二〇二七年六月二日、水曜日。
放課後。
「スズメちゃん」
魔法史研究室の扉が開いた。
「失礼します、でしょう」
机へ向かっていた烏丸スズメは、顔も上げずに言った。
「今さら?」
「今さらでもです」
「失礼しまーす」
「伸ばさない」
「細かいな」
奎星は笑いながら研究室へ入った。
昨日から、放課後の流れが一つ増えている。授業が終わると坪田恋のいる進路相談室へ行き、一時間ほど話す。その後、隣の魔法史研究室へ来て、夕食の時間まで適当に過ごすのだ。
もともと、補習だの質問だので放課後に研究室へ来ること自体は珍しくなかった。だから奎星本人にとっては、日課の順番が一つ増えただけだった。
スズメにとっても。
おそらく。
たぶん。
そういうことになっていた。
「今日は早かったですね」
「三十分くらい」
奎星はいつもの席へ鞄を置いた。
「何を話したのですか」
「お」
スズメの羽根筆が止まる。
「……何ですか」
「いや」
奎星がにやっとする。
「気になるんだなって」
「進路指導に関わる教師として訊いただけです」
「魔法史だろ?」
「教師です」
「はいはい」
「はいは一度」
「はい」
奎星は椅子へ座ると、鞄の中を探り、一冊のノートを取り出した。
「今日さ」
「はい」
「自己分析やった」
スズメが顔を上げた。
「自己分析?」
「坪田さんが、一回ちゃんとまとめようって」
「なるほど」
昨日の授業で作ったシート――楽しかったこと、辛かったこと、忘れられないこと――をもとに、さらに一歩進んで、自分の行動や考え方を整理してみたらしい。
奎星はノートを開いた。
「結構すごいぞ」
「何がですか」
「俺」
「閉じてください」
「まだ見てないだろ」
「今の一言で十分です」
「見てから言えって」
奎星はノートを机の中央へ押し出した。スズメは少し呆れながら、それを手に取る。
最初の頁には、大きな文字で《蓮根奎星 自己分析》と書かれていた。その下には、次のように並んでいる。
《長所》
・魔法が強い。
・めげない。
・行動が早い。
・知らないものが好き。
・友達が多い。
・強い奴と戦っても逃げない。
《短所》
・朝に弱い。
・勉強が嫌い。
・御影先生に怒られる。
・スズメちゃんにも怒られる。
・薬が嫌い。
スズメは黙った。
奎星が見る。
「何その顔」
「自己分析とは何かから説明したほうがよさそうですね」
「俺も最初そう思った」
「自分で?」
「坪田さんが」
次の頁を開くと、そこから少し様子が変わった。奎星のやや雑な文字の横へ、別の筆跡が書き込まれている。丸みがあり、柔らかく、小さな丸印や矢印が多い。坪田恋の字だった。
《行動が早い》
その横に、
《◎かなり強い。ただし早すぎるときあり》
さらに下へ、
《考える前に動ける=緊急時には強み》
《考える前に動く=準備が必要な場面では弱み》
と書かれている。
スズメの目が少し細くなった。
次の項目は、《めげない》。奎星の文字の横には、恋の字でこう書かれている。
《◎失敗後の修正が速い》
《失敗そのものを引きずらない》
《ただし、反省してないように見えることもある》
「最後余計じゃね?」
「適切な指摘です」
「スズメちゃんどっちの味方?」
「事実の味方です」
さらに頁をめくる。
《知らないものが好き》
恋の追記。
《◎未知への抵抗がかなり低い》
《知らない魔法、場所、生き物、人に興味を持てる》
《現地調査・研究・外勤との相性あり》
その下には、次のように続いていた。
《人と話すのが苦にならない》
《初対面でも比較的普通に話せる》
《自分のこともよく話す》
《一人で考えるより、人と話していると考えがまとまりやすい?》
奎星が指でそこを示す。
「これ、結構当たってる気がする」
「そうですね」
「俺、喋ってると分かってくる」
「黙って考える時間が短すぎるとも言えますが」
「何で絶対一個刺すの?」
「続きを」
スズメは頁をめくった。
《人を助ける》
奎星自身は、そこへ疑問符をつけていた。
《人を助ける?》
その横には、恋の字で大きく丸がついている。
《◎》
