マホウトコロ   作:西野圭吾

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第16話 いつもの帰り道

 

日本魔法省地下庁舎の発着区画に、夕方の鐘が響いた。

 

記憶復元の最終確認がすべて終わった頃には、窓のない地下空間にも、地上の時間を知らせる鐘の音が届いていた。医療術者による身体検査、記録局による聞き取り、機密保持局による術式の最終検証。スズメは何度も自分の名前を訊かれ、記憶の戻った日付を訊かれ、昨日の夕食まで訊かれた。そのたびに「問題ありません」と答え続け、ようやく二人は帰宅――ではなく、帰校を許された。

 

発着区画の中央では、巨大なウミツバメが羽を休めていた。背中にはマホウトコロまで二人を運ぶための鞍が取り付けられ、必要な荷物もすでに固定されている。

 

奎星はその姿を見上げてから、ふと周囲を見回した。

 

「じゃあ、御影先生は?」

 

「俺は残る」

 

腕を組んだ御影が、短く答えた。

 

「何で?」

 

「後始末だ」

 

御影の視線が、発着区画の奥へ向く。記憶復元術式が完成したからといって、事件そのものが終わったわけではない。群馬の研究施設から押収された資料の整理、黒曜の環によって奪われた記憶の確認、眞田大の取り調べ、復元された被害者たちへの継続的な検査。そして、新たに生まれた《レディンテグラ・メモリアム》を今後どのように扱うのかという問題まで、魔法省が処理しなければならないことは山ほど残っている。

 

「真壁を手伝う」

 

「先生、働くなあ」

 

「お前が言うな」

 

「俺、学生だし」

 

「なら勉強しろ」

 

「急に嫌な話するじゃん」

 

御影はそれ以上、相手にしなかった。

 

その少し後ろには、真壁、斎賀、倉橋、戸倉が並んでいる。風間と葛城は、すでに別件の報告へ戻ったらしい。

 

真壁が奎星へ目を向けた。

 

「元気でな」

 

「真壁さんも!」

 

「次に来るときは、できれば事件以外で来てくれ」

 

「俺もそうしたい!」

 

横から斎賀が手を振る。

 

「勉強はしとけよ〜」

 

奎星は、あからさまに嫌そうな顔をした。

 

「あんたには言われたくない!」

 

「何でだよ」

 

「何となく!」

 

「失礼だな、お前」

 

「斎賀さん、学生時代ちゃんと勉強してたんすか?」

 

倉橋が何気なく訊ねると、斎賀の笑顔が固まった。

 

真壁も黙り、御影がゆっくりと斎賀を見る。

 

数秒の沈黙のあと、斎賀は視線を逸らした。

 

「まあ、その話はまた今度」

 

「してないな」

 

真壁が即答した。

 

「征士郎」

 

「何だ」

 

「友達の秘密を売るなよ」

 

「秘密にするほどのものでもない」

 

「ほら!」

 

奎星が吹き出す。

 

「うるせえ!」

 

斎賀が言い返し、倉橋は苦笑した。

 

そのやり取りを見ていたスズメが、わずかに口元を緩める。記憶を失っていた数週間にも、似たような騒がしさを何度も見てきた。けれど今は、それより前の時間まで重なって見えている。奎星が初めて魔法省へ来た日のことも、御影や真壁と出会った日のことも、すべてが一つの流れとして戻っていた。

 

奎星はウミツバメの鞍へ片足を掛け、振り返った。

 

「じゃ、倉橋さんも、戸倉さんも達者で!」

 

「蓮根君もお気をつけて」

 

倉橋が笑顔で手を振る。

 

戸倉は笑わなかった。金縁の眼鏡を押し上げ、いつもの隙のない表情のまま言う。

 

「二度と来ないでくれ」

 

奎星の足が止まった。

 

「ひどくない!?」

 

「私の仕事を増やさないという意味だ」

 

「言い方!」

 

「今日だけで何枚書類が増えたと思っている」

 

「俺、今回は被験者だっただけじゃん!」

 

「君の場合、その前段階を含めて考える必要がある」

 

「何で!」

 

スズメが先にウミツバメへ乗り込みながら、奎星を見た。

 

「蓮根君。そろそろ行きますよ」

 

