二〇二七年六月三日、放課後。
「では、改めて確認しよう」
マホウトコロ第一会議室で、真壁征士郎は机の上へ一冊の薄い記録を置いた。
部屋にいるのは、九重院紫苑、御影玄一郎、烏丸スズメ、そして真壁の四人だった。
昨日の夕方、真壁は九重院と御影、スズメへ、神代冥司の拠点から押収されたはずの一つの魔法具が消えていることを伝えていた。
《K-417》
真鍮製の小型時計で、複数の環状構造を持ち、中央には小さな砂時計が収められている。英国魔法省から届いた回答によれば、それと酷似した魔法具は《逆転時計》と呼ばれているらしい。
「烏丸先生」
「はい」
真壁がスズメを見る。
「逆転時計について、どこまで知っている?」
「どの型ですか?」
真壁が止まった。
「…………型?」
「はい」
スズメは真顔だった。
「通常型と、英国で二〇二〇年に確認された長距離遡行型では、扱いがかなり違います」
御影が腕を組んだまま横目でスズメを見る。九重院も、わずかに目を細めた。
「すでに詳しそうだな」
真壁が言う。
「時間魔法は魔法史上でも特殊な分野ですから」
「調べたことが?」
「あります」
「いつだ」
「二〇二〇年です」
「事件当時?」
「はい」
真壁の眉が上がった。
「君、当時まだ学生だろう」
「学生でも本は読めます」
「そういう問題じゃない」
御影が低い声で言った。
「烏丸は昔からそうだ」
「御影先生」
「十四歳で俺のところへ質問を三十個持ってきた」
「今その話は関係ありません」
「ある意味、関係はあるな」
真壁が少し笑った。
「続けてくれ」
スズメは机の上の英国魔法省資料へ手を伸ばした。
「元々、英国では時間魔法そのものが非常に厳しく管理されています」
紙を一枚めくりながら、彼女は説明を続けた。
「一般に《逆転時計》と呼ばれているものは、小型の砂時計の中へ時間逆行魔法を封じた魔法具です。通常型の場合、戻れるのは数時間程度。五時間を超える大幅な遡行は、使用者だけでなく、時間そのものへ重大な損傷を与える可能性があるとされていました」
「時間そのものに損傷?」
九重院が尋ねる。
「表現としては、そう記録されています」
「具体的には?」
「そこが問題で」
スズメは一度、資料を閉じた。
「英国の時間魔法研究は、現在でも大半が機密です」
「神秘部か」
真壁が言う。
「はい」
スズメが頷く。
「英国魔法省の神秘部では、かなり昔から時間そのものが研究対象になっています。逆転時計も元々はそこで管理されていました。使用には魔法省の特別許可が必要です」
「普通の魔法使いが買えるようなものではない?」
「当然です」
「学生が使った記録があると聞いた」
「あります」
真壁が少し身を乗り出した。
「現英国魔法大臣」
スズメが言う。
「ハーマイオニー・グレンジャーです」
「大臣本人か」
「学生時代、ホグワーツで複数の授業を同時に履修するため、教師の申請によって魔法省から特例で貸与されています」
九重院の目が少し丸くなる。
「授業のために?」
「はい」
「随分と……」
九重院は何と言うべきか迷ったらしい。
「勉強熱心な方だったのですね」
「相当だと思います」
スズメの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
御影が横を見る。
「嬉しそうだな」
「何がですか」
「似た人間の話だからだろ」
「違います」
「否定が早いな」
「話を戻してください」
真壁は口元をわずかに緩めながら、資料へ視線を戻した。
「つまり、昔は教育目的でも使われていた?」
「《昔は自由だった》という意味ではありません」
スズメがすぐに訂正する。
「当時から例外中の例外です。許可には複数の審査が必要でしたし、使用者にも厳しい守秘義務が課されていたとされています」
「なるほど」
「その後、英国魔法省が保有していた逆転時計の大半は、神秘部での戦闘によって失われています」
「では」
九重院が尋ねる。
「二〇二〇年の時計は、どこから?」
「そこです」
スズメの指が資料の一か所へ落ちた。
「従来型ではありません」
真壁の目が動く。
「二〇二〇年に問題になったのは、正規に管理されていた旧型ではなく、独自に製作された特殊型です」
「製造者は?」
「英国側の資料では伏せられていました。ただ、従来の構造を大幅に変更したものだったことは公表されています」
「何が違う」
御影が訊いた。
「距離です」
「距離?」
「時間の」
スズメは自分の前へ紙を一枚置き、羽根筆を取った。紙の上へ一本の線を引き、右端に《現在》と書く。そこからごく短い距離だけ左へ印をつけた。
「通常の逆転時計を、仮にここだとします。戻れるのは数時間前まで」
「分かる」
「二〇二〇年の特殊型は」
今度は、紙の左端近くまで線を引いた。
「これくらいです」
真壁が線を見る。
「そこまで違うのか」
「年単位です」
「…………」
「さらに問題なのは、戻れる時間の長さではありません」
スズメの羽根筆が止まる。
「過去に介入できることです」
「ちょっと待て」
御影が言った。
「はい」
「普通の逆転時計も、過去へ行くなら介入はできるんじゃないのか」
九重院が尋ねる。
「理論上は」
スズメは少し考えながら答えた。
「ただ、従来型は短時間の遡行を前提として設計され、使用者側にも《過去の自分や既知の出来事へ不用意に接触しない》ことが強く求められていました」
「しかし特殊型は違う」
「はい」
スズメはもう一本、線を引いた。
