二〇二七年五月三十一日。
月曜日。
烏丸スズメにとって、その朝は、いつもと何も変わらなかった。
南硫黄島の朝は早い。五月も終わりに近づけば、教員寮の小さな窓には六時を待たずして薄い光が差し込み、羊脂玉の壁を淡い乳白色に染めていく。沖から吹いてくる風はまだ少し冷たく、開けておいた窓の隙間から、潮の匂いと湿った草の匂いを部屋へ運んでいた。
目覚ましが鳴るより少し前に、スズメは目を覚ました。
それも、いつも通りだった。
布団を畳み、顔を洗い、髪を整える。湯を沸かしながら、今日の授業の予定を頭の中で確認する。午前中は上級課程の魔法史。昼を挟んで下級課程の授業が一つ。空き時間には昨夜途中で止めた江戸後期の禍祓官記録を読み、放課後は研究室で提出書類を仕上げる。
机の端には、昨日まで積み上げていた本が六冊あった。どれも厚く、表紙には長年使い込まれた跡が残っている。その横に、見覚えのない封筒が一通置かれていた。
「…………?」
寝る前には、確かになかった。
表には、見慣れた字で《スズメへ》とだけ書かれている。スズメは封筒を手に取ったまま、しばらくそれを眺めた。
「……いつ届いたんだろ」
独り言をこぼし、封を切る。
中から出てきたのは、一枚の厚い便箋だった。ただし、文章は書かれていない。紙の中央には小さな銀色の円があり、その下に、父親の字で《ここへ魔力を》と書かれている。
「…………」
嫌な予感がした。
父親がこういう仕掛けを用意しているときは、大抵ろくなことにならない。以前にも、開いた瞬間に大音量の音楽が流れたり、紙面から父親の顔が飛び出してきたりしたことがある。
とはいえ、無視するわけにもいかなかった。
スズメは小さく息を吐き、杖先で銀色の円へ軽く触れた。
ふわっ、と紙面が光る。
次の瞬間。
『スズメぇぇぇぇぇぇ!!』
「っ」
朝六時過ぎの静かな教員寮に、父親の声が響き渡った。
紙の上へ、立体的な映像が浮かび上がる。映っているのは、実家の居間だった。見慣れたソファと、壁際の棚。その中央に、父親がいる。
近い。
近すぎる。
顔の半分ほどが画面を占領していた。
『誕生日おめでとう!! 二十二歳!! 二十二だぞ!! 俺が二十二の頃なんか──』
『あなた、近い近い』
横から母親の手が伸び、父親の肩を後ろへ引っ張った。
『ちゃんと映ってないでしょう』
『いや、気持ちは距離じゃないだろ!』
『映像なんだから距離です』
『そういう問題か!?』
『そういう問題です』
母親に押し戻され、父親は渋々といった様子で後ろへ下がった。ようやく二人の姿が画面へ収まる。
母親は柔らかく笑っていた。スズメと同じ黒髪だが、娘ほどきっちり切り揃えているわけではなく、肩のあたりで緩くまとめている。目元にもスズメと似たものがあるものの、表情はずっと柔らかく、声にも穏やかな温かさがあった。
『スズメ。お誕生日おめでとう』
母親が言う。
『二十二歳ね』
『教師三年目!!』
父親が即座に割り込んだ。
『続けて偉いぞ!!』
『声が大きい』
『だって教師だぞ!? あのスズメが! 人に物を教えてるんだぞ!』
『失礼でしょう』
『違う違う、誇らしいって意味だ! 昔から本ばっか読んで、質問して、また本読んで──』
『今も同じじゃない』
『じゃあ天職だな!!』
父親が豪快に笑った。
スズメは黙って映像を見ていた。
なぜだろう。
最近、こういう人物をもう一人知っている気がする。
よく喋る。
声が大きい。
思ったことがすぐ顔に出る。
人の話へ割り込む。
褒めるときは必要以上に褒める。
『スズメ!』
「…………」
『聞いてるか!?』
「録画でしょ」
思わず返した。
当然、父親は聞いていない。
『教師って大変だろ! 生徒は言うこと聞くのか!?』
『あなたみたいな生徒だったら大変でしょうね』
母親が言う。
『俺は良い生徒だったぞ!』
『先生に呼ばれた回数、覚えてないの?』
『あれは先生が俺を好きだったんだよ』
『そういうところよ』
「…………」
スズメの口元が、ほんの少しだけ動いた。
やっぱり似ている。
『でも、本当に無理しないでね』
母親の声が少し柔らかくなる。
『去年も色々あったでしょう。学校のことも、その後のことも。あなた、昔から何でも自分で抱えようとするから』
『そうだぞ!』
父親が大きく頷いた。
『本も抱える! 仕事も抱える! 悩みも抱える! もっと人に持ってもらえ!』
「…………」
昨日、大量の書類を七割ほど勝手に持っていった少年の姿が、ふいに脳裏へ浮かんだ。
『疲れたら帰ってきなさい』
母親が続ける。
『一日でもいいし、何もしなくてもいいから。あなたの部屋はそのままにしてあるし、お父さんは毎週掃除してるから』
『毎週だぞ!』
『触らないでって言われてるところは触ってないわよね?』
『…………』
『あなた?』
『触ってない』
『今、間があったけど』
『ない』
『ありました』
「…………ふふ」
小さく声が漏れた。
父親が急に画面へ身を乗り出す。
