マホウトコロ   作:西野圭吾

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第14話 今日のこと

 

次の日も、朝は来た。

 

蓮根奎星が《ステューピファイ》に関する記憶を失っていても、眞田大が魔法省に拘束されていても、群馬県の山中に何十、何百という記憶を収めた硝子玉が見つかっていても、マホウトコロの朝を告げる鐘は、いつもと同じ時刻に鳴った。

 

一度、二度、三度。

 

学生寮では、布団から這い出した生徒たちが眠そうな顔で制服へ着替え、大食堂では小妖たちが朝食を運び、教室では今日提出の課題を忘れていた生徒が、必死に羽根筆を走らせている。昨日、魔法省や研究施設で起きたことなど、学校の日常にとっては関係がない。授業は始まり、課題は提出され、来月には学年末試験が待っている。

 

そして、魔法史研究室でも。

 

「蓮根君」

 

「ん?」

 

「そこ、間違っています」

 

「どこ?」

 

「三行前です」

 

「三行前!?」

 

奎星は机へ突っ伏した。

 

「もっと早く言ってよ!」

 

「今、気づきました」

 

「先生なんだから先に気づいて!」

 

「私はあなたの頭の中を読めません」

 

「前はレジリメンスやってたじゃん」

 

「授業中に使いません」

 

「使ってよ!」

 

「嫌です」

 

スズメは淡々と答え、奎星の羊皮紙へ赤い羽根筆で印をつけた。窓の外では冬の海が鈍い光を返している。研究室の暖炉には小さな火が入り、机の上には教科書と羊皮紙、羽根筆が並んでいた。

 

その隣には、昨日まで存在しなかった大量の資料が積まれている。

 

《記憶再定着理論》

 

《外部媒体固定術式》

 

《対象認識照合》

 

《抽出記憶・再接続試案》

 

どれも、眞田大が三年間にまとめた研究資料の写しだった。

 

群馬の研究施設に残されていた原本は、現在、魔法省の管理下に置かれている。当然、生徒どころか教師が自由に持ち出せるものではない。それでもスズメは昨夜から今朝にかけて正式な申請を出し、真壁と機密保持局、記録局の許可を得て、研究に必要な部分だけを複製してもらっていた。

 

目的は一つ。

 

奪われた記憶を、安全に本人へ戻す方法を見つけること。

 

スズメは机の端へ資料を広げ、赤い羽根筆で術式の一部を書き換えている。その向かいでは、なぜか奎星が宿題をしていた。

 

「……ねえ」

 

「何ですか」

 

「ここ分かんない」

 

「先ほど説明しました」

 

「もう一回」

 

「自分で考えてください」

 

「冷たい!」

 

「私は今、研究中です」

 

「俺も勉強中」

 

「でしたら静かにしてください」

 

奎星は頬杖をつき、研究室を見回した。

 

「ここ、俺の定位置じゃん」

 

「いつからです?」

 

「六月くらい?」

 

「勝手に決めないでください」

 

「でも、追い出したことないじゃん」

 

スズメの羽根筆が、ほんの僅かに止まった。

 

「…………」

 

「何?」

 

「何でもありません」

 

「やっぱ俺の定位置じゃん」

 

「宿題をしてください」

 

「はい」

 

奎星は素直に羊皮紙へ向き直った。

 

十秒。

 

二十秒。

 

三十秒。

 

研究室には、羽根筆が紙を擦る音だけが続いた。スズメは術式図を一枚めくり、ふと向かいへ目をやる。奎星は本当に勉強していた。

 

「…………」

 

「何?」

 

今度は奎星が顔を上げた。

 

「いえ」

 

「ちゃんとやっているのが珍しいと思った?」

 

「思っていません」

 

「今、絶対思った!」

 

「蓮根君」

 

「はい」

 

「宿題」

 

「はい」

 

奎星は再び羽根筆を動かした。

 

しばらくして、スズメは資料へ視線を戻した。

 

再定着。

 

古い記憶と現在の精神状態を接続するための補助式。

 

眞田の字は、三年前に見たものよりも細かく、複雑になっていた。書き込みは増え、術式は何重にも組み替えられている。それでも、決定的な部分が足りない。

 

現在の記憶を、どう守るのか。

 

一月一日、自分は奎星に関する記憶を失った。それから十日ほどの間に、新しい記憶ができた。観測塔、相原との再会、研究室での時間、初詣の続き、高速道路、そして昨日の戦い。

 

一つ一つは短い。半年分の失われた記憶と比べれば、量だけなら圧倒的に少ない。

 

だからといって、消えていい理由にはならない。

 

スズメの赤い羽根筆が止まった。

 

「スズメちゃん」

 

奎星の声がした。

 

「何ですか」

 

「やっぱり気にしてる?」

 

「何をです?」

 

「眞田のこと」

 

スズメの指が止まる。暖炉の薪が小さく弾け、赤い火の粉が舞った。

 

すぐには返事をしなかった。

 

奎星も、いつものように軽口を重ねなかった。スズメが答えを探していることを察したのか、黙って待っている。

 

やがて、スズメは赤い羽根筆を机へ置いた。

 

「……していないと言えば、嘘になります」

 

奎星の顔から、少しだけ笑みが消えた。

 

「そっか」

 

「はい」

 

スズメは資料へ目を落とした。そこに残っているのは、三年前から何度も見てきた眞田の字だった。

 

「尊敬していたのは、本当なので」

 

奎星は何も言わなかった。

 

「記録局へ入ったばかりの頃、私は知らないことばかりでした。古代文字も、古い記録の読み方も、研究申請の書き方も。眞田先輩には、たくさん教えていただきました」

 

スズメの声は淡々としていたが、その目には、ほんの少しだけ過去を見ている色があった。

 

