二〇二七年五月二十八日、金曜日。
午後九時十八分。
男子寮の一室で、蓮根奎星は机を両手で叩いた。
「緊急作戦会議を始める!!」
どん、と大きな音が響き、机の上に置かれていた星灯石のキーホルダーが跳ねる。
日向はベッドに寝転がったまま眉を寄せ、岳は菓子を食べ続け、伊織は本のページから顔すら上げなかった。部屋の中で緊急事態らしい反応をしているのは、立ち上がった奎星ただ一人である。しかも、腰には今日スズメから貰ったばかりの濃紺の杖入れが下がっていた。
「お前ら、分かってんのか!?」
「何が」
岳が菓子を噛みながら訊く。
「月曜!」
「授業」
「違う!」
「朝練?」
「それは俺だけだろ!」
伊織がようやく本から目を上げた。
「烏丸先生の誕生日でしょ」
「そう!! 五月三十一日!」
奎星は伊織を指差した。まるで重大な秘密を暴かれたような顔をしている。
日向がベッドの上で身体を起こす。
「三日あるじゃん」
「三日しかねえんだよ!」
「昨日まで知らなかった奴が言う?」
「だから焦ってんだろ!」
金曜日の夜。明日は土曜日で、その次は日曜日。そして月曜日には、スズメの誕生日が来る。時間だけを見れば、週末が丸々残っている。しかし、プレゼントを選び、学校で祝う許可を取り、ケーキや色紙を用意し、飾り付けまで済ませなければならない。何より、本人に気づかれずに準備する必要がある。
奎星は頭を抱えた。
「スズメちゃん、変なところで勘がいいんだよな……」
「君が分かりやすすぎるだけじゃない?」
伊織が淡々と言う。
「俺、隠し事うまいだろ!」
三人の間に、気まずい沈黙が落ちた。
「何か言えよ!」
日向が起き上がり、呆れたように笑う。
「烏丸先生相手だと特に無理だろ。お前、何か企んでるとき、顔に『企んでます』って書いてあるし」
「書いてねえよ!」
「書いてる」
岳が即答した。
「書いてるね」
伊織まで頷く。
「お前らなぁ!」
そのとき、部屋の隅に置かれた小さな暖炉から、青白い炎がふっと立ち上がった。炎はゆらめきながら横へ広がり、やがて一枚の鏡のような形になる。火映しだ。
「お、来た!」
奎星が振り返る。
炎の向こうに、水無瀬楓の顔が浮かんだ。
『何よ、こんな時間に』
「楓! 作戦会議!」
『嫌な予感しかしないんだけど』
「スズメちゃんの誕生日!」
楓の表情が止まった。
『……烏丸先生の?』
「月曜!」
『そうなの?』
「伊織情報!」
伊織が眼鏡を押し上げる。
「間違いないよ。五月三十一日」
楓は少し考えたあと、意外にもあっさり頷いた。
『いいじゃない』
奎星が目を瞬く。
「え?」
『何、その反応』
「いや、もっとこう……教師の誕生日を学校ぐるみで祝うのはどうなの、とか。烏丸先生が困るんじゃないか、とか言われると思ってた」
『どうして?』
楓は不思議そうに首を傾げた。
『私もやるわよ。烏丸先生には、今まで何度も助けてもらったもの』
日向もベッドから足を下ろした。
「俺もやるぞ」
岳が菓子を置く。
「俺も」
伊織も本を閉じた。
「手伝うよ」
奎星は、目の前の三人と火映しの向こうの楓を順番に見た。
「……マジ?」
楓が呆れたように言う。
『何であんたが一番驚いてるのよ』
「だってさ」
奎星は少しだけ笑った。
「スズメちゃんの誕生日だぞ?」
『だからでしょ』
楓は当然のように答えた。それから、少し遠くを見るような目をして続ける。
『最初は正直、とっつきにくい先生だと思ってたけど』
「分かる」
日向が頷く。
「え!?」
奎星が勢いよく振り返った。
「怖くねえだろ!」
「お前の基準がおかしいんだよ。授業中に寝たら教科書飛ばしてくる先生だぞ」
「寝るなよ!」
日向は笑ったが、すぐに声を落とした。
「でもさ。前より、笑うようになったよな。烏丸先生」
楓も頷く。
『それは思う』
伊織が眼鏡を押し上げた。
「原因は多分、この部屋にいるけどね」
全員の視線が奎星へ集まる。
「俺?」
「君」
「何で?」
「本気で分かってないの?」
「分かんねえ」
伊織は小さくため息をついた。楓はそれ以上追及せず、静かに言葉を続ける。
『それに、私たちだって烏丸先生には何度も助けてもらったでしょう。鬼火鳥のことも、朝凪島のことも、黒曜の門や常隠島のことも。星帰りの事件だって、今年の冬の記憶の事件だって』
一緒に逃げた。一緒に戦った。同じ場所で命を賭けた。
教師と生徒という関係だけでは、もう言い表せないほどの時間を過ごしてきた。
「まあな」
日向が少し笑う。
「俺ら、もう普通に戦友だもんな」
『先生を戦友って呼ぶのは、ちょっと違う気もするけど』
「でも一緒に命張ったじゃん」
『それはそうだけど』
岳が短く言った。
