奎星がマホウトコロへやって来てから、まもなく一か月が過ぎようとしていた。
最初の二週間は、彼にとって魔法という未知の世界へ足を踏み入れるための時間だった。森の端にある小さな部屋で烏丸スズメと向かい合い、七歳児向けの教科書を読み、一枚の羽根をまともに浮かせるところから始めた。
それに対して、その後の二週間は、もっと騒がしく、もっと速かった。
何よりもまず、友達ができた。
朝、二年二組の教室へ入れば、日向が後ろから肩を組んできて、楓が「朝から暑苦しい」とその腕を払い、伊織が窓際で本を読みながら冷静な嫌味を差し込み、岳はなぜか一時間目が始まる前から何かを食べている。
「岳、お前それ何個目?」
ある朝、奎星が尋ねると、岳は大きな肉まんを両手で持ったまま、真剣な顔で考え込んだ。
「朝から?」
「朝から」
「五個」
「朝飯は食ったよな?」
「食った」
「何杯?」
「四杯」
奎星は絶句した。
その横で伊織が眼鏡を押し上げる。
「岩戸家の食費は、一国の国家予算に近いという説がある」
「ねえよ」
「今作った」
「お前、たまに真顔で嘘つくよな」
日向が岳の肉まんへ手を伸ばした瞬間、岳は反射的にその手を叩き落とした。
「触るな」
「一口だけ!」
「食に友情を持ち込むな」
「お前、昼飯に誘ってきた初日に、食で友情を結んでただろ!」
楓はそんな四人を眺めながら、小さく息を吐いた。
「朝から元気ね」
言葉とは裏腹に、その表情はどこか楽しそうだった。
奎星は、そんな朝が好きになった。
以前の高校にも友達はいた。くだらない話をして、放課後になれば遊びに行き、進路の話になると全員で現実逃避をする。それはそれで楽しかった。
けれど、ここでは毎日のように知らないものが現れた。
廊下を歩けば肖像画に話しかけられ、階段が勝手に行き先を変え、窓の外を箒が横切る。昼食へ向かえば小妖が料理を運び、授業になれば、昨日まで本の中にしか存在しなかったようなことを、本当に自分の手でやることになる。
奎星は毎日、何度も驚いた。
そしてそのたびに、四人は奎星が驚くことを面白がった。
「薬って自分で作るの?」
初めて魔法薬学の教室へ入ったとき、奎星はずらりと並ぶ大釜を見て目を丸くした。
地下に近い石造りの教室には、乾燥させた薬草や樹皮、正体の分からない液体を詰めた瓶が棚いっぱいに並んでいる。鼻を刺す薬草の匂いの奥には、甘ったるい花の香りと、何かが焦げたような臭いが混じっていた。
教壇の向こうでは、薬師寺和政が今日も丸眼鏡の奥でにこにこと笑っている。
「ふぉっふぉっふぉ。蓮根坊、魔法薬というものはな、材料を鍋へ放り込めば勝手に出来上がるものではないぞい」
「カレーみたいな感じじゃないんすか」
「カレーを随分と雑に作っとるのう」
「家だと母さんが全部入れて煮てたんで」
「お母様に謝りなさい」
楓が横から言った。
その日の課題は、軽度の打撲に用いる治癒薬だった。
薬師寺が黒板へ手順を書きながら説明する。
「月桂樹の葉を三枚。薬研で細かく砕き、時計回りに七度じゃ。その後、火鼠の毛を――」
奎星が手を挙げた。
「先生」
「なんじゃ」
「時計回りに八回やったらどうなるんすか?」
「薬効が弱まる」
「六回なら?」
「肌が青くなる」
「九回は?」
「三日ほど耳から煙が出る」
「面白そう」
「自分で試すなよ?」
「はい」
五分後。
奎星は八回混ぜた。
「奎星!」
楓の声が教室に響く。
「忘れてた!」
大釜から紫色の煙が噴き上がった。煙は天井へ向かって渦を巻き、教室中へ甘ったるい臭いを撒き散らす。
