二〇二七年六月二日。
五時間目。
「何で?」
蓮根奎星は、廊下の真ん中で立ち止まっていた。
「歩け」
前を歩く御影玄一郎は振り返らない。
「いや、歩くけど」
奎星は一度、自分が向かうはずだった教室の方を見た。次の授業が始まるまで、もうそれほど時間はない。ここで御影についていけば、当然のように遅刻する。
「俺、次授業なんだけど」
「知っている」
「遅刻するじゃん」
「話はつけた」
「誰に?」
「担当教師に」
「いつ?」
「昼」
「俺に言ってよ」
「今言った」
「事後じゃん」
「歩け」
「どこ行くの?」
「訓練棟」
「朝も行ったんだけど」
「知っている」
「今日、訓練棟二回目なんだけど」
「だから何だ」
「俺、訓練棟に住んでないよ?」
「黙って歩け」
「はい」
奎星は仕方なく歩き出した。御影の後ろをついて中央回廊を抜け、階段を一つ下りる。午後の校舎には昼食後特有の少し緩んだ空気が残っていた。窓から差し込む六月の日差しが白い羊脂玉の床へ細長い光を落とし、遠くの教室からは教師の声が響いている。別の階から、何かを失敗したらしい小さな爆発音も聞こえた。
いつもの訓練棟へ続く渡り廊下を進んだところで、御影が足を止めた。
「こっち?」
御影が入ったのは、奎星たち上級課程が普段使う大訓練場ではなかった。その隣にある、少し小さな教室だった。扉の脇には札が掛けられている。
《中級課程 闇の魔術に対する防衛術》
「…………」
奎星は札と御影を交互に見た。
「何?」
「入れ」
「俺、中級生じゃないけど」
「知っている」
「留年?」
「まだしていない」
「まだって言うなよ」
御影が扉を開けた。
教室の中では、すでに二十人ほどの生徒たちが席についていた。中級課程。六歳から六年間の下級課程を終え、本格的な杖の教育が始まる三年間だ。奎星から見れば、全員が自分より年下だった。
そして、御影の後ろから入ってきた奎星を見た瞬間、教室の空気が変わった。
「あ……」
一番前にいた男子生徒が声を漏らす。その隣の生徒が振り返り、後ろの席でも次々に顔が上がった。
「蓮根先輩?」
「マジ?」
「蓮根先輩だ」
「何で?」
「星帰りの……」
「銀の鴉の人だろ?」
「神代と戦った……」
「御影先生の弟子じゃなかった?」
小さな声が重なり、教室の中へざわめきが広がっていく。
奎星は御影を見た。自分へ集まる視線に、少しだけ口元が緩む。
「人気じゃん、俺」
「座れ」
「そこ褒めるとこだろ」
「座れ」
「はい」
御影は教壇へ向かったが、奎星はどこへ座ればいいのか分からず、その場に立ったままだった。中級生たちの視線が一斉に集まっている。さすがに、少し落ち着かない。
「何?」
一番近くの生徒へ声を掛けると、その生徒はびくっと肩を跳ねさせた。
「いや……」
「普通にしてていいよ」
「はい!」
「そんな緊張しなくても」
「はい!」
奎星はもう一度御影を見る。
「怖がられてんだけど」
「噂通りなんだろう」
「何の噂?」
「知らん」
「絶対知ってるじゃん」
御影は答えず、教壇の前へ立った。
「始める」
その一言で、教室が静かになった。さっきまで奎星を見ていた生徒たちも、慌てて前へ向き直る。その切り替わり方を見て、奎星まで何となく背筋を伸ばした。
「今日は武装解除」
御影が杖を抜く。
「エクスペリアームスだ」
奎星の眉が上がった。
「お」
「すでに一度は習っているはずだ」
何人かの生徒が頷く。
「だが、覚えたから終わりではない。実戦で使えなければ意味がない」
御影は教室の前に置かれた訓練人形へ杖を向けた。構えは小さく、余計な動きがない。
「エクスペリアームス」
赤い光が走り、人形の右手に握られていた杖だけが綺麗に抜けた。人形は動かない。杖だけが一メートルほど宙を回り、御影の足元へ落ちる。
奎星は、その光景を見ていた。
何度見ただろう。
最初に同じ呪文を見たとき、自分は地味だと思った。派手な炎や爆発の方が強そうで、杖を飛ばすだけの魔法など、戦いの役に立つとは思えなかった。
「地味」
思わず口から漏れた。
御影の目が動く。
「あ」
