二〇二七年六月四日、夕方。
「聞いてくれ」
大食堂で夕食が始まってまだ五分も経っていないというのに、東京から戻ってきた蓮根奎星は、すでに三回目となる今日の報告を始めていた。
「また?」
楓が箸を止める。
「今度は何」
「仕事」
「さっきも聞いた」
「ちゃんと聞いてないだろ」
「聞いたわよ。魔法省に新しい仕事を作ってもらったんでしょ」
「そう!」
奎星は身を乗り出した。
「魔法省特別魔術顧問」
「名前長えな」
日向が言う。
「顧問って何すんの?」
「色々」
「一番信用できない説明ね」
「古代魔術とか、霊脈とか、特殊な魔法具とかに意見を出したり」
「うん」
「海外へ行ったり」
「お」
「大臣とかの会議に出たり」
「おお」
「専用の部屋もある」
「おお!」
「あと、部下」
「部下!?」
日向の声が大きくなる。
「俺、卒業したら部下いるかもしんねえ」
「十九歳で?」
楓が訊く。
「そう」
「嫌だわ、十九歳の上司」
「何でだよ」
「朝起きるのに教師が必要な上司でしょ」
「今は起きてる!」
「四時四十分に叩き起こされてるだけじゃん」
日向が笑う。
「でも」
岳が顔を上げた。
「給料」
「そう!」
奎星は岳を指差した。
「そこ!」
「いくら?」
「具体的には聞いてない」
「じゃ分からない」
「でも、普通に魔法省へ入るよりかなり高いって!」
岳の箸が止まった。
「かなり」
「かなり」
「いっぱい?」
「いっぱい」
「食える」
「食える!」
岳の目が少しだけ輝いた。
それを聞いた日向も、すぐに話へ乗ってくる。
「待てよ。お前、金持ちになったら」
「うん」
「めっちゃ良い箒買えるじゃん」
「俺、クィディッチやんねえよ」
「俺に」
「何で!?」
「友達だろ!」
「友達に高級箒買う!?」
「金持ちならいいだろ!」
「自分で買えよ!」
「じゃ、俺がプロになったときスポンサーになれ」
「もっと嫌だよ!」
「《蓮根奎星》って箒に書く」
「ダサくね?」
「失礼だな!」
楓は呆れたように二人を見た。
「お金持ちになったら、もっと普通の使い道を考えなさいよ」
「楓なら?」
「貯金」
「夢ねえ!」
「十九歳で大金を持ったら、まず貯金でしょ」
「旅行」
岳が言った。
「お」
「美味いものを食いに行く」
「いいじゃん!」
「全国」
「英雄活動で行ける!」
「奎星の出張についてく」
「仕事だよ!」
「飯だけ」
「来んな!」
日向は笑いながら指を折った。
「東京で高い肉」
「おう」
「北海道で海鮮」
「おう」
「京都で」
「何?」
「何だろ」
「考えてから言えよ」
「和菓子」
「スズメちゃん喜びそう」
奎星が言うと、楓がすぐに反応した。
「何でそこで烏丸先生?」
「好きそうじゃん」
「ふーん」
「何その顔」
「別に」
奎星は気にせず話を続けた。
「しかもさ」
口元がまた緩む。
「今日、魔法省を歩いてたら、めっちゃ職員に頭を下げられた」
「マジ?」
日向が身を乗り出す。
「星帰りありがとうございました、とか。清弦の子孫ですよね、とか」
「うわ」
「もう魔法省じゃ英雄扱いだぜ」
奎星は胸を張った。
「英雄様」
「おう」
「奢って」
「嫌」
「英雄様」
「嫌」
「お願いします」
「頭下げても駄目」
楓まで笑った。
「でも、すごいじゃない」
「だろ?」
「採用試験もないんでしょ?」
「ない」
「それはちょっと羨ましいかも」
「だよな!」
「試験を受けなくていい人生とか最高じゃん」
日向が言う。
「君は受けな」
伊織が静かに言った。
「何で俺だけ?」