「二〇二〇年の事件では、過去の一つの出来事へ人為的な変更を加えたことで、帰還後の現在そのものが変化しています」
九重院の目が細くなる。
「人が死ぬ?」
「可能性はあります」
「生き返る?」
「可能性はあります」
「国が変わる?」
「理論上は」
「人間関係も?」
「実際に変化した記録があります」
会議室が静かになった。窓の外では、六月の夕方の光が少しずつ色を落としている。
「その事件を受けて」
スズメは続けた。
「英国では、元々厳しかった時間魔法規制がさらに細分化されています。特に《長距離時間遡行》《過去事象への能動的干渉》《複数時点への連続移動》が可能な魔法具については、通常の逆転時計とは別の危険物として扱われるようになりました」
「国外にも通達が?」
「はい。日本魔法省にも来ています」
「それを読んだ?」
「後に」
「後に?」
「魔法省記録局にいた頃です」
「ああ」
真壁が納得する。
スズメは卒業後、教師になる前に一度、魔法省記録局へ勤めている。
「学生の頃は、どこまで調べた」
「公開情報だけです」
「それでも今の半分以上知ってそうだな」
「気になったので」
「何がだ」
御影が訊く。
「学生が時間を戻して授業を受けていたことが」
「そこ?」
真壁が思わず聞き返した。
「はい」
スズメは真顔だった。
「同じ時刻に三つの授業を受ける必要がある時間割を、そもそも学校側が許可したことも気になりました」
「そっちか」
「あと、課題提出時刻の扱いがどうなるのかも」
「烏丸」
御影が額を押さえた。
「何ですか」
「もういい」
「まだありますが」
「いい」
真壁が小さく笑った。
「試しに聞いてみただけだったんだがな」
一度、スズメを見る。
「詳しすぎて驚く」
「そうですか?」
「そうだ」
「普通です」
「普通ではない」
真壁が即座に返す。
九重院は楽しそうに二人を見たあと、机の中央に置かれたK-417の記録へ目を落とした。
「では」
声が少し真面目になる。
「烏丸先生」
「はい」
「これが、その二〇二〇年の特殊型と同じものだと仮定します」
「はい」
「何が一番の問題になりますか?」
真壁の表情も変わった。御影も腕を組み直す。
スズメはすぐには答えなかった。机の上にある三種類の記録を見た。
《第一次押収目録》
《搬送記録》
《証拠品保管台帳》
K-417が存在するのは、最初の一枚だけだった。現場では確認されている。輸送時にはない。魔法省にもない。
普通なら、考えることは一つだった。
どこで盗まれたのか。現場から搬送車までの間に、誰が触ったのか。誰が運び、誰が番号を確認し、誰が箱を閉じたのか。その中の誰かを追えばいい。
「……たぶん」
スズメが静かに言った。
「そこではありません」
「何がだ」
真壁が訊く。
「問題です」
スズメは第一次押収目録を指した。
「真壁さんは、K-417が《どこで奪われたか》を調べていますよね」
「ああ」
「ですが」
スズメは少し眉を寄せた。
「それが、もう正しい問いなのか分かりません」
真壁の目が細くなる。
「どういう意味だ」
「もし、これが普通の魔法具なら」
スズメは先ほど引いた線へ、新しい文字を書いた。
《六月一日》
《六月二日》
《六月三日》
「六月一日に神代の施設から発見され、六月二日に輸送された。その途中で盗まれたのなら、六月一日から二日の間を調べればいい」
六月一日の下へ丸をつけ、六月二日へ×印をつける。
「ですが」
羽根筆が、六月三日から六月一日へ戻る矢印を描いた。
「犯人が六月三日に時計を使ったら?」
「…………」
「六月一日へ戻ります」
九重院が紙を見る。
「自分が時計を盗む前へ?」
「はい」
「その時点で」
真壁が低く言う。
「盗み方を変えられる」
「それだけではありません」
スズメの声が少しずつ硬くなる。
「そもそも、現場でK-417が記録されないようにすることもできます。目録を作った職員が、その箱を見る前に別の場所へ移す。番号を振る人間を変える。搬送経路を変更する。神代の拠点へ入る順番を変える」
「待て」
御影が言った。
「なら、この記録は」
第一次押収目録。K-417。
「残らないはずだ」
「そうです」
スズメが頷く。
「完全に変更できたなら」
「だが残っている」
「はい」
「なら、まだ使われていない?」
「それも分かりません」
「…………」
御影の眉間に皺が寄った。
「どういうことだ」
「今、私たちが見ているこの記録自体が」
スズメは紙を見下ろした。
「すでに変更された結果かもしれないからです」
沈黙が落ちた。
「分かりません」
九重院が素直に言った。
「私もです」
真壁が少しだけ笑った。
「烏丸先生」
「はい」
「もう少し簡単に頼む」
スズメは困った顔をした。
「十分簡単にしたのですが」
「してない」
御影が言った。
「では」
スズメは新しい紙を一枚取り出した。
「仮に」
中央へ大きく《A》と書く。
「最初の時間をAとします」
「はい」
九重院が頷く。
「Aでは、犯人がK-417を盗みます。私たちが調査し、犯人を特定して、捕まえに行く」
紙の上へ《盗む》《調査》《発見》《逮捕》と順に書いていく。
「分かりやすい」
「ここで」
スズメは《逮捕》の横から、一本の矢印を過去へ戻した。
「犯人が逆転時計を使います」
「逃げるために」
「はい」
「どこへ?」
「例えば、私たちが犯人を特定する前です」
矢印の先へ《B》と書く。
「ここで犯人が、自分が疑われる原因になった行動を変えます。証拠を消してもいい。目撃者と会わないようにしてもいい。別の者に盗ませる、別の場所へ時計を隠す、調査対象から外れるようにする。方法はいくらでもあります」
