日本魔法省地下庁舎の発着区画に、夕方の鐘が響いた。
記憶復元の最終確認がすべて終わった頃には、窓のない地下空間にも、地上の時間を知らせる鐘の音が届いていた。医療術者による身体検査、記録局による聞き取り、機密保持局による術式の最終検証。スズメは何度も自分の名前を訊かれ、記憶の戻った日付を訊かれ、昨日の夕食まで訊かれた。そのたびに「問題ありません」と答え続け、ようやく二人は帰宅――ではなく、帰校を許された。
発着区画の中央では、巨大なウミツバメが羽を休めていた。背中にはマホウトコロまで二人を運ぶための鞍が取り付けられ、必要な荷物もすでに固定されている。
奎星はその姿を見上げてから、ふと周囲を見回した。
「じゃあ、御影先生は?」
「俺は残る」
腕を組んだ御影が、短く答えた。
「何で?」
「後始末だ」
御影の視線が、発着区画の奥へ向く。記憶復元術式が完成したからといって、事件そのものが終わったわけではない。群馬の研究施設から押収された資料の整理、黒曜の環によって奪われた記憶の確認、眞田大の取り調べ、復元された被害者たちへの継続的な検査。そして、新たに生まれた《レディンテグラ・メモリアム》を今後どのように扱うのかという問題まで、魔法省が処理しなければならないことは山ほど残っている。
「真壁を手伝う」
「先生、働くなあ」
「お前が言うな」
「俺、学生だし」
「なら勉強しろ」
「急に嫌な話するじゃん」
御影はそれ以上、相手にしなかった。
その少し後ろには、真壁、斎賀、倉橋、戸倉が並んでいる。風間と葛城は、すでに別件の報告へ戻ったらしい。
真壁が奎星へ目を向けた。
「元気でな」
「真壁さんも!」
「次に来るときは、できれば事件以外で来てくれ」
「俺もそうしたい!」
横から斎賀が手を振る。
「勉強はしとけよ〜」
奎星は、あからさまに嫌そうな顔をした。
「あんたには言われたくない!」
「何でだよ」
「何となく!」
「失礼だな、お前」
「斎賀さん、学生時代ちゃんと勉強してたんすか?」
倉橋が何気なく訊ねると、斎賀の笑顔が固まった。
真壁も黙り、御影がゆっくりと斎賀を見る。
数秒の沈黙のあと、斎賀は視線を逸らした。
「まあ、その話はまた今度」
「してないな」
真壁が即答した。
「征士郎」
「何だ」
「友達の秘密を売るなよ」
「秘密にするほどのものでもない」
「ほら!」
奎星が吹き出す。
「うるせえ!」
斎賀が言い返し、倉橋は苦笑した。
そのやり取りを見ていたスズメが、わずかに口元を緩める。記憶を失っていた数週間にも、似たような騒がしさを何度も見てきた。けれど今は、それより前の時間まで重なって見えている。奎星が初めて魔法省へ来た日のことも、御影や真壁と出会った日のことも、すべてが一つの流れとして戻っていた。
奎星はウミツバメの鞍へ片足を掛け、振り返った。
「じゃ、倉橋さんも、戸倉さんも達者で!」
「蓮根君もお気をつけて」
倉橋が笑顔で手を振る。
戸倉は笑わなかった。金縁の眼鏡を押し上げ、いつもの隙のない表情のまま言う。
「二度と来ないでくれ」
奎星の足が止まった。
「ひどくない!?」
「私の仕事を増やさないという意味だ」
「言い方!」
「今日だけで何枚書類が増えたと思っている」
「俺、今回は被験者だっただけじゃん!」
「君の場合、その前段階を含めて考える必要がある」
「何で!」
スズメが先にウミツバメへ乗り込みながら、奎星を見た。
「蓮根君。そろそろ行きますよ」
「今、俺めちゃくちゃ理不尽に嫌われてるんだけど!」
「いつものことでしょう」
「スズメちゃんまで!?」
「烏丸先生です」
奎星がぴたりと止まる。
一瞬、真顔になったあと、彼はにやりと笑った。
「はいはい」
「はいは一度です」
「はい!」
御影の眉がわずかに動いた。真壁は何も言わなかったが、斎賀だけは面白そうに二人を見ている。
奎星が鞍へ跨がり、手綱を握った。
「じゃあな!」
大きく手を振ると、真壁が片手を上げ、倉橋も振り返した。斎賀は両手を振っている。戸倉は最後まで手を振らなかった。御影は腕を組んだまま、ほんの少し顎を上げる。
