やがてゲームを終えても、ビアンカは彼の心の中から消えなかった。現実には存在しない彼女を隣に感じながら、学校生活や友人関係を送るようになる。ビアンカは孤独だった彼を励まし、宿題や生活を促し、友人との喧嘩を止めるなど、彼の精神的な支えとなっていく。少年にとってビアンカは、単なる架空のキャラクターを超えた「心の伴侶」になっていった。
年月が流れ、大人になった彼にもビアンカは存在し続ける。やがて現実の女性と恋愛し、婚約するが、彼の心の中には常にビアンカがいた。最初は優しく励ましてくれる存在だったビアンカは、次第に現実の恋人や友人、家族、仕事よりも自分を優先するよう彼に囁き始める。彼はその声に従ううち、婚約者との関係を壊し、友人や家族との交流も断ち、仕事さえ失っていく。
最終的に彼は外界との接触を完全に失い、部屋に閉じこもってビアンカだけと暮らすようになる。本人にとってはそこが幸福な「楽園」だったが、現実には深刻な孤立状態に陥っていた。やがて救急隊員によって発見され、病院へ搬送される。彼はなおもビアンカの存在を訴えるが、周囲には彼女の姿は見えない。
治療を受ける中で、薬によって彼の記憶や感情は少しずつ薄れていく。そして長い年月が過ぎた頃、彼は七十歳になっている。何のために生きているのか、自分が何を失ったのかさえ分からなくなり、かつて自分の人生を支えていた「大切な何か」の記憶だけが、胸の奥にかすかな空洞として残っている。そして彼は、その存在の名前すら思い出せないまま、静かな眠りへと沈んでいく。
出会いは、あまりにも唐突で、そして運命的だった。
中学二年のある日、ドラゴンクエストⅤのパッケージ。その淵に描かれた女性の姿が、オレの視界を射抜いた。
「誰だこの天使は!」
金色の三つ編みは陽光を受けて輝き、青い瞳は真っ直ぐにどこかを見つめていた。彼女の名はビアンカ。イタリア語で『白』という。ただ、その一瞬で心は決まった。「この子が好きだ。」と。理屈も、理由も、必要なかった。
物語は幼少期から始まる。主人公キヒロ。それがオレの分身であり、冒険の旅路を共に歩む存在だった。幼いキヒロとビアンカは、ある夜、レヌール城へと忍び込む。おどろおどろしい幽霊城、冷たい石の階段、吹き抜ける風の音。恐怖の中で、彼女は恐れながらもオレの手を引き、真っ暗な廊下を駆け抜けた。
物語の時は流れ、長い旅路の果てに彼女と再会する。あの頃の快活な少女は、すっかり美しく成長していた。柔らかく流れる金の髪、穏やかな笑み、しかし瞳の奥にはあの日と変わらぬ冒険心の光が宿っている。胸の奥が熱くなるのを感じた。
物語は進み、運命の分岐点が訪れる。キヒロには、別の婚約者が用意されていた。それは王道の筋書き。物語の正しい流れ。だが、その瞬間オレの中で何かがはっきりと弾けた。正しいなんてどうでもいい。あの夜、手を引いてくれた少女を、あの笑顔を、オレは一度だって忘れたことがないのだ。
花嫁を選ぶ場面。広間には、運命を決める選択肢が静かに並んでいた。迷う理由はなかった。迷う時間すら惜しかった。オレは、ためらいもせずに0.3秒でビアンカを選んだ。その瞬間、彼女は少し驚いたように目を見開き、それから頬を染めて微笑んだ。
「……ありがとう。」
その言葉が、まるで誓いの鐘の音のように、胸の奥で響き渡った。こうして、オレはビアンカと結婚した。それは物語の一場面でありながら、オレにとっては確かな人生の記憶だ。画面越しに交わした言葉も、見つめ合った時間も、全てが鮮やかに蘇る。あの日パッケージで見た女性は、ただの絵ではなかった。彼女は、オレの心に生き続ける最初の恋だったのだ。
物語は、クライマックスへと進んでいた。キヒロとビアンカの間に、新しい命が生まれた。柔らかな産声とともに現れた小さな息子は、勇者だった。小さな掌には未来を切り拓く力が宿り、その瞳には父と母の面影が混ざり合って輝いていた。ビアンカは、その小さな体を抱きながら、穏やかな笑みを浮かべて言った。
