マホウトコロ   作:西野圭吾

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第6話 魔法省

二〇二七年六月四日、午前十一時四十分。

 

 青白い炎を抜けた瞬間、蓮根奎星は久しぶりの東京へ帰ってきた。

 

「到着」

 

 隣で坪田茜が腕時計を確認する。

 

「十一時三十八分。ちょっと早かったね」

 

「俺のおかげ?」

 

「何もしてないでしょ」

 

「転移、速かったじゃん」

 

「蓮根君の魔力で動いてないから」

 

「そっか」

 

 奎星は周囲を見回した。マホウトコロの転移区画よりも明らかに広く、半円形の壁に沿って十を超える転移門が並んでいる。その一つ一つの上には、《京都》《出雲》《札幌》《福岡》《マホウトコロ》《魔法災害対策局・緊急接続専用》といった銀色の文字が浮かんでいた。

 

 濃紺の制服を着た魔法省職員たちは、次々に炎を抜けては別の門へ入り、書類を抱え、何かを話しながら足早に通り過ぎていく。

 

「何回来ても役所だな」

 

「来たことあるんだよね」

 

「あるよ」

 

「何回くらい?」

 

「分かんねえ。最初は検査。次は……色々」

 

「色々なんだ」

 

「良い思い出じゃないときもある」

 

 奎星はそれ以上説明せず、茜も聞かなかった。

 

「じゃあ、一度外に出ようか。お昼を食べて、一時に戻る予定だから」

 

「おう」

 

 二人が来訪者用の受付へ向かって歩き出した、その途中だった。

 

 一人の職員が奎星を見て、足を止めた。

 

「…………」

 

 奎星も何となくそちらを見る。

 

「?」

 

 職員の顔が変わった。

 

「あ」

 

「何?」

 

「蓮根……奎星さん?」

 

「はい」

 

 奎星が少しだけ姿勢を正すと、職員は急に深く頭を下げた。

 

「星帰り作戦では、本当にありがとうございました」

 

「…………」

 

 奎星も足を止める。

 

「え」

 

「マホウトコロの件です。私の姪も魔法学校へ通っておりまして」

 

「あ、はい」

 

「本当に、ありがとうございました」

 

「いや」

 

 もう一度頭を下げられ、奎星も反射的に頭を下げた。

 

「…………うす」

 

 職員は小さく笑ってから、その場を去っていった。

 

 奎星は遠ざかる背中を見送り、それから茜へ顔を向ける。

 

「何、今の」

 

「蓮根君にお礼を言ったんでしょ」

 

「それは分かる」

 

「じゃあ何?」

 

「めっちゃ頭下げられた」

 

「英雄だからじゃない?」

 

「…………」

 

 奎星の口元が少し緩む。

 

「英雄」

 

「嬉しそう」

 

「別に」

 

「顔」

 

「普通」

 

「はいはい」

 

 そのまま歩き出したものの、受付へ着く前に、今度は別の職員が足を止めた。

 

「あ、蓮根君」

 

「こんにちは」

 

「こんにちは」

 

「先日、清弦氏に関する新資料を拝見しました」

 

「え、もう知ってんの?」

 

「省内では一部共有されていますので」

 

「マジ?」

 

「素晴らしいご先祖ですね」

 

「俺もこの前知った」

 

「神代榊もお持ちだとか」

 

「これ」

 

 奎星が腰の杖入れへ手を伸ばしかけた瞬間、茜がすぐに止めた。

 

「蓮根君、抜かない」

 

「あ」

 

 伸びていた手が止まる。

 

「そうだった」

 

「朝から何回言われたの?」

 

「めっちゃ」

 

「なら守って」

 

「はい」

 

 職員は笑いながら頭を下げた。

 

「失礼しました。見学、楽しんでください」

 

「おう」

 

 奎星は少し考えてから、付け加えた。

 

「ありがとうございます」

 

 職員が去ると、奎星はまた茜を見る。

 

「今日、何か俺に優しくない?」

 

「いつもがどうなのか知らないよ」

 

「前に来たとき、こんなじゃなかった」

 

「そりゃ、半年前と今じゃ蓮根君の知名度が違うでしょ」

 

 茜は来訪者用証票を受け取りながら答えた。

 

「そんな変わる?」

 

「星帰り作戦」

 

「うん」

 

「銀の鴉」

 

「うん」

 

「神代榊」

 

「うん」

 

「蓮根清弦の子孫」

 

「うん」

 

「魔法省が今から売り出そうとしてる現代の英雄」

 

「…………」

 

 奎星は少し考えた。

 

「結構あるな」

 

「あるよ」

 

「俺、すごくね?」

 

「自分で言うと台無しになるね」

 

「何で?」

 

 そんな会話をしながら、二人は地下庁舎を出た。

 

 昼食を終え、一時間ほどして戻ってくる頃には、奎星へ声を掛ける職員がさらに増えていた。

 

「蓮根さん」

 

「こんにちは」

 

「星帰りの──」

 

「お疲れさまです」

 

「清弦氏の──」

 

「いつも応援しています」

 

 四人目に頭を下げられたところで、奎星は完全に調子に乗っていた。

 

「どうも」

 

「蓮根君」

 

「何」

 

「歩き方」

 

「普通だけど」

 

「さっきより肩で風切ってる」

 

「英雄だから」

 

「十五分前まで普通にご飯を食べていた人が?」

 

「英雄も飯食うだろ」

 

「食べるけど」

 

 午後零時五十八分、二人は日本魔法省中央広間へ戻ってきた。

 

 奎星は足を止め、頭上を見上げる。何度来ても、ここだけは少し圧倒される。地下にあるとは思えないほど高い天井と、巨大な吹き抜けを囲むように走る何層もの回廊。その壁面には青白い炎を灯した転移扉が並び、間を何百羽もの折り鶴が飛び交っていた。

 

 一羽一羽が嘴に紙を咥え、下の階から上の階へ、監察局から法執行局へ、記録局から教育管理局へと飛んでいく。途中で何羽かが空中ですれ違い、ぶつかりそうになると、器用に身体を捻って避けた。

 

「前から思ってたけど」

 

 奎星が言う。

 

「あれ、一羽捕まえたら結構やばい書類持ってそう」

 

「捕まえないでね」

 

「やらねえよ」

 

「朝の先生方から聞いてます」

 

「何を?」

 

「気になったものへ手を出すって」

 

「悪口じゃん」

 

「事実らしいよ」

 

「高宮先生だな」

 

「複数です」

 

「誰だよ!」

 

「秘密」

 

「怖っ」

 

 茜は手元の見学予定表を確認した。

 

「じゃあ、行こうか」

 

「最初どこ?」

 

「魔法交通管理局。そのあと災害対策局、魔法生物・妖怪共生局、記録局、国際魔法協力局」

 

「多くね?」

 

