第1話 十八歳
二〇二七年五月二十八日。
蓮根奎星は、十八歳になった。
本人は、そのことを忘れていた。
午前四時五十分。
男子寮の四人部屋に、目覚まし時計の電子音がけたたましく鳴り響いた。まだ夜の底にいるような部屋の中で、その音だけが場違いなほど明るく、規則正しく、眠りの膜を乱暴に引き裂いていく。
暗闇の中で最初に動いたのは奎星ではなく、布団から伸びた日向の足だった。何かを追い払うように一度だけ宙を蹴り、それから力なく落ちる。岳は壁側を向いたまま微動だにせず、伊織は頭まで布団を被っている。
窓の向こうにはまだ夜の色が残っていた。春も終わりに近づいた南硫黄島は夜明けが早いとはいえ、海と空の境目がようやく薄青くほどけ始めた程度で、校舎の輪郭も、遠くの木々の影も、まだ眠りの中に沈んでいた。
電子音は鳴り続ける。
枕元で震える時計へ、布団の中から手が伸びた。指先が探り当てた停止ボタンを押し、一度は音を止める。部屋に静けさが戻ったのも束の間、二秒後にはまた同じ音が鳴り始めた。
「…………」
奎星の眉間に深い皺が寄った。
三度目の電子音が、薄暗い部屋の空気を細かく震わせる。
「うるっせえ……」
声だけは起きた。
身体は起きない。
四度目の音が鳴ったとき、奎星はようやく勢いよく上半身を起こした。髪はあり得ない方向へ跳ね、目は半分しか開いていない。
左腕へ巻いた銀色の腕時計をぼんやりと見る。表示は四時五十分七秒。
「……何でこんな時間に起きてんだ俺」
自分で設定した。
そこまで思い出すのに、さらに三秒かかった。
「あ」
御影。
「やべっ」
そこからは速かった。
布団を蹴り飛ばし、寝間着を脱ぎ、訓練着を探す。昨日脱いだまま椅子へ掛けたと思ったのに見当たらない。床を見る。ない。ベッドの下を見る。
「あった」
「……うるせえ……」
日向の声が、隣の布団から聞こえた。
「遅れると走らされんだよ!」
「知らねえよ……」
「俺だって寝てえよ!」
「じゃ寝ろよ……」
「もっと走らされんだろ!」
「じゃ行けよ……」
「行ってくる!」
「報告いらねえ……」
日向は最後まで顔を出さなかった。
奎星は神代榊を腰へ差し、片方だけ靴下を履いたところで違和感に気づいた。慌ててもう片方を探し、ベッドの下へ手を突っ込んで、埃と一緒に靴下を引っ張り出す。扉を開ける。閉める。三秒後、また開ける。
「時計忘れた!」
「つけてるだろ!」
日向の怒声が飛んだ。
左腕を見る。
「あった!」
「出てけ!」
今度こそ、奎星は廊下へ飛び出した。
上級課程三年になって、もう二か月近くが経つ。けれど、生活そのものは驚くほど変わらなかった。
朝になれば日向はなかなか起きず、伊織は静かに起き、岳は寝起きでも何かを食べられる。教室へ行けば楓がいて、授業が始まれば教師がいて、昼になれば五人で飯を食う。放課後になれば何となく誰かと一緒にいて、補習があればスズメの研究室へ行き、夜になれば四人部屋へ戻ってくる。
去年の春には、そのどれも知らなかった。今では、それが日常だった。
変わったことがあるとすれば、御影との朝練がさらに早くなったことくらいである。
訓練場へ着いたとき、東の空はようやく白み始めていた。海から上がってくる朝の風が、夜の冷たさをまだ少し残している。露を含んだ草の匂いと潮の匂いが混ざり、広い訓練場の石床には薄い水気が張っていた。校舎の羊脂玉は朝日を受ける前で、青灰色に沈んでいる。遠くでは、まだ起き出したばかりの鳥が一羽、短く鳴いた。
その中央に、御影玄一郎はもういた。
「四十八秒遅い」
「誤差じゃん」
「走れ」
「やっぱ言うと思った!」
朝が始まった。
*
「プロテゴ!」
朝の冷えた空気を押し広げるように、奎星の前へ白銀の防壁が立ち上がった。次の瞬間、その中央へ赤い光が激突する。
乾いた破裂音が訓練場に響き、盾の表面に細かな光の亀裂が走った。奎星は横へ飛ぶ。今まで立っていた場所を御影の気絶呪文が通過し、その後ろの石壁へ赤い光を散らした。
朝露の残る石床を靴底が擦り、身体が傾く。
「ステューピファイ!」
着地と同時に返す。
御影は杖すら大きく動かさなかった。放たれた呪文は、見えない壁へぶつかったように弾かれる。
「うそだろ」
「遅い」
「今の速かっただろ!」
「遅い」
「基準どうなってんだよ!」
言い終わる前に足元が払われた。
「うおっ」
身体が浮く。