奎星は慌てて口を押さえた。中級生たちが笑いを堪えている。
「今のは昔の感想」
「知っている」
「今は違うから」
「そうか」
「マジで違うよ」
「では」
御影が教壇の横にいる奎星を見る。
「説明しろ」
「…………」
奎星は固まった。
「何を?」
「エクスペリアームスを使った経験だ」
「俺が?」
「他に誰がいる」
「御影先生が説明すればいいじゃん」
「お前を連れてきた意味がない」
「補助ってそういうこと?」
「前へ出ろ」
「マジかよ……」
中級生たちの目が一斉に輝いた。奎星はその視線を浴びながら、仕方なく教壇の横へ進んだ。
前に立つと、二十人ほどの後輩が全員こちらを見ている。廊下で声を掛けられることには多少慣れたつもりだったが、授業の中で注目されるとなると話は別だった。
「何喋んの?」
奎星が小声で御影へ訊く。
「自分で考えろ」
「急に先生みたいなこと言うなよ」
「先生だ」
「あ、そっか」
教室から笑いが起きた。奎星は頭の後ろを掻き、何となく姿勢を正す。
「蓮根奎星です」
「知ってる!」
何人かが声を揃えた。
「星帰り作戦ですよね!」
「神代榊!」
「銀の鴉!」
「すげえ」
奎星の顔が少し嬉しそうになる。
「そうです」
御影の眉が動いた。
「何で急に偉そうなんだ」
「先輩だから」
「続けろ」
「はい」
奎星は咳払いを一つした。
「えっと、エクスペリアームスは、俺も最初、地味だと思ってたんですけど」
御影が目を閉じる。
「今言う必要があったか」
「失敗談だろ?」
「続けろ」
「はい」
正しくない敬語のまま、奎星は後輩たちへ向き直った。
「でも、マジで大切な呪文です。俺、最初は派手な魔法の方が強いと思ってたんですよ。爆発とか炎とか、すげえ光るやつとか」
「今も好きだろ」
御影が言う。
「好きだけど!」
教室に笑いが起きる。
「でも、去年、久我って悪いやついて。その先生と戦ったとき、倒したのは御影先生なんだけど、最後に俺がエクスペリアームスを撃って、久我が持ってた黒曜石を飛ばしたんです」
笑いが少しだけ消えた。中級課程の生徒たちも、その名前くらいは知っている。
「それで、動いてた古代魔術が止まった。そしたら御影先生がステューピファイを撃って、そのあと拘束した」
「そうだ」
「だから、別に相手をぶっ飛ばさなくても、相手が持ってるものを一個落とすだけで、状況が変わることがあります」
奎星は腰の神代榊へ触れた。
「相手を殺さずに止められることもあるし、杖を飛ばせば魔法を使えなくなる奴もいる。殺さずに止める方が難しいけど、だからこそ大事な呪文です」
その言葉を口にしたとき、奎星は一年前の自分を思い出していた。人形から杖を落とすだけの魔法を地味だと思っていた自分。その魔法が久我を止め、鬼火鳥を捕らえていた魔法使いを止め、何度も自分たちを助けてきた。
「まあ、そんな感じです」
「雑だな」
「頑張っただろ!」
「座るな」
自分の席へ戻ろうとした奎星が止まる。
「何で?」
「教えろ」
「俺が?」
「補助だと言った」
「説明したじゃん」
「今度は実技だ」
「聞いてねえよ」
「今言った」
「そのやり方ずるくない?」
「始めろ」
奎星は後輩たちを見た。全員、期待した顔をしている。
「…………やる?」
「やりたいです!」
一番前の男子が即答した。
「お」
奎星の顔が明るくなる。
「じゃ、やろうぜ」
御影が横目で見る。
「言葉遣い」
「あ」
奎星は姿勢を正した。
「やりましょう」
*
十分後。
奎星は完全に困っていた。
「違う違う。そこじゃない」
「どこですか?」
「だから……」
目の前の中級生が杖を構えている。その先には訓練人形が立っていた。
「もっとこう」
奎星が手を動かす。
「こう?」
「…………」
「どう?」
「分かりません」
「俺も今、分かんなくなった」
「蓮根」
御影の低い声が飛んでくる。
「いや待って、教えるのムズいって!」
教室中で訓練が始まっていた。二十人ほどの生徒が数組に分かれ、人形へ向かってエクスペリアームスを撃っている。
「エクスペリアームス!」
赤い光が人形の肩へ当たり、人形がくるくる回りながら倒れた。