《本人は自覚薄め》
《困っている人・生き物を放っておけない》
《危険かどうかより先に動くので、長所と短所が完全に同じ場所にある》
スズメの指が止まった。
第零書庫。
鬼火鳥。
黒曜の門。
常隠島。
星帰り。
そして、一月。
いくつもの光景が一瞬で浮かぶ。
「これは」
スズメが言った。
「かなり正確ですね」
「そう?」
「はい」
「俺、そんな助けてる?」
スズメが顔を上げる。
「本気で言っていますか」
「いや、助けたことはあるけど」
「ありますけど、ではありません」
「何で怒ってんの」
「怒っていません」
「怒ってるじゃん」
スズメはノートへ視線を戻した。
その次の項目は、《短所》だった。
・考える前に動く。
・危ないかどうかの判断が自分基準。
・一人で何とかしようとする。
・興味がないことへの集中力が低い。
・人の話を最期まで聞かない。
・納得できない規則に文句を言う。
・大丈夫と言いすぎる。
スズメの目が止まった。
「蓮根君」
「何?」
スズメは机の上にあった羽根筆を取った。さらさらと一行へ線を引く。
《人の話を最期まで聞かない》
《最期》
そこへ赤い印をつけ、横に《最後》と書き足した。
奎星が固まった。
「…………」
スズメは羽根筆を置く。
「誤字があります」
「そこ?」
「そこです」
「自己分析だぞ?」
「だから何ですか」
「意味通じるじゃん」
「意味が変わっています」
「細かっ」
「うるさいです」
恋の丸く可愛らしい筆跡の横に、スズメの几帳面な訂正が一つ増えた。
奎星はそれを見て、少し笑う。
「何?」
「いや」
「何ですか」
「スズメちゃんらしいなって」
「誤字を直しただけです」
「坪田さん、そこ何も言わなかったのに」
羽根筆がもう一度持ち上がった。
《人の話を最後まで聞かない》
その横へ、
《昔からです》
と書き足される。
「追加すんなよ」
「補足です」
「自己分析に先生の愚痴入ってんじゃん」
「客観的資料です」
「絶対違うだろ」
スズメは何事もなかったように筆を置いた。
ほんの少しだけ、すっきりした。
理由は分からない。
ノートの後半には、恋と二人で整理した内容がまとめられていた。
《得意になりやすいこと》
・実際にやりながら覚える。
・失敗したあとに直す。
・状況が変わる中で動く。
・人と一緒にやる。
・目的がはっきりしていること。
《苦手になりやすいこと》
・目的が分からないまま続ける。
・ずっと同じ作業。
・長時間一人で机に向かう。
・細かい手順を意味も分からず守る。
最後の一文だけ、恋が二重線で囲んでいた。
《※「苦手」と「できない」は別》
さらに、次の項目が続く。
《向いていそうな環境》
・現場がある。
・毎回少し状況が違う。
・人と関わる。
・魔法を使う。
・新しいことを学び続ける。
・誰かの役に立っている実感がある。
《今のところ興味あり》
・禍祓官
・古代魔術に関わる仕事
・魔法生物に関わる仕事
・先生
・海外
・まだ知らない仕事
スズメは最後まで読んだ。
「どう?」
奎星が訊く。
「どう、とは?」
「俺って感じする?」
スズメはすぐには答えなかった。もう一度、頁を戻す。
行動が早い。
失敗後の修正が速い。
未知への抵抗が低い。
困っている相手を放っておけない。
考えるより先に動く。
危険判断が自分基準。
目的があれば、嫌いなことでも続けられる。
教科書を開けば寝ていた少年が、夏には分からないところを自分で整理した。
魔法法規六十一点だった少年が、冬には七十九点を取った。
杖が怖くなった少年が、もう一度握った。
一人で第零書庫へ行った少年が、次は友人へ話すことを覚えた。
間違えた。
変えた。
また間違えた。
また変えた。
「……そうですね」
スズメは答えた。
「かなり、蓮根君らしいと思います」
奎星の顔が少し明るくなる。
「お」
「ただし」
「来た」
「危険判断が自分基準、という部分は太字にしたほうがいいですね」
「そこ?」
「一番重要です」
「長所も褒めろよ」
「失敗後の修正が速い」
「うん」
「そこは、とても良いところだと思います」