「今、俺めちゃくちゃ理不尽に嫌われてるんだけど!」

 

「いつものことでしょう」

 

「スズメちゃんまで!?」

 

「烏丸先生です」

 

奎星がぴたりと止まる。

 

一瞬、真顔になったあと、彼はにやりと笑った。

 

「はいはい」

 

「はいは一度です」

 

「はい!」

 

御影の眉がわずかに動いた。真壁は何も言わなかったが、斎賀だけは面白そうに二人を見ている。

 

奎星が鞍へ跨がり、手綱を握った。

 

「じゃあな!」

 

大きく手を振ると、真壁が片手を上げ、倉橋も振り返した。斎賀は両手を振っている。戸倉は最後まで手を振らなかった。御影は腕を組んだまま、ほんの少し顎を上げる。

 

それが、御影なりの見送りなのだと奎星には分かっていた。

 

次の瞬間、ウミツバメが大きく翼を広げた。巻き起こった風に奎星の髪が乱れ、スズメの黒髪も肩の後ろへ流れる。ウミツバメは地面を蹴り、二度、三度と羽ばたいた。巨大な身体が宙へ浮かび、発着区画がみるみる遠ざかっていく。

 

奎星はしばらく後ろを振り返っていた。魔法省の地下発着区画が見えなくなり、東京の街並みが眼下へ広がっても、まだ振り返っている。

 

やがて、建物の影すら見えなくなったところで、ようやく前を向いた。

 

「……帰るか」

 

隣で、スズメが頷く。

 

「はい」

 

二人を乗せたウミツバメは、夕暮れの空を南へ向かって飛び始めた。

 

 

夕方の空は澄んでいた。

 

冬の終わりを告げるにはまだ冷たい風が吹いていたが、雲は少なく、遠くまで見渡せる。東京の街は次第に小さくなり、やがて視界いっぱいに海が広がった。夕陽が海面へ長い光の道を作り、ウミツバメの羽音が一定のリズムで響いている。

 

二人は並んで座っていた。

 

しばらく、どちらも口を開かなかった。

 

特に奎星が黙っているのは珍しい。スズメは横目で彼を見た。奎星は海を眺めながら、何かを考えているようだった。

 

「……何ですか」

 

「ん?」

 

「先ほどから静かですが」

 

「いや、何を聞こうかなって」

 

「質問があるのですか」

 

「めっちゃある」

 

「でしょうね」

 

「でも、一番気になるのはさ」

 

奎星がスズメを見る。

 

「今、どんな感じ?」

 

「どんな感じ、とは」

 

「記憶。戻った直後じゃん。変じゃない?」

 

スズメはすぐには答えなかった。

 

自分の中には、半年以上の時間が戻っている。初めて奎星と出会った日から、星迎祭、常隠島、神代の前で聞いた言葉、そして一月一日の列車まで。その一方で、その記憶を失ったまま過ごした数週間も、決して消えてはいない。

 

知らない少年として奎星を見たこと。観測塔で話したこと。相原美里と出会ったこと。研究室で彼と過ごしたこと。高速道路で笑ったこと。群馬で眞田と戦ったこと。そのすべてが、今の自分の記憶として残っている。

 

「……変です」

 

「やっぱ?」

 

「はい」

 

スズメは海へ視線を戻した。

 

「例えば、あなたの顔を見ると、初めて会ったときのことを思い出します」

 

「誰って言われた」

 

「あなたが先に言ったのですよ」

 

「あれ、俺だっけ?」

 

「あなたです」

 

「そっか」

 

「そして同時に、一月一日のことも思い出します」

 

奎星の表情から、わずかに笑みが消えた。

 

『どちら様ですか?』

 

あの日の言葉は、今でも胸の奥を締めつける。

 

スズメは続けた。

 

「あなたを知っている記憶と、あなたを知らなかった記憶が、両方あるのです」

 

「…………」

 

「初めて会った人としてあなたを見た記憶もあります。ですが、その同じ顔を、何か月も見続けていた記憶もある。どちらも嘘ではありません」

 

スズメは自分の胸元へ手を当てた。

 

「不思議です」

 

「気持ち悪くない?」

 

スズメは奎星を見た。

 