「恩返ししたい」
奎星が岳を見る。
岳はいつものように菓子を食べながら、もう一度、同じ言葉を口にした。
「烏丸先生には世話になってる」
その一言が、奎星の胸に温かく響いた。
自分がスズメを好きだから、自分が祝いたいから、みんなを巻き込むのだと思っていた。けれど、そうではなかった。スズメはもう、奎星だけの先生ではない。この四人にとっても、命を預け、背中を預けた大切な人なのだ。
「よし!」
奎星は再び机を叩いた。
「じゃあ盛大にやるぞ!」
「盛大って何するんだよ」
日向が訊く。
奎星は腕を組み、真剣に考えた。
「まず……月曜の夕飯でやりたい」
今日、自分が祝われたのと同じ大食堂で。全校生徒と教師たちが集まる場所で、今度はスズメを祝う。
「でも、先生の誕生日を勝手にやるなら、校長先生に許可を取らねえとな」
奎星がそう言った直後、窓の隙間から白い折り鶴が飛び込んできた。折り鶴は部屋の中を一周すると、伊織の前へ静かに落ちる。
伊織が拾い上げ、折り目を開いた。
「許可、出たよ」
沈黙が落ちた。
奎星はゆっくり伊織を見る。
「……何の?」
「月曜日の夕食で、烏丸先生の誕生日祝いをしていいって」
「いつ頼んだ!?」
「さっき」
「俺が言う前!?」
「君が『夕飯でやりたい』と言った辺りで送った」
「返事、もう来たの!?」
「校長先生も執務室にいたんだろうね」
奎星は伊織を見つめたまま、しばらく言葉を失った。
「仕事はええなお前……」
伊織はすっと眼鏡を押し上げる。
「当然だよ」
「腹立つくらい格好いいな!」
日向が吹き出し、火映しの向こうで楓も笑った。
奎星は気を取り直し、楓を指差す。
「とにかく! 楓、お前は俺と一緒にスズメちゃんの誕生日プレゼントを選んでくれ!」
『いいけど……』
「けど?」
『日向もついてきて』
日向がすぐに立ち上がった。
「いいぜ! イケイケのプレゼント選んでやるよ!」
楓の表情が一瞬で曇る。
『……不安になってきたわ』
「何で!?」
奎星も首を傾げた。
「日向の言うイケイケって何だ?」
「光るやつ」
『やっぱり来なくていいかも』
「早えよ!」
奎星は次に、岳と伊織へ向き直った。
「岳! 伊織!」
「何」
「何?」
「お前らは色紙!」
岳が菓子を置く。
「色紙」
「そう! スズメちゃん、下級生にも中級生にも授業してるだろ? みんなにメッセージを書いてもらおうぜ!」
伊織が少し考え、頷いた。
「なるほど。先生たちにも書いてもらおう」
「任せろ」
岳が力強く言う。
「頼もしい!」
「僕もいるけど」
伊織が言う。
「伊織は勝手に全部やりそうだから心配してない」
「褒められているのかな」
「褒めてる!」
奎星は全員を見回した。日向、岳、伊織、そして火映しの向こうの楓。
「よし、じゃあ全員、月曜日までに仕上げること!」
日向が笑う。
「お前、急に委員長みたいだな」
「俺はスズメちゃん誕生日実行委員長!」
伊織が淡々と訊いた。
「誰が任命したの?」
「俺!」
「権限がないね」
「こういうのは言った奴が勝ちなんだよ!」
楓がため息をつく。
『烏丸先生にだけは、絶対にバレないようにね』
「任せろ!」
四人が黙った。
「何で黙んの!?」
*
翌日、五月二十九日。土曜日。
八咫小路は休日らしい賑わいに包まれていた。古い石畳の両脇には魔法具店や菓子屋、書店、杖職人の店が並び、軒下では魔法風鈴が涼しげな音を立てている。空中を飛ぶ式紙広告が店先を行き交い、通りの向こうからは焼き菓子の甘い匂いが漂っていた。
しかし、蓮根奎星はその景色を楽しむ余裕もなく、腕を組んで店先を睨んでいた。
「何がいいんだよ……」
その顔だけを見れば、人生の岐路に立っているようだった。
「本は?」
楓が訊く。
「持ってそう」
「確かに」
「というか、スズメちゃんって本を買うとき俺の百倍慎重だから、俺が適当に選んでも駄目な気がする」
「その判断は正しいわね」
日向が別の店先を覗き込みながら言う。
「じゃあ文房具は?」
「うーん……」
奎星は羽根筆やインク、書見台、本を自動で押さえる魔法具、小さな魔法灯を順番に見ていく。どれもスズメなら使うだろう。喜んでくれるかもしれない。
けれど、どこか違う。
「栞は?」
日向が訊いた。
奎星はじろりと睨む。
「もうあげた」
「ああ、クリスマスの」
「銀のやつ」
「めっちゃ考えてたよな、お前」
「七分!」
「七分しか考えてないじゃん」
「俺の中では死ぬほど長いんだよ!」
奎星は頭を掻いた。
キーホルダーのような小物でもいい。可愛い飾りでもいい。けれど、今回はもっと、ちゃんとしたものを贈りたかった。