「だから、昨日あの人へ杖を向けたことを後悔しているわけではありません。止める必要がありました」

 

「うん」

 

「ですが……」

 

そこで言葉が途切れた。

 

尊敬していた。その事実まで消えるわけではない。眞田が間違えたからといって、過去のすべてが嘘になるわけでもない。悪いことをしたからといって、かつて教わったことまで悪いものへ変わるわけではない。

 

その割り切れなさが、少しだけ苦しかった。

 

研究室に気まずい沈黙が落ちる。

 

奎星は机の上の羊皮紙を見た。一度、スズメを見た。また紙へ視線を戻し、羽根筆を指先で回す。

 

「あのさ」

 

「はい」

 

「俺、取られた記憶が魔法でよかった」

 

スズメが顔を上げた。

 

「……何を言っているのです?」

 

「いや、よかったって言い方が変なのは分かってるけど」

 

奎星は頭を掻いた。

 

「俺が忘れたの、《ステューピファイ》だろ?」

 

「少なくとも、現在確認できている範囲では」

 

「だったら、まだマシだったなって。また覚えればいいし」

 

簡単に言ったが、実際にはそれほど単純ではない。

 

奎星は今、《ステューピファイ》という言葉を聞けば意味を理解できる。気絶呪文であることも、赤い光を放つことも、知識として説明されれば分かる。

 

けれど、自分がそれを学んだ記憶はない。神代榊をどう振ったのか、どれだけ魔力を流すのか、御影から何度修正されたのか、実戦で何度使ったのか。そうした自分自身の経験だけが、綺麗に抜け落ちている。

 

また使うなら、ほとんど最初から覚え直さなければならない。

 

それでも、奎星は笑った。

 

「もしさ」

 

「はい」

 

「スズメちゃんのこととか、日向とか、楓とか、岳とか伊織とか、御影先生とか。そういうのを忘れてたら、もっと嫌だった」

 

スズメは黙って奎星を見た。

 

「魔法なら、また覚えられるから」

 

その言葉に、スズメの表情が僅かに揺れた。

 

「そのせいで、あなたは負けましたが」

 

「そこ言う!?」

 

「事実です」

 

「ほぼ勝ってたから!」

 

「負けています」

 

「ほぼ勝ってた!」

 

「負けは負けです」

 

「眞田、めちゃくちゃボロボロだったじゃん!」

 

「最後に床へ転がっていたのはあなたです」

 

「でも、あれはステューピファイを取られなかったら俺が――」

 

「取られたので負けです」

 

「厳しい!」

 

「御影先生も同じことを仰ると思いますよ」

 

奎星は机へ突っ伏した。

 

「昨日も言われたよ! 胸に刻めって!」

 

スズメの口元が、ほんの少し緩んだ。

 

「ふふ」

 

奎星の動きが止まる。

 

顔だけを上げた。

 

「……笑った」

 

「何です?」

 

「いや」

 

奎星は、少しだけ笑った。

 

「よかった」

 

「何がです?」

 

「別に」

 

「別に、では分かりません」

 

「何でもないって」

 

奎星は再び宿題へ戻った。

 

スズメは僅かに首を傾げたが、やがて資料へ視線を戻す。

 

奎星はもうこちらを見ていなかった。けれど、少しだけ機嫌がよさそうだった。

 

彼女を笑わせること。

 

それは、奎星が昔から好きなことの一つだった。

 

本人がそれを恋だと呼ぶよりも、ずっと前から。

 

 

午後になり、奎星が授業へ戻ったあとも、スズメは研究室に残っていた。

 

机の上には眞田の資料。その横には、星帰り作戦に関する魔法省と学校側の記録が積まれている。

 

神代冥司による認識干渉。学校全体に及んだ術式。霊脈。守護霊。銀の鴉。

 

スズメは、何度目か分からないほど同じ記録を読み返した。

 

《対象者は神代冥司をマホウトコロ校長と認識》

 

《九重院紫苑を敵性存在と認識》

 

《蓮根奎星および奪還側生徒・教員を侵入者として認識》

 

その次に、星帰り作戦後の聞き取り記録がある。

 

スズメの指が止まった。

 

鳴海景は、認識が戻った直後、自分が三枝冬真へ杖を向けていたことを理解していた。他の生徒たちも、神代を校長だと思っていたこと、奎星たちを敵だと判断していたこと、その認識の中で授業を受け、生活していたことを覚えている。

 

その認識は解除された。

 

だが、その間に何を見たか、誰と話したか、どこを歩いたか、誰へ魔法を撃ったか。そうした記憶まで消えたわけではない。

 

「……認識の訂正と、記憶の消去は別」

 

スズメは羽根筆を取り、紙へ書き込んだ。

 

《星帰りでは、誤った認識だけを解除》

 

さらに、その下へ続ける。

 

《干渉下で形成された経験記憶は維持》

 

手が止まった。

 

眞田の再定着術式で問題になるのは、過去の記憶を戻したとき、その記憶が現在の自分を押し潰す可能性だった。

 

過去と現在。どちらを優先するか。どちらを自分と認識するか。その衝突を避けるため、スズメはこれまで、二つの記憶の間に壁を作ろうとしていた。

 

しかし、星帰りでは違った。

 

神代を校長だと信じていた期間そのものを消したわけではない。偽物の認識だけを剥がし、その間に積み重なった経験は残した。

 

「……上書きしていない」

 

スズメは呟いた。

 

消して、戻したのではない。

 

別のものとして判別し、不要な認識だけを取り除いた。そして、元々あったものへ戻した。

 

スズメは眞田の資料を引き寄せた。

 

