『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 封印都市ヤーナム』 作:丹波りん
視界が、はっきりしない。
頭に霞がかかったような、重い倦怠感がある。
ルヴィアはゆっくりと息を吸った。
深く。
ゆっくりと吐き出す。
「……落ち着きなさい」
自分自身に言い聞かせる。
目を閉じる。
そして、自身の魔力を魔術回路にゆっくりと巡らせた。
体の中心から血液が循環していくようなイメージ。
胸から肩へ。
腕へ。
指先へ。
そこから再び身体の中心へ戻ってくる。
淀みなく。
焦らず。
いつも通りに。
幼い頃から何度も繰り返してきたことだ。
魔術師として生きるために、呼吸をするのと同じように身につけてきた。
だから。
大丈夫。
いつも通りだ。
そう思った瞬間。
ぼやけていた焦点が、少しずつ合っていく。
最初に見えたのは、広い通路だった。
「……?」
両側の壁際には、巨大な書棚が並んでいる。
そこには無数の本が収められていた。
付近の扉のプレートにはメンシス教室棟1F第3教室と書かれてある
メンシス
メンシス学派…
人がいる。
一人や二人ではない。
何人もの人間が、通路を行き交っている。
皆、どこか似通った服装をしていた。
統一された衣服。
同じような色。
同じような形。
学徒。
そう思った。
遠くから話し声が聞こえてくる。
何かを議論している者。
本を抱えて歩く者。
器具らしきものを手にしている者。
廊下の一角では、数人が机を囲み、何かについて熱心に話し合っていた。
さらに遠く。
どこかの部屋から声が聞こえる。
「――夢とは、単なる睡眠状態ではない」
朗々とした声。
講義だった。
「夢を見ている間、人間の意識は現実とは異なる領域へ接続する。ならば、その接続先を特定することができれば――」
少し間が空く。
「――我々は、眠っている人間の意識を媒介として、通常では認識できないものへ触れられる可能性がある」
別の声がした。
「しかし、夢の中で見たものが現実に存在するとは限らないのでは?」
「だからこそ、観測する必要がある」
講義をしていた者が答える。
「夢を記録する。夢の中で得た情報を比較する。そして、複数の被験者に同じ夢を見せる」
ルヴィアの足が止まった。
「……夢を、研究している?」
声は続いている。
「人間の意識がより深い領域へ到達した時、何が見えるのか」
「そこに存在するものを、我々はどう認識するのか」
「そして――」
講師の声が低くなる。
「人間の側から、向こう側を見るだけではなく、向こう側からこちらを見ることが可能なのか」
ざわめきが起きた。
ルヴィアは眉をひそめた。
嫌な研究だ。
魔術師としての直感がそう告げている。
しかし。
興味深くもあった。
夢を媒介にした精神干渉。
意識への接続。
複数の人間による夢の共有。
理論だけなら、時計塔でも似た研究が存在していてもおかしくない。
だが。
この場所では、それを実際に行っている。
ルヴィアはその場に立ったまま、ゆっくりと思考を巡らせた。
まず、最後に覚えていること。
ヤーナムへ到着した。
診療所を探索した。
Ⅱ世たちと情報を整理した。
食事をした。
黒い箱を調べた。
箱の中にあった、頭蓋のようなもの。
その中で蠢いていた、青白い何か。
慎重に検分した。
箱へ戻した。
簡単な封印を施した。
そして。
自身の拠点へ戻った。
結界を確認した。
ベッドへ入った。
シーツの感触。
目を閉じた。
そこまでは覚えている。
記憶は繋がっている。
「……大丈夫ですわ」
ならば、これは何らかの魔術的干渉なのか。
転移
幻覚
精神
あるいは、夢そのものを利用した魔術
いくつもの可能性が頭を過る。
だが、どれもしっくりこない。
そもそも、自分は眠っているのか。
それすら分からない。
身体の感覚はある。
足元には確かな床の感触がある。
魔術回路も正常に機能している。
それなのに。
ここが現実だという確信だけが持てなかった。
ルヴィアは一歩、歩き出した。
靴音が長い廊下に響く。
しかし。
誰もこちらを見ない。
すれ違う者も。
書物を抱えて歩く者も。
何かの器具を運ぶ者も。
まるで、そこに誰もいないかのように通り過ぎていく。
ルヴィアは眉をひそめた。
やはり見えていない。
それはそれで好都合だった。
ならば、こちらから余計な干渉をする必要もない。
しばらく歩く。
すると、いくつかの会話が耳に入ってきた。
どれも、誰かが誰かに話しかけているだけのもの。
こちらへ向けられたものではない。
断片的な言葉が、廊下のあちこちから聞こえてくる。
「……儀式まで、もう時間がない」
「大規模なものになる。今度こそ――」
「頭蓋を開いて調べたのだろう?」
「ええ。何度も」
「それで?」
「見つからない」
「瞳が?」
「ええ。どれだけ探しても」
ルヴィアの足が止まる。
「……瞳?」
別の場所から声が聞こえる。
「実験に使える献体が足りない」
「また不足したのか?」
「数が足りなすぎる」
「なら、また攫わせればいい」
「簡単に言うな。医療協会の連中が嗅ぎまわっている」
「十分に金は渡した。今さら連中が…」
「この前はヤハグルにまで来ていた」
「……あそこまで?」
「ああ。何か探しているらしい」
会話はそこで途切れた。
ルヴィアは眉間に皺を寄せた。
ヤハグル。
聞き覚えのない地名だった。
