第1話 十八歳
三年生になった。
そう聞けば、何かが大きく変わったように思える。最終学年になり、授業の内容は難しくなり、卒業後の進路を考えなければならない。周囲の大人たちも、以前より少しだけ真剣な顔でこちらを見るようになった。
けれど、蓮根奎星の毎日は、相変わらずだった。
午前四時五十九分。
男子寮の部屋は、まだ夜の名残を残していた。窓の外は暗く、遠くから聞こえる波の音だけが、薄い壁を通してかすかに響いている。
日向は布団を蹴飛ばし、半分ほど床へ落ちていた。伊織は枕元に本を置いたまま、規則正しい寝息を立てている。岳に至っては、何が起きても目を覚まさない。以前、寮の廊下で大きな爆発音がしたときでさえ、寝返りを打っただけだった。
そして午前五時。
奎星の左腕で、銀色の腕時計が淡く光った。
「…………」
目を開けた奎星は、しばらく天井を見つめた。
「…………死ぬ」
それが、三年生になって最初の朝の第一声だった。
二年生の二学期、御影との朝練は五時半から始まっていた。それでも十分に早かったというのに、三年生になった途端、集合時間は五時になった。
理由を訊いた奎星に、御影は一言だけ答えた。
――最終学年だからだ。
最終学年になると、地球の自転が三十分早くなるわけではない。奎星はそう思ったが、御影に言ってもどうせ「言い訳するな」と返されるだけなので、黙っていた。
「行きたくねえ……」
布団の中から左腕だけを出し、時計を確認する。五時一分。あと四分くらいなら、まだ寝ていても問題ないのではないか。そんな考えが頭をよぎった、その瞬間だった。
部屋の外から、低い声が響いた。
「蓮根」
「起きてます!!」
反射的に身体が跳ね上がる。
日向が布団の中でもぞりと動いた。
「……うるせえ……」
「御影先生いる!」
「じゃあ静かに死んでこい……」
「友達に言う言葉か!?」、
伊織が布団を頭まで被ったまま、眠そうな声を出す。
「五時だよ」
「知ってる!」
岳だけは起きなかった。奎星が叫んでも、日向が騒いでも、伊織が淡々と時刻を告げても、まるで別の世界にいるように眠り続けている。
奎星は急いで訓練着へ着替え、腰に神代榊を差した。寝癖を直す暇もなく扉を開けると、廊下には御影玄一郎が腕を組んで立っていた。
「一分遅い」
「時計ではまだ五時二分!」
「集合は五時だ」
「じゃあ二分だろ!」
「走るぞ」
「聞いて!」
御影はもう歩き始めていた。奎星は慌ててその背中を追いかける。
三年生。最終学年。初夏。
それでも、今日も一日は、いつも通りに始まった。
*
午前六時十二分。
訓練場には、朝の冷たい空気が残っていた。海から吹きつける風が、奎星の汗ばんだ頬を撫でていく。
「プロテゴ!」
透明な盾が現れ、御影の放った赤い閃光を弾いた。奎星はその勢いを利用して身体を左へ流し、すぐさま杖を振る。
「エクスペリアームス!」
赤い光が御影へ向かって飛ぶ。
しかし、御影は盾すら出さなかった。身体を半歩引いただけで呪文を避け、そのまま奎星の懐へ入り込む。
「遅い」
「うおっ!?」
足元を払われ、奎星の身体が地面へ転がった。
「痛っ!」
御影が見下ろす。
「防御から反撃へ移るまでが遅い」
「一秒もなかっただろ!」
「長い」
「御影先生の一秒、どうなってんだよ!」
「立て」
「はい!」
文句を言いながら立ち上がり、奎星は神代榊を握り直した。
二年生になったばかりの頃と比べれば、できることは確実に増えている。魔法を覚えてまだ数か月だった頃には、呪文を一つ使うだけで精一杯だった。それが今では、防御から攻撃へ移り、姿をくらまし、守護霊を呼び出し、古代魔術にまで手を伸ばしている。
学校を救った。
日本を救った。
神代冥司とも戦った。
記憶を盗む魔法使いとも戦った。
それでも、御影玄一郎の朝練では、奎星は何度でも地面へ転がされる。
「遅い」
「また!?」
英雄も、朝五時の訓練場では、ただの生徒だった。
*
朝食の時間。
大食堂へ入るなり、奎星は空いている席へ倒れ込んだ。
「腹減った……」
その向かいに岳が座る。すでに白米、味噌汁、焼き魚、出汁巻き卵、煮物が並んでいた。さらに、なぜかうどんが二杯ある。
「朝練?」
「うん」
「大変だな」
「お前さ」
奎星は顔を上げ、岳の前に並んだ料理を見た。