一瞬だった。
次に見えたのは空だった。白み始めた空の向こうに薄い雲が流れ、朝日がまだ低い位置からその縁だけを淡く光らせている。
どん、と背中が石床へ落ちる。
「いっってぇ……!」
「実戦なら喋っている間に三度死んでいる」
「三回も殺すなよ!」
「相手に言え」
「敵に教育方針求めてねえよ!」
「立て」
立った。
また飛んだ。
星帰り作戦を成功させても、神代冥司を倒して学校を取り戻しても、自分にとって何より大切な人から大切な思い出を奪った男を追い、最後にはそれを取り返しても、御影玄一郎には相変わらず勝てなかった。
一年間、何度も杖を振った。魔法を知ってまだ間もなかった頃とは違う。攻撃、防御、拘束、移動。威力だけではなく、相手を動かし、次を読み、立つ場所そのものを奪うことも覚えた。以前ならただ振り回していた杖に、今では考えが乗っている。足運びにも、呼吸にも、ほんの少しずつだが経験が染みついている。
それでも。
「インペディメンタ!」
避けられる。
「インカーセラス!」
切られる。
「エクスペリアームス!」
弾かれる。
「デパルソ!」
次の瞬間には、自分が飛んだ。
「ぐぇっ」
背中から地面へ落ちる。
仰向けのまま、奎星は空を見た。さっきまで薄暗かった空は、もう朝の色へ変わり始めている。白い光が校舎の屋根を縁取り、海の表面に細い道を作っていた。
「…………絶対いつか倒してやる」
御影が見下ろす。
泥だらけの顔。髪はぐしゃぐしゃで、右頬には土がつき、肩で息をしている。それでも杖だけは握っていた。
「その状態でどの口が言ってる」
「今は負けてるだけだろ」
「今もだ」
「一年後見てろよ」
「卒業してるぞ」
「あ」
「考えてから喋れ」
「じゃ卒業までに!」
「まず立て」
「先生、生徒をもっと大切に──」
御影の杖が動いた。
「走れ」
「まだ何もしてねえだろ!」
奎星は走った。
*
朝練を終えた奎星が大食堂へ飛び込んできたのは、朝食の時間も半ばを過ぎた頃だった。大急ぎで風呂へ入り、髪だけは一応乾かした。しかし左頬には薄い擦り傷が残り、訓練着の下に着ていたシャツの襟元には取り切れなかった土がついている。湯気の名残が肌に残り、走ってきたせいで頬は赤い。息はもう整っていたが、本人だけがそれを「いつも通り」と思っている顔をしていた。
大食堂は朝の光で満ちていた。高い窓から差し込む日差しが長い卓上を横切り、湯気の立つ味噌汁や焼き魚を柔らかく照らしている。窓の外には海が広がり、その青の上を白い海鳥が一羽だけ滑っていた。天井近くでは伝書用の折り鶴が何羽かゆっくり飛び、小妖たちが忙しなく食器を運んでいる。焼いた魚の香ばしい匂い、炊きたての米の匂い、味噌汁に浮かぶ葱の匂いが混ざり合い、朝の大食堂には、学校全体がようやく目を覚ましていくような温もりがあった。
「おっはよー」
奎星は五人の席へ座った。
楓が味噌汁の椀を持ったまま奎星を見た。
「相変わらず今日もひどいわね」
「ひどいのは御影先生だから」
奎星は即座に反論した。
少し離れた教師席では、当の御影が黙々と朝食を食べている。焼き魚の骨を器用に外し、何事もなかったように箸を進めていた。
「聞こえてると思うよ」
伊織が言った。
「聞かせてんの」
「強がるなよ」
日向が笑う。
「お前、さっき俺に行けって言っただけじゃん。薄情者」
「朝の五時前に部屋で運動会始める奴に情はいらねえ」
「四時五十分な」
「もっと悪いわ」
岳は会話に参加せず、奎星の前へ置かれた焼き鮭を見ていた。
「食べないなら」
「食うよ」
奎星は皿を自分側へ寄せた。
その横で、伊織だけが飯を食べながら妙に分厚い冊子を読んでいる。
表紙には、金色の文字。
《就職魔法報 第二〇二七年度版》
「何それ」
奎星が覗き込む。
「就職魔法報」
「見れば分かる」
「聞いたの君だよ」
「何載ってんの?」
「魔法社会の企業情報。職種別の採用傾向とか、待遇、勤務地、研修制度。業界別の動向もある」
「…………」
奎星は味噌汁を飲んだ。
「朝から?」
「朝だから読めない理由はないでしょう」
「三年だからね」
伊織は何でもないように頁をめくる。
奎星はその表紙をもう一度見た。
就職。
進路。
その二文字で、何かが頭の奥を軽く叩いた。
「あ」
「何?」
「いや」
一年前。東京。普通の高校。進路希望調査。第一志望。海賊。