去年の誕生日には、何もできなかった。自分はまだマホウトコロへ来たばかりで、スズメの誕生日を知る余裕もなかった。だからこそ、今年はきちんと考えたい。
「スズメちゃんが毎日使えるやつがいい」
奎星が呟くと、楓は少しだけ目を細めた。日向も、珍しくからかわなかった。
三人は通りを歩き続けた。一軒、二軒、三軒と店を覗いていく。
そのとき、奎星の足がぴたりと止まった。
旅行用品と魔法鞄を扱う専門店の硝子窓。その中に、濃い茶色のトランクが置かれていた。派手な装飾はない。革張りの表面と金属で補強された角は、古い旅行鞄にも、研究者が資料を運ぶための道具にも見える。
「これ」
奎星が窓へ近づく。
「何?」
日向も覗き込む。
札には、こう書かれていた。
《軽量収納式資料トランク》
《内部重量軽減術式》
《書籍・巻物・資料向け》
《衝撃・湿気・簡易耐魔法加工》
奎星の目が輝いた。
「これじゃん!!」
楓が驚く。
「急ね!」
「昨日!」
奎星は振り返った。
「スズメちゃん、めっちゃ資料持ってたじゃん!」
昨日の夕方、スズメは両腕いっぱいに本や書類、巻物を抱えていた。資料の山に身体が埋まりそうになっていたから、奎星が半分以上を持った。
――スズメちゃん、そんなんじゃ潰れちゃうよ。
――潰れません。
あのやり取りを思い出す。
「いつも持ってるんだよ! 研究室へ行くときも、授業へ行くときも、書庫から戻ってくるときも!」
日向と楓が顔を見合わせたが、奎星は気づかず、札を読み続けていた。
「中身が軽くなるんだって!」
店へ入るなり、奎星は店員へ声をかけた。
「これください!」
店員が驚いて振り返る。
「え、あ、はい。こちらは資料用の――」
「知ってます!」
「容量は標準型と拡張型が――」
「いっぱい入るほう!」
「拡張型ですね」
「それ!」
楓が後ろから口を挟む。
「値段は見た?」
奎星の動きが止まった。札を見て、財布を見て、もう一度トランクを見る。
「……いける」
日向が値札を覗き込む。
「結構すんな」
「いける」
「無理してない?」
「誕生日だぞ」
即答だった。
奎星はトランクへ手を置く。
「これがいい」
迷いはなかった。
楓はそれ以上何も言わず、日向も笑って頷いた。
「じゃ、決まりだな」
店員から説明を受けると、トランクの内部に入れた資料の重量はおよそ十分の一になるという。中身の大きさに合わせて仕切りが自動で変わり、本が倒れないよう固定される。湿気を抑え、衝撃にも強く、鍵には持ち主の魔力を登録できる。
説明を聞くたび、奎星は目を輝かせた。
「それ、スズメちゃん絶対使う!」
「こちらは古い羊皮紙にも対応していまして――」
「それもいい!」
「鍵は魔力登録式ですので、他人には開けられません」
「古い本も大丈夫!?」
質問が止まらない。
少し離れた場所で、楓はその姿を見守っていた。日向が隣へ来る。
「なあ」
「何?」
「奎星さ」
「うん」
「めっちゃ見てるよな」
楓はトランクを見ているという意味かと思った。しかし、日向の視線は奎星へ向いていた。
「烏丸先生のこと」
楓は黙った。
昨日、資料を持っていたこと。普段どんな物を持ち歩いているか。何に困っているか。何なら使うか。奎星は全部覚えている。
本人は、おそらくそれを特別なことだと思っていない。
楓は小さく笑った。
「そうね」
日向も笑う。
「本人、分かってんのかな」
「好きなことは分かってるでしょ」
「そうじゃなくて」
「何?」
「もういい」
「気になるじゃない」
「俺が言うと絶対怒られる」
「じゃあ言わないで」
「どっちだよ!」
そのとき、少し離れた場所から奎星の声が飛んできた。
「楓ー! 日向ー! これ見て! 鍵も魔力登録できんだって!」
二人はまた顔を見合わせた。
「はいはい」
「今行く!」
土曜日の八咫小路。初夏の日差しが石畳を照らしている。
その真ん中で、十八歳になったばかりの少年は、自分のものを買うときよりもずっと楽しそうに、誰かへの贈り物を選んでいた。
*
一方その頃、マホウトコロでは、伊織と岳が下級課程の教室を訪れていた。
「からすませんせい、たんじょうび?」
下級生の少女が目を丸くする。
伊織が頷いた。
「月曜日」
「ほんと!?」
「本当だよ」
その瞬間、周囲にいた子どもたちが一斉に集まってきた。
「かく!」
「ぼくも!」
「わたしも!」
「何かくの!?」
岳が大きな色紙を机の上へ広げる。
「好きなことを書けばいい」
「絵でもいい?」
「いい」
「魔法を使ってもいい?」
「色紙を燃やさないなら」
「燃やさないよ!」
伊織が横から口を挟む。
「その返事、日向みたいで不安」
子どもたちは意味を理解していない。ただ、楽しそうに筆を取り、色紙へ向かった。