「いいえ」

 

答えはすぐに出た。

 

「ただ、変なだけです。知らなかった私も、私ですから」

 

「うん」

 

「それに、知らない状態から、またあなたと仲良くなったことも覚えています」

 

奎星の口元が上がった。

 

「それ、結構すごくね?」

 

「何がです?」

 

「一回全部忘れたのに、また俺と仲良くなったんだろ?」

 

「そうですね」

 

「俺、強くね?」

 

「何がです?」

 

「人間関係の再現性」

 

「初めて聞きました、その言葉」

 

「記憶消えてもスズメちゃんと仲良くなれる!」

 

「威張ることではありません」

 

「でも、すごくね?」

 

スズメは答えなかった。ただ、ほんの少しだけ笑った。

 

奎星は満足そうに海へ視線を戻す。

 

十秒ほど経った。

 

その横顔を見ながら、スズメは嫌な予感を覚えた。こういうふうに静かになったとき、この少年はろくでもないことを思いつく。

 

「あ」

 

ほら。

 

「そういやスズメちゃん」

 

「何です?」

 

奎星がこちらを向く。

 

「眞田の『頑張れ』って、今なら意味分かる?」

 

「…………」

 

風が吹き抜け、ウミツバメの翼が大きく上下した。

 

スズメは前を見たまま、答えない。

 

奎星が目を細める。

 

「分かるんだ?」

 

「知りません」

 

「今の間で絶対分かったじゃん!」

 

「知りません」

 

「いやいやいや、だって記憶戻ったんだろ?」

 

「知りません」

 

「眞田、スズメちゃんの記憶見てたんだよな?」

 

「知りません」

 

「絶対知ってんじゃん!」

 

「知りません」

 

「顔赤――」

 

「蓮根君」

 

「はい」

 

スズメは静かな声で言った。

 

「落としますよ」

 

奎星の顔が引きつる。

 

「ウミツバメから!?」

 

「この高さなら、多少は反省するでしょう」

 

「死ぬわ!」

 

「あなたなら何とかするのでは?」

 

「信頼の方向がおかしい!」

 

スズメは前を向いた。耳が少し赤い。

 

奎星はそれを見て、さらに何か言おうと口を開いた。しかし、スズメの目が横へ動く。

 

奎星は、すぐに口を閉じた。

 

「……はい」

 

「何も言っていません」

 

「言ったら落とされそうだから」

 

「賢明です」

 

一月一日に自分を忘れたこと。数週間、知らない人としてもう一度関係を作ったこと。そして今日、記憶が戻ったこと。それなのに、五分もしないうちに二人はもういつもの調子へ戻っていた。

 

「そういえば」

 

今度はスズメが口を開いた。

 

「明日から授業へ戻ります」

 

奎星の顔が一気に明るくなる。

 

「マジ!?」

 

「はい。研究も一区切りつきましたので」

 

「やった!」

 

本当に嬉しそうだった。

 

スズメは少しだけ目を細める。

 

「そんなに高宮先生が嫌だったのですか?」

 

「スズメちゃんのほうが分かりやすい」

 

「……高宮先生に失礼ですよ」

 

「本人にも言った」

 

スズメの表情が止まった。

 

「言ったのですか?」

 

「うん」

 

「本人へ?」

 

「うん」

 

「授業中に?」

 

「うん」

 

「…………」

 

奎星は悪びれずに続けた。

 

「日向と岳も」

 

「何をしているのですか、あなたたちは……」

 

スズメは額を押さえた。

 

「楓と伊織も、だいたい同意してた」

 

「全員ですか?」

 

「高宮先生、めっちゃ怒ってた」

 

「当たり前でしょう!」

 

「『ほんっとうに憎たらしいガキどもだな!』って」

 

スズメはしばらく何も言わなかった。

 

やがて、深いため息をつく。

 

「……明日、謝っておきます」

 

「何でスズメちゃんが?」

 

「同僚だからです!」

 

「でも、俺ら褒めただけじゃん」

 

「比較して褒めないでください!」

 

「でも事実だし」

 

「蓮根君」

 

「はい」

 

「明日の授業」

 

「はい」

 

「課題を増やします」

 

奎星の顔色が変わった。

 

「何で!?」

 

