黒曜系の術式に一番慣れている」
「信用されてる?」
「必要だから使っているだけだ」
「はいはい」
「玄一郎」
御影を見る。
「中央球の流れが逆転した瞬間、結界維持部だけを止めろ」
「壊さずにか」
「ああ」
御影の眉が僅かに寄る。
「面倒だな」
「できるだろう」
「誰に言っている」
斎賀が笑う。
「出た」
「黙れ」
六人が配置につく。
真壁は中央へ立った。
全員を見る。
「絶対に強く流すな。必要最低限だ」
斎賀が御影を見る。
「聞いた?」
「お前に言っている」
「二人ともだ!」
真壁が怒鳴る。
「はい」
珍しく二人の返事が重なった。
真壁は深く息を吸った。
「行くぞ」
杖を中央球へ向ける。
「三」
部屋が静まる。
「二」
銀色の光が揺れる。
「一」
六本の杖から、ごく細い魔力が流れた。
中央球を囲む術式が逆回転する。
最初は、何も起こらなかった。
次の瞬間、結界の表面に無数の亀裂のような光が走った。
ちん。
壁の硝子玉が一つ鳴る。
続いて、別の硝子玉が鳴る。
ちん、ちん、ちん。
音が次第に重なり、研究室全体が巨大な楽器になったようだった。
「まだだ」
真壁が言う。
「流れを維持しろ」
斎賀の額に汗が浮かぶ。
「これ、いつまで?」
「黙っていろ」
「はいはい」
中央球の光が、ゆっくりと逆向きへ回り始める。
御影の目が鋭くなった。
「今だ!」
真壁が叫ぶ。
御影の杖が一度だけ振られた。
魔法は大きくない。
爆発もしない。
眩しい光さえ出ない。
ただ、結界の中心を流れていた一本の魔力線だけが、ぷつりと切れた。
透明な壁が大きく揺れる。
一瞬、棚の硝子玉がすべて同時に明滅した。
倉橋が息を呑む。
「流れが跳ねます!」
「固定しろ!」
真壁が叫ぶ。
倉橋と風間が同時に杖を押し込み、北と西の接続を固定する。
葛城が東側の術式を押さえ、斎賀が南側へ流れた黒い魔力を受け止めた。
「重い!」
「耐えろ!」
「簡単に言うな!」
御影が一歩踏み込む。
「玄弥、左へ流せ!」
「分かってる!」
斎賀が杖を捻る。
黒い魔力が中央球へ戻り、銀色の術式へ吸い込まれていく。
真壁は最後の線を見つめた。
「あと一つ」
「どこだ!」
御影が叫ぶ。
「中央の下だ」
「見えない」
「見えなくても切れ」
「無茶を言うな」
「お前ならできる」
御影が舌打ちした。
杖先を床へ向ける。
「レダクト」
小さな衝撃が床へ走った。
石材が一枚だけ浮き上がる。
その下に、細い銀色の線があった。
御影は迷わず杖を振る。
「ディフィンド」
線が切れた。
結界が静かに消えた。
音もなく。
光もなく。
ただ、そこにあった透明な壁が、最初から存在しなかったかのように消えた。
斎賀が息を吐く。
「……やった」
真壁はもう走り出していた。
「奥へ!」
御影も続く。
倉橋、風間、葛城。
斎賀。
六人が一斉に、奎星とスズメが消えた廊下へ駆け込んだ。
*
足音が聞こえた。
奎星が顔を上げる。
「……来た」
スズメも扉を見る。
直後。
勢いよく扉が開いた。
最初に入ってきたのは御影だった。
杖を構え、部屋全体を一瞬で確認する。
倒れて拘束されている眞田。
立っているスズメ。
床に座り込んでいる奎星。
黒い台座の上の硝子玉。
御影の視線が最後に奎星で止まった。
「蓮根」
「先生」
御影はすぐ奎星の前へしゃがみ込んだ。
「どこをやられた」
「胸と……あと、記憶ちょっと」
御影の顔が止まる。
「何?」
真壁が入ってくる。
「記憶?」
スズメが答えた。
「《ダムナティオ・メモリアエ》が掠りました。一部だけ抽出された可能性があります」
「何を失った」
「ステューピファイ」
奎星が言う。
「多分」
真壁の表情が険しくなる。
「他には?」
「分かんない」
「あとで詳しく検査する」
その間に、倉橋と風間が眞田の左右へ回った。葛城が杖を回収し、床へ落ちた魔法具を遠ざける。
斎賀は拘束された眞田を見下ろした。
「……俺ら、いらなかった?」
スズメが答える。
「結界を解除していただいたので必要でした」
「よかった」
「玄弥」
真壁の声が飛ぶ。
「ふざけていないで手伝え」
「はいはい」
眞田が僅かに目を開いた。
気絶呪文の効果が薄れ始めたらしい。
倉橋がすぐに魔力拘束具を両手首へ装着する。