今まで考えていたのは、古い記憶から現在の記憶を守ることだった。二つの記憶の間へ壁を作り、互いに干渉しないようにする。

 

だが、それでは最初から、古い自分と今の自分を別の存在として扱っている。

 

「違う……」

 

どちらも自分だ。

 

一月一日以前も、一月一日以後も、同じ烏丸スズメである。

 

そこを繋げなければならない。

 

スズメは新しい紙を広げ、何本もの線を引いた。

 

《旧記憶》

 

《現記憶》

 

その中央に。

 

《自己認識》

 

二つの記憶を隔てるのではなく、中央の自己認識を基点にして接続する。そう考えたところで、筆が止まった。

 

何かが足りない。

 

元の記憶を現在の自分へ、どの順序で、どう認識させるのか。星帰りの銀の鴉は、何を基準に神代の認識と元々の認識を区別したのか。

 

奎星自身は、その理論を理解してやったわけではない。

 

だから眞田は、奎星の星帰りの記憶を欲しがった。

 

「……」

 

スズメは椅子へ深く座り直した。

 

紙へ書く。消す。別の式を試す。違う。書き直す。

 

さらに一時間が過ぎ、二時間が過ぎた。窓の外が暗くなり始めても、答えは出なかった。

 

スズメは額へ手を当てた。

 

机の上には、眞田大の名前が書かれた資料がある。

 

できれば、しばらくは会いたくなかった。

 

昨日、自分はあの人へ言った。

 

あなたは逃げただけだ。

 

弱いのはあなたです。

 

そして、杖を向けた。

 

それでも、研究者として、今この術式を一番理解しているのは自分ではない。

 

スズメは長い時間、資料を見つめていた。

 

やがて、静かに立ち上がった。

 

 

夕方。

 

「俺も行く!」

 

「行きません」

 

「何で!?」

 

魔法史研究室の出入口で、奎星とスズメが向かい合っていた。

 

「眞田に会うんだろ!?」

 

「はい」

 

「じゃあ俺も!」

 

「駄目です」

 

「何で!」

 

「あなたはテスト勉強をしてください」

 

奎星の顔が止まった。

 

スズメは机の上に置かれた教科書を指した。

 

「来月です」

 

「…………」

 

「学年末試験」

 

「…………」

 

「忘れていましたか?」

 

「いや」

 

「目を見てください」

 

「覚えてた」

 

「こちらを見てください」

 

「覚えてたって!」

 

奎星の視線は窓の外へ逃げている。

 

「では、試験範囲を答えてください」

 

「…………」

 

「蓮根君」

 

「広い!」

 

「具体的に」

 

「全部!」

 

「不正解です」

 

「全部やれば入ってるだろ!」

 

「そういう問題ではありません」

 

奎星は頭を抱えた。

 

「でも眞田だぞ!?」

 

「だから何です?」

 

「俺も聞きたいことがある!」

 

「昨日、聞いたでしょう」

 

「頑張れって何だったのか!」

 

「それは絶対に聞かないでください」

 

即答だった。

 

奎星が目を細める。

 

「何で?」

 

「必要がないからです」

 

「スズメちゃん、絶対何か知ってるよな」

 

「知りません」

 

「じゃあ聞いてもいいじゃん!」

 

「駄目です」

 

「何でだよ!」

 

スズメは教科書を奎星の胸へ押しつけた。

 

「あなた、これに合格しないと」

 

「うん」

 

「進級できませんよ」

 

奎星の顔から、一気に色が消えた。

 

「…………」

 

「分かりましたか」

 

「…………はい」

 

「よろしい」

 

「でも」

 

「駄目です」

 

「まだ何も言ってない!」

 

「顔で分かります」

 

「御影先生みたいなこと言うなよ!」

 

スズメは外套を羽織った。

 

「寮へ戻ってください」

 

「一人で大丈夫?」

 

その一言だけ、奎星の声からふざけた調子が消えた。

 

スズメは少しだけ動きを止める。

 

「一人ではありません。真壁さんに立ち会っていただきます」

 

「……そっか」

 

「はい」

 

「何かあったら?」

 

「何も起きません」

 

「でも」

 

「蓮根君」

 

スズメは、ほんの少しだけ笑った。

 

「大丈夫です」

 

奎星の眉が寄る。

 

「その大丈夫、信用していい?」

 

スズメが僅かに目を見開いた。

 

昨日とは逆だった。

 

――大丈夫。

 

――あなたの大丈夫は、あまり信用できません。

 

スズメの口元が少し緩む。

 

「あなたよりは」

 

「ひど!」

 

「勉強してください」

 

「はい……」

 

 

夜の学生寮談話室で、奎星は本当に勉強していた。

 

珍しい光景だった。

 

長机の上には教科書が四冊、羊皮紙、羽根筆、過去問。そして、スズメが作ったと思われる大量の付箋が並んでいる。

 

《ここ重要》

 

《出ます》

 

《昨年も出題》

 

《蓮根君は特に復習》

 

最後の一枚だけ、完全に個人宛だった。

 

奎星はそれを睨んだ。

 

「……俺だけ?」

 

向かいに座った日向が覗き込む。

 

「愛されてんな」

 

「先生としてな!」

 

楓が横から言った。

 

「誰も何も言ってないけど」

 

「今の言い方が!」

 

伊織が教科書から顔を上げる。

 

「奎星、七ページ飛ばしてるよ」

 

「え?」

 

「そこ」

 

「うわ!」

 

岳は隣で何かを食べていた。

 

「煎餅食う?」

 

「食う」

 

奎星が一枚受け取る。

 

楓の目が細くなった。

 

「勉強は?」

 

「糖分が必要」

 

「煎餅は主に糖質だけど」

 

伊織が言う。

 