だが、ここでそれが何を意味するのかは分からない。
また別の場所から声がする。
「急げ。儀式の準備に間に合わなくなる」
「まだ足りない」
「何が?」
「頭蓋だ」
「またか」
「必要なんだ。頭の中にあるものを――」
声が遠ざかる。
その直後。
別の声。
「……ウィレーム先生は正しい」
低い声だった。
「情けない進化は、人の堕落だ」
その言葉だけが妙に鮮明に聞こえた。
ルヴィアは思わず振り返った。
しかし。
誰が言ったのか分からない。
ただ、遠くで何人かの学徒が話しているだけだった。
ルヴィアはゆっくりと息を吐く。
断片的すぎる。
しかし、偶然とは思えない。
頭蓋。
瞳。
献体。
儀式。
ヤハグル。
そして、ウィレームという名前。
全てが一つの研究に繋がっているように感じられる。
その時。
廊下の奥から、妙な音が聞こえた。
ガチャリ。
金属が触れ合う音。
「おい、慎重に運べ」
「分かっている」
「それは貴重な品だぞ」
数人の学徒が、何かを運んでいる。
大きな容器だった。
透明なガラス製の容器の中に、赤黒い塊がいくつも収められている。
ルヴィアは足を止めた。
赤い。
鮮やかな赤ではない。
濃い血のような色をしている。
しかし、それは血液のように液体ではなかった。
透明な液体の中で、半ば固形化した赤い物質が揺れている。
塊は一つ一つが不揃いだった。
角ばったものもあれば、丸みを帯びたものもある。
表面は湿った光沢を帯び、内部には細かな濁りが閉じ込められている。
光が当たるたび、その内部で赤黒い影がゆっくりと揺れた。
ガラス容器が揺れるたび、塊同士がぶつかる。
ぬるり。
わずかに形を変え、また元へ戻る。
「……何に使うものですの?」
もちろん返事はない。
学徒たちは慎重に容器を運んでいく。
その横を通り過ぎた時。
別の研究室から声が聞こえた。
「レッドゼリーは揃ったか?」
「ああ。必要な分は確保した」
「儀式に間に合うな」
ルヴィアはその言葉を聞き逃さなかった。
あの赤い塊。
儀式に使うための素材。
それ以上のことは分からない。
しかし、少なくとも重要な品であることだけは間違いなかった。
学徒たちが去っていく。
その先。
研究室のさらに奥に、もう一つの施設があった。
人はいない
部屋の中央にはケージ置かれていた。
ルヴィアは、ゆっくりと近づいた。
透明なガラスの壁を、金属製の枠が補強している。
その周囲には細かな術式が刻まれていた。
そして。
ケージの中いるものを見た。
「…………」
青白い、大きな蛞蝓。
最初に浮かんだのは、その印象だった。
そんな生物を連想させる。
細長く、柔らかな身体。
表面は湿った光沢を帯び、半透明の皮膚の下には、淡いものが透けて見えている。
身体の輪郭は一定ではない。
床に触れた部分が押し潰されるように広がり、持ち上がった部分がゆっくりと縮んでいく。
身体そのものを波打たせるようにして、前へ進む。
身体の前方には、細い器官が幾本も伸びていた。
無数の触手
何かを探るように、ゆっくりと左右へ揺れている。
先端が床へ触れる。
離れる。
また別の場所へ触れる。
あの箱。
あの頭蓋。
その中で蠢いていたもの。
「……同じもの?」
思わず呟く。
ケージの中の生物は、ルヴィアの声など聞こえていないかのように、
ゆっくりと身体を這わせている。
身体の一部が床へ押しつけられる。
ぬるりと広がる。
そのまま、収縮する。
周囲を見回す。
研究室の中央に置かれたガラスケージ。
その四方には、大きな姿見が配置されていた。
どの鏡も、中央のケージを映すように角度が調整されている。
ルヴィアは、その配置に眉をひそめた。
4枚の鏡に映ったケージ。
その前に立つ、自分の姿。
さらに、その向こうの鏡にも同じ光景が映っている。
ケージ。
青白い生物。
それを見つめる自分。
さらにその向こうにも。
ケージ。
生物。
そして、自分。
何重にも連なり、鏡の奥へ消えていく。
まるで。
自分が何人も、この場所を観察しているようだった。
ルヴィアは、何気なく一番奥の像へ目を向けた。
その瞬間。
――何かがいた。
「……!」
鏡の奥。
自分の姿の向こう側。
そこに、青白い何かが立っていた。
いや。
立っている、という表現すら正しくない。
巨大な身体。
身体の周囲から広がる、無数の触手のような器官。
割れた様な頭部の付近には無数の瞳。
濁った青白い光を宿したもの。
それらが。
こちらを向いている。
ルヴィアを。
見ている。
「――――」
息が止まった。
鏡の中のそれと、目が合った。
そう感じた。
ほんの一瞬。
ほんの一瞬だけだった。
次の瞬間には。
そこには何もいない。
あるのは、幾重にも続く鏡。
ケージ。
青白い生物。
そして、それを見つめている自分だけ。
「…………気のせいですわ」
ルヴィアは、すぐに視線を逸らした。
何でもない。
ただの錯覚。
鏡の反射と、疲労が重なっただけ。
そうに決まっている。
魔術師ならば、幻覚の一つや二つに動揺してはいけない。
そう自分に言い聞かせる。
だが。
心臓の鼓動だけは、なかなか元に戻らなかった。
ケージの中で。
青白い生物が、ゆっくりと身体を伸ばす。
そして。
細い器官の先端が、四方の鏡へ向くように揺れた。
ルヴィアは、もう一度だけ鏡を見た。
何もいない。
今度こそ。
何もいなかった。
それでも。
鏡の奥から、誰かに見られているような感覚だけが。
いつまでも消えなかった。