二〇二七年六月一日。
午前十時二十分。
蓮根奎星は、自分の人生を前にして困っていた。
「…………何これ」
机の上には、一枚の大きな紙が置かれている。上部には太い文字で《自己分析シート》と書かれ、その下には《今までで嬉しかったこと》《大変だったこと》《夢中になれたこと》《誰かに褒められたこと》《二度とやりたくないこと》《大切にしたいもの》《働くうえで譲れないこと》など、いくつもの欄が並んでいた。
教室の窓は開け放たれていた。六月最初の風が南硫黄島の海から吹き上がり、白く透き通る羊脂玉の壁に沿って流れている。遠くでは海鳥が鳴き、窓際に吊るされた小さな魔法風鈴が、ときおり涼しげな音を立てていた。
いつもの授業とは明らかに違っていた。黒板には年号も呪文もなく、代わりに《自分を知る》という言葉が、坪田茜の字で大きく書かれている。
「自己分析って何分析すんの?」
奎星が黒板の前に立つ茜へ尋ねた。
「自分」
茜は即答した。
「それは見れば分かる」
「聞いたの、蓮根君だよね?」
「何分析すればいいの、俺の」
「だから自分だって」
「難しくね?」
「まだ始まって三分だよ?」
教室のあちこちから笑いが起きた。
茜は今朝と同じように明るかった。教員衣ではなく、動きやすそうな薄い上着に細身の黒いズボンを合わせ、片手には羽根筆を持って教壇へ寄りかかるように立っている。他の教師たちよりも生徒との距離が少し近く、誰かから質問が飛べば、すぐに言葉を返していた。
「別に立派なことを書かなくていいからね」
茜は黒板を羽根筆で軽く叩いた。
「大会で優勝したとか、試験で一番を取ったとか、そういうことだけが自己分析じゃありません。友達と遊んで楽しかったでもいいし、お母さんのご飯が好きでもいいし、授業で寝て怒られたのが嫌だったでもいい」
日向が顔を上げた。
「それ、俺いける」
「自信持たないで」
楓がすかさず言った。
「大事なのは、何が起きたかより、そのとき自分がどう感じたか。何が嬉しかったのか、何が嫌だったのか、何なら頑張れたのか。そういうのを、たくさん並べてみること」
「いっぱい?」
「いっぱい」
「何個?」
「最低十個ずつ」
「多っ」
「蓮根君は特に二十個」
「何で俺だけ!?」
「専任ですから」
「もう専任嫌いになりそう」
「今朝あんなに男子に羨ましがられてたのに?」
「ボコボコにされたんだけど」
「人気者なんだね」
「そのまとめ方やめて」
茜が楽しそうに笑った。
「はい、始めて」
合図とともに、教室中で羽根筆が動き始める。
奎星も渋々、目の前の紙へ視線を落とした。
《今までで嬉しかったこと》
「…………」
最初の欄を前にしただけで、筆が止まった。十秒、二十秒と過ぎても何も思いつかず、奎星は横を見た。伊織は、すでに五個ほど書き終えている。
「早くね?」
「考えてたからね」
「何書いた?」
「自己分析の意味、分かってる?」
「参考」
「駄目」
反対側を見ると、岳が黙々と紙へ向かっていた。一行目には《鬼火鳥が元気になった》、二行目には《鬼火鳥が仲間のところに帰った》、三行目には《鬼火鳥の餌の──》と書かれている。
「鬼火鳥しかねえじゃん」
「まだ三個」
「この先も鬼火鳥だろ」
「あと昼飯」
「安心した」
「集中しなさいよ」
楓に睨まれ、奎星は素直に自分の紙へ戻った。
嬉しかったこと。改めて考えると、意外に難しい。
奎星はしばらく紙を見つめたあと、ようやく羽根筆を動かした。
《初めて魔法が使えた》
一つ目を書いたところで、あの日のことを思い出す。自分の部屋で、何も知らないまま手を伸ばすと、宙に浮いたリモコンが、まるで見えない糸に引かれたように自分の手元へ飛んできた。そのあとには、家具が浮き、いくつか壊れ、両親が叫び、夜中にカラスが来て、翌日には巨大なウミツバメに乗っていた。
もう一つ。
《友達ができた》
筆を進める。
最初の二週間は森の小屋で一人だった。窓の向こうに見える教室を眺めながら、そこにいる日向や楓や岳や伊織の姿を、ただ見ているしかなかった。ようやく、同じ机に座った日を思い出しながら、その下へ《普通の生徒になれた》と書き、続けて《寮に入れた》《みんなと飯食えるようになった》《進級できた》と並べていく。
そこまで書いて、奎星は一度筆を止めた。さらに少し考えてから、《御影先生に初めて褒められた》と書いたものの、数秒後には、その横へ小さく《たぶん》と付け足した。
「何で疑問形なんだよ」
隣から日向が覗き込んできた。
「褒められた気はすんだけど、あの人、褒め方分かりにくいじゃん」
「『悪くない』とかだろ」
「そう」
「それ褒めてんの?」
「御影先生ならめっちゃ褒めてる」
「悲しい世界だな」
奎星は日向の言葉を聞き流し、続きを書いた。
《鬼火鳥を助けた》《八咫祭》《葛切り》《星迎祭》
そこで少し考え、《みんなで教室の飾りつけした》と書き足した。
去年の秋の光景が浮かんだ。脚立を運び、逆さまの星を吊るし、楓が大声で怒鳴り、岳が試食用の菓子へ手を伸ばし、それを伊織が止めていた。日向の笑い声が響き、教室の入口からは下級生たちが興味深そうに覗いていた。大したことではない。けれど、楽しかった。