「必要だから」
いつもの調子だった。
ただ、伊織だけは、さっきからあまり笑っていなかった。奎星もそれに気づき、伊織へ顔を向ける。
「伊織」
「何?」
「お前も何か言えよ」
「聞いてるよ」
「どう?」
「待遇はすごいと思う」
「だろ?」
「うん」
伊織は少し考えてから、奎星を見た。
「何をする仕事なの?」
「だから、古代魔術とか」
「具体的には?」
「案件によるって」
「誰の直属?」
「直属っていうか……後藤さんが調整するって」
「評価は?」
「これから」
「仕事の範囲は?」
「それも案件による」
伊織は眼鏡を押し上げた。
「条件の話はすごく具体的なのに、仕事の話はほとんど決まってないんだね」
「新しい仕事だからじゃね?」
「かもしれない」
「何だよ」
「別に反対してるわけじゃないよ」
伊織は味噌汁へ視線を戻した。
「奎星がやりたいなら」
「めっちゃ良さそうじゃん」
「うん」
「伊織も魔法省来れば?」
「まだ考え中」
「じゃ、一緒に働こうぜ」
「同じ部署かも決まってないのに?」
「俺、部下つくから、伊織入れてやるよ」
「絶対嫌」
「何で!?」
「上司が君だから」
「楓と同じこと言ってんじゃん!」
また笑いが起きた。伊織も少しだけ笑ったが、その目は一度、机の上に置かれた資料へ向いた。
《魔法省特別魔術顧問》
少し離れた教師席では、坪田茜も同じような顔をしていた。朝ほど口数がなく、奎星たちの席を見ながら、黙って食事へ箸を伸ばしている。
その隣から、スズメがちらりと茜を見た。
「坪田さん」
「はい?」
「どうしました?」
「え?」
「先ほどから静かなので」
「ああ」
茜は一瞬、奎星の方へ視線を向けた。日向と岳が、奎星が金持ちになった場合の食事計画を勝手に立てている。
「札幌!」
「海鮮!」
「福岡!」
「何だ?」
「美味いもの」
「雑!」
楓が笑い、奎星も笑っている。茜はその様子を見てから、スズメへ視線を戻した。
「別に」
少し笑ってみせる。
「なんでも」
「そうですか?」
「はい」
スズメは数秒だけ茜を見ていたが、それ以上は聞かなかった。
その日の夕食は、いつも通り騒がしく終わった。
*
翌日、二〇二七年六月五日。
「顎、もう少し右です」
「こう?」
「行きすぎです」
「こう?」
「戻りすぎ」
「難しくね?」
「止まってください」
「はい」
マホウトコロ中央庭園で、奎星は昨日まで存在しなかった巨大な反射板の前に立っていた。周囲には魔法省の広報職員が六人、撮影術師が二人、背景を調整している魔法使いが一人、そして坪田茜がいる。
「何か増えてない?」
奎星が目だけを動かす。
「動かないでください」
撮影術師が言った。
「昨日、二人くらいだったじゃん」
「今日は本番ですから」
「本番」
奎星の口元が上がる。
「英雄の?」
「そうですね」
「お」
白い光が走った。
「今の良くない?」
「喋りました?」
「ちょっと」
「もう一枚」
「はい」
神代榊を腰に差した制服姿。腕には銀色の時計。背景にはマホウトコロの校舎。次は杖を持ち、その次は銀の鴉を出す。
「エクスペクト・パトローナム」
銀色の鴉が飛び立つと、撮影術師たちの顔が変わった。
「いいですね。もう少しこちらへ飛ばせます?」
「できる」
「では校章の上を」
「おう」
奎星は楽しんでいた。銀の鴉が空を回るたび、白い光が何度も瞬く。
「これ、ポスター?」
「広報誌、新聞、魔法教育機関向け資料などを予定しています」
「新聞載る?」
「載ります」
「でかく?」
「恐らく」