「じゃあ合ってんじゃん!」

 

「量の話」

 

「一枚だぞ!」

 

日向が問題集を覗き込む。

 

「なあ奎星、これ答え三じゃね?」

 

「え?」

 

「ほら」

 

奎星が見る。

 

「……お前、この前法規赤点ギリギリだったろ」

 

「お前に言われたくねえよ!」

 

「俺は存在しない四番選択肢を書いてねえ!」

 

「あれ一学期だろ!」

 

楓が頭を抱えた。

 

「全然進んでないじゃない!」

 

「お前らが邪魔してんだよ!」

 

「私、今まで一度も話しかけてないんだけど」

 

「空気で!」

 

「理不尽!」

 

奎星は問題集へ戻った。

 

一問。

 

二問。

 

三問。

 

そして、横から日向の声が飛んでくる。

 

「なあ」

 

「何!」

 

「《ステューピファイ》って、今どういう感じなの?」

 

奎星の羽根筆が止まった。

 

楓が日向を見る。

 

「今聞く?」

 

「あ、悪い」

 

「いや」

 

奎星は少し考えた。

 

机の端には神代榊が置かれている。奎星はそれを手に取った。

 

「ステューピファイ」

 

言葉は言える。意味も分かる。

 

しかし、杖を構えた瞬間、動きが止まった。

 

どう振るのか。どれくらい魔力を流すのか。どこで離すのか。

 

分からない。

 

奎星は神代榊を下ろした。

 

「こんな感じ」

 

日向の顔が少し曇る。

 

「マジで忘れてんだな」

 

「うん」

 

楓が訊いた。

 

「御影先生に教え直してもらうの?」

 

「検査が終わるまでは駄目だって」

 

「そりゃそうでしょ」

 

「俺、もう一回覚えたら前より上手くなる気がするんだけどな」

 

伊織が顔を上げる。

 

「どうして?」

 

「二周目だから」

 

「記憶がないのに?」

 

「身体には――」

 

言いかけて、奎星は止まった。

 

神代榊を見る。

 

「いや。身体に残ってるかもって決めつけるのも違うか」

 

伊織が少し笑った。

 

「珍しく慎重だね」

 

「胸に刻んだからな」

 

日向が聞き返す。

 

「何を?」

 

「負けたこと」

 

「誰に?」

 

「眞田」

 

日向、楓、岳、伊織の四人が、同時に顔を上げた。

 

奎星が気づく。

 

「何?」

 

日向が目を細める。

 

「そういや、俺たち詳しく聞いてないね」

 

楓も頷いた。

 

「確かに」

 

伊織が教科書を閉じる。

 

「聞かせて」

 

岳は煎餅を置いた。

 

「聞く」

 

奎星の顔が一気に明るくなった。

 

「聞きたい!?」

 

楓が嫌な予感を覚える。

 

「あ」

 

日向も気づいた。

 

「やべ」

 

奎星が椅子から立ち上がる。

 

「みんな聞いてくれ!」

 

「勉強は!?」

 

「昨日さ!」

 

「始まった!」

 

「群馬の廃研究施設へ行ったんだけど!」

 

「初手から重い!」

 

談話室にいた別の生徒たちも振り返った。

 

奎星は気にせず続ける。

 

「そしたら壁一面に硝子玉があって!」

 

「待って、怖い」

 

「全部、記憶が入ってんの!」

 

「もっと怖い!」

 

「で、眞田が俺とスズメちゃんだけ呼んで――」

 

「ちょっと待て」

 

日向が手を上げた。

 

「何?」

 

「御影先生とか真壁さんとか、いたんだろ?」

 

「いたよ」

 

「何で二人だけになんの?」

 

「結界!」

 

「ああ……」

 

楓が妙に納得した。

 

「いつものやつね」

 

「いつものって何だよ!」

 

「大人と分断される」

 

「恒例行事みたいに言うな!」

 

伊織が訊く。

 

「それで?」

 

「御影先生が俺に『行け』って!」

 

四人の表情が止まった。

 

日向が聞き返す。

 

「御影先生が?」

 

「うん!」

 

楓も驚いた。

 

「止めなかったの?」

 

「行けって!」

 

伊織が少しだけ目を見開く。

 

岳は頷いた。

 

「認められた」

 

奎星の口元が上がる。

 

「だろ?」

 

「そこで調子に乗らない」

 

楓が即座に止めた。

 

「で、奥へ行ったら眞田がいてさ!」

 

奎星の話は続いた。

 

一月一日に奎星を狙った理由。スズメの記憶が硝子玉へ残されていたこと。安全には戻せないこと。星帰りが必要だったこと。そして、戦闘。

 

「俺、めちゃくちゃ魔法撃った!」

 

「そこだけ楽しそうに話すな!」

 

「ボンバーダ! デパルソ! コンフリンゴ! レダクト!」

 

日向の目が輝き始める。

 

「全部連続!?」

 

「全部!」

 

「すげえ!」

 

「日向!」

 

楓が怒鳴った。

 

「盛り上がらない!」

 

「でも聞くだけなら!」

 

「で、俺ほぼ勝って!」

 

楓が睨む。

 

「ほぼ?」

 

「…………」

 

奎星はゆっくり椅子へ座った。

 

「負けた」

 

日向が吹き出す。

 

「負けたんじゃん!」

 

「ほぼ勝った!」

 

「何されたの?」

 

伊織が訊く。

 

奎星は少しだけ間を置いた。

 

「《ステューピファイ》を取られた」

 

笑いが消えた。

 

「……は?」

 

日向の声が低くなる。

 

「眞田の記憶魔法がちょっと掠って」

 

奎星は頭の横を指で叩いた。

 

「ここから、ぽんって」

 