次の欄へ進もうとしたところで、羽根筆がまた少し止まった。
《学校に帰ってこれた》
文字を書いた瞬間、奎星の顔からわずかに笑みが消えた。
雪、白峰、黒曜の門、知らない顔をする友達、神代冥司。自分たちの学校なのに、自分たちが戻れない。そんな時間を越えて、ようやく帰ってきたあとの日々が続く。朝起きて、飯を食って、授業へ行き、御影に転がされ、スズメに補習をさせられ、夜になれば日向が騒ぎ、伊織が静かに煽り、岳が何かを食べている。
そんな当たり前の毎日を、自分たちは取り戻した。
もう一つ、奎星は筆を動かした。
《天ぷらが「レンコン、カエッタ」って言った》
「…………」
その言葉を書いた途端、自然に頬が緩んだ。
次の欄へ進む。
《スズメちゃんの記憶が戻った》
筆を置き、少しだけ考える。
もっと正確な言葉があるのかもしれない。けれど、それでよかった。
自分のことを知らない目で見られた数週間。あの感覚を、うまく説明する言葉は今も見つからない。ただ、名前を呼ばれた。いつもの声で、蓮根君、と。それだけで、十分だった。
《腕時計もらった》《杖入れもらった》
そこまで書いたところで、奎星の羽根筆が再び止まった。
「プレゼント多くない?」
また日向が口を挟んだ。
「見るなって」
「自己分析で物書いていいの?」
「嬉しかったんだからいいだろ」
「じゃ俺、新しい箒」
「書けば」
「もう書いた」
「書いてんじゃん」
茜の声が教室の前から飛んできた。
「朝比奈君、蓮根君。人の紙ばっかり見ない!」
「はーい」
「うす」
「返事!」
「はい!」
奎星は慌てて紙へ戻った。
《誕生日に母さんと父さんから手紙》
そこまで書くと、紙の半分ほどが埋まった。
「意外とあるな」
奎星は紙を眺めながら呟き、今度は《大変だったこと》の欄へ目を移した。
「…………」
こちらは、考えるまでもなかった。
《魔力制御》《最初二週間一人だった》《日向を怪我させた》《御影先生の朝練》《久我先生》《死の呪文》《魔法省の検査》《鬼火鳥が捕まった》《黒曜の環》《斎賀さん》
そこまで書いたところで一度筆を止め、横へ《斎賀さんは大変だったけど今は違う》と書き足した。
さらに、《星迎祭》《黒曜の門》《朝凪島》《学校取られた》《神代》《星帰り》《死にかけた》《スズメちゃんに忘れられた》《記憶の研究施設》《眞田》と、次々に書き連ねていく。
そこまで書いてから、奎星は紙を見下ろした。
「…………」
文字にして並べてみると、改めて実感する。
「俺の学校生活ヤバくね?」
日向が横から紙を覗き込んだ。
「今気づいた?」
「なんか並べるとやべえ」
「『死にかけた』、何回かに分けて書けるだろ」
「欄足りなくなるじゃん」
「そこ節約するところなの?」
伊織が呆れたように言った。
「次!」
茜の声が響く。
奎星は次の欄へ目を移した。
《二度とやりたくないこと》
死にかける。当然、嫌だ。痛い。薬師寺の薬もまずい。黒曜の門にも、できれば二度と入りたくない。
けれど、考えているうちに、もっと嫌なものが浮かんだ。
奎星の羽根筆が動く。
《何もできないで待つ》
次に、《一人でずっといる》と書き、さらに《友達とか大事な人が危ないのに、自分だけ安全なとこにいる》と続けた。
「…………」
もう一つ、少し迷ってから書き足す。
《誰かに言われたことだけやる》
さらに考え、《ずっと机に座ってる》と続けた。
「これ授業への悪口?」
楓が紙を覗き込んだ。
「仕事の話」
「授業も座ってるでしょ」
「だから苦手なんだよ」
「知ってる」
次の欄は、《大切にしたいもの》だった。
ここは少しだけ恥ずかしかった。
奎星は周囲を気にしながら、紙へ書き込んでいく。
《家族》《友達》《学校》《スズメちゃん》
そこまで書いて、また少し間を置いた。それから、《御影先生》と書く。
「おい」
日向がすぐに指差した。
「何」
「順番」
「何が」
「御影先生だけ、めっちゃ悩んだだろ」
「うるせえな」
「大切じゃないの?」
「大切っていうか……」
奎星は、今朝から何度も自分を地面へ叩きつけていた御影の姿を思い出した。それでも。
「……追いつきたい」
「書けば?」
「それ別の欄じゃん」
「真面目だな」
「自己分析だからな」
さっきまで文句を言っていた人間とは思えないほど、奎星は真剣に紙へ向き合っていた。
最後の欄、《働くうえで譲れないこと》を前にすると、奎星は一番長く筆を止めた。
仕事については、まだはっきりとは分からない。禍祓官も、教師も、魔法省も頭には浮かぶが、それ以外にも自分の知らない仕事は山ほどある。
ただ、さっきまで書いた紙を見返す。嬉しかったこと、大変だったこと、嫌だったこと、大切なもの。それらを一つずつ眺めているうちに、胸の中に一つの感覚が浮かんだ。
奎星は、ゆっくりと羽根筆を動かした。
《ちゃんと自分で動けること》
*
放課後、上級課程棟の一角に、新しく《進路相談室》と書かれた札が掛けられていた。