「何で朝からうどん二杯あんの?」
「一杯じゃ足りない」
「理由になってねえ!」
そこへ、髪を跳ねさせた日向がやってきた。
「お前、五時に騒ぐのやめろよ」
「俺じゃねえ! 御影先生だ!」
「先生は騒いでねえだろ」
「存在が朝早いんだよ!」
「何それ」
後ろから楓が呆れた顔で現れた。
「朝からうるさい」
「ほら!」
奎星は日向を指差した。
「楓が怒った!」
「お前にも言ってるの!」
「何で俺!?」
最後に伊織が席へ着き、本を開いた。朝食を食べながら本を読むのは、もう誰も注意しなくなっている。
日向が本を覗き込んだ。
「朝から何読んでんの?」
「職業案内」
奎星の箸が止まった。
「……何それ」
伊織は本の表紙を見せた。
《魔法社会 進路・職業総覧 二〇二七年度版》
奎星は数秒間、その題名を見つめた。
「朝飯に合わねえ」
「本を献立で選んだことないからね」
楓が伊織の本を覗き込み、少し感心したように言った。
「もう調べてるの?」
「一応ね。三年だし」
その言葉に、奎星の手がわずかに止まった。
三年生。
最終学年。
その響きが、今さらながら胸の奥へ落ちてくる。
けれど、岳が二杯目のうどんへ卵を落とした瞬間、奎星の意識はそちらへ引っ張られた。
「それうまそう」
「食う?」
「食う!」
「俺の」
「じゃあ訊くなよ!」
日向が笑い、楓が呆れ、伊織は本へ戻る。岳はうどんを食べ、奎星は横から卵だけを奪おうとして箸を叩かれた。
いつも通りだった。
本当に、何も変わっていなかった。
*
三年二組の教室。
担任の土御門芽衣子が教壇に立ち、いつもの穏やかな笑顔で生徒たちを見渡していた。
「おはようございます」
「先生、変わんなかったな」
奎星が机へ肘をつきながら呟くと、前の席の日向が振り返った。
「何だよ。不満?」
「いや。むしろ安心」
「分かる」
二人が同時に頷いた。
土御門がこちらを見る。
「何か?」
「先生がまた担任で嬉しいです!」
返事まで揃った。
楓が小声で言う。
「三年になっても、全然変わってないわね」
伊織が淡々と答えた。
「二人とも成長する気がないから」
「あるわ!」
「俺も!」
そのとき、窓際から小さな咀嚼音が聞こえた。
楓が振り返る。
「岳」
「何」
「授業前よ」
「知ってる」
「それ何?」
「羊羹」
「朝ご飯を食べたばかりよね?」
「これは間食」
「まだ八時半よ」
「朝食と昼食の間だから間食」
伊織が眼鏡を押し上げた。
「理論だけは完璧だね」
「だろ」
「褒めてない」
昼休みになれば、日向が一番に教室を飛び出し、岳はそれより速く大食堂へ向かう。楓が二人を止めようとし、伊織がその後ろを歩き、奎星は笑いながら全員についていく。
放課後になれば、四人は部活動や自習、寮へ戻るためにそれぞれ動き出す。
そして奎星だけは、魔法史研究室へ向かった。
*
「スズメちゃん!」
「烏丸先生です」
「三年生になったぞ!」
「存じています」
「ということは、補習も卒業?」
「しません」
「何で!?」
「あなたが一年分遅れているからです」
「去年めっちゃやったじゃん!」
「だから二年分ほど縮まりました」
「まだあんの!?」
「あります」
「三年生だぞ、俺!」
「学年は免罪符ではありません」
「英雄だぞ、俺!」
「それも免罪符ではありません」
「学校救った!」
「はい」
「日本も救った!」
「はい」
「神代倒した!」
「皆さんで、です」
「俺、すごくね!?」
「すごいですね」
「じゃあ!」
「教科書を開いてください」
「繋がらねえ!」
スズメは、ほんの少しだけ笑った。
奎星は文句を言いながら椅子へ座る。机の上には、魔法史の教科書と、赤い羽根の筆。左腕には、クリスマスにスズメから贈られた銀色の腕時計。鞄には、あの日交換した星灯石のキーホルダーが揺れている。
変わったものは、たくさんあった。
奎星自身も、以前とは比べものにならないほど多くのものを背負っている。けれど、こうしてスズメの前で補習を受け、文句を言い、怒られ、また教科書を開く時間だけは、何も変わっていないように思えた。
*
二〇二七年五月二十八日。
その日の朝、奎星は自分の机の上に置かれた封筒を見つけ、首を傾げた。
御影との朝練から戻ったばかりで、日向はまだ着替えの途中だった。伊織はベッドを整え、岳はすでに朝食へ向かう準備をしている。
