それから、数週間が過ぎた。
マホウトコロの冬は、ようやく終わりの気配を見せ始めていた。海から吹き上げる風にはまだ刺すような冷たさが残っているものの、晴れた日の陽射しは少しずつ柔らかくなり、校舎の窓辺には春を待つような明るさが差し込んでいる。
ただし、二年二組の教室に春の気配はなかった。
学年末試験まで、あと二週間。生徒たちの机には教科書と問題集が積まれ、誰もが勉強しているように見えた。実際には、教科書を枕にしている者もいれば、羽根筆を握ったまま窓の外を眺めている者もいる。
そして何より、教壇に立っているのが烏丸スズメではなかった。
「ですから、この時代の魔法省記録を読む場合、当時の一般社会との関係を無視してはならない。特に、魔法使いと非魔法族の間で交わされた協定については――」
高宮が黒板へ文字を書き連ねていると、後ろの席から声が飛んだ。
「高宮先生」
「何だ、蓮根」
奎星は頬杖をついたまま、悪びれもせずに言った。
「スズメちゃんのほうが分かりやすい」
教室の空気が、一瞬で凍った。
高宮の手が止まる。ゆっくりと振り返った顔には、こめかみのあたりに青筋が浮かんでいた。
「烏丸先生だ」
「そこじゃないっす」
「そこもだ!」
日向が隣の席から手を上げる。
「俺も、烏丸先生のほうが分かりやすいと思います!」
「朝比奈、お前までか!」
さらに、窓際で黙ってノートを取っていた岳が、顔を上げずに言った。
「俺も」
高宮の顔が引きつる。
「岩戸まで!?」
「板書が見やすい」
「具体的な駄目出しをするな!」
楓が額を押さえた。
「ちょっと、あんたたち。先生が臨時で来てくれてるんだから、もう少し言い方ってものがあるでしょ」
「でも事実だし」
奎星が平然と返す。
「奎星、その通りだけど黙って」
「水無瀬!?」
伊織は教科書から顔を上げないまま、淡々と付け加えた。
「僕も烏丸先生のほうが分かりやすいとは思いますけど」
「お前もか!!」
教室に笑いが広がった。
高宮は黒板の前で肩を震わせ、やがて教卓へ両手をついた。
「私はな、本来、魔法史担当ではない!」
「知ってます」
「臨時だ!」
「それも知ってます」
「烏丸先生が魔法省から要請を受けて研究に専念している間だけ、代わりに授業をしているんだ!」
「それも知ってます」
「では黙って受けろ!」
奎星は少し考えた。
「でも、やっぱりスズメちゃんのほうが――」
「ほんっとうに憎たらしいガキどもだな、お前らは!!」
高宮の怒声が教室中に響き渡った。日向が吹き出し、岳まで口元を緩める。楓は呆れたようにため息をつき、伊織だけが何事もなかったように頁をめくっていた。
高宮は深く息を吸い、どうにか怒りを飲み込む。
「いいか。烏丸先生が戻ってきたら、今のお前たちの発言は全部本人へ報告する」
奎星の顔がぱっと明るくなった。
「マジ?」
「何で喜ぶ!」
「俺、直接言うし」
「もっと悪い!」
日向が小声で呟く。
「俺はちょっと嫌だな。本人の前では言えない」
奎星が振り返った。
「お前、さっき言ってたじゃん」
「裏では言えるけど、本人の前は怖い」
「裏切り者!」
「お前の胆力がおかしいんだよ!」
高宮は再び額を押さえた。
学年末試験まで、あと二週間。
この連中を無事に進級させなければならない。
教師という仕事は、本当に大変だった。
*
烏丸スズメが魔法史の授業から外れて、三週間近くが経っていた。
正確には休職ではない。朝になれば学校へ来ているし、職員室にも顔を出す。しかし、授業へ出る時間すら惜しむように、ほとんど一日中、魔法史研究室か魔法省の研究区画に籠もっていた。
研究室の机には、眞田大の研究資料、星帰り作戦の記録、群馬の施設から回収された硝子玉の解析結果が積み上げられている。その周囲には、何百枚もの失敗した術式が散らばっていた。
《旧記憶》
《現記憶》
《自己認識》
《帰属判定》
スズメは一月の終わりから二月へ入っても、同じ問題に向き合い続けていた。
硝子の中に固定された記憶を、どうすれば過去の自分として現在の自分へ返せるのか。
最後まで残っていた問題は、ただ一つだった。
その記憶が、本当にその人のものだと、どう証明するのか。
答えは、ずっと目の前にあった。
三年前、眞田たちが失敗したもの。
《対象範囲――制御不能》
そして、三年間で眞田が完成させたもの。
《対象範囲――蓮根奎星》
記憶を抽出するとき、術式は「誰の記憶を取り出すのか」を指定している。つまり、硝子玉へ固定された記憶には、その記憶が誰から取り出されたものなのかを示す術式上の痕跡が残っている。
眞田は、それを記憶を外へ取り出すための指定としてしか見ていなかった。
けれど、逆にすればいい。
硝子から人へ。
この記憶は、誰のものだったのか。
星帰りが、外から重ねられた偽物の認識を「自分のものではない」と切り離したのなら、その逆に、硝子の中にある記憶を「これは自分の過去だ」と現在の自己認識へ判断させればいい。
過去から現在へ、無理やり押し込むのではない。
今の自分から、過去へ手を伸ばす。
スズメは最後の術式を書き終えた。
そして、三週間近く一度も書けなかった言葉を、紙の一番下へ記した。
《完成》
羽根筆を置いた瞬間、研究室の暖炉で薪が小さく弾けた。
スズメはその音を聞きながら、しばらく紙を見つめていた。
完成した。
本当に、これでいいのか。
失敗すれば、戻した記憶が現在の記憶を押し潰すかもしれない。過去と現在が混ざり合い、どちらが自分なのか分からなくなるかもしれない。