奎星が一瞬だけ黙った。予想より真っ直ぐ褒められたからだ。
「……そっか」
「はい」
「じゃあ書いとこ」
「自分で?」
「スズメちゃんが言ったって」
「書かなくていいです」
奎星はすでに書いていた。
《スズメちゃん 修正が早いところはいいって》
「消してください」
「何で?」
「自己分析ではありません」
「俺の自己分析なんだからいいじゃん」
「消しなさい」
「やだ」
「蓮根君」
研究室へ、いつものやり取りが戻った。
外では夕方の光が、羊脂玉の回廊を淡く照らしていた。
*
翌日、六月三日。
進路相談室の机の上には、今度は大量の冊子が並んでいた。
「多くない?」
奎星は椅子へ座るなり言った。
恋が得意げに両手を広げる。
「これでも減らした」
「嘘だろ」
「本当」
大小さまざまな冊子が並んでいる。魔法省の案内、職業別の説明資料、資格案内、各種採用要項。学校、研究機関、工房、店舗、競技団体。
奎星は一番上の冊子を取った。
《魔法社会 職業案内》
「こんなのあんの?」
「あるよ」
「誰が読むの」
「今の奎星君」
「俺か」
恋は笑いながら、何枚かの紙を机へ広げた。
「昨日、向いてそうな環境は見えてきたでしょ」
「うん」
「だから今日は、その条件に近い仕事を探してみよう」
恋は最初の紙を指した。
中央に大きく、《日本魔法省》とある。そこから枝分かれするように、いくつもの組織名が並んでいた。
奎星には見覚えのある名前も多い。
魔法法執行局。
監察局。
記録局。
魔法交通局。
災害対策に関わる部門。
教育行政。
魔法生物の保護や管理。
一般社会との秘匿調整。
そのほかにも、細かな部署がいくつも枝分かれしていた。
「こんなあんの?」
「そりゃあるよ」
恋が笑う。
「魔法使いだって生活してるんだから」
別の紙を置く。
「誰かが学校を管理する。誰かが魔法犯罪を取り締まる。誰かが転移門や交通経路を整える。危険な魔法生物が一般社会へ出ないようにする人もいるし、保護する人もいる」
「うん」
「事故が起きたら調べる人がいる。災害なら現場へ行く人がいる。昔の資料を残す人がいる。魔法具が危険じゃないか確認する人もいる」
「へえ……」
「一般社会に魔法が知られないよう調整する仕事だってある」
奎星は組織図を眺めた。
今まで魔法省と聞けば、真壁、禍祓官、取調室、事件、黒曜の環――そういうものばかり思い浮かべていた。
だが、当然、それだけではない。
奎星が乗ってきた転移門も、学校への編入手続きも、鬼火鳥が保護対象として管理されていたことも、魔法生物を拘束する器具へ許可番号が必要だったことも、全部、誰かが制度を作り、誰かが確認し、誰かが記録している。
「魔法社会って」
奎星が呟く。
「意外と普通なんだな」
恋が吹き出した。
「何だと思ってたの?」
「もっと魔法で全部何とかしてんのかと思ってた」
「魔法で全部何とかするためにも人が必要なの」
「確かに」
「魔法があるから仕事が減るんじゃなくて、魔法があるから必要になる仕事もいっぱいある」
恋は別の冊子を開く。
今度は魔法省の外だ。
学校教員。
魔法史や古代魔術の研究。
魔法生物の研究者。
魔法薬に関わる仕事。
杖職人。
魔法具の製作や修理。
八咫小路のような魔法区域で商売をする人々。
クィディッチの競技関係。
奎星がこの一年で会った人間たちの仕事が、次々に紙の上へ現れる。
「空木さんも仕事なんだな」
「杖職人?」
「うん」
「当たり前でしょ」
「いや、店の奥で座ってるイメージ強くて」
「本人に言わないほうがいいよ」
「絶対言わない」
恋が一枚の資料を奎星へ渡す。
《禍祓官》
奎星の目が止まった。
「来た」
「やっぱそこ気になる?」
「うん」
仕事内容には、禁制魔術、魔法犯罪、違法呪物、危険な魔法使い、魔法災害、人命救助と並んでいる。状況によっては、魔法生物が関わる事件もある。
その下には、必要とされる知識が並ぶ。
魔法法規。
呪術理論。
対闇魔術。
魔法生物。
魔法薬。
魔法犯罪史。
奎星の顔が少しずつ曇っていく。
「多くね?」