「ぽんじゃない!」

 

楓が立ち上がった。

 

「それ、大丈夫なの!?」

 

「検査では今のところ他に抜けてるものは見つかってないって」

 

「今のところって何よ!」

 

「だから、これからも確認する!」

 

伊織の目が鋭くなる。

 

「それで負けたんだ」

 

「うん」

 

「……怖いね」

 

奎星は一瞬だけ黙った。

 

「うん」

 

素直に認める。

 

それから、少しだけ笑った。

 

「でも、そのあとスズメちゃんが眞田を倒した」

 

日向が目を丸くする。

 

「烏丸先生が!?」

 

「めちゃくちゃ強かった!」

 

「お前より?」

 

「それ、本人にも聞いた!」

 

楓が呆れる。

 

「何て?」

 

「比較するものではありませんって」

 

「正しい」

 

「全員そっち側!?」

 

談話室に笑いが戻った。

 

奎星はさらに話を続ける。

 

御影に背負われたこと。

 

「先生……俺、負けちゃった」

 

「ああ。胸に刻め」

 

そこまで再現すると、日向が腹を抱えた。

 

「御影先生ぇ!」

 

「慰め一切なし!」

 

「でも御影先生らしい」

 

伊織は少し笑った。

 

奎星も笑う。

 

「だろ?」

 

そして最後に、魔法省で眞田へ「スズメちゃんが俺のことをどう思っていたか教えてくれない?」と聞いたところで、御影に頭を叩かれたことを話した。

 

日向が机へ突っ伏す。

 

「お前、何聞いてんだよ!」

 

楓の顔が赤くなる。

 

「馬鹿じゃないの!?」

 

「だって、あいつ記憶を見たんだぞ!」

 

「だから聞くな!」

 

「で、眞田は何て?」

 

岳が真顔で訊いた。

 

「岳!?」

 

「気になる」

 

「だろ!?」

 

奎星が味方を得た顔になる。

 

「『頑張れ、蓮根』だって!」

 

数秒、全員が奎星を見た。

 

奎星も全員を見る。

 

「何?」

 

日向が口元を押さえた。

 

「いや」

 

楓が顔を逸らす。

 

「別に」

 

伊織が小さく笑う。

 

「頑張って」

 

「お前ら、その反応は何!?」

 

談話室のあちこちから笑い声が上がった。

 

いつの間にか、周囲の生徒まで話を聞いている。一人、また一人と椅子を寄せてくる。

 

恒例だった。

 

奎星が何かに巻き込まれ、帰ってきて、そのときの話を全員へ身振り手振りで語る。大袈裟で、少しだけ自慢が混ざっていて、それでも最後には、誰もが同じ場所にいる。

 

事件の最中は、いつも命が懸かっている。

 

それでも帰ってくれば、ここは学生寮の談話室で、隣には友達がいて、先輩がいて、いつもの夜がある。

 

そのとき、少し離れた別の長机から声が聞こえた。

 

「冬真、お前、本当に決めたの?」

 

奎星の耳が動く。

 

三枝冬真が、同級生数人と話していた。

 

「うん」

 

「決闘、続けないの?」

 

「大会は好きだけど、それを仕事にする気はないかな」

 

「もったいねえ。お前なら国内でも上を狙えるだろ」

 

冬真は少し笑った。

 

「それも考えたけどさ」

 

奎星が椅子ごと身体を向ける。

 

「何の話?」

 

冬真たちが振り返った。

 

「蓮根」

 

「卒業後?」

 

「ああ」

 

その言葉が、奎星の中に少し妙な響きで残った。

 

卒業後。

 

そういえば、冬真は三年生だ。今は一月。あと数か月で、この学校を卒業する。

 

「冬真先輩」

 

奎星は何の躊躇もなく席を立ち、冬真たちのテーブルへ向かった。

 

「何になるの?」

 

「俺?」

 

「うん」

 

冬真は少し考えるように天井を見た。

 

「国際魔法協力局」

 

奎星が止まる。

 

「……どこ?」

 

伊織が後ろから言った。

 

「一学期に習ったよ」

 

「知ってる!」

 

「今の反応は、知らない人だったけど」

 

「魔法省のだろ!」

 

冬真が笑う。

 

「そう。魔法省」

 

奎星は向かいの椅子へ座った。

 

「何するの?」

 

「海外の魔法使いと日本を繋げる仕事」

 

「ほえー……」

 

「雑な反応だな」

 

「いや、すげえって思ってる」

 

冬真は笑いながら続けた。

 

「前に学生決闘の世界大会へ出たことがあってさ」

 

「世界大会!?」

 

奎星の声が談話室へ響き、また全員が振り返った。

 

「冬真先輩、世界行ってんの!?」

 

「声が大きい」

 

「何で今まで言わなかったの!?」

 

「聞かれなかったから」

 

「言えよ!」

 

「何で?」

 

「格好いいから!」

 

冬真が吹き出す。

 

「蓮根らしいな」

 

「どこへ行ったの?」

 

「大会にはいろんな国から選手が集まった。イギリス、フランス、ブラジル、ウガンダ、中国、アメリカ……」

 

「そんなに!?」

 

「試合も面白かったけど、それより、終わったあとにみんなで話していた時間が楽しかったんだよ」

 

「言葉、通じるの?」

 

「魔法で補助することもあるし、英語で話すこともある」

 

「冬真先輩、英語できるの!?」

 

「失礼だな」

 

「いや、俺できない!」

 

「知ってる」

 

「何で!?」

 

日向が後ろから答えた。

 

「お前の一般科目の点数、みんな知ってる」

 

「個人情報!」

 

冬真は笑った。

 

