次の日も、朝は来た。
蓮根奎星が《ステューピファイ》に関する記憶を失っていても、眞田大が魔法省に拘束されていても、群馬県の山中に何十、何百という記憶を収めた硝子玉が見つかっていても、マホウトコロの朝を告げる鐘は、いつもと同じ時刻に鳴った。
一度、二度、三度。
学生寮では、布団から這い出した生徒たちが眠そうな顔で制服へ着替え、大食堂では小妖たちが朝食を運び、教室では今日提出の課題を忘れていた生徒が、必死に羽根筆を走らせている。昨日、魔法省や研究施設で起きたことなど、学校の日常にとっては関係がない。授業は始まり、課題は提出され、来月には学年末試験が待っている。
そして、魔法史研究室でも。
「蓮根君」
「ん?」
「そこ、間違っています」
「どこ?」
「三行前です」
「三行前!?」
奎星は机へ突っ伏した。
「もっと早く言ってよ!」
「今、気づきました」
「先生なんだから先に気づいて!」
「私はあなたの頭の中を読めません」
「前はレジリメンスやってたじゃん」
「授業中に使いません」
「使ってよ!」
「嫌です」
スズメは淡々と答え、奎星の羊皮紙へ赤い羽根筆で印をつけた。窓の外では冬の海が鈍い光を返している。研究室の暖炉には小さな火が入り、机の上には教科書と羊皮紙、羽根筆が並んでいた。
その隣には、昨日まで存在しなかった大量の資料が積まれている。
《記憶再定着理論》
《外部媒体固定術式》
《対象認識照合》
《抽出記憶・再接続試案》
どれも、眞田大が三年間にまとめた研究資料の写しだった。
群馬の研究施設に残されていた原本は、現在、魔法省の管理下に置かれている。当然、生徒どころか教師が自由に持ち出せるものではない。それでもスズメは昨夜から今朝にかけて正式な申請を出し、真壁と機密保持局、記録局の許可を得て、研究に必要な部分だけを複製してもらっていた。
目的は一つ。
奪われた記憶を、安全に本人へ戻す方法を見つけること。
スズメは机の端へ資料を広げ、赤い羽根筆で術式の一部を書き換えている。その向かいでは、なぜか奎星が宿題をしていた。
「……ねえ」
「何ですか」
「ここ分かんない」
「先ほど説明しました」
「もう一回」
「自分で考えてください」
「冷たい!」
「私は今、研究中です」
「俺も勉強中」
「でしたら静かにしてください」
奎星は頬杖をつき、研究室を見回した。
「ここ、俺の定位置じゃん」
「いつからです?」
「六月くらい?」
「勝手に決めないでください」
「でも、追い出したことないじゃん」
スズメの羽根筆が、ほんの僅かに止まった。
「…………」
「何?」
「何でもありません」
「やっぱ俺の定位置じゃん」
「宿題をしてください」
「はい」
奎星は素直に羊皮紙へ向き直った。
十秒。
二十秒。
三十秒。
研究室には、羽根筆が紙を擦る音だけが続いた。スズメは術式図を一枚めくり、ふと向かいへ目をやる。奎星は本当に勉強していた。
「…………」
「何?」
今度は奎星が顔を上げた。
「いえ」
「ちゃんとやっているのが珍しいと思った?」
「思っていません」
「今、絶対思った!」
「蓮根君」
「はい」
「宿題」
「はい」
奎星は再び羽根筆を動かした。
しばらくして、スズメは資料へ視線を戻した。
再定着。
古い記憶と現在の精神状態を接続するための補助式。
眞田の字は、三年前に見たものよりも細かく、複雑になっていた。書き込みは増え、術式は何重にも組み替えられている。それでも、決定的な部分が足りない。
現在の記憶を、どう守るのか。
一月一日、自分は奎星に関する記憶を失った。それから十日ほどの間に、新しい記憶ができた。観測塔、相原との再会、研究室での時間、初詣の続き、高速道路、そして昨日の戦い。
一つ一つは短い。半年分の失われた記憶と比べれば、量だけなら圧倒的に少ない。
だからといって、消えていい理由にはならない。
スズメの赤い羽根筆が止まった。
「スズメちゃん」
奎星の声がした。
「何ですか」
「やっぱり気にしてる?」
「何をです?」
「眞田のこと」
スズメの指が止まる。暖炉の薪が小さく弾け、赤い火の粉が舞った。
すぐには返事をしなかった。
奎星も、いつものように軽口を重ねなかった。スズメが答えを探していることを察したのか、黙って待っている。
やがて、スズメは赤い羽根筆を机へ置いた。
「……していないと言えば、嘘になります」
奎星の顔から、少しだけ笑みが消えた。
「そっか」
「はい」
スズメは資料へ目を落とした。そこに残っているのは、三年前から何度も見てきた眞田の字だった。
「尊敬していたのは、本当なので」
奎星は何も言わなかった。