「何が?」
「勉強」
「現場仕事だからって勉強しなくていいわけないでしょ」
「御影先生もやってたんだよな……」
「そりゃね」
奎星は資料を見つめた。
「戦うだけじゃないんだ」
「むしろ、戦わず終わるほうがいい仕事も多いよ」
その一言で、奎星の頭へ一学期の御影の声が蘇った。
――捕まえるために行ったからだ。
――殺すためではない。
――殺さずに止めるほうが、難しい。
「……そっか」
恋が奎星を見る。
「何?」
「いや」
奎星は資料を閉じなかった。そのまま次を読む。
*
その中で、奎星は一つ妙なことに気づいた。
「坪田さん」
「ん?」
「これ何?」
組織図の一部。いくつかの部署の横に、小さく印が付いている。
《外部見学制限中》
《権限再確認中》
《資料閲覧制限》
恋の笑顔が、ほんの少しだけ薄くなった。
「ああ」
「前から?」
「ううん」
短い答え。それだけで、奎星には分かった。
「星帰り?」
恋は数秒だけ黙った。
そして頷く。
「そう」
神代冥司によるマホウトコロ占拠。その過程で、魔法省内部に黒曜の環へ情報を渡していた者がいることが判明した。
学校の防護。
転移経路。
内部資料。
本来なら外へ漏れないはずのものが、漏れていた。
神代を倒したからといって、次の日から全部元通りになるわけではない。
「今も?」
「今も」
恋は組織図へ視線を落とす。
「人員の確認。権限の見直し。古いアクセス記録の調査。部署を跨いで、かなりやってる」
「スパイ、まだいるかもしれない?」
「それを確認してるところ」
いつもの明るい声より、少しだけ静かだった。
奎星は紙を見る。
魔法省。
大きな一つの建物。
巨大な組織。
けれど中には、何百、何千という仕事があり、何百、何千という人間がいる。
全員が同じ方向を見ているとは限らない。
「……大変だな」
「大変」
恋はあっさり認めた。
それから、少し笑う。
「でも、だからって社会は止められないからね」
交通は動く。
学校もある。
犯罪も起きる。
魔法生物も暮らしている。
誰かが怪我をする。
誰かが働く。
誰かが記録する。
誰かが守る。
問題を抱えたままでも、魔法社会は今日も動いている。
奎星は組織図をしばらく眺めていた。
*
その日の夜、奎星は思いついた。
仕事の内容を読むだけでは、よく分からない。
なら、実際にやっている人間へ聞けばいい。
翌朝。
午前五時四十八分。
「御影先生」
「走れ」
「聞きたいことある」
「走りながら聞け」
「何で禍祓官になったの?」
御影の足が止まった。
奎星も止まる。
「止まっていいんじゃん」
「走れ」
「どっちだよ」
訓練場の外周を、奎星は御影と並ぶ形で走り始めた。もちろん、御影はほとんど息が乱れていない。奎星はすでに少し息が上がっている。
「で?」
「何がだ」
「何で禍祓官になったの」
「進路相談か」
「うん」
御影は前だけを見て、しばらく答えなかった。
「御影先生?」
「最初は」
声が返る。
「自分の力が一番使える仕事だと思った」
奎星が少し意外そうな顔をした。
「それだけ?」
「最初はな」
「もっと、子供の頃に闇の魔法使いに襲われて復讐を――」
「ない」
「ないの?」
「勝手に過去を作るな」
「じゃあ何で続けたの?」
御影は走る。
朝の冷たい空気が、訓練場を抜けていく。
「現場へ行けば」
一拍。
「助けを待っている人間がいた」
奎星の足が少しだけ遅くなる。
御影は前を見る。
「それだけだ」
「…………」
「遅い」
「今いい話だったじゃん」
「走れ」
「余韻とかないの?」
「ない」
「御影先生らしいなぁ……」
「四周目」
「増やすな!」
*
昼。
奎星は土御門にも訊いた。
「先生って、何で先生になったんすか?」
土御門は少し驚き、そのあと、嬉しそうに笑った。
高宮にも訊いた。
「何で先生やってんすか?」
「その訊き方をまず直しなさい!」
怒られた。
薬師寺にも訊こうとしたが、
「進路相談ならまず薬を飲んでからにしなさい」
と言われたので逃げた。
早瀬は箒の点検をしながら話を聞いてくれた。鷹司は魔法生物飼育棟で、餌を作りながら答えた。