「まだあるよ」

 

「マジ?」

 

「機密保持局は見学可能区画だけ。そのあと魔法法執行局」

 

「禍祓官」

 

「そう」

 

 奎星の目が少し変わる。

 

「最後に監察局」

 

「真壁さん」

 

「時間を取ってもらってる」

 

「すげえな」

 

「後藤さんが全部話を通してくれたみたい」

 

「おっさん偉いんだな」

 

「後藤さんね」

 

「分かってる」

 

「あと、帰る前に後藤さんから話があるって」

 

「英雄の?」

 

「たぶん」

 

「ポスター?」

 

「そこから離れて」

 

 奎星は笑いながら、茜と並んで歩き出した。

 

 *

 

「でか」

 

 魔法交通管理局へ入って、最初に奎星が言ったのはそれだった。

 

 中央の部屋には、日本列島が丸ごと宙へ浮かんでいる。正確には立体地図で、北海道から沖縄までが青白い光で形作られ、その上を無数の光の線が走っていた。

 

 東京、京都、出雲、高野山、北海道、九州、そして南硫黄島。登録された転移門が小さな光点となり、その間を細い線が結んでいる。

 

「これ、全部転移門?」

 

「一部です」

 

 案内役の職員が答えた。

 

「常時接続、時間指定接続、緊急接続がありますので、今表示しているのは主な経路だけですね」

 

「こんなあんの?」

 

「魔法使いも移動しますから」

 

「電車みたい」

 

「近い部分はあります」

 

 そのとき、地図の一部が赤く光った。同時に、奥の机で一人の職員が杖を上げる。

 

「京都第四門、接続遅延十二秒」

 

「原因確認」

 

「向こう側で魔力干渉」

 

「迂回経路を」

 

 赤い線が消え、別の青い線が繋がる。

 

 奎星の目が動いた。

 

「今の何?」

 

「接続先で何か問題が起きたようですね」

 

「十二秒で?」

 

「転移門では十分長いですよ」

 

「へえ……」

 

 隣では大量の許可証が宙に浮かび、一枚ずつ自動で分類されていた。箒の飛行区域、姿くらましの制限区域、転移門の設置申請。どれも奎星には馴染みのない書類ばかりだった。

 

「仕事、ずっとこれ?」

 

「担当によります。現地で転移事故を確認する職員もいますよ」

 

「現場ある?」

 

「あります」

 

「お」

 

 茜が予定表へ何かを書き込んだ。

 

「何書いた?」

 

「反応した」

 

「何に?」

 

「現場」

 

「別にいいだろ」

 

「自己分析と一致してるなって」

 

「専任こわ」

 

 *

 

 魔法災害対策局は、さらに騒がしかった。

 

 壁一面に日本地図が広がり、その前にはいくつもの魔法通信炎が浮かんでいる。《魔力暴走》《結界事故》《妖怪災害》《一般社会内・秘匿要請》《大規模転移障害》と書かれた札が、赤、黄、青と色を変えながら次々に地図へ貼りつき、職員たちが内容を確認していた。

 

「ここ」

 

 奎星が足を止める。

 

「俺、来たことある?」

 

「局に?」

 

「違う。世話になったこと」

 

 案内役が少し考える。

 

「蓮根さんの場合は……かなり」

 

「やっぱ?」

 

「昨年の魔力検査にも、万一に備えてこちらの職員が待機しています」

 

「あれか」

 

 奎星は、初めてここへ来た日のことを思い出した。魔力を測るだけだというのに、真壁、魔法医療士、研究官、災害対策局の職員まで並んでいた。

 

「爆発したらどうすんのって聞いた気がする」

 

「しました?」

 

「たぶん」

 

「しそう」

 

 茜が言った。

 

 そのとき、奎星の目が一枚の記録へ止まった。

 

《一般社会鉄道・魔法使用事案》

 

「…………」

 

 今年一月。東京。脱線しかけた列車。アレスト・モメンタム。

 

 あの夜、自分の知らないところで、何十人もの魔法省職員が動いていた。

 

「こういうのも?」

 

「もちろんです」

 

「俺が魔法を使ったあと?」

 

「現場に魔法の痕跡が残れば、機密保持局と連携します。怪我人がいれば医療部門。構造物への被害、魔力汚染、二次災害があればこちらです」

 

「…………」

 

「一人の魔法使いが一つ呪文を使っただけでも、その後ろでは色々な部署が動きます」

 

「そうなんだ」

 

 奎星は地図を見た。

 

 少し前まで、自分にとって事件とは、目の前にあるものだった。誰かが危ない。敵がいる。走る。杖を抜く。戦う。

 

 けれど、終わったあとに現場を戻す人間がいる。怪我人を運ぶ人間がいる。魔法を見た一般人へ対応する人間がいる。そして、すべてを記録する人間がいる。

 

「知らなかった」

 

 奎星が小さく言った。

 

「何が?」

 

「戦ったあと」

 

 茜を見る。

 

「こんな人いるんだなって」

 

 茜は少し笑った。

 

「だから見学って大事なんだよ」

 

「先生っぽい」

 

「先生じゃないって」

 

「坪田先生」

 

「学校で呼ばれるから、もう諦めかけてる」

 

 *

 

 魔法生物・妖怪共生局へ入って三秒で、奎星は言った。

 

「岳、ここ好きそう」

 

「岩戸君?」

 

「うん」

 

 壁には、日本各地の魔法生物保護区域を示す巨大な地図があった。北海道の雪女保護区域、山間部の妖狐生息地、水辺の河童との生活圏調整、人里へ近づいた魔法生物の移送、密猟事件、保護申請。様々な情報が、細かな文字と光の印で示されている。

 

「鬼火鳥は?」

 

 奎星がすぐに訊いた。

 

 案内役の女性職員が振り返る。

 

「もちろん担当します」

 

「マジ?」

 

「以前の違法捕獲事件も、こちらに記録がありますよ」

 

 奎星の表情が少し変わった。

 

 八咫祭。森。傷ついた鬼火鳥。山中の野営地。大量の足枷。

 

「岳、ここ来た方がいいな」

 

「興味あるの?」

 

「最近ずっと魔法生物の本読んでる」

 

「じゃあ教えてあげたら?」

 

「おう」

 

「自分の見学なのに、友達の進路まで探すんだね」

 

「だって好きそうじゃん」

 

 それだけ言うと、茜は少しだけ笑い、また予定表へ何かを書き込んだ。

 

「何?」

 

「何でもない」

 

「絶対書いた」

 

「次行くよ」

 

「見せろよ」

 

「個人情報」

 

「俺のだろ!」

 

 *

 

 記録局へ入ったときだけ、奎星は少し静かになった。

 