『あと!』
母親が嫌そうな顔をした。
『何』
『大事なこと聞いとかないと』
『嫌な予感しかしないんだけど』
『スズメ!』
父親が真正面から画面を見つめる。
『彼氏できたか!?』
「…………」
『あなた!!』
『二十二だぞ!? 父親として把握を──』
『しなくていいの!』
『でも学校って若い先生とか──』
『終わり!』
『ちょ、待て! まだお父さんから大事な話が──』
母親の手が画面へ伸びてきた。
『スズメ、誕生日おめでとう。ちゃんと食べて、ちゃんと寝るのよ。またいつでも帰ってきてね』
『彼氏は──』
『あなたは黙って!』
映像が激しく揺れた。
『ちょ、押すなって!』
『どこで止めるのこれ』
『そこじゃない、右!』
『右ってどっち』
『そっち! あっ、それ押したら──』
ぷつん。
紙が白く戻った。
「…………」
朝の部屋に静けさが戻る。
窓の外から、海鳥の声が聞こえた。先ほどまで父親の大声が響いていたせいか、いつもよりその声が遠く感じられる。
スズメは数秒、白くなった便箋を見つめていた。
それから。
「……相変わらずだな」
小さく笑った。
便箋を畳もうとして、ふと手が止まる。
表の日付。
五月三十一日。
「…………あ」
スズメは瞬きをした。
もう一度、日付を見る。
五月三十一日。
「今日……」
そこで、ようやく気づいた。
「誕生日か…」
二十二歳。
今日から。
「…………」
あまり実感はなかった。
昨日まで二十一歳だった身体が、日付をまたいだだけで突然変化するわけでもない。研究資料の量が減るわけでもなければ、提出期限が延びるわけでもない。今日も授業があり、読まなければならない本があり、片づけなければならない書類がある。
去年の誕生日など、何をしていたのかほとんど覚えていなかった。
考えてみれば当然だった。
魔力測定をすれば常識外れの数字を叩き出し、教えた魔法は必要以上の威力で飛ばし、目を離せば何をしでかすか分からない十七歳の新入生が学校へやって来たばかりだった。誕生日を祝うどころではなかった。
その前の年も、魔法省を辞めて学校へ戻ったばかりだった。
その前は記録局。
その前は卒業。
昔から、誕生日だからといって何か特別なことをする習慣はあまりない。学校で夕食時に誕生日を祝うのも、生徒だけだ。教師がケーキを運ばれ、全校生徒から拍手を受けるようなことはない。
「二十二歳……」
口にしてみた。
やはり、特に何も変わらなかった。
「支度をしないと」
便箋を机の引き出しへしまう。
いつもの朝が始まった。
*
「では、今日は明治初期の魔法行政再編について続けます」
午前。
魔法史教室。
スズメは黒板へ文字を書きながら、教室全体を見渡した。
いつも通りの光景だった。
日向は眠そうにしている。楓は几帳面にノートを取っている。伊織はすでに教科書の先まで読み進めている。岳は真面目に授業を聞いているように見えるが、机の端には何か食べ物を隠している。
そして、奎星は。
「…………」
妙に真面目だった。
背筋を伸ばし、教科書を開き、スズメの話を黙って聞いている。いつもなら、授業の内容に関係があるのかないのか分からない質問を挟む頃だった。
スズメの眉が僅かに動く。
「蓮根君」
「はい」
「…………」
「何?」
「いえ」
おかしい。
いつもなら、今の説明のどこか一つを拾って妙な質問をする。あるいは「それ強い?」と聞く。歴史上の人物が出れば、「そいつ悪いやつ?」と勝手に善悪を二分する。
今日は黙っている。
「続けます」
スズメは板書へ戻った。
三分後。
後ろの席から、小さな紙が飛んだ。
奎星が受け取る。
紙を見る。
日向を見る。
日向が何かを口だけで伝える。
奎星が小さく頷く。
「蓮根君」
「はい」
「朝比奈君」
「はい」
二人の背筋が同時に伸びた。
「授業中です」
「何もしてないけど」
日向が言う。
「紙が飛んでいました」
「風です」
「今日は窓を閉めています」
「…………」
日向が黙った。
楓が額を押さえる。
「学習しなさいよ」
「いや、今のは奎星が」
「お前が飛ばしただろ」
「受け取ったお前も共犯」
「巻き込むなよ」
「二人とも」
「はい」
いつも通りだった。
スズメは小さく息を吐き、授業を続けた。
自分の誕生日のことなど、その頃にはもう忘れていた。
昼休みも、午後も、特別なことは何も起こらなかった。
研究室へ戻れば、机の上には昨日の続きがある。
江戸後期の禍祓官制度。
魔法省へ提出する研究報告。
神代冥司の事件以降、学校側で整理を続けている古い霊脈資料。
生徒たちが学校を取り戻したあの日から半年近くが経っても、あの事件に関係する資料はまだ完全には整理し終わっていなかった。
星帰り作戦で伊織と共に解析した接続術式も、その後の研究対象になっている。自分が気づいた霊脈と認識干渉の構造、奎星の守護霊が行った再接続。あのときは学校を取り戻すためだけに必死だったものが、今では何枚もの研究記録となり、本棚へ収まり始めていた。