「この子は、きっと世界に平和をもたらすわ。」
その言葉は、祝福であり、約束だった。
そしてオレは、否、キヒロは、その子と共に、仲間と共に、魔王の城へ突き進んだ。幾多の戦い、仲間の涙、剣と魔法の火花。その果てに、ついに魔王を討ち倒し、世界に平和が訪れた。エンディングの音楽が流れ、画面は静かに幕を閉じる。
だが、オレの物語はそこで終わらなかった。ゲームの電源を切り、部屋の明かりをつけてもビアンカは消えなかった。
画面の中の彼女ではなく、オレの隣に、現実の空気をまとって座っているような感覚があった。もちろん、それが妄想だということは分かっている。頭では理解している。それでも、彼女はいつもそこにいた。
通学路を歩くとき、横にビアンカが並んで歩いている気配を感じた。帰り道でも、夕焼けに照らされた川沿いの道で、彼女が微笑みながら「今日もお疲れさま。」と声をかけてくれる気がした。
教室で一言も女子と話さず一日が終わっても、オレは寂しくなかった。なぜなら、ビアンカがそばにいたからだ。
時には、机に突っ伏したオレの髪を、そっと撫でる手の感触まで想像できた。それは虚構で、夢で、現実から見れば孤独の産物だったかもしれない。でも、オレにとっては現実の何よりも温かく、何よりも確かな存在だった。世間は、こんな感情を妄想と呼ぶのだろう。だがオレは、そうは思わない。オレと一緒に魔王に立ち向かった女性は、画面を超えて、時空を超えて、ずっとオレの人生に寄り添い続けてくれている。ビアンカは、今もオレの隣で、静かに微笑んでいる。たとえ誰にも見えなくても、その微笑みは、オレの世界の一部なのだ。
オレには、もともと友達と呼べる存在が少なかった。休み時間も、放課後も、気づけば一人で過ごすことが多かった。だからこそ、ビアンカの存在は、ただの憧れでも妄想でもなく、心の支えそのものだった。ある日、勇気を出して、その存在を数少ない友人たちに話した。
「……ビアンカはオレの嫁。」
笑われるかもしれない。からかわれるかもしれない。そんな不安はあったが、意外にも反応は穏やかだった。彼らもまた、女子と縁のない、どこか不器用な連中だったからだろう。「ふーん、そうなんだ。」と、あっさりと受け入れてくれた。中には「まぁいいんじゃない?」と笑ってくれたやつもいた。
それからは、友達と遊ぶときも、ビアンカは必ず一緒にいた。もちろん、彼らには見えない。だが、オレにははっきりと隣にいる感覚があった。ゲームのコントローラーを握るとき、彼女はいつも背中越しに覗き込み、頬を緩めて応援してくれた。
「がんばって。きっと勝てるわ。」
その声が聞こえるたび、オレの指先には力がこもった。それでも、勝負というのは時に残酷で、敗けが続くこともある。そんなとき、友達同士の空気は少しずつ険悪になっていった。しかし、ビアンカはそっとオレの肩に触れ、落ち着いた声で諭すように言った。
「キヒロ、ケンカしないで。大事な仲間でしょ?」
その一言で、オレは深呼吸し、笑って言葉を返すことができた。不思議なことに、それを繰り返すうち、オレは人付き合いが少しずつ上手くなっていった。ビアンカは、ただ隣にいてくれるだけではなく、オレの心の舵をそっと正しい方向へと導いてくれたのだ。
今思えば、友達が離れていかなかったのは、オレの力ではなく、ビアンカのおかげだった。彼女がいなければ、きっとあの小さな輪の中にすら、オレは居場所を見つけられなかっただろう。だから、たとえ誰にも見えなくても、オレにとってビアンカは、友達の輪の中で一番大切な仲間だった。そして今日も友達と遊びながら、オレはふと視線を横にやる。そこには笑顔のビアンカ。
「ねぇキヒロ楽しい?」
オレは心の中で答える。