 中央広間の騒がしさが嘘のような、長い回廊と高い書架。何千、何万という紙の箱が並び、空中を飛ぶ羽根筆が古い書類の文字を新しい紙へ写し取っている。別の机では、破れた羊皮紙へ薄い魔法膜を重ね、崩れないよう補強していた。

 

 ここに残されているのは、新しい記録だけではない。百年前、二百年前、さらに古い時代の記録。現代では使い方すら分からない魔法具や巻物も、ここには保管されている。

 

「…………」

 

「蓮根君?」

 

 茜が横を見る。

 

「ん?」

 

「静かだから」

 

「俺だって静かなときある」

 

「初めて見た」

 

「三日しか知らないじゃん」

 

「そうだった」

 

 奎星は奥へ目を向けた。

 

《古代魔術資料管理区画》

 

 その文字が目に入る。

 

「ここ」

 

「うん?」

 

「スズメちゃん働いてた」

 

 茜の表情が少し変わった。

 

「烏丸先生?」

 

「卒業してから一年くらい」

 

「そうなんだ」

 

「記録局」

 

 奎星は書架を見た。

 

 ここでスズメは古い魔法を読み、十歳年上の先輩と研究し、巻物を持ち出し、事故を起こした。一人の少女から記憶を奪ったことを、ずっと自分の失敗だと思っていた。

 

 前なら、何かに触れていたかもしれない。奥に何があるのか見たくなっていたかもしれない。けれど今日は、境界線の前で止まった。

 

「入れんの?」

 

「そこは見学対象外です」

 

 案内役が答える。

 

「そっか」

 

 奎星はそれだけ言い、覗こうともしなかった。

 

 茜が少し意外そうに見る。

 

「何?」

 

「いや」

 

「俺、入らないよ?」

 

「何も言ってないよ」

 

「朝から言われすぎて分かる」

 

「成長したんだね」

 

「一応」

 

 奎星はもう一度だけ《古代魔術資料管理区画》を見た。

 

「スズメちゃん、ここで働いてたんだな」

 

 小さく呟いてから、前を向いた。

 

 *

 

「次、国際魔法協力局」

 

「海外?」

 

「そう」

 

「英語?」

 

「そういう仕事もある」

 

「俺、無理かも」

 

「判断早いね」

 

「英語できねえ」

 

「勉強すれば?」

 

「…………」

 

「何、その顔」

 

「スズメちゃんと御影先生の顔が浮かんだ」

 

「勉強しろって?」

 

「うん」

 

「正しいよ」

 

「坪田先生まで」

 

 扉が開く。

 

 奎星の足が止まった。

 

 今までの部署とは雰囲気が違った。壁には日本地図ではなく、巨大な世界地図が浮かび、東京からロンドン、パリ、北京、ニューヨーク、ブラジリア、カンパラへ、無数の光が伸びている。

 

 天井近くには各国の魔法省から届いたらしい、色も形も違う封書が飛び交い、机の上では複数の言語で書かれた文書が魔法によって日本語へ変換されていた。一角では通信炎の向こうから外国語が聞こえ、その横で職員が素早く記録を取っている。

 

「すげ」

 

 奎星が世界地図へ近づく。

 

「これ全部?」

 

「交流先」

 

 茜が答えた。

 

「国際的な魔法事件、留学、魔法生物の越境、スポーツ交流、研究協力、国際条約。色々」

 

「世界大会も?」

 

「担当することあるよ」

 

 奎星は周囲を見回した。

 

「じゃあ、冬真先輩ここ来んのかな」

 

「冬真先輩?」

 

「卒業した先輩。ここ志望してた」

 

 そのとき、少し離れた机に座る一人の若い男が目に入った。細身で、見覚えのある横顔。胸元には、まだ正式な職員証とは少し違う札が下がっている。

 

《研修員》

 

「…………」

 

 奎星の目が大きくなる。

 

「冬真先輩」

 

 声を出しかけたが、途中で止まった。

 

 三枝冬真は仕事中だった。通信炎の向こうで誰かが話している。

 

『──the revised schedule──』

 

「Yes. We received the new schedule this morning. I’ll confirm it with my supervisor and send the response by three」

 

「…………」

 

 奎星は黙った。

 

「英語喋ってる」

 

 ものすごく小さな声だった。

 

「仕事中だね」

 

 茜も声を落とす。

 

「うん」

 

「声掛ける?」

 

 奎星は少し考えた。

 

「いや」

 

「いいの?」

 

「邪魔じゃん」

 

 それだけ言って、少し離れた場所から世界地図を眺めた。

 

 茜は何も言わなかった。

 

 しばらくして、冬真が通信炎へ向かって言う。

 

「Thank you. Have a good day」

 

 通信炎が消え、冬真は息を吐いた。資料をまとめ、何となく顔を上げる。

 

「…………」

 

 目が合った。

 

「え」

 

 冬真の目が丸くなる。

 

「蓮根?」

 

 奎星の顔が一気に明るくなった。

 

「冬真先輩!」

 

「何でいるの?」

 

「見学!」

 

「学校は?」

 

「進路!」

 

「授業は?」

 

「見学も授業!」

 

「便利だな、その理屈」

 

 冬真が笑った。

 

「先輩、ここで働いてんの!?」

 

「まだ研修」

 

 冬真は胸元の札を指で持ち上げた。

 

「今日で二ヶ月」

 

「英語喋ってた!」

 

「聞いてた?」

 

「ちょっと」

 

「恥ずかしいな」

 

「めっちゃできんじゃん!」

 

「前にもできるって言っただろ」

 

「マジだったんだ」

 

「失礼だな」

 

 冬真は笑ったあと、ふと奎星を見る。

 

「でも珍しいな」

 

「何が?」

 

「仕事が終わるまで待ってたじゃん」

 

「邪魔したら悪いだろ」

 

「…………」

 

「何、その顔」

 

「成長したなって」

 

「俺、十八だぞ」

 

「去年なら入ってきてたと思う」

 

「入んねえよ」

 

「本当に?」

 

「…………」

 

「今、間あったな」

 

「今は入んない」

 

「成長したじゃん」

 

「だろ?」

 

 冬真は茜に気づき、軽く頭を下げた。

 

「三枝冬真です」

 

「坪田茜です。蓮根君の進路支援で」

 

「専任の人?」

 

「知ってんの!?」

 

「卒業生の間でも少し話題だよ」

 

「何でだよ!」

 

「英雄になるんだって?」

 

 冬真が笑う。

 

「情報早くね?」

 

「ここ国際魔法協力局だから」

 

「関係ある?」

 

「ない」

 

「おい!」

 

 昔と同じ調子だった。

 

「先輩、楽しい?」

 

 奎星が訊く。

 

 冬真は少し考えた。

 

「今は書類と研修ばっかり」

 

「やっぱ役所じゃん」

 

「役所だからな」

 

「海外行った?」

 

「仕事ではまだ」

 