「…………今思うと海賊やべえな」
「今?」
楓が聞き返した。
「気づくの一年遅くない?」
「いや、あの頃はまだ若かった」
「一年前だろ」
日向が言った。
「人は一年で成長すんだよ」
伊織が就職魔法報から目を上げる。
「今朝、左右違う靴下で出ていこうとしてたけど」
「見てたの?」
「見えてた」
「寝てたじゃん」
「君がうるさかったからね」
奎星は自分の足元を見る。
今日は同じだった。
「成長してる」
「基準が低いわよ」
楓が言った。
教師席から御影の視線が一度だけ飛んできた。
奎星は急に姿勢を正した。
「いただきます」
「もう食べてるだろ」
日向が笑った。
*
朝食を終えて寮へ戻ると、机の上に一通の封筒が置かれていた。
「ん?」
白い封筒。
見慣れた字。
父親でも母親でもない。宛名だけは学校の郵便取次で書かれたものらしい。その下に、小さく《蓮根家より》とある。
奎星は鞄を置き、封筒を持ち上げた。紙は薄く、角には長旅をしてきたような僅かな折れがある。南硫黄島まで届くには、いくつもの手を渡ってきたのだろう。
「家から?」
「朝の便で来てたぞ」
日向がベッドへ座りながら言う。
岳も覗く。
「何だろ」
奎星が裏返した。
封を切る。
一枚の便箋。
最初の一行を読む。
「…………あ」
止まった。
日向が笑う。
「気づいた?」
「今日じゃん」
「忘れてんじゃねえよ」
「いや、待って」
奎星は左腕の時計を見る。
五月二十八日。
「俺、誕生日じゃん」
「朝からずっと気づいてなかったのかよ」
「朝の四時五十分に誕生日考える奴いねえだろ」
「普通、日付くらい見るだろ」
「時計は見たよ。時間しか見てねえ」
岳が静かに言った。
「じゃあ今日の夕飯、ケーキ出るな」
奎星が振り返る。
「そう、俺に出るんだ。お前のじゃねえぞ岳」
「分けないのか」
「その顔やめろ」
「一口」
「一口がでかいんだよお前は」
日向が笑う。
奎星はもう一度、便箋へ視線を落とした。
そして、読み始めた。
――――――――――――――――――――
誕生日おめでとう奎星。
まず最初に。
十八年間、元気に育ってくれてありがとう。
去年の今頃は、お母さんもお父さんも、まさか一年後のあなたが魔法学校で暮らしているなんて思ってもいませんでした。
魔法使いになって。知らない島へ行って。新しい友達ができて。先生にたくさん怒られて。ものすごく危ない目にも遭って。学校を救ったとか、日本を救ったとか、今でも聞いていてよく分からないことまでして。
あなたが家へ帰ってくるたび、私たちの知らない話が増えていきます。
それを少し寂しいと思うこともあります。けれど、それ以上に、あなたが自分の世界を広げていることを嬉しく思っています。
でもね、奎星。
どれだけ有名になっても。どれだけすごい魔法を使えるようになっても。誰かに英雄って呼ばれるようになっても。
お母さんとお父さんにとっては、冷蔵庫の麦茶を一口だけ残して戻すし、靴下を裏返したまま洗濯機へ入れるし、久しぶりに家へ帰ってきたと思ったら昼まで寝ている、あの奎星です。
そして、それでいいと思っています。
何になってもいいです。何になるか、まだ決まっていなくてもいいです。
立派な魔法使いになっても。魔法とは全然違う道へ進んでも。迷っても。遠回りしても。
最後に、自分で選んでくれれば。それで十分です。
十八年前、あなたが生まれた日。お母さんとお父さんが一番嬉しかったのは、すごい人間が生まれたからではありません。
奎星が生まれたからです。
これからも、それだけは変わりません。
誕生日おめでとう。また休みに帰ってきたら、好きなものをいっぱい食べさせます。
母より。
追伸。
海賊だけはやめてください。
父より。
――――――――――――――――――――
読み終わっても、奎星はすぐには紙を畳まなかった。
窓が少し開いている。
春の終わりの風が入り、便箋の端だけが微かに動いた。紙の上の文字が、風にさらわれてしまいそうに見える。奎星はそれを押さえるように、便箋の端へ指を置いた。
十八年。
その長さを、奎星はうまく想像できなかった。
一年前の今日なら簡単に思い出せる。東京の自室。寝癖。進路希望調査。突然飛んできたリモコン。魔法学校からの手紙。そして、夜中に窓を叩いた一羽の鴉。
けれど、そのさらに十七年前は、自分には記憶がない。