「私の授業のほうが分かりやすいのでしょう?」

 

「そうだけど!」

 

「でしたら問題ありませんね」

 

「高宮先生ごめんなさい!」

 

「遅いです」

 

ウミツバメの上に、スズメの笑い声が小さく響いた。

 

 

夕陽が海へ沈みかけた頃、南硫黄島が見えてきた。

 

島の中腹には、白く透き通る羊脂玉の校舎が、冬の夕陽を受けて淡く輝いている。空へ反った屋根、山の斜面に沿って伸びる回廊、訓練場、大食堂、学生寮、教師区画。そして、少し離れた場所に立つ古い観測塔。

 

奎星が身を乗り出した。

 

「見えた!」

 

「落ちますよ」

 

「落ちねえよ!」

 

「先ほども同じことを言っていましたね」

 

「今回はちゃんと座ってる!」

 

ウミツバメが高度を下げていく。

 

マホウトコロ。

 

奎星が初めてここへ来たのは、まだ一年も前ではない。魔法のことなど何一つ知らず、鴉に連れられ、巨大なウミツバメに乗せられ、何が起きているのかも分からないまま、この島へやって来た。

 

魔力測定の水晶を壊した。

 

一人の部屋へ通された。

 

一人で食事をするはずだった。

 

そこへスズメが来た。

 

魔法を教えてもらった。

 

友達ができた。

 

御影に鍛えられた。

 

失敗した。

 

怪我をした。

 

夏になった。

 

鬼火鳥を追い、死にかけた。

 

秋になった。

 

星迎祭で笑い、観測塔で踊った。

 

冬になった。

 

学校を奪われ、そして取り返した。

 

今では、上空から見える場所のほとんどに、何か一つは思い出がある。

 

「あそこ」

 

奎星が訓練場を指差した。

 

「御影先生にめちゃくちゃ飛ばされたとこ」

 

「何度もですね」

 

「あの辺、俺の形に地面へこみついてそう」

 

「ついていません」

 

大食堂が見える。

 

「天ぷらいるかな」

 

「いるでしょう」

 

「また変な名前増えてたりして」

 

「あなたが始めたのですよ」

 

「俺じゃなくて天ぷらが――」

 

「原因はあなたです」

 

「はい」

 

研究棟の窓が見えた。

 

奎星が指差す。

 

「あそこ、俺の定位置」

 

「違います」

 

「もう認めろよ!」

 

「生徒に定位置を作った覚えはありません」

 

「追い出したことないじゃん」

 

スズメの口元が、わずかに緩む。

 

覚えている。

 

夏。

 

秋。

 

冬。

 

机の向かいに座る奎星。

 

宿題。

 

補習。

 

どうでもいい話。

 

冷めたお茶。

 

そして、記憶を失ったあとにも、彼は同じ場所へ来た。

 

知らない少年だったはずなのに、気づけばまた同じ席へ座っていた。

 

「……まあ」

 

スズメが小さく呟く。

 

「何?」

 

「何でもありません」

 

「絶対何か言った!」

 

「着きますよ」

 

ウミツバメの脚が着陸場へ触れた。大きな翼が風を起こし、二人の服を揺らす。

 

奎星が先に飛び降り、続いてスズメも地面へ降りた。

 

足が地面へついた瞬間、二人とも少しだけ黙った。

 

夕方のマホウトコロには、生徒たちの声が響いている。遠くで鐘が鳴り、箒で飛ぶ生徒が校舎の上を横切った。大食堂からは夕食の匂いが漂ってくる。

 

どれも、スズメは知っている。

 

一月一日以後も、ここへ来ていた。授業をし、研究室へ入り、廊下を歩き、いつものように生徒たちを見ていた。何一つ、初めてではない。

 

それでも今は、見えるものの量が違った。

 

向こうの回廊では、奎星が常盤澪と走り回っていた。

 

中庭では、星迎祭の準備で騒いでいた。

 

大食堂では、彼が友人たちと笑っていた。

 

研究室では、毎日のように机の向かいへ座った。

 

観測塔では、怖いと言いながらも階段を下りた。

 

星迎祭では、手を取って踊った。

 

すべてが、同じ場所へ戻ってきた。

 