「すると」
真壁が紙を見る。
「俺たちは捕まえられない」
「違います」
スズメが言った。
「私たちは」
一拍置いてから、静かに続ける。
「《捕まえようとしたこと》自体を覚えていません」
真壁の目が止まった。御影も黙る。
「時間がAからBへ変わった時点で、この時間はなくなります。私たちは最初からBを生きてきたことになる」
九重院がゆっくり口を開く。
「つまり」
「はい」
「私たちからすれば」
「何も変わっていません」
「…………」
「昨日まで知っていた人を忘れる、というような変化ではありません。最初から知らなかったことになります」
その言葉に、ほんの一瞬だけ、奎星の記憶を失った自分自身のことがスズメの中を横切った。けれど、彼女はすぐにその記憶を押し込める。
真壁が椅子へ背を預けた。
「厄介だな」
「はい」
「いや」
真壁は一度目を閉じた。
「厄介なんてものじゃない」
もう一度、紙を見る。
「仮に私が明日犯人へ辿り着いたとして、そいつが今日へ戻れば」
「明日の真壁さんは存在しない可能性があります」
「私が死ぬ?」
「そういう意味ではありません」
「分かっている」
「真壁さんが《犯人へ辿り着いた明日》がなくなります」
「…………」
御影が腕をほどいた。
「追うたびに戻られたら?」
「そのたびに、別の現在になります」
「何回でも?」
「時計の制限が分かりません」
「二〇二〇年の型は」
「使用できる時間、回数、滞在時間に制約があったという記録はあります。ただし、K-417が同じ仕様とは限りません」
「改良されている可能性も」
九重院が言う。
「あります」
「悪化している可能性も?」
「あります」
「壊れている可能性も?」
「あります」
「もう使われている可能性は?」
「あります」
「まだ一度も使われていない可能性は?」
「あります」
九重院はしばらく黙った。そして、綺麗に諦めたように尋ねる。
「つまり?」
スズメも数秒黙った。どう説明しても、結論は同じだった。
「逆転時計を使う犯人を、普通の方法で捕まえるのは、ほぼ不可能ということです」
会議室の空気が重くなる。
「私たちが見つける前に時間を戻されれば、余裕で逃げ切られます。もっと問題なのは、逃げられたという認識すら、私たちには残らないことです」
真壁は何も言わない。
「調査が失敗した、とも思いません」
「なぜだ」
「失敗した調査自体がなくなるからです」
「…………」
「犯人を見つけたのに逃がした、でもない。最初から見つけていない」
「はい」
真壁が額へ手を当てた。
「最低だな」
「時間魔法が厳しく規制される理由です」
御影が机の上の押収目録を見る。
「なら、今、どの程度悪用されている」
「分かりません」
「何を変えられた」
「分かりません」
「誰が持っている」
「分かりません」
「何のために持っていった」
「分かりません」
「使用した痕跡は」
「通常の魔法残滓なら調べられます。ただ」
「時間が戻れば」
「痕跡が残る前へ戻れます」
御影が黙った。
スズメは紙を一枚ずつ重ね、最後に小さく息を吐いた。
「どのように悪用されているのかすら分かりません。現状、他に適切な表現がありません」
彼女は一度、全員を見た。
「お手上げです」
九重院が珍しく、明らかに困った顔をした。
「烏丸先生からその言葉を聞くとは思いませんでした」
「私も言いたくありません」
「何かないのか」
御影が訊く。
「改変前の記憶を残す方法」
「理論上は研究されています」
「実用化は」
「知る限りありません」
「時間の影響を受けない場所」
「知る限りありません」
「物は?」
「分かりません」
「守護霊」
「精神魔法です。時間魔法への耐性は確認されていません」
「霊脈」
九重院が言う。
スズメが考える。
「時間と霊脈の関係を扱った研究はありますが、少なくとも《過去改変を記憶できる》というものではありません」
「神代榊は?」
一瞬、全員が黙った。その杖を持つ人間の顔が、ほぼ同時に浮かんだ。
スズメが首を横へ振る。
「分かりません」
「反応する可能性は?」
「根拠がありません」
「そうだな」
真壁が言った。
「今の段階で、何でも蓮根君へ繋げるのは危険だ」
御影がわずかに頷く。
「本人に話すのは?」
「まだ早い」
真壁は即答した。
「そもそも何が起きているのか、こちらが説明できない」
「本人に聞かせても」
九重院が少し笑った。
「途中から分からなくなるでしょうね」
「最初からだろ」
御影が言う。
「失礼ですよ」
スズメが反射的に返す。
「お前も昨日、魔法史十二頁で三回説明してただろ」
「それとこれとは別です」
「同じだ」
「違います」
真壁は二人のやり取りを聞きながら、もう一度紙へ視線を落とした。
A。B。消える現在。存在しなかったことになる追跡。記憶に残らない逃亡。
「どうしたものかな……」
真壁がぽつりと呟いた。
「せめて」
冗談とも本気ともつかない声で続ける。
「そういうものに気づける、規格外のやつでもいればいいんだが」
その瞬間。
「広報撮影ぇ!?」
廊下の向こうから、大声がした。
四人の動きが止まる。
「何で今日って言ってくんねえんだよ! 髪型整えてくるわ!」
「蓮根君! 走らない!」
「五分で戻る!」
「廊下走らない!」
「じゃ早歩き!」
「それ走ってる!」
ばたばたばたばたばた、と足音が近づき、会議室の前をものすごい速度で通過していった。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