それが、御影なりの見送りなのだと奎星には分かっていた。
次の瞬間、ウミツバメが大きく翼を広げた。巻き起こった風に奎星の髪が乱れ、スズメの黒髪も肩の後ろへ流れる。ウミツバメは地面を蹴り、二度、三度と羽ばたいた。巨大な身体が宙へ浮かび、発着区画がみるみる遠ざかっていく。
奎星はしばらく後ろを振り返っていた。魔法省の地下発着区画が見えなくなり、東京の街並みが眼下へ広がっても、まだ振り返っている。
やがて、建物の影すら見えなくなったところで、ようやく前を向いた。
「……帰るか」
隣で、スズメが頷く。
「はい」
二人を乗せたウミツバメは、夕暮れの空を南へ向かって飛び始めた。
*
夕方の空は澄んでいた。
冬の終わりを告げるにはまだ冷たい風が吹いていたが、雲は少なく、遠くまで見渡せる。東京の街は次第に小さくなり、やがて視界いっぱいに海が広がった。夕陽が海面へ長い光の道を作り、ウミツバメの羽音が一定のリズムで響いている。
二人は並んで座っていた。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
特に奎星が黙っているのは珍しい。スズメは横目で彼を見た。奎星は海を眺めながら、何かを考えているようだった。
「……何ですか」
「ん?」
「先ほどから静かですが」
「いや、何を聞こうかなって」
「質問があるのですか」
「めっちゃある」
「でしょうね」
「でも、一番気になるのはさ」
奎星がスズメを見る。
「今、どんな感じ?」
「どんな感じ、とは」
「記憶。戻った直後じゃん。変じゃない?」
スズメはすぐには答えなかった。
自分の中には、半年以上の時間が戻っている。初めて奎星と出会った日から、星迎祭、常隠島、神代の前で聞いた言葉、そして一月一日の列車まで。その一方で、その記憶を失ったまま過ごした数週間も、決して消えてはいない。
知らない少年として奎星を見たこと。観測塔で話したこと。相原美里と出会ったこと。研究室で彼と過ごしたこと。高速道路で笑ったこと。群馬で眞田と戦ったこと。そのすべてが、今の自分の記憶として残っている。
「……変です」
「やっぱ?」
「はい」
スズメは海へ視線を戻した。
「例えば、あなたの顔を見ると、初めて会ったときのことを思い出します」
「誰って言われた」
「あなたが先に言ったのですよ」
「あれ、俺だっけ?」
「あなたです」
「そっか」
「そして同時に、一月一日のことも思い出します」
奎星の表情から、わずかに笑みが消えた。
『どちら様ですか?』
あの日の言葉は、今でも胸の奥を締めつける。
スズメは続けた。
「あなたを知っている記憶と、あなたを知らなかった記憶が、両方あるのです」
「…………」
「初めて会った人としてあなたを見た記憶もあります。ですが、その同じ顔を、何か月も見続けていた記憶もある。どちらも嘘ではありません」
スズメは自分の胸元へ手を当てた。
「不思議です」
「気持ち悪くない?」
スズメは奎星を見た。
「いいえ」
答えはすぐに出た。
「ただ、変なだけです。知らなかった私も、私ですから」
「うん」
「それに、知らない状態から、またあなたと仲良くなったことも覚えています」
奎星の口元が上がった。
「それ、結構すごくね?」
「何がです?」
「一回全部忘れたのに、また俺と仲良くなったんだろ?」
「そうですね」
「俺、強くね?」
「何がです?」
「人間関係の再現性」
「初めて聞きました、その言葉」
「記憶消えてもスズメちゃんと仲良くなれる!」
「威張ることではありません」
「でも、すごくね?」
スズメは答えなかった。ただ、ほんの少しだけ笑った。
奎星は満足そうに海へ視線を戻す。
十秒ほど経った。
その横顔を見ながら、スズメは嫌な予感を覚えた。こういうふうに静かになったとき、この少年はろくでもないことを思いつく。
「あ」
ほら。
「そういやスズメちゃん」
「何です?」
奎星がこちらを向く。