「マジ?」
「蓮根君」
茜が横から声を掛ける。
「顔」
「何」
「すごい嬉しそう」
「新聞だぞ?」
「うん」
「俺が載るんだぞ?」
「もう何回か載ってると思うけど」
「今回は英雄として」
「そこ大事なんだ」
「大事」
この日は、まだ楽しかった。
*
六月七日、月曜日。
大食堂で昼ご飯を食べていた奎星に、茜が話しかけにくる。
「蓮根君」
「ん?」
「今日、午後の予定が変わったから」
「何?」
「魔法省の広報取材」
「今日?」
「うん」
「何時?」
「五時間目から」
「え、でも俺、今日御影先生の授業──」
「学校側には話を通してあるよ」
奎星が黙るより先に、日向が口を挟んだ。
「授業休めんの?」
奎星の目が動く。
「ラッキー」
「お前」
楓が呆れる。
「あなた…昨日まで進路のために勉強するとか言ってなかった?」
「一回くらいじゃん」
「御影先生の授業だぞ?」
日向が笑う。
「むしろラッキーだろ」
「朝練はあるから」
「最悪じゃん」
「だろ?」
奎星は笑った。
「じゃ、行ってくるわ」
「まだ昼」
「食ってから」
「お土産」
岳が言う。
「魔法省じゃねえって」
「撮影の菓子」
「ある前提?」
「ある」
「分かったよ」
伊織だけが、茜を見ていた。茜は少し困ったように笑った。
*
「星帰り作戦について、当時どのようなお気持ちでしたか?」
「気持ち?」
「はい」
午後、学校内に設けられた臨時取材室で、奎星の正面には魔法界向け新聞の記者が座っていた。
「うーん」
奎星は椅子へ背を預ける。
「帰りたかった」
「帰りたかった?」
「学校」
「なるほど」
「神代を倒そうっていうより、普通に戻りたかったっす」
「普通に?」
「飯食って、授業行って、寮戻って」
奎星は少しだけ言葉を止めた。
「みんなと」
記者が羽根筆を動かす。
「それが、戦った理由ですか?」
「多分」
「素晴らしいですね」
「そうすかね?」
「では」
隣に座っていた広報職員が、一枚の紙を差し出した。
「こちらを」
「何?」
「回答案です」
「回答案?」
奎星が紙を見る。
《伝統あるマホウトコロを守ることは、蓮根家の使命を受け継ぐ者として当然の責務でした》
奎星は黙って紙を読み、もう一度読み返した。
「俺、こんなこと思ってねえけど」
茜の目が動いた。記者が少し困ったように笑う。
「もちろん、そのまま読んでいただかなくても」
「だって俺、清弦が英雄だったってこの前知ったんだぞ」
「そうですね」
「蓮根家の使命とか知らなかったし」
広報職員が答える。
「記事上、背景を分かりやすく整理した表現です」
「俺が思ったことを聞いてんじゃないの?」
「趣旨としては同じです」
「同じ?」
奎星は紙へ視線を落とした。
「俺、帰りたかっただけだよ」
「そこは残します」
「じゃ、これいらなくね?」
数秒の沈黙のあと、奎星は笑った。
「まあいいや。俺の言い方で喋っていい?」
「もちろんです」
「じゃ、続けよ」
このときも、まだ笑っていた。
*
翌朝、大食堂で日向が新聞を広げた。
「おい、奎星」
「何?」
「載ってる」
「マジ!?」
奎星が椅子から身を乗り出す。
魔法界向け新聞の中央近くに、昨日撮った写真がかなり大きく載っていた。制服姿の奎星の背後を銀色の鴉が飛び、その上には大きな見出しが躍っている。
《現代の英雄・蓮根奎星》
「うお」
奎星の目が輝いた。
「でっか!」
「写真いいじゃん」
日向が言う。
「だろ!?」
「実物より賢そう」
「余計だよ!」
楓も横から覗き込む。