薬師寺は髭を揺らして笑いながら杖を振った。天井へ昇った煙が一つの瓶へ吸い込まれ、栓がひとりでに閉じる。
「ふぉっふぉっふぉ。失敗は勉強じゃ」
「先生、優しい!」
「次に同じ失敗をしたら課題は倍じゃ」
「スズメちゃんと同じタイプだ!」
「烏丸先生と呼ばんか」
「なんで学校中に知られてんの!?」
一度失敗すれば、二度目は間違えない。
それが奎星の妙なところだった。
混ぜる回数、火力、材料を入れる順番、薬草を刻む大きさ。一度指摘されたことを、次の大釜ではほとんど正確に修正してしまう。
三度目の授業で、薬師寺は奎星の完成した薬を光へ透かしながら目を細めた。
「ほう」
「どう?」
「悪くないのう」
「天才?」
「調子に乗るほどではない」
「この学校の先生、全員それ言う!」
薬師寺の髭の向こうで笑い声がした。
飛行術では、事情が少し違った。
魔法の修正速度と、空を飛ぶと興奮してしまう性格は、どうやら別物らしい。
「蓮根ぇ! 速度を落とせ!」
「落としてます!」
「それでか!?」
「俺基準では!」
「世間基準に合わせろ!」
早瀬将吾の怒鳴り声が訓練場に響くのは、もはや日常になっていた。
初日は校舎へ激突した奎星だったが、その後、箒の扱いそのものは急速に上達した。急上昇と急降下、旋回、空中停止までは、二週間ほどで他の生徒に混ざれる程度になっていた。
ただし、日向には敵わない。
「ほら奎星! 遅い遅い!」
日向が頭上を通過していく。
箒を身体の一部のように扱い、奎星の周りを円を描くように旋回した。
「うぜえええ!」
奎星が追いかける。
「お前、魔法は強いのに飛ぶの下手だな!」
「始めて一か月だから!」
「言い訳!」
「降りろ! 地上で勝負しろ!」
「飛行術の授業で何言ってんだ!」
二人が猛スピードで飛び去る下では、楓が額を押さえていた。
「早瀬先生、あれ止めなくていいんですか?」
「今止める」
早瀬が銀色の笛を思い切り吹く。
鋭い音が訓練場を突き抜けた。
「朝比奈ぁ! 蓮根ぇ! 二人とも降りろ!」
二人の動きが同時に止まる。
「なんで俺も!?」
日向が叫ぶ。
「煽ったからだ!」
「正論!」
伊織は箒の上でゆったり浮かびながら呟いた。
「猿が二匹、空を飛べるようになると教師は大変だな」
「聞こえてんぞ伊織!」
「耳もいいらしい」
呪文学を担当するのは、二年二組の担任でもある土御門芽衣子だった。
土御門の授業は、スズメや御影とはまるで空気が違う。声は柔らかく、失敗してもまず叱らない。生徒が呪文を間違えれば、「惜しいですねえ」と微笑みながら隣へ来て、杖の角度を直してくれる。
そのせいか、生徒たちは土御門を完全に母親のように扱っていた。
「先生、日向が俺の消しゴム取った」
「朝比奈君、返してあげなさい」
「はい」
「先生、岳が俺の饅頭食った」
「岩戸君」
「事故です」
「どういう事故で人の饅頭が口に入るんですか?」
「……風?」
「今日は風がありませんよ」
土御門の笑顔が少しだけ深くなると、岳は黙って新しい饅頭を差し出した。
「土御門先生が一番怖いかも」
奎星が呟く。
楓が小声で返した。
「今さら気づいたの?」
授業そのものも、奎星には面白かった。
物を柔らかくする呪文。色を変える呪文。水を出す呪文。壊れたものを直す呪文。
日常生活の中で使われる魔法の多くは、炎を噴き出したり相手を吹き飛ばしたりするものではない。けれど御影に叱られて以来、奎星はそうした魔法にも以前ほど「地味」とは言わなくなった。
一度、土御門がそれに気づいた。
「蓮根君、最近ずいぶん丁寧に魔法を使うようになりましたね」
「御影先生に怒られたから」
「まあ」