机の中央に置かれた白い封筒には、見慣れた字で《奎星へ》と書かれていた。一般社会の郵便物を、魔法便で学校まで届けたものらしい。
「母さん?」
裏返すと、父親の名前もある。
「何で手紙?」
日向が振り返った。
「家から?」
「うん」
「何かあった?」
「電話じゃ駄目だったのかな」
伊織が何気なく言った。
「今日だからじゃない?」
「今日?」
奎星は壁の暦を見た。
五月二十八日。
そこで、ようやく気づいた。
「あ」
岳が振り向く。
「何」
奎星は自分を指差した。
「俺、誕生日じゃん」
三人が一斉に止まった。
日向が目を丸くする。
「忘れてたの!?」
「いや!」
「今、絶対忘れてた顔だったよ」
伊織が淡々と指摘する。
「一年に一度しかないから、仕方ないんじゃない?」
「それ、全員そうだろ!」
岳だけは、別のことに思い至ったらしい。
「誕生日」
「うん」
「今日」
「うん」
「夕飯」
奎星が嫌な予感を覚える。
岳の目が、ゆっくりと輝いた。
「ディナーだ」
「俺の誕生日より飯!?」
マホウトコロでは、誕生日を迎えた生徒がいる日、夕食の前にその生徒の名前が呼ばれる。全員が拍手をし、本人の席には特別なケーキが運ばれてくる。
岳は、自分の誕生日でなくても、その時間を誰より楽しみにしていた。
「ケーキ何味だろ」
「俺のケーキはお前にゃ食わせねえぞ」
「一口」
「嫌だ」
「端っこ」
「嫌だ!」
「苺だけ」
「もっと嫌だ!」
奎星は笑いながら封筒を開いた。
日向が横から覗こうとする。
「見るなよ!」
「いいじゃん」
「家族の手紙!」
「じゃ見ねえよ」
日向は素直に引いた。伊織も本へ戻る。岳だけは、まだケーキの味を想像している顔をしていた。
奎星は便箋を開いた。
――奎星へ。
――十八歳のお誕生日、おめでとう。
まず最初に。
十八年間、元気に育ってくれてありがとう。
去年の今頃は、お母さんもお父さんも、まさか一年後のあなたが魔法学校で暮らしているなんて思ってもいませんでした。
魔法使いになって。知らない島へ行って。新しい友達ができて。先生にたくさん怒られて。ものすごく危ない目にも遭って。学校を救ったとか、日本を救ったとか、今でも聞いていてよく分からないことまでして。
あなたが家へ帰ってくるたび、私たちの知らない話が増えていきます。
それを少し寂しいと思うこともあります。けれど、それ以上に、あなたが自分の世界を広げていることを嬉しく思っています。
でもね、奎星。
どれだけ有名になっても。どれだけすごい魔法を使えるようになっても。誰かに英雄って呼ばれるようになっても。
お母さんとお父さんにとっては、冷蔵庫の麦茶を一口だけ残して戻すし、靴下を裏返したまま洗濯機へ入れるし、久しぶりに家へ帰ってきたと思ったら昼まで寝ている、あの奎星です。
そして、それでいいと思っています。
何になってもいいです。何になるか、まだ決まっていなくてもいいです。
立派な魔法使いになっても。魔法とは全然違う道へ進んでも。迷っても。遠回りしても。
最後に、自分で選んでくれれば。それで十分です。
十八年前、あなたが生まれた日。お母さんとお父さんが一番嬉しかったのは、すごい人間が生まれたからではありません。
奎星が生まれたからです。
これからも、それだけは変わりません。
誕生日おめでとう。また休みに帰ってきたら、好きなものをいっぱい食べさせます。
母より。
追伸。
海賊だけはやめてください。
父より。
「…………」
奎星は、最後の一行を見つめたまま、しばらく動かなかった。
やがて、顔をしかめる。
「父さんは相変わらずやかましいな!」
日向が吹き出した。
「何て書いてあったんだよ?」
「海賊やめろって!」
伊織が本から顔を上げる。
「正しい」
「何でだよ!」
「犯罪者だから」
「夢がねえな!」
「海賊のどこに進路としての夢を見てるの?」
「自由!」
「法律も自由に破るけどね」
「父さんと同じこと言うなよ!」
笑いながら言い返したものの、奎星はもう一度、手紙へ目を落とした。
十八年間、元気に育ってくれてありがとう。
すごい人間が生まれたからではない。
奎星が生まれたから。
その言葉が、胸の奥へ静かに染み込んでいく。