「神代榊も写ってる」
「撮影したからな」
岳が記事を読み進め、ふと指を止めた。
「…………」
「何?」
「使命」
「え?」
岳が指を置いた箇所を、奎星が読む。
《蓮根氏は星帰り作戦について、「伝統あるマホウトコロを守ることは、蓮根家の使命を受け継ぐ者として当然の責務だった」と語った》
「…………」
奎星が止まる。伊織も新聞へ目を落とした。
「言ったの?」
「言ってない」
「でも書いてある」
「紙に書いてあったやつ」
「読んだ?」
「読んでない」
「じゃあ」
「何で俺が言ったことになってんの?」
数秒の沈黙のあと、日向が言った。
「でも、めっちゃカッコよくね?」
「…………」
奎星はもう一度記事を見る。写真、銀の鴉、現代の英雄、蓮根清弦の末裔。
「まあ」
少し笑った。
「カッコいいけど」
「だろ?」
「俺、こんな喋り方しねえ」
「『当然の責務でした』」
日向が真似をする。
「やめろ」
「『蓮根家の使命として』」
「やめろって!」
「英雄様!」
「うるせえ!」
笑いが起き、奎星も笑った。新聞を畳む。
まだ、その程度だった。
*
六月八日、火曜日。二時間目の終わりに教室へ入ってきた茜を見た瞬間、奎星は言った。
「蓮根君」
「また?」
「今日は新聞社じゃないよ」
「何?」
「魔法省の広報企画」
「今日、キャリアデザインじゃん」
「その代替扱いになるそうです」
「代替?」
「進路に関係する活動だから」
奎星は黒板へ目を向けた。そこには大きく《職業研究》と書かれている。机の上には、昨日配られた資料が置かれていた。
《興味のある職業を三つ選び、業務内容・必要資格・働き方を調べる》
「これ、やるんじゃないの?」
「後でもできるよ」
「いつ?」
「別日に時間を取るから」
「そっか」
奎星は資料を鞄へ入れた。
「じゃ、行く」
「ごめんね」
「何で坪田先生が謝るの?」
「いや」
茜は少し笑った。
「何でもない」
奎星が教室を出たあと、残った生徒たちは職業資料を広げた。楓は魔法省行政職、岳は魔法生物関係、日向は競技関係。伊織は、最初のうちなかなか筆を動かさなかった。
「術式解析官」
伊織がそう口にしたのは、授業の終わり近くだった。
茜の代わりに授業を担当していた進路資料係の教師が顔を上げる。
「興味がありますか?」
「少し」
伊織は資料を見ていた。魔法事件や事故現場に残された術式を解析する仕事。使われた魔法の構造、魔力の流れ、術式がどこへ接続していたのか、何を目的として組まれたのかを調べる。必要であれば現場へ赴くこともあるが、戦闘を主な仕事とはしない。
調べる。分ける。繋げる。考える。
伊織は資料をもう一度読み返した。霊脈、星帰り、記憶、古代術式。今まで自分たちが何度も向き合ってきたものが、そこにはあった。
「これ」
伊織が小さく言う。
「面白いかも」
*
奎星が教室へ戻ったのは、放課後だった。
「疲れた」
「おかえり」
伊織が本から顔を上げる。
「何してた?」
「広報?」
「写真?」
日向が訊く。
「今日は動画みたいなやつ」
「動くの?」
「魔法省の広報板で流すって」
「すげえじゃん」
「何喋った?」
「また清弦」
「もう先祖の方が出番多くね?」
「俺の広報なのに」
奎星が笑う。
「今日、何やった?」
「キャリアデザイン」
楓が答えた。
「あ」
奎星は机の上へ目を向けた。そこには紙が何枚も増えている。
「職業研究」
「そう」
「何か見つかった?」
「私は」
楓が自分の紙を見せた。
《魔法省・教育管理局》
「ここ」
「教師じゃなく?」
