マホウトコロ   作:西野圭吾

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第3話 キャリアデザイン

 

二〇二七年六月一日。

 

火曜日。

 

午前五時。

 

「ぐああああああああ!!」

 

朝の訓練場に、蓮根奎星の絶叫が響き渡った。

 

薄明るい空の下、奎星の身体が宙を舞う。御影玄一郎の杖から放たれた衝撃をまともに受け、奎星は一回転、二回転と勢いよく回り、そのまま背中から地面へ落ちた。

 

「っっってえ!!」

 

土煙の向こうで、御影が静かに杖を下ろす。

 

「遅い」

 

「何が!?」

 

「全部だ」

 

「範囲が広すぎるだろ!」

 

奎星は地面に寝転がったまま抗議した。朝五時。十八歳になった。最終学年にもなった。日本を救った英雄と呼ばれるようにもなった。魔法省からは専任のキャリアアドバイザーまで派遣された。

 

それでも、朝五時になれば御影に叩き起こされ、訓練場へ連行され、こうして地面へ転がされる。英雄になろうが、誕生日を学校中に祝われようが、御影の朝練だけは何一つ変わらない。

 

「立て」

 

「三秒!」

 

「一秒」

 

「減ってんじゃん!」

 

奎星は慌てて跳ね起きた。腰には、三日前の誕生日にスズメから贈られた濃紺の杖入れが下がっている。そこから神代榊を抜いたところで、御影の視線が一瞬だけ腰元へ向いた。

 

「変えたのか」

 

「お!」

 

奎星の顔が、疲労も痛みも忘れたように明るくなる。

 

「気づいた!?」

 

「見れば分かる」

 

「スズメちゃんから誕生日にもらったんだ。似合う?」

 

「知らん」

 

「ちゃんと見てくれよ!」

 

「構えろ」

 

「御影先生って、プレゼントの話になると急に冷たく――」

 

言い終わる前に、赤い閃光が飛んできた。

 

「うわっ!!」

 

奎星は紙一重で横へ飛び退く。背後の地面が爆ぜ、土と小石が朝の空へ舞い上がった。

 

「話してる途中!」

 

「戦闘中に相手が待つと思うな」

 

「朝練だろ!」

 

「同じだ」

 

「違うわ!」

 

十分後。

 

奎星は、また地面へ転がっていた。

 

青い空が見える。朝の空気は爽やかで、遠くでは鳥まで呑気に鳴いている。自分だけが、全身を使って朝の訪れを恨んでいた。

 

「俺、今日も生きて朝飯食えるかな……」

 

御影が見下ろす。

 

「喋れるなら走れるな」

 

「何でそうなるんだよ!?」

 

「外周二周」

 

「殺す気!?」

 

「三周」

 

「増やすな!!」

 

 

午前七時四十分。

 

大食堂。

 

「…………死ぬ」

 

奎星は食卓へ突っ伏していた。三日前の誕生日にも、似たようなことを言った気がする。どうやら十八歳になっても、朝練の後に死にかける習慣だけは変わらないらしい。

 

向かいでは、岳がいつも通り大量の朝食を食べていた。白米、味噌汁、焼き魚、卵、煮物。それだけでも十分な量なのに、なぜかその横には蕎麦まで置かれている。

 

「何で蕎麦あるの」

 

「食いたかった」

 

岳はそれだけ答え、蕎麦をすすった。

 

「朝飯の量じゃねえ……」

 

そこへ日向が隣の席へ腰を下ろす。

 

「今日もボコボコ?」

 

「三周」

 

「うわ」

 

「うわって言うな」

 

少し遅れて伊織も席へ着いた。

 

「でも、昨日より一周増えただけだね」

 

「“だけ”!?」

 

「御影先生にしては軽いんじゃない?」

 

「お前ら、朝五時に三周してから言えよ!」

 

背後から楓がやってきた。奎星は力なく手を伸ばす。

 

「楓ぇ……助けて」

 

「何を?」

 

「御影先生から」

 

「無理」

 

「即答!?」

 

「そもそも、朝練に行くのは自分でしょ」

 

「連れていかれてんだよ!」

 

「でも毎日ちゃんと行ってるじゃない」

 

「それは……」

 

奎星は言葉に詰まった。嫌なのは本当だ。だが、やめたいかと聞かれれば、たぶん違う。御影の訓練が自分を強くしていることを、奎星自身も分かっていた。

 

そんな、いつも通りの朝だった。

 

大食堂には、眠そうに欠伸をする生徒がいる。朝から教科書を開いている生徒もいれば、昨日の課題を必死に写している生徒もいる。岳は相変わらず大量の朝食を食べ、日向は時間割を確認し、楓はそれを呆れた顔で見ていた。

 

「今日、一限何だっけ?」

 

日向が訊く。

 

「時間割くらい覚えなさいよ」

 

「覚えてるよ。確認」

 

「その言い方、覚えてない人の言い訳だよ」

 

伊織が時間割を確認しようとした、そのときだった。

 

大食堂の前方で、九重院紫苑が立ち上がった。

 

その隣には、昨日の夜、魔法史研究室の前で会ったばかりの女性がいる。明るい色の髪は柔らかく巻かれ、服装は魔法省の職員らしいきちんとしたものだが、本人の雰囲気は堅苦しさとは無縁だった。すらりとした体型に、親しみやすい笑顔。

 

坪田恋。

 

奎星の箸が止まった。

 

「あ」

 

日向が前方を見る。

 

「誰?」

 

楓も顔を上げた。

 

「新しい先生?」

 

大食堂のあちこちで、ざわめきが広がっていく。特に男子生徒たちの反応は露骨だった。視線が一斉に恋へ集まり、眠そうだった顔が、まるで別人のように生き生きとしていく。

 

九重院が軽く杖を振ると、澄んだ鈴の音が大食堂に響いた。

 

