「うおおおおおおおおおおお!!」
春を目前にしたマホウトコロの中央広場に、蓮根奎星の叫び声が響き渡った。驚いた鳥たちが校舎の屋根から一斉に飛び立ち、噴水の水面に細かな波紋を広げていく。
その噴水の縁に片足を乗せ、奎星は両手に羊皮紙を掲げていた。
「進級ぅぅぅぅぅ!!」
「うるさい!」
背後から水無瀬楓の平手が飛び、奎星の後頭部を容赦なく叩いた。
「いってえ!」
「学校中に聞こえる声で叫ばないで! 合格したのはあんただけじゃないんだから!」
「だって受かったんだぞ! 見ろよ、正式に進級認定だ!」
奎星は羊皮紙を楓の目の前へ突きつけた。そこには、はっきりと《学年末試験 進級認定》と記されている。落第でも、再試でも、補習付きの仮進級でもない。蓮根奎星、上級課程二年。進級決定。
「ほら、俺、上級三年!」
「まだ新年度になってないでしょ」
楓は呆れながらも、自分の認定書を奎星の横へ並べた。
「私も受かってるわよ」
「楓も!」
「当然でしょ」
その隣では、朝比奈日向が両腕を広げ、青空を仰いでいた。
「生き残った……!」
「大袈裟だな」
岳が淡々と呟く。
「進級した」
「それを生き残ったって言うんだよ!」
日向が叫ぶと、伊織が穏やかに笑った。
「みんな、よかったね」
その一言を聞いた瞬間、奎星の顔がぱっと明るくなる。
「伊織ぃ!」
嫌な予感を覚えた伊織が一歩下がった。しかし、逃げるには遅すぎた。奎星と日向が左右から抱きつき、伊織の身体を挟み込む。
「伊織塾長ぉぉぉ!」
「ありがとう塾長!」
「やめて! 僕は塾長になった覚えないって!」
珍しく伊織が本気で抵抗する。だが、二人の腕はなかなか外れない。
「お前がいなかったら、俺たちは死んでいた!」
「少なくとも魔法法規は死んでた!」
奎星が力説すると、伊織は困ったように眉を下げた。
「それは……否定しづらいけど」
「岳も助かったよな!」
奎星が振り向くと、岳は少し考えてから頷いた。
「俺も助かった」
「岳まで!」
「菓子もあった」
「それ、僕じゃないよ」
「俺」
岳は自分を指差した。
楓は深々とため息をつく。
「何なのよ、こいつら……」
広場には、奎星たちと同じように試験結果を受け取った生徒たちが集まっていた。歓声を上げる者、膝から崩れ落ちる者、友人と抱き合う者、早くも再試験の日程を確認している者。学年末のマホウトコロでは、毎年繰り返される光景だった。
その中で、奎星たち五人は全員、無事に次の学年へ進むことができた。
「いやあ、去年の俺に言ってやりたいな」
日向が認定書を何度も眺めながら言った。
「何を?」
「お前、来年もちゃんとここにいるぞって」
軽い調子の言葉だった。けれど、楓は一瞬だけ黙った。
この一年、あまりにも多くのことがあった。黒曜の環、神代冥司による学校の占拠、星帰り、列車事故、そして記憶を奪う魔法。試験どころではない日も、何度もあった。それでも今、五人は揃っている。誰一人欠けることなく、次の学年へ進もうとしている。
楓の表情が、わずかに柔らかくなった。
「……そうね。来年も、ちゃんとここにいられるといいわね」
「いるに決まってるだろ」
奎星は羊皮紙を空へ掲げた。
「よし、祝いだ! 大食堂へ行こう!」
「まだ昼前よ!」
「昼飯には早い」
「でも食える」
岳が即座に答える。
「食えるかどうかじゃないの!」
「じゃあ何だ?」
「時間の問題!」
「腹は時間を選ばない」
「岳、あんたは少し黙ってて!」
そのとき、背後から落ち着いた声がした。
「蓮根」
奎星が振り返る。
「あ!」
少し離れた場所に、三枝冬真が立っていた。深紅の上級生用魔法衣を身につけ、いつもの柔らかな笑顔を浮かべている。ただし、今日は手に杖を持っていた。
「冬真先輩!」
奎星はすぐに駆け寄った。
冬真は軽く手を上げる。
「進級おめでとう」
「ありがとうございます!」
「結構危なかったって聞いたけど」
「誰から!?」
奎星が振り返ると、冬真の視線の先で伊織が気まずそうに目を逸らした。
「伊織ぃ!」
「点数は言ってないよ」
「危なかったことは言ったんじゃん!」
冬真が楽しそうに笑う。
「まあ、受かったならいいじゃん」
「冬真先輩は?」
「俺?」
「卒業」
「できるよ」
「余裕?」
「一応ね」
「くそ、格好いい……」
「そこで悔しがるの?」
冬真は笑いながら、奎星へ手招きした。
「蓮根、ちょっと来いよ」
「え? どこに?」
「来れば分かる」
冬真はそれだけ言うと、先に歩き始めた。
奎星は友人たちを振り返る。日向は肩をすくめ、楓は小さく頷いた。