「教師も大事だけど」
楓は少し考えてから続けた。
「学校の制度とか、安全基準とか、予算とか。そっち」
「へえ」
「星帰りのときも思ったけど」
楓の声が少し真面目になる。
「学校って、先生と生徒だけで動いてるわけじゃないでしょ」
「うん」
「ちゃんとした制度を作る側も必要なんだなって」
「楓っぽい」
「どういう意味?」
「ちゃんとしてる」
「褒めてる?」
「褒めてる」
「ならいい」
「岳は?」
「ここ」
岳が紙を見せた。
《魔法生物・妖怪共生局》
「やっぱ!」
奎星の顔が明るくなる。
「昨日言ったじゃん! 絶対合うって!」
「鬼火鳥」
「うん」
「他のも見たい」
「現地へ行くやつ?」
「行きたい」
「岳じゃん」
「うん」
「俺、昨日魔法省でここ行ったけど、マジで岳が好きそうだった」
「行く」
「まだ就職してねえよ」
「見学」
「ああ」
日向が自分の紙を持ち上げた。
「俺は当然これ」
「クィディッチ?」
「おう」
「プロ?」
「目指す」
日向は少し照れくさそうに鼻を擦った。
「まあ、どこまで行けるか分かんねえけど」
「全国得点王じゃん」
「学校だぞ」
「でも」
日向は紙へ目を落とした。
「卒業しても続けたい」
今までのような冗談ではなかった。
「だから、競技を続けられるところを探す」
「いいじゃん」
「だろ?」
「頑張れよ」
「お前、スポンサーな」
「それは嫌」
「金持ちになるんだろ!」
「自分で稼げ!」
笑いが起き、奎星も笑った。
「伊織は?」
「僕?」
「何かあった?」
伊織は机の上の資料を一枚持ち上げた。
「術式解析官」
「何それ」
「事件とか事故で使われた魔法を調べる仕事」
「戦う?」
「それが目的じゃない」
「じゃ、何すんの?」
「術式を読む。魔力の流れを調べる。どう組まれているか、何のための魔法だったかを考える」
奎星は数秒、伊織を見た。
「伊織じゃん」
「僕もそう思った」
「めっちゃ伊織じゃん」
「二回言わなくていい」
「星帰りのときやってたやつじゃん」
「近いね」
「霊脈計算したやつ」
「うん」
「記憶のときもめっちゃ調べてたし」
「うん」
「いいじゃん!」
奎星は自分のことのように笑った。
「それ、なれよ」
「まだ決めたわけじゃないよ」
「でも、やりたい?」
伊織は少し考えた。
「今まで見た中では、一番」
「おお」
「もう少し調べる」
「真面目」
「進路だからね」
「俺だって進路だよ」
「そうだね」
伊織が答える。その言葉に、何か変なものはなかった。
けれど、奎星は自分の机へ目を向けた。今日やるはずだった職業研究の紙は、白いままだった。
「奎星?」
「ん?」
「何?」
日向が訊く。
「いや」
奎星は紙を鞄へ入れた。
「俺は特別顧問あるし」
「強いな」
「試験ない」
「それ毎回言うな」
また笑った。
*
六月九日、水曜日。
「蓮根」
「おう」
四時間目のあと、廊下で御影に呼び止められた。
「五時間目」
「中級生?」
「ああ」
奎星の顔が明るくなる。
「マジ?」
「先週の連中だ」
「また教えんの?」
「補助だ」
「やった」
「浮かれるな」
「今日、何?」
「防御」
「プロテゴ?」
「ああ」
「俺、教えられるかな」
「知らん」
「呼んだの先生だよね!?」
「昼を食ったら訓練棟へ来い」
「おう」
御影はそのまま去っていった。奎星は少し嬉しそうに大食堂へ向かう。
「今日、また中級生を教える」
席へ着くなり報告すると、日向が言った。
「先生」
「蓮根先生」
「悪くない」
「調子乗らない」