それでも。
もう、試すしかなかった。
*
その日の放課後。
二年二組の教室では、試験勉強をしているはずの生徒たちが、問題集を開いたまま雑談に興じていた。
「蓮根君」
教室の扉から声がした。
奎星が勢いよく振り返る。
「スズメちゃん!」
三週間近く、授業では見なかった姿だった。濃紺の教員衣。顎で揃えた黒髪。いつもより少し疲れた顔と、目の下に薄く残った隈。
それでも、奎星には彼女がいつもより明るく見えた。
「久しぶり!」
「毎朝、研究室へ来ているでしょう」
「授業では久しぶり!」
「そうですね」
高宮が教卓の横から口を挟んだ。
「烏丸先生」
「はい?」
「こいつらを引き取ってくれ」
「何があったのですか」
「聞くな」
高宮は疲れ切った顔で首を振った。
奎星、日向、岳が一斉に目を逸らす。楓は笑いを堪え、伊織だけが平然と教科書を閉じた。
スズメは少し不思議そうに彼らを見たが、今は追及しなかった。代わりに、奎星へ視線を戻す。
「蓮根君」
「ん?」
スズメは、ほんの少しだけ息を吸った。
「できました」
奎星の表情が止まる。
「……何が?」
「記憶復元魔法です」
教室の音が消えた。
窓の外で風が鳴っている。廊下を走っていた生徒の足音も、遠くの鐘の音も、すべてが急に遠ざかったように感じられた。
奎星はスズメを見たまま、しばらく動かなかった。
「……マジ?」
「マジです」
「本当に?」
「はい」
椅子が大きな音を立てて後ろへ下がった。奎星が立ち上がる。
「できたの!?」
「ですから、そう言っています」
「戻せんの!?」
「理論上は」
「スズメちゃんの記憶も!?」
スズメの目が、ほんの僅かに揺れた。
「……成功すれば」
その一言で、奎星の顔から笑みが消えた。
本当に、ここまで来たのだ。
何週間も追い続けていたものが、手の届くところまで来ている。
スズメは続けた。
「明日、私と蓮根君は魔法省へ正式に招かれています」
奎星が瞬きをする。
「俺も?」
「最初の試験対象です」
「……俺?」
「はい」
「俺!?」
「二度言いました」
日向が横から顔を出す。
「大丈夫なの?」
楓も、さすがに表情を引き締めていた。
スズメは頷く。
「だからこそ、最初は蓮根君なのです」
奎星は自分を指差した。
「一番丈夫だから?」
「違います」
「魔力が多いから?」
「違います」
「実験され慣れてるから?」
「それは少しあります」
「あるんだ!?」
「冗談です」
「スズメちゃんが冗談言った!」
「蓮根君」
「はい」
スズメは、ほんの少しだけ笑った。
「詳しいことは、明日説明します」
*
翌日。
東京・霞が関、日本魔法省地下庁舎。
来庁者用の転移門を抜けた奎星は、見慣れたはずの地下空間をきょろきょろと見回した。高い天井。青白い魔法灯。行き交う職員たち。以前ここへ来たときは、何かしらの事件に巻き込まれていたが、今日は正式な招待を受けている。
「久しぶりだなー」
「遊びに来たわけではありませんよ」
隣を歩くスズメが言った。
「分かってるって。今日はちゃんと正式招待だろ?」
奎星は胸を張る。
「俺、客!」
「被験者です」
「急に扱いが悪くなった!」
二人が機密保持局の区画へ入ると、廊下の先に一人の男が立っていた。
金縁の眼鏡。整えられた口髭。隙のない魔法省制服。そして、つるりとした頭。
奎星の顔が明るくなる。
「あ!」
男の眉が動いた。
「久しぶりっす!」
戸倉雅臣は、数秒かけて奎星を見た。それから、心の底から嫌そうな顔で言った。
「なるべく君の顔は見たくないんだがね」
「挨拶しただけじゃん!」
「君と会うたびに、報告書が増える」
「俺のせいじゃないやつもある!」
「君が中心にいる時点で、こちらからすれば大差ない」
「ひど!」
スズメが横から頭を下げる。
「戸倉さん。本日はよろしくお願いします」
「烏丸先生。こちらこそ。正式な検証許可は下りています」
奎星が指を立てた。
「俺には?」
戸倉が見る。
「何が?」
「よろしくお願いします的なやつ」
「無茶をしないでくれ」
「挨拶じゃない!」
「私から君へ言いたいことは、それだけだ」
「嫌われてんなー」
「好かれる要素を増やしてから言いなさい」
戸倉が歩き出す。
その後ろで、スズメの肩が僅かに揺れていた。
「スズメちゃん、今笑った?」
「笑っていません」
「笑ったろ!」
「静かにしてください」
*
記憶復元魔法の試験は、機密保持局地下第四実験室で行われることになった。
広い円形の部屋の床には、新しく描かれた銀色の術式が広がっている。中央には椅子が一脚。その正面に、透明な保存器が置かれていた。
保存器の中には、小さな硝子玉が浮かんでいる。
奎星はそれを見て、眉を寄せた。
「これ……」
「あなたのものです」
真壁征士郎が答えた。
壁際には真壁、御影、戸倉が並んでいる。さらに、なぜか斎賀までいた。
「何で斎賀がいるの?」
「面白そうだから」
真壁が即座に否定する。
「違う。術式解析協力者として立ち会っている」
「建前では?」
「建前ではない」
「はいはい」
御影が腕を組んだ。
「玄弥、黙っていろ」
「二人とも俺に厳しくない?」
奎星はもう一度、硝子玉を見た。
「俺の記憶、玉になってたんだ」
真壁が頷く。
「群馬の施設を解体した際、中央装置の内部から見つかった」
「でも、あのとき玉なんて出てなかったよな?」
「あの魔法は掠っただけだった。完全な抽出ではない」