ちりん。

 

ざわめきが静まる。

 

九重院は、いつもの穏やかな笑顔で口を開いた。

 

「おはようございます、皆様」

 

その瞬間。

 

「「「「「おはようございます、校長先生!!!」」」」」

 

大食堂が揺れた。

 

九重院がわずかに目を瞬かせる。奎星も、楓も、伊織も、岳も、教師席の教師たちまで驚いていた。普段の三倍どころか、男子生徒たちの声はほとんど雄叫びに近い。

 

日向も、その中に混ざっている。

 

奎星が横目で見る。

 

「お前、普段そんな声出さねえだろ」

 

「朝だから!」

 

「毎日朝だろ!」

 

九重院は何となく事情を察したらしく、隣の恋へ視線を向けた。恋は、男子生徒たちの反応を面白がるように笑っている。

 

「本日は皆さんへ、新しい講師の方をご紹介します」

 

男子生徒たちの背筋が、一斉に伸びた。

 

「坪田恋さんです」

 

恋が一歩前へ出る。そして、深く考えることもなく、にこりと笑った。

 

その瞬間、大食堂の男子生徒たちから、いくつもの声が漏れる。

 

「か、かわいい……!」

 

「美人だ……!」

 

「烏丸先生とは別系統の美人だな……!」

 

「スタイル良……」

 

「おっぱ――」

 

最後まで言い切る前に、楓の拳が日向の脇腹へめり込んだ。

 

「ぐえっ!」

 

教師席では、スズメの手が止まっていた。

 

誰ですか。

 

今、余計な比較をしたのは。

 

九重院は何事もなかったように続ける。

 

「本日より、坪田先生には上級課程三年の新科目、《キャリアデザイン》を担当していただきます」

 

「キャリア……」

 

奎星が呟く。

 

伊織はすぐに意味を理解した。

 

「進路関係だね」

 

「ああ」

 

一昨日は進路希望調査。昨日は専任キャリアアドバイザー。そして今日は新科目。どうやら今年は、本気で将来というものから逃げられないらしい。

 

恋が明るく手を上げた。

 

「皆さん、おはようございまーす!」

 

「「「おはようございます!!」」」

 

男子生徒たちの返事だけが、また妙に元気だった。

 

恋はその反応に吹き出す。

 

「あはは、朝から元気だね!」

 

「元気です!!」

 

「今日から上級三年のキャリアデザインを担当します、坪田恋です!」

 

拍手が起こる。やたら大きい。男子生徒たちはもちろん、女子生徒たちも楽しそうに手を叩いていた。

 

「魔法省から来ました! でも、堅苦しい授業にするつもりはないので安心してください!」

 

何人かの生徒が嬉しそうに顔を見合わせる。高宮だけは、なぜか少し険しい顔をしていた。

 

恋は、そこで一度言葉を切った。

 

「それと、講師の仕事とは別に――」

 

奎星の胸に、嫌な予感が湧き上がる。

 

ものすごく嫌な予感だった。

 

「放課後は――」

 

やめろ。

 

「蓮根奎星君の――」

 

やめてくれ。

 

「専任キャリアアドバイザーとして、個別相談も担当してまーす!」

 

「…………」

 

奎星は固まった。

 

大食堂から音が消える。男子生徒たちが、ゆっくりと奎星へ顔を向けた。

 

奎星は引きつった笑顔を浮かべる。

 

「お、おはよう……?」

 

次の瞬間。

 

「蓮根ぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」

 

「何でぇぇぇぇぇ!?」

 

男子生徒たちが一斉に殺到した。

 

「お前、烏丸先生じゃないのかよ!!」

 

「何が!?」

 

「裏切り者!!」

 

「何を裏切ったんだよ!」

 

「死ねええええ!!」

 

「理不尽!!」

 

「日本救ったくらいで調子に乗んじゃねえぞ!!」

 

「救ったことは認めてくれてんじゃん!!」

 

「この野郎!!」

 

「殴るな!」

 

どさっ、ばきっ、どたどたと音が続き、奎星はあっという間に男子生徒の山の下へ消えた。

 

「痛い痛い痛い! 本気で殴るな!」

 

もちろん、本気ではない。だが、人数が多すぎる。誰かが肩を押さえ、誰かが背中を叩き、誰かが足を引っ張っている。

 

日向は少し離れたところから腹を抱えて笑っていた。

 

「助けろ!」

 

「無理!」

 

「友達だろ!」

 

「面白い!」

 

「最低!!」

 

楓は額へ手を当てている。

 

「馬鹿ばっかり……」

 

伊織は、騒ぎを完全に無視して朝食を食べ続けていた。

 

「平和だね」

 

「どこが!?」

 

人の山の底から、奎星の悲鳴が響く。

 

その一方で、別の男子生徒たちは恋の前へ殺到していた。

 

「坪田先生!」

 

「坪田お姉様!」

 

「俺のキャリア相談も受けてください!」

 

「僕も!」

 

「彼氏はいますか!?」

 

「好きです!!」

 

「何の相談だよ!」

 

奎星が生徒の山の下から叫ぶ。

 

恋は一瞬目を丸くしたが、すぐに両手を合わせ、申し訳なさそうに笑った。

 

「ごめんなさい!」

 

男子生徒たちが止まる。

 

「私は奎星君の専任なので!」

 

恋は、悪気のない笑顔で続けた。

 

「個別相談は、奎星君だけなんです!」

 

「…………」

 

男子生徒たちが、もう一度奎星を見る。

 

奎星の顔から血の気が引いた。

 

「待って。今の言い方は――」

 

一人の男子生徒が拳を握る。

 

「可愛い!!」

 

別の一人が叫んだ。

 

「蓮根死ねぇぇぇ!!」

 

「何でだよぉぉぉぉぉ!!」

 