「人形倒すんじゃない!」
「すみません!」
「俺もやったけど!」
「やったんですか?」
「最初、人形ごと壁まで飛ばした」
「え」
「めちゃくちゃ怒られた」
「怒っていない」
後ろから御影が言う。
「怒ってたじゃん」
「注意しただけだ」
「人形の人生否定したみたいなこと言ったじゃん」
中級生たちが吹き出した。
「何ですかそれ」
「俺も分かんない」
「杖を狙え」
御影が言う。
「そう、それ」
奎星が指を立てた。
「杖」
「杖」
「でも、杖だけずっと見てても、たぶん当たんない」
「え?」
「相手も動くから。杖だけじゃなくて、肩とか足とか手とか、撃つ前に動くところを見る」
奎星は人形の右手を見たあと、自分の肩をゆっくり上げ、足を一歩前へ出した。
「俺、最初は魔法が来てから避けようとしてたから、めっちゃ当たった」
「今は?」
「今は、来る前に何となく分かるときがある」
「何でですか?」
「…………何でだろ」
「蓮根先輩」
「いや、マジで感覚なんだよ」
「説明しろ」
御影が言う。
「分かってるよ!」
奎星は頭を掻き、一人の生徒から杖を借りた。
「例えば、撃つときって肩が動くじゃん。指にも力が入るし、足も少し前に出る。だから呪文を聞いてから避けるんじゃなくて、相手を見ろって、ずっと言われた」
御影の方を親指で示す。
「杖だけじゃなくて、全部」
中級生の何人かが御影を見る。御影は腕を組んだまま、何も言わなかった。
「あと、撃ったあと止まんな」
「止まらない?」
「うん。当たったか見てると、次が来るから」
奎星は自分の最初の決闘を思い出した。一発撃ったあと、当たったかどうかを確認しようとして足を止めた。その隙に楓から杖を飛ばされた。
「俺、最初の決闘で、一発撃って、当たったかなって見てたら、その間に杖飛ばされた」
「誰にですか?」
「水無瀬楓」
「あ」
「知ってる?」
「星帰りの人」
「そう。強いよ」
一拍置いて、奎星は付け加えた。
「めっちゃ蹴ってくるし」
「それ魔法関係ある?」
御影が言う。
「ない」
「戻せ」
「はい」
また笑いが起きた。
奎星は次の生徒の横へ移動する。
「じゃ、やってみ」
「はい!」
「狙うのは杖だけ」
「はい!」
「でも相手は全部見る」
「はい!」
「撃ったあと止まらない」
「はい!」
「魔力を出しすぎない」
「はい!」
「相手ごと飛ばすと怒られる」
「はい!」
「それはお前だけだ」
「うるさいな!」
生徒が杖を構えた。
「エクスペリアームス!」
赤い光が人形の杖へ当たる。杖が少し動いたが、抜けるまではいかなかった。
「ああ!」
「惜しい」
「弱かったですか?」
「たぶん」
「もっと強く?」
「ちょっとだけ」
「ちょっと?」
「そう」
「どれくらい?」
奎星は御影を見る。
「これ何て説明すんの?」
「自分で考えろ」
「先生の仕事放棄してない?」
「補助を連れてきた」
「俺?」
「そうだ」
「くっそ……」
奎星は生徒の横へ立ち、魔力をどう説明すればいいのか考えた。自分にとって、魔力を出すことは簡単だった。むしろ、出しすぎないようにする方が難しい。
「一気に出すと強すぎるから」
奎星は自分の胸元へ手を当てた。
「コップ」
「コップ?」
「水をいっぱい持ってても、全部ぶちまけるんじゃなくて、いる分だけ出す」
「…………」
「伝わった?」
「ちょっと」
「ちょっとか」
「前より」
「よし」
「基準が低い」
御影が言った。
「いいだろ、伝わったんだから!」
生徒はもう一度、杖を構えた。
「エクスペリアームス!」
今度は赤い光が人形の杖を正確に捉えた。杖が手から抜け、くるくると回りながら床へ落ちる。
「できた!」
「おお!」
奎星も同じように顔を明るくした。
「できたじゃん!」
「はい!」
「今の!」
「はい!」
「それ!」
「はい!」
「もう一回!」
「はい!」
御影は何も言わなかった。ただ、ほんの一瞬だけ、奎星を見る目が変わった。
*
それから二十分ほど、教室の中では赤い光が飛び続けた。
「エクスペリアームス!」
外れる。