楓が言う。
「前より上手く教えられそう?」
伊織が訊く。
「多分」
「コップ以外の説明、考えた?」
「…………」
「考えてないね」
「今から考える」
「遅い」
「プロテゴだからコップ使わねえよ」
「問題はそこじゃない」
奎星は笑いながら昼食を食べた。久しぶりに、午後が楽しみだった。
そのとき、茜が声を掛けた。
「蓮根君」
奎星の箸が止まる。
「何?」
「今日なんだけど」
「何?」
「午後、東京」
「え?」
「都内の魔法教育施設への訪問が入った」
「今日?」
「うん」
「俺、今から御影先生の授業」
「その件は」
茜は一度言葉を止めた。
「学校側には話を通してあるよ」
奎星の表情が固まる。
「御影先生にも」
笑みが消えた。
「俺、行くって言ったんだけど」
「聞いた」
「中級生にも?」
「御影先生から説明してもらうことになった」
「…………」
「蓮根君」
「何で今日?」
「先方の都合と、広報日程が」
「別の日じゃ駄目?」
「私も確認したんだけど」
茜は言いづらそうに続けた。
「後藤さんの方で、もう訪問予定が組まれてる」
日向たちも黙っていた。
「俺、行くって」
奎星はもう一度言った。
「知ってる」
「先週、また来てって言われたし」
「うん」
「御影先生も今日って」
「うん」
茜は答えを待った。奎星はしばらく何も言わなかった。
「何時?」
「十二時四十五分に転移区画」
奎星は腕時計を見る。あと三十分ほどしかない。
「…………分かった」
「ごめん」
「坪田先生が謝ることじゃないだろ」
「でも」
「行くよ」
奎星は残っていた昼食を急いで口へ入れた。
「奎星」
伊織が呼ぶ。
「何?」
「別に、急がなくても」
「時間ないじゃん」
奎星は立ち上がり、鞄を持った。
「じゃ」
「行ってくる」
今度は、誰も「いいな」とは言わなかった。
*
その日の夕方、奎星は研究室の前へ来た。扉を開ける。
「スズメちゃん」
返事はなかった。
机の上に、小さな紙が置かれている。
《本日の補習は明日へ変更します》
「…………」
その下には、さらに一文があった。
《魔法省広報日程変更の連絡を受けました》
そして、その下には。
《問九から問十二まで予習しておいてください》
「増えてんじゃん」
思わず笑った。けれど、誰もいない研究室で、その笑いはすぐに消えた。
昨日も補習はなかった。その前も時間がずれ、今日は中級生の授業へ行けなかった。
奎星は椅子へ座った。机の横には焦茶色のトランクがある。いつもなら、この時間には向こう側にスズメがいて、教科書を開くよう言われ、文字が多いと文句を言い、教科書だから仕方ないと返されているはずだった。
奎星は一人で教科書を開いた。
問九。
文字が並んでいる。
「分かんね」
一人で呟いた。
*
六月十日。
《英雄・蓮根清弦、その意志は現代へ》
六月十一日。
《銀の鴉を継ぐ少年》
六月十二日。
《魔法省、蓮根奎星氏を特別魔術顧問へ迎える方針》
新聞、広報誌、学校へ届く折り鶴。撮影、取材、訪問、予定、予定、予定。
「蓮根君、明後日の午後なんだけど」
「また?」
「地方魔法教育機関との通信交流」
「俺、授業あるよ」
「免除申請が」
別の日には、昼休みから撮影だと言われた。
「飯は?」
「向こうで用意するって」
「日向たちと食うんだけど」
「ごめん」
また別の日には、こんな質問をされた。
「次の質問です。将来、魔法界へどのように貢献したいですか?」
「俺は──」
「こちらが回答案になります」
「また?」