第二波が来た。

 

「やめろ!」

 

「専任だと!?」

 

「ふざけんな!」

 

「お前には烏丸先生がいるだろ!」

 

「だから何の話!?」

 

「二人もいるの許せねえ!」

 

「何が二人なんだよ!」

 

奎星の抗議は、再び殴る音と笑い声にかき消された。

 

そのとき。

 

「君たち!!」

 

教師席から、鋭い声が飛んだ。

 

男子生徒たちが一斉に動きを止める。

 

奎星も床へ倒れたまま顔を上げた。

 

「た、高宮先生……!」

 

その目には、ようやく現れた救世主への期待が輝いていた。教師が、教え子を守ってくれる。そう思った。

 

高宮は立ち上がっていた。かなり怒っている。

 

「まったく!」

 

高宮は男子生徒たちを睨みつける。

 

「キャリア相談なら!」

 

奎星は心の中で頷いた。

 

そうだ。

 

「私たち教師だって!」

 

その通りだ。

 

「いつでも乗るというのに!!」

 

「…………」

 

奎星の目から光が消えた。

 

男子生徒たちは一斉に高宮を見る。

 

そして、声を揃えた。

 

「あ、大丈夫でーす」

 

「君たちねぇぇぇぇぇぇ!!」

 

高宮が本気で怒鳴り、大食堂はまた爆笑に包まれた。

 

奎星は床から叫ぶ。

 

「もっとキレるところあるだろ! 教え子守れよ!!」

 

高宮が振り返る。

 

「何です!」

 

「そこじゃねえよ!」

 

「自業自得でしょう!」

 

「何が!?」

 

九重院は口元へ手を当てて笑いをこらえ、土御門は困ったように微笑んでいる。御影はというと、朝食を食べながら一切助けようとしなかった。

 

「御影先生!」

 

「何だ」

 

「助けて!」

 

「朝練は終わった」

 

「関係ねえよ!」

 

その隙に、岳が奎星の皿から出汁巻き卵を取った。

 

「岳!」

 

「冷めるから」

 

「友情は!?」

 

 

教師席では、スズメがその騒ぎを静かに見ていた。

 

坪田恋は明るい。よく笑う。生徒との距離も近い。そして、奎星を最初から「奎星君」と呼んでいる。

 

昨日の夜もそうだった。

 

今日もそう。

 

さらに、専任。

 

その二文字が、妙に耳に残っていた。

 

「烏丸先生?」

 

隣から土御門が声をかける。

 

「はい」

 

「お味噌汁、冷めてしまいますよ」

 

スズメは自分の前へ視線を落とした。箸が止まっている。

 

「ああ……すみません」

 

箸を持ち直す。

 

土御門は、スズメの顔と大食堂中央の奎星を交互に見た。奎星はようやく男子生徒の山から這い出し、髪を乱したまま恋へ何か抗議している。恋は楽しそうに笑っていた。

 

土御門の口元が、ほんの少しだけ緩む。

 

「何ですか」

 

スズメがすぐに気づいた。

 

「いいえ」

 

「何ですか」

 

「何でもありませんよ」

 

「その顔は何かあります」

 

「烏丸先生」

 

「はい」

 

「お味噌汁」

 

「…………」

 

誤魔化された。

 

スズメは仕方なく味噌汁を口に運ぶ。視界の端では、恋が奎星へ話しかけ、奎星が笑っている。

 

味噌汁の味は、よく分からなかった。

 

 

午前十時。

 

上級課程三年二組。

 

黒板には、《キャリアデザイン》という文字が大きく書かれていた。

 

その前に立つ坪田恋が、ぱん、と手を叩く。

 

「はい! というわけで、第一回キャリアデザイン始めまーす!」

 

「お願いしまーす!」

 

日向が元気よく返事をする。

 

楓が横目で睨んだ。

 

「朝食からずっと元気ね、あんた」

 

「新しい授業だから!」

 

「先生が美人だからでしょ」

 

「両方!」

 

「正直ね」

 

奎星は頬を押さえていた。

 

「痛え……」

 

伊織が見る。

 

「まだ痛いの?」

 

「めっちゃ殴られた」

 

「人気者だね」

 

「絶対違う」

 

岳は机の中から何かを取り出して食べている。

 

「岳」

 

楓が睨む。

 

「授業中」

 

「分かってる」

 

「何食べてるの」

 

「最中」

 

「朝食を食べたでしょ」

 

「これは十時」

 

「時間を答えてほしいんじゃないの」

 

恋はそんなやり取りを楽しそうに眺めてから、教室全体へ向き直った。

 

「みんな、進路希望調査はもう書いた?」

 

生徒たちから、ばらばらに返事が返ってくる。

 

「書きましたー」

 

「まだです」

 

「第一志望だけ」

 

「白紙です」

 

最後の声に、恋の視線が止まった。

 

奎星だった。

 

「白紙?」

 

「…………」

 

奎星は目を逸らす。

 

「白紙の人?」

 

恋が笑顔で訊くと、奎星は観念したようにゆっくり手を上げた。

 

「はい……」

 

「奎星君!」

 

「名指しすんなよ!」

 

教室が笑いに包まれる。

 

恋も笑った。

 

「大丈夫、大丈夫! というか、今日はいきなり職業なんて考えません!」

 

「え?」

 

何人かの生徒が声を上げる。

 

恋は紙束を持ち上げ、前の席から順番に配り始めた。奎星の手元へ届いた紙には、三つの大きな欄がある。

 

《人生で楽しかったこと》

 

《人生で辛かったこと》

 

《人生で忘れられないこと》

 

「今日はこれを書いてもらいます!」

 

「これだけ?」

 

日向が紙を覗き込む。

 

「これだけ!」

 

恋は黒板の前を歩きながら説明した。

 