「エクスペリアームス!」
弱い。
「エクスペリアームス!」
人形の頭へ当たる。
「そこ頭!」
「すみません!」
「エクスペリアームス!」
人形ごと倒れる。
「強い強い!」
「蓮根先輩くらいですか!?」
「俺基準にすんな!」
「蓮根」
「はい」
「お前も人のことを言えん」
「今はできるだろ!」
奎星は教室の中を歩き回りながら、後輩たちへ声を掛け続けた。杖を上げすぎている生徒には次の動きが遅くなると伝え、魔力を出しすぎる生徒には力を抜けと言い、何度やっても弱すぎる生徒には、もう少しだけ前へ出すように説明する。
「そこ、杖上げすぎ」
「え?」
「次撃つとき遅くなる」
「こう?」
「そう」
「蓮根先輩!」
「何?」
「また人形飛びました!」
「何で!?」
「力入れたら!」
「入りすぎ!」
「蓮根先輩!」
「今行く!」
「先輩!」
「待って!」
「蓮根」
「御影先生も手伝ってよ!」
「手伝っている」
「立ってるだけじゃん!」
「見ている」
「校長みたいなこと言うなよ!」
気づけば、奎星自身もかなり楽しんでいた。
*
「疲れた」
奎星は訓練場の端に置かれた長い木製ベンチへ腰を下ろした。御影が座っていた場所の隣へ、勝手に座った形だった。
「先生って大変だな」
「そうか」
御影は前を見たまま答える。教室の中央では、中級生たちがまだ練習を続けていた。
「エクスペリアームス!」
「うわっ!」
「人に向けるな!」
奎星がすぐに叫ぶ。
「すみませーん!」
「前見ろ前!」
「はーい!」
奎星は腕を膝へ乗せ、後輩たちを眺めた。さっき初めて杖を飛ばせた生徒が、今度は隣の生徒へ自分なりに説明している。別の生徒は何度やっても弱すぎて、杖がほんの少ししか動かない。その横では、人形を二度倒した生徒が慎重になりすぎて、今度は光すらほとんど出せずにいた。
「でも、結構楽しいな」
御影が横を見る。
「何がだ」
「できなかった奴が、できるようになるのを見るの」
奎星は生徒たちから目を離さなかった。
「先生って、こんな感じか。ちょっとやってみたいかも」
昨日、坪田茜に教師という進路を聞かれたときは、面白そうではあるが、生徒の喧嘩に混ざりそうだと思っただけだった。けれど今は、ほんの少しだけ違う。できなかったことができるようになる瞬間を、目の前で見る。その嬉しさを、奎星は今日初めて知った。
「そうか」
御影はそれだけ言った。
奎星は横目で御影を見る。
「何?」
「何でもない」
「もしかして」
「何だ」
「そのために俺のこと呼んだ?」
「勘違いするな」
御影は即答した。
「失敗談を聞かせたかっただけだ」
「おーい!」
奎星の声が訓練場へ響き、中級生たちが何人か振り返った。
「失敗談要員!?」
「事実だ」
「もっとあるだろ! 星帰りとか!」
「失敗も多い」
「成功もしてるよ!」
「一年前、人形を壁まで飛ばした」
「そこ何回言うんだよ!」
「事実だ」
「教師向いてねえよ!」
「お前に言われたくない」
「さっきちょっとやりたいって言ったのに!」
奎星は笑いながら前を見た。一人の生徒が、もう一度杖を構える。
「エクスペリアームス!」
外れる。
次は人形の腹へ当たり、その次は杖ではなく帽子だけが飛んだ。
奎星は御影を見る。
「俺もあんな感じだった?」
「もっと酷かった」
「マジかよ!」
「人形ごと飛ばしたと言っただろ」
「一回だけじゃん!」
「出力を絞れと言えば、今度は一ミリしか動かさなかった」
「極端だったんだよ」
「七回以上やった」
「数えてたの?」
「教師だからな」
「怖っ」
そのとき、訓練棟に終業の鐘が響いた。
中級生たちの杖が止まる。
「そこまで」
御影が立ち上がった。
「片づけろ」
「はい!」
返事が重なり、人形が元の位置へ戻され、床へ落ちた杖が拾われ、机が整えられていく。奎星も何となく立ち上がった。
「終わったー」
「蓮根先輩」
さっきの男子生徒が駆け寄ってきた。
「ん?」
「ありがとうございました。俺、武装解除ちょっと苦手だったんですけど、前より分かった気がします」
「マジ?」
「はい」
「じゃ、よかった」