元は小さな会議室だったらしい。部屋には窓が一つあり、その脇に本棚が置かれている。中央には机と、向かい合わせに並べられた椅子が二脚あり、壁には魔法省から送られてきた職業案内や、各種職業訓練の資料、企業案内、進学制度の冊子などが整然と並べられていた。
「失礼しまーす」
「どうぞー」
奎星が扉を開けて入ると、茜が机の向こうで待っていた。
「今日からよろしくね」
「うす」
「一応確認だけど」
茜は手元の予定表へ目を落とした。
「昨日、烏丸先生とも話して、今後の放課後は一日おき。補習の日は烏丸先生で、進路相談の日は私」
「地獄と進路か」
「烏丸先生に言うよ」
「やめて」
「即答だね」
「明日補習だから」
「じゃあ今日は私の日」
「進路だけ?」
「進路だけ」
「宿題ない?」
「今のところ」
「坪田先生、めっちゃいい先生じゃん」
「評価基準そこ?」
奎星は椅子へ座った。
茜は午前中に書いた自己分析シートを取り出す。
「結構書いたね」
「途中から楽しくなった」
「そういう子、多いよ。最初は『何もない』って思うんだけど、書き始めると意外と出てくるんだよね」
茜は紙へ目を落とし、一つずつ読み上げていく。
「魔法が使えた。友達ができた。普通の生徒になれた。寮に入れた。みんなとご飯。進級。鬼火鳥。八咫祭。葛切り」
そこで顔を上げた。
「葛切り?」
「大事」
「そっか」
茜は深く追及しなかった。
「星迎祭。学校へ帰ってきた。小妖……天ぷら?」
「友達」
「友達なんだ」
「おう」
「烏丸先生の記憶が戻った。腕時計。杖入れ。ご両親からの手紙」
茜はそこで少し黙った。
「面白いね」
「何が?」
「蓮根君、嬉しかったことに、自分が強い魔法を使えたとか、敵を倒したとか、全然書いてない」
「…………」
奎星は自分の紙を見下ろした。
「ほんとだ」
「マホウトコロを取り戻したのも、《神代冥司を倒した》じゃなくて《学校に帰ってこれた》なんだ」
「だって」
奎星は少し考えてから答えた。
「帰りたかったから」
「うん」
「別に神代倒すのが目的じゃなかったし」
「じゃあ、何が目的だった?」
「学校戻す」
「何で?」
「俺らの学校だから」
「それだけ?」
「それだけじゃ駄目?」
「全然」
茜は柔らかく笑った。
「むしろ、そういうのが大事」
茜は次の欄へ目を移した。
「大変だったこと」
紙をめくる。
「…………多いね」
「だろ?」
「想像より多かった」
「十八歳の量じゃなくね?」
「その自覚は持ったほうがいいかも」
「やっぱ?」
「うん」
茜は一つずつ、書かれている言葉へ目を通していく。日向を怪我させたこと、死の呪文、鬼火鳥、黒曜の環、黒曜の門、学校占拠、星帰り、記憶。そこまで読んだところで、茜の表情が少しだけ真面目になった。
「これだけ大変なことがあって」
「おう」
「二度とやりたくないことには、《戦う》って書いてないんだね」
「…………」
「《危ない場所へ行く》もない」
「まあ」
奎星は椅子へ深く座り直した。
「危ないのは嫌だよ」
「うん」
「痛えし」
「うん」
「死ぬのも嫌」
「当然」
「でも」
奎星は窓の向こうへ目を向けた。夕方の校庭では、下級課程の生徒たちが何人か走っている。遠くから聞こえる笑い声が、開いた窓を通って相談室まで届いていた。
「危ないから行かないってのは、たぶん無理」
「どうして?」
「誰かいるなら」
茜は何も言わず、奎星の言葉を待った。
「俺が行って何とかなるなら、行くと思う」
「怖くても?」
「怖いよ」
即答だった。
「俺、別に怖くないわけじゃないし」
一学期、自分の杖が怖かった。久我の死の呪文が怖かった。鬼火鳥を助けに山へ入った夜も、黒曜の門へ入ったときも、学校へ戻ると決めたときも、眞田の施設へ向かったときも、怖くなかったことなど一度もない。
「でも」
奎星は自分の紙を指で叩いた。
「こっちのほうが嫌」
指先が、《友達とか大事な人が危ないのに、自分だけ安全なとこにいる》という一文を示す。
「なるほど」
茜は小さく頷いた。
「じゃあ質問」
「おう」
「一日中、魔法省の机で資料を読んで、現場にいる人へ指示を出す仕事」
「無理」
「早っ」
「一日中?」
「一日中」
「絶対無理」
「じゃあ研究職」
「スズメちゃん見てると尊敬はする」
「自分は?」
「無理」
「教師」
「…………」
奎星は少し考えた。
「面白そうではある」
「お」
「でも俺、教えるより一緒にやっちゃいそう」
「確かに」
「生徒が喧嘩してたら混ざるかもしれない」
「教師はやめとこうか」
「今ので!?」
「かなり大事な情報だった」
奎星が笑う。
「じゃあ」
茜は紙へ一本、線を引いた。
「蓮根君は、何がしたい?」
「仕事?」
「うん」
「…………」
今度は、朝よりも早く答えが出た。
「現場」
茜の目がわずかに動く。
「現場に出たい」
「どんな?」
「分かんねえ」
「うん」
「事件でも、災害でも、人助けでも」
奎星は自分の足元へ目を落とした。
「足動かしてたい」
「足?」
「ずっと座ってるんじゃなくて」
自分の足元を指す。
「自分で行って、自分で見て、何かあったら動いて」
今度は自分の胸を指した。
「誰かのために体張る」