スズメが説明を引き継ぐ。
「眞田先輩の術式は、取り出した記憶を一度、中央装置へ送る構造になっていました。そこから固定用の硝子へ移す。本来なら、その過程で一つの硝子玉が形成されます」
「俺のは?」
「途中で止まっています」
「掠ったから?」
「はい」
スズメは保存器へ近づいた。
「それと、検査で分かったことがあります」
奎星が嫌な顔をする。
「何?」
「《ステューピファイ》だけではありませんでした」
部屋の空気が少し変わった。
「……え?」
真壁が資料を開く。
「正確には、《ステューピファイ》の記憶が最も大きく欠損していた。他にも、ごく小さな記憶断片が抽出されています」
「何の?」
「実戦用呪文だ」
御影が答えた。
奎星が振り返る。
「俺、普通に他の魔法も使えてるけど」
「ああ。だから気づかなかった」
硝子玉の内部に、いくつかの文字が浮かび上がった。
《ステューピファイ》
《エクスペリアームス》
《デパルソ》
《プロテゴ》
奎星の目が丸くなる。
「めっちゃあるじゃん!」
「慌てないでください」
スズメが言った。
「《ステューピファイ》以外は、魔法そのものを失ったわけではありません。例えば《デパルソ》なら、御影先生との特定の訓練一回分。《プロテゴ》なら、過去の失敗の一部。そういった細かな断片だけです」
御影が低い声で続ける。
「眞田が狙っていたのは、おそらくお前の実戦呪文に関する記憶だ」
「それが掠って、一部だけ持っていった」
「そういうことだ」
奎星はしばらく黙って硝子玉を見つめた。
「……ステューピファイだけ、真ん中にあったってこと?」
「おそらくな」
御影が答える。
「あのとき、お前が使おうとしていた」
奎星は、あの瞬間を思い出した。
眞田へ最後の一撃を撃とうとした。赤い光を放つはずだった。けれど、呪文の名前が出てこなかった。
そして、負けた。
「そっか」
奎星は硝子玉へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「じゃ、戻すか」
戸倉が眉を寄せる。
「軽いな、君は」
「だって、そのために来たんだろ?」
「そうだが」
真壁が一歩前へ出た。
「もう一度説明する。今回が、人間への最初の復元試験だ」
「うん」
「理論上、安全性は高い。しかし、実際に人間へ戻した例は一度もない」
「うん」
「途中で異常があれば、即座に中止する」
「うん」
「嫌なら、今やめても構わない」
奎星は少し笑った。
「真壁さん」
「何だ」
「俺が一番いいんだろ?」
真壁は数秒黙った。
「ああ」
スズメが説明する。
「復元術式で最も危険なのは、同じ内容について古い記憶と新しい記憶が衝突する場合です」
「ステューピファイなら、俺が忘れてから数週間しか経ってない」
「はい」
「その間に覚えたのも、名前と意味くらいだし」
「それに、使おうとして失敗したことですね」
「だったら、仮にそこが少しおかしくなっても、他よりはマシじゃん」
「その通りです」
スズメの声は静かだった。
だから、最初は奎星だった。
失えば取り返しのつかない記憶ではない。少なくとも、人との時間ではない。
本人も言っていた。
魔法なら、また覚えればいい。
奎星は中央の椅子へ座った。
「やろう」
スズメは何も言わず、彼を見た。いつものように不安を隠しているつもりなのだろうが、奎星には分かった。
「大丈夫」
「あなたの大丈夫は」
「信用ないんだろ?」
先回りすると、スズメは僅かに目を細めた。
「……はい」
「知ってる」
「でしたら、言わないでください」
「でも」
奎星は硝子玉を見る。
「スズメちゃんが作ったんだろ?」
スズメの目が動いた。
「だったら信用する」
「…………」
「俺じゃなくて」
奎星は笑った。
「スズメちゃんを」
スズメはしばらく何も言わなかった。やがて、小さく息を吐く。
「本当に、そういうところです」
「何が?」
「何でもありません」
スズメは杖を取り出した。神代榊ではない。彼女自身の杖だった。
床の銀色の術式が、淡く光り始める。
「蓮根君」
「はい」
「目を閉じてください」
奎星が目を閉じる。
「自分の名前を」
「蓮根奎星」
「今いる場所を」
「日本魔法省、地下第四実験室」
「今日までの自分を、忘れないでください」
奎星の口元が少し上がった。
「忘れねえよ」
スズメが保存器へ杖を向ける。
銀色の光が硝子玉を包み、内部の糸がゆっくりと揺れ始めた。
一本。
二本。
三本。
硝子玉の表面に、細い文字が浮かび上がる。
三年前にはなかった術式。眞田が三年間かけて完成させた《対象指定》。
その向きを、スズメが逆転させる。
誰から取るのか、ではない。
誰へ帰すのか。
記憶の中に残された帰属と、現在の自己認識が重なっていく。
硝子玉の銀色が、一瞬だけ強く輝いた。
スズメの目が変わる。
「……帰属、一致」
真壁が僅かに息を吐いた。戸倉は記録用の羽根筆を止め、御影は奎星だけを見ている。斎賀も、もう笑っていなかった。
スズメは杖を持つ手へ力を込めた。
長い時間をかけて探し続けた術式。
失ったものを、失ったときへ巻き戻すのではない。
今へ帰す魔法。
「《レディンテグラ・メモリアム》」
銀色の光が弾けた。
硝子玉に亀裂が走る。
ぱき、と小さな音がした。
奎星の眉が動く。
続けて、ぱき、ぱき、と亀裂が広がった。割れた硝子の中から、何本もの銀色の糸が飛び出し、真っ直ぐに奎星の額へ触れる。
「――っ」
息が止まった。