紙を読み、羽根筆を動かし、授業へ行き、また研究室へ戻る。
いつもの日だった。
*
夕食の時間になり、スズメはいつもの教師席へ座った。
隣には土御門芽衣子がいる。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです、烏丸先生」
土御門がにこやかに返す。
スズメは味噌汁の椀を手に取った。
そこで、ふと隣を見た。
「…………」
土御門が笑っている。
いつも笑顔ではある。けれど、今日は何かが違った。普段よりも口元が緩み、目の奥に妙な期待が浮かんでいる。
「土御門先生」
「はい?」
「何ですか?」
「何がですか?」
「先ほどから」
「はい」
「……何か楽しそうですが」
「そうでしょうか?」
にこにこ。
「…………」
絶対に何かある。
「何ですか?」
「今に分かりますよ」
「何が──」
「みんなちゅうも〜〜〜〜〜〜く!!」
大食堂が震えた。
「…………」
スズメの眉が跳ねる。
生徒席を見る。
蓮根奎星が立っていた。両手を口元へ当て、大食堂全体へ向かって声を張り上げている。
「蓮根君!」
スズメは反射的に立ち上がった。
また何か始めた。
絶対にろくなことではない。
「食事中に大声を──」
「ああ、烏丸先生」
土御門が袖を軽く掴んだ。
「少しだけ」
「ですが」
向こうでは早瀬まで手を振っている。
「まあ待て、烏丸」
「早瀬先生まで何ですか」
「いいから、いいから」
「何が──」
奎星が両手を広げた。
「今日は!」
全校生徒の視線が集まる。
「五月三十一日!」
スズメが止まった。
「烏丸スズメ先生の!」
嫌な予感とは違う何かが、胸の奥を叩いた。
「誕生日で〜〜〜〜す!!」
一瞬、静寂が落ちた。
次の瞬間。
「おめでとおおおお!」
「烏丸先生おめでとうございます!」
「スズメ先生ー!」
「二十二歳ー!」
「若っ!」
「ヒュー!」
拍手、口笛、歓声。
大食堂全体が一気に騒がしくなった。
「…………」
スズメは立ったまま固まっていた。
下級課程から上級課程まで、生徒が、教師が、こちらへ向かって拍手している。
「え」
ようやく声が出た。
「え……?」
隣では土御門が楽しそうに拍手している。
「お誕生日おめでとうございます、烏丸先生」
「土御門先生……」
「驚きました?」
「……はい」
珍しく、それしか言えなかった。
スズメは慌てて頭を下げた。
「ありがとうございます」
もう一度、頭を下げる。
「ありがとうございます」
どこへ頭を下げればいいのか分からず、右へ、左へ、前へと順番に頭を下げていく。
「先生めっちゃぺこぺこしてる!」
どこかから声が飛んだ。
「見ないでください!」
笑いが起きた。
「からすませんせーい!」
今度は小さな声だった。
下級課程の席から、湊が走ってくる。両腕に何かを抱えていた。一枚ではない。二枚、三枚と重なった色紙が、湊の胸元からこぼれそうになっている。
「湊さん?」
「これ!」
湊は一番上の色紙を差し出した。
「からすませんせい! いつもれきしおしえてくれてありがとう!」
「…………」
スズメの手が止まる。
色紙を受け取る。
そこには、たくさんの文字があった。大きな字、小さな字、丁寧な字、勢いだけで書かれた字。下級生らしい絵も添えられている。
《先生の授業すきです》
《歴史むずかしいけど先生の話はおもしろい》
《図書室で本をさがしてくれてありがとう》
《去年こわかったとき助けてくれてありがとうございました》
《補習はこわいけど先生はすきです》
「…………誰ですか、最後」
思わず言うと、生徒席の一角で笑いが起きた。
次の色紙には、中級課程の生徒たちの名前が並んでいた。その次には上級課程。さらにその次には、教師たちの名前が書かれている。
一枚では収まらなかったらしい。
マホウトコロ中の名前が、何枚もの色紙へ詰まっていた。
九重院。
御影。
薬師寺。
早瀬。
土御門。
高宮。
教師たちの名前。
そして、生徒たち。
知っている名前。
授業で当てた名前。
廊下で注意した名前。
図書室で質問された名前。
怪我をして保健室へ連れていった名前。
星迎祭で見た名前。
あの日、取り戻した学校で再び顔を合わせた名前。
「…………」
スズメの指が、紙の縁をそっと撫でた。
「ありがとうございます」
今度の声は、少し小さかった。
「大切にします」
「よかった!」
湊が嬉しそうに笑う。
その瞬間。
「ヨイショ」
聞き覚えのある声がした。
「ヨイショ」
「…………?」
大食堂の奥から、何かが歩いてくる。
「ヨイショ」
「天ぷら?」
天ぷらだった。
またしても、自分の身体より大きな皿を抱えている。その上には、白いクリームで飾られたケーキが載っていた。皿の縁から苺がいくつも覗いている。
「ちょっと」
スズメの顔色が変わった。
「天ぷら!」
「トリマル!」
「烏丸です。それより無理しないでください!」