言ってから、少し照れくさくなった。
「……なんか言い方カッコつけてるみたいだけど」
「いいじゃん」
「別に、生きがいってほどじゃねえよ」
奎星は照れ隠しのように笑った。
けれど、その言葉の奥には、この一年の記憶があった。考えるより先に動いたことが、何度あっただろう。窓の外にいた日向たちのところへ行きたいと思った。誰かが捕まっていれば探した。鬼火鳥が傷ついていれば助けたかった。学校を取られれば帰りたかった。スズメが自分を忘れれば、取り戻したかった。
全部、面倒だった。痛かった。怖かった。
それでも。
「俺らしいって思った」
奎星は静かに言った。
茜はすぐには返事をしなかった。やがて、紙へ視線を落としたまま口を開く。
「いい自己分析じゃん」
「マジ?」
「うん」
茜は紙へ何かを書き込んだ。
「職業名は、まだ決めなくていいと思う」
「禍祓官とかじゃなく?」
「もちろん候補には入るよ」
茜は指を折りながら続ける。
「魔法法執行の現場、災害対応、捜索や救助、魔法生物関係の現地調査。現場へ出る仕事って、実は一つじゃないから」
「へえ」
「蓮根君はたぶん、職業名より先に《どう働きたいか》が見え始めたんだと思う」
「どう働くか」
「そう」
茜は自己分析シートの一番下を指した。
《ちゃんと自分で動けること》
「これ」
「おう」
「大事にしよう」
「分かった」
「あと」
「何?」
「危険な仕事を選ぶなら、ご両親とはちゃんと話そうね」
「…………」
「その顔」
「母さん泣くかな」
「たぶん心配はするんじゃない?」
「父さんもかな」
「するでしょ」
「…………」
「何?」
「禍祓官って言ったあと、海賊よりはマシって言えばいけるかな」
「比較対象が酷すぎる」
茜が笑った。
そのとき。
こん、こん。
扉が鳴った。
「はい?」
茜が振り返る。
一拍遅れて、扉が開いた。
「失礼するよ」
「…………」
奎星は、入ってきた男を見た。
四十代半ばほどの、灰色の魔法省制服を着た男だった。少し猫背で、髪はきちんと整えているつもりなのだろうが、右側だけ妙に浮いている。銀縁の眼鏡を掛け、手には大きな革鞄を持っていた。
偉そう。
というより。
「…………」
普通のおっさんだった。
特別背が高いわけでもなく、顔つきに威圧感があるわけでもない。真壁のように立っているだけで空気が締まることもなければ、御影のように目が合っただけで背筋が伸びることもない。
そして、入ってきたあと、男はほんの少しだけ間を置いた。
「…………」
「…………」
「…………」
「あ」
男がようやく気づいた。
「今、相談中だったかな」
「思いっきり」
奎星が答えた。
「蓮根君」
茜が笑いを堪えながらたしなめる。
「すまない。ノックしたので、入っていいものかと」
「返事待ってくださいよ」
茜が言った。
「そうだな」
男は素直に頷いた。
「次からそうする」
「後藤さん」
「何だ」
「前も同じこと言いました」
「そうだったか」
「はい」
「…………では、気をつける」
奎星は茜を見る。
「誰?」
「あ、そうだね」
茜が立ち上がった。
「蓮根君。この人が」
「後藤孝雄です」
男のほうが先に手を差し出した。
「日本魔法省に勤めています」
「はあ」
奎星も手を握る。
「蓮根奎星です」
「知っている」
「ですよね」
「かなり」
「ですよね」
「君の資料は一通り読んだ」
「どこまで?」
「入学時から」
「俺より俺のこと知ってそう」
「それは困るな」
後藤は真顔で答えた。
「冗談ですよ」
「そうか」
「…………」
やはり、間が悪い。
茜が横を向いて肩を震わせている。
「で」
奎星が尋ねた。
「何の人?」
「何の人……」
後藤は少し考えた。
「行政官だ」
「偉い?」
「それなりに」
「偉いおじさんか」
「こら!」
茜が止める。
しかし、後藤は少しも怒らなかった。
「まあ、間違ってはいない」
「いいんだ」
後藤孝雄。少し前まで、その名を魔法界の一般人が知ることなど、ほとんどなかった。魔法省の中でも同じだった。
華のある人物ではない。演説が上手いわけでも、人心掌握に長けているわけでも、宴席に呼べば場を盛り上げるタイプでもない。むしろ、話の切れ目を読み違えて発言し、誰も笑っていないところで一人だけ頷くような男だった。
それでも、星帰り作戦以降、後藤孝雄の評価は異常な速さで上がっていた。
神代冥司によるマホウトコロ占拠、魔法省内部へ入り込んでいた黒曜の環の協力者、信用を失った行政、混乱する人員、足りない予算、続く残党捜査、学校の復旧、被害者への補償、日本魔法界へ向けた説明。どの部署へ誰を置くか、どの予算を削り、どこへ回すか、何を公表し、何を調査中として残すか。後藤に判断を求めると、不思議なほど外さなかった。
派手な手柄はない。杖を振って敵を倒したこともない。けれど、彼が一枚の書類へ引いた線で、人が動いた。金が動いた。制度が動いた。そして少しずつ、崩れかけていた魔法省が動き始めた。
「坪田さん」
「はい」
「君を蓮根君の専任へつけるよう提案したのは私です」
「え?」
奎星が後藤を見る。