足音が遠ざかる。
真壁はゆっくり御影を見た。御影も真壁を見る。
「何か言ったか?」
「…………いや」
「忘れてくれ」
結局、その日、逆転時計について新しい答えが見つかることはなかった。
*
二〇二七年六月四日、朝。
「東京!」
大食堂で、奎星が声を張り上げた。
「声でけえ」
日向が味噌汁を飲みながら顔をしかめる。
「今日俺東京行く!」
「知ってるよ!」
「魔法省!」
「昨日から十回聞いた!」
「見学!」
「十一回目!」
奎星は全く気にせず朝食を食べていた。
昨日の広報用試し撮りは、結局学校内で数枚撮っただけで終わった。本人は「もっと英雄っぽい背景で撮りたい」と言っていたが、撮影術師から「今日は光量確認です」と止められている。
そして今日、本格的な進路支援の一環として、奎星は魔法省へ見学に行くことになっていた。
「三時間目まで授業受けて」
奎星が指を一本立てる。
「昼前に転移門」
二本。
「東京着いたら坪田先生と飯」
三本。
「そのあと魔法省」
四本。
「夕方帰る」
五本。
「完璧」
「何が?」
楓が訊く。
「予定」
「坪田先生が立てた予定でしょ」
「俺が覚えてんの偉くない?」
「十八歳なら普通」
「厳しいな」
「ランチどこ行くの?」
日向が身を乗り出した。
「知らん」
「東京だろ?」
「おう」
「何食う?」
「知らん」
「専任の美人先生と二人で?」
「そう」
日向の箸が止まった。
「何」
「お前さ」
「何」
「最近人生楽しすぎね?」
「楽しい」
「ムカつく」
「何でだよ」
「俺も行きてえ!」
「進路相談しろよ」
「俺はクィディッチあるし」
「じゃいいじゃん」
「でも東京行きたい!」
「休日行けよ」
「授業潰して行くからいいんだろ!」
「目的変わってんじゃん」
伊織が静かに口を挟む。
「見学だから授業を休むんじゃなくて、見学自体が進路教育なんだよ」
「分かってるよ」
日向は言った。
「建前は」
「建前じゃない」
「三時間目までってことは」
奎星が顔を上げた。
「午後の授業ないんだよな」
「ほら」
「同類」
「だってそこは嬉しいじゃん」
「昨日、教師もいいかもって言ってた人が」
「先生だって授業なくなったら嬉しいだろ」
「聞いてみれば?」
「スズメちゃんに?」
「やめときなさい」
楓が即座に止めた。
「課題増えるわよ」
「何で?」
「あなたの場合は増えるの」
岳が顔を上げる。
「飯」
「ん?」
「何食べる」
「まだそこ?」
「東京」
「うん」
「美味い店ある」
「あるだろ」
「何」
「知らん」
「調べてないのか」
「魔法省見学なんだよ!」
「でも昼食べる」
「食べる」
「重要」
「お前、俺の進路より今日の昼の方が興味あるだろ」
岳は少し考えた。
「うん」
「即答!」
日向が笑う。
「お土産!」
「何で買ってくんの?」
「東京行くから」
「お前も東京住んでただろ!」
「魔法界の東京だよ」
「八咫小路なら何回も一緒に行ったじゃん」
「霞が関の魔法省土産」
「そんなのあんの?」
「役所饅頭とか」
「なさそう」
「魔法省せんべい」
「誰が買うんだよ」
「岳」
「買う」
「いるじゃん!」
伊織が眼鏡を押し上げる。
「魔法省の広報売店なら、局章入りの文具くらいはあるかもね」
「マジ?」
奎星が反応する。
「じゃ買ってこよ」
「自分用?」
「うん」
「英雄が自分の勤務候補先のグッズ買うの?」
「まだ勤務しねえよ」
「第一希望、禍祓官なんだろ?」
日向が言った。
奎星の手が一瞬止まった。
「何で知ってんの?」
「昨日見えた」
「どこで?」
「教科書に挟んでた」
「見るなよ!」
「第二希望教師だった」
「お前!」
「本当?」
楓が目を丸くする。
「教師?」
岳も見る。伊織まで本から顔を上げた。
「昨日言ってなかったね」
「決めたわけじゃねえよ!」
奎星は慌てた。
「一応書いただけ!」
「教師?」
日向がもう一度言う。
「何だよ!」
「お前が?」
「何だよ!」
日向は奎星が教壇に立つ姿を想像した。
「無理じゃね?」
「てめぇ!」
「授業中、一番うるさい側だぞ」
「先生になったら静かになる」
「絶対ならない」
「なる」
「生徒と一緒に先生の悪口言いそう」
「言わねえよ」
「御影先生のは?」
「言う」
「ほら!」
「御影先生だからいいんだよ!」
「何か言ったか?」
背後から低い声がした。
奎星の動きが止まり、日向も止まる。五人がゆっくり振り返ると、御影が立っていた。
「おはようございます」
伊織だけが自然に挨拶した。
「ああ」
「…………おはようございます」
奎星も少し遅れて言う。
「聞いてた?」
「何をだ」
「ならいい」
「朝練、明日は十分早める」
「聞いてんじゃん!」
「英雄なら余裕だろ」
「英雄関係なくね!?」
御影はそのまま教師席へ向かった。日向が肩を震わせている。
「笑うなよ」
「教師向いてるじゃん」
「どこが!」
「生徒と一緒に御影先生に怒られる」
「教師側に行けてねえだろ!」
いつもの朝だった。ただ、教師席側では少し違う会話が行われていた。
*
「本日は三時間目終了後に学校を出ます」
坪田茜が教師席で予定表を広げた。
「マホウトコロの転移区画から霞が関の魔法省転移区画へ。到着は十一時四十分前後の予定です」
「直接魔法省へ入るのですか?」
土御門が尋ねる。
「はい。今回、見学申請が通っていますので」
「昼食は?」
薬師寺が訊く。
「到着後に一度外へ出ます」
「外?」
「せっかく東京まで行くので」
茜が笑う。