去年の誕生日、奎星は十七歳だった。普通の高校生で、将来のことなど何も考えていなかった。進路希望調査の第一志望には海賊、第二志望は未定、第三志望には「なんとかなる」と書いた。
その夜、物が飛んだ。
翌日、鴉が来た。
そして奎星は、魔法使いになった。
それから一年。死の呪文、古代魔術、鬼火鳥、黒曜の門、神代冥司。学校を奪われ、取り戻し、誰かの記憶を救うために戦った。
自分の世界は、確かに広くなった。
だからこそ、ふと考えてしまう。
「……何になんだろ、俺」
ぽつりとこぼれた言葉に、日向たちが顔を上げた。
奎星は慌てて手紙を畳む。
「いや、何でもねえ」
少し笑ってみせた。
そのとき、朝食の鐘が鳴った。
岳が立ち上がる。
「行くぞ」
「早っ!」
「今日は奎星の誕生日」
「だから?」
「いっぱい食う」
「なんで?」
四人は、いつものように部屋を出た。
*
朝のホームルーム。
土御門が紙束を持って教壇へ立った瞬間、奎星は嫌な予感を覚えた。
「皆さん」
土御門は、いつもの柔らかな笑顔を浮かべている。
「三年生になって、もうすぐ二か月ですね」
日向が小声で言った。
「その前置き、嫌だな」
「分かる」
奎星も頷く。
土御門は一枚の紙を持ち上げた。
「最終学年ですから、そろそろ卒業後のことについても、少しずつ考えていきましょう」
紙が前の席から後ろへ回され、奎星の机へ置かれる。
大きな文字で、こう書かれていた。
《進路希望調査》
「…………」
一年前の記憶が蘇る。
一般社会。十七歳。誕生日。担任。進路希望調査。第一志望、海賊。
奎星の顔が、ゆっくりと引きつった。
「うわぁ……」
楓が振り返る。
「何?」
「苦い思い出が」
伊織が隣から紙を覗き込んだ。
「海賊?」
奎星が勢いよく顔を上げる。
「何で知ってんの!?」
「君、何回か話してるよ」
「マジ!?」
日向が吹き出した。
「俺も知ってる」
岳も頷く。
「俺も」
「全員知ってんの!?」
土御門が首を傾げた。
「蓮根君は、以前何と書いたのです?」
「秘密です!」
「海賊」
伊織が即答した。
「伊織ぃぃ!!」
教室が笑いに包まれる。土御門も少しだけ目を丸くしたあと、口元を緩めた。
「海賊ですか」
「昔の俺です!」
「一年前ですね」
「昔!」
「かなり最近ですね」
「先生まで!」
土御門は笑いを収めると、教室全体を見渡した。
「今日、無理に書いて提出する必要はありません」
奎星の手が止まる。
「え?」
「まだ迷っている人もいるでしょう。何をしたいのか分からない人も、やりたいことが多すぎて一つに絞れない人もいると思います」
何人かの生徒が、進路希望調査へ視線を落とした。
「ただ、考えておくことは大切です」
土御門の声は、いつものように穏やかだった。
「進路は、今ここで完璧な正解を決めるためのものではありません。自分が何に興味を持っていて、何を大切にしているのか。それを考えるきっかけにしてください」
その言葉を聞いた瞬間、奎星は卒業式の日のことを思い出した。
――自分の未来は、自分次第です。
――まだ、自分が何者なのか分からない人もいると思います。
――そっちのほうが普通だと思う。
奎星は進路希望調査へ目を落とした。
今度は、海賊とは書かなかった。
*
昼休み。
五人は大食堂の隅の席に集まっていた。机の上には、書きかけの進路希望調査が五枚並んでいる。
奎星が岳の紙を覗き込み、目を止めた。
「…………え」
岳は焼き魚を食べている。
奎星は、もう一度紙を見た。
第一希望。
魔法動物学者。
「岳」
「何」
「決まってんの!?」
「大体」
奎星の声が大きくなる。
「マジ!?」
周囲の生徒が何人か振り返ったが、岳は気にせず魚を食べ続けている。
「魔法動物の研究やりたい」
奎星は、素直に驚いた。
「いつから?」
「前から」
そう言われれば、思い当たることはいくつもあった。
弱った鬼火鳥を、誰より慎重に抱いていたこと。飼育棟へ通い、餌をやり、群れへ返すまで何度も様子を見ていたこと。魔法生物飼育学の鷹司から、弱っている魔法生物ほど他人を信用しない、お前が上手いのだと言われていたこと。
岳は照れた様子もなく、淡々と続けた。
「ニュート・スキャマンダーが好きだから」
奎星の目が輝く。
「知ってる! 魔法動物の人!」
伊織が顔を上げた。