父と母だけが知っている。
歩いた日。喋った日。泣いた日。熱を出した日。学校へ行った日。喧嘩して帰った日。冷蔵庫の麦茶を一口残した日。靴下を裏返しにした日。
そんなものを全部重ねて、今日まで来た。
「…………海賊やめといてよかったな」
ぽつりと奎星が言った。
日向が吹き出す。
「感想そこ?」
「いや、ちゃんと感動してるよ」
「顔見りゃ分かる」
伊織が言った。
奎星は少しだけ鼻を擦った。
「泣いてねえからな」
「誰も言ってないよ」
「先に言っとく」
便箋を丁寧に畳む。
いつもならそのへんへ置くところを、今日は机の引き出しへしまった。
*
「では皆さん、今年もこちらを書いてくださいね」
午前のホームルーム。
土御門芽衣子が笑顔で紙束を配った。
上級課程三年。
教室は去年と変わらない。
奎星の近くには日向がいて、楓がいて、伊織がいて、岳がいる。少し離れた席では、去年から同じ顔がくだらない話をして笑っている。窓から見える海も、羊脂玉の壁も、天井を飛ぶ小さな伝書鶴も変わらない。
担任も。
「はい。蓮根君、後ろへ回してください」
「うす」
土御門だった。
去年と変わらない。
紙が一枚、奎星の前へ置かれる。
《進路希望調査》
変わったのは、残り時間だけだった。
「今年度は上級課程最後の一年です。まだ決まっていない方も多いと思いますが、卒業後に何をしたいか、一度ご自身で考えてみてください」
土御門の声が教室へ柔らかく広がる。
「もちろん、今ここで決めたものが一生変えられないわけではありません。悩んで、変わって、また考えて構いませんよ」
奎星は紙を見る。
一年前なら、第一志望、海賊。第二志望、未定。第三志望、なんとかなる。それで教師に廊下へ立たされた。
今なら。
鉛筆が止まる。
さすがに海賊とは書かない。
御影の顔が浮かぶ。禍祓官。
研究室にいるスズメ。教師。
前にも考えたことはある。
けれど、紙に《第一志望》と書くとなると、どれも違う気がした。
*
「俺はクィディッチかな」
昼。
大食堂の卓上には、五枚の進路希望調査が並んでいた。昼の光は朝より高く、窓から差し込む明るさも、卓上に落ちる影も少しずつ短くなっている。食事の合間に交わされる声があちこちから上がり、食器の触れ合う音と混ざって、広い空間を絶えず揺らしていた。
日向が迷いなく言う。
「選手?」
奎星が訊く。
「なれるならなりたい」
その返事だけは、いつもの冗談っぽさがなかった。
日向は箸を置き、少しだけ考える。
「でも、ずっと選手やれる奴なんて一部だろ。もし無理でも、クィディッチに関わる仕事はしたい。チームとか、用具とか、競技運営とか。何があるかは、これからちゃんと調べるけど」
「おお」
奎星は少し感心した。
「何だよ」
「日向が将来考えてる」
「俺を何だと思ってんだよ」
「空飛ぶ猿」
「誰に教わったその悪口」
「伊織」
「僕じゃないよ」
伊織が即座に否定する。
「御影先生だった」
「もっと悪いわ」
楓が呆れる。
「楓は?」
「私は魔法省」
「偉い人?」
「なんでそうなるのよ」
「魔法省って偉い人いるとこじゃん」
「雑すぎる」
楓は少し考えてから言った。
「行政側。現場で事件を追う仕事というより、制度とか教育とか、魔法社会全体の仕組みを作るほうに興味があるの。国際協力にも少し興味あるけど、まだ絞ってない」
「…………」
「何」
「難しい」
「でしょうね」
「つまり偉い人?」
「戻ってるわよ」
日向が笑った。
「楓ならいけんじゃね。なんか偉そうだし」
「偉そうと偉いは違うわよ」
「痛っ!」
日向の脛が机の下で蹴られた。
「伊織は?」
奎星が見る。
伊織は朝から持っていた就職魔法報を、昼食の横にも置いている。
「まだ決めてないよ」
「読んでんのに?」
「決めるために読んでるんでしょう」
「まあ、それはそうか」
「自分に合わなそうな仕事はだいぶ分かってきた。向いていそうな職種もいくつかある。あとは仕事内容と条件面を比較してからかな」
「条件面?」
「勤務地、給与、勤務時間、休暇制度、研修、異動」
「…………」
奎星が楓を見る。
「何言ってるか分かる?」
「全部分かる」
「マジか」
「君も分からないまま卒業しないほうがいいよ」
伊織が言った。
「朝から思ってたけど、意識高くね?」
「普通だよ」
「怖いよ三年生」
「お前も三年生だろ」
日向が言う。
「岳は?」