「行ってきなさいよ。先輩、もう卒業なんだから」
「……そっか」
その言葉が、奎星の胸に引っかかった。
卒業。
数分前まで、試験に受かった喜びで頭がいっぱいだった。けれど、冬真はもうすぐこの学校を出ていく。そう考えると、広場の歓声が少し遠く聞こえた。
「行ってくる!」
奎星は冬真の背中を追いかけた。
*
冬真が向かった先は、第一決闘訓練場だった。
入口をくぐったところで、奎星は足を止める。円形の訓練場には、星迎祭の交流戦でも使われた決闘用の結界が張られていた。観覧席には誰もいない。中央には、腕を組んだ御影玄一郎が立っている。
「……え?」
「遅い」
御影が奎星を見る。
「俺、今連れてこられたんだけど!」
「三枝には時間を伝えた」
「先生、知ってたの!?」
「当然だ」
奎星は冬真を振り返った。
「何これ?」
冬真は、少し意地の悪い笑みを浮かべた。
「覚えてない?」
「何を?」
「星迎祭」
その言葉を聞いた瞬間、奎星の中で記憶が繋がった。
星迎祭の日。初めて見た三枝冬真の決闘。日向が、決闘部の主将で、昨年度の校内決闘大会優勝者だと教えてくれた。強いのかと尋ねた自分に、日向は即答した。
――めっちゃ。
そして、自分は冬真へ言った。
――今度俺ともやって!
冬真は笑って答えた。
――いいよ。ただし、御影先生の許可を取ってからな。
「……あ」
冬真が振り返る。
「思い出した?」
「もしかして、あの約束?」
「うん」
冬真は杖を抜き、手の中で軽く回した。
「俺、もう卒業だからさ。やろうよ」
奎星の顔が一気に明るくなった。
「もちろん!」
即答だった。
御影が深く息を吐く。
「騒ぐな」
「先生、三枝先輩から許可を取られてたの?」
「そうだ」
「マジで約束守ってくれたんだ!」
「約束したからね」
冬真は当たり前のように言った。その言葉が、奎星には妙に嬉しかった。
「うわ、楽しみ!」
「一応言っておくけど、俺、今日はすでに一戦やってるから」
「誰と?」
「鳴海」
奎星の表情が固まる。
「鳴海!?」
「うん」
「勝った?」
冬真は何でもないことのように答えた。
「勝った」
「つっよ!」
御影が補足する。
「鳴海も卒業前に一度、正式に戦いたいと言っていたらしい」
「人のいないところで?」
冬真が吹き出した。
「よく覚えてるな」
星帰りの事件が終わったあと、冬真は鳴海に言ったのだ。
――次は普通に決闘しよう。
――人のいないところで。
鳴海は、それならと即答した。おそらく今日の決闘も、かなり激しいものだったのだろう。
奎星は神代榊を抜いた。
「じゃあ、俺が二人目?」
「そう」
「疲れてる?」
「ちょっとね」
冬真は笑っている。
奎星も笑った。
「じゃあ、負けても言い訳できないじゃん」
「俺が?」
「俺が」
「最初から負けたときの話をするなよ」
「勝つけど!」
「うん。俺も勝つ」
冬真の表情から、柔らかな笑みが少しだけ消えた。
御影が二人の間へ進み出る。
「ルールは星迎祭の交流戦と同じだ。使用可能なのは、上級課程で許可されている非致死性呪文。戦闘不能、武装解除、場外のいずれかで終了する」
「はい!」
「了解です」
「過剰な威力を使った時点で俺が止める」
御影の目が奎星へ向いた。
「特に蓮根」
「俺だけ!?」
「特にお前だ」
「冬真先輩だって強いじゃん!」
「三枝は加減ができる」
「俺もできる!」
御影は黙った。
その沈黙が、何より雄弁だった。
「何その顔!」
冬真が笑いを堪える。
「冬真先輩も笑うな!」
「ごめん」
「開始位置へ」
御影の声に従い、二人は十メートルほど離れて向かい合った。
奎星は神代榊を握り直す。冬真は細身の杖を軽く下げていた。星迎祭で見た、あの立ち方だ。力が入っていない。隙だらけに見えるのに、どこから攻めても先に対応されるような、不思議な構え。
奎星は目を細めた。
今なら、あのときよりもよく分かる。御影に鍛えられ、実戦を経験し、何度も負けてきた。その中で、少しずつ相手を見ることを覚えた。
冬真は何もしていないのではない。
何もしなくていい場所に立っているのだ。
いつでも、一歩で動ける場所に。
「いい顔するようになったな」
冬真が言った。
「何が?」
「星迎祭のときより、ちゃんと見てる」
奎星は笑った。
「そりゃ成長したから」
「じゃあ、見せてよ」
冬真が杖を構える。
御影が右腕を上げた。
「始め」
「エクスペリアームス!」
冬真の呪文が、開始の声とほとんど同時に飛んできた。赤い光が一直線に走る。
奎星は反射的に杖を振った。
「プロテゴ!」