「行く?」

 

「そのうち」

 

「世界大会みたいに?」

 

「遊びじゃないけどね」

 

「大会も遊びじゃねえだろ」

 

「俺にとっては結構楽しかったから」

 

 冬真は世界地図を見る。

 

「前に言っただろ。試合も好きだったけど、終わったあと色んな国のやつと話す方が面白かったって」

 

「ああ」

 

「今度は、それを仕事にしたい」

 

 奎星は数秒、冬真を見た。

 

 卒業式の日。第一決闘訓練場。最後の一戦。飛ばした杖より先に、ほんの僅かだけ自分の踵が場外へ出た。

 

 それから。

 

 またな。

 

「…………」

 

「何?」

 

「いや」

 

 奎星は少し笑った。

 

「頑張って」

 

 冬真も笑う。

 

「蓮根もな」

 

「おう」

 

「何になるか決まった?」

 

「今んとこ禍祓官」

 

「へえ」

 

「二番、教師」

 

「…………」

 

 冬真が黙った。

 

「何、その顔」

 

「教師?」

 

「何だよ!」

 

「いや、頑張って」

 

「絶対、今違う意味だったろ!」

 

「仕事戻るから」

 

「逃げんな!」

 

「見学頑張れ」

 

 冬真は笑いながら自分の机へ戻っていった。

 

 奎星はその背中を見送る。

 

「…………」

 

「良い先輩だね」

 

 茜が言った。

 

「うん」

 

「国際魔法協力局、どう?」

 

「英語がなあ」

 

「そこだけ?」

 

「でも面白そう」

 

「じゃあ候補に入れとく?」

 

「入れといて」

 

「了解」

 

 茜が予定表へ書き込む。

 

 奎星はもう一度だけ冬真を見た。今度は声を掛けなかった。

 

 *

 

 機密保持局では、見学できたのはごく一部だった。

 

「ここ、前嫌いだった」

 

「何で?」

 

「取調室に入れられた」

 

「え?」

 

「今年一月」

 

「聞いてないんだけど」

 

「言ってない」

 

「何したの?」

 

「電車止めた」

 

「…………」

 

「その顔やめて」

 

「情報量が多い」

 

「助けたんだよ」

 

「先にそっち言って」

 

 一般社会で目撃された魔法の処理、魔法事故時の秘匿、一般人との接触記録。魔法界と一般社会の境界を守る仕事が、そこには集まっていた。

 

 壁には大量の地図があり、各地で起きた《秘匿事案》が小さな印で示されている。

 

「これ全部、魔法を見られたやつ?」

 

「全部ではありません」

 

 職員が答えた。

 

「魔法生物の目撃、結界の破損、魔法施設への一般人の接近なども含まれます」

 

「記憶消す?」

 

「必要な場合は」

 

「やっぱ怖っ」

 

 昔、スズメに同じ質問をしたことを思い出す。魔法を知って、まだ数日しか経っていなかった頃のことだ。魔法パトカーはないのか。一般人に見られたらどうするのか。記憶を消すのか。

 

 あれから一年。自分が実際に、その規則に引っかかる側になるとは思っていなかった。

 

「魔法社会って」

 

 奎星が言った。

 

「隠すのも仕事なんだな」

 

「そうだね」

 

 茜が頷く。

 

「派手な魔法を使うだけが魔法界じゃないから」

 

「今日、それめっちゃ言われてる気がする」

 

「大事だから」

 

「先生じゃん」

 

「違う」

 

 *

 

「来た」

 

 魔法法執行局の入口へ着くと、奎星の歩き方が明らかに変わった。

 

「分かりやすいね」

 

「何が?」

 

「楽しそう」

 

「だって」

 

 入口の銀色の文字を見る。

 

《魔法法執行局》

 

「禍祓官」

 

 奎星が小さく言った。

 

 一年前、魔法を知ったばかりの頃、御影玄一郎が昔やっていた仕事として、その名前を初めて聞いた。それから実際に見た。鬼火鳥の山、朝凪島、黒曜の環、星帰り、群馬の研究施設。杖を持ち、危険な場所へ入っていく人たち。

 

「現場、見れんの?」

 

「今日は庁内見学ね」

 

「訓練は?」

 

「予定にない」

 

「武器庫」

 

「ない」

 

「拘束具」

 

「見るだけ」

 

「使える?」

 

「駄目」

 

「一回くらい」

 

「駄目」

 

「俺に掛けるとか」

 

「何しに来たの?」

 

 そんなやり取りをしながら中へ入った。

 

 そして、奎星の顔から期待が消えた。

 

 紙、紙、紙。書類、書類、書類。机、羽根筆、書類。

 

「…………」

 

「どうしたの?」

 

「思ってたのと違う」

 

 広い執務室のあちこちで、禍祓官たちが机へ向かっていた。証拠品一覧、現場報告、事情聴取記録、魔法使用報告、拘束申請、捜査継続申請、何かの確認書。どの机にも、似たような紙の束が積み上がっている。

 

 そのさらに奥で、奎星は見覚えのある男を見つけた。

 

 椅子へ深く座り、机の上に積み上がった書類の山を見上げている。

 

 斎賀玄弥だった。

 

 いつもの軽い笑みはなく、死んだ魚のような目をしている。

 

「斎賀さん?」

 

 奎星が声を掛けると、斎賀の顔がゆっくり上がった。

 

「…………」

 

 数秒の間を置いて、斎賀が言う。

 

「蓮根?」

 

「何してんの?」

 

「見りゃ分かんだろ」

 

「書類」

 

「そう」

 

「めっちゃある」

 

「そう」

 

「禍祓官?」

 

「…………」

 

 斎賀は目の前の紙へ視線を落とした。

 

「俺さ」

 

「うん」

 

「神代に殺されかけたことあるじゃん」

 

「あるな」

 

「黒曜の環にもいたじゃん」

 

「いた」

 

「十二年前、建物の下敷きにもなったじゃん」

 

「聞いた」

 

「玄一郎とも殺し合ったじゃん」

 

「見た」

 

「それでも生きてきたじゃん」

 

「うん」

 

 斎賀は一枚の書類を持ち上げた。

 

「今、一番死にそう」

 

「書類で!?」

 

「書類で」

 

「なんで!?」

 

「魔法で倒せねえんだぞ、こいつら」

 

 斎賀が紙を振る。

 

「切っても増える」

 

「切んなよ」

 

「燃やしたら?」

 

「捕まる」

 

「前、もっとヤバいことしてたじゃん」

 

「だから今、頑張ってんだろうが」

 

「…………」

 

 奎星が止まり、斎賀も一瞬だけ黙った。

 

「まあ」

 

 すぐに軽い調子へ戻る。

 

「頑張ってるっつーか、働かされてるっつーか」

 

「何の書類?」

 