「記録局へ入ったばかりの頃、私は知らないことばかりでした。古代文字も、古い記録の読み方も、研究申請の書き方も。眞田先輩には、たくさん教えていただきました」
スズメの声は淡々としていたが、その目には、ほんの少しだけ過去を見ている色があった。
「だから、昨日あの人へ杖を向けたことを後悔しているわけではありません。止める必要がありました」
「うん」
「ですが……」
そこで言葉が途切れた。
尊敬していた。その事実まで消えるわけではない。眞田が間違えたからといって、過去のすべてが嘘になるわけでもない。悪いことをしたからといって、かつて教わったことまで悪いものへ変わるわけではない。
その割り切れなさが、少しだけ苦しかった。
研究室に気まずい沈黙が落ちる。
奎星は机の上の羊皮紙を見た。一度、スズメを見た。また紙へ視線を戻し、羽根筆を指先で回す。
「あのさ」
「はい」
「俺、取られた記憶が魔法でよかった」
スズメが顔を上げた。
「……何を言っているのです?」
「いや、よかったって言い方が変なのは分かってるけど」
奎星は頭を掻いた。
「俺が忘れたの、《ステューピファイ》だろ?」
「少なくとも、現在確認できている範囲では」
「だったら、まだマシだったなって。また覚えればいいし」
簡単に言ったが、実際にはそれほど単純ではない。
奎星は今、《ステューピファイ》という言葉を聞けば意味を理解できる。気絶呪文であることも、赤い光を放つことも、知識として説明されれば分かる。
けれど、自分がそれを学んだ記憶はない。神代榊をどう振ったのか、どれだけ魔力を流すのか、御影から何度修正されたのか、実戦で何度使ったのか。そうした自分自身の経験だけが、綺麗に抜け落ちている。
また使うなら、ほとんど最初から覚え直さなければならない。
それでも、奎星は笑った。
「もしさ」
「はい」
「スズメちゃんのこととか、日向とか、楓とか、岳とか伊織とか、御影先生とか。そういうのを忘れてたら、もっと嫌だった」
スズメは黙って奎星を見た。
「魔法なら、また覚えられるから」
その言葉に、スズメの表情が僅かに揺れた。
「そのせいで、あなたは負けましたが」
「そこ言う!?」
「事実です」
「ほぼ勝ってたから!」
「負けています」
「ほぼ勝ってた!」
「負けは負けです」
「眞田、めちゃくちゃボロボロだったじゃん!」
「最後に床へ転がっていたのはあなたです」
「でも、あれはステューピファイを取られなかったら俺が――」
「取られたので負けです」
「厳しい!」
「御影先生も同じことを仰ると思いますよ」
奎星は机へ突っ伏した。
「昨日も言われたよ! 胸に刻めって!」
スズメの口元が、ほんの少し緩んだ。
「ふふ」
奎星の動きが止まる。
顔だけを上げた。
「……笑った」
「何です?」
「いや」
奎星は、少しだけ笑った。
「よかった」
「何がです?」
「別に」
「別に、では分かりません」
「何でもないって」
奎星は再び宿題へ戻った。
スズメは僅かに首を傾げたが、やがて資料へ視線を戻す。
奎星はもうこちらを見ていなかった。けれど、少しだけ機嫌がよさそうだった。
彼女を笑わせること。
それは、奎星が昔から好きなことの一つだった。
本人がそれを恋だと呼ぶよりも、ずっと前から。
*
午後になり、奎星が授業へ戻ったあとも、スズメは研究室に残っていた。
机の上には眞田の資料。その横には、星帰り作戦に関する魔法省と学校側の記録が積まれている。
神代冥司による認識干渉。学校全体に及んだ術式。霊脈。守護霊。銀の鴉。
スズメは、何度目か分からないほど同じ記録を読み返した。
《対象者は神代冥司をマホウトコロ校長と認識》
《九重院紫苑を敵性存在と認識》
《蓮根奎星および奪還側生徒・教員を侵入者として認識》
その次に、星帰り作戦後の聞き取り記録がある。
スズメの指が止まった。
鳴海景は、認識が戻った直後、自分が三枝冬真へ杖を向けていたことを理解していた。他の生徒たちも、神代を校長だと思っていたこと、奎星たちを敵だと判断していたこと、その認識の中で授業を受け、生活していたことを覚えている。
その認識は解除された。
だが、その間に何を見たか、誰と話したか、どこを歩いたか、誰へ魔法を撃ったか。そうした記憶まで消えたわけではない。
「……認識の訂正と、記憶の消去は別」
スズメは羽根筆を取り、紙へ書き込んだ。
《星帰りでは、誤った認識だけを解除》
さらに、その下へ続ける。
《干渉下で形成された経験記憶は維持》
手が止まった。
眞田の再定着術式で問題になるのは、過去の記憶を戻したとき、その記憶が現在の自分を押し潰す可能性だった。
過去と現在。どちらを優先するか。どちらを自分と認識するか。その衝突を避けるため、スズメはこれまで、二つの記憶の間に壁を作ろうとしていた。