「難しいことは考えなくていいです。七歳の頃でも、十歳の頃でも、十五歳の頃でも、昨日のことでもいい。楽しかったこと、嬉しかったこと、めちゃくちゃ悔しかったこと、死ぬほど嫌だったこと、夢中になったこと。とにかく人生を振り返って、思いつく限りたくさん書いてください!」

 

「昨日でもいいんですか?」

 

誰かが笑いながら訊く。

 

「もちろん! 昨日の夕飯がおいしかった、とかでもいいんです」

 

恋は黒板へ、次々に言葉を書き足していく。

 

《楽しい》

 

《嬉しい》

 

《辛い》

 

《悔しい》

 

《夢中》

 

《怖い》

 

《好き》

 

《嫌い》

 

「これ、進路と関係あるんですか?」

 

生徒の一人が手を上げた。

 

恋は即答した。

 

「あります!」

 

「どういうふうに?」

 

「それは後で説明します!」

 

「後!?」

 

「今説明すると、みんなが“進路に役立ちそうな答え”を探して書いちゃうからです。今日は格好いいことを書かなくていい。くだらないことも大歓迎!」

 

奎星が顔を上げた。

 

「くだらないこと?」

 

「大歓迎!」

 

「じゃあ俺、得意!」

 

楓が小声で言う。

 

「自覚あるのね」

 

日向も頷いた。

 

「成長したな」

 

「何でそこ褒めんだよ!」

 

恋は砂時計を教卓へ置いた。

 

「はい、十五分! 始め!」

 

 

教室が静かになった。

 

羽根筆が紙を擦る音だけが、あちこちから聞こえてくる。

 

奎星はシートを見つめた。人生で楽しかったこと。

 

しばらく考えたあと、最初の欄へ大きく書く。

 

《魔法学校に来た》

 

隣の日向が覗き込んだ。

 

「でか」

 

「見るな!」

 

「一個目がそれ?」

 

「悪いかよ」

 

「いや、奎星っぽい」

 

奎星は少しだけ照れたように鼻を鳴らし、続きを書いた。

 

《初めて魔法を使えた》

 

《友達ができた》

 

《寮に入れた》

 

《八咫祭》

 

《鬼火鳥》

 

《星迎祭》

 

《クリスマス》

 

《初詣》

 

書き始めると、思い出は次々に浮かんできた。まだマホウトコロへ来て一年しか経っていない。それなのに、楽しかったことの欄はあっという間に半分ほど埋まっていく。

 

日向の紙には、別の思い出が並んでいた。

 

《初めて箒で一番になった》

 

《初めて試合に出た》

 

《全国交流杯》

 

《星迎祭》

 

《みんなで夜中まで装飾を作り直した》

 

楓が、その最後の一文へ視線を止めた。

 

「懐かしい」

 

「何が?」

 

「装飾」

 

「ああ、全部飛んだやつ」

 

奎星がすぐに食いつく。

 

「何それ!」

 

楓が顔を上げた。

 

「中級課程に上がった頃よ。星迎祭の前日、私たちの学年で作っていた飾りが、強風で全部壊れたの」

 

「全部!?」

 

「全部」

 

日向が笑う。

 

「朝、校庭へ行ったら何もなかったんだよ」

 

「マジ!?」

 

「日向なんて、最初は笑ってたわよ」

 

「だって、綺麗に消えてたから!」

 

「あんたが笑うから、私は余計に腹が立ったの!」

 

「泣きそうだったじゃん」

 

「泣いてない!」

 

「泣きそうだった!」

 

「殴るわよ」

 

「今と変わってねえ!」

 

奎星が腹を抱えて笑う。

 

楓は奎星まで睨みつけた。

 

「蓮根君?」

 

「俺、関係なくない!?」

 

教室の何人かも話を聞いていたらしく、次々に声を上げた。

 

「あったなあ!」

 

「覚えてる!」

 

「俺、朝見た瞬間に帰りたくなったもん」

 

「榎本先輩たちが手伝ってくれたんだよね」

 

楓が頷く。

 

「そう。先輩たちが手伝ってくれて、結局夜までかけて作り直したの」

 

恋は少し離れた場所で、その話を楽しそうに聞いていた。誰も止めない。むしろ、教室の空気が自然に盛り上がっていくのを嬉しそうに見ている。

 

「いいね!」

 

恋が黒板を指した。

 

「そういうの、どんどん書いて!」

 

日向が紙へ書き足す。

 

《壊れた星迎祭の飾りを作り直した》

 

楓も同じ思い出を書いた。

 

奎星が二人を見る。

 

「同じの書くんだ」

 

「そりゃ、同じクラスだったんだから」

 

日向が当然のように答える。

 

楓も続けた。

 

「昔からずっと一緒よ」

 

奎星は少し驚いた。

 

知ってはいた。日向と楓が七歳の入学時から同じクラスで、ずっと一緒に過ごしてきたことも知っている。だが、こうして二人の会話を聞いていると、自分が入ってくるよりずっと前から続いている時間の長さを、改めて実感する。

 

「七歳の頃から?」

 

「うん。入学の日も一緒」

 

楓の顔が、わずかに強張った。

 

「……それは言わなくていい」

 

「何?」

 

奎星がすぐに食いつく。

 

日向は、待っていましたとばかりに笑った。

 

「こいつさ、入学初日に――」

 

「日向」

 

「教室が分からなくなって――」

 

「朝比奈日向」

 

「俺も迷った」

 

「お前もかよ!」

 

教室が爆笑に包まれる。

 

楓は額を押さえた。

 

「だから言いたくなかったのよ!」

 

「二人で迷子!?」

 

「違う!」

 

日向が即座に言う。

 

「迷子」

 

「七歳よ! 初めて来た学校だったの!」

 

「俺も七歳だって!」

 

「開き直らないで!」

 

伊織が静かに口を挟んだ。

 