透明な盾が正面に現れ、赤い光が弾ける。その直後、冬真が右へ動いた。奎星も追う。
「ステューピファイ!」
赤い閃光を、冬真は大きく避けなかった。半歩だけ身体をずらし、紙一重で躱す。奎星が続けて左へ撃つと、今度は一歩下がった。
三発目。
冬真は小さな盾を出した。
「プロテゴ」
必要な面積だけを覆う、薄い盾だった。奎星の《ステューピファイ》が弾かれる。
「やっぱ上手い!」
「褒めてる場合?」
盾の横から杖が突き出された。
「インカーセラス!」
銀色の縄が地面を走り、奎星の足へ絡みつこうとする。
「デパルソ!」
奎星は床へ向けて衝撃を放った。跳ね返った力で縄の軌道を逸らし、その勢いを利用して自分も横へ跳ぶ。
着地と同時に杖を向けた。
「エクスペリアームス!」
冬真は身体を沈めた。赤い光が髪の先を掠める。
「危なっ!」
「当たってない!」
「だから危ないって!」
冬真は笑っていたが、その目は笑っていなかった。視線は奎星の肩、足、杖先を正確に追っている。
奎星は前へ出た。
距離が縮まる。五メートル、四メートル、三メートル。
「ステューピファイ!」
「プロテゴ!」
赤い光が盾へぶつかる。奎星は間を置かず、次の呪文へ繋げた。
「インカーセラス!」
冬真が盾を解く。左右から銀色の縄が迫った。
一本目を避け、二本目を杖で弾く。三本目が足元へ届く直前、奎星は叫んだ。
「フィニート!」
縄が消える。
その瞬間、奎星の杖先はすでに冬真へ向いていた。
「デパルソ!」
冬真の目が、初めてわずかに見開かれた。
「プロテゴ!」
衝撃が盾へぶつかる。防がれた。しかし、冬真の足は大きく後ろへ滑った。靴底が地面を削り、場外線まであと二歩というところで止まる。
「うおっ……!」
奎星の目が輝いた。
「行ける!」
「口に出すなよ!」
冬真も笑ったが、すぐに杖を構え直した。
奎星は畳みかける。
「ステューピファイ!」
冬真が避ける。
「エクスペリアームス!」
盾。
「インカーセラス!」
跳躍。
冬真は少しずつ後ろへ下がっていく。
御影は腕を組んだまま、二人の動きを見ていた。以前の奎星なら、もっと大きく、もっと強く、もっと派手に攻撃することしか考えなかっただろう。だが、今は違う。冬真を場外へ追い込むため、攻撃を当てるだけでなく、盾を出させ、避けさせ、足を動かし、少しずつ立てる場所を奪っている。
奎星は学んでいた。
ただし、冬真もまた、奎星が学んだことを見抜いていた。
「蓮根」
「何!」
冬真が場外線の直前で足を止めた。
「俺、去年これで優勝してるんだけど」
「知ってる!」
「じゃあ、簡単には押し出されないよ」
冬真が一歩、前へ出た。
空気が変わった。
「インペディメンタ!」
青白い光が飛ぶ。奎星は身体を捻って避けた。
「エクスペリアームス!」
「プロテゴ!」
冬真は盾を出したが、そこへ攻撃を続けることはしなかった。盾を消すと同時に横へ回り込む。
「インカーセラス!」
「フィニート!」
縄が消える。
その直後。
「ステューピファイ!」
「うおっ!」
赤い光が制服の袖を掠めた。奎星は距離を取る。冬真が追う。
速い。
派手ではない。
けれど、止まらない。
攻撃、防御、移動、拘束。そのすべてが一つの流れになっている。
「くっそ、楽しい!」
「蓮根、お前、本当に戦うの好きだな!」
「冬真先輩も笑ってるじゃん!」
「まあね!」
二人の杖が同時に上がった。
「ステューピファイ!」
「ステューピファイ!」
赤い光が交差する。二人とも身を翻して避け、奎星が先に向きを変えた。
「デパルソ!」
冬真は真正面から盾を張らず、角度をつけて衝撃を横へ流した。
「それ、楓もやってた!」
「後輩からも盗むよ!」
「俺も!」
奎星が踏み込む。
冬真が杖を上げた。
その瞬間、また小さな盾が現れた。
「プロテゴ」
奎星の目が変わる。
知っている。
星迎祭で小鳥遊真白と戦ったときも、星帰りの事件で鳴海と戦ったときも、冬真はこの小盾を使った。相手から上半身を隠し、杖先を見せない。その陰から拘束呪文を放つ。
「それ知ってる!」
奎星が叫ぶ。
冬真の口元が上がった。
盾の陰から杖先が出る。
奎星は足元を見た。
来る。
《インカーセラス》。
なら、先に。
「デパルソ!」
盾の横から地面へ衝撃を撃ち込む。砂と小石が跳ね、冬真の姿勢がわずかに崩れた。
「読んだ!」
奎星が笑う。
しかし、盾の陰から魔法は飛んでこなかった。
「……え?」
冬真が笑った。
「うん。それを読んでた」
冬真は《インカーセラス》を撃っていなかった。小さな盾も、見え隠れする杖先も、奎星が知っていることまで含めた囮だった。