しかし、星帰りでは違った。
神代を校長だと信じていた期間そのものを消したわけではない。偽物の認識だけを剥がし、その間に積み重なった経験は残した。
「……上書きしていない」
スズメは呟いた。
消して、戻したのではない。
別のものとして判別し、不要な認識だけを取り除いた。そして、元々あったものへ戻した。
スズメは眞田の資料を引き寄せた。
今まで考えていたのは、古い記憶から現在の記憶を守ることだった。二つの記憶の間へ壁を作り、互いに干渉しないようにする。
だが、それでは最初から、古い自分と今の自分を別の存在として扱っている。
「違う……」
どちらも自分だ。
一月一日以前も、一月一日以後も、同じ烏丸スズメである。
そこを繋げなければならない。
スズメは新しい紙を広げ、何本もの線を引いた。
《旧記憶》
《現記憶》
その中央に。
《自己認識》
二つの記憶を隔てるのではなく、中央の自己認識を基点にして接続する。そう考えたところで、筆が止まった。
何かが足りない。
元の記憶を現在の自分へ、どの順序で、どう認識させるのか。星帰りの銀の鴉は、何を基準に神代の認識と元々の認識を区別したのか。
奎星自身は、その理論を理解してやったわけではない。
だから眞田は、奎星の星帰りの記憶を欲しがった。
「……」
スズメは椅子へ深く座り直した。
紙へ書く。消す。別の式を試す。違う。書き直す。
さらに一時間が過ぎ、二時間が過ぎた。窓の外が暗くなり始めても、答えは出なかった。
スズメは額へ手を当てた。
机の上には、眞田大の名前が書かれた資料がある。
できれば、しばらくは会いたくなかった。
昨日、自分はあの人へ言った。
あなたは逃げただけだ。
弱いのはあなたです。
そして、杖を向けた。
それでも、研究者として、今この術式を一番理解しているのは自分ではない。
スズメは長い時間、資料を見つめていた。
やがて、静かに立ち上がった。
*
夕方。
「俺も行く!」
「行きません」
「何で!?」
魔法史研究室の出入口で、奎星とスズメが向かい合っていた。
「眞田に会うんだろ!?」
「はい」
「じゃあ俺も!」
「駄目です」
「何で!」
「あなたはテスト勉強をしてください」
奎星の顔が止まった。
スズメは机の上に置かれた教科書を指した。
「来月です」
「…………」
「学年末試験」
「…………」
「忘れていましたか?」
「いや」
「目を見てください」
「覚えてた」
「こちらを見てください」
「覚えてたって!」
奎星の視線は窓の外へ逃げている。
「では、試験範囲を答えてください」
「…………」
「蓮根君」
「広い!」
「具体的に」
「全部!」
「不正解です」
「全部やれば入ってるだろ!」
「そういう問題ではありません」
奎星は頭を抱えた。
「でも眞田だぞ!?」
「だから何です?」
「俺も聞きたいことがある!」
「昨日、聞いたでしょう」
「頑張れって何だったのか!」
「それは絶対に聞かないでください」
即答だった。
奎星が目を細める。
「何で?」
「必要がないからです」
「スズメちゃん、絶対何か知ってるよな」
「知りません」
「じゃあ聞いてもいいじゃん!」
「駄目です」
「何でだよ!」
スズメは教科書を奎星の胸へ押しつけた。
「あなた、これに合格しないと」
「うん」
「進級できませんよ」
奎星の顔から、一気に色が消えた。
「…………」
「分かりましたか」
「…………はい」
「よろしい」
「でも」
「駄目です」
「まだ何も言ってない!」
「顔で分かります」
「御影先生みたいなこと言うなよ!」
スズメは外套を羽織った。
「寮へ戻ってください」
「一人で大丈夫?」
その一言だけ、奎星の声からふざけた調子が消えた。
スズメは少しだけ動きを止める。
「一人ではありません。真壁さんに立ち会っていただきます」
「……そっか」
「はい」
「何かあったら?」
「何も起きません」
「でも」
「蓮根君」
スズメは、ほんの少しだけ笑った。
「大丈夫です」
奎星の眉が寄る。
「その大丈夫、信用していい?」
スズメが僅かに目を見開いた。
昨日とは逆だった。
――大丈夫。
――あなたの大丈夫は、あまり信用できません。
スズメの口元が少し緩む。
「あなたよりは」
「ひど!」
「勉強してください」
「はい……」
*
夜の学生寮談話室で、奎星は本当に勉強していた。
珍しい光景だった。
長机の上には教科書が四冊、羊皮紙、羽根筆、過去問。そして、スズメが作ったと思われる大量の付箋が並んでいる。
《ここ重要》
《出ます》
《昨年も出題》
《蓮根君は特に復習》
最後の一枚だけ、完全に個人宛だった。
奎星はそれを睨んだ。
「……俺だけ?」