「色々。昔のこと。黒曜の環のこと。残ってる連中のこと。俺が知ってる施設、術式、人間」

 

 斎賀は机の横へ目を向けた。そこにも箱が積んである。

 

「一個書くと、『ではこれについても』って三個来る」

 

「スズメちゃんみたい」

 

「烏丸?」

 

「一個質問すると三個増える」

 

「逆だろ。あいつは答える側だ」

 

「そっか」

 

 奎星は大量の書類を見た。

 

 昨日、御影が言っていた。禍祓官だって、毎日戦っているわけではない。何も起きない日もある。書類を書く日もある。

 

「…………禍祓官」

 

「ん?」

 

「考え直そうかな」

 

「早えな」

 

 斎賀が笑った。

 

「昨日、第一希望にしたばっかなんだけど」

 

「じゃあ、やめとけ」

 

「止めろよ!」

 

「書類減るから歓迎だよ」

 

「人手減るじゃん!」

 

「新人一人分の教育記録の方が増える」

 

「最悪じゃん!」

 

 斎賀が久しぶりに声を上げて笑った。

 

「蓮根君?」

 

 少し離れたところから声がした。

 

 奎星が振り返る。

 

「倉橋さん」

 

 倉橋が数冊の資料を抱えて立っていた。以前より少しだけ顔つきが柔らかく見える。それでも立ち姿は真っ直ぐで、腰にはすぐ抜ける位置に杖がある。

 

「見学?」

 

「うん」

 

「禍祓官志望だって?」

 

「何で知ってんの?」

 

「御影さんから」

 

「情報回るの早くね?」

 

「少し前に」

 

「俺、昨日書いたんだけど」

 

「……真壁さんからかな」

 

「もっと早いじゃん」

 

「学校、怖」

 

 倉橋が笑う。

 

 その後ろを、二人の禍祓官が通った。

 

「あれ」

 

 奎星が顔を上げる。

 

 一人が足を止めた。

 

「お」

 

 深見玲司だった。

 

「英雄じゃん」

 

「深見さん」

 

「覚えてたか」

 

「星帰り、いたじゃん」

 

「そりゃどうも」

 

 深見は手にしていた資料を軽く上げる。

 

「うち来るの?」

 

「今んとこ第一希望」

 

「やめとけ、やめとけ」

 

「何で!?」

 

「見ろよ」

 

 深見が自分の資料を見せる。

 

「現実」

 

「みんな書類じゃん!」

 

「現場一時間、報告三時間」

 

「嘘だろ」

 

「ちょっと盛った」

 

「どっちだよ!」

 

「でも書類は多い」

 

 さらに奥から、低い声が飛んできた。

 

「深見」

 

 鷲尾宗一が、机から顔も上げずに呼んだ。

 

「お前の昨日の報告、一枚抜けてる」

 

「…………」

 

 深見の動きが止まる。

 

「ほら」

 

 斎賀が指差す。

 

「怖いだろ」

 

「お前は黙って書け」

 

 鷲尾の声が飛んでくる。

 

「俺、関係なくね?」

 

「三日前の報告、時刻が抜けていた」

 

「覚えてんの!?」

 

「直せ」

 

「はいよ」

 

「返事」

 

「はい」

 

 奎星が笑う。

 

「御影先生みたい」

 

「一緒にするな」

 

 鷲尾が即座に返した。

 

「聞こえてんじゃん」

 

 少し離れた机では、久世環が誰かと現場写真を確認していた。奎星が見ていることに気づくと、軽く片手を上げる。奎星も手を上げ返した。

 

 星帰り作戦。あの夜、暗い学校の中にいた人たち。自分が地下で銀の鴉を飛ばしている間、上では彼らが戦っていた。

 

「みんな、ここにいんだな」

 

「全員じゃないよ」

 

 倉橋が答える。

 

「今日はたまたま庁内勤務が多いだけ」

 

「現場行ってる人も?」

 

「います」

 

「やっぱ」

 

 奎星の顔が少しだけ戻る。

 

「いいな」

 

「何が?」

 

「いや」

 

 奎星は笑った。

 

「禍祓官」

 

 そこで、ふと斎賀を見る。

 

 斎賀はもう会話から外れ、紙へ向かっていた。羽根筆を動かし、止まり、何かを思い出して、また書く。いつもの斎賀からは、少し想像しにくい姿だった。

 

「斎賀さん」

 

「んー?」

 

「今ここで何してんの?」

 

「だから書類」

 

「そうじゃなくて」

 

 奎星は倉橋を見る。

 

「もう普通に戻ったの?」

 

 倉橋はすぐには答えなかった。斎賀も筆を止めない。

 

「普通が何かによる」

 

「禍祓官」

 

「以前と同じ、って意味なら」

 

 倉橋は静かに首を横へ振った。

 

「違う」

 

「…………」

 

「斎賀さんがやったことがなくなったわけじゃない」

 

 奎星は黙って聞いた。

 

「本人も、それは分かってる」

 

 斎賀は何も言わない。

 

「だから」

 

 倉橋は机の上の書類を見る。

 

「今、自分にできることをやってるんだ」

 

「できること?」

 

「黒曜の環にいた間に知ったことを話す。関わった案件を整理する。残ってる捜査に協力する。必要なら現場にも出る」

 

「…………」

 

「頼まれたことは、ほとんど断らない」

 

 斎賀の羽根筆が止まった。

 

「倉橋」

 

「何です」

 

「余計なこと言うなよ」

 

「事実でしょ?」

 

「最近、みんな事実って言えば何言ってもいいと思ってない?」

 

 奎星が吹き出した。

 

「学校でもそれ言われる」

 

「だろ?」

 

「でも」

 

 倉橋の声は真面目だった。

 

「罪を償うって、たぶん、何か一つやったら終わることじゃないから」

 

 斎賀を見る。

 

「斎賀さんなりに、続けてるんだと思う」

 

「…………」

 

 奎星は斎賀を見た。

 

 十二年前、御影、真壁、斎賀の三人で出て、三人で帰った禍祓官。そのうち一人が消え、黒曜の環へ落ち、敵として戻った。

 

 それでも星帰りの日、三人はもう一度、同じ敵へ杖を向けた。

 

「…………」

 

 斎賀が顔を上げる。

 

「何だよ」

 

「いや」

 

「言えよ」

 

「カッコいいなって」

 

「俺?」

 

「禍祓官」

 

「俺じゃねえのかよ」

 

「斎賀さんも、ちょっと」

 

「ちょっと?」

 

「書類で死にそうだけど」

 

「やっぱやめろ、禍祓官」

 

「なるかもしんねえよ」

 

「来んな」

 

「人手不足じゃねえの?」

 

「お前来たら事件増えそう」

 

「何でだよ!」

 

 倉橋が笑いを堪え、深見も少し離れたところから笑っていた。鷲尾だけは、机から顔を上げずに言う。

 