「ちゃんと知ってるんだ」
「俺を何だと思ってんだよ!」
「魔法法規六十一点」
「何年前の話してんの!?」
「一年経ってない」
「細けえ!」
岳は、少しだけ遠くを見るように言った。
「世界中の魔法動物を見たい。まだ知られてないのも」
奎星は岳を見つめた。
普段は飯を食べ、また飯を食べ、時々戦い、戦いが終わればまた飯を食べる。そんな岳が、自分の未来を口にしている。
「……いいじゃん」
思わず、素直な言葉が出た。
岳が奎星を見る。
「そう?」
「めっちゃいい!」
奎星は身を乗り出した。
「世界を回るんだろ!? ドラゴンとか見るのか?」
「見る」
「鬼火鳥も?」
「また会いたい」
「俺も連れてって!」
「嫌だ」
「何で!?」
「うるさい」
「友達!」
「魔法動物が逃げる」
「俺を何だと思ってんだよ!」
日向が横から口を挟んだ。
「じゃあ俺は、クィディッチ関係かなー」
奎星がすぐに振り返る。
「プロ?」
「まだ分かんねえよ」
「なれよ!」
「何でお前が決めるんだよ!」
「日向ならいけるだろ! 得点王!」
日向の口元が緩む。
「まあな」
楓が即座に言った。
「調子に乗らない」
「一秒くらい乗らせろよ!」
「もう一秒は乗ったでしょ」
伊織が淡々と続ける。
「今ので終わり」
「短え!」
楓は、魔法省の仕事や学校に残る道、一般社会と魔法社会を繋ぐ仕事など、いくつかの可能性を調べているらしい。まだ一つには決めていないが、自分が何をしたいのかを考えるための材料は集めている。
伊織も、研究や記録、魔法理論に関わる仕事を中心に調べていた。
みんな、完全に進路を決めたわけではない。
それでも、道の方角くらいは見えている。
奎星は自分の紙を見た。
第一希望、空欄。
第二希望、空欄。
第三希望、空欄。
日向が覗き込む。
「お前は?」
奎星は慌てて紙を隠した。
「個人情報!」
伊織が静かに言う。
「真っ白じゃん」
「見るなよ!」
楓が訊いた。
「やりたいこと、ないの?」
「なくはない」
「じゃあ何?」
「いっぱいあんだよ」
それは本当だった。
禍祓官は格好いい。御影や真壁、斎賀、倉橋たちのように、危険な場所へ行って人を助ける仕事には憧れる。
教師も、まったく考えていないわけではない。スズメや御影、土御門のように、自分が知っていることを誰かへ教えるのは、案外面白いかもしれない。
古代魔術も、もっと知りたい。蓮根家のこと、鬼火鳥のこと、神代榊のこと、霊脈のこと。まだ知らないことは、いくらでもある。
魔法省も、海外も、冬真が向かう世界も、全部面白そうだった。
だからこそ、一つに決められない。
「……選べねえ」
奎星が困ったように笑うと、伊織はいつもの調子で言った。
「別に、今決めなくていいんじゃない?」
奎星が顔を上げる。
「土御門先生もそう言ってたし」
楓も頷いた。
「でも、調べるくらいはしたほうがいいわよ」
日向が言う。
「じゃあ全部やれば?」
楓が睨む。
「雑」
「でも奎星なら、途中まで本気で言い出しそう」
伊織も頷いた。
岳が食事を続けながら、ぽつりと言う。
「海賊以外」
「お前まで!?」
五人の笑い声が、大食堂の隅に広がった。
奎星も、最後には笑っていた。
*
放課後。
魔法史研究室。
机の上には、進路希望調査が置かれていた。奎星はそれを眺めながら、向かい側で答案を確認しているスズメへ声をかける。
「スズメちゃん」
「烏丸先生です」
「将来って、どうやって決めた?」
スズメの筆が止まった。
「急ですね」
「今日、進路希望調査が来た」
「ああ」
スズメは納得したように頷いた。
「三年生ですものね」
「何かおすすめある?」
「ありません」
「冷た!」
「あなたの進路でしょう」
「先生目線で!」
「だからこそです」
スズメは少し考えた。
「向いている仕事なら、いくつか思いつきます」
奎星の目が輝く。
「マジ!?」
「ですが、それを私が決めるべきではありません」
「ヒント!」
「自分で考えてください」
「一個!」
「嫌です」
「スズメちゃーん」
「補習を始めます」
「今日、誕生日!」
スズメが、ほんの一瞬だけ止まった。
奎星はその変化に気づかない。
「誕生日なんだぞ!」
「知っています」
「じゃあ今日くらい――」
「三頁増やします」
「何で!?」
「誕生日だからです」
