マホウトコロ   作:西野圭吾

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第5話 英雄

二〇二七年六月八日、火曜日。午前五時。

 

「今日くらい休みでよくない?」

 

訓練場の中央で、蓮根奎星は真剣な顔をして言った。

 

御影玄一郎は腕時計を見る。

 

「何がだ」

 

「朝練」

 

「理由は」

 

「今日、魔法省見学」

 

「だから何だ」

 

「進路考える大事な日じゃん」

 

「そうだな」

 

「万全の状態で行ったほうがいいだろ」

 

「そうだな」

 

奎星の顔が明るくなる。

 

「じゃあ――」

 

「始めるぞ」

 

「話聞いてた?」

 

御影はすでに杖を抜いていた。奎星が慌てて腰へ手を伸ばし、濃紺の杖入れから神代榊を抜こうとした、その瞬間だった。

 

赤い光が飛んだ。

 

「うわっ!」

 

横へ跳ぶと、背後の地面が抉れた。

 

「進路見学に行く生徒への扱いじゃねえだろ!」

 

「魔法省へ行くなら、なおさら鈍った状態で行くな」

 

「一日休んだくらいで鈍らねえよ!」

 

「口を動かすな」

 

「御影先生が喋ってんじゃん」

 

二発目が飛ぶ。

 

「だから急なんだって!」

 

朝の訓練場へ、いつもの声が響いた。

 

十八歳。最終学年。今日は、生まれて初めて自分の将来を考えるために魔法省へ行く。それでも午前五時には、いつも通り御影に追い回されていた。

 

 

午前七時四十五分。大食堂。

 

「今日なんだろ?」

 

日向が味噌汁を飲みながら訊いた。

 

「何が?」

 

「魔法省」

 

「ああ」

 

奎星は焼き魚を口へ入れる。

 

「三限まで授業受けて、それから行く」

 

「いいなー」

 

「何が?」

 

「授業途中で帰れる」

 

「そこ?」

 

楓が呆れた顔をする。

 

「進路見学なんだから遊びじゃないわよ」

 

「分かってるって」

 

「絶対分かってない」

 

その横で、岳が顔を上げた。

 

「魔法省、飯ある?」

 

奎星の箸が止まる。

 

「知らねえ」

 

「食堂」

 

「あるんじゃね?」

 

岳の目が少しだけ真剣になる。

 

「見てきて」

 

「仕事見に行くんだけど」

 

「飯も仕事」

 

「誰の?」

 

伊織は朝食を食べながら本を閉じた。

 

「でも、かなりいい機会だと思うよ」

 

「うん」

 

「魔法省の中を、事件と関係なく見られることなんてあまりないから」

 

奎星は少し考えた。確かに、これまで魔法省へ行った理由を思い返してみれば、魔力検査、第零書庫、事情聴取、星帰り、列車事故、スズメの記憶、三年前の研究事故、眞田の件、記憶復元と、ろくなものがない。

 

「……マジでろくな用事ねえな」

 

「何が?」

 

日向が訊く。

 

「今まで魔法省行った理由」

 

楓も数秒考える。

 

「本当ね」

 

「だろ?」

 

伊織が言った。

 

「普通の人は、そもそもそんなに魔法省へ行かないけどね」

 

「俺、まだ一年しか魔法界いないんだけど」

 

「濃い一年だったんでしょ」

 

「坪田さんと同じこと言うじゃん」

 

日向が身を乗り出した。

 

「禍祓官見るんだろ?」

 

「うん」

 

「決めんの?」

 

「何を?」

 

「進路」

 

奎星は味噌汁を飲んだ。少し前までなら、その質問だけで面倒そうな顔をしていたかもしれない。けれど今は違った。

 

「まだ決めない」

 

日向が首を傾げる。

 

「じゃあ何しに行くんだよ」

 

「見る」

 

「見る?」

 

「見て、面白かったらもっと見る」

 

日向はまだ少し分からない顔をしている。伊織だけが小さく笑った。

 

「ちゃんとキャリアデザインの授業を受けてるね」

 

「だろ?」

 

「一週間で随分まともになった」

 

「元からまともだよ」

 

四人が黙った。

 

「何その間」

 

岳が出汁巻き卵を食べる。

 

「何でもない」

 

「岳まで?」

 

 

一限、二限、三限と授業が進む。その日ばかりは、奎星も授業中に何度か腕時計へ目を落とした。濃紺の革ベルトに銀色の文字盤。去年のクリスマスにスズメからもらったものだ。

 

別に早く終われと思っているわけではない。

 

たぶん。

 

三限の終わりを告げる鐘が鳴った瞬間、奎星は一番に立ち上がった。

 

「よし」

 

教壇から教師が見る。

 

「蓮根君」

 

「あ」

 

まだ授業は終わっていなかった。教室に笑いが起きる。

 

「……すみません」

 

「座りなさい」

 

「はい」

 

それから三分後、今度こそ授業が終わった。

 

 

奎星は一度男子寮へ戻った。今日は霞が関の一般社会側も歩くため、マホウトコロの制服で東京都心を歩けば、どう考えても目立つ。

 

白いシャツに、黒に近い灰色のパンツ。薄手の紺色のジャケットを羽織り、靴も普通のスニーカーに替えた。

 

鏡を見る。

 

「……普通」

 

去年の五月までなら、何とも思わなかった格好だった。今では逆に新鮮だった。

 

腰に下げていた神代榊は、スズメからもらった濃紺の杖入れごと、今日だけ借りた細長い黒い鞄へ収める。

 

机の上には一冊のノートがある。

 

《蓮根奎星 自己分析》

 

最後の頁には、

 

《六月八日 魔法省見学》

 

と書かれていた。そのすぐ下には、スズメの字で、

 

《勝手に立入禁止区域へ入らない》

 

とある。

 

「……分かってるって」

 

誰もいない部屋で呟き、ノートも鞄へ入れた。

 

 

転移区画へ行くと、思っていたより人が集まっていた。

 

坪田恋、九重院紫苑、御影玄一郎、高宮、土御門、そしてスズメ。

 

奎星は立ち止まる。

 

「何でこんな見送りいんの?」

 

高宮が即座に答えた。

 

「心配だからです!」

 

「何が?」

 

「あなたがです!」

 

「俺?」

 

「あなた以外に誰がいるのです!」

 

高宮は奎星の肩を両手で掴んだ。

 

「いいですか、蓮根君」

 

「近い近い」

 

「今日は進路見学です!」

 

「知ってる」

 

「事件の捜査ではありません!」

 

「うん」

 

「怪しい扉を見つけても開けない!」

 

「開けねえよ」

 

「知らない地下道へ行かない!」

 

「行かないって」

 

「封印を見つけても触らない!」

 

「何で俺が全部やる前提なんだよ」

 

御影が腕を組んだまま答えた。

 

「実績だ」

 

奎星が御影を見る。

 