「文化も違うし、使う魔法も少し違う。でも、決闘の話をすると急に全員通じるんだよ」

 

「へえ……」

 

「日本の魔法を面白がる奴もいたし、逆に俺が初めて見る魔法もあった。あのとき、こういうのはいいなって思ったんだ」

 

「こういうの?」

 

「違う国の魔法使い同士を繋げる仕事」

 

奎星は、少しだけ冬真を見る目を変えた。

 

決闘が強い。爽やかで、先生にも後輩にも好かれている。彼女も美人らしい。

 

奎星の中では、だいたい《何か全部できる先輩》だった。

 

でも、その冬真にも、卒業したあとにやりたいことがある。

 

「卒業後か……」

 

奎星が呟く。

 

冬真が見る。

 

「蓮根は?」

 

「え?」

 

「卒業後」

 

「…………」

 

奎星は考えた。

 

五秒。

 

十秒。

 

「分かんねえ!」

 

冬真が笑った。

 

「まだ二年だろ。いいんじゃない?」

 

「でも、あと一年ちょいだぞ?」

 

「前の学校で進路希望、何て書いてたの?」

 

奎星が止まった。

 

日向が興味を持つ。

 

「何?」

 

楓も身を乗り出した。

 

「何て書いたの?」

 

奎星は目を逸らした。

 

「海賊」

 

沈黙。

 

次の瞬間、談話室が大爆笑に包まれた。

 

「何でだよ!」

 

「高校生で海賊!?」

 

「普通、書く!?」

 

「先生にめちゃくちゃ怒られた!」

 

冬真は腹を抱えている。

 

「駄目だ、蓮根……!」

 

「笑うなよ!」

 

「いや、国際魔法協力局より先に海賊が出てくるとは思わないだろ!」

 

「昔の話!」

 

「去年だろ?」

 

「昔!」

 

笑い声が広がる。

 

机の上には教科書があり、問題集があり、冬の夜があり、その真ん中で奎星も笑っていた。

 

昨日、一つの記憶を失った。

 

それでも今日、新しいことを知った。

 

冬真の夢。友達の笑い声。自分の進路が何も決まっていないこと。

 

全部、今日の記憶だった。

 

 

同じ頃、東京・霞が関の日本魔法省地下庁舎では、夜の監察局が昼間よりも静まり返っていた。

 

業務を終えた職員が減り、長い廊下には一定間隔で青白い魔法灯が灯っている。その最奥にある面会室で、真壁征士郎は壁際に立っていた。

 

部屋の中央には机と椅子が二つ。

 

その片方に、眞田大が座っている。

 

両手には魔力拘束具。昨日まで着ていた黒い服ではなく、魔法省から支給された簡素な灰色の衣服を身につけていた。顔には疲労が残り、肩には奎星の《ステューピファイ》が掠った痕がある。胸元には、スズメが撃ち込んだ魔法の治療痕も残っていた。

 

それでも、姿勢は崩れていなかった。

 

扉が開く。

 

眞田が顔を上げた。

 

スズメが入ってきた。

 

一瞬、二人の目が合う。

 

昨日、魔法省へ戻ってから、スズメは一度も眞田と話していなかった。だから、眞田の目に僅かな驚きが浮かぶ。

 

「……烏丸」

 

スズメは椅子へ座り、机の上へ何枚もの紙を置いた。

 

真壁は何も言わない。ただ、壁際から二人を見ている。

 

眞田が資料へ目を落とした。

 

「それは」

 

「先輩の研究資料です」

 

「複製の許可が出たのか」

 

「必要な部分のみ」

 

「そうか」

 

「真壁さんたちには感謝しています」

 

真壁が口を挟む。

 

「研究目的に限定しています。持ち出しも不可です」

 

「分かっています」

 

スズメは眞田へ視線を戻した。

 

「今日は、世間話をしに来たのではありません」

 

眞田の口元が僅かに動く。

 

「だろうね」

 

「質問があります」

 

「僕に?」

 

「はい」

 

「昨日、僕をあれだけ否定しておいて?」

 

スズメの目は揺れなかった。

 

「あなたが間違っていたことと、あなたが三年間研究した事実は別です」

 

机の資料へ指を置く。

 

「使える知識は使います」

 

眞田が黙る。

 

「……随分、研究者らしいことを言うようになった」

 

「元記録局員ですので」

 

「辞めたけど」

 

「辞めました」

 

淡々と返す。

 

眞田は、ほんの少しだけ息を吐いた。

 

「何が分からない?」

 

スズメは紙を一枚、眞田の前へ滑らせた。

 

中央には三つの言葉が書かれている。

 

《旧記憶》

 

《現記憶》

 

《自己認識》

 

眞田の目が変わった。

 

「……なるほど」

 

「やはり、分かりますか」

 

「君が考えていることはね」

 

眞田は拘束具の嵌められた手を机へ置いた。紙へは触れない。

 

「現在の記憶を保護しながら、抽出した記憶を戻す」

 

「はい」

 

「僕も考えた」

 

「ですが、あなたの術式にはありませんでした」

 

「完成しなかったからだ」

 

「なぜです?」

 

眞田は黙った。

 

スズメは急かさず待つ。

 

しばらくして、眞田が言った。

 

「優先順位を決められなかった」

 

「優先順位?」

 

「過去と現在。どちらを基準に戻すか」

 

眞田は二つの文字を見た。

 

「だから私は、その考え方が違うと思っています」

 

眞田の目が上がる。

 

「違う?」

 

「どちらも私です」

 

沈黙が落ちた。

 

「一月一日以前の私も、一月一日以後の私も」

 

スズメは自分の胸元へ触れた。

 

「どちらかを優先する必要はありません」

 

「理屈ではね」

 

「理屈を術式にするために来ました」

 