「しかも、三枝先輩に案内してもらって、結局遅刻したんだよね」

 

日向と楓が同時に振り返る。

 

「何で知ってるの!?」

 

伊織は眼鏡を押し上げた。

 

「有名だから」

 

「最悪!」

 

さらに笑いが広がる。

 

奎星は机を叩いた。

 

「冬真先輩も迷ったの!?」

 

「途中まで案内してくれたの!」

 

楓が答える。

 

日向が続けた。

 

「で、先輩も道を間違えた」

 

「最強じゃん!」

 

「何が!?」

 

恋も声を上げて笑っていた。

 

「あはは! いい学校生活を送ってるじゃん!」

 

楓の顔が少し赤くなる。

 

「先生まで……」

 

一度誰かが口を開くと、昔話は止まらなかった。

 

「下級課程のとき、初歩魔力制御で机を三日間光らせっぱなしにした奴いたよな」

 

「お前だろ!」

 

「消し方が分からなかったんだよ!」

 

「夜の教室だけずっと明るかった!」

 

「中級の最初の決闘で、自分のローブに足を取られた奴もいた!」

 

「言うな!」

 

笑い声が重なる。

 

七歳からこの学校にいる生徒たちは、同じ廊下を歩き、同じ教師に怒られ、同じ行事を経験し、同じ食堂で食事をしてきた。一つの思い出を口にすれば、別の誰かが続きを覚えている。奎星にはない十一年分の時間が、教室の中で次々と形になっていった。

 

岳の紙も、いつの間にかかなり埋まっていた。

 

奎星が覗き込む。

 

《飯》

 

「雑!」

 

「楽しい」

 

「もっとあるだろ!」

 

《大食堂》

 

「同じだろ!」

 

「違う」

 

「何が!?」

 

《鬼火鳥》

 

奎星はそこで止まった。岳も、その文字を見つめて少し笑う。

 

「これ、楽しかった?」

 

岳は少し考えた。

 

「最初は辛かった」

 

足枷をつけられ、傷つき、弱っていた鬼火鳥。あの頃のことを思い出しているのだろう。

 

「でも、元気になったから」

 

奎星も笑った。

 

「そっか」

 

岳はさらに書き足した。

 

《魔法動物飼育学》

 

その文字を見て、奎星は一昨日、岳が話していた将来のことを思い出した。魔法動物学者。世界中の、まだ知らない魔法動物を見る仕事。

 

「なるほどなぁ」

 

「何」

 

「いや」

 

岳はもう一つ書き足した。

 

《天ぷら》

 

「料理?」

 

「小妖」

 

「そっち!?」

 

「料理も」

 

「両方!?」

 

教室にまた笑いが起こる。

 

伊織は静かに、しかしかなりの量を書いていた。奎星が覗こうとすると、伊織はすぐに紙を裏返した。

 

「見るなよ!」

 

「君がそれを言う?」

 

「俺はいい!」

 

「何で?」

 

「俺だから!」

 

「理屈が壊れてるね」

 

恋は教室の中を歩きながら、生徒たちの紙を覗いていた。ただし、「それは違う」とは決して言わない。

 

《友達と喧嘩した》

 

《試験で一位を取った》

 

《試験で最下位だった》

 

《初めて守護霊が出た》

 

《先生に怒られた》

 

《寮で夜更かしした》

 

《実家へ帰った》

 

《試合に負けた》

 

どんな内容にも、恋は笑顔で頷いた。

 

「いいね」

 

「それも書こう」

 

「そのとき、何が嫌だった?」

 

「逆に、その前は何が楽しかった?」

 

問いかけるだけで、答えを決めつけない。

 

奎星はそんな恋の様子を、しばらく眺めていた。

 

それから、自分の紙の《辛かったこと》の欄へ目を向ける。

 

筆が動いた。

 

《日向を魔法で怪我させた》

 

隣の日向が気づいた。一瞬だけ黙ったが、何も言わない。

 

奎星は続きを書く。

 

《第零書庫》

 

《鬼火鳥が捕まっていたこと》

 

《黒曜の門》

 

《学校を取られたこと》

 

《神代》

 

《スズメちゃんが俺を忘れたこと》

 

最後の一文を書いたところで、奎星の筆が止まった。そこだけ、文字が少し強く紙へ食い込んでいる。

 

日向は何も言わなかった。ただ、奎星の肩を軽く一度叩いた。

 

奎星が顔を上げる。

 

日向は自分の紙へ視線を戻している。

 

それだけで十分だった。

 

奎星も小さく笑い、最後の欄へ書き足した。

 

《でも戻った》

 

恋が奎星の横を通り過ぎる。シートへ一瞬視線を落としたが、何も訊かなかった。ただ、穏やかに言う。

 

「いっぱい出てるね」

 

「うん」

 

奎星は紙を見つめた。

 

楽しかったこと。辛かったこと。忘れられないこと。

 

わずか一年分なのに、自分の欄はほとんど埋まっている。

 

「一年しかいねえのにな」

 

奎星がぽつりと呟く。

 

恋が足を止めた。

 

「濃い一年だった?」

 

奎星は少し考えた。

 

「めちゃくちゃ」

 

その答えに、恋も笑った。

 

「じゃあ、それも書いとこう」

 

「それも?」

 

「《濃い一年だった》」

 

「雑じゃね?」

 

「いいの!」

 

奎星は少し笑い、紙へ書き足した。

 

《めちゃくちゃ濃い一年だった》

 

 

授業が終わる。

 

恋は教壇の前で、集めたシートを生徒たちへ返した。

 

「今日は持って帰ってください!」

 

奎星が顔を上げる。

 

「提出しないの?」

 

「しない!」

 

「何で?」

 

恋は、紙を指先で軽く叩いた。

 

「それは私に見せるためのものじゃないから」

 