岳は焼き魚を食べていた。
「魔法生物」
即答だった。
「やっぱそっちなんだ」
「うん」
「飼育?」
「それもある。保護、研究、管理、医療、繁殖、調査。色々ある」
「そんなあんの?」
「ある」
岳の目が、普段より少しだけ生き生きしている。いつもは食事と会話を同じくらいの熱量でこなしているだけに見えるのに、魔法生物の話になると、声の奥に静かな熱が灯る。
「鬼火鳥のこと調べてから、もっと知りたくなった。最近はニュート・スキャマンダーを読んでる」
「誰?」
「イギリスの魔法生物研究者。故人」
「本?」
「本」
「何て本?」
岳は少しだけ考えた。
「『幻の動物とその生息地』」
「へえ」
奎星は一度頷き、それから岳の顔を見た。
「……お前が?」
「読む」
「マジかよ」
「失礼だな」
「去年のお前、参考書の後ろで煎餅食ってたじゃん」
「あれは参考書が煎餅を隠すのにちょうどよかった」
「最悪の使い方してんじゃん」
全員が笑った。
その中で、奎星は自分の紙を見る。
まだ白い。
「奎星は?」
楓が訊いた。
奎星は少し考える。
「分かんね」
前なら、なんとかなる。それで終わった。
けれど今日は、それを言う気にはならなかった。
「なんかさ。色々やったじゃん」
「やったね」
伊織が答える。
「魔法も覚えたし。学校も救ったし。戦ったし。人助けたりもしたし」
「死にかけたりもしたな」
日向が付け加える。
「それはいらねえ」
「複数回」
楓。
「数えんな」
「でも」
奎星は紙を見たまま続ける。
「仕事ってなると、全然分かんねえんだよな」
誰も笑わなかった。
一年前には、考えようともしなかった。
今は。
分からないことが、少し気になっている。
それだけでも。
たぶん、違う。
*
「なんの仕事やればいいか分かんない」
放課後。
魔法史研究室。
窓から入る午後の日差しが机の上を斜めに照らし、紙の白さを少し黄色く見せている。開けた窓の向こうからは海鳴りと、遠くの校庭で誰かが魔法を失敗したらしい小さな爆発音が聞こえた。研究室の中には古い紙と乾いた木の匂いが漂い、壁際の本棚には長年積み重ねられた資料が、夕方へ向かう光の中で静かに影を落としている。
奎星は机へ頬をつけていた。
目の前には魔法史の問題集。
その横には進路希望調査。
スズメは赤い羽根筆を動かしている。
「悩むことは大切だと思いますよ」
「もっと答えくれそうな先生いない?」
「相談相手の前で言わないでください」
「スズメちゃん先生じゃん。教えてよ」
「烏丸先生です」
「向いてる仕事」
「いくつか思いつきます」
奎星の顔が上がった。
「マジ?」
「ええ」
「何?」
「教えません」
「何で?」
「私が決めることではありませんから」
「ヒント」
「駄目です」
「三択」
「進路を三択にしないでください」
「じゃ四択」
「増やせばいいという話ではありません」
奎星は再び机へ突っ伏した。
「スズメちゃ〜ん」
「泣きついても変わりません」
「十八歳の誕生日なんだけど」
「そうですね」
「優しくして」
「では十八歳として扱います」
「やっぱ十七でいい」
「もう戻れません」
スズメの口元が、ほんの少しだけ動いた。
「蓮根君」
「ん」
「あなたに向いている仕事が何かを、私はいくつか考えることができます。ですが、それがあなたのやりたい仕事とは限りません」
羽根筆が止まる。
「この一年で、あなたは随分たくさんのものを見ました。だからこそ、もう少し自分で考えてください」
「難しいな」
「そういうものです」
「教えられない?」
「こればかりは」
スズメは少しだけ笑った。
「教えられません」
「先生なのに?」
「教師でもです」
「スズメちゃ〜ん」
「それより」
問題集を指す。
「卒業できるかのほうが私は心配です。問六を解いてください」
「今めっちゃ人生の話してたじゃん」
「人生のために卒業してください」
「正論やめて」
「解いてください」
奎星は渋々鉛筆を持つ。
そのとき、スズメの指が机の右下にある引き出しの取っ手へ一瞬だけ触れた。
開けない。
ほんの少し視線を落とし、それから何事もなかったように問題集へ戻る。
「蓮根君」
「何?」
「そこ、年代が一世紀ずれています」
「え」
*
夕食。
大食堂が、いつもと少し違って見えた。