答えは、全員違った。
得意だったから。
好きだったから。
誰かに勧められたから。
やってみたら面白かったから。
最初から決めていた者もいれば、別の仕事から戻ってきた者もいる。
そして放課後。
奎星は、一番よく知っている教師の研究室へ入った。
「スズメちゃん」
「失礼します」
「失礼します」
今日は先に言った。
スズメが少しだけ満足そうに頷く。
奎星は椅子へ座った。
「前に聞いたんだけどさ」
「何をですか」
「何で記録局入ったの?」
スズメの手が止まった。
「……以前、お話ししましたね」
「うん」
奎星は覚えている。
観測塔。
自分が杖を怖がっていた頃。
スズメが初めて話してくれた失敗。
記憶を失った少女。
記録局。
事故。
「でも、今仕事のこと考えてるから、もう一回聞きたい」
スズメは奎星を見る。
少しだけ考えてから、羽根筆を置いた。
「記録することが好きだったからです」
「うん」
「魔法史も好きでした」
そこは知っている。
むしろ、これほど分かりやすい人もいない。研究室の本棚、古文書、巻物、机。全部が証明している。
スズメは続けた。
「昔の人が、何を考えて、何をして、何を間違えたのか」
奎星は黙って聞く。
「それを残せば、未来の人が同じ失敗をしなくて済む」
静かな声だった。
「そう思っていました」
「今も?」
「今も思っています」
迷いはなかった。
事故があった。
記録局を辞めた。
古代魔術から半年ほど離れた。
それでも、その考え自体は消えていない。
「じゃあ」
奎星が訊く。
「記録局、嫌いになったわけじゃないんだ」
スズメは少し驚いた。
「ええ」
そして、小さく頷く。
「嫌いではありません」
「じゃあ、先生になったのは」
「それも以前話しました」
「知ってる」
奎星は笑った。
「起きてから書くだけじゃ足りないって思ったんだろ?」
スズメの目が僅かに動いた。
「起きる前に止める側へ行きたかった」
「……よく覚えていますね」
「俺、意外と記憶力いいから」
「三択へ四番を書いた人が?」
「それ一年前だろ」
「一年しか経っていません」
「古いって」
スズメは小さく笑った。
奎星も笑う。
そして、少ししてから、奎星が言った。
「仕事って」
「はい」
「好きなことだけで決めるわけじゃないんだな」
スズメが奎星を見る。
「どういう意味ですか」
「御影先生もさ」
奎星は机へ頬杖をついた。
「最初は、自分の力が使えると思ったから禍祓官になったって」
スズメの眉が少し上がる。
「あの人がそんな話をしたのですか」
「走りながら」
「でしょうね」
「で、続けたのは、現場に助けを待ってる人がいたからだって」
スズメは少しだけ目を細めた。
長い付き合いだ。
九歳の頃から。
その答えに驚いてはいないようだった。
「スズメちゃんは記録が好きで記録局入ったけど、事故があって、今度は起きる前に止めたいって先生になった」
「はい」
「同じ人でも変わるんだな」
「変わりますよ」
「仕事も?」
「仕事も」
スズメは答えた。
「選んだ理由も、続ける理由も」
奎星は少し考えた。
「そっか」
一年後。
十年後。
最初に決めた理由と同じ理由で働いているとは限らない。
そもそも、最初に選んだ仕事を一生続けるとも限らない。
十八歳。
一度決めれば全部終わる。
そんな話ではなかった。
そのことが、奎星には少しずつ分かり始めていた。
*
六月四日。
金曜日。
放課後。
「坪田さん」
「何?」
「坪田さんは?」
恋が資料から顔を上げた。
「私?」
「何でキャリアアドバイザーなったの?」
一瞬、恋がきょとんとする。
それから、笑った。
「ついに私まで来た」
「何が?」
「最近、先生たちに聞き回ってるでしょ」
「知ってんの?」
「高宮先生から聞いた」
「何て?」
「『蓮根君に突然、人生を訊かれました!』って」
「そんな大げさな」
「結構大げさな人だよね」
「怒られるぞ」
恋は笑いながらペンを置いた。
「何で、かあ」
奎星が待つ。
恋は少しだけ考えた。
「私ね」