「おっさんが?」
「後藤さん」
「後藤さんが?」
「そうだ」
「何で?」
「君に期待しているからだ」
「…………」
あまりにも真顔で言われたため、奎星は返事に困った。
「何か照れるな」
「そうか」
「そこで照れないでください」
茜が言う。
後藤は持っていた鞄を机の上へ置いた。
「今日は君へ見せたいものがあって来た」
「俺に?」
「正確には、話しておくべきだと判断した」
後藤は鞄を開き、中から一冊の薄い資料束を取り出した。
古い紙と複写された墨文字が重なったその表紙を見た瞬間、奎星の目が止まった。
《蓮根清弦》
「…………」
奎星の手が、腰の神代榊へ伸びる。
「清弦」
「知っているね」
「ああ」
奎星は資料を覗き込んだ。
「俺の先祖だろ。神代榊使ってた」
「その通り」
「学校の古い記録で見た」
「なら、これは見たことがないかな」
「何?」
後藤は資料束の中から、薄い保護紙に挟まれた一枚を取り出した。
写真だった。
ひどく古い。
全体が茶色く褪せ、左右の端は大きく欠けている。もともとは何人かが並んで撮ったものだったらしく、人影の一部だけが端に残っていた。
その中央に、一人の若い男が立っている。
着物姿。
背筋を伸ばし、写真というものに慣れていなかったのか、妙に硬い顔で正面を向いている。
「…………」
奎星の目が細くなった。
一度、写真を見る。
自分の顔へ手をやる。
もう一度見る。
「……え」
「どうしたの?」
茜も横から覗き込む。
奎星は写真へ顔を近づけた。
目元。
鼻筋。
口元。
髪型も服もまるで違う。それでも、顔立ちそのものは驚くほど見覚えがあった。
「……めっちゃ俺に似てね?」
茜が写真と奎星を交互に見る。
「…………似てる」
「だろ?」
「思ったより似てるね」
「先祖ってこんな似る?」
「私に聞かれても」
奎星は妙な顔のまま写真を眺めていた。
百五十年以上前。
会ったこともない人間。
なのに、自分が知らない格好をして昔の写真に収まっている自分を見せられているようで、少し気味が悪い。
「これが清弦?」
「ああ」
後藤が頷く。
「撮影された正確な年月や場所は分かっていない。幕末に撮られたものと考えられている」
「へえ……」
奎星はまだ写真から目を離さない。
そして、ふと。
「……あ」
別のものに気づいた。
清弦の右手。
一本の杖が握られている。
古い写真なので細かな木目までは分からない。それでも、握り手の形も、木肌を走る炎のような彫りも、見間違えるはずがなかった。
奎星の手が、今度こそ腰の神代榊を掴んだ。
「ちゃんと持ってる」
「杖?」
「うん」
自分の杖を少しだけ鞘から抜き、写真の中の一本と見比べる。
「……これ、俺のと同じじゃん」
「学校に残されていた記録とも一致する」
「マジで使ってたんだな」
知識としては、もう知っていた。
百年以上前、この杖を使っていた蓮根清弦。
けれど、こうして実際に手に持っている姿を見ると、急に現実味が増した。
奎星はもう一度、写真の顔を見る。
「…………似てんなあ」
小さく呟いてから、資料へ視線を戻した。
「蓮根家が霊脈と鬼火鳥の移動経路に関わっていたことも?」
「それも知ってる」
「なら話が早い」
後藤は椅子へ座った。今度は、ちゃんと返事を待ってからだった。
「これは神代冥司の拠点から発見された資料だ」
「神代の?」
「そうだ」
奎星の表情が変わる。
「なぜあいつが清弦の資料持ってんの?」
「それはまだ分からない」
「…………」
「今も精査中だ。神代が何の目的で集めていたのかも含めてね」
後藤は紙を一枚めくった。
そこには、墨で描かれた古い地図があった。日本列島の上を、何本もの線が走っている。
「ただ」
後藤の指先が、一つの文字の上で止まった。
「新しく分かったことがある」
奎星が身を乗り出す。
「蓮根清弦が活動していたのは、幕末だ」
「幕末」
「今から百五十年以上前」
「スズメちゃんが好きそう」
「君の感想はまずそこなの?」
茜が笑う。
「絶対食いつくだろ」
「それは否定できないけど」
後藤は続けた。
「彼は、当時日本へ入り始めていた現代式魔法を研究し、日本国内へ広めた第一人者の一人だと考えられる」
「現代式?」
「今、君たちが学校で学んでいる体系に繋がる魔法だ」
奎星は腰の杖へ目を落とした。
「俺が使ってるやつ?」
「そうだ」
「清弦が広めたの?」
「少なくとも、各地へ技術を伝えた中心人物だったことを示す記録が複数ある」
「へえ……」
「さらに」
後藤は別の紙を取り出した。
そこには、巨大な黒い影と、その下に立つ小さな人影が描かれている。
「当時、関東一帯の霊脈へ寄生し、その流れを乱していた大型妖魔がいたらしい」
「妖魔」
「記録上では、周辺の集落で魔力障害や病、異常現象が長期間続いたとされている」
「そいつを」
「蓮根清弦が倒した」
「…………」
奎星の目が大きく開く。
「一人で?」
「そこは記録によって違う。協力者がいたという話もある」
「だよな」
「ただ」
後藤が資料へ指を置いた。
「最後に妖魔と対峙し、霊脈を解放したのが清弦であるという点は、ほぼ共通している」