土御門は微笑んだ。
「良い先生でしょう?」
「顔は怖いけど」
「先生に伝えておきますね」
「やめて!」
授業中だというのに、教室全体が笑いに包まれた。
高等魔法理論を担当する久我朔弥は、それらの教師とはまた違った。
久我の授業は、魔法を「なぜ使えるのか」という側から考える授業だった。
呪文と魔力の関係。杖の芯材が術式へ与える影響。魔力を一点へ集中させる場合と、面へ広げる場合の違い。
奎星にはまだ難しい話も多かったが、不思議と嫌いではなかった。
久我の説明は巧みだった。
「たとえば蓮根君」
ある日の授業で、久我が奎星を指した。
「君は大量の水を持っているとしましょう」
「また水?」
奎星が笑う。
「スズメちゃんにも蛇口で説明された」
何人かの生徒が笑った。
久我も穏やかに笑う。
「では、その説明を少し先へ進めましょう。大量の水を持つ人間が、必ずしも上手に花へ水を与えられるとは限りません。勢いよく浴びせれば、花は折れてしまう」
奎星は、御影の授業を思い出した。
「でも君は、その量を恐ろしい速さで調整できるようになっている」
「え?」
久我は教壇へ軽く腰を預けた。
「これは非常に稀有な才能ですよ」
奎星の顔が明るくなる。
「聞いた!? 楓!」
「聞いてる」
「先生が才能って!」
「授業中だから前を向いて」
「伊織、記録しといて!」
「『蓮根、また調子に乗る』と記録しておく」
「違う!」
久我は楽しそうに笑っていた。
授業が終わった後にも、ときどき奎星へ声をかけた。
「今日の質問は良かったですよ」
「マジ?」
「魔法の結果ではなく、過程を見る癖がついてきています。君は理論の理解も速い」
「俺、やっぱ頭良かったんすね」
「可能性は十分に」
それを補習でスズメへ報告すると、スズメは答案から顔を上げずに言った。
「久我先生は褒め上手ですね」
「もっと乗ってよ!」
「あなたは自分で十分に乗っています」
「スズメちゃんも一回くらい、『奎星君は百年に一人の天才です』とか言ってみて」
「嫌です」
「即答!」
それでも、奎星の制服は少しずつ色を深めていた。
まだ楓たちには及ばない。知識には大きな穴があり、知らない呪文も山ほどある。魔法史に熱中しているかと思えば、魔法法規の授業では欠伸をし、魔法薬では薬師寺に怒られ、飛行術では早瀬の笛を毎回鳴らした。
けれど、一か月前とは違う。
魔法が偶然起きる少年ではない。
自分の意思で杖を振り、自分の意思で魔力を止められるようになっていた。
そして、その変化を誰より慎重に見ている二人がいた。
ある日の放課後。
校長室の窓には、午後の雨が細い筋を作っていた。
南硫黄島を覆う雲は低く、普段なら眩しいほど白い羊脂玉の校舎も、今日は薄い灰色の光をまとっている。九重院紫苑は広い机の向こうに座り、目の前に置かれた二冊の報告書を交互に読んでいた。
一冊は御影のもの。
もう一冊はスズメが提出したものだった。
机の前には、その二人が並んでいる。
「つまり」
九重院はゆっくり眼鏡を外した。
「蓮根奎星君に、対人訓練を許可してほしいと?」
「そうです」
御影が答える。
九重院はすぐには返事をしなかった。机の上で指を組み、柔らかな顔に似合わない鋭い視線を二人へ向ける。
「入学してから、まだ一か月ですよ。それに彼の魔力量は、私をも凌いでいる可能性が高い。その蓮根君に、私の可愛い生徒たちへ杖を向けさせると?」
御影の眉が僅かに動いた。
「その可愛い生徒に、俺も含まれるのか?」
「四十七歳は含みません」
「そうか」
スズメが横で僅かに俯いた。笑ったのを隠したらしい。
御影がそちらを見る。