「ダイジョービ!」
「足が震えています!」
「ダイジョービ!」
「大丈夫ではありません!」
「オメタン!」
天ぷらが満面の笑みを浮かべた。
大食堂がまた沸く。
「おめでとー!」
「烏丸先生ー!」
「天ぷら頑張れー!」
「そっち応援するな!」
奎星が叫んだ。
スズメは慌てて天ぷらのところまで行き、皿を受け取った。
「ありがとうございます。ですが、次からは誰かに手伝ってもらってください」
「ダイジョービ!」
「聞いていますか?」
「オメデトー!」
「…………ありがとうございます」
結局、スズメは笑ってしまった。
そのとき。
「そしてぇ!」
奎星が再び立ち上がった。
スズメが嫌そうな顔をする。
「まだあるのですか?」
「この完璧なサプライズの!」
奎星が自分の胸へ親指を向ける。
「立案者である俺にも拍手喝采を!!」
「ざけんな!」
日向が立ち上がった。
「お前だけじゃねえだろ!」
「言い出したの俺じゃん!」
「色紙集めたの俺らだろ!」
楓も立ち上がる。
「私たちだって手伝ったでしょ!」
「飾りつけの紙買ったの僕だけど」
伊織が静かに付け足した。
「ケーキの大きさ決めたの俺」
岳も言う。
「お前は食いたかっただけだろ!」
「大事だ」
「ほら! 企画は俺!」
「最初に『学校中でやろうぜ』って騒いだだけじゃねえか!」
「それを企画って言うんだよ!」
「言わねえよ!」
「言う!」
「言わねえ!」
「何で誕生日祝いから喧嘩になるのよ!」
「楓も入ってんじゃん!」
「私は止めてるの!」
「痛っ!」
「蹴るな!」
「うるさい!」
一瞬前まで温かい拍手に包まれていた大食堂の一角が、あっという間にいつもの光景へ戻っていった。
教師席では、早瀬が呆れた顔でその様子を見ている。
「どうやったら、あそこから喧嘩に発展するんだ」
高宮が小さく笑った。
「才能でしょうね」
「そういう才能はいらんだろ」
土御門は頬に手を添え、楽しそうに笑っている。
「仲が良いですねえ」
「どこを見てそう思った」
御影が低く言った。
薬師寺が豪快に笑う。
「元気でええわい!」
「薬師寺先生が言うと、何でも許される感じになるんですよ」
スズメが席へ戻ってくる。
色紙を抱えたまま、ゆっくりと腰を下ろした。
「……まったく」
そう言いながらも、口元にはまだ笑みが残っていた。
「二十二か」
御影が言った。
「はい」
「早いな」
「御影先生に言われると、何が早いのか分かりません」
「十四の頃から見てる」
「昔話を始めないでください」
「何じゃ、ええではないか」
薬師寺が身を乗り出した。
「烏丸は昔から変わらんぞ」
「薬師寺先生まで」
「六つの頃から本ばかり読んどった」
「六歳の子供は普通に本を読みます」
「普通の六歳は休み時間に教師へ質問を三十個も持ってこん」
「…………」
土御門が笑う。
「可愛らしかったでしょうねえ」
「今も可愛いぞ!」
薬師寺が豪快に言った。
「やめてください」
「顔が嫌そうじゃのう!」
「本当に嫌だからです」
教師席に笑いが広がった。
「十四歳の頃は」
御影が口を開く。
「御影先生」
「まだ何も言ってない」
「どうせ昔の話です」
「本を顎まで積んで歩いていた」
「今もですねえ」
土御門が言った。
「…………」
「今日も見ましたよ」
「…………」
「昔から変わってないな」
御影が言う。
「皆さん、今日は私の誕生日を祝う会ではなく、昔の失敗を暴露する会なのですか?」
「失敗とは言っとらんぞ!」
薬師寺が笑う。
「良い生徒でしたよ」
九重院が静かに言った。
スズメがそちらを見る。
九重院は穏やかに笑っていた。
「とてもよく学ぶ生徒でした。そして」
一度、生徒席へ視線を向ける。
奎星たちは、まだ揉めている。
「良い先生になりました」
「…………」
スズメの動きが止まった。
「まだまだです」
「そう思えるうちは、大丈夫でしょう」
九重院はそれだけ言い、茶を一口飲んだ。
スズメは何も返せなかった。
色紙を抱く腕に、少しだけ力が入った。
*
夕食を終えたあと。
夜の回廊を、スズメは一人で歩いていた。
腕の中には、何枚もの色紙がある。
校舎の窓はすっかり夜を映していた。外には月の光を受けた海が広がり、波の白い縁だけが遠くで僅かに揺れている。校内の魔法灯は昼よりも光を落とし、羊脂玉の床へ柔らかな影を作っていた。
生徒たちの声も、もう遠い。
スズメは歩きながら、色紙を一枚めくった。
《いつもありがとう》
次。
《進路相談のとき話聞いてくれてありがとうございました》
次。
《星帰りのとき先生がいてくれて安心しました》
「…………」
歩みが少し遅くなる。
あの日。
自分が何か特別なことをしたつもりはなかった。
神代冥司に学校を奪われ、生徒たちの認識を書き換えられ、外へ追い出され、それでも戻る方法を探した。
伊織と術式を読み、奎星へ閉心術を教え、霊脈へ守護霊を通す方法を考えた。
教師だったから。
生徒を取り戻したかったから。