向かいに座った日向が覗き込む。
「愛されてんな」
「先生としてな!」
楓が横から言った。
「誰も何も言ってないけど」
「今の言い方が!」
伊織が教科書から顔を上げる。
「奎星、七ページ飛ばしてるよ」
「え?」
「そこ」
「うわ!」
岳は隣で何かを食べていた。
「煎餅食う?」
「食う」
奎星が一枚受け取る。
楓の目が細くなった。
「勉強は?」
「糖分が必要」
「煎餅は主に糖質だけど」
伊織が言う。
「じゃあ合ってんじゃん!」
「量の話」
「一枚だぞ!」
日向が問題集を覗き込む。
「なあ奎星、これ答え三じゃね?」
「え?」
「ほら」
奎星が見る。
「……お前、この前法規赤点ギリギリだったろ」
「お前に言われたくねえよ!」
「俺は存在しない四番選択肢を書いてねえ!」
「あれ一学期だろ!」
楓が頭を抱えた。
「全然進んでないじゃない!」
「お前らが邪魔してんだよ!」
「私、今まで一度も話しかけてないんだけど」
「空気で!」
「理不尽!」
奎星は問題集へ戻った。
一問。
二問。
三問。
そして、横から日向の声が飛んでくる。
「なあ」
「何!」
「《ステューピファイ》って、今どういう感じなの?」
奎星の羽根筆が止まった。
楓が日向を見る。
「今聞く?」
「あ、悪い」
「いや」
奎星は少し考えた。
机の端には神代榊が置かれている。奎星はそれを手に取った。
「ステューピファイ」
言葉は言える。意味も分かる。
しかし、杖を構えた瞬間、動きが止まった。
どう振るのか。どれくらい魔力を流すのか。どこで離すのか。
分からない。
奎星は神代榊を下ろした。
「こんな感じ」
日向の顔が少し曇る。
「マジで忘れてんだな」
「うん」
楓が訊いた。
「御影先生に教え直してもらうの?」
「検査が終わるまでは駄目だって」
「そりゃそうでしょ」
「俺、もう一回覚えたら前より上手くなる気がするんだけどな」
伊織が顔を上げる。
「どうして?」
「二周目だから」
「記憶がないのに?」
「身体には――」
言いかけて、奎星は止まった。
神代榊を見る。
「いや。身体に残ってるかもって決めつけるのも違うか」
伊織が少し笑った。
「珍しく慎重だね」
「胸に刻んだからな」
日向が聞き返す。
「何を?」
「負けたこと」
「誰に?」
「眞田」
日向、楓、岳、伊織の四人が、同時に顔を上げた。
奎星が気づく。
「何?」
日向が目を細める。
「そういや、俺たち詳しく聞いてないね」
楓も頷いた。
「確かに」
伊織が教科書を閉じる。
「聞かせて」
岳は煎餅を置いた。
「聞く」
奎星の顔が一気に明るくなった。
「聞きたい!?」
楓が嫌な予感を覚える。
「あ」
日向も気づいた。
「やべ」
奎星が椅子から立ち上がる。
「みんな聞いてくれ!」
「勉強は!?」
「昨日さ!」
「始まった!」
「群馬の廃研究施設へ行ったんだけど!」
「初手から重い!」
談話室にいた別の生徒たちも振り返った。
奎星は気にせず続ける。
「そしたら壁一面に硝子玉があって!」
「待って、怖い」
「全部、記憶が入ってんの!」
「もっと怖い!」
「で、眞田が俺とスズメちゃんだけ呼んで――」
「ちょっと待て」
日向が手を上げた。
「何?」
「御影先生とか真壁さんとか、いたんだろ?」
「いたよ」
「何で二人だけになんの?」
「結界!」
「ああ……」
楓が妙に納得した。
「いつものやつね」
「いつものって何だよ!」
「大人と分断される」
「恒例行事みたいに言うな!」
伊織が訊く。
「それで?」
「御影先生が俺に『行け』って!」
四人の表情が止まった。
日向が聞き返す。
「御影先生が?」
「うん!」
楓も驚いた。
「止めなかったの?」
「行けって!」
伊織が少しだけ目を見開く。
岳は頷いた。
「認められた」
奎星の口元が上がる。
「だろ?」
「そこで調子に乗らない」
楓が即座に止めた。
「で、奥へ行ったら眞田がいてさ!」
奎星の話は続いた。
一月一日に奎星を狙った理由。スズメの記憶が硝子玉へ残されていたこと。安全には戻せないこと。星帰りが必要だったこと。そして、戦闘。
「俺、めちゃくちゃ魔法撃った!」
「そこだけ楽しそうに話すな!」
「ボンバーダ! デパルソ! コンフリンゴ! レダクト!」
日向の目が輝き始める。
「全部連続!?」
「全部!」
「すげえ!」
「日向!」
楓が怒鳴った。
「盛り上がらない!」
「でも聞くだけなら!」
「で、俺ほぼ勝って!」
楓が睨む。
「ほぼ?」
「…………」
奎星はゆっくり椅子へ座った。
「負けた」
日向が吹き出す。
「負けたんじゃん!」
「ほぼ勝った!」
「何されたの?」
伊織が訊く。
奎星は少しだけ間を置いた。
「《ステューピファイ》を取られた」