「スズメちゃんと同じこと言うじゃん」

 

スズメが少しだけ目を逸らす。

 

「事実です」

 

「何でみんな俺を信用しないの」

 

土御門が困ったように笑った。

 

「信用していないわけではありませんよ」

 

「じゃあ何?」

 

「念のためです」

 

「それ信用してないやつじゃん」

 

九重院が一歩前へ出た。

 

「蓮根君」

 

「はい」

 

穏やかな声だった。

 

「たくさん見てきてください」

 

奎星が顔を上げる。

 

「仕事だけではなく」

 

九重院は続けた。

 

「そこで働く人たちも」

 

「人?」

 

「ええ。どのような人が、どのような思いでその仕事をしているのか」

 

奎星は黙って聞いた。

 

「そして、自分がそこで働く姿を想像できるか」

 

「……うん」

 

「視野を広げてきてください」

 

「分かった」

 

九重院の横で、スズメも奎星を見ていた。

 

今日は制服ではない。去年まで普通の高校生だった頃の姿に、ほんの少しだけ近い。けれど鞄の中には神代榊があり、進路ノートがある。一年前とは違う。

 

そして、その隣にいるのは坪田恋だった。

 

「じゃ、奎星君。そろそろ行こっか」

 

「おう」

 

恋が明るく笑う。

 

スズメの胸の奥で、ごく小さな何かが引っかかった。

 

今日は二人で魔法省へ行く。仕事を見て、話を聞き、昼もおそらく一緒に食べる。

 

「…………」

 

何を考えているのでしょう。自分でも分からない。

 

ただの校外進路学習だ。坪田は奎星の専任キャリアアドバイザー。一緒に行くのは当然である。

 

「スズメちゃん」

 

急に呼ばれた。

 

「はい」

 

いつの間にか奎星が目の前にいる。

 

「行ってくる」

 

何の迷いもない顔だった。完全に今日の見学のことで頭がいっぱいなのだろう。

 

スズメは少しだけ笑う。

 

「行ってらっしゃい」

 

「おう」

 

「蓮根君」

 

「何?」

 

少しだけ迷ってから、スズメは言った。

 

「……楽しんできてください」

 

奎星が笑った。

 

「うん」

 

それだけで、先ほどまで胸の中にあった小さな引っかかりが、少し馬鹿らしくなった。

 

恋が九重院たちへ頭を下げる。

 

「では、お預かりします」

 

高宮が即座に叫んだ。

 

「坪田先生!」

 

「はい?」

 

「くれぐれも!」

 

「大丈夫ですよ」

 

「本当にお願いします!」

 

奎星が眉を寄せる。

 

「俺、何だと思われてんの?」

 

御影が答えた。

 

「蓮根奎星」

 

「説明になってるのが嫌だな」

 

転移門に青白い光が灯る。

 

奎星は最後に手を上げた。

 

「じゃあな」

 

恋と二人、光の中へ入る。青白い光が二人を包み、そして消えた。

 

スズメは、その光が完全になくなるまで見ていた。

 

横から声がする。

 

「烏丸先生」

 

土御門だった。

 

「何ですか」

 

「いえ」

 

「何ですか」

 

土御門は微笑む。

 

「今日はお味噌汁ではありませんね」

 

「…………何の話ですか」

 

「何でもありません」

 

「土御門先生」

 

「授業へ行きましょうか」

 

「誤魔化さないでください」

 

 

東京、霞が関。

 

魔法交通拠点から一般社会側へ出た瞬間、音が変わった。自動車、信号、革靴、スマートフォンを見ながら歩く人、六月の湿った風。

 

奎星は周囲を見回した。

 

「うわ」

 

恋が笑う。

 

「何?」

 

「久しぶり」

 

「東京が?」

 

「こういうとこ歩くのが」

 

「東京出身でしょ」

 

「そうなんだけどさ」

 

ほんの一年ほど前まで、こちら側が日常だった。電車に乗って学校へ行き、コンビニへ寄り、友達と話す。魔法なんて知らない。

 

それが今では、鞄の中に百年以上前の魔法杖を入れ、日本魔法省へ進路見学へ向かっている。

 

「変な感じ」

 

「何が?」

 

「別に」

 

奎星は少し笑った。

 

数分歩いたところで、何の変哲もない官庁施設の一角にある壁の前で、恋が足を止めた。

 

身分証を翳す。

 

一瞬、壁の表面を水面のような波紋が走り、その奥へ通路が現れた。

 

「行こ」

 

「おう」

 

二人が中へ入ると、背後で霞が関の雑踏が消えた。長い昇降機が地下へ降りていく。

 

 

日本魔法省、地下庁舎。

 

扉が開くと、巨大な中央広間が現れた。黒御影石と白い石材で造られた空間は、地上からは想像もできないほど高い天井を持っている。頭上では何百羽もの折り鶴が書類を咥え、部署から部署へ飛び交っていた。壁際には青白い炎を灯した転移扉が並び、正面には巨大な案内板がある。

 

《魔法法執行局》

 

《機密保持局》

 

《魔法災害対策局》

 

《魔法生物・妖怪共生局》

 

《記録局》

 

《監察局》

 

《国際魔法協力局》

 

奎星はそれを見上げた。

 

「何回来ても役所だな」

 

「役所だからね」

 

「魔法使ってても役所なんだな」

 

「その感想、前にも言ってない?」

 

「多分」

 

中央にある十二本針の大時計は、今日もそれぞれ別々の時刻を指していた。

 

受付へ向かうと、臨時入庁許可証、本人確認、同行者確認、入庁可能区画、魔法具持込と、一つずつ銀色の印が確認されていく。

 

そして、神代榊だけは別だった。

 

受付職員が鞄を確認し、別の銀色の札を奎星へ渡す。

 

《特別持込許可》

 

奎星は札を裏返した。

 

「大げさじゃない?」

 

「その杖が大げさなの」

 

恋が答える。

 

「普通の杖なら別札まで出ないよ」

 

「俺のじゃん」

 

「百年以上前からある古代魔術関連の杖でしょ」

 

「でも俺の」

 

「はいはい」

 

二人が受付を離れようとした、そのときだった。

 

廊下の向こうから、一人の男が歩いてくる。五十代半ば。濃紺の魔法省制服に金縁眼鏡、整えられた口髭。そして、どうしても目につく頭頂部。

 

男が奎星を見ると、足を止めた。

 

「…………」

 

奎星も止まる。

 

「あ」

 

戸倉雅臣の眉が動いた。

 

「君か」

 

「今、ゲッて顔した?」

 

「していない」

 

「したじゃん」

 

「していない」

 

恋が二人を見る。

 

「知り合い?」

 

奎星が答えた。

 

「俺のことストーカー扱いした人」

 

戸倉の顔が引きつった。

 

「その説明はやめなさい」

 

「でもしたじゃん」

 