教室が少し静かになる。

 

恋は黒板へ視線を向けた。

 

「自分で自分を見るためのものです」

 

伊織の目がわずかに細くなる。

 

恋は続けた。

 

「消したくなったら消していい。増えたら増やしていい。半年後に見たら、全然違うことを書きたくなるかもしれない」

 

そして、黒板の《キャリアデザイン》という文字を振り返る。

 

「仕事を決める前に、まず自分が何を好きで、何を嫌って、何に怒って、何なら頑張れる人なのかを知る。そこから始めましょう」

 

鐘が鳴った。

 

恋は笑顔で手を叩く。

 

「はい、今日は終わり!」

 

教室が一気にざわめき始める。

 

日向が紙を見ながら言った。

 

「俺、楽しかったことがクィディッチだらけだわ」

 

「知ってる」

 

楓が即答する。

 

「まだ見せてねえけど」

 

「十一年見てるから分かる」

 

「怖」

 

「何がよ!」

 

奎星が笑った。

 

「マジで何でも知ってんだな、お前ら」

 

日向は胸を張る。

 

「まあな」

 

楓は少しだけ肩をすくめた。

 

「嫌でもね」

 

「何だよ、その言い方!」

 

奎星は二人を見た。

 

七歳の入学初日。迷子になったこと。中級課程で星迎祭の飾りを作り直したこと。上級課程の今まで続いている十一年分の時間。

 

自分にはない時間だった。

 

けれど、不思議と羨ましいだけではなかった。

 

去年の五月、奎星は誰のことも知らなかった。誰も奎星のことを知らなかった。

 

今は違う。

 

自分も、その続きを一緒に作っている。

 

奎星は自分のシートを大切そうに鞄へしまった。

 

 

放課後。

 

「では、蓮根君」

 

土御門が出席簿を閉じた。

 

「今日は坪田先生との面談ですね」

 

「うん」

 

「うん、ではなく、はい」

 

「はい!」

 

日向がすぐに口を挟む。

 

「頑張ってこいよ!」

 

奎星が睨む。

 

「何をだよ!」

 

「キャリア」

 

「普通だな!」

 

「何を期待したの?」

 

「朝の流れ的に、絶対変なこと言うと思った」

 

日向はにやりと笑った。

 

「坪田お姉様と仲良くな」

 

「やっぱり!」

 

楓が日向の頭を叩く。

 

「痛っ!」

 

「馬鹿なこと言ってないで部活へ行きなさい」

 

「お前、母ちゃん?」

 

「もう一回殴る?」

 

「行ってきます!」

 

日向は逃げるように教室を出ていった。

 

岳も立ち上がる。

 

「俺も飼育棟」

 

「おう!」

 

伊織が眼鏡を押し上げた。

 

「ちゃんと自分のことを話してきたら?」

 

奎星は少し驚く。

 

「何で?」

 

「キャリア相談って、話さないと始まらないでしょ」

 

「確かに」

 

「君の場合、黙らせるほうが難しそうだけど」

 

「喧嘩売ってる?」

 

「事実」

 

伊織も教室を出ていく。

 

最後に楓が奎星を見る。

 

「行ってらっしゃい」

 

「おう!」

 

「失礼なこと言わないのよ」

 

「俺を何歳だと思ってんだよ!」

 

「十八歳」

 

「じゃあ信用しろ!」

 

「十八年間の積み重ねを知らないから無理」

 

「一年前しか知らねえだろ!」

 

「十分」

 

「ひど!」

 

楓も笑いながら教室を出ていった。

 

奎星は一人になった教室で鞄を肩へ掛ける。

 

「さて」

 

進路相談室へ向かった。

 

 

魔法史研究室。

 

スズメは机へ向かっていた。

 

赤い羽根筆。古文書。授業用の資料。昨日、奎星から贈られたトランクは机の横に置かれ、すでにかなりの量の書類を収めている。

 

本当に軽い。

 

朝、一度持ち上げてみたときには、スズメも思わず目を見開いた。これなら資料を運ぶたびに腕を痛めることもないだろう。

 

もちろん、奎星にはまだ言っていない。

 

絶対に得意げになるからだ。

 

「…………」

 

スズメは紙をめくった。

 

今日やることは多い。来週の授業準備、二年生の答案、第零書庫の資料整理、古代魔術史の報告。集中しなければならない。

 

そのとき、隣の部屋から扉の開く音が聞こえた。

 

進路相談室。

 

壁一枚を隔てた隣の小部屋は、昨日まではほとんど使われていなかった。今年から上級課程三年の進路相談用に整えられ、今日から坪田恋が使うことになっている。

 

「奎星君、いらっしゃーい!」

 

赤い羽根筆が止まった。

 

スズメは資料へ視線を落とす。

 

一行目を読む。

 

隣の部屋から声が聞こえた。

 

「失礼しまーす!」

 

「硬い硬い! 普通でいいよ!」

 

「じゃ、こんちは!」

 

「あはは! それくらいでいい!」

 

スズメは二行目へ進もうとした。

 

しかし、気づけば一行目へ戻っている。

 

隣では、まだ会話が続いていた。

 

「じゃあ座って!」

 

「うん」

 

「何か飲む?」

 

「あるの!?」

 

「お茶と紅茶と水!」

 

「水羊羹は?」

 

「飲み物じゃないよ!」

 

「あったら最高なんだけど」

 

「相談室に水羊羹を常備してる人なんていないって!」

 

「スズメちゃんの研究室には、たまにある」

 

「そうなの!?」

 

スズメは顔を上げた。

 

何を、人の研究室事情まで話しているのですか。

 

聞こえてしまうのは、壁が薄いからだ。聞こうとしているわけではない。壁が悪い。

 

そう自分に言い聞かせ、スズメは資料へ戻った。

 

 

隣の進路相談室。

 