「うん」
「選択肢が増える瞬間が好きなの」
「選択肢?」
「うん」
恋は机に置かれた職業案内を指で叩く。
「最初は一個しか知らなかった子が、話してるうちに三個になる」
一冊、また一冊と資料を指す。
「禍祓官しか知らなかった子が、調査の仕事もあるんだって知る」
「うん」
「魔法省しか知らなかった子が、工房で働くのも面白そうって思う」
「うん」
「何にもないって言ってた子が、“これならちょっと見てみたい”って言う」
恋は笑った。
「その瞬間、結構好き」
奎星は黙って聞いていた。
「仕事を決めてあげるのは嫌い?」
「嫌い」
即答だった。
「何で?」
「その人の人生だもん」
恋は肩をすくめる。
「私が決めて、失敗したら責任取れないし」
「スズメちゃんと同じこと言う」
「烏丸先生も?」
「うん」
奎星は一昨日の言葉を思い出す。
進路を。
未来を。
スズメは決めてくれなかった。
恋も決めない。
御影も、おそらく決めないだろう。
決めるのは、自分。
「だから」
恋が言う。
「私がやるのは、見えない選択肢を見えるところまで持ってくること」
「その中から選ぶのは?」
「奎星君」
「外したら?」
「また選ぶ」
「また外したら?」
「また選ぶ」
「何回まで?」
「死ぬまで?」
「長えな」
二人は笑った。
*
「で」
恋が一枚の紙を奎星の前へ置いた。
「この一週間で、何が分かった?」
「俺?」
「自己分析して、仕事見て、いろんな人に話聞いたでしょ」
奎星は紙を見る。
白紙。
進路希望調査とは違う。
第一志望。
第二志望。
第三志望。
そういう欄はない。
上には一つだけ、《仕事でやりたいこと》と書かれている。
「仕事の名前じゃなくていい?」
「むしろ今日は名前禁止」
「また?」
「また」
奎星はペンを持った。
しばらく考える。
そして、書いた。
《現場に出たい》
次に、
《知らない場所に行きたい》
《知らない魔法を知りたい》
《知らない魔法生物も見たい》
《強くなりたい》
そこで一度止まる。
少し考えてから、
《困ってる人がいたら助けたい》
と書いた。
文字を見つめる。
自分で書くと、何となく気恥ずかしい。
恋は何も言わない。
奎星は続けた。
《ずっと机だけは嫌》
《誰かとやるほうがいい》
《古代魔術をもっと知りたい》
《鬼火鳥》
《蓮根家》
《霊脈》
《海外も行きたい》
最後に、少し迷って、
《人に魔法を教えるのもちょっと面白そう》
と書いた。
書き終えた。
恋が紙を見る。
「いっぱいあるね」
「多い?」
「いいんじゃない?」
「これ、まとまってんの?」
「かなり」
「マジ?」
奎星には、ばらばらにしか見えない。
禍祓官。
研究。
魔法生物。
教育。
海外。
古代魔術。
全部違う。
けれど恋は、紙の中央へ一本の線を引いた。
「奎星君」
「何?」
「たぶん今、職業名を一個にする必要ないよ」
「何で?」
「こっちのほうが大事だから」
恋が紙を指す。
現場。
未知。
人。
魔法。
役に立つ。
学び続ける。
「この条件に合う仕事を探せばいい」
奎星は紙を見る。
「禍祓官は?」
「かなり入る」
「研究は?」
「現地調査型なら入る」
「先生は?」
「人と魔法と、学び続けるは入る」
「海外は?」
「仕事じゃない」
「知ってるよ」
「今ちょっと怪しかった」
「分かってるって」
恋が笑う。
「魔法省の仕事でも、案外この条件に合うものはあるよ」
奎星が顔を上げる。
「禍祓官以外?」
「いっぱい」
「例えば?」
恋はそこで、にやりと笑った。
「それ」
机の引き出しを開ける。
中から一枚の紙を取り出し、奎星の前へ置いた。
「自分で見に行こうか」
「…………」
紙を見る。
上部には銀色の紋章。
《日本魔法省》
その下。
《臨時入庁許可証》
奎星の目が大きくなる。
「え」
「来週」
恋は笑った。
「魔法省、見学行こう」
「マジ?」
「マジ」
「学校は?」
「校外進路学習扱い。九重院校長から許可済み」
「早くない?」
「仕事できるので」
「伊織みたいなこと言うじゃん」
「褒め言葉として受け取っとく」