《先祖より受け継いだ使命を胸に、魔法社会の発展と安全のため尽力したいと考えています》
奎星は紙を見た。
「俺、使命って言葉そんな好きじゃねえんだけど」
「表現上です」
「普通に人助けしたい、じゃ駄目?」
「もちろん、その趣旨も含まれています」
さらに別の回答案には、こう書かれていた。
《幼少期より蓮根家の歴史を強く意識していた》
「これは違うだろ」
「背景説明です」
「俺、十七まで魔法使いだって知らなかったんだけど」
「その点は別項で説明します」
「じゃ、矛盾してね?」
「文章はこちらで調整します」
以前なら笑っていた。今も、まだ笑おうとはした。
「俺、何かどんどん昔から英雄だったことになってね?」
広報職員も笑った。
「分かりやすく伝える必要がありますから」
「ふーん」
奎星も笑った。
けれど、その笑いは少しだけ短くなった。
*
「本人は了承しています」
魔法省との通信炎の前で、後藤孝雄は言った。進路相談室で、茜は机の向こうに座り、腕を組んでいる。
「了承してません」
「やりたいと言った」
「興味がある、と本人も言い直しました」
「否定もしなかった」
「後藤さん」
茜の声が少し強くなる。
「十八歳ですよ」
「知っている」
「十九歳になれば、急に全部分かるわけでもありません」
「分かっているよ」
「じゃあ、何でこんなに急ぐんですか」
通信炎の向こうで、後藤は少し考えた。
「機会があるからだ」
「…………」
「今、彼へ注目が集まっている。星帰りから時間が経てば、世間の関心は薄れる」
「だから?」
「本人にとっても有利なうちに土台を作る」
「本人の授業を削って?」
「学校教育も重要だ」
「今週、何時間免除になったと思います?」
「必要な分は補講を組めばいい」
「友達と過ごす時間は?」
後藤は黙った。
「自分で仕事を調べる時間は?」
「坪田さん」
後藤は穏やかなままだった。
「君は彼の進路を支援する仕事だろう」
「そうです」
「なら、彼が望む進路を実現することも仕事だ」
「望んでいるかどうかを」
茜は即座に返した。
「今、調べている途中なんです」
後藤は黙った。
「まだ」
茜は続ける。
「選んでいる途中なんですよ」
「…………」
「だから私がいるんです」
通信炎が少し揺れた。後藤はしばらく何も言わなかった。
「分かった」
ようやく答える。
「今後は日程をもう少し調整しよう」
「お願いします」
「ただ」
一拍置いて、後藤は続けた。
「特別顧問の準備自体は進める」
「後藤さん」
「彼のためでもある」
通信が切れた。
茜は消えた炎を見つめていた。机の上には、奎星が六月一日に書いた自己分析シートがある。
《ちゃんと自分で動けること》
茜はその文字を、しばらく見ていた。
*
六月十四日、放課後。
「今日、進路相談室行く?」
楓が鞄を閉じながら訊いた。
「私は坪田先生に教育管理局の資料を見せてもらう」
「俺、早瀬先生」
日向が言う。
「何で?」
「クィディッチを続けるなら、卒業生で競技を続けてる人を紹介してくれるって」
「おお」
奎星が反応する。
「マジ?」
「おう」
「いいじゃん」
「だろ?」
岳が本を鞄へ入れる。
「鷹司先生」
「岳も?」
「魔法生物保護の仕事を聞く」
「お前ら、めっちゃ進んでんじゃん」
「奎星も進んでるだろ」
日向が言った。
「もう仕事あるし」
「まあ」
奎星は笑った。
「特別顧問」
「勝ち組」
「試験なし」
「それ言うの何回目?」
楓が笑う。
伊織も立ち上がった。
「伊織は?」
「図書室」
「進路?」
「うん」