大きな字。小さな字。少し曲がった字。鴉の絵、本の絵、杖の絵、星の絵。
《からすませんせい おたんじょうびおめでとう》
《れきしのじゅぎょうすき》
《またむかしのおはなししてね》
《からすのへんしんみたい》
《せんせいだいすき》
岳は、子どもたちが夢中で書く姿をじっと見つめていた。
伊織が次の子へ筆を渡す。
「順番ね」
「はーい!」
そこへ、一人の少年が走ってきた。
「何してるの!?」
伊織が顔を上げる。見覚えがあった。星迎祭の夜、飛んでいった星灯籠を追いかけて立入禁止区域へ入り、足を挫いた少年。湊だった。
「烏丸先生の誕生日の色紙だよ」
「え!」
湊の顔がぱっと明るくなる。
「からすませんせい、たんじょうび!?」
「月曜日」
「俺も書く!」
「どうぞ」
湊は筆を受け取ると、舌を少し出しながら、真剣な顔で色紙へ向かった。
《からすませんせい たんじょうびおめでとう!》
その下で少し考え、さらに書き足す。
《またれきしのクイズだしてください!》
最後に、小さな鴉の絵を描いた。本人は鴉のつもりだったが、丸い身体に短い足がついていて、どちらかといえば黒い豆のようだった。
岳は、その一連の様子をじっと見ていた。
「岳?」
伊織が呼びかけても返事がない。
「岳、なんで君が泣くの」
岳の目が少し潤んでいた。
「だって……感動するだろ……!」
伊織は数秒、岳を見つめた。
「君の誕生日じゃないよ」
「知ってる」
「烏丸先生のだよ」
「知ってる!」
「なら、どうして」
岳は色紙を見たまま、鼻をすすった。
「こういうのに弱い」
「…そう」
*
色紙は下級課程から中級課程、上級課程へと渡り、少しずつ文字と絵で埋まっていった。
次は教員たちの番だった。
土御門芽衣子は事情を聞くと、すぐに嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「いいですねえ。烏丸先生、きっと喜びますよ」
彼女は筆を取り、少し考えてから、丁寧な字で書いた。
《お誕生日おめでとうございます。いつも頑張りすぎる烏丸先生へ。今年は少しくらい、周りを頼ってくださいね。――土御門芽衣子》
「優しい」
岳が呟く。
「土御門先生だからね」
伊織も頷いた。
次に訪れた高宮は、事情を聞くなり露骨に嫌そうな顔をした。
「烏丸の誕生日?」
「はい」
「色紙?」
「はい」
「なぜ私が」
そう言いながらも、差し出された筆を拒みはしなかった。高宮はしばらく考え、ぶっきらぼうな字で書き込む。
《誕生日おめでとう。魔法史はやはりお前に任せる。お前の生徒どもがうるさすぎる。これからも責任を持って面倒を見ろ。――高宮》
伊織が読み上げる。
「褒めてます?」
高宮が睨んだ。
「褒めている!」
岳が首を傾げる。
「最後、怒ってる」
「誰のせいだと思っている!」
去年、スズメが研究に集中するため授業を外れていた数週間、高宮は代わりに魔法史を担当した。その間、奎星たちは何度も「スズメちゃんのほうが分かりやすい」と言い続けたのである。高宮は、まだ根に持っていた。
薬師寺和政は、色紙を見るなり髭を揺らした。
「ほっほう! スズメ嬢の誕生日か!」
「書いてください」
「もちろんじゃ」
薬師寺はさらさらと筆を走らせた。
《誕生日おめでとう。昔から真面目すぎるところは変わらんのう。無理は禁物じゃ。倒れる前に薬を飲みに来るんじゃぞ。――薬師寺和政》
岳が訊く。
「薬、まずいですよね」
「効けばよい!」
「奎星が泣きます」
「泣かせておけ!」
早瀬は事情を聞くと、楽しそうに筆を取った。
《誕生日おめでとう! たまには本を閉じて外へ出ろ! 空を飛ぶと頭もすっきりするぞ!――早瀬》
伊織が色紙を見て言う。
「先生らしいですね」
「だろ!」
「烏丸先生が自主的に空を飛びに行く姿は、あまり想像できませんけど」
「だから書いた!」
藤森は、色紙を受け取ると少し笑った。
《お誕生日おめでとうございます。今年は怪我をしてから『大丈夫です』と言うのを禁止します。具合が悪くなる前に医務室へ来てください。――藤森》
岳が頷く。
「正しい」
「正しいね」
伊織も同意した。
鷹司宗一は飼育棟で作業をしていた。鬼火鳥の世話をしていた頃から、スズメとは何度も顔を合わせている。事情を聞いた鷹司は作業着の袖で手を拭き、短く書いた。
《誕生日おめでとう。研究室に籠もりすぎるな。たまには飼育棟にも顔を出せ。――鷹司宗一》
岳が嬉しそうに色紙を見る。
「飼育棟、来るかな」
「君が誘えば?」
「誘う」
最後に、九重院紫苑のもとへ向かった。
校長室を訪れると、九重院は最初からすべて知っていたような顔で二人を迎えた。何しろ、伊織は前日のうちに祝いの許可を取っている。