学校へ帰りたかったから。
ただ、それだけだった。
けれど。
色紙の中には、その時間を覚えている生徒がいる。
自分よりずっと小さな子供が、あの日の自分を《いてくれて安心した》と書いている。
別の色紙には、こうあった。
《烏丸先生の授業、前より好きになりました》
《怒るけどちゃんと最後まで教えてくれるから好きです》
《先生が先生でよかったです》
「…………」
スズメは立ち止まった。
長い回廊。
誰もいない。
昔。
自分も同じ場所を制服で歩いていた。
今より小さな身体で、今と同じように大量の本を抱えて。
教師を見つければ質問した。
御影が向こうから来れば、妙に背筋を伸ばした。
薬師寺の薬は昔から変な味がした。
九重院は今と同じように校長だった。
そんな自分が卒業して。
一度、この学校を離れて。
また戻ってきた。
今は教師だった。
蓮根奎星だけではない。
日向。
楓。
伊織。
岳。
湊。
授業を受ける何十人もの子供たち。
廊下ですれ違う生徒。
名前を覚えている生徒。
まだ顔と名前が一致しない下級生。
彼らにとって。
自分は。
先生だった。
「…………」
色紙を胸元へ抱き直す。
「ありがとうございます」
誰もいない廊下で、もう一度だけ言った。
*
研究室の扉を開けた。
「…………?」
暗い。
いつもなら自動で点く魔法灯が消えている。
スズメが杖へ手を伸ばしかけた、その瞬間。
ぱっ。
室内の灯りが一斉に点いた。
「…………」
スズメは扉の前で立ち止まった。
そこは見慣れた研究室のはずだった。
けれど、壁には紙で作った星が貼られている。赤、青、黄色。大きさはばらばらで、紐で繋いだ飾りが本棚から本棚へ渡されていた。ただし、右側だけ妙に低い。
窓には《おめでとう》と書いた紙が貼られている。
ただし、《う》だけが傾いていた。
一枚だけ、星が逆さまになっている。
机の上には紙屑が残っていた。明らかに片づけきれていない。
「…………」
綺麗ではない。
ものすごく綺麗ではない。
けれど、頑張ったことだけは異常なほど伝わってくる。
そして、研究室の中央には、大きなトランクが一つ置かれていた。
深い焦茶色の革。
書類鞄というより、小型の旅行鞄に近い。
その上に、リボンが結ばれている。
「…………」
結び目は歪んでいた。
片方だけが長い。
三回くらいやり直した跡がある。
スズメは色紙を抱えたまま、口を少し開けていた。
何も言えない。
その頃。
研究室から二十メートルほど離れた回廊の柱の陰から、頭だけが出ていた。
「入った」
奎星だった。
扉が閉まるのを確認し、奎星は小さく頷く。
「よし」
小さく息を吸う。
ぱん。
*
「おめでとー!!」
「っ!?」
背後で破裂音がした。
スズメが振り返る。
何もなかった場所から、奎星が現れていた。両腕を広げ、満面の笑みを浮かべている。
「サプラ〜イズ!」
「…………」
「じゃじゃーん!」
奎星は研究室中央のトランクを両手で指した。
「…………」
スズメは動かなかった。
「あれ?」
奎星が首を傾げる。
「スズメちゃん?」
「…………」
「烏丸先生?」
「…………」
「え、怖」
「誰が」
「あ、喋った」
「蓮根君」
「はい」
「何ですか、これは」
「誕生日プレゼント!」
即答だった。
奎星はトランクへ駆け寄る。
「これな、八咫小路で買ったんだ!」
「八咫小路……」
「昨日!」
「昨日?」
「ちょうど休みだったから!」
「…………」
「で、これすげえんだよ」
奎星はリボンを外そうとした。
しかし、上手く結べていなかったせいで途中で絡まる。
「…………」
「あれ」
「…………」
「ちょっと待って」
「切ればいいでしょう」
「ダメ! 俺が結んだやつだから!」
「自分で外せない結び方をしないでください」
「昨日めっちゃ練習したんだよ」
「成果がこれですか」
「言うなよ!」
しばらく格闘した末、ようやくリボンが解けた。
「見て!」
蓋を開く。
中は書類を入れやすいよう、いくつかの仕切りに分かれていた。巻物を固定する革帯。分厚い本を横へ収める空間。羽根筆や印章を入れる細いポケットまである。
「書類用のトランクなんだ」
奎星は得意げに言った。
「しかも、すんごいのが」
本棚へ向かう。
「これ借りるよ」
「何を──」
スズメが止めるより早く、奎星は分厚い本を一冊抜き取った。
「それは十八世紀の──」
「大丈夫!」
「大丈夫では」
どすん。
本がトランクへ入れられた。
「これも」
「蓮根君」
「あとこれ」
「蓮根君」
三冊。
「重くする必要があります」
「何の実験ですか」
「見てて」
奎星はトランクを閉じた。
取っ手を握り、持ち上げる。
「ほら!」
片手で、軽々と。
そのまま上下へ振る。
「スズメちゃん見て! 軽いよー!」
「本を振らないでください!」
「大丈夫だって!」
「中身は古書ですよ!」
「じゃあスズメちゃん持ってみ」
「話を聞いてください」
「ほら」