暗闇の中に、夏の訓練場が浮かび上がる。
汗。照りつける太陽。目の前に並んだ人形。
『ステューピファイ』
赤い光が外れる。
『もう一度』
御影の声。
『ステューピファイ!』
今度は人形の肩へ当たり、勢いよく吹き飛ばした。
『強すぎる』
『倒れたじゃん』
『殺さずに止めろと言っている』
また杖を構える。
『ステューピファイ!』
今度は、人形がその場へ崩れ落ちた。
『おお!』
『喜ぶな。もう一度』
『今の、よくない!?』
『もう一度』
何十回、何百回と繰り返した。
威力を変え、距離を変え、角度を変える。日向と競い、楓に怒られ、御影に呆れられながら、それでも何度も杖を振った。
別の日には、《デパルソ》を使った。
四体の人形を同じ距離へ吹き飛ばす訓練。重さの違う人形を見分け、必要な力だけを込める。
《プロテゴ》では、盾を張るタイミングを誤って魔法をまともに受けた。
《エクスペリアームス》では、相手の杖だけを狙うために、何度も失敗した。
怒っていても、怖くても、必要な力だけを使う。
――だから学ぶ。
御影の声が、何度も響いた。
そして、群馬の廃研究施設。
眞田。
銀白色の光。
抜け落ちた瞬間。
そこまでの記憶が、すべて一本に繋がった。
奎星の目が開く。
「…………」
スズメがすぐに近づいた。
「蓮根君?」
奎星は答えない。
「聞こえますか?」
奎星は神代榊を見た。
手に取る。
御影が一歩動いた。
「蓮根」
奎星は杖を構えた。
目の前には、試験用の人形が並んでいる。
その杖の握り方を見ただけで、御影には分かった。
戻っている。
肩の位置。肘の角度。魔力を流す場所。何度も直した、自分が教えた構え。
奎星の口元が上がった。
「思い出した」
スズメの目が大きくなる。
「本当に?」
「うん」
「どこまで――」
「全部!」
奎星の杖先が人形へ向いた。
御影の眉が寄る。
「待て」
「ステューピファイ!!」
赤い閃光が走り、人形が倒れた。
奎星の目が輝く。
「うおおおお!!」
「蓮根!」
二体目へ杖を向ける。
「ステューピファイ!」
人形が倒れる。
「蓮根君!」
三体目。
「ステューピファイ!!」
「蓮根君!!」
真壁の怒鳴り声が実験室へ響き渡った。
奎星がようやく止まる。
「はい!」
「誰が連射しろと言った!」
「嬉しくて!」
「成功確認は一発で十分だ!」
「でも戻った!」
「分かった!」
「めっちゃ撃てる!」
「撃つな!」
斎賀が腹を抱えて笑い始めた。
「はははははは! 戻った瞬間からこれかよ! 一個も成長してねえ!」
「成長してるわ!」
「記憶が戻った証明としては完璧だな!」
「だろ!?」
「褒めるな!」
真壁が二人まとめて怒鳴る。
その横で、スズメは笑っていた。
最初は小さく、やがて肩を揺らしながら、本当に楽しそうに。
奎星が気づく。
「スズメちゃん」
スズメは笑ったまま、目元へ指を当てた。
「……よかった」
その声が、少しだけ震えていた。
「本当に……」
奎星も笑った。
「うん」
失った記憶が、初めて帰ってきた。
*
その日の夜。
日本魔法省、監察局取調区画。
眞田大は、真壁から結果を聞いた。
「成功した」
眞田はすぐには答えなかった。両手には、まだ魔力拘束具が嵌められている。
「蓮根の?」
「ああ」
「現在の記憶は」
「残っている」
眞田の目が僅かに動いた。
真壁は続ける。
「《ステューピファイ》を失ったあとに形成された記憶も、それ以前の記憶も、両方確認できた」
「……そうか」
短い言葉だった。
だが、その声からは、ほんの僅かに力が抜けていた。
眞田は机へ目を落とす。
「烏丸が?」
「ああ」
「完成させたんだね」
「お前の研究も使っている」
「そうか」
沈黙が落ちた。
真壁はそれ以上何も言わず、立ち上がろうとした。
「真壁さん」
呼び止められた。
真壁が振り返る。
眞田は俯いたままだった。
「一つ、頼みがある」
真壁の目が鋭くなる。
「内容による」
「……相原さんだ」
その名前を聞いた瞬間、真壁の表情が変わった。
「相原美里?」
「ああ」
眞田は長く息を吐いた。
「彼女の記憶は、完全には失われていない」
真壁の目が細くなる。
「どういう意味だ」
「事故当時は、本当に分からなかった。固定に失敗して、術式のどこへ飛んだのかも分からなかった」
「当時は?」
眞田は目を閉じた。
「事故から数か月後、記録局で使っていた研究室を片づけていたとき、旧固定槽の裏から微弱な反応を見つけた」
真壁は何も言わない。
「硝子玉と呼べるほど綺麗なものじゃない。形も歪んでいる。半分は結晶化に失敗していた」
「中身は」
「調べた。相原さんから失われた記憶と一致した」
真壁の顔から、完全に表情が消えた。
「……なぜ」
眞田は答えない。
「なぜ報告しなかった」
「…………」
「眞田」
「戻せるようになるまで」
初めて、声が掠れた。
「手放したくなかった」
真壁の拳が僅かに握られる。
「それで三年間?」
「……ああ」
「相原さん本人にも伝えず?」
「ああ」
「烏丸先生にも?」
「言っていない」
真壁は長い時間、何も言わなかった。
怒鳴らなかった。
その沈黙のほうが、眞田には堪えた。
やがて、眞田が続ける。
「僕は、戻せるようになったら言えばいいと思っていた」
「…………」
「戻せれば、全部が無駄ではなくなると思っていた」
そこで、眞田は言葉を止めた。
昨日までなら、研究の成果に変わる、失敗ではなくなると、そう言っていたかもしれない。