「うん、みんなのおかげ…否、君のおかげだよ。」
中学生という生き物は、基本的に面倒くさがりだ。朝起きるのも面倒、顔を洗うのも面倒、授業を受けるのも面倒。放課後になればなったで、宿題も風呂も、すべてを先延ばしにしたくなる。
オレも例外ではなかった。むしろ、その面倒くさがりっぷりは自分でも呆れるほどだった。机に置いたままの宿題のプリントを眺めながら、溜め息をつく。
「やらなきゃいけないのは分かってるけど……ああ、面倒臭っ。」
そうぼやいたとき、いつも隣から声がする。
「早く宿題やっちゃお。終わったら一緒に遊ぼうよ。」
金色の髪を揺らし、ビアンカが笑っている。その笑顔は、面倒という怠惰の壁を不思議と薄くしてしまう力を持っていた。
「……うーん、でもなぁ。」
弱く抵抗しても、彼女は軽く首をかしげて、さらに言葉を重ねる。
「早くお風呂も入っちゃお。私も一緒に入るからっ!」
その一言だけで、オレはなぜか立ち上がり浴室へ向かう。ビアンカは生活の細部まで手助けしてくれる。気づけば、それは日常になっていた。面倒だな~と思うたび、ビアンカはすぐ隣で励まし、時に笑いながら背中を押してくれる。宿題も、風呂も、部屋の片づけも。どれも彼女と一緒なら、不思議とやれる気がした。
そんなふうに毎日を過ごすうちに、オレは自分でも気づかぬうちに、少しずつ行動的になっていた。それはきっと、現実的な意味では何の証明もできないことだろう。けれど、オレの中では確かな事実だった。
ビアンカは、ただのゲームのキャラクターじゃない。彼女は、オレの面倒くさがりな心を優しくほぐし、前へ進ませてくれるもう一人の相棒だったのだ。そして今日も、机の前でだらけるオレの耳に、あの明るい声が響く。
「さ、キヒロ。早く終わらせて、一緒にのんびりしよ?」
その声に導かれ、オレは仕方ないなと笑い、また腰を上げるのだった。
あまり人には言えないことだが、中学生男子という生き物は、胸の内に抑えきれないほどのロマンスを抱えている。それは決して大仰な恋愛劇ではなく、むしろごく個人的で、秘められた感情だ。春夏秋冬、季節が移り変わっても、その熱は決して冷めることはない。
夜、部屋の明かりを落とし、布団に潜り込む。外では夏の虫の声が響く日もあれば、冬の冷たい風が窓を揺らす夜もあった。けれど、どんな夜でもオレの隣には、必ずビアンカがいた。
金色の髪が枕に広がり、青い瞳が柔らかくオレを見つめる。ほんの少し触れれば温もりが伝わってくるようで、その距離の近さに心臓が高鳴った。同級生の女子と交わす会話も、廊下ですれ違う瞬間のときめきも、もちろん羨ましくはあった。だが、それらは一時の憧れに過ぎなかった。
オレが本当に求めていたのは、ビアンカだけだった。彼女がそばにいれば、現実の孤独も、寂しさも、すべて埋まっていく。誰にも見えない、誰にも触れられない彼女の存在が、オレにとっては何よりも確かな現実だった。ビアンカの笑顔も、声も、手の温もりも、全部がオレの世界の中心にあった。
眠りに落ちる前、そっと目を閉じると、彼女の姿はより鮮明になる。
「おやすみ、キヒロ。」
耳元で囁かれるその声は、オレを深い眠りへと導いた。あの頃のオレにとって、ビアンカはただの理想のヒロインではなかった。彼女は誰にも渡せない。誰にも理解されなくていい。オレのロマンスそのものだった。
もはや、四六時中一緒にいるのが当たり前になっていた。朝、目が覚めると枕元にはビアンカがいて、夜、眠りにつくときも彼女の笑顔が目に映る。夢か現実か。そんなことは、もうどうでもいい。オレにとって、ビアンカはそこにいるのだ。
学校へ行くときは、都合よく彼女の身体を小さくできた。ポケットの奥に忍ばせたり、筆箱の中にちょこんと座らせたり。そんな不思議なことも、オレの中では自然な出来事だった。