「準備は順調ですか?」
「はい」
「蓮根君は?」
「八咫小路です」
「なるほど」
九重院は微笑み、筆を取った。
《いつも生徒たちに誠実に向き合ってくださって、ありがとうございます。どうかこれからも、烏丸先生らしい先生でいてください。そして今年は、ご自身のことも少し大切に。あなたは私の可愛い教え子ですので。お誕生日おめでとうございます。――九重院紫苑》
伊織はその文章を読み、ほんの少し目を細めた。
「校長先生らしいですね」
「そうでしょうか?」
「はい」
岳も頷いた。
九重院は色紙を返し、穏やかに言った。
「あと一人ですね」
伊織の手が止まった。岳も色紙を見る。
二人の視線が、まだ空いている一か所へ向かった。
「……御影先生」
「うん」
「頼みに行く?」
岳が少し考える。
「怒る?」
「誕生日の色紙で怒る人ではないと思うけど」
「断る?」
「あり得る」
「じゃあ……」
そのとき、背後から低い声がした。
「寄越せ」
二人の身体が同時に固まった。
振り返ると、御影玄一郎が立っていた。いつからそこにいたのか分からない。腕を組み、いつもの厳しい顔をしている。
伊織が眼鏡を押し上げた。
「……聞いてました?」
「途中から」
御影は色紙へ手を伸ばした。
「寄越せ」
「はい」
岳は素直に色紙を渡した。
御影は、下級生から上級生までの文字と絵を一つずつ眺めた。《からすませんせい》《烏丸先生》《スズメ先生》。呼び方は違っても、そこに込められた気持ちは同じだった。
御影は空いている場所へ筆を置いた。
伊織も岳も、何も言わなかった。
筆が静かに動く。
《誕生日おめでとう。》
最初は、それだけだった。
続けて、御影は書いた。
《九歳の頃から見ているが、お前は昔から何でも一人で抱え込みすぎる。》
伊織の目がわずかに動く。
御影は止まらない。
《教師になっても、そこは変わっていない。》
《困った時くらい、周りを頼れ。》
そして最後に、少しだけ筆を止めた。
《今はもう、生徒ではなく同僚だ。》
《――御影玄一郎》
筆が止まる。
岳は色紙を見つめた。伊織も同じだった。思っていたより、ずっといい。御影らしく不器用で、それでもスズメを気にかけていることがはっきり伝わる文章だった。
御影は色紙を岳へ返した。
「以上だ」
そして、そのまま歩き出す。
伊織が背中へ声をかけた。
「御影先生」
御影が足を止める。
「ありがとうございます」
「……ああ」
振り返らず、御影はそのまま去っていった。
岳は完成した色紙を見つめている。
伊織が横目で言った。
「今度は泣かないでよ」
「まだ泣いてない」
「“まだ”なんだ」
「危ない」
「何が?」
「御影先生の文章」
「分かるけど」
二人は色紙を見た。
九歳の頃から、生徒だった少女を見てきた教師。その少女は卒業し、魔法省へ行き、戻ってきた。そして今では、同じ学校で隣に立つ同僚になっている。
伊織は小さく呟いた。
「烏丸先生、喜ぶね」
岳が頷く。
「うん」
*
五月三十一日、月曜日。
朝から、スズメは何も知らなかった。
一限目の授業はいつも通りに始まった。
「では、この時代の魔法行政について――」
教壇に立つスズメの前で、奎星はにやにやしている。
スズメがすぐに気づいた。
「蓮根君」
「へ?」
「何ですか、その顔は」
「元からこの顔だけど」
「怪しいですね」
「普通!」
「では、先ほどの続きを答えてください」
「…………どこ?」
「聞いていなかったのですか?」
「聞いてた!」
「では答えてください」
奎星の笑顔が消えた。隣では日向が肩を震わせ、楓は顔を伏せている。伊織は無表情を貫き、岳は窓の外を見ていた。
スズメの目が細くなる。
「皆さん」
五人の身体が固まった。
「何か隠していますか?」
「「「「「何も!!」」」」」
声が揃った。
揃いすぎて、かえって怪しい。
スズメはしばらく五人を見つめたが、やがて黒板へ向き直った。
「まあ、いいでしょう」
五人は同時に息を吐いた。
危なかった。
*
放課後、奎星は珍しく補習を長引かせなかった。
「終わった!」
「今日は早いですね」
「十八歳だから!」
「三日前から十八歳です」
「成長した!」
「三日で?」
「人は変わる」
「そうですか」
スズメは怪しそうに奎星を見たが、それ以上は引き止めなかった。
「では、今日はここまでです」
「よし! じゃ、夕飯で!」
「はい」
奎星は扉へ向かい、いつものように走り出しかけた。
「蓮根君」
「何?」
「廊下」
「歩きます!」
珍しく素直に歩き出す奎星を見送りながら、スズメはさらに怪訝そうな顔をした。
*
夕食の時間。
大食堂には、下級課程から上級課程までの生徒と、九重院、御影、土御門、高宮、薬師寺、早瀬、藤森をはじめとする教師たちが集まっていた。