眞田の口元が少しだけ緩んだ。

 

「本当に変わったな」

 

「そうでしょうか」

 

「昔の君なら、ここまで言い切らなかった」

 

スズメは返事をせず、代わりに別の資料を出した。

 

《星帰り作戦》

 

眞田の表情が変わる。

 

「調べました」

 

スズメが言う。

 

「神代冥司による認識干渉を受けた生徒たち。術式が解除されたあとも、その間に形成された記憶は残っていました」

 

記録を指す。

 

「鳴海景君は、三枝君へ杖を向けたことを覚えていた」

 

眞田の目が紙へ落ちる。

 

「他の生徒も、神代を校長だと信じていたこと、その認識の中で授業を受け、生活し、私たちを敵だと思っていたことを覚えている」

 

スズメは紙へ線を引いた。

 

「消えたのは、記憶ではありません」

 

眞田が呟く。

 

「認識だ」

 

「はい」

 

「いや」

 

眞田の目が少し鋭くなる。

 

「正確には、神代が外部から重ねていた認識だけが剥がれた」

 

スズメの羽根筆が止まる。

 

眞田は紙を見ていた。

 

昨日とは違う。人を犠牲にする研究者としてではなく、ただ術式を見る人間の目だった。

 

「元々の記憶を消して作り直したわけじゃない」

 

「そうです」

 

「偽の認識だけを異物として切り離した」

 

「はい」

 

「だから、その間に作られた経験まで消えなかった」

 

スズメが頷く。

 

「これを、記憶へ応用できないでしょうか」

 

眞田はすぐには答えなかった。

 

紙。式。星帰り。再定着。現在の記憶。過去の記憶。

 

何度も視線を行き来させる。

 

真壁も黙って見ていた。

 

やがて、眞田が口を開く。

 

「君」

 

「はい」

 

「今の記憶を、そこまで守りたいのか?」

 

スズメの目が僅かに動いた。

 

「失ったのは半年ほど。今、新しく積み重なったのは十日ほどだ」

 

眞田は静かに言った。

 

「量だけなら比較にならない」

 

「そうですね」

 

「それでも、そんなに大切か?」

 

一月一日。

 

列車。

 

「どちら様ですか?」

 

知らない少年。

 

それから、観測塔。手。相原。研究室。冷めた茶。歩く速度。高速道路。大笑いした車内。群馬。自分を庇って戦った背中。

 

――昔のスズメちゃんも、今のスズメちゃんも!

 

――どっちか片方をなくして、戻ったことにすんな!

 

そして今日、研究室で聞いた言葉。

 

――俺、取られた記憶が魔法でよかった。

 

スズメは、少しだけ笑った。

 

「思い出すことばかり考えていたら、今日のことを見落としてしまうので」

 

眞田の目が、ゆっくり見開かれた。

 

数秒の沈黙のあと、眞田が言う。

 

「……それ」

 

「はい?」

 

「君の言葉じゃないだろ」

 

スズメは少しだけ目を細めた。

 

「相原さんに教えていただきました」

 

眞田は何も言わなかった。

 

相原美里。

 

三年前、自分たちの実験で記憶を失わせた少女。それでも今、生きている。失った記憶が戻らないまま、新しい時間を積み重ね、その言葉を烏丸へ渡した。

 

眞田は俯いた。

 

「……そうか」

 

しばらくして、小さな声が漏れた。

 

「はっ」

 

スズメが少し眉を寄せる。

 

眞田は笑っていた。本当に僅かに、昨日奎星へ「頑張れ」と言ったときのような、少しだけ昔に近い笑い方だった。

 

「相原さんに、僕の研究を直されるとは思わなかった」

 

「研究ではありません」

 

「分かっている」

 

「でしたら」

 

「分かってるよ」

 

眞田は顔を上げ、紙へ視線を戻した。

 

「烏丸」

 

「はい」

 

「君は今、二つを守ろうとしている」

 

眞田の目が、《旧記憶》と《現記憶》の間に引かれた一本の線へ向く。

 

「だから壁を作ろうとしている」

 

スズメの指が止まった。

 

「……壁?」

 

「古い記憶が新しい記憶へ触れないように。新しい記憶が古い記憶に飲まれないように」

 

眞田は首を横に振った。

 

「それじゃ駄目だ」

 

スズメの目が変わる。真壁も僅かに姿勢を変えた。

 

「なぜです」

 

「壁を作った時点で、術式はこれを別のものだと認識する」

 

眞田は《旧記憶》と《現記憶》を順に指した。

 

「別の人格。別の記憶体系。そして、どちらを優先するか選ぼうとする」

 

スズメの呼吸が止まる。

 

それは、自分が今までずっと詰まっていた場所だった。

 

「では……」

 

「順番を変える」

 

眞田が言った。

 

「戻してから守るんじゃない」

 

スズメが前へ身を乗り出す。

 

「先に?」

 

眞田は中央の文字を見る。

 

《自己認識》

 

「帰属を決める」

 

「帰属……」

 

「星帰りで、蓮根君の守護霊がやったことを思い出せ」

 

スズメの顔が僅かに強張る。

 

自分の中で、その場面には穴がある。

 

星帰り。霊脈。銀色。

 

けれど、そこにいたはずの少年だけが欠けている。

 

眞田は続けた。

 

「神代の認識を消したんじゃない」

 

「…………」

 

「これは自分のものじゃない、と精神側へ判断させた」

 

スズメの羽根筆が動いた。

 

《帰属判定》

 

「なら逆もできる」

 

眞田が言う。

 

「硝子から戻す記憶を、これは過去の自分のものだと、先に認識させる」

 

スズメの目が上がる。

 

「現在の記憶へ押し込むんじゃない」

 