「静かにしろ」

 

「はい」

 

 奎星と斎賀の返事が同時に揃った。

 

 *

 

「やっぱ禍祓官、いいな」

 

 法執行局を出たあと、奎星は何となく機嫌がよかった。

 

「さっき、考え直すって言ってなかった?」

 

「書類を見たときだけ」

 

「書類も仕事だよ」

 

「分かってる」

 

「本当に?」

 

「昨日、御影先生にも言われたし」

 

「ならいいけど」

 

「でも」

 

 奎星は歩きながら、少し考えた。

 

「今までより分かった気がする」

 

「何が?」

 

「禍祓官」

 

「どう?」

 

「戦うだけじゃない」

 

「うん」

 

「待つし、調べるし、書くし」

 

「うん」

 

「でも必要なら行く」

 

「うん」

 

「で、帰ってくる」

 

 昨日の言葉が、奎星の中に残っていた。

 

 帰ろうと思え。

 

「そういう仕事なんだなって」

 

 茜は少し笑った。

 

「良い見学だったね」

 

「おう」

 

「じゃあ最後」

 

「監察局」

 

「そう」

 

「真壁さん!」

 

 奎星の歩く速度が上がる。

 

「走らない!」

 

「走ってない!」

 

「それ早歩き!」

 

「学校でも言われた!」

 

「じゃあ直して!」

 

 *

 

 監察局は妙に静かだった。

 

 魔法法執行局のような騒がしさもなく、記録局ほど古びてもいない。濃紺の制服を着た職員たちが、それぞれの机で資料を読み、時折、低い声でやり取りしている。

 

 そして、一番奥。

 

「真壁さん」

 

 返事がない。

 

「真壁さん」

 

「…………」

 

「真壁さーん」

 

「聞こえている」

 

 大量の資料の向こうから低い声がした。

 

「お」

 

 真壁征士郎がいた。

 

 机には資料、資料、資料、さらに資料。その横には、英国魔法省の印章が入った紙まで混じっている。ただし、奎星からは文字までは見えなかった。

 

「何してんの?」

 

「仕事だ」

 

「それは分かる」

 

「なら聞くな」

 

「何の?」

 

「色々だ」

 

「斎賀さんもそれ言ってた」

 

「玄弥と一緒にするな」

 

「みんな書類だな」

 

「魔法省だからな」

 

 真壁は羽根筆を置かず、別の紙を開いて一行読む。その眉間の皺が、僅かに深くなった。

 

 奎星が横から覗こうとすると、真壁の大きな手が無言で紙を伏せた。

 

「見せて」

 

「駄目だ」

 

「何?」

 

「言えん」

 

「事件?」

 

「答えられん」

 

「黒曜の環?」

 

「答えられん」

 

「神代?」

 

「答えられん」

 

「俺、関係ある?」

 

 真壁の手が、ほんの僅かに止まった。

 

 奎星は見逃さなかった。

 

「今、止まった」

 

「止まっていない」

 

「止まったよ」

 

「気のせいだ」

 

「絶対、何かあるじゃん」

 

 真壁は深く息を吐いた。

 

「蓮根君」

 

「何?」

 

「私も、まだ分からん」

 

「…………」

 

 奎星が止まる。

 

「何してるか?」

 

「違う」

 

「じゃあ何が?」

 

「それを調べている」

 

「何を?」

 

「だから」

 

 真壁は額を押さえた。

 

「それが分からん」

 

「…………」

 

 奎星は数秒考えた。

 

「なんだそりゃ」

 

「私もそう思っている」

 

「真壁さんでも分かんねえことあんの?」

 

「いくらでもある」

 

「マジ?」

 

「私は何だと思われている」

 

「何でも調べる人」

 

「違う」

 

「記録する人」

 

「それは否定しない」

 

「あと、御影先生と喧嘩する人」

 

「喧嘩ではない」

 

「斎賀さんを怒る人」

 

「それは合っている」

 

 茜が横で笑った。

 

 真壁はようやく顔を上げる。

 

「見学はどうだ」

 

「面白い」

 

「そうか」

 

「禍祓官、やっぱいいな」

 

「玄一郎から聞いた」

 

「何でみんな知ってんの?」

 

「玄一郎が言ったわけではない。九重院校長からだ」

 

「もっと上だった」

 

「教師も候補だそうだな」

 

「うん」

 

 真壁の口元が僅かに動く。

 

「悪くない」

 

「マジ?」

 

「ああ」

 

「真壁さん、昔の話、今度してくれるって言ったじゃん」

 

「覚えている」

 

「斎賀さんのやらかした話」

 

「山ほどある」

 

「聞きたい」

 

「今度な」

 

「いつ?」

 

「この仕事が片づいたら」

 

「いつ片づく?」

 

 真壁は机の書類を見る。

 

「私が知りたい」

 

「やっぱ分かんねえんじゃん」

 

「そう言っている」

 

 奎星は笑った。

 

「じゃあ頑張って」

 

「ああ」

 

「俺、何か手伝う?」

 

「絶対にいらん」

 

「絶対!?」

 

「学校へ戻れ」

 

「まだ帰らねえよ」

 

「後藤さんと話だって」

 

 真壁の眉が僅かに動いた。

 

「後藤?」

 

「うん」

 

「何の話だ」

 

「知らん」

 

「坪田さん」

 

 真壁が茜を見る。

 

「私も詳しくは」

 

 茜が答えた。

 

「帰る前に、蓮根君へ進路の話があるとだけ」

 

「…………」

 

 真壁は少し黙った。

 

「何?」

 

 奎星が訊く。

 

「いや」

 

「何、その顔」

 

「何でもない」

 

「今日、それ多くね?」

 

 真壁は再び資料へ視線を戻した。

 

「蓮根君」

 

「うん」

 

「進路は」

 

 一度だけ、奎星を見る。

 

「自分で決めろ」

 

「分かってるよ」

 

 奎星は普通に答えた。

 

 真壁はそれ以上、何も言わなかった。

 

 *

 

 午後四時二十分。

 

「疲れた」

 

 本日最後の部屋へ入るなり、奎星は椅子へ座った。

 

「見学でそれ?」

 

「めっちゃ歩いたじゃん」

 

「現場仕事志望なのに」

 

「足と見学は別」

 

「何、その理屈」

 

「頭も使った」

 

「それは良いこと」

 

 場所は、魔法省上層区画にある小会議室だった。中央には長机が置かれ、窓はないものの、壁の一面が魔法によって夕方の東京の空を映している。

 

 その奥に、後藤孝雄が座っていた。

 

「お疲れさま」

 

「おっさん」

 

「後藤さん」

 

 茜がすぐに訂正する。

 

「お疲れ」

 

「どうだった」

 

「すげえ」

 

「そうか」

 