料理は普段と同じように長い卓へ並び、小妖たちが忙しく行き交っている。窓の外には夕焼けが広がり、海の向こうへ沈みかけた太陽が大食堂の天井を橙色に染めていた。昼間の喧騒とは違う、疲れと安堵の混ざった声があちこちから聞こえ、食事を待つ生徒たちの間には一日の終わり特有の緩んだ空気が漂っている。
食事が始まってしばらくした頃、九重院紫苑が立ち上がった。
杖先が小さく光る。
食器の音が少しずつ止まった。
「皆さん。少しよろしいですか?」
大食堂の視線が集まる。
奎星も口いっぱいに唐揚げを入れたまま顔を上げた。
「本日、五月二十八日は」
九重院が笑う。
「上級課程三年、蓮根奎星君の誕生日です」
一瞬、静かになる。
次の瞬間。
「蓮根おめでとー!」
「奎星ー!」
「蓮根先輩、おめでとうございます!」
「けいせいせんぱ〜い!」
大食堂中から声が飛んできた。
「うお」
奎星の目が丸くなる。
マホウトコロでは、誕生日を迎えた生徒がいる日は夕食時に全校で祝う。下級課程から上級課程まで、教師も生徒も関係ない。長くいる者にとっては見慣れた風習。
奎星もこの一年で何度か見てきた風習だった。けれど、その中心に自分が座るのは初めてだった。
去年の今日。
まだ、この学校を知らなかったから。
「おめでとうございます、蓮根君」
九重院が言う。
その直後。
「レンコン!」
聞き覚えのある声。
「お」
大食堂の奥から、小さな身体が現れた。
天ぷらだった。
ただし。
「ちょ、待て」
両手で大きな皿を持っている。その上には、一人分というには少し大きな苺のケーキが載っていた。皿が天ぷらの顔より大きい。
「無茶すんな天ぷら!」
「ダイジョービ!」
足元がぷるぷるしている。
「全然大丈夫に見えねえよ!」
「レンコン!」
「おう!」
「オメタン!」
「…………」
奎星が止まった。
「オメタン?」
「オメタン!」
「誰に教わったんだよ!」
下級、中級課程の席を見る。
何人かが一斉に目を逸らした。
その中で、湊だけが口元を押さえてくすくす笑っている。
「あいつらか……」
「オメタン!」
「はいはい、ありがとな」
奎星は笑いながら天ぷらから皿を受け取った。
拍手が起こる。
「おめでと〜!」
「ありがとー!」
奎星は立ち上がった。
なぜか王族のように片手を上げ、周囲へゆっくり振る。
「今年もよろしく〜」
「何で誕生日に年始の挨拶なんだよ!」
日向が笑う。
奎星はさらに手を振った。
「十八歳になりました〜。今年は死にかけないようにしま〜す!」
一瞬。
そして、日向が吹き出した。近くの男子たちも笑う。岳まで口元が僅かに動いた。
「縁起悪っ!」
「目標低すぎだろ!」
「去年二回くらい危なかったもんな!」
「数えんな!」
大食堂の男子席の一角が完全に笑いへ沈んだ。
そのとき。
「……ごほん」
低い咳払いが響いた。
笑いが止まる。
教師席。
御影玄一郎。
腕を組んでいる。
奎星の姿勢が一瞬で良くなる。
「なんでもないで〜す!」
日向も続く。
「誕生日おめでと〜!」
「おめでとう蓮根!」
「死ぬなよ!」
また咳払い。
「最後いらねえって!」
大食堂に笑いが広がった。
御影だけは笑っていなかった。
九重院は口元を隠していた。
スズメも、少しだけ笑っていた。
*
夕食後。
回廊は夜の色へ変わっていた。大食堂の騒がしさが背後へ遠ざかり、開け放たれた窓から海の冷たい匂いが入ってくる。天井の魔法灯が淡く床を照らし、羊脂玉の壁には人の影が長く伸びていた。遠くで誰かが笑う声がして、それもすぐに石造りの廊下へ吸い込まれていく。
奎星は男子寮へ戻る途中だった。
角を曲がる。
そこで、書類が歩いていた。
正確には、大量の書類の下に烏丸スズメがいた。胸元から顎のあたりまで紙束が積み上がり、前がほとんど見えていない。
「…………」
奎星は数秒見る。
「スズメちゃん」
「烏丸先生です」
書類の向こうから返事。
「見えてんの?」
「見えています」
前方へ少しずれた。
「壁だけじゃん」
「問題ありません」
「あるだろ」
奎星は近づき、上から半分以上を、ごそっと持ち上げた。
「あ」
スズメの顔が現れる。
「スズメちゃん、こんなの持ってたら潰れちゃうよ」
「潰れません」
「身長より高かったじゃん」
「そこまでありません」
「持つよ」
「……お願いします」
抵抗しない。
もう慣れていた。