「蓮根君と二人でランチを食べてから、午後一時に魔法省へ戻る予定です」
その瞬間、かち、と小さな音がした。スズメの箸が止まっていた。
土御門の目が、ゆっくり隣へ動く。
スズメは味噌汁を見ている。
土御門が、にこっ、と笑った。
スズメの目だけが横へ動く。
「何ですか」
「何がですか?」
「今笑いました」
「いつも笑っていますよ」
「今のは違います」
「そうでしょうか?」
「違います」
「ふふ」
「笑わないでください」
茜は気づかず話を続けている。
「食事しながら、昨日書いてもらった進路希望について少し話して、そのあと省内を回ります。魔法法執行局、災害対策局、それから可能なら監察局も」
「監察局まで?」
高宮が訊く。
「真壁監察官が時間を作ってくださるそうです」
「本人が?」
「はい」
「随分手厚いですね」
「後藤さんがかなり話を通してくれているみたいで」
茜は予定表を確認する。
「そのあとは広報部門。昨日の撮影の続きも少しだけします」
「撮影」
早瀬が苦笑する。
「昨日、廊下走ってたぞ」
「すみません」
「坪田先生が謝ることではありません」
高宮が深く息を吐いた。
「蓮根が廊下を走るのは、もう坪田先生の責任ではありませんから」
「もう?」
茜が聞き返す。
「昔からです」
「そんなに?」
「坪田先生」
高宮の顔が真面目になる。
「一つだけ」
「はい」
「彼は突拍子もないので、気をつけてくださいね」
茜が瞬きをする。
「突拍子もない?」
「はい」
「蓮根君が?」
教師席の何人かが、同時に茜を見た。
「え」
茜が周囲を見る。
「何ですか、その反応」
「坪田さん」
早瀬が言う。
「まだ三日だろ?」
「そうですけど」
「分からんか」
「明るい子だなとは」
「それだけ?」
「素直ですし」
高宮が御影を見る。御影は味噌汁を飲んでいた。
「御影先生」
「何だ」
「何か言ってください」
「何をだ」
「蓮根です」
「面倒だ」
「ほら」
高宮が茜へ向き直る。
「今ので分かるでしょう」
「分かりませんよ!」
茜が笑った。
「具体的に何したんです?」
「どこから話す?」
早瀬が言う。
「最初からでいいでしょう」
高宮が答えた。
「入学初日、魔力量を測る水晶を壊しました」
「それは聞きました」
「二つ」
「二つ!?」
「二つ目です」
スズメが訂正した。
「最初の水晶では測定限界を超えて、正式な測定用へ交換して、それも」
「割れた」
御影が言った。
「壊したというより、壊れたんです」
スズメが言う。
「本人のせいではありません」
「庇うな」
「事実です」
「でも、その日の夕方には俺の訓練場で人形飛ばした」
「それは本人のせいです」
スズメは即座に切り替えた。
「早いな」
「事実です」
茜が笑い始める。
「他には?」
「飛行術」
早瀬が言った。
「嫌な予感しますね」
「朝比奈と空で喧嘩した」
「喧嘩?」
「飛びながら」
「飛びながら!?」
「煽り合いだ」
早瀬は遠い目をした。
「朝比奈が『地上で勝負しろ』って言って、蓮根がさらに煽って、二人とも速度を上げて」
「それで?」
「壁にぶつかった」
「…………」
「しばらく俺の授業、毎回あいつらの名前を叫んでいた気がする」
「何かすみません」
「だから坪田先生が謝るな」
「でも何か謝りたくなります」
「分かる」
高宮が頷いた。
「夏休みは」
スズメが小さく息を吐いた。
「八咫祭で」
「ああ」
高宮の顔が変わる。
「あれだ」
「何です?」
「《森林内立入禁止》」
茜が止まった。
「はい?」
「祭りの会場に大きい看板があったんですよ」
高宮は言った。
「かなり大きな」
「見落としたんですか?」
「読んでます」
「読んで!?」
「読んだと本人が言いました」
スズメの声が少し冷たくなる。
「では、なぜ入ったのです、と聞きました」
「何て?」
「岳が」
「岩戸君!?」
「奎星君と朝比奈君が同時に岩戸君を指差しました」
「最低じゃないですか!」
教師席に笑いが広がった。少し離れた生徒席では、その話題の本人たちがまだ進路の話で騒いでいる。
「まあ」
高宮が腕を組む。
「結果として鬼火鳥を救助することには繋がりましたが」
「結果が良いからといって過程を肯定しないでください」
スズメがすぐに言った。
「分かってます」
「蓮根君は」
土御門が柔らかく笑う。
「疑問が浮かぶと、その場で聞きたくなるんですよね」
「それの何が問題なんです?」
茜が尋ねる。
「一つなら問題ありません」
「一つではない?」
「一つ答えると三つ増えます」
「ああ」
「三つ答えると七つになります」
「増えましたね」
「七つ答えると、話が古代魔法まで行きます」
「授業中に?」
「授業中に」
「でも」
土御門は少し楽しそうだった。
「ちゃんと興味を持って聞いているので、悪いことではないんですよ」
「甘やかすな」
御影が言う。
「御影先生は厳しすぎます」
「お前が甘い」
「御影先生も蓮根君には随分付き合っていますよね」
「訓練だ」
「毎朝」
「訓練だ」
「昨日は中級生の授業にも連れていきましたね」
「失敗例だ」
「楽しそうに教えていたそうですよ」
「知らん」
「坪田先生」
高宮が言った。
「今のも覚えておいてください」
「何を?」
「御影先生は、蓮根のことになると大体『知らん』って言います」
「高宮」
「はい」
「黙れ」
「ほら」
茜がとうとう声を出して笑った。
「なるほど」
「まだありますよ」
スズメが言った。
「烏丸先生まで!?」
「朝起きません」
「今は起きる」
御影が言う。
「あなたに叩き起こされているからでしょう」