別の女子生徒も近づいてくる。
「先輩、久我先生の話、ありがとうございました」
「おう」
「星帰りの話も、また聞きたいです」
「いいよ」
「蓮根」
御影の声が飛んだ。
「勝手に次回を作るな」
「いいじゃん別に」
「授業だ」
「じゃ、休み時間」
「蓮根先輩!」
また別の声が上がる。
「銀の鴉って出せますか?」
「出せるよ」
「見たい!」
「じゃあ今度な」
「絶対ですよ!」
「おう」
「蓮根」
「分かってるって」
中級生たちは楽しそうに教室を出ていった。
「ありがとうございました!」
「蓮根先輩、また!」
「御影先生、ありがとうございました!」
「ああ」
「さようなら!」
「おう!」
「お前が返事をするな」
「いいだろ、先輩なんだから」
最後の一人が扉の向こうへ消えると、教室は急に静かになった。さっきまで二十人分の声と魔法が飛び交っていたせいで、静寂が余計に広く感じられる。床には訓練で削れた跡が残り、壁際には人形が並んでいた。窓から差し込む午後の光が、その跡を薄く照らしている。
奎星は閉まった扉をしばらく見ていた。
「何だ」
御影が訊く。
「いや」
奎星は少し笑った。
「先生も悪くねえなって」
「さっき聞いた」
「もう一回思った」
「そうか」
御影は教壇の上に残った資料をまとめ始めた。奎星はその背中を見ながら、少し考える。
「御影先生」
「何だ」
「昔話聞きたい」
御影の手が止まった。
「なぜだ」
「進路相談」
「坪田にしろ」
「昨日した」
「烏丸にしろ」
「今日する」
「ならいいだろ」
「御影先生の話が聞きたい」
御影が振り返る。奎星はふざけていなかった。
「禍祓官だったときの。どんな仕事だった?」
御影はしばらく何も言わなかった。窓の外から、授業を終えた生徒たちの声が聞こえてくる。やがて、教壇へ資料を置いた。
「楽な仕事ではない」
「それは分かる」
「分かっていない」
奎星が黙る。
「お前が見た現場は多い。第零書庫、鬼火鳥、黒曜の環、朝凪島、星帰り、記憶施設。だが、禍祓官はそれが仕事だ」
「毎日?」
「毎日ではない。何も起きない日もある。書類を書く日もある。聞き込みだけで終わる日もある。証拠を確認し、現場を封鎖し、被害者から話を聞き、何日も対象を追うこともある」
御影は淡々と話していた。
「だが、一度何かが起きれば、相手はこちらの都合を待たん。朝でも夜でも関係ない。食事中でも寝ていても呼ばれる。現場へ着いた時点で、すでに誰かが死んでいることもある」
「…………」
「助けられないこともある」
奎星は何も言わずに聞いていた。
「怪我は珍しくない。骨を折る。焼かれる。呪われる。魔力障害を残す。治っても昔と同じようには杖を振れなくなる者もいる」
御影は自分の右手へ目を落とした。
「御影先生も?」
「ある」
「どれくらい?」
「数えていない」
「数えてないって」
「数える意味がない」
御影は顔を上げた。
「仲間が死ぬこともある」
奎星の表情が変わる。
「敵を殺すこともある」
「…………」
御影は誤魔化さなかった。
「殺したことある?」
「ある」
「必要だった?」
「必要だった」
「後悔してる?」
「していないと言えば嘘になる」
御影は静かに答えた。
「だが、あの場で別の選択をすれば、守れなかった人間がいる。そういう判断をする仕事だ」
教室が静まり返る。御影玄一郎が、自分から昔のことをここまで話すことは珍しかった。
「禍祓官なら、強ければいいわけではない」
「うん」
「むしろ、強さだけで来る奴は長く持たん。自分が何でもできると思うからだ。入るべきでない場所へ入り、追うべきでない相手を追い、助けを待つべき場面で一人で動く」
御影の視線が奎星へ向く。
「お前みたいにな」
「俺じゃん」
「そうだ」
「俺、向いてない?」
「今のままならな」
「マジかよ」
「だから教えている」
奎星は少しだけ眉を寄せた。
「向いてる奴って?」
「判断できる奴だ」
「何を?」
「全部だ」
「雑じゃん」
「現場ではそうなる。戦うか、退くか、助けるか、追うか、待つか、呼ぶか、撃つか、撃たないか。その場で決める」