「眞田大。魔法省監察局です。身柄を拘束します」
眞田は抵抗しなかった。
視線だけを動かす。
最初に。
スズメを見る。
スズメは見返さなかった。
眞田の目がほんの僅かに伏せられる。
その横で、真壁は黒い台座の前へ立っていた。
「烏丸先生」
「はい」
「これが?」
スズメもそちらを見る。
透明な硝子玉。
内部を、銀色の糸が静かに巡っている。
「私から一月一日に抽出された記憶です。眞田先輩本人が、そう説明しました」
真壁は触れなかった。
杖を振る。
透明な保存膜が何重にも硝子玉を包み込む。
さらに専用の黒い保護箱を取り出し、台座の周囲ごと魔力反応を固定する。
「この場では動かさない」
奎星が驚く。
「持って帰らないの?」
「今すぐはな」
「何で!」
「保管術式との接続状態が分からない。下手に外して中身へ影響が出たらどうする」
「……あ」
奎星は黙った。
真壁は周囲の資料へ目を向ける。
「施設全体を封鎖する。硝子玉も資料も、位置を記録してから一つずつ回収する」
壁の向こうには、数え切れない記憶がある。
今度こそ。
誰にも触れさせない。
御影は奎星の前で片膝をついたまま訊いた。
「立てるか」
「余裕」
奎星は床へ手をつき、立ち上がろうとした。
「っ……」
膝が折れた。
御影が腕を掴む。
「余裕?」
「今のは床が悪い」
「床のせいにするな」
「あとちょっと眞田のせい」
御影は深く息を吐いた。
そして奎星へ背を向けてしゃがむ。
「乗れ」
奎星が止まった。
「……え」
「歩けないんだろう」
「いやでも」
「早くしろ」
「先生がおんぶ?」
御影が振り返る。
「置いていくぞ」
「乗ります!」
奎星は素直に御影の背中へ乗った。
四十七歳とは思えないほど安定している。
「うわ、でか」
「降ろすぞ」
「ごめんなさい」
御影が立ち上がる。
奎星の身体が軽々と持ち上がった。
廊下へ向かいながら、奎星はしばらく黙っていた。
その背中に揺られながら、やがて小さく呟く。
「先生」
「何だ」
「俺……負けちゃった」
御影は前を向いたまま答えた。
「ああ」
慰める様子はなかった。
否定もしない。
「胸に刻め」
奎星は少し黙った。
「そこ慰めてくんないの?」
「何のために」
「生徒が負けて落ち込んでるんだけど」
「負けたことを忘れるな」
御影の声はいつも通りだった。
「次は同じ負け方をするな」
奎星は、ほんの少しだけ笑った。
「……うん」
その返事を聞いても、御影は振り返らなかった。
ただ、歩く速度だけが、ほんの僅かにゆっくりになった。
*
数時間後。
東京・霞が関。
日本魔法省地下庁舎。
群馬の研究施設は、監察局と機密保持局によって完全に封鎖された。
内部にあった硝子玉は、その場で一つずつ位置、魔力反応、接続先を記録したうえで回収作業へ入ることになった。
スズメの硝子玉も同じだった。
すぐに戻すことはしない。
できない。
けれど、少なくとも、どこにあるのかはもう分かっている。
眞田大も確保された。
一月一日の列車脱線。
選択的記憶抽出。
黒曜の環関係者六人への記憶干渉。
一般社会を含む複数の被害。
これから調べなければならないことは、山ほどある。
魔法省へ戻ったあと、七人は二手に分かれることになった。
真壁。
斎賀。
倉橋、風間、葛城。
そして、拘束された眞田。
彼らはこのまま監察局へ向かう。
御影、奎星、スズメはマホウトコロへ戻る。奎星は学校の医務室で、改めて記憶と身体の両方を検査することになっていた。
地下庁舎の分岐廊下。
眞田の両手には魔力拘束具が嵌められている。
倉橋と風間が左右につき、葛城が少し後ろを歩く。
なぜか斎賀もその横にいる。
「俺が護送する側なの、変な感じするな」
真壁が睨む。
「余計なことを言うな」
「だって数か月前まで俺、そっち側――」
「言うな」
「はい」
眞田は何も言わなかった。
暴れもしない。
逃げようともしない。
ただ静かに歩いている。
スズメも、施設を出てから一度も眞田へ話しかけなかった。
眞田が何度かこちらを見たことには気づいていた。
それでも、目を合わせなかった。
もう、言うべきことは言った。
三年前に言えなかったことも。
今日。
全部。
言った。
真壁が足を止める。
「では、我々はこちらだ」
御影が頷く。