スズメはいつもの教師席に座っている。
しかし、何となく様子がおかしい。
生徒たちは妙に静かで、視線が時折こちらへ集まる。教師たちも、何かを知っているような顔をしていた。
「…………?」
奎星が遅れて席に座った。
スズメが周囲を見回したとき、九重院が奎星へほんの少し頷いた。
奎星の目が輝く。
椅子ががたんと鳴った。
スズメが反射的にそちらを見る。
嫌な予感がした。非常に嫌な予感がする。
蓮根奎星が、大食堂で突然立ち上がった。過去の経験から言えば、こういうときはだいたい何かをする。
「蓮根君……?」
奎星は大きく息を吸い込んだ。
「みんな聞いてー!!!!!」
声が大食堂中に響き渡る。
「声でかっ!」
日向が即座に突っ込んだ。
奎星は気にせず、満面の笑みで続ける。
「今日はなんと!! 五月三十一日!!」
スズメの目が丸くなる。
「烏丸スズメ先生の――」
まさか。
「誕生日で〜〜〜〜す!!!!」
一瞬、静寂が落ちた。
次の瞬間、大食堂全体から拍手が湧き起こった。
「おめでとうございます!」
「烏丸先生ー!」
「誕生日おめでとう!」
「からすませんせー!」
下級生も、中級生も、上級生も、教師たちも、小妖たちも、皆が一斉に拍手をしている。
スズメは完全に固まった。
今日が自分の誕生日であることは、もちろん知っていた。けれど、学校で祝われるなど考えたこともなかった。教師なのだから、いつも通り授業をして、補習をして、夕食を食べ、研究室へ戻って資料を読む。それで一日が終わるはずだった。
「え、あ……」
珍しく言葉が出てこない。
やがて立ち上がり、何度も頭を下げた。
「あ、ありがとうございます……」
もう一度、深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
奎星が笑った。
「スズメちゃん、ペコペコしてる!」
「あなたは静かにしてください!」
いつもの声が返ってきて、大食堂に笑いが広がった。
そのとき、厨房側から小さな足音が聞こえてきた。
ぺた、ぺた、ぺた。
スズメがそちらを見る。
天ぷらが、大きな皿を抱えて歩いてくる。その上には、白い生クリームと果物で飾られたケーキが載っていた。今日も、自分の身体ほどありそうなものを一生懸命運んでいる。
スズメの顔が一気に心配へ変わった。
「天ぷら!」
「トリマル!」
「無茶をしないでください!」
「ダイジョービ!」
「大丈夫に見えません!」
「ダイジョービ!」
天ぷらの身体がよろめく。
「ほら!」
「ダイジョービ!」
頑固だった。
奎星が笑いながら、皿の端を支える。
「俺も持つ!」
「テンプラ、モツ!」
「じゃあ横だけ!」
「ヨコ!」
「横だけならいいだろ!」
「ヨコ!」
二人でケーキを運び、スズメの前へ置く。
ケーキには、小さな飾りとともに、《おたんじょうびおめでとう 烏丸先生》と書かれていた。
スズメが言葉を失っていると、生徒席から小さな少年が色紙を抱えて歩いてきた。
湊だった。
「からすませんせい!」
スズメはすぐに腰を低くし、少年と目線を合わせる。
「はい」
湊は満面の笑顔で色紙を差し出した。
「たんじょうびおめでと!!」
スズメは両手で受け取った。
「……ありがとうございます」
色紙には、下級生、中級生、上級生、そして教師たちの文字と絵がびっしり詰まっていた。知っている筆跡も、知らない筆跡もある。大きな字、小さな字、鴉、本、星。御影の少し大きな文字も見えた。
スズメの指が、そこへ触れる。
湊が訊いた。
「うれしい?」
スズメは顔を上げた。
そして、柔らかく笑った。
「はい。とても」
湊も嬉しそうに笑う。
「よかった!」
大食堂に、また拍手が起こった。
奎星は誰よりも嬉しそうに拍手をしていた。
*
夕食後、スズメは色紙を胸の前へ抱えて回廊を歩いていた。
普段なら、食後すぐに資料や書類、本を抱えている。けれど今日は、色紙一枚だけだった。
歩きながら、何度も色紙を見る。
土御門、高宮、薬師寺、早瀬、藤森、鷹司、九重院、生徒たち。そして御影。
最後に書かれた、少し大きな文字。
《九歳の頃から見ているが、お前は昔から何でも一人で抱え込みすぎる。》
《教師になっても、そこは変わっていない。》
《困った時くらい、周りを頼れ。》
《今はもう、生徒ではなく同僚だ。》
スズメの口元が少し緩んだ。
「……本当に、昔のことばかり覚えているんだから」
呆れたように呟いたが、その声には隠しきれない喜びが滲んでいた。
*
魔法史研究室の扉を開けた瞬間、スズメの足が止まった。
いつもの研究室ではない。