奎星は許可証を持ち上げた。
以前、魔法省へ行ったことは何度もある。
検査。
事情聴取。
事件。
スズメの記憶。
まともな用事で行った記憶が、ほとんどない。
「何見るの?」
「まず魔法省全体」
恋が指を折る。
「それから、今見学できる範囲でいくつかの部署」
「禍祓官は?」
「採用と訓練の話を聞けるよう調整してる」
奎星の顔が一気に明るくなる。
「行く」
「即答だね」
「行く」
「来週火曜日」
「八日?」
「そう」
奎星は許可証を裏返した。
そして、少し眉を寄せる。
「印多くない?」
一枚の紙に、いくつもの魔法印が押されている。
本人確認。
同行者。
入庁可能区画。
閲覧制限。
魔法具持込。
神代榊については、さらに別の許可印まである。
「前に行ったとき、こんなんだったっけ」
恋の表情が少しだけ変わった。
「今はね」
「……星帰りのあとだから?」
「そう」
短く答える。
「入れる場所もかなり限定されてる」
「そっか」
魔法省の中には、まだあの事件の傷が残っている。
建物は立っている。
仕事も続いている。
けれど、何もなかったことにはなっていない。
奎星は許可証をノートへ挟んだ。
「でも行く」
「もちろん」
恋は笑う。
「そのために取ったんだから」
*
そのまま、奎星は隣の魔法史研究室へ向かった。
扉を開ける。
「失礼します」
スズメが顔を上げた。
「今日は完璧ですね」
「成長しただろ」
「入室だけで褒めてほしいのですか」
「ちょっとくらい」
「普通です」
奎星はいつもの席へ座り、鞄からノートを出した。
「スズメちゃん」
「何ですか」
「来週、魔法省行く」
スズメの羽根筆が止まった。
「魔法省?」
「進路見学」
「坪田先生と?」
「うん」
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
スズメの目が動いた。
けれど、すぐに普通の顔へ戻る。
「そうですか」
「火曜日」
「八日ですね」
「禍祓官の話も聞けるって」
奎星は嬉しそうだった。
スズメはその顔を見る。
一年前。
進路希望調査へ。
第一志望、海賊。
第二志望、未定。
第三志望、なんとかなる。
そう書いていた少年。
今、自分から仕事を見に行こうとしている。
「良かったですね」
「うん」
「ただし」
奎星が嫌そうな顔をする。
「何」
「勝手な行動はしないでください」
「何で今それ言うの」
「魔法省だからです」
「俺、何回も行ったことあるぞ」
「だから心配なのです」
「何もしてないだろ」
スズメはじっと見る。
「…………」
「何その沈黙」
「記録局へ忍び込もうとしたことは?」
「してない」
「しようと考えたことは?」
「…………」
「蓮根君」
「結果してない」
「考えたのですね」
「昔の話」
「数か月前です」
「古いって」
スズメは奎星のノートを引き寄せ、羽根筆を持った。
さらさらと、
《六月八日 魔法省見学》
と書かれた奎星の文字の下へ、几帳面な字で、
《勝手に立入禁止区域へ入らない》
と書き足す。
「書くなよ」
「重要です」
「坪田さんにも言われるって」
「二人から言われるということは、それだけ必要なのです」
「信用ねえなぁ」
「実績です」
奎星はノートを取り返す。
そこには、自分の雑な文字と、坪田恋の丸く柔らかい文字、烏丸スズメの整った文字が混ざっていた。
最初の頁には《蓮根奎星 自己分析》。
最後の頁には《六月八日 魔法省見学》。
奎星は少しだけ笑った。
「何ですか」
「いや」
ノートを閉じる。
「ちょっと進んだ気がする」
スズメは数秒、奎星を見る。
「そうですね」
今度は否定しなかった。
一年前、将来の話をされれば、面倒そうに逃げた。
海賊。
未定。
なんとかなる。
今だって、進路は決まっていない。
禍祓官になるとも、研究者になるとも、教師になるとも、何一つ決めていない。
それでも、何も決まっていないことと、次に何を見るか決まっていることは、少し違った。
来週、蓮根奎星は、初めて事件のためではなく、自分の未来を見るために魔法省へ行く。