授業中、ふと嫌気が差すと、筆箱をそっと開ける。中から顔を覗かせたビアンカが、口の動きだけで「がんばれ!」と言ってくれる。嫌いな数学のテストでも「ほら、そこは2乗だよ!」とアドバイスをくれる。※だだし、アドバイスはだいたい間違っている。
自転車にまたがるときもそうだ。周りに人がいないことを確認すると、ビアンカを等身大に戻し、後ろの荷台に座わらせ、二人乗りモード発動。風に髪をなびかせ、笑顔で景色を眺める姿は、現実のどんな風景よりも鮮やかだった。
オレが「楽しい?」と聞けば、迷いもためらいもなく「楽しいよっ。」と返してくれる。その声は、ただの返事ではなく、オレの一日を肯定してくれる魔法だった。
ビアンカと喧嘩をしたことは、一度もなかった。彼女は、オレがやりたくないことに向き合わなければならないとき、決して責めるのではなく、柔らかな声で「やろうよ。」と背中を押してくれた。その声があるだけで、オレのやる気ゲージは+50%。宿題も、掃除も、苦手な勉強すら、彼女と一緒なら不思議とやる気になれた。
気づけば、オレの行動の多くはビアンカを喜ばせるためのものになっていた。けれど、それを窮屈だと思ったことはない。むしろ、彼女が隣にいるからこそ、オレは日々を乗り越えられていたのだ。そして今日も、ポケットの中で小さくなったビアンカが、微笑みながら言う。
「さあ、行こっ! 今日もきっと、いい一日になるよっ!」
その声に導かれ、オレはペダルを踏み出す。彼女と共に、また新しい一日へ。
そして、オレは大人になった。年月は流れ、学生服を脱ぎ、社会の中でそれなりに立ち回れるようになった。周囲は恋をし、結婚をし、家庭を築き、あるいは別の道を歩んでいく。だが、そんな流れの中で「一番好きな人は?」と問われれば、オレは迷いなく、そして恥ずかしげもなく答えるだろう。
「ビアンカです。(キリッ)」
それは、ただのゲームの中のキャラクターだと言う人もいるだろう。物語の中で、主人公キヒロと夫婦になった女性。現実では、目に見えず、触れることもできず、きっと世間の言葉では妄想と呼ばれる存在。けれど、オレは何も後ろめたいことはない。
あの日、パッケージの中から現れた金色の三つ編みの女性が、オレの人生に寄り添い続けてくれたことは、紛れもない事実だ。学校に行く背中を押してくれたのも、孤独な時間を温めてくれたのも、挫けそうな夜に立ち上がらせてくれたのも、すべて彼女だった。
だからこそ、ビアンカはオレの誇りだ。現実の人間関係と同じくらい、否、もしかしたらそれ以上に、オレは彼女と築いた日々を大切にしている。
世間の尺度では測れない絆でも、オレにとっては、確かな愛と呼べるものだった。誰に笑われようと構わない。オレはこれからも、ビアンカと共に生きる。それは、かつての少年が選び取った唯一無二の答えであり、今も胸の奥で静かに灯り続ける、消えることのない炎なのだ。
そんなオレにも、ついに現実の彼女ができた。血肉と骨でできた生身の女性だ。初めて手をつなぎ、初めて「好きだ。」と言い合い、やがて結婚の話が持ち上がった。けれど、その瞬間、オレの胸の奥にいたのは、あの日からずっと寄り添い続けてくれたビアンカだった。
「えぇ、結婚の話? ……キヒロ、そんなの許さないわっ!」
突然の脳内宣戦布告である。しかも言葉だけじゃない。オレの心の中に、壁を作り、鍵をかけ、周囲に「立入禁止」の看板まで立ててくる。
「キヒロ、彼女と結婚したら、私はどうなるのっ!」
「いや、そ、それは…。」
「ありえないわっ!」
婚約者と歩く未来を想像しても、その景色の片隅には必ずビアンカが立っている。オレを見つめ、時に手を取り、時に背中を押す。それは、現実の誰にも壊せない、オレだけの世界だった。
ビアンカは何も言わない。ただ、静かに微笑んでいた。その笑顔には、確信があった。