「眞田の『頑張れ』って、今なら意味分かる?」
「…………」
風が吹き抜け、ウミツバメの翼が大きく上下した。
スズメは前を見たまま、答えない。
奎星が目を細める。
「分かるんだ?」
「知りません」
「今の間で絶対分かったじゃん!」
「知りません」
「いやいやいや、だって記憶戻ったんだろ?」
「知りません」
「眞田、スズメちゃんの記憶見てたんだよな?」
「知りません」
「絶対知ってんじゃん!」
「知りません」
「顔赤――」
「蓮根君」
「はい」
スズメは静かな声で言った。
「落としますよ」
奎星の顔が引きつる。
「ウミツバメから!?」
「この高さなら、多少は反省するでしょう」
「死ぬわ!」
「あなたなら何とかするのでは?」
「信頼の方向がおかしい!」
スズメは前を向いた。耳が少し赤い。
奎星はそれを見て、さらに何か言おうと口を開いた。しかし、スズメの目が横へ動く。
奎星は、すぐに口を閉じた。
「……はい」
「何も言っていません」
「言ったら落とされそうだから」
「賢明です」
一月一日に自分を忘れたこと。数週間、知らない人としてもう一度関係を作ったこと。そして今日、記憶が戻ったこと。それなのに、五分もしないうちに二人はもういつもの調子へ戻っていた。
「そういえば」
今度はスズメが口を開いた。
「明日から授業へ戻ります」
奎星の顔が一気に明るくなる。
「マジ!?」
「はい。研究も一区切りつきましたので」
「やった!」
本当に嬉しそうだった。
スズメは少しだけ目を細める。
「そんなに高宮先生が嫌だったのですか?」
「スズメちゃんのほうが分かりやすい」
「……高宮先生に失礼ですよ」
「本人にも言った」
スズメの表情が止まった。
「言ったのですか?」
「うん」
「本人へ?」
「うん」
「授業中に?」
「うん」
「…………」
奎星は悪びれずに続けた。
「日向と岳も」
「何をしているのですか、あなたたちは……」
スズメは額を押さえた。
「楓と伊織も、だいたい同意してた」
「全員ですか?」
「高宮先生、めっちゃ怒ってた」
「当たり前でしょう!」
「『ほんっとうに憎たらしいガキどもだな!』って」
スズメはしばらく何も言わなかった。
やがて、深いため息をつく。
「……明日、謝っておきます」
「何でスズメちゃんが?」
「同僚だからです!」
「でも、俺ら褒めただけじゃん」
「比較して褒めないでください!」
「でも事実だし」
「蓮根君」
「はい」
「明日の授業」
「はい」
「課題を増やします」
奎星の顔色が変わった。
「何で!?」
「私の授業のほうが分かりやすいのでしょう?」
「そうだけど!」
「でしたら問題ありませんね」
「高宮先生ごめんなさい!」
「遅いです」
ウミツバメの上に、スズメの笑い声が小さく響いた。
*
夕陽が海へ沈みかけた頃、南硫黄島が見えてきた。
島の中腹には、白く透き通る羊脂玉の校舎が、冬の夕陽を受けて淡く輝いている。空へ反った屋根、山の斜面に沿って伸びる回廊、訓練場、大食堂、学生寮、教師区画。そして、少し離れた場所に立つ古い観測塔。
奎星が身を乗り出した。
「見えた!」
「落ちますよ」
「落ちねえよ!」
「先ほども同じことを言っていましたね」
「今回はちゃんと座ってる!」
ウミツバメが高度を下げていく。
マホウトコロ。
奎星が初めてここへ来たのは、まだ一年も前ではない。魔法のことなど何一つ知らず、鴉に連れられ、巨大なウミツバメに乗せられ、何が起きているのかも分からないまま、この島へやって来た。
魔力測定の水晶を壊した。
一人の部屋へ通された。
一人で食事をするはずだった。
そこへスズメが来た。
魔法を教えてもらった。
友達ができた。
御影に鍛えられた。
失敗した。
怪我をした。
夏になった。
鬼火鳥を追い、死にかけた。
秋になった。
星迎祭で笑い、観測塔で踊った。
冬になった。
学校を奪われ、そして取り返した。
今では、上空から見える場所のほとんどに、何か一つは思い出がある。
「あそこ」
奎星が訓練場を指差した。