恋は机を挟んで奎星と向かい合った。

 

「さて!」

 

「おう!」

 

「第一回、個別キャリア相談!」

 

「おう!」

 

恋は両手を合わせ、明るく宣言した。

 

「今日は進路の話をしません!」

 

奎星が止まる。

 

「……何しに来たの?」

 

「話しに!」

 

「キャリアアドバイザーだよね!?」

 

「そう!」

 

「仕事して!」

 

恋は楽しそうに笑った。

 

「いきなり職業の話をしたって意味ないじゃん」

 

「そうなの?」

 

「だって私、奎星君のことを何も知らないもん」

 

奎星は少し黙った。

 

恋は頬杖をつく。

 

「魔力がすごい。古代魔術が使える。学校を救った。日本を救った英雄。魔法省の資料には、それはもう色々書いてあったよ」

 

奎星の眉がわずかに寄る。

 

恋はすぐに続けた。

 

「でも、それって奎星君そのものじゃないでしょ?」

 

「…………」

 

「だから今日は、自己紹介!」

 

奎星は数秒、恋を見つめた。

 

それから、ふっと笑う。

 

「それなら得意!」

 

「知ってる気がする!」

 

「何で!?」

 

「朝から見てたから!」

 

「あれは巻き込まれたんだよ!」

 

「あはは!」

 

恋は自分の胸へ手を当てた。

 

「じゃあ、私から!」

 

「おう!」

 

「坪田恋!」

 

「知ってる!」

 

「最後まで聞いて!」

 

「はい!」

 

「人と喋るのが好き!」

 

「それは分かる!」

 

「知らない町へ行くのも好き!」

 

「いいじゃん!」

 

「知らない仕事の話を聞くのも好き!」

 

「仕事の話が好きなの?」

 

「仕事そのものというより、その人が何でそれをやっているのか聞くのが好き」

 

恋は少し考えながら言葉を続けた。

 

「パン屋さんが、どうしてパン屋さんになったのか。禍祓官が、どうして危ない仕事を選んだのか。研究者が、どうして何十年も同じものを調べているのか。人によって全部違うじゃん」

 

奎星の目が輝いた。

 

「それ、面白そう!」

 

「でしょ!」

 

「俺も聞きたい!」

 

「じゃあ今度、一緒に聞きに行く?」

 

「行く!」

 

「よし!」

 

初対面から、ほとんど二日目とは思えないほど会話の速度が合っていた。

 

恋が訊く。

 

「奎星君は?」

 

「俺?」

 

「自己紹介!」

 

奎星は胸を張った。

 

「蓮根奎星! 十八歳!」

 

「知ってる!」

 

「最後まで聞けよ!」

 

「仕返し!」

 

「この人!」

 

二人はまた笑った。

 

「好きなもの!」

 

奎星は指を折りながら答える。

 

「飯!」

 

隣の部屋で、スズメの羽根筆が動いた。

 

知っています。

 

「友達と遊ぶ!」

 

知っています。

 

「魔法!」

 

知っています。

 

「歴史!」

 

スズメの口元が、ほんの少し緩む。

 

「強い奴と戦う!」

 

それは知りません。

 

いや、知っています。

 

「知らないところへ行く!」

 

「私も!」

 

「マジ!?」

 

「旅行好き!」

 

「俺も! 去年からめっちゃ色んなところへ行った!」

 

「どこ?」

 

「八咫小路、朝凪島、常隠島、群馬――」

 

「待って」

 

恋が止める。

 

「最後の二つ、旅行?」

 

「……違うな」

 

「絶対違うよね!?」

 

「あ、東京も!」

 

「それ普通!」

 

「俺、東京出身だからな」

 

「旅行ですらない!」

 

また二人の笑い声が響いた。

 

スズメは資料の同じ行を三度読んだ。

 

《江戸後期における霊脈管理制度は――》

 

内容が頭に入らない。

 

隣では、恋が訊いている。

 

「嫌いなもの!」

 

「朝五時!」

 

奎星が即答した。

 

スズメは、思わず小さく頷く。

 

でしょうね。

 

「御影先生の外周!」

 

でしょうね。

 

「薬師寺先生の薬!」

 

でしょうね。

 

「補習!」

 

赤い羽根筆が止まった。

 

隣で、恋が少し声を落とす。

 

「でも、補習がなくなったら?」

 

奎星の返事は、すぐには返ってこなかった。

 

「それは嫌」

 

スズメの手が止まる。

 

「え?」

 

思わず、小さな声が漏れた。

 

幸い、隣には聞こえていない。

 

恋が訊く。

 

「何で?」

 

奎星は少し考えた。

 

「スズメちゃんと喋る時間が減るから」

 

「スズメちゃん?」

 

「烏丸先生」

 

「先生をちゃん付け!?」

 

「ずっとこれ」

 

「怒られない?」

 

「毎回怒られる」

 

「直さないの?」

 

「直す気ない」

 

恋が大笑いする。

 

スズメの顔が少し熱くなった。

 

まったく、何を初対面の人へ話しているのですか。

 

恋は楽しそうに訊いた。

 

「烏丸先生とは仲いいんだ?」

 

「めっちゃ!」

 

スズメの羽根筆が、また止まる。

 

「俺、魔法学校へ来る前から知ってるし!」

 

「え? どういうこと?」

 

「家に来た!」

 

「烏丸先生が!?」

 

「入学案内で!」

 

「ああ!」

 

「そっからずっと補習!」

 

「一年ずっと!?」

 

「そう!」

 

恋は感心したように声を上げた。

 

「すごいね」

 

奎星は何の迷いもなく答えた。

 

「スズメちゃんのおかげで、俺、今ここにいるから」

 

隣の部屋が静かになった。

 

スズメは筆を動かさなかった。

 

昨日、言われた言葉が蘇る。

 