けれど、今は違った。
「……それも、間違いだった」
真壁が僅かに目を動かす。
眞田は顔を上げなかった。
「旧記録局研究棟。僕が使っていた研究室の北側壁面、三番書架の裏に個人封印した保管箱がある」
「解除方法は」
眞田が答える。
真壁は記憶するように、黙って聞いていた。
「それを、戻してやってくれ」
真壁は何も返さなかった。
「僕ではなく」
眞田の指が、拘束具の上で僅かに動く。
「烏丸に」
短い沈黙のあと、眞田は静かに言った。
「相原さんへ返してくれ」
*
三日後。
魔法省の記憶研究区画。
透明な保存器の中には、硝子玉とは呼べないものが浮かんでいた。
歪んだ小さな硝子の塊。丸くなく、一部は白く濁り、端には細かな亀裂が入っている。
それでも、中心には確かに銀色の糸があった。
相原美里は椅子へ座り、それをじっと見つめていた。
隣には、一人の女性がいる。
相原の親友だった。
三年前、相原が忘れてしまった人。
正確には、彼女そのものを忘れたわけではない。今も親友だと分かっているし、一緒に過ごした時間も多くは残っている。
ただ、最初の日だけがなかった。
二人がどうやって友達になったのか。
そこだけが、ずっと空白だった。
「緊張する?」
親友が訊いた。
相原は少し笑う。
「する」
「やめる?」
「やめない」
「即答」
「三年待ったから」
親友は何も言わず、相原の手を握った。
「でも」
「何?」
「手、握ってて」
「うん」
二人の手が重なる。
少し離れたところで、スズメが杖を持って立っていた。真壁、医療術者、記録局員、機密保持局員もいる。何かあれば、すぐに術式を止められる態勢だった。
相原がスズメを見る。
「烏丸さん」
「はい」
「成功したんですよね」
「蓮根君では」
「じゃあ大丈夫」
スズメが僅かに目を見開く。
相原は笑った。
「あの人で大丈夫なら、私もいけそう」
「どういう意味ですか」
「丈夫そうだから」
「それは否定できませんが」
部屋の空気が、少しだけ軽くなった。
相原は歪んだ硝子を見つめる。
幼い頃、母親と見た祭り。
初めて箒へ乗った日。
そして、隣にいる人と初めて出会った日。
「お願いします」
スズメが頷き、杖を上げる。
「相原さん」
「はい」
「今のあなたを、忘れないでください」
相原は親友の手を握り返した。
「大丈夫」
そして、少しだけ笑う。
「三年間もありますから」
銀色の術式が光った。
歪な硝子へ帰属判定が走る。
一度、光が揺らいだ。
スズメの顔が強張る。
しかし、次の瞬間には銀色の光が一本へ揃った。
「……一致」
真壁が小さく頷く。
スズメが杖を振る。
「《レディンテグラ・メモリアム》」
硝子が、ゆっくりと崩れた。
銀色の糸が相原の中へ帰っていく。
祭囃子。
母親の手。
赤い提灯。
笑い声。
夜空。
初めて箒へ跨がった日。
怖くて、地面から十センチしか浮かべなかった。それでも、自分は空を飛んだのだと思った。
そして、学校の廊下。
知らない女の子が、突然、自分の手を掴んだ。
『早く! 遅刻する!』
『え?』
走る。
『ちょ、誰!?』
『早くって!』
『誰!?』
教室へ入る。
周囲は全員、知らない顔だった。先生も知らない。
隣の女の子が、ようやく相原を見る。
『…………』
相原も見る。
『…………』
『ごめん』
『人違い!?』
そこから、二人の時間が始まった。
すべてが戻る。
相原の目から涙が落ちた。
親友が息を呑む。
「美里?」
相原は俯いた。肩が震えている。
「美里」
親友が心配そうに覗き込む。
相原は顔を上げた。
泣いていた。
けれど、笑っていた。
「思い出した」
親友の目が大きくなる。
「え?」
「初めて会った日」
「…………」
「いきなり私の手を掴んで走ったよね」
親友の顔が固まった。
「……そこ?」
「人違いなのに」
「ちょっと待って」
「しかも違う組の教室まで連れていって」
「美里」
「先生に二人とも怒られて」
「他にもっと感動的な記憶があったでしょ!?」
相原が声を上げて笑った。
涙を流しながら、笑った。
「だって!」
「三年ぶりに戻って、最初にそれ!?」
「忘れててほしかった?」
「ちょっとだけ!」
「無理!」
親友の目にも涙が溜まっていた。
「……馬鹿」
「そっちでしょ」
「美里」
「うん」
「本当に?」
相原の笑顔が、少しだけ崩れる。
「うん」
声が震えた。
「思い出した」
次の瞬間、親友が相原を抱きしめた。
相原も強く抱きしめ返す。
三年前にはできなかった抱擁。
忘れていたからではない。友達ではなかったからでもない。
ただ、一番最初の一日だけが、二人の間から抜け落ちていた。
その日が、帰ってきた。
「ねえ」
親友が泣きながら言う。
「昨日のことは?」
相原が少し離れる。
「昨日?」
「何食べた?」
相原は涙を拭いた。
「駅前のラーメン」
「一緒に?」
「うん」
「私、替え玉した?」
相原の口元が上がる。
「二回」
親友が泣きながら笑った。
相原も笑った。
戻った。
そして、消えていない。
三年前までの自分も。
三年間を生きてきた自分も。
どちらも、ここにいる。
スズメは二人を見ていた。
胸の前で杖を握ったまま、動けずにいる。
相原がふとスズメを見る。
目が合った。
「烏丸さん」
「はい」
「今日のこと」
スズメの目が僅かに揺れる。
相原は笑った。
「ちゃんと覚えてます」
「…………」
「戻ってきたけど」
親友の手を握る。
「今日も、なくなってません」