「何だ」
「何も」
九重院が小さく咳払いをした。
「真面目な話をしております」
「失礼」
スズメが姿勢を正す。
御影は机へ置かれた報告書を指した。
「蓮根の成長速度は速い。もちろん、本人には言わん」
「そこは大切ですね」
九重院が即座に頷く。
「しかし事実として、技術面だけなら周りの生徒へ追いつき始めている」
「知識はまだです」
スズメが補足した。
「座学については空白が大きい。ただ、実技の基礎制御に関しては、私の資料を読んでいただければ分かると思います」
九重院はスズメの報告書へ目を落とした。
複数対象への同時制御。発光量の調整。咄嗟の防御。召喚呪文の軌道制御。そして、感情を乱した状態での出力安定性。
「蓮根君は、すでにコントロールできる領域へ入っています」
スズメの声に迷いはなかった。
「絶対に事故を起こさないとは申し上げません。そんなことは他の生徒にも言えません。ただ、少なくとも『魔力が大きいから』という理由だけで、今後も対人訓練から外し続ける段階ではありません」
九重院は御影を見る。
御影も腕を組んだ。
「あいつは我慢している」
「我慢?」
「防衛術の時間だ」
御影の目に、この二週間の奎星が浮かぶ。
周囲の生徒たちは二人一組で呪文を飛ばし合う。その横で、奎星だけは人形を相手にしていた。攻撃するのも人形、守る相手も人形。
誰かが失敗すれば笑い声が上がり、勝てば喜び、負ければ悔しがる。奎星も、その輪に入りたそうに何度も見ていた。
けれど、一度も「なんで俺だけ」とは言わなかった。
御影が止めているから。まだ早いと言われたから。それを守っている。
あの奎星が。
「これ以上、個人訓練だけで他の生徒と同じように扱っていたら、今度はあいつ自身が爆発するぞ」
九重院の眉が上がる。
「比喩ですね?」
「……たぶん」
「御影先生」
スズメが横を見る。
「冗談だ」
御影は続けた。
「人と戦うことでしか学べないことがある。相手は動く。考える。騙す。怖がる。攻める。人形相手にエクスペリアームスを百回撃っても、それは学べない」
九重院は黙って二人を見る。
長い沈黙があった。
雨粒が窓へ触れる音だけが聞こえる。
やがて、校長は息を吐いた。
「分かりました」
スズメの目が僅かに動く。
「許可します」
御影は短く頷いた。
「ただし」
九重院の指が一本上がる。
「最初は基礎呪文のみ。御影先生が直接監督すること」
「分かっている」
「そして、藤森先生に立ち会っていただきます」
スズメが頷く。
魔法医療学と校内保健を担当する藤森は、授業中の事故にも対応する教員だった。
「何かあれば、即座に中止してください」
「当然だ」
「もう一つ」
九重院の視線が御影へ向く。
「本人に『校長先生があなたの才能を認めたから許可しました』などとは、絶対に言わないように」
「言うと思うか?」
「確認です」
スズメが静かに言った。
「それを言ったら三日は使い物にならないと思います」
「三日で済むか?」
「一週間でしょうか」
二人は真剣だった。
九重院は額を押さえた。
「……本当にあの子のことをよく理解していますね、あなた方」
校長室の外。
重い扉の向こうで、久我朔弥は静かに立っていた。
扉には盗聴防止の魔法が施されている。本来なら、会話など聞こえるはずがない。
しかし久我の指には、ごく細い銀糸が巻きついていた。糸の先は扉の下を通り、室内へ伸びている。
彼はしばらく目を閉じていたが、やがて銀糸を指へ巻き取り、何事もなかったように歩き出した。
口元には、あの穏やかな笑みが浮かんでいた。
その日の夜。