奎星はトランクをスズメへ押し付けた。
「…………」
スズメが持つ。
目が僅かに開いた。
「軽い……」
「だろ?」
「これは……」
「入れた物の重さが十分の一になるんだって」
奎星が胸を張る。
「書類とか本を入れるのに、めっちゃ向いてるんだよ」
「…………」
「いっぱい入れても軽いし」
「…………」
「スズメちゃん?」
また、スズメは止まっていた。
「あれ?」
奎星の笑顔が少しだけ弱くなる。
「気に入んなかった?」
「…………」
「その」
急に自信がなくなったらしい。奎星は頭の後ろを掻いた。
「スズメちゃん、いつも書類めっちゃ重たそうに持ってるじゃん」
「…………」
「前見えてねえし」
「見えています」
「見えてねえって」
「…………」
「この前も潰れそうだったし」
「潰れません」
「だから」
奎星はトランクを見る。
「これあったら便利かなって思って」
「…………」
「危ないし」
声が少し小さくなる。
「先生って資料とかいっぱい運ぶだろ」
スズメは、何も言えなかった。
この子は。
本当に。
どうして、こんなところばかり見ているのだろう。
高価な装飾品でもない。
珍しい魔法具でもない。
自分が喜びそうな歴史書ですらない。
毎日、自分が研究室から職員室へ、図書室から教室へ、大量の紙と本を抱えて歩いている。
それを見て。
重そうだと思った。
危ないと思った。
だから、これを選んだ。
学生だった頃から、スズメは本を抱えすぎる子供だった。教師になった今も変わらず、つい数日前にも奎星は何の迷いもなく荷物を持っていった。かつて御影に同じように半分を持たれたことまである。
「…………」
胸の奥に、何かが刺さった。
痛くはない。
むしろ、温かすぎて困る。
「本当に……」
スズメはトランクの取っ手を握ったまま言った。
「ありがとうございます」
奎星の顔が明るくなる。
「おう!」
「大切に使います」
「マジ?」
「はい」
「よかったー」
本気で安心した顔だった。
その顔を見た瞬間、また胸が苦しくなる。
「でも」
奎星が言った。
「こっちのセリフだよ」
「え?」
「ありがとう」
「…………」
「スズメちゃん」
奎星は笑う。
いつもの笑い方だった。
けれど、声だけが少し真面目だった。
「俺をここに連れてきてくれたのも」
スズメが見る。
「魔法使えるようになったのも」
一年前。
東京。
深夜。
一羽の鴉。
「進級できたのも」
研究室。
大量の赤点。
補習。
「今、毎日楽しいのも」
日向。
楓。
岳。
伊織。
御影。
九重院。
天ぷら。
この学校。
「全部スズメちゃんのおかげだから」
「…………」
「だから」
奎星は少しだけ照れたように鼻の下を擦った。
「ありがとう」
静かだった。
研究室の扉は閉まっている。
遠くで波が鳴っている。
夜の校舎。
二人だけ。
魔法灯の淡い明かり。
不格好な紙飾り。
歪んだリボン。
トランク。
スズメは奎星を見ていた。
どうしようもなかった。
泣きそうだった。
本当に。
この子は。
「…………」
一度、自分の中にあるものを《大切》と呼んだことがある。
それでも足りなかった。
教師としての感情なのか。
自分を慕ってくれる教え子への愛情なのか。
一緒に死にかけ、一緒に笑い、自分の記憶から失われたとき、もう一度こちらへ手を伸ばしてくれた一人の人間への感謝なのか。
それとも、もっと別の名前をつけるべき感情なのか。
もう、自分でも区別できなかった。
全部が混ざっている。
嬉しい。
大切。
離れてほしくない。
見ていたい。
無事でいてほしい。
卒業してほしい。
卒業してほしくない。
自分の知らない場所へ行けるようになってほしい。
自分の知らない場所へ行ってほしくない。
矛盾ばかりだった。
「スズメちゃん?」
「…………」
「どうした?」
奎星の声が少し近くなる。
スズメは何か答えようとした。
けれど、声が出ない。
奎星も動かなくなった。
気づいたのだろう。
何となく。
そこまで鈍くはない。
二人の間にある空気が、いつもの研究室とは違うことくらい。
「…………」
奎星の耳が少し赤くなる。
スズメも視線を逸らせなくなった。
ほんの数歩。
近づこうと思えば近づける。
手を伸ばそうと思えば届く。
けれど。
今は。
教師と生徒だった。
十八歳になったからといって、その事実が突然消えるわけではない。
奎星は一度、口を開く。
閉じる。
そして。
「……じゃ」
声が裏返りかけた。
「俺、戻るわ」
「…………はい」
「おやすみ!」
急に大きい。
「……おやすみなさい」
「うん!」
奎星は扉へ向かった。
開ける。
一度だけ振り返る。
「誕生日、おめでとう」
今度は普通の声だった。
「…………ありがとうございます」
扉が閉じた。
足音が遠ざかる。
静寂。
「…………」
スズメは、その場から動けなかった。
胸元へ手を当てる。
心臓がうるさい。
「……まったく」
誰もいない研究室で呟く。
目元が少し熱かった。