「正式に謝罪しただろう」

 

「俺もハゲって言ったの謝った」

 

「それも今言う必要はない!」

 

近くを通った職員が、一瞬だけ戸倉の頭を見る。戸倉は咳払いした。

 

「……とにかく」

 

眼鏡を押し上げる。

 

「君がここへ来るということは、何かあったのだろう」

 

「何もないっすよ」

 

「そんなはずはない」

 

「何で?」

 

「私が君と会うときは、いつも何か起きている」

 

「ひどくない?」

 

「経験則だ」

 

奎星は首から下げた札を持ち上げた。

 

《進路見学》

 

戸倉が黙った。

 

札、奎星、恋、そしてもう一度札を見る。

 

「……見学?」

 

「うん」

 

「進路の?」

 

「そう」

 

「事件ではなく?」

 

「ない」

 

「誰も記憶を失っていない?」

 

「今のところ」

 

「今のところと言うな」

 

恋が口元を押さえている。

 

「本当に普通の進路見学ですよ。今日は私が同行します」

 

戸倉は恋の身分証まで確認した。ようやく、大きく息を吐く。

 

「そうか」

 

奎星がにやっとする。

 

「安心した?」

 

「非常に」

 

「そこまで?」

 

「君は知らないだろうが」

 

戸倉は疲れた顔で言った。

 

「君と会ったあとは、大抵報告書が増える」

 

「俺のせいじゃないやつもあるじゃん」

 

「君が中心にいる時点で、こちらからすれば大差ない」

 

「前も聞いたな、それ」

 

戸倉は奎星の肩越しに受付を見る。

 

「見学なら、規則を守るように」

 

「高宮先生にも言われた」

 

「良い先生だ」

 

「多分話合うよ」

 

「会いたくはない」

 

そのまま立ち去ろうとした戸倉が、二歩進んだところで止まった。振り返る。

 

「蓮根君」

 

「何?」

 

「本当に今日は」

 

一拍置いて、戸倉は言った。

 

「何も起こすなよ」

 

「俺が起こしてるみたいに言うなって」

 

戸倉は返事をせず、そのまま去っていった。

 

恋がとうとう吹き出す。

 

「あはは、すごい嫌われてるね」

 

「嫌われてない」

 

「今のどこに好意あった?」

 

「最後ちょっと心配してたじゃん」

 

「前向きだなあ」

 

「次に来るなら事件以外で来いって言われてたし」

 

「じゃあ約束守ったんだ」

 

「だろ?」

 

そのとき、後ろから声がした。

 

「そのくらいのほうが、彼らしいんじゃないかな」

 

二人が振り向く。

 

いつからそこにいたのか、一人の男が立っていた。

 

魔法省の濃紺制服ではない。灰色の背広に落ち着いた色のネクタイ。五十歳前後に見える。姿勢は柔らかく、表情にも威圧感はない。けれど胸元の銀章だけは、奎星がこれまで見たどの職員のものより複雑だった。

 

恋が少し姿勢を正す。

 

「後藤さん」

 

男は笑った。

 

「やあ、坪田君」

 

そして奎星を見る。

 

「初めまして」

 

手を差し出す。

 

「後藤孝雄だ」

 

奎星も手を出した。

 

「蓮根奎星っす」

 

握手を交わす。

 

「知っているよ」

 

「まあ、そうっすよね」

 

後藤が小さく笑った。

 

「思っていたより普通だな」

 

「それ、スズメちゃんにも言われる」

 

「烏丸先生か」

 

「知ってんの?」

 

「もちろん。魔法史と古代魔術の若い研究者として名前は知っている。記録局にいた頃のこともね」

 

「へえ」

 

恋が横から言った。

 

「後藤さんは、省務統括官」

 

奎星の顔が止まる。

 

「しょうむ?」

 

「省務統括官」

 

「何すんの?」

 

「省内全体の調整」

 

恋は少し考えた。

 

「あとは今、《黒曜関連特別対策本部》の本部長も兼任してる」

 

奎星の表情が変わった。

 

「黒曜」

 

「そう」

 

後藤は特に隠そうとはしなかった。

 

星帰りのあと、魔法省内部へ入り込んでいた黒曜の環関係者の摘発、人員の再確認、権限の見直し、古いアクセス記録の調査、残党拠点の捜索、押収資料の整理。神代冥司が残した影響を一つずつ洗い出すため、いくつもの局を跨いで作られたのが黒曜関連特別対策本部だった。

 

その全体を取りまとめているのが、後藤孝雄である。

 

奎星が首を傾げる。

 

「偉い人?」

 

恋が答える。

 

「かなり」

 

「へえ」

 

後藤が苦笑した。

 

「本人の前で確認することかな」

 

「役職だけ聞いても分かんないんすよ」

 

「正直でいいね」

 

派手な武勇で知られた人物ではなかった。御影玄一郎や真壁征士郎のように、禍祓官として名を知られていたわけでもない。長く、省内の調整や政策部門にいた。

 

それが星帰りの後、どの部署を先に調べるか、どの権限を一時凍結するか、誰を現場から外し、誰を残すか、どの記録から確認を始めるか。混乱の中で後藤が出した方針は、不思議なほど手戻りが少なかった。

 

そのため最近では、省内で半ば冗談のように言われている。

 

――判断を外さない男。

 

奎星には、そこまでの事情は分からない。ただ、何となく話しやすそうな大人だと思った。

 

「もしかして」

 

奎星が言う。

 

「坪田さん、俺んとこ送った人?」

 

恋が後藤を見る。

 

後藤はあっさり頷いた。

 

「私だ」

 

「何で?」

 

「必要だと思ったから」

 

「魔法省に入れたいから?」

 

恋の目が僅かに後藤へ向く。

 

しかし、後藤はほとんど間を置かなかった。

 

「いや」

 

奎星が止まる。

 

「違うの?」

 

「違う」

 

後藤は笑った。

 

「私は今日、君を勧誘するつもりはないよ」

 

「魔法省の人なのに?」

 

「魔法省の人間だからこそだ」

 

奎星が後藤を見る。

 

後藤は中央広間を見渡した。職員たちが行き交い、書類が飛び、転移扉が開いては閉じている。

 

「君は十八歳の少年だ」

 

「一応、成人っすよ」

 

「では」

 

後藤は真顔で言い直した。

 

「十八歳の成人だ」

 

「そこ直すんだ」

 

「大切だろう?」

 

「まあ」

 

後藤が続ける。

 

「十八歳の人間一人へ、社会の期待を押しつけるべきではない」

 

奎星の目が少し動いた。

 

「魔力量が大きいから」

 

一つ。

 

「古代魔術を扱えるから」

 

一つ。

 

「星帰りで大きな功績を上げたから」

 

一つ。

 

「だから魔法省へ来い。禍祓官になれ。日本のために働け」

 

後藤は静かに首を横へ振った。

 