笑いが消えた。
「……は?」
日向の声が低くなる。
「眞田の記憶魔法がちょっと掠って」
奎星は頭の横を指で叩いた。
「ここから、ぽんって」
「ぽんじゃない!」
楓が立ち上がった。
「それ、大丈夫なの!?」
「検査では今のところ他に抜けてるものは見つかってないって」
「今のところって何よ!」
「だから、これからも確認する!」
伊織の目が鋭くなる。
「それで負けたんだ」
「うん」
「……怖いね」
奎星は一瞬だけ黙った。
「うん」
素直に認める。
それから、少しだけ笑った。
「でも、そのあとスズメちゃんが眞田を倒した」
日向が目を丸くする。
「烏丸先生が!?」
「めちゃくちゃ強かった!」
「お前より?」
「それ、本人にも聞いた!」
楓が呆れる。
「何て?」
「比較するものではありませんって」
「正しい」
「全員そっち側!?」
談話室に笑いが戻った。
奎星はさらに話を続ける。
御影に背負われたこと。
「先生……俺、負けちゃった」
「ああ。胸に刻め」
そこまで再現すると、日向が腹を抱えた。
「御影先生ぇ!」
「慰め一切なし!」
「でも御影先生らしい」
伊織は少し笑った。
奎星も笑う。
「だろ?」
そして最後に、魔法省で眞田へ「スズメちゃんが俺のことをどう思っていたか教えてくれない?」と聞いたところで、御影に頭を叩かれたことを話した。
日向が机へ突っ伏す。
「お前、何聞いてんだよ!」
楓の顔が赤くなる。
「馬鹿じゃないの!?」
「だって、あいつ記憶を見たんだぞ!」
「だから聞くな!」
「で、眞田は何て?」
岳が真顔で訊いた。
「岳!?」
「気になる」
「だろ!?」
奎星が味方を得た顔になる。
「『頑張れ、蓮根』だって!」
数秒、全員が奎星を見た。
奎星も全員を見る。
「何?」
日向が口元を押さえた。
「いや」
楓が顔を逸らす。
「別に」
伊織が小さく笑う。
「頑張って」
「お前ら、その反応は何!?」
談話室のあちこちから笑い声が上がった。
いつの間にか、周囲の生徒まで話を聞いている。一人、また一人と椅子を寄せてくる。
恒例だった。
奎星が何かに巻き込まれ、帰ってきて、そのときの話を全員へ身振り手振りで語る。大袈裟で、少しだけ自慢が混ざっていて、それでも最後には、誰もが同じ場所にいる。
事件の最中は、いつも命が懸かっている。
それでも帰ってくれば、ここは学生寮の談話室で、隣には友達がいて、先輩がいて、いつもの夜がある。
そのとき、少し離れた別の長机から声が聞こえた。
「冬真、お前、本当に決めたの?」
奎星の耳が動く。
三枝冬真が、同級生数人と話していた。
「うん」
「決闘、続けないの?」
「大会は好きだけど、それを仕事にする気はないかな」
「もったいねえ。お前なら国内でも上を狙えるだろ」
冬真は少し笑った。
「それも考えたけどさ」
奎星が椅子ごと身体を向ける。
「何の話?」
冬真たちが振り返った。
「蓮根」
「卒業後?」
「ああ」
その言葉が、奎星の中に少し妙な響きで残った。
卒業後。
そういえば、冬真は三年生だ。今は一月。あと数か月で、この学校を卒業する。
「冬真先輩」
奎星は何の躊躇もなく席を立ち、冬真たちのテーブルへ向かった。
「何になるの?」
「俺?」
「うん」
冬真は少し考えるように天井を見た。
「国際魔法協力局」
奎星が止まる。
「……どこ?」
伊織が後ろから言った。
「一学期に習ったよ」
「知ってる!」
「今の反応は、知らない人だったけど」
「魔法省のだろ!」
冬真が笑う。
「そう。魔法省」
奎星は向かいの椅子へ座った。
「何するの?」
「海外の魔法使いと日本を繋げる仕事」
「ほえー……」
「雑な反応だな」
「いや、すげえって思ってる」
冬真は笑いながら続けた。
「前に学生決闘の世界大会へ出たことがあってさ」
「世界大会!?」
奎星の声が談話室へ響き、また全員が振り返った。
「冬真先輩、世界行ってんの!?」
「声が大きい」
「何で今まで言わなかったの!?」
「聞かれなかったから」
「言えよ!」
「何で?」
「格好いいから!」
冬真が吹き出す。
「蓮根らしいな」
「どこへ行ったの?」
「大会にはいろんな国から選手が集まった。イギリス、フランス、ブラジル、ウガンダ、中国、アメリカ……」
「そんなに!?」
「試合も面白かったけど、それより、終わったあとにみんなで話していた時間が楽しかったんだよ」
「言葉、通じるの?」
「魔法で補助することもあるし、英語で話すこともある」
「冬真先輩、英語できるの!?」
「失礼だな」
「いや、俺できない!」
「知ってる」
「何で!?」
日向が後ろから答えた。
「お前の一般科目の点数、みんな知ってる」
「個人情報!」