机の上には、不格好な飾りがある。
トランク。
今日もらった色紙。
父と母からの便箋。
二十二歳。
たぶん。
今までで一番忘れられない誕生日になった。
*
翌朝。
六月一日。
午前七時過ぎ。
「…………死ぬ」
蓮根奎星は、大食堂の入口で呟いた。
朝練を終え、御影に転がされ、走らされ、最後には「昨日浮かれていた分集中しろ」と意味の分からない追加訓練まで課された。その後、大急ぎで風呂へ入り、ようやく朝食へ辿り着いたところだった。
髪はまだ少し濡れている。
左頬には擦り傷。
新しい焦茶色の杖入れだけは、腰にきちんとついていた。
「腹減った……」
奎星が大食堂の中へ入る。
そこで。
「なあ」
「ん?」
近くの男子が奎星の肩を掴んだ。
「見ろ」
「何」
「教師席」
奎星がそちらを見る。
「…………」
何かいる。
いや。
誰かいる。
九重院の隣に、知らない女性が座っていた。
「誰?」
「知らん」
「新しい先生?」
「たぶん」
「めっちゃ綺麗じゃね?」
「…………」
奎星は目を細めた。
確かに、かなり目立つ。
二十代半ばほど。背はスズメより明らかに高く、姿勢がよく、すらりとした体型をしている。艶のある髪を後ろでまとめ、教師陣の中では少し明るい印象の服装をしていた。何より表情が豊かで、九重院から何か話しかけられるたびに、笑いながら大きく頷いている。
すでに男子生徒たちの視線が集まっていた。
「やば」
「誰だよ」
「新任?」
「上級担当かな」
「こっち見た」
「お前じゃねえよ」
「いや俺だって」
「違うって」
奎星はいつもの席へ向かった。
日向がいる。
「おはよ」
「奎星」
「何」
日向が真顔だった。
「見た?」
「見た」
「可愛くね?」
「朝からそれ?」
「大事だろ」
岳の発言みたいになっている。
伊織は、いつも通り冷静に食事をしていた。
「新しい外部講師じゃない?」
「知ってんの?」
「今、九重院校長と話してる内容が少し聞こえた」
「盗み聞きじゃん」
「君たちが話してばっかだから聞こえないだけ」
楓が席へ来る。
「何、みんなして教師席見てんの?」
「新しい先生」
日向が顎で示す。
楓もそちらを見る。
「ああ。綺麗な人ね」
「だろ!?」
「何で日向が誇らしげなのよ」
「気が合うかもしれない」
「まだ一言も話してないでしょ」
「第一印象」
「顔しか見てないじゃない」
「顔も第一印象だろ」
「最低」
「何で!?」
そのとき。
九重院が立ち上がった。
大食堂の音が少しずつ静かになる。
「皆さん、おはようございます」
「おはようございまーす」
生徒たちの声が返る。
「本日は、皆さんへ一つお知らせがあります」
九重院の隣で、女性も立ち上がった。
男子席が妙に静かになった。
「今年度、特に上級課程三年生の皆さんを対象として、卒業後の進路について考える《キャリアデザイン》の授業を追加することとなりました」
奎星の眉が寄る。
「キャリア……」
「進路」
伊織が小声で言う。
「ああ」
「昨日からそれしか話してないじゃん」
「横文字にすんなよ」
「普通だよ」
「その授業を担当していただくため、魔法省から外部講師をお招きしています」
九重院が女性を見る。
「では、自己紹介をお願いできますか?」
「はい!」
明るい声だった。
女性が一歩前へ出る。
「皆さん、初めまして!」
にこっと笑う。
「坪田茜と申します!」
男子席の空気が変わった。
「今年一年、皆さんが卒業したあと何をしたいのか、どういう仕事が合うのか、一緒に考えるお手伝いをします!」
声も表情も明るい。
「進路って聞くと堅苦しく感じるかもしれないけど、そんなに身構えなくて大丈夫です!」
一度、教師席を見る。
「私、二十六歳なので」
笑う。
「みんなとは、まあまあ他の先生方に比べたら歳も近いですし! 話も合うと思います!」
「嫌味か小娘!」
教師席から声が飛んだ。
薬師寺だった。
一瞬の静寂。
「あっ!」
茜が慌てる。
「違いますよ〜!」
大食堂が笑いに包まれた。
「薬師寺先生は別枠です!」
「どういう意味じゃ!」
「褒めてます!」
「絶対褒めとらんじゃろ!」
また笑いが起きる。
茜も楽しそうに笑っていた。
「面白い」
日向が呟く。
「愛嬌もあるぞ」
近くの男子が言う。
「か、可愛い……」
別の男子が呟く。
「烏丸先生とは別タイプの美人だな」
「分かる」
「烏丸先生はこう、静かな感じ」
「坪田先生は明るい」
「スタイルよすぎるだろ……」
「おっぱ──」
ごん。
「いってぇぇぇ!」
日向が頭を抱えた。
楓が拳を下ろす。
「最低」
「最後まで言ってないだろ!」
「言わせるわけないでしょ!」
「何言おうとしたか決めつけんなよ!」
「じゃあ言ってみなさいよ」
「…………おっぱじめようぜ、キャリアデザインを」
「無理ありすぎるわよ!」
「痛っ!」
奎星が腹を抱えて笑う。
「まぬけ〜」
「お前笑ってんじゃねえ!」
「朝から元気ですねえ」
土御門が教師席で笑っている。