「四時五十分には来る」
「来させているの間違いです」
「以前は」
スズメは茜を見る。
「私が毎朝起こしていました」
「烏丸先生が?」
「最初の二週間だけです」
「先生が部屋まで?」
「一人で隔離生活でしたから」
「それで」
「起きません」
「…………」
「扉も開けません」
「鍵?」
「アロホモラで開けました」
「先生が!?」
「必要だったので」
土御門が笑いを堪える。
「そのうち」
スズメが続ける。
「私に起こされるのが嫌だからと、私が来る前に起きるようになりました」
「良いことじゃないですか」
「目的が違います」
「でも起きたなら」
「違います」
「烏丸先生、そこ拘りますね」
「拘ります」
「他には?」
「食べ物に弱い」
「それは知ってます」
「人の話を最後まで聞かない」
「知ってます」
「小妖に勝手に《天ぷら》と名前をつける」
「天ぷらって本名じゃないんですか!?」
「違います」
「え!?」
茜が生徒席を見る。ちょうどその近くを、紺色の作務衣を着た天ぷらが小皿を運びながら歩いていた。
「レンコン」
「おう」
「オカワリ?」
「あとで!」
「ワカッタ!」
天ぷらは嬉しそうに去っていった。
茜はスズメを見る。
「もう完全に天ぷらじゃないですか」
「本人が気に入ってしまったので」
「本名は?」
「私も知りません」
「ええ……」
「本名とかないんじゃね」
「あと」
スズメが淡々と言う。
「魔法法規の試験で、選択肢が三つしかない問題に四番と書きました」
「どうやって!?」
「私も知りたいです」
土御門が口元へ手を当てる。
「ふふ」
「何ですか」
「懐かしいですねえ」
「笑い事ではありません」
「六十一点でしたっけ?」
「はい」
「受かったんですか?」
「ぎりぎり」
「それで今、禍祓官第一希望?」
「だから補習が必要なんです」
スズメは深く頷いた。
高宮が言う。
「去年は去年で」
「まだあるんですか!?」
「学校を取り戻した」
「それはもう迷惑じゃないでしょう!」
「そこだけ切り取ればな」
「そこだけ!?」
「勝手に動く」
御影が言った。
「人の制止を聞かない」
藤森も言った。
「怪我を隠そうとする」
薬師寺が言った。
「薬を飲まん!」
「それ先生の薬の味にも問題ありません?」
茜が言う。
教師席が静かになった。薬師寺の眉が上がる。
「何じゃと?」
茜は笑顔のまま固まった。
「いや」
「坪田先生」
スズメが静かに言う。
「それ以上はいけません」
「はい」
「戻れなくなります」
「何から?」
「色々です」
「そうなんですね……」
早瀬が小さく笑う。
「一つ、最近のもあるぞ」
「最近?」
「先月」
茜が身を乗り出す。
「何したんです?」
「校舎の裏で下級生が、木に飛ばした紙飛行機を取れなくなっていた」
「はい」
「蓮根が見つけた」
「良い話じゃないですか」
「普通なら浮遊魔法で取る」
「はい」
「あいつは『俺が行った方が早い』って木に登った」
「…………」
「魔法使いなのに?」
「魔法使いなのに」
高宮が頷く。
「途中で枝を折った」
「落ちたんですか?」
「本人は落ちなかった」
「よかった」
「紙飛行機の代わりに鳥の巣が落ちそうになった」
「駄目じゃないですか!」
「空中で受け止めた」
「良いのか悪いのか分かりません!」
「最終的に紙飛行機も鳥の巣も無事だった」
「なら」
「そのあと下級生三人が真似して木に登った」
「駄目だ!」
茜が額を押さえた。
「何でそうなるの!?」
「蓮根だからです」
高宮が言った。
「蓮根君だからですねえ」
土御門が笑う。
「蓮根じゃからな!」
薬師寺まで笑った。
スズメは何も言わなかった。否定できなかった。
「分かりました」
茜は予定表を持ち直した。
「絶対目を離しません」
「それがいいです」
高宮が真剣に頷く。
「魔法省で勝手に扉を開けさせないでくださいね」
「あいつならやる」
早瀬が言う。
「やりませんよ」
スズメが反論した。
「一応、成長しています」
御影が横を見る。
「一応?」
「しています」
「一応?」
「御影先生」
そのとき、茜が思い出したように言った。
「ランチなんですけど」
スズメの箸が、また止まった。
「蓮根君、一般社会の東京出身ですよね?」
「そうですね」
「なら、こっちが案内するより本人に聞いた方がいいかなって」
「…………」
「霞が関の近くだと、普通のお店も多いですし」
「はい」
「せっかくだから、二人で相談して決めます」
「…………はい」
土御門の肩が、わずかに揺れた。スズメの目が横へ動く。
「土御門先生」
「はい?」
「笑っていますね」
「笑っていませんよ」
「今、肩が動きました」
「お味噌汁が熱くて」
「もう冷めています」
「そうでしょうか?」
「さっきから飲んでいません」
「よく見ていますねえ」
「…………」
「ふふ」
「土御門先生」
「はい」
「後で覚えていてください」
「何をですか?」
「補習」
「私は生徒ではありませんよ」
「では授業準備を手伝ってください」
「職権乱用ですねえ」
土御門は相変わらず楽しそうだった。
スズメは少しだけ頬を膨らませるようにして、ようやく止まっていた箸を動かした。
*
三時間目が終わった。
午前十一時二十五分、奎星は教室を出るなり、左腕の銀色の腕時計を確認した。焦茶色の杖入れを腰に下げ、いつもの制服を着て、肩には小さな鞄を掛けている。昨日、広報撮影のために何度も手で直したせいか、今日は髪も普段より少しだけ整っていた。
「何か今日カッコつけてない?」
日向が後ろから言う。