奎星は黙って紙を見つめた。
幕末の魔法使いであり、神代榊を持ち、鬼火鳥や霊脈とも深く関わっていた、百五十年以上前の先祖。これまで名前と断片的な記録だけで知っていた清弦が、古びた紙の向こうから急に一人の人間として立ち上がってきたような気がして、奎星はしばらく資料から目を離せなかった。
「……すげえじゃん」
「そう」
後藤は頷いた。
「英雄だ」
その言葉に、奎星が顔を上げる。
「英雄?」
「幕末の魔法界における英雄の一人だよ」
後藤の目が、初めて少しだけ強くなった。
「そして」
奎星を見る。
「君には、その血が流れている」
「…………」
「蓮根奎星君」
進路相談室の空気が、少し変わった。
「知っていると思うが」
後藤が続ける。
「今、日本魔法省への信頼は大きく落ちている」
奎星も笑わなかった。
それは知っている。神代冥司、黒曜の環、魔法省内部に協力者がいたことを、真壁は隠させなかった。全部、公表させた。
「組織の中に敵が入り込んでいた。国立魔法学校は一時占拠された。生徒への認識干渉まで許した。国民からすれば、何を信じればいいのか分からなくなるのも当然だ」
「…………」
「制度を直す。人を入れ替える。不正を摘発する。もちろん必要だ」
後藤は資料を閉じた。
「しかし」
短い間を置いてから、続ける。
「人は制度だけを見て信頼するわけではない」
机の上に置かれた清弦の資料へ目を落とす。
「物語が必要なんだ」
「物語?」
「この国の魔法界は大丈夫だと思えるもの」
後藤の指が、今度は奎星へ向いた。
「君だ」
「…………俺?」
「幕末の英雄、蓮根清弦の末裔」
一本。
「現代に神代榊を受け継いだ魔法使い」
二本。
「黒曜の環と戦い」
三本。
「神代冥司からマホウトコロを取り戻した生徒」
四本。
「そして今も学校へ通い、普通に友人と生活している十八歳」
「最後いる?」
「いる」
「そこ大事?」
「非常に」
「マジか」
後藤は、奎星をまっすぐ見た。
「君は、現代の英雄になれる」
「…………」
数秒の沈黙のあと、奎星がにやっと笑った。
「英雄?」
「そう」
「俺が?」
「そうだ」
「現代の?」
「そうだ」
「…………」
茜は、嫌な予感を覚えた。
「それ」
奎星が身を乗り出す。
「何すんの?」
「まずは魔法省広報誌」
「載る?」
「載せたい」
「写真?」
「当然」
「カッコよく撮ってくれる?」
「専門の撮影術師を用意する」
「マジ!?」
「蓮根君」
茜が額を押さえる。
しかし、奎星は止まらなかった。
「他は!?」
「各地の魔法教育機関への訪問」
「講演?」
「場合によっては」
「俺が!?」
「君が」
「何喋んの!?」
「それはこれから考える」
「めっちゃ楽しそうじゃん!」
「さらに、大規模魔法災害対策や青少年向けの広報活動で──」
「ポスター?」
「可能性はある」
「俺ポスターになんの!?」
「なるかもしれない」
「やっば!」
「蓮根君、完全に乗ってるね」
茜が笑う。
「だって英雄だぞ?」
「さっきまで真面目に進路の話してたのに」
「それとこれは別じゃん」
奎星は後藤を見る。
「銅像は?」
「今のところ考えていない」
「今のところ!?」
「将来的な可能性までは否定しない」
「マジ!?」
「後藤さんも煽らないでください!」
「事実だ」
「事実じゃないですよ!」
茜が初めて、少し声を大きくした。
後藤は奎星へ、一枚の簡単な企画書を差し出した。
表紙には、《蓮根奎星 広報活用方針案》と書かれている。
「活用って書いてある」
「役所だからな」
「夢なくね?」
「書類に夢は必要ない」
「ちょっとスズメちゃんみたい」
「誰だね」
「先生」
「ああ」
「めっちゃ大事な人」
「そうか」
「そこで聞かないんだ」
「今は君の進路の話だからな」
奎星は企画書をめくった。
自分の名前、星帰り作戦、守護霊、神代榊、蓮根清弦。不思議だった。一年前、進路希望調査へ《海賊》と書いた。それが今、国家機関によって英雄にされようとしている。
「すげえな人生」
「君の場合は特にな」
後藤が立ち上がった。
「もちろん、まだ案の段階だ」
「やるの?」
「やる」
「絶対?」
「絶対に実現してみせるよ」
その言葉だけは、妙に力強かった。
「そのために坪田さんにも来てもらった」
茜の表情がわずかに変わる。
「私は進路支援が仕事ですよ」
「分かっている」
「蓮根君本人が選ぶための」
「もちろんだ」
後藤は頷いた。
そして、奎星を見る。
「君には、君に相応しい未来を用意したい」
「…………」
「では、また」
後藤は革鞄を持ち、扉へ向かった。
扉を開け、そのまま出ようとして。
「あ」
ふと立ち止まる。
振り返った。
「今日は返事を待ったほうがいいか?」
「出るときはいいです」
茜が答えた。
「そうか」
後藤はそのまま出ていった。
扉が閉まる。
「…………」
部屋が静かになる。
奎星が茜を見る。
「変なおっさんだな」
「蓮根君」
「悪口じゃなくて」
「分かるけど」
「英雄かぁ」
奎星は企画書へ目を落とした。その顔は、どう見ても楽しそうだった。