「祝い方おかしいって!」
スズメは小さく笑った。
奎星はその笑顔を見て、何を言おうとしたのか忘れた。結局、いつものように文句を言いながら椅子へ座り、教科書を開いた。
*
夕方。
大食堂では、夕食が始まる直前まで、いつものように騒がしい声が飛び交っていた。
奎星の周りには、日向、楓、岳、伊織が座っている。机の上には料理が並び、岳だけはすでに箸を握っていた。
「まだだぞ」
奎星が言う。
「分かってる」
「今、食おうとしてたじゃん」
「持ってるだけ」
「魚掴んでるけど」
「持ってるだけ」
「箸で口まで運んでるぞ!」
そのとき、大食堂の前方で九重院紫苑が杖を軽く振った。
ちりん、と小さな音が響く。
ざわめきが少しずつ収まり、大食堂全体が静かになった。
九重院は穏やかな笑顔で、生徒たちを見渡す。
「皆さん。夕食の前に、一つだけお知らせがあります」
奎星が岳を見る。
岳も奎星を見る。
「来た」
「お前が嬉しそうにするな」
九重院が続けた。
「本日、五月二十八日は――」
一拍置いて。
「上級課程三年、蓮根奎星君の十八歳のお誕生日です」
大食堂が、一斉に拍手に包まれた。
「おおおお!」
「蓮根ー!」
「誕生日おめでとう!」
どこからか口笛まで飛ぶ。
教師席では、御影が腕を組み、土御門や高宮、薬師寺も拍手をしていた。その少し横で、烏丸スズメも静かに手を叩いている。
奎星と目が合った。
スズメは、ほんの少しだけ笑った。
その瞬間、大食堂の厨房側から、小さな足音が聞こえてきた。
ぺた、ぺた。
天ぷらが、大きな皿を抱えて歩いてくる。皿の中央には、白い生クリームと果物で飾られたケーキが載っていた。蝋燭は十八本。数字の形をした飾りも添えられている。
「天ぷら!」
「タンジョービ!」
「お前、覚えてたの!?」
「オボエテル!」
天ぷらは奎星の前へケーキを置いた。
拍手が続く。
奎星は、いても立ってもいられなくなり、勢いよく立ち上がった。
「みんなありがとー!!」
大食堂から笑い声が上がる。
「十八歳になりましたー!」
さらに拍手が大きくなる。
奎星は、そこでやめておけばよかった。
「今年は死にかけないようにします!!」
瞬間、ものすごく鋭い視線を感じた。
教師席の御影玄一郎が、奎星を見ていた。
その目が、怖い。
ものすごく怖い。
奎星の顔から笑みが消え、静かに席へ座る。
「なんでもないで〜す」
大食堂が爆笑に包まれた。
スズメは笑っていいのか怒るべきなのか分からず、困ったような顔をしていたが、結局、ほんの少しだけ笑った。
*
夕食後。
回廊には、寮へ戻る生徒たちの足音が響いていた。
奎星は日向たちと途中まで一緒に歩いていたが、教師席のある方向へ視線を向けた。
「先帰ってて!」
日向が振り返る。
「何すんの?」
「散歩!」
伊織が奎星を見る。
「教師席の方向を見ながら?」
「散歩!」
「そう」
「何その顔!」
楓が日向の背中を押した。
「行くわよ」
岳は、結局誕生日ケーキを一口も貰えなかったことを少し残念そうにしている。
「明日、何か食わせろ」
「何でだよ!」
四人と別れた奎星は、少し先にスズメの姿を見つけた。
スズメは大量の資料を両腕で抱えていた。古い本、書類、巻物。小柄な身体に対して、どう考えても多すぎる量だった。
「スズメちゃん」
「はい」
「それ、重くない?」
「大丈夫です」
「持つよ」
「結構です」
「いいから」
「蓮根君」
スズメが一歩進んだ瞬間、腕の中の荷物が急に軽くなった。
「……?」
見ると、資料の半分以上が消えている。
いや、消えたのではない。
隣に立った奎星が、いつの間にか持っていた。
「スズメちゃん、そんなんじゃ潰れちゃうよ」
「潰れません」
「ちっちゃいのに」
「関係ありません」
「百五十五くらいだろ?」
「荷物を返してください」
「嫌だね」
「では、落とさないでください」
「任せろ!」
「その返事が一番不安です」
二人は並んで歩き始めた。
初夏の夕暮れ。海の向こうへ沈みかけた太陽が、回廊の床を橙色に染めている。奎星は上機嫌だった。
十八歳になった。
朝から御影に転ばされ、進路希望調査を配られ、将来のことを考え、夕食では全校生徒に祝われた。そして今は、スズメの荷物を持っている。
ふと、奎星は思い出したように声を上げた。