スズメの目が、ゆっくりと潤んだ。
「……はい」
小さく頷く。
「はい」
*
その後、魔法省が回収した記憶は、慎重に一人ずつ持ち主へ返されていった。
黒曜の環に関わっていた者。施設の操作方法だけを奪われた者。古い結界術を失った者。魔法具の製造工程を失った者。
誰も、戻したことで現在の記憶を失わなかった。
過去が帰ってきても、今日までの自分は残った。
一人。
二人。
五人。
十人。
検証は重ねられ、術式は修正され、安全基準が作られていった。
そして、ついにその日が来た。
*
日本魔法省、地下第四実験室。
中央の保存器に、一つの硝子玉が浮かんでいる。
奎星は、それを何度も見た。
一月一日。
列車。
銀白色の光。
スズメの身体から何かが抜けていった。
ちん、と床へ落ちた、あの硝子玉。
その中には、自分に関わる半年分の記憶が入っている。
初めて会った日から、一月一日まで。
全部。
奎星は、いつもよりずっと静かだった。
スズメが隣に座っている。
真壁、戸倉、医療術者、記録局員。必要最低限の人間だけが部屋にいた。
御影たちは、外で待っている。
本来なら、奎星も外へ出るはずだった。
けれど、スズメが「いてほしい」と言った。
だから、ここにいる。
スズメは硝子玉を見つめていた。
「……不思議ですね」
「何が?」
「ずっと、戻したいと思っていました」
「うん」
「怖いとも思っていました」
「うん」
「今も」
スズメは自分の手を見た。
「少し怖いです」
奎星は答えなかった。
代わりに、自分の左手を差し出した。
スズメが見る。
その手首には、銀色の腕時計がある。
クリスマスの日、自分が選んだもの。
けれど、今のスズメには、その時計を選んだ記憶がない。
奎星が言った。
「使う?」
「何をです?」
「手」
スズメの目が僅かに大きくなる。
観測塔で、記憶を失ったあとにも同じように手を握った。
あの日、スズメは「しばらく、このままでいてほしい」と言った。
今、もう一度、奎星は手を差し出している。
「多分」
奎星が少し笑う。
「こういうとき用」
スズメは、ほんの少しだけ笑った。
「そんな用途ではありません」
それでも、手を伸ばす。
指と掌が重なり、奎星が握る。スズメも握り返した。
「蓮根君」
「ん?」
「もし」
「うん」
「戻った私が――」
スズメの言葉が止まる。
奎星は急かさずに待った。
「……いえ」
スズメは首を振る。
「やめます」
「いいの?」
「はい」
もう、答えは分かっている。
――昔のスズメちゃんも、今のスズメちゃんも。
――どっちか片方をなくして、戻ったことにすんな。
あの言葉が、ずっと残っている。
スズメは奎星の手を握った。
「お願いします」
真壁が前へ出る。
今回、術者は真壁だった。復元を受ける本人が自分へ術式をかけることは許可されなかった。
スズメが作った魔法を、真壁が使う。
「烏丸先生」
「はい」
「最後に確認します。本当に、いいですね」
スズメは奎星を見る。
十七歳。騒がしい。無茶をする。人の話を聞かない。課題をやらない。テストまで二週間しかない。
そして、一月一日から知らない人だった。
それなのに、またここまで来た。
スズメは、はっきりと答えた。
「はい。戻してください」
真壁が杖を上げる。
床の術式が銀色に光り、硝子玉の中で糸が動き始めた。
帰属判定。
一月一日以前の烏丸スズメ。
一月一日以後の烏丸スズメ。
現在の自己認識。
術式が照合する。
一秒。
二秒。
三秒。
長い沈黙の中で、奎星の指へ力が入った。スズメも握り返す。
やがて、硝子玉が強く銀色に輝いた。
真壁が息を吐く。
「帰属、一致」
スズメが目を閉じる。
奎星は手を離さなかった。
真壁が杖を振る。
「《レディンテグラ・メモリアム》」
世界が白く染まった。
*
最初に戻ってきたのは、声だった。
知らない少年を抱き上げている。
『…………誰?』
腹が立つ。
『離しなさい』
『はい』
少年を下ろす。
『初めまして。国立魔法学校マホウトコロにて魔法史を担当しております、烏丸スズメと申します』
『スズメ?』
『はい』
『鴉だったのに?』
『よく言われます』
『親、名前つけるとき鳥だけ合ってればいいと思ったの?』
『初対面で家庭の命名事情に踏み込まないでください』
声。顔。そのときの苛立ち。
全部が戻ってくる。
何も知らない少年が、魔法を見て目を輝かせる。
『スズメちゃん!』
『烏丸先生です』
『スズメちゃん』
『烏丸先生です』
何度訂正しても直らない。それがいつの間にか、聞き慣れた呼び方になっていた。
観測塔。
夕暮れ。
相原美里の記憶。
怖い。言いたくない。それでも話した。
少年は逃げなかった。
『一緒に探します』
胸が少し温かくなる。
螺旋階段を歩くとき、自分は歩調を少しだけ緩めていた。
第零書庫。
緑色の死の光。
『逃げてください!』
逃げない。
少年が自分の前へ出る。
どうして。なぜ。何度そう思ったか分からない。
それでも、生きている。
病室。椅子。眠っている少年の横に、ずっと座っていた。
夏の東京。甘味処。葛切り。
笑う。
調査。海。落ちる。濡れる。
また笑う。
森。青白い刃。血。大量の血。
『蓮根君!!』
怖い。
嫌だ。
死なないで。
お願いだから、目を覚まして。
『まだ……行っていないでしょう』
冷たい手を握る。
泣く。
目を覚ます。
『葛切り』
呆れる。
泣きながら笑う。
秋。
毎日、研究室へ来る少年。