「御影先生にめちゃくちゃ飛ばされたとこ」
「何度もですね」
「あの辺、俺の形に地面へこみついてそう」
「ついていません」
大食堂が見える。
「天ぷらいるかな」
「いるでしょう」
「また変な名前増えてたりして」
「あなたが始めたのですよ」
「俺じゃなくて天ぷらが――」
「原因はあなたです」
「はい」
研究棟の窓が見えた。
奎星が指差す。
「あそこ、俺の定位置」
「違います」
「もう認めろよ!」
「生徒に定位置を作った覚えはありません」
「追い出したことないじゃん」
スズメの口元が、わずかに緩む。
覚えている。
夏。
秋。
冬。
机の向かいに座る奎星。
宿題。
補習。
どうでもいい話。
冷めたお茶。
そして、記憶を失ったあとにも、彼は同じ場所へ来た。
知らない少年だったはずなのに、気づけばまた同じ席へ座っていた。
「……まあ」
スズメが小さく呟く。
「何?」
「何でもありません」
「絶対何か言った!」
「着きますよ」
ウミツバメの脚が着陸場へ触れた。大きな翼が風を起こし、二人の服を揺らす。
奎星が先に飛び降り、続いてスズメも地面へ降りた。
足が地面へついた瞬間、二人とも少しだけ黙った。
夕方のマホウトコロには、生徒たちの声が響いている。遠くで鐘が鳴り、箒で飛ぶ生徒が校舎の上を横切った。大食堂からは夕食の匂いが漂ってくる。
どれも、スズメは知っている。
一月一日以後も、ここへ来ていた。授業をし、研究室へ入り、廊下を歩き、いつものように生徒たちを見ていた。何一つ、初めてではない。
それでも今は、見えるものの量が違った。
向こうの回廊では、奎星が常盤澪と走り回っていた。
中庭では、星迎祭の準備で騒いでいた。
大食堂では、彼が友人たちと笑っていた。
研究室では、毎日のように机の向かいへ座った。
観測塔では、怖いと言いながらも階段を下りた。
星迎祭では、手を取って踊った。
すべてが、同じ場所へ戻ってきた。
「……すごいですね」
スズメが呟く。
奎星が振り返った。
「何が?」
「思い出が、多すぎます」
奎星も校舎を見上げた。
「俺も。まだ一年経ってないのにな」
「あなたの場合、密度がおかしいのです」
「俺のせいじゃないのもある!」
「半分ほどはあなたのせいでしょう」
「半分!?」
「少なく見積もっています」
「ひど!」
二人は笑いながら、校舎へ向かって歩き始めた。
*
教師寮は、学生寮から少し離れた場所にある。
研究棟の裏手から石畳の道を進み、小さな庭を抜けた先だ。奎星はスズメの荷物を一つ持ちながら、その道を歩いていた。
「別に送らなくても大丈夫ですよ」
「いいじゃん」
「あなたは男子寮へ戻るのでしょう」
「途中まで同じだし」
「途中から完全に逆方向ですが」
「細かい」
「細かくありません」
奎星は気にせず歩き続ける。スズメも、それ以上は断らなかった。
夕方の石畳に、二人分の足音が重なる。
奎星のほうが背が高い。当然、一歩も大きい。けれど、少し歩いたところで、スズメは気づいた。
奎星が、自分より前へ行かない。
意識している様子はない。会話をしながら、何となく一歩を小さくしている。スズメの歩幅へ合わせているのだ。
スズメが少しだけ歩く速度を落とすと、奎星も遅くなる。試しに少し速くすると、奎星も自然に速くなった。
「何?」
奎星が横を見る。
「いえ」
スズメは前を向いた。
思い出す。
観測塔。日向を傷つけ、自分の魔法を怖がった少年。螺旋階段を下りる前、あのときは自分が歩調を緩めた。彼が隣へ追いつけるように。
それから、何度二人で歩いただろう。
八咫小路。
学校の廊下。
星迎祭。
常隠島。
初詣。
そして、記憶を失ってからも、彼は同じように自分の隣を歩いていた。
どちらかが少し早ければ、もう一人が合わせる。
そんな小さなことを、自分は昔から知っていた。
そして忘れて初めて、そんなことまで知っていたのだと気づいた。
記憶とは、大きな出来事だけではない。
抱きしめられたこと。
命を救われたこと。
「愛してる」と言われたこと。
それだけではない。