誰もいなくなった闇の魔術に対する防衛術の教室へ、一人の影が入った。
杖の先に灯した光は小さい。
影は決闘用の円へ近づくと、その縁に膝をついた。指の間にあるのは、爪の先ほどの黒い石。光をほとんど返さない、磨かれていない黒曜石だった。
男は床に刻まれた古い溝へそれを押し込み、杖先で一度触れた。
黒曜石が微かに赤く光る。
すぐに消えた。
床と見分けがつかなくなる。
「さて」
久我は立ち上がった。
「どれほどのものかな」
誰にも聞かれない声が、暗い教室へ溶けた。
翌日。
闇の魔術に対する防衛術の授業が始まって十分ほど経った頃、御影が突然言った。
「蓮根」
奎星は人形へ向けていた杖を止める。
「はい」
「前へ出ろ」
「何?」
「対人訓練だ」
一瞬、教室が静まり返った。
奎星も固まった。
「…………」
次の瞬間、顔がぱっと輝く。
「マジ!?」
「その反応は何だ」
「マジで!? 人間と!?」
「その言い方をやめろ」
「やった!」
後ろでは日向が笑っている。
「よかったな、奎星!」
「ついにお前らと戦える!」
「嬉しそうに怖いこと言うなよ!」
奎星は桜色を深めつつある袖を捲り、杖を握って中央へ向かった。明らかに歩幅が弾んでいる。
教室の端には、藤森が医療鞄を持って立っていた。
御影がそちらへ少し近づく。
低い声だった。
「一応、最大の準備をしておけ」
奎星が振り返る。
「御影先生! 聞こえてるよ!」
「一応だ」
「信用なさすぎじゃない!?」
「信用しているから許可が出た」
「……あ、そう?」
それだけで、奎星は嬉しそうになった。
御影は心の中で、やはり本人には余計なことを言うべきではないと再確認した。
「対戦相手を一人決める」
御影が教室を見回す。
「誰かやる者」
誰も手を挙げなかった。
「…………」
奎星が周囲を見る。
「え?」
日向が目を逸らす。
岳は天井を見る。
伊織は眼鏡を拭き始めた。
「おい」
誰も見ない。
「なんで!?」
理由は明白だった。
蓮根奎星は、まだ魔法を学び始めて一か月しか経っていない。
そんな編入生に負ければ、しばらく笑いものになる。さらに、万が一、本当に万が一、奎星が勝った場合、間違いなく調子に乗る。
昼食中も、授業中も、寮へ帰っても、おそらく一週間は、
「なあ、俺に負けた気分どう?」
と言い続ける。
それだけは耐えられなかった。
「日向」
奎星が呼ぶ。
「いや、今日ちょっと肩が」
「さっき元気だったじゃん!」
「岳」
「腹が」
「お前いつもだろ!」
「伊織」
「僕は平和主義だから」
「嘘つけ! お前、昨日日向の椅子に接着呪文かけてただろ!」
「証拠は?」
「お前、怖えよ!」
御影の眉間に皺が寄る。
「誰もいないのか」
そのとき、静かな声がした。
「私がやります」
奎星が振り向く。
楓が立っていた。
長い黒髪を後ろで束ね、杖を手にしている。深い紅色まで成長した制服は、彼女がこの学年でも上位の魔法使いであることを何より雄弁に示していた。
日向が目を丸くする。
「楓?」
「何?」
「いや……いいの?」
楓は少し笑った。
「誰かが相手をしないと、奎星がずっと騒ぐでしょう」
「楓ぇ……」
奎星が感動した顔になる。
「友よ」
「勝手に感動しないで」
「でも手加減してね」
「しないわよ」
「友じゃなかった」
教室に笑いが起きる。
御影は二人を決闘用の円の両端へ立たせた。
距離はおよそ七メートル。
「使用していいのは、エクスペリアームスとプロテゴのみ。相手へ直接攻撃を加える呪文は禁止する。杖を落とした時点で終了だ」
二人が頷く。
楓の表情は落ち着いている。
奎星は、楽しみを隠せない。