御影は一度、窓の外へ目を向けた。
「怖くても動ける人間は必要だ。だが、怖いから止まれる人間も必要だ」
「止まる?」
「恐怖を無視するな。怖いと思ったなら、理由がある。死にたくないと思うのは弱さではない」
御影は奎星を見る。
「帰ろうと思え」
その声だけが、少し違って聞こえた。
「現場へ行くなら、必ず帰ることを考えろ。それができない奴は、向いていない」
奎星は御影を見ていた。
「御影先生は?」
「何だ」
「できてた?」
御影は答えなかった。
「それ、答えないってことは、できてなかったんじゃん」
「うるさい」
「帰ってはいた」
「屁理屈じゃん」
「お前よりはましだ」
「俺まだ禍祓官じゃねえよ」
「なら今から覚えろ」
奎星は少し笑った。
「やっぱ」
「何だ」
「なりたいかも」
御影の眉が僅かに動く。
「今の話を聞いてか」
「うん」
「普通は逆だ」
「怖いよ」
奎星は正直に言った。
「でも、やっぱ現場出たい。自分で行って、自分で見たい」
御影は奎星をしばらく見た。
「なら」
一言だけ置いて。
「勉強しろ」
「…………」
「そこ!?」
「魔法法規を知らない禍祓官を誰が現場へ出す」
「魔法はできるじゃん」
「それだけでは足りん」
「スズメちゃんと同じこと言うなよ」
「正しいからだ」
「先生ってみんな勉強させようとすんな」
「教師だからな」
「最悪の職業じゃん」
「三十分前と言ってることが違うぞ」
「先生やめようかな」
「好きにしろ」
そのとき。
「懐かしい話だな」
後ろから声がした。
奎星が振り返る。教室の入口に、大きな身体と短く刈った髪が見えた。
「真壁さん!」
「やあ、蓮根君」
真壁征士郎が立っていた。奎星の顔が一気に明るくなる。
「いつ来たの?」
「少し前だ」
御影の目が細くなる。
「何の用だ」
「少し学校に用があってね」
「校長か」
「まあ、そんなところだ」
奎星は二人を交互に見たが、すぐに別のことへ興味を移した。
「真壁さん、昔の話も聞きたい!」
「昔?」
「禍祓官! 御影先生と斎賀さんと三人の!」
真壁が少しだけ笑う。
「玄一郎が話したのか」
「ちょっとだけ」
「珍しいな」
「余計なことを言うな」
「何話してたの?」
「現場」
「怪我とか」
「死ぬとか」
「殺すとか」
「向いてるとか」
「ずいぶん重い進路相談だな」
真壁が苦笑する。
「もっと面白い話ない?」
「面白い話?」
「三人でやらかしたやつとか」
「玄弥なら山ほどある」
「聞きたい!」
「征士郎」
「分かっている」
真壁は少し楽しそうに言った。
「今度、時間があるときにでも」
「マジ?」
「ああ」
「やった」
「蓮根」
御影が言う。
「何?」
「烏丸の補習はいいのか」
「…………」
奎星の顔が止まった。
「今日、水曜だろ」
奎星は左腕の銀色の腕時計を見た。
「…………やべ!」
鞄を探して教壇の横へ走る。
「鞄どこ!?」
「そこだ」
「うお!」
鞄を掴み、奎星は扉へ向かった。
「真壁さん、また今度!」
「ああ」
「御影先生、また明日!」
「朝四時五十分」
「早くなってね!?」
「遅れるな」
「努力します!」
「遅れる返事だな」
「じゃ!」
扉を開けたところで、奎星は一度振り返った。
「今日ありがと!」
御影を見る。
「楽しかった!」
それだけ言って、奎星は走っていった。
扉が閉まる。
真壁はその扉を見ながら、少し笑った。
「相変わらずだな」
「うるさいだけだ」
「楽しそうだったぞ」
「知らん」
「先生らしくなったな、玄一郎」
「帰れ」
「校長に用があると言っただろう」
「なら行け」
「相変わらずだな」
「何がだ」
真壁は笑みを消した。
「玄一郎。あとで九重院校長のところへ来てくれ」
御影の目が僅かに細くなる。
「何かあったか」
「話がある」
短い言葉だけが、静かな教室に残った。
*
「先生もいいかも」
放課後。
魔法史研究室。
「そうですか」
「うん」
奎星は椅子へ座ったまま、今日の出来事を話していた。正確には、話し続けていた。
「最初さ、中級生にめっちゃ見られて」
「でしょうね」
「俺、結構有名じゃん」