「そんな決め方を、私はしてほしくない」

 

奎星は何も言わなかった。

 

この一年、何度も自分の力を見られ、測られ、疑われ、期待もされた。けれど、後藤の口から出たのは違う言葉だった。

 

「君の未来は、君が決めればいい」

 

「…………」

 

「魔法省へ来てもいい」

 

後藤は笑った。

 

「来なくてもいい」

 

「いいの?」

 

「当然だ」

 

「魔法省的に」

 

「魔法省に、君の人生を所有する権利はないよ」

 

あまりにも迷いのない答えだった。奎星の肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。

 

「後藤さん」

 

「何かな」

 

「めっちゃまともっすね」

 

恋が吹き出した。

 

「あははは!」

 

後藤も笑う。

 

「魔法省を何だと思っているんだ」

 

「取調室」

 

「偏っているな」

 

「あと報告書」

 

「戸倉君の影響が強すぎる」

 

「真壁さんもいる」

 

「少し安心したよ」

 

奎星も笑った。

 

第一印象は、かなり良かった。

 

 

見学は、魔法交通管理局から始まった。

 

巨大な日本地図の上を、何百本もの光が走っている。転移門、長距離転移経路、緊急移送路、一般社会の交通網と魔法交通が干渉しないための調整。

 

奎星は地図を見上げた。

 

「転移門って、開けとけばいいんじゃないの?」

 

担当職員が遠い目をした。

 

「それで済めば、私たちは全員帰れます」

 

「すみません」

 

恋が横で笑っている。

 

一つの転移門を数分止める。利用者が別の門へ流れ、その経路が混雑する。さらに別の経路へ振り分ける。一般社会側で事故があれば出入口を変更し、魔法災害が発生すれば緊急経路を空ける。

 

「……めんどくさ」

 

「今の感想は書かないでくださいね」

 

担当職員が言う。

 

「書かないっす」

 

恋が小声で言った。

 

「顔には出てる」

 

「マジ?」

 

 

次は、魔法生物・妖怪共生局だった。

 

保護対象の魔法生物、治療施設から届く報告、一般社会近郊へ迷い込んだ妖怪の移送、違法飼育、密輸、保護区域。

 

奎星の足が、一つの表示で止まった。

 

《鬼火鳥》

 

「…………」

 

羽根。炎。足枷。森。岳。

 

一年前の景色が、一瞬だけ重なる。

 

「奎星君?」

 

恋が見る。

 

「いや」

 

奎星は表示へ近づいた。

 

「岳、ここ好きそう」

 

「友達?」

 

「うん。魔法動物の仕事したいって」

 

「じゃあ学校向けの説明資料、もらえるか訊いてみよっか」

 

「マジ?」

 

「それも私の仕事です」

 

「坪田さん、ちゃんと仕事するな」

 

「まだ言う?」

 

担当職員へ声をかける恋を見ながら、奎星はもう一度鬼火鳥の文字を見た。

 

保護対象。

 

一年前。

 

岳は足枷を見ただけで、それが正規の器具ではないと気づいた。自分には分からなかった。

 

けれど、分かる人間がいる。

 

そういう人間が働く場所もある。

 

 

魔法災害対策局では、壁一面に日本各地の魔力異常が表示されていた。

 

地震、火災、結界事故、暴走した魔法具、霊脈の局地的な乱れ。一般社会側ではただの事故として処理される事案の中にも、魔法が原因のものがある。

 

現場へ向かう術者。

 

避難区域を決める職員。

 

魔力の流れを分析する者。

 

一般社会側の機関と情報を合わせる者。

 

奎星が表示を見る。

 

「現場だけじゃないんだ」

 

恋が答えた。

 

「現場へ行く人を動かす仕事も必要だからね」

 

「俺、そっち向いてなさそう」

 

「何で?」

 

「ずっと人に指示出すんだろ?」

 

「現場指揮もあるよ」

 

「それはちょっと面白そう」

 

恋がすぐに手帳へ書いた。

 

「書くの早くない?」

 

「仕事なので」

 

「便利だな、それ」

 

 

教育管理局では、奎星が山積みの書類を見た。

 

「俺のもある?」

 

職員が苦笑する。

 

「あります」

 

「見たい」

 

「駄目です」

 

「俺のなのに?」

 

「本人でも閲覧申請が必要です」

 

「何で?」

 

恋が答えた。

 

「役所だから」

 

奎星は天井を見る。

 

「役所だなぁ……」

 

十七歳で覚醒。特例編入。上級課程二年。通常なら存在しないような手続きだった。

 

「ちなみに」

 

職員が少し笑う。

 

「あなたの編入関係書類は、かなり分厚いです」

 

「やっぱり?」

 

「かなり」

 

「誰が書いたの?」

 

「いろんな人です」

 

奎星は少し考える。

 

「九重院校長とか?」

 

「それ以上は言えません」

 

「見てえ」

 

「駄目です」

 

 

昼食は、魔法省の食堂だった。

 

定食、麺類、丼。

 

料理を見た奎星が、ぽつりと呟く。

 

「岳、絶対喜ぶじゃん」

 

恋が箸を止めた。

 

「本当に食堂確認してる」

 

「頼まれたから」

 

「友達思いだね」

 

「飯のことだけは忘れねえからな、あいつ」

 

「奎星君も人のこと言えなくない?」

 

「俺は普通」

 

「朝一番に好きなもの聞いたら“飯”って答えた人が?」

 

「普通だろ」

 

「普通かなあ」

 

二人で笑った。

 

 

午後は機密保持局から始まった。

 

一般社会で発生した魔法事案、目撃証言、映像、事故。それらを一般社会へどのように説明するかという資料が並んでいる。

 

奎星は説明資料の一部を見て、少しだけ静かになった。

 

一月一日。

 

列車。

 

アレスト・モメンタム。

 

そして、あの取調室。

 

「ここ、戸倉さんいるとこ?」

 

「そう」

 

「帰ろうかな」

 

「さっき普通に会ったじゃん」

 

「もう十分」

 

「仕事見なさい」

 

今日は事情聴取ではない。疑われてもいない。誰かの記憶が消えたわけでもない。

 

ただ仕事を見るために歩いている。

 

それだけで、同じ廊下がまるで別の場所に見えた。

 

 

そして、記録局。

 

そこへ入った瞬間、空気が変わった。

 

静かだった。

 

古文書、魔力保存された記録、修復途中の巻物、一般社会側の史料と照合されている新聞。大声を出す人はいない。紙をめくる音、羽根筆が走る音、時折、小さな術式の光があるだけだった。

 

奎星は入口で足を止めた。

 

「……ここか」

 

恋が横を見る。

 

「烏丸先生がいたところ?」

 

「うん」

 

一年前、スズメが働いていた場所。記録することが好きだった。魔法史が好きだった。

 

昔の人が何を考えて、何をして、何を間違えたのか。それを残せば、未来の人が同じ失敗をしなくて済む。そう思って入った場所。

 