この一年で何度似たようなことがあったか分からない。スズメが資料を抱えていれば奎星が持つ。研究室から大食堂まで、図書室から職員室まで。最初の頃なら「結構です」と断っていた。今は普通に半分渡す。もっとも、奎星が半分と言いながら七割持っていくせいでもある。
二人は並んで歩き始めた。
「なあ」
「何ですか?」
「俺、今日誕生日なんだけど」
「知っています」
奎星の目が輝く。
「おう」
「おめでとうございます」
淡々。
「…………」
「何ですか?」
「それだけ?」
「何を期待していたのです?」
「もっとこう」
「十八年間よく生きましたね、と?」
「雑!」
「先ほど全校から祝われたでしょう」
「スズメちゃんは別じゃん」
「何が別なのですか」
「分かんないけど別」
スズメは少しだけ黙った。
それから。
「おめでとうございます、蓮根君」
今度は、ほんの少しだけ声が柔らかかった。
奎星は満足そうに笑った。
「おう」
研究室へ着く。
奎星が机の上へ書類を置いた。
「重っ。何入ってんのこれ」
「三年生の授業資料と、魔法史研究会の報告書、それから魔法省へ提出する書類です」
「先生って大変だな」
「誰かさんの補習資料も含まれています」
「俺のせいじゃん」
「一部は」
「ごめん」
言いながら、全然反省していない顔だった。
スズメは机へ回る。
「では」
そこで止まった。
右下の引き出し。
午後、奎星が問題を解いていたときに一度だけ見た場所。
スズメはそこへ手を掛ける。
「書類を持っていただいたお礼に」
「え?」
「ちょうど、余っているものがありますから」
引き出しを開ける。
中から細長い包みを取り出した。
「余ってる?」
「はい」
濃い茶色の包装。
派手ではない、小さな紺色のリボン。
「これ?」
「不要なら戻します」
「いる」
奎星は即答した。
「まだ中身見てないでしょう」
「スズメちゃんがくれんだろ?」
「書類を持っていただいたお礼です」
「はいはい」
受け取る。
リボンを解く。
包みを開く。
「…………おお」
中に入っていたのは、杖入れだった。
本革。
深い焦茶色。
必要以上の装飾はない。縁に細い黒糸の縫い目が走り、留め具だけが鈍い銀色をしている。新品の革にはまだ硬さがあり、鼻を近づければ乾いた革の匂いがした。
制服の腰へ固定できるようになっている。
派手さはない。
むしろ。
「カッコよ!!」
大人っぽかった。
「神代榊は普通の杖より少し古く、木そのものも特殊です。今使っている簡易ホルダーより、こちらのほうが固定しやすいと思います」
「めっちゃいい!!」
奎星の目が完全に輝いていた。
その場で腰につける。
位置を直す。
神代榊を差す。
一度歩く。
振り返る。
「どう?」
「似合っていますよ」
「マジ!?」
「はい」
「やった!!」
もう一度見る。
そのまま急に左腕を上げた。
「これも!」
銀色の腕時計。
「はい」
次に制服のポケットへ手を入れる。
小さな銀色の星。
星灯石のキーホルダー。
「これも!」
「それは交換したものでしょう」
「で、これ!」
腰の杖入れを指す。
奎星は両手を広げた。
「全部スズメちゃんの!」
「言い方」
「全部スズメちゃんにもらった!」
「キーホルダーは交換です」
「細けえなぁ」
奎星は笑っている。
スズメは、その姿を見ていた。
あの夜、まさか一年後の自分が、その少年の誕生日を三日前から気にして、八咫小路で革製品を何軒も見比べることになるとは思わなかった。
最初は、ただの仕事だった。魔力が覚醒した生徒を学校へ連れてくる。魔法を教える。暴走しないよう監督する。それだけだった。
けれど、いつの間にか、朝の遅刻を気にし、補習の時間を覚え、怪我をすれば眉をひそめるようになっていた。
それらを今では、大切だと思っていた。
「スズメちゃん?」
「……何ですか?」
「見すぎじゃね?」
「見ていません」
「見てたじゃん」
「杖入れが正しく装着できているか確認していただけです」
「絶対違う」
「違いません」
「まあいいや」
奎星は、また杖入れを見る。
「ありがとう、スズメちゃん!」
満面の笑みだった。
スズメの口元が、少しだけ緩む。
「……どういたしまして」
「みんなに自慢してくる!」
「え」
もう扉へ向かっている。
「蓮根君」
「じゃ!」
「まだ話が」
ばたん。
扉が閉じた。
研究室に静寂が戻る。机の上には大量の書類、開いた引き出し、切ったあとのリボンの端。廊下の向こうから、まだ足音が聞こえる。