眞田は中央から過去へ、指で線を引いた。

 

「現在の自己認識を基準に、自分の過去として迎え入れる」

 

スズメは動かなかった。

 

頭の中で術式が組み替わっていく。

 

旧記憶と現記憶をぶつけない。二つを隔離しない。現在、今ここにいる自分を基点にする。そこへ外部にある記憶を、過去として繋げる。

 

上書きではない。

 

置換でもない。

 

統合。

 

スズメは新しい紙を取り、羽根筆を走らせた。

 

眞田はその様子を見ている。

 

「ただし」

 

スズメの手が止まった。

 

「まだ足りません」

 

「何がです?」

 

「帰属をどう証明する」

 

眞田の声が少し低くなる。

 

「硝子玉の中にある記憶が、本当に本人のものだと、精神側へどう認識させる」

 

スズメの目がゆっくり細くなる。

 

最後の一つ。

 

そこさえクリアできれば、三年前に失敗した研究を完成させられる。

 

人間の記憶を一度外部へ取り出し、安全に保存し、現在の自分を失うことなく元へ戻す。

 

本当の意味で。

 

スズメは紙の中央に書かれた《帰属》を見つめた。

 

「……蓮根君」

 

眞田が僅かに笑った。

 

「結局、そこへ戻るね」

 

スズメの目が上がる。

 

「何です?」

 

「いや」

 

眞田は椅子へ背を預けた。

 

「昨日の君を見ていたら、彼が最後の鍵だと言ったのも、あながち間違いじゃなかったと思って」

 

スズメの眉が寄る。

 

「先輩」

 

「何?」

 

「余計なことを言うなら帰ります」

 

「もう帰る時間だろ」

 

真壁が初めて口を挟んだ。

 

「その通りです」

 

スズメが時計を見る。

 

「……もう、こんな時間ですか」

 

資料をまとめる。

 

眞田はその様子を見ていた。

 

スズメが立ち上がり、扉へ向かう。

 

「烏丸」

 

背後から声がした。

 

スズメが止まる。振り返らない。

 

「何ですか」

 

短い沈黙。

 

眞田は何かを言おうとした。

 

だが、結局言わなかった。

 

「いや」

 

「そうですか」

 

スズメは扉を開けた。真壁も続く。

 

扉が閉まる直前、眞田の視線が机の上へ残された一枚の紙へ向いた。

 

《旧記憶》

 

《現記憶》

 

《自己認識》

 

そして、その下にスズメが最後に書いた文字。

 

《どちらも私》

 

扉が閉じた。

 

 

夜。

 

マホウトコロ学生寮。

 

「蓮根!」

 

御影玄一郎の声が談話室へ響いた。

 

奎星の身体がびくっと跳ねる。

 

「はい!?」

 

御影が入口に立っている。腕を組み、ものすごく険しい顔をしていた。

 

「何をしている」

 

奎星は机を見る。

 

教科書は開いている。問題集も開いている。羽根筆も持っている。

 

完璧だった。

 

「勉強!」

 

胸を張る。

 

御影が黙った。

 

「何、その顔!」

 

「いや」

 

「疑っただろ!」

 

「珍しいと思っただけだ」

 

「スズメちゃんと同じこと言う!」

 

日向が吹き出し、楓も口元を押さえた。

 

奎星が振り返る。

 

「笑うな!」

 

御影は机へ近づき、問題集を見た。

 

「どこまで進んだ」

 

奎星が止まる。

 

御影が頁を確認する。

 

「三頁?」

 

「いや、待って!」

 

「二時間で?」

 

「いろいろあったんだよ!」

 

「何が」

 

日向が元気よく答えた。

 

「奎星の群馬大冒険を聞いてました!」

 

「お前!」

 

御影の目が、ゆっくり奎星へ戻る。

 

「蓮根」

 

「はい」

 

「試験」

 

「はい」

 

「来月」

 

「はい」

 

「進級」

 

「したいです」

 

「なら、やれ」

 

「はい!」

 

御影は踵を返した。

 

「あと」

 

奎星が顔を上げる。

 

「何?」

 

御影は振り返らない。

 

「《ステューピファイ》は、試験が終わったら最初からやり直す」

 

奎星の目が大きくなる。

 

「マジ!?」

 

「ああ」

 

「教えてくれるの!?」

 

「俺が教えた魔法だ」

 

御影は、ほんの少しだけ顔を横へ向けた。

 

「もう一度くらい教える」

 

奎星の顔が一気に明るくなる。

 

「うん!」

 

「返事は一度」

 

「はい!」

 

御影が談話室を出ていく。

 

扉が閉まる。

 

奎星は少しだけ神代榊を見る。

 

失った。

 

それでも、また覚えればいい。

 

机の上には試験問題があり、周囲には日向、楓、岳、伊織がいる。少し離れたところでは、冬真が卒業後の夢を話している。

 

今日も、何もなくなってはいない。

 

「よし!」

 

奎星は羽根筆を握った。

 

「やるぞ!」

 

日向が笑う。

 

「今度こそ?」

 

「今度こそ!」

 

三分後。

 

「これ分かんねえ!」

 

「早い!」

 

談話室に、また笑い声が響いた。

 

昨日、失った記憶はまだ戻っていない。

 

スズメの記憶も、相原の記憶も、硝子玉の中に眠る多くの人の記憶も、まだ誰の元へも帰っていない。

 

それでも、今日という日は待ってくれない。

 

だから進む。

 

笑う。

 

勉強する。

 

誰かの夢を知る。

 

新しいことを覚える。

 

間違える。

 

そして、また明日へ行く。

 

思い出すことばかり考えていたら、今日のことを見落としてしまうから。

 

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