「今さらですか」
「蓮根先輩だって」
「先輩でしょう」
「星帰りの人だって」
「参加したでしょう」
「銀の鴉って」
「出したでしょう」
「すごくない?」
「事実確認を私に求めないでください」
スズメは机の向こうで羽根筆を動かしている。その横には、昨日奎星が贈った焦茶色のトランクが置かれていた。中には今日使った授業資料と、何冊かの古書が収まっている。
奎星はそれを一度見て、少しだけ嬉しそうにしてから、また話へ戻った。
「で、御影先生がエクスペリアームス教えろって言うからさ」
「蓮根君が?」
「そう」
スズメの羽根筆が止まる。
「何?」
「いえ」
「何その顔」
「ちゃんと教えられましたか?」
「失礼じゃね?」
「心配しただけです」
「教えたよ」
「どのように?」
「感覚」
スズメは何も言わずに奎星を見た。
「その顔やめて」
「もっと具体的に」
「杖狙って、相手全部見て、撃ったあと止まんなくて、魔力いい感じにする」
「最後が致命的ですね」
「最初もっとひどかった」
「でしょうね」
「でも途中で分かったんだよ」
奎星は机へ身を乗り出した。
「教えんのって結構楽しい」
「そうですか」
「できなかった奴がさ、最後杖飛ばせるようになって、めっちゃ喜んでんの。俺も嬉しかった」
スズメは奎星を見た。
「それで?」
「先生もちょっといいなって思う」
「教師ですか?」
「うん」
「昨日は、生徒の喧嘩に混ざりそうだからやめると言っていませんでした?」
「何で知ってんの?」
「坪田さんから聞きました」
「もう連携取ってんの?」
「進路担当ですから」
「専任こわ」
「それで?」
「でも」
奎星は椅子へ深く座った。
「禍祓官がやっぱ一番かも」
スズメの表情が少しだけ変わった。
「御影先生に昔話聞いた」
「御影先生が?」
「うん」
「自分から?」
「俺から」
「でしょうね」
「現場の話。怪我するとか、死ぬ奴もいるとか、殺すこともあるって。向いてる奴と向いてない奴もいるって」
奎星は自分の手を見た。
「俺、今のままじゃ向いてないらしい」
「私は前からそう思っています」
「早くね?」
「勝手に危険な場所へ行きますから」
「でも昨日、坪田先生には現場向いてるって言われた」
「向いている部分と、直すべき部分は別です」
「御影先生と同じこと言う」
「当然でしょう」
「何で?」
「教師だからです」
「先生たち繋がってんの?」
「学校ですから」
「怖い組織だな」
スズメは小さく息を吐いた。
「蓮根君。やりたいことが見つかったのは、良いことです」
「お」
「一年前よりは、随分進歩しましたね」
「海賊から?」
「海賊から」
「比べる相手弱くね?」
「あなた自身です」
「そっか」
「ですが」
スズメは机の上へ一冊の教科書を置いた。
「そのためには勉強が必要です」
奎星の顔から笑みが消える。
「禍祓官になるには、魔法法規、対闇魔術、魔法犯罪史、魔法生物、魔法薬、呪術理論。必要になる知識はいくらでもあります」
「…………」
「教師になるなら、なおさらです」
「何で?」
「知らないことを教えられませんから」
「…………」
「教科書の十二頁を開いてください」
「…………」
「蓮根君?」
「ナチュラルに補習に繋げられた!」
奎星が笑った。
「何ですか?」
「今、進路の話してたじゃん!」
「しています」
「そのまま勉強に持ってったじゃん!」
「必要ですから」
「やるなあ」
「感心していないで開いてください」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
奎星は笑いながら教科書を開いた。十二頁には、古い魔法行政制度についての記述が並んでいる。
「うわ」
「何ですか」
「文字多い」
「教科書ですから」
「絵ないの?」
「あります」
「どこ?」
「百七十二頁」
「遠っ」
「今は十二頁です」
「くっそ……」
奎星は羽根筆を持った。
「で」
スズメが問題集を開く。
「この制度が廃止された理由を三つ」
「三つ?」
「三つ」
「一個じゃ駄目?」
「駄目です」
「二個」