御影が一度だけ二人の杖を見た。
「始め」
奎星が先に動いた。
「エクスペリアームス!」
赤い光が走る。
楓は半歩横へ動きながら、
「プロテゴ!」
透明な盾を展開し、光を弾いた。
奎星が次を撃とうと杖を上げる。
それより早く、楓の手首が返った。
「エクスペリアームス!」
「え」
奎星の杖が、綺麗に手から抜けた。
くるくると回転しながら後ろへ飛び、床へ落ちる。
沈黙。
次の瞬間、教室が沸いた。
「おおおお!」
「楓ー!」
日向が両手を上げる。
岳も声を上げた。
「さすが!」
楓は小さく息を吐いた。
奎星だけが、空になった右手を見ている。
「…………」
御影が言った。
「水無瀬の勝ちだ」
「待って」
奎星は床の杖を拾い、楓を見る。
「もう一回」
「奎星」
「もう一回!」
負けたのが悔しい。
それは間違いない。
けれど、怒ってはいなかった。
奎星は小声で何かを呟き始めた。
「最初のエクスペリアームスで盾を出させて……俺、次を撃つのに杖を上げすぎた。楓はそこを見てた。あと俺、撃ったあと足が止まってるな……」
伊織が聞いていた。
「もう分析してる」
日向が笑う。
「奎星、負けず嫌いだからな」
奎星は楓を見る。
「次は負けない」
楓が肩をすくめる。
「何度やっても同じよ」
「言ったな?」
「言ったわ」
「御影先生!」
御影は二人を見る。
少し考えたあと、言った。
「もう一度だけだ」
「よし!」
再び位置につく。
教室の空気が少し変わった。
一度目より、奎星の顔から笑みが消えている。
楓もそれを感じたらしい。杖を構える指へ、少し力が入った。
御影が手を上げる。
「始め」
今度は、奎星が動かなかった。
楓も動かない。
数秒の間、互いの杖先だけを見つめる。
奎星の頭には、一度目の失敗が残っていた。
撃ったあとに止まらない。
相手の盾だけを見ない。
楓は速い。
なら、次に来る。
「エクスペリアームス!」
楓が先に撃った。
奎星は予測していた。
「プロテゴ!」
盾が現れ、赤い光が弾ける。
同時に、奎星が半歩横へ踏み込んだ。
楓が杖を構え直す。
今だ。
「エクスペリアームス!」
その瞬間、奎星は気づいた。
杖から流れ出した魔力が、いつもと違う。
「……え?」
胸から腕へ、腕から杖へ。
自分が流した量は間違っていない。
この一か月で、何百回と繰り返した感覚だった。
分かる。
出しすぎていない。
なのに、杖先へ到達した瞬間、魔力が膨れ上がった。
倍。
いや、そんなものではない。
決闘円の縁、床へ埋め込まれた黒曜石が、一瞬だけ血のような赤に染まった。
誰も見ていなかった。
「楓!!」
奎星が叫んだ。
すでに遅かった。
杖から放たれた赤い光は、これまでのエクスペリアームスとはまるで違った。
轟音とともに、空気そのものが歪む。
御影の顔色が変わった。
「プロテゴ!」
ほとんど反射だった。
楓の目の前へ、巨大な盾が現れる。
轟ッ、と光が盾へ激突した。
透明だった防壁が真っ白に染まり、教室の窓が一斉に震える。御影の靴が床を滑った。
「な――」
楓は御影の盾に守られた。
直撃はしなかった。
しかし、衝撃そのものまでは消しきれない。
「きゃっ――!」
楓の身体が後ろへ吹き飛んだ。
「楓!」
日向が動いた。
考えるより先だった。
壁へ向かって飛んでいく楓へ走り、跳ぶ。空中で彼女を抱きしめ、自分の身体を楓と壁の間へ入れた。
「朝比奈!」
御影が杖を振る。
「アレスト・モメンタム!」
二人の速度が一気に落ちる。
けれど、最初の勢いが強すぎた。
殺しきれない。
ドンッ、と鈍い音がした。
日向の背中が壁へ叩きつけられた。