冬真は笑った。
「文化も違うし、使う魔法も少し違う。でも、決闘の話をすると急に全員通じるんだよ」
「へえ……」
「日本の魔法を面白がる奴もいたし、逆に俺が初めて見る魔法もあった。あのとき、こういうのはいいなって思ったんだ」
「こういうの?」
「違う国の魔法使い同士を繋げる仕事」
奎星は、少しだけ冬真を見る目を変えた。
決闘が強い。爽やかで、先生にも後輩にも好かれている。彼女も美人らしい。
奎星の中では、だいたい《何か全部できる先輩》だった。
でも、その冬真にも、卒業したあとにやりたいことがある。
「卒業後か……」
奎星が呟く。
冬真が見る。
「蓮根は?」
「え?」
「卒業後」
「…………」
奎星は考えた。
五秒。
十秒。
「分かんねえ!」
冬真が笑った。
「まだ二年だろ。いいんじゃない?」
「でも、あと一年ちょいだぞ?」
「前の学校で進路希望、何て書いてたの?」
奎星が止まった。
日向が興味を持つ。
「何?」
楓も身を乗り出した。
「何て書いたの?」
奎星は目を逸らした。
「海賊」
沈黙。
次の瞬間、談話室が大爆笑に包まれた。
「何でだよ!」
「高校生で海賊!?」
「普通、書く!?」
「先生にめちゃくちゃ怒られた!」
冬真は腹を抱えている。
「駄目だ、蓮根……!」
「笑うなよ!」
「いや、国際魔法協力局より先に海賊が出てくるとは思わないだろ!」
「昔の話!」
「去年だろ?」
「昔!」
笑い声が広がる。
机の上には教科書があり、問題集があり、冬の夜があり、その真ん中で奎星も笑っていた。
昨日、一つの記憶を失った。
それでも今日、新しいことを知った。
冬真の夢。友達の笑い声。自分の進路が何も決まっていないこと。
全部、今日の記憶だった。
*
同じ頃、東京・霞が関の日本魔法省地下庁舎では、夜の監察局が昼間よりも静まり返っていた。
業務を終えた職員が減り、長い廊下には一定間隔で青白い魔法灯が灯っている。その最奥にある面会室で、真壁征士郎は壁際に立っていた。
部屋の中央には机と椅子が二つ。
その片方に、眞田大が座っている。
両手には魔力拘束具。昨日まで着ていた黒い服ではなく、魔法省から支給された簡素な灰色の衣服を身につけていた。顔には疲労が残り、肩には奎星の《ステューピファイ》が掠った痕がある。胸元には、スズメが撃ち込んだ魔法の治療痕も残っていた。
それでも、姿勢は崩れていなかった。
扉が開く。
眞田が顔を上げた。
スズメが入ってきた。
一瞬、二人の目が合う。
昨日、魔法省へ戻ってから、スズメは一度も眞田と話していなかった。だから、眞田の目に僅かな驚きが浮かぶ。
「……烏丸」
スズメは椅子へ座り、机の上へ何枚もの紙を置いた。
真壁は何も言わない。ただ、壁際から二人を見ている。
眞田が資料へ目を落とした。
「それは」
「先輩の研究資料です」
「複製の許可が出たのか」
「必要な部分のみ」
「そうか」
「真壁さんたちには感謝しています」
真壁が口を挟む。
「研究目的に限定しています。持ち出しも不可です」
「分かっています」
スズメは眞田へ視線を戻した。
「今日は、世間話をしに来たのではありません」
眞田の口元が僅かに動く。
「だろうね」
「質問があります」
「僕に?」
「はい」
「昨日、僕をあれだけ否定しておいて?」
スズメの目は揺れなかった。
「あなたが間違っていたことと、あなたが三年間研究した事実は別です」
机の資料へ指を置く。
「使える知識は使います」
眞田が黙る。
「……随分、研究者らしいことを言うようになった」
「元記録局員ですので」
「辞めたけど」
「辞めました」
淡々と返す。
眞田は、ほんの少しだけ息を吐いた。
「何が分からない?」
スズメは紙を一枚、眞田の前へ滑らせた。
中央には三つの言葉が書かれている。
《旧記憶》
《現記憶》
《自己認識》
眞田の目が変わった。
「……なるほど」
「やはり、分かりますか」
「君が考えていることはね」
眞田は拘束具の嵌められた手を机へ置いた。紙へは触れない。
「現在の記憶を保護しながら、抽出した記憶を戻す」
「はい」
「僕も考えた」
「ですが、あなたの術式にはありませんでした」
「完成しなかったからだ」
「なぜです?」
眞田は黙った。
スズメは急かさず待つ。
しばらくして、眞田が言った。
「優先順位を決められなかった」
「優先順位?」
「過去と現在。どちらを基準に戻すか」
眞田は二つの文字を見た。
「だから私は、その考え方が違うと思っています」
眞田の目が上がる。
「違う?」
「どちらも私です」
沈黙が落ちた。
「一月一日以前の私も、一月一日以後の私も」
スズメは自分の胸元へ触れた。
「どちらかを優先する必要はありません」