「俺、写真撮る前に髪切ったほうがいいかな」
「もうそこ?」
「大事だろ」
「自己分析で何学んだの」
「自分を知った」
「知った結果が髪?」
「俺、写真写り良いほうかな」
「知らないよ」
「スズメちゃんに聞こ」
「明日補習だからね」
「ちょうどいいじゃん」
奎星は嬉しそうに企画書を鞄へ入れた。
茜はそんな彼を見ながら、机の上に残った自己分析シートへ一度だけ目を落とした。
《ちゃんと自分で動けること》
その文字を、茜は数秒だけ見つめていた。
*
「聞いてくれ」
夜、男子寮談話室。
奎星はソファの中央へ立っていた。
「何だよ」
日向が寝転がったまま答える。
伊織は机で《就職魔法報》を読んでいる。岳は夜食を食べていた。
「俺」
奎星は一拍置いた。
「英雄になるかもしれん」
「…………」
日向が身体を起こした。
「は?」
「英雄」
「何の?」
「日本の」
「デカくなったな!」
「だろ?」
「何で!?」
「魔法省が俺を英雄にするらしい」
伊織の頁をめくる手が止まった。
「…………英雄にする?」
「おう」
「誰が?」
「後藤っておっさん」
「今日来てた?」
「そう」
「何でお前だけ魔法省のおっさんまで会ってんだよ!」
日向が立ち上がる。
「知らねえよ」
「専任の美人先生ついて、今度は英雄!?」
「羨ましい?」
「羨ましいわ!」
即答だった。
「俺も英雄になりてえ!」
「学校救えば?」
「一回やっただろ俺も!」
「確かに」
「俺も星帰りいたじゃん!」
「いたな」
「何でお前だけ!?」
「顔?」
「死ね!」
「痛っ!」
日向が投げた枕が、奎星の肩へ当たった。
「清弦って俺の先祖いたじゃん」
「ああ」
伊織がようやく顔を上げる。
「神代榊を使っていた人だね」
「そう。それが幕末の英雄だったらしい」
「へえ」
伊織の目が少し変わった。
「新しい資料?」
「神代の拠点から見つかったって」
「何が書いてあったの?」
「現代魔法広めたり、霊脈にいたデカい妖魔倒したり」
「かなり重要な資料だね」
「だろ?」
「それで?」
「その英雄の子孫が俺」
奎星は親指で自分を指した。
「学校取り戻したのも俺」
「僕たちもだけど」
「魔法省的には俺が分かりやすいらしい」
「…………」
伊織は眼鏡を押し上げた。
「分かりやすい」
「何その顔」
「別に」
「冷たくない?」
「英雄って、企画して作るものなんだなと思って」
「いいじゃん」
「まあ、君が楽しそうならいいけど」
「めっちゃ楽しそうだぞ」
日向が身を乗り出す。
「何すんの?」
「広報誌」
「うわ」
「学校訪問」
「うわ!」
「ポスター」
「うわあ!」
「写真撮影」
「ずるっ!」
「講演とかもあるかも」
「俺も横に映して!」
「嫌」
「何で!?」
「英雄じゃないから」
「三日前まで同じ部屋で寝てる奴だっただろ!」
「今もだろ」
「英雄と相部屋してる俺もすごくね?」
「何の実績にもならないよ」
伊織が淡々と言った。
岳が顔を上げる。
「英雄」
「おう」
「美味いもの食える?」
「…………」
奎星が止まった。
日向も止まる。
二人そろって岳を見る。
「天才か?」
「何が」
「英雄だぞ?」
奎星の目が輝いた。
「みんな奢ってくれるだろ!」
「確かに!」
日向もすぐに乗った。
「各地行くんだろ!?」
「たぶん!」
「名物食えるじゃん!」
「食える!」
「英雄すげえ!」
「最高じゃん!」
岳が頷いた。
「ならいい」
「お前が一番冷静なの何なんだよ!」
談話室の別の男子たちも、何事かと近寄ってきた。
「何の話?」
「蓮根英雄になるって」
「は?」
「また?」
「またって何だよ」
「もう学校じゃ英雄みたいなもんだろ」
「じゃ全国区」
「うぜえ!」
「サイン練習しとけよ!」
「いるかな?」
「本気にすんな!」
「蓮根奎星って漢字多いんだよな」
「そこから!?」
笑いが起きた。
奎星は机の上の紙へ、自分の名前を書いてみる。
《蓮根奎星》
「普通だな」
「何が?」
「英雄っぽくない」
「名前変えんなよ」
日向が笑った。
「清弦、かっこよくね?」
「じゃ蓮根清星」
「混ぜんな」
「字面だけ強い」
「本名大事にしろ」
伊織だけが、少し離れた机で、もう一度《就職魔法報》へ視線を戻した。
その前に、小さく呟く。
「……英雄化、か」
誰にも聞こえないほどの声だった。
*
同じ頃、東京、霞が関、日本魔法省地下庁舎では、時計が午後十一時を回っていた。
証拠保管区画には、まだ灯りがついている。
神代冥司の拠点から押収された品々は、一つずつ番号を振られ、記録され、分類されていた。黒曜石、古代術式を記した羊皮紙、魔法生物の素材、違法な拘束具、認識阻害用の魔法具、用途不明の古物。数は多く、一つの拠点だけではない。長野、群馬、東京、すでに放棄されていた施設、地下区画、神代本人すらどれだけ使っていたのか分からない場所から集められたものだった。
真壁征士郎は、一人で机へ向かっていた。
目の前には、現場で作成された《第一次押収目録》、魔法省への《搬送記録》、そして現在の《証拠品保管台帳》という三種類の書類が並んでいる。同じ品物が、同じ番号で、三つすべてに存在しなければならない。