「値切らないでください」
「進路見つかった記念」
「関係ありません」
「十八歳記念」
「先週終わりました」
「先生になりたい記念」
「教師志望なら三つ答えてください」
「自分で首絞めた!」
奎星はぶつぶつ言いながら教科書を読み始めた。それでも、以前のように机へ突っ伏して逃げることはなかった。
*
三十分ほど経った頃、研究室の扉が叩かれた。
「はい」
スズメが顔を上げる。
『烏丸先生』
扉の向こうから、九重院紫苑の声がした。
「校長先生?」
『少しよろしいですか?』
スズメが立ち上がり、扉を開ける。
「どうしました?」
土御門はいつもの柔らかな笑みを浮かべていた。
「会議室に来ていただいてもよろしいですか?」
「今ですか?」
「できれば」
スズメは研究室の時計を見てから、奎星へ視線を移した。
「蓮根君」
「俺?」
「問八まで終わらせてください」
「え」
「戻ったら確認します」
「どれくらい?」
「分かりません」
「じゃ、明日でも」
「問八まで」
「はい」
逃げ道はなかった。
スズメは机の上の資料を整え、杖を腰へ差した。
「すぐ戻れるとは思いますが」
「うん」
「勝手に帰らないでください」
「信用ないな」
「あります」
「マジ?」
「だから一人で残すのです」
「おお」
「ただし、帰ったらなくなります」
「やります」
「よろしい」
スズメは九重院と一緒に研究室を出ていった。
扉が閉まる。
奎星は羽根筆を持ったまま、静かになった研究室を見回した。窓の外では、夕方の風が木々を揺らしている。机の上には問題集と教科書、スズメの誕生日に渡した色紙、そして昨日後藤から渡された企画書が置かれていた。
「英雄ねえ」
奎星は問題集へ戻った。
問六。
問七。
問八。
時間はかかった。二度間違え、一度は教科書の違う頁を読んだ。途中で天井を見上げ、窓の外を眺め、色紙へ目を向けた。それでも、最後まで終わらせた。
「……終わった」
最後の一文字を書き、羽根筆を置く。
「よし」
スズメが戻るまで、まだ少しありそうだった。
奎星は椅子へ背を預け、何となく鞄へ手を入れた。教科書、ノート、その下に一枚の紙がある。
《進路希望調査》
五月二十八日。誕生日の日に渡された紙だった。まだ何も書いていない。
奎星はそれを机の上へ置いた。
一年前なら、第一志望の欄へ《海賊》と書いていた。何も知らず、何も考えていなかった頃の自分が、急に馬鹿らしく思えてくる。
今は、昨日より少しだけ書ける気がした。
羽根筆を持つ。
《第一希望》
そこで一度、手が止まった。
御影の言葉が浮かぶ。怪我。死。殺す。帰る。判断。怖くても動く。怖いから止まる。楽な仕事ではない。
それでも、奎星は昨日、自分で書いた。
《ちゃんと自分で動けること》
羽根筆が紙の上を滑る。
《第一希望 禍祓官》
書き終えた文字を、奎星はしばらく見つめた。頭の中にあっただけの言葉が、紙の上へ置かれたことで、少しだけ現実へ近づいたように感じられる。
その下へ、もう一つの欄がある。
《第二希望》
今日の教室を思い出した。中級生たち。飛び交う赤い光。何度撃っても外れた杖。そして、初めて成功した瞬間に上がった声。
《できた!》
あの顔を思い出すと、自然に笑みが浮かんだ。
《第二希望 教師》
奎星は二つの文字を並べて、しばらく紙を見ていた。
《第一希望 禍祓官》
《第二希望 教師》
まだ決めたわけではない。禍祓官になると決まったわけでも、教師になると決まったわけでもない。明日になれば、また別の仕事を知るかもしれないし、来月には順番が変わっているかもしれない。卒業する頃には、全然違うことを書いている可能性だってある。
それでも、一年前には《海賊》しかなかった。
今は、少しだけ。
やりたいことに、名前があった。
「…………よし」
誰に見せるでもなく、奎星は一度だけ頷いた。
その紙を教科書の間へ挟む。
窓の外では、夕方の風が校庭の木々を揺らしていた。遠くから、生徒たちの声が聞こえる。今日、自分が教えた中級生たちかもしれない。
奎星はその声を聞きながら、もう一度、教科書の十二頁を開いた。