「理屈ではね」
「理屈を術式にするために来ました」
眞田の口元が少しだけ緩んだ。
「本当に変わったな」
「そうでしょうか」
「昔の君なら、ここまで言い切らなかった」
スズメは返事をせず、代わりに別の資料を出した。
《星帰り作戦》
眞田の表情が変わる。
「調べました」
スズメが言う。
「神代冥司による認識干渉を受けた生徒たち。術式が解除されたあとも、その間に形成された記憶は残っていました」
記録を指す。
「鳴海景君は、三枝君へ杖を向けたことを覚えていた」
眞田の目が紙へ落ちる。
「他の生徒も、神代を校長だと信じていたこと、その認識の中で授業を受け、生活し、私たちを敵だと思っていたことを覚えている」
スズメは紙へ線を引いた。
「消えたのは、記憶ではありません」
眞田が呟く。
「認識だ」
「はい」
「いや」
眞田の目が少し鋭くなる。
「正確には、神代が外部から重ねていた認識だけが剥がれた」
スズメの羽根筆が止まる。
眞田は紙を見ていた。
昨日とは違う。人を犠牲にする研究者としてではなく、ただ術式を見る人間の目だった。
「元々の記憶を消して作り直したわけじゃない」
「そうです」
「偽の認識だけを異物として切り離した」
「はい」
「だから、その間に作られた経験まで消えなかった」
スズメが頷く。
「これを、記憶へ応用できないでしょうか」
眞田はすぐには答えなかった。
紙。式。星帰り。再定着。現在の記憶。過去の記憶。
何度も視線を行き来させる。
真壁も黙って見ていた。
やがて、眞田が口を開く。
「君」
「はい」
「今の記憶を、そこまで守りたいのか?」
スズメの目が僅かに動いた。
「失ったのは半年ほど。今、新しく積み重なったのは十日ほどだ」
眞田は静かに言った。
「量だけなら比較にならない」
「そうですね」
「それでも、そんなに大切か?」
一月一日。
列車。
「どちら様ですか?」
知らない少年。
それから、観測塔。手。相原。研究室。冷めた茶。歩く速度。高速道路。大笑いした車内。群馬。自分を庇って戦った背中。
――昔のスズメちゃんも、今のスズメちゃんも!
――どっちか片方をなくして、戻ったことにすんな!
そして今日、研究室で聞いた言葉。
――俺、取られた記憶が魔法でよかった。
スズメは、少しだけ笑った。
「思い出すことばかり考えていたら、今日のことを見落としてしまうので」
眞田の目が、ゆっくり見開かれた。
数秒の沈黙のあと、眞田が言う。
「……それ」
「はい?」
「君の言葉じゃないだろ」
スズメは少しだけ目を細めた。
「相原さんに教えていただきました」
眞田は何も言わなかった。
相原美里。
三年前、自分たちの実験で記憶を失わせた少女。それでも今、生きている。失った記憶が戻らないまま、新しい時間を積み重ね、その言葉を烏丸へ渡した。
眞田は俯いた。
「……そうか」
しばらくして、小さな声が漏れた。
「はっ」
スズメが少し眉を寄せる。
眞田は笑っていた。本当に僅かに、昨日奎星へ「頑張れ」と言ったときのような、少しだけ昔に近い笑い方だった。
「相原さんに、僕の研究を直されるとは思わなかった」
「研究ではありません」
「分かっている」
「でしたら」
「分かってるよ」
眞田は顔を上げ、紙へ視線を戻した。
「烏丸」
「はい」
「君は今、二つを守ろうとしている」
眞田の目が、《旧記憶》と《現記憶》の間に引かれた一本の線へ向く。
「だから壁を作ろうとしている」
スズメの指が止まった。
「……壁?」
「古い記憶が新しい記憶へ触れないように。新しい記憶が古い記憶に飲まれないように」
眞田は首を横に振った。
「それじゃ駄目だ」
スズメの目が変わる。真壁も僅かに姿勢を変えた。
「なぜです」
「壁を作った時点で、術式はこれを別のものだと認識する」
眞田は《旧記憶》と《現記憶》を順に指した。
「別の人格。別の記憶体系。そして、どちらを優先するか選ぼうとする」
スズメの呼吸が止まる。
それは、自分が今までずっと詰まっていた場所だった。
「では……」
「順番を変える」
眞田が言った。
「戻してから守るんじゃない」
スズメが前へ身を乗り出す。
「先に?」
眞田は中央の文字を見る。
《自己認識》
「帰属を決める」
「帰属……」
「星帰りで、蓮根君の守護霊がやったことを思い出せ」
スズメの顔が僅かに強張る。
自分の中で、その場面には穴がある。
星帰り。霊脈。銀色。
けれど、そこにいたはずの少年だけが欠けている。
眞田は続けた。
「神代の認識を消したんじゃない」
「…………」
「これは自分のものじゃない、と精神側へ判断させた」
スズメの羽根筆が動いた。
《帰属判定》
「なら逆もできる」
眞田が言う。