「しまっ――」
奎星が反応したときには、足元に銀色の縄が残っていた。
最初の攻防で冬真が放ち、奎星が《デパルソ》で軌道を逸らした縄だ。奎星はそれを消したつもりでいたが、一本だけが地面の端に残されていた。
冬真が杖を引く。
縄が動き、奎星の右足首へ絡みついた。
「うわっ!」
体勢が崩れる。それでも奎星は倒れなかった。すぐに杖を振る。
「フィニート!」
縄が切れる。
冬真の目がわずかに見開かれた。
「速っ」
奎星はそのまま杖を向けた。
「エクスペリアームス!」
赤い閃光が冬真の杖へ飛ぶ。
冬真が腕を引く。しかし、間に合わない。赤い光が杖へ触れた。
同時に、冬真の杖も奎星へ向いていた。
「デパルソ!」
衝撃が奎星の身体を後ろへ押し飛ばす。
「うわあっ!」
右足が下がる。
左足も下がる。
奎星は必死に踏ん張った。冬真の《デパルソ》を受けながらも、自分の《エクスペリアームス》は途切れていない。
冬真の杖が手から離れた。
くるくると宙を舞う。
「取った!」
奎星が叫んだ、その瞬間だった。
右足の踵が、白い場外線を越えた。
「終了」
御影の声が響く。
奎星が止まり、冬真も止まった。冬真の杖が、からんと音を立てて地面へ落ちる。
数秒の静寂。
奎星は自分の足を見た。次に、地面へ落ちた冬真の杖を見る。それから御影へ顔を向けた。
「……どっち?」
御影は即答した。
「三枝」
「えええええええええええええ!?」
奎星の叫びが訓練場を揺らした。
「杖、飛んでるじゃん!」
「お前の足が先に出た」
「どれくらい!?」
「僅かだ」
「僅かってどれくらいだよ!」
「僅かは僅かだ」
「〇・一秒!?」
「測っていない」
「測ってよ!」
冬真は杖を拾いながら、とうとう堪えきれずに笑い出した。
「はははは!」
「冬真先輩!」
「いや、ごめん。でも、マジで危なかったから」
「笑うなよ!」
「だって、杖を飛ばされた瞬間、俺も負けたと思ったんだよ」
冬真は自分の右手を見た。
「でも、蓮根の足が先に出た」
奎星は頬を膨らませる。
「あとちょっとだったのに……」
「うん」
「杖飛ばしたのに……」
「飛ばされた、ね」
「じゃあ俺の勝ちでもよくない?」
「駄目だ」
御影が即座に答えた。
「先生、厳しい!」
「ルールだ」
「くそぉぉぉ!」
奎星が頭を抱えると、冬真は笑いながら近づいてきた。
「でもさ」
「何?」
「星迎祭のときより、めちゃくちゃ強くなったな」
奎星が顔を上げる。
冬真は本気でそう言っていた。
「俺の小盾、覚えてたし。鳴海は今日も引っかかったけど、蓮根には読まれた」
「その上を読まれたけど」
「そこまで含めて決闘だろ?」
「……くっそ」
悔しい。
けれど、楽しかった。
あと少しだった。ほんの少しだけ、冬真へ届かなかった。
冬真が右手を差し出す。
奎星はすぐにその手を握った。
「ありがとうございました!」
「こっちこそ」
握手を交わしながら、冬真は少しだけ力を込めた。
「これで、卒業前にやり残したことはないな」
奎星の眉が跳ね上がる。
「やり残したことって、俺を負かすことかよ!」
「違うよ」
冬真はにこりと笑った。それから、少し意地悪そうに目を細める。
「可愛い後輩に、俺の強さを教えとかないと」
「うっわ!」
奎星が顔をしかめる。
「最後に先輩風吹かせてる!」
「最後だからね」
「次やったら勝つ!」
「うん」
「絶対!」
「じゃあ、卒業後にまたやろう」
奎星の顔が明るくなる。
「約束!」
「今度は御影先生の許可、いらないかもな」
御影が横から口を挟んだ。
「学校でやるなら必要だ」
冬真が肩をすくめる。
「だってさ」
「先生、ほんとそういうとこ!」
三人の声が、春を待つ訓練場へ響いた。
*
数日後。
マホウトコロ大講堂では、卒業式が始まろうとしていた。
天井の高い講堂には、全課程の生徒たちが整然と並んでいる。壇上には校章が掲げられ、その左右には十二個の淡い光球が浮かんでいた。下級課程六年、中級課程三年、上級課程三年。七歳で入学し、十八歳で卒業する、十二年間を表す光だった。
最前列には、深紅に金糸の入った卒業用魔法衣をまとった上級課程三年の生徒たちが座っている。
三枝冬真も、その中にいた。
いつもと違う服を着ているのに、座り方はいつも通りだった。少しだけ姿勢が崩れ、隣の男子生徒と小声で話しては笑っている。
奎星は後ろの在校生席から、その姿を見つめていた。
「ほんとに卒業すんだな」
隣の日向が呟く。
「当たり前だろ」
「分かってるけどさ」
「……うん」
奎星も、同じ気持ちだった。