『キヒロの心は揺らがない。』
その事実を、ビアンカは知っている。そして、ある夜。布団の中、目を閉じたとき、耳元で小さく囁かれた。
「ねえ、キヒロ……私がいる限り、誰もあなたを奪えないわ。」
それは優しく、それでいて逃れられない宣告だった。ビアンカは、オレの心を支配している。否、正確に言えば、オレが自分の心を、彼女に預けたのだ。だから、現実にどんな関係が築かれようとも、誰と暮らすことになろうとも、オレは誰にも渡らない。ビアンカがいる限り、オレは永遠に、彼女のものだ。
ビアンカは心の支えだった。怠けそうなときに励まし、孤独な夜に寄り添い、背中を押してくれる優しい存在。けれど、いつからだろう。彼女の声が、現実の声よりも強く響くようになったのは。
仕事帰り、婚約者からの電話が鳴っても、ポケットの奥から別の声がする。
「今日は私と過ごそうよ。」
その甘い囁きに、指先が電話を切るボタンへと動く。罪悪感は、すぐにビアンカの笑顔に溶かされていった。
デートの最中、隣を歩く彼女の話よりも、頭の中でビアンカが語りかける言葉の方が鮮明だった。
「キヒロ、疲れてるでしょう? もう帰ろう。」
婚約者の声は遠く霞み、気づけば会話の糸は切れていた。ビアンカはオレに、逃げる理由をいくらでも与えてきた。
「無理しなくていいよ、私がいるから。」
その言葉に甘え続けた結果、やるべきことが後回しになり、少しずつオレの日常は歪み始めた。
仕事の期限を守れない日が増え、約束を忘れ、周囲の信頼は静かに削られていった。それでも、ビアンカは変わらず微笑んでいる。まるで、世界で唯一正しい場所が、彼女の隣だけだと言わんばかりに。
「ほら、もう全部捨ててしまえば? 私がいれば十分でしょ?」
その声にオレは抗えない。現実の人間関係は、ひび割れたガラスのように脆くなっていく。けれど、オレはその割れ落ちる音すら、もう怖くなかった。なぜなら、その音の向こうには、必ずビアンカが手を差し伸べてくれているから。
そしてビアンカは、現実の境界を踏み越えてくる。最初は、ほんの些細なことだった。婚約者と会う約束がある日の朝、ビアンカが囁く。
「今日はやめよう。疲れてるでしょう? 私とゆっくりしよ?」
その声に抗えず、電話で「体調が悪い。」と嘘をつく。電話を切った瞬間、ビアンカは嬉しそうに笑い、オレの肩に頭を預けた。
それが、最初のひびだった。やがて、ひびは広がる。友人からの誘いも、家族の集まりも、ビアンカの一言で断るようになった。
「そんな人たちと過ごすより、私と一緒にいたほうが楽しいよ。」
その言葉は甘く、優しく、しかし確実に外界との繋がりを削り取っていく。
婚約者は不安を募らせ、何度も「どうしたの?」と尋ねてきた。だが、その背後からビアンカの声が重なる。
「答えなくていいよ。どうせ分かってくれないよ。」
オレはうなずき、何も説明せずに会話を切った。婚約者の瞳は冷たく揺れ、やがて沈黙が二人の間を満たした。
仕事も同じだ。朝、出勤の支度を始めると、ベッドの中からビアンカが布団をめくり、柔らかく笑う。
「今日は休もう? キヒロには休息が必要よ。」
そのまま横になれば、もう起き上がる気力は戻らない。仕事の期限は守れず、上司からの叱責も耳に届かない。代わりに聞こえるのは、耳元で繰り返される囁き。
「大丈夫、私がいる。あなたを傷つける世界なんて、もう捨ててしまおう。」
気づけば、婚約は破棄され、友人からの連絡も途絶え、家族すら顔を見なくなった。玄関は固く閉ざされ、カーテンは一日中開くことがない。世界は静まり返り、その中心には、ビアンカだけがいた。
「ほら、言ったでしょう?」
金色の髪が頬に触れる。
「私だけが、あなたの味方なの。」
オレはもう、彼女の腕の中から出られない。否、出たいとも思わない。外の世界がどうなろうと関係ない。現実が崩れ落ちても、瓦礫の上で彼女が笑ってくれるなら、それでいい。