「てか、スズメちゃん!」
「何です?」
「俺、誕生日なんだけど!」
スズメは、あまりにも普通に答えた。
「知っています」
「スズメちゃん?」
「先ほど祝ってもらったでしょう?」
奎星の顔から、ゆっくりと笑みが消えた。
「…………」
歩く速度まで落ちる。
スズメが横目で見ると、奎星は分かりやすいほど悲しそうな顔をしていた。
学校を救った。
日本を救った。
異常な魔力量を持ち、古代魔術を使い、強い守護霊を呼び出し、魔法省でも名前を知られている。
英雄。
それなのに、自分から誕生日プレゼントを貰えないと思っただけで、捨てられた犬のような顔をしている。
スズメは、思わず目を細めた。
以前なら、呆れて終わっていた。
馬鹿ですね。
子どもですか。
そう思って、それ以上は考えなかった。
けれど今は違う。
こういうところまで、全部可愛いと思ってしまう。
笑う顔も、怒られて口を尖らせるところも、分からない問題で机へ突っ伏すところも、自慢するときに少しだけ胸を張るところも、自分が選んだ時計を今も毎日つけているところも。
そして今の、どうしようもなく悲しそうな顔も。
もちろん、本人には絶対に言わない。
スズメは魔法史研究室の扉の前で立ち止まった。
「冗談です」
奎星が顔を上げる。
「…………え?」
スズメは、少しだけ笑った。
「入りましょう」
扉を開ける。
奎星は一瞬、動きを止めた。
「今、笑った?」
「笑っていません」
「笑った!」
「荷物を置いてください」
「絶対笑ったって!」
「早く」
「はい!」
研究室へ入り、二人はそれぞれ資料を机へ置いた。
スズメは机の横にある引き出しを開ける。
「蓮根君」
「ん?」
小さな細長い包みを取り出し、奎星へ差し出した。
「はい」
奎星の動きが止まる。
「…………俺?」
「他に誰がいるのです?」
「開けていい!?」
「そのために渡しました」
奎星は急いで包装を開いた。
中から現れたのは、濃紺の革で作られた細長い杖入れだった。銀色の留め具がついており、腰にも鞄にも固定できるようになっている。
「……杖入れ?」
「はい」
神代榊を収納するための、新しい杖入れ。
以前使っていたものは、訓練や戦闘、黒曜の門、常隠島、星帰り、群馬と、あまりにも多くの場所へ持ち出したせいで、かなり傷んでいた。
奎星は、濃紺の杖入れを両手で持ったまま、目を輝かせた。
「うおおおお!!」
「声」
「これ、スズメちゃんが選んだ!?」
「そうです」
「俺のために!?」
「あなたの誕生日ですから」
「マジ!?」
「何回訊くのです?」
奎星はすぐに、今使っていた杖入れから神代榊を抜き、新しい杖入れへ収めた。
ぴたりと収まる。
「うわ!」
腰へ装着し、二歩ほど歩いてから振り返った。
「どう!?」
「似合っていますよ」
「よっしゃ!!」
奎星は左腕の時計を見て、ポケットから星灯石のキーホルダーを取り出し、最後に腰の杖入れを叩いた。
「スズメちゃん!」
「はい」
「腕時計も!」
左腕を見せる。
「はい」
「キーホルダーも!」
星灯石を掲げる。
「それは交換したものでしょう」
「スズメちゃんの!」
「まあ……そうですね」
「杖入れも!」
腰を叩く。
「はい」
奎星は満面の笑みを浮かべた。
「全部スズメちゃんの!!」
スズメは、しばらく黙っていた。
何の自慢なのだろう。
誰に、何を誇っているのだろう。
まったく意味が分からない。
けれど、奎星は本当に嬉しそうだった。心の底から、贈り物を喜んでいる。
スズメは、また困った。
可愛い。
「……そうですか」
それだけを返す。
「うん!」
奎星は新しい杖入れを眺めながら言った。
「めっちゃ大事にする!」
「道具ですから、使ってください」
「大事に使う!」
「なら結構です」
「ありがと、スズメちゃん!」
その声は、クリスマスに腕時計を渡したときと同じだった。
嬉しいなら嬉しい。
ありがとうならありがとう。
何一つ隠さず、全部そのまま伝える。
スズメは、ほんの少しだけ目を細めた。
「……どういたしまして」
夕暮れの研究室には、海からの風が入り込んでいた。
去年の五月二十八日、この少年はまだ自分の存在すら知らなかった。
それから一年。
本当に、いろいろなことがあった。
「じゃ!」
奎星が扉へ向かう。
「みんなに自慢してくる!」