歩く速度。
声の調子。
笑う前の顔。
嘘をついているときの目。
少し落ち込んだときに、急にどうでもいい話を始めること。
そういう、言葉にするほどでもないものまで、自分は覚えていた。
「スズメちゃん」
「はい?」
「今度は何考えてんの?」
「何でもありません」
「最近それ多くない?」
「あなたに言う必要がないだけです」
「何それ!」
スズメは少し笑った。
「……ただ」
「うん」
「思い出しただけです」
「何を?」
スズメは奎星を見る。
「昔から、こうだったなと」
奎星が首を傾げる。
「何が?」
スズメは少しだけ笑った。
「何でもありません」
「またそれ!」
二人は並んで歩く。
同じ速さで。
やがて、奎星が口を開いた。
「俺さ」
「はい」
「スズメちゃんに『どちら様ですか』って言われたとき」
スズメの足が、わずかに止まりかける。
奎星は前を向いたまま続けた。
「終わったと思った」
スズメの表情が曇る。
「……申し訳ありません」
「謝んないで!」
奎星がすぐに振り返った。
「そういう意味じゃねえって!」
「ですが」
「俺が言いたいのは、また仲良くなれたってこと!」
スズメが黙る。
奎星は荷物を持ち直しながら、少し照れたように笑った。
「最初はマジでどうすりゃいいか分かんなかったけど。でも観測塔へ行って、話して、手を握って、相原さんと会って、研究して」
「はい」
「高速道路でスズメちゃんが笑って」
「はい」
「群馬へ行って」
「はい」
「眞田と戦って」
「そこは仲良くなる過程に含めるのですか?」
「まあ、色々あったじゃん」
「雑ですね」
「で、気づいたら、普通にまた仲良くなってた」
スズメはしばらく何も言わなかった。
知らない少年だった。
それでも、また気になった。
また見た。
また隣を歩いた。
同じ人を一度忘れて、もう一度見つけた。
「……そうですね」
スズメは笑った。
「また、仲良くなりました」
奎星も笑う。
「だろ?」
数歩進んだところで、奎星が言った。
「じゃあさ」
「何です?」
「今度俺が記憶なくしたら、そんときは頼むぜ」
スズメの顔から笑みが消えた。
「もう記憶はなくしません」
「いや、もしもの話」
「あなたも私も」
声が少し強くなる。
「もう、なくしません」
奎星が黙った。
スズメも、自分の言葉が思った以上に強く響いたことに気づいたのか、少しだけ表情を緩める。
「……ですが」
「ん?」
「もし。本当に、もしそうなったら」
奎星が見る。
「全部教えます」
奎星の口元が上がった。
「スズメちゃんって呼んだことも?」
「そこは烏丸先生と呼ばせます」
「おーい!!」
「何です?」
「歴史改変じゃん!」
「教育的修正です」
「俺の記憶に捏造混ぜんな!」
「あなたが覚えていないなら問題ありません」
「問題あるわ!」
「では、最初から烏丸先生と呼んでください」
「嫌だ!」
「でしたら忘れないでください」
「そのために!?」
「はい」
奎星はしばらくスズメを見たあと、吹き出した。
「ははっ!」
スズメも小さく笑う。
教師寮が見えてきた。玄関前の魔法灯が、淡い光を灯している。
二人の足が、どちらからともなく少し遅くなった。
教師寮の入口へ着く。
奎星が荷物を渡した。
「はい」
「ありがとうございます」
「ん」
スズメが荷物を受け取る。
それで終わりのはずだった。あとは奎星が学生寮へ戻るだけだ。
なのに、二人ともすぐには動かなかった。
「…………」
「…………」
奎星が頭を掻く。
「じゃ」
「はい」
「明日、授業?」
「はい」
「絶対?」
「絶対です」
「高宮先生じゃない?」
「私です」
奎星が嬉しそうに笑う。
「よし」
「そこまで喜ばれると、少しやりづらいですね」
「何で?」
「明日、普通に小テストをしますので」
奎星の笑顔が消えた。
「聞いてない」
「今言いました」
「記憶戻った日にそれ言う!?」
「授業は授業です」
「スズメちゃん!」
「烏丸先生です」
「戻ったなあ!」
「その確認、何度目ですか」
二人とも笑った。