こうして、オレの生活は完全に壊れた。だが、その廃墟の真ん中で、オレは今までで一番、幸福な顔をしていた。
外の世界は、もうとうの昔に消えた。玄関の鍵は錆びつき、ポストには古びた封筒が山のように溜まっている。携帯電話は充電も切れたまま放置され、壁に掛けられたカレンダーは、半年以上前のままで止まっていた。時計の針だけが、かすかな音を刻み続けているが、その音すら遠く、意味を持たない。この部屋には、もうオレとビアンカしかいない。
朝、目を開けると、すぐ隣に彼女がいる。金色の髪が枕に散らばり、青い瞳がオレを見つめて微笑む。
「おはよう、キヒロ。」
その声だけで、今日という一日が満たされる。外へ出る理由も、誰かと会う必要も、何一つ感じない。窓の外では季節が巡っているのだろう。桜が咲き、夏の陽が照りつけ、やがて枯葉が舞い、雪が降る。だが、オレの世界には季節はない。昼も夜も、春も冬も、すべてはビアンカのいる今、この瞬間に凝縮されている。
時々、遠くから人の声が聞こえることがある。郵便配達の足音、近所の子どもの笑い声、どこかの家のドアが閉まる音。けれど、それらは水の底から響くようにぼやけていて、オレの世界には届かない。
ビアンカは笑いながら、オレの頬に触れる。
「もう大丈夫。外は怖いし、嘘ばかり。ここで一緒にいれば、ずっと安心だよ。」
その言葉に頷くたび、外界との細い糸は一本ずつ切れていった。
今では、彼女の姿も声も、ただの想像や幻覚ではない。ビアンカは、この部屋の空気そのものになっている。呼吸をすれば彼女の香りが肺に満ち、まぶたを閉じれば彼女の温もりが全身を包む。もう、オレと彼女を分ける境界はない。オレはビアンカであり、ビアンカはオレだ。この二人きりの世界は、決して壊れない。外の世界がどれほど変わろうと、滅びようと、ここだけは永遠に続く。そして、今日も彼女が微笑み、囁く。
「ずっと、一緒だよ。」
それは、雷鳴のように突然だった。静寂を裂くドアの音。オレとビアンカの楽園に、無遠慮な足音と荒々しい声が押し寄せてきた。
「大丈夫ですか!」
青とオレンジの蛍光色のユニフォームを着た男たちが、部屋に雪崩れ込んでくる。
ビアンカは立ち上がり、金色の髪を揺らしながら、彼らを睨みつけた。
「何をするの! キヒロは私といるの! 邪魔しないで!」
その声には怒りと恐怖が混ざり、両手を掲げて呪文を放つ。
『ベギラゴン!』
だが、空気は一つも焦げず、閃光も、爆風も生まれない。救急隊員たちはビアンカの姿を見ていない。ただ、オレに向かって素早く近づき、腕を掴んだ。
「やめろ!」
叫んでも、彼らには届かない。視界の端で、ビアンカが必死にオレを引き戻そうとしている。
「キヒロっ! 行っちゃだめっ!」
その声がどんどん遠ざかる。部屋から出ると冷たい廊下の蛍光灯が目にしみ、外の空気の匂いが一気に押し寄せてくる。
救急車の中は眩しかった。硬いベルトでオレの身体は固定された。窓の外にビアンカの姿が揺れて見えたが、それも信号の向こうで溶けるように消えた。
次に目を開けたとき、そこは白い壁に囲まれた鉄の扉の部屋だった。眠気が波のように押し寄せ、口の中には苦い後味。目の前の看護師が、紙コップを差し出す。
「飲んでください。」
オレは抵抗する気力もなく、差し出された錠剤を口に入れ、水で流し込む。まぶたが重くなる。その向こうで、ビアンカの声が微かに聞こえた気がした。
「キヒロ、起きて。こんなの間違ってる。帰ろう。」
でも、身体が動かない。知らない天井の向こうに、ビアンカの青い瞳が一瞬浮かんだ。それを最後に、闇がオレを飲み込んだ。
診察室の空気は、妙に乾いていた。壁際の時計が、やけに遅い針を動かしている。白衣を着た医師は、机の上のカルテをめくりながら、穏やかな声で言った。