「……すごいですね」

 

スズメが呟く。

 

奎星が振り返った。

 

「何が?」

 

「思い出が、多すぎます」

 

奎星も校舎を見上げた。

 

「俺も。まだ一年経ってないのにな」

 

「あなたの場合、密度がおかしいのです」

 

「俺のせいじゃないのもある!」

 

「半分ほどはあなたのせいでしょう」

 

「半分!?」

 

「少なく見積もっています」

 

「ひど!」

 

二人は笑いながら、校舎へ向かって歩き始めた。

 

 

教師寮は、学生寮から少し離れた場所にある。

 

研究棟の裏手から石畳の道を進み、小さな庭を抜けた先だ。奎星はスズメの荷物を一つ持ちながら、その道を歩いていた。

 

「別に送らなくても大丈夫ですよ」

 

「いいじゃん」

 

「あなたは男子寮へ戻るのでしょう」

 

「途中まで同じだし」

 

「途中から完全に逆方向ですが」

 

「細かい」

 

「細かくありません」

 

奎星は気にせず歩き続ける。スズメも、それ以上は断らなかった。

 

夕方の石畳に、二人分の足音が重なる。

 

奎星のほうが背が高い。当然、一歩も大きい。けれど、少し歩いたところで、スズメは気づいた。

 

奎星が、自分より前へ行かない。

 

意識している様子はない。会話をしながら、何となく一歩を小さくしている。スズメの歩幅へ合わせているのだ。

 

スズメが少しだけ歩く速度を落とすと、奎星も遅くなる。試しに少し速くすると、奎星も自然に速くなった。

 

「何?」

 

奎星が横を見る。

 

「いえ」

 

スズメは前を向いた。

 

思い出す。

 

観測塔。日向を傷つけ、自分の魔法を怖がった少年。螺旋階段を下りる前、あのときは自分が歩調を緩めた。彼が隣へ追いつけるように。

 

それから、何度二人で歩いただろう。

 

八咫小路。

 

学校の廊下。

 

星迎祭。

 

常隠島。

 

初詣。

 

そして、記憶を失ってからも、彼は同じように自分の隣を歩いていた。

 

どちらかが少し早ければ、もう一人が合わせる。

 

そんな小さなことを、自分は昔から知っていた。

 

そして忘れて初めて、そんなことまで知っていたのだと気づいた。

 

記憶とは、大きな出来事だけではない。

 

抱きしめられたこと。

 

命を救われたこと。

 

「愛してる」と言われたこと。

 

それだけではない。

 

歩く速度。

 

声の調子。

 

笑う前の顔。

 

嘘をついているときの目。

 

少し落ち込んだときに、急にどうでもいい話を始めること。

 

そういう、言葉にするほどでもないものまで、自分は覚えていた。

 

「スズメちゃん」

 

「はい?」

 

「今度は何考えてんの?」

 

「何でもありません」

 

「最近それ多くない?」

 

「あなたに言う必要がないだけです」

 

「何それ!」

 

スズメは少し笑った。

 

「……ただ」

 

「うん」

 

「思い出しただけです」

 

「何を?」

 

スズメは奎星を見る。

 

「昔から、こうだったなと」

 

奎星が首を傾げる。

 

「何が?」

 

スズメは少しだけ笑った。

 

「何でもありません」

 

「またそれ!」

 

二人は並んで歩く。

 

同じ速さで。

 

やがて、奎星が口を開いた。

 

「俺さ」

 

「はい」

 

「スズメちゃんに『どちら様ですか』って言われたとき」

 

スズメの足が、わずかに止まりかける。

 

奎星は前を向いたまま続けた。

 

「終わったと思った」

 

スズメの表情が曇る。

 

「……申し訳ありません」

 

「謝んないで!」

 

奎星がすぐに振り返った。

 

「そういう意味じゃねえって!」

 

「ですが」

 

「俺が言いたいのは、また仲良くなれたってこと!」

 

スズメが黙る。

 

奎星は荷物を持ち直しながら、少し照れたように笑った。

 

「最初はマジでどうすりゃいいか分かんなかったけど。でも観測塔へ行って、話して、手を握って、相原さんと会って、研究して」

 

「はい」

 