「いっぱいあった」

 

「感想が小学生だね」

 

「歩きすぎて疲れてんの」

 

 後藤は気にせず、一冊の資料を机へ置いた。

 

「何が一番気になった?」

 

「法執行局」

 

「禍祓官?」

 

「うん」

 

「やはりか」

 

「あと災害対策局も面白かった」

 

「国際魔法協力局は?」

 

「冬真先輩いた」

 

「三枝君か」

 

「知ってんの?」

 

「研修採用者の資料は見ている」

 

「何でも知ってんな」

 

「仕事だからね」

 

「記録局も行った」

 

「烏丸先生がいた部署だな」

 

「それも知ってんの?」

 

「君の周囲については一通り」

 

「俺より知ってそう」

 

「前も言ったな」

 

「そうだっけ」

 

「言った」

 

「じゃあ知ってんじゃん」

 

「何が?」

 

「俺より俺のこと」

 

「それは困る」

 

「またそれ言ってる」

 

 茜が小さく笑った。

 

 後藤は資料へ手を置く。

 

「今日、色々見てもらったのは」

 

「うん」

 

「魔法省の中にどれだけ仕事があるか知ってほしかったからだ」

 

「おう」

 

「法を執行する者。災害へ対応する者。歴史を記録する者。国外と交渉する者。魔法社会を一般社会から隠す者。教育を管理する者」

 

 奎星は今日歩いた場所を思い出した。

 

「全部、必要だ」

 

「うん」

 

「ただ」

 

 後藤は一拍置いた。

 

「君の場合、そのどれか一つへ入れるだけでは、少し勿体ないと私は思っている」

 

「…………」

 

「何で?」

 

「君は特殊だからだ」

 

「特殊?」

 

「蓮根清弦の末裔」

 

 後藤は指を一本立てる。

 

「神代榊の現所有者」

 

 二本。

 

「現代における古代魔術の実戦使用者」

 

 三本。

 

「星帰り作戦の中心人物」

 

 四本。

 

「それらすべてを持つ魔法使いは、今の日本に君しかいない」

 

「…………」

 

 奎星は少し嬉しそうになった。

 

「まあ」

 

「顔」

 

 茜が言った。

 

「何」

 

「今、すごい嬉しそう」

 

「褒められてるから」

 

「素直だね」

 

 後藤は資料を奎星側へ滑らせた。

 

「だから」

 

 表紙には黒い文字で、《新設職に関する任用構想》と書かれていた。その下には、さらに大きくこうある。

 

《魔法省特別魔術顧問》

 

「…………」

 

 奎星が読む。

 

「まほうしょう、とくべつまじゅつ……」

 

「顧問」

 

「顧問」

 

「新しい役職だ」

 

「誰の?」

 

「君の」

 

「…………」

 

 奎星が顔を上げた。

 

「俺?」

 

「そうだ」

 

「これ、何?」

 

「私が提案している、新しい職だよ」

 

「新しく作ったの?」

 

「まだ正式な運用前だが、主要な調整は進んでいる」

 

 茜の表情が少し変わった。

 

「後藤さん」

 

「何だ」

 

「私、それ聞いてないです」

 

「今日、初めて説明しているからね」

 

「…………」

 

 後藤は奎星へ向き直った。

 

「卒業後、この役職へ就く気はないか?」

 

 奎星は資料を見る。

 

「何すんの?」

 

「古代魔術、特殊魔法具、霊脈、魔法史上重要な術式。既存の局だけでは判断しにくい案件について、魔法省へ助言をする」

 

「俺が?」

 

「君が」

 

「十八だよ?」

 

「知っている」

 

「まだ学生」

 

「就任は卒業後を想定している」

 

「試験は?」

 

「ない」

 

「…………」

 

 奎星の目が止まった。

 

「ない?」

 

「特別任用だからね」

 

「禍祓官の試験みたいなのも?」

 

「受ける必要はない」

 

「勉強は?」

 

「知識は必要だよ」

 

「必要なのか」

 

「そこは諦めて」

 

 茜が言った。

 

「くそ」

 

「だが」

 

 後藤が続ける。

 

「通常の採用試験は不要だ」

 

「…………マジ?」

 

「マジだ」

 

 その言葉だけ、後藤が奎星に合わせた。

 

「給料は?」

 

「一般の新規採用職員より、かなり高い」

 

「マジ?」

 

「専用の執務室も用意する」

 

「部屋?」

 

「一室」

 

「俺だけの?」

 

「そうだ」

 

「マジ?」

 

「業務を補佐する直属職員も数名つける」

 

「部下!?」

 

「正確には補佐官だ」

 

「俺、十八だよ!?」

 

「卒業時には十九だろう」

 

「そういう問題!?」

 

 奎星は資料をめくった。目がどんどん大きくなる。

 

《古代魔術関連政策への意見提出権》

 

「これ何?」

 

「古代魔術をどう管理するか、研究をどこまで認めるか、危険な魔法具をどう扱うか。そうした政策へ直接意見を出せる」

 

「俺が?」

 

「君が」

 

「神代榊のことも?」

 

「当然、関連する」

 

「清弦の資料とか?」

 

「関連する可能性は高い」

 

 次の頁には、こう書かれていた。

 

《必要に応じた国外視察・国際魔法機関への随行》

 

「海外行けんの!?」

 

「必要があれば」

 

「イギリス?」

 

「あり得る」

 

「フランス?」

 

「あり得る」

 

「アメリカ?」

 

「もちろん」

 

「やば」

 

 さらに頁をめくる。

 

《重要政策会議への特別出席》

 

「これ」

 

「大臣級の会合にも、案件によって出席できる」

 

「大臣!?」

 

「そうだ」

 

「俺が!?」

 

「そうだ」

 

「座っていいの!?」

 

「会議だからね」

 

「俺、端?」

 

「席は用意する」

 

「名前書いてある?」

 

「名札はあるだろう」

 

「うわ」

 

 奎星の目が輝いている。

 

 茜だけが資料を読んでいた。ゆっくりと、最初から、もう一度。

 

「後藤さん」

 

「何かな」

 

「具体的な業務範囲は?」

 

「案件による」

 

「直属は?」

 

「運用上は私の所管で調整する」

 

「評価制度は?」

 

「新設なので、これからだ」

 

「勤務場所は?」

 

「基本は本省」

 

「現場は?」

 

 奎星が反応する。

 

「そう、それ」

 

 後藤を見る。

 

「現場、出れんの?」

 

「必要に応じて視察はある」

 

「戦う?」

 

「それが必要な状況なら、君の力が求められることもあるだろう」

 

「お」

 

 茜の眉が少し寄った。

 

「でも、蓮根君」

 

「何?」

 

「待って」

 

「何が?」

 

「条件が良すぎる」

 

「いいじゃん」

 