一人の職員が、破れた古文書を慎重に広げている。別の職員は、百年以上前の事件記録と新しい調査報告を並べていた。

 

誰かと戦う仕事ではない。派手な魔法もない。

 

けれど、何かを残すために、ずっと働いている。

 

「スズメちゃん、こういうことやってたのかな」

 

「たぶんね」

 

恋は余計なことを言わなかった。

 

奎星もしばらく黙って見ていたが、やがて自分から歩き出した。

 

「行こ」

 

 

一番長くいたのは、やはり魔法法執行局だった。

 

禍祓官訓練区画。奎星が想像していたような決闘ばかりが行われているわけではない。むしろ最初に目についたのは、机だった。

 

書類、現場図、押収された魔法具の記録、拘束術式の使用報告、出動前の打ち合わせ資料。

 

「…………」

 

奎星が黙る。

 

恋が横を見る。

 

「どうしたの?」

 

「机多くない?」

 

「そこ?」

 

「もっとこう、みんな杖持って走ってるのかと思ってた」

 

後ろから声がした。

 

「走る前にも書類が要りますからね」

 

奎星が振り返る。

 

「あ」

 

若い禍祓官。見覚えのある顔だった。

 

「倉橋さん」

 

倉橋哲人が笑う。

 

「久しぶりです、蓮根君」

 

「何でいるの?」

 

「職場ですから」

 

「そりゃそうか」

 

恋が軽く頭を下げる。

 

「今日はありがとうございます」

 

「いえ。採用担当から、現場の人間にも少し話してほしいと言われまして」

 

倉橋は自分の机を見る。

 

「ちょうど報告書もありますし」

 

奎星も見る。

 

「めっちゃあるじゃん」

 

「あります」

 

「戦った後も?」

 

「あります」

 

「最悪じゃん」

 

「そこだけで判断しないでください」

 

倉橋が苦笑した。

 

その少し奥では、実技訓練が行われている。攻撃、防御、拘束、救助。一人が相手を止め、一人が周囲を守り、一人が負傷者を運ぶ。相手を倒すことだけが目的ではない。

 

訓練が終われば、使用した術、判断、周囲への被害が一つずつ確認されていく。

 

奎星の頭へ、御影の声が蘇った。

 

――捕まえるために行った。

 

――殺すためではない。

 

――殺さずに止めるほうが、難しい。

 

「……やっぱ勉強いるな」

 

倉橋が笑う。

 

「かなり」

 

恋が指を折る。

 

「魔法法規」

 

「やだ」

 

「呪術理論」

 

「まあ」

 

「魔法薬」

 

「嫌」

 

「魔法生物」

 

「岳に聞く」

 

「人任せにしない」

 

「魔法犯罪史」

 

「スズメちゃんに聞く」

 

倉橋が吹き出した。

 

「先生二人くらい必要ですね」

 

「俺も今思った」

 

恋が呆れる。

 

「自分で勉強する選択肢は?」

 

「ある」

 

「すごい嫌そう」

 

「嫌だけど、必要ならやる」

 

恋が奎星を見る。ほんの一瞬、それから手帳へ何かを書いた。

 

奎星が気づく。

 

「何書いた?」

 

「秘密」

 

「絶対自己分析のやつじゃん」

 

倉橋が訓練区画を見る。

 

「でも」

 

奎星もそちらへ視線を戻す。

 

「やっぱ面白そう」

 

倉橋が微笑んだ。

 

「俺も、最初はそうでした」

 

「倉橋さん、何でなったの?」

 

「それ、最近いろんな人に聞いてるらしいですね」

 

「何で知ってんの?」

 

「高宮先生経由で広がってるんじゃないですか」

 

「魔法省まで?」

 

恋が横で笑っていた。

 

 

監察局の前を通ったとき、奎星の足が止まった。

 

「ん?」

 

見覚えのある背中。見覚えのある髭。そして、見覚えのない量の書類。

 

「真壁さん」

 

真壁征士郎が顔を上げる。

 

「……蓮根君?」

 

普段より明らかに声に力がない。

 

奎星が近づき、そして止まった。

 

「うわ」

 

「何だ」

 

「死にそう」

 

「見学に来た生徒が職員へ最初に言う言葉か?」

 

「だって」

 

本当に酷かった。髭は僅かに乱れ、制服の襟も少し曲がっている。目の下には薄い隈があり、机の横には空になったカップが一つ、二つ、三つと並んでいた。

 

そして、その隣の長椅子には人が寝転がっている。顔の上には書類が一枚乗っていた。

 

「斎賀もいるじゃん」

 

「いるぞ」

 

書類の下から声がした。

 

「寝てない?」

 

「目を閉じて仕事してる」

 

真壁が即座に言う。

 

「寝ている」

 

「こまけえよ、征士郎」

 

斎賀玄弥が顔の上の紙を退けた。髪はいつも以上に乱れ、シャツの袖を肘まで捲り、ネクタイも緩んでいる。部屋の外には監察官が二人いた。拘束具はつけていない。それでも、条件付きの捜査協力者であり、正式な復職でも無罪放免でもない。

 

机の周囲には、斎賀が書き込んだ資料が大量に積まれていた。

 

「何しに来た?」

 

「進路見学」

 

「お前が?」

 

「何だよ」

 

斎賀が真壁を見る。

 

「世界終わる?」

 

「失礼だな」

 

真壁が疲れ切った声で言う。

 

「本人なりに真面目に考えている」

 

奎星が斎賀を見る。

 

「ほら」

 

「征士郎のほうがお前のこと分かってんじゃん」

 

「何で斎賀が偉そうなんだよ」

 

「年上だから」

 

「関係ある?」

 

「ある」

 

奎星は二人の机を見る。黒曜の環、押収資料、人員記録、古いアクセス履歴、いくつもの部署名。

 

「まだやってんの?」

 

真壁が見る。

 

「まだ、とは?」

 

「黒曜」

 

「ああ」

 

「長くない?」

 

「長い」

 

即答だった。

 

斎賀が身体を起こす。

 

「神代一人捕まえて終わる話じゃねえからな」

 

「うん」

 

「残党もいる。協力してた奴もいる。何も知らず物運んでた奴もいる」

 

「うん」

 

「あと昔の資料が死ぬほどある」

 

真壁が紙の山を見る。

 

「死ぬほど、という表現に今日は反論できない」

 

奎星が吹き出した。

 

「真壁さんがそういうこと言うの珍し」

 

「笑うな」

 

斎賀がにやりとする。

 

「禍祓官、興味あるんだって?」

 

奎星の顔が止まる。

 

「何で知ってんの?」

 

「省内で話回ってる」

 

「早くない?」

 

「お前、有名人だから」

 

奎星の顔が少し嫌そうになる。

 

斎賀は笑った。

 

「まあ安心しろ」

 