「高速道路でスズメちゃんが笑って」

 

「はい」

 

「群馬へ行って」

 

「はい」

 

「眞田と戦って」

 

「そこは仲良くなる過程に含めるのですか?」

 

「まあ、色々あったじゃん」

 

「雑ですね」

 

「で、気づいたら、普通にまた仲良くなってた」

 

スズメはしばらく何も言わなかった。

 

知らない少年だった。

 

それでも、また気になった。

 

また見た。

 

また隣を歩いた。

 

同じ人を一度忘れて、もう一度見つけた。

 

「……そうですね」

 

スズメは笑った。

 

「また、仲良くなりました」

 

奎星も笑う。

 

「だろ?」

 

数歩進んだところで、奎星が言った。

 

「じゃあさ」

 

「何です?」

 

「今度俺が記憶なくしたら、そんときは頼むぜ」

 

スズメの顔から笑みが消えた。

 

「もう記憶はなくしません」

 

「いや、もしもの話」

 

「あなたも私も」

 

声が少し強くなる。

 

「もう、なくしません」

 

奎星が黙った。

 

スズメも、自分の言葉が思った以上に強く響いたことに気づいたのか、少しだけ表情を緩める。

 

「……ですが」

 

「ん?」

 

「もし。本当に、もしそうなったら」

 

奎星が見る。

 

「全部教えます」

 

奎星の口元が上がった。

 

「スズメちゃんって呼んだことも?」

 

「そこは烏丸先生と呼ばせます」

 

「おーい!!」

 

「何です?」

 

「歴史改変じゃん!」

 

「教育的修正です」

 

「俺の記憶に捏造混ぜんな!」

 

「あなたが覚えていないなら問題ありません」

 

「問題あるわ!」

 

「では、最初から烏丸先生と呼んでください」

 

「嫌だ!」

 

「でしたら忘れないでください」

 

「そのために!?」

 

「はい」

 

奎星はしばらくスズメを見たあと、吹き出した。

 

「ははっ!」

 

スズメも小さく笑う。

 

教師寮が見えてきた。玄関前の魔法灯が、淡い光を灯している。

 

二人の足が、どちらからともなく少し遅くなった。

 

教師寮の入口へ着く。

 

奎星が荷物を渡した。

 

「はい」

 

「ありがとうございます」

 

「ん」

 

スズメが荷物を受け取る。

 

それで終わりのはずだった。あとは奎星が学生寮へ戻るだけだ。

 

なのに、二人ともすぐには動かなかった。

 

「…………」

 

「…………」

 

奎星が頭を掻く。

 

「じゃ」

 

「はい」

 

「明日、授業?」

 

「はい」

 

「絶対?」

 

「絶対です」

 

「高宮先生じゃない?」

 

「私です」

 

奎星が嬉しそうに笑う。

 

「よし」

 

「そこまで喜ばれると、少しやりづらいですね」

 

「何で?」

 

「明日、普通に小テストをしますので」

 

奎星の笑顔が消えた。

 

「聞いてない」

 

「今言いました」

 

「記憶戻った日にそれ言う!?」

 

「授業は授業です」

 

「スズメちゃん!」

 

「烏丸先生です」

 

「戻ったなあ!」

 

「その確認、何度目ですか」

 

二人とも笑った。

 

また少し、沈黙が落ちる。

 

奎星が一歩下がった。

 

「……じゃ、おやすみ」

 

スズメも小さく頷く。

 

「おやすみなさい、蓮根君」

 

奎星が背を向ける。

 

三歩進んだところで、スズメが呼び止めた。

 

「蓮根君」

 

奎星が振り返る。

 

「何?」

 

スズメは少し迷った。

 

けれど、笑った。

 

「また明日」

 

奎星も笑う。

 

「うん。また明日」

 

今度こそ、奎星は学生寮へ向かって歩き始めた。

 

スズメは、その背中が見えなくなるまで玄関前に立っていた。

 

一月一日、彼を忘れた。

 

今日、思い出した。

 

けれど、明日会えることが、何より普通で、何より嬉しかった。

 

 

男子寮の部屋の扉が開く。

 

「ただいまー」

 