ついこの前まで、学生寮の談話室で普通に話していた。冬真の進路を聞き、決闘をし、次は勝つと約束した。それなのに今日を境に、冬真はマホウトコロの生徒ではなくなる。
壇上へ九重院紫苑が進み出ると、講堂は静かになった。
九重院は卒業生たちをゆっくりと見渡した。一人ひとりの顔を確かめるような視線だった。
「卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます」
穏やかな声が、講堂の隅まで届く。
「皆さんの中には、この学校へ七歳で入った方も多いでしょう。十一年前には、まだ杖を持つことさえ許されず、廊下を走って先生方に叱られ、授業よりも昼食を楽しみにしていた方もいたと思います」
卒業生席のあちこちから、小さな笑いが起こった。
薬師寺が「今も変わらん者がおるのう」と呟き、冬真の隣に座る男子生徒が肩を震わせる。
九重院も、ほんの少し笑った。
「長く在籍した人にとっても、途中からこの学校へ来た人にとっても、ここで過ごした時間の長さは違います。ですが、学校とは、何年いたかだけで決まる場所ではありません」
九重院は、在校生のほうへも視線を向けた。
「誰と出会ったか。何を学んだか。何に失敗したか。何を守ろうとしたか。そして、自分が何を持って外へ出ていくか」
奎星は静かに聞いていた。
「卒業とは、ここで過ごした時間を終わらせることではありません。その時間を持って、次の場所へ行くことです」
九重院の声には、長い年月を見てきた者だけが持つ落ち着きがあった。
「皆さんの未来が、この学校の中だけで完結する必要はありません。遠くへ行ってください。知らないものを見てください。間違えてください。困ったら、一度帰ってきても構いません」
卒業生たちが顔を上げる。
九重院は微笑んだ。
「マホウトコロは、帰ってきた卒業生を追い返すほど狭い学校ではありませんから」
講堂に、温かな笑いが広がった。
「皆さんのこれからを、心から楽しみにしています」
九重院が一礼すると、大きな拍手が起こった。
奎星も力いっぱい手を叩く。
隣で日向が小声で言った。
「校長先生、こういうときはちゃんと校長だよな」
「普段は何だと思ってるんだよ」
「校長だけど」
「じゃあ言うなよ」
楓が横から睨みつけた。
「式中に喋らない」
「はい」
奎星と日向の返事が重なり、楓はまたため息をついた。
*
続いて、在校生代表の名前が呼ばれた。
「上級課程二年、水無瀬楓」
「楓!」
奎星が思わず声を上げる。
「声出すな!」
日向に袖を引かれた。
「お前が言う!?」
「俺だって式くらい分かる」
「成長したな」
「うるさい」
楓は壇上へ上がると、卒業生たちへ深く頭を下げた。普段、奎星や日向へ怒鳴っているときとは違う、凛とした姿だった。
「卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます」
声には少し緊張が混じっていた。それでも、言葉は講堂の奥までまっすぐ届いた。
「何を話そうか、かなり悩みました。先輩方の功績や、これからの活躍を願う言葉なら、もっと上手に話せる人がいると思います。なので私は、私たちが先輩方と過ごした時間の話をしたいと思います」
奎星は、楓の横顔を見つめた。
「私たちの多くは、七歳でこの学校へ入りました。入学した最初の日、私は校舎が広すぎて、自分の教室が分からなくなりました」
卒業生席から笑いが起こる。
楓も少しだけ笑った。
「朝比奈君も一緒でした」
日向の顔が固まる。
奎星が振り返った。
「お前も!?」
「今言うな!」
楓は構わず続ける。
「そこへ、当時下級課程二年だった三枝先輩たちが来て、教室まで連れていってくれました。ただし、三枝先輩も道を間違えていて、結局、全員で遅刻しました」
講堂が大きく沸いた。
奎星が吹き出す。
「冬真先輩!」
卒業生席の冬真は両手で顔を覆った。
「覚えてたかー……」
「忘れるわけないでしょ」
楓は少し得意そうに笑った。
「中級課程へ上がった頃、星迎祭の準備で、私たちが作った装飾が前日の強風ですべて壊れたことがありました。もう無理だと思っていた私たちのところへ、当時一つ上の先輩たちが来てくれました。自分たちの準備も終わっていなかったのに、一緒に夜まで作り直してくれたんです」
卒業生席の一人の女子生徒が、懐かしそうに笑った。
楓はその人へ視線を向ける。
「榎本千尋先輩。あのときは、本当にありがとうございました」
奎星にとっては、今日初めて聞く名前だった。
けれど、楓にとっては何年も前から知っている先輩なのだ。