補習。課題。どうでもいい話。食べ物。友達。朝練。御影。
何でも話す。
うるさい。
しつこい。
それなのに、来ないと気になる。
水月庵。
自分の声。
『私は、あなたを嫌ってなどいません』
胸が苦しい。
『あなたは……私にとって、とても大切な人です』
言った。
本当に言った。
『私から、離れないでください』
少年の目が潤む。
『……よかった』
抱きしめられる。
驚く。
でも、離さない。
自分も腕を回す。
温かい。
朝凪島。
二羽の銀の鴉。
『同じじゃん』
『見れば分かります!』
嬉しい。
恥ずかしい。
なぜ同じなのか、考えないようにする。
星迎祭。
灯り。人。花火。
手を取られて踊る。
足を滑らせ、腰を支えられる。
近い。
顔。息。心臓。
うるさい。
彼ではない。
自分の心臓だ。
心の中。
レジリメンス。
見られた。
怖かったこと。泣いたこと。二羽の鴉。水月庵。抱擁。ダンス。
気持ち。
少年が真っ赤になっている。
自分も、きっと同じだった。
常隠島。
夜の海。
怖い。
手を握る。
少年の手を握り返す。
大きい。温かい。
顔が近い。
離れない。
あと少し。
そのとき、遠くから声が響いた。
『だから俺、悪くなくねえ!?』
『悪いわよ!!』
水無瀬の声。
離れる。
笑う。
本当に笑う。
星帰り。
銀の鴉。
学校。
神代冥司。
少年の背中。
神代が訊く。
『愛しているのか……?』
時間が止まる。
少年は一度も迷わない。
『愛してる』
胸が大きく鳴る。
『スズメちゃんのこと』
息ができない。
少年が少し笑う。
『愛してるよ』
聞いた。
聞いていた。
全部。
自分は、あの言葉を聞いていた。
クリスマス。
銀色の栞。鴉。星。
『変な意味じゃないよ!』
知っている。
顔が赤い。
笑う。
自分から腕時計を渡す。
少年がすぐにつける。
『めっちゃ嬉しい!』
嬉しい。
自分も嬉しい。
初詣。
人混み。
肩を引かれる。
鯛焼き。
御神籤。
来年。
また。
そして、一月一日。
列車。
銀白色の光。
少年へ飛ぶ。
自分が前へ出る。
『私は教師です』
光が白く弾ける。
何かが抜ける。
そこで、記憶が一度切れた。
暗闇。
何もない。
次の瞬間、目の前に少年がいる。
顔を知らない。
なのに、少年は自分を知っている。
酷く傷ついた顔をしている。
自分の声。
『どちら様ですか?』
胸が痛んだ。
今の自分が、その言葉を聞いている。
昔の自分も、聞いている。
今なら分かる。
その瞬間、自分は半年かけて大切にしてきた人を、一秒で知らない人にした。
けれど、そこで終わらなかった。
教室。
何度も自分を見る少年。
研究室。
古い日記。
観測塔。
自分の字を読む。
知らない自分。
『あなたは……私にとって、とても大切な人です』
知らない。
でも、自分が書いた。
少年が泣く。
自分も苦しい。
手を握る。
今度は、記憶を失った自分が少年の手を握る。
『しばらく、このままでもいいですか』
新しい記憶。
相原美里。
『戻るまでの時間も、無駄にしないほうがいい』
『思い出すことばかり考えていたら、今日のことを見落としちゃいますよ』
その言葉を受け取る。
少年が笑う。
騒ぐ。
いつものように。
『スズメちゃんはスズメちゃんで! 俺は俺! だから! 大丈夫!』
思う。
きっと昔の自分は、彼のああいうところが好きだった。
研究室。
冷めた茶。
歩く速度。
『スズメちゃんこそ、俺を見てるじゃん』
『目に入ります』
『俺も』
『何がです?』
『スズメちゃんが目に入る』
馬鹿。
顔が熱い。
高速道路。
御影。真壁。斎賀。
昔話。
涙が出るほど笑う。
少年が嬉しそうに自分を見る。
群馬。
硝子玉。
眞田。
戻せる。
ただし、今の記憶が消えるかもしれない。
少年が怒る。
『両方欲しいんだよ!』
『昔のスズメちゃんも、今のスズメちゃんも!』
胸が震える。
『どっちか片方をなくして、戻ったことにすんな!』
あのとき、救われた。
戦い。
眞田。
少年の手。
『下がってて』
昔も言われた。
今は覚えていない。
でも、もう一度言われる。
手を握られる。
『大丈夫』
『あなたの大丈夫は、あまり信用できません』
『じゃあ、信じなくていいから』
握る。
『俺を見てて』
見る。
ずっと見る。
少年が倒れる。
記憶を取られる。
自分が前へ出る。
『蓮根君は、弱くなんかありません』
眞田へ杖を向ける。
『弱いのは、あなたです……!』
勝つ。
魔法省。
少年が、最悪の質問をする。
『スズメちゃんが俺のことどう思ってたかだけ教えてくんない?』
何を聞いている。
馬鹿。
耳が熱い。
眞田。
『頑張れ、蓮根』
やめてください。
本当に、やめてください。
研究室。
少年。
宿題。
『俺、取られた記憶が魔法でよかった』
理由を訊く。
『もしさ』
自分を見る。
『スズメちゃんのこととか、日向とか、楓とか、岳とか伊織とか、御影先生とか。そういうのを忘れてたら、もっと嫌だった』
笑う。
『魔法なら、また覚えられるから』
自分も笑う。
少年が小さく言う。
『よかった』
そして、眞田との面会。
過去。
現在。
自己認識。
どちらも私。
『思い出すことばかり考えていたら、今日のことを見落としてしまうので』
全部ある。
全部、消えていない。
古い自分が今の自分を押し潰していない。
今の自分が古い自分を拒んでいない。
二つではない。
初めて会った夜から今日まで、全部が烏丸スズメだった。
知らなかった半年が帰ってきた。