魔法学校へ来られたのも。

 

進級できたのも。

 

学校を取り戻せたのも。

 

今こうして一緒にいられるのも。

 

全部、スズメちゃんのおかげ。

 

同じことを、この人は自分のいない場所でも平気で言う。

 

「…………馬鹿ですね」

 

スズメは小さく呟いた。

 

けれど、その口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。

 

 

恋はしばらく、奎星の話を聞いた。

 

一般社会で育ったこと。十七歳まで自分が魔法使いだと知らなかったこと。ある日、物が飛び、翌日には鴉が来たこと。マホウトコロへ来て、魔力測定で水晶を壊したこと。

 

「壊した!?」

 

「壊した」

 

「最初から!?」

 

「うん」

 

友達ができたこと。日向、楓、岳、伊織のこと。

 

「楓って、朝食のとき日向君を殴ってた子?」

 

「そう」

 

「仲いいね」

 

「めっちゃ」

 

「付き合ってる?」

 

「まだ」

 

「まだ?」

 

奎星はそこで言葉を止めた。

 

「……俺、余計なこと言った?」

 

「言ったね」

 

「あいつらに殺される」

 

「内緒にしとく」

 

「頼む!」

 

話題は御影へ移った。

 

「朝五時の人」

 

「そう!」

 

「何でそんなに早いの?」

 

「俺が聞きてえよ!」

 

「でも毎日行くんだ?」

 

「まあ」

 

「嫌ならやめれば?」

 

奎星は少し考えた。

 

「嫌だけど、やめたくはない」

 

恋の目が少し細くなる。

 

「へえ」

 

「何?」

 

「別に」

 

「何その顔!」

 

「覚えておこうと思って」

 

「何を?」

 

「そのうちね」

 

進路の話は、まだしなかった。

 

それでも恋は、奎星の言葉の一つ一つを覚えているようだった。鬼火鳥のこと、八咫祭のこと、星迎祭のこと、学校のこと、神代のこと、記憶を失ったこと。奎星は隠さない。ただし、すべてを詳しく語るわけでもない。

 

恋も、無理に訊かなかった。

 

「でさ!」

 

奎星が身を乗り出す。

 

「八咫祭の大食い大会で岳が――」

 

「さっきから岳君、食べてばっかじゃない!?」

 

「マジで食うんだよ!」

 

「あははは!」

 

そのまま、気づけば一時間が過ぎていた。

 

 

魔法史研究室。

 

スズメは、同じ資料を開いたまま動けずにいた。

 

一時間が経っている。

 

進んだページは一枚。いや、正確には半分だった。

 

隣から笑い声が聞こえる。

 

奎星が笑う。

 

恋が笑う。

 

また奎星が笑う。

 

別に問題はない。

 

キャリアアドバイザーと生徒が話をしている。当然、必要なことだ。恋は魔法省から正式に派遣されている。奎星の専任なのだから。

 

専任。

 

また、その言葉が浮かぶ。

 

スズメは一度、首を横へ振った。

 

違う。

 

集中しなければ。

 

資料へ視線を戻す。

 

《江戸後期における霊脈管理制度は――》

 

隣から、恋の笑い声が響いた。

 

「あはははは! 奎星君、ほんっと面白いね!」

 

羽根筆が止まる。

 

「俺、そんな面白い!?」

 

「面白い! 資料に書いてある英雄像と全然違う!」

 

「資料の俺、どんな感じ!?」

 

「もっと無口で怖い人かと思ってた!」

 

「俺が!?」

 

「英雄って、もっとこう、寡黙で!」

 

「御影先生じゃん!」

 

「あはは!」

 

スズメは資料を閉じた。

 

静かに深呼吸をする。

 

別の本を取る。

 

開く。

 

一行目を読む。

 

隣から声が聞こえた。

 

「じゃあ奎星君!」

 

「ん?」

 

「今日はこれで終わり!」

 

「マジで進路の話しなかったな!」

 

「言ったでしょ!」

 

「楽しかった!」

 

スズメの手がぴたりと止まった。

 

恋が笑う。

 

「私も! じゃあ明日から少しずつ本番ね!」

 

「おう!」

 

「また明日、同じ時間!」

 

「了解!」

 

椅子が動く音。

 

扉が開く音。

 

奎星の声。

 

「じゃあな、恋ちゃん!」

 

「うん、また明日――」

 

沈黙。

 

隣の部屋で、恋が言葉を止めた。

 

廊下の奎星も黙る。

 

研究室のスズメも黙った。

 

一秒。

 

二秒。

 

進路相談室から、恋の声が響く。

 

「ちょっと待って!? 今、恋ちゃんって言った!?」

 

「え? 嫌だった?」

 

「いや、嫌じゃないけど! 早くない!?」

 

「スズメちゃんも初日からスズメちゃんだったぞ!」

 

研究室で、スズメはゆっくり目を閉じた。

 

何の基準に、自分を使っているのですか。

 

恋が大笑いする。

 

「じゃあいいよ! 恋ちゃんで!」

 

「よし!」

 

スズメの目が開く。

 

よくありません。

 

なぜよくないのかと訊かれても、困るけれど。

 

廊下で、奎星が明るく言った。

 

「じゃあ恋ちゃん、また明日!」

 

「また明日、奎星君!」

 

足音が遠ざかっていく。

 

しばらくして、研究室は静かになった。

 

スズメは机の上の本へ視線を落とす。

 

今日、一時間以上読んでいたはずなのに、内容は何も頭へ入っていない。

 

視線が、自然と隣の壁へ向いた。

 

その向こうにある進路相談室。

 

「…………専任」

 

ぽつりと口に出してしまい、スズメ自身が一番驚いた。

 

昨日、二十二歳になった。

 

少しは大人になったと思っていた。

 

どうやら、そうでもなかったらしい。

 

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