また少し、沈黙が落ちる。
奎星が一歩下がった。
「……じゃ、おやすみ」
スズメも小さく頷く。
「おやすみなさい、蓮根君」
奎星が背を向ける。
三歩進んだところで、スズメが呼び止めた。
「蓮根君」
奎星が振り返る。
「何?」
スズメは少し迷った。
けれど、笑った。
「また明日」
奎星も笑う。
「うん。また明日」
今度こそ、奎星は学生寮へ向かって歩き始めた。
スズメは、その背中が見えなくなるまで玄関前に立っていた。
一月一日、彼を忘れた。
今日、思い出した。
けれど、明日会えることが、何より普通で、何より嬉しかった。
*
男子寮の部屋の扉が開く。
「ただいまー」
中には日向、岳、伊織がいた。日向はベッドへ寝転がりながら問題集を読んでいる。岳は机で何かを食べていた。伊織だけが、本当に勉強している。
三人が同時に顔を上げた。
日向が最初に訊ねる。
「どうだった?」
奎星は扉を閉め、鞄を置いた。
「戻った」
日向が起き上がる。
「烏丸先生?」
「全部」
数秒、誰も何も言わなかった。
やがて日向が、ほっと息を吐く。
「……そっか」
岳が短く言った。
「よかった」
伊織も笑う。
「うん。よかったね」
奎星も笑った。
「うん」
部屋に穏やかな沈黙が落ちる。
全部戻った。
長かった。一月一日からずっと追いかけていたものが、今日ようやく帰ってきた。
その余韻は、三秒続いた。
「で、奎星」
日向が言う。
「ん?」
「試験まで二週間」
「…………」
伊織が静かに頁をめくる。岳が菓子を食べる。
日向が訊ねた。
「勉強する?」
奎星の顔から血の気が引いた。
「…………」
一秒。
二秒。
そして。
「やっべええええええええええ!!」
男子寮が揺れた。
奎星が頭を抱える。
「忘れてたあああああ!!」
日向も慌てて起き上がった。
「お前、今日まで魔法省だったもんな!」
「それ以前から忘れてた!!」
「駄目じゃん!」
奎星は伊織へ飛びついた。
「伊織!!」
「何?」
「頼む!!」
「何を?」
「伊織塾に入塾します!!」
伊織が瞬きをする。
「何それ」
「俺を進級させてくれ!」
「塾長になった覚えはないけど」
「今なった!」
「勝手に?」
「月謝払う!」
「いらない」
「菓子!」
岳が顔を上げた。
「それなら俺が教える」
「お前は食いたいだけだろ!」
日向が突然、遠い目をした。
「……みんな」
三人が見る。
「来年度、最終学年頑張ってな」
奎星の動きが止まった。
日向は窓の外を見ながら、しみじみと言う。
「俺はもう一度、上級二年をやり直す」
「諦めんな日向!!」
奎星が日向の肩を掴んだ。
「お前が言う!?」
「まだ二週間ある!」
「お前もさっきまで忘れてただろ!」
「今思い出した!」
「記憶復元魔法か!?」
「試験日程は元から覚えてる!」
伊織が淡々と言った。
「二人とも、騒いでいる時間があるなら始めたほうがいいと思うよ」
奎星と日向が同時に振り返る。
「塾長!」
「誰が?」
「伊織先生!」
「やめて」
岳が問題集を持ってくる。
「ここ分からない」
伊織が問題集を覗き込んだ。
「岳まで?」
「俺も入る」
「伊織塾!」
「だから何それ」
奎星が椅子を引く。
「よし! やるぞ!」
日向も座る。
「進級するぞ!」
岳も座る。
「菓子取ってくる」
「先に勉強しろ!」
「腹減った」
「さっき食ってただろ!」
伊織は三人を見た。
それから、深く、深くため息をつく。
「……僕も進級したいんだけどな」
夜の男子寮に、また笑い声が響いた。
記憶は戻った。
事件は終わりへ向かっている。
明日から、スズメは授業へ戻る。
そして、学年末試験まであと二週間。
「伊織、これ何!?」
「さっき説明した」
「もう一回!」
「僕、烏丸先生じゃないんだけど」
「スズメちゃんのほうが分かりやすい!」
「明日本人に聞いて」
「小テストあるって!」
「じゃあ勉強して」
「助けてええええ!!」
失った過去は帰ってきた。
けれど、明日は待ってくれない。
だから、またいつもの毎日が始まる。