壁には紙で作られた星や鴉が飾られ、小さな魔法灯が柔らかく光っている。机の上には一輪の花。そして部屋の中央には、立派なトランクが置かれていた。
「…………これ」
背後の廊下から声がした。
「じゃじゃ〜ん!」
スズメが振り返る。
「蓮根君!」
奎星が壁の陰から現れ、満面の笑みを浮かべていた。
「スズメちゃん! 誕生日おめでとう!」
スズメは研究室の飾りとトランク、それから奎星を順番に見た。
「……これは」
「俺から!」
奎星はすぐにトランクへ駆け寄り、蓋を開けた。
「見てこれ! 中、めっちゃ入る!」
「はい」
「しかも軽くなる!」
「軽く?」
「そう!」
奎星は待っていましたとばかりに説明を始めた。
「書類とか本とかいっぱい入れても、重さが十分の一くらいになるんだって! 中も勝手に大きさに合わせて仕切ってくれるし、湿気も防いで、古い本も入れられるし、衝撃にも強い! あと鍵も魔力登録できるんだぞ!」
「…………」
「ほら!」
奎星は一冊の本をトランクへ入れ、持ち上げた。
「これ、軽っ!」
自分で驚き、また嬉しそうに笑う。
「すげえよ、これ!」
スズメは、その姿を見つめていた。
無邪気だった。どうしようもなく無邪気で、まるで自分が贈り物を貰った側であるかのように楽しそうだった。
「昨日、八咫小路で見つけてさ!」
「八咫小路まで?」
「うん!」
奎星は何でもないことのように続ける。
「スズメちゃん、いつも書類いっぱい持ってんじゃん。研究室へ行くときも、授業へ行くときも、書庫から戻ってくるときも」
スズメの目がわずかに揺れた。
昨日の夕方。自分が大量の資料を抱えていたとき、途中で急に荷物が軽くなった。横を見ると、奎星が半分以上を持っていた。
――スズメちゃん、そんなんじゃ潰れちゃうよ。
――潰れません。
「俺、前から思ってたんだよ」
奎星はトランクの留め具を触りながら言った。
「本とか資料とか、いっつも持ちすぎだって。でもスズメちゃん、絶対『自分で持てます』って言うじゃん」
スズメは何も言わなかった。
言う。間違いなく言う。
「だから」
奎星は笑った。
「最初から軽けりゃいいじゃん!」
あまりにも奎星らしい、単純で真っ直ぐな答えだった。
「これなら、俺がいないときでも重くねえし!」
その一言が、スズメの胸へ静かに落ちた。
自分が横にいない時間まで考えてくれた。
スズメはトランクへ手を触れた。革の感触、金属の留め具、内部の仕切り。奎星は、本が好きだからこれを選んだのではない。教師だからでもない。
烏丸スズメという人間が、普段何をして、何を持ち、何に困っているのか。それを見て、覚えて、考えて、選んでくれたのだ。
どこまで、この少年は自分のことを見ているのだろう。
スズメは俯いた。
奎星の笑顔が不安そうに曇る。
「……スズメちゃん?」
返事がない。
「大丈夫……?」
一歩、近づく。
夜の研究室には、二人しかいなかった。夕食を終えた生徒たちは寮へ戻り、遠くから波の音と風の音が聞こえる。魔法灯が小さく揺れ、机の上の花がかすかに香っていた。
スズメは目を閉じた。
一年を思い返す。
去年の五月三十一日。二十一歳の誕生日。特別なことは何もなかった。数日前に、一人の変な新入生が学校へ来たばかりだった。魔力量を測れば水晶を壊し、何も知らないまま自分を「スズメちゃん」と呼び、一人で食事をするのが嫌だと自分まで巻き込んできた。
毎日、質問ばかりだった。
自分の誕生日をわざわざ教える余裕も、理由もなかった。そもそも、自分から誕生日を人に話すような性格でもない。だから、いつもの一日として過ぎていった。
それから一年。
第零書庫。八咫祭。鬼火鳥。朝凪島。星迎祭。黒曜の門。常隠島。星帰り。クリスマス。初詣。記憶を失い、忘れ、また会い、また好きになり、そしてすべてを思い出した。
気づけば今日、学校中が自分の誕生日を知っていた。
子どもたちが文字を書いた。教師たちが言葉をくれた。天ぷらがケーキを運んだ。そして目の前には、自分のために部屋を飾り、贈り物を選んだ少年がいる。
「…………蓮根君」
「うん?」
スズメは顔を上げた。泣いてはいない。ただ、いつもより少し柔らかな表情をしていた。
「本当に……」
言葉が一度、喉で止まる。
けれど、今日は逃げなかった。
「ずっと、ずっと、ありがとうございます。蓮根君」
奎星が目を丸くする。
スズメは続けた。
「今日のことだけではありません。あなたが来てから、本当に……色々ありました」
「ありすぎたな」
奎星が苦笑する。
「ほぼ死にかけてる」
「笑い事ではありません」
「はい」
二人の間に、短い笑いが落ちた。
スズメはもう一度、静かに言った。
「ありがとうございます」