楓を抱えたまま、その身体がずるりと床へ落ちる。
「…………」
教室から音が消えた。
奎星は杖を向けた姿勢のまま、動けなかった。
目の前で、日向が倒れている。
楓は彼の腕の中から起き上がった。
「日向?」
返事がない。
「……日向?」
肩へ触れる。
動かない。
楓の顔から血の気が引いていく。
「日向!」
藤森が走った。
「離れて!」
楓を横へ動かし、日向の首元へ指を当てる。杖を抜くと、青白い光が日向の身体を包んだ。
「朝比奈君、聞こえますか」
反応はない。
「日向!」
楓が手を伸ばす。
藤森が別の呪文を唱える。光が日向の背中から胸へ流れた。
それでも、目を開けない。
「……なんで」
楓の声が震えた。
「日向。ねえ」
いつも、うるさいほど喋る。
下級一年の頃から、ずっと、十二年近く隣にいた。
その少年が、何も言わない。
「起きてよ……」
楓の目から涙が落ちた。
「日向!」
奎星は、それを見ていた。
ただ、見ていた。
自分の右手。
神代榊の杖。
杖先からは、まだ僅かに煙が上がっている。
「…………」
違う。
そんなに出していない。
今のは違う。
ちゃんと絞った。
御影に教わった。
スズメに教わった。
必要な量だけ、ちゃんとやった。
なのに。
日向が倒れている。
「全員」
御影の声が響いた。
普段より、さらに低かった。
「授業を終わる」
誰も動かない。
「榊」
伊織が御影を見る。
「……はい」
顔色が悪い。
「岩戸と一緒に、全員を教室から出せ」
岳が奎星を見る。
「でも」
大きな手が拳になる。
「奎星が……」
今、どんな顔をしているのか。
岳には分かっていた。
「一人にして大丈夫なのかよ」
伊織は奎星を見た。
杖を持ったまま、瞬きすらほとんどしていない。
「……行こう、岳」
「でも」
「今、何を言っても」
伊織は少しだけ唇を噛んだ。
「たぶん、届かない」
岳は動かなかった。
奎星へ近づきかける。
けれど、途中で止まった。
「……奎星」
呼ぶ。
奎星は反応しない。
岳はそれ以上、何も言えなかった。
二人が生徒を連れて教室を出ていく。
何人もの生徒が、何度も振り返った。
奎星へ。
倒れた日向へ。
泣いている楓へ。
誰も、何も言わなかった。
慰めることはできた。
事故だ。
わざとではない。
奎星のせいではない。
そう言うことはできた。
けれど、今の奎星にその言葉を渡しても、彼自身が受け取れない。
御影は日向の身体を魔法で慎重に浮かせた。
藤森が隣につく。
「医務室へ運びます」
御影が頷く。
楓も立ち上がった。
足が震えている。
「私も……行きます」
「水無瀬」
「行きます」
涙を手の甲で拭う。
御影は何も言わなかった。
日向の身体が、ゆっくり教室を出ていく。
楓がその後ろをついていく。
扉の手前で、楓は一度だけ振り返った。
奎星を見る。
二人の目が合った。
奎星の唇が僅かに動く。
「……楓」
声は、ほとんど出なかった。
楓の顔には涙の跡が残っていた。
何かを言おうとして、言えず、そのまま教室を出ていった。
扉が閉じる。
静かになった。
広い教室。
倒れた訓練人形。
焦げた床。
ひびの入った壁。
そして、一人。
奎星だけが残った。
右手には、杖。
一か月前、初めて握ったとき、驚くほど手に馴染んだ。
魔法を使えることが嬉しかった。
リモコンを飛ばした。
羽根を浮かせた。
光を灯した。
友達ができた。
御影みたいになりたいと思った。
殺さずに止めるほうが難しい。
そう教わった。
なのに。
自分の放った魔法で、日向は目を開けなかった。
奎星は、ただ閉じた扉を見つめていた。