「決闘で勝てなくて悔しかったとき。授業で失敗したとき。寮で夜更かしをして先生に怒られたとき。誰かが泣いたとき。誰かが怪我をしたとき。いつも、少し前に先輩たちがいました」
奎星は、静かに楓の話を聞いていた。
自分がマホウトコロへ来たのは、去年の五月だ。まだ一年も経っていない。
けれど、楓も、日向も、岳も、伊織も、冬真も、鳴海も、ずっと前からこの学校にいた。
自分が知らない星迎祭。
自分が知らない授業。
自分が知らない失敗。
自分が知らない放課後。
そこには、何年分もの時間が積み重なっている。
楓は続けた。
「この一年は、きっと、今までの学校生活の中でも特別な一年でした」
講堂の空気が少し変わる。
学校が奪われたこと。神代冥司のこと。星帰りのこと。それでも、みんなで取り戻したこと。
「怖いこともありました。先輩たちに助けてもらったことも、たくさんありました」
楓は冬真を見た。
「でも、多分、先輩って、全部できる人のことじゃないんだと思います」
卒業生たちが顔を上げる。
「間違えたこともあって、怒られたこともあって、失敗もいっぱいして。それでも、自分たちより少し先を歩いていてくれる人」
奎星の目が冬真へ向いた。
「私たちも、あと一年で卒業します」
その言葉に、奎星自身が少し驚いた。
そうだ。
自分たちは進級した。
次は、最終学年だ。
「来年、私たちが今日の先輩方のようになれているかは分かりません」
日向が小さく呟く。
「俺は無理かも」
楓が壇上から睨んだ。
「聞こえてるぞ」
講堂に笑いが起こり、日向は慌てて背筋を伸ばした。
「すみません」
楓も笑った。
「ですが、少しでも近づけるように頑張ります」
そして、卒業生たちへ深く頭を下げた。
「今まで、本当にありがとうございました」
大きな拍手が起こった。卒業生席からも拍手が返る。
奎星は誰よりも強く手を叩いた。
楓が席へ戻ってくると、奎星は小声で言った。
「よかった」
「何が?」
「知らない話がいっぱいあった」
「そりゃそうでしょ」
「楓たち、ずっと前からここにいたんだもんな」
楓は一瞬だけ黙った。
「……うん」
奎星は前を向いた。
「なんか、すげえな」
楓は何も言わなかった。ただ、少しだけ笑った。
*
最後に、卒業生代表の名前が呼ばれた。
「三枝冬真」
冬真が立ち上がる。
卒業生席から、「行けー、冬真」と小さな声が飛んだ。
冬真は横を向いた。
「大翔、あとで覚えとけよ」
講堂に笑いが起こる。
御影の眉がわずかに動いた。
「始まる前から私語をするな」
「すみません!」
冬真は笑いながら壇上へ向かった。
演台の前に立ち、講堂全体を見渡す。先生たち、後輩たち、同級生たち。そして、少し離れたところにいる奎星。
冬真は一度、深く息を吸った。
「卒業生代表として、まず……初めに謝らなければならないことがあります」
先生たちの何人かが、嫌な顔をした。
御影の目が細くなる。
冬真は続けた。
「二〇一八年。僕らが下級課程四年だった頃、男子寮の屋根が燃えましたね」
卒業生席の何人かが、すでに笑いを堪え始めている。
薬師寺の顔が上がった。
冬真は、にこやかに言った。
「あれ、僕です」
講堂から音が消えた。
一秒。
二秒。
「お前じゃったのか!?」
薬師寺が立ち上がった。
次の瞬間、講堂は爆笑に包まれた。
「ずっと犯人が分からんかったやつじゃぞ!」
冬真は演台の前で頭を下げる。
「すみませんでした!」
御影が額へ手を当て、高宮が隣の教師へ尋ねた。
「知ってました?」
「知らん」
「俺もです」
薬師寺はまだ驚いている。
「十一年越しじゃぞ!?」
「時効かなと思って」
「学校に時効などないわ!」
また笑いが起こる。
冬真も笑いながら続けた。
「当時、火属性魔法の練習をしてまして」
御影が低い声で言った。
「下級課程四年は杖を使わんだろう」
冬真が止まる。
「あ」
卒業生席から、さらに笑いが起こった。
「……自主練です」
「余計に悪い」
「はい」
「卒業後に反省文を出させるぞ」
「卒業後!?」
冬真が思わず聞き返し、会場はまた笑いに包まれた。
冬真は咳払いをして、卒業生席へ視線を戻す。
「先生たちには、本当にずいぶん迷惑をかけました」
その視線が、一人の男子生徒で止まった。
「おい大翔、笑ってんじゃないぞ!」
佐伯大翔が腹を抱えている。
「お前も一緒にいたからな!」
「火ぃ出したのお前だろ!」
「見張りだったじゃん!」
「見張れてなかったから燃えたんだよ!」
講堂がさらに沸いた。
九重院まで口元を押さえている。薬師寺は何か言いたそうだったが、とうとう諦めて席へ戻った。