「硝子から戻す記憶を、これは過去の自分のものだと、先に認識させる」
スズメの目が上がる。
「現在の記憶へ押し込むんじゃない」
眞田は中央から過去へ、指で線を引いた。
「現在の自己認識を基準に、自分の過去として迎え入れる」
スズメは動かなかった。
頭の中で術式が組み替わっていく。
旧記憶と現記憶をぶつけない。二つを隔離しない。現在、今ここにいる自分を基点にする。そこへ外部にある記憶を、過去として繋げる。
上書きではない。
置換でもない。
統合。
スズメは新しい紙を取り、羽根筆を走らせた。
眞田はその様子を見ている。
「ただし」
スズメの手が止まった。
「まだ足りません」
「何がです?」
「帰属をどう証明する」
眞田の声が少し低くなる。
「硝子玉の中にある記憶が、本当に本人のものだと、精神側へどう認識させる」
スズメの目がゆっくり細くなる。
最後の一つ。
そこさえクリアできれば、三年前に失敗した研究を完成させられる。
人間の記憶を一度外部へ取り出し、安全に保存し、現在の自分を失うことなく元へ戻す。
本当の意味で。
スズメは紙の中央に書かれた《帰属》を見つめた。
「……蓮根君」
眞田が僅かに笑った。
「結局、そこへ戻るね」
スズメの目が上がる。
「何です?」
「いや」
眞田は椅子へ背を預けた。
「昨日の君を見ていたら、彼が最後の鍵だと言ったのも、あながち間違いじゃなかったと思って」
スズメの眉が寄る。
「先輩」
「何?」
「余計なことを言うなら帰ります」
「もう帰る時間だろ」
真壁が初めて口を挟んだ。
「その通りです」
スズメが時計を見る。
「……もう、こんな時間ですか」
資料をまとめる。
眞田はその様子を見ていた。
スズメが立ち上がり、扉へ向かう。
「烏丸」
背後から声がした。
スズメが止まる。振り返らない。
「何ですか」
短い沈黙。
眞田は何かを言おうとした。
だが、結局言わなかった。
「いや」
「そうですか」
スズメは扉を開けた。真壁も続く。
扉が閉まる直前、眞田の視線が机の上へ残された一枚の紙へ向いた。
《旧記憶》
《現記憶》
《自己認識》
そして、その下にスズメが最後に書いた文字。
《どちらも私》
扉が閉じた。
*
夜。
マホウトコロ学生寮。
「蓮根!」
御影玄一郎の声が談話室へ響いた。
奎星の身体がびくっと跳ねる。
「はい!?」
御影が入口に立っている。腕を組み、ものすごく険しい顔をしていた。
「何をしている」
奎星は机を見る。
教科書は開いている。問題集も開いている。羽根筆も持っている。
完璧だった。
「勉強!」
胸を張る。
御影が黙った。
「何、その顔!」
「いや」
「疑っただろ!」
「珍しいと思っただけだ」
「スズメちゃんと同じこと言う!」
日向が吹き出し、楓も口元を押さえた。
奎星が振り返る。
「笑うな!」
御影は机へ近づき、問題集を見た。
「どこまで進んだ」
奎星が止まる。
御影が頁を確認する。
「三頁?」
「いや、待って!」
「二時間で?」
「いろいろあったんだよ!」
「何が」
日向が元気よく答えた。
「奎星の群馬大冒険を聞いてました!」
「お前!」
御影の目が、ゆっくり奎星へ戻る。
「蓮根」
「はい」
「試験」
「はい」
「来月」
「はい」
「進級」
「したいです」
「なら、やれ」
「はい!」
御影は踵を返した。
「あと」
奎星が顔を上げる。
「何?」
御影は振り返らない。
「《ステューピファイ》は、試験が終わったら最初からやり直す」
奎星の目が大きくなる。
「マジ!?」
「ああ」
「教えてくれるの!?」
「俺が教えた魔法だ」
御影は、ほんの少しだけ顔を横へ向けた。
「もう一度くらい教える」
奎星の顔が一気に明るくなる。
「うん!」
「返事は一度」
「はい!」
御影が談話室を出ていく。
扉が閉まる。
奎星は少しだけ神代榊を見る。
失った。
それでも、また覚えればいい。
机の上には試験問題があり、周囲には日向、楓、岳、伊織がいる。少し離れたところでは、冬真が卒業後の夢を話している。
今日も、何もなくなってはいない。
「よし!」
奎星は羽根筆を握った。
「やるぞ!」
日向が笑う。
「今度こそ?」
「今度こそ!」
三分後。
「これ分かんねえ!」
「早い!」
談話室に、また笑い声が響いた。
昨日、失った記憶はまだ戻っていない。
スズメの記憶も、相原の記憶も、硝子玉の中に眠る多くの人の記憶も、まだ誰の元へも帰っていない。
それでも、今日という日は待ってくれない。
だから進む。
笑う。
勉強する。
誰かの夢を知る。
新しいことを覚える。
間違える。
そして、また明日へ行く。
思い出すことばかり考えていたら、今日のことを見落としてしまうから。