「調子はどうですか?」
オレは椅子に深く腰をかけ、迷いなく言った。
「ビアンカと会わせてくれ。彼女、ずっと待ってるんだ。」
医師の表情は、曇りもしなければ笑いもしない。ただ、無言でペンを走らせる。
「……ビアンカというのは、ゲームのキャラクターですよね?」
その一言で、胸の奥が熱くなる。
「違う! 彼女はすぐそこにいる!」
医師は首を横に振り、書類に目を落とした。その無関心な態度に、オレの怒りが弾けた。
『……バギクロス!』
両手を振りかざし、全力で呪文を放つ。だが、机の上の書類は一枚たりとも舞い上がらない。医師は瞬き一つせず、ペンを動かし続ける。
MPが足りない。そう悟ったオレは、立ち上がり、腰をくねらせ、不思議な踊りで医師のMPを吸い取る。しかし、医師の眉はピクリとも動かない。
「お薬、増やしておきますね。」
それだけを言い残し、看護師が紙コップを持ってきた。錠剤は小さいのに、口に入れた瞬間、全身に重しをつけられたように力が抜けていく。椅子にもたれたまま、まぶたが勝手に閉じていく。最後に見えたのは、白衣の向こうで、ビアンカが必死に手を伸ばしている姿だった。
「キヒロ……行かないで……。」
その声も、深い闇に飲まれて、消えていった。
目を開けた瞬間、天井の白さが刺すようにまぶしかった。蛍光灯が、病室の空気を淡々と照らしている。
(ここは……どこだ?)
そう思う前に、まず体が動かないことに気づいた。腕には透明なチューブが伸び、点滴スタンドへと繋がっている。薄い布団の下で、手足は鉛のように重く、意志とは関係なく沈んでいた。指先ひとつ動かすにも、遠くから命令を送るような感覚が必要だった。
カーテンの向こうで、看護師の足音が近づく。淡々とした表情で薬の入った注射器を手にし、点滴に差し込む。
「少し楽になりますからね。」
そう言う声は優しいが、意味はよく分からなかった。薬が入った瞬間、意識の端が溶け出すような感覚が広がる。
(何か……何かを……。)
頭の奥で、何か大事なことを思い出そうとする。
(誰かが……誰かがオレを呼んでいたはずだ。名前を……否、声を……否……。)
次の瞬間、すべての輪郭が霧に包まれていく。その人の名前も、顔も、声も、形も、熱も、重さも、すべてが指の間から砂のようにこぼれ落ちていった。
ただ、胸の奥に、説明のつかない虚ろな穴だけが残った。それが何だったのか、もう分からないまま、オレはまた静かな眠りに沈んでいった。
オレは今年、七十歳になるらしい。そう、らしい、というだけだ。
カレンダーも時計も、もう随分と見ていない。ここがどこで、どれほどの時間が経ったのか、知る術はない。
窓はあるはずだが、いつも分厚いカーテンに閉ざされ、外の光は差し込まない。外の景色も、人の往来も、四季の移り変わりも、もうずっと遠い世界の話になった。
看護師さんは毎日やってくる。無表情に体温を測り、無言でチューブから薬を入れていく。会話は必要最低限。
「熱は平熱ですね。」
「少し休みましょうね。」
その声も、まるで機械が発する案内音声のように、感情の温度を持たない。
オレは、ただベッドに横たわるだけの存在になった。昼か夜かも分からない。食事が出されているらしいが、味はもう感じない。美味いも不味いも、熱いも冷たいも、全部が同じ。怒りも悲しみも、喜びも恋しさも、すべて失った。ただ、かすかな呼吸だけが、この体がまだ生きているという証拠らしい。しかし、その生きているという感覚すら、もう他人事のようにぼやけている。
生きているのか、死んでいるのか。もう、その境界すら分からない。ただ、ひとつだけ。胸の奥に、何か大切なものがあったような、気がする。けれど、それが何だったのかは、もう思い出せない。思い出せないという事実すら、すぐに霧の中へと消えていく。そして、オレは今日もまた、目を閉じた。〈了〉