冬真は笑いが収まるのを待った。
「……まあ、そうやって十二年間過ごしてきました」
今度は、誰も笑わなかった。
「下級課程の頃は、卒業なんて考えたこともありませんでした。中級課程へ上がったときも、まだ先のことだと思っていました。上級課程へ入って、可愛い後輩たちにも囲まれました」
奎星の眉が動く。
冬真と目が合った。
冬真は、にやりと笑った。
「最後に威厳を知らせることもできたし」
「冬真先輩!」
奎星が思わず立ち上がった。
「そこで言う!?」
会場が笑いに包まれる。楓が奎星の服を引っ張った。
「座りなさい!」
「だって」
「奎星!」
「今――」
「座れ!」
「はい!」
奎星が渋々座ると、冬真は満足そうに頷いた。
「よし」
「よしじゃねえ!」
小声で抗議する奎星の隣で、日向が笑いを堪えている。
冬真は演台へ手を置いた。
「最後に、後輩のみんなへ一つだけ言いたいことがあります」
講堂が静まる。
冬真は、いつものような気取らない声で言った。
「自分の未来は、自分次第です」
奎星が顔を上げる。
「進路を決めるのって、難しいです。俺も結構悩みました」
国際魔法協力局へ進むこと。学生決闘の世界大会で、違う国の魔法使いたちと話したこと。その経験が、自分の進みたい道を教えてくれた。
「まだ、自分が何者なのか分からない人もいると思います。ていうか、そっちのほうが普通だと思う」
何人かの生徒が、少しだけ表情を緩めた。
奎星も黙って聞いている。
自分は、卒業後に何をするのか決めていない。前の学校の進路希望には、海賊と書いた。今も、そこから大して進歩していない。
冬真は教師たちへ視線を向けた。
「大人たちは多分、色々言います。お前はこっちのほうが向いてる、とか。それはやめておけ、とか。もっと勉強しろ、とか」
御影、高宮、薬師寺へ順番に視線を送る。
「薬を飲め、とか」
奎星が吹き出した。
薬師寺が杖を上げる。
「最後のは大事じゃ!」
また笑いが起こる。
冬真も笑ったが、すぐに表情を戻した。
「もちろん、それは俺たちのことを思って言ってくれているんだと思います。自分より長く生きて、失敗もして、知っていることも多い人たちが、俺たちに教えてくれる。それは、すごく大事なことです」
教師たちは何も言わず、静かに冬真を見ていた。
「でも」
冬真は一度、言葉を切った。
「最後に決めるのは、自分です」
奎星の目がわずかに動く。
「向いているかどうかも。できるかどうかも。誰かに笑われるかどうかも。失敗するかもしれないことも。全部考えて、それでも自分で決めてください」
冬真は卒業生席の同級生たちを見た。それから、後輩たちへ視線を移す。
「自分が選んだ道なら、間違えたときも、自分で次を選べるから」
奎星は、気づけば少し前のめりになっていた。
冬真が笑う。
「俺は、世界中の魔法使いと、日本を繋ぐ仕事がしたいです」
国際魔法協力局。
自分で選んだ未来。
「みんなも、自分の夢を持ってください」
講堂は静まり返っていた。
冬真は少し慌てたように付け加える。
「あ、別に今すぐ決めろって意味じゃないからな? 俺みたいに卒業寸前でもいいし、途中で変わってもいい。夢が見つからないなら、探している途中でもいい」
そして最後に、まっすぐ前を見た。
「でも、自分の人生を、他の誰かに決めてもらわないでください」
講堂が静まり返る。
数秒後、誰かが拍手を始めた。
一つ、二つ。
やがて拍手は講堂全体へ広がり、卒業生も、在校生も、教師たちも、全員が手を叩いていた。
奎星は、誰よりも強く、何度も手を叩いた。
冬真は一礼する。その顔には、少し照れくさそうな笑みが浮かんでいた。
*
卒業証書が、一人ずつ手渡されていく。
名前を呼ばれた生徒が壇上へ上がり、九重院から証書を受け取る。十二年間の最後を飾る、静かな儀式だった。
やがて。
「三枝冬真」
名前が呼ばれた。
「はい」
冬真が立ち上がる。
壇上へ上がり、九重院から証書を受け取る。九重院が何か短く言葉をかけたが、奎星のいる場所までは聞こえなかった。
冬真は笑い、一礼して席へ戻る。
それだけのことなのに、奎星の胸には強く残った。
「……卒業か」
奎星が呟くと、楓が横を見る。
「何?」
「いや」
奎星は壇上から戻ってくる冬真を見つめた。
去年の五月、自分はこの学校のことを何も知らなかった。七歳からここにいた人間がいることも、十二年間を同じ場所で過ごし、誰かの後輩になり、誰かの先輩になり、最後にここを出ていくことも知らなかった。
「来年」
奎星が言う。