「普通」
「髪」
「普通」
「昨日めっちゃ直してたじゃん」
「撮影あるから」
「英雄」
「うるせえ」
「サイン」
「いらねえ」
「一枚」
「何に使うんだよ」
「売る」
「最低」
楓が呆れた顔をする。
「ちゃんと見学してきなさいよ」
「分かってる」
「魔法省の偉い人に変なこと言わない」
「言わない」
「知らない扉開けない」
「高宮先生と同じこと言うなよ」
「言われたの?」
「朝」
「じゃあ全員思ってるんじゃない?」
「俺の信用どうなってんの」
「積み重ね」
伊織が言った。
「お前まで」
「でも」
伊織は少しだけ笑った。
「いい機会だと思うよ」
「何が?」
「禍祓官だけじゃなくて、魔法省の中には色々な仕事がある。実際に見た方がいい」
「おう」
「広報の話だけじゃなく」
一瞬、伊織の声が少しだけ真面目になる。
「自分で見てきた方がいい」
奎星は、昨日自分が進路希望調査へ書いた言葉を思い出した。
《ちゃんと自分で動けること》
「分かってる」
短く答える。
「見てくる」
岳が手を上げた。
「飯」
「お前はそれしかねえな!」
「写真」
「撮ったら見せる」
「土産」
「気が向いたら」
「食べ物」
「指定すんな!」
日向が奎星の背中を叩く。
「じゃ、行ってこい英雄」
「おう」
「何かもらったら半分な」
「嫌」
「専任の先生と二人でランチした感想も聞かせろ」
「何の感想だよ」
「店」
「嘘つけ」
「胸」
「楓!」
「もう殴ったわよ」
「すでに」
日向が頭を押さえている。
「まだ言い切ってない!」
「昨日も同じこと言ってたでしょうが!」
「おっぱじめ──」
「二回目は無理よ!」
「痛っ!」
奎星は笑いながら教室を出た。
「じゃな!」
廊下を歩き、中央階段を下り、転移区画へ向かう。
マホウトコロには、外部と接続するための専用転移区画がある。普段、生徒が自由に使える場所ではない。長期休暇の移動、学校行事、緊急時、魔法省との正式な往来など、校外へ出る場合は行き先の登録と教師側の許可が必要になる。
転移門は校舎の西端にあった。大きな円形の部屋で、壁には目的地ごとに接続先を示す銀色の標識が並び、中央には青白い炎を灯した門が三つ設置されている。
「お」
入口が見えた。
「坪田先生いるかな」
奎星が中へ入る。
そして、足を止めた。
「何これ」
人が多い。
坪田茜、九重院紫苑、高宮、早瀬、土御門、薬師寺、御影、そしてスズメ。教師が、やたらと集まっている。
奎星は一度、後ろを見た。誰もいない。もう一度前を見る。
「何?」
茜が笑顔で手を振った。
「蓮根君、お疲れさま」
「うす」
「準備できた?」
「できたけど」
奎星は教師たちを見回した。
「何でみんないんの?」
誰もすぐには答えなかった。
「俺、何かした?」
「まだ」
高宮が言った。
「まだ?」
「これからする可能性がある」
「何でだよ!」
早瀬が腕を組む。
「見送り」
「こんなに?」
「たまたま空いてた」
「御影先生も?」
御影は黙ったまま、わずかに視線を逸らした。
「目逸らしたじゃん」
「用があった」
「何の?」
「ここに」
「雑!」
九重院が静かに笑う。
「皆さん、心配なのですよ」
「何を?」
教師たちが何となく顔を見合わせた。
「…………」
「…………」
「…………」
「俺を?」
高宮が頷く。
「はい」
「東京行くだけだよ?」
「だからです」
「俺、東京出身だよ?」
「魔法省へ一人で行くのは別だろう」
早瀬が言う。
「一人じゃない」
奎星が茜を指す。
「坪田先生いる」
「だから坪田先生へ注意事項を伝えた」
「何を!?」
「色々」
「色々って何!?」
「知らなくていいです」
高宮は妙に満足そうだった。
「絶対俺の悪口言っただろ!」
「事実しか話してません」
「一番怖いやつ!」
薬師寺が笑う。
「ふぉっふぉっふぉ!」
「薬師寺先生まで何でいんの?」
「見送りじゃ!」
「何で?」
「お前が怪我して帰ってきたら、すぐ薬を飲ませられるようにな!」
「縁起悪っ!」
「安心せい!」
「何が!?」
「新しい配合も試したい」
「絶対怪我しない!」
「良い心掛けじゃ!」
「目的が怖いんだよ!」
土御門が柔らかく笑う。
「知らない方について行かないでくださいね」
「俺十八」
「道路へ飛び出さない」
「十八!」
「知らない物を拾って食べない」
「しないよ!」
「知らない魔法具に触らない」
奎星が黙った。
「今、間がありましたね」
「触るかもしれない」
「触らないでください」
「気になったら?」
「坪田先生へ聞いてください」
「はい」
早瀬が指を立てる。
「東京で箒乗るなよ」
「乗らねえよ!」
「一般人の前で魔法使うな」
「分かってる!」
「電車止めるな」
奎星の顔が一瞬だけ止まった。
「…………それ俺のせいじゃない」
「分かってる」
「びっくりするだろ!」
「一応な」
「何の一応だよ!」
高宮が言う。
「森林があっても入らない」
「東京の霞が関にねえよ!」
「看板を読む」
「読むよ!」
「読んだら従う」
「…………」
「蓮根?」
「はい」
「何でそこだけ返事弱いんです?」
「従います」
「ちゃんと」
「はい」
「御影先生」
奎星が見る。
「御影先生からは?」
「ない」
「マジ?」
「ああ」
「やった」
「勝手に戦うな」
「あるじゃん!」
「危険を見つけても一人で行くな」
「見学だって!」
「知らん」
「昨日進路相談してくれたじゃん!」
「だから言っている」
奎星が口を閉じた。
昨日、御影が言った。
帰ろうと思え。現場へ行くなら、必ず帰ることを考えろ。