「何をです?」
「杖入れ!」
「自慢するほどのものでは――」
扉を開ける。
「めっちゃ自慢する!」
「蓮根君」
「ありがとー!」
奎星は走っていった。
「廊下を走らない!」
「はーい!」
返事だけが、廊下の向こうへ遠ざかっていく。
スズメは一人になった研究室で、しばらく開いた扉を見つめていた。
やがて、小さく笑う。
「……十八歳か」
本人が聞けば、また「何?」とすぐに戻ってくる気がした。
だからスズメは、それ以上何も言わなかった。
*
男子寮の扉が、勢いよく開いた。
「見ろ!!」
日向が振り返る。
「うるさ!」
伊織は読書中で、岳は何かを食べている。
いつもの部屋。
奎星は腰を指差した。
「これ!」
日向が見る。
「何?」
「杖入れ!」
「見れば分かる」
「新しい!」
「それも分かる」
「誰からでしょう!」
日向の顔が、一瞬で面倒そうになった。
「烏丸先生」
「正解!!」
「クイズにする意味あった?」
伊織が訊く。
奎星は聞いていない。
杖入れ、時計、星灯石。三つを机の上へ並べる。
「見て!」
日向が「あー」と言い、伊織が「うん」と頷き、岳は食べながら「増えたな」と呟いた。
奎星は満足そうに胸を張る。
「全部スズメちゃんの」
伊織が訂正した。
「キーホルダーは交換したやつだよ」
「元はスズメちゃんの!」
「まあ」
「時計!」
「烏丸先生」
「杖入れ!」
「烏丸先生」
「俺!」
伊織が止まった。
「……何?」
「いや、何でもない」
「何だよ!」
日向が腹を抱えて笑い出す。
「お前、今、自分まで並べようとしただろ!」
「してねえよ!」
「した!」
「してねえ!」
岳は興味を失い、また菓子を食べ始めた。
しばらくの間、奎星は日向と揉め、伊織に煽られ、岳の菓子を一つ取って怒られた。
その騒ぎの途中、奎星はベッドへ倒れ込んだ。
左腕には時計。
腰には杖入れ。
手の中には星灯石。
「……誕生日かぁ」
日向が訊く。
「何?」
「いや」
奎星は天井を見上げた。
「十八歳」
一般社会なら、高校三年生。大学、就職、進路。そういう言葉が、いよいよ現実味を持って近づいてくる年齢だ。
けれど今日の奎星は、朝五時に起きて魔法を撃ち、友達と飯を食い、進路希望調査を真っ白なまま持ち帰り、全校生徒に祝われ、好きな人から杖入れを貰った。
何になるのかは、まだ分からない。
けれど、母親の手紙にはこう書いてあった。
――何になってもいいです。
――何になるか、まだ決まっていなくてもいいです。
――最後に、自分で選んでくれれば。
そして父親は。
――海賊だけはやめてください。
「…………」
奎星が笑った。
「やっぱ父さん、うるせえな」
「まだ言ってんの?」
日向が笑う。
奎星は星灯石を指先でくるりと回した。
ふと、思いついたように口を開く。
「そういや」
三人が見る。
「スズメちゃんの誕生日って、いつなのかな〜」
本当に、何気ない一言だった。
日向も首を傾げる。
「そういや知らねえ」
岳も食べながら言った。
「俺も」
奎星は天井を見た。
「今度訊くかー」
伊織が本から目を上げずに言った。
「明々後日だよ」
「…………」
奎星の指から、星灯石が落ちた。
ぽす、と布団の上に転がる。
一秒。
二秒。
三秒。
奎星はゆっくりと起き上がり、伊織を見る。
「…………何が?」
伊織も奎星を見る。
「烏丸先生の誕生日」
「…………」
「五月三十一日」
「…………」
日向が奎星を見る。
岳も奎星を見る。
今日、学校中に祝われ、家族から手紙を貰い、ケーキを食べ、好きな人から杖入れまで贈られた十八歳の少年は、自分がその好きな人の誕生日を何も知らないまま、あと三日まで迫らせていたことを初めて知った。
「な、なんだとぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!?」
男子寮へ、奎星の絶叫が響き渡る。
廊下の向こうから、誰かが叫び返した。
「うるさい!」
日向は腹を抱えて笑い、伊織は静かに本へ戻る。岳は菓子を食べながら、ぽつりと言った。
「三日しかないな」
「言うなぁぁぁぁぁ!!」
十八歳。
蓮根奎星。
進路、未定。
将来、未定。
けれど、烏丸スズメへの誕生日プレゼントだけは、今すぐ決めなければならなくなった。