真壁は黙々と羽根筆を動かしていた。黒曜石、古書、拘束具と順に照合を進め、次の項目へ目を移したところで、筆が止まった。
《K-417》
《真鍮製小型時計》
《用途不明》
《複数環状機構および中央部に砂時計状構造》
《現場確認時、作動なし》
第一次押収目録には、確かにある。
真壁の指が、次の搬送記録へ移った。K-415、K-416、K-418。そこにK-417はない。
保管台帳を開いても同じだった。
番号の飛びが一つだけある。それ自体は、珍しいことではない。現場で重複番号がつくこともあれば、破損品をまとめることもある。危険物として別区画へ移送されることも、後から分類番号が変わることもある。
理由なら、いくらでも考えられる。
だからこそ、真壁は確認した。別紙の危険物移送記録、廃棄申請、番号修正、解析局への貸出、国外照会。そのどこにも、K-417の記録はなかった。
「…………」
真壁は椅子へ深く座り、もう一度、目録の記述を読み返した。
《真鍮製小型時計》
《複数環状機構》
《中央部に砂時計状構造》
どこかで見た。
いや、見てはいない。
読んだ。
いつだ。
「…………時計」
七年前、国際魔法協力局から回ってきた一件の情報共有が脳裏に浮かんだ。英国、時間魔法、未成年者、大規模な秘匿処理。詳細の大半は非公開で、当時、日本へ直接の影響はないと判断されたため、真壁も概要に目を通しただけだった。
真壁は立ち上がり、資料棚へ向かった。
数年前の国際案件、英国、二〇二〇年。探しても見つからず、さらに深い区画へ進むには権限が必要だったため、真壁は自分の証票を取り出した。銀色の魔法省章を棚の横へ翳すと、青白い文字が浮かび上がる。
《監察局・特別調査権限》
解除。
棚の奥から、一冊の薄い記録が現れた。
《英国魔法省・特殊時間魔法事案》
「…………」
真壁はそれを開いた。
多くの箇所が黒塗りになっている。人物名、場所、具体的な経緯。日本側へ共有されたものは、ほとんど概要だけだった。
それでも、一つの単語が目に入る。
《Time-Turner》
真壁の目が止まった。
「……タイム、ターナー」
その横には、日本語訳が記されている。
《逆転時計》
真壁は記録を手にしたまま机へ戻り、すぐに国際魔法協力局へ連絡を入れた。
「監察局、真壁だ」
『……真壁監察官? この時間に?』
「英国魔法省へ緊急照会を頼みたい」
『緊急ですか?』
「ああ」
『案件番号は』
「二〇二〇年、時間魔法事案」
通信の向こうが黙った。
『……少々お待ちください』
「待つ」
通信が切れる。
地下区画に、時計の音だけが残った。
かち、かち、かち。
真壁はその間にも資料を読み続けた。通常型、時間遡行、厳重管理、過去への干渉、事故、危険性。ただ、情報が足りない。
三十分、四十分と時間が過ぎ、やがて机の上の青白い通信炎が大きく揺れた。
『真壁監察官』
国際魔法協力局の職員の声が響く。
「どうだった」
『英国側から回答が来ました』
「早いな」
『先方も、この案件名を出した時点で優先度を上げたようです』
「…………」
真壁の顔が、わずかに強張った。
『資料を転送します』
炎の中から、一枚、二枚、三枚と紙が落ちてくる。英国魔法省の印章と機密指定が押された、《時間遡行装置に関する照会回答》だった。
真壁は紙を拾い上げ、読む。
通常の逆転時計は過去へ戻るためのもので、遡れる時間には限度があり、運用にも厳格な制約がある。そこまでは、まだ理解できる。
問題は、七年前に英国で確認された試作型だった。
《既存仕様を大幅に逸脱》
《長時間遡行》
《過去事象への直接干渉》
真壁の指が止まる。
次の記述へ目を移す。
《干渉後、帰還時点における現在事象の変化を確認》
「…………」
真壁は読み直した。
もう一度。
《過去を変更した結果、現在の人物関係、社会状況、歴史的経緯そのものに変化が生じた事例あり》
真壁は椅子から背を離した。
「……現在が」
変わる。
過去を見るための道具ではない。過去へ行き、何かを変え、帰ってくる。そのとき、自分が知っていた現在そのものが、もう存在しない可能性がある。
七年前、英国魔法界がこの時計を恐れた理由は、過去へ行けるからではない。
過去を、変えられるからだ。
そして、真壁の目が最初の押収目録へ戻る。
《K-417》
《真鍮製小型時計》
《複数環状機構》
《中央部に砂時計状構造》
神代冥司の拠点には、確かにあった。現場へ入った職員が見て、番号を振り、記録している。それなのに、魔法省へ着いたときには消えている。
「…………」
真壁はゆっくりと立ち上がった。
誰が、いつ、どこで持ち出したのか。神代の残党か、魔法省内部の協力者か、それとも、もっと別の誰かなのか。
壁の時計が、小さく鳴った。
かち。
針が、一秒だけ前へ進んだ。
真壁はその音を聞きながら、もう一度、英国魔法省から届いた紙を見た。
中央には、一つの名前があった。
《逆転時計》
そして、その下。
《過去改変危険度──最上位》