「ああ」
「蓮根君は必ず検査を受けること」
「分かってる」
「本当に?」
「何でみんな俺に同じ確認するの?」
「実績です」
スズメが即答した。
「スズメちゃんまで!」
斎賀が笑う。
「じゃあな、蓮根。また記憶抜かれんなよ」
「縁起でもねえこと言うな!」
「玄弥」
「はいはい」
眞田たちが歩き出す。
スズメは、その背中を見送ろうとはしなかった。
御影も踵を返す。
「行くぞ」
「うん」
三人も反対方向へ歩き始めた。
一歩。
二歩。
三歩。
そのとき。
奎星が突然止まった。
「あ」
御影が嫌な予感を覚えたように振り返る。
「何だ」
奎星は答えない。
後ろを見る。
眞田たちは、まだ廊下の先にいる。
「なあ、眞田!」
大声が響いた。
全員が止まった。
真壁がものすごく嫌そうな顔で振り返る。
斎賀は面白そうに振り返る。
倉橋たち三人も振り返った。
そして、眞田がゆっくりと顔だけをこちらへ向けた。
「……?」
奎星は一度、御影とスズメを確認した。
そして、少しだけ声を小さくする。
小さくしたつもりだった。
「スズメちゃんが俺のことどう思ってたかだけ教えてくんない?」
ぺしん。
「いったぁ〜!!」
御影の平手が、奎星の後頭部へ綺麗に入った。
「何すんの!?」
「馬鹿なことを聞くな」
「だって!」
「聞くな」
「こいつ見たんだぞ!? スズメちゃんの記憶!」
スズメの肩がびくりと動いた。
そのことを、今、言う必要があるだろうか。
いや。
ない。
絶対にない。
眞田は見ている。
自分が奎星と過ごした半年。
観測塔。
水月庵。
星迎祭。
常隠島。
クリスマス。
初詣。
自分が何を考え、どんな顔をし、どんな気持ちを抱いていたのか。
どこまで見たのかは分からない。
できれば、今は永遠に黙っていてほしい。
スズメは平静を装っていた。
装っているつもりだった。
しかし、耳が少しだけ赤い。
眞田は奎星を見る。
次に、スズメを見る。
スズメは目を合わせない。
頼むから、余計なことを言わないでください。
三年前の先輩へ向けて、今日初めて、心の底からそう思った。
数秒の沈黙。
やがて、眞田の口元がほんの僅かに緩んだ。
「……はっ」
短い笑いだった。
今日初めて聞く、研究者でも術者でもない、昔の眞田に少しだけ似た笑い方。
「まあ」
奎星が身を乗り出す。
「何!?」
眞田は答えた。
「頑張れ、蓮根」
そして、踵を返した。
奎星の顔が止まる。
「…………」
三秒。
「が、頑張れって何!?」
眞田は振り返らない。
「何を!? 何を頑張ればいいんだよ!」
御影が奎星の襟を掴んだ。
「帰るぞ、蓮根」
「待って待って! 今めちゃくちゃ重要なとこ!」
そのまま引きずられる。
「教えろよ眞田!」
廊下の向こうで、斎賀が吹き出した。
真壁が額を押さえている。
倉橋は何とも言えない顔をし、風間は明らかに笑いを堪えていた。葛城だけは平然としている。
「眞田ぁ! 頑張れって何だよ!」
「蓮根」
御影の声が低くなる。
「はい!」
「黙れ」
「でも!」
後ろから、さらに冷たい声が飛んだ。
「黙ってください、蓮根君」
奎星が振り返る。
スズメは、顔こそいつも通りだったが、耳がまだ赤い。
「え、何でスズメちゃんまで怒ってんの?」
「黙ってください」
「何で!?」
「黙ってください!」
「はい!」
廊下の向こうへ、眞田の姿が消えていく。
結局、奎星が聞きたかった答えは教えてもらえなかった。
スズメの失った記憶も、まだ戻ってはいない。
相原美里をはじめとする被害者たちの記憶も、どうすれば安全に戻せるのか分からないままだ。
奎星自身も、今日、一つの記憶を失った。
何も終わってはいない。
それでも、三年間止まらなかった男は止まった。
奪われた記憶がどこにあるのかも分かった。
そして、失敗だったと、ようやく誰かが本人へ言った。
廊下を歩きながら、奎星がまた口を開く。
「ねえスズメちゃん」
「何です」
「頑張れって何だと思う?」
「知りません」
「絶対何か知ってる顔してる!」
「知りません!」
「耳赤いよ」
「蓮根君」
「はい」
「今度は私が叩きますよ」
「何で!?」
御影は深くため息を吐いた。
その少し後ろで、スズメは誰にも見えないように、ほんの少しだけ口元を緩めていた。