「何が?」

 

「禍祓官になったら毎日格好よく敵と戦える、なんてことはねえ」

 

「さっき見た」

 

「だろ?」

 

「書類めっちゃあった」

 

「めっちゃある」

 

真壁が斎賀を見る。

 

「お前が言うと重みがない」

 

「俺も昔やってただろ」

 

「書類を俺へ回していた」

 

「適材適所」

 

「違う」

 

奎星が笑う。恋も小さく笑っていた。

 

真壁が額を押さえる。

 

「とにかく」

 

奎星を見る。

 

「見られるものは、よく見ておけ」

 

「うん」

 

「前にも言ったが、次にここへ来るなら事件以外にしてほしいとは思っていた」

 

奎星の顔が明るくなる。

 

「今日そうじゃん」

 

「ああ」

 

真壁も、ほんの僅かに口元を緩めた。

 

「ようやくだな」

 

「だろ?」

 

「だからこそ」

 

真壁の目が少し真剣になる。

 

「憧れだけで決める必要はない」

 

「うん」

 

「仕事は、外から見ているものと中から見るものでは違う」

 

その言葉は、御影とも、スズメとも、恋とも似ていた。

 

奎星は素直に頷く。

 

「分かってる」

 

斎賀が笑う。

 

「成長したなあ」

 

「何で斎賀が言うんだよ」

 

「年上だから」

 

「またそれ?」

 

真壁が書類を持ち上げる。

 

「話は終わりだ。仕事へ戻る」

 

「まだ夕方じゃないじゃん」

 

「だから仕事をしている」

 

奎星は机の紙を見る。

 

「真壁さん」

 

「何だ」

 

「今日何時に帰んの?」

 

真壁が黙った。

 

斎賀も黙った。

 

奎星は二人を見る。

 

「……禍祓官、ちょっと考えよ」

 

斎賀が吹き出す。

 

「今さらそこ?」

 

 

午後四時を回っていた。

 

奎星は中央広間の端に置かれた椅子へ座った。

 

「疲れた」

 

恋も隣へ腰を下ろす。

 

「どうだった?」

 

「魔法省?」

 

「うん」

 

奎星は少し考えた。

 

「思ってたより普通」

 

「またそれ?」

 

「いや、良い意味で」

 

頭上を折り鶴が飛ぶ。職員が走る。誰かが資料を抱える。転移扉が開き、また閉じる。

 

「もっと、すごい魔法使いが集まって、何でも魔法で解決してんのかと思ってた」

 

「実際は?」

 

「ずっと仕事してた」

 

恋が笑った。

 

「当たり前だよ」

 

「でもさ」

 

奎星は指を折る。

 

「転移門動かしてる人がいて、魔法生物守ってる人がいて、昔の記録残してる人がいて、災害調べてる人がいて」

 

「うん」

 

「禍祓官も、戦う以外めっちゃやってた」

 

「うん」

 

「真壁さんは死にそうだった」

 

「それは仕事紹介に入れないで」

 

奎星は笑った。

 

「何か」

 

少しだけ考える。

 

「前より分かった気がする」

 

「何が?」

 

「魔法省」

 

恋は頷いた。

 

「じゃあ、来た意味あったね」

 

「うん」

 

そのとき。

 

「ちょうど良かった」

 

声がした。

 

二人が振り向く。

 

後藤孝雄。

 

奎星が目を瞬く。

 

「また?」

 

「何が?」

 

「タイミング良くない?」

 

後藤は笑った。

 

「そうかな」

 

恋が腕時計を見る。

 

「後藤さん、会議じゃなかったんですか?」

 

「予定より早く片づいた」

 

「あ、そうなんだ」

 

後藤は奎星を見る。

 

「見学は終わった?」

 

「大体」

 

「なら、最後に少しだけ時間をもらえるかな」

 

「俺?」

 

「君に見てもらいたいものがある」

 

奎星は立ち上がった。

 

一週間前なら、その言葉だけで、何も考えずついていったかもしれない。けれど、一度だけ止まる。

 

「入っていいとこ?」

 

後藤が一瞬だけ目を瞬かせた。そして笑った。

 

「もちろん」

 

恋が吹き出す。

 

「あはは、烏丸先生の教育効いてる」

 

「スズメちゃんに書かれたから」

 

「何を?」

 

奎星は鞄からノートを取り出した。開く。

 

《勝手に立入禁止区域へ入らない》

 

後藤は声を上げて笑った。

 

「良い先生だ」

 

「みんなそれ言うな」

 

 

後藤の執務室は、奎星が想像していたより部屋自体は広くなかった。ただし、資料の量がおかしい。

 

壁際、棚、机、床。箱、箱、箱。いくつもの黒い封印帯が巻かれている。

 

《黒曜関連押収資料》

 

《神代冥司関連》

 

《照合済》

 

《未照合》

 

奎星の表情が変わった。

 

「これ」

 

「星帰り後の捜査で回収された資料だ」

 

後藤が答える。

 

「神代本人の研究室や、黒曜の環が使っていた各地の拠点から集められた」

 

奎星は箱を見る。

 

神代冥司。

 

古代魔術。

 

霊脈。

 

認識干渉。

 

マホウトコロそのものへ干渉した男。

 

ただ強かったのではない。

 

研究者だった。

 

後藤が一つの薄い資料箱へ手を置く。

 

「神代冥司は、かなり広い範囲の古代史料を集めていた」

 

「うん」

 

「その中に」

 

後藤が奎星を見る。

 

「君の家に関係するものがあった」

 

奎星の目が止まる。

 

「蓮根家?」

 

「そう」

 

封印を解除すると、銀色の光が消えた。蓋が開く。

 

後藤は一枚の古い紙を取り出した。

 

奎星が身を乗り出し、文字を読む。

 

「…………蓮根清弦」

 

知っている。忘れるはずがない。

 

百年以上前。

 

自分と同じ姓。

 

神代榊。

 

鬼火鳥の尾羽。

 

霊脈。

 

「清弦じゃん」

 

後藤が見る。

 

「知っているね」

 

「うん」

 

奎星は鞄へ軽く触れた。

 

「去年、校長先生に記録見せてもらった」

 

「神代榊について?」

 

「それと蓮根家」

 

「なるほど」

 

後藤は頷いた。

 

「マホウトコロ側にも、そこまでは残っていたわけだ」

 

「でも」

 

奎星は資料を見る。

 

「この人が何してたのかは、全然分かんなかった」

 

「そうらしいね」

 

後藤が別の封筒を取る。

 

「今回出てきたのは、その先だ」

 

封筒から一枚の古い写真を取り出し、机へ置く。

 

奎星は見る。

 

そして、固まった。

 

「…………」

 

恋も横から覗く。

 

「え」

 

写真は古く、色が褪せている。和装の上に外套をまとった若い男。黒い髪、真っ直ぐな眉、少し吊り気味の目、鼻筋、口元、立ち方。

 