日向が振り返る。
「ん?」
「俺らなんだな」
日向の顔がわずかに固まった。楓も、伊織も、岳も、黙って前を見た。
上級課程三年。
最終学年。
卒業まで、あと一年。
「……早くね?」
日向が言った。
「早い」
伊織も頷く。
岳が真剣な顔で言う。
「飯、食える回数が減る」
楓が即座に返した。
「卒業してもご飯は食べられるわよ」
「ここの飯」
「そこ?」
奎星が笑った。
それから、壇上の近くに並ぶ教員席へ目を向ける。御影、九重院、高宮、薬師寺。そして、スズメ。
スズメと目が合った。
彼女は、ほんの少しだけ笑った。
奎星も笑い返す。
一年。
まだ一年ある。
何をするのか。何になるのか。何を選ぶのか。何一つ決まっていない。
でも、それでいい。
今はまだ、探している途中なのだから。
卒業生たちが立ち上がる。
講堂の大扉が開き、外から春の風が吹き込んできた。
冬真が後輩たちの横を通り、奎星の前で一瞬だけ足を止める。
「蓮根」
「ん?」
冬真が拳を差し出した。
奎星も拳を合わせる。
こつん、と小さな音がした。
「次は勝てよ」
奎星の眉が上がる。
「次は俺が勝つんだよ!」
「言い直しただけじゃん」
冬真が笑う。
「じゃあな」
「冬真先輩!」
冬真が振り返る。
奎星は少しだけ迷った。
卒業おめでとう。
頑張って。
また決闘しよう。
言いたいことはいくらでもあった。
けれど、結局。
一番いつも通りの言葉が出た。
「またな!」
冬真は一瞬だけ目を細めた。
それから、同じように笑った。
「うん。またな」
冬真は前を向いた。
卒業生たちが、開いた扉の向こうへ歩いていく。
一人。
また一人。
深紅の魔法衣が春の光へ溶けていく。
奎星は、その背中をずっと見ていた。
不思議だった。
昨日までと、何も変わらないように見える。
明日も同じ鐘が鳴る。
大食堂では朝食が出る。
御影は朝から訓練場にいるだろう。
スズメの授業ではきっと赤い羽根筆が動く。
日向は騒ぎ、楓は怒り、岳は何かを食べ、伊織はその全員へ呆れる。
マホウトコロの日常は、何事もなかったように続いていく。
けれど。
明日、学生寮の談話室へ行っても、冬真はいない。
決闘場を通っても、あの軽い調子で声をかけてくる先輩はいない。
廊下ですれ違って。
「蓮根」
と呼ばれることも、もうない。
学校は変わらないのに。
そこにいた誰かだけが、一人ずついなくなっていく。
それが、卒業なのだと。
奎星は初めて少しだけ分かった気がした。
壇上の十二個の光球が、ゆっくりと昇っていく。
一つ。
二つ。
三つ。
十二年間。
その全部を、持っていくように。
この冬。
奎星たちは、失った記憶を取り戻す方法を見つけた。
硝子の中へ奪われた過去さえ、人のもとへ帰すことができた。
けれど。
過ぎた時間そのものを戻す魔法はない。
昨日へ戻ることも。
卒業していく先輩を、いつまでも同じ教室へ置いておくこともできない。
だから人は。
忘れないようにするのだろう。
一緒に笑ったこと。
喧嘩したこと。
負けたこと。
助けてもらったこと。
どうでもいい話をした夜。
交わした約束。
そして。
最後に見た背中まで。
記憶にして。
自分の中へ持っていく。
最後の光球が、大講堂の天井近くまで昇った。
春の風が、開いた扉からもう一度吹き込む。
卒業生たちの姿は、もうほとんど見えなくなっていた。
奎星の隣には。
日向がいる。
楓がいる。
岳がいる。
伊織がいる。
振り返れば、教師たちもいる。
スズメもいる。
今はまだ。
みんな、ここにいる。
けれど。
来年の春。
あの扉をくぐるのは、自分たちだ。
一年なんて長いと思っていた。
けれど、きっと。
今日までと同じように。
笑って。
怒られて。
失敗して。
誰かを好きになって。
何かを守って。
また新しいことを覚えているうちに。
あっという間に、その日は来る。
奎星は開いた扉の向こうを見つめた。
眩しい春の光の中。
遠く。
冬真が一度だけ振り返ったような気がした。
けれど、もう遠すぎて。
本当にこちらを見たのかは分からなかった。
それでよかった。
また会える。
次は勝つ。
約束もした。
だから。
さよならではない。
それでも。
少しだけ寂しかった。
その寂しささえ。
いつか思い出になるのだろう。
春が来る。
誰かが去り。
誰かが残り。
そして、残った者にも。
いつか必ず、自分の番が来る。
マホウトコロの大講堂に、最後の拍手の余韻が静かに消えていった。
蓮根奎星の、最後の一年が始まろうとしていた。
マホウトコロ シーズン5 「夢盗りと硝子の記憶」 完