「……まったく」
スズメは引き出しを閉じた。
*
「見ろ!」
男子寮談話室の扉が勢いよく開いた。
何人もの生徒が振り返る。
ソファ、机、カードゲーム、宿題、夜食。学年の違う男子たちが、それぞれ好き勝手に過ごしている。誰かがカードを切り、誰かが机へ頬杖をつき、窓際では別の生徒が夜食のパンを齧っていた。そこへ奎星が、まるで重大発表を抱えた王子のような勢いで入ってくる。
その中央へ、奎星が立った。
「何を?」
「ここ!」
腰を指す。
「杖?」
「違う!」
「ズボン?」
「もっと違う!」
近くにいた男子生徒が気づいた。
「あ、杖入れ?」
「そう!」
「いいじゃん蓮根」
「だろ?」
「誕生日?」
「スズメちゃんにもらった」
一秒。
「烏丸先生?」
「おう」
「俺、烏丸先生から誕生日プレゼントもらったことない」
「日頃の行い」
別の声が飛ぶ。
「いいじゃねえか蓮根。おめでとう!」
「ありがと!」
「ちょっと見せろよ」
「触んな。新品だから」
「自慢しに来たのに触らせないのかよ」
「見るだけ」
「面倒くせえな」
笑いが起きた。
日向もソファから立ち上がる。
「お、マジでいいじゃん」
「だろ?」
「似合ってる」
「だろ?」
「うざ」
楓がいない男子寮では、日向を止める人間が少し減る。
その代わり。
「三回目」
伊織が本から目を上げずに言った。
「何が?」
「『だろ』」
「いいじゃん別に」
「浮かれてんなあ」
別の男子が笑う。
「誕生日なんだからいいだろ」
奎星は腰の杖入れをもう一度見る。
そして。
「嬉しいなぁ」
その声だけは、妙に素直だった。
「スズメちゃんの誕生日、いつなんだろ」
ぴたり。
伊織が頁をめくる手だけを止めた。
膝の上には、朝から読んでいる《就職魔法報》。
顔は上げない。
「三日後」
「…………」
奎星が止まる。
「え?」
「五月三十一日」
「…………」
「三日後だよ」
一秒。
二秒。
三秒。
「な、なにいいいいいいいい!?」
談話室中が振り返った。
「うるさっ!」
「マジ!?」
「何で今まで誰も教えてくれなかったんだよ!」
「聞かれてないから」
「伊織ぃ!」
「何?」
「店まだ開いてる!?」
「どこの?」
「分かんねえ! プレゼントの!」
「落ち着け」
「三日しかねえ!」
「三日あるだろ」
日向が笑い始める。
「待て、八咫小路って今から行ける?」
「無理」
「明日は!?」
「授業」
「放課後!」
「補習じゃなかった?」
「スズメちゃんの補習じゃん!」
「本人いるじゃん」
「買えねえじゃん!」
「詰んだな」
談話室が笑いに包まれる。
奎星だけが、人生最大の危機のような顔で頭を抱えていた。
「どうしよ……」
「進路より悩んでるじゃん」
伊織が言った。
「こっちのほうが期限近いんだよ!」
十八歳。
最初の夜。
蓮根奎星は、自分の将来より、三日後の誕生日プレゼントに頭を抱えていた。
それもまた、一年前にはなかった悩みだった。
*
同じ夜。
東京。
霞が関。
日本魔法省地下庁舎。
地上では、五月の雨が細く降っていた。
地下に天候は届かない。
窓もない。
時刻だけが、壁に掛かった時計の針によって静かに進んでいる。
魔法省の証拠保管区画には、ここ数か月で押収された資料が大量に並んでいた。黒曜石、古い術式、焼けた羊皮紙、魔法具、手帳、帳簿。神代冥司が使っていた複数の拠点から回収されたものだった。
神代本人が倒れたあとも、調査は終わっていなかった。むしろ、本人がいなくなったことで、ようやく開ける場所が増えた。
「真壁さん」
若い職員が声を掛ける。
机へ向かっていた真壁征士郎が顔を上げた。
「何だ」
「先週回収された資料です。分類が終わったんですが」
分厚い箱が置かれる。
「一つ、確認していただきたいものが」
真壁は黙って蓋を開けた。
古い紙の匂いが上がる。
一冊。
もう一冊。
黒曜の環に関する記録。
神代榊。
鬼火鳥。
霊脈。
見慣れた単語が続く。
そして。
真壁の手が止まった。
「…………」
薄い資料束。
表紙。
古い墨。
一つの名前。
真壁の目が僅かに細くなる。
「これは……どこに?」
「神代の拠点です。奥の封印区画から」
返事はない。
真壁は、その名前を見ていた。
紙の中央には。
こう記されていた。
《蓮根清弦》
時計の針が、小さく一つ進んだ。