奎星は写真を見る。自分の手を見る。また写真を見る。

 

「…………俺じゃん」

 

恋が吹き出した。

 

「違うでしょ」

 

「分かってるよ」

 

奎星は写真を手に取る。

 

「でも似すぎじゃね?」

 

「似てる」

 

恋も覗き込む。

 

「目とかすごい」

 

「俺こんな怖い顔してる?」

 

「黙ってたら、ちょっと」

 

「マジ?」

 

「喋ると全然違う」

 

「どういう意味?」

 

後藤は二人のやり取りを静かに見ていた。

 

奎星が写真を見る。

 

「蓮根清弦」

 

百年以上前、神代榊を握っていた男。

 

「何してた人なの?」

 

後藤の表情が、少しだけ真面目になった。

 

「まだ調査中だ」

 

最初にそう言った。

 

「神代の資料だけで確定させるつもりはない。記録局やマホウトコロ側の史料とも照合する必要がある」

 

「うん」

 

「そのうえで」

 

後藤は何枚かの写しを机へ並べた。

 

「かなり面白い人物だった可能性が高い」

 

「面白い?」

 

「時代は幕末から明治初期」

 

奎星の眉が僅かに動く。

 

そこは、魔法史でも習った。一般社会の大きな変化。それに伴う日本魔法社会の再編。各地に存在していた組織や術者集団が整理され、現在の日本魔法省へ繋がっていった時代。

 

後藤が一枚の記録を示す。

 

「当時、日本各地では古い結界や術式体系の崩れによって、妖魔や魔法生物に関係する被害が増えていた」

 

古い記録。地名。日付。術者の名。

 

その中に、蓮根清弦。

 

「清弦は、複数の地域で鎮圧や救助に参加した記録がある」

 

別の紙。

 

「同じ頃、海外から現在の杖術へ繋がる体系が本格的に入ってきた」

 

奎星が顔を上げる。

 

「今の魔法?」

 

「今、君たちが学校で習っている魔法の基礎になるものだ」

 

杖、呪文、一定の動作、魔力制御。誰か一人にしか使えない術ではなく、手順を学び、練習すれば、別の人間も再現できる魔法。

 

「神代の集めた資料には」

 

後藤が古い手記の写しを開く。

 

「清弦が、その体系を日本の術者へ教える側にいたことを示す記述が複数ある」

 

「清弦が?」

 

「ああ」

 

奎星の目が少しずつ真剣になる。

 

「ただ、海外の術をそのまま持ち込んだわけではなさそうだ」

 

後藤は別の頁を指す。

 

「日本に古くから残っていた術式」

 

一つ。

 

「妖怪や魔法生物との関係」

 

一つ。

 

「霊脈」

 

奎星の目が動く。

 

「地域ごとに違う魔法文化」

 

後藤は続けた。

 

「新しいものへ全部置き換えるのではなく、共存させる方法を探していたように見える」

 

奎星は写真を見る。

 

自分によく似た男。

 

百年以上前。

 

鬼火鳥の尾羽を芯に持つ神代榊を握っていた。

 

妖魔に関わる事件へ出て、新しい魔法を広め、霊脈を調べ、日本魔法社会が大きく形を変える時代にいた。

 

「……すげえじゃん」

 

「そうだね」

 

後藤は写真へ視線を落とした。

 

「まだ表現は慎重に選ぶ必要がある」

 

一拍。

 

「だが、確認が取れれば」

 

奎星を見る。

 

「英雄と呼んでも、大げさではないと思っている」

 

奎星が目を瞬いた。

 

「英雄?」

 

「そう」

 

「清弦が?」

 

「蓮根清弦が」

 

奎星はしばらく写真を見ていた。

 

「へえー……」

 

恋が奎星を見る。

 

「反応それ?」

 

「いや、すげえと思ってるよ」

 

「もっと驚かない?」

 

「驚いてる」

 

「先祖が歴史に残る人かもしれないんだよ?」

 

「でも」

 

奎星は写真を見る。

 

「俺、会ったことねえし」

 

「そりゃそうだけど」

 

「百年以上前だろ?」

 

「そうだけど」

 

「じゃあ」

 

奎星は何でもないことのように言った。

 

「清弦がすごかったんだろ?」

 

後藤が奎星を見る。

 

数秒。

 

「他人事だね」

 

「だって俺がやったわけじゃないじゃん」

 

即答だった。

 

「俺が褒められるのおかしくね?」

 

後藤は少しだけ目を細めた。やがて笑う。

 

「そうだな」

 

「うん」

 

「その通りだ」

 

奎星はまた写真へ目を落とした。

 

「でも」

 

「うん?」

 

「何で、そんなすごいなら知られてないの?」

 

「そこは、まだ分からない」

 

後藤は正直に答えた。

 

「功績自体は、別々の記録へ断片的に残っている」

 

妖魔鎮圧、術式の指導、霊脈調査、地方の術者との記録。

 

「ただ、それらが一人の人物へ繋がっていると分かる資料がほとんど残っていない」

 

「何で?」

 

「失われたのかもしれない」

 

後藤は言う。

 

「単純に整理されなかったのかもしれない。あるいは、別の理由があるのかもしれない」

 

「分かんない?」

 

「分からない」

 

後藤は箱を見る。

 

「神代冥司は、そこをかなり調べていた」

 

「神代が?」

 

「ああ」

 

蓮根家、神代榊、鬼火鳥、霊脈、古代魔術。それらを追う過程で、清弦へ辿り着いた。

 

「けれど、少なくとも確認できた範囲では、この研究を公表してはいない」

 

奎星が少し嫌そうな顔になる。

 

「自分で持ってた?」

 

「結果的にはね」

 

「神代らしいな」

 

後藤は何も言わなかった。少しだけ資料を見つめ、そして言った。

 

「だから」

 

奎星が後藤を見る。

 

「私は、これをきちんと調べ直したいと思っている」

 

「うん」

 

「確認できたものは、魔法社会へ公開する」

 

「清弦のこと?」

 

「そう」

 

後藤は机の上の資料へ指を置いた。

 

「今の日本魔法社会が、どう作られてきたのか」

 

古い記録。

 

「そこに、どんな人間がいたのか」

 

写真。

 

「何をして」

 

手記。

 

「何を残したのか」

 

奎星の頭へ、数日前のスズメの声が浮かんだ。

 

昔の人が。

 

何を考えて。

 

何をして。

 

何を間違えたのか。

 

それを残せば。

 

未来の人が、同じ失敗をしなくて済む。

 

奎星は写真を見る。

 

「良いじゃん」

 

恋が横を見る。

 

後藤も見る。

 

「いいのか?」

 

「何が?」

 

「君の家に関わる話だ」

 

「うん」

 

「公開すれば」

 

後藤は少しだけ言葉を選ぶ。

 