その隣。
スズメも座っていた。
昨日とは何事もなかったような顔で朝食を取っている。
少なくとも。
そう見せていた。
「それから!」
茜が続けた。
「もう一つあります!」
奎星は味噌汁を飲む。
「今年はキャリアデザインの授業とは別に、個別の進路相談も担当します」
「いいじゃん」
日向が言う。
「特に」
茜が手元の資料を見る。
「上級課程三年」
一拍。
「蓮根奎星君!」
「ぶっ」
奎星が味噌汁を噴きかけた。
「汚っ!」
楓が避ける。
「げほっ、俺!?」
茜が奎星を見る。
「あ、君だね!」
笑顔。
「…………はい」
「蓮根君については!」
明るい声。
「私が専任アドバイザーとして、放課後の進路相談も担当しまーす!」
「…………」
大食堂が静かになった。
奎星の口が開く。
「…………え?」
スズメの箸も止まった。
「せ」
小さな声が漏れる。
「専任……?」
九重院が説明を引き取る。
「蓮根君の卒業後の進路については、魔法省からも非常に関心が寄せられています」
「魔法省?」
奎星が聞き返す。
「はい。これまでの経緯もありますので、通常より丁寧に進路選択を支援したいとの申し出がありました。坪田さんには皆さんへの授業に加えて、蓮根君個人の相談も担当していただきます」
「俺だけ?」
「そうなります」
「…………」
奎星が茜を見る。
茜が笑顔で手を振る。
「よろしくね、蓮根君!」
「…………う、うす」
一秒。
二秒。
男子席。
何十もの目が、ゆっくりと奎星へ向いた。
「…………」
奎星も気づく。
「何?」
日向が立ち上がった。
「奎星ぇ……」
「何だよ」
「またテメェだけ……」
「何?」
「特別扱いかぁぁぁぁぁ!!」
「何でだよ!」
日向が襲いかかった。
「うおっ!」
奎星が椅子ごと倒れる。
別の男子も加わる。
「烏丸先生のみならずぅ!」
「何の話!?」
「今度は美人専任アドバイザーだとぉ!?」
「俺が頼んだんじゃねえよ!」
「死ねぇ!」
「理不尽!」
「蓮根を許すな!」
「何で!?」
「昨日烏丸先生と何してた!」
「関係ねえだろ!」
「やっぱ何かしてたのか!」
「墓穴!」
日向が叫ぶ。
「テメェ!」
「お前も来んな日向!」
「俺にも専任つけろ!」
「知らねえよ!」
「坪田先生を公平にしろ!」
「人を配給みたいに言うな!」
男子たちが雪崩れ込む。
「ちょ、待て!」
奎星が埋まる。
「杖入れ引っ張んな! それ新品!」
「烏丸先生にもらったやつだろ!」
「そうだよ!」
「余計ムカつく!」
「何でだよ!」
「死ね蓮根!」
「朝から一回御影先生に殺されかけてんだぞ俺!」
「もう一回死ね!」
「お前ら友達じゃねえの!?」
「今日から敵だ!」
「ぎゃあああああああ」
大食堂の一角が完全に崩壊した。
「男子って本当に馬鹿ね……」
楓が呆れている。
岳はその横で、何事もないように朝食を食べていた。
「岳、助けろ!」
山の下から奎星の手が伸びる。
「今食べてる」
「薄情者!」
「味噌汁冷める」
「俺が潰れる!」
「丈夫だから大丈夫」
「御影先生みたいなこと言うな!」
伊織は眼鏡を押し上げた。
「朝から元気だね」
「助けろ伊織ぃ!」
「専任アドバイザーがいるから大丈夫じゃない?」
「用途違う!」
教師席では、早瀬が額を押さえていた。
「朝から何やってんだ、あいつら」
薬師寺は笑っている。
「元気でええ!」
「昨日も同じこと言ってましたよね」
土御門が楽しそうに言う。
「若いうちは元気が一番じゃ!」
九重院も僅かに困ったように笑っている。
茜は目を丸くしていた。
「蓮根君って……人気者なんですね」
「……まあ」
土御門が笑う。
「色々な意味で」
「…………」
その横で。
スズメだけが、まだ少し口を開けたままだった。
「専任……」
ぽつり。
「アドバイザー……」
昨日まで、奎星の進路相談を受けていたのは自分だった。
何の仕事が向いているか分からない、と机へ突っ伏す彼へ、自分で考えなさい、と言った。
その翌日。
魔法省から。
二十六歳。
綺麗で。
明るくて。
愛嬌のある女性。
専任。
「…………」
土御門が横を見る。
スズメを見る。
次に茜を見る。
男子生徒の山から片腕だけ出している奎星を見る。
もう一度。
スズメを見る。
「…………土御門先生」
「はい?」
「何ですか、その顔」
「何のことでしょう?」
にこにこ。
「昨日と同じ顔をしています」
「そうでしょうか?」
「しています」
「ふふ」
「笑わないでください」
その向こうでは。
「蓮根ぇぇぇ!」
「やめろって!」
「専任ずるいぞ!」
「知らねえって!」
「放課後代われ!」
「進路相談だぞ!?」
「俺も進路悩んでる!」
「自分で相談申し込めよ!」
「烏丸先生もいるくせに!」
「だから何の話だよ!」
朝の大食堂に、また一つ騒がしい声が増えていた。
スズメはしばらく、その光景を見ていた。
そして。
隣で楽しそうに笑っている土御門を、ほんの少しだけ睨んだ。