「術式解析官?」
「もう少し調べたいから」
「まだ調べんの?」
「仕事内容だけじゃなくて、必要な科目とか、採用条件とか」
「真面目すぎ」
「進路だからね」
前にも聞いた言葉だった。
「じゃあ」
日向が扉へ向かう。
「後で寮な」
「おう」
「奎星は?」
「俺?」
「今日、何あんの?」
奎星は予定表へ目を落とした。魔法省から送られてきた紙には、次の予定が並んでいる。
《十六時三十分 広報用追加取材》
《十七時十五分 清弦関連資料撮影》
《十八時 通信打合せ》
「取材」
「また?」
日向が言う。
「うん」
「忙しいな、英雄」
「まあな」
「じゃ、後で」
「おう」
日向が出ていき、楓も続いた。
「じゃね」
「おう」
岳も扉へ向かう。
「飯までには戻る」
「俺も多分」
最後に伊織が残った。扉のところで一度だけ立ち止まる。
「奎星」
「何?」
「今度、術式解析の資料見る?」
「俺が?」
「古代魔術も関係あるから」
「見る」
「じゃ、取っとく」
「おう」
伊織も出ていった。
扉が閉まると、教室は静かになった。
奎星は一人、自分の席へ座っていた。机の上には、日向が置き忘れかけた競技進路資料、楓が書いていた教育管理局の冊子、岳の魔法生物保護資料、伊織の術式解析官の仕事案内がある。
みんな、自分で調べていた。人に聞き、本を読み、迷いながら、まだ決めていないからこそ調べている。
奎星は自分の鞄を開け、中から一枚の紙を取り出した。六月一日、最初のキャリアデザインの授業で書いたものだ。
《自己分析シート》
嬉しかったこと。大変だったこと。大切なもの。二度とやりたくないこと。そして。
《働くうえで譲れないこと》
そこには、自分の字でこう書かれている。
《ちゃんと自分で動けること》
その横には、職業研究の紙があった。白い。
伊織たちは三つずつ調べたのに、自分はまだ一つも書いていない。
進路希望調査には、《第一希望 禍祓官》《第二希望 教師》と書いた。なのに最近、御影の授業へ行けていない。中級生へ教える約束も潰れ、スズメの補習は何度もずれた。
禍祓官のことを調べようと思っていた。教師の仕事も、もっと聞こうと思っていた。災害対策局も面白かったし、国際魔法協力局も、魔法生物の仕事も気になった。魔法省見学の日には、知らない仕事をたくさん見つけた。どれも、もっと知りたいと思った。
でも、その翌日から、自分が調べたのは何だっただろう。
清弦の記事。撮影の時間。取材の質問。広報用の回答。学校訪問の日程。自分の写真。
《現代の英雄・蓮根奎星》
教室の時計が鳴った。午後四時十五分。取材まで、あと十五分だった。
「あ」
奎星は腕時計を見る。
「行かなきゃ」
自己分析シートを鞄へ戻そうとして、手が止まった。
《ちゃんと自分で動けること》
もう一度、その文字を読む。
廊下の向こうから、日向の声が聞こえた。
「早瀬先生! 卒業生って誰!?」
「声がでかい!」
少し離れた場所から、楓の声も聞こえる。
「だから資料は持ってきましたって!」
岳の低い声も聞こえた。伊織は、もう図書室へ向かったのだろう。
みんな、自分の未来へ向かって歩いている。
まだ何になるか決めたわけではない。迷っている。調べている。失敗するかもしれないし、途中で変わるかもしれない。それでも、自分で選ぼうとしている。
奎星は机の上の二枚の紙を見た。
《職業研究》
真っ白な紙。
その横にあるのは。
《現代の英雄・蓮根奎星》
新聞の切り抜き。
急に、少しだけ、置いていかれているような気がした。