「当然、現在の蓮根家との関係も話題になる」

 

奎星は少し考えた。

 

「俺のことも?」

 

「おそらく」

 

「別にいいんじゃね?」

 

「そうか」

 

「だって」

 

奎星は写真を机へ戻す。

 

「本当にすごいことしたなら、ちゃんと名前残したほうがいいだろ」

 

後藤の目が、ほんの僅かに細くなった。

 

「そう思うか」

 

「うん」

 

奎星は笑った。

 

「清弦がやったことなんだから」

 

自分ではない。先祖が何をしていたとしても、それは先祖の人生だ。奎星にとっては、それ以上でも、それ以下でもなかった。

 

「一個だけ」

 

奎星が写真を指す。

 

「これ、写しもらえる?」

 

後藤が少し驚く。

 

「写真?」

 

「うん」

 

「構わないが」

 

「ばあちゃんに見せたい」

 

実家にある、祖母の写真。

 

何か答えてくれるわけではない。それでも、見せたいと思った。

 

「それと」

 

奎星は笑う。

 

「スズメちゃんにも」

 

恋が少し笑った。

 

「烏丸先生、絶対食いつくね」

 

「だろ?」

 

「魔法史の先生だもん」

 

後藤も微笑む。

 

「用意しておくよ」

 

「ありがとうございます」

 

後藤の眉が少し上がる。

 

奎星が気づく。

 

「何?」

 

「いや」

 

「何すか」

 

「ちゃんとお礼も言えるんだなと思って」

 

「俺を何だと思ってんの?」

 

「蓮根奎星」

 

奎星が固まった。

 

恋が吹き出す。

 

「あはは! 今日二人目!」

 

「何でそれ流行ってんの?」

 

 

魔法省を出た頃には、霞が関の空は少しずつ夕方の色へ変わり始めていた。スーツ姿の人々が駅へ向かって歩いている。

 

奎星は鞄を肩へ掛け直した。

 

「疲れたー」

 

恋が横を歩く。

 

「楽しかった?」

 

「うん」

 

「一番気になったのは?」

 

「うーん」

 

禍祓官、記録局、災害対策、魔法生物。いくつも浮かぶ。

 

「まだ分かんない」

 

恋が笑った。

 

「それでいいよ」

 

「また?」

 

「また」

 

奎星も笑った。

 

数歩歩いてから、奎星が言う。

 

「でも」

 

「何?」

 

「魔法省、前よりちょっと好きになった」

 

「お」

 

「取調室以外もあるって分かった」

 

「そこからだったもんね」

 

「後藤さんも話しやすかったし」

 

恋が少し笑う。

 

「後藤さん、仕事できるからね」

 

「そうなの?」

 

「すごいよ」

 

「へえ」

 

「星帰りのあとなんて、省内めちゃくちゃだったらしいから」

 

人員、権限、疑い、調査、止められない通常業務。その全部が一度に重なった。

 

「後藤さんが入ってから、かなり整理されたって聞いた」

 

「判断外さない人なんだろ?」

 

「もう聞いたの?」

 

「さっき職員が言ってた」

 

「有名になってるなあ」

 

恋は特に不思議そうでもなく笑った。奎星も、それ以上は気にしなかった。

 

「俺のことちゃんと普通に見てくれた感じした」

 

「普通?」

 

「英雄だからとか」

 

奎星は前を向く。

 

「強いからとか、日本救ったからとか。それで将来決めろって言わなかったじゃん」

 

「うん」

 

「だから、話しやすかった」

 

君の未来は、君が決めればいい。

 

その言葉が、奎星には素直に嬉しかった。

 

恋が訊く。

 

「じゃあ、次どこ見たい?」

 

「魔法省以外?」

 

「もちろん」

 

奎星は少し考える。

 

「研究の仕事」

 

「いいね」

 

「古代魔術の」

 

「探しとく」

 

「あと魔法生物」

 

「岳君と一緒に見る?」

 

「それいいな」

 

「先生は?」

 

奎星が笑う。

 

「毎日見てる」

 

「あはは、確かに」

 

普通の官庁街。

 

普通の夕方。

 

普通の人波。

 

その中を、十八歳の少年と、その進路相談を担当する女性が歩いていく。

 

今日、進路は決まらなかった。

 

禍祓官になるとも、研究者になるとも、魔法省へ入るとも決めていない。

 

けれど、見たいものは増えた。仕事の名前も増えた。

 

そして、知らなかった先祖の名前に、少しだけ輪郭が増えた。

 

蓮根清弦。

 

百年以上前。

 

神代榊を持っていた男。

 

奎星によく似た顔で、自分とはまったく別の人生を生きた人間。

 

「英雄かぁ」

 

奎星がぽつりと呟く。

 

恋が見る。

 

「やっぱ気になる?」

 

「ちょっと」

 

「実感ない?」

 

「全然」

 

奎星は笑った。

 

「だって俺じゃねえもん」

 

「奎星君らしいね」

 

「そう?」

 

「うん」

 

二人は、そのまま駅へ続く人波の中を歩いていった。

 

 

同じ頃。

 

日本魔法省地下庁舎、後藤孝雄の執務室。

 

先ほどまで三人が囲んでいた机には、蓮根清弦の写真が残されていた。その横には一枚の書類。

 

《蓮根清弦関連史料 公開調査準備》

 

後藤は羽根筆を走らせる。

 

《記録局照合》

 

《マホウトコロ史料照会》

 

《一般公開範囲検討》

 

最後に、

 

《蓮根家系資料との照合》

 

そこへ印をつけた。

 

扉が叩かれる。

 

「どうぞ」

 

若い職員が顔を出す。

 

「後藤統括官。明日の対策本部会議についてですが」

 

「資料はB案で進めてくれ」

 

職員が止まった。

 

「B案、ですか?」

 

「ああ」

 

「まだ各局の回答が揃っていませんが」

 

後藤は書類から顔を上げなかった。

 

「問題ない」

 

「ですが、回答次第ではA案へ戻す可能性も」

 

「戻さなくていい」

 

声は穏やかだった。

 

職員は一瞬だけ迷う。

 

けれど、

 

「……分かりました」

 

と頭を下げ、扉を閉めた。

 

静かになった。

 

後藤はようやく羽根筆を置いた。

 

机には、百年以上前の男、蓮根清弦。その隣には、今日の臨時入庁者記録、蓮根奎星。

 

後藤は二枚へ一度だけ目を落とす。

 

それから、清弦の写真を資料箱へ戻した。奎星の入庁記録も閉じる。

 

何事もなかったように、次の書類へ手を伸ばした。

 

その日の魔法省も、いつもと変わらず、何百羽もの折り鶴が飛び、何百人もの人間が働き、地上では何も知らない人々が霞が関を行き交っていた。

 

そして、蓮根奎星はまだ、今日会った男を、ただの話しやすい魔法省の偉い人だと思っていた。

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