奎星は困ったように頭を掻いた。
「なーに言ってんだよ!」
スズメが顔を上げる。
奎星は少し照れながらも、真っ直ぐにスズメを見た。
「お礼言いたいのはこっちだよ、スズメちゃん!」
「…………」
「俺が魔法学校へ来られたのも!」
奎星は指を一本立てた。
「進級できたのも!」
二本目。
「学校を取り戻せたのも!」
三本目。
「今こうして一緒にいられるのも!」
四本目。
奎星は笑った。
「全部、スズメちゃんのおかげ!」
スズメの瞳が揺れる。
「だから」
奎星は、少しだけ声を柔らかくした。
「ありがとう」
静かな研究室に、その言葉だけが残った。
スズメは何も返せなかった。胸の奥がいっぱいになる。
この少年が自分を好きだと知っている。「愛してる」と言われたことも覚えている。今、奎星がそれを口にしない理由も分かっていた。
教師と生徒。そこには、まだ越えてはいけない線がある。
だから、自分も越えない。
それでも、こんな夜だけは、少しくらいずるくてもいいのではないかと思ってしまう。
奎星も、急に照れくさくなったらしい。頭を掻き、視線を逸らす。
「じゃ!」
急に声を上げた。
「俺、そろそろ戻るね!」
スズメの表情がほんの一瞬止まる。
「……はい」
思ったより小さな声だった。少し寂しそうにも聞こえた。
奎星の胸が痛む。本当はもう少しここにいたい。このまま話していたい。
けれど、今は教師と生徒だ。
卒業するまでは、気持ちを伝えない。好きだと改めて本人へ伝えるのは、そのあとだ。
奎星は心の中で、もう一度そう決めた。
「じゃあ、また明日!」
「はい」
「トランク使ってな!」
「もちろんです」
「重いもん、全部入れて!」
「全部は入りません」
「拡張型だぞ!」
「研究室そのものは入りません」
「入れようとすんなよ!」
「あなたが全部と言ったのでしょう」
いつものやり取りに戻り、二人は少しだけ笑った。
奎星が扉へ手をかけた、そのときだった。
「あら」
廊下から声がした。
奎星が顔を上げる。
九重院紫苑が立っていた。
「校長先生」
「蓮根君。ちょうど良かったです」
「ん?」
「紹介したい方がいるのです」
「なんすか?」
研究室の中で聞いていたスズメも、扉からひょこっと顔を出した。
そして、止まった。
九重院の隣に、一人の女性が立っていた。
背が高く、すらりとした体型。明るい色の髪は柔らかく巻かれている。魔法省の堅い制服というより、動きやすく洗練された服装で、何より表情が明るい。初対面の相手にも自然に近づける、人懐っこい雰囲気を持っていた。
九重院が紹介する。
「こちらは、坪田恋さん」
女性が一歩前へ出る。
「魔法省から派遣された、あなた専任のキャリアアドバイザーです」
奎星が止まった。
「…………」
言葉の意味が、すぐには頭へ入ってこない。
「きゃ……」
一度、噛む。
「キャリアアドバイザー?」
研究室の中で、スズメの心臓が小さく跳ねた。
専任……!?
坪田恋は奎星をじっと見た。顔、腕、肩、腰の神代榊まで順番に眺め、それからぱっと笑顔を明るくする。
「あなたが奎星君ね!」
スズメの眉がわずかに動いた。
奎星君……!?
奎星は、そんなスズメの内心など知る由もない。
「そうだけど」
恋はさらに奎星を上から下まで見た。
「へえ〜!」
「何?」
「思ってたより普通!」
「し、失礼じゃないすかこの人!?」
恋はけらけら笑った。
「もっと筋肉だるまで、口から炎を吐いてる人だと思ってた!」
「どんなイメージだよ、それ!」
「だって英雄なんでしょ?」
「英雄は炎吐かねえよ!」
「魔法使いなら、あるかなって」
「ねえよ!」
研究室の中で、スズメの眉が少しだけ寄った。
九重院は気づいているのかいないのか、いつもの穏やかな笑顔を浮かべている。
恋は奎星へ手を差し出した。
「あなたのキャリアをサポートしに来ました!」
奎星は差し出された手を見る。
「俺の?」
「そう!」
「専任?」
「そう!」
スズメの胸に、もう一度その言葉が刺さった。
専任。
恋はさらに明るく笑う。
「明日また正式にご挨拶すると思うから、よろしくね! 奎星君!」
「お、おう」
「おうじゃなくて、よろしく!」
「よろしく」
「よし!」
恋は満足そうに頷いた。
奎星はまだ、何が始まったのかよく分かっていない。
九重院は微笑んでいる。
そして研究室の扉から半分だけ顔を出した烏丸スズメは、胸に色紙を抱えたまま、坪田恋と奎星を見つめていた。
二十二歳の誕生日。
学校中から祝われ、生徒たちから色紙を貰い、蓮根奎星から一生懸命選んだトランクを贈られた。
人生でも、かなり幸せな一日だったはずなのに。
「…………」
その心中は、なぜか急速に穏やかではなくなっていた。