知らない少年として出会い直した数週間も、そこに残っている。
一月一日以前、大切だった。
一月一日以後、また大切になった。
同じ人を一度忘れて、もう一度見つけた。
そして、気づく。
記憶を失っても、全部なくなっても、自分はまた同じ少年を見ていた。
*
「……スズメちゃん」
声がした。
遠い。
けれど、知っている。
何百回も聞いた、うるさい声。
「スズメちゃん」
もう一度呼ばれる。
スズメは、ゆっくりと目を開けた。
白い天井。銀色の光。魔法省。
そして、目の前に少年がいる。
蓮根奎星。
自分の手を、ずっと握っている。
心配そうな顔。少し泣きそうな顔。
昔から何度も見た顔。
記憶を失っていた数週間にも、何度も見た顔。
全部、知っている。
「……蓮根君」
奎星の目が大きくなる。
「うん」
スズメの目から涙が一つ落ち、奎星の指へ触れた。
「戻った?」
声が小さい。
スズメは頷いた。
「はい」
「……ほんと?」
「はい」
「俺のこと」
「はい」
「分かる?」
スズメは泣きながら、少しだけ眉を寄せた。
「当たり前でしょう」
奎星の唇が震える。
笑おうとしているのに、うまく笑えない。
「全部?」
スズメは一瞬、目を閉じた。
初めて会った日。観測塔。第零書庫。夏。水月庵。星迎祭。二羽の鴉。常隠島。神代。愛してる。クリスマス。初詣。列車。そして、そのあとに続いた観測塔、相原、高速道路、群馬、今日までの日々。
全部。
「全部です」
奎星の目が赤くなる。
「……そっか」
スズメは奎星の左手を見た。
銀色の腕時計。
「それ」
「ん?」
「まだ使っているのですね」
奎星は時計を見て、それから笑った。
「当たり前じゃん。めっちゃ気に入ってるし」
スズメの涙が、また落ちた。
自分が選んだ。
自分が渡した。
彼が喜んでくれた。
全部、思い出した。
「……そうですか」
「うん」
「よかったです」
「スズメちゃん」
「はい」
奎星が、そこで止まった。
スズメが見る。
「何です?」
「いや」
奎星は少し笑った。
「呼んでみただけ」
スズメの目が僅かに細くなる。
その顔。その間。その反応。
奎星は知っている。
何百回も見た。
そして、スズメは言った。
「烏丸先生です」
奎星の顔が止まった。
一秒。
二秒。
それから、声を震わせて笑い始めた。
「はは……!」
「何ですか、それ」
「戻った……!」
スズメも泣きながら笑った。
「名前を訂正しただけでしょう」
「それがスズメちゃんじゃん!」
「烏丸先生です」
「ははは!」
笑いが止まらない。
スズメも笑う。
涙が次から次へと落ちていく。
奎星が腕で目元を拭った。
「くそ……」
「泣いているのですか?」
「泣いてねえよ」
「泣いています」
「スズメちゃんもじゃん」
「私はいいんです」
「何で!?」
「教師なので」
「関係ねえ!」
二人は笑った。
泣いた。
また笑った。
何週間も、ずっと待っていた。
あの日、列車で失った半年を戻したかった。
けれど、今はそれだけではない。
失ってから作った日々も、全部残っている。
スズメは握っていた奎星の手へ、もう一度力を込めた。
「蓮根君」
「ん?」
「私」
一度、息を吸う。
「覚えています」
「うん」
「全部」
「うん」
「あなたに初めて会った日のことも」
「うん」
「あなたが勝手にスズメちゃんと呼び始めたことも」
「勝手じゃねえよ」
「勝手です」
「うん」
「観測塔も」
「うん」
「水月庵も」
「うん」
「星迎祭も」
「うん」
「常隠島も」
声が僅かに震える。
「クリスマスも」
「うん」
そして、ほんの少し間が空いた。
「星帰りも」
奎星の呼吸が止まる。
目が合う。
スズメは知っている。
あの言葉を聞いている。
奎星も、今は彼女が聞いていたと知っている。
二人とも分かっている。
けれど、今は何も言わなかった。
言わなくてもいい気がした。
今日、取り戻したものが多すぎるから。
スズメは続けた。
「それから、あなたを忘れた日のことも」
「…………」
「そのあと、もう一度あなたと観測塔へ行ったことも」
「うん」
「相原さんに会ったことも」
「うん」
「高速道路で笑ったことも」
「うん」
「眞田先輩と戦ったことも」
「うん」
「あなたが、昔の私も今の私も欲しいと言ったことも」
奎星の目が揺れる。
スズメは笑った。
「全部、覚えています」
過去も、現在も、どちらも自分だった。
奎星は何か言おうとした。
けれど、言葉が出てこない。
だから、一番簡単な言葉を選んだ。
「……おかえり」
スズメの表情が崩れた。
また涙が溢れる。
それでも、笑っていた。
次の瞬間、スズメの身体が前へ動いた。
奎星の胸へ額を預ける。
奎星の目が大きくなる。
スズメの腕が背中へ回った。
抱きしめた。
今度は、スズメからだった。
奎星は一瞬だけ固まったが、すぐにゆっくりと腕を回した。
星迎祭の夜は、奎星から抱きしめた。
今日は逆だった。
それでも、温かさは同じだった。
いや、違う。
あの日から、増えている。
半年分の記憶も、失った数週間も、今日までのすべてがそこにある。
スズメは奎星の胸元で、小さく答えた。
「……ただいま」
奎星の腕へ、少しだけ力が入った。
真壁は何も言わなかった。
戸倉も、今日は報告書の話をしなかった。
硝子玉は、もうそこにはない。
中にあった記憶も、もうない。
すべて、持ち主のところへ帰った。
失った過去へ戻ったのではない。
今日まで生きてきた自分へ、帰ってきたのだ。