「そうじゃなくて」

 

 茜は資料を指す。

 

「採用試験なし、高待遇、専用室、直属職員、政策会議、海外出張」

 

「最高じゃん」

 

「十九歳の新卒に出す条件じゃないよ」

 

「俺、英雄だから?」

 

 奎星は普通に訊いた。

 

 後藤が答える。

 

「それだけの価値があると考えている」

 

「ほら」

 

「ほらじゃない」

 

 茜は少し困った顔をした。

 

 悪い仕事には見えない。古代魔術、政策、国際交流、現場視察。今までの奎星の経験を活かす余地はいくらでもある。待遇もいい。将来性もある。

 

 だからこそ、何かが引っかかった。

 

 仕事の説明を聞いているはずなのに、この役職で奎星が何を成し遂げるのかより、どこへ座るのか、誰と会うのか、どの会議へ出るのか、どういう立場に置かれるのか。そんな話ばかりだった。

 

「蓮根君」

 

「うん」

 

「一回、持ち帰ろう」

 

「えー」

 

「えーじゃない」

 

「めっちゃ良くね?」

 

「良い悪いじゃなくて、進路は即決するものじゃないから」

 

「禍祓官試験、ないんだぞ?」

 

「そこに一番食いつかないで」

 

「給料も高い」

 

「お金は大事だけど」

 

「海外」

 

「それも魅力だけど」

 

「専用室」

 

「絶対、散らかすでしょ」

 

「片づける人いるじゃん」

 

「そういうための直属職員じゃない!」

 

 奎星は笑った。

 

「俺、これやりたい」

 

 茜の笑みが少し消えた。

 

「蓮根君」

 

「だって」

 

 奎星は資料を見る。

 

「面白そうじゃん」

 

「…………」

 

「古代魔術も関われる。清弦のことも調べられるかもしんない。海外も行ける。魔法省の色んな仕事にも関われる」

 

「うん」

 

「しかも試験ない」

 

「最後、余計」

 

「給料高い」

 

「そこも」

 

「部屋ある」

 

「蓮根君」

 

「やりたい」

 

 後藤が小さく頷いた。

 

「そうか」

 

「うん」

 

「なら」

 

 後藤は資料を閉じた。

 

「話を進めておくよ」

 

「おう」

 

「待ってください」

 

 茜がすぐに割って入った。

 

「後藤さん」

 

「何かな」

 

「蓮根君、まだ正式に決めたわけじゃありません」

 

「もちろん」

 

「今、やりたいって」

 

「興味があるという意味」

 

 奎星が言った。

 

「…………たぶん」

 

「ほら」

 

 茜が後藤を見る。

 

「分かっているよ」

 

 後藤は穏やかだった。

 

「正式な任用手続きはまだ先だ。本人の意思も、学校側の意見も、ご家族の意見も必要になる」

 

「なら」

 

「だから、準備だけ進める」

 

「準備?」

 

「席を作るには時間が掛かる」

 

 後藤は何でもないことのように答えた。

 

「制度。予算。人員。権限。関係各局との調整」

 

「…………」

 

「蓮根君が卒業するときに、選べる状態にしておく」

 

 奎星を見る。

 

「選択肢は、多い方がいいだろう?」

 

「おう」

 

「じゃあ」

 

 後藤は立ち上がった。

 

「こちらで進めておくよ」

 

「ありがとう」

 

「礼は、就任してからでいい」

 

「まだ決めてないです」

 

 茜が言う。

 

「そうだった」

 

 後藤は少しだけ笑った。

 

 それから奎星へ手を差し出す。

 

「今日、魔法省を見てくれてありがとう」

 

「おう」

 

 奎星も握る。

 

「面白かった」

 

「それは良かった」

 

「みんな、めっちゃ頭下げてきた」

 

「当然だ」

 

「当然?」

 

「君は」

 

 後藤が奎星を見る。

 

「この国の魔法界に必要とされているからね」

 

「…………」

 

 奎星は少し照れたように笑った。

 

「そっか」

 

「そうだ」

 

 後藤の声は静かだった。

 

「君には、君に相応しい場所がある」

 

 *

 

 午後五時。

 

 帰りの転移区画へ向かいながら、茜はずっと何かを考えていた。奎星は隣で、今日もらった資料を眺めている。

 

《魔法省特別魔術顧問》

 

「顧問かあ」

 

「蓮根君」

 

「ん?」

 

「一個、言っていい?」

 

「おう」

 

 茜が足を止め、奎星も止まった。

 

「私は」

 

 茜は少しだけ言葉を選ぶ。

 

「私は、あれを勧めるために今日蓮根君を魔法省へ連れてきたわけじゃないからね」

 

「うん」

 

「色んな仕事を見てもらって、自分で考えてほしかった」

 

「分かってる」

 

「法執行局も。災害対策局も。国際魔法協力局も。記録局も」

 

「うん」

 

「もちろん」

 

 茜は少し笑った。

 

「蓮根君があれがいいなら、それが一番だよ」

 

「…………」

 

「私の仕事は、蓮根君が選ぶのを手伝うことだから」

 

 奎星は手元の資料を見る。

 

 禍祓官。教師。魔法災害対策。国際魔法協力。魔法生物。そして、魔法省特別魔術顧問。

 

 数日前まで、進路希望調査の紙は真っ白だった。今は、候補が多すぎる。

 

「うーん」

 

 奎星は頭を掻いた。

 

「まあ」

 

 資料を鞄へ入れる。

 

「色々、みんなに相談してみるよ」

 

「うん」

 

「日向とか」

 

「うん」

 

「伊織とか」

 

「うん」

 

「御影先生」

 

「うん」

 

「スズメちゃん」

 

「烏丸先生ね」

 

「今、いないじゃん」

 

「本人がいなくても直します」

 

「こわ」

 

「あと、ご両親」

 

「…………」

 

「忘れない」

 

「高給って先に言おうかな」

 

「仕事内容から話して」

 

「試験ないって」

 

「そこでもない」

 

「海外」

 

「蓮根君」

 

「分かったよ」

 

 奎星が笑った。

 

 目の前では、マホウトコロへ繋がる転移門に青白い炎が灯り始めている。

 

「帰るか」

 

「うん」

 

 今日一日で、奎星はたくさんの未来を見た。

 

 現場へ駆けつける人間。事件を追う人間。記録を残す人間。世界と日本を繋ぐ人間。傷ついた魔法生物を守る人間。そして、自分のためだけに作られようとしている新しい席。

 

 まだ何も決まっていない。決めたつもりもない。ただ一度、《やりたい》と口にしただけだった。

 

 だから、このときの蓮根奎星は、まだ知るはずもなかった。

 

 この日、自分が選びかけた未来が、やがて過去を巻き込み、現在を書き換え、時さえ歪める事態の入口になることなど、思いもしなかった。

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