中には日向、岳、伊織がいた。日向はベッドへ寝転がりながら問題集を読んでいる。岳は机で何かを食べていた。伊織だけが、本当に勉強している。

 

三人が同時に顔を上げた。

 

日向が最初に訊ねる。

 

「どうだった?」

 

奎星は扉を閉め、鞄を置いた。

 

「戻った」

 

日向が起き上がる。

 

「烏丸先生?」

 

「全部」

 

数秒、誰も何も言わなかった。

 

やがて日向が、ほっと息を吐く。

 

「……そっか」

 

岳が短く言った。

 

「よかった」

 

伊織も笑う。

 

「うん。よかったね」

 

奎星も笑った。

 

「うん」

 

部屋に穏やかな沈黙が落ちる。

 

全部戻った。

 

長かった。一月一日からずっと追いかけていたものが、今日ようやく帰ってきた。

 

その余韻は、三秒続いた。

 

「で、奎星」

 

日向が言う。

 

「ん?」

 

「試験まで二週間」

 

「…………」

 

伊織が静かに頁をめくる。岳が菓子を食べる。

 

日向が訊ねた。

 

「勉強する?」

 

奎星の顔から血の気が引いた。

 

「…………」

 

一秒。

 

二秒。

 

そして。

 

「やっべええええええええええ!!」

 

男子寮が揺れた。

 

奎星が頭を抱える。

 

「忘れてたあああああ!!」

 

日向も慌てて起き上がった。

 

「お前、今日まで魔法省だったもんな!」

 

「それ以前から忘れてた!!」

 

「駄目じゃん!」

 

奎星は伊織へ飛びついた。

 

「伊織!!」

 

「何?」

 

「頼む!!」

 

「何を?」

 

「伊織塾に入塾します!!」

 

伊織が瞬きをする。

 

「何それ」

 

「俺を進級させてくれ!」

 

「塾長になった覚えはないけど」

 

「今なった!」

 

「勝手に?」

 

「月謝払う!」

 

「いらない」

 

「菓子!」

 

岳が顔を上げた。

 

「それなら俺が教える」

 

「お前は食いたいだけだろ!」

 

日向が突然、遠い目をした。

 

「……みんな」

 

三人が見る。

 

「来年度、最終学年頑張ってな」

 

奎星の動きが止まった。

 

日向は窓の外を見ながら、しみじみと言う。

 

「俺はもう一度、上級二年をやり直す」

 

「諦めんな日向!!」

 

奎星が日向の肩を掴んだ。

 

「お前が言う!?」

 

「まだ二週間ある!」

 

「お前もさっきまで忘れてただろ!」

 

「今思い出した!」

 

「記憶復元魔法か!?」

 

「試験日程は元から覚えてる!」

 

伊織が淡々と言った。

 

「二人とも、騒いでいる時間があるなら始めたほうがいいと思うよ」

 

奎星と日向が同時に振り返る。

 

「塾長!」

 

「誰が?」

 

「伊織先生!」

 

「やめて」

 

岳が問題集を持ってくる。

 

「ここ分からない」

 

伊織が問題集を覗き込んだ。

 

「岳まで?」

 

「俺も入る」

 

「伊織塾!」

 

「だから何それ」

 

奎星が椅子を引く。

 

「よし! やるぞ!」

 

日向も座る。

 

「進級するぞ!」

 

岳も座る。

 

「菓子取ってくる」

 

「先に勉強しろ!」

 

「腹減った」

 

「さっき食ってただろ!」

 

伊織は三人を見た。

 

それから、深く、深くため息をつく。

 

「……僕も進級したいんだけどな」

 

夜の男子寮に、また笑い声が響いた。

 

記憶は戻った。

 

事件は終わりへ向かっている。

 

明日から、スズメは授業へ戻る。

 

そして、学年末試験まであと二週間。

 

「伊織、これ何!?」

 

「さっき説明した」

 

「もう一回!」

 

「僕、烏丸先生じゃないんだけど」

 

「スズメちゃんのほうが分かりやすい!」

 

「明日本人に聞いて」

 

「小テストあるって!」

 

「じゃあ勉強して」

 

「助けてええええ!!」

 

失った過去は帰ってきた。

 

けれど、明日は待ってくれない。

 

だから、またいつもの毎日が始まる。

 

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