「…………」
「分かった」
今度は普通に答えた。
御影はそれ以上言わなかった。
「蓮根君」
九重院が呼ぶ。
「はい」
「今日は」
九重院は穏やかに笑った。
「楽しんできてください」
「おう」
「あ」
奎星が少し姿勢を正す。
「はい」
「無理に直さなくても大丈夫ですよ」
「何か校長には敬語使わないとって」
「良い心掛けです」
「御影先生より偉いし」
「蓮根」
「はい」
「明日四時四十分」
「早くなった!」
「一分追加」
「何で!?」
教師たちが笑う。奎星も笑った。
その中で、スズメは少し離れた場所に立っていた。
昨日の会議。逆転時計。消えた記録。書き換えられる現在。何も分かっていない。何が起きるのかも、誰が何をしているのかも。
それとは全く関係なく、今日、奎星は東京へ行く。
進路を考えるために。自分が卒業したあと、どこで働きたいのか、何をしたいのか、何になりたいのか。そのために、学校の外へ出る。
「じゃ」
茜が転移門の前へ進んだ。
「そろそろ行こうか」
「おう!」
奎星の顔が明るくなる。
青白い炎の向こうには、《東京・霞が関 日本魔法省》という銀色の文字が浮かんでいた。
「東京!」
奎星が笑う。
「実家帰るわけじゃないんだから」
茜も笑った。
「でも久しぶりじゃん」
「この前も行ったんでしょ?」
「一月」
「十分最近だよ」
「半年くらいじゃん」
「五か月」
「細か」
「烏丸先生みたいなこと言わないで」
「それ本人の前で言える?」
「…………」
奎星は後ろを見る。スズメと目が合った。
「言える」
「強いね」
「慣れてるから」
「聞こえていますよ」
スズメが言った。
「ほら」
「何がほらですか」
奎星は笑った。そして、そのまま転移門へ向かいかけて、一度、足を止めた。
振り返る。
教師たちはまだいる。高宮、早瀬、土御門、薬師寺、九重院、御影。その中から、奎星はまっすぐスズメの前へ歩いてきた。
「スズメちゃん」
「烏丸先生です」
「行ってくる!」
あまりにも楽しそうだった。
スズメは奎星を見た。黒髪、いつもの制服、腰には自分が誕生日に贈った焦茶色の杖入れ、左腕にはクリスマスに贈った銀色の腕時計、肩には鞄。十八歳。
一年前、東京の部屋で魔法のことなど何一つ知らなかった少年。進路希望調査へ《海賊》と書いた少年。自分が何になりたいかなど、考えたこともなかった少年。
それが今、魔法省を見に行く。禍祓官、教師、それ以外の仕事。知らないものを、自分の目で見るために。
朝、坪田茜が《蓮根君と二人でランチを食べてから》と言ったとき、箸が止まった。自分でも分かっていた。何を気にしているのかくらいは。
茜は二十六歳で、明るく、綺麗で、話しやすい。生徒との距離も近い。奎星と二人で東京へ行き、食事をする。
馬鹿らしい。今になって、ようやくそう思った。
私は何を心配しているのだろう。
坪田さんは仕事で行く。蓮根君も、自分の進路を考えるために行く。そこへ自分が勝手に別の意味を足して、一人で箸を止めて、土御門先生に笑われて。
目の前の奎星を見る。
こんなにも楽しそうな顔をしている。知らない場所へ行くことを、新しい仕事を見ることを、自分の将来が少しずつ形になっていくことを、心から楽しみにしている。
それを、教師である自分が、何を不安がっているのだ。
彼は進もうとしている。一年前から、ずっと。
魔法を知った。友人を知った。学校を知った。失敗した。怪我をした。誰かを傷つけた。誰かを助けた。怖くなった。逃げた。戻った。
何度も間違えながら、少しずつ、自分の未来を考えられるところまで来た。
その道の先に、自分がいない可能性だってある。
マホウトコロを卒業すれば、毎日研究室へ来ることもなくなる。補習も、授業も、朝食も、大食堂で顔を見ることも、当たり前ではなくなる。
だから、嬉しくて、寂しい。
進んでほしくて、行ってほしくない。
今まで何度も、自分の中で同じ矛盾を見つけてきた。
けれど、少なくとも今日、することは一つだった。
送り出すこと。
スズメは小さく息を吐き、そして笑った。
「はい」
奎星も少し笑う。
「ちゃんと」
スズメは言った。
「見てきてくださいね」
「うん!」
「禍祓官だけではなく、他の仕事も」
「分かった」
「魔法省の中も」
「うん」
「坪田さんの話も、ちゃんと聞いて」
「聞く」
「勝手なことをしないで」
「たぶん」
「蓮根君」
「します」
「怪しい魔法具へ触らない」
「努力する」
「蓮根君」
「触らない!」
「知らない場所へ入らない」
「分かったって!」
「あと」
「まだある?」
スズメは少し考えた。
「楽しんできてください」
奎星の顔が、ぱっと明るくなる。
「おう!」
「返事」
「はい!」
「そこは普通でいいです」
「どっちだよ」
スズメが笑う。奎星も笑った。
「蓮根君!」
転移門の前から、茜が呼ぶ。
「時間!」
「あ!」
奎星が腕時計を見る。
「やべ」
「走らない!」
教師たちから声が飛んだ。
「分かってる!」
奎星は本当に一度走りかけたが、途中で思い出したように速度を落とした。
「早歩き!」
「それもやめなさい!」
「普通に歩いてるって!」
「どこがですか!」
青白い炎が揺れる。
東京。霞が関。日本魔法省。
その向こうにある、まだ知らない未来へ。
奎星は転移門の前まで進み、茜の隣へ立った。そして最後に、もう一度教師たちを振り返った。
九重院、高宮、早瀬、土御門、薬師寺、御影、スズメ。
この一年、何度も自分を叱り、何度も助け、何度も待っていた大人たち。
奎星は笑った。
「じゃあ行ってきます!」